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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上亜紀「寒天旅行」

2012-03-31 10:57:54 | 詩(雑誌・同人誌)
川上亜紀「寒天旅行」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 「現代詩手帖」2012年04月号は、「新鋭詩集2012」という特集を組んでいる。川上亜紀「寒天旅行」は、そのうちの一篇。

大阪へ行くために土曜日の新幹線に乗る
<のぞみ>の指定席券を前日に駅で買った
6号車8E 窓側の席で

 という具合に、小学生の作文のように、ていねい(?)にはじまる。

けれどもこのあと近畿地方の積雪のため
<のぞみ>は速度を落とさなくてはならない
新大阪への到着時刻には数分の遅れが出る予定

 うーん、この文体は何? 新幹線の社内放送の文体がそのまままじりこんでいる。いいかえると、ここでは川上自身の文体が動いていない。あるいは、川上の文体は、もともと他人の無機質な文体を受け入れるタイプのものなのか。
 いやだなあ、こういう文体……。

 と、思い、もう読むのをやめようかな、と思った瞬間。関が原の雪の描写、新幹線にはねとばされる雪、窓にはりつく雪の描写があって。

私は座席に座りなおして寒天ゼリーのことを考えてみる
寒天の粉末はゆっくり煮溶かして牛乳と砂糖を加えて
切った果物を並べた容器に流し入れて固める(寒天はさむいのでなんでも固めてしまう)
冬の空の粉末からつくる白いゼリーがぷるぷると震えている
そのなかにわたしも静かに入って暖かくなるまで固まっていてもいい

 あ、おもしろい。
 突然、「過去」が出てくる。書き出しに「指定席券を前日に駅で買った」という「過去形」が出てくるが、これは単なる文法上の時制の問題。私のいう「過去」とは、芝居でいう役者の「肉体」のようなものである。役者というのは「肉体」のなかに「過去」を抱え込んで舞台に登場し、舞台の人間にリアリティーを与える。脚本に従ってことばをしゃべり、時間を動かしていく前に、まず「過去」を「いま/ここ」引っぱりだして見せる。そして、時間を動かすふり、物語を展開するふりをしながら、実は「自分勝手な(つまり役者個人の、という意味)過去」へ観客を引き込む。「あ、○○って、かっこいい。好きだなあ」と、観客をとりこにする。観客は芝居の「物語」を見る一方で、役者の肉体そのものを、恋人のように見つめてしまう。役者がそれまで生きてきた「過去」そのものを抱きしめるようにして、役者を見てしまう。
 それに似た感じが、この5行にはある。
 あ、川上は寒天をつくったことがあるんだ。そうか、川上は寒天パウダー(粉末)をつかうのか。固形のスポンジみたいなのを千切って煮るんじゃないのだなあ。いまは、そういう時代なのか……というような私の「過去」をつき混ぜながら、そのことばを読んでいくのだが。

寒天の粉末はゆっくり煮溶かして牛乳と砂糖を加えて
切った果物を並べた容器に流し入れて固める

 このていねいな手順がいい。レシピみたいでしょ? そのとき、川上の肉体(体の動き)が見えるしょ? いいなあ。これは。これは、いいなあ。
 寒天をつくるとき、わざわざ、それが固まるまでじーっと見つめるものではないけれど、ときどき固まったかな、とつついてみたりする。「ぷるぷる」の具合を確かめてみたりする。
 そういうとき、ふと、寒天のなかで眠っている(?)果物はどんな夢を見ているのだろう--というようなことを、ふと考える。
 だから。

そのなかにわたしも静かに入って暖かくなるまで固まっていてもいい

 と書くとき、そこには「わたし(川上)」と「果物」の区別がない。一体になっている。「寒天」もね。

 そうか。こういう自然な「過去」を描くためには、冒頭の「大阪へ行くために土曜日の新幹線に乗る/<のぞみ>の指定席券を前日に駅で買った/6号車8E 窓側の席で」というようなていねいな手順のことばの動かし方が必要だったのか。
 こんなふうに手順をきちんと(?)踏んで、文体をととのえるのが川上の方法なのかもしれないなあ。

 「過去」をていねいに浮き彫りにしたあと、そこから空想がはじまるが、「過去」がリアルなので、空想もしっかりとことばに定着する。肉体になる。その部分もいいなあ。

宿泊するホテルの浴室の白いタオルと白い石鹸を思い浮かべる
花が一輪飾ってあるといいがそれは造花かもしれない

 「白いタオルと白い石鹸」は月並みかもしれない。あるいは、いまどきは石鹸は珍しいから、川上の泊まるホテルはかなり高級だなあ、なんてどうでもいいことも私は考えたりするのだけれど--こんな具合に私のことばが勝手に動いてしまうのは、川上のことばに「肉体(過去、つまり思想)」があるからなんだなあ。
 あ、花があるなんてしゃれている--と思ってよく見たら造花だった、というような「過去」がしっかり「過去」としてことばになっていて、それが肉体から、いま、ここに噴出してきている。そういうときの「過去」というのはそれがどんなものであれ、まっすぐに噴出してくるとき、強く輝く。
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北条裕子「無告」

2012-03-30 10:56:46 | 詩(雑誌・同人誌)
北条裕子「無告」(「木立」111 、2012年12月25日発行)

 北条裕子「無告」のことばには不思議な軋みのようなものがある。

百合もひとだったの?
私があの人たちを生き返らせることができないのは わかっていた
鬼は鬼ではなく 醜(しこ)・鬼(もの)・兵器(もの)
今はこの言葉にすがるしかない

 「鬼は鬼ではなく 醜・鬼・兵器」は、何をいいたい一行なのだろう。「鬼」というものは単独では存在しない。「醜」という文字のなかに「鬼」がいる。そして、「鬼」とは、ある意味で「兵器」である、ということか。そうすると、「醜」のなかには、何かしら「兵器」が含まれているということになる。
 「鬼」をつかったことばに「鬼籍」というようなものもある。死んだひと。それは「あの人たちを生き返らせることができない」と呼応するような形で私のからだのなかに浮かんでくることばなのだけれど--そうすると「醜」のなかには死んだひとがいることになる。
 死んだひとは「醜」のか。そうなら、その死んだひとを「生き返らせる」ということは、いったいどういうことなのか。生き返らせれば「醜」とはちがった何か、「酉」になるのか。「酉」と「鬼」は分離して、「醜」ではなくなるのか。
 では「酉」とは何? 私は「酒」を思い出してしまう。「酒」は何か、人間を解きほぐす力を持っている。「論理」を解きほぐして、「論理」にはならない何かを噴出させる。何かしらの「逸脱」をそそのかすものである。
 北条が何を考えているのか、このことばに何を託したのか、よくわからないが、私は「醜・鬼・兵器」ということばのつながり、そして「今はこの言葉にすがるしかない」ということばから、北条が、何かを揺り動かしながら、そしてその揺り動かしなのかでもつながっている何か--揺り動かしても揺り動かしてつながっているもの、切り離せないものをたぐりよせようとしているように感じた。
 揺り動かすとき、「醜・鬼・兵器」をつないでいものが目覚め、揺り動かされて軋む。その軋みそのものが北条なのだと感じた。

 でも、その「醜・鬼・兵器」のつながりと軋みは、いったいどこにあるのか。どこに「根源」のようなものがあるのか。
 このことを言いなおしているのが、次の2行だと思う。

夕餉をすませてから 終夜 本を読んでずっと過ごした
講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記

 古い物語。そのなかに「醜・鬼・兵器」がある。つながりがある。形を変えながら「鬼」が活躍している。それは、今は、ことばから遠い--つまり、「物語」という世界に遠ざけられていて、「いま/ここ」という現実に対して、なんの効力も持っていないようだけれど、北条は、それに「すがるしかない」と感じている。
 この「効力のなさ」は、詩のつづきに、次のように書かれる。

夕餉をすませてから 終夜 本を読んでずっと過ごした
講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記
静けさの中 時おり電話がなった
受話器に耳をあてると 無音だった

 「無音」。「無音」だけれど、その「言葉にすがる」。肉体が「無音」をつかみとろうとして、うごめく。そのとき、たぶん肉体の内部に「軋み」が生まれる。

 でも。
 というか、しかし、というか。
 これは、なんとも読んでいて、苦しい。
 「言葉」でしかない。だから「言葉にすがる」と北条は書くのだろうけれど……。
 書きたいことが、ことばのなかに閉じ込められている、という感じがするのだ。「醜」という文字の中に「鬼」がいた。同じように、北条の書いていることばのなかには、何かがひそんでいて、それが軋みとなってかすかに音を立てている。でも、解き放たれていなという感じがする。
 「言葉にすがる」のはいいのだけれど、その「言葉」が「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」というような「物語」であることが「いま/ここ」としっかり結びつかないのかもしれない。
 しかし、その一方で「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」以外のものに何かをもとめれば「軋み」は聞こえなくなるようにも感じる。

 矛盾だね。私の書いているのは、矛盾だね。--その矛盾の先へ進んでみたいが、どう進んでいいのかわからない。

 詩のなかほどに「日光写真だと物の影しか写らず」という魅力的なことばがある。このことばは「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」とは違って、北条自身の肉体がつかみ取ったことばだと思う。「講談社少年少女世界文学全集・グリム童話集・今昔物語・古事記」ではなく、この肉体のことばで「醜・鬼・兵器」を言いなおすと、軋みがちがった形で噴出してくるかもしれないと思った。
形象―北条裕子詩集 (1971年)
北条 裕子
母岩社
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ロマン・ポランスキー監督「おとなのけんか」(★★★)

2012-03-29 10:05:48 | 映画
監督 ロマン・ポランスキー 出演 ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ

 どんな映画の役でも「損な役」と「得な役」がある。この映画では主役はジョディ・フォスターになるのだと思うが、これはとても「損な役」である。途中で「ジェーン・フォンダのお友達」と揶揄されたりするが、問題への取り組みが真剣すぎておもしろくない。まあ、そういう意味では、とても難しい役である。
一方、クリストフ・ヴァルツはとても「得な役」である。問題となっていることがらなんて、どうせこどものけんかけがといってもどうせ歯が折れただけ--とタカをくくって、ごちゃごちゃが早く片づけばいいと思っているだけ。なげやりな、いわば「脇役」といった感じなのだが--その手抜きできそうなところをきちんと「顔」で演技しているので笑えてしまう。
 バスルームで洗ったズボンをドライヤーで乾かしている。ドアが開いて、ジョディ・フォスターに見られてしまう。その瞬間の「顔」。あるいは、ひっきりなしに携帯電話で話していて、ふと「電話を立ち聞きするな」というときの「顔」。立ち聞きも何も、他人の部屋で大声で電話していれば誰にでも聞こえるんだけれど、みんなが真剣に聴いているとわかって、思わず「立ち聞きするな」という理不尽な要求の、瞬間的な「顔」。--この映画はもともと舞台劇らしいが、舞台では、まあ、その表情はわからないね。それを映画ではしっかりと映像化している。
 この無防備な顔--これが、いわばこの映画の核心にだんだん近づいていく。けんか--ことばのけんかというのは、ほんらいとても「理論武装」が大事なのだけれど、突発的なできごと(不規則発言?)によって、だんだん「武装」が通じなくなる。その「武装」では闘えない部分が出てくる。「武装」していない部分つかれて、無防備の「肉体」(思想)が反応してしまう。話が混み合えば混み合うほど、だんだん「武装」が剥がされ、裸になっていく。「無防備の顔」が出てくる。
 つまり、ほんとうは「ジョディ・フォスター一家」と「ケイト・ウィンスレット一家」の「けんか(いざこざの処理)」なのだが、「一家対一家」のはずが、女同士が連帯し、男をやっつけたり、逆に男同士が連帯し、女攻撃をはじめたりする。「対立点」がずれていく。ときには2対2ではなく、1対3になる。夫婦なのに、夫婦の味方をしない。「敵」側にまわってしまう。
 そこにあるのは、もう「無防備そのものの顔」。最初は誰もこんな具合になるとは思っていなかった。--はずである。「こどものけんか、こどものけが」はそっちのけで、自己主張と、なにがなんだかわからない「連帯」へと引きずり込まれる。「人間ってみなん同じ」という「連帯」へ。
 連帯というより、「共感」と言えばいいのかな。--まあ、おかしくて、かなしい。とてもしゃれている。この感じを、クリストフ・ヴァルツがとてもうまくリードしている。ほんとうは「いやあな男」なんだけれどね。--だから、「得な役」という。「いやな男」なのに、かわいいのである。
 ジョディ・フォスターは、逆にほんとうに「損な役」なのだけれど、でも、「羊たちの沈黙」以来つづいてきた強い女(彼女が出てくればすべて解決する--まさにジェーン・フォンダ)から離れた役なので、それはそれで、次の映画を期待したくなる。
 ケイト・ウィンスレットはゲロを吐いてしまうシーンが、えっ、ほんもの?という感じで、思わず笑いだしてしまう。それとは別に、疲れてきてハイヒールを脱いでしまうシーンが色っぽくて、あ、さすがハイヒールの文化圏のおんなだなあと感じさせる。(見逃したらだめだよ。)
 舞台(原作)そのものがそうできているのだろうけれど、小道具のつかい方が緊密でおかしい。ドライヤーが何度も活躍するのがとてもおかしい。最後に出てくるハムスターもおもしろいし、その公園をいったりきたりする犬の散歩も、もういっかいハムスターが出てくるの?と思わせて、なんだかおかしい。

 と書いてきて、ひとつ、とても大切なことを書き忘れていることに気がついた。
 映像の全体の色調--これが非常に落ち着いている。室内劇であり、ことばが主役(映画なのだから「顔」も主役)なのだが、その「主役」をすっきり浮かび上がらせる色調がいい。絵でいうなら、彩度をおさえている感じ。あるいは輝度をおさえている感じ。ジョディ・フォスターが大事にしている「画集」など、もっと色彩がはっきりしているはずだと思うが--なんといっても、見栄っ張りでテーブルの上にわざわざ置いているのだから、そういうものも非常に落ち着いて「背景」そのものに溶け込んでいる。窓から見える街並み(電車)も、まるでいつでもそこにある感じ--素顔の感じで描かれる。
 役者に対する演出力もすばらしいと思うが、こういう「背景」に対する演出力がポランスキーはすごいなあ。前に見た「ゴーストライター」も「背景」に対するの演出力、色彩の統一感がすばらしかったなあ。




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海埜今日子「おきにいりをうて。」

2012-03-28 09:40:06 | 詩集
海埜今日子「おきにいりをうて。」(「hotel  第2章」29、2012年03月01日発行)

 海埜今日子「おきにいりをうて。」は全編ひらがなで書かれている。私はもともと誤読する人間なのだが、いま、眼の状態が非常に悪いので、ひらがなばかりの文字を読んでいると、誤読以前にことばが散らばって、ことばの遠近感がなくなる。ことばの運動に焦点があわなくなる。その、ぼやけた焦点のなかで、いくつかの風景が浮かんでは消えていく。それが、おもしろいのだが、ときどき変なことが起きる。

にんしょうのにじむすいしつでは、はんてんだったか、しみだったか、めくれるようないんえいも、うずいているようなきがします。

 私は「はんてん」につまずいてしまう。
 「斑点」なのかな? 「斑点」であっても「斑点」でなくても、なんでもいいのだけれど--つまずくのは、実は「音」に対してである。「はんてん」のなかにでてくる2回の「ん」が「にんしょう」「すいしつ」「いんえい」のなかにある「音」と相いれない。
 その後に繰り返される「だったか」という音も気になる。
 ことばの風景が、そこだけ異質の遠近感でできているように感じるのだ。
 私は目で読んでいるようで、実は耳で読んでいるかもしれない。
 「はんてんだったか、しみだったか、」を省略して、

にんしょうのにじむすいしつでは、めくれるようないんえいも、うずいているようなきがします。

 とすると、「音」がスムーズに動き、ことばの遠近感が美しくなるように感じられる。まあ、これは、私の印象であって、海埜の書きたいこととは違うかもしれない。

 --どうも、うまく言えないが……。言い換える。言い換えてみる。
 この詩は「かのじょはかくうのしょうねんのあいだでそだちました。」という文からはじまっている。その冒頭の「かのじょはかくうのしょうねの」という「音」のなかには、引き伸ばされる「音」のゆらぎ(融合)がある。その、あいまいなまじりあいに誘われるようにして私はことばのなかに入っていくのだが--そして、その揺らぎにまかせて、あらわれては遠ざかる遠近感を楽しんでいるのだが、

はんてん

 この音が、どうもなじめない。
 「意味」ではなく、「音」が何かをこわしていると感じてしまう。
 「意味」ではない--というのは。
 たとえば。

あるいはよんどころないこうしん。それることで、みずはやぶけるのでしょうか。

 「やぶける」は「破ける」だろう。そこには「破壊」の「意味」がある。けれど、「こうしん」や「それる」「しょうか」という「音」のなかで「破ける」とは違うものになる。「意味」は「破ける」なのだが、何か、「破れ」をつつみこむものがあって、「破れ」が、幻のように感じられる。一瞬だけ、そこにあらわれた、美しいまぼろし。
 「やぶれる」が「われる」なら、また静かな印象が強くなるだろうし、「よんどころない」という「音」にも何か別なものがありそうな気がするのではあるのだけれど。でも、まあ、「はんてんだっかた」ほどの違和感は覚えない。

しんしょうなら、たいせつなほどそうしつです。

 「心象なら、大切なほど喪失です。」だろうか。
 これは「意味」がわからない。「意味」がわからないけれど、「音」が美しい。「しんしょう」と「そうしつ」が響きあう。引き伸ばされた音(しょう、そう)が結びついて、遠近感を宙ぶらりんにする。

みずをとじたひしょうが、しょうねんのおんどにそだちます。

 「水を閉じた飛翔が、少年の温度に育ちます。」漢字まじりにすると、ここでも「閉じた」と「飛翔」の衝突があるのだけれど、ひらがなだと「ひしょう」と「しょうねん」の響きあいのなかに、風景が「消失」していく。「消失」することで、記憶の奥から(肉体の奥から)風景が生まれてくる。
 「意味」ではなく、「音」がひきつれて動くものが、肉体のなかから静かに浮かび上がってくる。

 「音」の問題を整理して、ことばが動くようになると、海埜の詩は大きく変化するような気がする。「耳」にことばをまかせてみるといいのかもしれない。



詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房
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野村喜和夫「眩暈原論(その7)」ほか

2012-03-27 11:01:06 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その7)」ほか(「hotel  第2章」29、2012年03月01日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その7)」を読みながら自分自身を振り返ると、私は「意味」を読んでいないなあ、ということがよくわかる。今回、私がいちばん気に入ったのは、

あるキンキラが起こる場合のざらざらは、起りうるすべての場合のざらざらで割らなければならないからね。

 からつづく部分。
 この「一文」は、なにを言っているのかな? なんのことかな? まあ、どうでもいいね。ここにある数学(算数?)の答えを考えるひとっているのかな? というより、野村は「答え」を用意して、そういう数学を思いついたのかな?
 きっと、そうではないと思う。それは、そのことばが、答えとは無関係(ほんとうは関係がある?)な具合に--つまり、つぎのような具合につづいていくことからわかる。(あ、ほんとうはわからないのだけれど、「わかる」と言ってみただけ。)

ともあれ、スペクタクルする主体だ。眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ、するとそれは眼としてすくっと立ったのだ。

 むりやり(?)野村の「算数」にのっかってみると、「キンキラが起こる場合のざらざら」を「起りうるすべての場合のざらざら」で割ると、「眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ」、「眼」が答えとして出てくる--ということになる。
 でもねえ、そんなこと、どうやって証明できる? 確認できる? 野村の最初の「割り算」が「理論物理」だとして、あとから書かれている「眼」という答えが「実証」といえる?
 そんなことは、まあ、考えられないね。
 でも、そこがおもしろい。
 点検している「余裕」がない。ここでは、ことばが暴走するスピードだけがある。そして、そのときのことばの暴走を支える「音」だけがある。「意味」ではなくて、「音」をつらぬいていく「何か(音楽)」がある。
 そして。(この「そして」、はまあ、論理的でなくなったとき、適当に飛躍してごまかす「そして」である。「そして」と書くと、なんとなく前とつながっている感じがするでしょ?)
 そして。
 野村の、この詩の音楽は、「音」と「音」との響きあいというよりも、最初に書いた「算数(数学)」ということと関係している。算数(数学)というのは楽譜と同じように世界共通である。論理の展開の方法として、きちんと形式化されている。その形式を、野村のことばの運動は踏まえている。
 前にもどると、

あるキンキラが起こる場合のざらざらは、起りうるすべての場合のざらざらで割らなければならないからね。

 この「割る」を、

眩暈主体から精神的な眩暈の名残が取り払われ、

 という具合に言いなおす--つまり、等式とし関連づける。そういう形式を踏まえている。
 形式があるから、ことばはどこまでも暴走できる。
 この形式を「文体」といってもいい。
 野村は確立した文体を「ことばの肉体」として持っている。



 井本節山「青空の作法」。父と僕とヘンリー・ダーガーさんが登場する。

ヘンリー・ダーガーさん、父さんの部屋であなたの変な画集を見つけました。変な絵ですね。でも僕は悲しくなった。友達も恋人もいなかったというあなたが、こっそり創り上げた広大な想像の庭。ダーガーさん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが暴力に満ちていますか?

 問いかけるとき、井本には「答え」がある。あらゆる「答え」は問いかけそのものにある。だからこそ、大切なのは「問いかけ」の「文体」なのだ。「問いかけ」の「形式」なのだ。「形式」を通り抜けてしか「答え」にはたどりつけない。
 そう考えたとき、1連目に書かれている次の文章が思い出される。

太陽は、雲の谷に隠れて、つぶやきは、いくつかの眩い流れとなって。一日の楽しかったことや苦しかったことを滝のように放出している。

 「流れとなって。」の句点「。」--ここに井本の「隠れた形式」がある。本能のようなものがある。
 ふつうなら(学校作文の教科書なら)、ここは「。」ではなく「、」である。しかし、井本は、そこで「。」を書く。いったん文章を終わる。終わったのに、前を引き継いでつないでしまう。
 これは、逆の形をとることもある。

良いことと悪いこととのあいだ、そこから、

音楽が漏れてくる、と父さんは言う。 

 1連目が「そこから、」という中途半端な形で終わり、1行あき--つまり2連目で「音楽が漏れてくる、と父さんは言う。」という「断絶(空白)」をはさんでつながっていく。
 井本のことばは、切断と接続の関係が、学校教科書の文法とは違うのだ。
 そして、その違いのなかに、井本の書いている僕、父、ヘンリー・ダーガー、さらに音空、地上、音楽、絵が、私たちの見ているものとはちがったもの、つまり井本独自の「想像の庭」として誕生する。
 で、ふいに問いかけたくなる。井本のことばを少し書き換える形で、私は問いかけてみる。

井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが暴力に満ちていますか?
井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが哀しみに満ちていますか?
井本さん、あなたの受けた仕打ちと、あなたの想像の庭、どちらが寂しさに満ちていますか?


詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店
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鈴木正樹『トーチカで歌う』

2012-03-26 09:45:30 | 詩集
鈴木正樹『トーチカで歌う』(思潮社、2012年02月24日発行)

 とても「意味」の強い詩集である。そして、その「意味」とは、実は「倫理」である。「道徳」である。
 「掴む」に特徴がよくでている。昔は、うさぎは耳をつかむものと教えられた。しかし今は耳はつかんではいけない。そっと抱き上げるものだと教える。

なぜなのだろう?

抱けば
ふわふわで 温かい 赤ん坊のような
生き物 湧きあがってくる
優しさ
今のウサギはペットなのだ

抱けば
肉を 食料とするために
毛皮を 防寒具とするために
殺せなくなる

だから
耳を掴め と 教えた
ふわふわで 温かい 鼓動に
触れてはならなかった
ウサギの痛みに 気づいてはならなかった

掴んで 吊るし
気絶させていたものは 自らの
優しさだった

 最後の3行。ここに鈴木の「倫理(道徳)」と「意味」が念おしされているのだが、ウサギを掴んで吊るし、殺して食べていたとき、そしてその毛皮を防寒具につかったとき、ひとはほんとうに「優しさ」を気絶させていたのか。見失っていたのか。
 こんなことは、簡単には言えない。
 ウサギを殺して食べる、毛皮を防寒具につかう、あるいはしっぽ(だったかな?)をお守りにつかう--というとき、ひとは優しくないのか。たしかにウサギに対しては優しくはないだろう。ウサギにとっては不運だろう。だが、人間にとってはそれは必然であり、必然のあるところには、絶対的な優しさがある。
 そのことを鈴木の「頭」は見落としている。「意味」にとらわれるあまり、肝心なものを見落としている。このとき鈴木の何かが「気絶している」。

 「今のウサギは ペットなのだ」ということばがある。その「今」と「ウサギは 耳を掴むもの」と教えられた「敗戦後」を単純に比較してはならない。「今」を生きているからといって、簡単に「今」に身を寄せて、そこから「過去」を「倫理」的に批判してもはじまらない。
 「暮らし」の「意味」が、鈴木には欠落している。

トーチカで歌う
鈴木 正樹
思潮社
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石川逸子「うばぐるま」、小松弘愛「ヘチ」

2012-03-25 12:24:39 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「うばぐるま」、小松弘愛「ヘチ」(「兆」153 、2012年02月05日)

 石川逸子「うばぐるま」は電車の中で見かけた若い女性と乳母車のことを書いている。乳母車にはぬのがすっぽりかぶせてあり、なかは見えない。そのなかの幼児は大丈夫なのだろうか、と石川は心配するのだが……。

女性はすぐ携帯を取り出して
なにやらさかんに打ちはじめている
かと思うと 布の上をいっときやさしく叩き
また 携帯に目を注ぐ
布はひくりとも動かない

ひょっとして
布のなかは幼児ではなく
とんでもない怪物がうずくまっているのでは?

布をぱっと剥がしたら
凄まじい唸りとともに
怪物が頭をもたげ むくむくと立ち上がり
電車の天井を突き破って
暴れ出すのではなかろうか

 これは、空想というより、願望かもしれない。そう思うと楽しい。
 こどもを連れているときはこどもにこそ細心の注意を払うべきで、携帯電話などに気を取られるな、あなた、母親として失格だよ--そう石川は叫んでいるのかもしれない。
 でも、いまは、そういうことを「注意」するのは、どうもはやらないみたい。
 だから、こどもが暴れ出せばいいと願っている。こどもが自己主張してくれればいいと願っているのかもしれない。怪物のように。
 そういう「意味」はちょっとわきにおいて……。

布はひくりとも動かない

 この「ひくり」が妙におもしろい。
 「ひくり」「ぴくり」「びくり」に、どれくらいの違いがあるのかよくわからないが、「ひくり」は何やら押し殺したような印象がある。「ぴ」「び」に比べて「ひ」の音がひっそりしているせいだろうと思う。暗いせいだと思う。その「ひっそり」が、何やら怪物の自己抑制(?)のような感じがして、とてもいい。「ぴくり」「びくり」よりも不気味な感じがする。
 この石川の詩には、具体的な音がない。具体的な音--というのは、たとえば会話のことである。電話の話し声のことである。そして、そのかわりに、音にならないものがある。携帯メールを操作するその姿。乳母車のなかで眠る何か。
 そこに「ひくり」が、これも音のないものなのだが--不思議な「音」を呼び覚ます。押し殺した音を呼び覚ます。その感じが、「怪物」へとつながっていく。
 もし「ぴくり」「びくり」だったら、「怪物」は出てこなかったかもしれない、と思う。



 小松弘愛「ヘチ」は、方言シリーズの一篇。

「ヘチぞね」
「コッチぞね」

高知新聞をひろげると
白いペンキの文字が飛び込んできた
三叉路に立てられた手作りの道案内
角柱に大きな横板を無造作に打ち付け
向かって左方向「ヘチぞね」
右方向「コッチぞね」

「ヘチ」と「コッチ」は
中土佐町大野見(おおのみ)から四万十川沿いに遡って行く所にあり
記者さんは
「ドライバーの思いを察したかのような道案内」と喜び
「コッチへハンドルを切った」あと
「ですが、県外の人には『ヘチ』が……」と心配している

 そうか、県外のひとが心配か……。
 うーん。
 私は県外のひとなのだけれど「ヘチ」はわかるなあ。いや、正確にわかっているわけではないのだが、「辺地」ということばをすぐに思い浮かべ、おっ、おもしろいなあ、と思った。
 「辺地」はまた「変地」でもある。「変」は、石川の書いていた詩に結びつければ「怪」でもある。「へ」には、そういう響きがあるでしょ?
 あ、これは正確な感じではないなあ。
 「コッチ」には「っ」がある。「ヘ(ン)チ」には「ん」がない。
 この「音」の変化、ことばの省略(?)のなかにある、不思議ななまあたたかさ。「ヘンチ」だとすっきりしていて「変」や「怪」が出てこない。「ん」がないぶん、何か、音が体のなかにもぐりこむというか、体のなかに何かを残している。
 で、その体のなかに残っているもの--変な欲望。自分自身の欲望のようなものが、誘うのである。
 ほら、ほら、ほら。「ヘチ」の方がおもしろいぞ。「ヘチ」の方がおまえの知らないこと--おまえがほんとうは知りたいと思っていることがあるんだぞ、と危険な誘惑をほのめかすのである。
 あらゆることがらは、ごとかにあるのではなく、まず自分のからだのなかにある。そういう方向へ「ん」を省略した「ヘチ」ということばは誘い込む。
 これは、私だけに起きることかな? 
 違うよね。
 小松も書いている。

「ヘチぞね」へ進んで行ったらどんな所へ行くのだろう
(略)
「ヘチぞね」
「コッチぞね」
今 わたしの思いは
この二者択一の文字の前に立ってみたいということ
そして
「ヘチぞね」のコースを選択してみたいということ

 「ヘチ」はその方向にあるのではなく、あくまでも自分のなかにある。それはひとつの欲望である。石川の書いた「怪物」と同じである。

 とても残念なのは、石川の詩も、小松の詩も、そういう欲望に触れながら、その欲望が暴走していかないことである。その暴走がことばを拡張していけば、そのとき、詩人の向き合っている「世界」と詩人の「内部(肉体)」が入れ替わって、いっそうおもしろくなるのに、ということである。
 「ことば」は「肉体」の外にある。けれど「音」は肉体から出ていく瞬間に姿をあらわす何かである。「音」のなかには、何か、「精神」とか「論理」ではないものがあって、それをたどっていくと、人間の「肉体(内部)」が噴出してくるかもしれない--という思いが私にはある。

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房
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坂多瑩子「らしく」ほか

2012-03-24 10:39:10 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「らしく」ほか(「触」7、2012年01月31日発行)

 坂多瑩子「らしく」は死んだ母のことを書いている。「いま/ここ」にはいないのに、ふっとあらわれてくる。この「無時間」を、あたりまえのこととして書いている。きのう感想を書いた田中郁子の詩では「天」が田中と他のいのち(存在)をつないでいた。坂多の場合、いのちをつなぐのは「ことば(日常会話)」である。

母さん 死んだのでは 声をかけると
あんたはいつだって と少しおこった声でいう
それでわたしはもっとおこった声でいう
お母さんはお母さんらしくしていなさい
ほんとはわかっている
母親なんてものは
きりきざんだって
おまえのお母さんだっていうんだから
それでも
いっぱい孕んだものが
そうだよ 生きているときに
なに それって非難されて
ぎゅうぎゅうに押しこまれていたものが
死んでしまったら
ひらきかけた蕾のように
誰もとめることができなくて
大きな花になって

 母は「あんたはいつだって」と坂多をたしなめてきたのだろう。そのことば--というより、口調そのものが坂多の体のなかに残っている。そして、それに反発したときに言った坂多自身のことばも。
 ひとは誰でもそうだろうけれど、母親が(あるいは父親が)生きているとき、その肉体で守ってくれていることに気がつかない。いなくなって初めて、その肉体が隠していた背後というか、その肉体でせきとめていた「社会」が見えてくる。押し寄せてくる。そのとき、あ、こんなふうにして私は守られていたのかと思う。同時に、その瞬間、いま/ここにない母や父の、その肉体のなかにしまいこまれていたものがぱっと開くのを感じる。母や父の肉体がせきとめる形で子どもを守っていた肉体--そのせきとめる力が母や父の、「天(田中の書いていた天)」への「道」なのだ。方法なのだ。それが見える瞬間を、坂多は「ひらきかけた蕾」と「大きな花」という比喩をつかって、「誰にもとめることができない」力ということばで書き表している。--この部分は、とても美しい。そして詩のハイライトである。
 と、書いた上で、私は少し引き返したい。「蕾」から「花」への運動はとても美しいが、私は実はその3行よりもほかに感動したことばがある。5行目。

ほんとはわかっている

 怒る、反発する、へらず口をたたく--その母と娘の関係のなかに、そうやって動かすことばと、そのときの肉体のなかに、ことばにならない真実がある。その真実をわかっている。わかっているから、そうしない。わかっているから、したくない。
 それは、何といえばいいのだろう、ひとは必ず死ぬとわかっていても、いまを生きるということにつながる運動である。

母親なんてものは
きりきざんだって
おまえのお母さんだっていうんだから

 この一見乱暴なことばのなかにも、それがある。
 この不思議な何かをきちんと(論理的に?)言うことができないのは、たぶん、それが「無時間」と関係があるからだ。論理というのは、ある意味では、ことばの順序である。順序というのは、時系列をとるものである。先に「花が」ということばがあり、つぎに「咲く」という具合に、先・後がある。(倒置法というのはいっしゅの技巧なので、ここでは触れない。)しかし、人間の意識そのものの動きのなかには先・後というものがあるようであって、存在しない。いつでもいれかわる。時間を無視する。
 死んでしまって「いま/ここ」にいないはずの母の「あんたはいつだって」ということば。それは、たとえば坂多が中学生のときに聴いたことばか。あるいは社会人になってから叱られたときのことばか。区別がない。「時間」を無視して、あらゆる時間をひっくるめて「いま/ここ」にやってくる。時間の区別がない--無時間である。
 この無時間は「永遠」でもある。それは、つまり、永遠につづくということなのだ。そして、それは坂多の肉体の中でつづくだけではなく、私たちの肉体のなかでもつづく。まったく知らないひとの肉体のなかでもつづくことでもある。
 こんなことは誰でも

ほんとうはわかっている

 わかっているから、なかなか書けない。わかりすぎているから、ことばにする必要を感じないのかもしれない--のではなく、わかりすぎているから、どこから順序立てて書けばいいのか見当がつかないのである。
 そういうものを、坂多は、ことばを動かしながら少しずつほどいている。



 木村和「阿武隈川」は東日本大震災を題材にしている。そのなかほどの2行。

ああ阿武隈川よ 醜い現実にさらされてなお
誇り高く美しい流れをかたちづくる川よ

 「かたちづくる」。すべては、かたちづくられる。「誇り」も「美しさ」も。この2行を書くとき、木村は木村自身を「誇り高く美しい」人間にしている。
 坂多の母も、そして坂多もまたそれぞれに何かを「かたちづくる」。それは、生きているときは気がつかなかったが、実は「大きな花」だったということがある。
 死んでしまってから気づいたのでは遅い--ということはけっして、ない。思い出すとき、それは「生きる」からである。すべては「無時間(永遠)」のなかで起きることがらだからである。
 阿武隈川が「誇り高く美しい流れを」永遠に「かたちづくる」ように。
 こういうことは、だれもが「ほんとはわかっている」。わかっているから、ことばにならない。だから、そのわかっていることをことばで読み返すと、とてもこころが落ち着く。

お母さんご飯が―詩集
坂多瑩子
花神社
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田中郁子「有刺鉄線と野茨」

2012-03-23 09:17:07 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「有刺鉄線と野茨」(「ぶーわー」28、2012年03月01日発行)

 田中郁子「有刺鉄線と野茨」は有刺鉄線で囲まれた牧場で牛を買っている暮らしを描いている。有刺鉄線があるのは、飢えた放牧牛が稲を食べたことがあったからだ。稲籾が牛の胃のなかで膨らみ牛の胃袋をさいた。稲も損害を被ったが、牛も死んだ。稲を守り牛を守るための有刺鉄線に野茨が咲いている。それを田中は見つめている。

有刺鉄線の上に咲く野茨を見つめている
生まれる前からあった窓から見つめている
くる日もくる日も辺境の地で土地を耕し
家畜を飼う先祖を見つめている
わたしたちははてしなく産み続ける牛を飼い
常に青く澄んだ天の中で
はてしなく草を食べ続ける飢えた牛を飼う

 「常に青く澄んだ天の中で」の「天」ということばに私はびっくりした。「天」とは何か。「宇宙」か。「辺境」は「日本」のなかにあり、「日本」は「地球」のなかにあり、「地球」は「宇宙」のなかにある。「宇宙」とは「天体」のことでもある。だから「天の中で」牛を飼っていると言えるのか。--まあ、論理的には言えるのだろう。だが、この1行を読み、驚くのは、その「拡大する論理」(あるいは暴走した論理)のためではない。
 辺境-日本-地球-宇宙(天体)というひとつづきの論理の中では辺境は最小の単位であり、存在しないにひとしいものになる。「天」のどの位置から田中の書いている「辺境」が見えるだろうか。牛が識別できるだろうか。--私はそんなことは考えなかったし、感じもしなかった。
 「天」ということばに触れた瞬間に、「辺境-日本-地球-宇宙(天体)」という論理を飛び越えて、田中のいる場所の「いま/ここ」が「天」そのもの、「天の中心」に見えた。「天」が田中の書いている「辺境」におりてきて(?)、そこでビッグバンのように炸裂して輝くのを感じたのだ。
 「天」はそのとき「運命」「宿命」かもしれない。そのことばのなかに存在する「いのち」かもしれない。「いのち」が「天」とつながっていると感じたのだ。詩のなかに「先祖」ということばが出てくる。田中は「先祖」につながっている。「辺境」の「先祖」の「いのち」につながっている--ではなく、まあ、つながっているのだけれど、それは偶然(?)であって、ほんとうにつながっているのは、先祖がつながっている「天」とつながっている。別な言い方をすると……。

先祖-天-田中(わたし)

 という感じなのだ。
 あくまで「天」を中心にしてつながっている。そして、そのつながり方はすべてのものに対してもあてはまる。

牛-天-わたし
牛-天-稲

 それは「運命」「宿命」であると同時に「掟」である。(掟--ということばは、後半に出てくる。)「掟」とは「いのち」の決まりである。「いのち」をつないでいくために「暮らし」がととのえた決まりである。
 「掟」を「暮らし」を縛る決まりととらえると、なんだかとても窮屈で、いやな感じがするが、それは「自由」を縛るというよりも「いのち」を守るものなのだ。「掟」という「天」をくぐりぬけて、「いのち」はつづいていく。
 そのつづきかた、つながりかたに、人間も牛も稲も野茨もないのだ。
 そこにあるのは「掟」ではなく「天」なのだ。「いのち」のすべてなのだ。

狂気のように膨らんだ稲籾が胃袋を裂いたのだ
存在することは許されなかった
放牧の牛を囲う有刺鉄線はものいわぬ掟
その掟の上に野茨は可憐にゆれる
いつ咲こうといつ散ろうとゆるされている
それらがわたしの小さな窓からよく見える

 「存在」、「存在すること」を「ゆるされる」「野茨」。そのとき「野茨」は「わたし」というよりも「暮らし」そのものである。「いのち」のありかたそのものである。

わたしのまなかいの底
鋼鉄のように凍りついた
有刺鉄線の上で咲く野茨は
取り返しのつたないほどの青い天に抱かれ
いつまでも輝いて散ることはない

 「天」は「野茨」を祝福する。そして「野茨」は「いつまでも輝いて散ることはない」。同じように、田中の暮らしている「いま/ここ」の「いのちのありかた」はいつまでも輝いて散ることはない。それは、天が祝福し、しっかりと抱いて守ってくれている。
 この、ゆるされたものの、静かな美しさ--その美しさが「天」ということばをつかうことを「ゆるしている」のだと思う。


雪物語
田中 郁子
思潮社
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廿楽順治「人名論」ほか

2012-03-22 09:37:55 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「人名論」ほか(「ガーネット」66、2012年03月01日発行)

 廿楽順治「人名論」は小詩集なのだろう。人名を題材に3篇。そのうちの「『いわた』さん」。(原文表記は尻揃えになっているが頭揃えで引用する。)

「いわた」さんの下の名前はわからない
下の人生がないままで
そのころ毎晩うちの店にやってきた
ひとはわるくないが
いい年をして所帯をもたない
知り合いの娘さんを紹介しようとすると
いつも怒るんだ
だからもう何もいわない
父は「いわた」さんの下について断定した
しばらくして
「いわた」さんはどこにもいなくなってしまった

 あ、日本人でよかったねえ。「下の名前」か。これが英語だとファーストネーム、どっちかというと頭の名前になるからねえ。
 なぜ日本人でよかったかというと、「下」の名前、「下」の人生が、「しも」の人生になるというおもしろさが、日本人だからわかるという単純なことなのだけれど。まあ、中国語でも同じかもしれないけれど。(下の名前、という表現が中国語にあるかどうかしらないけれど。)
 「下」の名前が「下」の人生→「しも」の人生→所帯(結婚)と自然に動いていく。この自然な動きのなかにある「肉体」が楽しい。そうか、「所帯をもたない」というのは「下半身」の生活が安定しないということなのか。あるいは、独自の嗜好を生きているということなのか。

下のからだがないままで
生き続けていくひともいた
そういうこと
(見せ物じゃないのにね)
父もわたしも
「いわた」さんについては
たぶんはんぶんしか語り合ってこなかったのだ

 おおっと、すごいなあ。「はんぶん」って、何? というか、他人について語るとき、そのひとの「しも」の人生について語り合うということがある? 父と息子(わたし)が、だれかのセックスについて話すなんて、考えたら変じゃない? 異常じゃない? たまに、あのひとはどんなセックスをしているのだろうと思うときがあっても、語り合うようなことがらではないし、語り合わなかったからといって「はんぶん」しか語り合わなかったことにはならないだろうなあ。
 というのは、まあ、屁理屈。
 廿楽のことばが、こんなふうに展開していくとき「下(しも)」→「下半身」→「半分」という「ことばの肉体」がどこかで動いている。そして、その動きは「日本語」というか、口語では何かとても自然である。「肉体」にしみついている動きである。(しみついていないひともいるかもしれないけれど。「頭」でことばを読むひとには、非論理的に思えるかもしれないけれど、口語会話で生きている人間には、とても自然な成り行きだと思う。)
 で、ね。
 そんなことを語り合うことが他人について語ることではもちろんないのだけれど、このときの「下半身」というのはセックスだけではなく、そこからはじまる「所帯」というもの、暮らしを含んだものでありつづける。ここが、廿楽のおもしろいところだなあ。
 「下半身」を描きながら、セックスに没入しない。野村喜和夫が何を書いてもセックスに没入していくのとはまったく違うね。
 廿楽のことばにはいつも「暮らし」がある。それは「非論理」があるということである。「頭」では消化しきれないもの、「肉体」で受け止め、受け継いでいるものがあるということである。

独身で
酔い方がいか墨のようにくろかったひと
上下がそろわないので
いつも店先で
いわたです
ゆれながら立っていた
いい年なのにいつも上だけが泣きそうだった

 「泣きそうだった」--このことばのなかにある「共感」。共感と言ってはいけないのかもしれないけれど、「肉体」が「肉体」にであったときに感じる不思議なものがあるね。ほら、道端でだれかが腹を抱えてうずくまりうねっていると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるような共感。自分の体ではないのに感じてしまう何か。
 廿楽は、いつもそういうものをていねいにことばにしている。



 大橋政人が「君恋し」の歌詞をめぐって、いろいろ書いている。「君恋し 唇あせねど /涙はあふれて 今宵も更け行く」の「唇あせねど」は「唇あわせねど」ではないか、というのである。
 ちょっとびっくりしてしまう。
 大橋って、こんなに純情なの? プラトニックラブのひと?
 私などは「君恋し」と声に出して言うくらいなら、きっとセックスはすんでいると思うなあ。当然、キスはしている。キスは絶対にしないというセックスもある職業のひとにはあるみたいだけれど。
 歌詞の全体は、たしか次のようなものだった

宵闇迫れば悩みは果てなし
乱るるこころに映るは誰が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く

 宵闇の迫るときの「悩み」って何? 肉欲の悩みじゃないのかなあ。あ、セックスがしたい。でも相手がいない。あれこれ相手を思い浮かべ、こころが乱れるとき、必ず浮かんでくるのは誰でもない「君」の姿。君がほしい。ある唇(きっと唇フェチだね)はいまもまざまざとよみがえる。決して褪せることはない。体は、こんなに君を覚えているのに、君はいない。君に会えない。(きっと不倫--いや、自由恋愛の相手だね)だから、涙があふれる--この「涙」は、まあ、ほんとうかどうかわからないなあ。口説く文句だね。それくらい君がほしい。
 私には、そんなふうにしか感じられない。フランク永井の歌を聴いたことがあるが、彼の声も「純情」というよりは、「肉体」に迫ってくるね。つまり、「色気」があるね。大橋は藤田まことの歌を聴いたらしいが、藤田まことって、大橋が想像するようにプラトニックな感じで歌っていた?
 声というのは、私にはセックスそのもの。声を聴いて、色っぽいなあとか、あ、かまとととか思ったりする。ことばも、私は、そこからつかみはじめる。
 大橋は、耳では他人と共感しないのかな?
 それにね、歌謡曲なんて(といったら叱られるかな)、みんなセックスを連想するのじゃない? いくら「純情」を売り物にしていても。たとえば山口百恵の歌った「ひと夏の経験」(タイトル、間違えてる?)の

あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ

 この歌について大切なものを百恵は「こころ」とか「愛」なんてテレビで言っていたように記憶しているけれど、誰もそんなことを信じちゃいないよね。「経験」なんだから「下半身」に関することでしょう。「女の子の」は、「おんなの、この」にもなるね。

 私は音痴だし、歌は歌わないし、詩も黙読しかしないけれど、ことばはいつでも「耳」でしか理解できない。音のなかにある「暮らしのひびき」(日常の口語会話のなかにひとがしっかりと含める「意味」)しか理解できない。


化車
廿楽 順治
思潮社
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フィリダ・ロイド監督「サッチャー」

2012-03-21 10:26:39 | 映画
監督 フィリダ・ロイド 出演 メリル・ストリープ、ハリー・ロイド

 冒頭、サッチャーの認知症が描写される。夫は死んでしまって、もういない。その夫と向き合って朝食をとっている。「ミルクが値上がりした」というようなことを言っている。認知症になったサッチャーが見ている世界がそのまま映像になっている。こういうシーンが何度も何度も出てくる。そして、その合間に首相時代のサッチャー、娘時代のサッチャー、政治家になったばかりのサッチャーが描かれる。
 それを見ていて、とても不思議な気になった。認知症のサッチャーの見ている世界--それはほんとうに「現実」とは違うものなのか。夫はほんとうにいないのか。--違うのかもしれない。夫は生きている。少なくともサッチャーのこころのなかに生きている。夫は死んでしまって「いま/ここ」に肉体がないのは、私たちから見た「現実」であって、サッチャーにとっての「現実」ではない。
 そう気がついたとき、はっとしたのだ。「現実」とは、それぞれの人間によって違って見えるものである。「客観的現実」というものは、あるようであって、たしかなところははっきりしない。私の見ている「現実」と他人が見ている「現実」は違っている。(私はいま、眼の疾患--原因不明--を抱えていて、実際に「見える世界」が他人と明確に違っているので、そのことを強く感じる。)
 フォークランド戦争にしろ、テロにしろ、あるいはさまざまな経済問題にしろ、サッチャーが「見ていた世界」と他の政治家が(あるいは国民が)「見ていた世界」は違っているのではないのか。違っていたのではないのか。フォークランド戦争のときはアメリカの国務長官が「やめろ」と直談判にくるのだが、それにサッチャーは真珠湾を持ち出して反論している。その反論が端的にあらわしているが、サッチャーが「見ている世界」、サッチャーに「見えている世界」は他人とは違う。
 この「違い」を説明するのはとても難しい。映画での、サッチャーの認知症のシーンは死んでしまった夫を登場させることで「違い」を明確にしているが、こころ(あるいは頭脳)が認識している「違い」は、ふつうは、こんな手際よく便利に他人に説明できない。どんなに説明しても、そのひと本人にしかわからない説明しがたい「現実」がある。
 私たちは(私は)、では、サッチャーが「現役」だったときの、サッチャーに「見えていた世界」、サッチャーが「見ていた世界」をほんとうに理解していたか。
 --この問題に、答えは簡単には出せない。少なくとも、サッチャーの認知症のシーンのようには簡単に答えは出せない。「違っている」とはいえない。サッチャーの勘違いとはいえない。サッチャーの考えを、サッチャーの肉体の内部から感じているわけではないのだから。
 これは、考えはじめると、何かとんでもなく長くなる問題なのだが……。
 メリル・ストリープは不思議な演技力で、そこに「肉体」を出現して見せている。サッチャーそのものがそこにいる、という感じにさせられる。サッチャーを私は知っているわけではないのだが、これがサッチャーだと感じる。そしてそれは、「政治家」を描いた部分ではなく、認知症のシーンで非常に強く感じる。愛するひとを失い、不安のなかで、その人との時間を思い出す。思い出すことが不安を消してくれる。その、人間の「生き方」が「肉体」そのものとして目の前にある。
 最後、サッチャーは夫が死んでしまったこと、もうここにはいないことを受け入れるのだが、そういうことがいまも認知症を患いながら生きているサッチャー自身に起きているかどうかわからないが、思わずそうあってほしいと祈ってしまう。そういう祈りを誘う演技である。
 「自伝映画」として見ると、政治家の部分の描写が表面的な感じがするが、認知症の描写は人間そのものを考えさせる。不思議な映画である。




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フィリダ・ロイド監督「サッチャー」

2012-03-21 10:26:39 | 映画
監督 フィリダ・ロイド 出演 メリル・ストリープ、ハリー・ロイド

 冒頭、サッチャーの認知症が描写される。夫は死んでしまって、もういない。その夫と向き合って朝食をとっている。「ミルクが値上がりした」というようなことを言っている。認知症になったサッチャーが見ている世界がそのまま映像になっている。こういうシーンが何度も何度も出てくる。そして、その合間に首相時代のサッチャー、娘時代のサッチャー、政治家になったばかりのサッチャーが描かれる。
 それを見ていて、とても不思議な気になった。認知症のサッチャーの見ている世界--それはほんとうに「現実」とは違うものなのか。夫はほんとうにいないのか。--違うのかもしれない。夫は生きている。少なくともサッチャーのこころのなかに生きている。夫は死んでしまって「いま/ここ」に肉体がないのは、私たちから見た「現実」であって、サッチャーにとっての「現実」ではない。
 そう気がついたとき、はっとしたのだ。「現実」とは、それぞれの人間によって違って見えるものである。「客観的現実」というものは、あるようであって、たしかなところははっきりしない。私の見ている「現実」と他人が見ている「現実」は違っている。(私はいま、眼の疾患--原因不明--を抱えていて、実際に「見える世界」が他人と明確に違っているので、そのことを強く感じる。)
 フォークランド戦争にしろ、テロにしろ、あるいはさまざまな経済問題にしろ、サッチャーが「見ていた世界」と他の政治家が(あるいは国民が)「見ていた世界」は違っているのではないのか。違っていたのではないのか。フォークランド戦争のときはアメリカの国務長官が「やめろ」と直談判にくるのだが、それにサッチャーは真珠湾を持ち出して反論している。その反論が端的にあらわしているが、サッチャーが「見ている世界」、サッチャーに「見えている世界」は他人とは違う。
 この「違い」を説明するのはとても難しい。映画での、サッチャーの認知症のシーンは死んでしまった夫を登場させることで「違い」を明確にしているが、こころ(あるいは頭脳)が認識している「違い」は、ふつうは、こんな手際よく便利に他人に説明できない。どんなに説明しても、そのひと本人にしかわからない説明しがたい「現実」がある。
 私たちは(私は)、では、サッチャーが「現役」だったときの、サッチャーに「見えていた世界」、サッチャーが「見ていた世界」をほんとうに理解していたか。
 --この問題に、答えは簡単には出せない。少なくとも、サッチャーの認知症のシーンのようには簡単に答えは出せない。「違っている」とはいえない。サッチャーの勘違いとはいえない。サッチャーの考えを、サッチャーの肉体の内部から感じているわけではないのだから。
 これは、考えはじめると、何かとんでもなく長くなる問題なのだが……。
 メリル・ストリープは不思議な演技力で、そこに「肉体」を出現して見せている。サッチャーそのものがそこにいる、という感じにさせられる。サッチャーを私は知っているわけではないのだが、これがサッチャーだと感じる。そしてそれは、「政治家」を描いた部分ではなく、認知症のシーンで非常に強く感じる。愛するひとを失い、不安のなかで、その人との時間を思い出す。思い出すことが不安を消してくれる。その、人間の「生き方」が「肉体」そのものとして目の前にある。
 最後、サッチャーは夫が死んでしまったこと、もうここにはいないことを受け入れるのだが、そういうことがいまも認知症を患いながら生きているサッチャー自身に起きているかどうかわからないが、思わずそうあってほしいと祈ってしまう。そういう祈りを誘う演技である。
 「自伝映画」として見ると、政治家の部分の描写が表面的な感じがするが、認知症の描写は人間そのものを考えさせる。不思議な映画である。




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佐藤代伍「あさ」

2012-03-20 10:13:05 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤代伍「あさ」(「震災 宮城・子ども詩集」2012年03月11日発行)

 佐藤代伍(塩竈第三小学校三年)「あさ」は美しい詩である。震災のことを書いているのに「美しい」といという感想を書いていいのかどうかわからないが、まず「美しいなあ」と感じた。そして、強いなあ、と感じた。強さが「美しさ」として私の肉体に迫ってきた--と言いなおせばいいのかもしれない。

金ようびに
地しんがきたとき
みんな ないていた
世界で三ばん目に強い地しんだった

近くまでつなみが来た
あんなに海が遠いのに
つなみが来てびっくりした

となりの家の
ピンクのバラが顔を出していた

ちょっとしぼんでいる
地しんがきてショックを受けたのかな?

 最後の2連が、とても美しい。そして、強い。バラはほんとうにしぼんでいるのか? 地震でショックを受けたために佐藤のこころがしぼみ、そのためにバラもしぼんで見えるのか。--こういうことは、いちいちことばにするとうるさい感じになってしまうが、ここには佐藤とバラとのすばらしい一体感がある。バラに思いを寄せながら、自分のこころを少し解きほぐしている。バラに自分のこころを受け止めてもらっている。
 これは、詩を書くこと、あるいはことばにすることというこういうのなかにある人間のいのちの工夫なのだと思う。自分のなかにためこむだけではなく、ひととことばをかわす。何かを言う。そのとき、ひとは互いに何かを受け止めあう。
 「世界で三ばん目に強い地しんだった」も同じである。ことばにすることで、そのときのことを互いに確かめあうのだ。「近くまでつなみが来た/あんなに海が遠いのに/つなみが来てびっくりした」は佐藤が書いたことばだけれど、佐藤だけではなく、そのことばを聞いたひとのことばでもある。同じように、バラが「ちょっとしぼんでいる/地しんがきてショックを受けたのかな?」も佐藤のことばであるけれど、読んだ瞬間からみんなのことばになる。みんなが佐藤のこころになる。
 ここには「絆」ということばはつかわれていないが、私は、とても強い「絆」を感じる。ひととひとを越えていく絆、この世にあるもののいのちの繋がりを感じる。
 そして。
 この詩には、和合亮一が何度も何度も書いたいやらしいことば(私は和合の詩について感想を書くとき、その一行だけは絶対に引用しないと思った--だから、ここでも書かない)を越えるもう一つの美しさがある。
 「あさ」というタイトル。詩のなかには「あさ」に関する直接的な描写はない。でも、そうなんだね、地震を越えて、いっしょに朝を生きてるんだね。ひとも、バラも、ということがとても強く実感できるのである。その「強さ」--それが美しい。そこにある静かな喜びが美しい。



マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
コメント (3)
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小島きみ子「三月」

2012-03-19 10:34:24 | 詩(雑誌・同人誌)
小島きみ子「三月」(「エウメニデスⅢ」42、2012年03月05日発行)

 小島きみ子「三月」の「二〇一一年三月」の後半の文体がおもしろい。

眠れない夢のなかで、いつの間にか雨が降ってきて、気がつくと止んでいて、桜が散っていく。風に吹かれて、鳥がきて飛びたっていくとき、地面に散り敷く薄紅色の花びらの美しさ。木にあったときの息がまだ残っていて、地面で息をしている。だんだん薄れていき、無くなるときは、咲いて散ったその記憶も無くなっているから、無くなり方も見事なもの。わたしというものもまたそうなのか。

 「いつの間にか雨が降ってきて、気がつくと止んでいて、桜が散っていく。」の「……て、……て、……」の「て」の接続と切断(飛躍)の動きが、とても「あいまい」である。どうしてこういう具合につながるのか、「論理」がわからない。「論理」がわからないが、そこに「肉体」があることがわかる。小島の「肉体」がことばを「とりまとめている」。そこに書かれていることが「夢のなか」のできごとなのか、それとも「夢から覚めて」のことなのか、--つまり、それが連続していることなのか、「……て、……て」ではわからないのだが、その「あいまい」が「あいまい」のまま、「風に吹かれて」とつながり、さらに「木にあったときの息がまだ残っていて」と、「対象(?)」は、あるいは「主語」は変化しながら(飛躍しながら/切断しながら)、「……て」という運動で「接続/持続」するとき、そこに「わたし(小島--眠れない夢を見た人間)」という「主語」がすべりこむ。桜も鳥も風も地面も花びらも、「わたし」から独立した「対象(客観)」ではなく、「主観」のように思えるのである。
 この運動はさらにつづいて「だんだん薄れていき」ということばをとるが、これは「だんだん薄れていって」と同じである。「……て」なのである。直前に「薄れて」と「て」があるので、変化するしかなかったのである。だから、この「薄れていき」は、わざと(無意識かもしれないけれど)書かれた「……て」なのである。
 で、「客観」と「主観」が「……て」のなかで、ゆっくり融合し、主語が変に(?)ふらつきながら(「だんだん薄れていき、無くなるときは、咲いて散ったその記憶も無くなっているから、無くなり方も見事なもの。」--の「主語」は何? 花びら? 「無くなり方」?)動くので、最後に、もう一度「わたし」が出てこなくてはならなくなる。

わたしというものもまたそうなのか。

 この一行は省略されるとき、「俳句」になる。自己と対象の融合としての、「遠心・求心」の世界--「わたし」であることが「対象」であり、「対象」であることが「わたし」という世界になるのだが。
 小島は俳句の世界での人ではなく、「わたし」を生きる人--どちらかというと「西洋哲学」の人なので、ここに「わたし」が出てくる。これは、まあ、小島の「肉体の癖」のようなものである。

 あ、話は少しずれてしまった。

 そういう小島の「肉体の癖(ことばの癖)」が最後に出てくるのだけれど、その癖が出てくるまでのことばの肉体の動き方が、不思議な美しさ、つやっぽさを発していると思った。
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現代詩人会西日本ゼミナール岡山(2)

2012-03-18 08:43:43 | 詩集
現代詩人会西日本ゼミナール岡山(2)(2012年03月10日)

 小島きみ子、北川朱実、高垣憲正、山本衛、古賀博文の詩の朗読があった。
 小島の朗読「凍える文字」では、ある単語のアクセントが私とは違っていて、そこにひっかかって、詩の全体が目で読んだときのようには結晶しなかった。私は音痴だし、私自身「訛り」(方言のアクセント)が抜けないのだが、他人の「声」には不思議と反応してしまうのである。
 北川の詩「11番ホーム」では、一か所、「えっ、これいいじゃないか。文字で読んだときは気がつかなかったなあ。どうして読み落としたのだろう」とあわててテキストを読み返してみた。ところがテキストは、「朗読」とは違っていた。つまり、私は、北川の「声」を聞き間違えたのだった。しかし、私が聞き間違えたことばの方がテキストのことばよりいいよなあ、なんて私は思った。思ったことはなんでも口にしてしまうのが私なので、「懇親会」のとき北川に、そんなことを話してみた。(初対面だけれど、私はこういう不躾が得意である。)--これからあとのことは、ちょっと内緒。
 山本の「俺らン言語について」は方言詩といえばいいのだろうか。高知の方言が折り込まれている。

考えに考えたたあ思われんでも
自分が自分に毎日(やんだ)吐きかけよるコトバ
外に迄(まじゃ)ぁ言わんじゃちええこっちゃろうけんど
君(わん)らんもの言いは
のコトバと言われたときもあったがぜよ

 この朗読を聞きながら、非常に違和感を覚えた。まるでNHKの朝の連続ドラマの台詞のようなのである。(「カーネーション」は連続ドラマはじまって以来の名演技合戦といううわさをきいているので、最近は違うのかもしれないが……。私はテレビはここ30年ほどドラマを見ていないので、違っているかもしれないが。)
 何が不自然かというと、「文体」が標準語なのである。「論理」が標準語なのである。そして、その「文体」に「方言」が単語としてまじりこむ。方言の「肉体」が「文体」のなかにはなくて、表面の飾り、付け足しの「演技」としてあるだけで、「肉体」が感じられない。
 それは「やんだ」を「毎日」という感じで「説明」するような部分に端的にあらわれている。「やんだ」は「毎日」という「意味」かもしれないけれど、「毎日」とは違うんじゃないだろうか。
 でも、これは仕方のない表現方法なのかなあ。
 しかし、たとえばタイトルの「俺らン言語について」はどうだろう。ほんとうに「ついて」ということばを山本が育ったところの人は言うのかなあ。そういう「文体」で話すかなあ。--私は山本の育ったところとは違う場所で育ったけれど、たとえば、私の両親は「ついて」というような標準語の「論理」を口にしたことがない。私は聞いたことがない。標準語の「論理」を取っ払ったところで話している。
 正確には指摘できないのだけれど、どうも、山本のやっていることは「方言」の詩とは違うのではないのかなあ、と感じた。「肉体」を感じることができないかぎり、それは「方言」ではない、と私は感じている。ことばとともに、そのことばを発した人の「肉体」が目の前に一種の「ゆがみ(個性)」として浮かび上がらないかぎり、その「方言」は「飾り物」という感じがする。
 ねじめ正一の朗読と比較するとわかりやすいかもしれない。ねじめは「あーちゃん」(ひらがなでよかったかな?)シリーズの作品を朗読した。最後が「落とし話」みたいになっている。「意味」的には、くだらない(失礼!)な詩なのだが、聞いていてなかなかおもしろい。「意味」ではなく、「肉体」が。つまり、朗読しているうちに、ことばと肉体が追いかけっこをしはじめて、ことばも肉体ももつれる。つっかえる。間違える。つばが飛ぶ。--このとき、私はことばを聞いていない。ねじめの肉体の「音(声)」を全身で受け止め、あ、ねじめという人間がほんとうにここにいる。いま、私はねじめに会っているのだ、と感じる。で、ねじめは毛糸(?)の帽子のようなものをかぶっていたのだけれど、あれって、禿隠し?なんて思ったり、帽子を奪い取ったらどう反応するかなあ、なんて思ったりしている。最後は、詩のことは忘れて、ねじめって禿だったのかなあと思ったということだけ思い出すのかもしれない、なんて思ったりしている。
 こういう感じ方は、たぶん「正しい詩の朗読の聞き方」ではないのだと思うけれど、私はそう感じてしまうのだ。どうしても「肉体」に反応してしまう。
 読み間違え、つっかえ、つばを飛ばして、それでもことばを疾走させようとする--そのときの肉体がそのままことばの肉体とつながっている。ことばは「精神」や「意味」ではなくて、肉体そのものである、と私は感じている。
 あ、ねじめの朗読には、今回はだれも勝つことができなかったなあ、と最後に思ったのだった。


くぎをぬいている―山本衛詩集
山本 衛
風涛社
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