詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンヌ・フォンテーヌ監督「ボヴァリー夫人とパン屋」( ★★)

2015-08-31 12:00:56 | 映画
監督 アンヌ・フォンテーヌ 出演 ファブリス・ルキーニ、ジェマ・アータートン、ジェイソン・フレミング

 フランスは「恋愛の国」と言われる。女性の名誉を重んじる、とも言われる。さて、ほんとうか、どうか。
 私に言わせれば、それはフランスの男の「みえ」。もてるふりをする、女を大事にするふりをする。女にもてたくて仕方がない。でも、もてない。それで、「恋愛の国」なんて、嘘をつく。夢見ているのは男の方だね。フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったが、あれはほんとうだ。女のように恋愛がしたかったのだ。願望がボヴァリー夫人を作り上げたのだ。
 と書くとめんどうなので、もっと卑近に書いてしまおう。
 フランスの男は小さい。ファブリス・ルキーニは、たぶん平均的フランス男の体型である。映画のなかにイギリス男が出てくるが、彼らはファブリス・ルキーニよりは大きい。きっとフランス男は体型にコンプレックスを持っている。で、体型なんか気にしない、というそぶりを見せる。
 かわりに「文化」を自慢する。「芸術」を自慢する。「芸術」を語ることで、自分を大きく見せる。「懐の広さ」「人間の大きさ」を見せようとする。やたら「文学」をくちばしる。「ことば」で、あらゆることを克服しようとする。
 で、「恋愛」も「ことば」で「恋愛」をしようとする。ほんとうにほれたなら(魅力を感じたなら)、わざわざ「ボヴァリー夫人」なんて引き合いに出す必要はない。古い小説のなかの「ことば」をいまの「恋愛」描写にあてはめる必要はない。すでに書かれてしまっている「恋愛のことば」を突き破って動いてしまうのが、ほんとうの「恋愛」。現実の「性欲」。
 フランス男は、そういう「現実」が実は怖いのである。実際に女に手を出して、こっぴどく拒絶されるのが怖い。だから「ことば」のなかへ逃げていく。
 隣に引っ越してきた「ボヴァリー夫人」が自殺したら(死んだら)悲しい、と口ではいっても、ファブリス・ルキーニは、女が「恋愛」の果に死んでいくのを夢見ている。そうなれば、いいなあ。「恋愛小説」が現実に起きることを夢見ている。激しい「恋愛」をしたいのではなく、「恋愛小説」に書かれていることが「現実」として起きることを夢見ている。
 これは「恋愛」ではなく、「恋愛小説」への「片思い」。
 ばかばかしい。
 でも、フランス男の恋愛観を知るにはいい映画だなあ。フランス男の恋愛観がわかったからといって、私には何の役にも立たないのだけれど。
 この男のばからしさ、幼稚さは、ファブリス・ルキーニの妻の視点でくっきりと映画化されている。「あんな女に色気付いて、ばかな男」と冷淡に見ている。女と浮気することもできないくせに、とばかにしている。みすかされている。ストーリーの「付録」のようにして描かれている「アンナ・カレーニナ」のエピソードなど、それを「笑い話」にしている。子どもの嘘にさえだまされて、いそいそと隣に越してきた「アンナ・カレーニナ」にあいさつにゆく。「だめよ、お父さんをからかっちゃ」と言いながら、子どもと一緒に笑っている。
 女は、したたかだね。恋愛に「夢」など持っていない。フランスの女は、とつけくわえておいた方がいいかな。
 映画のみどころは、ジェマ・アータートンが蜂に刺されたとき、「背中の毒を吸い出して」というシーンかなあ。イギリス人なのだが、ここはまるで「フランス女」。ファブリス・ルキーニが夢見ている女(フランス男が夢見ている女)、節度(常識?)の枠を突き破って、「生まれたまま」の人間の欲望をさらけだしている。ここにフランス男が夢見る恋愛と女の姿があらわれている。その「夢」にこたえる演技を、ジェマ・アータートンがきちんとこなしている。笑ってしまう。
                     (KBCシネマ2、2015年08月30日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
美しい絵の崩壊 [DVD]
クリエーター情報なし
トランスフォーマー
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陶山エリ「ときどき詩人は」

2015-08-30 15:18:06 | 現代詩講座
陶山エリ「ときどき詩人は」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年08月26日発行)

ときどき詩人は     陶山エリ

青の表紙のノートの音も沈黙をはじめる
西陽に飲み込まれそうな角部屋で
ときどき詩人は
せんせいと呼ばれることを拒む

詩人はせんせいから遠ざかりたくて
小鳥に詩のかけらでもやろうとするけれど
ときどき小鳥は軽やかに拒む
詩人は疲れを隠し小鳥は表情を変えない
キロン
下の目蓋から目を閉じる小鳥に
詩人は気づいているだろうか

ときどきわたしは詩を書いたりするけれど
詩人と呼ばれると少し嫌がる
閉じたくちびるから声のかけらが漏れてくると
わたしは詩を知ることを怖がる

ほんとうは詩を書いたりしているけれど
とつぜん逃げ出したいだろう
詩人とせんせいとわたしを
旋回しながら
みはりつづけていたいだろう

西陽の終わりに詩人に出くわすことがあればそのときは
はじめましてせんせい

詩人は虚ろな瞳でやり過ごすけれど
理由を問い詰めてはいけない
ときどき詩人は虚ろな瞳のまま
呼ばれた気がしてせんせい
ふりむいてしまうけれど
理由は問い詰めてはいけない
虚ろな瞳ををのぞきこもうとしてわたしは
キロン
ときどきしたのまぶたから目をとじる

 この詩はどんなふうに受講者に、読まれるだろうか。

<受講者1>「キロン」がおもしろい。
<受講者2>「キロン」ははじめてみる表記。音がおもしろい。静かできれい。詩人、詩に対して、拒絶する設定。詩を重くとらえることをこばむということなのだ      ろうけれど、自然で、わかる。好きな詩。
<受講者3>「はじめましてせんせい」「呼ばれた気がしてせんせい」という行にリズムがある。リズムが出てきている。

 という感想のあと、こんな意見が出た。

<受講生4>おもしろい。ただ、「詩人」と「先生」の両方が必要かなあ。

 このことについてみんなで考えてみた。
 私が注目したのは三連目。「嫌がる」「怖がる」の「主語」は何だろうか。

<受講者3>わたし
<受講者4>詩。わたしと一体になっている。
<受講者1>わたし
<受講者2>詩

 「わたし」と「詩」と、ふたつの見方がある。そこで、もう一度「わたし」を主語にしたとき「嫌がる」「怖がる」という動詞をつかうかどか聞いてみた。「わたしは嫌がる」「わたしは怖がる」と日常的につかうかどうか。
 全員がつかわないと答えた。
 ここには「日常」とは違うことばのつかい方がある。「キロン」も日常的にはつかわなことばであり、そこにも詩はあるが、耳慣れたことばで、「日常」とは違ったつかい方をすることばのなかにこそ詩があると思う。
 作者は何かを言おうとして、「日常」を踏み外している。踏み外さざるをえなかった。そこに、そのひとの「言いたいこと」があるように思える。

<受講者2>「嫌がる」「怖がる」と言うと、「客観的」な感じがする。「わたし」を客観的に見ている。

 さらに四連目。「逃げ出したいだろう」「みはりつづけていたいだろう」の主語は何になるだろうか、と聞いてみた。

<受講者1>詩
<受講者3>詩

 ここでは「わたし」という「答え」は出て来なかったが、これは、ある意味で「奇妙」でもある。詩は人間ではない。それが何かを「逃げ出したい」とか「みはりつづけていたい」と欲することはない。
 私の質問は少しあいまいで、ずるいものを含んでいるのだが、そのために受講者は「だろう」を見落としたかもしれない。
 「だろう」は推測のことば。講座では言いそびれたが、ここでもう一度「だろう」の主語は? と聞いたら、どうなるだろう。
 「わたし」という「答え」が返って来ると思う。

「詩は」逃げだしたいだろう(と「わたしは」思っている、推測している)

 「主語」は、どうも交錯している。
 陶山は書くときに「主語」を明確に意識しているかどうかわからない。意識しているかもしれないが、その意識には「無意識」も反映していて、それが作用して、主語をあいまいにするのかもしれない。
 この不思議なぶれに気づいたとき、

<受講生4>「詩人」と「先生」の両方が必要かなあ。

 という感想が、直感的に生まれてくるのだと思う。「わたし」と「詩」が交錯して動いている。そこに「詩人」と「先生」がさらに加わって、ことばの「意味」(ストーリー)を論理的にたどれない。まごついてしまう。
 こういう反応は、とても大事なことだと思う。
 この瞬間に、詩は、読者のなかで生まれている。
 私は、こういう瞬間に立ち合うのがとても好きである。詩は(文学は)ひとりで味わうものかもしれない。個人的な体験なのかもしれないが、他人と一緒に読んでいると、あ、いま、このひとのなかでことばが動いている。新しい何かをつかもうとして、ことばがとまどっていると「わかる」瞬間がある。
 それは書かれてしまった詩よりも、何かとてもおもしろい。ことば以前のことばが動いて、それがまわりにいるひとにも影響していくのがわかる。
 詩を、詩が好きなひとが集まって読むのは、とてもおもしろい。

 「主語」が「わたし」になったり「詩」になったりする。それは

<受講者4>詩。わたしと一体になっている。
 という言い方で、言い直すことができると思う。
 で、この「わたし」と「詩」の「一体感」から、さらに進んでみよう。

キロン
下の目蓋から目を閉じる小鳥に
詩人は気づいているだろうか

 この一連目の最後の三行は、六連目の最終の三行で次のように言い直されている。

虚ろな瞳ををのぞきこもうとしてわたしは
キロン
ときどきしたのまぶたから目をとじる

<質  問>この言い替えはどう思う? 漢字からひらがなへの書き換えもあるけれど、どう思う?
<受講者2>「わたし」が「鳥」に同化している。
<受講者4>表記を変えていく手法のひとつ。読む度にだまされる感じがする。

 「だまされる」は「同化」によって見分けがつかなくなるということにつながるかもしれない。
 詩は、厳密に考えすぎると面倒くさくなっておもしろくなくなる。わからないことはわからないままにしておいて、わかることをぱっと結びつけて、わかった気持ちになってしまえばいいのだと思う。
 陶山は詩について書いている。それは詩人について書くことでもあり、「わたし(自分自身)」について書くことでもある。書くというのは自分を「客観化」することでもある。そういう「意識」が入り交じってことばが動いている。入り交じっているので、「主語」と「動詞」の関係も「学校文法」のようにはいかない。乱れる。
 けれど、その「乱れ」が詩なのだ。その「乱れ」に対して、「あれっ」と思う瞬間、その「思う」が詩と呼応している。響きあっている。
 で。
 そういうことを踏まえて、私は「飛躍」する。
 講座の最後で「わたし」と「小鳥」も同化しているというところに私たちはたどりついたが(それが唯一の「答え」というのではないが……)、これって「小鳥」が「わたし」の比喩ということでもあるね。「閉じたくちびるから声のかけらが漏れてくる」というのは、いわば自画像だね。
 で。(と、また「飛躍」する。)
 私はときどき意地悪な質問をする。読み進んでいく途中に差し挟んだ質問なので、もしかしたら受講生の多くはおぼえていないかもしれないが……。

<質  問>鳥って何? 「キロン」ということばはどこから出てきた?
<陶  山>鳥の目って、キロンとするじゃないですか。小鳥ではなくて、もっとエグイ動物の方がいいかとも思ったけれど……。書きながらどうなるかわからない。     怖いと思って書いている。

 「キロン」の理由(?)は答えになっていないけれど、そのあとがおもしろいねえ。エグイ動物(爬虫類とか?)の方がおもしろいかもしれない。けれど、「自画像」なので爬虫類にしてしまうことには抵抗があったんだろうなあ、と私は、ちょっと思った。
 書くのは、たしかに怖いね。ことばがどこへ動いていくかわからない。それは詩だけにかぎらず、この文章もそうなのだけれど。



 次回は9月30日午後6時からの予定。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

降戸輝「剥離作業」

2015-08-29 11:06:48 | 現代詩講座
降戸輝「剥離作業」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年08月26日発行)



剥離作業       降戸 輝

地下ホームに蓄積した
乗客の体温の名残を
隧道の中で圧縮しながら
最終電車が運び去る
一日がリセットされた駅構内に
閉じるシャッターの軋む金属音が
僕の眠気を解凍させる
二番出口近くの作業員控室から抜け出し
非常灯をたよりに
床面に付着したガムを見つけ
金属製の薄いヘラで剥がす
一つ一つ丁寧に
膨張しようとする身体中の機能を
指先の筋線維に集約させながら
乾ききった薄墨色のガムを剥がす
薄い灯りをたよりに剥がす
言い訳もせず
納得もせず
耐えることも
自覚することも必要ない
気のすむまで
透き通るまで
僕は今
剥がし続けさえすればいい

 いままで「現代詩講座」で書かれた作品とは違った詩。まず受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1>最後の三分の一に私はついていけなかった。
<受講者2>硬いことばが多い。後半の「乾ききった薄墨色のガムを剥がす」から書いた方がいい。
<受講者3>「膨張しようとする身体中の機能を/指先の筋線維に集約させながら」の二行が好き。
      感情を書いた部分もいいけれど、肉体の動作の部分をもっと書いてもいいのでは。すごい感じの作品になると思う。
<受講者4>硬い印象がある。最後は「無我の境地」。やわらかいことばで書いたらどうなるだろうか。
<受講者1>タイトルがいけない。「ガムを剥がす」くらいが具体的でいいのでは。
<作  者>「ガムを剥がす」では主題が「行為の目的」になってしまう。「行為」そのものをテーマにしたかった。
<受講者2>機械が好きなのかなあ。「隧道」とか、私の好きなことばが出てくる。

 受講者がとまどったのは「蓄積」「圧縮」「解凍」などの漢字熟語が多かったからだと思う。いままでこうした漢字熟語がびっしりと書き込まれた作品が、この講座では書かれたことがなかった。(読まれたことがなかった。)また、これまでの講座では、唐突にあらわれる「漢字熟語」について、「漢字熟語ではなく、もっと違うことばで書いた方が全体が落ち着く。漢字熟語は意味が強すぎて、その部分だけ浮いてしまう。意味よりも、意味にならないものを書いた方がいい」ということを私が言い続けたために、今回の受講生の感想に、それが無意識に反映しているかもしれない。
 ひとり、その漢字熟語そのものに目を向けて、おもしろいと反応した。「膨張しようとする身体中の機能を/指先の筋線維に集約させながら」に注目している。
 私もこの二行がこの詩のいちばんおもしろいところだと思う。漢字熟語を積み重ねてきて、その積み重ねが、そこにある漢字熟語を異質なものにしている。漢字熟語なのに「意味」を超えて、ぬらり蠢いている。不定形で動いている。

<受講者3>「膨張」というのは、はみだしたいという思い。思いを書くのではなく、肉体として書いているのがおもしろい。

 私も、そう思う。いま書いたことを引き継ぎながら言い直すと……。
 「膨張する」という拡大していく動き(内側からあふれてくる動き)が「集約する」という逆の動きへとつながっている。そのつなぎめに「身体」と「機能」ということばがある。「身体」のなかにある「機能」が大きくなるというのは、いままでつかっていなかった「機能」までつかうようになるということ。それはたしかに「膨張(拡大)」なのだが、その「膨張」が必要なのは、ふつうの「身体の機能」だけではできないことがあるからだ。新しい何かをするために「身体の機能」をフル回転させる。そして、そのフル回転というのが「神経を指先に集中させること」。これを降戸は「指先の筋線維に集約」と書くのだが、そこにあらわれる「筋線維」ということばが、目に見えない「身体の機能」を見えるように感じさせる。身体が膨張したために、それまで隠れていた内部の細部が見えるようになり、それが「ことば」になったという感じ。度の強い眼鏡をかけたときのように、網膜に映像が焼きつくような具合に「筋線維」が迫ってくる。まるで肉体かが新しく生まれてくる感じ。はじめて人体解剖の模型を見たような……。
 なまなましい。
 漢字で書かれているのに、まるで、むきだしの「肉体」を見ている感じ。皮膚が剥がされて、筋肉があらわれる。その筋肉のなかの神経までがむき出しになった感じ。
 この「筋線維」ということばを詩のなかになじませるためには、それまでの「漢字熟語」が必要だったのだと思う。漢字熟語をつかわずに書いてきて、ここに突然「筋線維」ということばが出てくると、異質な感じが強すぎる。浮き上がる。
 逆に言うと。
 この「筋線維」ということばが、それまでの漢字熟語をぐいと引き寄せ、詩を引き締めている。まるで地下鉄の構内すべてが「筋線維」とつながっているような感じになる。「筋線維」が地下鉄の構内を「身体」の内部にかえてしまう、「身体の内部」の延長のように感じさせる。
 地下鉄の構内が自分の「身体」そのものであるからこそ、「僕」はそれを美しくすることに夢中になる。「透き通るまで」は受講者のひとりが言ったように「無我の境地」だろう。「身体」と「地下鉄構内」が一体になっている。そこには「区別」はない。
 そして、この「一体感」から、ことばが「異次元」に変化していくところも私はおもしろいと思う。「肉体的作業」から「感情の動き」への変化。「無我の境地」を「エクスタシー」と言い換えてみると、この「一体感」のあと、「僕」が「僕」でありながら「僕」ではなくなっている。「漢字熟語」で向き合ってきた世界が「漢字熟語」ではなく「平明」なことばにかわっている。
 最終行。

剥がし続けさえすればいい

 これは「漢字熟語」で言えば

剥離し続けさえすればいい

 ということになる。「剥離作業を続けさえすればいい」と言い直した方が、タイトルのことばとも重なる。けれど、それでは「僕」は「漢字熟語」のなかにとどまりつづけてしまって、生まれ変われない。それはそれでまたおもしろいかもしれないが、書くということは、書くまえの自分とは違った人間になってしまうことだから、私は変わったしまう作品の方が好きだ。こういう変化が自然に生まれてくる作品が好きだ。
 その前に出てくる「透き通るまで」も「漢字熟語」をつかって言うなら「透明になるまで」だが、「透明になるまで」だと固苦しい。また、その前の「言い訳」「納得」「耐える」「自覚」という、ひらがなまじりのことばと「漢字熟語」が交錯する部分は、「僕」の変化を無意識にあらわしていて、とても効果的だと思う。

 そういうことを話したとき、降戸から「透き通るまで」は「透明になるまで」ということばも考えたという発言があった。何度も何度も推敲を重ねて、ことばを選んでいる。その推敲の繰り返しがことばのつながりを緊密にしている。
 降戸は、このとき「下書き」を見せてくれた。最初はこの作品の三倍くらいの長さがあった。それを凝縮したのが今回の作品。大濠公園を走りながら、推敲するのだと言う。
 そこから、テーマは「推敲」にかわった。

<降  戸>八行目「二番出口」は迷った。具体的な「二番」ではなく、もっと抽象的なことばがよかっただろうか。
<受講者2>「二番出口」の方が具体的でいい。
<受講者1>私もそう思おう。

 誰もが「二番出口」がいいと言う。私もそう思う。それがどの出口か(この地下鉄ホームがどこの地下鉄ホームか)わからないが、「二番」があることで、漢字熟語の抽象性が消えて、自分の知っている地下鉄ホームを思い出してしまう。

<降  戸>「薄いヘラ」「薄墨色」と「薄い」がつづくのはどうだろうか。
<受講者2>ガムの「薄墨色」は、これでいいと思う。
<受講者1>ガムの汚れた感じがよくでている。
<受講者4>「薄い灯り」にも「薄い」が出てくる。

 私は、「薄いヘラ」は「鋭利なヘラ」でもいいかと思う。「漢字熟語」とも響きあうかもしれない。「薄い灯り」はことばの変わり目にあるので、どうするかが難しい。すでに「剥がす」が出てきているので、その響きを引き継ぐか、もう一度「漢字熟語」を登場させるか。作者の気持ちとしては「剥がす」から大きく変わっているのだから、ひらがなで「ぼんやりした灯り」とか「あいまいな灯り」がいいかもしれない。「あいまい」にすると、つぎの「たよりに」の「たより」と矛盾するので、「膨張する/集約する」と同じ効果が出てくるかもしれない。
 こういうことは、しかし、実際に書き直し、印刷し直してみないと、ほんとうの効果はわからない。推敲は「部分的」におこなうしかないが、その点検は「全体」を見渡さないとわからない。
 不思議だ。

 次回は9月30日午後6時からの予定。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西川宏「指に遇う」

2015-08-28 10:59:43 | 詩(雑誌・同人誌)
西川宏「指に遇う」(「space」123 、2015年08月20日発行)

 西川宏「指に遇う」は、ありえないことを書いているのだが、ありえるなあ、いや、こういうことはあったぞ、と思う。

道端で指と遇う

指は
あらゆる秘境を辿っては
その感触を覚え込ませ
ぼくの闇の意識へと
轟かせているのだという
腑に落ちる話だなあ
などと思っていたら
今度は脚に出会う

 「腑に落ちる」という「慣用句」が、不思議と説得力がある。「指の辿る秘境」というのは、わいせつな感じがするが、それが「闇の意識」と呼応する。真剣に(?)辿らなくても、まあ、テキトウな秘境巡りでも、あるいはテキトウな感じだからこそ、無意識(闇の意識)となじむのかなあ、などと思ったりする。
 私もついついつられて書いてしまったか、

などと思っていたら

 この「などと」というときのあいまいな感じ、これが「腑に落ちる」とぴったり合うことに気づいた。「腑に落ちる」というのは、わかったようで、わからない。わかっているのだけれど、説明できない。その説明できなさが「など」のなかに隠れている。厳密に定義(?)せずに、あいまいに、このあたり(などを含む)というぼんやりした「闇」のようなものが「腑に落ちる」。「腑」って、どこか、これもよくわからないけれど、「肉体」の内部のどこか。内臓のどこか。いいかげんだけれど、その「腑」は「肉体」全部とつながっている。「肉体」はもともと「全部」つながっているから、「腑」なんて特定しなくてもいいのかもしれない。そこだけとりだして、「これが腑」といってみたって、取り出した瞬間に、それはもう「死んでいる」。「肉体(いのち)」ではなくなっているからね。
 あ、脱線したなあ。

 「指」から始まり、「感触」を通り、「意識」と理性的なことばをひきずりながら、それが「腑」まで動いていって、「などと思う」というあいまいさのなかに「ひとつ」になる。固まる。「結晶する」というのではなく、ぼんやりとした固まり(塊)になる。この「ぼんやり」感が、とてもいい。
 あ、「ぼんやり」感と書いたけれど、これは私の感じ。西川は、そうは思っていないかもしれない。
 詩はつづいていく。

などと思っていたら
今度は脚に出会う
てっきり世界中旅にでも
出ているのかと思ったら
これ以上分割できない分子たちと
戯れていたら突然
宇宙の成り立ちに遭遇し
誰もが見落としている
ミクロ・ワールドを散策し
いつかの船出の準備を
しているのだという

 「などと思う」という「など」のあいまいさは、「でも(と)思う」の「でも」のなかに引き継がれているのだけれど、ここに書かれていることは、「腑に落ちない」。「落ちてこない」、納得できないなあ。
 「足」と書かずに、西川は「脚」という文字をつかっているのだが、その「脚」は「指」よりは繊細とは思えない。指が「秘境」を巡るのにふさわしいように、繊細ではない「脚」はもっと広いところ「世界中」を巡るのにあっているかもしれない。だからこそ、西川もそう書いているのだが、「脚」はそうではない、と言う。「脚」は「素粒子(これ以上分割できない分子)」の世界に迷い込み、「素粒子」のつもりでいたら「宇宙」につながっていた、と言う。
 この「予想を裏切る展開」、切断と接続の瞬間に詩はあるのだけれど……。
 そう「わかる」けれど、それは「頭」で「わかる」こと。「腑」につながってこない。「脚」でほんとうに「素粒子」の世界を歩けるとは、私の「肉体」は信じることができない。「わかる」が「納得する」ことができない。
 この部分はおもしろくないなあ。

 でも、ここから西川は、「肉体」へ引き返す。

向こうから
吹いてきた風は
ぼくの胸を通り過ぎ
背中へと吹き抜けた

そういえば
ぼくの眼球も
背中もお尻だって
直接見たことがない

あの日
湧き上がった雲の下で蠢いている
ぼくのこころだって
未だぼくは知らないままだ。

 風が「胸を通り過ぎ/背中へと吹き抜けた」というのは、いわば「ことば」でつくってしまった世界で、そういうことがほんとうにあるわけではない。あるわけではないが、「ありうる」。そして、そういうことを「肉体」は知っている。「肉体」はつながっているので、「胸」を通りぬければ、反対側は「背中」ということを「納得」している。
 これは「素粒子/宇宙」の世界とは違うね。「頭」で「理解」しているのではなく「肉体」が納得していること。
 「肉体」が「肉体自身」で「納得」しているということはたくさんある。
 「直接見たことがな」くても、眼球、背中、尻はある。直接見たことがなくても、それを「ある」といってしまうのは、「科学的(論理的)」かどうかはわからないが、そんなことは肉体には問題ではない。肉体が「納得」すれば、それが「肉体的事実」になる。「肉体」にとっての「事実」になる。「肉体」は、そういう「事実」をたくさん抱え込んでいる。
 「直接見たことがない」といえば、「こころ」というものも見たことはない。それがほんとうに存在するのかどうか「ぼく(西川)」は「知らない」。「知らない」けれど、「ある」ということで「納得」している。この「納得」というのは「矛盾」だけれど。
 その「こころ」というのは、もしかすると「指」の別の名前かもしれないし、「脚」「胸」「背中」「尻」の別称かもしれない--と書いてしまうと、それは西川の考えではなく、私の考えになってしまうのだけれど……。

ぼくのこころだって

 この「だって」のなかに、「などと思っていた」の「など」、「……にでも……と思った」の「でも」がある。「など」「でも」は余分をひきつれてきて「対象(主題)」をあいまいにするようだけれど、あいまいのなかでひとつだけ「名称」を与えられて明確になるとも言うことができる。
 「こころだって」の「だって」は、対象を明確にする方の力が強い。

 「脚」と「素粒子/宇宙」の部分は、私には納得できないけれど、ほかのことばはおもしろいなあ。ことばと肉体の関係をいろいろに考えることができる。
 



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口賀代子「はるのまぎわに」、岬多可子「もともとはひとつの土」

2015-08-27 10:05:28 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「はるのまぎわに」、岬多可子「もともとはひとつの土」(「左庭」31、2015年06月25日発行)

 季節おくれの紹介になってしまうが、山口賀代子「はるのまぎわに」は桜(たぶん)の開花を待つ詩。その書き出しがおもしろい。

蕾がふくらみはじめる
少女のかたい乳房のような
ふわふわと うずうずと
きょうか あすか あさってか
まっているようで 一日のばし二日のばしで
できることなら永遠にこないことを
あのみじかい季節を体感したものだけにわかる
悩ましい日々

 蕾を「少女のかたい乳房」という比喩にすることは男もやるだろう。いや、むしろ男の方が好んでそういう比喩をつかうかもしれない。豊かなやわらかい乳房もいいけれど、「少女のかたい乳房」にはどこか禁断の魅力がある。
 というのは男の視点で……。
 山口は、この「少女のかたい乳房」を、外側からではなく、内側から描いている。「ふわふわ」と書いて「うずうず」と言い直し、さらに「きょうか あすか あさってか」と言い直す。「待ちきれない」という感じかと思うと、逆に「一日のばし二日のばし」と言い直し、それを「できることなら永遠にこないことを(祈る、と私はことばを補って読んだ)」と言い直す。
 くること(開花)を期待し、同時にこない(開花しない、蕾のままである)ことを期待する。これは矛盾なのだが、矛盾だからこそ、「肉体」に迫ってくる。「矛盾」を感じるのは「頭」だが、「矛盾」は「頭」では解決しない。つかみとれない。「肉体」で受け止めると、「ふわふわ うずうず」になる。それは「悩ましい」でもある。
 この「肉体」のなかの動きを、山口は

あのみじかい季節を体感したものだけにわかる

 と「体感」と「わかる」ということばで書いている。この「わかる」は女の特権だね。「少女のかたい乳房」を自分の肉体で通ってきた女の特権だ。男は、うーん、そうなのか、と思うしかない。
 「きょうか あすか あさってか/まっているようで 一日のばし二日のばしで/できることなら永遠にこないことを」というのは「肉体的」なことではなく、肉体とは別なものに感じることはあっても、肉体としては、私は「体感」したことはない。
 こんな例でいいかどうかわからないが、「少女のかたい乳房」(つぼみ)と「開花」から、私は少女の「初潮」を連想する。それは少女にとって「きてほしい」ものか、「まだきてほしくない」ものか、よくわからないが、たぶん自分が変わってしまうのだからどうなるのだろうと「悩ましい」ことなんだろうと想像する。
 これを男の「肉体」にあてはめようとすると、なかなかあてはまらない。はじめての射精を「きてほしい」のか「きてほしくない」のか、そんなことを悩まない。逆に、きょうも自慰をしてしまった。朝も、晩も、夜中も。「やめたい」「やめられない」。それは「肉体」の苦悩であると同時に「意思」の「悩み」。(悩む必要なんかない、とわかるのは、かなりあとだ。)
 で、振り返って、「きょうか あすか あさってか/まっているようで 一日のばし二日のばしで/できることなら永遠にこないことを」は、男には書けないなあ、と思う。そうだったのかあ、と思う。
 詩はつづく。

うしなったのちの日々のながさを
遅らせたい と想ううほどに蕾はめにみえてふくらみ
ある夜 ふっと予告もなく
咲く
目覚め 障子をひらけたさきの可憐なひと花に
うれしいうれしいと身体がいうので

 「うしなったのちの日々のながさを/遅らせたい」というのは花が散ったあとの日々の長さを遅らせたい(花が散ったあとの日々の長さを短くしたい/花が散るのを遅らせたい)ということだと思うが、「少女(処女)」のままでいたい、処女でなくなるのを遅らせたいという具合にも読める。誤読できる。
 その一方で、女の「肉体」は、いのちの欲望を抑えきれない。「処女でいたい」と思えば想うほど、逆の欲望も強くなる。欲望は「めにみえてふくらみ」、ある夜、突然、処女ではなくなる。
 蕾が桜の花の蕾なら、それが「夜」に開くということはないだろう。植物は太陽の光のなかで開く。「ある夜」の「夜」ということばが、どうしても蕾と処女を結びつけてしまう。女の性の開花(?)を呼び寄せる。
 「うれしいうれしいと身体がいう」の「いう」という動詞、その主語が「身体」であるのも、そうした連想を駆り立てる。
 私の連想は「妄想」かもしれないが、そういう「妄想」を刺戟する「ことばの肉体」がそこにある。私の肉体とは違う肉体がそこにあり、それが「ことば」と深く通じているという感じは、私は、とても好き。



 岬多可子「もともとはひとつの土」は、「肉体」を女、男という次元ではとらえず、もっと別なものととらえている。「いのち」のつかみ方が「人間」を超える瞬間かある。

草には ひとを
養うものと 狂わせるもの
傷つけるものと 扶(たす)けるものがあり、
土はひとつにつながって広がっていた。

 「草(植物)」と「ひと(人間)」の関係は、岬が書いているようにさまざまにある。食用になるものもあれば、食べると毒になるものもある。「桜」はどうだろうか。「肉体」を直接養うということはないかもしれないが、「肉体」のなかで動いているものを養ったり、狂わせたりするだろう。その動いている何かを書いたのが、先に読んだ山口の詩の世界。
 岬は、その「草」と「ひと」の関係から出発して、「自分の肉体」を書かずに、あるいは「自分の肉体」を突き破って、「土」を書く。

土はひとつにつながって広がっていた。

 うーん。言われればたしかに「大地」はつながっている。広がっている。
 うーん、でも「ひとつ」とは言わない。
 最初から「ひとつ」のものなので「ひとつ」と言う必要はない。
 でも、岬は「ひとつ」という。
 そのとき「ひとつ」は「土」そのものではなくなる。いや「土」なのだが、「土」以外のものを巻き込んでしまう。「草」も「ひと」も「土」とつながり、「ひとつ」になって広がっている、と「世界」そのものになる。
 そうか、「世界」とは「土」のつながりであり、そこに「草」も「ひと」も生きている。そして、その「土」にはたとえば「壁」というものもつながってくる。「壁」とは「ひと」がつくった「建築物(暮らしの場)」の象徴である。

土塀も土壁も
もともとはひとつの そのような土だったが。
でも、もう、
汚し汚れてしまったのが はてもなく。
棄村。
あなたたちが棄てた土は、わたしたちが棄てた土。

 「限界集落」から「棄村」へ。暮らしていた「土地」をそのまま棄てる。その棄てられた「土」は、「つながり」を失った。もう「広がり」ではない。それは、結局、「いま/ここ」の「土」の広がりを狭めることである。「あなたたち」が狭めるのではなく、「わたしたち」が狭めている。村を棄てた「ひと」を「わたし」と「ひとつ」にして、岬は「土」と向き合う。
 「土」から岬は世界を見つめなおしている。
詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐々木安美「泳ぐ人」、坂多瑩子「はやわざ」

2015-08-26 15:08:00 | 長田弘「最後の詩集」
佐々木安美「泳ぐ人」、坂多瑩子「はやわざ」(「生き事」10、2015年夏発行)

 佐々木安美「泳ぐ人」は、ことばが「現実」を侵蝕していく。

気がつくと川音を聞いている
そう思って 駅のホームで
読みかけの文庫本から顔をあげると
女のアパートを出て
妻の待つ家に帰っていく男が
反対側のホームに立っている
暗い気分を抱えたまま
本からはみだしてきたのか
男の中を流れる川

 「私」という「主語」は書かれていないが、一行目の「聞いている」の主語は「私」だろう。二行目の「思って」の主語も「私」、三行目の「読みかけ」「顔をあげる」の主語も「私」。
 しかし、そのあと、四行目の「出て」の主語は、五行目の「男」、五行目の「帰っていく」の主語も「男」、六行目の「立っている」も「男」。
 では、七行目は? 「抱えたまま」の主語は?
 「男」なんだろうなあ。次の行の「本からはみだしてきた」の主語は「男」なのだから、その「男」が「暗い気分を抱えたまま」ということになるのか。
 八行目は、どうなるだろう。

男の中を流れる川

 あ、ここには「動詞」がない。「流れる」の主語は「川」、「流れる」は「川」を修飾しているのだが……。
 で、ここで私は、つまずく。言い換えると、あ、詩がはじまったと思う。
 その「川」を認識しているのは誰だろう。
 「男」は「川」に気づいているだろうか。
 「川(川音)」に最初に気づいたのは、一行目の書かれていない主語「私」。その書かれていない「私」がここで「男」に重なっている。
 でも、これが最初の「重なり」かなあ。
 もしかすると四行目の「女のアパートを出て」から重なっているのかもしれない。本のなかの男が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか、書かれていない「私」が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか。それが「私」だとすれば、「私」は本のなかの男から見つめられていることになる。本のなかから出てきた男は反対側のホームに立って、「女のアパートから出てきて、これから妻のところへ帰るんだな」という目で「私」を見ている。「暗い気分」は、書かれていない「私」の気分でもある。
 その「暗い気分」が「川の音」である。
 「川」近くにあるのではなく、「男の中を流れている」のだから。あ、これは「近くにあるのではなく」、逆に「近くに(内部に)ある」ために、「近すぎて」そのひとにしか感じ取れないものなのかもしれない。他人には聞こえない、自分にしか聞こえない「川の音」。
 そうすると、ますます書かれていない「私」と「男」があいまいになる。その「あいまい」さのなかで、ことばが暴走していく。乱れていく。

その川音なのか 重い足取りで
アパートの外階段を降りていくときに
包丁の刃が脳裏に浮かぶ
そんなことを思い出しながら
男の中を流れる川

 これは現実? 本のなかに起きていたこと?
 「そんなことを思い出しながら」の主語はだれ? 書かれていない「私」でも「男」でもなくて、その次の「男の中を流れる川」の「川」が主語かもしれない。
 「川」が主語?
 「川」が「思い出す」ということは、あるだろうか。「川」を何かの「暗喩」、誰かの「象徴」と思えば、「川」が「思い出す」という文は成立する。
 では、「誰」の、あるいは「何」の暗喩?
 「暗い気分」かなあ。

 こういうことは、「答え」を出す必要がないのだと思う。
 あれかなあ、これかなあ、と思いめぐらすとき、そのすべては「間違い」なのだろうけれど、この「間違い」をうろうろとさまよっているとき、何となく書かれていない「正解」にどこかで触れている感じがする。
 他人のことなど「わかる」はずがないのだけれど、「わかる」と感じる。
 誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。そのひとの腹痛がわかるわけではないのに、「あ、たいへんだ、腹が痛くてうめいている」と「わかる」のに似ている。
 こういう「錯覚」(自己と他者の混同/私と筆者の混同/筆者になって自分を忘れる瞬間)を私は詩の始まりと感じている。
 どきどき、わくわくする。

 補足。
 「川」の暗喩の「正解」は、そこに書かれている「川」そのもの。言い換えは不能。「川」でしかないからこそ佐々木は「川」と書いている。これを私が言い換えれば、その言い換えのすべては「間違い」。しかし、そういう「間違い」をしないことには、私はこの詩を読むことができない。



 坂多瑩子「はやわざ」は鉄道への投身自殺を描いている。

蹴飛ばした石が
なにかにふありとしたものの中にとびこんだ
電車がとびこんで
駅がとびこんで
ヒトがとびこんだ

 最後の「ヒトがとびこんだ」が一般的な「認識」の表現なのだが、そういう「表現」にあわせて私たちは見たものをととのえているだけで、そういう「整い方」ができあがるまえには奇妙な何かがある。「電車がとびこんで/駅がとびこんで」という、「とびこむ」の主語になりえないものが「主語」であることを主張する。
 その「錯乱」のなかに、詩がある。ことばになるまえの、ことばがある。
 「日常」をわたしたちは、ことばでととのえているが、そのととのえ方は一種の「定型」である。「定型」にしたがうと、面倒なものを見なくてすむ。そして何かを見落とす。その見落としたものを、坂多はひろいあげて、揺さぶって、立たせている。
 最初の書き出しは、最後に言い直されている。


駅はちゃんとあった
電車もちゃんときた
とびこんだヒトの確認はできないけど
ヒトもいっぱいいた
駅と電車の色が少し薄くなっていた
あとは何もかわっていなかった
なにしろ
あまりのはやわざで
えっと思うか思わないか
だった

 ヒトがほんとうに飛び込んだのか、蹴った石が「ヒト」のように見えたのか。どちらでもいい。(わけではないかもしれないが……)。
 「わかる」のは「錯乱」が「えっと思うか思わないか」という瞬間的なものであるということ。「瞬間」なのに、その「瞬間」が「永遠」のように、大きなものとして存在する。この矛盾が、きっと詩なのだ。
ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田まさ子「まちがい」

2015-08-25 09:51:51 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「まちがい」(「生き事」10、2015年夏発行)

 和田まさ子「まちがい」は、他人との「ずれ」を書いている。

そよ子さんから
アップルパイをつくったから
持っていくと電話があった
待っていると
午後
おでん鍋を抱えたそよ子さんがあらわれた
そうだった
この人は料理の名前をまちがえるのだ
かに玉をコロッケに
コロッケをすき焼きに
すき焼きを五目寿司に
だから
おいしそう

 こんな「まちがい」が現実にあるかどうか、あやしい。しかし、あってもかまわない。そういうぎりぎりのところを和田はことばですくってみせる。「これって、もしかしたら、寓話?」と考えさせる。
 なぜこんな奇妙な「ずれ」ばかりを和田は好んで書くのか。
 後半で、めずらしく「種明かし」をしている。

そよ子さんが
きょうのアップルパイは上出来だわ
といいながら
おでんを箸でつついている
ほんとうにこのりんごは甘い
といいながら
大根をつまんでいる
ひとの会話は
そんなところがいい具合
パイ生地がサクサクね
と答えながら
わたしは、はんぺんをもわっと噛んでいる
そよ子さんが目を伏せながら照れている

 ちょっとしたいいまちがい。それを訂正せずに、そのまま押し通す。それに相手があわせてくれる。そして、あわせてくれた瞬間に、まちがえていたことに気づく。会話をあわせてくれていることにも気がつく。でも、どっちを「訂正」すればいいのだろう。どうすれば、ほんとうに戻れるのだろう。もともと「ほんとう」ってあったのかなあ。
 このやりとりでわかるように、和田がテーマとしているのは「会話」なのだ。「会話」というのは「日常語」でやりとりされるが、「日常語」というのは「意味」に幅がある。厳密ではない。ひとそれぞれに少しずつ、そのことばが含んでいる「内容」が違う。少しずつ違うのだけれど、「会話」が「会話」として成り立つのは、「日常の肉体」が「違い」を吸収してしまうからだろうなあ。多少の違いを無視して、「肉体」としてつながっている部分を大切にして、それで「全体」を把握してしまう。おおざっぱに掴み取ってしまう。
 この詩で言えば「食べる」ということが、「ずれ」を消してしまう力になっている。アップルパイもおでんも「食べる」ことができる。「食べる」は「味わう」でもある。名前が違っても「食べ物」は「食べ物」。アップルパイもおでんも「食べる」ということばのなかで「ひとつ」になる。そうは言っても、「味」は違うのだから「食べる」ということばで「ひとつ」にしてしまうのは、どこか無理がある。無理があるのだけれど、そんな具合にまとめることもできる。
 そのときの「具合」。
 これが、実は和田のほんとうのテーマ。
 和田は「会話具合(ことばの具合)」の違いを書いている。ひととひとは「会話」する。「会話」には私たちが知っている「日常」のことばがつかわれる。それは「同じことば」のようにみえても、どこかで「具合」が違う。その「具合」を「論理的」に説明することは難しいが、あ、何となく、それ違うのだけれど……という感じで「肉体」のなかに残るものである。「肉体の具合」に影響してくる。会話の具合はことばの具合であり、同時に肉体の具合でもある。
 そのことを、その妙な「具合」の融合(結合)を和田は、

パイ生地がサクサクね
と答えながら
わたしは、はんぺんをもわっと噛んでいる

 にしっかりと言語化している。「サクサク」と「もわっ」という「触覚」の違いによって書いている。
 「アップルパイ」を「おでん」と言い換えることは簡単である。「パイ生地」を「はんぺん」と言い換えることも簡単である。つまり、「アップルパイ」と言おうとして「おでん」と言ってしまうことは、まあ、簡単である。
 けれども「サクサク」を「もわっ」と言い換えることは難しい。「触覚(食感)」は肉体にしっかり組み込まれている。嘘がつけない。はんぺんを噛むと、どうしても「もわっ」ということばがが出てきてしまう。だから、この「もわっ」を自分なりに別なことばでいいなおそうとすると、とても難しい。「もわっ」はわかるが、説明はできない。それは「肉体」そのものなのである。
 それは逆に言えば、「わたし(和田)」がはんぺんを噛みながら、「サクサクね」ということばを聞いた瞬間、「そよ子さん」は「あ、それ違う」と「肉体」で感じてしまうということである。「そよ子さん」は「そよ子さんの肉体」で、「サクサク」が嘘であるとわかり、同時にそれが「パイ生地」ではないと「わかる」ということである。このしゅんかんに「おでん=アップルパイ」という「嘘」は完全にくずれる。
 「おでん=アップルパイ」が「嘘」であることは、「頭」ではは最初からわかっていたけれど、「肉体」ではわからなかった。そのまま「嘘」を押し通せると思っていた。和田が「会話」をあわせてくれているから「嘘」はそのまま完成するはずだった。
 けれど「肉体」は「嘘」をつけない。
 だから「肉体」そのものが反応する。

そよ子さんが目を伏せながら照れている

 「目を伏せる」という「肉体」の具体的な動きがあり、それは「照れる」という別な動詞で言い直される。
 「会話」の「具合」から、「ことば」と「肉体」の関係を具体的に描き出しているところが、とてもおもしろい。哲学的だ。
 これは、傑作。

なりたいわたし
和田 まさ子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダン・ギルロイ監督「ナイトクローラー」(★★★★★)

2015-08-24 10:28:22 | 映画
監督 ダン・ギルロイ 出演 ジェイク・ギレンホール、レネ・ルッソ

 この映画の不思議さはふたつある。
 ひとつは映像がきれいなこと。犯罪(事件)パパラッチというのだろうか、現場の動画をテレビ局に売り込む男が主人公。犯罪現場など美しいはずはないのだが、奇妙に美しい。夜なのに鮮明である。
 主人公が交通事故の現場で映像の構図にこだわり、被害者をかってに動かす。そしてカメラを高く掲げて撮影する。肉眼で見ているものとは違うものをカメラがとらえている。そうか、映像とはつくりものであり、現実ではないのか。
 どんな事件のときも同じである。主人公は自分が見たものをカメラでとらえているのではない。テレビを見たひとが「見たい」と思うものをつくり出している。
 ある一家が強盗に襲われる。その家に入り込む。冷蔵庫の扉に家族写真がある。そのまま映したのでは「絵」にならない。写真の位置を入れ換え、「温かい家庭」にふさわしい冷蔵庫の扉にする。そうすることで、そこで起きた悲劇が強調される。
 テレビの視聴者は、ふつうの(温かい)家族が悲劇に襲われるのを見たい。ふつうと悲劇のドラマチックな結びつきに興奮する。主人公は、そのことを知っており、そのために行動する。金のためというより、そういう映像を撮ることに興奮している。自分には、人の求める映像を理解し、さらにそれをあおる能力があると自覚している。
 と、書いていると、それは主人公のことなのか、監督のことなのか、わからなくなる。「映像」へのこだわりは、主人公のものであると同時に監督のものでもあるだろう。
 主人公の「日常」の描き方がおもしろい。彼は毎日自分でシャツにアイロンをかけている。水滴を散らし、アイロンがききやすくするという工夫もしている。部屋には植物があり、毎日、コップ一杯の水をやっている。きちんとした「暮らし」、「ふつうの暮らし」をしている。その一方で、異様な執念で「犯罪現場」の「刺戟的映像」を追いかけている。「ふつうの暮らしの映像」と「刺戟的な映像」を結びつけることで「刺戟」がより鮮明になる。この対比を鮮明にするには、それぞれの映像が美しくないといけない。雑然としていては、「対比」がまわりに侵入してくる「情報」に撹拌されて、あいまいになる。
 どんな「情報」もただそのままカメラのフレームのなかにおさめているわけではない。カメラに納まり切れるものをきちんと整理している。「情報量」を整理している。
 これがよくわかるのは、クライマックスの、二人組の男と警官の銃撃戦と、その後のカーチェイスである。ふつうの犯罪者と警察のカーチェイスならパトカーはもっとたくさん出てくる。激しいカーチェイスになる。この映画では、最初に追いかけているパトカー、最後に犯人の車と衝突するパトカーと、きちんと整理されている。あ、ほかのパトカーも来た。どこへ逃げるんだ、というような「興奮」を排除し、逃走する犯人の車、追いかけるパトカー、さらにそれを追う主人公の乗った車と、常に観客の視線が3台の車に集中するように「整理」されて描かれている。
 「映像」と「情報(量)」の関係に、非常にこだわった映画なのである。そのために、どの映像も非常に美しい。
 もうひとつの不思議は、「ことば」である。
 変質者を主人公にした、「刺戟的映像」パパラッチの映画なのに、映像だけで映画を動かしていない。「ことば」にこだわっている。主人公はただしゃべりまくるわけではない。他の登場人物も余分なことを言わない。それぞれが「必要最小限」のことばしか発しない。最小限のことばのなかに隠されている「意味」を考える。主人公はしゃべりながら考えるのではなく、考えて、自分の考えを整理してから、最小限のことばを選んでいる。それが映像に緊張感を与える。
 人間は、ふつう、主人公のようにはしゃべれない。新しい状況のなかでは、ことばをさがし、右往左往する。その右往左往のなかに「人間性」のようなものが出てくるのだが、それがないから「非情さ」が強烈に響いてくる。
 映像と同じように、主人公は「フレーム」のなかで「ことば」を把握している。それが相手にどう聞こえるか、それを意識しながら話している。
 だからといえばいいのか……。主人公が助手とやりとりする最後のシーンがおもしろい。助手は状況が理解できない。助手の頭の中には状況のフレームがない。だから副社長にしてやる。給料はいくらがいいか、と問われたとき、即座に答えられず「70ドル」とばかみたいなことをいう。フレームがわかってくるにつれて、助手のことば(要求)も変わってくる。
 もっと主人公の、「ことばのフレーム感覚」がわかるのは、彼が警察に訊問されるときのシーンだろうか。彼は警察が何を問うてくるかを知っている。訊問室で起きる「ストーリー」を知っている。知っているから、あらかじめ準備しておいた「答え」をいう。訊問している刑事には、それが「うそ」であることはわかる。直感でわかる。けれど、主人公の「答え」はきちんと「質問-答え」の「フレーム」のなかでおさまっている。言い換えると「美しい答え」になっている。だから刑事は問いつめることができない。問いつめるためには別の「フレーム」(証拠の枠組み)が必要だが、それは急にはつくれない。
 「フレーム」におさまったものが、「フレーム」を支配する。つまり、勝つ。
 この「フレームのなかの美しさ(強さ)」にあわせるように、ジェイク・ギレンホールが異様にやせて、「肉体」から「余剰」を排除し、観客がついつい彼の目を見てしまうように仕向ける「肉体のフレーム」にも、何か、ぞくっとするものがある。目に吸いよせられて、彼は、ほんとうは何を見ているのか、と怖くなる。

 「映像」も「ことば」も(そして「人間」も)、「フレーム」のなかで「美しくなる(明確になる/強靱になる)」というのは、考えてみれば恐ろしいことかもしれない。「美しいもの(明確なもの)」は、乱れたもの、雑然としたものよりも説得力がある。強靱である。そこに「嘘」を感じても、突き破れない。
 ということは、この映画のテーマではないかもしれないが、そう感じた。
 この映画が「美しさ」にこだわり、それを実現しているというところに、また奇妙ないらだちを感じた。
 もっと雑然とした、あたかかい映画が見たい。ルノワールの映画のような、と思うのだった。
          (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ7、2015年08月23日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ブロークバック・マウンテン [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」

2015-08-23 14:28:36 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」(「交野が原」79、2015年09月01日発行)

 八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」は長田弘追悼の詩。八木は木の名前を知らない。長田はよく知っている。そういうことから書きはじめられている。

木の名前っていうのが苦手でね
森に行ったら
全部 木だろ
右にも木
左にも木
うしろにも木
これで森という文字の完成

 これが八木の感覚。私も似たようなものである。多くのひとがそうかもしれない。長田は違う。

こなら
おなら
ぶな
こぶな
木五倍子

 「木五倍子」は「生五倍子」とも書く。「きぶし」と読む。

春先 だらーんと黄色い
花がたれる
川岸に生えてる あれさ
あんた よく知ってるねえ
それほどでもないけどさ
木の名前ってすぐに忘れるんだよな
生活に直接関係ないからね
知らなくったって
生きていかれらあ
そんなとこいって
あんた
また
夕涼みに
来たんじゃないの
おおきな
おおきな欅の樹の下に
座椅子なんか
持ってきてさ

 このやりとりがいいねえ。
 八木の「生活」を長田が言い直している部分がいいねえ。
 八木にとって「生活」とは、たぶん金を稼いで、食べて、いのちをつないでゆくこと。「生計」という意味でつかわれている。たしかに「生計」を立てることだけを考えると木の名前は「知らなくったって」大丈夫である。野菜や魚の名前は知っていた方がいい。けれど、木は食べないからね。
 でも長田は「生活」って「生計」とは違う部分もある、と言う。「夕涼み」をするのも「生活」。ひとは、どこかで「生計」を離れて、ぼんやりと自分を解放する。そのとき大きな木があると安心する。
 これは、ひとによって違うかもしれないが、私も大きな欅が好きである。私のふるさとの神社には樹齢二百五十年くらい(と、言われている)の欅がある。こどもの頃、隠れん坊で必ず隠れた木である。その冷たくて、ごつごつした木肌にふれると体がまっすぐに延びる感じがする。その欅の下で夕涼みはしたことがないが、木が与えてくれる安らぎというのは、とてもよくわかる。
 こういう瞬間も、「いきる」ということなのだ。自分じゃないものの存在を知り、自分ではないものと、ことばにならない「交感」をする。すべての「いきる/いのち」が触れあう場所。まじりあう場所。そういうものがどこかにある。「いま/ここ」、あるいは「生計」を一瞬忘れて、「私」というものを忘れて、「いきる/いのち」の根源のようなもと触れあう。
 このときの「私を忘れる」。そのとき「木の名前」を知らなくても忘れられるかもしれないけれど、もしかすると名前を知っている方が忘れられる。何でもいいのだけれど、たとえば「こなら/おなら/ぶな/こぶな/木五倍子」と声に出してみる。その瞬間、「声」が引き寄せるものを思い浮かべ、同時に「私」を忘れる。「私」を離れる。
 何かの名前を呼ぶことは、それを呼び寄せると同時に、「私」を忘れる、「私」を離れることでもある。「私」が「私」ではなくなり、そこにある「こなら/おなら/ぶな/こぶな/木五倍子」になる。「私」の知らない「いのち」になる。「名前」には、そういう力がある。
 長田がそう言っているかどうか、私は、熱心な長田の読者ではないのでわからない。また、八木がそういうことを書いているわけではないが、ふたりのやりとりを再現した詩を読みながら、私はそんなことを思った。
 長田の詩の(ことばの)特徴は、あるいは長田の特徴は、と言った方がいいのかもしれない。長田はたくさんことばを知っている。「木の名前」にかぎらず、いろんな本を読んでいて、いろんなことばを知っている。長田は、そういうことばを詩にたくさん引用している。
 ただ、その引用を読むと、少し不思議な気がする。
 長田はそのことばを知っているということ、あるいはそのことばが指し示している世界を読者に知らせるために書いているという感じがしない。知っていることば、自分にとって大切なことばを、十分に自分のものにした上で、それを「捨てる」ために書いているという感じがする。「捨てて」、その先の、「引用以前」の世界へことばを動かしていこうとしているように見える。「引用」されたことばが動いている、その「動きの現場」へ行くために、知っていることば(引用)を捨てる、という感じがする。
 でも、これは、私の「感覚の意見」。論理的には説明できない。
 で、「木の名前」にもどると……。
 「木の名前」をひとつひとつ正確に告げる。それは木の「いのち」を自分に正確に引き寄せることでもある。「木の名前」を呼ぶとき、その木の節や枝の形が自分の「肉体」のなかで動く。どこへ伸びていこうとしているのか、どこに根を伸ばそうとしているのか、そういうことが「肉体」として感じられる。その「感じ」をつかむために、それぞれの「木の名前」を呼ぶ。そして、その「感じ」がつかめたら、その「感じ」のなかへ入っていくために「木の名前」を捨てる。「木のいのち」、あらゆる「木」を「木」としていかしている「いのち」、「木の普遍のいのち」を別なことばで言い直す。
 大きな欅(おおきな木)には、ひとを安心させる「力」がある。人間をこえてつづいている「木のいのち」。そのおおきな「いのち」の存在が、ひとを「いま/ここ」から解放してくれる。その解放を求めて、たとえば「あんた(八木)」は欅の木の下に夕涼みに来た……。
 そんなふうに言い直す。
 いや、言い直している(そういうことばを思い出している)のは八木なのだから、このとき八木は「長田」にもなっている。「長田」になって、「生活」(いのち)というものを見つめなおしているのだろう。
 長田と八木が、ことばの「いのち」(ことばの「肉体」)として「ひとつ」になって動いている。追悼というのは、こういうことを言うんだね。


八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金井雄二「右手を高く」、岡島弘子「ときの達人」

2015-08-22 10:35:27 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「右手を高く」、岡島弘子「ときの達人」(「交野が原」79、2015年09月01日発行)

 金井雄二「右手を高く」は駅のコンコースの通路の真ん中で何かを飲んでいる年配の女性を書いている。人目を気にする様子はない。で、

この空間はあなたのものです
公共のものではなくなりました
持っているものは
あなたのものです
わたしのものではありません

 という感想が、ことばになって出てくる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」は「言いえて妙」。なるほどなあ。

ざわめいていた場所が
一瞬
人生最大のステージになったかのようで

さあ
右手を高く
ボトル缶が
真っ逆さまになるように

 情景が見えるね。何かを飲んでいるひとの姿が見えるね。
 で、金井のことばは正確だなあ、と思うのだが……。
 思いながらも、ちょっとひっかかる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」。ほんとうかなあ。
 書き出しにもどる。

ボトル缶が
真っ逆さまになるように
顔を上に向け
その唇の上に
缶の口があわさっている

 金井はしっかり見ている。私は「おばさんが真剣に何かを飲んでいる」くらいのことばでしか描写しないところを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」と具体的に書いている。その三行のなかに「上」ということばが二回出てくる。「唇」と「口」というのも同じものだ。それも二回出てくる。ことばが重なり合っている。重なり合っているのが当然という具合に密集している。「集中している」と言い換えてもいいかもしれない。
 うーん。
 この瞬間、私はこんなふうに言い直してみたい。

これらのことばはあなた(金井)のものです
公共のものではなくなりました

 私が何を感じたかというと……。
 金井の書いていることは「わかる」。具体的で正確。でも、私はおばさんが何かを飲んでいるのを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」というようなリアルな形で表現したくないなあ、ということ。そんなことをしてしまったら、おばさんの「肉体」と私の「肉体」が重なってしまう。私が「おばさん」になってしまう。
 いやだよ。
 だから、「あ、あのおばさん、ひとに見られていることも知らずに、最後の一滴まで飲んでいる」くらいでやめておく。「唇」とか「口」とか、具体的には書かないなあ。書かないことで、自分の「肉体」から切り離して、冷淡に見てしまう。
 でも、金井は「顔」だけではなく、その「顔」をさらに「細分化(?/「分節化」と書くとはやりの表現になる)」して、「唇」「口」と書き、そこに金井自身の「肉体」を融合させていく。
 だからね、「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」とことばは動いているけれど、どうしても「おばさん」だけではなく「金井」が見えてしまう。「あなた」は「金井」に見えてしまう。
 「持っているものは/あなたのものです/わたしのものではありません」は「おばさん」になってしまった自分(金井)を「おばさん」から引き離すための強引な「論理」だね。「おばさん」から自分を引き離し、必死になって「客観化」を装う。それが最後の二連だね。
 こういう「論理」の入り乱れ、主客の混乱を読むのは楽しいなあ。「入り乱れ」「混乱」というのは、まあ、否定的なことばなのだけれど、その否定的な部分に何か人間を結びつける「あいまい」なものが動いていて、その動きがおもしろい。
 このとき、金井は、すこし何かをのみたいと思っていたのかもしれないなあ。「肉体」が乾いていたために、「おばさん」の「肉体」になってしまったのかもしない。「おばさん」の「肉体」になりながら、その「自画像」をなんとかして「他人の肖像」にしようとしている。その、不思議な感じがある。



 岡島弘子「ときの達人」の一連目。

折りたたんだハンカチがでてきた
着がえた夏服のポケットから
去年の汗と涙をたっぷり吸い込んだ
あの 夏がでてきた

 岡島は、金井が「おばさんの肉体」になったように、「ハンカチの肉体」になっている。「ハンカチの肉体」には「去年の(あの)夏」がそのまま「時間」として動いている。ハンカチが「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」、あるいは「あの」去年の夏が「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」。
 「あの」ということばは「夏」を客観化すると同時に、いまここにないものを「いま/ここ」に引き寄せる。逆に「いま/ここ」を「あの時間」につれてゆく。

朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』

2015-08-21 10:23:38 | 詩集
岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』(書肆山田、2015年08月15日発行)

 岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』のなかでいちばん印象に残ったのは、

そして あんなに 汚れていても
吐物 あれが
ひとの内側にあったもの

 という三行である。「駅前広場」の(冬)に出てくる。このあと詩は、

じきに 乾いて
飛び散ってしまう そのなかに
すこし
赤いものも 混じって 見えた

 とつづく。この四行も、私は気に入っている。
 ただし、この二連のことばが岬の詩を代表しているかどうか、よくわからない。岬の詩のなかでは異質な部分かもしれない。

 最初の三行。これが印象的なのは「吐物」をもういちど「肉体」の「内側」にもどしているからである。「吐物」は、すでに外にある。それを、時間を逆転させて、「肉体」の「内側」にもどしている。そうすると「汚れ」が逆転して「汚れ」ではなくなるように感じられる。ほんとうは美しい。けれど「肉体」の外に出てしまったために「汚れ」になっている。同じものが「肉体」の「内側」と「外側」では違ったものになっている。そのことが印象に残る。
 そういう「意味」と同時に、そうした「意味」にたどりつくための「径路」もおもしろい。「汚れていても」の「……しても」のなかには、「汚れ」を否定する何かが含まれている。「……していても、……ではない」という「構文」がある。その「構文」をそのままつかうのではなく、「吐物」という主語を「あれが」と言い直すことによって「……」の部分を微妙にずらしている。言い直しによって、「吐物」を「吐物」ではないものにしている。「吐物」と「あれ」は同じものをさすのだけれど、強引に「吐物」から意識を引き剥がしている。その引き剥がしのなかに「否定」があって、その「否定」が絶妙に働いている。

 最終連にも、対象への「接近」と「引き剥がし」が微妙に絡んでいる。
 「じきに 乾いて/飛び散ってしまう」というのは空想である。その空想には「時間」が絡んでいる。前の三行では「時間」は「吐物」から「肉体の内側」へと逆に動いた。ここでは「いま」から「未来」へとふつうに動いている。
 時間の動きの方向は反対なのだが、おもしろいのは、対象への接近の仕方に「時間」が関係していることである。岬の詩には何か物語めいた要素があるが、それは岬が対象に近づいていくとき(あるいは見つめなおすとき)、その「過程」を「時間軸」の移動そのものとしてとらえるからだろう。
 岬にとって「対象の変化」とは「時間の変化」としてとらえられるもの、ということになる。
 また、その「時間の変化」は、必ずしも一直線状を動くわけではない。
 「吐物」から「肉体の内側」へは「いま」から「過去」への動き、「乾いて/飛び散ってしまう」は「いま」から「未来」への動き。そして、そのあとの「赤いものも 混じって 見えた」は「見えた」という動詞の時制が明確にしているように「過去」である。「いま」から「未来」へと動いたはずの時間は、ここで突然、逆転する。
 そして、この「時間の動き」の「逆転」の「起点」に「そのなかに」の「その」が重要な働きをしている。「吐物 あれが」の「あれ」と同じように、「吐物 そ(れ)のなかに」という構造である。対象を指示代名詞で、いったん切り離す。宙ぶらりんにする。そのあとで「時間」の向きを変える。

 こうした「指示代名詞」のつかい方が、ふつうのことであるかどうか。私は、少し変わったつかい方だと思う。散文では、「指示代名詞」は前にでてきたことばを引き受けながら、先へ先へとことばを動かしていく。けれども岬は「指示代名詞」でいったん立ち止まり、逆戻りする。ことばの動きの向きを変えさせる。この「向きの変更」から、岬の詩ははじまる、といえるかもしれない。
 詩集のタイトルになっている作品「飛びたたせなかったほうの蝶々」の前半。

途中 投函するつもりで
葉書は二枚 持って出た。
ポストの口で 突然の思いが湧き
一枚はそのまま持ち帰った。
血の豆のようなものが あらわになって
それを かたくにぎりしめてきた掌だったが
こうなっては。
その日の午後
わたしたちの世界は
大きく狂おしく 破壊された。
切手は 可憐に飛びたつ 春の蝶々。

 七行目の「それを」ということばを起点にして、「事件」が動く。「世界」がそれまでのものとは違ったものになる。「向き」がかわる。「出た」「帰った」という逆方向の肉体の動きの中心に「それ」があり、そこからいままで存在しなかった「時間」が動きはじめる。「その日の午後/わたしたちの世界は/大きく狂おしく 破壊された。」は、それまで思い描いていた「過去-いま-未来」という「時間」のなかの「世界」が違ったものになったということだろう。

 このことを逆な言い方で言い直してみると……。
 岬の詩のことば、場面の転換点に「指示代名詞」を補うと、岬のことばの動きがより整然と見えてくる。
 たとえば「島」。 (括弧内は、私が補った指示代名詞)

巨きな水槽に浮遊しているものは
黒さだろうか愚かさだろうか
あなたわたしの ときどき白い玉もあるが
魚と同じように熱せられ捨てられた眼球だろう
骨の破片や衣類の切れ端なども混じっているだろう
「その」満たされた液体はとても粘性を帯びていて
なにもかも浮沈はひじょうにゆるやかだ

 「浮遊しているもの」から「浮遊」をささえる「液体」への転換。それにあわせて「浮遊」が「浮沈」へと「向き」を変える。そうして世界が充実していく。詩が濃厚になっていく。
 この引用の少し後に「その水槽に巻き込まれてしまったあなたわたし」という形で指示代名詞は繰り返され、「液体」からさらに「あなたわたし」へと主題の向きがかわる。

 岬のことばには、見かけは飛躍が多いが、どこか粘着質の部分がある。ねっとりとまとわりついてくる感じがある。風が通りぬけるようなさっぱり感じがない。それは「指示代名詞」(書かれないこともある)を中心にして、ことばが動いているからである。「指示代名詞」を中心にして、ことばの向き(時間の動きの向き)が対立し、そこに何かをひきずるような感じの重さが生まれるからだと思う。

 こんな書き方では岬の詩の魅力を紹介することにはならないかもしれないが、私は、人間とことばの関係(どんなことばを中心にして、その詩人が詩を書いているかということ)に関心があるので、こういう文章になってしまった。

飛びたたせなかったほうの蝶々
岬多可子
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星隆雄『オブジェクト』

2015-08-20 10:21:41 | 詩集
星隆雄『オブジェクト』(思潮社、2015年07月25日発行)

 星隆雄『オブジェクト』には魅力的な詩行がいくつも出てくる。

目のない絵の代わりに目を開けると「ワタシたちはがらんとしていた
揺れている偶像の横顔は「顔の一致しないわたしたち自身によって生きられる
                                (「千年」)

 ことばの動きの中に矛盾のようなものがあり(「目のない絵の代わりに目を開ける」)、それが一種の「論理」を強要する。「論理」をなんとしてもつくりだそうとして動く。「飛躍」を「論理」にかえてしまう。

揺れている偶像の横顔は「顔の一致しないわたしたち自身によって生きられる

 この行の途中にある(そして前の行にもある)、中途半端なカギカッコ。ふいに挿入される「他者」の「肉体」という感じである。「他者」が強引に「論理」を奪っていく。前半が「事実」、後半が「意見」とするなら、「事実」にとって「意見」とは「他者(異質なもの/事実そのものではない何か)」である。「生きられる」という「動詞」の強さが、そのふたつをひとつにする強引な「論理」を引き受けている。

様々な垂線と交わる高さを残して、夕暮れの現象を指さした風が帰って行く。
出来事や予感は、喪失の空間を組み立てようとした。
                                (「待避」)

 ここでは、まず「残して(残す)」という動詞が強い。「残す」と「行く」は矛盾であり、そこから「喪失」ということばが引き出される。「残されたもの」の感じる「喪失」。それは、ことばの順序が逆になるが「出来事や予感」を言い直したものである。そして、それは「組み立てる」という動詞のなかで一体になる。
 こういう「論理」の交錯(倒錯?)を読むと、抒情は「論理」であると思わざるを得ない。
 感情のままに動いていくものは、音楽で言えば「長調」であり、そこには「抒情」はない。感情を「論理」で洗い、「短調」の響きに乗せるとき抒情が生まれる。
 こういう言い方は「直観の意見」であり、いいかげんなものなのだが……。
 星のことばは、そういう強引な「論理」の操作をことばに強いている。いや、ことばが、かってにそういうととのえ方を好んでいるのかもしれないが。

波のかたちにおいて、固守しようとはしない、死に至った後もはるばると来る
かたちのように、この系統においては、これは静かな低い声の時間になる、
                              (「メソッド」)

 この二行は、波のように区切りがどこにあるのか判断するのはむずかしいが、その難しさがそのまま波になっていると思うと、楽しい。
 最後の「時間になる」の「なる」が、私の「直観の意見」では「論理の飛躍」である。何が「時間になる」のか。「波の形」か。「文法」的にはそうかもしれないが、「波の形」が「時間になる」ということは、何か無理がある。「形」と「時間」は別のものであるから、それが「なる」という動詞のなかで整合性をもって結びつくことはない。
 この「なる」は「する」である。ここには書かれていないが「私(筆者/星)」が「波の形」を「時間」に「する」のである。認識のあり方(形)を変えるのである。強引に「する」から「なる」のである。しかし、もちろん「波の形」は「時間」に「なる」ことはできない。強引な、「する」という暴力が、どうしてもそこに残る。
 この作者の暴力こそ、詩である。
 それまでのことばのつながり(連続)を切断し、別なものに強引に接続する。その暴力が詩である。
 ただ、こういう暴力を持続するのは難しい。星の作品でも、それが持続されているとは感じられない。
 「千年」の「ワタシ」と「わたし」の表記の不一致は、星に言わせれば明確な意図のもとにおこなわれた「書き換え」なのかもしないが、こういう「手法」は「論理」の飛躍(強引さ)を弱めてしまう。ことばは「動詞」を中心に動くのであって、「表記」を中心に動くのではない。「動詞」のなかで、複数の「主語」が融合し、あたらしい「主語」を生み出していくとき、詩が動く。
 「波の形」が「時間」に「なる」のか、「波の形」を「時間」に「する」のか。「波(の形)」と書かれていない「私(星)」が融合し、そこから何かを生み出す。はやりのことばで言い直せば「分節する」。そういう動き(動詞)が、詩なのである。
 そういう力(エネルギー)を「表記」のような部分で分散しては運動が弱くなってしまう、と私は思う。
 また、先に引用した部分と、他の行では「リズム」が違いすぎていて、私には、それも詩の誕生をどこかで阻害しているように感じられる。「動詞」というのは「動き」である。「動き」は様々なリズムによって活気づくこともあるかもしれないが、「リズム」の持続が何かを育てる(生み出す)ということもある。「リズム」の変化で目先を変えるよりも、持続することで違うものになってしまう方がおもしろいと思う。


オブジェクト
星隆雄
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原田眞人監督「日本のいちばん長い日」(★★★)

2015-08-19 22:57:43 | 映画
監督 原田眞人 出演 役所広司、本木雅弘、松坂桃李、山崎努

 私は「歴史」映画が苦手だ。歴史を知らないから、描かれていることについていけない。軍人が出てくるのも苦手だ。軍服をきているから、ひとの区別がつかない。今回のように出てくるのが「日本軍」だけだと、なおのこと区別がつかない。海軍と陸軍は制服が違うから区別がつくが、登場するのはもっぱら陸軍。役所広司以外は、だれがだれだかわからない。
 昭和天皇というのは、ほんとうにこの映画に描かれているような立派なひとだったのかどうか、よくわからない。天皇に関して、ひとつ感心したのは、「天皇陛下ばんざい」という戦争映画に特有の「声」がなかったこと。ここに、もしかすると原田眞人監督の深い「意図」があるかもしれない。私は原田の作品を熱心に見ているわけではないので、この点ははっきりとはわからないが、見終わって、ほおおおっと思った。途中で「陛下」だったか「天皇」だったかという「ことば」が発せられるたびに軍人たちがすっと背筋をのばす。その時の制服のこすれる音を再現しているくらいだから、きっと「天皇陛下ばんざい」という「声」だけは出すまいと意識しているのだろう。
 そういうことと関係があると思うのだが、この映画は「ことば」にこだわっている。「ことば」にこだわっている部分をていねいに描いている。天皇が「動物学」と「畜産学」の違いを言ったり、「さざえ」の「比喩」を叱ったり、さらには宮内庁の職員が文書館へ「行く」と言うか「戻る」と言うかで工夫するところなど、なかなかおもしろい。こういうこだわりが、ポツダム宣言をどう訳するか、あるいは最後の天皇の終戦宣言(?)の文言を調整するところにしっかり結びついている。また、切腹した役所広司に向かって、妻がせつせつと次男が戦死したときの状況を「ことば」で再現するところにつながっていく。「どんどん行け」という父親の「ことば」を次男が引き継いでいたというところなど、なかなかおもしろい。
 ただし、このおもしろさは、やっぱり「小説」(文学)のものであって、映画そのもののおもしろさとは違うなあ。小説(原作)の方がおもしろいだろうなあ、と感じさせる映画である。
 何が足りないか、何が映画として問題かというと、この映画の隠れた主役(?)であるクーデターをもくろむ陸軍将校たちに「肉体の緊迫感」がなこと。これが映画を壊している。観客を(私を、と言い換えた方がいいのかもしれないが)引き込む「熱狂」がない。どうしてもクーデターを起こし、最後まで戦いたいという狂気のようなものが伝わってこない。「俺はクーデターを起こそうとする人間を演じているんだな」くらいの意識しか見え来ない。これでは、クーデター以前に失敗している。脚本を読んで(歴史を知っていて)、クーデターはどうせ失敗するとわかって演じている。おもしろくないなあ。「歴史」では失敗するのだけれど、映画なのだからもしかしたら成功するのでは、と思わせないと映画とは言えないなあ。
 戦後70年。私たちはほんとうに戦争から遠いところに生きているんだなあ、と将校たちの演技をみながら思った。人を殺すことがどういうことなのか、「肉体」で思い出せる人間(役者)は日本にはいないのだ。(体験したことのある役者はもちろんいないだろうが、「体験」を聞いて「肉体」を反応させたことのある役者がいないのだ。若者がいないのだ。)
 で。
 脱線するのだけれど、映画から離れて、安倍のもくろむ「戦争法案」のことを思う。そんなものを成立させても、若者は戦争で人殺しを簡単にできるわけではない。人を殺すためには、人を殺す訓練をしないといけない。人を殺すというのは、まず自分の中にある「人間への共感」を殺すこと、自分の人間性を殺すことなのだから、これは難しい。戦場から帰ってきた兵士が精神破綻を引き起し、日常社会にもどれないという例をさまざまに聞くが、そういう問題をどう解決するかまで含めて「戦争法案」は考えないといけないのだが、安倍は、どうせ自分は戦場に行くわけではないと思っているからなのだろう、そんなことは考えていないね。戦争がはじまれば軍需産業がもうかり、そうなれば軍事産業から「政治献金」が入ってくる、政治献金が入ってくれば安倍(自民党)政権がつづくという「アベノミクス」効果しか頭にないね。
 テーマを「ことば」にもどすと……。
 人間の「肉体」は「ことば」そのものと一体になって動いている。ことばがしっかりしていないと「肉体」を正しく動かすことはできない。野党の質問に、きちんと向き合い答えられない安倍の「ことば」の先にあるものは、無意味な戦争と無意味な戦死だけである。不正直なことばしか言わない安倍に戦争に行けと言われて、そのとき誰が「安倍、ばんざい」と言って死ぬだろうか。命令されたって、誰一人、そんなことはしないだろう。そんなことも思った。
                        (中洲大洋1、2015年08月19日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

日本のいちばん長い日 [東宝DVD名作セレクション]
クリエーター情報なし
東宝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛敬浩一『母の魔法』

2015-08-19 11:39:25 | 長田弘「最後の詩集」
愛敬浩一『母の魔法』(「詩的現代叢書7」、2015年06月06日発行)

 愛敬浩一『母の魔法』は散文を行分けしたような作品である。ことばそのものに、おもしろさがあるわけではない。タイトルになっている「母の魔法」。

遥か昔の
そろそろ暑くなり始めた頃のことだ
小学生の私は友だちと
遊びにでも出掛けるということだったのか
汗でもかいたのか
干し竿からシャツを取り
そのまま着ようとした時
母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」とでもいうように
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した
すぐ着る訳だから
特に畳む必要もないと思ったが
母は
まるで魔法でもかけるように
シャツを畳んだのだ
たぶん私はその時
何か、とても大切なことを学んだのだと思う

 書き出しの「遥か昔」は「昔々……」と読み直せば「物語」になる。「遥か」というのは「物語」を「詩」にするための形容詞である。こんなことばを「詞」の書き出しにつかっては興ざめしてしまう。
 そのあとのことばも「描写」というよりは「説明」である。愛敬に「見えている」世界を「見えている」ままではなく、読者にわかるように「説明」している。「遊びにでも出掛けるということだったのか/汗でもかいたのか」なんて、どっちでもいい。そんなことは「説明」しなくてもいい。だいたい「ほんとう」である必要はない。「理由」にほんとうも嘘もない。小学生には似つかわしくないかもしれないが、「女をたぶらかしに行く」でも「人を殺しに行く」でも、読者は気にしない。「理由」よりも「行動」を読む。
 母親がシャツを畳んだときの「「さあ出来上がり」とでもいうように」の「とでもいうように」という「ていねいさ」が、とてもうるさい。「解釈」も「理由」と同じであって、何でもいいのである。「行動」とは違って「事実」というより、そのひとの「思い込み」にすぎない。
 「特に畳む必要もないと思ったが」の「特に」がうるさいし、「思った」ということばも、どうでもいい。愛敬が「思う」かどうか、知ったことではない。
 最後の一行も、ぞっとする。書いてあることは「ほんとう」なのだろうけれど、「思った」ということばは愛敬の「正直」を証明しているが、詩にこういう正直はいらない。こういう「正直」は逆に「不正直」に見える。「思う」というようなところを経由するひまもなく、「肉体」が直接動いてしまうのが「正直」の姿なのだから。
 で、文句をたらたら書きながら、それでもこの詩について書きたいのは……。
 その「正直」(「肉体」が有無をいわさず動いてしまう瞬間)が、この詩に書かれているからである。

母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」と
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した

 「とでもいうように」を省略して引用してみた。実際、母にしてみれば「とでもいうように」ではなく、無言でそう言っているのであり、無言だとしても愛敬の「肉体」には、はっきりそう聞こえるのだから、「とでもいうように」と「説明」してしまうと、せっかく「肉体」に直接聞こえた「声」が「意味」になってしまう。「頭」のなかで整理されてしまって、そこから「肉体」の直接性(正直)が消える。
 この母の、「ことば」を必要としない「肉体」の動き。「肉体」がすばやく動いて、愛敬の「肉体」に直接触れる部分。ここに「母の正直」があるし、それをぱっとつかみとる「愛敬の正直」もある。
 「笑顔で」の「笑顔」も、表情というよりは、顔のなかで動いている「感情(正直)」である。「笑顔」と名詞にせずに、動詞で言い直して書いた方が「肉体」がもっと明確になる。「肉体」の存在感と、「肉体の直接性」が出ると思う。

 で、この「正直」というのは……。
 いままで書いてきたことと矛盾するように見えるかもしれないが、「ことば」にする必要がある。「正直」そのものは「ことば」を介さずに、母から愛敬の「肉体」へ直接響いていくのだが、その「直接性」は「無言」であるがゆえに、「ことば」になることを欲している。「無言」(まだ、ことばになっていないことば、未生のことば)が「ことば」になるとき、そこに詩が生まれる。
 あ、こういう「肉体」の動き、「肉体」のなかで動いている「ことばにならないことば」があった、ということを「肉体」が思い出す。その瞬間が、詩、なのだ。
 シャツを着る。汚れる。洗う。乾いたら、また着る。その動作のあいだに、洗ったシャツを畳んでもとの形にととのえる、という「ひと手間」。そこに「暮らしのととのえ方」(いのちのととのえ方)がある。「余分(余剰)」がある。それが人間の「正直」というものである。他者に対する「感謝」かもしれない。
 こういう、「ことば」にならない「無言のことば」、「ことば」にして引き継いでゆかなければならない。--と書いてしまうと、まるで「倫理」の教科書の言いぐさになるが……。
 それを書こうとしている愛敬の、この部分のことばの動きは、いいなあ。
母の魔法―愛敬浩一詩集 (詩的現代叢書)
愛敬浩一,詩的現代の会
書肆山住
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金井雄二『朝起きてぼくは』

2015-08-18 10:35:11 | 詩集
金井雄二『朝起きてぼくは』(思潮社、2015年07月30日発行)

 金井雄二『朝起きてぼくは』。タイトルはこどもの「日記」を感じさせる。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて……。でも金井は小学生ではないし、夏休みの日記を書いているわけではないので、それは「日常」の報告のようであって、ちょっと違う。

台所で音がする
卵を割る音
油がはぜる音
蛇口からときおり
水のでる音
音はぬくもりを感じられる距離にありながら
どうしても届かぬ場所にある                   (「台所」)

 「ぬくもりを感じられる距離」とは「距離」なのか。
 あ、これは「問い」の立て方が悪かったかな?
 金井は「距離」を書きたかったのか。それとも「ぬくもりを感じられる」を書きたかったのか。私は直感的に「ぬくもり」の方だと思ってしまう。「距離」というのは「ぬくもり」(感触/触覚)ではない。触覚ではかるものではないのだけれど、触覚で感じてしまうときもある。こういうことは「論理」では説明できない。そういう「論理」以外のものが、すっと入ってきて、ことばをしっかりつなぎとめる。
 変な一行(論理的ではない一行、客観的ではない一行)なのだけれど、その「変」なところに金井の「肉体」が見える。
 「変」は、そのつぎの「どうしても」ということばに引き継がれている。「どうしても」と言わずにおれない「肉体」。
 「どうしても」届かぬと、わかるのはなぜ? と、考えてみると、「どうしても」がどこにあるかがわかる。「距離」、つまり金井と「音」(の発生している場所)との「あいだ」にあるのではない。「距離」は「外部」にあるのではなく、金井の「肉体」のなかにある。
 金井の「肉体」のなかにある何かが「ぬくもり」を感じ取り、それが離れた「場所」にある「音」と呼応している。金井が起きだして、その音の発生している場所へゆけば「ぬくもり」を、たとえば手で感じ取ることができるかというとそうではない。それは「肉体」の「感触」なのだけれど、「肉体」の「形」では触れることのできないものである。手で触れることができない。
 金井は「肉体」の内部にある「ぬくもり」を感じる力そのもののことを書いている。
 それに触れることができるのは、たとえば「家庭の記憶(母の思い出)」のようなものなのだ。「台所」でいま響いている「音」そのものではなく、金井の「肉体」がおぼえている「音」。「肉体」のなかにある「音」。それはいま台所で響いている音と似ているが、おぼえている音そのものではない。
 その「ずれ」というか「差」のようなものが、「どうしても」ということばを必要としている。
 いまの音に不満があるわけではない。でも、「どうしても」聞いてしまうのだ。「肉体」がおぼえている「音」を。そのときに「距離」が感じられる。「ぬくもり」のなかでかさなりあうものが。

 どうも、うまく言えないが……。

 詩集のなかでいちばん好きなのは、「蓋と瓶の関係」。

蓋の欲望は
瓶の上に乗ることだ
ぼくは瓶の中から
ジャムをすくい
パンにぬりおわると
蓋をしめる
平均的な力を
だんだんと加える
蓋は瓶の縁を
幾重にもなめるように
あわさっていく
がっしりとかさなる
それは純粋な幸福感
子どもがきて
蓋を開けようとしても
あかない

 「平均的な力を」の「平均的」ということばがおもしろい。蓋が閉まって行くときの描写もおもしろい。でも、いちばん楽しいのは、

それは純粋な幸福感

 この一行。「幸福」ということばが、ここに出てくること。あるものが、あるままのかたちで落ち着いている。それが「幸福」。「純粋な」ということばが、それをさらに強調している。
 いや、もしかすると、「純粋な」こそがこの行をしっかりとしたものにととのえているのかもしれない。「台所」の「ぬくもり」に似た働きをしているのかもしれない。この「純粋」は金井の「肉体」がおぼえている「純粋」なのだ。
 金井にはわかっていても、それを他人にわかる形で言い直すことは難しい。そして、その「難しい」はずの何かは、言い直さなくても読者に伝わる。奇妙な言い方になるが、読者の方も金井の言おうとしている「純粋」がどういうものか「わかる」。「わかる」のだけれど、それを自分のことばで言い直すことができない。純粋は純粋、幸福は幸福。それを言い直そうとすると、どんどん、めんどうくさいことを言ってしまうし、言うたびに言いたいことから遠ざかってしまう。言わなければよかった。何も言わずに、「ここが好き」ですませておけばよかったという感じかなあ。

 最後の三行もいいなあ。そこにある「純粋な幸福感」。
 「お父さん、蓋があかない。あけて」とせがまれる幸福感。子どもが金井の「肉体」に「がっしりとかさなる」。子どもはお父さんの「肉体」の動きを自分の「肉体」で感じて、「あ、あいた」と喜ぶ。「肉体」の動きだけでなく、瓶の蓋のゆっくりとゆるんでくるときの感じも、なぜか、伝わる。そのときわからなくても、子どもが親になって瓶の蓋をゆるめるとき、ああ、これが父の感じていた蓋のゆるんでくる感じなのだ、と思い出す。そのときの「肉体」の重なり合い。
 こういう「肉体」の重なり合いを「肉体」はけっして忘れることができない。それが「ぬくもり」というものかもしれない。「ことばの肉体」が、そこに、しっかりと生きている。


ゆっくりとわたし
金井 雄二
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする