詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

奇妙な夢(「こころは存在するか」、番外1)

2024-10-31 11:23:06 | こころは存在するか

 中井久夫に呼ばれて、小さな飲み屋に行った。ちょっと頭を下げて挨拶をし、顔を上げると中井久夫が古井由吉に変わっていた。そこへ大岡昇平が入ってきた。L字形のカウンターに座って、私はふたりが並んで話しているのを斜めから見る形で見ていた。大岡昇平が鞄のなかから一冊の本を取り出した。ずいぶん昔に書いたものだが、どこかに紛れてわからなくなっていた。全集にも収録していなという。「読んでみるか?」と、突然、大岡昇平が私に言った。「はい、感想を書かせていただきたい」。私はなれない敬語をつかって、そう答えた。
 その瞬間、それまで見ていた夢を奥底から破るようにして、大岡昇平があらわれて「おい、書くといっていたあの感想はどうした」と怒鳴った。

 そこで、目が覚めた。
 中井久夫が夢に登場するところまでは理解できる。実際に会ったことがあるし、交流もあった。なぜ、古井由吉、大岡昇平があらわれたのか。古井由吉の文体が好きで、私は全集を持っている。大岡昇平も大好きで、大岡は、私の読んだ限りでは魯迅と並んで正直なひとである。だが、古井由吉も大岡昇平も、全集に収録されている全作品を読んだわけではない。その、私の読んでいない作品のなかに、何か、私にとって大事なことばがあるのかもしれない。びっくりして目覚めた頭で、そんなことを考えた。
 たぶん、そうなのだろう、と思う。
 私は少し思い立って、死ぬまでに読み通すための本のリストを想定していた。いまは第一歩として和辻哲郎を読んでいるが、一年間で読み通す予定が大幅に遅れている。古井由吉も大岡昇平も、そのリストには組み込まれていなかったのだが、大岡昇平はなんとしても読まなければいけないという「啓示」なのかもしれない。
 そして、それはたぶん「正直」と関係があるのだ。「書くといったじゃないか、なぜ、まだ書かないのだ」と叱られているのだ。私は「正直」を貫いていない。「書く」と言ったのなら書かなければならない。
 ここからは、きょうみた夢とは関係がなくなるのだが。
 私には「夢」がある。書こうと計画している二冊の本がある。詩集と評論。どれも構想(頭の中のメモ)だけで、書き散らしたことばはメモにさえなっていない。それを書かなければならない。なんとしても書き始めるときなのだ。そう気づいた。
 私はどう考えてもあと数年のいのちなので、これは、かなりむずかしいことなのだが、そうなのだ、読んで何かを思っているだけではだめなのだ。それをことばにしなければなさらないのだ。「正直」とは、自分のことばをつらぬくことなのだ、と突然気づいたのである。

 こんなことは書いて他人に言うことではないのだが、書くことで自分の怠け癖を直したい。「正直」を貫く方便として書いておこうと思った。会ったこともない古井由吉と大岡昇平がわざわざ夢にまであらわれてきてくれたのだから、そのことに対して「返礼」しなければ、と思う。


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こころは存在するか(43)

2024-10-20 12:41:09 | こころは存在するか

 私はスペインの友人から、スペイン語をならっている。その友人が、こんな「課題」を出した。

Si Mahoma no va a la montaña, la montaña va a Mahoma.
Explica el significado de la frase y escribe algún ejemplo.

 「もしマホメッドが山へ行かないのなら、山がマホプッドの方へゆく。この諺の意味を説明し、その具体例を書け」
 何のことか、その諺自身の「意味」もよくわからない。山が動くということはありえない。だから、何かを熱望したとき、常識では考えられないことが起きる、くらいの「意味」を想像し、こんな文章を書いた。(私の「解釈」は完全な間違いなので、結果的にとんちんかんな作文になってしまったのだが、何かしら友人を刺戟したようである。で、ちょっと書き残しておくことにした。)

Al leer un libro, a veces tengo experiencias extrañas.
Leer un libro significa visitar al autor del libro. Quiero saber sobre el autor. Poco a poco me gustan las ideas del autor y quiero leer más.

Mientras sigo leyendo sus libros, un día el autor me visitará. A veces me encuentro con palabras que me dan fuerte impresión, como si el autor viniera a mí desde dentro del libro, en lugar de que yo entrara en él.

"Aislamiento(鎖国)" de Tetsuro Watsuji(和辻哲郎). Un barco español dió la vuelta al mundo. Cuando regresó a España, descubrió que la fecha de su cuaderno de bitácora era un día diferente a la fecha de España.
Ahora todo el mundo conoce la línea de fecha internacional. Pero en esa época nadie lo sabía. Se puede decir que descubrió la línea internacional de cambio de fecha. Esta es una hazaña aún mayor que la llegada de Colón a América, yo lo pienso.
Desde que encontré este artículo, Tetsuro Watsuji me ha gustado aún más. Cuando amo a alguien, esa persona me busca. El me ama más que le amo.
 
 訳しみてると、(というのは、変な言い方だが)、こんな感じになる。

本を読んでいると時々不思議な体験をする。本を読むということは、その本の著者を訪ねること。私は、作者について知りたい。読むにしたがって、少しずつ作者の考え方が気に入り、もっと読みたくなってくる。
そして、その著者の本を読み続けていると、ある日、著者が私を訪ねてくる。時々、私が本の中へ入って行くのではなく、著者が本の中からやって来たかのような、強く印象に残る言葉に出会うことがる。

和辻哲郎の『鎖国』。そこに、こういうことが書かれている。スペインの船が世界一周した。船がスペインに戻ったとき、航海日誌の日付がスペインの日付と異なることに気づく。
今では誰もが日付変更線を知っている。しかし、当時は誰も知らなかった。航海日誌をつけていた人は日付変更線を発見したとも言える。これはコロンブスのアメリカ到達よりもさらに偉大な偉業だと私は思う。
この文章に出合ってから、私は和辻哲郎がさらに好きになった。私が誰かを愛するとき、その人は私を探す。彼は私が彼を愛する以上に私を愛してくれる。そして、誰にも告げなかったことを、私に語ってくれる。

 こういうことを、私はしばしば体験する。私が本を読んでいるのだが、それがいつのまにか立場が逆転して、筆者が私に何か「秘密」を語ってくれているような気持ちになる。そして、そういうことが起きるのは、筆者が私のことを好きだからなのだ。筆者は、私を探して本のなかから姿を現しているのだ。
 これはもちろん「ひとりよがり」なのだが、私は自己中心的な人間だから、「ひとりよがり」の瞬間が、いちばん幸福である。
 で。
 スペイン語では書けなかったことを、書いておく。
 なぜ「鎖国」のあの文章が好きなのか。
 アメリカ大陸は、そこに存在する。たとえコロンブスがたどりつかなくても、誰かがたどりつく。それは「客観的」というか、目に見える「事実」だからである。ところが「日付変更線」は、目に見えない。いまは便宜上、太平洋の真ん中ら引かれているが、それは「世界時間」の基準がロンドンにあるからである。もしそれが東京、あるいは北京、さらにはニューヨークにおかれていたら日付変更線の位置は違ってくる。「客観的」には存在しないものが、「存在させられている」。
 そして、なによりもおもしろいのは、それを「発見」(あるいは発明)したのは、「思考」である。さらにその「思考」を支えているのが、「航海日誌」をつけるという、地道な日々の積み重ねであるということなのだ。もし、航海士が毎日日記をつけるということをしていなかったら、「日にちが違う」ということに、だれも気がつかなかった。
 「世界」を統一的にながめ、そこに起きていることを知るためには「日付変更線」が必要ということに、だれも気がつかなかった。

 ここから、私は、さらに考えるのである。
 私は詩の感想を書き、小説の感想を書き、映画の感想を書いている。そのとき、「感想の出発点」となるのは、私の「くらし」である。航海士が「日誌」をつけるように、私は、毎日ことばを「動かしている」。それは必ずしも「記録」としてのこしているわけではないが、肉体のなかにはその記憶が積み重なっている。
 それが、ある日、だれかの「ことば」と出合う。そして、その瞬間、「あ、このひとのことばは、私のことばと違っている」と気づく。同じことばなのに、何か違う。それは世界一周した航海士が「日付が違う」と気づくのに似ている。「いま、ここに、おなじ日にいるはずなのに、それが違ってしまうということが起きる」。
 「日付変更線」ではなく、私は、ある瞬間「自他区別線」というものを発見するのである。
 私が、そのことを強く意識したのは、谷川俊太郎の「女に」を読んだときだった。その詩集のなかに、一回だけ「少しずつ」ということばが出てくる。そのことばのつかい方は、私の知っている意味だったけれど、私はそんなふうにつかったことがなかった。あ、これが谷川俊太郎なのだ、と気がついたのである。
 そして、それは私が谷川俊太郎を探し当てたというよりも、何かしら、谷川俊太郎が私に会いに来てくれたという感じの驚きだった。
 現実には、そういうことはありえない。しかし、そういう非現実が起きる、ということを私は感じている。「ひとりよがり」なのだけれど。

 何かが「好き」になるとき、いつも、そういうことが起きる。
 前回、詩の講座で入沢康夫の「未確認飛行物体」を読んだときも同じである。「大好きな」ということばが、向こうからやってきた。私が探し出すのではなく、入沢康夫の「大好きな」ということばが、私の方に会いに来てくれた。
 こういうとき、私は、興奮してしまう。
 で。
 どうしても少し補足しておきたいのだが、こういうとき、その「自他」の「日付変更線」になりうることばというのは、いわゆる哲学用語の解説書に書いてあるような「特別なことば」ではなく、私が日常的に、無意識につかっていることばである。谷川の「少しずつ」も、入沢の「大好き(な)」も、意味も考えずにつかっている。そして、意味も考えずにつかっているからこそ、そこに「意味」があらわれたとき、びっくりする。
 航海士が「日誌」を大事なものとして書き続けたように、谷川は「少しずつ」を、入沢は「大好きな」を、しっかり大切につかいつづけてきた。その結果として、それがある瞬間に「輝く」。そして、その「輝き」は、「日付変更線」の「発見」のように、生きていれば自然に出合うことがあるものではなく、あくまでも「主体的」にことばを動かしていくときにだけ、その「主体」のなかにあらわれてくるものなのである。

 ほんとうは、ここまでをスペイン語で書きたいが、書けないなあ。

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こころは存在するか(42)

2024-09-09 11:15:44 | こころは存在するか

 「こころ(精神)は存在しない」という私の考える私が、こんなことを書くと矛盾していることになるのだが。「心」ということばが出てくる文章に感動したのである。
 いま、日本語を勉強しているイタリアの青年と孟子を読んでいる。その「告子章句 上」(講談社学術文庫)の361ページに、「心」をふくむ次のことばがある。(私のワープロでは出てこない感じがあるので、一部は変更してある。)

人、鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むるを知る。心を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ。

 逆説的な言い方になるのかもしれないが。
 「こころがない」という考えに達したから、その「ないこころ」(なくしたこころ)を取り戻すために、私は本を読むのかもしれない。孟子を読みながら、突然、そう思ったのである。そして、それが勘当の原因である。

 私は、感動したとき、どうしても脱線してしまうのだが。

 私の意識のどこかに、和辻哲郎が「古寺巡礼」に書き記した父の質問がいつも「つまずきの石」のようにして存在する。「お前のやっていることは、道のためにどれだけ役に立つのか」。
 和辻はいざ知らず、私のやっていることが「道に役立つ」ことはないだろう。
 だれにも影響を与えることはない。しかし。もし「自分自身の道」というものがあるとしたら、その「自分自身の道」の役には立つだろうなあ、と思う。これは、自己満足の世界だが、私はもうそんなに長生きするわけではない。せめて「自己満足」のために、自分のいのちをつかいたいと思う。
 「学ぶ」というのは、現象を超えた法(理)に触れることだろう。それをことばにすることはできない。すでに多くの人がことばにしているが、そのことばを私は理解しているとも言えない。「法(理)が存在する」ということさえ、私の「誤読」かもしれない。
 たぶん、私は孟子の書いた「こころ」を「法(理)」と「誤読」し、さらに「法(理)即学問」と「誤読」を重ねているのだろう。

法(理=学問)を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放法(理/学問)を求むるのみ。

 「学問」を「問い、学ぶ」というふたつの動詞に「誤読」しながら、ことばを読む。
 これは、なかなか、楽しい。何よりも、金がかからないから、年金生活者には最適。本は、すでに買い求めてあるから、新しいものはいらない。「古典」と呼ばれているものが、とても楽しい。

 ところで、引用した文章に「則ち」ということばが出てくる。「即ち」ということばもある。「則ち」と「即ち」は、どう違うのか。「鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むる」は「鶏や犬がいなくなった場合は」だろう。「その場」という意味で「即ち」をつかったことばに「即興」があるから、「即ち」もつかえそうだが、私の印象は少し違う。「即ち」の場合は、何か密接な、ぴったり重なった、あることがらの「表裏一体/一心同体」という感じがする。「法/理/学(問)」の「/」が「即」だなあ。「学問」ということばは「学則問」であり「問即学」が結晶して区別がつかなくなった状態だね、と自分勝手に「誤読」するのである。

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こころは存在するか(41)

2024-09-05 13:00:03 | こころは存在するか

 谷川俊太郎の詩集に『世間知ラズ』というのがある。私は、これを「世間知(せけんち)・ラズ」と読んでいた。「ラズ」と呼ばれている「世間知(世間の常識、だれもが知っていること)と理解し、さて、「ラズ」って、何? そこで、ずいぶん悩んだ。もちろんこれは「世間知らず(せけんしらず)」と読むのだが、カタカナ語が苦手な私は「せけんしらず」ということばが思いつかなかったのである。
 笑い話にもならない、どうでもいいことなのだが。でも、私はなぜ「世間知(せけんち)・ラズ」というような、常識はずれの「読み方」をしてしまったのか。カタカナ難読症が原因と簡単に断定できるのだろうか。

 このことを、和辻哲郎「自叙伝の試み」を再読していて、突然、思い出したのである。

 姫路生まれ、姫路育ちの西脇が、東京に出てきたときのことを「半世紀前の東京」のなかで書いている。そこに、こういう文章が出てくる。

都会育ちのものに特有な繊細なセンスが田舎者には欠けているとか、都会育ちのものの頭の働きが非常に敏活であるのに対して田舎者のそれは遅鈍であるとか、それに伴ない前者は世間知が豊富であるに対し後者はそれに乏しいとか、

 「世間知」ということばが出てくる。私は、この和辻のことばを覚えていたのか、と驚いたのである。ちなみに、「世間知(せけんち)」ということばは、私のもっている広辞苑には載っていない。たぶん、和辻独自のことばなのだろう。それを、私は無意識に覚えていて、谷川の詩集を見たとき「せけんち・ラズ」と読んでしまったのだろう。
 何度も繰り返されることばではなく、一度見ただけのことばなのに、それを単独で覚えているというのは不思議なことだが、何かしら、和辻のことばには私の「肉体」そのものに触れてくる「自然」がある。
 「自伝の試み」のなかで描かれているのは明治20年代(1890年代)は和辻の幼年時代だが、それは私の幼年時代の昭和30年代(1950年代)に似ている。いや、姫路の1890年代は、私の育った能登半島の付け根の小さな集落の1950年代よりもはるかに進んでいる。半世紀すぎても、私の済んでいた集落は姫路の「文化」から遠く遅れている。ただ、「自然(山や川)」だけが「同じ年代」を生きている。西脇の描く「自然」は私の知っている「自然」と非常によく似ている。そのために、和辻の文章のリズムが、非常になじみやすい。和辻は「私の知っていること」を書いている、という気持ちで読むことができる。
 「自然」は似ている。違うのは、「世間知」である。
 「世間(社会)」のなかで流布していることが、違う。和辻は、その「違い」を東京に出てきて実感している。(幼少時代も、ほかの村のこどもと西脇が違うことを少し感じているけれど、東京へ出てきて感じた「違い」ほど大きくはない。)このときの和辻の「印象」、それを象徴する「世間知」ということばが、私の「肉体」のなかで、長い間眠っていたことになるのだろう。
 ことばの「影響」というのものは、なんと、不思議で、強いものなのか。

 「世間知(せけんち)」と関係するかどうかわからないが、私には、忘れることのできない「貧乏」と「世間知らず(せけんしらず)」を結びつける思い出がある。私は「世間」には属していない、私の属している世界は別のところにある、と感じる思い出がある。
 小学一年のときの「終業式」。私は、それがどういうものか知らないから、いつものように学校へ行った。すると担任の先生(石田先生と言った)が、私を呼び止める。そして私の親戚の2年生の女子を呼ぶ。その女子に向かって、こう言う。「きょうは修行式なのだから、修三を家につれていって服を着替えさせてこい。修三の母親にそう言え」。ああ、「式」のあるときは、いつもと違う服を着るのか、ということを私は初めて知った。たぶん、母も初めて知ったのだと思う。そういう「世間知」から遠いところで、私は生きていた。たぶん、ツギのあたった服を着ていたのだろう。それでは「式」にふさわしくないと石田先生は思って、世話をしてくれたのだろう。
 この石田先生は、なぜか私のことをよく覚えていてくれたようで、私のめい(15歳くらい年下)が小学一年生のとき、めいの担任になり、「谷内修三を知っているか」と聞いたそうである。「谷内」という姓は、能登では珍しくない名前である。姓から判断しただけではなく、顔か何かが似ていたのかもしれないが、そのことを姪から聞かされびっくりしたことがある。それくらい、私の田舎では「時間」がゆっくり流れているということかもしれない。
 話は脱線するが。
 私は和辻が姫路での幼少、青年時代を描き、さらに東京と姫路を都比較しながらいろいろ書いているのを読みながら、1950年代の、私の貧乏をいろいろ思い出す。
 先に書いた姪は、私の上の兄の娘だが、その兄と私は15歳くらい離れている。子供時代、一緒に遊んだ記憶は、私には、ない。私が小学の高学年のとき、就職先から家に帰ってきた。私は兄を何と呼べばいいのかわからず、両親に尋ねた。「おじ」というのが、その答えだった。「おじ」というのは、私の育った地方では「二男」(あるいは、弟)を意味する。私が兄を「おじ」と呼ぶのは変なのだが、なぜ、「おじ」と呼ぶかというと。実は、私にはもうひとり兄がいて、その兄は「おじ」が家に帰ってきたあと、やはり家に帰って来た。兄は「あんま」である。「あんま」のつぎが「おじ」。私は兄を名前で呼んだことはない。私は名前で呼ばれたが。
 また脱線したが、そのおじが、あるいはあまんが着ていた15年以上前の「学生服、学生ズボン」を私は履いて小学校へ通っていたことがある。海水パンツも、兄のお下がりだった。そういうものを買う余裕が私の家にはなかったということである。習字の道具(筆、すずり)も、最初は、先に書いた親戚の女子に借りて、つかっていた。あとで言えの中のがらくたをかたづけて、その下から兄たちがつかっていた硯と筆をみつけだしてつかったと思う。
 敷布団はなく、「ドン・キホーテ」の旅籠屋のなかに出てくるように、藁の上に布をかぶせて敷布団にしていた。藁を換えると、藁を干していたときの太陽の匂いがする。ふかふかする。そのときのことを、私の肉体は覚えている。こんなこともあって、私は清水哲夫の「スピーチ・バルーン」のなかの「標準語訳」の部分に、かみついたことがある。肉体が感じることばのリズムが標準語訳には反映されていないからである。
 中学生になるころ、私は私の部屋をもらったが、その部屋の窓は格子でできているのだが、ほんとうに格子があるだけ。ガラスも障子もない。つまり、風がそのまま入ってくる。だから、冬などは、そこで勉強するということなどできない。寝るときだけ、板戸の向こうの部屋で寝る。寝るための部屋だから、電灯は小さな裸電球があるだけだが、それも電気代がもったいないと、ほとんどつけなかった。私は体が弱くて、医者から「9時に寝て、6時に起きるように」と言われていたのだが、9時まで起きていることもなかった。夕食を食べると、8時前には寝ていたと思う。
 中学を卒業すると、兄弟はみんな就職した。小学生のとき、私が、新聞の広告の裏か何か絵を描いていたら、おじが「お前は絵が好きだから、映画館の看板描きになれ」と言われた。私もそのつもりになっていた。
 そういう生活だったから、和辻が描いている明治の姫路は、私にとっては、和辻が見た東京のようなものである。いや、それ以上である。そんな「ずれ」が刺戟になって、「世間知」ということばが「せけんち」として、私の肉体に残ったのかもしれない。私の肉体の中には、そして、そういう「ずれ」が、いまでも、たくさん残っている。それは、かなり頻繁に、噴出してきて、私を驚かせる。私が書いていることの多くは、その「ずれ」を出発点としている。

 「世間知」に対峙することばはなんだろうか。「自然知」、あるいは「肉体知」かもしれない。私が和辻に感じるの親近感は、その「自然知」「肉体知」に対するものだが、このことを書くのはなかなか難しい。
 でも、いつかは書きたい、書けたらなあ、と思う。「こころ(精神)」は存在しない。しかし「自然」「肉体」は存在する。「肉体」が「肉体」のまま出合える「場」を取り戻したい。修業「式」という「世間知」から遠くにいたときも、私も母も生きていた。そのことを「守りたい」。

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こころは存在するか(40)

2024-09-01 23:53:49 | こころは存在するか


 和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」という生き方が美しいと思う。

 和辻が描いている「母たちの時代の人」というのは明治20年代(1880年代後半)だが、その時代には「労力を勘定に入れない」人がいた。そして、和辻がこの「自叙伝の試み」を書いた昭和30年代(1950年代)にも、そのことばがそのまま「通用」する生活があったのだ。

 それにしても。
 和辻が生まれた姫路市の明治なかごろの風景と、私が育った氷見市の昭和30年代は、なんと似ているのだろう。というか、昭和30年になっても、私の集落は姫路の明治のなかごろに追いついてはいない。絹織物を織るというような文化的なことを私の母はしていなかったが、かわりに「むしろ」を織っていた。むしろ織り機というものがあり、私もこどものときむしろを織らされた。
 私が和辻の文章に弾かれるのは、和辻の文章の奥に動いている「自然(山や川、空)」の感じが私の知っている自然に近いからかもしれない。自然の呼吸が、どこかで私にひびいてくるからだろう。
 和辻は、和辻の家で「みそ」をつくるときのことを書いている。私も、家でみそをつくるときの様子を見ていた。大豆がふかしあがる。何の味もついていないのだが、私はその大豆を食べるのが好きだったことなどを思い出すのである。和辻の祖父が、蔵の中でコメに大きなうちわで風を送っている場面など、なんとも不思議な気持ちで読んでしまう。ふと、収穫したばかりの米を納屋の倉庫に入れた日、父が、米の番をして、その納屋で眠ったときのことを思い出したりする。
 あらゆるところに「労力を勘定に入れない」仕事があった。そして、それはなんというのか、自分よりも、「自分の作ったもの」を大事にする仕事に思えるのである。自分のかわりに、自分のつくったものが「生きていく」。「生きていく」というのは「他人(自分以外のもの、もちろん家族を含む)」のなかへ動いていくということである。
 和辻の祖父のコメの「せわ」など、その代表的なものだ。コメは和辻の祖父がつくったものではない。しかし、そのコメがまずくならないように風を送るという「労力」が、おいしいコメとして家族の中に「生きていく」。それは「高い」とか「安い」では、とらえることのできない何かだ。和辻は母のつくった絹織物を、母たちにしてみれば「呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである」と書いているが、単に「安い」だけではないものが、そこに動いていると感じる。
 和辻の文章には、なにかこういう「生きていく」ものをすくい取り、定着させることばがある。
 それは、やはり、「思想」というよりは「倫理」というものだろうなあ、と思う。

 

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こころは存在するか(39)

2024-07-26 12:19:41 | こころは存在するか

 和辻哲郎「鎖国」の終の方に、こういう文章がある。

一五八二年二月、ワリニャーニが少年使節たちをつれて長崎を出発したあとの日本では、九州でも近畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え上がっていた。

 後半の「五月の若葉のように萌え上がっていた」は比喩であり、哲学書や学術論文には不向き(?)な表現かもしれない。しかし、私はふいにあらわれるこういう表現が好きである。そこには「感情の事実」が書かれている。和辻が、少年使節がヨーロッパへ出発したあとの日本の雰囲気に「興奮」していること、その時代をとても希望に満ちたものとみていることがつたわってくる。「新しい機運が盛り上がっていた」も感情をつたえるかもしれないが、まだ「弱い」。「五月の若葉のように萌え上がっていた」には、それこそ、和辻の感情が「五月の若葉のように萌え上がってい」ることを教えてくれる。何か「肉体」を見ている(読んでいる)感じ、「若葉」を見たときに興奮する「肉体」の感動そのものを見ている感じがする。
 それは、次の文章も同じ。

宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状をあたえたときの秀吉の腹であった。

 この「腹」は「思い」(考え)と言いなおすことができるが、「考え」では何か「弱い」。そこにいる「人間(肉体)」が見えてこない。「腹」ということばは「肉体」そのものを感じさせる。この「腹」ということばをつかうとき、秀吉の腹と和辻の腹はつながっている。つまり、和辻は秀吉の「考え」を「頭」で理解しているのではなく、「肉体(腹)」で理解し、「共感」している。
 それこそ、私は「こころ(精神)は存在しない」を、こういうときに実感するのである。存在するのは「肉体」である。「頭」が何か考えるのではない。「肉体」、たとえば「腹」が考えるのである。それは、ここではたまたま「腹」だが、あるときは「手」であり、「指」かもしれないし、「足の裏」かもしれない。どこでもいいが「肉体」が関与しない思考、感情など存在しない。そうしたことを、私は「感じる」。人間が何かを考えるときに必要なのは「肉体」である。
 それは「鎖国」に対する和辻の次の表現、なぜ「鎖国」政策が生まれたのかという次の表現からも、間接的(?)に感じるのである。外国との積極的な交渉ができなかったのは……、

為政者の精神的怯懦のゆえである。

 「肉体的な弱さ」ではない。「精神的怯懦」に原因がある。「精神的怯懦」が動くとき、「肉体」は動いていない。そのとき人間は「死んでいる」のである。逆に言えば、「肉体」が動き、世界に働きかけるとき、人間は「生きている」。そして、その働きかけを実際に表現するものとして、「肉体」と「ことば」がある。「ことば」は「肉体」に対して「(論理的)可能性」を教える。「精神(こころ)」など、気にしてはいけない。そんなものは「存在しない」と否定しなければ、何もできない。これは「暴論」かもしれないが、私が感じるのは、そういうことだ。

 

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こころは存在するか(38)

2024-07-15 20:35:21 | こころは存在するか

 和辻哲郎「鎖国」は、私にとって忘れることができない本である。この本によって、私は初めて「歴史」に興味を持った。歴史というものに対して、驚く、ということを知った。
 スペインから出発したマゼランは、マゼラン海峡(南アメリカ)を越え、太平洋を渡り、喜望峰(アフリカ)を越え、スペインへ帰っていこうとしている。このとき、マゼランは、すでに死んでいる。マゼランは、実は世界一周をしていない。乗組員は食料不足で苦しんでいる。そう書いた後、こんな文章が出てくる。

窮迫のあまり、ポルトガル官憲に押えられる危険を冒してサン・チャゴ島に上陸したが、この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはがない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。(210ページ)

 いまでこそ、「日付変更線」という「もの(概念)」があるから、なんとも思わないかもしれないが、当時はそんなことは知らない。「この不思議はやっと後になってわかった」の「わかった」は「だれ」がわかったのか、和辻は書いていないのだが、その「わかった」の根拠になっているのが(わかったを支えているのが)、ビガフェッタという乗組員の「日記」である。私は、ビガフェッタという人物を初めて知ったが、こういう「名もないひと(?)」が歴史をつくっているのだ。そのことに、私は非常に驚いた。彼がいなければ、私たちが「日付変更線」に気づくのは、もっともっとあとだろう。
 「東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった」という文章にも、私は、こころが震えた。スペインを出発したのが「1919年9月20日」、カボ・ヴェルデ諸島に着いたのは「1522年7月9日」。この3年間近くの間に、短くなったのは「たった一日」。なんという不思議。3年も航海しているなら、もっと短くなっても、あるいはもっと長くなってもいいのに、「たった一日」。
 「実感」と「事実」は、こんなに違う。そして、「実感」のなかには「実感」ではとらえることのできない「見えない事実」がある。それは「論理的」に考えない限り「見えてこない事実」である。南北アメリカ大陸は、コロンブスが「発見」する前から存在した。だから今では「発見」と言わずに「到着」というのだが。この「日付変更(線)」は(日付の短縮は)、実は、どこにもない。どこにもないけれど「存在する」。それを存在させないと現実を支える「論理」が狂ってしまう。「虚構」なのに、「真実」。
 こういう「真実」が、歴史のなかにはもっともっとたくさんあるだろう。「ことば」によって初めて存在し始める何かが。こうしたものの存在を教えてくれたのが、和辻の文章なのである。
 このあと、和辻は、こうも書いている。

最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたことになる。(210ページ)

 ああ、「記録」ということばの、なんという美しさ。強さ。
 和辻は、いつも「記録」をたどっている。「記録」のなかに隠れているもの、もう一度別なことばで言い表さない限り浮かび上がってこないものを書き続けている。そのことを教えてくれたのが「鎖国」である。
 ここからこんなふうに飛躍するのは、私の「誤読」の最たるものだが。あるいは「うぬぼれ」の。
 私は、この和辻の「姿勢」に強く励まされた。「記録(ことば)」を語り直すとき、そこからその「ことば(記録)」が隠し持っている(と思われるもの)が浮かび上がってくることもある。私は、詩を読んだり、映画を見たり、絵や彫刻を見たりするたびに、その「感想」、その「印象」を書いているが、私のことばによって浮かび上がってくる何かがあるかもしれない、とときどき思うのである。それは、たぶん、「ことば」を発した人、「芸術作品」をつくったひとの「意図」とは違うだろう。しかし、「意図」と違っていても、そこには「真実」があるかもしれない。作者の気づかなかった真実が。それを、もしかすると、私のことばは、別の誰かに指し示すことができるかもしれない。
 ビガフェッタは「日付変更線」が「発明(?)」されるようになるとは思わなかっただろう。「日付変更線」が存在しないと「論理」がまっとうに動かないということなど、想像もしなかったかもしれない。しかし、そういうことが「歴史」においては起きるのであり、それは何かしら、とてつもないことなのだと思う。

 ところで。
 私の持っている「鎖国」を収録した岩波版の全集第15巻、1963年1月8日第一刷発行、1990年7月9日第三刷発行には、たいへんな「誤植」がある。その後、どうなったか知らないが、203ページ8行目。(7行目から引用すると)

その航路はアフリカ南方の海峡を通って太平洋に出る道である。

 この「アフリカ」は「アメリカ」の誤植。アフリカ南端の喜望峰はすでに発見されている。
 気になっていたことなので、書いておく。


 

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こころは存在するか(37)

2024-06-23 12:15:34 | こころは存在するか

 和辻哲郎「尊皇思想とその伝統」のなかに、興味深い表現がある。記紀に書かれた神の異義について触れたものだが、記紀に登場する神は

絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者が己れを現わしきたる通路としての神なのである。

 ノエマ=思考によってとらえられた対象、ノエシス=思考作用、思考する運動という「理解」でいいのかどうか、「絶対者」が「ノエシス」と結びつけられていることに私は引きつけられる。和辻は「思考する、その動き」そのものが「絶対」であり、「思考された対象(存在)」を「絶対」とは結びつけていない。
 生きているとき、もし「絶対」というものがあるとすれば、「思考する」という「運動」が絶対なのである。

 これは、もしかすると、和辻批判に対する和辻の反論とも言えるかもしれない。

 和辻の提出している「結論」は「間違っている」かもしれない。つまり「絶対」ではないかもしれない。しかし、その「結論」までの過程で動いている動いていることばの、その「動く」ということは「絶対」なのである。そこには「必然」がある。もちろんそれは「和辻の必然」であって、ほかのひとにとっては必然ではないかもしれない。しかし、そういうことは書いているひと(考えているひと)にとっては重要ではない。「考えること=私」であること、それが基本である。
 「考える」という運動を放棄して、「他人の考え/考えた結果(結論)」を並べてみても、そこには「考える」ということの絶対は存在しないのである。

 私の書いていることは、「間違っている」だろう。私はいつも「誤読」しかしない。しかし、その「誤読」は、私にとっては「必然」なのである。「誤読する」ために読むのであって、「結論」を知るために読むのではない。「結論」というのは、いつも「他人のことば」のなかには存在しない。もちろん「私の結論」のなかにも存在しない。私は「結論」めいたものがあらわれてしまったら、次には、それを壊すために書く。
 和辻のことばを借りて言えば「通路」であることが重要なのであって、「通路」のむこうに待っているのは「空」なのだ。

 

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こころは存在するか(36)

2024-05-16 14:19:49 | こころは存在するか

 神谷美恵子を読んでいて、ふいに、とても奇妙な気持ちになる。「私は神谷美恵子の文章に愛されている」と感じる。これは神谷美恵子に限ったことではないが、私は、何か好きな人の文章を読んでいると、私はその文章に愛されていると感じる。それは、私はその文章が好きという感覚よりも、何か、不思議な強さ、不思議な深さ、不思議な広がりで迫ってくる。その文章、ことばにつつまれている感じがする。このことばのなかにいる限り、私は安心できる、という感じだ。
 私は、そういう感覚を求めて、たぶん本を読んでいる。愛を知りたいというよりも、愛されているという感覚を思い出したくて読んでいる。
 これは、だから、何と言うか、「私の知らないことを知りたい」という「知識欲」とはかなり違う。「知っている何か」を確かめたいということになる。しかも、その知りたいのは、ことばにする必要のないことなのである。ひとは(私は)ことばをとおして考えるのだが、それは「意味」ではなく、ある「動き」なのだと感じている。
 この「前置き」は、これから書くこととどういう関係があるのか、私自身もわからないが、和辻哲郎の次の文章について書こうと思ったら、突然、思いついてしまったのである。
 で、その和辻の文章というのが。

同一の倫理の異なった表現はあるが、異なった倫理はない。

 私はこのことばから、突然、母や父のことを思い出すのである。前に書いたが、私の母は、私の小学校の担任だった石田先生の「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを信じて、私に向かって何度もくりかえした。
 このことばのなかにある「倫理」は、どういうものか。ひとは不正なことをすれば、それはかならず発覚する(何か悪いことをすれば、だれかがきっと見ていて、罰せられる)ということかもしれない。ひとは、だれかが見ている、見たいないにかかわらず正しいことをしなければならない、ということかもしれない。
 この「同一の倫理」は、さまざまな異なった表現(ことば)をとる。しかし、その異なった表現(ことば)のなかに、何か「同一の倫理」がある。ひととひととの関係を律する力がある。希望がある。愛がある。
 石田先生が「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」と言ったとき、母がそのことばをくりかえしたとき、私は愛されていたのだと思い出す。そこには希望があったのだと感じる。それは、私の希望か、石田先生の希望か、母の希望か。それは区別してもしようがない。

 「(私は)遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを、あれこれ言い換えてもしようがない。そこから「愛」とか「正義」とか「徳」というような抽象的なことば、さらに「幸福」とか「祈り」という抽象的なことばを引き出してもしようがない。和辻は彼自身の考えを突き詰めていくとき、私たちが日常的につかっている日本語を解体しながら動かしているが、その解体の対象にはならない、かなり「あいまいな広がり」をもったことばである。でも、どんなことばでも、ひとが何らかの「希望」をもって発したことばには必ず共通するものがある。それは、どうしたって「倫理」につながる。ソクラテスもプラトンも、石田先生も「見ている」ものは「一つ」である。表現が違うだけだ。

 神谷美恵子は「人間をみつめて」で、こんなことを書いている。

人間というものは、人間を越えたものが自分と世界を支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、一日も安心して生きて行けるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知りえないもののだ。

 「人間を超えたもの」を「神」と呼ぶひともいる。「宇宙の真理」と呼ぶひともいる。私は「ことば(表現)のなかに動いているもの」と感じている。どんなことばも何かしら「私を越える(超える)」。それが私を愛してくれている。本を読むと、そう感じる。そう感じることができる本を読むのが好きだ。安心できる。
 神谷美恵子も和辻哲郎も、私の存在を知らない。私が彼らのことばを知っているだけだ。しかし、私は、彼らのことばを読むたびに「愛されている」と感じる。

 

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こころは存在するか(35)

2024-05-05 22:53:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎「倫理学」のなかに、和辻ならではのことばがある。ピラミッドについて触れた部分だが、ピラミッドの壁に描かれた絵について、それは

死者、その霊が見て楽しんだというよりも、まだ死なない死者が、死後の生活として、すでに生前において、満足をもって眺めているのである。

 記憶で引用しているので、たぶん、ずいぶん間違えて書いているところがあると思うが、私はそんなふうに読んだ。
 何がおもしろいかといって、ピラミッドをつくるように命じた王が、どこかにそんなことを書いていたわけではなく(そんな記録は残ってはいない)、ここに書かれていることは和辻の想像だからである。「歴史」なのに、想像を書いている。そして、それは王の想像力を想像したものである。
 それにしても「まだ死なない死者」という表現が、とてもおもしろい。「まだ死なない」なら「死者」ではない。でも、「これから何年かしたら死ぬであろう王」と書くよりも、「まだ死なない死者」という矛盾した表現の方が、とても強いものを持っている。
 矛盾というのは、ひとつの「論理の形」だが、和辻はときどき「論理」を超える。この「超論理」を「直観」と呼べばいいのかもしれない。和辻のことばには「直観の強さ」がある。

 

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こころは存在するか(34)

2024-04-28 15:39:39 | こころは存在するか

 和辻哲郎が、マイヤーのことばを引用している。マイヤーは「歴史の基礎理論をアントロポロギー(人類学)」と呼んでいる。それは「しばしば誤って歴史哲学と呼ばれている」。
 歴史哲学は人間学と呼ばれるべきである。これはマイヤーの理解の仕方であり、理解は常に「表現」をもっと具体的に示される。おもしろいのは(重要なのは)、その理解の仕方を「誤って」と呼ぶところにある。たぶん、マイヤー以外のひとは、マイヤーの説(表現)を「誤っている」というだろう。
 「歴史哲学=人間学」を統一することばあれば、この「誤り」は止揚されるだろう。
 和辻は、それを「倫理学」ということばで止揚(統一)したいのである。
 この私の「理解」は「誤っている」か。
 「誤って」いても私はかまわない。私はもともとすべてのことばを「誤読」したい人間である。つまり「誤読」をとおして、私自身の考えていることを書きたい。和辻の感じ得ていること(考えたこと)を「説明」したいわけではない。

 いま書いたことと、直接関係はないのだが、私はときどき思い出すことがある。
 私が小学1年・2年のときの担任は石田先生。参観日に、その先生が「私は、遠眼鏡をもっている。だからみんなが家で何をしているか、すべて見える」というようなことを言った。無学の母は、そのことばを真実と思い、よく私に「石田先生は遠眼鏡をもっているから、なんでも見ている」と言った。幼いながらも、私はそんなものがあるはずがないと思っていたが、つまり母は間違っていると思っていたが。
 最近思うのである。母もそんなものがあるはずがないと知っていたかもしれない。知っているけれど、わざと、そのことばを繰り返したのかもしれない。その場合、母は間違っていたのか。母の行動は「誤っている」のか。これが、むずかしい。私に間違ったことをさせないために、あえて、そう言いつづけたのか。もし、そうだとすると「誤り」は、どこに存在するのか。
 「理解」というものに「誤り」は存在するのか。「理解」はつねに「表現」をともなう。「誤り」というものを、どこで把握するか。それがむずかしい。もし「誤り」というものがあったと仮定して、それでは、それをどうやって「乗り越える」か。
 誰も、「誤り」たくて「誤る」わけでは、ない。

 この歳になって思うのだが。
 私は両親といっしょに暮らした期間が意外と短い。そのせいばかりではないと思うが、いちばん身近な両親のことを語ることばをもたない。何を考えていたのか。それを私のことばで語り継ぐことができない。これは、とても奇妙なことである。どんな人間もことばをもっている。ことばで考えている。そして、だれもが幸せというものを目指して生きている。「石田先生は遠眼鏡をもっているから、なんでも見ている」と繰り返した母のことばも、そうしたものを目指していたはずだ。そう思うけれど、どうことばにすれば、そのことばに近づくことができるか。どう「誤読」すればいいのか。

 

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こころは存在するか(33)

2024-04-14 21:39:30 | こころは存在するか

 和辻哲郎はハイデガーについて言及することが多い。「風土」はハイデガーの「存在と時間」を念頭に置いている。
 ハイデガーは人間存在を時間をもとに考える。空間性を考えない。しかし、和辻は常に空間を考える。その「空間性」を「間柄」という、とても日本的なことばで考え続ける。だからだと思うが、私の知っているコスタリカ人は「風土」を読み、これは日本人論だと言った。
 そこから私は、ハイデガーの「時間論」に引き返し、「風土」が日本人論ならば「存在と時間」は「西洋人論」なのではないか、と思った。「西洋人論」というのは変な言い方になるが、別の言い方をすれば「キリスト教の人間論」(一神論の人間論と言った方がいいかもしれない)になる。コスタリカ人を「西洋人」とは、日本人はたぶん呼ばないが、コスタリカはキリスト教が信じられている国、一神教への信仰が強い国である。だから、私の知人も無意識的に、「一神教」の影響を受けていると思う。
 西洋人(だけではなく、アラブ人もそうだが、いわゆる一神教を信じるひとたち)の意識は、「個人対神」の関係のなかで動く。唯一の神に向き合い、自分を考える。しかし、多くの日本人は「絶対神」というものを考えない。「絶対神」の意識がない。「神」とどこにでもいる。木々も神なら山も神。川も石も神かもしれない。神が無数に存在するから、「神」と向き合うことで「個人」に立ち返るということがない。
 西洋の「神」が「一人」(絶対的)であるのに対し、日本の「神」は無数(多数)に存在している。日本人は「一神教」の信者とは違って「神」と「一対一」にはならない。個人的立場から見れば、いつでも「一対多」である。
 そして、この「一対多」というのは、どうも「社会」(世界)そのものの構造でもあるように感じられる。「私」が存在するとき、いつも周囲に「多数のひと」がいる。そして、この「多数の存在」を考えるとき、そこにはどうしても「多数」を受け入れる「空間」が必要になる。
 「神」と「一対一」で向き合うとき、そこに「空間」があるとしても、それは「直線」である。「面」のひろがりを必要としない。この「直線(あるいは線)」の意識は「時間」の意識にとてもよく「似合う」。「時間」を表現するとき、ひとはしばしば「直線」を描き、その延長線上に「時」を割り振る。「面」を想定し、そこに「時」を配置しない。だから、「空間」の存在を忘れてしまうのだ。
 それは「良心の声」についても言える。「良心の声」は「神」につながる一直線の根源から聞こえてくる。それは「一神教」を生きる「時間の根源」からの「声」でもある。
 しかし、日本人は、「良心の声」に関係しているのは「間柄(世間と個人との関係)」である(と、和辻は考えている、と私は「誤読」している)。


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こころは存在するか(32)

2024-04-12 21:57:50 | こころは存在するか

 和辻哲郎の「倫理学」。こんなことを書いている。(私のノートに残っているメモなので、正確な引用ではない。)

 個人と全体者(社会)とは、それ自身では存在しない。他者と関連において存在する。個人は社会を否定し、個人になる。社会は個人を否定し、社会になる。否定という行為をとおして、個人も社会も、その姿をあらわす。

 ここには二重の否定、相互否定がある。この否定の否定、絶対的否定性から、和辻は「空」ということばを引き出している。あるいは「空」ということばに結びつけて考えている。「色即是空/空即是色」の「空」である。
 「混沌」、あるいは「無」ではなく「空」を思考(ことばの運動)のなかに取り込んでいる。「空」は、私にとっては「無」よりも「理念的」である。
 「無」は定まった姿のあらわし方がない(無)であり、つまり、そこからはどんなものでもあらわれうる(限界/制限がない=無)である。何も制御されていないから「混沌」なのである。
 「空」は「無=混沌」の対極にある。「混沌=無」を洗い清めるのが「空」である。「混沌=無」は「空」をとおることで、「存在」として顕現するのである。
 で。
 私の頭のなかに、こんなことばが突然やってきた。
 色否是空/空否是色(色を否定したら空が顕現する/空を否定したら色が顕現する)
 「即」と「否」は同じく、ひとの「行為」である。ひとが色や空に対して働きかける。肉体が動くとき、色も空も顕現する。色も空もひとが動かない限り、顕現しない。つまり、ひとが動かない限り「世界」は存在しない。
 ひとの動きによって、「世界」は生まれる。

 それに関するメモがひとつ。

人間が時間のなかに存在するのではない。時間が人間のなかから出てくる。
(人間が空間のなかに存在するのではない。空間が人間のなかから出てくる。)

 私が先に書いたことばは、きっとこのことばの影響を受けている。
 もうひとつ、メモ。

内容は過ぎ去らず、常に現在である。

 この「内容は過ぎ去らず」ということばは、「漢字」のことを思い起こさせる。中国語(漢字文化)には「時制」がない。ないといってしまうと、語弊があるが、日本語のように動詞の語尾を見て、過去かどうかがわかるわけではない。動詞の「活用」がない。「動」は「動いた」「動く」「動くだろう」でもある。
 漢字は「表意文字」であり、表意の意は「意味」の意であり、それは「内容」でもある。確かに意味や内容は、過ぎ去ったりせず、いつも「いま(現在)」そこにある。中国語は、いつも「意味/内容」を問題にしているのである。「永遠」を問題にしているともいえるかもしれない。
 そこで思うのだが。
 中国では、いま漢字は「簡略体」がつかわれている。これは、日本人の私がいうのは変なことであるけれど、文化の否定そのものではないだろうか。簡略体によって「表意」の「意」が変わってしまうということはないのか。

 脱線したついでに、さらに脱線しよう。
 日本語の表記、漢字、ひらがな、カタカナの混在は、めんどうくさそうで、意外と便利ではないだろうか。「動いた」「動く」。漢字の「動」からは「意味/内容」がわかる。「いた」「く」という「活用語尾」で「時制」がわかる。英語やその他のヨーロッパのことばでも、語幹から意味、内容がわかり、語尾から時制がわかるが。ただし、アルファベットの国では、ことばのくぎりを「空白」にしないといけない。いわゆる「分かち書き」。でも日本語は漢字があるので、それがアクセントになり、分かち書きをひなくてもすむ。ひらがなだけで書くときは、きっと分かち書きにしないと読みづらいだろう。
 私はときどき外国人に日本語を教えているが、上級者はみんな「漢字が好き」という。漢字のおかげで意味がわかる。文章が読みやすい。漢字で書けばいいところをひらがなで書いてあると意味を把握するまでに苦労する……。外国人といっしょに日本語のテキストを読んでいると、その気持ちがよくわかる。


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こころは存在するか(31)

2024-04-05 11:43:21 | こころは存在するか
 神谷美恵子「生きがいについて」(著作集1、みすず書房)を読んでいて、「人格」ということばにであった。
 
 死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじきだされたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。
 
 「人格」ということばは、何度も何度も和辻哲郎の本のなかに出てくる。その定義はむずかしいが、私は、ひとが実践をとおして肉体の内部にかかえこむひろがりと感じている。
 「おおきな人格」というのは、実践がそのひとを「おおきく」見せるのだと思う。そして、その「おおきさ」は客観的には測れないが、自然にわかってしまう「おおきさ」であり、「おおきなもの」は大きな引力をもっているから、それに引きつけられてしまう。
 神谷は「人格」を「生命そのもの」とも呼んでいるが、この「読み替え(呼び方)」も、私には和辻に通じるものがあると思う。もちろん、この「思い」は私の「誤読」であり、神谷が和辻から影響を受けているかどうかは知らない。しかし、私は、私の「誤読」を通じて神谷と和辻をむすびつけるとき、妙に安心する。
 ことば、あるいはひとのつながりはとても不思議なものだ。
 私が神谷を読んでみようと思ったのは中井久夫の文章をとおしてである。アウレーリウス「自省録」(神谷訳)を読んだのも、中井が神谷について書いている文章のなかに登場したからである。そして、その神谷の文章のなかに「人柄」という和辻の大事にしていることばが出てきたとき、単に神谷と和辻が結びついただけではなく、中井とも結びついた。直接、中井と和辻を結びつけることばではないが(中井の文章のなかで「人柄」ということばがあったかどうか、いま、思い出すことはできない)、私の肉体のなかで「世界」がぐいと広がるのを感じた。「ことば」は時間も空間も超えて、「世界」を広げてくれる。
 「人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでる」を神谷は、こんなふうにも書き換えている。「生きがいの」の発見を「心の世界の変革」ととらえる視点から、こう書いている。
 
以前大切だと思っていたことが大切でなくなり、ひとが大したこととは思わないことが大事になってくる。これは外側から来た教えではなく、また禁欲や精進の結果でもなく、すっかり変わってしまった心の世界に生きるひとから、自然に流れ出てくるものと思われる。
 
 「自然に流れ出てくる」。この「自然に」が「人格」なのである。そして、この「自然」に注目すれば、夏目漱石の「人間の自然」へもつながるだろう。漱石の描いている人間は、最初は何か「窮屈」である。つまり、苦悩している。それが何かのきっかけで「窮屈」を打ち破り「自然」に動き出す。ああ、あれは「人間」ではなく、ひとが「人格」になって動き出しているのだと思い出すのである。
 そのときひとは「道」を歩いているのだ、と考えれば、それはまた和辻につながる。
 「こころは存在しない」と考える私と違って、神谷は「心の世界」ということばをつかっているが、この部分をどう整理しなおすかは、書こうとすればかけるが(書きたいことはたくさんあるが)、長くなるので、書かないでおく。「こころは存在するか」というタイトルで書いているので、補足しておく。
 
 もうひとつ、どうしても引用しておきたいことばが神谷の文章のなかにあった。読んでいて、ふいに涙があふれてきた。神谷の「人柄」を、私は、この文章に感じたのである。
 
 深い苦しみと悲しみを克服して来たひとたちにも、以前と変わらぬ欠点や弱点を持った人間である。
 
 
 
 
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こころは存在するか(30)

2024-03-28 23:03:04 | こころは存在するか

 「ことばは人間とともに生きている。語る相手を待ってのみ発達していく。」という文章が和辻哲郎全集第十巻のなかにある。相手を「持って」ではなく「待って」。「待つ」と「持つ」は漢字が似ているが、意味とずいぶん違う。「待つ」とき、「待っている人(ことば)」にできることは何もない。
 「ことば」は語る相手=聞いてくれる相手のなかで発達していく。新しいことばになっていく。筆者が書けば「新しいことば」になるのではなく、「相手のことば」のなかで変化することで「新しくなる」。これは、「聞いてくれるひと」の、それまでのことばが否定され(破壊され)、新しく生まれ変わるということだ。ことばは、常に、発した人を超越し、他者のことばを否定しながら生まれ変わり、そのあとで話者に帰ってくるものなのだ。
 「間柄の本質」については、こう書いている。

我れの志向がすでにはじめより相手によって規定せられて、また逆に相手の志向を規定している。

 これは「ことば」について語っている部分と完全に重なる。ことばを相手に語り始めるとき、何を語るかは相手によって規定せられていると言えるが、語り始めればその瞬間から(語り始めなくても、語ろうと思ったときから)、そのことばのなかには相手のことばを破壊する何かが秘められている。相手のことばを破壊し、生まれ変わって帰ってくることばをこそ、話者は「待っている」。

 こういう「読み方」は、たしかに「誤読」なのだが、私は「誤読」をやめることができない。私の「誤読」は和辻には帰っていくことがない。和辻はすでに存在しない。しかし、本のなかで、和辻は「待っている」と、私は感じる。
 これは「自惚れ」ではなく、さらに大きな「誤読」というものだが、私は私の肉体のなかで、和辻のことばも私のことばも変わっていくのを「待っている」のだと言えばいいのだろうか。

 こういうことを書く瞬間、「喜びにこころがおどる」というのかもしれないが、これは「胸のなかで(奥で)こころがおどっている」ということか。しかし、私は「こころ」は存在しないと思う。「おどっている」のは「こころ」ではなく、たとえば顔の筋肉、足の筋肉である。ときには、その動き(おどり)を抑えることでさらに激しく「おどる」ものもある。「こころ」があると仮定したら、そのとき「こころ」は「胸の奥」にあるのか、押さえつけられた足の筋肉にあるのか。顔や、足や、手や、方々の肉体に散らばって、「こころ」は存在するのか。
 和泉式部の「千々にくだくれどひとつも失せぬ物にぞありける」みたいだなあ。(脱線)

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