高岡淳四「その日の俺はかなり飲んでいた」ほか(「現代詩手帖」2012年02月号)
高岡淳四の詩は、私にはいつもおもしろい。ことばの速度に矛盾がない。そのため非常に軽快である。そして、この軽快には、明晰という「哲学」がひそんでいるのだが、さらにその明晰を客観という「哲学」が裏打ちしている。この客観を、笑いという「哲学」が貫いている。客観的で、明晰で、軽快なものは、常に笑いにまで昇華する、ということかもしれない。
「その日の俺はかなり飲んでいた」は、まあ、タイトル通りの、「その日」の行動を書いている。
書き出しの「駅のトイレに寄るべきだった」は散文的な、味気ない1行に見えるかもしれないが、これがまずおもしろい。この1行は高岡が「思ったこと」が書かれているのだが、「思ったこと」が「思い」のなかにとどまらず「事実」になっている。--この「思い」と「事実」の距離感が、そのままこの詩を貫き、その距離感の一定の感じがことばの速度の一定につながる。そして矛盾のなさにつながる。
「買い物を先に済ませて、雑誌を読みながらドアを窺うが」という行の正直さに、とてもうれしくなる。この正直さが、そのまま「一向に出てくる気配がない」という「思い」を「事実」にかえてしまう。
だれもが経験したことがあるようなことなのだが、--そうか、あのとき、ことばはこんなふうに動いていたのかと、あらためて思う。「事実」は、書き手と読み手の垣根を消してしまう。まるで高岡の「体験」を読んでいるというよりも、私自身の「肉体」のなかにあったことばを見つめなおしているような感じになる。
で、そうなると。
そこに書かれていることは高岡がやったことであって、私のやったことではないのだが、私がやったかもしれないことになってしまう。
「今度は人差し指の第二関節で強くノックした」の「人差し指の第二関節」というこまかな肉体の特定が、ほら、思わず自分の手で「人差し指の第二関節」を確かめてしまうでしょ?
この客観と主観、他者と私のを混同させることばの強靱さがいいなあ。
それで……。
高岡のやっていること、これはかなり「いやあなこと」だねえ。こんなこと、されたくないなあ。されたくないことを、でも、してみたいかも。「いやあなこと」には何か、そういう本能的な矛盾がある。
そういうことを、最後の1行、
で、ぱっと突き放してしまう。「凝視」というのは特別「客観」を意味しないけれど、その視線の力が、高岡を「対象化」する。そして、それは同時に高岡自身が高岡を「対象化」する、ということでもある。「対象化」というのは「客観化」へと自然に移っていく。その、ことばの速度、意味の変化の速度が、私には気持ちがいい。
通行人たちが凝視しているのは「車内の俺」なのだが、その「車内の俺」が、高岡にとっては「俺の内部」(俺の気持ち)へと自然に移行していく。その変化が、私には、とても気持ちよく感じられる。
「所詮、詩と関係ないことで詩人の悪口を言った俺が悪いのである」も、まあ、タイトル通りのことを書いている。
この書き出しの3行はヶ策だねえ。「答えられないことに気がついた」の正直さに笑いだしてしまう。正直が客観化されて、事実となるときの、このスピードは高岡以外にはないことばの運動だと思う。(←ここが、高岡の「天才」。)
で、途中を省略してしまうけれど、
ここで笑っていいのかどうかわからないが、最後の1行も大好きだなあ。そうだねえ、「間抜け」というのはこういうときにつかうんだねえ。こういう具合につかうんだねえ。
高岡淳四の詩は、私にはいつもおもしろい。ことばの速度に矛盾がない。そのため非常に軽快である。そして、この軽快には、明晰という「哲学」がひそんでいるのだが、さらにその明晰を客観という「哲学」が裏打ちしている。この客観を、笑いという「哲学」が貫いている。客観的で、明晰で、軽快なものは、常に笑いにまで昇華する、ということかもしれない。
「その日の俺はかなり飲んでいた」は、まあ、タイトル通りの、「その日」の行動を書いている。
駅のトイレに寄るべきだった
深夜のコンビニのトイレは誰かが使用中である
買い物を先に済ませて、雑誌を読みながらドアを窺うが
一向に出てくる気配がない
俺はノックしてみた
誰かはノックを返してきた
ふとドアの向こうの知りもしない奴のことをからかいたい気持ちになって
今度は人差し指の第二関節で強くノックした
奴は拳でノックを返してきた
俺はトイレのドアを蹴り上げた
人間のものとは思えないわめき声がした
コンビニの入り口に下がってドアが開くのを待つ
青ざめた男が飛び出してきた
きっとこいつはゲロ臭い
俺は笑いながらコンビニを出た
赤信号を無視してクラクションを喰らわされながら横断歩道を渡り
タクシー乗り場のタクシーに乗り込んで去った
通行人たちが車内の俺を凝視している
書き出しの「駅のトイレに寄るべきだった」は散文的な、味気ない1行に見えるかもしれないが、これがまずおもしろい。この1行は高岡が「思ったこと」が書かれているのだが、「思ったこと」が「思い」のなかにとどまらず「事実」になっている。--この「思い」と「事実」の距離感が、そのままこの詩を貫き、その距離感の一定の感じがことばの速度の一定につながる。そして矛盾のなさにつながる。
「買い物を先に済ませて、雑誌を読みながらドアを窺うが」という行の正直さに、とてもうれしくなる。この正直さが、そのまま「一向に出てくる気配がない」という「思い」を「事実」にかえてしまう。
だれもが経験したことがあるようなことなのだが、--そうか、あのとき、ことばはこんなふうに動いていたのかと、あらためて思う。「事実」は、書き手と読み手の垣根を消してしまう。まるで高岡の「体験」を読んでいるというよりも、私自身の「肉体」のなかにあったことばを見つめなおしているような感じになる。
で、そうなると。
そこに書かれていることは高岡がやったことであって、私のやったことではないのだが、私がやったかもしれないことになってしまう。
「今度は人差し指の第二関節で強くノックした」の「人差し指の第二関節」というこまかな肉体の特定が、ほら、思わず自分の手で「人差し指の第二関節」を確かめてしまうでしょ?
この客観と主観、他者と私のを混同させることばの強靱さがいいなあ。
それで……。
高岡のやっていること、これはかなり「いやあなこと」だねえ。こんなこと、されたくないなあ。されたくないことを、でも、してみたいかも。「いやあなこと」には何か、そういう本能的な矛盾がある。
そういうことを、最後の1行、
通行人たちが車内の俺を凝視している
で、ぱっと突き放してしまう。「凝視」というのは特別「客観」を意味しないけれど、その視線の力が、高岡を「対象化」する。そして、それは同時に高岡自身が高岡を「対象化」する、ということでもある。「対象化」というのは「客観化」へと自然に移っていく。その、ことばの速度、意味の変化の速度が、私には気持ちがいい。
通行人たちが凝視しているのは「車内の俺」なのだが、その「車内の俺」が、高岡にとっては「俺の内部」(俺の気持ち)へと自然に移行していく。その変化が、私には、とても気持ちよく感じられる。
「所詮、詩と関係ないことで詩人の悪口を言った俺が悪いのである」も、まあ、タイトル通りのことを書いている。
詩人がいっぱいいる宴会で、ある詩人のことをボケ老人と言ってみた。
どうして? と聞かれてから
答えられないことに気がついた。
この書き出しの3行はヶ策だねえ。「答えられないことに気がついた」の正直さに笑いだしてしまう。正直が客観化されて、事実となるときの、このスピードは高岡以外にはないことばの運動だと思う。(←ここが、高岡の「天才」。)
で、途中を省略してしまうけれど、
所詮、詩と関係ないことで詩人の悪口を言った俺が悪いのである。
本当に今更、どの面を下げて、
こんなところに顔を出しているんだろうねえ。
わざわざビール瓶とコップを持ってこちらのテーブルに来る間抜けもいた。
ここで笑っていいのかどうかわからないが、最後の1行も大好きだなあ。そうだねえ、「間抜け」というのはこういうときにつかうんだねえ。こういう具合につかうんだねえ。
おやじは山を下れるか? | |
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