川上明日夫「空の声・おしずかに」(「木立ち」109 、2011年05月20日発行)
川上明日夫は「空の声・おしずかに」はとても変な行から始まる。
「おしずかに」って、何?
「しずかに」ならば降っている枯葉の状態をあらわすことになる。でも、川上は「おしずかに」と書く。これは、何? 「ていねい語」?
とりあえず、つづきをよむ。1行目から、引用し直す。
1行目の「音もなく」は2連目では「声」にかわっている。つまり、1行目は「ひらひらと声もなく おしずかに 降っている 枯葉です」ということになる。
そう?
いや、どうも違うようだ。
3連目。
「声」って何? 「枯葉の降る音」ではないようだ。どうやら「おしずかに」が声のようである。枯葉が降っているとき(散っているとき、とは違うのかもしれない)、ふと「おしずかに」という声が聞こえたのだ。
「声」は「ことば」でもある。枯葉も青葉も「葉」ではあるが、「こと・葉」ではない。だから「おしずかに」は枯葉のいったことでもない。
だいたい、枯葉と人間が「共通語」で話すということは聞いたことがない。
で、「声」が誰かのひとの「声」だと仮定して……。
そのあとが、また変。
その「声」がだれなのか確認するとき、普通は「耳をやって」ということをしない。「目をやって」確認する。そこに人がいても何も言わなければ何も聞こえない。耳だけでは、そこに人がいるかいないか確認できない。
だから、普通は「声」のするほうへ「目」をやるのである。そして、そこに人がいるかいないかを確認する。さらに、その人が誰であるかを確認する。もちろん「耳」でその人が誰であるかを確認するということもあるが、それはまた特殊なことがらであって、一般的ではない。
4連目。これも変である。
「うなだれて」いるかどうかは、耳では確認できない。目で確認する。「いない人影」というのは奇妙な、矛盾したことばだが、そこに人がいるかいないかも、たいていは目で確認する。音でも確認できないことはないが、それは音を立てているときである。音を立てていないときは、そこに誰かがいるかいないかは確認できない。不意に物音がして、人がいる、と思った瞬間、猫が飛び出してくれば、あの音は猫が立てたものと普通は思ってしまう。
ひとの、そこに誰かがいるかいないか、その声を発したものが誰であるかを確認する肉体の器官が目であるなら、3連目に、川上はなぜ「耳をやったが」と「耳」ということばをつかったのだろう。
なぜ、不自然なことばを先に書き、それをあとから少しずつ微妙に修正していくのだろう。
いや、それ以上に不思議なことばが、この連にはある。
「いない人影」が「もの想いに ふけっていた」というのは、どうやって確認する?
「目」で見えるの?
5連目もとても変だ。
「一瞬と永遠」「後悔と悔恨」。こういう「ことば」というか「存在」を確認するはなんだろう。耳で確認できるか。目で確認できるか。
できない。では、何によって確認するか。
精神、といってみようか。思考、といってみようか。
--と書いた瞬間、私は、びっくりしてしまう。ふいに、川上の書いていたことがわかったように感じ、びっくりしてしまう。
「誤読」なのだが、--「誤読」できたことに気付くのである。(これは川上の書いていることば以上に変なことばだね。)
そうか、川上は、「思考」を書いていたのだ。
「おしずかに」は「思考の声」だったのである。「おしずかに、そうすればひらひらと音もなく降っている枯葉の、なぜ音がないまま降ることができるか考えることができる」「おしずかに、枯葉が音もなく降ることの意味を考えなさい」という「声」だったのだ。そして、そんなふうに考えるということを「もの想いにふける」ということばで川上はあらわしているのだ。
そして、この5連目、4連目の関係でも、「主語」はあとからあらわれて、前のことばを引き継いでいくという構造がある。4連目の「いない人影」というのは、「思考」だけが確認できる「虚」である。目や耳では確認できない。
聞こえるもの(耳)、見えるもの(耳)から出発して、それを「思考」としてとらえ直す--これが川上の哲学の方法論なのである。
で、こうした「思考」の領域に到達したあと、川上は世界を反転させる。
降っているのは「青葉」。1行目で書いてある「枯葉」は間違い。青葉が降るとき、枯葉が「おしずかに」という声となって、思考のなかに存在する。それは青葉がふるということが起きないかぎり存在しないものだから、青葉の音(まだ「声」の明確さをもたない未生の「ことば」)であるともいえる。
ここからは「思考」の世界であるから、なんとでもいえるのだ。
で、その「思考」の世界は、どこへゆく?
詩の最後。
それが「誰」かは問題ではない。川上は「身の丈の寂しさ」ということばをこそ書きたかったのだ。
「思考」は「寂しさ」という「抒情」に到達する。
*
今月のお薦め
1 北川透『海の古文書』
2 林嗣夫「星座」
3 岩木誠一郎「飛来するもの」
川上明日夫は「空の声・おしずかに」はとても変な行から始まる。
ひらひらと音もなく おしずかに 降っている 枯葉です
「おしずかに」って、何?
「しずかに」ならば降っている枯葉の状態をあらわすことになる。でも、川上は「おしずかに」と書く。これは、何? 「ていねい語」?
とりあえず、つづきをよむ。1行目から、引用し直す。
ひらひらと音もなく おしずかに 降っている 枯葉です
枯葉だから声がないのであろうか
青菜だったら声があるのだろうか
3行目の「青菜」はたぶん「青葉」の誤植だと思うが(引用した詩は前半部分。後半にも「枯葉」「青葉」の対の構造が2回繰り返されているので)、「青菜」というのもおもしろいかもしれないので、「青菜」のまま引用しておく。
1行目の「音もなく」は2連目では「声」にかわっている。つまり、1行目は「ひらひらと声もなく おしずかに 降っている 枯葉です」ということになる。
そう?
いや、どうも違うようだ。
3連目。
声のするほうに あわてて耳をやったが 何も きこえる
ものは なかった
「声」って何? 「枯葉の降る音」ではないようだ。どうやら「おしずかに」が声のようである。枯葉が降っているとき(散っているとき、とは違うのかもしれない)、ふと「おしずかに」という声が聞こえたのだ。
「声」は「ことば」でもある。枯葉も青葉も「葉」ではあるが、「こと・葉」ではない。だから「おしずかに」は枯葉のいったことでもない。
だいたい、枯葉と人間が「共通語」で話すということは聞いたことがない。
で、「声」が誰かのひとの「声」だと仮定して……。
そのあとが、また変。
その「声」がだれなのか確認するとき、普通は「耳をやって」ということをしない。「目をやって」確認する。そこに人がいても何も言わなければ何も聞こえない。耳だけでは、そこに人がいるかいないか確認できない。
だから、普通は「声」のするほうへ「目」をやるのである。そして、そこに人がいるかいないかを確認する。さらに、その人が誰であるかを確認する。もちろん「耳」でその人が誰であるかを確認するということもあるが、それはまた特殊なことがらであって、一般的ではない。
4連目。これも変である。
ただ みな ひたすらにうなだれて そこに いない人影
ばかりが そっと もの想いに ふけっていた
「うなだれて」いるかどうかは、耳では確認できない。目で確認する。「いない人影」というのは奇妙な、矛盾したことばだが、そこに人がいるかいないかも、たいていは目で確認する。音でも確認できないことはないが、それは音を立てているときである。音を立てていないときは、そこに誰かがいるかいないかは確認できない。不意に物音がして、人がいる、と思った瞬間、猫が飛び出してくれば、あの音は猫が立てたものと普通は思ってしまう。
ひとの、そこに誰かがいるかいないか、その声を発したものが誰であるかを確認する肉体の器官が目であるなら、3連目に、川上はなぜ「耳をやったが」と「耳」ということばをつかったのだろう。
なぜ、不自然なことばを先に書き、それをあとから少しずつ微妙に修正していくのだろう。
いや、それ以上に不思議なことばが、この連にはある。
「いない人影」が「もの想いに ふけっていた」というのは、どうやって確認する?
「目」で見えるの?
5連目もとても変だ。
すぎてゆく 一瞬と永遠 後悔と悔恨 の 光と影だけが
もう この世の窓辺で ひっそり 空を 看取っていた
「一瞬と永遠」「後悔と悔恨」。こういう「ことば」というか「存在」を確認するはなんだろう。耳で確認できるか。目で確認できるか。
できない。では、何によって確認するか。
精神、といってみようか。思考、といってみようか。
--と書いた瞬間、私は、びっくりしてしまう。ふいに、川上の書いていたことがわかったように感じ、びっくりしてしまう。
「誤読」なのだが、--「誤読」できたことに気付くのである。(これは川上の書いていることば以上に変なことばだね。)
そうか、川上は、「思考」を書いていたのだ。
「おしずかに」は「思考の声」だったのである。「おしずかに、そうすればひらひらと音もなく降っている枯葉の、なぜ音がないまま降ることができるか考えることができる」「おしずかに、枯葉が音もなく降ることの意味を考えなさい」という「声」だったのだ。そして、そんなふうに考えるということを「もの想いにふける」ということばで川上はあらわしているのだ。
そして、この5連目、4連目の関係でも、「主語」はあとからあらわれて、前のことばを引き継いでいくという構造がある。4連目の「いない人影」というのは、「思考」だけが確認できる「虚」である。目や耳では確認できない。
聞こえるもの(耳)、見えるもの(耳)から出発して、それを「思考」としてとらえ直す--これが川上の哲学の方法論なのである。
で、こうした「思考」の領域に到達したあと、川上は世界を反転させる。
ひらひらと音もなく おしずかに 降っている 青葉です
音はだから枯葉の声だったのだろうか
声はだから青葉の音だったのだろうか
降っているのは「青葉」。1行目で書いてある「枯葉」は間違い。青葉が降るとき、枯葉が「おしずかに」という声となって、思考のなかに存在する。それは青葉がふるということが起きないかぎり存在しないものだから、青葉の音(まだ「声」の明確さをもたない未生の「ことば」)であるともいえる。
ここからは「思考」の世界であるから、なんとでもいえるのだ。
で、その「思考」の世界は、どこへゆく?
詩の最後。
つまびらかではないが その時たしかに おしずかに と
身の丈の寂しさで 上方に すれ違っていったものがいる
それが「誰」かは問題ではない。川上は「身の丈の寂しさ」ということばをこそ書きたかったのだ。
「思考」は「寂しさ」という「抒情」に到達する。
*
今月のお薦め
1 北川透『海の古文書』
2 林嗣夫「星座」
3 岩木誠一郎「飛来するもの」
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