他殺か自殺か。裁判(初審)は自殺と判断した。ストーリーの「展開」に満足するだけの観客なら、この映画の結末は「腑に落ちない」だろう。すっきりしないだろう。「ああ、よかった」と満足しないだろう。
しかし、映画に限らず、どんな作品であり、あらゆる評価は終わったところからはじまる。終わったところから受け手が何を考えるか。監督も役者も、もう動かない。観客を誘導しない。動くのは観客の考え(ことば)だけである。
さて。私の考えるのは、こういうことである。
男が自殺した。「事実」がそうであるとして、女(妻)は本当に自由になれるか。「無罪」判決が出たからといって、女は本当に自由になったのか、という問題が残る。
簡単に言い換えれば、女には、なぜ自殺を防ぐことができなかったのか、夫をなぜ救えなかったのかという問題が残る。これは、たとえ夫を憎んでいたとしても、必ず残る。いのちというのは、それくらいに重いものである。そして自殺の原因は自分にあるのではないか、という疑念に変わる。男は女との生活を苦にして自殺したのではないか、という不安が募ってくる。実際、女と男は不仲だった。それは「秘密」ではなく、もう誰もが知っていることである。女は「殺していない」、けれど男は「女との生活を苦にして自殺した」と誰もが考える。女が推定する原因よりも、他人の推定する原因の方が、はっきりしている。そして、それがはっきりしているからこそ「無罪」になった。こういう結末で、女が「すっきり」した気持ちになれるわけがない。どうしても、「自分のせいだ」と感じてしまう。これは、たぶん、実際に女が殺したことよりも、重くのしかかってくるに違いない。
女は、結局「救われない」のである。社会的(法律的)には「無実/無罪」。しかし、心理的には「有罪」と考えてしまうだろう。この「心理的有罪」から、どう立ち直るか。これは、とてもむずかしい。「過去」は常に「現在」のなかに侵入し、現在を作り上げ、さらに「未来」を決定する。「過去」は肉体から切り離せないのである。
女は少年のように「結論」を出せない。夫は、「決意」して自殺したのだとは「結論」できない。少年は音楽と犬を頼りに「結論」を出したが、女は何を頼りに「結論」を出せばいいのかわからない。少年は父が自殺した要因のひとつに自分の障害があるかもしれないが、しかし「自分のせい」ではない、と確信している。父の残したことばは、単に「少年を守っているものがいなくなるときがある」と言うだけで、少年を責めてはいない。逆に、将来を守ろうとして、少年に語りかけている。少年は「愛されている」と知ったのだ。確信したのだ。
私が感動した少年のピアノの音に対して、ある人が、「事件から一年たっている。一年間練習すれば、上手に演奏できるようになる」と言った。それは、たしかに一理ある。しかし、音楽は「技巧(技術)」ではない。同時に「こころ」でもある。あの少年のピアノの音に「こころ」を聞き取るか、技巧の上達を聞き取るか。これは、もちろん、観客に任されている。すべては、すでに「完結」している。これから先を考えるのは観客の仕事である。
これは「夫に自殺された女(妻)」の「こころ」をどう感じるかにもつながる。犬は「夫が自殺した女」に寄り添うのではない。「夫に自殺された女」に寄り添うのである。「夫に自殺され」、女のこころは不安定で弱くなっている。それがわかって、犬は女に近づく。女は「ああ、来てくれたんだね」と犬を迎え入れる。
蛇足だが。「犬の名演技」について。
アスピリンを飲んで、犬が瀕死になる。白目を剥いて、動けない。あのシーンを、私は「名演」とは思わない。たしかに「迫真」の映像である。どうやって撮ったかのかわからない。コンタクトレンズをつかったかもしれないし、ホンモノの犬ではなく精巧な人形かもしれない。だから、犬が実際に、アスピリンを吐くシーンには映像はなく、音だけである。あのシーンは、ストーリーには重要だが(男がアスピリンを飲んで吐いたことがあるという女の証言を裏付けるためになくてはならないものである。犬は男の吐瀉物を食べたのだろう、一時、ぼうっとしていたときがある。それを少年は思い出す)、そういう「ストーリーの説明」ではなく、「脇」に引いたときの動きがすばらしい。
「事件」後、家にいろんな人が出入りする。その捜査を、離れたところから伏せたままじっと見守っている目、ラストシーンの女の寝室へ入ってくる足音、ベッドにのぼり、女に寄り添い、犬に触れてくる女の手を受け入れるときの「静かさ」がとてもいい。犬は、こころを読む動物である。「守る」という行動は、とても「静かな」ものなのである。
「事件」を予兆させる激しい音楽、法廷で展開される激しい「口論」。その一方で、この映画はとても「静かな何か」を非常に丁寧に表現している。
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