谷川俊太郎『普通の人々』(スイッチ・パブリッシング、2019年04月22日発行)
谷川俊太郎『普通の人々』には固有名詞がたくさん出てくる。詩集のタイトルにもなっている「普通の人々」。
寿子は
闊達なリズムで街を歩く
気ままに立ち止まる
並んでいる商品をしげしげと見る
買わない自分に満足する
昨年出た『バームクーヘン』には固有名詞はなかった。「ぼく」や「わたし」、「チチ」や「ハハ」は登場した。しかし、「主役」が谷川かというと、そうでもない。谷川の中に生きているさまざまな年齢、性別の谷川が反映されている。「さまざまな性別」というと「生物学」的にはありえないことだけれど、「心理的」にはありうる。「こころ」には「性別」などなく、あるのはただ「個別」。「こころの性別」は社会的につくられた「習慣」のようなもので、そんな「おおざっぱ」な区別は無視して、もっとひとりひとりを見た方が楽しいだろう。そういう意味での「楽しい性別」がさまざまなことばで書かれていた。
今回の詩集は、その「楽しい性別(個性のひとつ)」に、それぞれの「名前」を与えることで、「バームクーヘン(年輪)」ではなく、木のさまざまな幹や枝、葉の形、色、花の匂いや木の実の味を明確にしている。
「明確にしている」と書いたのだけれど。
でも、読むと、その「個別」が「個別ではない」とも感じる。
たとえば、最初に引用した「寿子」は、ほんとうに「寿子」なのか。『バームクーヘン』に出てきた「わたし」ではないのか。たとえば、チチに恋人がいると気づいた「わたし」、ハハには内緒にしておこうと思っている「わたし」ではないと言えるだろうか。
さらに、谷川であってもいいし、ある日の私(谷内)の姿を描写されたのかもしれない。「名前」を「寿子」にしているだけであって、それは誰であるかは、ほんとうはわからない。「寿子」と書かれているけれど、「私」を重ねて読んでしまう。あるいは、知っている誰かを重ねて読んでしまう。
「歩く」「立ち止まる」「見る」「買わない」「満足する」。その「動詞」に思い当たることがあるからだ。どの「動詞」も経験したことがある。だから、それを「寿子の動詞」と思わず、「自分の動詞」と思う。動詞の中で肉体が重なり、肉体が重なった瞬間、私は「寿子」になってしまう。
小説だと、主人公が多くの動詞を生きるので、その動詞のなかには自分では体験できないこともあり、完全に主人公の肉体と重ねることができないこともある。もちろん詩の場合も、そういうことはあるのだけれど、この谷川の詩集の登場人物は「普通の人々」のせいか、たいていのことは自分の肉体で「追体験」できる。「追体験」するというよりも、自分がしてきた「体験」を思い出すことができる、と言った方がいいかもしれない。
さて。
それでは、そのあと、いったい何が起きるのか。
篤は
ワインリストを手にして
卓の下で足を組む
自分を平凡だと思う
羊歯の化石を貰う
二連目で「寿子」は消える。「篤」か。これは「寿子」とどういう関係? 夫婦? 恋人? 他人? つまり無関係な登場人物? ふたりはこれから出会う?
先回りして言うと、そういうことはわからない。詩の中ではそういうことは起きないが、詩がおわったところ(書かれていないところ)では、何が起きているかわからない。
わからないのだけれど、わからないままに、こういう「人間」はいるなあ、と思う。ある日の「私」かもしれない、とも思う。「羊歯の化石を貰う」というのは、特別なことだと思う。少なくとも私は貰ったことがない。見たこともない。この瞬間、私とは重ならないからこそ、「篤」という「固有名詞」をもった人間が存在するのだと気づき、それがまた逆に「私」という人間が存在するということも気づかせてくれる。
ここから一連目に戻ると、「私」ではない誰かがウインドゥーを見つめ、買わずに立ち去っていく姿を見たことがある、というようなことも思い出す。しかし、そのとき「満足」したかどうかはわからないのだけれど。たぶん、そんな具合にして「納得」というか、自分に何かを言いきかせて買わないことがあったことを思い出したりしている。思い出した瞬間、私は「見る人」ではなく「見られる人」であったと錯覚することもできる。他人と私が交錯する。
「羊歯の化石を貰う」という体験を私はしたことがない。うらやましいなあ、という気持ちがあって、それが私と「篤」を交錯させる。「うらやましい」という気持ちの中では「篤」と私は入れかわっているかもしれない。
有希彦は
仔犬を拾う
文学全集を捨てる
老樹に見惚れる
雑音に耳をすます
アンリは
あれこれ比較している
踏切で空を見上げる
なまぬるい炭酸水を飲む
蟻を踏む
登場人物がかわるたびに、世界のあり方もなんとなく違ってくる。
「雑音に耳を澄ます」。うーん、したことがない。雑音に耳をすますと何が聞こえるのだろうか。沈黙か。隠れている音楽か。音を「雑音」にかえる力か。私の知らないものが、そこにある。知らないものだけれど、耳を澄ませば聞こえるかもしれない、聞きたいという欲望をさそう。
ことばが「肉体」に働きかけ、「肉体」を動かし始めている。
「踏切で空を見上げる」というのは、よほどのことがないかぎり、ただなんとなく、つまりほとんど無意識でしてしまうこと。ぼんやりしている。誰でもができる。でも、意識してしたことはない。それを意識してすることもできる。
こんど踏切を渡ることがあったら、空を見上げたい、と思う。踏切の手前、遮断機のところかもしれない。欲望というには大げさすぎるけれど、ことばが「欲望」になって「肉体」を動かそうとしている。
「なまぬるい炭酸水を飲む」は、いつのまにかぬるくなってしまっていたということかもしれないが、あえてそうなるまでほうっておいて、「ぼんやり」を楽しむ、無意味を楽しむこともできる。そういうこともしてみたい。
「蟻を踏む」は残酷だろうか。残酷なら残酷でいい。残酷になってみるのも、「肉体」の何かを解放してくれるだろう。
ことばは行動を描写するだけではなく、欲望を誘い出す。それは解放するということかもしれない。なんとなく、「肉体」がゆったりしてくるのを感じる。
もし、そういうことをしているのを人に咎められたら、「あ、これは私ではなく、アンリです(有希彦です、篤です、寿子です)」と逃げることができる。どこへ逃げているのかわからないけれど。
人間はだれでも「ひとり」だけれど、その「ひとり」はほんとうは「ひとり」ではなく、どこかでつながっている。その「つながり」は、ときには「つながる」ことを拒むという関係かもしれないし、絶対に「一体」にはなれないことを告げるつながりかもしれない。
あ、矛盾しているか、私の書いていることは。
そんなことを思っていると、突然「固有名詞」を含まない連があらわれる。
普通の人々はそうではない人々に
ひけめを感じさせないように
心を砕いている
それが偽善であることにも
薄々気づいている
私は、びっくりした。ここに書かれていることを、私は感じたことがない。そんなことに「心を砕いた」ということがない。もともと、私になんに対しても「心を砕く」というめんどうくさいことをしない人間なのかもしれないが、どういうことをすれば「心を砕く」ことになるのか。さっぱりわからない。
私は普通の人ではない?
多くの人は、ほんとうにこんなことを考える?
「名前」はつけられていないが、(後半に「無名氏」が登場する連もあるが)、私はここで、「他人」にぶつかったという気持ちになる。そして、動けなくなる。詩は最後まで読んだが、(最終蓮の「私」は谷川の自画像か、と思ったりしたが)、この5行が気になって、ことばが動かなくなる。
詩のことばは「肉体」の動きを誘う。忘れていたことを思い出させてくれる。これからできることも教えてくれる。
それとは逆に、突然、肉体の前に壁のように立ち現れて、その壁しか見えなくさせてしまうこともある。
わけのわからない何かが、さまざまな「固有名詞」のばらばらを、どこかでギュッとつなぎとめているのかもしれない。このわけのわからない「闇」のようなところを通ると、「人間」がひとりひとりの「名前」をもった存在にかわるのかもしれない。
私は、ふと井筒俊彦の「無分節」ということばを思い出す。私は「無」にまではとてもたどりつけないので、もっと身近に引き寄せて「未分節」ということばに置き換えて、あれこれ考えるのだが。「分節が無い」ではなく「未だ分節されていない」と考え、ことばを動かすのだが。
谷川が今回の詩集で書いたのは「分節」されていない「領域」を人間が通過し、通過するたびに複数の違う人間に「分節」されるが、それは「分節」されていない「領域」から見つめなおせば「ひとり」としてとらえなおすことができる。そして、この人間の「往復運動」をことばにしたものが詩である、ということになるのかもしれない。
「無」が見えたとは私には言えないが、ふっと、いままで触れることのできなかった遠いものが感じられたような気がした。絶対的に「わからない」ものが存在することの「透明さ」が、そこにある。
あ、何を書いているかわからないね。
もうすでに私のことばは嘘になっているかもしれないが、これ以上書くともっと嘘になってしまう。
別の日に、また考えよう。
*
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