詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

増田耕三『庭の蜻蛉』

2024-09-12 23:03:53 | 詩集

 

 

増田耕三『庭の蜻蛉』(現代日本詩人選100、NO4(竹林館、2024年09月01日発行)

 増田耕三『庭の蜻蛉』の巻頭の詩「こおろぎ橋」。

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

まだ妻も子もなく
若さを失いかけた私が
昼のなかの橋を渡った

別れたのちの届けようのない想いが
りんりんと染みるように
歩み去ったひとのかかとの音が
響いていた橋のたもと

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

 とてもていねいに書かれていて、とてもよくまとまっている。
 二連目の「若さを失いかけた私」というのは、いまの感想というよりも、青春独特の「喪失の先取り」のような感覚だと思う。センチメンタルというのは、ほんとうは失っていないのに失ったと思うときに、みょうな輝きを見せる。「昼のなかの橋」の「昼のなかの」という焦点の当て方が「若さを失いかけた」という感覚と向き合って、「撞着語」のように響く。
 三連目は「うた」になりすぎているが、四連目で、最初の連を繰り返すことで、走りすぎた「うた」を、平凡な「うた」にひきもどしている。それが、落ち着きを生んでいる。
 この作品が増田の代表作かと言われれば、すこし悩むが、何篇かの作品を選ぶときには、その候補として残したくなる詩である。
 「九月の詩」は、詩集のおわりから二篇目の作品。

もうすぐ、九月が終わるというのに
一向に姿を現さない

私を置き去りにしたまま
「九月の詩」はいったいどこに
いったのだろうか

降り終えた
雨の気配だけが残されている
失った人のいた、九月

いや、
失われた人など
もうどこにもいやあしない

さばさばと消えた
きりで

 三、四連目。こう書かずには、詩を締めくくった気にならないのかもしれない。しかし、その二連はない方が「中途半端」な感じで、逆にいいのではないだろうか。「中途半端」は「余韻」と言い換えることができると思う。
 そうした方が、「 もうすぐ、九月が終わるというのに」「失った人のいた、九月」の読点「、」の呼応が美しく響くと思う。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重野睦美『たなごころ』

2024-08-05 21:01:18 | 詩集

三重野睦美『たなごころ』(梓書院、2024年04月30日発行)

三重野睦美『たなごころ』の「満月」。

月の夜に
犬とすれちがった

目があい
近づいて
すれちがい

ふりむいて
ためらいながら またすすんだ

カーンと冷たい
月の夜に

 
 最後の連の「カーンと冷たい」、とくに「カーン」がいい。乾いて、透明な感じがする。「カーン」という音(?)がするのかどうかわからないが、どこかに緊張感もある。
 とくに、どうのこうのという詩ではないのだが、こういう表現に出会うと、いい詩だなあ、と思う。
 三重野が書かなかったら、存在しなかった「一瞬」の世界。
 「中洲のカラス」にも、おもしろい行がある。

中洲のカラスはよじれたカラス
川にうつった自分をみている

 「よじれた」がとてもいい。どんなふうに「よじれ」ているのか。
 詩は、こうつづいていく。

おまえとおれをとっかえよう
つめたい川におれをすてよう
いたんだバナナの皮のように
チョコレエトの包み紙のように

そいつはやがて
よどんだ川の底に沈むだろう
そして朽ちて消えるだろう
地上で朽ちることといったい何がちがうのか

地上のカラスは
黒い翼をばたつかせ
よどんだ空の上を
飛ぶことにしたらしい

 詩は、一行、いや一語、そのひと独自のことばがあれば、それでいい。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松宏佳『崖』

2024-08-03 20:45:42 | 詩集

小松宏佳『崖』(紫陽社、2024年09月01日発行)

 小松宏佳『崖』の表題作「崖」の最後の部分。

それら経験の底には
崖の機嫌が横たわっている
うふふ、をやっていこう
冬だから怖いのよと言いながら
大股で近づいてくるのは
崖から見ても
わくわくするものだ

 「うふふ」と「わくわくするものだ」の呼応がおもしろい。「わくわくする」ではなく「わくわくするものだ」と「ものだ」をつけくわえているのが、ちょっとさめていて、それもいいかもしれない。
 ことばの動きが、荒川洋治っぽいなあ、と思った。こういうのは「印象」にすぎなくて、だからどうなんだといわれたら、別に何かを言いたくて言ったわけでもないので、説明のしようがない。
 ほかの詩にもそういうものはあるかなあ、と思い、ぱらぱらと読んだが、ぱらぱらがいけなかったのか、みつからなかった。
 でも、この詩集のなかでいちばん魅力的なのは、私が引用した数行だろうなあ。そういう数行、あるいは一行でもいいが、それがあれば詩集は詩集として成り立つと思う。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞口英夫『一滴の水滴が小鳥になる』

2024-07-30 21:22:28 | 詩集

 

洞口英夫『一滴の水滴が小鳥になる』(思潮社、202407月20日発行)

 洞口英夫『一滴の水が小鳥になる』はタイトルが魅力的だ。そのタイトルになっている作品。

一滴の水滴が
小鳥になる
私の死んだあとに
まるいとうめいな
球が出現して
その中に小さな私が
はいっていて
どこへともなく
とんでいった

一滴の水滴が
小鳥になる

 一滴の水がどうして小鳥になるのか。なんの「説明」もないのが、とてもおもしろい。夢を見た、その夢をそのままことばにした感じ。論理で、見たものを補足しようとしていない。何も補うことができないのだ。補えば、そこから嘘がはじまる。
 そのままにしている。何もしない。これは、簡単なようで、なかなかむずかしい。この「そのままにしている」というのは、「コスモス」では、こう書かれている。

コスモスが
風にゆれている
それだけで いい

道ばたに
青い小さな花が
咲いている
それだけで いい

みなそのままで いい
私は私のまま
いなくなる
それで いい

人にふまれても
咲いているタンポポそれでも
そのままで いい

いつか地球が
なくなる
いつか地球がほろびて
宇宙になる

 「それだけで いい」は「そのままで いい」と三連目で言いなおされている。だから、私が先に書いた「そのままにしている」というのは、たぶん「それだけで いい」と通じるだろう。
 何もしなければ、世界は(宇宙は)完璧なのだろう。宇宙自身の「理」というか「法」として、そこにあることになるのだろう。
 最終連の、最後、そこには「それだけで いい」が省略されているのか、それとも、最初から「ない」のか。
 たぶん「ない」のである。最後に「それだけで いい」と書き加えると、それはやっぱり「結論」のようなってしまうので、何もないのがいい。「それだけで いい」は洞口の「納得」のなかにあれば、それでいい。読者が肉体のなかでことばが動けば、それでいい。何も書かないことが「それだけで いい」を誘うのである。
  「それだけで いい」「そのままで いい」、つまり「何もしない」は「餓鬼」では、こう書かれている。「私」が「修業」している山の上に、「餓鬼」が攀じ登ってくる。それが、こわい。しかし、

私がここで
何か一ツでも、心にもない行為したら
終りだとおもって
私はじっと魂にしたがった
そしてじっとがまんしてたら
餓鬼共は皆谷底に落ちていった

 「何もしない」を「心にもない行為(を)したら」と言いなおしているのだが、これは、いいなあ。そうなのだ。人間はいつでも「何かをしよう」としたら「心にもない行為」になってしまうのだ。だから、「こころ」を動かさない。「そのままで いい」(それだけで いい)。「一滴の水滴が……」で私がつけくわえた「何も補わない」というのは、「こころにもないことば」をつけくわえないということである。補足しようと思ったときから、それは「こころにもない(こころが、その瞬間にうけとめたものとは違ったもの/こころがつくりだしたもの)」になってしまう。ことばは、こころを「飾る嘘」になってしまうことがある。だから、何もつけくわえない。「そのまま」にしておく。
 この世界につながるのが「くるみ」。

たにまのくるみの
樹の枝が
 川の流れのある方に
  枝を伸ばしていって
    たねを落とすように
人はいつか
 永遠の流れにのびていって命を落す

 「くるみ」の描写、木、枝、たね(実)の描写がとても美しい。私は、私の故郷にあるくるみの木を思い出す。川岸にあって、そのくるみは確かに川の法に枝をのばしている。川で泳いでいると、くるみの実が落ちて、岩に当たる。そこにとどまったままの実もあれば、流れにのって、どこかへ行ってしまうものもある。それは「無常」の世界かどうかしらないが、私はこの詩を読みながら、故郷の、あのくるみの木になった気持ちになった。そこに川の流れがあるから、そこに枝を伸ばす。それから先は考えない。そのくるみの木が、私には忘れることができない。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁平『時間ノート』

2024-07-16 23:04:15 | 詩集

 

 

(竹内新訳)(思潮社、2024年04月25日発行)

 梁平『時間ノート』の「夜に夢を見る」のなかに、次の行がある。

夏、秋、冬のなかにだって春はない

 この行に出合った瞬間、私は、何かを書きたくなった。梁平の詩を貫く何かが、この一行に隠れていると直観した。
 「ない」ということばが、強く私を揺さぶる。
 「春はない」。しかし、「ない」と書かざるを得ない何かが「ある」。それは、まだ名づけられていない「存在」であり、「事実」かもしれないし、あるいは「ある」という強い動詞の動きかもしれない。
 いや、こんなふうにひとくくりにする「概念」ではない、何かが「ある」。
 「ない」と「ある」は切り離せない。「ない」は「ある」そのものでもある。それは、「誰にも古屋が」という詩のなかでは、こう書かれる。

逃れる場所は そこ以外にないのだった

 「ない」は「ある」を限定している。「限定されたある」以外には、「何もない」。「逃れる場所」ととりあえず梁平は呼んでいるが、この限定には、すでに意味はない。なぜなら、

古屋はもう存在せず

 なのだから。「古屋はもう存在しない」、つまり「ない」。しかし、それが「不可能性」として、いつも「ある」を浮かび上がらせながら、「ない」という形で迫ってくる。この、どうすることもできない「矛盾」。その「矛盾」のなかから、何かしら、梁平がことばにするまでは存在しなかった純化された抽象、あるいは抽象の純化の動きのようなものが浮かび上がってくる。
 それは「否定」だけが描き出す美しさである。
 「越西の銀細工師」には、その「否定」の力が、何もかもを純化する力として動いていることを教える美しい数行がある。

銀細工師は学問したことはなく、
村の外の漢族のしゃべる話は 聞いても分からない
彼が最も遠くへ出かけたのは西昌だが
そこの月を見上げれば 越西で見るものとそっくり
彼が銀から打ち出したものが
天に懸かっているのだ

 学問をしたことは「ない」(否定)、話を聞いても、何を言っているかわから「ない」(否定)。その「否定」が逆に、銀細工師を完全な「個人」にする。すべてを「否定」しても、人間がそこにいる(私がそこにいる、そこにある)ことは、「否定」をこえて、「ある」。そして、その「ある」を通して「銀細工」と「月」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」に「なる」運動のなかで、銀細工師は、紛れもない彼自身に「なる」のだが、その「なる」は「生まれる」であり、そこに「ある」ということでもある。
 中国の詩人のことばを読んでいると、私はかなりの頻度で、中国には「二」以上の数はないと感じる。あるいはいつも「一対」、つまり「二(一プラス一)」であって、それ以上は数えきれない。「無限」というよりも、それは何か「絶対」としての「存在形式」である。
 ここでは「月」と「銀細工」が「一対」なのか、「銀細工師」と「月」が「一対」なのか、区別がつかないが、「月」「銀細工」「銀細工師」が「二を超越する完全な一対」になってあらわれてくるのだが、この「顕現」を支えるのが、「ない」から始まる運動なのである。銀細工師に学問があったなら、彼に漢族のことばがわかったら、きっと彼は西昌で見る月が「越西で見るものとそっくり」とは思わないし、それが彼が打ち出した「銀細工」と同じとも気がつかない。学問があれば(頭で考えれば、論理的に考えれば)、どこから見ようと月はひとつ、「そっくり」どころか、変わりようがないものだからである。

 何を書くつもりだったのか、もう思い出せないが、「夜に夢を見る」の余白に、私は「何かを壊す、そうすると壊す先から新しく生まれてくるものがある」というメモを残している。「壊す」を「否定する」と言いなおすと、先に書いたことと何かが通じるが、それとは別に「私は間違いのある文だ」という詩の余白には「壊しながら生成する」というメモがある。
 「破壊(否定)/生成」の運動を、私は梁平のことばから、強く感じているのだ。
 その「私は間違いのある文だ」は、こう始まっている。

いつから始まったのか
私はものを言うのに文法の論理を失くしてしまい
言動が取り留めないものになり もう筋の通った文章が書けない

 「文法の論理を失くす」(文法の論理が、ない=無)、その結果「文章が書けない」(否定)。
 「書けない」けれど、書いてしまえば、ことばはそこに「あり」、「文章は生まれる」、そして、そこには、いままで存在しなかった「文法(の論理)」が立ち現れてくる。

夏、秋、冬のなかにだって春はない

 「夏、秋、冬」に「春はない」のは、学校の文法(論理)では当然だが、その学校の文法の論理に頼らずに、新しいことば(表現)は存在してしまう。既成の「意味」を否定し、「意味」ではないものが出現する。「意味」でないなら、それは、なにか。「もの」か「存在」か。「運動」か……。
 この答えを、私はもっていない。「答え」など、どうでもいいのだろう。「問う」ことが必要なのだろう。ただ問い続け、ことばを動かし続けることでしか、梁平が抱えている「否定の運動」の軌跡は追えない。

 梁平の詩のなかでは「間」ということばも印象に残った。

目を開けることと閉じることの間

 「都市の深い眠り」の書き出しの一行の「間」。この「間」は「時間」をあらわしているのか。そうかもしれないが、私には違う風に感じられる。「開ける/閉じる」という運動は反対の動きであるが、そこには「切断」はなくて「連続」がある。「開ける/閉じる」で「一対」であり、そこには「間(断絶)」は存在しない。「間」は、意識がつくりだした「錯覚」である。「錯覚」なのだが、しかし、「間」と書いた瞬間、それは「錯覚」ではなく、絶対的な「事実」にもなってしまう。
 「文法(の論理)」とは、たぶん「ことば」と「ことば」の「間」を整えることであり、それを「間」と読んだ瞬間に「ことば」と「ことば」が「孤立」したような感じが生まれる。「ことば」を連続させるときの「接着剤」が「文法(の論理)」だとすれば、梁平はその「接着剤」を捨てて、「間」を拡大する。「間」を「自由」にする。それは「間」によって、「ことば」を自由にするということでもある。
 そして、その「間」(接着剤の否定)によって「ことば」が自由になるからだと思うのだが、梁平の詩は、なんともいえずさっぱりした印象がある。あるいは何も書いていないような、さっぱりした気持ちよさがある。
 で、この「何も書いていない」というのは「意味」を書いてないという意味であり、「意味」のかわりに、いままでのことばでは存在することができなかった「もの/存在」が「意味」をもたないまま、そこに「ある」ということである。
 これは、とても楽しいことである。
 「意味」というものなら、人間ならだれでもそれをもっている。みんなが、自分自身の「意味」に苦労している。「意味」などというものは、それぞれの読者に任せておけばいいのであって、詩人は「意味」を否定し、「意味」にならないものがあることを「ことば」で出現させれば、それでいいのだ。
 「意味」を「否定」し、それを「ない」にした瞬間、その「ない」のなかから、「もの/存在」があらわれてくる。
 その、私が「もの/存在」と仮に呼んだものを、「パリでカラスの鳴き声を聞く」では、こんなふうに書いている。(これまでの詩の紹介が断片だったので、この作品は全行を引用する。梁平の詩は、どれもおもしろいが、「旅行記」はその瞬間にしか書けないような、不思議な味わいがある。)

カラスかどうか確認できなかった
姿は見えず ただ鳴き声だけが耳に澄み渡り
それはパリの早朝を引き裂いた
私は習慣通りに バルコニーで深呼吸し
あらゆるものが行き交うなかで 古きを吐き新しきを吸い込んだ
共和国広場の自由の女神は
余りに長きにわたって立ち尽くし いささか疲れていた
頭のてっぺんのオリーブは枯れたようには見えなかった
かと言って鮮やかな緑が咲きこぼれるでもなかった
昨夜の広場に集結した鬨の声は
航空と鉄道 公共交通とタクシーに及び
群がり集まったカラスのようだった
彼らのスローガン、彼らの歌は 聞いても理解できなかったが
リズミカルな力強いリズムは
百年の地下鉄三号線とピッタリ息が合い
それだけが私の夢のなかに残っていた
目を覚ませば 広場はがらんとして
地下鉄の出入り口では おびただしい出入りが始まっていた
荘重と軽薄 質素と艶麗
どう見てもロマンティックではなかった
だが私の場合 カラスの鳴き声を聞いたのであり
それとは似て非なるものだったのだ

 「似て非なるもの」。これが詩の「神髄」である。梁平の書いているどのことばも、私たちの知っていることばに似ている。しかし、それは「似て非なるもの」である。だから、詩なのである。そこには「否定」することでのみ到達できる「絶対肯定」がある。


 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本篤『あした天気になあれ』

2024-06-16 14:07:39 | 詩集

橋本篤『あした天気になあれ』(編集工房ノア、2024年06月12日発行)

 橋本篤『あした天気になあれ』の表題になっている作品は、「セツさんの呼吸がときどき止まるようになった」と、はじまる。危険な状態である。点滴を増やすのではなく、減らす。そうすると「呼吸は楽になり 気分は穏やかになるのだ」という。そうした治療経過の後、詩は、こんなふうに終わる。

セツさんの部屋の隅に 分厚い一枚板の机がある
そこで書にむかっているセツさんをよく見かけた
かつては書道の先生で 弟子もとっていたという

そんな いつもの机の上に
誰が置いたのだろう ハラリと一枚の書
しっかりと 明るく のびやかに

  あした天気になあれ

 おだやかで明るい詩だ。セツさんが死んでしまったのか、まだ生きているのか、それは書かれていないが、死んだとしても、その死が明るく未来へ広がっている感じがいい。
 「一枚板の机」と「一枚の書」が響きあって、「一枚の書」なのに、がっしりした、どこにもいかない揺るぎなさがある。そこに書かれていることばが、「一枚板の机」のように、セツさんを支え続けたのだと教えてくれる。
 「化粧療法」は、認知症のケアのひとつとして取り入れられている。「化粧が始まると 表情はキリリと引き締まる」。最初は、明るい笑顔だが、

次第に笑みは消えていき
療法などという優しい雰囲気から
何やら別なものに変わっていく
のぞき込む鏡の中は 過去なのか未来なのか
それとも 見たことのない異次元の世界なのか
殺気漂う真剣勝負の世界が広がり始める

 これは「あした天気になあれ」の対極の世界である。橋本のことばは、そうした世界があることを示唆しただけで、それから先へ進まない。ここには、橋本の医師志としての「抑制」が働いているのだが、詩は治療ではなく「文学」なのだから、「殺気漂う真剣勝負の世界が広がり始める」と抽象的に世界を閉ざしてしまうのではなく、具体的に「異次元の世界」を押し広げてもらいたいと思う。
 その方が、より深い共感を呼び起こすと思う。
 なぜ、「より深い共感」になるか。それは、もしかすると、その世界が認知症のひとの世界ではなく、私たちそのものの世界でもあるからだ。「認知症の人の世界」とくくってしまうと、そこには「客観性」が優先して、「主観的な共感」が一歩引き下がってしまう。
 「あした天気になあれ」には、その書に込めた願い(文字を書くことで自分の生を整え続けたセツさんの願い)が、「主観的共感」として具体的な形になっている。ほかの書、乱れた文字、乱れたことばの書もあったかもしれない。けれども、誰か(それは橋本かもしれない)は「あした天気になあれ」を選ぶことで、セツさんといっしょに生きている。その「いっしょに生きている感じ」が「化粧療法」にもあればいいと思う。
 そして、それは、もしかしたら「共感」ではなく、「反感」や「恐怖」かもしれない。そのことを、最終連で、橋本はこう書いている。

そろそろ人生店じまい などとつぶやいて
気弱なロマンチストの男たちに比べて
おばあさまパワーは 世の雑音をものともせず
明日に向かって ますます燃えさかる

 これが「共感」にかわるためには(かえるためには)、どうしたって、「 殺気漂う真剣勝負の世界」の具体的な描写が必要なのである。起承転結の「転」は激烈であってほしい。
 
 「ホタル草」は、橋本の母のことを書いている。ひとり暮らしだったが、いまは高齢者施設にいる。住んでいた家は空き家になっている。

野草が大好きだった母 庭は花で溢れていた
多くの花たちは 趣味の水彩画に残っている

私はせめてもの親孝行にと
ホタル草だけは鉢に移して 施設のベランダまで運んだ
この はかなげな天使は 母のお気に入りの一つで
春から秋にかけて 空色のフリルを風になびかせながら
二つ三つと 咲きつづける

それから 半年はたっただろうか
母は昼間からも 寝入るようになり
ベランダのホタル草を 振り向くこともなくなった
私はこの花を 自分のマンションに引きとった

夜になると 母は 施設の一人部屋で
昼間にもまして深々と眠る
持ち帰った鉢植えが気になって、夜中
懐中電灯で照らしてみたことがある
ホタル草も深々と寝入っていた

 母とホタル草が静かに重なり、その重なりのなかで、橋本のこころが落ち着いているのがつたわってくる。とてもいい詩である。
 どんなふうにいい詩かというと。
 私はホタル草が、母の描いた水彩画のなかで「深々と寝入っている」のを思い浮かべたのだ。深々と眠っている母が、その夢のなかで、大好きなホタル草が、二つ三つ、眠っていくのを描いていると想像したのだ。
 そんなことは、もちろん書いていない。書いていないけれど、その書いていないことを、思わず想像させてしまうのが、いい詩なのである。そうした想像を支えることばが、詩のどこかに静かに存在している、世界を支えているというのが、いい詩なのである。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細田傳造『杭』

2024-06-07 22:47:43 | 詩集

細田傳造『杭』(現代詩書下ろし一詩篇による詩集、懐紙シリーズ第十三集)(阿吽塾、2024年05月10日発行)

 何を書こうか。

今から思うと
あの日本人の親切が怪しい
あの朝鮮の役人の怒りがわかる

 この三行は、私には、やはり胸にこたえる。
 ほかにもいろいろあるが、この「正直」の前では、私のことばは何の意味もない。
 私は、そのことについて何の関係もしていないのだが。(そう言いたいのだが。)

 そこで、唐突に、こんなことを書いておく。
 私はときどき外国人に日本語を教えている。きょうの生徒はオーストラリアの外務貿易省で働いている女性だった。通訳の国家試験(オーストラリア)のようなものに優秀な成績で合格しているし、実際に、実務で何年間も通訳をした経験がある。いまさら「日本語を教えます」もないのだが。
 きょうは、欧州各国が、インド太平洋の安保を強化している、中国・ロシアに対抗し、インド太平洋に艦艇を派遣している、というニュースを読んだ。日本に、イタリアやイギリスの空母が寄港するとか、オランダのフリゲート艦が台湾海峡を通過した、というような記事である。なぜ、イタリアやイギリスの空母が日本に寄港するのか、オランダのフリゲート艦がわざわざ台湾海峡を通過するのか(公海だから通過してかまわないが)、ぜんぜんわからない。さらに、その記事の末尾には、アメリカの中国専門家が「もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう」と述べ、欧州の関与継続は米次期政権の安保政策がカギを握ると指摘した、と書いてある。
 オーストラリア人によれば、これは「トランプが大統領になれば、ウクライナ支援をやめる。欧州はロシア対応に軍事を集中するので、日本やオーストラリアのことなんか気にしなくなる」という意味である、という。さすが、外務貿易省の前には国防相で働いていたというだけあって、新聞に書いてないことを「深読み」できる。
 で、思うのである。
 アメリカは日本を中国や北朝鮮から守ってやる、というような「やさしいことば」をささやくのだが、それは「親切」だからだろうか。だれの指示かしらないが、オランダのフリゲート艦が台湾海峡を通過しておいて、中国に太平洋に進出してくるなというのは、いったいどういう意味なのだろう。中国が、アメリカや日本が中国の近くで軍事演習をすることに対して「怒り」を表明したからといって、それは「間違った怒り」なのか。
 場当たりの「やさしさ」や「怒り」に反応して、あとになって「今から思うと」ということばを発するようになっては、いけないのである。
 細田は、海に突き出た一本の「杭」があばきだす歴史(それも、なんとなく景色が気になる女性の視点がきっかけであばかれ始める歴史)を書いているのだが、ああ、「歴史」はいつでも、生きている人間のそばで動いていると教えてくれる。どこからだって、「歴史」を語り直すことはできる。そして「歴史」というのは、生きている人間の「生き方」そのものなのである。
 「やさしいことば」「激しい怒り」は目立つが、そうではないことばのなかにも、くみつくせない「歴史」がある。権力の暴力に対しては、そのくみつくせない「歴史」にもぐりこんで、そこから立ち上がるしかないのである、と感じるのである。
 こういうことを、細田の詩の一行一行を引用しながら書くと、細田の詩が細田の詩ではなくなるので(私には、細田の怨念のようなものを正確に書けるとは思えないので)、こんなふうに、奇妙な形で感想を書くしかない。

 「今から思うと」と言わないために、細田の詩を読もう、とだけ書いておく。「今から思うと」と、私は言いたくないのである。もうすぐ死んでいくしかない老人だけれど。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

2024-06-06 13:09:25 | 詩集

 

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』(新潮社、2024年05月30日発行)

 最果タヒは21世紀の谷川俊太郎である、と私は思っている。私には、ふたりはとても似ている。もちろん違う部分もあるが、とても似ているところがある。まだ半分読んだだけだが(49ページまで読んだだけだが)、その最後に読んだ「パール色」という作品にこんな行がある。

血の巡りは独立したまま、
ぼくらは他人のままでいつまでもさみしく、
それなのにとても近かった、

 ここから寺山修司を、あるいは飯島耕一を思い出すひともいるかもしれない。いや、「血の巡りは独立したまま、/ぼくらは他人のままで」ということばを通して、寺山を、飯島を思い出したのは私なのだけれど、その後の展開で、ああ、谷川俊太郎だなあと、改めて思ったのだ。「さみしく」ではなく、次の「それなのに」。
 私は最果の声を聴いたことがない。谷川の声は聴いたことがある。そして、この「それなのに」ということばを、私は谷川のことばを通して聴いたかどうか思い出せないが(それがどの詩につかわれていたか思い出せないが、たぶんつかっていないだろう。なぜなら、それは「キーワード」だからである。「肉体」にしみついたことばであり、谷川にはわかりきってることなので書かない)、「まざまざ」と肉声が聞こえてきた。
 「それなのに」は逆説の接続詞である。反対のものを結びつけるというか、前に言ったこと(書いたこと)を否定し、その先へ進んで行くときにつかことばである。このとき、「それなのに」ということばを発したひとは、ことばが行き着く先をはっきり知っているのだろうか。知ってはいなくても、はっきり予感しているだろう。何かしらの確かさを信じている「それなのに」。
 そして、その「それなのに」は先に言ったことばを(先に存在したことばを)完全に否定しているわけでもない。もし前提がなければ、ことばは先へ進んでいかない。否定はしているけれど、それはことばが先へ進むために必要とした何かなのである。
 だから、というと奇妙な言い方になるが。
 ここには矛盾というよりも、何か深々とした「和解」、あるいは「包容力」のようなものがある。ことばを超える「肉体」そのもののようなことば。だから谷川は書かないが、最果は書く。そこに大きな違いがあるのだけれど、とても似ているところもある。

 もうひとつ似ているなあ、同じことばの動きだなあと感じるのは、最果も谷川も、彼ら自身だけのことばをつかわない。どちらかというと、それは彼らのことばというよりも、だれのものでもあることば、あるいはだれかが話したことばをつかう。シェークスピアみたいに、といえばいいだろうか。ひとが話していることばを受け止めて、それからその声をしっかりと聴いて、そのなかから「自分」を見つけ出してきて語る。そこには谷川がいて、最果がいるだけではなく、もっと多くのひとがいる。その多くのひとのなかへ消えていってしまうことばをつかう。
 そして、違いがあるとすれば、そのときの「ことばが消えていく」先の「ひと」の姿が違うということだろう。別なことばで言えば、「生きている世代」が違う。同じ時代だけれど、同じ時代でも「世代」が違う。
 引用のつづき。

赤い光、青い光、緑の光、
重なれば白くなれると思いながら
それでいいと誰かに言ってほしがっているようだ、

 ことばの「リズム」が違う。音は似ているところがあるのに、谷川と最果では、リズムが完全に違う。
 先の引用した部分でも、「それなのに」をのぞけば、谷川が書けば違うリズムの動きになると思うが、特に、この三行に、それを感じた。最果のことばは、とても急いでいる。谷川が落ち着いて言う部分を急いで言う。最果には、急いで言わないと、だれにも聴いてもらえないという気持ちがあるのかもしれない。それはいまの若い世代(私より若い世代という意味だが)には、とても強いのかもしれない。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけないスピードで、
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 この「彗星の詩」は実は、まだ読んでいない後半に出てくる。帯にあったので、偶然目に留まったのだが、「さみしさなど追いつけない」は谷川も書くと思うが、谷川はそのあとで「スピード」ということばで説明するとは思えない。ここに「スピード」をつかわざるを得ない最果の「急いでいる気持ち」がとてもよくあらわれている。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけない
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 では、最果の詩にはならないのだ。「スピードで」を削除すれば、谷川の詩に、さらに似てくる。「宇宙の果て」ではさらにさみしくなるかもしれない。「それなのに」宇宙の果てに連れて行く。そのときの「スピード」のなかでこそ、「ぼく」と「きみ」はいっしょに生きている。「宇宙の果て」でどうなるか、そんなことは知らない。わかっているのは、いっしょの「スピード」で「いま」を生きているということ。
 
 「浜辺の詩」。

悲しみや痛みに名がなければすべては恋と呼べたのに、
もう涙は海ではないし、すべて愛の言葉にはならない。

 この二行のあいだには「それなのに」が省略されている。「それなのに」と言っていると、その分だけ「スピード」が遅くなる。そうすると、たぶん最果と最果よりも若い世代にはことばが届かないということを、最果は知っている。

 「川じゃない」にも、独特の「スピード」がある。

私の肌はきみと私の間に流れる川じゃない、
私の肌は私のものだ、お前の輪郭を確かめるための川じゃない。
わかる?

 「川」は、聴きようによっては「皮」につながる。「それなのに」、「川」は「皮」に、「皮」は「皮膚」に「肌」につながらない、「川」と「皮」は違うから、もちろん「皮膚」とも「肌」とも違うようなことを言っているわけではないが。
 その「それなのに」を省略したからこそ、「わかる?」と念を押す。
 谷川は、「念を押さない」。「それなのに」とは言うけれど、絶対に「念を押さない」。読者のことばが動くのを、ただ、待っている。最果は「わかる」ということばで、読者のことばを誘い出そうとする。

 「氷の詩」。

きみ優しい子だと言われた回数だけ、
心は柔らかくなり、傷つきやすいまま大人になった。
悲しみを知っている分だけ優しくなれる、
なんて間違いで、悲しみがある分だけ、
昔の私が優しかった証明だった。

 この詩にも「それなのに」が隠れている。このキーワードの隠し方も谷川に似ている。谷川は、しかし「証明だった」とは書かないだろうなあ。「わかる?」と念を押すような書き方はしないだろうなあ、と思う。
 急ぐのが最果のことばの特徴かもしれないし、それが魅力なのだとも思うけれど、急がなくなったことばの運動も読んでみたいなあと思う。私はときどき、その速いスピードに追いつけず、急かせることばを省略して読んでいる自分に気がつくことがある。
 それでは読んだことにならないのだと思うので、こういう感想を書いてみた。「証明だった」まできちんと読んで、それを受け止めている若いひとの感想を聴いてみたい。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

許暁●『共に春風を』(訳・竹内新)

2024-05-11 23:50:11 | 詩集

許暁●『共に春風を』(訳・竹内新)(澪標、2024年04月30日発行)

 許暁●(●は「雨」冠の下に「文」を組み合わせた漢字)の『共に春風を』を読む。
 詩は、簡単にいえば存在とことばが対になること。
 と、中国の詩を読むといつも感じる。
 対(二)を超えると、つまり三以上はすべて無限。中国人の書いたものを読んでいると、いつもそう感じてしまう。
 「謎」には、それに通じる一行がある。

一が二を生み 二が三を生み 三が万物を生んでいる

 三のあとは突然、万になる。四も五も、十も百も千も関係がない。そして、ここでの「万物」とはもちろん「万」ではない。「無数(無限)」である。「万物」のなかの「一つ」が「対」を求める。その結果「二」が生まれる。それは、次々に起こる。その運動を止めることはできない。「万物」が「万物」として存在するのは、「一つ」が「対」を求め「二」を生み出した結果、しかも、それは「必然」なのだ。
 一即二(一対)、三即万(無限)。

 「対(一対)」は、たとえば、「境地」では、こんな風につかわれる。

葉と花がチラホラ 薄紅と深緑が対を成し

 「葉」と「花」は「対」になったあと、「薄紅」と「深緑」が「対」にとなってあらわれてくるわけだが、ここには「薄」と「深」の「対」と同時に「紅」と「緑」の「対」もある。かけ離れたものが「対」になり、それが増えていく。
 さらに「境地」には、こういう行もある。

陽のまぶしいキラメキに沈着に対抗し

 「対」とは「対抗する」ことでもある。単なる組み合わせではない。「対抗」を含んでいなくてはならない。(これは、いわゆる「陰陽思想」の反映かもしれない。)「紅」と「緑」は、補色という「対抗関係」にある。「まぶしいキラメキ」には「沈着」が「対抗している」。「まぶしいキラメキ」が輝きなら、「沈着」は輝きを拒否した落ち着き(暗さ)である。
 こうした関係を「牧歌」では、こんなふうに書いている。

田野には牧歌が響き それらの全ては
やっぱり詩歌のなかに 対応する言葉が見つかる
人の孤独は 夕暮れとともにゆっくり広がってゆく

 「対抗」は「対応」でもあるのだ。「対」そのものが「対応」なのである。だから、先に引用した行は、こう書き直しても「誤読」とは言えないかもしれない。(私は、先に引用した行を、こう「誤読」するのである。)

葉と花がチラホラ 薄紅に深緑が「対応し」

陽のまぶしいキラメキに沈着に「対応し」

 「意味」は変わらないだろう。「ニュアンス」が違うというひともいるかもしれないが、私には「ニュアンス」もかわらないように思える。
 許自身が「対」「対抗」「対応」とことばを書き分けているのかもしれないが(竹内はそれに忠実に従って翻訳しているのだと思うが)、その書き分けにどれだけの「意味」があるか、私は、わからない。「論語」を読んでいると(読んだのに、具体的な漢字を思い出せないので、テキトウに書くのだが)、一つの「意味」のことばが、いくつもの漢字で書かれている。それは厳密な書き分けなのか、たまたま思いついた漢字がそれだったためにそう書いたのか、私には、わからない。絶対にその漢字でなければならないというわけでもないだろう。大体「孔子のたまわく」「弟子いわく」の「曰」と「曰」は同じ漢字。日本の「読みくだし文」では「曰わく」「曰く」と書き分けることが多いようだけれど、原典では「曰」であり、区別しようがない(と、私には思える)。だから逆に、「対」「対抗」「対応」と書き分けたところで、ほんとうは「大差ない」と思ってしまうのだ。実際、日本語で書き換えてみると「大差がない」。

 で、ここまでが、ちょっとした「準備」。私が書きたいのは、このあと。

 漢字は、「意味」をもっている。そして、その「読み方」(音)は、地域によってずいぶん違う。中国人は、中国人動詞であっても「会話」がむずかしいときがある。しかし、彼らは「文章」でなら、違う発音をしていても「意思の疎通(意味の確認)」がまちがいなくできる。「意味」と「漢字」が「対応」している。「対」になっている。「意味」は、また「もの(存在)」でもある。
 「存在=意味=漢字」。
  このことを考えるとき、おもしろいのは「時制」である。日本語では「動いた」「動く」「動くだろう」という「活用」があり、それを「ひらがな」であらわすが、中国語では「動」しかない。「事実」が大事であって「時制」は、二の次の問題なのだろう。「時制」をあらわすには、別のことばが必要なのだ。「過去」とか「現在」とか「未来」とか。(中国語で何と言うか知らないが。)
 ともかく(と、私は言い切ってしまう)。
 中国語では「存在(意味)」と「漢字」は「対」になっている。この「漢字」を許は「漢字」と言わずに「言葉」と言っているのだ。

やっぱり詩歌のなかに 対応する言葉が見つかる

 これは詩歌のなかに書かれた存在には、それぞれの漢字が対応しているという意味である。「存在」と「ことば(漢字)」が「対」になっている。(最初に私が書いたのは、このことである。)
 そして、この「対」というのは、簡単に言うと「結びつき」(切り離せないもの)ということになるが。つまり「存在即漢字」「漢字即意味」「意味即存在」というような世界になるのだが。
 とてもおもしろいのは、この「即」が「ゼロ(密着)」ではないということ。「対」が「対の外」に「無限」をつくりだすように、「対」は「対の内」も無限をつくりだす。(「人の孤独は 夕暮れとともにゆっくり広がってゆく」の「広がってゆく」が象徴的だ。)そして、その「対の外の無限」と「対の内の無限」がまた一つの「対」というか、「対抗」といおうか、「対応」といおうか、引き合い、反発しあい、「宇宙」をつくっていくのである。
 中国の古典の詩を読んでいると、そこに書かれているのが「風景」なのか「精神」なのか、判然としなくなるときがあるが、これは「対の外の無限」と「対の内の無限」の区別がつかなくなることだ。
 「「藍色」について」は、そういうことばの運動が強く感じられる作品だ。

もしかしたら それは尽きることのない白い氷河なのかも知れない
藍色を拭い取るのは氷河上のピアノ 鳥が弾き鳴らすだけだ
音楽は無限なのであり それは神の鍵盤だ
そうして一人一人は誰もが孤独で神秘的な星なのだ
内心にはすべて孤独な海が住んでいて

 「尽きることのない=無限」と「一人(孤独)」が拮抗し、その「内面」には「海」がある。「住んでいる」と、許は、海を人間のように把握している。ふつうはに考えれば「一人」の人間よりも「海」は大きい。つまり、この詩では「小」のなかに「大」があり、それがあるがゆえに「小」である「一人」はその外の「無限」に対抗し、対応し、対になることができるのである。
 「一人(ひとつ)」が生み出す、内と外の「無限」。

もしかしたら それは藍色の調べの狂詩曲なのかも知れない
音符のなかに理想の王国を数珠のようにつなぎ
ブルースの憂鬱とジャズの狂気によって
世界の意識回復を急かしている
通り抜ける 延々と続く 到着する みんな静かだ
宇宙に暗く深く隠された藍色から来ている
粋 ユーモア 軽快 冗談

 「対の外」に「無限」が存在するように、「対の内」にも「無限」が存在する。そして、その「無限」には、すべて「ことば(漢字)」が対応している。この「無限の氾濫」は「無限の反乱」のように魅惑的だ。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最果タヒ『落雷はすべてキス』

2024-02-07 22:05:57 | 詩集

 

最果タヒ『落雷はすべてキス』(新潮社、2024年01月30日発行)

 最果タヒは「谷川俊太郎」である。こう書くと、最果タヒにも谷川俊太郎にも不満があるかもしれないが、とても似ていると思う。たとえば、「指輪の詩」。

遠くのほうで
死んでしまった恋人たちの指輪が、
土星の輪よりも、ずっと遠くで、
無人で回転していた、
愛してるって言って、伝わらない間、
その言葉は唯一、永遠のことばになる。

 最後の二行の中にある矛盾。愛してるということばが伝わって永遠になるのではなく、「伝わらない間」「永遠」になる。この矛盾のあり方が、私には谷川のことばの運動と同じものに思える。そして、その矛盾を「死んでしまった恋人たち」という一種の違和感のあることばで誘い出す構造も、同じことばの構想力だと思う。
 しかしもちろん最果は谷川ではない。どこが違うのか。谷川なら「遠く」ということばを一行目と三行目で重複させないだろうとは思うが……、そういったこと以上に、「全体のリズム」がまったく違う。ひとつひとつ(ひとつづきの)ことばの切れ味、リズム、構想力は共通しているのに、全体が違う。そして、この「まったく違うリズム」がどう違うかは、実は説明がむずかしい。強引に言ってしまえば、谷川の「全体のリズム」は私には予測がつく。しかし最果については予測がつかない、とうことになるかもしれない。これは別の言い方をすれば、谷川の「全体のリズム」は私が生きてきた時代のリズム、あるいは私が生まれる前から存在するリズムだが、最果のリズムは私が生まれたあとのリズムである。「歴史的」に新しいのである。
 「残暑の詩」の書き出しの三行。

泣いている人は美しいな、
救えば恋が始まりそうだから。なんて言う人の、
恋が永遠に始まらなければいい。

 「声」で聞いたら、谷川が書いたと私は錯覚するかもしれない。しかし、「目」で読んだら谷川ではないと思う。読点「、」のつかい方、改行の仕方が「形式的」ではない。谷川には、あるいは谷川のことばの肉体には「歴史的形式」があるが、最果には、それがない。リズム、その緩急の変化が、「私の知らない形式」である。
 若い世代は、最果のリズムを自然に感じるだろうし、そこに「新しい肉体」を感じ、共感すると思う。私は「新しい肉体」を感じはするが、「共感する」とは言えない。つまり、最果の詩を読むと、「ああ、私は年をとったなあ」と実感するのである。
 わかるといえるかどうか、ちょっといい加減な言い方になるが、まあ、「わかる」。しかし、いっしょにそのことばを「生きる」という具合には言えない。そばにいて、見ていて(読んでいて、聞いていて)楽しい。
 「真珠の詩」の二連目。

私は、きみがいなくなっても、
きみの名前を呼ぶだろう。

 ああ、美しいなあ。海を見つめて、こんなことばを言えば、永遠がすぐそばにやってくるだろと思っていると、ことばはこうつづく。

私の海の波音はもうずっと、きみを呼んでいる。
それだけは、永遠なんだ。

 で、この瞬間、ああ、谷川はこうは書かないなあと思う。「私の」と「それだけは」は「古い形式」にはない「強調」である。
 私がこれまでに引用した詩に共通することだが、読点の多用がつくりだすリズム、その呼吸のあり方も。

 四十四篇もある詩集なので、少しずつ読んでいくことにする。感想のつづきを書くかどうかはわからないけれど。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋順子『泣魚句集』

2024-01-07 21:49:16 | 詩集

高橋順子『泣魚句集』(思潮社、2023年12月31日発行)

 詩人・高橋順子の『泣魚句集』。「現代詩詩人」の多くがつくるような「現代詩くささ」がないのがいい。もっとも初期の

しらうをは海のいろして生まれけり

夕焼けの桃売りにつきまとはれし

 は、少し「現代詩」の作為を感じさせるが。

腸(はらわた)のごとき鉄管夾竹桃

 も「現代詩」っぽいかもしれないが、どこか初々しさを感じてしまう。やたらと凝っていないところがある。特に、この「腸」は、あ、本当にむき出しになった鉄管を見たんだろうなあという印象を呼び起こす。「正直」があらわれている。
 高橋の現代詩の特徴は、「正直」と「初々しさ」にあるが、それがときどきとても自然な感じで顔を出す。そういう句が、私は好きである。
 次の句は、遍路の途中で詠んだ句か。

一列に烏の歩く春田かな

 きっと高橋も「一列」に歩いているのだろう。だから自然と「一列に」ということばがシンクロして高橋のところへやってきた。なんでもない句のようでもあるけれど、このなんでもないところ、ありまま、というのが句の醍醐味なんだろうなあ。

山笑ふ中に鈴の音まじりけり

 「中に」がぎごちなくて、それがとてもいい。「鈴の音」だけではなく、一緒に遍路しているひとの「笑い」(高橋も含む)が混じっている。「山笑ふ」は春の季語だが、その「笑ふ」を人間の「笑い声」と結びつけている「中に」ということばの力。
 俳句というか、その前身の「連歌」は「場」の文芸だが、「場」の「中に」動くものが俳句の精神だとすれば、知らず知らずのうちに高橋はその「場」の感じを「中に」ということばに呼び込んでいるのかもしれない。
 高橋は自分に閉じこもるのではなく、その「場」を構成する誰かとの「中に」入っていく。その瞬間に句が生まれるという境地に達していると言えるかもしれない。「しらうをは」は、まだ「自己主張」が強いが(だから「現代詩」っぽいと感じるのだが)、「一列に」「山笑ふ」には、「自己」を離れた豊かさがある。

長吉の笠が見えてる麦畑

 「笠が」の「が」が、なんとも無邪気な感じでいい。高橋は、高橋自身を忘れている。「自己」を離れて、広い麦畑、遍路の「場」にいて、その「広さ」のなかで、あ、あそこに長吉がいる感じている。その素直なこころの声が「笠が」の「が」を広々としてものにしている。
 こういう句は、高橋にしか作れないだろう。一句選ぶとしたら、この句を私は選びたい。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川三郎『忘れられるためのメソッド』

2024-01-06 22:00:45 | 詩集

 

小川三郎『忘れられるためのメソッド』(七月堂、2023年11月16日発行)

 「もの思う葦」に

仮に人間だったとしたら
座っているのと走っているのとでは
どちらがいいだろうか。

という行がある。馬と人間とどちらがいいか、という設問を受けての展開なのだが、私はこの「仮に」につまずいた。このあと「仮に走っているのだったとしたら」「仮に裸だったとしたら」とさらに展開するのだが、この繰り返しもおもしろい。なぜ、小川は繰り返したのか。
 何か、強引なものがある。「むりやり」がある。
 だいたい小川は人間なのだから「仮に人間だったとしたら」ということば自体にむりがある。「仮に馬だったとしたら」ならば、まあ、自然だ。
 この不自然さの中に、どうしても書かなければならない何かがある。「馬」がある生き方の「象徴/比喩」だと言う前に、「仮に」が「比喩」なのである。「比喩」とはある存在を別のことばで言いなおしたときの、その「ことば」ではなく、「ことば」にした瞬間に、「ことば」の背後に隠れた存在を、隠したはずなのにより強烈に押し出すための運動なのである。
 より強烈に、その存在が「世界のすべて」であるかのように存在させるために、いったん別な「ことば」で隠すというのが比喩の運動である。
 だから、考えよう。「仮に」は何を強烈に噴出させるために準備された「比喩」なのであるかを。

 「仮に」に似たことばというか、同じような運動をすることばに「別に」がある。「重要性」という詩の中に出てくる。

そこの花瓶に生けてある花が
本物かどうかなんて
別にどうでもいいことだ

 この「別に」もなくても意味は同じ。そして、この「別に」も「仮に」と同じようにこの詩の中で繰り返される。そして、何かしら強引に意識を動かすように働く。
 この「重要性」には、「仮に」「別に」の対局(?)にあるものを「本物」と読んでいるように私には感じられる。「本物」がある、しかし、一方「本物」でもないものもある。詩は、多分、その「本物ではない」と思われているものこそ「本物である」ということばの運動かもしれない。
 「本物」を別なことばで、どう言うか。小川は、とても丁寧な詩人なのだろう。自分自身の思考に対して丁寧にことばを動かす人間なのだろうと思いながら、私は詩を読み、その丁寧を裏付ける行に出会った。
 「樹上」という作品。

ならばもう私たちには
ほんとうのことなど
必要なかったはずなのに。

 「本物」と「ほんとう」はどう違うか。「本物」は「私(小川)」とは無関係に存在する。「本物の花」は誰にとっても「本物」である。しかし、「造花」が「私(小川)」にとって「ほんとうの花」であるということもある。
 誰かから「造花」をもらう。それは「造花」だが、「私にとってはほんとうの花だ」と言うとき、そこには「こころ」が含まれる。「こころ」が含まれるとき、それは「ほんとう」なのであり、その「ほんとう」は他人から見れば間違っているかもしれないが、そういう他人の客観的(?)判断など、どうでもいいのだ。
 先に引用した「仮に」も「別に」も、「こころ」が発したことばである。「仮に」理性の運動として、こう考えることができたとしても、あるいは理性はそれを「別に」してそう考えるかもしれないが……。「こころ」はそういう「理性」の運動を拒絶して、「こころの求めるほんとう」をとらえるものである。ここに「正直」がある。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★(受講生募集中)

2024-01-05 21:04:54 | 詩集

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白井知子『ヴォルガ残照』

2024-01-05 21:02:17 | 詩集

 

白井知子『ヴォルガ残照』(思潮社、2023年10月20日発行)

 「白樺の木立 ゴリツィ」のなかで船のガイドのイリーナが白井の質問に答えてこんなことを語る。

ロシアは広い とても
他の土地のことは知らない

 それは白井の質問とは直接は関係がない。関係がないが、質問に答えているうちに、ふと出てきたことばである。しかし、この二行が、私にはいちばん印象に残った。
 「他の土地のことは知らない」は、必ずしも「この土地(自分の土地)のことは知っている」とは限らないだろう。自分の土地のことでも知らないことはあるだろう。しかし、いくらかは知っている。だから「他の土地のことは知らない」は、他の土地のことは「まったく」知らない、ということになるかもしれない。しかし、そういうことは別にして……。
 「知らない」と言い切るところに何か不思議な「強さ」を感じた。それが白井の質問とは関係がないから、言わなくていいことである。だからこそ、その「強さ」が気になった。そして、「知らない」と言えることは、とてもいいことだとも思った。
 この「知らない」を起点にして白井の詩を読むと、不思議なことに気がつく。白井は旅行している。基本的に「知らない土地」だ。そして、そこで「知った」ことを書く。ことばにする。しかし、それはほんとうに「知っている」ことなのか。白井がことばにしている以上のことが「そこ」にはある。「世界」にはある。
 だから。
 「知らないこと」はたくさんある。しかし「知ったこと」もある。「知ったこと」を書くとき、その周辺には「知らないこと」(意識できないこと)がたくさんある。それを承知で、しかし、「知ったこと(知っていること)」を書く。そのとき、「書く」という行為には厳しい決意がある。緊張がある。その緊張が、白井のことばを支えている。
 そして書いていると、いま引用したイリーナのことばのように、白井の知らなかったこと、予想していなかったことが、突然、向き合った人やものの向こう側から姿をあらわすことがある。無意識のうちに知ってしまったもの、と言い換えてもいいかもしれない。それが「世界」を広げていく。

ロシアは広い とても

 この一行も、非常に興味深い。「ロシアはとても広い」ではない。「ロシアは広い とても」は、「ロシアは広い」と言った後で、そう言っただけでは足りないと感じ「とても」を付け加えている。そして、「とても」だけでもまだ足りないと感じるから「他の土地のことは知らない」とさらに付け加えるのだが、このリズムが、とても自然だ。ああ、いいなあ、と感じる。
 何かを言って、それだけでは足りずに、さらに何かを付け足す。そのときの意識の運動。その運動そのもののようにして、白井のことばは動いていることに気づかされる。
 たとえば、この「白樺の木立」は、

秋の並木道
キリロベルゼルスキー修道院
濡れた白樺の樹皮を指でなぞっていく
しんとした生いたち

 と始まるのだが、それだけでは足りない。何かを「付け足さない」といけない。付け足せば付け足すほど、「とても」足りないという気持ちが強くなる。「知ったこと/知っていること」の背後に「知らないこと」がたくさんあらわれてくるのがわかるからだ。自覚するからだ。
 だからこそ、白井は質問をするのだ。そこにいる人とことばをかわすのだ。
 「知らない」人同士が「知っていること」を語り合い、何かを通じ合わせる。しかし、その背後には「とても」たくさんの「知らないこと」がある。それを勝手に「知っていること」で判断し、「知っていること」にしてはいけない。だから「知らない」と言う。ここには、不思議な「正直」がある。
 もし、この「正直」を誰もが生きることができたとしたら、たとえばロシア・ウクライナの戦争は起きなかっただろう。「知らない」のに「知っている」と思い、その「知っている」を基準にして、「知っている」を押しつけるとき、そこから戦争のような暴力が始まる。

 世界は広い、とても。知らないことがたくさんある。その「知らない」を「知ったこと」で判断しない。ただ「知ったこと」を「知ったこと」の範囲で書く。「生いたち」ということばがあるから、こんなことを思うのかもしれないが、何かしら、ここには白井が生まれ変わる「瞬間」のようなものが書かれている。他人に触れて、その他人を通して、「知らない」を「知る」に変えていく。そして、同時に、その向こう側に「とても」多くの知らないがあると自覚する。その自覚のなかへ生まれ変わっていくときの、ことばの厳しい緊張がある。「知らない」ということばに共鳴する白井だからできる運動である。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』

2023-12-09 21:33:42 | 詩集

坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』(阿吽塾、2023年11月04日発行)

 坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』は、現代詩書下ろし一詩篇による詩集、懐紙シリーズ第十一集、という。未発表の(書き下ろしの)長い詩一篇で構成されている。
 で、坂多は何を書いているか。

人と共有できないことばをただ
わりたくなる ガラスのように
ただ
投げつけたくなる
傷つくように
おびえて 大真面目にね
大馬鹿にね

 4ページ目に登場する一連。最後の二行は嫌いだなあ。でも、この二行を書かないと、尾崎豊になってしまうのだろうか。尾崎豊、知っているわけじゃないんだけれどね。どこかで、いくつか聞いただけだけれどね。
 私が気に入っているのは三行目「ただ」。
 「ただ」は一行目にも出てきている。一行目の「ただ」はことばの勢いのなかに埋没している。無意識に出てきた「ただ」である。それを三行目では独立させている。「意識」しようとしている。意識するといっても、なんというのだろう、坂多自身が、これは一体何なんだろうと思いながら「ただ」のなかへ入っていく感じがする。
 この「推進力」としての「ただ」は、何回も何回も、この長い詩に登場する。
 たとえば、15ページ。

ここは帰り道
草ぼうぼうで
いつもの帰り道なのに
何かをすてる場所にたどり着きそうでわたし
さっかきから思いだそうとして
あの裏庭の
台所の
ちょっと傾いた棚の
いちばん上にあったもの
それが
ものすごく大事なものだったように思えてきて

 えっ、どこにも「ただ」がない? よく読んで。ほら、最後の二行目の「行間」に隠れている。

それが
「ただ」
ものすごく大事なものだったように思えてきて

 これは、

それが「ただ」
ものすごく大事なものだったように思えてきて

でもあり、(つまり、ほんとうに、それがのあとにくっついている)、そして、それは最初に引用した「人と共有できないことばをただ」と同じように、ほとんど無意識。無意識だから、実際は「書かれていない」。しかし、無為詩のなかに「書かれている」。そういう「ただ」が、この詩のどこにでも隠れている。どこにでも補って読むことができるし、補ったときに坂多により接近できる。あるいは坂多自身になれる。
 まあ、坂多自身になりたくないひとは「ただ」を補わずに、そのまま読んでください。 23ページ。

すると
犬は
ゆっくりと
あくびをして
たち上がる
それから
グンとかギュンとかいって

薄闇の中にもどっていく

 さて、どこに「ただ」を補う?
 私は「グンとかギュンとかいって」と「薄闇の中にもどっていく」のあいだの「空白」に「ただ」を補い、ちょっと泣いてしまった。
 坂多は、その犬を抱きしめ、家に連れて帰ることだってできたはずである。しかし、それができない。「ただ」薄闇の中にもどっていくのにまかせている。
 このときの「ただ」は、とても大事なもの。誰も知らない、坂多の「たからもの」のような「ただ」である。知られたくない。絶対に隠しておきたい。でも、何かが動いた。その証拠として、坂多は「一行の空白」を詩に残している。
 ほかにもいろいろ「ただ」を見つけることができる。見つけてみてください。見つけるために、この詩集を買ってください。

 

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする