詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます。

2012-02-24 00:00:00 | 詩集
しばらく休みます。(代筆)
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒木時彦『sketches2』

2012-02-23 23:59:59 | 詩集
荒木時彦『sketches2』(書肆山田、2012年02月10日発行)

 荒木時彦『sketches2』は、ごく短いメモのようなことばと、いくらかまとまりのある散文が交互に動く。散文の部分は「日記」に近いかもしれない。散文の部分は、あまりおもしろくない。ことばに「過去」がない。「肉体」がない。

カーピーさんの所有している島に連れていってもらった。島でバーベキューを食べた後、川にビーバーのダムがあると聞いた。ぜひ見たいと言うと、案内してくれた。草木が手入れされないまま生い茂っている道を歩いて、しばらくすると川にでた。少し離れた場所からダムを見ると、ビーバーが泳いでいるのが見えた。木の枝を咥えている。思っていたよりビーバーは大きく、ダムもかなり大がかりなものだ。ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?

 荒木は「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」に荒木の「過去」を忍び込ませたつもりかもしれない。しかし、あまりに抽象的すぎて、手触りがない。それは、その直前の「思っていたよりビーバーは大きく、ダムもかなり大がかりなものだ。」の「思っていたよりも」に通じることである。「思っていた」では、だれにもわからない。荒木だけがわかる「思っていた」である。そこには「肉体」がない。
 荒木をそこへ案内してくれた「カーピーさん」にも「過去」が感じられない。荒木とカーピーさんの「衝突」がない。どうしてもゆずることのできない何かのぶつかりあいがない。「肉体」がない--と私は感じてしまう。
 書いてあることばは全部理解できる。それが、問題なのかもしれない。えっ、なぜ? なぜ、ここでこんなふうにことばが動く? そういう疑問というか、ひっかかりがあると、「肉体」の手触りが出てくるのだけれど、「思う」だけがあって、何も見えて来ない。
 この散文に比較すると、「メモ」の方が手触りがある。

庭にでると、光が眼をさす。
ようやく頭がはっきりする。


             時間

 「光が眼をさす。」そして、そのことによって「頭がはっきりする。」このときの「頭」が、「思う」につながる「思考」ではなく、「思考」以前の「肉体」に感じられる。「肉体」としての「頭」--まだ何も考えていない「頭」が、何も考えていないにもかかわらず、「はっきりする」。
 この感覚は、うれしい。「手触り」がある。そうして、そういうことばに触れると、荒木の「肉体としての頭」と、私の「肉体としての頭」が「ひとつ」になったような感じがする。--別なことばで言うと、あ、そういう瞬間があるなあ、そういう「肉体としての頭」の瞬間を覚えているぞ、と感じるのである。
 そのあとに、ぽつんと置かれた「時間」ということばは、まあ、そういう「頭」が何も考えないまま「はっきりする」瞬間を、そこにとどめ置くためのことばなのだろうけれど、これはどうでもいいな。荒木には申し訳ないけれど、「時間」ではなく、もっと具体的な「もの」の方がきっとよかったと思う。「時間」ということばを置くことで、せっかくの「肉体としての頭」が、「時間」ということばを置いた瞬間から「抽象」になってしまう。「思考(思う)」になってしまう。
 --というのは、私の、ぜいたくな欲求かもしれない。
 荒木は、「スケッチ」のなかに「思考」を書きたいのだろう。「思考」をスケッチにする、というのがこの詩集の目的かもしれない。
 でも、スケッチは「思考」になる前の、これはいったい何になるのだろう、わからないけれど、この線が(このことばが)きれいだなあ、というような予感だけの方がおもしろいのでは、と私は思ってしまう。「思考」がまじってくると、その先に「完成予想図」のようなものがあらわれ、せっかくのスケッチを「体系」へと統合する力が働き、自由な感じが失われるように思えるのである。

 ただ、そこにある何かだけを書いてものが、印象に残る。

朝食をとる。
バター・トースト。

 「バター・トースト」という音が美しい。その音のなかへ、朝の透明な光が斜めにおりてくる。そうして、バターが金色に輝く。--そういうことは書いていないのだけれど、そういう「空気」が見える。
 こういう部分は、たしかに「スケッチ」だと思う。
 そこには何も書いていないのだけれど、書いてひとには、そのわずかなことばだけで「空気」を思い出すことができる。
 そうして、読者には(私には、ということなのだけれど)、そういう勝手な空気を補う自由が与えられる。勝手なことばを補って、そこに書かれている「スケッチ」を「スケッチ」ではなく、ひとつの「作品」にしていく自由が与えられる。
 これは、楽しい。
 「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」というようなことばの場合だと、えっ、ここで、たとえば荒木の親子喧嘩とか親戚付き合いとかを考えないといけないのか、と思い、ちょっと気が滅入る。そして、そこには具体的な荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれていないので、どうしたって私自身の親子喧嘩、親戚付き合いで肉付けないといけないことになる。あ、めんどうくさい。いやだなあ、そんなことを思い出すのは、ということになる。
 これがもし、そこに荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれているなら、その具体的な「過去」と私の「過去」が出合い、あっ、そんなことがあるの?という「違和」が生まれる。「異化」が生じる。そうなると、そこに「詩」への手がかりが生まれるのだけれどね……。

 次の作品は、メモと散文が結合した美しい結晶である。

Penco というラベルライターを買った。
文字盤にアルファベットや記号が打ってあり、
文字をラインにあわせてハンドルを強くにぎると、テープにその文字がおされる。

 「ラベルライター」をつくった人の「肉体」と荒木の「肉体」が出合い、ひとつの仕事をする。そのとき荒木は荒木でありながらラベルライターをつくった人であり、その機械(?)の精密な(頑丈な、素朴な)構造そのものである。
 「もの」が「肉体」になる瞬間が、的確に、とても美しく書かれている。
 こういうことばを、もっともっと読みたいと思う。
 この詩は、実は、あと少しつづいているのだが、それは引用しない。少しつづいている部分が詩を壊している、と私は感じているからである。


静かな祝祭―パパゲーノとその後日談
荒木 時彦
草原詩社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山従子『死体と共に』

2012-02-22 23:59:59 | 詩集
中山従子『死体と共に』(澪標、2012年02月02日発行)

 中山従子『死体と共に』はタイトルがよくない。詩集のなかに「死体」がたくさん出てくる。私はまだ途中までしか読んでいないのだが、その死体は「私の死体」である。いつも「私」は「私の死体」といっしょにいる。タイトルのとおりなのだ。詩はそのままでもいいのだが、タイトルで『死体と共に』と書かれてしまうと、気持ちがそがれてしまう。理由は簡単である。「裏切り」がないからである。どんなときでも、読者は書き手に裏切られたい。あ、そうなのか。知らなかった、と思いたい。その「知らなかった」という印象がタイトルにあると、最初から薄れてしまうのである。
 
 それはそれとてし、詩はなかなかおもしろい。「大通り」という作品。

街の大通りを歩いていると バケツの中にいるはずの死体がすぐ横を歩いている 「君はいつもひらひら揺れていて いったい君が何を見ているのか知りたいよ」と彼は言う 私は彼に秘密を打ち明けることにした 「実は私は何を見てもみんな同じに見えるんだ あのオレンジの看板の架かっているビルも十秒も見ていると 白い一枚の布に変わってしまうんだ あの灰色の高速道路も 走り抜ける青い電車も みんな白い布に見えてくるんだ」 彼は黙ったままうなずいている 「こうして歩いていると街じゅうが白い布で溢れていて 風に吹かれて同じリズムで揺れているんだ」「この風景は美しくて気に入っているんだけれど 毎日 自分の行き先を見失ってしまうよ ついでに聞きたいんだけど 私の行き先は何処なのかなあ」彼に質問した するとその瞬間 死体は横にいなくて私が手にさげていたバケツの中で正座していた

 「死体」の登場によって、「いま/ここ」の世界がふつう私たちが見ている世界と違ってくる。そして、その「違い」には一定の「決まり」がある。この作品では、世界のすべてが「白い布」にかわるという点が、その「違い」である。この変化に狂いはない。
 こういう描写の「一定性」を、私は「定規」が一定していると呼んでいる。対象と私との距離のとり方が一定している。そのため、ことばが安定している。中山のことばを借りて言えば「同じリズム」でことばが動いているということになる。これは気持ちがいい。読んでいて安心する。
 このすべてが白い布に変わる--という描写のリズムが最後までつづけば最高なのだけれど、これはなかなか難しく、どうしてもずれてしまう。
 すべてが白い布になるので「自分の行き先を見失う」まではいいのだが、「ついでに聞きたいんだけど 私の行き先は何処なのかなあ」が奇妙である。ここでは「見たもの」が「白い布に変わる」という変化が「私(中山)」によって捨てられてしまっている。「見る」こと、「視線」が捨てられている。そして、そのかわりに「質問する」。行為のありようが動いてしまう。
 だいたい「死体」に聞かれて、それに答える形ではじまったことばが、ここでは突然、「私」が「死体」に質問する。これは、一種のルール違反だね。
 そのことによって、「するとその瞬間 死体は横にいなくて私が手にさげていたバケツの中で正座していた」と世界の描写(街の描写)が消えて、「死体」の描写になるのだから、それはそれでことばの論理(物語の構造)としては「正確」なのだろうけれど、ここがつまらない。
 そういう「正確」(この作品に限ってのことではなく、「物語」という構造そのものがもっている「正確さ」)に戻ってしまうのでは「死体」の意味が半減する。「死体」が登場し、それが「生きている」というのは、すでに「物語」を逸脱した「特別の物語」なのだから。その「特別なものが刈り」の「特別な定規」が突然しまいこまれて、いままで「特別な定規」で正確にとってきた距離(正確に測ってきた距離)は、実は「架空」とはいう距離、「寓話」という距離でした--と説明することになるからだ。
 こういう説明はいらない。「寓話」あるいは「小説」ではないのだから。
 「寓話」「小説」でも、たとえばカフカの作品では、こういう説明はないね。
 ことばの真実は説明を拒絶したところで動くものなのだ。説明を排除したとき、ことばはことば自身の肉体で動きはじめる。そして、そこから詩が生まれる。

 詩集のタイトルに「死体と共に」とあると、最初から、これは「寓話です」といってしまっているようなものなのだ。「死体」という存在によって「距離」が変わってくる(定規が変わってしまった)人間の見た「世界」をこれから書きます--と前置きつきで語られているような気持ちになる。
 「死体」の登場によって変化する風景が、もっと強烈なら、それはそれでかまわないかもしれない。けれど、見ているものが白い布で覆われる、白い布の世界に変わってしまうというような、何か静かな変化では、「死体」を強調するのは、なんといえばいいのだろうか、手品の種明かしを聞いて上で手品を魅せられるような感じで、積極的に中山の世界へと入っていけない。入っていっても、常に引き返す準備をしながら歩くことになってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎『島嶼論』(3)

2012-02-21 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(3)(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 「記憶の捨て場」は、時里らしい(?)作品である。3連から構成されている。その1連目と3連目が「散文」の形式であることも、時里らしさに関係しているかもしれない。ことばの緊密感が「散文」では非常に高くなる。

使用済みのだれかの記憶を抹消したものに、ぼくたちの記憶は記録されるのだろうか。時々消去しきれなかった痕跡のようなものがぼくの記憶ににじむ時がある。自分の境遇や、体験や、履歴からは決して辿れないその痕跡に戸惑うことがある。

 「記憶」と「記録」、「抹消」「消去」と「痕跡」。そこに書かれていることをていねいにたどり、肉体に取り込むには手間隙がかかる。同時に、ていねいにではなく、なんとなく取り込んでしまうことは、簡単にできる。あ、いま、何か複雑なことを言ったなあ。なんだったっけなあ。よくわからないけれど、記憶とか記憶が抹消(消去)されて、その抹消(消去)の痕跡が記憶とか記録に残っていて、でもそれは自分の記憶なのか、それとも記憶を消したひと自身が持っていた何か--つまり抹消、消去するときの「手つき」のようなものが「ぼく」に与えた影響なのかなあ。たとえばそれは、汚れた体をだれかが拭いてくれたとき、体が感じる相手の「手つき」のようなものかなあ。まあ、消して、消されて、そのとき何かが「影響」として残るということだろうなあ。こういうことは、はっきりわからなくたっていいや。書き出しのことばだし、大事なことなら後でわかるようになるだろう--というような、と私は、あいまいなことはあいまいなまま、それで納得してしまう。先へ進んでしまう。
 詩なのだから。--つまり、詩を読むというのは、書いたひとと私との間の一種のセックスであり、あくまで個人的なこと。プライバシー。そこでどんなことが起きようが、第三者には無関係。間違っていようが、それは単に私の問題。私と時里のことばのセックスに行き違いがあるというだけであって、時里以外のだれにも迷惑はかけない。「あ、そんなところを刺激されても感じない」と時里が拒絶すれば、そうか、違っていたかと私が思えばそれでおしまい。
 で、作品にもどると……。記憶と記録、抹消と消去。似ているけれど、違う。その違いは? さらに痕跡というのは、ほんとうはどっちのもの? 抹消した方? 抹消された方? どちらか一方だけ? それとも両方? 考えはじめると、目が痛くなる。
 私は目が悪いので、なんだか活字の迷路に迷い込んだような、そして迷いの中で、ふと何かを発見したと勘違いするような--眩暈のようなものを感じる。時里は、この眩暈のようなものをことばのセックスとして提供してくる。その眩暈の渦がこまかくて、はやすぎて、私は酔っぱらってしまう。
 だから、その眩暈の渦を抜け出すことだけを考える。(セックスで言うと、反撃?の手がかりを探す、ということかな。)
 2連目。

この島。いまここにいるこの島ではないこの島にいたという記憶の耳。
「島は半島の記憶において島である。」
通訳が困ったような顔をして子どものことばをそう直訳してくれた。
まさかこどもが言うようなことばではない。
しかし 通訳は真顔で次のように意訳してくれる。
「島は記憶の捨て場である」
「半島」は島では「黄泉」の俗語として使用される頻度が高いが、そう解釈すると、自分たちは「黄泉」に連れて行ってもらえなかった記憶だと言うのだ。

 この連にも「通訳」「直訳」「意訳」「解釈」と微妙に動いていくことばがあって、それが眩暈を誘うのだが……。
 私は「記憶の耳」の、その「耳」にこだわるのだ。
 ここから時里に近づいて行きたいと思う。
 ことばと、「通訳」「直訳」「意訳」「解釈」--これは、時里の詩学の基本テーマだと私は感じている。つまり、あることばを、どう「通訳」するか。どう「解釈」し、言いなおすか--そのことが時里の詩学の中心である。そして、そのとき時里は「物語」を利用する。「通訳」を「私(時里)」と「存在(世界)」の一対一の関係で動かすのではなく、「通訳」のことばを「第三者」を登場させることで明確にしながら世界を把握し直す。世界の上にもう一つ世界をかぶせる、世界のなかにもう一つ世界を誕生させる。そうして、そのふたつの世界--最初から存在する世界と、「通訳」することで誕生した世界を向き合わせ、その「差異」のなかに「私(時里)」がいる、という形で「私(時里)」を浮かび上がらせる。
 時里は、つまり「通訳」なのだ。
 「通訳」というのは、ある意味では必要のない人間である。だれかとだれかが、彼ら自身でことばを流通させる方法を考えればいいだけのことである。でも、時里はそこに「通訳」を介在させる。そうして、その「通訳」こそが、実は存在する唯一の世界なのだ、ということを明らかにするのだが……。
 この眩暈のような論理の中で、論理だけが動くような世界の中で、「記憶の耳」の「耳」。その肉体の部分がぽつんと浮いてくる。
 何、これ?
 わからない。わからないけれど、「耳」そのものは、私の肉体にもあるので、「耳」をはっきりと理解することができる。そして、そのことが、時里のことばを私に身近な感じにさせる。「耳」があるので、時里のことばが身近になる。
 時里は、ことばを「耳」で感じているのだ。「音」で感じているのだ。「記憶」「記録」「抹消」「消去」というようなことばは、文字の重複によって視覚に強く訴えてくるが、そういうときでも時里はことばを「耳」で聞いて動かしている。だから、すーっと読むことができる。ことばが「耳」から肉体に入ってくる。
 これは2連目の1行目が、もっと、そういう印象が強い。

この島。いまここにいるこの島ではないこの島にいたという記憶の耳。

 繰り返される「この島」。その「この」。これは視覚で整理すると、とても変になる。複数の「この島」が同時(いま/ここ)に存在する。(この言い方は正確ではないかもしれないけれど……)。
 しかし、「耳」で聞いたことばは、聞いた端から消えていく。「この島」と「この島」は同時には聞こえない。時差がある。そして、そこに時差があるから「ここ」にそれぞれ出現する。
 あ、変だね。この言い方。
 言いなおせば……。
 「耳」では、あることばを聞いた瞬間にそのことばがそこにある。「耳」はつぎのことばを聞きながら、前に聞いたことばを思い出し、反復し、そこに「意味」をつないでみることができるが、その意味は「耳」を媒介にして、ことばをつなぐときにのみ、その瞬間瞬間存在するのもであって、いつまでもそこに定着して存在しているのではない。
 「耳」--耳で聞くことばは、時差を利用して、必然的に「ずれる」。違ったものになる。「時差」があるなら違ってもかまわない--と時里は書いているわけではないが、ここに「耳」が登場することで、時里の「物語」が「肉体」になる。そんな感じがする。で、そこに、私は惹かれ、また安心する。
 「直訳」「意訳」「解釈」--その「解釈」が「耳」がつくりだす「時差」と重なりながら動いていく。そのことに、私は、とても安心する。私の肉体が「眩暈」を感じるのは最初に詩を読んだときとかわらないのだが、その眩暈が「眼」で起きるのではなく、「耳の時間」として起きることに、とても安心感がある。
 で。
 「耳の時差」が、「記憶」という問題にも重なる。通訳-直訳-意訳-解釈とことばが肉体を通るとき、ことばはそれぞれ「記憶」となり、そのつど「いま/ここ」へ呼び出される。「記憶」は呼び出されると「記憶」ではなく「いま」である。だからこそ「いま」のなかに「差異」がうごめく。不思議な形で動き回る。

 「記憶の耳」の「耳」ということばがなかったら、私はたぶん「通訳-直訳-意訳-解釈」ということばの運動の「時差」になじむことができず、眩暈の混乱のなかに取り残されたと思う。
 「耳」があるから、あっ、「いま/ここ」に時里といっしょにいる、いっしょに生きているという喜び--セックスの喜びがあふれてくる。

 3連目。

島では、ことばは純度の高い記憶にまで煮詰められている。それゆえに島のことばは年齢差も性差も文法も語彙も交換と循環の交通路を絶たれて、島ごとに変異が際だっている。

 島では、すべてが詩である。詩では、すべてが島語である。言い換えると、時里の詩は「時里語」で書かれている。それは「日本語」にみえるけれど「日本語」ではない。そういうことばを、どうやって理解するか。
 非常に俗な言い方になるが、「外国語」を覚えるには、そのことばを話すひととひととセックスするのがいちばんである。肉体をとおして、ことばがどんなふうに動くか、それを知るしかない。--だから私は詩を読むとき、「肉体」を探して読む。「肉体」のないことばは、「頭」だけで書かれたことばは、私にはどうにも手におえない。


書影でたどる関西の出版100 明治・大正・昭和の珍本稀書
生田誠,石原輝雄,林哲夫,藤田加奈子,毛利眞人,宮内淳子,山本善行,小川知子,吉田勝栄,小野高裕,北川久,季村敏夫,菅谷富夫,熊田司,高橋輝次,戸田勝久,時里二郎,中尾務,中野晴行,野村恒彦
創元社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎『島嶼論』(2)

2012-02-20 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(2)(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 「コホウを待ちながら」という作品が、この詩集の中では、私はいちばん好きである。おもしろいと感じる。

コホウはやってくるだろうか

稲田の境に立つ柿の葉のそよぎ
穴井の底の水影のくらいゆらぎ

こうして旅のなかぞらに
途方にくれて
コホウを待つ

くさつつむ いしのつか
ひとも うまも
みちゆきつかれ
コホウのやってくるのを
待っていたのだろうか

コホウのことはわからない
素性を隠した神仙の名のようにも思えるが
路傍の小さな祠に住む名もなき神のしわぶきにも聞こえる

 「コホウ」とは何なのか、だれ(?)なのか、私はもちろん知らない。知らないことを知らないまま、かってに「誤読」して書くと、無知、あるいは低能という批判があっちこっちからやってくるのだが、知らないことは知らないので、私はしようがないと思っている。「辞書」か何かで調べれば何かがわかるかもしれないが、それはどっちにしろ「知る」こととは別問題。「辞書」や「文献」で調べたことは「知ったつもり」になるだけなので、始末に悪い--と私は思っている。で、知らないことは知らないまま、知っていることを書いていく。わかることを書いていく。
 この詩で何がわかるか。
 「コホウ」について、時里は「神のしわぶきにも聞こえる」と書いている。ここがおもしろい。この部分に、私の「肉体」は反応する。「コホウ」。そうか、しわぶき、咳か。「コホン」コホッ」なら軽い咳払いかな? そのとき「ン」「ッ」は聞こえるようで聞こえない。「コホウ」の「ウ」を時里は「ン」「ッ」のように聞こえるような、聞こえないような音としてとらえているんだな、とわかる。
 私は黙読しかしないが、その私の黙読でも、「ウ」は「ホ」のなかに消えるようにすいこまれていく。「コホー」がいちばん近い音だろうか。「ン」や「ッ」の伸びる音ではなく断ち切られる音だから、ほんとうは違うものである。でも、明確な形を持たないまま、消えてしまうという点では似通っているかなあ。
 --というようなことは、「意味」とは無関係なことがらなのだけれど、この「神のしわぶきにも聞こえる」ということばを読むとき、私の「耳」と「のど」は、ぐいっと時里に近づく。そして、「コホウ」という音が私の肉体の中で響く。
 ここから、私の「わかった(わかる)」という実感が生まれる。実感といっても、もちろん私の実感なので、私が感じていることが時里の感じていることと同じであるという保証は何もない。ようするに私の「誤読」である。--でも、私は、その「誤読」を手がかりにことばを読むのである。
 詩のつづき。

すべなくて
小さくコホウと呼べば
いっそうさびしい現身(うつそみ)のわれとなり
かつて<コホウ>と口うつしに言わせた少年の
うすいくちびるのかたちに開いた
あけびの花の香のする方へ
わが旅程はねじれ

 「神のしわぶきにも聞こえる」その音を、声に出す。「コホウを呼ぶ」。そのとき「肉体」がかわる。「いっそうさびしい現身のわれとなり」。「現身」というのは、この世に生きている人間くらいの「意味」だと思うけれど、その「現身」のなかにある「身」の文字が、私には「肉体」そのものを指しているように感じられる。「意識」ではなく「肉体」。
 「コホウ」と声にする。そうすると、その声は肉体に働きかけて、いままでとは違った肉体がそこに出現する。「われとなり」の「なる」が、出現するということ。その「肉体」は「いっそうさびしい」。それは「コホウ」が誰かわからず、コホウがやってこないからでもあるのだが、コホウがやってこないのはコホウが私になってしまったからでもある。この、誰かを待っていて、待っているひとが来ないさびしさがコホウの「肉体」なのかもしれない。
 ここには不思議な「肉体」の共有がある。重なり合いがある。「神のしわぶき」という「無意味」なもの。その無意味を具現化する神の肉体。その肉体とコホウと「われ」(時里と、かりに書いておく)が「一体」になる。
 「コホウ」という音をとおして、まったく別の存在がひとつになり、そしてまた分かれていく。そういう瞬間が、ここにある。
 そして、それはまた別の「肉体」を呼び起こす。「<コホウ>と口うつしに言わせた少年の/うすいくちびる」。口移しに言わせたのは「コホウ」自身か、あるいは「われ(時里)」か。どちらでもいいが、「われ」と読んでおく。
 「口うつし」とは、ことばを言って、それを復唱させることだが、そのことに「うすいくちびる」ということばを重ねあわせると単なる「復唱」を越えるものが浮かび上がる。実際にくちびるを重ね、そのくちびるの薄さを実感する--そういうあやしいげな肉体の動きも見えてくる。
 --こういうことは、書いてないといえば書いてないのだが、そういう書いてないことを「肉体」は知っている。「肉体」は感じてしまう。
 そして、その「肉体」のまわりでことばはねじれる。「純粋な意味」を失い(抽象的な意味を失い)、「肉体」そのものが知っていることだけを呼び寄せる。
 「あけびの花」を私はいま思い出すことができない。たしか同級生の家の庭にはあけびの木があって、実際、そのあけびをくすねて食べたことは何度もあるが、花は思い出せない。そのかわり、むらさきのあけびがぱっかり開いた口(それは私には「少年」というよりも「おんな」の性器だけれど)、そしてその腹のなかにある白濁した種、あるいは透き通った種(これは「少年」の噴出した精液のかたまりのようにも感じられる)が、セックスを想像させる。肉体の交わりを想像させる。
 実際に、その「少年」と「われ」の間に肉体の交渉があったかどうかは、どうでもよくて、たとえそれが想像だけだとしても、その想像は「逸脱」である。そして「逸脱」は「旅程のねじれ」(ゆがみ)でもある。

 実際にあったのか、なかったのか。なかったとしても、こういうことばを読めば、「肉体」は、そこに「肉体」の交渉を「感じて」しまう。つまり「知ってしまう」。「わかってしまう」。
 そのとき、やはり「肉体」はかわってしまう。

胸のつかえをうたによみ
うたの空虚をうつしうつし
脛の痛みに紛れて寄りそってくる
かそけさの影には気づいていても
コホウはそこにいない

すれ違うひとも絶え
驟雨にぬぐわれた島山を見晴るかす馬がえしの道を
やってくるもののように歩く
コホウのように歩く

 「われ」は最後は「コホウ」になってしまう。それは「コホウ」の「意識」かもしれないが、「意識」よりもまず「肉体」である。だから、「歩く」という動詞が「コホウ」を引き受ける。
 で、その「コホウ」に「なる」前--その直前の連に書かれていることが、ことばと音と肉体の交錯した感じそのもの--実感として「ある」。これがあるから最後の「コホウのように歩く」がいっそう実感できる。「コホウ」に「なる」、そして「コホウ」として「歩く」ということが肉体に迫ってくる。
 「空虚」は、たぶん時里の「好み」のことばのひとつだと思うが、この「空虚」を何と読むのか。どういう「音」として読むのか。時里は「るび」を振ってないが、私は「うつろ」と読みたい。
 
うたのうつろをうつしうつし

 「う・つ」の音の反復、「うた」が「うつろ」に変わる。「胸のつかえ」を「うた」にして詠むとき、それは一瞬美しい形で結晶するのだが、受け止めるひとがいないとき、うつろに広がり消えてしまう。そして、ただ「われ」という「肉体」が残る。
 「うつしうつし」は「映し映し」なのか「移し移し」なのか、あるいは「鬱し鬱し」なのか。「鬱す(し)」ということばはないだろうけれど、胸の「うつろ」を埋めるのは「鬱」である。
 あ、こんなふうに読んでしまうと、「うたの空虚はうつしうつし」は「胸のつかえ」に逆戻りしてしまうのだけれど、これは「逆戻り」というより、反復・往復、そして「一体化」かもしれないなあ。
 ことば(気持ち、感情)と肉体が、音の中で往復し、融合し、そのときそのときの都合(?)で、それぞれの存在になる。それぞれの存在になりながら、またいつでも「ひとつ」に戻ることができる。
 そんなあいまいな、そんないいかげんな、という「批判」も聞こえてきそうだが、まあ、詩なのだから、こういういいかげんというか、あいまいな状態の部分を残したまま、こんな感じだろうなあと「肉体」で受け止めるしかないなあと思っている。



 ちょっと「意味」を追いすぎた感想になったけれど。書き漏らしたことを追加。

こうして旅のなかぞらに
途方にくれて
コホウを待つ

 この3行の「こうして」「とほう」「こほう」の音の動き。これは美しいなあ。「旅のなかぞら」の「なかぞら」という音は「こう」「とほう」「こほう」とは違う音なのだけれど、その響きがあるから、余計に美しく感じる(のかもしれない)。
 そのあとの「くさつつむ いしのつか」も何度でも読み返したいくらい美しい。
 こういう美しい音から、「肉体」を通って「さびしい」「空虚」へ動いていくのが、変(?)といえば変だけれど、それが時里の肉体なんだなあ、思想なんだなあと思う。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎『島嶼論』

2012-02-19 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 時里二郎『島嶼論』は「散文詩」を読みながら、私は、すぐに「ほーっ」と声が漏れてしまった。
 「をりくち」という巻頭の作品。

そのをりふし
こかいんを鼻腔にしのばせ
かそけき花虻のえんじんを組み込んで
あなたの影法師はぬかるみの地誌にまみれた

驟雨の束を刈り
霧雨をおとがひにあつめ
あをさぎの眼差す吃水線に
しゅんしゅんと綺語が沸き立つ

道にたふふる人も馬も
古石(ふるいし)のふみのひそけさ

 最初は時里のことばが、ことばの何を力に動いているのかわからなかった。「えんじん」が何かわからなかった。3連目まで読んで、「あっ」と驚き「ほーっ」と声が漏れたのである。

古石(ふるいし)のふみのひそけさ

 これは、「意味論」的には、道にある石、人にも馬にも踏まれつづけた石に、石の歴史を読みとる--つまり、そこを歩いた人を、そして馬を--その歴史を読みとるということだろう。石が語る「物語」。それは、とても「ひそか」なものである。つまり、はっきりとは聞こえないものである。
 --と読んでいくと、これまで私がなじんできた時里の「散文詩」と類似のものになる。ほんとうはそこには存在しないもの、あるいは存在するとしてもとても微細なもの、それをことばの力で揺り動かし、イメージとして拡大し、ひとつの世界を構築する、という詩につながる。
 この詩集の作品群でも、そういうものを目指しているのかもしれない。目指しているのかもしれないけれど、「散文詩」のことばとは違ったところがある。いや、違っていないのかもしれないが、行わけにすることで鮮明になったことばの動きがある。
 音楽である。

ふるいしのふみのひそけさ

 この1行のなかにある「は行」の動き。それから「い」という母音の動き。「音」が繊細に響きあっている。
 そう思って読むと、

みちにたふるるひともうまも

 この行にも「は行」がある。「倒れる」ではなく「たふるる」ということばを動かすことで「ひと」がしっかり結びつく。
 そして、それよりも何よりも。
 「たふるる」と「うま」。その「ふ」と「う」の響きあい。
 「たふるる」は声に出すときどう出すべきなのか、私は、実は知らない。た「ふ」るる、と声に出すとき(といっても、私は朗読はしない。あくまで黙読で、頭の中で声を出すのだが、そのとき喉は動き、舌は動き、唇も動く。ただし、これはすべて「脳」のなかの信号だが……)、「ふ」は実は音にならない。暗い、何といっていいかわからない濁った響きのままどこかへ消えていく。
 「うま」の「う」。これは、頭(脳)のなかに響く音としては「ん」に近い。「音」がない。「音」がないところ、その沈黙を破って、声そのものが噴出してくるときの、不思議な暗さがある。閉ざされた何かがある。
 「ふ」と「う」は、その音がない暗さでしっかり結びついている。
 あ、これが「ふみ」の「ひそけさ」というものかと思うのだ。「たふるる」と「うま」の「ふ」と「う」の間には「意味」以上の、声の(肉体の音楽の)交流(文のやりとり)があるのだ。
 こういうことはひとつひとつ説明する(?)のは難しいというか、めんどうくさいことである。黙読したときに肉体の内部で響く音というのは、もうそれだけで矛盾しているし、その聞こえない音(発せられなかった音)をあれこれとあつめて、この音とこの音と書いても、結局ひとりよがりの領域を出ないと思うと、無意味な気もする。
 だが、私が時里のことばから感じたのは、ことばの、そういう響き(音)の交流、和音、音楽なのである。
 「ぬかるみの地誌にまみれた」の「み」、あるいは「地誌」を含めた「い」の。さらには「な行」と「ま行」の親密性。そのなかにあって「か」という音の異質な輝き。しかし、その「か」の輝きは、先行する「かげぼうし」の「か」と共鳴している。
 「驟雨の束を刈り」は、この1行そのもののなかには音の響きあいがないようにみえるけれど、「刈り」の「か」が「影法師」「ぬかるみ」の「か」と響きあうし、「束」の「ば」と「影法師」の「ぼ」、「ば行」と呼びかけあう。
 「霧雨をおとがひにあつめ」には、きり「さ」め、おとが「ひ」が、た「ふ」るる、「う」まの関係に似ている。「霧雨」は「驟雨」と「雨」という漢字(表意文字)で眼に印象に残るが、きりさめと読むときにすばやく入り込む「あ」が、「あ」つめと響く。

 そんなことまで時里は考えていない、意識していない、かもしれない。
 けれど、時里がどう意識しているかは、あまり私にとっては関係がない。私は、そういう音を無意識に選びとる時里の肉体(耳と喉)から、時里のことばに勝手に親近感を感じるのである。そして、あ、これはいいなあ、と思うのである。好きになるのである。

 そして、これはいいなあ、と思いながらも。

 「あをさぎの眼差す吃水線に」は、この詩の中ではかなり異質で「音」とは違うものと呼びあっている、と感じ、そこでつまずく。
 「驟雨」「霧雨」の影響があるのかもしれない。「眼差す」を私は「まなざす」と読んだが、それで正しいかどうかわからない。「まなざす」という「動詞」があるのかどうか、それもよくわからない。私自身は、「まなざし」という名詞はつかっても「まなざす」という動詞はつかわない。
 また「吃水線」は「喫水線」のことだと思うけれど、そう理解していいのかどうかわからない。
 ここには何かしら時里の「散文詩」のことばの名残があるように感じる。視力と、視力が識別する「差異」。「眼差す」ということばのなかにある「差」を含んだことば「差異」。
 時里は、散文詩ではある存在ともう一つの存在を接近させ、接近させることではっきりする「差異」を手がかりに、「差」そのもののなかへ入っていく。
 そのときの運動が、この「あをさぎ」という1行に残っていると、感じる。

 でも、この作品の基本は、やはり「音」だと思う。音のなかの遠い脈絡をたどる耳と、そのかすかな音を反復する(唱和する)肉体を感じる。

雨に濡れ
さるなし
やまぶだうの葉
ゆきなずむ
ここを撫でて
擦り切れた羽のやうに
うたを接いでいく揚力をうしなつて
海のあなた
山のさへ

みのも
かさも
つけず

口を折り
開いた分包から微粒のけぶりたつ薬香にむせかへる
旅寝の
夢の
ほどろ
ほどろに
さあをい穂状の腸(わた)がふるへ

さながら風景の木霊のやうに
島山(しまやま)のさみどりが
斉唱してゐる

 「海のあなた/山のさへ」は、「海の彼方(向こう)/山の方へ」という意味なのだろうけれど、その「山のさ」の「さ」の音がきれいだなあ。
 「さあをい」「さながら」「さみどり」と繰り返されるが、違う音といっしょにあるのに、それこそ、あ、「斉唱」だと感じる。

 時里は「音楽」の詩人でもあったのだ--と強く感じた。









ジパング
時里 二郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「寒き男の炎」ほか

2012-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「寒き男の炎」ほか(「白黒目」33、2012年01月発行)

 豊原清明のことばを読んでいると、ときどき「肉体」だけになるときがある。--という言い方は、きっと、だれにもわからないかもしれない。
 豊原の「肉体」のなかにのみこまれてしまって、私の「肉体」がなくなる。かといって、そのときそこに豊原の「肉体」があるのかといえばそうではなくて、ただ「肉体」というものだけがある。固有名詞のない「肉体」。永遠の「肉体」というべきなのか。
 「寒き男の炎」の1連目。

父と朝
並木道を歩いていた
ふと気がついて
眼を、宙に映すと
木が刈られてあった
枝折
ああ
今は初春
そんな季節に
なっていたのだな
ふと目は宙に映る
赤く鮮明な、血
どばっ!

 「眼を、宙に映すと」「目は宙に映る」。「宙」をかりに「空」とする。眼を空に移す-視線を空に移動させる-空を見る、という「時間」が省略されて、空を見上げた瞬間、そこに目が映る。鏡のように、空が眼を映している。その空は空ではなく、宇宙である。宇宙と、その宇宙の目--それが「いまま/ここ」にある「肉眼」と、何と言えばいいのだろう、時間も空間も超越して「一体」になる。
 見ているか。見つめられているのか。区別はない。そこには、見るということ、見つめられるというここと、--その「こと」としかいいようないものが「眼」として存在している。「眼」という「肉体」だけがある。

 谷川俊太郎の「宇宙感覚」は精神的なものだ。精神で感じるさびしい広がりだ。宇宙と対峙するとき、精神のなかに宇宙が音楽として響く。それが谷川の宇宙だと思う。
 けれど、豊原の宇宙感覚は「肉体」的なものである。精神的に広がらない--という書き方は、的確な言い方ではないかもしれないが、何か精神というようなものとは関係がない。肉体と他の存在が交流する--というのとも違う。
 たとえば、ここでは「眼」は「宇宙」であると同時に「肉体」である。人間の肉体である。谷川の宇宙が向き合うものであり、その対峙を意識することで精神のなかに宇宙が誕生するのに対して、豊原の宇宙は、対峙ということがない。対峙にはふたつの存在が必要だが、豊原の宇宙と肉体はふたつの存在ではない「ひとつ」の存在だからである。
 「肉体」が「もの」ではなく「こと」になって、その「こと」が「もの」として「一体」のまま、そこに存在する。--あ、この書き方では、何かが違うなあ。
 --私には、まだ、私の感じていることを正確にあらわせない。あらわすためのことばが見つからない。
 ただ直接的に感じるのだ。
 豊原の眼が宇宙である。その眼が宇宙から豊原をとおして「人間」を直視している。

 それは「融合」ではあるけれど、激しい衝突である。どうしたって、鮮血が飛び散らないわけにはいかない。しかも、大量に。「どばっ!」

 この眼の融合と衝突--「一体感」という矛盾は、豊原を激しく揺さぶる。

怒り狂った 我が心は
コクトーのあとがきのようだ

 「コクトーのあとがき」がどういうものか、私は知らない。けれど、ここは「コクトーのあとがき」でなければならないと、納得してしまう。
 この2行は、まるで、絵に描いたような(?)詩であるなあ、と思い、うっとりするが、あ、豊原の書いているのは詩なのだった、と思いなおし、不思議な気持ちになる。
 しかし、なんという美しさだろう。美しい音だろう。
 この美しさは、そして、--たぶん、「眼を、宙に映すと」「眼は宙に映る」という肉体の衝突の中でのみ輝く光だと思う。

 詩は、このあともつづいていく。

僕は呑むコップと
坐る 椅子を変えた
振り向くと
家族がいた
風呂に入って
くらくら 眩暈して
気が遠くなる
湯気から
抜け出る

やっ 満月

地面を ほじくりかえして
家族を映す
僕は穴深く 入ってゆく
火傷した 消防隊員の
叫び声のようで
僕は
この世を
棄てなければ
ならないのかもしれない
赤く鮮明な血
この血は僕らの友だち
愛 それは血

 わからないところもあるのだが、わからないところはわからないままにしておいて、私はどきりとしてしまう。
 「振り向くと/家族がいた/風呂に入って」の3行の、「家族がいた」から「風呂に入って」までの「密着感」が、書かれてしまうと(こうやって、ことばになってしまうと)、そうか、家族とはこういう「密着感」の「一体感」なのかと納得する。「風呂に入って」の「主語」は「僕」なのだが、そしてそのことしか書かれていないのだが、このあと(それよりさきにも)家族の誰かが風呂に入る。家族全員が風呂に入るという「暮らしの一体感」がそこにあり、それもまた、私には「肉体」の強い「思想」として見えてくる。
 だからこそ。

地面を ほじくりかえして
家族を映す

 この「映す」が、どう受け止めていいのかわからない。
 「眼を、宙に映す」「眼は宙に映る」は、たぶん、「映る」という動詞が「眼によって見られる」という具合に、肉眼を含んでいるから、直接的に「肉体」を説得させるのに対し(私の肉体は納得してしまうのに対し)、「地面(正確には地面に掘った穴--かもしれない)」に家族を「映す」が、不思議なのである。
 豊原の「眼」は地上に立っている「人間」の「顔(頭)」の部分にあるのではないのかもしれない。いや、「顔(頭)」の部分にあるのだろうけれど、豊原の肉体は地面から独立しているのではなく、そのまま地中にまで繋がっているのかもしれない。
 宇宙と肉体が繋がったとき、その肉体は地上から独立して存在するのではなく、中途も繋がっている。
 たぶん--また、たぶんと書いてしまうのだが。
 たぶん、この不思議な「地球感覚」あるいは「大地感覚」が、谷川とはまったく違うものなのだろうなあ。

 少し飛躍する。谷川の「父の死」に、父が死んだとき別れた女が弔問にやってきて、そのあといっしょにいる女とけんかをしたというような部分が出てくる。その「暮らし」が抱え込む接触・衝突のようなものを、豊原がどんな具合に書いているか--それを提示すれば、豊原の「地球感覚(大地感覚)」との違いがはっきりするかもしれない。
 短編映画シナリオ『手に宿る・体に宿る』の1シーン。

○ 小机の父母の写真
  ずっと撮っていて、カメラ、上を向く。
  父が雑煮餅を持ってくる。
父「元旦早々せくのいややからな、礼拝すぐ行こう。」
父「わし、撮っとるん?」

 父「わし、撮っとるん?」--この1行が、きっと谷川にはないものだ。谷川になくて、豊原にあるものだ。
 人間が存在するとき、そこに「過去」がある。その「過去」が「大地」のように「人間(家族)」を支えている。「肉体」は、その「大地」と繋がっている。繋がり、ひとつになることで「肉体」として存在する。
 その肉体が、宇宙と「一体」になる。--こういう「感覚(思想)」があって、「地面に(地底に)家族を映す」ということばが動くのだと思う。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作田教子「月駅」、柿沼徹「朝」

2012-02-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
作田教子「月駅」、柿沼徹「朝」(「この場所ici 」6、2012年02月08日発行)

 作田教子「月駅」は、ほんとうか嘘か解らないことが書いてある。

青信号の先を
月のひかりが包みこんでいる
タクシーが客を待つ長い列の
向こうは 月
けれどタクシーは
なかなか月には行けない

酔った人がふたり
よれた上着を法衣のように羽織って
大きな声で話し合っている
月へ行く心構えについて
ほんとうは月へ行く些細な決心について
背負わなければならない重力について

 1連目はふつうの情景描写のように思える。でも、違う。「けれどタクシーは/なかなか月には行けない」はほんとうのことのようであって、嘘である。--この嘘であるというのは、ちょっとへんな言い方だが、もちろんタクシーでは月には行けない。そういうわかりきったことをわざわざ月へ行けないということが、一種の嘘である。言う「必要」がないことだからである。
 しかし、ここには不思議な工夫(?)がほどこされている。「なかなか」ということば。これをかぶせることで、言う必要のない嘘が、嘘から気持ちの方へ近づいてくる。なかなか……できない。したいのだけれど、できない。「……したい」といいきっていいかどうか解らないが、ここでは「事実」が書かれているのではなく、気持ちが書かれているのだ。
 「青信号の先を/月のひかりが包みこんでいる」の「ひかり」も「事実」というよりは気持ちなのだ。「光」のように明確ではなく、「ひかり」と書いてしまうときの「ぼんやり」とした広がり。結晶化しない何か--それが「なかなか」につながっている。
 2連目は、もっとおもしろい。酔った男が二人で話している。それはほんとうに月に行くことについてか。心構えか、決心か。あるいはそのときの重力か。--ほんとうにそれについて話していたにしろ、それはほんとうではない。嘘--つまり架空のことである。そのふたりが月へ行く(予定がある)のなら、そんなことろで酔っぱらっていないだろう。ほんとうは違う話をしているのかもしれない。けれど、作田の気持ちとしては、二人は月に行くことについて話している--そう感じたいのだ。
 感じたことを書くのではなく、感じたいことを書く。感じたいことを書きながら、気持ちをつくりだしていく--つくりだしていくという言い方が間違っているなら、ぼんやりと感じていることを明確にしていく、と言えばいいだろうか。
 ことばは、気持ちを明確にして行く。そのためにある。ことばを通して、気持ちが気持ちになる。そのとき、その気持ちに「なる」という運動の「なる」のなかに詩がある。

わたしの娘を乗せた列車は
時間になっても到着しない
(娘は月に戻って行った?)
待っている時間は
娘が生まれるまでの時間の相似形
月 満ちて
ようやく遅れた列車が駅に舞い降りた
待ちくたびれたわたしは
月の光に照らされて青白い 

 「待っている時間は/娘が生まれるまでの時間の相似形」はとても印象的だ。この2行を私は何度も何度も読み返した。
 そうか、作田は「待っている」ひとなのか。「待っている」詩人なのか。
 さっき私は、作田はことばで気持ちをつくりだしていく、そして気持ちが気持ちに「なる」とき、そこに詩が動くと書いたのだが、言いなおすと、作田はことばで気持ちをつくりだしていくのだけれど、強引ではない。「待っている」。ことばのなかで、気持ちが気持ちになるのを「待っている」。ことばのなかで動きだす力を「待っている」。
 この穏やかさが、あるいはいのちに対する信頼が、作田のことばの力かもしれない。
 「月 満ちて/ようやく遅れた列車が駅に舞い降りた」は、とても美しい。
 「なる」--変化する何かは、天から「舞い降りてくる」ものなのだ。それは作田のなかからあらわれるものなのだけれど、作田はそれを「舞い降りてくる」と感じる。出産は、作田の肉体で起きることがらであるけれど、それを作田は「舞い降りてくる」ものとして受け止める。
 「気持ち」は「事実」とは違う。「事実」は「気持ち」を語ってはくれない。だから、作田は「気持ち」を語るのだ。
 
 「月の光」の「光」は1連目との関係で言うと、ない方が美しく広がると思った。



 柿沼徹「朝」は亡くなった父を思い出す詩である。「朝」の「空白」から書きはじめているところがとても印象的だが、最後の連がおもしろくない。

おびただしい埃の粒子が
光線の射す空間に
ばら撒かれている
そしてなにひとつ説明しようとせず
思い思いの点を
漂っている

 「説明せず」が「説明」になってしまっている。詩が、最終連で散文に席を譲っている。席を奪われている。「気持ち」がことばを動かすのではなく、「頭」が「事実」を説明していると感じた。




耳の語法
作田 教子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福間明子「それからのキリン」

2012-02-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
福間明子「それからのキリン」(「孔雀船」79、2012年01月15日発行)

 福間明子「それからのキリン」は前半がおもしろい。

久しぶりにへうへうに遭った
いっそう背が高くなっていた
いまにも溢れそうな湖の目になっていたので
なにを抱え込んだのか心配になるほどだった
このところ地球上では異常な事が重複していて
人間の心は尖りふつふつとするものを抱え込んだ
これは君の目にも映っているだろうね

 1行目の「へうへう」がわからない。そして、わからないからおもしろい。タイトルや2行目の「背が高くなっていた」から想像するとキリンの名前と思えないこともないけれど、まあ、違うね。ほんとうの名前は別にある。名前だとしても、それは福間がかってにつけた名前だ。そして、そのときの「かって」に福間の気分が入っている。「流通言語」ではいえない福間だけの気分。それは何と言い換えるべきか--言い換えれない。そこに、なんとはなしの「手触り」のようなものがある。それが魅力だ。
 このうまくことばにできない何か、「流通言語」にできなかったものを、そっくりそのままではなく、少しずつ言い換えながら追いかけていく。その追いかけ方、そのときあらわれてくることばに、詩がある。
 「いまにも溢れそうな湖の目になっていたので/なにを抱え込んだのか心配になるほどだった」--そうか、「へうへう」は何が起きても平気というのではなく、何かが起きると敏感に反応するこころのありようなものを反映しているのだな、と思う。気弱な感じ。敏感な感じ。風に吹かれただけで動いてしまうような感じかなあ。「いまにも溢れそうな湖の目」ということばからは、湖の上を渡ってくる清潔な風のようなものも感じる。
 そういう敏感で繊細で弱々しく清潔なもの、頑丈から遠いものが「地球上の異常な事」とであって、こころに影が落ちる。こころが傷つく。--福間は「人間の心は」と書いているが、「それが君の目にも映っている」ということは、そのこころを「へうへう」のこころもまた感じていることになる。
 こういう微妙な揺れ動き、揺れ動きながら、書きたいことを少しずつ絞り込んでいく感じは、とてもおもしろく、その中心になっているのが「へうへう」という音である。音の持つ一種のイメージと、またそれがはっきりしない不可解さの交錯するおもしろさである。
 途中で出てくる「ふつふつ」がちょっとイメージがかたまった音なので(ふつふつとたぎる、というときのふつふつを思い出してしまう)、ちょっと残念なのだが、このあともう一回、不思議な音が出てくる。

だからといって
わたしと相変わらず人間模様のなかで
進歩も最早なく縮小の日々ですと告げる
生活を追いかけて
その手前でうにうにとして解らないものが
すこしおやすみというのです

 「うにうに」が変だね。
 でも「へうへう」ほどはおもしろくない。「ふつふつ」が「流通言語」だったせいかもしれない。「うにうに」のなかには「うじゃうゃ」「うにゃうにゃ」に通じる何かがあり、それが音のおもしろさを邪魔する--意味へと引っぱりすぎるのかもしれない。
 書き急いでいる、という感じがする。
 「溢れそうな湖」というような、具体的なイメージが消え、「進歩」だの「縮小」だの「生活」だとのという「抽象」が意味を追いかけようとしすぎるのだと思う。

丘の上の野の花の中で君は快適ではなかったと
あの日のえもいえぬ悲惨と地上の欠落と
逆らって進まぬ意志だけが虚ろで
勇気ってなんだろう……と

 「野の花」さえも、ここでは「抽象」になっている。他のことばは指摘しなくても「抽象」であることがわかるだろう。「えもいえぬ」にいたっては「抽象」を通り越して、「流通言語」による「説明」である。描写のことばが消えてしまった。
 「へうへう」を支えていた「描写」の力。--福間だけがとらえた「描写」の「具象」が、つまり「手触り」が消えてしまった。
 このあと、福間の詩は、なんとかもちこたえようとするのだが、どうもおもしろくない。前半がおもしろいだけに、途中から失速していくことばがとても残念である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊達風人『風の詩音』

2012-02-16 23:59:59 | 詩集
伊達風人『風の詩音』(思潮社、2012年02月12日発行)

 伊達風人『風の詩音』にはいくつかの方法論で書かれた作品がある。「数詞」という作品が伊達の詩のひとつの特徴をあらわしている。

零「 、 。 、 。」

一「私こそは、究極の強み。つまりは存在そのもの。私は、
  私以外のものを一切所有したいとは思わない。故に、
  この世に現われるいかなる苦難も、私は、この存在の
  強みで、割り切ることが出来る。」

二「私は初めての素数。誰もが憧れる素敵な存在。常に昼
  と夜とで二分される地球においては、グウスウ……と
  眠る整数世界の半分は、みな私の虜。」

 この作品は、零から九までが「私は」という形で自分を語る。そこに書かれていること(内容)も重要なのだろうけれど、それよりも伊達にとっては、「方法」が大事なのだと思う。
 なぜ、「方法」が大事か。
 「方法」によってことばを動かすと、そこに論理が出てくる。その論理はほんとうの論理であるかどうかわからないけれど、方法のあるところ、論理が出現する。そして、この「出現」が、伊達にとっての詩なのである。
 いままでそこになっかたものが、ことばの運動、一定の方法で動くことばによって、浮かび上がってくる。「抒情」とか「感情」ではなく--そういうものとは対極にある「論理」、あるいは「理性」といえばいいのかな?
 まあ、一種の「哲学」が「出現」する。その「哲学」そのものよりも、それが「出現」することが大事なのだと思う。
 こういう感覚は、私はとても好きである。

 論理というのは不思議なもので、方法に従ってことばを動かしつづけると(くりかえしつづけると)、それがどんな運動であっても、なんとなく論理っぽく見える。持続する方法が疑似論理をつくりだしてしまう。
 そして、そこから「虚数」のような、なんとも不思議な力というか、論理の力だけが出現させることのできる何かが生まれてくる。
 これは、とてもおもしろいことだと思う。
 ただし、それがほんとうにおもしろくなるのは、その持続が「虚数」になるとき、何か、「いま/ここ」を裏切るものがないといけないと思う。
 伊達のことばの運動は、まだ、そこまでは行っていないと思う。行こうとして、行けないもどかしさがある。
 いわば、これから(今後)、ほんとうの詩が生まれるのだと思う。
 しかし、残念なことに、伊達はもうことばを動かすことができない。2011年に死亡している。くやしい思いが残る。

 それとは別に、一篇とてもかわった詩がある。「レシート」。私は詩集のなかでは、この作品がいちばん好きである。

机の後ろにレシートが一枚落ちていた
人の記憶がいつもそうであるように
インクもかなり薄くなっていたけれど
あのころ好きだった人と一緒に
百円ショップで買ったものが
そこには羅列して記されていた

 ザッカ   ¥100
 ザッカ   ¥100
 ショクヒン ¥100(×2ヶ)

 小計 ¥400

 消費税 ¥20

 合計 ¥420(内税 ¥20)

それがあまりにも機械的な買い物だった
というのが少し笑えた でも
雑貨のひとつは あのマグカップで
もうひとつは 僕の裸電球で
そして食品は 甘党の二人が好きだった
ビターチョコレートだったということは
世界中の記録を調べても出てこない
二人だけの 確かな記憶なんだ

 この作品には論理が作り上げる虚数の出現とはまったく違うものがある。
 ここに書かれていることばは、それぞれ「過去」を持っている。「肉体」を持っている。「時間」を持っている。
 それはまるで唐十郎の芝居のことばのようでもある。
 人間が生きている、動いている、そのときに肉体があるということを前提としていることばである。

 ザッカ   ¥100

 は、単なる「記号」のようなものである。
 「数詞」のことばのように「私は……」と主張しない。
 ことばは主張しないが、そのかわりに、そのときそこにある「肉体」が「論理」ではないものを「出現」させる。
 これはなかなか手ごわくて、拒絶できない力をもっている。
 そういうものをさして、私は「肉体」ととりあえず呼んでいるのだが--これは正確ではないかもしれない。--まあ、私にもよくわからない。
 こういうことばは、書こうとしてもなかなか書けない。「論理」を捨てないと書けない。「論理」は、どちらかというと「肉体」と相性が悪い。「肉体」は「論理」では動かない。
 この詩は、伊達の書きたい詩ではなかったかもしれない。というか、目指していた世界ではなかったかもしれない。

 これは、ちょっと難しい問題である。
 ひとが書きたいと思うことと、他人がそのひとのおもしろいと思うところが必ずしも一致しない。
 かなわないことなのだけれど、もし伊達が生きているなら、こういう詩をもっと書いてみて、と言いたい。

風の詩音
伊達 風人
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望月苑巳「寄り道式部」、岩佐なを「さんかく」

2012-02-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
望月苑巳「寄り道式部」、岩佐なを「さんかく」(「孔雀船」79、2012年01月15日)

 望月苑巳「寄り道式部」の「物語」は架空を前提としてはじまる。そこに「私」は直接的には登場しない。

御堂関白・道長は男子禁制の部屋に忍び込み
シェイクスピアを読んでいた式部を
後ろから抱きしめて驚かした。
空には水玉模様の月。

 飛躍(ありえないものの出合い)と現実感覚の交錯がうまく機能すると、こういう詩は楽しくなる。2行目のシェイクスピアがこの「物語」が架空、嘘であることを正確に語っている。こういう正確さは安心できるからうれしい。
 この真っ赤な嘘に、「忍び込み」「後ろから抱きしめ」るという肉体の動きが重なると、嘘が現実になる。人間は(私は、かな?)、嘘よりも肉体の動きを信じてしまう。どうしても自分の肉体を重ねてしまう。
 そしていったん重なると、それにつづいてどんな嘘がでてきても平気。いや、嘘が積みかさなった方が楽しい。

空には水玉模様の月。

 この1行はシェイクスピア異常におもしろい。シェイクスピアは知っているが「水玉模様の月」は知らない。月の表面に水玉がある? あるいは月が水玉みたいに空にひろがっている? どうせありえないのだから、よりありえない方をえらんだ方がたのしいだろうなあ。空に月が水玉模様を描いている--と想像してみる。うーん、豪華。

殿方というものは、なんで手練手管ばかり競い合うのかしら
頬を染めながら、式部はそんな出来事をノートにしるす。

 「手練手管を競い合う」というのはいわば「常套句」だけれど、常套句だけが持つ現実感覚が、「ノート」と出合って、「物語」へ加速する。
 どんな嘘でも現実を踏まえないと嘘にならない。
 このあたりを望月のことばは順当におさえている。

夜更けの部屋に
雪の降る音がにじみだしてくる
母さまの匂いがする
大人になってよかったことは何?
母さまと同じかなしみのたかちを
袖に焚き込まなければ
この部屋を出てはいけないの?

 ここは、私の好みからすると、微妙である。「出てはいけないの?」は、どういう意味だろう。
 それがかなしみであっても、誰かと同じこと(かたち)にたどりつくというのは、なかなかおもしろいものだと思う。「出てはいけないの?」が否定の意味なら--私はとても残念に思う。
 だいたい「物語」というのは、「架空」をとおして、誰かと一体になるとこだ。自分が体験しなかったことを、他人の行動を通して体験する。誰かと同じことをする。同じ形の何かを実感する。それはかなしみであっても、喜びである。そこには「発見」がある。
 シェイクスピアを式部が読むというのは「歴史」に反する。しかし、それではいま、私たちがシェイクスピアを読むというのは、どうだろう。時代を越えるという点では式部がシェイクスピアを読むのと変わりはない。そして、ことばは--これから私が書くことは「暴論」なのだけれど。
 ことばは、時代を越える。それは、過去のことばが未来へと引き継がれるということだけではなく、未来のことばが過去のことばを突き動かすということである。シェイクスピアが源氏物語のなかにあらわれて、そこに書いてあることばを動かしていく--そういうことは実際にある。
 (具体的には書かないけれど、ね。「自論」は具体的に書くと「企業秘密」をさらすことになるからね--とごまかしておく。)



 岩佐なを「さんかく」も「架空」のことを書いている。「物語」と呼ぶこともできるだろうと思う。「架空」を「夢」と言い換えることもできる。

細い意識の糸を
ほぐしながらも
自分が覚めているのかは
わからなかった
気づいたことは三角のこと
相似形の三角は
小さいほうが大きいほうを
思いやる姿を意外に思いながら
ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた
補助線を正すには手を焼くだろう

 「主役」は「わたし」? つまり「意識の糸を/ほぐし」ている人間? 岩佐? あるいは三角形? 図形? それとも三角定規?
 まあ、どうでもいい。
 おもしろいのは、「小さいほうが大きいほうを/思いやる姿」。これは、「架空」の話なのに、この部分「架空」とは感じないでしょ? 「主語」を三角形に限定しないと、こういう状況って体験するでしょ?
 大きい方(たとえば兄、あるいは親)が小さい方(弟、こども)を思いやるというのが人間のふつうのあり方だけれど、ときとして逆のことがあるね。そしてそれは、なんといえばいいのだろう、「意味」を越えて「肉体」に直接響いてくるね。
 こういう「肉体」の動きを岩佐はしっかりと「架空の物語」に取り込んでいる。
 だから「主語」が「三角形」なのに、そこに「人間」を感じてしまう。「人間」の「肉体」を感じてしまう。ことばではうまく説明できない何か--腹に溜まる何かを感じさせる。

ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた

 この2行の「補助線」や「鋭角」なんて、人間とは無関係なものなのだが、「触れる」「したごころ」「疎ましい」ということばといっしょに動くとき、「補助線」が「したごころ」に、そしてそれを感じる意識が「鋭角」に(あるいは「したごころ」が触れてくるときのちくちくした感じを「鋭角」と読んだのかな?)思えてくる。
 この「思い」は「正確」ではない。
 そして、これは矛盾した言い方だけれど「正確」ではないからこそ、「正しい」。「肉体」にとっては正しい。
 「肉体」が、ことばを越えて(正確にことばにできないまま)、感じとる何か--それは肉体にとってはまぎれもない「事実」であり、その「まぎれもない事実」を「正しい」と私は定義している。
 岩佐は、こういう「まぎれもない事実」を積み重ねて、「肉体」の内部を耕す。そうして耕された肉体の深部のふわふわ感が岩佐の肉体(思想)そのものである。


アンソロジー望月苑巳 (現代詩の10人)
望月 苑巳
土曜美術社出版販売



鏡ノ場
岩佐 なを
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

園子温監督「ヒミズ」(★★★★)

2012-02-15 09:36:28 | 映画
監督 園子温 出演 染谷将太、二階堂ふみ

 おもしろいシーンがいくつもある。いちばん印象的なのが少年と父とのやりとりである。父は少年に向かって「おまえなんかいらない。生まれてこなければよかったんだ。殺してやりたい。殺してしまえばすっきりする。なんでも好きなことができる」というようなことを言う。父は何度も何度もくりかえしているので、少年はそのことばをすっかり覚えてしまっている。それなのに父は毎回、それを初めて言ったと思う。言うたびに、「やっと言いたいことが言えた。すっきりした」と言うのだ。
 この映画には詩が重要な役割を果たしているが、詩のあり方と、この父のことばを対比させると不思議なものが見えてくる。
 父親は「気持ち」を語っているが、それは「気持ち」ではない、ということだ。父親のなかにある「感情(思い)」には違いないのだろうけれど、それは実は「気持ち・感情・思想」になりきれていない、あいまいなことばなのである。父親の思想は酔っぱらって不機嫌であるということだけなのである。父親の肉体となって支えている「思想」は、酔っぱらってくだをまくと、そのとき「世界」を忘れられるという「事実」である。酔っぱらって、息子にからみ、何事かを言う、セックス相手の妻を探す--その肉体が「思想」である。「おまえを殺せばすっきりする」というのは、「思想」になりえていない、未生のことばなのである。だから父親は何度も何度も、それを忘れてしまう。そのことばといっしょに「気持ち」は生まれてはいないのだ。
 この映画は、そういう生まれていないことばと対比させる形で、少年のなかからことばが生まれるまでを克明に描いている。ことばはある年齢になればだれでもがしゃべる。しかし、しゃべるからといって、それがことばであるとは限らないのだ。多くは自分のことばではない。だれかのことば。それを、うのみにして反復している。父の「おまえがいなければ云々」もちちのことばというより、「流通言語」なのだ。
 たいていは「流通言語」だけで暮らすことができる。しかし、ときには自分のことばが必要になる。自分の「気持ち」をはっきりさせるための「ことば」が必要になる。「気持ち」をつくる必要があるのだ。「気持ち」は最初からあるのではなく、つくりあげていくもの、鍛えていくものなのだ。鍛え上げられた気持ちが「思想」なのだ。
 少年は父を発作的に殺してしまう。そのとき「気持ち」が生まれる。いままで知らなかった「気持ち」が「肉体」のなかに生まれてくる。だれも教えてくれなかった「気持ち」。それをどうしていいのか、少年はわからない。手探りである。誰かが誰かを殺そうとしている。そう気づいて少年は、その殺人者を襲う。そのとき別の人が少年を助け「逃げろ」と指示する。これはいったい何? 何が起きている? 少年はわからない。自分の「気持ち」がわからないように、他人の「気持ち」もわからない。「気持ち」はわからないのに、「肉体」がある。そして、その「肉体」のなかで何かが動いている。
 その動いているものを正確につかむために、少年は苦しむ。
 これは、すごい映画だなあ。--この少年の苦悩を、東日本大震災後の東北の風景(現実)と重ねるとき、少年が自分のひとつだけ残った気持ちをことばにするラストがとても美しく輝く。「気持ち」はつくっていくもの、そして「気持ち」はつくれるものである。「気持ち」をつくれる力が人間にはある。


冷たい熱帯魚 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤真里子『見え隠れする物語たち』

2012-02-14 23:59:59 | 詩集
佐藤真里子『見え隠れする物語たち』(土曜美術社出版、2012年02月01日発行)

 佐藤真里子『見え隠れする物語たち』は現実の何かに触れて、その何かの向こうにあるものを感じる--そのときのことを書いたものである。この何かの向こうにある何かを佐藤は「物語」と呼んでいる。
 「ヒマラヤの塩」はヒマラヤの岩塩に触れて、ことばを動かしている。

こわごわと齧ると
硫黄のにおいといっしょに広がる
塩辛さが
太古の海を想わせる

気が遠くなるほどの年月を重ねて
少しずつ変わったのだろう
この形と色に

なかに沈んでいる物語が聞きたくて
そっと耳を近づければ
かすかに響く波の音が
わたしの底にも刻まれていた
同じ音を呼び覚まし

赤みがかった茶色の肌の
潮の男が現れる

 「物語」ということばを佐藤はつかっているが、では「物語」とは何なのだろうか。佐藤の場合、どうやらここにないものである。いま/ここにないもの、それをことばにしたもの--私の定義では、それは「比喩」になる。「比喩」と「物語」の違いは、では何か。「比喩」は時間を含まないが「物語」は時間をふくむ。そして、時間のなかで何かが運動するということだろう。
 で、この「時間」なのだが……。
 「太古の海を想わせる」。うーん。私は意地悪な人間なのか、「太古」って何? と思ってしまう。「太古」を知っているの? 私はそういう「時間」を知らない。私の「肉体」はそういう時間を経験していない。肉体は「太古」なんて覚えていない。私は昭和の海を覚えている。廃油で汚れ、やがてきれいになった海。(見かけだけかもしれないけれど。)
 「太古」ねえ。「太古」か。どんな、海だろう。
 こういうとき、「太古」と向き合っている肉体--そのとき肉体のなかに生まれた感覚を克明に書いてもらわないと、それがどういうものかつかみきれない。「塩辛さ」だけではわからない。「硫黄のにおい」だけではわからない。
 「波の音」以後に、それが書いてある--ということかもしれない。
 「わたしの底にも刻まれていた/同じ音」。これが「男」にかわる。それは確かに「物語」なのだろうけれど、私は佐藤ではないので、こういうかすかなほのめかしでは「物語」がつかみきれない。
 どうも「男」が見えてこない。
 「物語」ならば、登場人物をもっと明確に特徴づけないと、輪郭がぼやけてしまう。いったいそこでどんな運動が起きているかわからない。その運動が、いま/ここのどういう運動の「比喩(パラレルの世界)」なのか、よくわからない。

かすれた声は
ときをゆらす風のように
もうみな忘れてしまったのかと

塩辛い唇での刻印
爪でひく浅い傷跡が
太古の海を泳いでいたはずの
はるかなわたしへと
押し戻してゆく

 「男」は消えて「はるかなわたし」がとってかわる。そこには「唇での刻印」「爪でひく浅い傷跡」が関係してくるが、この「触覚」と「わたし」の内部の海との関係が、どうもあいまいである。
 語りきれていない。肉体化されていない。
 「ときをゆらす風」「太古の海」のような「流通言語」が「わたし」の「肉体」をじゃましている。
 「男」が触れたとき、「わたし」のなかに「海」が生まれた、その海はいまある海ではなく、わたしか生まれる前からある海(太古の海というより、永遠の海かな?--時間がなくなるから太古も永遠も関係ないのだけれどね)へとつながっている。海を感じた瞬間、わたしのなかにある海ではなく、わたしが海のなかにいる--というようなことを、たぶん書きたいのだとは思うのだが、どうも肉体の描き方に「正直さ」がない。ロマンチックを追い求める気持ちはあるが、「正直さ」が欠ける、と思う。

 「さくら鏡」は、おもしろいと思った。

ひらいた花びらの
小さな鏡を
そっと覗くと
淡い香りがして
一瞬、映った
不安げなわたしの顔は
すぐに消えて
見えてきたのは
花の奥の
白いトンネルの
先の先
糸のような光線が
ひとすじ届く
あそこはきっと
この星によく似た
遠い星
遠い星では
わたしも
ひらいたばかりの
花びらの一枚になって
映っている
つながっている


 「映る」--この動詞を「つながる」へと結びつけていくときの肉体がおもしろい。鏡に映る顔--それを「わたし」と認識する。
 どうやって? 
 説明しようとすると難しいでしょ? 鏡に映った顔を「わたし」と思うのは勝手だが、というか--その「ほんもの」の顔を私たちは直接見ることはできない。だから、鏡に映った顔がほんとうのわたしを正確に映しているかどうか、わからない。
 などということは--子供だましの「論理」だね。
 鏡に何かが映る、そのとき鏡のなかにある「像」と鏡の外にある「もの」が同じであるということは私たちは何度も見ている。そういう経験を「肉体」が覚えている。だから、鏡に向き合って、そこに顔が映っていたらそれを「わたし」だと思う。
 まあ、そういうことなのだと思うけれど、この肉体で覚えていたことを(私がいま書いたようなことを)、佐藤は「つながっている」と言い切る。
 そうか、「肉体」が覚えていることは、「肉体」とつながっているのか。
 この「つながっている」が佐藤の肉体の基本(思想)だから、「トンネル」ということばも響き合う。トンネルはある地点と別の地点を結んだものだ。トンネルによって、どこかとどこかがつながる。しかも、外からは見えない形で。
 トンネルの向こうには、いま/こことは違う「場」がある。
 「つながる」とは、別の言い方では「届く」(何かが、届く)ということでもある。何かが届き、それを受け止めるとき、そのとき「わたし」は「いま/ここ」にいながら、さっきまでの「わたし」とは違った生き方をしていることになる。「わたし」は生まれ変わるのだ。

ひらいたばかりの
花びらの一枚になって
映っている
つながっている
時からも場からも
滑り落ちた心地よさで
いまはただ
いのちの揺らぎに合わせ
息遣いを合わせ
少し震える

 「時からも場からも/滑り落ちた」は「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなったということである。「永遠」になったということである。けれど、その「永遠」は「いまはただ」としかいえない。「永遠」は「いま」である。
 そこで、いのちの揺らぎに「合わせ」、息遣いを「合わせ」る。「合わせる」は「つながる」ことである。ただし、そのつながりは、直接ということとは少し違う。「わたし」と「対象」の間に「間(ま)」がある。「距離」がある。
 「合わせる」のは「震え」を合わせるのである。それぞれの固有の「震え」。「震え」と「震え」が共鳴して、そこに「音楽」が生まれる。「音楽」として「つながる」。
 これは美しいと思う。

 見る-映す-つながる-あわせる-震える。このときの、「わたし」と「対象」の変化が、とてもいい。ここには肉体化された思想があり、ことばの肉体がある。ここに書かれている「物語」は、人間の純粋化された関係ということになるかもしれない。
 「ヒマラヤの塩」には、こういう肉体がなかった。佐藤は書いているつもりかもしれないけれど、未整理の状態だと感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円城塔「道化師の蝶」

2012-02-13 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
円城塔「道化師の蝶」(「文藝春秋」2012年03月号)

 円城塔「道化師の蝶」を読み始めてすぐ、あ、これは田中慎弥「共喰い」にとても似ている、と思った。(「共喰い」の感想はきのう書いたので、そちらを読んでください。)世間一般(?)では、田中の作品は「文学文学している(古典的)」、円城の作品は「前衛的」といわれているみたいだけれど--うーん。似ている。そっくり。私はこのふたつの作品をひとりの作家が書いたと聞かされたら信じてしまう。
 私が円城の作品が田中の作品に似ていると思い、それを確信したのは、次のような部分。

作品ではなく作品の作り方を交易している。(436 ページ)

完成品を仕上げるためではなく、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。(438 ページ)

真相を知る者は記念館にもおらず、あるいは最初からいたことがなく、規則だけがまわっているというのが月並みながらありそうだ。(445 ページ)

 「規則」ということばがおもしろい。これを「方法」と言い換えることができると思う。「方法」のなかには「規則」が存在する。「無規則」の「方法」はない。
 で、何が似ているかといえば、円城も田中も「方法(規則)」によってことばを動かしている。
 円城の作品にではなく、ここに書かれていることを、田中の作品にあてはめてみると、二人の作品がそっくりであることがわかると思う。
 田中の作品は、作品の完成(結末)をもっているけれど、それはただそこで終わっているというだけであって、それは便宜上のものである。結末はどうでもいい。ストーリーはどうでもいい。作品のなかで人間が(登場人物が)どう動くかだけを問題にしている。そこには人間の動き方、「交易」の仕方が書かれているだけである。「交易」というのは、誰が誰に何をし、それに対して誰がどのように答えたか、ということ。
 いちばん「交易」にふさわしい部分は、母親が鰻料理を鍋に入れて主人公に持たせる。そうすると鍋には父と一緒にいる女の手料理か何かが入って返ってくる。鰻料理と手料理が「交易」している。そういう関係が、母親と父の女との間に成り立っている。
 主人公がアパートの女とセックスをし、その代金を「父からもらえ」というのも「交易」である。
 さらには、きのう書いた「鰻の頭の裂け目」に勃起する主人公と、父に殴られて頬が破れる恋人の傷も「交易」している。「人間の動き方」が「同じ」というか「対等」である。釣り合っている。
 「完成品」ではなく「途中の品をつくるために仕事をしている」というのは、蝸牛の描写の部分が相当する。蝸牛をみながら、蝸牛とは無関係なあれこれを思う。その「無関係さ」の連鎖こそが田中の作品のいちばんの魅力である。いまでは、だれもが「無関係」を主張している部分、「そんなことは俺には関係ない、俺は父とは別個の人間だ」といっている部分を、「無関係」とは言わずに「関係」させていく--つまり関係という「途中」をつくる仕事を、田中のことばはしている。
 「真相」、田中の作品のテーマ(?)に則して言えば、人間の内面の衝動、その普遍性(父と子で共通する、あるいは女たちに共通する--その共通という普遍性)を描くがテーマなのかもしれないが、そんなテーマを知っている登場人物はいない。そんなテーマなど、登場人物には存在しない。人間が関わる(無関係が関係になる)とき、そこに暴力が入り込む、そして傷つけあうという「規則」があるだけである。

 円城と田中の作品に違う点があるとすれば、田中のことばが関係によって「滞る(停滞する)」こと。そして、その「停滞」することで、たまったものが底から噴き上げてくること。
 円城のことばは「旅の間にしか読めない本があるとよい。」という書き出しが象徴するように、「停滞」ではなく「移動」する。スピードが問題なのだ。そこには手芸をするとか何かをつかまえるとかという「停滞」もあるが、それは単に移動のスピードを明確にするための方便(手段)の類である。
 二人は、いわば逆向きのベクトルを生きている。逆のベクトルへ向かっている。けれど、その「方法」と、その「方法」にかけるエネルギーの度合い(?)が私にはそっくりにみえる。
 とてもていねいである。
 そのていねいさは、文体にあらわれている。二人の文体は驚くほど読みやすい。1行1行ではなく、速読本の教科書を読むように、5行ずつくらい、一気に読み進むことができる。(あ、私は速読本で勉強したことはないので、ここに書いていることは勝手な想像なのだけれど。)読み間違えが起きないように書かれている。熟達している。

 作品とは少し(かなり)離れるのだけれど、伝え聞く今回の芥川賞の経過はとてもおもしろい。
 田中の作品が過半数の票を集めて早々と「受賞」が決まった。ところが、そこで選考が終わらずに円城の作品をどうするかであれこれがあり、最終的に2作の受賞が決まったという。
 田中の作品は「文学」としてとても評価が高く、昔の選考なら、田中の作品の受賞が決まった段階で選考が終わったと思う。でも、それだけでは何か物足りない--と思う気持ちが選考委員にあって、それが円城の作品を「受賞」に引っぱり上げたのだと思うのだが、このときの「相互関係」が、私が先に書いた二人の「類似性」と関係しているように思えるのだ。
 田中と円城は二人でひとりなのだ。そのことばを貫いている「方法」はひとつであって、一方だけを選ぶと、何か半分足りない気持ちになるのだろう。
道化師の蝶
円城 塔
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワン・ビン監督「無言歌」(★★★★)

2012-02-13 20:34:27 | 映画
 映画のチラシにワン・ビン監督の談話が書かれている。「『無言歌』はおそらく初めて、「反右派闘争」という現代中国の政治的過去と、右派とされた人々の収容所における苦難を真っ正面から語った映画です。苦しみ傷ついた人々に尊厳をふたたび取り戻すために。」--内容は、そのとおりのことがらから成り立っている。
 荒涼とした土地での「強制労働」が描かれる。ただ生き延びるために何をしていいかもわからない。この映画、ほんとうに終わるのだろうか、と心配になるくらい、過酷な日常が、日常そのものとしてくりかえし描かれる。
 その映画が、後半、その強制収容所に女が尋ねてくることで、激しく動く。感情が動きはじめる。
 女が探している男、夫は、死んでしまっている。そして、何人も何人も死んでいっているので、誰をどこに葬ったかわからない。荒野に土まんじゅうがいくつもいくつも広がっている。それでも女はあきらめない。ひとつずつ手で盛り土をかきわける。肉体(遺体)が出てくる。探している男ではない。次の土盛り、さらに次の土盛り……。
 見つからないから、あきらめろ、と収容所の男たちは言う。あきらめろといいながら、女に食事を出しもする。食事といっても中身のない水だらけの雑炊のようなものなのだけれど。--そして、それを食べることで、女は、さらに真剣になる。こんな条件で、男は生きてきた。生かされてきた。非人間的に扱われ、いまも、どこに眠っているかわからない。そんなことがあっていいはずがない。
 女はあきらめることができない、のではなく、あきらめてはいけないと決意したのである。この決意に、収容所の男が揺さぶられる。二人がいっしょに探しはじめる。このとき、荒涼とした風景が、急に不思議な光に満たされる。荒涼そのものにかわりはないのだが、綱領に負けないいのち、荒涼を跳ね返す何かが動きはじめる。女の肉体は、男たちの肉体と違って、明確な目的をもっている。その目的、意思が空気を変えてしまうのだろう。そして、ついに探しあてる。長い間いっしょに生き延びてきた仲間だから、少しでも土の下から体が出てくれば、探している男とわかる。女にとっても大事な人だから、どんなに変わり果てていても、夫とわかる。
 このあと、火葬にして、遺骨を抱いて女は上海へ帰っていくのだが、遺骨をかきあつめ、白い布につつみこむシーンがとてもいい。もう、ぜったいに離さない。そういう力が漲っている。悔しさがみなぎっている。
 このことがあったあと、収容所を脱走する男が出てくる。その男には師と仰ぐ人がいる。足が悪い。でも、いっしょに脱走しようとする。その途中、予想通り歩けなくなる。さて、どうするか。男は老いた師を背負って歩きはじめる。そうすると、すぐに歩けなくなる。
 師が言う。「弟子なら、師の言うことを聞け。私をおいて、おまえだけ逃げろ」
 弟子はそのことばに従って、師を置き去りにして歩きはじめる。けれど、戻ってきて自分のコートを師にかける。師はそれを拒む。
 このとき弟子が言う。「師なら、たまには弟子の言うことも聞くべきだ。私は若いから大丈夫。私のコートを着て、少しでも寒さを和らげてほしい」
 コートぐらいで防げる寒さではないだろう。結局、師は死んでしまうだろう。けれども、それを見捨てない。気づかう。その強いこころの交流--それは、女が残していったものである。
 脱走がわかった翌朝。そこでの詰問。誰も「知らない」としか言わない。言わないことが連帯であり、希望なのだ。
 つらい映画なのだが、そのつらさを打ち破るようにして、人間が動いてくる。それがすばらしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする