詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「あけがたには」、佐々木幹郎「行列」、小池昌代「夕日」

2009-01-31 12:50:49 | 詩集
 藤井貞和「あけがたには」は、小池昌代、林浩平、吉田文憲編著『やさしい現代詩』(三省堂、2009年02月10日発行)に収録されている。
 自作朗読CDの一冊。谷川俊太郎ほか17人のアンソロジー。CDがついているけれど、私は聞いていない。私は耳が悪い。聞き慣れた人の声でも聞き違いをする。「結婚記念日」は「コンキネンビ」、「ビルディング」は「イルディング」という具合に、冒頭の音を聞き取れない。「浜本」というひとの名前は「あまもと」と誤解する。肉声を知らない人の声を聞いても、きっと勘違いするだろうと思う。
 私が書くのは、CDを聞いた感想ではなく、あくまで詩を読んだときの感想である。
 藤井貞和の「あけがたには」がおもしろかった。聞くというのではなく、声に出して読んでみたくなった。

夜汽車のなかを風が吹いていました
ふしぎな車内放送が風をつたって聞こえます
……よこはまには、二十三時五十三分
とつかが、零時五分
おおふな、零時十二分
ふじさわは、零時十七分
つじどうに、零時二十一分
ちがさきへ、零時二十五分
ひらつかで、零時三十一分
おおいそを、零時三十五分
にのみやでは、零時四十一分
こうずちゃく、零時四十五分
かものみやが、零時四十九分
おだわらを、零時五十三分
…………
ああ、この乗務車掌さんはわたしだ、日本語を
苦しんでいる、いや、日本語で苦しんでいる
日本語が、苦しんでいる
わたくしは眼を抑えて小さくなっていました
あけがたには、なごやにつきます
                 (『ピューリファイ!』1984年08月 書肆山田)

 読んでみたくなるのは、「零時○○分」の繰り返しも楽しそうだし、それに先だつ「よこはま」「おおふな」云々とときどき挟まる「は」「へ」「に」などの助詞、ふいにあらわれる「ちゃく」が、どんなふうに自分の肉体に作用するか知りたいからだ。
 試してみると、ひらがなの地名は、その土地を私が知らないからかもしれないが、音楽のように揺れる。喉を通るとき、「意味」にならずに、ただ音楽として声帯を刺激する。「零時○○分」は「意味」がわかるけれど、まったく役に立たない。私の生活とかかわりがない。それは私にとって規則正しい「雑音」である。この作品は、不思議な音楽と雑音でできている。そして、その音楽と雑音の間に、読点「、」が差し挟まれている。その読点の、一拍の呼吸がとても楽しい。リズムは音によってもつくりだされるが、音のない時間、空白によってもつくりだされる。その「音楽」「空白」「雑音」という感じが、何度も何度も繰り返し読んでみたい気持ちにさせる。
 「ああ、この乗務車掌さんは」からの3行に繰り返される「日本語」の述語部分の変化、助詞の変化も楽しい。「乗務車掌さんの」の「乗務」もとても美しい。もしかすると、藤井はこの「乗務車掌さん」ということばをつかいたくてこの詩を書いたのではないだろうか、と思ってしまうほどである。

 また、この詩は別の読み方もできる。藤井は「よこはまには、二十三時五十三分」と書いたあと、次々に駅と時間を書いている。これはほんとうの時間? そして、それはほんとうに聞いた時間? 聞き取って時間?
 ほんとうに聞き取った時間であるとしても、たぶん、それを正確には再現できないだろうから、これは藤井が「わざと」書いている部分である。体験したことかもしれないけれど、その体験を別の資料(時刻表)をつかいながら「わざと」再現している。この「わざと」は目立たないけれど、その「わざと」のなかに詩がある。詩は常に「わざと」のなかにある。
 駅名と、時刻。その繰り返し。間にはさまれる読点「、」も実は「わざと」である。読点「、」がなくても意味は変わらない。駅名がひらがななのも「わざと」である。藤井が列車の中で感じたある瞬間の「美」--それを拡大し、明確にするために「わざと」こういう書き方をしているのである。朗読して(声に出して)楽しい詩ではあるけれど、同時に目で読んでも楽しい詩である。目で読んだときの方が、「わざと」がわかりやすい楽しい詩である。
 詩人は「事実」を書かない。いや、事実であるにしろ、それは「わざと」書いたものである。いろいろ調べて、書き方を工夫して書いたものである。そこに書かれているのは、実は「事実」というより、ものごとの「書き方」なのである。「書き方」そのものが詩なのである。



 佐々木幹郎「行列」も楽しい。読んで楽しい。(初出は『気狂いフルート』1979年07月、思潮社)

行列のあたま
行列の過去を噛み
行列の口
行列の未来をとなえ

 と行頭は「行列の」が延々と繰り返される。「行列」が「行列」している感じがしてくる。しかし、最後は、

行列の闇から闇まで
蛍がとびかう

と、突然、「蛍」が飛び出してきて終わる。違ったものが現れた瞬間、あ、おわった。そんなふうに安心する。その安心のなかに詩がある。書かれていることに「意味」はない。いや、あるのかもしれないけれど、私は「意味」ではなく、この唐突な終わり方、「蛍」が理由なく飛び出してくる瞬間が好きである。蛍ではなく、蚤やしらみ、こうもり、薔薇でも可能かもしれないけれど、そういうものではなく蛍を選びとってくるところ、その脈絡を超えたことばと佐々木のつながりに詩がある。そういうものに出会う瞬間の楽しさがこの詩にはある。



 小池昌代「夕日」には声になった声と、声にならなかった声が書かれている。(初出は『永遠に来ないバス』1997年03月、思潮社)

片岡くんが会いませんかと言う
会いませんか こんど
あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ
と言うので、はいと言った

 これは声になった声である。「あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ」が楽しい。(ただし、私の感覚では、「あ、あ、あい、あいません、あい、あ」と「か」がない方がリアルに思える。たぶん私がどもってしまうとしたら、「か」抜きでどもる。「か」まで言えたら、そのあと「あい、あ」とは言わないだろうと、私の「肉体」は主張している。) 最後には、逆に声にならなかった声がていねいに書かれている。

太陽はビルの背中をこがして
みしみし、西空へしずみかけている
約束してしまうのはもったいない気もちだ
私はしつもんをのみ込んでみている
(いつ?
(どこで?
(なにをして?
夕日

 声になってしまった声と、声にならなかった声とが、詩の中で出会っている。そのことが楽しい。
 そして、この詩も、実は私には読んで楽しいものである。聞いてほんとうに楽しいかどうかはわからない。最後の声にならなかった声は、朗読では声になってしまう。それはちょっとつまらない。もし読むのなら、声に出さず「口」だけ動かして、その3行を表現してほしいと私は思う。(きょうの「日記」に取り上げた映画「エレジー」でペネロペ・クルスが「アイ・ラブ・ユー」と口だけ動かして語るシーンのように。)声に出さなくても伝わる声というものが現実にはある。そういう声に出会えるというのは、とても至福である。実際に声を聞いてしまうと、その喜びはきっと消える。
 私は詩の朗読はしない。また、朗読を聞くこともしない。それはたぶん、そういう「声にならない声」の美しさ、切実さ、そしてそれを耳ではなくたの器官(たとえば目)で聞く機会が消えてしまうのを残念に思うからである。


 

やさしい現代詩―自作朗読CD付き
小池 昌代,吉田 文憲,林 浩平
三省堂

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イザベル・コイシュ監督「エレジー」(★★★★)

2009-01-31 01:05:42 | 映画
監督 イザベル・コイシュ 出演 ペネロペ・クルス、ベン・キングズレー、デニス・ホッパー

 忘れがたいシーンがある。ペネロペ・クルスがいったんベン・キングズレーと別れ、2年後に再会する。そのときペネロペ・クルスは乳ガンに冒されている。それを打ち明ける。そのときベン・キングズレーが泣きはじめる。自分の肉欲(快楽)のみを求めてきた男が、若い女のいのちをいとおしみ泣きはじめる。それに対して、ペネロペ・クルスが、「まるで自分が年上で、あなたが少年みたいだ」という。このシーンがとても美しい。
 考えてみれば、2人の関係はいつも年上の女性、年下の少年だったのだ。ベン・キングズレーが30歳以上年上、大学教授であり、ペネロペ・クルスは若い学生なのだから、外見的にはベン・キングズレーが年上であり、立場も上位にあるのだが、彼等の行動を動かしているのは、年上の女性、年下の少年なのだ。
 ベン・キングズレーがペネロペ・クルスにひかれるのはその美貌であり、その肉体である。彼女の人間性のことは意識にのぼらない。青年時代にさえしたことのない嫉妬にかられ、ペネロペ・クルスのあとを追いかけてみたり、妄想にかられたりする。その一方で、別の女性との関係をつづけ、嘘をつきもする。友人に、ペネロペ・クルスとの関係を語り、いろいろ相談もする。つまり、ベン・キンギズレーは「愛」を一人では抱えきれないのである。大人ではなく「少年」なのである。
 これに対して、ペネロペ・クルスは正直である。10代のころの男性経験を問われるままに語る。ベン・キングズレーの女性関係も深くは追及しない。いま、彼が、彼女の肉体を愛してくれていることを受け止め、その肉体への愛が彼女自身への愛だと受け止める。
 対極的な二人が幸福に包まれるのは、したがって、ベン・キングズレーが少年の純粋さを発揮するときである。ペネロペ・クルスの美しさを無邪気に称賛するとき。ロマンチックな場所へ行き、夢を語るとき。海岸で、プラド美術館へ行こう、ベネチアへいってゴンドラに乗って歌を歌ってあげる、と語るとき。夢中になって写真をとるとき。ペネロペ・クルスが声に出さずに「アイ・ラブ・ユー」と言ったのを、「聞こえなかった。もう一度言って」とせがむとき。その無邪気な「少年」に触れるとき、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが30歳年上であることを忘れる。恋が二人の間にある「外見」を消し去る。
 まったく逆のシーンを思い起こすと、この二人の違いはいっそう明確になる。ペネロペ・クルスが最初に涙をみせるシーン。しかも、ベン・キングズレーに隠れて涙をみせるシーン。大学の卒業パーティーを自宅で開く。パーティーの最中、ベン・キングズレーが電話をかけてくる。「車が故障して、パーティーに行けない」。これはもちろん嘘である。ベン・キングズレーは自分が30歳も年上であるということ、その外見に対して負い目を感じている。ペネロペ・クルスの家族に30歳も年上であることを知られたくない。ペネロペ・クルスは「車が故障した」という電話が嘘であることを知っている。だから泣く。ベン・キングズレーが結局「少年」であり、「少年の嘘」をつくからである。「いま」を受け入れることができない「少年」であることを知ってしまったからである。
 ベン・キングズレーが年上であり、ペネロペ・クルスが若いから、二人の恋は破綻したのではなく、逆なのだ。ペネロペ・クルスは「おとな」なのに、ベン・キングズレーがいつまでも「少年」だから、恋は破綻したのだ。
 それでも、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが恋しくて、最後に彼を頼ってやってくる。会いに来る。そして、そこで相変わらずベン・キングズレーが「少年」であることを発見する。この瞬間から、二人の愛が重なり、切ない物語になる。永遠になる。ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが少年であることを受け入れ、ベン・キングズレーも自分が少年であることを受け入れるのである。恋愛とは、相手のためなら自分が何になってもかまわないと決意し、実行することだ。ベン・キングズレーが快楽主義の教授から、ただペネロペ・クルスが好きということしかわからない少年になるという変化も、その「何になってもかまわない」ということにつながるのだ。
 ベン・キングズレーが少年になる--という変化は別の物語でも語られる。彼には息子がいる。彼は父親なのに息子の相談には親身にならない。その彼がペネロペ・クルスが乳ガンだと知って医師の息子に相談する。息子は親身になってベン・キングズレーの相談に乗る。そういう親子関係の逆転をとおして、二人は和解する。
 人間を結びつけるのは、外見の年上・年下、父・息子という関係ではないのである。そういう外見の関係を乗り越えたとき、そこにほんとうの愛がうまれる。
 ラストシーン。手術を終え、集中管理室から一般病棟に移ったペネロペ・クルスにベン・キングズレーがよりそう。ベッドの上で体をよりそわせる。かなしく、けれども、こころが落ち着く。そのせつない美しさ。悲しいけれど、ほんとうに美しい。愛は、こんなふうにしてかけがえのないものになる。



 ペネロペ・クルスの若い表情、その目の力強さが魅力的だ。長い髪で顔を半分隠した表情と、髪を切ったあとの、すべてをさらけだす顔の美しさ。その対比にはっとさせられる。その肉体も美しい。ベン・キングズレーの快楽主義の男から少年への変化も、とても純粋な気持ちにさせられる。
 すべての映像に「節度」というものが感じられ、それも気持ちがいい。感情のおしつけがない。
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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(6)中井久夫訳

2009-01-31 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
本質的な   リッツォス(中井久夫訳)

彼はボタンをコートに縫いつける。
不器用な手つき。太い針。太い糸。
彼の独り言。

パンを食べたか。よく寝たか?
しゃべれたか。腕を伸ばせたか?
忘れずに窓から外を見たか?
微笑したか、ドアを叩く音を聞いて?

叩く音が間違いなく「死」でも、死は二着だ。
一着はつねに自由である。



 この作品も「意味」が強い。「思想」が強い。言いたいことは最終連の2行である。死を恐れない。自由を求める。そういう強い意志を語っている。
 その部分よりも、私は書き出しの3行が好きだ。ことばになってしまった「思想」よりも、ことばにならない行為の中の「生き方」が好きだ。不器用であっても、自分のことは自分でする。そこにこそ「自由」がある。太い針、太い糸は「不器用」にあわせて彼が選びとったものである。そういう選びとり方にこそ、ほんとうの思想がある、と私は思う。そういうものを短いことばでぱっとつかんで放り出すリッツォス。
 そして、同時に、そうした時代を生きる不安を、「本質」とからめながら書いた2連目もいい。食べる、寝る、しゃべる。それはたしかに人間の基本的なことである。基本的なことをできるのが自由である。そのあとに、二着に「死」がくる。


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秋元炯「禿頭譚」

2009-01-30 11:05:40 | 詩(雑誌・同人誌)
秋元炯「禿頭譚」(「波」19、2009年01月15日発行)

 秋元炯「禿頭譚」には「ストーリー」がある。といっても、むちゃくちゃな(?)ストーリーである。

すでに冷帯となって空中を浮遊していた私が
下を見ると
私の体は台の上に横たえられ
白い衣に全身を包まれていた
手首と足首には花も飾りつけられている
台の周りには
数人の男女がひざまずき
さらに私の体を飾りたてようとしている
そんなにしたって どうせこの頭じゃあと
上の方に回ってみると
なんと
頭は偽物の茶髪にふさふさと覆われていた
こんなことをして
いったいどんな意味があるのか
供え物にでもされてしまうのか
そう思った瞬間
ギロチンの刃が何十枚も落ちてきて
死体はたちまち肉塊の山となってしまった
これはまた
鰐に食わせる餌でもあるまいし

すると
急に鰐が池に現れ
作業服の男が
肉塊をつぎつき鰐たちのなかに投げ入れる

 鰐が卵を産み、子供が産まれ、人間になって、少年が青年になり恋をして……という具合に、このあとはつづいていく。
 こういう展開のなかに、ふいに、感想(?)がはいってくる。その部分が私はとても気に入った。
 思春期になった少年。

少年は女の子の後を追い回したり
物陰からそっと覗いたりしている
そうか 女の子を追い回す頃になると
汚らしくなってしまうのか
どうせ追い回すのなら
小ぎれいな方がいいと思うのだが
そうはうまくいかないらしい

 「ストーリー」は次々に、うまいぐあい(?)に展開していくが、それは傍から見ていてそう感じるだけで、それを経験したものには「うまくいかない」というのが反省としてある。これはしかしあくまで「反省」であって、その当時はもちろんそんなことは考えない。そんなことに気がつかない。
 どんなことでも後から気がつく。後から、いろいろ思うものである。そして、そのいろいろ思うことは、たいていが独特な感想ではなく、一般的な感想である。だれもが思うことである。その、誰でも思うことが、不思議な「ストーリー」のなかに紛れ込む。それがおもしろい。不思議な「ストーリー」だから、そこでは不思議なことを考えるかというと、そうではなく、ごくふつうのことを考えるから、逆に「ストーリー」が不思議になっていくのである。不思議、奇妙さが際立っていくのである。
 そして、そのストーリーの不思議さ、奇妙さが際立ってくれば来るほど、あ、秋元は、ストーリーの奇妙さではなく、ストーリーの奇妙さに紛れ込ませる形で、ふつうのことを書きたかったんだな、とわかる。
 ふつうのことというのは、実は、いつでもどこにでもある「永遠」のことでもある。「永遠」を自然な形にして書くために「不思議なストーリー」、おかしなおかしな「ストーリー」が利用されているのである。
 そういう思いで、もう一度詩を読み返すと、たとえば遺体を花で飾るというようなことも、実は「ふつう」のことである。禿をさらすのも、隠すのも「ふつう」のことである。禿をさらすと隠すとではまったく正反対だが、その正反対が同時に「ふつう」になってしまうのが、「いのち」の「永遠」というものである。
 鰐に餌をやるというのも「ふつう」のことである。どんな奇妙なことのなかにも、いのちの「ふつう」が隠れている。というか、「ふつう」のことが人間の行動を支配している。「ふつう」をはみだしては、なかなか生きられない。

 こういう構造は、天沢退二郎の「譚」にも共通する。ただし、天沢は「ふつうの感想」を書くためではなく、ことばの運動のエネルギーそのものを浮かび上がらせるために書く。天沢が書いているのは、人間の「ふつうの思い=永遠」ではなく、ことばそのもののもっている「永遠=自律して運動してしまうエネルギー」を書いている。天沢の詩では、ことばのエネルギーそのもののがテーマなのである。北川透の場合もそうである。ことばのエネルギーを引き出し、自律させるための詩--それを「現代詩」と定義できるのだが、その定義からすると、秋元の詩は「現代詩」とは少し違う。少し違っているけれど、少し違っていて、それがいい。
 人間の「ふつう」に触れると、こころがとてもやわらかくなる。
 

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堀内幸枝『堀内幸枝全詩集』

2009-01-30 09:16:27 | 詩集
堀内幸枝『堀内幸枝全詩集』(沖積社、2009年01月10日発行)

 私は堀内幸枝のことをほとんど知らない。堀内幸枝の名前と作品を知ったのは『九月の日差し』(思潮社)からである。この『全詩集』のなかでは最後におさめられている。それ以前の作品はどれもはじめて読むものばかりである。
 「市之蔵村」という作品。その書き出し。

私は秋の日のよく照つた山林から
村を眺めてゐた
村の景色は小さく遠ざかつて
青い川と白い村道に綴られ
寄り合ひ染り合つて
屋根ばかり地に落ちた
平面図であった

 この1連目の3行目「村の景色は小さく遠ざかつて」の「小さく遠ざかつて」がとても好きである。これは単に山から村を眺めてた「小さく」見えた、ということではない。小さいだけではなく、それは「遠ざかつて」いる。「小さい」よりもさらに「小さく」なっているのだ。
 なぜか。
 堀内は、そこに見える風景を見ているからではない。そこにある風景を「文学」として見ているからである。「ことば」として見ているからである。「ことば」で再構成して見ているからである。そのとき、「小さく」はひとつの「理想」である。「小さい」ものはかわいらしく、きれいである。堀内は、自分の暮らしている村を「小さく」することで、一種の「メルヘン」のように仕立てている。その「メルヘン」は、村の設計図とともに姿をあらわす。
 1連目の「平面図」を受けて、2連目には「立体図」が登場する。

我が胸に湧く今年の村の貧しさ
一粒の繭(まゆ)もない繭置倉庫は
がらんとしてあの壁の落ちた共同穀蔵
村の景色は薄暗い立体図となつて
胸の内に組み立てられる

 それは現実の村というより、あくまで「胸の内」の村である。「我が胸に湧く今年の村の貧しさ」の「胸に湧く」が、そのことを明白に語っている。それは、堀内にとっては切実な「肉体」の問題ではなく、あくまで「胸の内」の問題である。「思い」の問題である。だから「メルヘン」というのである。
 貧しさはこころをこころをかきたてる。貧しいゆえに、それを清らかにかえる。村に生きるいのちを美しくする。貧しさに耐えて生きる力に、堀内の「胸」は共感しているのである。
 これはある意味では「無責任」かもしれない。たぶん、貧しさとは縁遠い場で堀内は暮らしているのだろう。そういう一種の苦労知らずの美しさが、堀内のことばにはある。村で暮らしているひとにとっては、生活は「平面図」「立体図」ではないが、堀内はそれを「平面図」「立体図」という、一度、「頭」をくぐり抜けたものとして眺めている。
 堀内は、そういうことを自覚している。最終連。

私はこの市之蔵村に育ち
自分の廻りがなんとなく淋しい時
山へ登つて村をながめる
貧しいから瓦も白壁もない
何時までも残された藁屋根の色と
この空のまぶしい田舎のやさしい遠景を
子どもの日からこう一人で見てゐるのが
好きであつた

 この詩には「昭和十三年頃は農村の不況時代であっこ」という「注」がついている。そのころ、つまり堀内が20歳前に書いた作品だろう。その当時から「子どもの日から」というのだから、貧しさと無縁というのが堀内の「ひとがら」でもあると思う。
 これは悪いことではない。むしろ、いいことである。ことばが貧しさに傷ついていない。すこやかである。それが「村」を明るいものにしている。
 書き出し1連目にもどるが、

青い川と白い村道に綴られて

 この1行は、とても美しい。貧しさを拒絶して、純粋に輝いている。こういう清らかなこころの時代をもっているというのはとても貴重なことであると思う。


 



不思議な時計―堀内幸枝第二詩集 (1956年)
堀内 幸枝
ユリイカ

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(5)中井久夫訳

2009-01-30 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
パノラマ   リッツォス(中井久夫訳)

ハタンキョウの樹の列。
彫像の列。
雪をかぶった高い山。
墓の並び。
ハンターがオリーヴの幹に穿った孔。

晴れやかな美と晴れやかな果敢なさは
姉と妹のように矛盾し合う。
生の果敢なさと、死の果敢なさとは
まるごと矛盾する。

霊柩車は
ハタンキョウの花を載せて
通って行った。
彫刻は窓越しに
外を見張っていた。



 「廊下と階段」は死の色濃い詩集である。(中井が訳出している詩しか知らないのだけれど。)それも、天寿をまっとうしたという死ではなく、人生の半ばで死んで行った死。そういう死への追悼にあふれている。
 一方に変わらぬ自然がある。非情な自然がある。人間の作った「芸術」(彫刻、彫像)という非情もある。そのふたつの非情の間で、人間は生きている。これは、たしかに「矛盾」である。自然の美しさも、自然の美しさも、人間が「美しい」というから「美しい」。その「美しい」という人間だけが、そして死んで行くのである。自然も芸術も死ぬことはない。
 この矛盾を、リッツォスは「果敢なさ」と定義している。

 人間は、自分の人生をより「美しく」生きようとして、死んで行く。「美しく」生きようとすればするほど早く死んでしまう。それはたしかに「美しい」のだが、その「美しさ」は当人にはわからない。死んでしまうのだから。この矛盾。矛盾という形でしか定着しない真実--それを「果敢なさ」と定義しているように思う。

 きのう紹介した「軽率に・・・」で、その作品を「論理的」ということばでとらえたけれど、この詩集には、とても論理が強く動いている。感性よりも理性の方が強く動いているように感じられる。


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小池昌代、林浩平、吉田文憲編『生きのびろ、ことば』

2009-01-29 11:18:48 | 詩集
小池昌代、林浩平、吉田文憲編『生きのびろ、ことば』(三省堂、2009年02月05日発行)
 詩人たちの、詩に関する(あるいは、ことばに関するというべきなのか)エッセイである。そのうちの、小池昌代の「言葉以前」にちょっと不思議な文章があった。中年になって、自然に目が向くようになった。自然は、ことばをもたない、と書いたあと。

 たとえば、夏の朝、朝顔が三つ、四つ咲いているのを見ただけでも、わたしはうれしい。ほんとうにうれしい。最初は、そんな自分の感情にとまどった。なんとババ臭い現象だろうと。でも飽きない。ほんとに飽きない。携帯電話はじっと見つめていられないけれど、朝顔というものは永遠に見つめていていいといわれたら、できそうな気がする。それは生命というものが変化するから。
 そこには何の言葉も介在しない。ダイレクトに、わたしと朝顔の命が結びついている。世界にそのように感応したとき、これはわたしの癖かもしれないが、その経験を、言葉に置き換えておきたいという欲望が生まれる。

 私は、とても違和感を感じた。小池と私は同一人物ではないから違う感じを持って当然なのだが、一か所、不思議でしようがない文がある。

携帯電話はじっと見つめていられないけれど、

 え、そうなんだ。そうなのか? どうして? と思わず私は声に出してしまった。
 私も自然を見つめるのが好きである。小池が書いているようにことばを持たないからである。私が何度も書いてきたことばを繰り返せば、自然は「非情」だからである。人間が何を考えているか、少しも考えてくれないからである。人間のことなど少しも配慮しない。自然はわがままに生きている。私が悲しかろうがうれしかろうが、そんなこととはかかわりなく勝手に生きている。
 そして、私にとっては、携帯電話も同じように非情である。携帯電話は何にも考えていない。私のことなど何の配慮もしない。私は、こういうものは、いつまでも見つめていることができる。
 私がじっーと見つめていることができないもの、それは人間である。あるいは、ある種の動物である。私も反応するけれど、相手も反応する。これは、面倒くさい。見つめていることができない。ことばをつかわなくても、ことばが行き来する。ことばをつかわないときの方が面倒くさい。ことばにならない分だけ、よけいに何かが行き来する。ことばにするときは、なんといっても「話すスピード」に限界がある。ところが、ことばを「声」にしないと、それはとんでもないスピードで動いてしまうし、とんでもない飛躍もする。実際にことばをかわすと、飛躍すると、「飛躍だ」「矛盾だ」と批判がかえってくるが、ことばにしないと、それはまったく無軌道にどこまでも動いてしまう。これは面倒くさい。
 私が自然が好きなのは、そういう無軌道なことばを自然はいっさい配慮しない点である。反論しない。肯定もしない。「勝手にしたら」とでも思っているのかもしれないが、その無反応、無配慮が、なんというのだろう、こころをさっぱりと洗ってくれる。
 これは携帯電話も同じである。私のことばに反論もしなければ肯定もしない。さっぱりしたものである。携帯電話に限らない。机や椅子、鞄、手袋もマフラーも同じである。私には、自然と人工物の区別がない。どちらも見ていて飽きない。いつまでも見ていることができる。それはことばをもたない。もたないゆえに、いつでも私のことばを洗い流してくれる。

 小池は、自然(朝顔)は「生命が変化する」と書いている。それはそのとおりだと思う。一方、私には携帯電話も「生命が変化する」と感じてしまう。人間の作ったあらゆるものは、「生命が変化する」。それは草木のように枯れて死んで行くという形はとらないかもしれないが、動かなくなったり、つかわれなくなったりして、無用のものとなる。無用のものとなったあとも、やはりいのちは変化しつづけているのだが、その変化を測る尺度が人間の「いのち(寿命)」を測る単位と違うから見えにくいだけなのだと思う。携帯電話などの人工物にとって「いのち」というのは2種類ある。ひとつは、存在そのものの「寿命」。もうひとつは、それをつくったひとの「思い」。いずれも人間の「寿命」を測る単位とは違っているので、なかなか見えにくい。
 いいかえれば、携帯電話は、やはりことばをもたないけれど、それは私と直接かわすことばをもたないというだけであって、そこには「ことば」がある。それをつくりあげた人間の「ことば」がある。自然(朝顔)も、自生のものではなく栽培しているものだったら「ことば」をもっているかもしれない。つまり、それを育てた人の「思い」というものをもっているかもしれない。栽培された草花よりも、野に咲く花々の方がさっぱりしていて、さびしくて、気持ちがいいのは、それらは人間の「思い」とは無関係に生きているからだろうと思う。

 そして、とても不思議なことだけれど。あるいは、いままで書いていることと矛盾してしまうかもしれないけれど。
 私が自然や携帯電話をいつまでも見つめていることができるのは、そこには私のつかっていることばとは違っていることばが「いのち」として存在するからである。はじめて聞く外国語のように、それは何を言っているかさっぱりわからない。そういうとき、人間は、聞こえていても聞こえていないことにする。私の方から「無関係」をつくりだしてしまう。「無関係」をつくりだしても、自然や携帯電話はいやな顔などしない。そこがいい。そして、ふとした瞬間、その私からの「無関係」と、自然・携帯電話からの「無関係」が出会ってしまって、突然会話することがある。それはナンセンスな会話である。それまでの私の思いとは無関係、それまでの自然・携帯電話の思いとは無関係。どこにも「根っこ」がない。ほんとうはあるのかもしれないけれど、とりあえず、そんなものはない。無意味なもの。そのことば--そこに、私は詩があると思う。私から「無関係」になってしまったことば--それが詩だと思う。



 伊藤比呂美は「まじない」という文章を書いている。このエッセイはおもしろかった。ことばを書いていて、それがかってに動いていく。「まじない」というのは科学的ではない。いいかげんなものである。そのいいかげんなところ、つまり、はっきりと解明されていない部分に、「いのち」を受け入れてくれるものがある。
 詩の朗読会での体験。

 わたしは不穏な、霊的な舞台にしゃがみこんだ。祖母が廊下を拭きあげるような姿勢であった。うつむいて、声は閉じ、意識を集中させた。すると(以下、冗談をいっているのではありません)目の前にことばのうずが見えた。それをつかんで自分の中に取り込んでみたら、ことばが勝手にふくれあがって、自分の声でない声が出ていった。声はことばに、ことばは力になり、わたしから出ていって、人々につかみかかった、ところまでは見た。それからどうなったか。

 「わたしから出ていって」。こういう現象を私は「無関係」という。「出て行かない」とき、それは「関係」そのものなのだ。私から出ていってしまえば、それが何をしようが、それは伊藤とは関係ない。関係がないから「それからどうなったか」はわかりっこない。たぶん、わかったら、詩ではなくなってしまう。
 詩はあらゆる「無関係」のなかにある。



 平田俊子の「悩める東京タワー」は、ことばが「無関係」になるまでをだらだらと(?)、どこまでもまじめにまじめにまじめに書いたものである。そういう意味で、エッセイではなく、詩である。平田の中からことばが出ていって、平田から独立してしまう。そこにはもちろん平田の感受性だとか思想だとかがあるのだけれど、まあ、関係ない。ナンセンスである。そして、無関係だから、「笑い」がある。笑いは硬直した「関係」をたたき壊すものである。




生きのびろ、ことば
小池 昌代,吉田 文憲,林 浩平
三省堂

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(4)中井久夫訳

2009-01-29 00:39:25 | リッツォス(中井久夫訳)
軽率に   リッツォス(中井久夫訳)

古代の壁の後ろ、
壕の穴をすかし、
石の位置のずれが作った穴をとおして、
死者たちは
物質にかえった眼を見開いて
眺めていた、
若いハンターが
円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。

だから、人生が嘘を吐くなら
死も嘘を吐くのさ。



 墓地。若いハンターがオシッコをしている。それを、「死者」の視線で描いている。墓の蓋がずれている。そこから「死者」が見える、というのではなく、「死者」が、若いハンターがオシッコをするのを見ている、と。
 若いハンターはオシッコをしたということを認めないだろう。つまり、嘘をつく。そうであるなら、死者もまた嘘をつく権利を持っている。若いハンターがオシッコをするのを目撃したと。死者に口なし、などということはない。死者は口をもっている、という嘘をついたってかまわない。
 --論理的には、そういう構造の作品である。

 詩はしかし論理ではない。論理をおもしろがっても仕方がない。
 この詩は、「円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。」を起点にして、大きく転換する。その転換点として「オシッコ」という「俗」が存在するということだろう。
 リッツォスは何度も「俗」と「聖」をぶつけ合う。「俗」と「聖」がぶつかるとき、笑いの中でその両方が輝く。両方もっているのが人間の「いのち」のありかたなのだ。リッツォスは、その両方を肯定している。


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アーサー・ビナード、木坂涼「詩のジャングル」

2009-01-28 22:50:50 | 詩(雑誌・同人誌)
アーサー・ビナード、木坂涼「詩のジャングル」(「朝日新聞」2009年01月28日夕刊)

 今回、アーサー・ビナード、木坂涼が取り上げているのは、エリザベス・ロバーツの「ミルクしぼりたて」。とてもおいしそうだ。しぼりたての牛乳が飲みたくなる。前半の2連。

もうすぐ夕飯。でも、もうすぐって
いわれても、わたしは待てないの!
そんなときはマグカップもって
坂をくだって、牛のいる小屋までいくの。

牝牛(めうし)さんはその時間、トウモロコシの皮を
むしゃむしゃ、口の横からはもしゃもしゃ
こぼしてる。やさしい紫(むらさき)色の目は大きくて
いつもふわらーと全身、ミルクの匂(にお)い。

 この詩の魅力は「オノマトペ」である。英語と日本語では「オノマトペ」は同じではない。原文がどうなっているか知らないが、「オノマトペ」の翻訳はとても難しいと思う。(難解な学術語の方が定義が明確だし、用法が決まっているから、なれれば簡単だろう。)
 少女の空腹と、牛の空腹が重なり、むしゃむしゃ、もしゃもしゃという音の後、

ふわらーっと

 これは何だろう。もちろん食べる音ではない。でも、なんだか食べている感じ。何を食べる? 匂いを食べるのだ。「匂いを食べる」なんて日本語はない。「匂いにつつまれる」と「正しい日本語」は主張するだろう。でも、つつまれているだけじゃない。つつまれた瞬間から、つつまれたことを忘れ、それを自分の中に取り込んでいる。つまり「食べている」。そして、食べた幸福で、からだが「ふわらーっと」広がっていく。
 いいなあ。
 詩はこのあとも続くが、幸福なオノマトペがつづく。

 アーサー・ビナード、木坂涼は、こういう「幸福」な詩の天才である。



日本語ぽこりぽこり
アーサー・ビナード
小学館

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ファティ・アキン監督「そして、私たちは愛に帰る」(★★★★★)

2009-01-28 11:43:20 | 映画
監督 ファティ・アキン 出演 バーキ・ダヴラク、ハンナ・シグラ、ヌルセル・キョセ、トゥンジェル・クルティズ、ヌルギュル・イェシルチャイ、パトリシア・ジオクロース
 脚本がとてもすばらしい。
 ドイツに住むトルコ人とドイツ人。三つの家族が偶然関係を持ってくる。大学教授をしている息子の父は娼婦と出会う。その娼婦と暮らしているとき、ふとしたはずみで娼婦を殺してしまう。息子は、その娼婦の娘に母の死を知らせるためにトルコへ行く。一方、トルコの娘は母を探しにドイツへ来るが会えず、もぐりこんだ大学でドイツの少女と出会う。トルコの娘は不法入国が発覚し、トルコに強制送還される。その娘を追ってドイツの少女はトルコに行く。そして娘の依頼から銃を手に入れるが、その銃で殺されてしまう。悲報をきいてトルコへやってきた母は、大学教授と出会い、また、トルコの娘とも合う……。
 こうした映画の場合、「偶然」が「偶然」ではなく、何か作為(わざと)という感じでつながってしまうものだが、この映画はあくまで「偶然」におしとどめている。「偶然」が完全に結びつく寸前で、それをつなげない。観客にはその関係がわかるのだが、登場人物たちはあくまで完全な「円環」を知らない。そして、知らないまま、いま、そこにある関係以上のものを手さぐりする。つまり、「愛」を手さぐりする。ひとはひとを愛し、受け入れる、ということを手さぐりする。その手さぐりの感じがとてもいい。
 脚本の抑制されたストーリーの運びが、じっくりと、その手さぐりの感じを浮き立たせている。
 こういうことが成功するのは、脚本だけではなく、演技陣の力も作用している。脚本を読めば、それぞれの家族がほんとうは深くつながっているということは役者にはわかる。わかるけれども、それを知らない感じで、知っているのは自分の家族、自分の目の前に起きていることだけ、といういわば近視眼(?)的な雰囲気で演技をする。この感じ、とても自分の問題を超えてまで、深く物語のなかへはいってはいけないという感じがとてもいい。
 またカメラの力もすばらしい。役者が自分のことで手いっぱいなのを補うように、カメラはそのまわりの偶然を何気なく取り込んでしまう。三つの家族がそれぞれ真剣なのに、そのまわりでは、そういう思いとは関係なしに世界が存在している。それをとてもしっかり捉えている。
 ファーストシーンとラストシーンにそれがとても象徴的に表現されている。
 ファーストシーンはガソリンスタンド。大学教授がガソリンを入れるために立ち寄る。そのとき、スタンドのそばを犬がうろついている。なんの目的もないように、ふらりと動く。その動きを利用してカメラがガソリンスタンドに移動する。そこから物語がはじまる。
 ラストシーンは、その息子が、釣りにでた父を浜辺で座って待っている。海が荒れはじめたから、もうすぐ帰って来るだろう、と気長に待っている。そのとき風にあおられたビニール袋が転がってくる。画面の左手から右手へ。波打ち際まで行って動かなくなる。その様子をただ淡々と映している。父はまだ帰って来ないが、息子はただ座っている。そこでこの映画は終わる。
 犬もビニール袋も「不純物」である。物語にはなんの関係もない。なんの「伏線」にもなっていない。ただそこにあるだけである。それを自然にとりこんでいることろがすばらしい。そういうものをとりこむカメラがすばらしい。
 考えてみれば、私たちの周りには、そういう「不純物」というか、その人が生きていることとは無関係に存在するものがあふれている。私たちは、それを無意識のうちに視界から(意識から)除外している。しかし、除外しても、それがなくなるわけではない。そういうもので世界は成り立っているのだ。
 この映画のなかには、いくつかの愛が描かれる。そして、その愛は、あるときは「不純物」に見える。たとえば父親の娼婦に対する愛。それは息子から見れば一種の「不純物」である。またドイツの少女がトルコの娘によせる愛も、母から見れば「不純物」である。けれど、その「不純物」の愛、その情熱は、たとえば父親が息子に対してそそぐ愛、母親が娘に対してそそぐ愛とつながっている。こころの動きは同じなのだ。「無償」ということでは同じなのだ。
 映画は、イスラム教の「犠牲祭」のこととからめて、ふつうの(つまり神に選ばれたものではない人間の)愛を形を描いているのだが、そういう「純粋」だけでは捉えられないものを、カメラの視線をとおして具体化している。
 人間は、かなしい。けれど、かなしいって、いいなあ、と思う。かなしいから生きているんだなあ、と思える。そういう映画である。
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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(3)中井久夫訳

2009-01-28 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
虚ろな中で   リッツォス(中井久夫訳)

石の上に水が落下しつづける。
冬の陽の中での水の音。
独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。
言いたいことは?ころは何か?
どんな肯定が言いたいのか?
高い空からつぶてのように
駐車したバスの上に落ちつつあると。
観光客満載のバス。
何世紀も前に死んだ客たち。



 どんなことばも「時代」とともにある。その「時代」がわからないと、ことばの悲しみがわからない。私はリッツォスの生きたギリシャのことを知らない。「時代」を知らない。だから、この作品のことばのほんとうのところはわからない。
 ほんとうのところはわからないけれど、最終行の「死んだ客」ということばの、「死んだ」という修飾語にリッツォスの悲しみと怒りを感じる。「死んだ」はほんとうは「殺された」であろう。「肉体」は生きている。「精神」も生きてはいるのだが、それはかろうじて悲しみを、絶望を生きているにすぎない。だから「死んだ」と修飾せずにはいられない。悲しみ、怒り以外にもし生きているものがあるとすれば、そういう状態を「死んだ」と修飾する理性である。
 もっとほかの生き方があるのはわかっている。わかっているけれど、それを実現できない。そのとき、人間を「虚ろ」がつつんでしまう。そういう状況でリッツォスは世界を眺めていることになる。

独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。

 リッツォスは、その一羽の鳥である。

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アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)、今村秀雄「葡萄の蔓の下で」

2009-01-27 09:19:55 | 詩(雑誌・同人誌)
アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)、今村秀雄「葡萄の蔓の下で」(「coto」17、2009年01月24日発行)

 アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)の文体は変わっている。一読すると、散文には感じられない。一つ一つの文が独立して拮抗している。いや、一つ一つの文どころか、句点「。」でくくられた一つの文の中でもことばが対立している。そのために散文を読んでいるという印象がない。こんなむちゃくちゃな文章は詩である--というと、詩に叱られるか……。
 次のような感じなのだ。

 彼の季節は秋。クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。葉のない木はひときわくっくりしてひときわ真摯である。空間へ食い込みながら。風にあおられる木。神経はこれまた木である。たとえ盛夏であっても人間の内部には秋の木がある。

 何がいいたい? 要約できる? 私には要約できない。つまり、これは散文ではないからだ。詩だからだ。詩は要約不能のことばである。そのまま受け入れるしかないことばである。「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」って、どんな色? ことばのスピードが速いので、読んでいて、何かを感じた気持ちになるが、きっとことばのスピードを感じているだけで、ほかは何も感じていない。何も理解していない。(少なくとも、私は。)
 こうしたことばが詩であるとき、その「思想」はどこにあるか。どのことばがアレクサンドル・ウラノフの「思想」であるのか。
 「思想」はいつでも、「肉体」としてあらわれる。その「肉体」を私は「これまた」ということばに見る。「神経はこれまた木である。」それは必然的に紛れ込んだことばである。「神経は木である」と「神経はこれまた木である」とでは、「神経=木」という「意味」は同じである。しかし、そこにつかわれていることばが違う。一方は「これまた」ということばが多い。そういう「余分」なことばが「肉体」であり、「思想」である。「これまた」ということばを通らないと、ことばは「頭」まで行ってくれないのである。人間が必然的に迂回してしまう「ことば」を私は「思想」と呼ぶ。そして、そういうことばは、ほんとうは随所にある。そして、どうしてもそれを書かないとことばがつながらないときにだけことばとして姿をあらわす。それまでは隠れている。
 たとえば、「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」は「思想」のことばを迂回すれば、

クリーム色であり(これまた)赤黄色であり(これまた)暗褐色である。

 なのである。
 「これまた」を
アレクサンドル・ウラノフは別なことばでも置き換えている。(たなかあきみつは別なことばで翻訳しなおしている。) その部分。

 緊張し金縛りになり機能不全である--と同時に剥き出しである。

 「と同時に」は「これまた」と同じである。先の文章は、

クリーム色であると同時に赤黄色であると同時に暗褐色である。

 になる。これは、どういうことか。簡単に言えば、アレクサンドル・ウラノフはシーレを一つの基準で生きている「単純さ」で理解しようとしているのではなく、複数の時間を生きている人間として把握しようとしているということである。「複数の時間」を生きる画家がシーレであり、シーレに複数の時間を生きるようしむけるのがアレクサンドル・ウラノフなのだ。
 それは、つぎのように言い換えられもする。

こうして人間ははじまる、開くものにして開かれるものは。

 人間は開くものである「と同時に」開かれるものである。人間はひらくものであり「これまた」開くものである。ここにアレクサンドル・ウラノフの特徴がある。「複数の時間」は単に複数であるだけではなく、反対の「時間」なのである。対立する「時間」なのである。
 私のがこれまでつかってきたことば(このブログで何度もつかってきたことば)でいえば、「矛盾」した時間を「同時に」生きるのが人間である。その「矛盾」を通り抜ける(あるいはつなぎとめる)ことばが、「と同時に」なのである。

 詩は、いつでも「矛盾」をただ組み合わせる。それを止揚して別の次元にもっていこうとはしない。それを別の次元へもっていくのは読者の仕事であって、詩人の仕事ではない。詩人は、ただ「矛盾」を平然と「矛盾」のまま提出するだけである。「矛盾」を「矛盾」のまま提出できる天才を詩人というのである。
 アレクサンドル・ウラノフは、「矛盾」を「矛盾」のまま書きつらねてエゴン・シーレを詩として出現させているのである。彼の文章は、私にはシーレの絵よりもおもしろい。



 今村秀雄「葡萄の蔓の下で」は「よい友だちであるために、わたしはあなたと毎日セックスするわ。」ではじまる。その最後の1行がとてもいい。

 わたしはいつもあなたとセックスをする、用意をして濡れているわ。

 その途中にはさまれた読点「、」--それが、実は、引用しなかった部分である。一気に言ってしまえないものが、読点「、」のなかにつまっている。「、」があってもなくても「意味」は同じである。けれど、今村は「、」を書かずにはいられない。そして、ほんの一息の「、」をわたるためには沢山のことばがいる。沢山のことばをつかっている。ばかげたことかもしれないけれど、そのばかげた部分が「思想」であり、「肉体」だ。そこを渡らないことには、ことばは永遠にことばにならない。その、ことばの「無駄遣い」が詩である。
 詩は流通はしない。ただ無駄に浪費されるのである。無駄遣いをする喜び、無駄をしないことには生きていけないという「矛盾」--詩は、そういう矛盾があるから楽しい。

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(2)中井久夫訳

2009-01-27 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
逃げられぬ・・・    リッツォス(中井久夫訳)

裏通り。通りの向う側。非常口が並んでる。
壊れた植木鉢。割れた水指し。
犬の死体。虫の死骸。死んでいる銀蠅。
金物屋たちがオシッコをしてる。肉屋も。旋盤工も。
こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。
星たちは叫ぶ。みんないなくなってしまうみたいに--。
銅像のことは二度と俺に言うな。そう彼は言った。我慢ならぬ。わかったか。
もう言い訳は利かぬ。下の大きな地下室では
やせた女たちが細長い腕でボイラーの煤を集めて、
さて、塗りたくる。自分の眼を、歯を、台所の戸を、水指しを、
こうすると見えなくなると思って、いや、目につかないくらいにはなると思って。
だが、彼らが壁に身をすりつけてひそかに出入りしても、
柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。
黄色い草むらの中で探照灯がくっきり照らし出す。



 短い単語を積み重ね、状況を描写する。しかし、説明はしない。この説明を拒絶した文体がリッツォスの魅力のひとつである。それは良質の映画のようである。いや、良質な映画がリッツォスの詩に似ているのである。
 「もの」にはそれぞれ「物語」がある。「時間」がある。そして、その「物語」「時間」は「もの」と「もの」との出会いで、一定のものが浮かび上がってくる。たとえば「裏通り」「非常口」「壊れた植木鉢」。そたには、隠れされた「物語」がある。人目にさらすことのできない「物語」というものがある。そこでは「オシッコ」をする人間もいる。見せるためではない。隠れた「暮らし」である。
 そういう状況を描写したあとで、人間が動き出す。そこでは、どうしても人間は隠れた動きをする。隠れた動きをするしかない「時代」なのだ。隠れても隠れても見つけ出されてしまうが、それでも隠れて暮らすしかない悲しみ。
 そうしたことばのなかにあって、

こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。

 がとても美しい。チェホフの短編だったと思うが、泥棒が跋扈しているとき、星が美しく輝いているという描写があった。泥棒に脅える人々。泥棒。そういう人間とは無関係に(非情に)、星は輝く。そこに宇宙の美しさがある。その絶対的な美しさをこどもは無意識にかんじとってしまい、脅える。
 同じように、

柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。

 もとても印象的だ。「鏡」の非情さ。何もかも映し出してしまう非情さ。人間は、そういう非情なものといっしょにくらしている。非情さが人間のかなしみを洗い清める。

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財部鳥子「帰郷」、楡久子「芙蓉の舌」

2009-01-26 11:01:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 財部鳥子「帰郷」(「さよん・Ⅲ」4、2008年10月20日発行)は中国の、かつて住んでいた街を訪れたときの詩である。「帰郷」というのは、そこが彼女にとっての忘れがたい生活の場だからである。だから、生活がていねいに描かれている。特に1連目。

練ミルク缶に開けた二つの穴に
はりつけた紙のきれはしも砂で汚れて
 故郷は 耳の穴までザラザラした

 黄砂の降る街。「練ミルク缶に開けた二つの穴」という具体的な描写がとてもいい。二つ穴を開けるのは、一方から空気を入れ、ミルクの流れをよくするためだが、そういう生活の工夫をていねいに書いているところがいい。ことばが、しっかりと「時代」を呼び込んでくる。開けた穴には、穴からほこりが入らないように、穴に紙をはりつけている。その工夫の描写もいい。いまならラップで覆うか、プラスチックの丸いふた(缶全体を覆う)をつかうだろう。いまとは違う「時代」(時間)が、「故郷」にはそのまま残っている。
 それを財部は「肉体」として感じる。
 「缶の穴」と「耳の穴」。二つの穴を描くことで、練乳の缶は「肉体」そのものとして、つまり缶を開け、ミルクをそそぎ、そのあと穴に紙をはって、という手の動きとして、よみがえってくる。そこには甘さの味覚、べたべたした感触、さらにはどうにもこびりついてとれない不快感というような、「肉体」の体温が混じっている。
 そういう根強い「過去」の具体的な時間があるから、財部は「いま」の「満州」(中国東北部)に対して違和感を覚える。「故郷」は財部のしらない「時間」へと生まれ変わっている。「いま」と「過去」が財部の「肉体」のなかで出会い、離れる。
 それが2連目以降。

街には黄砂がたちこめて何も見えない
黄砂が立ち去っても多分見えないだろう
 なぜなら街は滅びたらしいのだから

街口の満州航空ビルは廃屋
憲兵隊本部はいまは合江地区裁判所
 シベリア毛皮店は空き家です

我が家はいつのまにか合江第一旅社
三江劇場は崩れて砂と古材で満杯です
 久しぶりに帰った旧いさびしい移民地よ

乾いた唇には薔薇色の華陀膏がいいのよ
隣家の老太夫(ラオタイタイ)がわたしの顔を見て教えてくれた
 河だけは やはり街の西を流れている

 最終連に「唇」という「肉体」がふたたび登場する。唇の痛み。そして、それを解消する方法を教えてくれた隣の家の老人。そういうひとひととのつきあい。「わたしの顔を見て」という視線の温かさ。具体性。「時間」。そこには「肉体」がある。だから、なつかしい。
 そして、そういう「肉体」の時間を超越する自然の時間が一方にある。「河だけは やはり街の西を流れている」。この1行の「だけ」にこめた思い、そして「流れている」という現在形。隣家の老人は「教えてくれた」と「過去形」。河は「流れている」と現在形。ふたつの時制が出会うことで、「時間」というものが切なくなる。



  楡久子「芙蓉の舌」(「詩遊」20、2008年10月31日発行)は前半の不思議な肉体感覚にひかれた。

「古い中国の詩を歌にしたんだ。歌ってくれないか」
とあなた。
「河に流れ込む皮は、タオタオ、タオといいながらふやけた
犬の皮を流していった」
そう歌いこむ勢いがついたところで、不規則な金属音。
たおと名付けられたやせた犬が水を飲む音だった。
犬の舌はゆらぎ、水を口に運ぶ。アルマイトの碗の水が減っ
ていく。薄青い芙蓉の舌に見とれて私は、
「川に皮が流れ込む場面に、桃のむけた桃太郎や皮を剥かれ
た梨姫の話も添えてうたいたいの」

 「音」が「意味」にかってに変化していく。同時に「意味」がまったく別のものをひきずりこむ。そのとき、その変化にかかわっているのは「肉体」である。ここでは耳(聴覚)と舌(味覚ではなく、たぶん触覚)がうごめき、そのあとに「見とれて」という視力(視覚)がやってくる。
 あ、いいなあ。
 私はこういう詩を読むと、女性のセックスを思うのである。視覚よりも聴覚や触覚が優先する。私の性的欲望は視覚からはじまるが、女性は(楡はというべきなのか)視覚ではなく聴覚、触覚からはじまる、と思ってしまう。
 セックスは、いろいろな感覚が融合する「場」だが、そういう感覚の融合から、「物語」は逸脱する。最初の目的(?)とは違って、どこまでも逸脱して行く。感覚が遊ぶにまかせてしまう。中国の古い詩は、いつのまにかに日本の童話もまきこんで、他人から見れば何をやっているの?というようなものになっていく。(セックスそのものが、そういうものだろう。本人たちはいいけれど、他人から見れば無様なかっこうである。)

 詩は、つづいてゆく。

レッスンが終わる。
私のいちばん柔らかな場所を掴んであなたは歩く。そうくるか。
そこままずいんだけどな。
なんたって一番柔らかく敏感な場所。
新婚の夫が、揺らして弄ぶので
(もう、いいかげん止めてよ、明日はコンサートよ、これじゃ
あ眠れないわ)
と怒って止めさせた思い出深い箇所よ。
本当に困ってしまうわ、あなた。

 「一番柔らかく敏感な場所」とは「聴覚」の「場」、つまり耳だろう。耳たぶだろう。「新婚の夫」は指で触れたのか、舌で触れたのか。聴覚の場に触覚が責めてくる。その一瞬のあまい感覚。そして、「時間」を超越した「時間」。
 財部の描く「時間」とは違った、「肉体」を超越して、「別の肉体」になる「時間」。つまり、エクスタシー。
 いいものだなあ。「本当に困ってしまうわ、あなた。」か……。




烏有の人―財部鳥子詩集
財部 鳥子
思潮社

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(1)中井久夫訳

2009-01-26 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
一九七〇年、アテネ    リッツォス(中井久夫訳)

この街の通りを
人々が歩いている。
人々が急いでいる。
急いで去ろうとする。(何から)去ろうとするのか?
(どこへ)向かおうとするのか?
私は知らない--顔も
--真空掃除機、長靴、箱--
彼等は急ぐ。

この街の通りを
大きな旗とともに過ぎた
過去の日(思い出す、聞いたものを)。
その時の彼等は声を持っていた。
ちゃんと聞こえる声を。

今、彼等は歩く、走る、急ぐ。
急ぎつつ不動。
列車が来る。彼等は乗る。押し合う。
信号が青から赤に。
車掌はガラスの仕切りの後ろ。
売春婦、兵隊、肉屋。
壁は灰色。
時間よりも高い壁。

彫刻の像よりもものが見られないところ。



 ギリシャの現代史を知っているひとなら、この作品の背景がわかるかもしれない。私はギリシャの現代史を知らない。
 ここに書かれていることばだけを手がかりに言えば、過去にはギリシャの街、アテネを「大きな旗」が通りすぎた。そのとき、人々は声を持っていた。声とは、主張である。いまももちろん主張はあるだろうが、それを声にするひとはいない。だから、何も聞こえない。
 過去にははじめて出会うひとも、みな知り合いだった。同じ目的(同じ主張)を持っていて、顔がわかった。いまは、顔の知らないひとばかりだ。つまり、主張のわからないひとばかりだ。彼らは無言で歩く。急ぐ。
 最後の3行が、とても切ない。
 そこには具体的なことは何も書かれていない。リッツォスのことばは「もの」としっかり結びついたものが多い。「もの」のなかには「過去」があり、「物語」がある。しかし、この3行に登場する「壁」は「過去」をもたない。いや、もちろん「過去」はあるのだが、それは閉じ込められている。その「物語」は現実のなかに溢れ出て来ようとはしない。しっかりと「過去」の扉を閉ざしている。そのしっかり、「過去」をとざしているという感じ、それがわかることが切ないのだ。
 どんな「もの」のなかにも「物語」はあって、それはいつでも、現在を突き動かして未来へゆきたいと願っている。それができず、ただ閉じ込められている。
 「過去」を未来へ向けて解放し、突き動かすことができない--というのは、「夢」を見られないということである。「彫刻の像」は肉眼をもたないが、その作品のなかには「夢」がある。「理想」がある。(それは、作者が託した「夢」であるが。)その「彫刻の像」さえもが見ることのできる「夢」を、いま、アテネを行き来する人々は見ることができない。
 厳しく、寂しい、いま、という時間。

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