詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2案併記のわな/ことばの操作

2017-12-31 14:54:36 | 自民党憲法改正草案を読む
2案併記のわな/ことばの操作
             自民党憲法改正草案を読む/番外160(情報の読み方)

 書くのが遅れてしまったが、書いておこう。
 2017年12月21日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

自民党改憲本部/自衛隊明記 2案併記/9条2項「維持」「削除」

 20日に開かれた自民党憲法改正推進本部のニュースだが、この「論点とりまとめ」は、ずるい。
 読売新聞の「論点とりまとめ」のポイントによると、「自衛隊」をめぐっては、

①9条1、2項を維持した上で自衛隊を憲法に明記する(安倍の提案)
②9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する(2012年の改正草案)

 の「併記」になっている、という。
 なぜ「ずるい」かというと、9条の改正に反対するひとは、①②の問題点をそれぞれ指摘しないといけない。反対意見の「論点」が分散される。「論点」を絞り込ませないための安倍の「作戦」だろう。
 「憲法」は「ことば」が問題なのに、その「ことば」が具体的に示されていないのもおかしい。
 6月の自民党憲法改正推進本部では「たたき台」が出ている。(西日本新聞が6月22日朝刊で書いている。それをもとに、私は「憲法9条改正、これでいいのか」という本を書いた。)「たたき台」があれば、その「ことば」が含む問題点を指摘できるが、「ことば」がなければ問題点を指摘できない。
 考えることも、議論もできない。
 考えること、議論を封じ、しかも方向性として2案ちらつかせることで、国民が考えを持ちにくい状況をつくりだしている。
 国会での与野党の質問時間をめぐっては、質問時間は獲得議席数にあわせるべきだという暴論が出たばかりだが、そのときの「手口」がここでも復活している。
 自民党(与党)内部で審議するだけ審議して(ほんとうは安倍の押しつけに過ぎないだろうが)案を提案する。それに対する「質問」は議席に合わせて野党の時間を少なくする。これでは、案を聞くだけで終わってしまう。それまでの「審議(あったとしての話だが)」に参加していない野党が質問するということが重要なのだ。野党が質問し、与党が答える。それで質問と答えの時間は半々になる。「質問時間」は「答弁時間」でもある。
 こんなふうに「質問」を封じ込めておいて、「来年発議をめざす」というのだから、これは「わな」としか言いようがない。
 「発議」までは、国民はその「案」を知らない。どんなことばで書かれているのかわからないのでは、国民の議論も深まらない。
 国民に議論させたくないのだろう。国民の口を封じるために、作戦を練っているのだろう。国民のための憲法ではなく、権力のための憲法にしようとしている姿勢が、そこからもうかがえる。
 「賛成か反対か」よりも、国民の議論が必要だ。議論をとおして、共通認識をもつことが大切なのだ。共通認識がないと、「弾圧」を生むことになる。

 21日の新聞を読むと、さらに驚く。安倍は5月3日の読売新聞で「自衛隊を明文化する(合憲化する」と「教育の無償化」を改正のポイントしてあげていたが、21日の報道ではこれが「4項目」に増えている。
 これも「論点」を分散させる作戦といえるだろう。
 「教育の無償化」は「教育充実」と言い換えられている。これも、非常におかしい。そこでは、こう書かれている。

26条3項を新設し、国が教育環境の整備を不断に推進するべき旨を規定する方向でおおむね意見が一致。

 「教育環境の整備」が「教育の無償化」だろうか。
 「無償化」をめぐっては「朝鮮学校」を除外することが「合憲」か「違憲」かをめぐって訴訟があった。なぜ朝鮮学校を除外するのか。そこでは北朝鮮の教育がおこなわれており、それは日本の利益にならない、ということだが。
 これを「教育環境の整備」にあてはめるとどうなるか。
 「日本の国益になる教育を勧める」ということにならないか。「日本の国益にならない教育は教育とは認めない」ということにならないか。
 安倍批判をする教育はだめ、ということにならないか。
 教育は生きる力、考える力を身につけるためのものだろう。
 思想・信条によって「教育」が差別化され、淘汰される恐れがある。
 朝鮮学校で勉強すれば、そこで学んだ人間のすべてが金正男を崇拝するとは限らないだろう。学んでいることと、自分の身の回りを比較し、そこから金正男批判を考える人間が生まれてくるかもしれない。
 「洗脳」されるひともいるかもしれないが、「洗脳」されないひともいるだろう。
 教育を「洗脳」と考えれば、「教育環境の整備」は「洗脳環境の整備」でもある。
 「洗脳教育」なら無償化する、それ以外は教育補助をしないということだろう。そういう「教育環境を整備する」ということだろう。

 追加された2項目は「緊急事態」と「参院選の合区の解消」である。このふたつには「共通項」がある。たぶん、この「共通項」が自民党の狙いである。

「緊急事態」
 憲法に
①国会議員の任期延期や選挙期日の特例を規定
②政府への権限集中や私権制限を含めた緊急事態条項を規定、の2通りの案がある
「参院選の合区解消」
47条を改正し、改選ごとに都道府県から少なくとも1人が選出可能となるように規定する方向でおおむね意見が一致

 あからさまに言えば、どちらも「自民党議席」を確保するための改正である。「合区」では確実に「1人」の議席が減る。議員が減る。
 「合区」は「一票の格差」を解消するためのものである。格差が大きいと法の下の平等に反する。それを解消するために「合区」が誕生したのだが、司法の「違憲判決」を無視して、議席を確保するために「合区」を解消するというものだ。
 「一票の格差訴訟」がふたたびおきても、今度はは「憲法に都道府県から少なくとも1人が選出」と決められているというためのものだ。「司法封じ」を狙っている。
 本末転倒とは、こういうことを言うのだろう。
 さらに「緊急事態」は2案併記とはいうものの、この2案は「自衛隊」をめぐる2案のように「対立」しない。共存可能である。
 ということは。
 これは2案併記ではなく、「改正ポイント」がふたつあるということである。
 しかも、「緊急事態条項」が問題になったときから批判の対象となった「政府への権限集中」「私権制限」は、あとの方に書かれている。
 どんなときでも国会議員が必要(国会が開かれないのは困る)、各都道府県から代表が出ないのでは、国会議員のいない都道府県の権利はないがしろにされる。それでは困る、ということを前面に出しておいて、実際に動かすのは「政府への権限集中」と「私権制限」である。
 問題点を指摘されないように隠しているのだ。
 「政府への権限集中や私権制限」が目的ではなく、国会を充実させることが目的であると「言い逃れ」を用意しておいて、ふたつを同時に実現する作戦である。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新倉俊一「ウインターズ・テイル」

2017-12-31 11:26:27 | 詩(雑誌・同人誌)
新倉俊一「ウインターズ・テイル」(「現代詩手帖」2018年1月号)

 新倉俊一「ウインターズ・テイル」はエミリー・ディキンズのことを書いている。

冬が白い結晶で窓を
閉ざすとき部屋でひとり

 書き出しの二行で、私は不思議な気持ちになる。
 「白い結晶」は雪のこと。「雪」と書いていないために、そこで少しだけ私は立ち止まる。「雪」とすぐにわかるから、それはほんとうに一瞬だが。
 そして二行目。「閉ざす」という動詞の主語は一行目の「白い結晶(雪)」なのだが、その主語は行変えによって分断されている。そして、そのかわりに「ひとり」という人間をあらわすことばが出てくる。
 この瞬間。
 二行目にある「部屋」が「閉ざす」対象、「ひとり」が「閉ざす」の主語だと感じてしまう。
 「ひとり」が「部屋」を「閉ざしている」。「部屋」を「閉ざして」「ひとり」になっている。部屋に閉じこもっている「ひとり」。
 「白い結晶(雪)」によって「閉ざされている」のではなく、自分の意思で部屋に閉じこもっている。「窓」を「閉ざす」のではなく、書かれていない「ドア」を「閉ざす」。そして「ひとり」になって、「窓」から「雪」を見ている。それは「雪」ではなく、「白い結晶」である。「雪」という誰もが知っているものではなく、「ひとり」が見いだした「白い結晶」である。
 部屋(扉)を閉ざすは、自分自身が閉じこもることであると同時に、他人を閉め出すことである。
 「白い結晶」は「他人を閉め出した」人間が見つめた「雪」である。そこには「他人」はいない。エミリーだけがいる。部屋の中にエミリーが「ひとり」でいるのと同じように、部屋の外(雪の世界)も、それはエミリー「ひとり」のものである。言い換えると、エミリーの思いが満ちあふれた世界である。エミリーの思いで成り立っている世界だ。
 書き出しの二行でそういう世界を造り上げたあと、新倉のことばは、こう動いていく。

エミリーは遠くへ思いを馳せる

 このとき「遠く」は「遠くない」。「近く」である。彼女自身のこころの世界(内部)である。
 うーん。
 書き出しの三行の緊密感が、とても美しい。誘い込まれてしまう。のみこまれてしまう。このあと、詩は、こう展開する。

妻を失った老判事と
ずっと孤独な詩人との
この「老いらくの恋」を
内輪で非難されて
ついに相手は世を去った
日頃から手紙を「肉体を
もたない魂そのもの」
と呼んでいた詩人に
この晩年の挿話は
いかにもふさわしい
老判事のあとを追うように
なくなった詩人の棺に
「あのひとに持っていくように」
と妹が花束を優しく入れた

 なぜエミリーが部屋に閉じこもっていたかが知らされる。ここからは「小説」風でもあるのだが。
 この部分では、私は、

日頃から手紙を「肉体を
もたない魂そのもの」
と呼んでいた詩人に

 の三行で、また立ち止まる。「もたない」の主語は「魂」であり、「肉体」は補語(目的語)なのだが、私は、なぜだかわからないが違う風に読んでしまう。
 手紙とは「肉体そのもの」と読んでしまう。「魂をもたない肉体」と読んでしまう。
 手紙をとおして「魂」を触れ合わせていたのではない。「肉体」そのものを触れ合わせていた。セックスしていた、と読んでしまう。
 私は、魂があるとは思わない。魂の存在を信じない人間だから、そう思ってしまうのかもしれないが。
 セックスというのは、他人の肉体と交わることだが、交わってしまうと「肉体」には「他人」と「自己」の区別がなくなる。「他人の肉体」なのに、それを「自分の肉体」と感じる。「自分の肉体」なのに「自分の肉体」とは思えなくなる。ふたつがひとつになるとき、ひとつが無数になる。
 で、老判事が死ぬ、「肉体」がなくなると、「ひとつ」になって生きていた「肉体」は分断されて死ぬしかなくなる。「後を追うように」死んでしまう。
 「魂」なら、そんなことは起きないだろう。
 和泉式部は蛍を肉体から抜け出した「たま(魂)」と詠んだが、肉体がなくても生きていけるのが魂なら、そして魂というものが「不滅」のものなら、エミリーは死ぬ必要などない。残された手紙といっしょに永遠に生きられる。(「魂は手紙のなかで永遠に生きる」と思って感動するのは、エミリーではなく、手紙を読む読者である。私は、ついつい自分が「読者」であることを忘れて、ことばそのもののなかに入り込んでしまうので、「手紙に残る魂」なんて、死んでしまったエミリーには読めないじゃないかと思ってしまう。)
 「魂」ではなく、エミリーの「肉体」そのものが、老判事の「肉体」を追いかけて、あの世へ行ったのだと私は思う。
 そして、感動する。
 「あ、いのちをかけた恋だ」
 私の読み方は「誤読」なのだが、そういう「誤読」を誘う「わな」のようなものが、

日頃から手紙を「肉体を
もたない魂そのもの」
と呼んでいた詩人に

 の三行の、行変えのなかにある。「手紙」と「肉体」を一行という「形式」のなかにとじこめているところある。
 こういうところが詩だなあ、と思う。


エミリー・ディキンスン―不在の肖像
クリエーター情報なし
大修館書店





「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村稔「三・一一を前に」

2017-12-30 10:05:35 | 詩(雑誌・同人誌)
中村稔「三・一一を前に」(「現代詩手帖」2018年1月号)

 「現代詩手帖」2018年1月号は「現代日本詩集2018」という特集を組んでいる。その巻頭作品が中村稔「三・一一を前に」。

私たちは間もなく此処を立ち去るだろう。
私たちはフクシマを廃炉にすることができないまま
これを私たちの遺産として
私たちの子孫に残していくより他はないだろう。

 どう読めばいいのだろうか。
 「私たち」とは誰のことか。「間もなく」とはどれくらいの期間か。「此処」とはどこか。「立ち去る」とはどういうことか。
 「立ち去る」は「遺産」ということばと結びつけて考えれば「死ぬ」ということ。
 「此処」とは「この世」か。
 「間もなく」はわからない。
 「私たち」には「私たちの子孫」が含まれない。「私たちの子孫」と「遺産」を受け取る人間であり、それは「此処」で受け取る。
 そのとき「間もなく」は、どうなるのだろうか。
 「私たちの子孫」にとって「間もなく」は「間もなく」ではない。短い時間ではない。「遺産」を受け取ったら最後、それから先の「時間」に終わりがない。
 「死ぬ」ことを「立ち去る」と言い換える中村は、この「終わることのない時間」とどう向き合うのだろうか。「立ち去る」から向き合うこともない。どれくらいの長さかなど気にしない。

 そんなことはない、気にしている、心配していると、中村は言うだろう。
 二連目以下が、中村の「意識」である。一連目だけを読んで文句を言うな、というかもしれない。

溶け落ちた核燃料がどういう状態にあるか
七年の歳月が経ってなお何も分っていない。
廃炉の工程は三十年というが、
気の遠くなるほど先のことをあてにできるか。

 ほんとうに「何も分っていない」のか、わかっているけれど、その情報は隠されているのか。私は「溶け落ちた核燃料がどういう状態にあるか」知らないが、私が知らないからすべての人間が「分っていない」とは言えない。
 「廃炉の行程が三十年」というのなら、それが確実なら、それはあてにできると思う。「私たちの子孫」にとっては「気の遠くなるほど先」のことではない。一連目で感じた終わりのない時間に、きちんと終わりは来る。
 でも、そうなのか。ほんとうに「三十年先」は廃炉処理がすんでいるのか。だれが、それを保証するのか。「廃炉の工程は三十年」と言った人(主語)がない。誰が、言うのだ。この二連目には「私たち」という「ことば」がないが、まさか「私たち」が「廃炉の工程は三十年」と言うのではないだろう。中村が言うのではないだろう。
 「私(たち)」は、どこへ消えたのか。
 中村は誰を代弁しているのか。

廃炉にするための技術開発はつらく過酷だが、
フクシマ一回限り、汎用性のない空しい作業だ。
そんな空しい作業もまた私たちの遺産として
私たちの子孫に残さなければならないか。

 「汎用性のない空しい作業」ということばに、私は、またつまずく。「汎用性がない」ということと「空しい」は同義語か。なぜ、汎用性が必要なのか。
 ここに再び「遺産」ということばが登場する。
 遺産は引き継がれる。引き継がれるものは汎用性があるべきだという考えが、汎用性のないものを「空しい」と定義しているようだ。汎用性があるは、共有される、効率性がある、経済的であるということか。「汎用性」は「資本主義」の「原理」だろうか。
 しかし、「汎用性」があるかないかが、一番大事なことだろうか。今回ももとめられていることだろうか。汎用性がないから「空しい」というのはほんとうだろうか。
 中村の詩ではなく(ことばではなく)、実際におこなわれている廃炉作業から「読み直し」をしてみる必要がある。
 もし、事故を起こした東京電力福島第一原発を確実に廃炉にすることができるならば、それは「空しい作業」ではない。そして、その作業が二度と必要のないものならば、それはよろこばしいことではないのか。何度も何度もその作業が必要だとしたら、それこそ「空しい」のではないだろうか。
 やっと廃炉作業が終わったと思ったら、また事故処理をしないといけないという事態が起きた方が、作業をやっているひとにとっては「空しい」のではないか。「技術」には「汎用性」があるが、廃炉作業をするひとの「気持ち」は「技術の汎用性」とは無関係である。何度でもやりたい仕事もあれば、一度でもしたくない仕事がある。一度で十分という仕事がある。
 何度も何度もいのちがけで原子炉を廃炉にしなければならないという事態が起きるならば、そしてそのために開発された「技術」が「汎用性」をもつなら、それは「空しい」ことではなく、「おそろしい」ことではないか。
 もう一度、問いかけよう。「私たち」とはだれなのか。
 実際に廃炉作業に取り組んでいる人たちを含めているのか。廃炉作業に取り組んでいる人、技術開発をしている人たちを含めているのか。
 中村は、そういう人たちの前で「空しい作業」ということばを発することができるか。「私たち」という不特定多数のなかに身を隠さずに、「私」として、同じことばを発することができるのか。
 それを問いたい。

私たちはフクシマを忘れることはない。
しかし、私たちは不安と不信をぬぐいきれない。
しかも、私たちが無念なのは
この不安と不信を何ともできないことなのだ。

 「私たち」とは誰なのか。何度でも問いたい。中村は「この不安と不信を何ともできない」というが、むしろ「何をするか」を考えるべきだろう。
 中村が「私たち」ということばのなかには含んでいない人、廃炉作業に取り組んでいる人は、不安をとりのぞくために動いている。働いている。「結果」を信じて働いている。できることをやっている。
 一方、懸命に廃炉作業に取り組んでいる人とは別に、「原子力発電は必要だ」と主張して、再稼働を勧める人もいる。この人たちも、たぶん中村の書いている「私たち」にはふくまれないだろう。
 原子炉の廃炉作業そのものに対しては何もできない(その能力がない)としても、原子力発電を推し進めようとする動きに対しては、やはり「私たち」は何もできないのか。
 いや、中村は何もしないのか。
 原子力発電に対し、「不安と不信」を持ちはするが、何もしないのか。

 たとえ「間もなく此処を立ち去る」のだとしても、あるいは「間もなく此処を立ち去る」のならなおのこと、その「間もなく」のあいだくらい、原発再稼働に反対と言ったらどうなのか。東京電力福島第一原発の事故について「アンダーコントロール(制御できている)」と言った安倍に対して、「うそつき、責任をとれ」くらい言ったらどうなのか。原発再稼働に反対という運動を「遺産」として残したらどうなのか。
 「何もできない」としても、「何がしたいか」くらい言え。
 「私たち」は「何もできない」などと言うな。

故旧哀傷: 私が出会った人々
クリエーター情報なし
青土社

*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒川洋治「代表作」

2017-12-29 09:04:41 | 詩(雑誌・同人誌)
荒川洋治「代表作」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 荒川洋治「代表作」(初出「文藝春秋」9月号)は短い作品。

あすはどんな定食ですかと
わざわざ聞きにくる人がいる
ナスの炒めなど二種類しかないのに
あすは、親しいけれども大切な人たちと
楽しい昼食なのかもしれない
それをあらかじめ知ることなのだ
代表作のまわりにはいつも誰もいないのだ
婦人はそれを知ると
うれしそうに店を出て
霧の吹く長い道を歩く

 わからない部分が多い。
 というか。
 私には、書き出しの二行しかわからない。
 こういうことを聞きに来る人は、その店の常連だろう。その店の味が好きなのだろう。好きなものがあるというのはいいことだ。そしてそれは、好かれることはいいことだということにつながる。
 作るひとと食べるひとの分け隔てがない。
 違うひとがいるのに、違うひとという感じがしない。
 分け隔てがないというのは「わかりあう」ということかもしれない。
 「わかっている」から想像する。「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」。

 で、ここから、きのう読んだ徳弘康代の作品で考えたことが、ちょっと思い出される。
 この「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」というのは誰の「声」だろう。「……かもしれない」という推量がふくまれているから、あすの定食が何なのか聞きに来た人ではない。定食をつくっている人が、想像しているととらえるのが一番自然かもしれない。でも、もしかすると、たまたまその定食屋にいた誰かかもしれない。たとえば、その定食屋に荒川がいあわせて、あすの定食は何かと聞く声を聞き、想像しているのかもしれない。荒川も常連なので、「ナスの炒めなど二種類しかないのに」と思いながら、なぜ、そんなことを聞くのだろうと想像している。「あすは、」の読点「、」の呼吸がとてもおもしろい。「、」によって、呼吸が少し変わる。想像が加速するというか、想像が飛躍する。そういうことも、これはもしかするとたまたま会話を聞いた人の思いなのかなあと感じさせる。
 そのあとも、わからないことがつづくが、このわからないことのなかに、「常連の人」の通じ合うものが含まれてくる。どこか、いきつけの店の味のこと、それを味わうときの体験のようなものが含まれてくる。荒川の書いている定食屋がどこのことか知らないが、私は私の行きつけの店のことなどを思い出し、その体験を重ねてしまう。

それをあらかじめ知ることなのだ

 「それ」は何を指しているのだろう。「定食の内容(メニュー)」というよりも、「楽しい」を指しているのかもしれない。「親しい人/大切な人」との昼食の「楽しさ」、その「楽しさ」がどんなものになるか、あらかじめ「知る」。想像する。そういうふうに「誤読」したい気持ちになる。想像している人(こう書くとき、私は、荒川を思い描くのではなく、ある定食屋にいる私自身を思っている)は、この食堂の「楽しさ」を知っている。すでに知っていることを、あらためて知る。あす起こることを、あすのために知っておく。それは、たぶん、その人だけの秘かな「楽しさ」でもある。
 そのあとの、タイトルにもなっていることばが含まれる一行は、もっとわからないが、やはり想像はどこまでも走り出す。

代表作のまわりにはいつも誰もいないのだ

 どういう「意味」だろう。「代表作」って、何? まさか、あしたの定食のメニュー? そうではなくて、「代表作」というのは「楽しさ」の「比喩」なのだ。
 「楽しさ」の「主人公」は人ではない。「誰」ではない。「楽しさ」は誰のものでもない。「楽しさ」は共有される何かであって、そこには「誰」は存在しない。「楽しい」という共有された気持ちが、すべての人を「代表」する。「象徴」としてすべての人を統合する。「比喩」になる。
 こんなことは、書いていないか。まあ、いい。
 先の行の「それ」がわからないのと同じように、ここでもそれが何を指しているか、はっきりとはわからない。でも、私は、つい想像してしまう。
 そしてまた、こんなことも考える。
 この「わからない」は私には「わからない」のだけれど、このことばを発している人(この詩の中の主人公)ひとには「わかる」。
 荒川には「わかる」という意味ではない。荒川は作者なので、まあ、「わかる」のが当然なのかもしれないが、私は、作者だからそのことばの意味がわかるとは考えない。
 作者ではなく、登場人物には「わかる」のである。
 人は誰でも、自分だけが「わかっている」ことばを無意識につかうことがある。
 そういうものが、ここでは動いている。
 そういうものの動きを荒川は、ここでは書いている。

 「わかっていすぎる」、そのため「透明」になっている。「澄んでいる」。そのため、そのことばをつかもうとすると、つかみどころがない。
 この詩の、「誰もいない」は、言っている人すらもいないということである。「透明になって」消えている。
 でも「こと」はある。「主人公」が消えて、「楽しいこと」が、そこにある。

婦人はそれを知ると

 この「それ」もわからないが、私は「楽しいこと」「あす起きること」と誤読する。
 定食のメニューを聞きに来た人が「婦人」で、定食のメニューを知ると、うれしそうになったのか。それとも「楽しい昼食になる」ということを「知って」うれしくなったのか。あるいは「代表作のまわりにはいつも誰もいない」ということを「知って」うれしくなったのか。区別せずに、その瞬間瞬間、どれでもいいかなあと思う。

 学校の授業や試験なら「正しい答え」というものがあるのだろうけれど、私は「正しさ」を気に留めない。
 むしろ、「間違えて」読んでいくとき、その「間違い」のなかで、私と作者と登場人物が融合するようで、それが楽しい。


詩とことば (岩波現代文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳弘康代『音をあたためる』

2017-12-28 08:19:46 | 詩集
徳弘康代『音をあたためる』(思潮社、2017年8月28日発行)

 徳弘康代『音をあたためる』にはいろいろな詩がある。「おとしましたよ」は代表作ではないかもしれない。「現代詩」の「味」はしない。でも、好きだなあ。

ドアごしに
さしだされる
かたいっぽうのてぶくろ
降りた人が
乗った人に

おとしましたよ と

さしだされた
てぶくろは
持ち主にもどって

右てぶくろと
左てぶくろは
用済みになるまで
いっしょに
いられる

 この「いっしょに/いられる」が、いい。
 これは、誰のことばだろうか。右てぶくろか、左てぶくろか。どちらかの手袋がそう思ったのか。あるいは、落とした人(拾ってもらった人)、拾った人が思っているのか。それとも、この現場を見た人が思っているか。
 徳弘は、誰なのだろう。拾ってもらった人なのか、拾った人なのか、それともその現場を見た人なのか。
 そして、読むとき、私はどちらにいるのだろうか。
 落とした人ではない、拾った人でもない。かといって、それを目撃した人でもない。だけれども、ことばを読んでいるとき、私はそのなかの誰かである。「肉体」でその人のだれかになっている。
 「おとしましたよ」は言ったのか、聞いたのか。
 これもよくわからない。
 まあ、これは区別をしなくてもいいのだろう。
 区別をしなくなったとき、「いっしょに/いられる」が聞こえるのだろう。
 誰が言ったのでもない「誰かの声」が聞こえる。「声」は、どこから生まれているのかわからないが、たしかに、その「声」はある。
 ここが、あたりまえのようで、あたりまえではない何かである。

朝の地下鉄で
車掌さんは
手渡されるまでの
ほんの二秒
ドアを閉めるのを
おくらせる

 誰のものでもない「声」なので、それは車掌にも「聞こえる」。
 と書いて、私はきのう読んだ以倉紘平の「馬」を思い出す。「澄んだ」を思い出す。きのうはちょっと書くのをためらったのだが、その「澄んだ」は「色即是空」の「空」ではないだろうか。「現実(形あるもの)」は「空しい」ではなく、「現実(世界)」は「澄んでいる」、「澄んでいる」ことによってつながっている。
 徳弘が「いっしょに/いられる」という「声」を聞くとき、その「聞いたこと」が世界に共有されていく。「聞いたこと」を妨げるものが何もない。それくらいに「世界」が「澄む」。そういう瞬間がある。

 この感じを、いまはやりの「現代詩」の文体で構成しなおすと、たとえば

りんごが壊れるときの
ふしぎな空気を
みみなりといってもいいですが
ひとがとても好むのを
おぼえておいていただけますか                (りんごの崩壊)

 ということになる。
 ここに「みみなり」ということばがあるが、この詩に限らず、「耳」というか「声」というか、「対話」を含んだ詩が、どれも楽しい。

音をあたためる
クリエーター情報なし
思潮社


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(2)

2017-12-27 15:17:46 | 詩集
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(2)(編集工房ノア、2017年12月20日発行)

 以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』の「沙羅鎮魂」は「平家物語」のことばを題材にしている。そのうちの一篇「馬」。

〈ひょいと後を向いたあの馬は、かつてまだ誰も見た事のないものを見た〉と二十世紀の初め、ジュール・シュペルヴィエルは書いた。

 と始まる。この馬の動きと、平知盛が逃走途中、馬を船から追い返したときの動きが重ねられる。馬は最初は船を離れないが、やがて陸に向かって泳ぎ始める。そして、

〈足たつ程にもなりしかば、猶船の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ〉。--ところでこの馬は、ふりかえっていったい何を見たというのだろう。十代の頃、私はこの馬のいななきに、人間と馬の親密な絆を思って涙した。二十代で、厳然たる運命の支配に対する澄明な悲しみを見た。三十代で、王朝世界の滅亡の挽歌を聞いた。そして、四十代になって私は確信するに至った。人間の愚かしい営みなど、あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかったのだと。

 うーん。
 私は、動けなくなる。私のことばが動かなくなる。
 平家物語の馬の描写から、馬は何を見たかと以倉は考える。以倉の考えは十代、二十代、三十代、四十代と変わっていく。同じことばなのに、そのことばから考えることが違ってくる。
 では、冒頭に引用されたジュール・シュペルヴィエルのことばについてはどうなのか。以倉は書いていない。書いていなけれど、やはり年代とともにかわっているだろう。
 引用して書き始めたときと、「平家物語」の馬について書いた後でも、きっと違っているだろう。
 「かつてまだ誰も見た事のないもの」とは何か。

人間の愚かしい営みなど、あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかった

 それと重なるのではないか。何も見ていない。人間の営みに関係することは何も見ていない。人間の営みに関係しないから、それは人間には見えない。人間は、それを「誰も見た事がない」。
 人間には見たことのないものが、世界にある。
 それは、ことばにはならない。
 「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」。そういう「ことば」でとらえられたものは、すべて「ない」。
 「色即是空」ということばがある。その意味を私は知っているわけではない。知っているわけではないが、あ、こういうことかなあ、と思う。
 「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」などの「ことば」、それが「色」である。「形」である。「考えが動いた後(軌跡)」としたの「形」。「みえる」と思っているもの。「みた」と思っているもの。そういうものは、すべて「空」である。そんなものは、「ない」。
 「ない」ということが、「ある」。
 これが「色即是空」か、と。

 あ、これでは「ことば」が急ぎすぎている。「意味」になりすぎている。

 ジュール・シュペルヴィエルは「きっかけ」というか、「始まり」なのだから、そこへもどってはいけないのかもしれない。

 以倉の思い(感想)は十代、二十代、三十代、四十代と違ってきている。四十代になって「確信するに至った」と書いているが、では、十代、二十代、三十代のときの感想は、どこが間違っているのだろう。
 「間違い」とか「正しい」とか、そういう「差(あるいは優劣)」というものがあるのだろうか。
 別のことばで言うと、十代、二十代、三十代の「ことば」がとらえる馬は、「平家物語」の馬とつながっていないのだろうか。
 そうではないと思う。
 それぞれが、馬としっかりとつながっている。そして、そのそれぞれは、いまも生きている。否定されたのでも、乗り越えられたのでもなく、あるがままに、そこに「いる」。そのときの感想が、いまも「ことば」として「ある」。
 だからこそ、以倉は、そのことばの全部を「いま」「ここ」に書き表すことができる。それぞれが「馬」とつながる、「平家物語」とつながる。
 わたしのことばを立ち止まらせたのは、たぶん、この奇妙な「ことば」のあり方なのだ。どれが「正しい」、どれが「すぐれている」ということとは無関係に、同じものとしてそこに「ある」。あるいは「あらわれてきている」。

 これは不思議だなあ。
 あ、また、行き詰まった。
 もう一度読み返してみる。
 そうすると、

あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかった

 という行で、また違ったことを考え始める。
 「あの澄んだ馬の瞳」と以倉は書いているが、「平家物語」のどこに馬の瞳の描写があったのだろう。以倉が引用している文章では、

猶船の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ

 となっている。「船の方をかへりみて」だから、そこに「瞳」の存在を確認することはできる。「かへりみて」のなかには「みる」がある。「みる」は「目(瞳)でみる」。「みる」の「主語」は「瞳」であると言うことができる。
 でも、「澄んで」はどうだろうか。
 これは、以倉がつけくわえたことばである。
 そうであるなら。
 この「澄んで」(澄む)という「動詞」こそが、以倉がつかみとった「ことば」のすべてをつらぬく「真実」ではないだろうか、と思う。
 「澄む」は「まじりけがない」、「障碍物がない」ということだろう。
 十代、二十代、三十代、四十代の、それぞれの「感想、考え(ことば)」の間には「障碍物」がない。同じように、その「ことば」と「平家物語」、あるいは「馬」との間にも「障碍物」がない。
 馬は何を見たのか、と書きながら、以倉は「平家物語の馬」そのものになって「平家物語」を見ている。馬になって「平家物語」を見るとき、「平家物語」がいきいきと動き出す。

 「ない」は「私がない」ということなのだ。
 ジュール・シュペルヴィエルも、馬を描きながら、馬になっている。ジュール・シュペルヴィエルは消えている。
 こういうジュール・シュペルヴィエルを描くとき、以倉は以倉ではなく、ジュール・シュペルヴィエルになっている。以倉は消えている。
 以倉は「世界」が動くときの「障碍」になっていない。以倉は「澄んだ」人間になって、世界の中に広がっている。

 あ、これは、きのう読んだ「約束」の

中に私が必ずいる

 という世界と私の関係と同じだ。
「澄んだ」ということばが、ふいに「約束」につながり、そのままほかの以倉の詩の中を動いていく気がした。
 それに驚いて、私は動けなくなったのだ。

日の門―以倉紘平詩集
クリエーター情報なし
詩学社


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』

2017-12-26 11:56:31 | 詩集
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(編集工房ノア、2017年12月20日発行)

 以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』。巻頭の「千年」を読み、あ、感想を書きたい、と思った。でも、まだおもしろい作品があるかもしれない。二篇目は「約束」。あ、書きたい。
 で、ほんとうに読み始めたばかりなのだが、感想を書く。詩集全体の感想にはならないのだが。
 「約束」について、書く。全行は、こうなっている。

 <来年 再来年
  もっと先の真夏の海で
  こんな入道雲 こんなヨット
  こんな海を見たとき
  中に私が必ずいるから
  大きな声で呼んでください>

書棚の愛読書に挟んである暑中見舞状
二本マストに五枚帆のヨット
鉛筆で書かれた背高大入道に
幼さの残る文字で即興詩が書き込まれている

昭和四十四年八月三日 女生徒の署名がある
宛名には妻の名前が記されている
昔 中学生を教えた彼女の教え子の一人らしい
二十年以上も前の印象はもう薄れている様子だ

ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている

ぼくは沖に出ていくヨットに大きな、大きな声で叫ぶ
すると 日焼けした顔に白い歯をみせ
ちぎれるように手をふる少女の姿がみえるのである

 読み返すと、ちょっとわからないところが多い。「愛読書」というのは以倉の愛読書だろう。その愛読書に、なぜ、妻宛のはがきがはさまっているか。以倉宛のはがきなら自然だが、いくら妻だからといって、他人あての私信を自分の愛読書の「しおり」にするのは奇妙である。さらに、差出人は妻の教え子らしいが、妻はそれがだれなのかはっきりとは覚えていない。妻の教え子ならば、以倉は会ったことがないのだろう。会ったことがあるなら、そのことを先に書くだろう。
 それなのに、以倉は

ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている

 と書いている。
 「女」って、だれ?
 
 あ、ここがきっと、この詩のポイントだな。
 「<中に私が必ずいるから>という言葉」と「女の現実」が対比されている。対比したあと度、最終連で「少女」が再び登場している。
 この「女」と「少女」の関係に、何か、秘密のようなものがある。
 でも、これは後回し。

 この詩を読み始めたとき、私は以倉と同じように、

中に私が必ずいるから

 このことばに感動して、感想をぜひ書きたいと思った。書かなければならないことがあると思った。
 何を書きたかったのか。
 「中に」と「私」は言っている。(このとき、「私」がだれであるか、私=谷内は知らない。このことばが「絵葉書」のことばであることも知らない。だれが書いたかも知らない。)
 でも、書きたい。
 「中」って、どこ?
 「私」が書いている「真夏の海」「入道雲」「ヨット」、すべてを含めた「場/世界」である。「来年 再来年」という時間は、「場/世界」の一部である。
 「中」に「いる」というよりも、「私」が世界に「なっている」。
 見えている何か、夏の光、入道雲、ヨットはすべて「私」なのだ。「私」がさまざまな「もの」になって「世界」に出現してきている。すべてのものとつながっている。すべてであることが「中にいる」ということなのだ。
 そのうちの「ひとつ」につながると、それは「世界」のすべてにつながる。
 そんな感じかなあ。

 これは、いいなあ。

 ここにあるのは、言われてみれば、たしかに「言葉」なのだ。「ことば」がすべてである。だれが書いたか、私は知らなかったが、その「ことば」に打ちのめされた。
 以倉も、この「ことば」を書いた人間を知らない。「名前」から「女生徒」と推測している。「女」を推測している。女生徒は、そのあと「女」になっただろう。それがどんな「女」か、以倉は知らないが、以倉自身は「女」をいろいろ見てきている。一緒に生きている。(妻も当然そこにふくまれる。)でも、どんな「女」よりも、以倉は女生徒の「ことば」に感動してしまう。夏の海で、そこにあるものすべてを見て、このすべてが私だ、私はこの中にいる、私はこの世界になっている、入道雲であるとき私は消えている。ヨットを見るとき私は消えてヨットになっている。溶け込んで、「世界」そのものを生み出している。それが私だ、という主張が鮮烈に聞こえる。
 それは、以倉が「なりたい私」である。
 このことばを読んだとき、以倉は少女になって、同時に世界になっている。
 最終連で「みえる」少女の姿は、以倉自身でもある。以倉は、少女のことばをとおして、以倉の「いのちの原型」を見る。以倉が消える。自分が消える。世界とどう向き合うかを知る。世界そのものになる。そして、どこまでも広がっていく。
 「いのちの形」を認識のあり方(ことばのありかた)と言い換えてもいいかもしれない。

 ことばを読んだ瞬間、自分というものが消え、世界そのものにつながる。世界と一つになる。そういうことを感じさせることばがある。
 詩は、印象的な一行があればそれでいい、というけれど。
 ことばは、たったひとつ、そのことばをとおして世界とつながれることばがあればいい。ひとつとつながれば、すべてとつながるのだ。
 女生徒のことばをとおして、以倉は、すべての「女」とつながる。そのとき「女」を信じるというよりも、「女」のなかにある「女生徒のことば」を信じるのだ。

 私はここからさらに「誤読」する。
 「女生徒」は妻かもしれない。私は以倉の略歴を知らないから、これから書くのは空想(妄想)である。女生徒が以倉に絵葉書をくれた。それには冒頭のことばが書かれている。妻は、そのことを忘れている。「あら、そんなはがき出したかしら?」
 以倉は、その女生徒と結婚した。妻となった女生徒をとおして、「女」のいろいろいな現実を見た。しかし、そうやって知った「現実」よりも、はがきの中の「中に私がいる」と書いた少女の方が「リアル」である。いつまでもいつまでも、以倉を「世界」へ引き戻してくれる。「世界」と人間、「世界」と「ことば」の関係/認識のあり方、あらわし方へと引き戻してくれる。そういう「力」を信じている。
 少女が無意識に発しただろうことばの力、それを信じている。女の現実よりも。
 もし、この葉書がほんとうに妻の教え子の少女のものであるとしても、そういう葉書(そういうことば)を受け止める妻は、どこかで少女としっかりつながっていた瞬間がある。そのつながりのなかに、以倉は、妻をとおしてつながっていくということになる。
 この「つながる」力、ひとつとつながり、その「つながる力」をとおして「世界」そのものになる、世界の「中にいる」と同時に私が世界になるという融合の感覚。それを呼び起こすことば。それと向き合っている。

 私(谷内)が読んだのは、以倉のことばなのか、以倉の妻の教え子の女生徒のことばなのか、あるいは妻が女生徒だったときに書いたことばなのか、そういう区別はなくなり、ただ「ことば」とつながり、世界になっていく。
 いまは冬だが、夏の海へゆき、だれともわからない少女に「おーい」と叫んでみたい気持ちになる。

フィリップ・マーロウの拳銃―以倉紘平詩集
クリエーター情報なし
沖積舎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報操作/ことばの操作

2017-12-26 09:44:12 | 自民党憲法改正草案を読む
情報操作/ことばの操作
             自民党憲法改正草案を読む/番外159(情報の読み方)

 2017年12月27日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

海自護衛艦を空母化/政府検討 「いずも」改修/離島防衛拠点に/米軍機の発着想定

 という見出し。
 前文には、こう書いてある。

 政府は、海上自衛隊最大級の護衛艦「いずも」を、戦闘機の離着艦が可能となる空母に改修する方向で検討に入った。自衛隊初の空母保有となり、2020年代初頭の運用開始を目指す。「攻撃型空母」は保有できないとする政府見解は維持し、離島防衛用の補給拠点など防御目的で活用する。米軍のF35B戦闘機の運用を想定しており、日米連携を強化することで北朝鮮や中国の脅威に備える狙いがある。

 注目したいのは「自衛隊初の空母保有」ということばと「「攻撃型空母」は保有できないとする政府見解は維持し、離島防衛用の補給拠点など防御目的で活用する」ということばの関係である。
 どういうことなのか。
 本文の最後に、「防衛省幹部」のことばが出てくる。

 政府は憲法9条2項で保持を禁じられている戦力のひとつとして、「攻撃型空母」を例示してきたが、防衛省幹部は「防御目的で活用すれば、『攻撃型空母』にはあたらない」としている。

 もっともらしく聞こえるが、とてもおかしい。
 もし、「攻撃型空母」ではなく「防衛型空母」というものがあるのだとしたら、なぜ、いままで「防衛型空母」を持たなかったのか。
 「攻撃型空母」というのは「攻撃を目的とする空母」という意味ではなく、本来は「空母は攻撃のための艦船である(攻撃型の軍備である)」という意味である。「攻撃型」の軍備であるから、これを保持しない、というのが憲法と照らし合わせての解釈である。
 「ことば」は、さまざまに省略された形で表現される。どんな「表現」が背後にあるのか、どういう「意味」が背後にあって、そのことばがその形になっているのかを無視して、ことばに別の解釈を与えることを情報操作という。
 「防衛型」とか「防衛目的」ということばをつけくわえれば、軍備が「防衛型」にかわるわけではない。

 端的な例として北朝鮮の核ミサイルがある。北朝鮮はそれを「攻撃型核ミサイル」と呼んでいるか。北朝鮮は、あくまで「アメリカに対抗するため(アメリカから北朝鮮を守るため)」のものと主張していないか。「アメリカが北朝鮮を敵視している。いつ攻撃されるかわからない。攻撃されないためには、アメリカ本土を直接攻撃できる核ミサイルをもつ必要がある。防衛型ミサイルだ」と主張しているのではないか。
 けれど、アメリカも日本も、その主張を認めない。世界に不必要な緊張をもたらすだけである、と言っているのではないのか。

 そうであるなら、「攻撃型空母ではない、防衛目的の空母である」という論理もまた、同じように反論されるだろう。「米軍のF35B戦闘機の運用を想定しており、日米連携を強化する」というのでは、「攻撃を目的としている」ととらえられても仕方がない。「北朝鮮や中国の脅威に備える」というのは、日本の一方的な「狙い」である。それがそのまま北朝鮮、中国に受け入れられることはない。北朝鮮、中国は、北朝鮮や中国をより効率的に攻撃するための空母である、と認識するだろう。

 「武器/軍備」を「攻撃型」か「防衛型」か区別することはできない。保持している人間が「防衛型」だと主張しても、それに対して脅威を感じれば、それは「攻撃型」である。
 このことからも、「攻撃型空母」という表現がつかわれたのは、「空母は攻撃目的の艦船である」という認識をあらわしたものと理解できる。
 これを簡単に「防衛型空母」なら保有を禁じられていないと読み直すのは、情報操作であり、ことばの暴力である。

 だいたい「離島防衛」というが、そのときの「離島」とは具体的にはどこなのか、ぜんぜんわからない。いまある日本国内の基地から戦闘機が飛び立ったのでは防衛しきれない離島とはどこのことだろうか。その離島の大きさはどれくらいのものか。
 北朝鮮や中国が領海を侵犯し、そのうえで離島に上陸し領土することを狙っているとする。そのときいまある日本の軍備では、どうして防衛できないのか。北朝鮮、中国から離島に侵攻するまでの距離、時間と、そういう動きを察知し自衛隊(あるいは米軍)が「警告」を発し、さらには「防戦する」ための時間、その対応のために移動しなければならない距離を比較してみないといけない。

 読売新聞は、

有事で在日米軍基地が破壊された際には、代替滑走路の役割も担う。

 とも書いている。だれの「主張」なのかわからないが、私はこの部分で声を上げて笑いだしてしまった。
 「代替滑走路」と言っても、「空母」の滑走路は限られている。「いずも」を改修した空母には「F35Bを約10機搭載できる見通し」というが、10機くらいで「有事で在日米軍基地が破壊された際に」役立つのか。
 空母の滑走路、F35Bを約10機だけにに頼るくらいなら、「有事」なのだから、日本国内のあちこちの空港の滑走路をつかうことになるのではないのか。オスプレイの民間空港の利用がすでに模索されている。日本の領土(在日米軍基地を含む)が攻撃されても、自衛隊には民間空港がつかえない(つかえるという法律がない?)、だから空母が必要だというの「形式論」だろう。
 逆に読むべきなのだ。
 有事の際、在日米軍基地が破壊される。なぜ、基地が攻撃され、破壊されるか。基地はう動けないからだ。動いて、攻撃から逃げることができない。
 しかし、空母なら攻撃から逃げることができる。場所を移動できる。
 これはまた、逆な見方をすれば、空母という「ミニ基地」を移動させながら、北朝鮮や中国を攻撃できるということである。
 日本の主張はもちろん違うだろうが、北朝鮮、中国は、そう見なすだろう。

 あらゆる戦争は「防衛」を目的に始まる。「防衛」を前面に押し出しての軍備増強をうのみにしてはいけない。「攻撃」を「防衛」と言い換えて軍備は拡大する。こういう言い換えは厳しくみつめないといけない。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報の抹殺(安倍の沈黙作戦)

2017-12-26 00:51:07 | 自民党憲法改正草案を読む
2017年12月26日(火曜日)

情報の抹殺(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外159(情報の読み方)

 2017年12月24日、ネット(シェア・ネット・ジャパン、https://snjpn.net/archives/39528)に奇妙な情報が流れた。「安倍昭恵夫人、インスタグラムにとんでもない写真をアップし非難殺到」というものである。安倍昭恵の「インスタグラム」のURLも標示されている。(https://www.instagram.com/p/BPGhQQahM4F/) ただし、もう写真は削除されて、もうそこにはない。
 岩田和親(自民、佐賀1区、10月の衆院選で原口に負けて比例復活)が上半身裸で移っている。そこに「アキエ」というカタカナの文字と矢印。矢印の先に何があるのかよく見えないが、キスマークらしい。

 私は、だれがだれにキスマークをつけようが、関心はない。
 ほかのことに関心があり、シェア・ネット・ジャパンの記事をフェイスブックにリンクした。
 この情報に対して安倍がどう対処するか。
 写真を削除する。実際に削除されている。これは特に問題はない。だれでも自分にとって不都合なものは削除する権利がある。安倍が、昭恵に対して「削除しろ」と要求したのだとしても、問題はない。夫婦間でどんなやりとりをするかは、夫婦の問題である。
 このあと、どんな行動をするか、それに非常に関心がある。
(1)安倍昭恵がアップしたと言われているが、その証拠はない。だれかが安倍昭恵になりすまして(IDを乗っ取って)写真をアップした、と主張する。
(2)写真の男は、岩田和親ではない。写真そのものも捏造であると、主張する。あるいは、写真そのものが「合成」されたものであって、悪質な嫌がらせであると主張する。
 たぶん、これで押し通すだろう。
 
 もし、写真(岩田和親)が本物であったときは、どうなるか。
 やはり、まず(1)の主張を繰り返すだろう。
 問題は、そのあとである。
(3)岩田和親は、なぜ、そういう写真を撮らせたのか。安倍昭恵が撮ったのではないとしたら、この写真は岩田和親が何らかの意図をもって撮らせたことになる。
 そうだとして、
(4)岩田和親の処分をどうするか。安倍と、安倍昭恵への悪質ないやがらせとして処分するのか。岩田和親を抹殺することで、今回のことはなかったことにするのか。
 あるいは、
(5)岩田和親は誰かにだまされて、こういう写真を撮られてしまった。岩田も被害者であると主張するか。

 (4)が可能性として一番高い。
 で、もし、そうなったらのことなのだけれど。
 この(4)の方法は、森友学園の籠池夫婦に対する対処方法と同じではないだろうか。「悪い」のは岩田和親であり、安倍昭恵の方には非難されるべきところは何もない。安倍昭恵は被害者である。
 森友学園問題でも、安倍は、「だまされた」と主張していた。
 安倍にとっては、「身内」はいつも被害者であり、加害者は「身内」の外にいる。

 この「身内」を自分に近い存在と言いなおせば、「レイプ事件」も同じである。レイプされた女性は「被害者」ではなく、「加害者」である。訴えられている安倍の支援者こそが「被害者」である、ということになる。

 あるいは。
 写真そのものが捏造であり、安倍昭恵も岩田和親も「被害者」である、ということろから、「反撃」するかもしれない。その場合は、
(6)シェア・ネット・ジャパンが「加害者」になるかもしれない。安倍昭恵のインスタグラムには、問題の写真は存在しない。写真がそこにアップされたということ自体が捏造である、という主張がおこなわれる。
 もし、こういうことがおこなわれると、
(7)安倍にとって不都合な「事実」は全部捏造とされてしまうことになる。そして、捏造したものを処分するという形で抹殺するということも起きるに違いない。
 こういう動きは、
(8)安倍にとって不都合なことを主張する人間(組織)を抹殺するために、その人間(組織)はこういう捏造をおこなっている、という捏造がおこなわれるかもしれない。たとえば、シェア・ネット・ジャパンに不正アクセスし、わざと虚偽のニュースをアップする。そして、その嘘のニュースを理由にシェア・ネット・ジャパンを摘発するということが起きるかもしれない。

 今回のスキャンダルがどんな具合に「なかったこと」として処理されるのか。その行方に私はとても関心がある。この問題を、いわゆるマスコミがどう報道するかについても関心がある。
 安倍が地方活性化の方法として提案した「インスタグラム」が舞台だけに、よけいに気になる。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深町秋乃「であい」

2017-12-25 07:03:28 | 詩(雑誌・同人誌)
深町秋乃「であい」(「アンブロシア」45、2017年12月01日発行)

 深町秋乃「であい」は前半が美しい。

はじめては
とうめいの
いろ

(みえない
 けれど)

はじめては
とうめいの
おと

(きこえない
 けれど)

はじめては
とうめいの
かたち

(さわれない
 けれど)

 「とうめい」を「みえない」「きこえない」「さわれない」と言いなおす。いや、「……/けれど」と言いなおす。
 この「けれど」のなかに、深町のつかみとったものがある。
 「けれど」は「ことば」以前である。「ことば」にできないものである。「みえない」「きこえない」「さわれない」と否定形で語るとき、そのことばのなかに「みえる」「きこえる」「さわれる(さわる)」が動く。「みようとする」「きこうとする」「さわろうとする」。その「……しようとする」力が動いている。この力が「生まれてくる」感じが、短いことばのなかにつかみとられている。

 でも、ここからがむずかしい。
 詩は、こうつづく。

はじめては
とうめい

だから

なまえはまだ
しらない
けれど

はじめて
めをあけたとき

かみさまが
みせてくれた
せかいは

わたしをつつむ
ちいさなうみ

(しずかにすけてゆく)

 「だから」が曲者である。
 こう書くしかないのかもしれないけれど、「だから」というのは「論理」のことばである。ここから、詩が「実感」ではなく「論理」になってゆく。「論理」というのは捏造できるものである。
 
なまえはまだ
しらない
けれど

 ともう一度「けれど」が出てくるが、この「けれど」は前半の「けれど」とは違っている。
 前半の「けれど」は「みえない」「きこえない」「さわれない」、けれど、それは存在する。
 ここでも「しらない、けれど」存在する、という具合にことばを動かすことができるが、「しる」というのは「あたま」のことばである。「論理」である。「論理」というものは、それこそ「透明」なもの、目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったりできるものではなく、「抽象的」なものだが、それが存在するのは私の外(世界)の側にではなく、いわば私の内(頭の中)である。
 前半の、「具体的なもの」とは違っている。前半の「けれど」は、「具体的」だけれど、それはまだことばにできない、ことばになっていない存在。
 「しらない」のあとの「けれど」は、「論理」になってしまっている。「ことば」のあとの世界だ。
 別なことばで言いなおすと、「だから」から「けれど」へとことばが動いているとき、それは「ことば以前」ではなく、「ことば以後」なのだ。
 これでは、せっかくの前半が生きてこない。

 前半は、生まれたばかりの赤ん坊の「実感」を母親が語りおなしたもの、後半は赤ん坊を抱きながらまだ何者にもなっていない命と対話している母の祈りなのかもしれないが、「論理」になりすぎている。
 赤ん坊のまま、(しずかにすけてゆく)という一行にたどりつけたなら、この詩はもっと強い感じになると思う。
 「けれど」という「論理」を通らずに、ことばが「はじめて」をつかみとれるといいのだが。

 無理な注文かもしれないが、そういう無理を求めたい気持ちになる。

詩を読む詩をつかむ
クリエーター情報なし
思潮社

*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。(アマゾンや書店では手に入りません)
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アキ・カウリスマキ監督「希望のかなた」(★★★+★)

2017-12-24 18:49:28 | 映画
監督 アキ・カウリスマキ 出演 シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイブラ

 シリア人の難民(シェルワン・ハジ)がフィンランドにたどりつく。彼の希望(望み?)は生き別れた妹を探し出すこと。周囲の人がそれを助ける、と書くとなんだか難民を助けるというストーリーになってしまうが。
 ストーリーでは語るのがむずかしいことが描かれる。
 この映画には、主人公が何人も登場する。そして互いが助けられる、といえばいいのか。

 サカリ・クオスマネンは結婚しているが、訳があって(訳はよく見ればわかるが、よく見なければわからない。あ、あれが伏線か、と最後になってわかる)家を出ていく。シャツの卸が商売だが、それをたたき売って金をつくり、ポーカーで稼ぎ、レストランを経営する。シェルワン・ハジは、そのレストランの従業員になる。
 でもねえ、なぜ、わざわざ身分のはっきりしない難民を雇う?
 レストランの、それまでの従業員もとても変。まともではない。雇いなおした方がレストランもうまくいくだろう。そういうこともしない。
 なぜ?
 たぶん、「助ける」という感覚がないのだ。「助ける」のではなく、一緒に生きている。どうやったら一緒に生きて行けるかということを考えることが、「肉体」にしみついてしまっている。「思想」になっている。だから、だれも自分のしていることを説明できない。
 「資本主義社会」を生きているのだけれど、「資本主義」の限界を肉体でつかみとり、そこから違う一歩を歩き始めているということだろうか。「新しい一歩」なので、それを説明することばが、まだないのだ。

 最後の方のシーンから映画を見つめなおせば、書きたいことが書けるかもしれない。

 いくつも印象的なシーン(エピソード)があるが、サカリ・クオスマネンが、元妻の開いてる屋台(?)に行く。元妻が「もう酒はやめた」という。きっと酒が原因でふたりは別れたのだが、それはサカリ・クオスマネンが妻に愛想がつきたというよりも、妻をなんとか立ち直らせたいと思ってのことだったかもしれない。そして、奇妙ないい方だが、この妻を立ち直らせたいという思いによって、サカリ・クオスマネンは支えられていた。生きて行くことができた。
 同じように、レストランの従業員、シリア難民を支えるのも、一緒に生きることによって、自分が生きていることが実感できるからだろう。金儲けをする、というよりも、いま、こうやって一緒に生きているということが、生きていけるということが、「不幸ではない」。
 「幸せ」の定義はむずかしい。「幸せ」の形はきりがない。でも「不幸ではない」というのなら、漠然としていて、「いまのままで、いいんじゃないか」という感じ。何かを決めて、それを「求める」という感じではない。「幸福」を追求するのではなく、「不幸ではない」ということを追求する。「満足する」ということを追求する。
 こういうことと、関係するのかどうなのか、判断がむずかしいが。
 アキ・カウリスマキの映画には「情報量」が少ない。「もの」が少ない。全体がとてもシンプルだ。「もの」を求め、「もの」をあふれさせる、「もの」に語らせるのではなく、不可欠なものだけがそこにある。「断捨離」ということが一時期はやったが、すべてが「断捨離」されて、不可欠なものだけを組み合わせてつかっている。
 音楽も、必要最小限の楽器で、とてもシンプルだ。
 でも。
 絶対に捨てないものがある。
 シェルワン・ハジは妹を探し出すために、自分の「名前」を捨てた。身分証明書を偽造して、強制送還をのがれ、ヘルシンキで生きている。でも、探し出され、呼び寄せられた妹は、ニセの身分証明書を拒む。「自分の名前」を捨てない。「難民申請」をして、「難民」として生きることを選び、警察に出頭する。
 いろいろなものを捨てる。でも「自分」は捨てない。
 シェルワン・ハジにしても、「名前」を捨てたが、「妹を助け出す」という「希望」は捨てなかった。自分であろうとしている。

 「ハッピーエンド」というのではないが、しみじみとする映画である。

 で、ふと。
 「難民」ではないが、「国内難民」ともいうべきひとに焦点を当てた「わたしは、ダニエル・ブレイク」(ケン・ローチ監督)を思い出した。社会の安全保障システムからしめだされそうになる主人公。彼はシングルマザーと2人の子どもの家族を助けたことから、社会がどうなっているかをさらに認識するようになる。
 貧乏人はさらに貧乏になり、まるで社会には存在しないようになる。見えない部分に押し込められる。
 だが、だれにも「名前」がある。だれにとっても、「私は私である」ということは、絶対的な「希望」だ。
 この「希望」を守り抜くために、何をすべきなのか、というようなことも考えた。

 「難民」問題は日本には存在しないように装われている。隠蔽するために、極右的言動が蔓延し、安倍がそれを利用している。自衛隊を憲法に書き加え、安倍が軍事独裁を完成させるとき、「難民問題」は再び「アジア諸国への侵略」という形で拡大展開することになる。「難民」を日本に入国させないという方法のために戦争をし、日本国内の「難民(貧困者)」には戦争なのだから国民は貧困に我慢すべきだと、貧困をさらにおしつけるだろう。「ほしがりません、勝つまでは」政策が、すでに始まっている。社会保障が削減され、軍需費が拡大している。
 同時に「私は私である」という主張も抹殺されようとしている。護憲派の天皇は強制退位させられ、沈黙させられる。天皇を沈黙させたあと、国民を沈黙させる作戦は進んでいる。

 「難民」問題はむずかしいが、少なくともヨーロッパでは「難民」を受け入れ、「国内問題」のひとつとして向き合う動きがある。そういう動きが、政府の動きとは別な形で「個人」の動きとしても存在している。
 そういうことをも教えてくれる映画である。
 だんだん映画の感想ではなくなったが。
(KBCシネマ1、2017年12月24日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

過去のない男/街のあかり HDニューマスター版(続・死ぬまでにこれは観ろ!) [DVD]
クリエーター情報なし
キングレコード
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇の決意(安倍の沈黙作戦)

2017-12-23 11:15:29 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の決意(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外158(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月23日朝刊(西部版・14版)32面に「天皇陛下 誕生日の会見全文」が載っている。その最後の方の部分、

 この度、再来年4月末に期日が決定した私の譲位については、これまで多くの人々が各々の立場で考え、努力してきてくれたことを、心から感謝しています。残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたいと思います。

 ここに、私は天皇の強い決意を感じた。「象徴としての務めを果たしながら」安倍政権への批判を読み取った。「象徴としての務め」とは昨年のビデオメッセージでつかわれたことばである。「象徴」であることこそが天皇の務めである。
 天皇は、

次の時代への継承に向けた準備

 と抽象的に語っているが、この「継承」が「象徴としての務め」の継承であることは、全文を読めば明らかである。天皇は一年を振り返り、「象徴として」何をしてきたかを語っている。

 「象徴」とは何か。国民に寄り添い、国民の声にならない声を、国民の立場から発すること。被災者のところにおもむき、被災者と同じ姿勢で、つまりひざまづいて祈ることである。なかなか訪れることができないような離島にも足を運び、そこで暮らしているひととことばをかわし、その人たちが何を願っているかを語ることである。
 今回の「会見全文」でも、豪雨災害の被災地を訪問したこと、鹿児島の離島を訪問したことを語っている。被災者の復興への努力に触れ「心強く思いました」と語っている。
 昨年のビデオメッセージでは、こう語っている。

 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 これを今回は、九州北部豪雨の被災者訪問、鹿児島の離島訪問をとおして、具体的に語りなおしている。こういう「象徴としての務め」を「次代(皇太子)」に継承してもらいたいと願っている。そのための「準備」をしている。

 この国内での「象徴としての務め」の前に、ベトナム訪問について触れている。そして第二次世界大戦にも言及している。戦争への反省が滲むことばである。

 今年2月末から3月初旬にかけて、皇后と共にベトナムを訪問しました。我が国とベトナムとの関係は、近年急速に進み,国家主席始め多くのベトナムの要人が我が国を訪れていますが、私たちがベトナムを訪問するのは、初めてのことでした。ベトナムでは、現在の国家主席御夫妻を始め、4人の指導者に丁重に迎えられ、また、多くのベトナム国民から温かい歓迎を受けました。両国間の緊密な関係に深く思いを致しました。ハノイにおいて、先の大戦の終了後もベトナムに残り、ベトナム人と共にフランスからの独立戦争を戦った,かなりの数の日本兵が現地で生活を営んだ家族の人たちに会う機会もありました。こうした日本兵たちは、ベトナムの独立後、勧告により帰国を余儀なくされ、残されたベトナム人の家族は、幾多の苦労を重ねました。そうした中、これらベトナム人の家族、,帰国した元残留日本兵たちが、その後日本で築いた幾組かの家族との間に、理解ある交流が長く続いてきていることを聞き、深く感慨を覚えました。

 ここでも、天皇は「ひとりひとり」に向き合っている。ここで言及されている「元残留日本兵」というのは人数としては少ないだろう。しかし、そういう少ないひとの生き方、声にも耳を傾け、ことばを発している。「元残留日本兵」だけではなく、「残されたベトナム人の家族」にも思いを馳せている。
 これが「象徴としての務め」なのである。
 第二次大戦のことを忘れない。日本が何をしたか。そのことによって、だれが苦しんだか。その苦しみを、どうやって乗り越えてきたか。それを語るのが「象徴の務め」なのである。
 憲法の「戦争放棄」にこめられた国民の思いを、国民の声として語ることが「象徴の務め」なのである。

 籾井NHKが「天皇生前退位の意向」をスクープし(おそらく官邸がリークした)、そのあとビデオメッセージで、安倍は「天皇は国政に関する権能を有しません」と言うことを強制した。国政への「口封じ」である。護憲派天皇が「憲法改正」について少しでも何かを語ることを封じた。
 こういう安倍の圧力に対する抗議として「象徴としての務め」というメッセージがある。今回のことばにも同じ思いを読み取ることができる。
 平和と国民の安全を願う天皇と、国民を再び戦争に駆り立て「御霊」にして口封じをしてしまう、独裁を思うがままに振る舞いたい安倍の攻防については、「天皇の悲鳴」という一冊にまとめたので繰り返さないが、天皇誕生日にあたって、第二次大戦と地方に生きる人について語り、それを「次代へ継承したい」と語ったことに、しっかり目を向けたい。

「天皇の悲鳴」はオンデマンド出版。(天皇誕生日にあわせて出版しました。)

1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。(送料は無料)



 



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」

2017-12-23 10:15:42 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」(「森羅」8、2018年1月9日発行)

 粕谷栄市「無名」は少しずつ動いていく。

 死ぬ前に、もう一度、その町に行ってみたい。町はず
れに月見草の咲く丘があって、静かな海が見える、その
小さい町だ。

 「町」「町はずれ」「月見草」「丘」「海」と歩くように視点が動いていく。そして、「小さな町」とまた「町」が主語になる。全体がとらえられなおされている。「町はずれ」「月見草」「丘」「海」がひとつになって、「町」なのだ。
 ここから、どうやって動いていくか。どこへ動いていくか。

 その丘に立って、ひととき、涼しい風に吹かれながら、
遠い沖合で、立ち上がっては崩れている白い波頭を眺め
ていたい。

 「丘」にもどりながら、視線は逆に海の「沖」へと向かってひろがっていく。ここまでは「行ってみたい」「眺めていたい」と「願望」が書かれている。
 そのあと、ことばが、少し変わる。「……したい」が消える。

 そうしていると、あたりに、いつのまにか、私と同じ
ように、海を見ている人たちが来ている。それぞれが、
一人一人、それぞれの場所に立って、海を見ている。

 「したい」が「願望」から「現実」に変わる。さらに、

 その面立ちは定かでないし、服装もさまざまだが、私
にはわかる。みんな、過ぎ去った日々に私が出合ったこ
とのある、懐かしい人たちだ。

 「過去」があらわれてくる。
 最初は「したい」。「未来」の形で書かれている。それが「現実」になり、「過去」があらわれる。
 「町」が「町はずれ」「月見草」「丘」「海」と広がることで「町」になったように、「時間」は「未来」「現在」「過去」と重なるようにして広がっていく。重なることで「いま」になっている。
 ふーん、と想いながら読み、
 ここの部分の、

出合ったことのある、懐かしい人たちだ。

 このことば。
 ここで私は、立ち止まる。「出合った懐かしい人たち」ではなく、「出合ったことのある、懐かしい人たち」。「こと」がわざわざ書かれている。「人」を思い出すと同時に「こと」を思い出している。
 直前の「私にはわかる」の「わかる」は、「人」を識別できるというだけではないのだ。「人」との出会いは「こと」という形で広がっている。
 「町」が「町はずれ」「月見草」「丘」「海」と広がり、時間が「未来」「現在」「過去」と広がるように、「人」は「こと」のなかに広がっていく。
 それが次の段落。

 みんな、一言もことばを交わさず、黙って、そこに立
っている。彼らのなかには、私が、死ぬような思いで、
別れなければならなかったひともいるが、そのひとも同
じように海を見ている。

 「別れる」という「こと」があり、その「こと」の奥には「死ぬような思い」と「思い」がある。「こと」は「思い」へと広がる。
 で。
 この「思い」までことばが動くと、「……したい」という「思い」と、それは重なる。ここに書かれていることは、すべて「してみたい」ことなのである。「してみたい」ことが、空間と時間を越えて、融合している。「私」と「そのひと」も融合し「同じように海を見ていたい」なのだ。
 「……したい」という「願望(思い)」というのは個人的なものだけれど。
 途中を省略して、最後の方の部分。

 遠い沖合で、白い波頭が立ち上がっては崩れている。
 遠い沖合で、白い波頭が立ち上がっては崩れている。
 私は、しかし、涼しい風に吹かれて、いつまでも、海
を見ているだけだ。おそらく、私は、もう私ではなくい
いのだ。これが、最後になるかもしれない。

 「私は、もう私ではなくいいのだ。」と、主客の融合はさらに「私」の枠を越えてしまう。どの町でもいい。との海でもいい。どこかに私がいる。それは「私でなくてもいい」。「いる」ということがある。あるいは「あった」、そして、これからも「ある」。

 懐かしい人たちとともに、私は、次第に、自分の名前
の要らない私になってゆくのである。

 「名前のない存在になる」ことが「ある」。「ある」は、いたることろ(場)、あらゆる「時間」に「ある」ということ。
 「私は、もう私ではなくいいのだ。」は、むしろ「私は私ではなくなりたい」という願望、欲望、本能と読み直し、それが「ある」という姿なのだととらえなおしたい。



 池井昌樹「謎」は、粕谷の書いている「ある」を別な形で書く。

ときがたったらときあかせるか
賢治のなげきはときあかせるか
ときがたったらときあかせるか
中也のならくはときあかせるか
けれどときにはときあかせない
ときあかせないなぞをせおって
賢治はいまもあるきつづけて
くらいけわしいなぞをせおって
中也はひとりあるきつづけて
ときがたったらときあかせるが
なんでもかんでもときあかせるが
なんねんたってもときあかせない
ときあかせないなぞがあり
そのなぞだけがよつゆをたたえ
はじまりもなくおしまいもなく
ぎんがのほうへ
いまもひとりで

 「とき」は「賢治はいまもあるきつづけて」で「いま」のという形であらわれる。賢治は「いま」はいない。「過去」のひとであるが、「いま」、ここに「ある」。「あるきつづける」と池井は書くが、「あり/つづける」と読み直すことができる。
 同じように中也も「あり/つづける」。
 「ある」がつづく。
 それは

はじまりもなくおしまいもなく

 とさらに言い換えられる。「はじまりもなくおわりもなく」、つまり「とき」は存在しなくて、「ある」だけが存在する。「ある」のなかに「とき」が含まれる。そして「ある」のなかには「ひと」が「私」がふくまれる。
 「ある」のなかから、たとえば賢治が、中也が、粕谷の場合だったら「死ぬような思いで、別れなければならなかったひと」があらわれ、「いま」を突き動かす。「私」を動かす。「ある」へ向けて。

瑞兆
クリエーター情報なし
思潮社


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋順子「あら」

2017-12-22 10:57:22 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋順子「あら」(「森羅」8、2018年1月9日発行)

 高橋順子「あら」を読む。

亡くなった夫が恋しいというような詩は
書くまいと思っていた
と書くと 不機嫌な声が聞こえる
「恋しい 恋しい」
なんてわたしには書けないよ 恥ずかしいよ
そう言うと さあっと身の周りが涼しくなる
そのへんに もやっていた
くうちゃんが離れるからだ 離れていく先は
わたしの東北の女友達のところみたい
「あら、車谷さん」
と言ってほしいのだ
先日も時ならぬときに鐘が鳴ったそうだ
くうちゃん
詩が終わらないよ
どうしてくれるの?
「知らないよ!」

 4行目が、なかなかむずかしい。
 だれの声か。
 車谷が「恋しい 恋しい」と書けばいいじゃないかと責めている。「亡くなった夫が恋しいというような詩は/書くまい」というようなことは書かずに、「恋しい 恋しい」と書けばいいじゃないか、と車谷が不機嫌に抗議している。「恋しい 恋しい」は高橋の「声」を代弁する車谷のことばである。
 そううながされるのだけれど、「恋しい 恋しい」と書くのは「恥ずかしいよ」。
 口答えした瞬間、周りの雰囲気がかわってしまう。
 不機嫌な声を発していた車谷の気配が消えてしまう。

 ここで、私はもう一度思う。
 4行目の「恋しい 恋しい」はだれの声なのか。高橋の「声」の代弁ではなく、車谷自身の声なのではないか。車谷が「恋しい 恋しい」と言っている。叫んでいる。
 「恋しい」とか「愛している」とか言われたとき、ひとはどうするのだろう。
 「恋しい」「愛している」と、おうむ返しに繰り返す。繰り返すことで「恋しい」「愛する」気持ちと、行動を共有する。
 それは対話というよりは、単純な共有だ。
 「恋しい 恋しい」は高橋のことばでも、車谷のことばでもない。ふたりのことばである。共有されたとき、初めて意味(力)をもつ。共有されなければ、存在しないことばなのだ。
 高橋が「恥ずかしいよ」と言って共有を拒んだとき、そのことばは消える。ことばを共有しようとしていた車谷も消える。
 後半に、

「あら、車谷さん」
と言ってほしいのだ

 という行が出てくる。さびしがり屋の車谷の姿を描いているのだが、この行の、「言ってほしい」がキーワードだ。
 車谷は高橋に「恋しい 恋しい」と言ってほしい。
 3行目の「不機嫌な声」というのは、「言ってほしい」と言っている声だ。してほしいことがあり、それがかなえられないから「不機嫌」。
 「恋しい 恋しい」と高橋が言えば、車谷はそれにあわせて「恋しい 恋しい」とおうむ返しでことばを共有できる。
 言い換えると、車谷こそが「恋しい 恋しい」と言いたいのだ。
 言い残したことばというと変だけれど、それは言い残したことばだ。いつでも「言い残されている」ことばなのだ。
 「対話」が、いつでも「言い残されている」。
 
 だからこそ、(というのは端折った論理なのだが)、

くうちゃん
詩が終わらないよ
どうしてくれるの?
「知らないよ!」

 と、この詩は口げんかのような「対話」で終わる。
 最後の「知らないよ!」は車谷のことば。途中に出てきた「あら、車谷さん」は友達のことば。カギ括弧のなかのことばは、高橋のことばではなく、高橋以外のひとのことば。このことから4行目の「恋しい 恋しい」は車谷のことばであることが証明される。
 高橋は、いつでも車谷の「声」を聞いている。「対話」している。

 ひとつだけ、疑問に思うこと。
 一行目「亡くなった夫」という表現がある。いつごろからこういう言い回しがふつうになったのかわからないが、私は、どうもなじめない。「敬意」(愛情)をあらわしているのかもしれないが、「身内」なら「死んだ」だろうなあ、と思う。
 昔は、身内には「死んだ」、身内以外には「亡くなった」とつかいわけていたと思う。身内以外でも、親身につきあっている人間に対しては「死んだ」と言ったと思う。非常に親しい友達の場合は、知らず知らず「死んだ」と言う。それほど親しくなかったら「亡くなった」と言う。
 谷川俊太郎の「父の死」は「私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ」で始まる。詩に登場する教え(?)子は「先生亡くなった」ではなく「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と叫んでいた。このときの「死んじゃったァ」は尊敬をはるかに上回る。自分の身を切られる悲しみである。「死んだ」は「なくなる」よりも「関係が強い」。
 「敬意のことばは」は「敬い」をあらわすと同時に、「私はあなたとは無関係(同列ではない)」という感じがする。「上下関係」のようなものを抱え込んでいる。上下関係はあっても「共有」はあるのだろうけれど、「対等」の方が、私にはぴったりくる。
 夫婦の、「ごちそうさま」とでも言いたくなるような親密感に「上下関係」(敬意)はどうもしっくり来ない。「亡くなった」では、親身になれない。高橋が車谷と「共有」しているものが、「ひとごと」、言い換えると「芝居」のように見えてしまう。

夫・車谷長吉
クリエーター情報なし
文藝春秋


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇誕生日(情報の読み方)

2017-12-21 15:53:14 | 自民党憲法改正草案を読む
<天皇誕生日(情報の読み方)
自民党憲法改正草案を読む/番外158(情報の読み方)

 2017年12月21日毎日新聞(西部版・14版)の一面。

退位後12月23日平日/天皇誕生日 二重権威を懸念/政府検討

 という見出し。

 記事は、見出し通り。だが、誰が「二重権威」と感じるのか。前文に「国民の目に「二重の権威」と映る懸念がある」と書いてあるが、いま天皇を「権威」と感じている国民がどれくらいいるか。昭和天皇が死んだとき、国民は喪に服すよりも、ビデオ店にかけこみビデオを確保することに奔走した。テレビが追悼番組一色になりうんざりしたからだ。もう天皇は「権威」ではない。憲法に書いてある通り「象徴」である。あいまいである。
 この記事はむしろ、安倍がなんとしてでも天皇を葬ろうとしていることを証明していないか。
 籾井NHKを使い「生前退位意向」をスクープさせ、つづいてビデオメッセージで「天皇に政治に関する権能はない」と言わせた。護憲派天皇の口封じである。
 憲法改正を推し進めるとき、いまの天皇の「すがた」が少しでも見えるとまずいのだ。天皇が憲法を尊重していた。その天皇を国民が思い出すことがあってはならない。天皇を抹殺し、憲法を改正し、戦争を開始する。国民を「御霊」にしてしまう、完全に口封じをし、独裁をすすめる。
 そういう安倍の強い意志を感じる。
天皇と安倍とのあいだに、どんな「攻防」があったか。
それを推察したのが「天皇の悲鳴」。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072865
オンデマンド出版です。URLにある
1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。(送料は無料)



table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="amazon-aff">憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ークリエーター情報なしポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする