詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介『スウィートな群青の夢』(2)

2008-10-31 11:26:22 | 詩集
田中庸介『スウィートな群青の夢』(2)(未知谷、2008年10月27日)

 きのう「うどん」について書いたとき、田中の「頭」がうどんでいっぱいになっていると書いた。このときの「頭」は、私がいつも批判的に書いている「頭」ではない。うどんでいっぱいになった「頭」は「頭」であることをやめて「肉体」になっている。その無防備な「肉体」の正直さが田中の作品の魅力だ。

 「うどん」はおいしい詩だった。「レモン」は、すっぱい。切ない。その全行。

冬の、日。
誰かのことを想って、こみあげてくる
いとしさに耐えられないまま、

太陽の光がうすい。疲れ、る
なあ。傘をとられた、

その名前を口にする。
たわむれ、に。ひとに聞かれたらはずかしいけど
幸せな新聞紙、

つまらない邦楽番組。人格がどんどん
崩壊していく、鉄板焼きの脂がじゅうじゅう
散りかかる。

ピーマン。そしてナスも
身をよじるようにしながら焦げていった。
そんな遊びももう終わりなの、さ。

それでもなお、心にふとこみあげてくる
いとしさにはまだ耐えられない。

レモン、
斜めにつめたい風の中をふらふら歩いて、
冬のうすい、日に。

 田中のことばは「肉体」である。そこには「頭」の、ではなく、「肉体」そのものの呼吸がある。読点の乱れ(?)が切ない感情そのものである。
 「冬の、日。」と書こうが「冬の日。」と書こうが「意味」は同じである。冬が「夏」に変わるわけでも、「秋」にかわるわけでもない。
 でも「冬の、日。」と「冬の日」は違う。
 「冬の日」は単にある季節の一日だが「冬の、日。」はほんとうは「冬」ではない。「いま」は確かに冬だが、田中は「冬ではない日」、「いま」ではない時間を思い出している。読点「、」は具体的に書き直せば、「冬の、いま、こうやって過ぎ去った日々を思い出す、きょう日」ということである。読点「、」の一瞬のあいだに、その呼吸のあいだに、田中の「肉体」のなかに、過去の日々、過去の時間が駆け抜けている。
 この「頭」では抱え込むことができない時間、ふっと、「息」とともに「肉体」を駆け抜けていく時間を、田中はていねいにすくい取っている。

 2行目の「誰か」とは不特定の誰かではない。はっきりしている。はっきりしているけれど名前を出せない。知らないからではない。知っているから、名前を書けない。そして名前を書くときよりも書かないとき、つまり、それをぐっと「肉体」のなかに押し殺すときのせつなさ--それが「誰かのことを想って、こみあげてくる」の読点「、」であり、「いとしさに耐えられないまま、」の改行なのである。「こみあげてくる」と「いとしさ」のあいだには、読点「、」よりもはるかに遠い距離がある。空間がある。感情のうごきまわるせつなく、長い、時間がある。
 
 それから1行あいて、2連目。ことばの呼吸はさらにゆらぐ。乱れる。「疲れるなあ」と簡単にことばにはならない。「疲れ」という名詞が、読点を挟んで「疲れる」という動詞になり、それから改行を挟んで「疲れるなあ」という嘆き(深い息)にかわる。その変化を、田中は呼吸(読点と改行)のリズムだけではっきりと描き出す。
 田中のことばは、すべて「肉体」を通って出てくる。「声」そのもになっている。
 「声」は正直である。「文字」は感情を隠すことができる。ところが「声」には感情がでてしまう。どんなに押し殺してみても、その押し殺したということさえ、「声」になってしまう。呼吸が、ほんのわずかな息づかいの違いが、音の高低が、あ、このひとはいつもと違うということを感じさせる。
 「肉体」は無防備で、そして敏感である。だから、嘘をついてはいけない。正直であるしかないのだ。

 最終連も、とても好きだ。特に、最終行。「冬のうすい、日に。」これは、文法的には正しくない。「冬のうすい」はことばになっていない。このことばだけでは「意味」がとれない。ここには省略がある。2連目に書かれたことばが省略されている。ほんとうは、「冬の、太陽の光が、うすい」なのである。「肉体」のなかに「太陽の光がうすい」が吸収されてしまっている。だから、それはことばにならず、省略して、いっきに「冬のうすい」になる。「肉体」は「頭」と違って、ことばをぐいと圧縮したり、逆にぱっとおしひろげたりする。そういう緩急というか、落差というか、変化を矛盾なく溶け込ませてしまう。
 「冬のうすい」には、そういう不思議な「肉体」の呼吸があるのだが、この凝縮された呼吸は、そのままではやっぱり維持できない。そこで「冬のうすい、日に。」という読点の呼吸が入ってくる。「日。」と断定したまま終わることができず、「に」をしたがえて、ゆっくりと息が(思いが)吐き出されるのだ。



 こんなに切ない呼吸をそのまま文字に転換できるのは、田中の耳がよほどすぐれているからだろう。敏感だからだろう。そして耳と同時に視力も(目も)敏感なのだと思う。音を耳という「肉体」だけで消化するのではなく、同時に目でもはっきりつかみとる。そういう希有な本能(ほんとうは、素質、気質、というのだろうか)があるのかもしれない。「スロー・テンポ」という作品の書き出し。

こんな雨の日はスローテンポで踊りたい。

 雨ですね。
   すねないで。

 「雨ですね。/すねないで。のなかにあらわれる偶然の、不思議な音楽。それは「声」に出せば(音読すれば)すぐにわかることだけれど、その音の不思議な交錯を、田中は目でもわかるように「すね」をならべて書いている。
 私は最初、音の不思議なゆらぎに、あ、いい音楽だなあ、とだけ感じていたのだが、どこに音楽の音楽らしさがあるのだろうと、くりかえし黙読し、ちょっと我慢できずに声に出して読んでみて(私は音読はしない、朗読はしない)、その瞬間に「すね」をならべて書いてあるのに気がついた。
 あ、
 一瞬、我を忘れるくらい驚いた。
 こんなふうに書く方法があるんだ。音をくっきりと意識させる書き方があるんだ。まるで、音楽でいえば五線譜に書かれた音符を見るように「すね」と「すね」がならんでいることに気がついたのだ。
 そして、思ったのだ。田中は、田中のことばは、どこまでもどこまでも「肉体」でできている、と。




スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷

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リッツォス「証言A(1963)」(11)中井久夫訳

2008-10-31 00:21:30 | リッツォス(中井久夫訳)
聞こえるのと聞こえないのと   リッツォス(中井久夫訳)

突然の予期せぬ動き。かれの手は、
傷をつかんで血を止めようとした。
弾の発射音も飛翔音もぼくらは聞かなかったが。
しばらくあって彼は手をだらりと下げて微笑った。
が、また掌をそろそろとその箇所に当てた。
折りたたみの財布を取り出し、
ウェィターに行儀よく支払って出て行った。
それから、ちいさなコーヒー茶碗にひびが入った。
少なくともこちらのほうははっきり聞こえた。



 テオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」の時代をふと思った。そして、テオ・アンゲロプロスを思い出したからだと思うけれど、ふたたび、映画について思った。リッツォスはほんとうに映画に似ている。
 この詩は、この詩のカメラは、テオ・エンゲロプロスの好きな「長回し」である。カメラは切り替えなしに、「彼」の動きを追っていく。
 消音銃の弾が「彼」の腕に命中する。消音銃なので、音は誰も聞かない。聞こえなかったけれど、「彼」の動きからすべてがわかる。わかって、緊張する。その緊張が、「彼」の動きを長回しのカメラのように、とぎれることなく追っていく。カメラの焦点(中心)は手、血、だらりとした感じ、微笑とさまようが、「彼」そのものからは外れることがない。「折りたたみの財布」とわざわざ財布の形状を描写しているのは、「ぼくら」の視線が、そういう細部までもしっかり見ている、「彼」に釘付けになっているという証拠である。細部の的確なアップによって、「場」の緊張感がくっきりと浮かび上がる。カメラは細部をとらえるように見えて、ほんとうは「場」の「空気」をとらえているのである。リッツォスのことばは細部をとらえているようで、ほんとうは「場」の「空気」をとらえているのである。
 最後の2行がすばらしい。

それから、ちいさなコーヒー茶碗にひびが入った。
少なくともこちらのほうははっきり聞こえた。

 「彼」がいるあいだ、「ぼくら」は「視線」そのものになっている。「視線」で状況を判断しよう、理解しようとしている。そのため「聴覚」が封じこめられている。それほど「場」は緊張しているのである。
 「彼」が出て行った。ほっとする。「視線」で追いかけるものがなくなって、緊張がとけて、「聴覚」が戻ってくる。そしてコーヒー茶碗にひびが入るときの、かすかな音を聞き取ってしまう。これは耳を澄まして聞くのではなく、自然と聞き取ってしまうのだ。緊張も人間の感覚をとぎすますだろうけれど、解放が感覚を広げるときもあるのだ。



 映画について書いたので、もう少し追加。
 この詩に見られるような鋭い視覚と聴覚の関係は、テオ・アンゲロプロスよりも、スペインのビクトル・エリセが近いかもしれない。「みつばちのささやき」の抑制の聞いた音楽--映像の奥からふっとわいてくる音楽をふと思い出した。
 リッツォスの詩は、カメラだけではなく、音も映画的に動く。





清陰星雨
中井 久夫
みすず書房

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田中庸介『スウィートな群青の夢』

2008-10-30 11:21:36 | 詩集
田中庸介『スウィートな群青の夢』(未知谷、2008年10月27日)

 田中庸介の詩は、とてもおいしい。おいしいので、どんどんむさぼりたくなる。そのむさぼりたい気持ちをぐっと我慢して、つまり、詩集の三分の一くらいのところまで読み進んで、私はいったんページを閉じた。ふーっ、と一息ついて、この文章を書きはじめている。

 田中のことばは、なぜ、おいしんだろう。私はいつでもひとつのことばにつかまってしまう。「正直」。とても正直なのだ。
 私はとても見栄っ張りである。見栄っ張りであることを気づかれたくないので、先回りして見栄っ張りであると書いてしまって、自分で逃げ出すくらいの見栄っ張りである。見栄というのは「わざと」ということである。「わざと」書いてしまうのである。「わざと」何かをしてしまうのである。ほんとうはする必要がないことをしてしまう。ようするに「嘘つき」である。
 一方、田中には、そういう「嘘」がない。田中の詩の仲間の高岡淳四にも「嘘」がない。「正直」である。たぶん、ふたりは同じような年齢なのだが、突然あらわれた(と、私には感じられる)、時代を超越した「正直」に、私はほんとうにびっくりしてしまう。

 「おいしい」と書きはじめたので、食べ物の詩を引用する。「うどん」。思い出しただけで、うどんを食べにドライブインへ行きたくなるが(車がないので行けないのだが)、全部引用してしまうと、きっとうどんをつくって食べたくなってしまうので、ところどころ、部分的に。

うどんの国にはうどん屋が林立している。
あらゆる国道はうどんでできている。
ぬるぬるすべる海辺の国道をカーステレオのボリューム一杯に鳴らし
うどん車で爆走する。

 「うどんが食べたい」と思った瞬間から、「頭」が「うどん」でいっぱいになる。「うどんの国にはうどん屋が林立している。」田中さん、そんなことはありません。だいたい「うどんの国」なんて、ありません。カレーも、そばも、おむすびもあります。「あらゆる国道はうどんでできている。」田中さん、冗談を言ってはいけません。「国道」がうどんでできていたら、私道はカレーで、路地はおむすびですか? 「うどん車で爆走する。」田中さん、嘘書いちゃ、こまります。「うどん車」なんて、どこがつくっているんですか? トヨタ? 日産? え? 外車なの? それとも不法改造? と、いちいち文句がいいたくなります。ね、そんなに「頭」のなかを「うどん」でいっぱいにして、大丈夫?「ぬるぬるすべる海辺の国道」。わ、危ない。「カーステレオのボリューム一杯に鳴らし」。でも、聞こえるのは「うどんが食べたい」という自分の声だけでしょ?
 田中さん、そんなに正直にならないで。もうちょっと、まわりも見てね。運転するときは、気をつけてね。でも、私の声なんか、絶対に届かない。

行きずりのうどん客がつどう国道沿いのドライブインには
うどんカウンターから真っ白な湯気があがり
満席のうどんファミリーが小鉢にうどんを取り分けている。

 もう、うどんしか見ていない。いいなあ。この食欲。この欲望。そして、うどんを食べるときの「テーブルマナー」(?)にまで言及してしまう正直さ。そうなんだよなあ。家族連れで食べるときは(子供に食べさせるときには)ちゃんと小鉢に取り分けて、熱さをさましてやらないとなあ……。自分の食欲ではないけれど、そういう他人の食欲にまでこころを配ってしまう正直さ。いいなあ。

アメリカ人、ユー・ドン(U-don)と言うよ
ユー・ドンじゃない、うどんです

 いいなあ、このこだわり。この正直。自分がおいしくうどんを食べるだけじゃだめなんですね。田中は、うどんは「正式」に食べなければならないと感じている。ちゃんと「うどん」と発音してから食べないとだめなんですね。
 正直もここまでくると、笑うしかないなあ。
 でも、ここまで正直になると、まずいうどんなんて、なくなるだろうなあ。食べ物をおいしくするのは、空腹ではなく、正直なんだなあ、と思う。

納豆うどんはメニューにない。
しかしテイクアウトして後から混ぜる手がある。
どんぶりに残ったおろし汁をすすりこみ
とんがらしにむせて水を飲む。
このうどん屋は日曜はやっていない。
台風4号が近づいてくる。

 「おろしうどん」(というのかな? だいこんおろしが入っているんだね。)をすすりながら、「納豆うどん」を考える。いいなあ。好きだなあ。よし、田中が食べられなかった「納豆うどん」を先にくってやるぞ、と変な対抗心まででてきてしまう。正直な人間は、読者を正直にさせる。

 「昆布飴の夏」の3連目(起承転結の「転」の部分)。

岩のあいだをくぐっていくと
南の海が見わたせていた。五月の海はきれいに晴れて、
正面に小さな島が浮かんでいた。草つきの崖から
あたたかい風が上ってきて、ただとても気持ちがよい。

 田中の正直さは、「ただ気持ちがよい」ということを、そのまま「ただ気持ちがよい」と書くところにある。無防備である。無防備に「気持ちがよい」と体現できる。そのままことばにできる。
 そこには、生きている人間に対する、深い深い信頼がある。私が感じるのは、その「信頼」の揺るぎなさである。だから、「うどん」の感想で書いたみたいな「ちゃちゃ」をいれたくなってしまう。そんな「ちゃちゃ」くらいでは、田中の人間存在そのものに対する信頼はちっとも揺るがないことはわかっている。わかっているからこそ、それを確かめたくて、「ちゃちゃ」をいれてしまう。「ちゃちゃ」をいれながら、その瞬間、私は田中と友だちなんだと錯覚する。(私は、田中とは面識がない。)そんな錯覚に誘ってくれるくらい、田中の正直は、私を安心させてくれる。




スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷

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リッツォス「証言A(1963)」(10)中井久夫訳

2008-10-30 00:06:55 | リッツォス(中井久夫訳)
ほとんど手品師   リッツォス(中井久夫訳)

彼は遠くからランプの光を弱くする。椅子を動かす。
触らずに。彼は疲れる。帽子を脱いで、それで自分を扇ぐ。
次に秘密を打ち明けるしぐさで耳の脇からトランプを三枚出す。
痛み止めの緑の錠剤をコップの水に溶かす。銀の匙で混ぜる。
水と匙を飲む。彼は透明になる。
彼の胸の中に金魚が一尾泳いでいる。見える。
そして消耗してソファに倚りかかって眼を閉じる。
「私の頭の中に鳥が一羽いる」と彼はいう。「私は取り出せない」。
巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。



 どの詩でもそうだが、リッツォスの詩は不親切な詩ということができるかもしれない。背景が説明されないからだ。この詩でも「彼」がどういう人間であるか、何を考えているかは、何も説明されない。
 こういうとき、どうすればいいのか。どう読めばいいのか。
 私は「意味」を放棄する。「意味」を求めない。そして、ただ、そこに描かれているままの情景を思い描く。
 痛み止めの薬を飲み、胸に金魚を泳がせ、頭にの中には鳥がいる--という人間を思い浮かべる。不思議なことに、私には、その人間が見える。そして、あ、これはリッツォス自身なのではないか、と思う。自画像なのだ。
 「頭の中の鳥」は、リッツォスが描こうとしている詩である。翼をもったことばである。それが取り出せずに苦労している。苦悩している。詩にならないのだ。「痛み止め」「緑の錠剤」「コップ」「匙」「金魚」いろいろなものが存在する。ほんとうは、「頭の中の鳥」こそを存在させたいのだが、それは頭の中に存在しつづける。--その悲しみを、その苦悩を、リッツォスはそのままことばにする。
 そのとき、

巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。

 ああ、これは確かに「手品」である。書くということは、一種の「手品」かもしれない。そこに、存在の影があらわれるからだ。
 リッツォスはどこかで、ことばの力を信じている。ことばは存在を出現させる力をもっていると信じている。--そういう「自画像」として描かれた詩である。私は、そんなふうに読んだ。


関与と観察
中井 久夫
みすず書房

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安水稔和『久遠(くどう)

2008-10-29 09:25:02 | 詩集
安水稔和『久遠(くどう)』(編集工房ノア、2008年10月01日発行)

 安水稔和が追いつづけている菅江真澄。「あとがき」に6冊目の「追跡詩集」である、と書いてある。その巻頭の詩が私は好きだ。「三厩で」。全行。

宿に入り寝入る。
裏の崖が騒がしい。
夜半
豪雨。
木が折れる
床が傾く。
崖が動く
石が鳴る。
水が噴き出す
ここはどこ。
揺れる体
歪む夢。
目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。
さあ どこへ
さあ どこまで。

 「ここはどこ。」これは不思議な一行である。「ここ」は「三厩」に決まっている。ほかの場所ではない。
 いや、そうではない。「ここはどこ。」は夢のなかのことばなのだから、「ここ」は「三厩」ではない。「三厩」以外の場所である。なぜなら、そこが「三厩」であるなら、「ここはどこ。」ということばは成立しないからである。
 ほんとうだろうか。私の書いたことは、正しいことを言っているだろうか。
 あいまいで、わけのわからない「融合」がある。そして、それはつきつめていっても、どうしようもないものかもしれない。
 というのも、この作品自体、安水の体験を語っているか、菅江の体験を安水が想像力のなかで追体験しているのか、明確に区別できないからである。ふたりの存在がはっきり区別できない状態になってしまっている。そんなところまで、安水は菅江を追ってきたのである。区別できないというより、区別することに「意味」はなくなっている、といった方がいいかもしれない。
 区別しない方が、安水の世界で遊ぶことができる。つまり、私も(読者)も菅江になることができる。安水は、読者に「菅江になってください」と誘っているのである。
 区別しない。この姿勢は、次の4行につよくあらわれている。

目覚めると
嘘のように雨が止み。
目覚めるとまた
嘘のように雨が降る。

 どっちなの? 雨が止むのか、雨が降るのか。どちらでもいいのだ。どちらを選んでも、ひとは(読者は)「雨」と出会う。ひとは(読者は)、必ず何かと出会う。そして、その出会いのなかで何か感じる。「何か」そのものを特定することも大切だろうが、そういうものを特定しないことも大切である。同じ「何か」(ここでは「雨」という存在)に出会うことが重要なのである。
 でも、そんなことでいいの?
 いいのである。
 どれだけ「追跡」しても、安水は絶対に菅江そのものにはなれない。また、菅江そのものではないからこそ、「追跡」ということもできるのだ。ここには永遠にたどりつけない何か矛盾したものがある。その矛盾が(いつでも矛盾だけが)、詩なのである。

さあ どこへ
さあ どこまで。

 わからない。わからないからこそ、それを追いつづけることができる。わからないことの「しあわせ」がここにある。そういう「しあわせ」をしっかり持っているというのは、とても気持ちがいい。



 この詩集は短い詩篇で構成されている。その短さもとても気持ちがいい。だれかを「追跡」するとき、普通は、どうしても、それを追う意識が長くなる。長々しくなる。どれだけ対象に近づいたかを、どうしても語ってしまうからである。私と対象の距離を埋めようとして、ことばが次々につながってくるからである。そして、まがり、うねり、強引になる。
 安水は、そういう強引さを避けている。
 あれ、菅江と重なったの? 重ならないの? それがよくわからない。わかるのは、安水のことばが、菅江と出会った瞬間にだけ、ぱっと出てきて、消えていくということである。その「ぱっ」の清潔な感じがとてもいい。





安水稔和全詩集
安水 稔和
沖積舎

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リッツォス「証言A(1963)」(9)中井久夫訳

2008-10-29 00:50:25 | リッツォス(中井久夫訳)
一心に集中の時   リッツォス(中井久夫訳)

若い衆が浜で砂を移していた。荷馬車に荷を積んでいた。
陽は暑く、汗が滴った。正午を廻った時、皆、衣服を脱いだ。
自分の馬に乗って海に乗り入れた。
燃える陽と彼等の体毛と。金色と黒。
一人が体を撫でて掌が股に来た時叫び声を上げた。
他の連中が駆け寄った。担ぎ上げて、砂に寝かせた。
訳が分からない面持でぼうっと見ていた。
とうとう一人が敬虔に掌を動かした。
彼を囲む円陣を作って立つ皆は十字を切った。
馬は濡れて金色。鼻を鳴らした。馬たちの鼻面は遠く水平線の方角を指していた。



 この詩も最終行に深い余韻がある。
 前半の肉体労働、なかほどの海での解放。そして、事故。突然の死。--つらい労働から解放されて、若い肉体が、若さゆえに無軌道に動く。ほとんど無意識。ほとんど欲望のままに。
 馬の体に(と、私は読んだ)触る。人間(男でも、女でもいい)の体、その強い欲望がうごめく股に触れるように、馬の股に掌を伸ばす。驚いて、馬が若者をけり上げる。そして、唐突な死。
 この詩は、具体的には何も説明しない。「意味」を拒んで、ただ若者たちの動きを描写している。「心理」というものが、まったく説明されていない。ただ肉体の動きがそこにあるだけである。
 仲間が死んだということに対する「悲しみ」も描かれてはいない。「こころ」を描写しようとはしていない。
 この詩人の態度(若者たちの態度)と、馬がとてもよく響きあっている。
 馬は人間の「こころ」など気にしない。(馬は利口だから、ほんとうは気にしているのかもしれないが。)人間の心情とは無関係に、一個の自然になっている。非情な自然、そのものになっている。
 この非情さが、詩を清潔にしている。若者がおこなった無意味ないたずらが遠くへ遠ざけられ、ただそこに「死」がぽつんと浮かび上がる。人間の「こころ」に配慮しない馬は、人間の「死」にはもっと配慮しない。
 一方に金色に輝く「いのち」があり、他方に突然の「死」がある。それは隣り合わせになっている。無関係である。だから、清潔なのである。



樹をみつめて
中井 久夫
みすず書房

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リッツォス「証言A(1963)」(8)中井久夫訳

2008-10-28 09:42:41 | リッツォス(中井久夫訳)
夏   リッツォス(中井久夫訳)

彼は浜を端から端まで歩いた。太陽と若き曳航に輝いて。何度も海に跳び込んだ。その度に皮膚が濡れて光った。金色に。赫土(あかつち)の色に。すてきね、という囁きが後を追った。男からも女からも。何歩か後を村の少女が随いて歩いた。彼の服を捧げ持って、いつも少し離れて、一度も彼を見なかった。一心に尽くす自分を少し腹立たしく思いながらも幸福だった。ある日、二人はいさかいをして、彼は、もう服を持つなといった。彼女は服を砂に投げ、彼のサンダルを腋に挟んで走り去った。裸足の彼女が立てる小さな砂埃が陽のほてりの中に残った。



 最後の1文がとても印象に残る。余韻、というのは、こういう終わり方をさしていうのだろう。
 「陽のほてり」の「ほてり」がとても美しい。
 ギリシャ語で何というのか知らないが、このふくらみのある感じ、量感が、とにかくすばらしい。量感があるから、そこで起きたことをすべて受け止めることができる。
 それに先だつ「一心に尽くす自分を少し腹立たしく思いながらも幸福だった。」という矛盾したこころ--それも、「ほてり」と響きあっている。
 「ほてり」というのは、何かが「こもっている」感じがする。解放されない何かが、そのなかに残されている。そのために、熱を持っている。熱は、何かがぶつかりあうとき、こすれあうとき、そこに発生する。

 「ほてり」以外のことばでは、たぶん、この作品の余韻は違ったものになる。中井久夫の言語感覚のすばらしさがあらわれた訳だと思う。



最終講義―分裂病私見
中井 久夫
みすず書房

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「大琳派展」

2008-10-28 00:05:15 | その他(音楽、小説etc)
「大琳派展」(東京国立博物館、2008年10月07日-11月16日)

 10月25日に見た。
 ピカソの移動し続ける作品を見た後、琳派展を巡ると衝撃を覚える。芸術に関する思考がピカソと琳派(あるいは日本の伝統的芸術家)ではまったく違うのだ。
 ピカソは美術史を叩き壊して「個性」を作り上げた。それもただひたすら完成品を叩き壊し、「美の誕生」の瞬間をつくりだすという「運動」だ。琳派は逆だ。継承する。継承しながら、改良できることはないかと、ていねいにこだわる。この展覧会のサブタイトルは「継承と変奏」というのだが、ほんとうにていねいに継承し、ていねいに変奏を繰り返すのだ。

 「風神雷神」。私が見たのは尾形光琳、酒井抱一、鈴木基一の3 点である。手の握りというか、指の細部などに違いが感じられるが、それは積極的な改良というより、模写するときに必然的に生じてしまった誤差であろう。私が見たときは俵屋宗達の「風神雷神」は展示されていなかったが、それを手本にした尾形光琳は俵屋宗達とは違った「風神雷神」を描こうとはしていないし、さらに模写した酒井抱一、鈴木基一も、独自の「風神雷神」を描こうとはしていない。忠実に俵屋宗達の絵を引き継ごうとしている。(記憶のなかにある、教科書で見た「風神雷神」をもとにして書いているのだが。)
 彼らが引き継ごうとしているのは、絵、というより技術かもしれない。技(わざ)と呼んだほうがより的確かもしれない。どうやったら先人の技を引き継いでゆけるか。そのことを日本の芸術家は考えているように思える。「個性」は二の次である。「個性」という考えはなかったかも知れない。あるとすれば、引き継いだ技術で私にはこんなこともできる、という職人の誇りかもしれない。そういう誇りの上で、私はこういうこともできる、とそっと差し出す。そこには「歴史」を継承しながら、「歴史」をつくりだしていく、まっすぐな情熱がある。
 ピカソとの対比で言えば、ピカソはマネの絵を題材に1 枚描いている。「草上の昼食」(マネに基づく)(「愛と創造の軌跡」で展示)。そこでネから継承しているものはモチーフだけである。少なくとも「琳派」が継承しているような技の継承はない。構図は似ているが、ピカソはマネそっくりの絵を描こうとはしていない。あくまでピカソの絵を描こうとしている。「私なら、こう描く」と「個性」を前面に出している。ピカソを貫くものは、あくまで「ピカソ」なのである。「ピカソの美術史」なのである。ピカソはひとりで「歴史」をつくり、ひとりで「歴史」を破壊する。マネを自分のなかに取り込み、その上で破壊する。ピカソはピカソ自身の「歴史」をも継承しない。ただたたき壊す。もしピカソがピカソから継承するものがあるとすれば、ただ「歴史」を叩き壊すという運動だけである。
 一方、「琳派」は何人もの人が「歴史」を継承する。日本の美術に詳しいひとにはその違いは明瞭なのかもしれないが、私のような素人には、たとえば尾形光琳の「風神雷神」と酒井抱一の「風神雷神」は区別がつかない。1 枚だけ見せられたら、大きさ・素材の違う鈴木基一の「風神雷神」はわかっても、他は区別がつかない。
 同じものを描く、そういう技を継承するのが日本の美術のひとつの姿かもしれない。そこには自己を発展させるというよりも、日本の美意識を発展させるという意識が強く働いているのかもしれない。芸術は個人のものかもしれないが、美意識は日本人全体のものという意識が働いているのかもしれない。
 彼らは個人の美意識を育てるというよりも、日本人の感性を、ある一定の高みに到達させようとしているように見える。

 だから、そういう意識は、工芸にこそ、深く働くかもしれない。道具。日常にひとがつかう道具のなかの美意識。常にひとに触れ、触れることで磨かれて行く日本人の感性--そういうものを大切にしているのかもしれない。
 おもしろいものが多すぎて何を書いていいかわからないくらいだが、「あ、これは美術館でないとわからない」と思ったのが、尾形光琳の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」である。立体の面を「八橋」が動いていく。それにあわせてカキツバタがかわる。とても自然だ。カキツバタの天地に無理がない。まるで八橋を歩きながらカキツバタの花を眺めている気持ちになる。「箱」なのに「箱」を忘れる。実用品なのに「実用」を忘れる。「工芸」がまぎれもなく「美術」であることを強く実感する。感動してしまう。この感動は、美術の教科書や図録では起きない。ぐるりと回って見て、はじめて生まれる。(手にとって見ることができれば、もっと感動しただろうけれど、これはむりだね。)
 考えてみれば、屏風にしろ、襖にしろ、それは常に生活とともにある。生活のなかの「美意識」を日本の芸術家は育てようとしているのかもしれない。屏風も襖も、それは「鑑賞」の対象であると同時に、実用でもあるのだ。畳んだり開いたりしない屏風はない。開けたり閉めたりしない襖はない。つかわれない「硯箱」はない。そういうものは、常に、手に触れ、動かされる。固定した位置にあるのではない。ある場所に固定されているわけではない。
 こういう実用のなかの「美」に触れたら、たとえばピカソはどうしただろうか。巧みにデザインされて、それが日常につかわれていると知ったら、どうしただろうか。そして、「琳派」という複数の人のなかで継承されてきたものを、どうやって破壊しただろうか。破壊しようとしただろうか。
 破壊できないのではないか。なぜといえば、日本の継承されてきた「美」は、そこにあるだけではなく、それを動かし、つかう日本人のなかにこそあるからだ。それを破壊するためには、まず「日本人」にならなければならない。深く深く「日本人」の肉体にしみこんだ「感性」そのものの内部に入り込まなければならないからだ。

 ピカソと琳派を続けて見ると、ほんとうに不思議な気持ちになる。




琳派をめぐる三つの旅―宗達・光琳・抱一 (おはなし名画シリーズ)
神林 恒道
博雅堂出版

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「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」

2008-10-27 11:06:26 | その他(音楽、小説etc)
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」(新国立美術館、2008年10月04日-12月14日)

 10月24日、25日に見た。この会場で私が行き来したのは、ドラ・マール、マリー=テレーズを描いた4点が展示されたコーナーである。ドラ・マールとマリー=テレーズが2枚ずつあり、それをはさむようにして「窓の前に座る女」と「横になって本を読む女」がある。さらに「頬杖をついた女の頭部」がある。2枚の名前がはっきりしている肖像がのほかの女は誰なのか。
 「横になって本を読む女」は、私にはマリー=テレーズに見える。目の形が「肖像」と同じである。ブルーを基調とした静かな色の変化が「肖像」に共通しているからである。ドラ・マールの場合は暖色が強烈だし、コントラストも強烈である。右目(向かって左側の目)が切れ長で、つり上がっているのもマリー=テレーズの肖像に共通する。「頬杖をついた女の頭部」の右目は逆に垂れているからドラ・マールかもしれない。(鉛筆で描かれているので、色彩を基準にできない。)
 「窓の前に座る女」は二人が混じり合って感じられる。ピカソは絵のなかで二人を融合させようとしているかもしれない。
 この絵では向かって左側の目が横からとらえられている。向かって左側と書いたのは、その目の左側に横向きの鼻があり、見ようによってはそれは左目とも見えるからである。その目は、ややつり上がり気味である。そして、その目がある顔はブルーを基調にしているのもマリー=テレーズに共通する。
 一方、顔の左半分(絵の右半分)はドラ・マールに感じられる。目はたれ気味である。顔の基調の色が黄色なのもドラ・マールに共通する。
 組み合わさった手も、右手はブルー、左手は黄色と分かれている。
 どうしても、そこには「1人」ではなく「2人」の女性がいるように見えるのである。
 この時期(1937年ごろ)ピカソは、ドラ・マールとマリー=テレーズの2人の女性を愛していたのだろう。どちらをより愛していたか、ということはいえなくて、「2人」いることが大切だったのだろう。「2人」いることで何かが活性化する。暖色と寒色。横向きの目と正面の目。つり目とたれ目。反対のものが出会うとき、それを調和させるためには何かが必要だ。いままでの基準ではないものが必要だ。--調和、とは書いてみたが、それはほんとうは調和ではなく、葛藤のようなものかもしれない。
 葛藤があるから、いま、ここ、を否定しに、いま、ここではないどこかへたどりつけるのだ。もちろん、調和ではたどりつけるかもしれないが、調和ではたどりつけないもっと破壊的なもの、破滅的なもの--破壊し、破滅したあとに、やっとはじめてあらわれうるような生々しいもの。それをピカソは探しているようにも見えるのである。愛の、その瞬間においてでさえも。
 最初に、ピカソは絵のなかで2人を融合させようとしているのかもしれない、と書いたが、ほんとうは逆かもしれない。いっしょに描くことで、それが「一体」であるのに、激しく「一体」であることを拒絶している状態を描こうとしたのかもしれない。--これは、たいへんな矛盾である。青と黄色という正反対の色をつかいながら、組み合わせてしまうと、どこかで「美」が生まれる瞬間がある。破壊のはずが「美の誕生」にかわる。そして、ここにピカソの基本的な秘密があるようにも思えるのだ。
 ピカソは何もかもを破壊する。破壊しつづける。しかし、その瞬間に、どうしようもなく美が誕生してしまう。これはピカソにとって喜びであるのか、それとも悲しみであるのか。わからないが、そういうわからないもの、わからないまま、それでも動いて行ってしまうものが「いのち」かもしれない。

 私はピカソ狂いである。ピカソ中毒である。なぜ、ピカソに狂い、ピカソに中毒になってしまうかといえば、そこに安定がないからだ。動きしかないからだ。動きにひっかきまわされ、揺さぶられ、酔ってしまうのである。どうなっしまうのかわからない気持ち悪さと、どうなってもかまわないという気持ちよさがいっしょにやってくる。笑ってしまう。ドラ・マールとマリー=テレーズの肖像の間を行き来しながら、なぜ人間はひとりではないんだろうという不思議なことを感じた。愛するひと、それがなぜドラ・マールとマリー=テレーズという2人の姿でこの世界に存在するのか。なぜ「1人」として存在しないのか。--ドラ・マールともマリー=テレーズとも関係ない、まったく別の次元のピカソの欲望が引き起こす混乱が、私を中毒にしてしまう。何も考えられない。ただ、絵の間をさまよい、あ、この色が美しい、この線がいいなあ、この目つきにひかれるなあ、と、それまでいろいろ考えたこと(目の形とか向きとか、基調の色彩とか)をすべて忘れて、あっちふらふら、こっちふらふら、という状態になってしまうのである。すべての瞬間に、「いのち」が誕生する輝きのようなものを感じ、夢中になる。私の感じていることは錯覚かもしれない--だからこそ、中毒、と私は私に言い聞かせる。

 ピカソの作品には叩いても壊れない「いのち」がある。強い「いのち」がある。それはブルーの時代の作品にもあるが、年をとるとともに強まっていく。そんな感じがする。



 ピカソの不思議さは、その作品が絵(平面作品)だけにとどまらず、立体にもおよぶところである。立体でもピカソはひたすら何かを壊している。壊したその瞬間に誕生する美をつかみ取ってくる。
 今回展示されている立体作品のなかでは「雌ヤギ」がいちばん好きだ。骨組みにつかった籠や板、棒などがむきだしのまま強烈な線をつくっている。生きているいのちというのはどこかにそういう剛直なものをもっているのだ。そのことを感じさせる。肥え太った腹、はりつめた乳房、そして。ぱっくりと口を開いた陰部。「陰部」と呼ぶのがはずかしくなるくらいの、ずぶとい「いのち」。このヤギ、これで生きているんだ。これで生きていくためには、やっぱり叩いても折れない剛直な骨が必要だ。鉄や、板や、棒で補強した肉体が必要だ、と納得してしまう。
 彫像をぐるーっと回って、なんだこのごつごつさ加減は、と思いながら、ぱっくり開いたヤギの陰部に笑いころげる。右の目と左の目でまったく違う世界をみているヤギの思想の深さに触れる。ヤギの悲しみと喜びと、いのちのたくましさに触れる。ヤギは、もうヤギではない。完璧な芸術である。

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愛敬浩一「古管」

2008-10-27 11:05:54 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「古管」(「東国」139 、2008年09月30日発行)

 愛敬浩一「古管」は通勤のとき見た風景を描いている。その後半、

その運転手が
笛を吹いているのだ
まるで
田舎の神社の
神楽殿の上で横笛を吹いている人のような感じで
横笛を吹いているのだ
音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが
私の耳の奥から
音は
やって来た
柔らかく幅のある中間音程が
高くもなく
低くもなく
私をどこへ連れて行ってくれるかのような
古管の音が
聞こえて来た

 すべての行が好き、というのではない。どちらかというと不満がたくさんある。それでも、この詩について書いてみたかった。1行、たまらなく好きな行がある。

やって来た

 「聞こえてきた」「響いてきた」ではなく「やって来た」。あ、いいなあ。遠くからくる感じがする。「遠い」といっても自分の肉体のなかだから「距離」的には遠くない。その遠くない距離を「遠く」と感じさせる何か。
 不思議な正直さが、ここにはある。
 正直さは、実は、それに先だつ行によって準備されている。

音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが

 これは単なる事実の説明のようであって、そうではない。「慣用句」に溺れていく意識を、ぐいと押しとどめる。「いや、聞こえるはずもないのだが」としっかり事実を言う。そのまっとうさが愛敬の「慣用句」の感覚を洗い流す。そして、

やって来た

という行が動きだす。いいなあ。





夏が過ぎるまで―詩集
愛敬 浩一
砂子屋書房

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リッツォス「証言A(1963)」(7)中井久夫訳

2008-10-27 09:25:29 | リッツォス(中井久夫訳)
鋳型   リッツォス(中井久夫訳)

目を閉じて、あの夏のことを思えば、
思い出すのは彼の指輪からの金色の霧と暖かい感覚ばかり。
それに、柳の樹の後ろにちらりと見えた
若い農夫の裸の陽に灼けた広い背中からも。
午後二時だった。
彼が海から戻る途中。あたり一面、焦げた草の匂いがしていた。
同じ時、ボートから笛が聞こえた。また蝉も鳴いていた。
彫像が出来たのは、むろん、ずっと後のこと。



 書かないことの不思議さ。書かないことによって浮かび上がってくる詩。「彫像」とはなんの、だれの、彫像か。ここでは具体的には何も書いていない。
 私には「彼」の彫像のように思える。恋人の彫像である。夫、かもしれない。「指輪」ということばがあるから。--指輪の至福、それは、あの夏のことだった。
 彼との至福のはじまりの一瞬。しかし、女は(この詩の主人公は女である、と私は思う)、彼ではなく、ほかの男の裸を見ている。背中のたくましさを見ている。それを見ながら、しかし、純粋に農夫の背中をみているのではなく、いま、そこでは隠されている彼の裸もみている。--結婚式の、その、奇妙な色っぽさ。
 リッツォスは、こういう情景を、やはり「こころ」を描写せずに、視線が見たものを「カメラ」のように感情を排除しながら提出する。書かれていないから、「主人公」のこころではなく、読者の(つまり、私の)こころが、書かれていないこころそのものとして動く。私が感じたものが、「主人公」のここころになるのだ。
 普通はていねいに描写された心理が、読者のこころのなかに入り込み、読者のこころをかたちづくる。
 リッツオォスは逆なのだ。描写しない。そこに描写がないから、読者は自分の思いをそのなかに投げ入れ、読者自身の力で登場人物に重なる、登場人物を乗っ取ることになる。登場人物は何も見ない。読者が登場人物の変わりに、心情で染った情景を見るのである。
 途中の、「午後二時だった。」という、すべてを切って捨てたような断定が、とても美しい。きのう読んだ「正午」の「構うものか。」と同じように、それは視点が方向転換する時の起点になっている。





徴候・記憶・外傷
中井 久夫
みすず書房

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「巨匠ピカソ 魂のポートレート」

2008-10-26 01:18:46 | その他(音楽、小説etc)
「巨匠ピカソ 魂のポートレート」(サントリー美術館、2008年10月04日-12月14日)

 私は10月24日と25日、2回見た。私はピカソが大好きだ。ピカソ狂いといえるかもしれない。それがこの展覧会と新国立美術館の「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」を見て、ピカソ中毒になってしまった。見たはずなのに、また見たくなるのだ。私がいちばん好きなのは晩年のピカソ、エロチックな落書きを描きつづけるピカソだが、今回はそうした作品はほとんどない。そのかわりに時代とともにかわるピカソが丹念に紹介されている。



 私はいつでも美術館へ行ったら、ここは私の家、これは私が持っているもの、という感じで絵を見る。そして、ピカソの場合は、不思議なことに、あ、ここが美術館でよかった、と思ってしまうのだ。
 たとえば「魂のポートレート」の2点の作品。「ピエロに扮するパウロ」と「牧神パンの笛」。どちらもピカソの作品としては「おとなしい」。何が描かれているか、その対象がはっきりわかる。
 しかし、この絵が、たとえば自分の家にあったらどんな気持ちになるだろう。ちょっとこまる。これは絵ではない。たとえばフェルメールの「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女」なら、家において一人で見ていてもうれしいけれど、ピカソの、この「おとなしい」はずの2枚は、やっぱり困る。たとえ私が大邸宅をもっていたと仮定しても、飾る場所がない。
 「ピエロに扮するパウロ」はかわいい少年が真っ白な服を着ている。ピエロの衣装だ。手にマスクをもっている。かわいい少年だ。--と思いたいけれど、私は不安になる。パウロの背後で赤茶色、青緑、灰色と水色のまじった色が、整然と三分割されている。三分割を隠すように廊下の手すり(向こう側は階段?)だろうか、茶色も少しはあるのだが、目につくのは三分割である。この絵を見ていると、ふっとパウロが消える瞬間がある。それが怖いのである。不安になるのである。ピカソはほんとうにパウロを描いたのか。そうではなく色彩の三分割を描いたのではないのか、と思ってしまうのだ。三つの色が隣り合って並んだとき、その組み合わせがとても美しく見える。あ、青緑はここまで深い色になると赤とぴったりあうのだ、とか、水色に灰色をまぜるとこんなふうに青緑の深い色と響きあうのだ、とか--パウロを離れて、こころが色の組み合わせだけを見ている。
 このとき、パウロが着ている「白」とはなんなのだろう。パウロとはなんなのだろう。ほんとうに愛らしいパウロを描きたいのなら、背景はもっと違ったものになるのではないのか。たとえば、「魂のポートレート」の「自画像」(1901年)のように、単一の色をつかうのではないだろうか。
 ピカソは、どうも、「この絵を見てくれ」とは言っていないのだ。「この絵は傑作だろう」とは言っていないのだ。「ほかの絵も見てくれ」と言っているのだ。この色とこの色はこんなふうに美しく響きあう。それは、この絵だけを見ていてはわからない。ほかの絵も見てくれ。自分の絵だけではなく、ほかのひとの絵も見てくれ、と言っているように感じる。
 ピカソがつたえたいのは「動き」なのだ。ピカソ自身のなかにある動き、美術の歴史のなかにある動き。先人が何を築き、何を発展させたか。そこにやり残していることは何か。それに対してピカソはどんなことをやっているのか。それを見てもらいたいのかもしれない。
 こんなふうに主張する絵は、1枚を自分の家に(自分の部屋に)飾って見るものではない。美術館で、多くの絵のなかにおいて、そこで見るべきものなのだ。え? なぜ? なぜ、こんなふうに背景を三分割する? その色はどこから来ている? それを美術館をさまよい歩きながら探さなければならないのだ。
 私が2日つづけてサントリーへ通ったのは、2日目に、その色を探すためだった。三分割をほかの絵のなかに探すためだった。けっきょく、こたえはわからなかったが、そんなふうにこれはどこから来ている? この色はなに? なぜ、こんなタッチで? と思いながら他の作品をさまようと、ピカソが突然動きだすのである。ほら、これを見て。この作品もよく見ていけよ、と高笑いしながら、隠れん坊のこどものようにあっちこっちへと動く。
 これは楽しい。ほんとうに楽しい。でも、そんな絵は、やっぱり手もとにはおいておけないね。

 色彩の三分割、と言っていいのかどうかはわからないけれど、「牧神パンの笛」の二人の青年(青年と少年?)も不思議だ。二人の上には真昼の太陽がある。その光が二人の肉体をたのもしく育てている。
 ところが、その背後の海と空、その色を変えた青の空間は太陽とは無縁である。二人がいる場所(どこかの屋上?)の壁はやっぱり太陽の光をあびているのに、ギリシャの海と空は太陽と無縁である。それは、海と空にも太陽の輝きをまき散らしてしまえば二人の青年がちっぽけになるから、ということかもしれない。でも、やはり不思議な気持ちになるのである。空と海の青の、たどりつけないようなさびしさ、静かさ、それはいったいなんなのだろう、と思ってしまうのだ。
 そしてこの青は、いわゆる青の時代の青「自画像」の背景や肉体の影の青とも違う。
 いろいろ作品をさまよって記憶のなかで色を並べてみるが、やっぱり、空と海の青は見つからない。強いて言えば「口髭の男」の青かなあ。でも、「口髭の男」の青そのものは色自身としては「青の時代」の青だろうなあ。髭と眼の茶色との対比で、私が錯覚しただけだろう。二人の青年の背後の壁から太陽の輝きをとったら「口髭の男」の茶色になるかなあ、という印象が、青そのものをも変えて見せるのかもしれない。
 「色」は同じ絵の具をつかっても、ある作品のなかでは違った色になるのだ。抱え込む音楽、においが違うのだ、ということなのかもしれない。つねに動き回る。ピカソそのもののように。




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リッツォス「証言A(1963)」(6)中井久夫訳

2008-10-25 08:28:26 | リッツォス(中井久夫訳)
正午   リッツォス(中井久夫訳)

服を脱いで海に飛び込んだ。午後三時。
水は冷たいが、構うものか。
浜は見渡す限りしんとして、ひと気がない。荒れた浜だ。遠くの家は戸を閉めて。
世界はきらきら光る。靄が立ち昇る。通りの果てに荷車が消える。郵便局の屋根に半旗が。誰が死んだのかい?



 二つの世界がある。--二つの世界と書いてしまうと語弊があるかもしれないが。
 ひとつは、海と若者。そして、もうひとつはその若者が見つめる世界。
 映画でいうと、まずカメラは「海と若者」をとらえる。そして、そのカメラは「若者」に焦点があたったあと、「若者」を起点にしてターンする。「若者」の視線そのものになり、世界をみつめていく。
 荒れた浜。遠い家。遠くへつづく道。荷車。その動きを若者の視線が追いかけ、郵便局の半旗にぶつかる。
 移動する視線(カメラ)。これが、リッツォスの特徴のひとつである。

 中井の訳でとてもおもしろいのは、2行目の「構うものか。」である。
 いま書いたように、カメラはまず海と若者をとらえ、若者に焦点があたったあと、そこから反転する。若者の視線になる。カメラが若者の内部に入り込んだ感じだ。視線の転換を一瞬の内にやってしまうのが「構うものか。」ということばだ。若者の内面の声だ。内面の声がかかれた瞬間、カメラは若者の内面にはいる。そして、「構うものか。」という声のように、世界を切り捨てるような感じ、自分を中心にした強い感情のまま、動いていく。「構うものか。」はとても大切なことばなのだ。
 中井は最初、これを「構わない。」と訳していた。(私がテキストにしているのは、中井がワープロで打ち込んだ訳のコピーである。)中井は、いったん「構わない。」と訳している。「意味」はかわらない。しかし、「構うものか。」と「構わない。」では印象が違う。「構うものか。」の方が乱暴な、強い印象がある。強い感情を印象づける。
 この「強い感情」が、この詩では、とても大切なのだ。
 すべてをほししままにする若者の強い欲望。それが、何もない夏の浜を乱暴につきっきる。どこまでも突き進んで行こうとする。その乱暴な、力にあふれた視線が半旗--死を知らせる旗にぶつかる。
 この衝撃。詩は、この瞬間にある。
 そして、その衝撃を強いままに引き出すのが「構うものか。」という口語の訳なのだ。中井久夫は、口語を取り込んで日本語を組み立てるのが非常にうまい。的確だ。口語によって、詩がいっきに活発に動きはじめる。この訳詩は、そのひとつである。



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パトリス・ルコント監督「ぼくの大切なともだち」(★)

2008-10-25 08:27:07 | 映画
監督 パトリス・ルコント 出演 ダニエル・オートゥイユ、ダニー・ブーン、ジュリー・ガイエ

 私はこの映画がどうにも好きになれない。映像の愉悦がない。
 たとえば「髪結いの亭主」。男が「髪結いの亭主」になりたいという夢を持っている。それは口に出すとみっともない夢かもしれない。こどものとき、主人公は「髪結いの亭主になりたい」と言って、父親から殴られる。男なら、そんな夢なんか持つな、もっと大志を抱け、ということだろう。
 しかし、叱られても、ばかにされても、男はその夢を実現してしまう。しかも、「髪結い」が色っぽい。美人である。やさしい肌の感触、甘い(?)匂い。そのなかで、男はうっとりと生きているよろこびを感じる。アラブの音楽にあわせて(つまり、ここではない、異国の、ということだ)、ただただ気持ちよさそうに踊る。そのシーンが非常に美しい。男のよろこびが空気にとけだしてゆく。光になじんでゆく。
 いいなあ。
 「髪結いの亭主」になって、そんなふうに、何もせず、自分の愉悦にひたるのはどんなに気持ちがいいだろう。そして、そういう気持ちのいい感じをひとに見せつけるのはどんなにしあわせなことだろう。そこには、「意味」を超越した、ふしぎな美しさがあった。
 「仕立屋の恋」にも、ふしぎな色っぽさがある。ちびで、禿で、中年。その男が美しい女に恋をする。窓際で、そっと女に近づいて行く。そのとき、窓から入ってくる光のなかで、女の首筋が、耳が、肩が、やわらかな髪が匂う。近づくと危険--というのは、女が危険な女であるという意味ではない。拒絶される危険--そういうものが、ふわっと匂ってきて、男はぎりぎりのところで踏みとどまる。その悲しみのように、音楽が(アナログのレコードのやわらかな響きよ)流れる。
 いいなあ。
 こいうどきどきを味わってみたいなあ。
 「意味」を超えて、愉悦へ誘う映像の甘い甘い感じ。それがルコントの映画にはあった。私はそういう甘ったるい、軟弱な映像が好きだ。自分でそういう映像を撮るとしたらきっと恥ずかしい。その恥ずかしさを超越して、そこで誘っている甘い甘い愉悦--それが好きだ。

 それが、今回の映画にはない。
 強いてあげれば、「ミリオネラ」のクライマックスで、主人公の二人が番組とは無関係に逸脱していくシーンがそれにあたるのかもしれないが、なんだかなあ。そこには、愉悦とは逆の「理」がある。「感」ではなく、「理」。「理性」でうごく人間。そのとき、「肉体」が悲しむ。その感じが、まあ、魅力的といえばいえるんだろうけれど、これを「説明」しているから、私は、とてもいやな気分になったのだと思う。テレビのディレクターがモニタールームへ駆け込んできて「視聴率が突然アップした」とかなんとか。こんな「説明」をしないと、二人の演技、そのやっていることが伝わらない--そう考えるルコントの意識によって、映像がずたずたになっている。そう思った。

 ストーリーそのものも嫌いだ。最初から不幸に見えるダニー・ブーンもよくない。私には彼が少しも「シンパティク」に見えない。滲み出てくる明るさがない。不幸な二人が慰め合う--結果的にそんな感じになってしまう友情というのは、なんだかとても気持ちが悪いのである。



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リッツォス「証言A(1963)」(5)中井久夫訳

2008-10-24 00:12:36 | リッツォス(中井久夫訳)
感覚の階調   リッツォス(中井久夫訳)

陽は沈んだ。桃色。蜜柑色。海は暗い青緑。遠くにボートが一隻。
揺れる黒印。立ち上がって叫ぶ者一人。「ボート、ボートだ」
コーヒーハウスにいた連中は椅子から立って眺めた。
確かにボートだ。だが叫んだ者は
悪事でもしたように他の者の後に随いて、
うつむき、つぶやいた、低声で--「嘘を吐いた・・・」。



 情景はあざやかに浮かび上がる。特に1行目の色の対比が美しい。「陽は沈んだ。桃色。蜜柑色。」この段階では、その「色」がどこにひろがっているか、はっきりとはしない。はっきりさせないまま、ただ「色」だけをあざやかに浮かび上がらせる。そして「海は黒い青緑。」このことばがあらわれて、先の「色」が海と向き合った空の色、空気の色であることがわかる。この、視線の動きが、映画の「カメラ」のように感じられる。陽は沈む。その沈む陽とは逆に、カメラは空中を彷徨う。空気のなかにのこる色を彷徨う。そのカメラが、雲や空気を映しながらしだいに水平線に下がってきて、そこに海。「暗い青緑」。この対比の素早い動きが、とても気持ちがいい。
 こんな美しい風景のなかには、自然以外の何かがほしくなる。たとえば、ボート。
 それがどんな形であれ、自然ではない何か。人間の仕事がからんでいる何か。ボートはそういうものだと思う。

 だれかが叫ぶ。「ボート、ボートだ」。それはほんとうにボートが見えたからというより、ボートが見たかったからなのだ。
 ことばは、こういうとき、残酷である。
 ことばは、ときとして、まだ存在しなかったものを現実へと呼び寄せてしまうときがある。叫んだものは、ほんとうにボートを見たから「ボート、ボートだ」と叫んだのではない。ところが、叫んだ瞬間、実際にはるかな水平線からボートの影があらわれたのだ。
 嘘が現実になった。嘘のことばが現実になった。--それは、嘘が見破られたときよりもかなしい。嘘は嘘であってこそ、美しいのに。
 叫んだ者は、詩人は、絶望する。「嘘を吐いた……」、と、結果的に、真実を語ってしまったことを悲しむ。

 この変化が感覚の階調である。




治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)
中井 久夫
岩波書店

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