監督 アンヌ・フォンテーヌ 出演 ファブリス・ルキーニ、ジェマ・アータートン、ジェイソン・フレミング
フランスは「恋愛の国」と言われる。女性の名誉を重んじる、とも言われる。さて、ほんとうか、どうか。
私に言わせれば、それはフランスの男の「みえ」。もてるふりをする、女を大事にするふりをする。女にもてたくて仕方がない。でも、もてない。それで、「恋愛の国」なんて、嘘をつく。夢見ているのは男の方だね。フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったが、あれはほんとうだ。女のように恋愛がしたかったのだ。願望がボヴァリー夫人を作り上げたのだ。
と書くとめんどうなので、もっと卑近に書いてしまおう。
フランスの男は小さい。ファブリス・ルキーニは、たぶん平均的フランス男の体型である。映画のなかにイギリス男が出てくるが、彼らはファブリス・ルキーニよりは大きい。きっとフランス男は体型にコンプレックスを持っている。で、体型なんか気にしない、というそぶりを見せる。
かわりに「文化」を自慢する。「芸術」を自慢する。「芸術」を語ることで、自分を大きく見せる。「懐の広さ」「人間の大きさ」を見せようとする。やたら「文学」をくちばしる。「ことば」で、あらゆることを克服しようとする。
で、「恋愛」も「ことば」で「恋愛」をしようとする。ほんとうにほれたなら(魅力を感じたなら)、わざわざ「ボヴァリー夫人」なんて引き合いに出す必要はない。古い小説のなかの「ことば」をいまの「恋愛」描写にあてはめる必要はない。すでに書かれてしまっている「恋愛のことば」を突き破って動いてしまうのが、ほんとうの「恋愛」。現実の「性欲」。
フランス男は、そういう「現実」が実は怖いのである。実際に女に手を出して、こっぴどく拒絶されるのが怖い。だから「ことば」のなかへ逃げていく。
隣に引っ越してきた「ボヴァリー夫人」が自殺したら(死んだら)悲しい、と口ではいっても、ファブリス・ルキーニは、女が「恋愛」の果に死んでいくのを夢見ている。そうなれば、いいなあ。「恋愛小説」が現実に起きることを夢見ている。激しい「恋愛」をしたいのではなく、「恋愛小説」に書かれていることが「現実」として起きることを夢見ている。
これは「恋愛」ではなく、「恋愛小説」への「片思い」。
ばかばかしい。
でも、フランス男の恋愛観を知るにはいい映画だなあ。フランス男の恋愛観がわかったからといって、私には何の役にも立たないのだけれど。
この男のばからしさ、幼稚さは、ファブリス・ルキーニの妻の視点でくっきりと映画化されている。「あんな女に色気付いて、ばかな男」と冷淡に見ている。女と浮気することもできないくせに、とばかにしている。みすかされている。ストーリーの「付録」のようにして描かれている「アンナ・カレーニナ」のエピソードなど、それを「笑い話」にしている。子どもの嘘にさえだまされて、いそいそと隣に越してきた「アンナ・カレーニナ」にあいさつにゆく。「だめよ、お父さんをからかっちゃ」と言いながら、子どもと一緒に笑っている。
女は、したたかだね。恋愛に「夢」など持っていない。フランスの女は、とつけくわえておいた方がいいかな。
映画のみどころは、ジェマ・アータートンが蜂に刺されたとき、「背中の毒を吸い出して」というシーンかなあ。イギリス人なのだが、ここはまるで「フランス女」。ファブリス・ルキーニが夢見ている女(フランス男が夢見ている女)、節度(常識?)の枠を突き破って、「生まれたまま」の人間の欲望をさらけだしている。ここにフランス男が夢見る恋愛と女の姿があらわれている。その「夢」にこたえる演技を、ジェマ・アータートンがきちんとこなしている。笑ってしまう。
(KBCシネマ2、2015年08月30日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
フランスは「恋愛の国」と言われる。女性の名誉を重んじる、とも言われる。さて、ほんとうか、どうか。
私に言わせれば、それはフランスの男の「みえ」。もてるふりをする、女を大事にするふりをする。女にもてたくて仕方がない。でも、もてない。それで、「恋愛の国」なんて、嘘をつく。夢見ているのは男の方だね。フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったが、あれはほんとうだ。女のように恋愛がしたかったのだ。願望がボヴァリー夫人を作り上げたのだ。
と書くとめんどうなので、もっと卑近に書いてしまおう。
フランスの男は小さい。ファブリス・ルキーニは、たぶん平均的フランス男の体型である。映画のなかにイギリス男が出てくるが、彼らはファブリス・ルキーニよりは大きい。きっとフランス男は体型にコンプレックスを持っている。で、体型なんか気にしない、というそぶりを見せる。
かわりに「文化」を自慢する。「芸術」を自慢する。「芸術」を語ることで、自分を大きく見せる。「懐の広さ」「人間の大きさ」を見せようとする。やたら「文学」をくちばしる。「ことば」で、あらゆることを克服しようとする。
で、「恋愛」も「ことば」で「恋愛」をしようとする。ほんとうにほれたなら(魅力を感じたなら)、わざわざ「ボヴァリー夫人」なんて引き合いに出す必要はない。古い小説のなかの「ことば」をいまの「恋愛」描写にあてはめる必要はない。すでに書かれてしまっている「恋愛のことば」を突き破って動いてしまうのが、ほんとうの「恋愛」。現実の「性欲」。
フランス男は、そういう「現実」が実は怖いのである。実際に女に手を出して、こっぴどく拒絶されるのが怖い。だから「ことば」のなかへ逃げていく。
隣に引っ越してきた「ボヴァリー夫人」が自殺したら(死んだら)悲しい、と口ではいっても、ファブリス・ルキーニは、女が「恋愛」の果に死んでいくのを夢見ている。そうなれば、いいなあ。「恋愛小説」が現実に起きることを夢見ている。激しい「恋愛」をしたいのではなく、「恋愛小説」に書かれていることが「現実」として起きることを夢見ている。
これは「恋愛」ではなく、「恋愛小説」への「片思い」。
ばかばかしい。
でも、フランス男の恋愛観を知るにはいい映画だなあ。フランス男の恋愛観がわかったからといって、私には何の役にも立たないのだけれど。
この男のばからしさ、幼稚さは、ファブリス・ルキーニの妻の視点でくっきりと映画化されている。「あんな女に色気付いて、ばかな男」と冷淡に見ている。女と浮気することもできないくせに、とばかにしている。みすかされている。ストーリーの「付録」のようにして描かれている「アンナ・カレーニナ」のエピソードなど、それを「笑い話」にしている。子どもの嘘にさえだまされて、いそいそと隣に越してきた「アンナ・カレーニナ」にあいさつにゆく。「だめよ、お父さんをからかっちゃ」と言いながら、子どもと一緒に笑っている。
女は、したたかだね。恋愛に「夢」など持っていない。フランスの女は、とつけくわえておいた方がいいかな。
映画のみどころは、ジェマ・アータートンが蜂に刺されたとき、「背中の毒を吸い出して」というシーンかなあ。イギリス人なのだが、ここはまるで「フランス女」。ファブリス・ルキーニが夢見ている女(フランス男が夢見ている女)、節度(常識?)の枠を突き破って、「生まれたまま」の人間の欲望をさらけだしている。ここにフランス男が夢見る恋愛と女の姿があらわれている。その「夢」にこたえる演技を、ジェマ・アータートンがきちんとこなしている。笑ってしまう。
(KBCシネマ2、2015年08月30日)
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