詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆『木下杢太郎を読む日』

2013-12-31 10:15:09 | 詩集
岡井隆『木下杢太郎を読む日』(幻戯書房、2014年01月05日発行)

 岡井隆『木下杢太郎を読む日』はタイトル通り木下杢太郎について書いたものである。もっと言えば木下杢太郎とホフマンスタールの関係について書いたものである。木下杢太郎はホフマンスタールから影響を受けたが、その後その影響下から逃れ(?)、独自の境地に達した--というようなところが、岡井がみた木下杢太郎の姿である。どの作品に、どんな影響がみてとれるか--ということよりも、木下杢太郎の「人間」の動きの方に重点が置かれているような文章である。
 と、わかったようなことを書いてもしようがないなあ。私は木下杢太郎を読んでいないし、ホフマンスタールも読んでいない。あ、鴎外の訳で読んだのはホフマンスタールだったのか、と少し思い出すだけである。
 私は、そんなことより--と書くと岡井に叱られそうな気もするが、そんなことより、木下杢太郎を読む岡井隆の「人間」にひきずられてこの本を読んだ。誰かを「読む」、そのとき「読む人」のなかに何が起きるか。それを岡井はていねいに描いている。ことばにしている。この本には木下杢太郎よりも、岡井隆が書かれている。そう思った。

 「湖」という作品を引用する際、岡井は「静かな夜の雪」を「雲」と誤記している。その誤記の理由(原因?)を68ページで説明している。年譜で木下杢太郎の行動を追い、その詩の舞台を大正3年8月の野尻湖と思い込み、

「緑なす山の間の湖」の「緑」が、夏にふさわしいのと、「夜の雲」が湖面におりて来て消えるという情景もありうると思ったのだろう。

 ということになったらしい。
 「緑なす山の間の湖」の「緑」が、夏にふさわしい--そうだね。どうしたって、夏だね。だったら「雪」は基本的にありえない。雲だ。
 ひとは誰でも、あることばを単独では把握しない。前後のことばのなかでつかみとる。そこに「落とし穴」のようなものもあるけれど、そういう前後のつながりを自然に身につけるというのが人間のあり方なのだと思う。
 誤記したことを誤記したと書いている--その誤記のなかに、岡井の「正直」があって、その瞬間に、岡井が「人間」として見えてくる。緑-夏-雲とういことばのつながりを生きている岡井が見えてくる。(木下杢太郎は見えてこないのだけれど、岡井が見えてくる。)
 岡井が見えてくる瞬間というのはいろいろあるが、木下杢太郎が書いたホフマンスタールの追悼文に触れた部分。(149 ページ)

 「僕は白状すると」云々のところへ来て正直私は驚いてしまった。白状するにしては遅すぎるし、今このようにホフマンスタールの死後になって打ち明けるというからには、よほど杢太郎の心の中のこだわりが大きかったと思わずにはおれない。

 岡井自身「正直」ということばをつかっているが、ほんとうに驚いたのだ。そうだろうなあ。そまれでに書かれた文章で岡井は必死になって木下杢太郎とホフマンスタールの関係を追っているのだが、木下杢太郎はそれまで明確には何も書いていないのだから。そして、その書かれていないことに対して岡井は必死になって真相を探ろうとしているのだから。
 この驚きの後、岡井はつづけている。

ここで杢太郎が、ほとんど暗記(そら)で次々とホフマンスタールの作品名を挙げてその思い出を語るあたり、むしろ愉しそうだといいたくなるくらいである。

 この批判(愚痴?)めいたことばが、とてもいい。それが木下杢太郎の文章をいっそういきいきさせる。そして、木下杢太郎がではなく、岡井がわかる。あ、岡井はこんなに木下杢太郎が好きなんだ、批判や愚痴を言ってしまわずにはいられないほど好きなんだということがわかる。
 やっと木下杢太郎とホフマンスタールの関係をつきとめた(証拠をつかんだ)というよろこびのようなものも、そこにはあるかもしれない。
 ここでは岡井が、いきいきと動いている。愚痴をいいながら、「むしろ愉しそうだといいたくなるくらいである。」

 というようなことは、さておいて。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは岡井が天皇と話したことを書いた部分。(179 ページ)

 談たまたま「岡井は今何を書いているのか」という問いにお答えすることになって、ホフマンスタールと木下杢太郎について、やや多弁にお話ししたのも思いがけなかった。その時、ホフマンスタールという十九世紀末ウィーンの詩人の早熟ぶりに触れて「十代の相手について八十四歳になった自分が、いろいろと調べたり書いたりするとき、この年齢差に違和感がないわけではありませんが、世に天才というものはいるもので、ホフマンスタールは十代にして既になみなみならぬ成熟度というか、初めから完成しているのでございます。従ってその言葉は、年老いたわたしなどの心を、ぐさぐさ刺すのでございます。

 私は、この部分を逆に読んだのである。岡井は私より年上。そして岡井が天才であるのに対して私はただのことばの愛好者(アマチュア)なのだけれど、私は一度も「年齢差」を感じたことがない。岡井を読んでいて「違和感」がない。
 それはなぜかというと。
 これは岡井に対してはとても失礼な言い方になるかもしれないけれど、岡井のことばに対する情熱には「成熟」というものがない。「未成熟」。ただひたすら何かを追い求め、それを書こうと必死になっている。若い。とても若い。「未成熟」が「成熟」している。その「成熟した未成熟」、輝かしい絶対的な若さに引っぱられて、私は、よし、書くぞという気持ちにさせられる。読むと、私自身が若返る。
 「現代詩手帖」十二月号で岡井の詩集に触れて、詩集のタイトルをもじって「岡井を、ヘイ、リュウ、と呼んでみたくなる」と書いたのだけれど、いや、ほんと。「岡井先生、はじめました」なんて言いたくないなあ。私は小心者だから実際に会えばことばも出てこなくて「あの、岡井隆さんですか?」と言うくらいが精一杯だけれどね。
 こういう詩人が私のなかには何人もいるが、ことばを読んで、「年齢差」を感じさせないというのは、若いか老いているかは関係なく「天才」なのだと思う。その「天才」が私のいる「いま/ここ」までやってくる。(私が天才のいるところへ行くのではない。そんな苦労はしない。できない。)たとえば岡井がこの本でも書いている森鴎外。文豪だけれど、私は鴎外を読むとき、文豪とは思わないし、死んでしまった人とも思ったことがない。今、ここに生きていると思う。生きていると感じる。鴎外が私の目の前にあらわれる。そして動く。歴史的な「時間」がない。「時間」が消えて、その人と向き合う。そのひとが時間と場所を越えてやってくる。そういうことばを書くひとは天才なのだ。ことばのなかでは、いつでも天才に会うことができる--それが本を読むよろこび、ことばを読むよろこびだね。
 木下杢太郎を真剣に読む岡井をとおして、私は岡井に会うと同時に、ことばを読むよろこびにも出会った。
木下杢太郎を読む日
岡井隆
幻戯書房
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西脇順三郎の一行(44)

2013-12-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(44)

 「失われた時 Ⅳ」

くちずさむくちびるがふるえる                   (56ページ)

 音がおもしろい。「くち」ずさむ「くち」びる。「ふ」るえる。くちび「る」、ふ「る」え「る」という音の繰り返し。さらにくち「び」る、「ふ」るえる、のは行・ば行のゆらぎと、くち「ず」さむ、くち「び」る、「が」の濁音(深々とした「有声音」の豊さ)が「く」ちびる、「く」ちずさむ、「ふ」るえるの「無声音」の対比が加わる。
 わけもなく、その音を声に出して読みたい欲望が生まれてくる。私は黙読しかしないのだが、どこかで「肉体」が声を出していて、その声が聞こえてくる。ついつい、それを私の肉体の何かが、それを真似しようと誘いかけてくる。
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池井昌樹「秋刀魚」、北川透「いとしいマネキン」

2013-12-30 09:59:05 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「秋刀魚」、北川透「いとしいマネキン」(「歴程」583 、2013年12月20日発行)

 池井昌樹「秋刀魚」(「秋乃魚」というタイトルになっていたが誤植と判断して書き換えた)は1行あきにも読めるが、あきなしで引用する。

ちかくにおおきなほんやができて
ちいさなほんやはひだりまえ
ぼくのはたらくほんやもやはり
あおいきといきしおたれて
いまかいまかとおののくうちに
しらないだれかがやってきて
なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに
あなでもあったらはいりたく
にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて

 以前秋亜綺羅と話したとき、「池井の作品は現代詩なのか」と聞かれた。「現代詩」の定義がむずかしいが、「現代」書かれているから現代詩なのだろう。そのとき私は「池井の詩は必然なのだ」と答えたように覚えている。秋亜綺羅は偶然を詩と考えるから、まあ、かみあわないね。
 「必然」というのは、これがまた、定義がむずかしいのだが。
 7行目からが、私は、この詩の美しいところだと思う。ことばの動きが「肉体」になじんでいる。

なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ

 というのは「……はじめ」が重複している。それがたたみかけるリズムをつくっている。事態が変化しつづけている感じが、このたたみかけのリズムによって加速する。それが「肉体」に直接響いてくる。
 で、そのあとの行は、私流に読むと

からだぜんぶがみみになりはじめ
つむりたくてもつむれ(ずに)なくなりはじめ
ぼくはみもよもなくな(って)なくなりはじめ
のどのおくからにがいつばでいっぱいになりはじめ

 という具合である。「はじめ」は「始め」であり「初め」に通じる。新しいことが次々に起こる。その「新しさ」は「肉体」に響いてくる。実際に池井は「喉の奥から苦い唾」がこみ上げてくるという「肉体」の変化を書いている。
 それを書くときに、池井はまず最初につかっていた「はじめ」を次から省略する。それから「なくなり・はじめ」を省略する。「肉体」はほんとうは「はじめ」を感じているが、変化が速すぎて「はじめ」を繰り返している余裕がない。この「肉体」の余裕のなさ--それをきちんとことばにしている。書くことではなく省略することで克明に書いている。
 いや、池井には「はじめ/なりはじめ」がわかりすぎていて書く「必然」を感じないというべきか。「必然」と感じ内までに「必然」が差し迫って、「必然」と一体になっている。
 池井の「はじめ/なりはじめ」の省略には「必然」がある。ことばの運動は「必然」として、そうなる。私が書いたように書いてしまったのでは、リズムをかきたてているようで、かきたてていない。単に繰り返してリズムをつくっているだけである。そういうことは「わざと」の部類に属する。そういう「わざと」を内部から突き破って動いていく「必然」。
 その「省略」の「必然」のあとに、

のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった

 という飛躍がある。「ない(否定)」「ない(否定)」とつづいたものが「なる(肯定)」にかわり、同じ「はじめ」で受けたあと、突然「いっしょけんめいはたらいた」にかわる。直前の「のどのおくからにがいつば」には動詞そのものが省略さている。動詞を補う余裕がない。それほど池井には衝撃的なことが起きたのだ。
 で、

いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに

 これは

いっしょけんめいはたらいたのに
こんなにこんなにがんばったのに

 だよね。でも、やっぱり、そんな具合に「論理的」にことばを動かしている余裕はない。論理的に説明しなければならない「必然」はないが、そういう思いが噴出してくる、噴出しないことにはいられない肉体の「必然」がある。
 まず「いっしょけんめいはたらいた」という思いが噴出してくる。それからおくれて「のに」がやってくる。
 「理由」というか「説明」はいつでもおくれてやってくる。
 このあたりのリズムが、「必然」としか言いようがない。「必然」というのは正直ということでもある。池井のことばは、池井に対して嘘をついていない。
 これはなかなかむずかしいことだ。
 脳は、自分自身をごまかしたがるからね。
 そういう「必然(正直)」のまま、ことばをととのえられずに帰宅すると、そこでは池井に何が起きたか知らない「あなた」が、いつものように「必然」として、食事の用意をしている。その「必然」(日常の繰り返し)に出会い、池井は、自分に起きた「必然」が「日常」にとっては「必然」ではないということを悟る。いままで感じてきたことが、ぱっと洗い流される。
 洗い流されて、では、どうなるかのか--というと、うーん、どうにもならないかもしれない。けれど、「肉体」はもう一つの「必然」に何か助けられた感じになる。実際、助けられるのだと思う。
 そこには「必然」というよりも、「自然」といえばいいのか、「真実」といえばいいのか、不思議な安心がある。「安心」は「意味」ではなくて、まあ、「存在」のようなものだね。(と、私は適当なことを書く。きちんと書けないから、「感覚の意見」でごまかす。)
 --いま、私がむりやり書いてきたようなことを、池井は「リズム」で具体化する。ことばを発するときの「肉体」の変化で表現する。その表現は、うまく言えないが「必然」による。「わざと」では書けないものに池井はいつも触れている。



 北川透「いとしいマネキン」は、なんだか「作為」に満ちている。言い換えると「わざと」に満ちている。

朝 隣に寝ているマネキンの顔を眺める
一筋の皺やかすかなシミ 化粧かぶれの跡もない
わたしのいとしいマネキンはすべすべしている
抱きかかえてうたってあげる
(誰が因幡の海のおそろしい人食いザメを殺したの
(誰がマウントハーゲンの酋長のマクラガイを奪ったの
寝ぼけたマネキンは小さな声で呟く
(わたしじゃないわ わたしじゃないって
白いマネキンの顔に
うっすらと恥じらいの赤みがさす

 「マネキン」は「比喩」である--と感じさせる。後半で口をきくからね。人形はしゃべらない。「比喩」は、まあ、わざとである。「必然の比喩がある」と北川はいうかもしれないけれど、私の書いているのは「方便」だから、あまり追及しないでね。
 で、「わざと」なんだけれど、そういう「わざと」のなかに「必然」ではなく「偶然」真実が紛れ込んだりする。
 誰かに適当なことを言ったりすると「それはわたしじゃない」という返事がかえってきて、「えっ、適当なことを言ったのに、それってほんとうに起きたことなの?」という具合にことが進むことがある。「偶然」真実が露顕する。「偶然」真実を露呈してしまう。このとき、「真実」って、何?
 もしかすると露呈という「必然」のことじゃない?
 あ、言い方が変だねえ。何が起きたかは問題ではなく、起きたことは必ず(必然として)露呈する--その露呈するという運動(動詞が含むもの)が「必然」である。(これも、変な日本語だけれど。)

 池井の詩の最後の部分、「あなた」の反応が池井にもたらすもの--それと、この北川の詩の最後の部分の大逆転(マネキンの反応)が北川にもたらすもの。これは、何か似ているなあ。ベクトルとして正反対のものかもしれないけれど、共通するものがあるなあ、と感じる。
 そして、その共通するもののなかに、私は、詩を感じる。詩を生み出す力を感じる。


手から、手へ
池井 昌樹
集英社
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千人のオフィーリア(141- )

2013-12-30 08:47:17 | 連詩「千人のオフィーリア」
千人のオフィーリア(141-151)

                                        141 橋本正秀
鏡に映ったおぼろな顔を
怪訝な顔で見ていると
鏡の中の顔は
くっきりとその貌を顕わにする
きりりとした眼で
また
鏡を覗くと
呆けた顔が
婉然と見つめている
オフィーリアは
日がな
鏡の中の自分と
自分を凝視した
そして
眼を瞑ることを
許されない自分を
また
眺めた

                                         142 西川 仁
月冴ゆるつぶらに生れし裏木戸に血潮のやふな椿の花瓣

                                        143 市堀玉宗
寒椿おもかげ冥くたもとほる

                                         144 山下晴代
寒椿駅裏逢冬至
抱膝墓前女伴身
星流城中父霊去
還応伝言夢見人

                                         145 二宮 敦
寒椿瞑きままにて詩製さる

                                         146 金子忠政
どんな水であれ
一雨くればガスのようなものも油も記憶も洗い流される
森の町の真昼
過去はあっさり朽ち果て
あっさりとまた製造されていく
情交のドタンバタンのように
熱線によって頭蓋内でビルが倒壊し
ベンチに屈んだその前方
道ばたにくすむ寒椿の
赤い筋肉の股間が硬く閉じて答えない
何度情交を重ねても
憤死には到りきれず
引きずる時もなく座ったまま
闇雲な風とガスのようなものにあてられて
冬枯れる日が時化ていた
これは何年前のことだろうか?

                                        147 市堀玉宗
銀河系に置いてきぼりや着ぶくれて

                                         148 二宮 敦
冬の星あるやなしやひろふもの

                                         149 橋本正秀
視神経と聴神経の
はざまを満たす
女の記憶
その確かさと
その不確かさを
足して割るべき数を前にして
ためらっている

の神経を
逆なでにする
幼女の拗ねた眼の奥に
冬枯れた日常が
笑ってる
置き去りにされた
銀河の中の
きらわれ者
いつの頃からか
ポツンと
そこに
立っていた

                                        150 市堀玉宗
てのひらのうすくれなゐや雪もよひ

                                         151 金子忠政
 寒々と放り投げられた待合室で
 鱗をはがされるように逆撫でられ持続する
 夢の跳梁
 ああ!熱帯の雪
 手に手が添えられないまま
 オフィーリア、先触れだけがやってくる
 骨は生身に回帰するが
 制度は肋のように生身であるから
 ゆっくりとした瞬きごとに 
 とつとつと憤怒を湛え
 手応えのない断念へ
 つぶてを華やかにせよ!

                                          152 二宮 敦
言葉のために心を磨こう
大人になるにつれ
見栄や欲に囚われ
言葉の根っこが痩せてくる
根っこの痩せた言葉ほど
痛々しいものはない
金のため愛を捨てた音楽家
に等しい

人知れず心を育てよう
褒められ認められるための
思いやりは存在しない
時に嫌われ疎まれてしまう
サジェスション
分かってもらえない切なさ
分かり分かち合えない愛
ああオフィーリアよ

                                         153 橋本正秀
アフリカの白子
異形の神の子
神の子ゆえの
異形の出で立ち
ちらつく雪の中
体を震わせて

黒褐色の民の群れを
ピンクの眼を血に染めて
その動きの息遣いさえ
見失わない気を
充満させて
凝視している
プラチナブロンドに
発光する髪の毛は
逆巻き
乳白色の皮膚には
怒りと断念の
血脈が息を
弾ませ
まぶしい光の
乱舞の中の
黒い肌の
おぼろな影の
白い眼と歯から
白く輝く身体を
誇示する意欲は
もはや
失せていた

アルビノ
アルビーノ
アルビノに
アルビノの
ホワイトコブーラが
半身を起こし
その鎌首の
襟を膨らませて
御子の背後から
黒い影となって
身を寄せていく

雪は激しさを増し
白子となって
暑い大地の熱を奪っていく

                                         154 山下晴代
アフリカの白子、それは、タガステ生まれの聖アウグスティヌス。
若い頃はサルサのリズムに酔い、情熱の恋もしました。
その女と子どもももうけました。
しかし私はすべてを捨てて神の国へ参りました。
サールサ、サルサ。今でも私は踊ります。
雪のなかで。熱い心は変わらず。
さまざまな画家が私の肖像を描いています。
サールサ、サルサ。ここもローマ帝国。

                                         155 谷内修三
踊れ、私のハイヒール
踊れ、きみの素足
踊れ、私の子宮
踊れ、きみの腰骨

踊れ、私の夜
踊れ、きみの昼
踊れ、サルサ
踊れ、私の野生

156 橋本正秀
君よ 歌え
私の日記の
昨日と今日と
そして明日を
毛を逆立て
渾身の力をもって
タクトを振れ

君よ 謳え
私の伊吹を
何もかも
蹴散らし
吹き飛ばす
伊吹颪の
怨念の噴出を待て

君よ謡え
私の可愛いスターダストが
根こそぎ
降り注ぐ
火矢の
燃え盛るまま
坩堝の饗宴を寿げ(ことほげ)

私は うたう
「なぜ」
「どうして」
「何を」
「だれと」
全ての問いに
拒絶しながら
低く さらに より低く
地の魂の
気の向くままに
君の
絶命の
今際(いまわ)に

157 市堀玉宗
混沌に眼鼻ことばの寒かりき

158 橋本正秀
目鼻ふたぎて
一途末期のカオスを打たむ

159 市堀玉宗
冬が来るというから
夢から目覚めたやうに
しづかな海を見てゐた
生きねばならないもののやうに
混沌の風に吹かれて
人生のすべてが
いつの間にあんなに遠い海原
あれは取り返しがつかない
生きてしまった私の沖
なにもかもがまぼろし
なにもかもがほんと
海は
生きることの虚しさのやうに美しい

160 山下晴代
重力や非想非非想冬の海



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西脇順三郎の一行(43)

2013-12-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(43)

 「失われた時」(この詩も長い。現代詩文庫は「Ⅳ」を収録している。今回も1ページから1行を選んで書いていく」

 「失われた時 Ⅳ」

三角形の一辺は他の二辺より大きく                 (55ページ)

 これは西脇が発見した「こと」ではない。誰もが知っていることでである。その1行がなぜおもしろいのか。これを説明するには前のことばを引用するしかない。
 直前は「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」。「四重の未来」というのは牛が四つの胃袋で咀嚼することと関係があるかもしれない。四回に分けて咀嚼するから、食べたものをよく覚えているということか。四回に分けて咀嚼するから、その4つの胃袋のは過去と未来を抱え込むということか。あとひとつ現在をくわえてもなおひとつあまるのだが……。
 このあたりの「ごちゃごちゃした算数」から、三角形の「三」、それから「一辺」の「一」は出てきているのかもしれない。そういうことを考えるとおもしろいけれど、考えてしまってはことばが停滞する。リズムがこわれる。それでなくても「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」自体が重い。
 ここからいっそう重くなる詩というものもあるが、西脇は、こういうとき重さを「脱臼」させる。軽くする。それが「三角形の一辺は……」である。考えなくても、わかる。そういうことばで、止まりかけたことばを動かす。
 西脇は「意味」ではなく、ことばの軽快な運動そのものを詩と感じているのだ。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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唐作桂子「奥さんと犬」

2013-12-29 11:22:32 | 詩(雑誌・同人誌)
唐作桂子「奥さんと犬」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 唐作桂子「奥さんと犬」(初出『川音にまぎれて』10月)は、かなしみがおかしい。おかしさがかなしい。

幽かにふくらんではほそくなり
呼吸する鬼火
小躍りしながら追いまわす犬。
ほどほどにしときなさいと
奥さんはリードをひく

生前に旦那が発注していた
作家ものの骨壺は
ちと小さすぎたようだ。
詰めが甘いのよねと
奥さんは舌打ちする

文庫本もカーディガンも実印も空き箱も
通販で買った嵩ばるあれやこれや
残された混沌、致死量の。
先立つほうがよっぽどラクと
奥さんは玄関を這う黒と橙の毛虫をにらむ

寮になった三階建ての
古風な堅牢さは
数週間で緑とゴミに覆いつくされた。
立ち入り禁止なんてくそくらえと
奥さんと犬は金網の隙間をくぐりぬける

 「定型詩」であるところに、不思議な抑制が働いている。抑制のない「定型詩」というものはないかもしれないけれど。
 各連とも5行で、最初の3行に奥さんの見た「事実」が書かれ、句点「。」で区切られたあと、奥さんの「反応」が書かれる。ちょっと舌足らずのような、説明になりきれていないようなことばのつながりが、かなしくておかしく、おかしくてかなしい。
 1連目の「鬼火」は「旦那」の魂が燃えてただよっているのかもしれない。奥さんの旦那なら、犬にとっては「主人」。だから喜んで小躍りしながら追い回す。--というのは、奥さんの「主観」。だから、「ほどほどにしなさい」というのは犬に対する注意であると同時に、自分自身への注意でもあるだろう。だいたい鬼火を追いかける犬を見て、あの鬼火は旦那だと思うこと(犬の主人だと思うこと)からしてが「主観」であって、「事実」ではないだろう。
 「事実」なんていうものは、「主観」を誰かが共有してくれたときに「事実」になるのであって、ほんとうは存在しない。
 死んだ旦那が生前に注文していた骨壺が小さくて、そこに骨が入りきれないというのは客観的に「事実」のかもしれない。けれど、そうだとしても、そういう注文をすること、注文を間違えることを「詰めが甘い」と言えるかどうかは、かなりあいまいである。
 その「事実」になりきれない何かとぶつかりながら、奥さんは、リードを引っぱったり、舌打ちしたりと、ちょっと「行動」している。「肉体」で感情を発散させている。この感じが、たぶんかなしさとおかしさをうまい具合にミックスさせているのだと思う。感情におぼれるのではなく、それを「肉体」としてあらわしている。そこから「肉体」の共有が始まる。
 かなしいかどうかわからない。いらいらしているのかもしれない。すこし怒っているのかもしれないが、まあ、ともかく感情はわきに置いておいて、リードを引っぱる時の「肉体」、舌打ちするときの「肉体」は「真似する」ことができる。「真似する」というのは「肉体の動きを共有すること」である。「肉体」を共有することが先にあって、それから、そのときの動きが触れる「感情」に近づいていくのである。
 3連目は、うーん、ことばを正確に追って、それを「流通言語」に翻訳(?)するのはかなりむずかしい。旦那は通販でなんでも買ったのだろう。それが「混沌」といえるくらいにあふれている。整理のしようがない。その「混沌」はまるで「致死量」である--というのは、かたづけるのがむずかしい、くらいの「感覚」なのだろうけれど、そのとき「致死量」って誰に対して? 旦那が死んでしまったから旦那に対して致死量だったということ? そんなものばっかり買うから死んでしまったんだよ--というような、奥さんの怨み? 愚痴? よくわからないが、まあ、そういう男女はどこにでもいるなあ。旦那が余分なものばっかり買って、それに対してぶつぶつ不平を言う奥さんがいるというのは、よくあることである。で、そういうことに対して「あとに残された方は整理がたいへんなんだから(先に死んだ方が楽なんだから)」と愚痴を言うのも、よくあることである。
 こういうとき、私たちは愚痴そのものを聴いている(ことばを聴いている)のではなく、愚痴を言うという「こと」を聴いているのかもしれない。愚痴を言う、愚痴を聞くという「時間」を共有しているのかもしれない。そこにいっしょに「いる」という「肉体」を共有しているのかもしれない。感情は、たぶん同情するふりをしても、共有はしないだろうなあ。めんどうくさいから。感情はどんなに共有しようとしても、その人のものであって、他人のものにはならないからね。
 で、玄関に毛虫がいれば、それを掃き捨てる--というような「日常」の「肉体」の仕事をするだけ。そういう仕事はだれもかわってくれない。それが「感情」は共有されないという証拠でもある。愚痴を聞いて同情してくれて、同情の結果として玄関を掃除してくれるなんてことは、まあ、ない。「日常」も、そのひと個人のものであって、他人のものにはならない。
 ある人が別の人と重なるとしたら、それぞれが同じ「肉体」の動きをするということだけであって、ほかは関係がない。
 ここが人間のいちばんおもしろくて、かなしいところ。かなしくておもしろいことろだろうなあ。

 みんな「無関係」。ただ「肉体」をもって生きているだけ。

 だんだん論理(?)がかってに飛躍していくが……。
 愚痴なんて、廃屋になった建物みたいなもの。ゴミと緑に覆われる。そんなものにいちいちかまっていられない。他人になんてかまっていられない。
 だから、他人がつくった「立ち入り禁止」なんていうものにもかまう必要はない。金網に隙間があれば、そこをすりぬければいい。
 なんだか、逞しい。
 死を見た奥さん(おばさん、女性)の逞しさがあるなあ。
 そうなんだなあ、「奥さんはリードをひく」「奥さんは舌打ちする」「奥さんは毛虫をにらむ」。その「肉体」には「怒り」があって、「怒り」が逞しいと感じさせる。旦那が死んだからといってめそめそしていられない。他人はどっちにしろ同情してはくれない--というと言いすぎだが、玄関の毛虫をかたづけてはくれない。ほんとうに他人にしてもらいたいのは、そういう「どうでもいいようなこと」なのに、「どうでもいいからこそ」他人は知らん顔。えっ、かなしい? いそがしい? 犬の散歩にならかわりに行ってやってもいいけれど、玄関の毛虫くらい自分でしなさいよ--というのが「他人」の同情のあり方なのだ。
 そういうものを、ぐいとおさえつけて、ことばにしている。
 いや、ほんとうに逞しいなあ。こういう奥さん(おばさん)は、こわいけれど、好きだなあ。「肉体」を感じるなあ。あ、「肉体」って、この場合「存在感」ということなんだけれど。



 ここからは少し違ったことを書くのだけれど。
 きのう田原の詩について書いたとき「二重の瞼」をどう読むか、と考えた。私は田原の詩を読んだとき、まず「にじゅうのまぶた」と読んだ。読んだあとで、なんとなく違和感を覚えた。「ふたえ」だね、と思いなおしたのである。
 で、田原はどう読むのか。
 どうも、私には「にじゅうの」と読むような気がしてならないのである。そして、その詩のなかでは行方不明の娘(少女)と田原が「にじゅう」になっている。この「二重」のなり方が、どうも「中国人」であると同時に「男」っぽい。田原(男)が娘と「二重」になるというのは「虚構」のなかでしかありえないけれど、だからこそ「男」っぽい。
 それはきょう読んだ唐作の世界と比較すると鮮明になる。
 唐作は、旦那が生きていたときの奥さん(唐作と仮定しておく、つまり「私」)と、旦那が死んでしまったあとの奥さん(私)を二重(にじゅう)にして世界を見ている。一方で、旦那がいなくて寂しい私がいて、他方で旦那がいなくてもしなければならないことをする私がいる。ふたつの私の間で、ちょっと揺れている。その揺れを犬が引っぱったり、逆に犬に引っぱられるところを引きもどしたりしている。そのときの「私」の出し方が「おばさん」っぽい。この「おばさん」も虚構かもしれないけれど、不思議な開き直り(肉体へのよりかかり、肉体がある、生きているんだという強み)がある。
 田原の虚構には、この「肉体の強み」がない。失われた(失踪した)娘の、その消えた「肉体」を精神で取り戻そうとしている。つまり、それは精神の詩。
 唐作は、そうではなくて、死んでしまった旦那ではなく、あくまで「いま/ここ」にいる「肉体」を手がかりに、「生きているんだぞ」と開き直っている。こういう「開き直り方」というのは、男はなかなかできない。
 「おばさん詩」は豊饒な日本語になっているのに、「おじさん詩」はないなあ。田原は「おじさん」という年代ではないかもしれないけれど。「おじさん詩」はどうしても「抒情(精神)」になってしまうからいけないね。「精神」なんて、「方便」なのに、と私は思うのである。



川音にまぎれて
唐作桂子
書肆山田
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西脇順三郎の一行(42)

2013-12-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(42)

 「第三の神話」

ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤの女                (54ページ)

 これは何のことか。教養のない私にはわからない。わからないけれど、唯一「ボローニヤ」がイタリアだとわかる。--これはいいかげんな話であって、ボローニャはイタリアとは別な国にもあるかもしれないが、私はイタリアの都市と思い込む。「ジオヴァンニイ」もイタリアっぽい名前である。わからないけれど具体的な「固有名詞」を感じさせる。
 で、これがなぜおもしろいかというと。
 前の部分を引用しないとわかりにくいのだが(私は一行だけ引用して感想を書くということを自分に強いているので、こういうときは非常に説明に困るのだが……)、それまでの展開は「第三の女」とか「第一の女」とか、きわめて抽象的なことばである。それが、ここでは「固有名詞」(具体)を感じさせることばの登場で世界ががらりと変わる。大きく動く。
 そして、それが、私の場合、「ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤ」が誰なのか見当がつかないために、音そのものとして響いてくる。それがおもしろさに拍車を書ける。「い」と「お」と「あ」と「N」の音が交錯する。そして「おんな」のなかには「お」と「あ」と「N」がある--というのもとてもいい気持ちにしてくれる。






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田原「尋ね人」

2013-12-28 11:18:20 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「尋ね人」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 田原「尋ね人」(初出「びーぐる」21)を読んだ。

流れ雲そのもの 雌という属性 90年以降の生まれ
肩までかかる長い髪 眉にかかる前髪
湘江を漂っていったが
その日は無風 故に行き先は不明

身長163センチ 体重測定はしたことがない
生まれは6月1日 子供の日
端正な目鼻立ち 二重の瞼
太からず細からず 正し隠れ肥満の疑いがある

性格には二面性あり
おとなしい時は猫のように 怒り出すと豹のように
笑えば花のように
怒れば火のように

 「湘江」をふらふら(ふわふわ?)していた女性(少女?)が、そこからいなくなった。その女性のことを「尋ね人」と呼んでいるのは、その女性が「恋人」なのかなあ。3連目の描写が、客観的なようで主観的。その女性といっしょにいる時間が長くないと、こういう表現は生まれない。だから、そこに「恋人」の匂いがする。そしてその性格を描写するのに「怒る」という動詞が二度出てくる。あ、「怒り」が別離の原因なんだなあ、ということがわかる。「怒り」を気にしていることがわかる。
 ということと同時に、この性格の描写の部分が、なんとなく漢詩を思わせる。対句のように響いてくる。--そういうことがわかると……。
 私は少し奇妙に「肉体」が揺さぶられる。「わからない」ものがある、と「肉体」がさわがしくなる。田原のこのことばのなかには漢詩が生きている。中国の詩のリズムが日本語を揺さぶっている、と感じる。
 で、少し戻って2連目。

二重の瞼

 さて、これをなんと読むべきか。「にじゅうのまぶた」か「ふたえのまぶた」か。私はわからない。それまで読んできたリズムでいうと、私は「にじゅうのまぶた」と読んでしまうのだが、読んだあとで、あれっ、そういう表現あったっけ? 「にじゅうのまぶた」って日本語? 「ふたえ」が「ほんとう」の音--と私の「肉体」が抵抗する、私の「肉体」が私の読むスピードにブレーキをかける。
 疋田の「糸楊枝」でつまずいたように、私は、ふいにつまずくのである。それも、すぐにではなく、とおりすぎて3連目まで読み進んで、あっ、と 2連目の「二重の瞼」を「にじゅうのまぶた」と読んできたことに気がつき、つまずく。
 で、そこからどういうことが起きるかというと。
 私はこの詩は「日本語」ではないと感じる。「中国語」なのだ、と感じる。そして、その「中国語」へと意識が飛んでしまう。
 日本人の「尋ね人」感覚とは違う。日本人の男が「恋人」を探すときの求め方とは違うものがあるんだなあと感じ、そのときから「女性(少女)」の方は気にならない。変な言い方だが、それを探している男(田原)のことばの動き、田原がどんなふうに女性を見ていたか、ということが気になりはじめる。そこにあらわれてくる田原が気になる。
 まあ、「尋ね人」というのは、探している人が見た「相手」の姿なのだから、そこには探しているひとの「視線」が入り込む。「相手」を探している時も、それは「客観」だけではすまないというのがふつうだけれど、一般的には探しているひとの「視線」をまじえず、できるだけ客観的にしようとする。2連目の「身長163センチ」のようにね。
 その「主観的」田原--その自画像。

失踪前 手を怪獣「天狗」に噛まれて傷を負い
病院で幾針も縫うという羽目になった
臀部にはまだ針のあとが残っていると思われる

 女性から「怪獣/天狗」と呼ばれていたのか。(田原は違うというかもしれないけれど、私は妄想するのである。)「怒り出すと豹のよう」「怒れば火のように」というのは女性がそうであるように田原もそうかもしれない。恋人というのは「鏡」であることがおおいものだ。
 「手」を噛まれれているはずなのに「臀部」に縫った針のあとが残っているというのは奇妙だけれど、かんだのは「手」だけではない、ということだろう。それが「豹」の怒り、「火」の怒り、ということになるかもしれない。
 「思われる」は推測をあらわすのだけれど、臀部の傷痕なんて誰もが見ることのできるものでもない。そこには一種の「親密さ」が必要になってくる。この「親密さ」を私は「主観的」と言うのだけれど。

標準語は毛沢東よりも標準的に話し
耳には春風よりも心地よい
陽の当たる芝生の上で英語を少し学習したので
もしアメリカに流れついたら
丸覚えの自己紹介はしないだろう

 この連を読むと、田原が耳のいい詩人だということがわかる。耳でことばをとらえている。同時に、田原が中国をどう見ていたかが窺い知れる。そうか、毛沢東が話すことばが標準語なのか。(私は天皇や安倍首相が話すことばを標準語と比較したことがない。)田原にそういうことを書くつもりはなかったかもしれないが、そういうことが私には思い浮かぶ。英語を学習する場としては「陽の当たる芝生」と、そうではない場があるのだろう。それは中国人にとってはかなり切実な問題なのだろう。そういうことも、ここからは窺い知れる。そういうことを感じてしまう。
 で、ここには、逆に言うと、中国から日本にやってきて、日本語で私を書いている田原も反映されていることになる。私は中国の標準語を知らないし、英語も適当なので判断はできないのだが、田原も標準語の中国語を話せるのだろう。話すのだろう。英語でも、丸覚えの会話ではなく、自分の意見を言えるのだろう。(田原と話したことかあるが、日本語で話したので、そのあたりのことも、私の想像である。)
 だんだん、女性ではなく、田原が田原を探している、という感じで、私は詩を読んでいる。姿は女性(少女)だが、それは「失われた田原」という気持ちで読んでしまう。

弾き語りが好きで 追っかけはもっと好きで
崇拝するアイドルは周傑倫
失踪したその日
下は白っぽいジーンズを穿き 上は黒のダウンを着て
毛糸のマフラー 茶色の革靴
典型的な辛い物好きの地方娘 それなのにスウィーツ好き
ケーキが目に止まれば 祖先のことも忘れてしまう
いつも月末になれば 数日間は腹痛ということになる

 「弾き語り」を「詩」に置き換えると田原が見えてくる。崇拝するアイドルは「谷川俊太郎」にすると田原が見えてくる。中国から日本に来た日、田原は何を着ていたのだろうか。「茶色の革靴」。ああ、これは娘の履くものではないね。こんなところに「自画像」がくっきりと印づけられる。(中国では女性も「革靴」を履くというのかもしれないが、日本ではそんな表現はしないから、私は、ここに「男/田原/中国人」を見てしまうのである。)最後の「腹痛」はスイーツの食べ過ぎか、それとも女性の生理現象か、まあ、はっきりしないが。
 でも、きっと「自画像」。

 と言い切るには、かなりむずかしいなあ。
 それに、これではなんだか詩が中途半端だなあ。(「現代詩手帖」の作品は、ここで終わっている。)こんな「自画像」では「尋ね人」にならないなあ、と思っていたら。
 「現代詩手帖」ではなく初出の「びーぐる」を開いてみたら。(「現代詩手帖」のあとに、私は「びーぐる」を読んだ。)
 なんと、このあとにもう一連ある。「現代詩手帖」の作品は最後の1連を欠落している。
 その最後の1連。

湘江の岸辺に育ち
いつも海を夢みていた
湘江に架かる橋が増えれば増えるほど
両岸に建つビルはますます高くなり
流れる水はますます少なくなり
ある日 湘江は干上がってしまった
魚が翼を広げて飛び去れたのかどうかわからないが
彼女同様に行方不明

 やっぱり「自画像」だね。「精神的自画像」を「尋ね人」として書いている。この詩のなかにつかわれたことばで言うと「自己紹介」。「陽の当たる芝生で日本語を学習したので/日本にたどりついたら/丸覚えの自己紹介はしないだろう」。言い換えると、日本語で語れるので、丸覚えの自己紹介などはしないで、田原流の自己紹介をしているということになる。
 湘江の岸辺に育って、いつも海を夢みていた(海を見たことがなかった)。湘江の発展を見ながら育ち、同時に湘江の(中国の)自然破壊も見てきた。その湘江を離れて、田原は日本にやってきた。田原は魚ではないから、翼のある飛行機でやってきた。湘江の流れていく先にある海を夢みていた「少年(青年)」は、いまどこにいるのだろう。田原のこころはまだその「少年(青年)」を覚えているけれど……。
 
 あ、これでは書き出しの「90年以降の生まれ/肩までかかる長い髪」などの描写とあわない? 大丈夫。詩は、論理ではないのだから、どうとでも「理屈」はつけられる。
 田原は「行方不明」になった女性(少女)に自分の姿を重ねている。そして、田原がいまでも湘江で海を見たいと憧れていた時のことを覚えているように、少女よ、きみも生まれ育った土地を忘れずにいてほしい、生まれ育った土地(祖国)から離れては生きていけないのだ、祖国のことばを捨てては生きていけないのだから、と言っているのである。架空にすることで、自己をいっそう鮮明に託すのである。必要な部分を抽出して、ことばに託すのである。
 「祖国のことば」と書いたのは--まあ、しつこい補足になるけれど、田原が「毛沢東の標準語」という形で中国語に触れているからである。「ことば」に対する意識が、田原の詩の、何か核心のようなものになっているからである。

 で、もう一度考えてみる。

二重の瞼

 田原はどう読むのだろう。「にじゅうのまぶた」「ふたえのまぶた」。漢字の文字にしてしまえば同じでも、その「音」が運んでくるものは違う。
 これは、ややこしい。これは、田原の詩と向き合う時、かならず出てくる問題であるのだが……。

 (それにしても「現代詩手帖」の掲載ミス、最終連の欠落はつらい。あれでは田原が何を書いているかがさっぱりわからない。最終連がないと、「自画像」というか、少女に託した「いのり」がわからない。)

石の記憶
田 原
思潮社
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西脇順三郎の一行(41)

2013-12-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(41)

 「第三の神話」

小雨が降り出して埃の香いがする                 (53ページ)

 西脇を私は聴覚の詩人だと思っている。耳で音を聞き、喉で声を出す。その肉体がことばを統一していると考えているのだが、嗅覚も新鮮だ。いきいきと動いている。雨がものに触れて、埃を浮き立たせる。そのとき匂いがする。敏感だね。
 この行でもうひとつ注目するのは、動詞の「時制」。
 私は習慣的に、こういうとき、

小雨が降り出して埃の香いが「した」

 と書いてしまう。「降り出した」が過去形なので香いが「した」という具合に。けれど、西脇は後半を現在形で書く。「時制」が乱れている。
 --のではなくて、西脇は意識して、そう書いているのだと思う。
 雨が降りだしたのは「過去」、そして埃の香いがするは「いま」。起きたことが起きた順序で、そのまま書かれている。正直に書かれている。「時制」を統一するというような「頭」の操作は捨てて、感覚が受け止めているものをそのままことばにしている。

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疋田龍乃介「沼」

2013-12-27 11:52:49 | 詩(雑誌・同人誌)
疋田龍乃介「沼」(「びーぐる」21、2013年10月20日発行)

 疋田龍乃介「沼」を読みはじめてすぐに、あれっ、と思った。

二階の窓が割れた。康一は犬の鳴き声を聴いた。涎のように小さな
お家へ静かな斜陽が差込んでいる。レンズはさてどこに置いたか。

 書き出しの2行だが、その2行目の「静かな」という形容動詞に私はつまずいた。「意味」としては、「騒々しくない/派手ではない/落ち着いた/おだやかな」くらいの感じだと思う。「透明な/清らかな」ということばを呼び寄せることもできると思う。ある意味では「流通言語」の範囲内である。だから驚くことも、つまずくこともない--のかもしれないが。直前の「涎」とむすびつけると、まあ「透明な/清らかな」ということばにはふさわしくないときもあるかもしれないが、赤ん坊の涎は透明で清らかだから、そういう表現があってもいい。
 それでは、なぜ、つまずいたか。
 1行目の「窓が割れた」「鳴き声」「聴いた」が「静かな」とちぐはぐだからである。1行目には「音」がある。それが2行目の「静かな」によって瞬間的に消されてしまう。「静かな斜陽」の「静かな」は「意味」としては「音」と結びつくが、そこでは「音」としては書かれていない。「静かな音のする」斜陽という感じではつかわれていない。あえてことばを補うとすれば音ではなく、静かな「感じのする」斜陽が、ということになる。「静かさ」を聞きとっているという感じ、耳が働いている感じがしない。「斜陽」、つまり光がそこにあるせいかもしれないが、一瞬の内に、世界が「聴覚」から「視覚」に変わってしまったように感じ、私は、一瞬、自分の「肉体」がどこにあるかわからなくなった。
 それが、「あれっ」という私のつぶやきになった。
 「レンズはどこに置いたか。」はどういう意味か。なぜ、ここに突然レンズが出てくるのか。説明はないが、映画好きな私は、これは映画だね、とまた瞬間的に思った。レンズはカメラのレンズ。撮影するレンズ。それが「視覚」をさらに刺戟する。
 で、そのあとのことばを追っていくと……。

玄関で亜理沙が縛られている、どす黒い両乳首の先端にエメラルド
色の縄跳びを些か目を疑いたくなるほど流麗な蝶々型(屹立した黒
点だけがさながら甘美な鱗粉紋様のアゲハ蝶として飛び立ち、見る
者の視線を釘付けにするという按配)に結びつけられ、そのぷりぷ
りはち切れんばかりの豊満なバディから滴る脂汗が爆発的なフェロ
モンを伴い非情な勢いで驚異的に噴出している。

 「聴覚」はどこへ行ったのだろう。「耳」はどこへ消えてしまったのだろう。「目」ということばが出てくるように、そこには「うるさい」くらいに目が動いている。
 たとえば、私はその動きを「どく黒い両乳首の先端」の「両」に感じる。笑ってしまう。乳首なんてふたつあるに決まっているから「どす黒い乳首」と言えば十分である。片方だけ想像するか両方想像するかは、読んだひとの欲望次第。「両」なんてことばがない方が、ことばの経済学からいうと効果的である。「両」なんて言われると、目がちらばってしまう。さらに言えば「先端」も同じ。乳首といえばスケベな人間は先端を思い浮かべる。根元(?)を思い浮かべるのは、乳首を違った角度から把握する別のスケベである。
 で、その「目」は実はスケベではないのだ。忙しくさまざまなものを追いかけまわし、こまかく分類しながら動いて「豊満なバディ」とか「滴る脂汗」まで描き出すが、たとえば黒い乳首フェチのスケベなら、そんな余分なところは見ない。ひたすら乳首に集中していく。視覚が乳首に集中し、そこに触覚が、嗅覚が集中していくというのが、私の知っているスケベなセックスである。
 疋田はそうではない。フェロモンということばも出てくるが、それだって「視覚フェロモン」である。「噴出している」のを見ている。噴出をさわって感じているわけではない。においをかいで感じているわけではない。
 まあ、そこが疋田の特徴なのだから、それはそれでいいのだろうけれど、では、こんなに「視覚」人間の疋田がなぜ「二階の窓が割れた」という「音」を含むことばから私を始めたのか。(よく読むと、「二階」ということろに「視覚」が働いているのだけれど。)「犬の鳴き声を聴いた。」と「聴覚」の世界がはじまるかのようにことばを動かしたのか--という疑問が残る。
 聴覚はどこへ行った?
 私は思うのだが、(いつもの感覚の意見なのだが)、疋田の聴覚は「ことばの音」そのものに向き合っている。外的な、物理的な音ではなく、ことばを声に出すときにもってしまう音--そのなかで働いている。
 私は音読をしない。黙読しかしない。それでも、たとえば先に書いた「両乳首」と「乳首」の音の違いを感じる。そして、これから書くことは先に書いたことと矛盾するのだが「両乳首」の方が「乳首」よりも不経済であるにもかかわらず、「両」があった方が発生器官にとって「快感」が大きい。「音」を長く楽しめる。リズムの変化を楽しめる。
 疋田は「視覚」で影像を動かしながら、そのことばの「音」を舌や口蓋や声帯、それから耳で長く長く楽しんでいる。
 「ぷりぷりにはち切れんばかり」とか「豊満なバディ」とか、安直な「流通言語」も「音」を楽しむために繰り出されている。そこには「意味」なんかは、ない。あるのは「ことば」の音の「快感」だけなのだ。
 だから、ことはば、ひたすら違う音を追い求める。

                      痴呆気味の祖父、
悟が這い出している。おそろしいことだ、白内障の眼球に鋭利な
狂気が見え隠れするのがわかる。

 「痴呆気味」だけで十分状況を伝えられるけれど、それだけでは「音」が足りない。だから「白内障」まで動員する。なによりも、そこに登場する人物の名前が「康一」「亜理沙」「悟」と変わっていくことが、「音」に対する欲望の大きさを語っている。(このあとも「絹子」が登場する。)

 私は2行目の「静かな」ということばにつまずいたのだが、そのことばも「音」だったのだ。「涎のように小さなお家へ斜陽が差込んでいる。」では「音」が足りない。リズムが加速しない。「意味」を読み取った私の読み方が間違いだったのだ。
 疋田のことばは「意味」を追いかけてもしようがない。楽しいわけではない。
 この「音」に対する欲望は、私の「感覚の意見」では、天沢退二郎に似ているなあ。天沢の詩も、視覚的でありながら、ことばを動かしているのは「音」だなあ。「音」がいきいきとしていて、きれいだなあ、と思う。



 付録(?)
 疋田は詩のなかで「糸楊枝」ということばをつかっている。なんだろう。「デンタルフロス」とわかるまでに私は0・5秒くらいかかった。「フェロモン」「エメラルド」「バディ」「プレリュード」などカタカナをつかっているのに、どうしてデンタルフロスではないのだろう。たぶん、音が長すぎるのだろう。だからつかわない。そういうことばの選択にも疋田がことばを音を基準に動かしていることがうかがえる。
歯車vs丙午
疋田 龍乃介
思潮社
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西脇順三郎の一行(40)

2013-12-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(40)

 「第三の神話」

黄ばんだ欅の葉先に舌の先が触れた                 (52ページ)

 これは肉体の舌が欅の葉に触れた(舐めた)という意味ではないだろう。ことばが欅に触れた、欅について語った、という意味だろう。もちろん舐めてもおもしろいのだけれど、そのときはまた違った表現になると思う。
 なぜ、語った、話したと書かなかったか。詩だからだ。気取って書いているのである。わざと書いているのである。
 私は「ことばは肉体である」と考えるので、こんなふうにことばを語るのに具体的な肉体をつかった表現に出会うと自分に引きつけたくなる。
 まあ、そんなことはめんどうになるからやめておく。
 この一行では「葉先」「舌の先」と「先」が二度出てくるところがおもしろい。同じことばが繰り返されると、その「同じ」の部分に意識が動いていく。「先」が重みを増してくる。で、書いてはいないが、これは「微かに触れた」のだと思う。「先」と「先」だからね。ことばは風のように欅の葉をさっととおりすぎたのだ。
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水田宗子「河まで」

2013-12-26 15:32:43 | 詩集
水田宗子「河まで」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 水田宗子「河まで」(初出『青い藻の海』10月)は不思議ななつかしさに満ちている。

道はわからなかったが
歩き始めた
先を行く者を追いかけて
それはもう始まっていたのだ
姿は見えない
道しるべもない
はじめは昼下がりの一本道
それから樹々のざわめき
彼方の沢の水音
やがて
薄暗がりの中の
混みいった険しい獣道

 「わからなかった」と「始めた」が「肉体」を刺戟してくる。いつだって人間は「わからない」まま「始める」。たとえ「わかっている」つもりのことでも、よくよく考えると「わからない」。いつでも予想外のことが起きうるのだから。しかし、始めると、それはどうしても「わかる」何かになってしまう。わからなくても、「肉体」はわかってしまう--というのはいいかげんな言い方だが、「肉体」のなかに、何かがたまってきて、それが「わかる」。
 たとえば、「はじめは昼下がりの一本道」というのは、歩き始めて、振り返ったときに見える「過去」である。肉体は動詞になって動いてしまうと、「過去」をつくりだしてしまう。その「過去」は肉体には確実に「わかる」ことなのだ。
 「道はわからなかった」はずなのに、その道は実は「昼下がりの一本道」からはじまっていたということが「わかる」。「道はわからない」ままでも道は「できる」。「うまれる」。そうすると、その道を導くように「樹々のざわめき/彼方の沢から水音」が「道」を誘う。歩いている「人間の肉体」には川への道はわからなくても、川といっしょに生きている木々や水の音は川を「わかっている」。その木々や水の音が「わかっている」こと、その「わかる」に、肉体の「わかる」が同化しようとする。
 この、奇妙に原始的(?)な肉体の力が、なつかしいと感じる理由だ。
 歩くと、その大地、その大地に生えている草木、大地を流れる沢というものと「肉体」がどこかで重なる。「土地」を呼吸しはじめる。そういう「動き」が、この詩では、とても無口(?)なかたちで書かれている。少ない情報で書かれている。「肉体」を刺戟する昔から「わかっている」もので書かれている。言いなおすと、木々のざわめき(風の動き、動き方)、水音(それが聞こえてくる方向)のようなものが、どこかで川のそばを歩いたときに感じた「肉体の感覚」を呼び覚まし、「川はこっちだ」と教えてくれる。それは木々や水音が教えてくれるのか、それとも「肉体」が覚えている何かが教えてくれるのか、まあ、はっきりと区別はできないものだけれど……。

やがて霧が立ちのぼり
あたりを遮っている
無垢な終わりが
遠ざかっていく気配がする
ここは河原に違いない
内も外も越えた
この石だらけの境
とりあえず一休みしよう
この河原に火を焚いて
一休みしよう

 この「川」は「三途の川」かもしれない。それとは明確に書いていないけれど、私の「肉体」は、知らないはずの「三途の川(三途の川原)」を思うのである。
 そこは誰もが行くところだから「道はわからなかった」としてもたどりついてしまう。だから急ぐ必要もない。「とりあえず一休みしよう」。ああ、いいなあ、と思う。悲しい詩なのかもしれないけれど、なつかしい感じがする。知っている感じがする。ここまできたんだから、もう休んでもたどりつける。その安心感のようなものがいい。

 生きているということは、いつでもどこでも「無垢」。無垢以外のいのちはないのかもしれない。

 ことばはうまく動いてくれないが、そういうことを感じた。
       (きょうは風邪? めまいがする。ことばはちゃんと動いたかな?)


大庭みな子 記憶の文学
水田 宗子
平凡社
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西脇順三郎の一行(39)

2013-12-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(39)

 「第三の神話」

窓から柿の木を上からみおろすのだ                 (51ページ)

 この行の2行前に「二階の書斎にあがつた」という行がある。窓は二階の窓である。柿の木は低い。それを二階から見ると、必然的に「上から」みおろすことになる。
 でも、「窓から」「上から」は変じゃない? こういう「重複」は不経済じゃない?
 というのは「頭」が整理して口走る苦情。
 私はここでは、とても奇妙な経験をした。
 「上から」ということばに触れた瞬間、私自身の「肉体」がすーっと上の方にひきあげられたのである。「二階」より上、というのではなく、方向として「上」へ。
 きのう書いた「落ち葉」--それは、そのまま「もの」の時間の経過をあらわしていた。「落ちる(落ちた)」を先に見て、その「落ちる(落ちた)」のあとに「主語」があらわれてくっついた感じ。「窓から」みおろすだけではなく、その「窓」が「上」へとかわって(明確な上下の位置関係になって)、みおろす。
 ここでは「動詞」がリアルに再現されている。
 意識の動きが、そのまま「ことば」の運動となって書かれている。
 西脇の詩は、ことばが「行わたり」をして、意味が「脱臼」させられたような印象を呼び起こすが、そこでは意味は脱臼させられているかもしれないが、意識の動きそのものは時間をていねいに再現している。何かが起きるときの、その時間の経過をそのまま手を加えず、順番に書いている。その書き方のスピードがとても速いので、「流通言語」(流通文法)から見ると、「あれっ」という感じになるのだが。
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蜂飼耳「びょう、びょう」

2013-12-25 12:30:31 | 詩(雑誌・同人誌)
蜂飼耳「びょう、びょう」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 蜂飼耳「びょう、びょう」(初出「星座」10月号)にはわからないところがある。わからないのだけれど、想像力はかってに動いて、かってに「誤読」する。
 以下は私の「誤読」。「誤読」するとき、何を手がかり(?)に誤読するかというと……。

どこまでも、と思ったわけではないけれど
行き止まりがあって進むか迂回、
進むか迂回か、視覚の近くに
生えている根のあるものたち
それは行き止まりに

 どこかを歩いていて行き止が見えてくる。路地を歩いているんだろうなあ。で、そのあと、

行き止まりがあって進むか迂回、
進むか迂回か、

 この「進むか迂回、」で私の「誤読」は始まる。なぜ、「進むか迂回するか」というふたつの動詞の選択ではなく、「進む(動詞)」「迂回(名詞)」の選択なのか。これは、「迂回」が「進む」のための飾りだからだ。「進む」という意思しか働いていない。目はどんどん「行き止まり」へ向かって進んでゆき、「生えている根のあるものたち」(草だろうね)に吸い寄せられていく。
 このとき「迂回」は「進む」と同義語になる。「迂回する」という動詞の本来の意味は最初から退けられている。進んで、行き止まりにたどりつき、そこに生えている草のところまで行くということが、蜂飼にとっての「迂回」なのである。回り道なのである。ほんとうは蜂飼は、その「回り道」をこそ、したいのだ。
 「進む」の反対は「退く(後退する)」が一般的だけれど、「退く(後退する)」は最初から選択肢に入っていない。行き止まりがあるとわかって、そこから引き返すことなど蜂飼は最初から考えていない。
 なぜか。

在って、あるようにあり、会って、
びょうびょうと鳴くのは正しさです
正しさにはたいてい、しっぽがあって、
踏まれれば鳴く、わめく、噛みついて、
ぼうっと気が

 行き止まり、その草が在るところに、びょうびょうと鳴くものがあって、その鳴くものに蜂飼は会う。つまり、猫(子猫?)を見つける。その声に導かれて蜂飼は行き止まりまで進んできたということだ。猫だから、しっぽもある。
 こういう「誤読」は、ある種の「種明かし」のような感じだね。
 で、私は「びょう、びょう」が「猫」であると「誤読」した段階で、ちょっと読む気がなくなる。私は猫が嫌いなのだ。猫がこわくて近づかない。--これからあとの部分は関心がない。
 それなのにこの作品を取り上げたのは、さっき書いた「動詞」と「名詞」のつかいわけが、とてもおもしろいと思ったから。

 私はどんなことばも「動詞」を基本に見ていけば、そのことばを動かしている人に会えると考えている。「動詞」というのは基本的に人間が「する」こと。動詞には「人間の肉体」が含まれている。その書かれている「肉体」をまねると、私の「肉体」も動く。自分の「肉体」をとおして、そこに起きていることがわかる。
 今度の場合、「進むか迂回、」「進むか迂回か、」と繰り返されることばのなかに「動詞」と「名詞」がある。「迂回」の方は「動詞派生の名詞」なので、そこに「動詞」は含まれるのだけれど、蜂飼は二度とも名詞形のままつかっている。それは、蜂飼が「迂回(する)」を本来の意味するところ(流通言語の意味するところ)とは違うものとしてつかおうとしていることをあらわしている。--というようなことを感じる。
 「迂回」は「動かない」。立ちどまる。「肉体」は立ちどまって、頭のなかだけで「迂回する」。「肉体」を動かさずに、立ちどまると、その「迂回」のなかに、「びょう、びょう」が猫としてあらわれてくる。そして、その猫が蜂飼をのっとる。
 このあと、蜂飼は動かない。「進む」を放棄する。そこに立ちどまり、猫が「行き止まり」に捨てられているということについて考えはじめる。--これはある意味では、ここにほんとうの「迂回」がある、ということになるのだが。つまり、蜂飼は猫が捨てられて生きているということにことばを「迂回」させるために、彼女自身の「肉体」を行き止まりまで「進ませた」、彼女は「行き止まり」まで進んだということになる。
 で、行き止まりで立ちどまって考える、というのは私の考えでは「人間」をやめること。自分をやめること。そして別の何かに「なる」こと。蜂飼は、このあと「猫」になる。次のように。

遠くなる
議論などやめて場を移し、
口をすすぎたくなるのです
見本など、ない時代
死者の集まる場ばかり気にしながら、
あちこちの、踏まれたくないしっぽたち、
備わる動きのせいで塵を、掃いている
在って、
あるようにそれはあり会って、時代の

諦めを受けいれる
踏まれれば鳴きだすしっぽ私も
生やしていて、気がつけば
それは塵、塵、塵を掃いている
ひろい道、細道、掃いてみて、
びょうびょう鳴けば
新たな闇に、また選択もなく、
生まれるのです

 2連目の最終行「ぼうっと気が」から1行あいて3連目「遠くなる」とつづく。3連目の最終行「時代の」から1行あいて4連目「眺めを受けいれる」とつづく。その断絶と接続の仕方や、頻繁につかわれている読点「、」から、蜂飼の呼吸と肉体へ近づく「誤読」方法もあると思うけれど、先に書いたように私は猫が嫌いなので(猫になりたいとは思わないので)、それは省略。

蜂飼耳詩集 (現代詩文庫)
蜂飼 耳
思潮社
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西脇順三郎の一行(38)

2013-12-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(38)

 「第三の神話」

あの小間物やさんと話をしている                  (50ページ)

 この一行は、ふつうは「あの小間物屋さんと話をしている」と書くと思う。「小間物屋」でひとつのことばである。ところが西脇は「屋」を「や」と書くことでひとつのことばをふたつに脱臼させている。
 これを読むと、まず「小間物」が目の前に浮かぶ。そして、そのあとに男(たぶん)があらわれる。この「時差」のようなもの、そこに「時差」があるということのなかに西脇の詩がある。
 それはたとえば、「落葉」ということばがあるが、それは単に落ちてくる葉、あるいは落ちた葉と理解してしまうのを、もう一度ことばの成り立ちとして見直す仕事に似ている。
 --あ、ややこしいことを書いてしまったが……。
 「落ち葉」の場合、ひとはまず「落ちる(落ちた)」という「動詞」を見る。それからそのあとに「落ちる(落ちた)」ものが葉っぱであると理解するというのに似ている。「落ち葉」は「落ちる(落ちた)」+葉--そのことばは認識の順序に従って動いているのである。
 「小間物屋」も「小間物+屋」という動きを再現しているが、漢字で書いてしまうとどうしても「ひとつ」につながって見えてしまう。「小間物+や」にすると、それは違って見える。「小間物」+「(売る)おとこ」という具合に「動詞」が割り込んできて、ことばが認識通りに動いているなあということがわかる。
 こんなことはわからなくてもいいことなのかもしれないが、そういうわからなくてもいいことをわかってしまうのが詩なのである。
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