詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島数子「見知らぬ正直さ」、北川朱実「空の匂い」

2011-04-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小島数子「見知らぬ正直さ」、北川朱実「空の匂い」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 詩人は、ことばを何の力で動かすか。細見和之は「思考」の力で動かす。彼の思考は「具体」と「抽象」を往復することで「正確」になっていく。そして、その「正確」を基盤にして「感情」をみつけだす。
 28日に読んだ糸井茂莉も「思考」派の詩人だろう。ただし、糸井は「具象」と「抽象」を往復しない。糸井は「音」(声)を掘り起こす。
 細見が「脳髄」の詩人なら、糸井は「耳」の詩人である。
 小島数子はどうだろう。小島の詩も、ことばが「思考」の力で動かされているのを感じる。ずいぶん抽象的なことがら、抽象的な思考を強いる運動をする。
 「見知らぬ正直さ」の1連目。

躰を負う魂は
若々しく働き
見知らぬ正直さに出会おうとする
現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする
そんなことを考えながら
ひとりで歩いた

 「感じる」ではなく「考える」が小島の基本的な姿勢である。小島は、人間を「躰」と「魂」との「二元論」でとらえている。そして、その関係は魂が躰を「負う」である。つまり魂の上に躰がある。だから、躰が動くのではなく、魂が躰をどこかへ運んでいくのである。躰は、ずぼら(?)を決め込んで動かない。これは、変な言い方になるが、魂が「肉体」をもって、「肉体」である「躰」をどこかへ動かす、運んでゆくということである。位置的には魂は躰の下にあるのだが、躰の自由(どこへゆくか、どんな動きをするか)は魂にまかせられている。
 (細見の場合、「思考」が肉体を動かしているといえるが、それは「負う(背負う)」という関係ではなく、「思考」を「脳髄」と呼ぶことで、肉体そのものになり、肉体の内部から肉体を動かすことになる。--「思考」というのはどこにあるかわからないが、「脳髄」は肉体の内部にあることは、解剖学的に「定義」されている。糸井の場合は、「思考」はどこにあるかわからないが、「音」とともにある。そして、その「音」をとらえる肉体器官は「耳」であり、発生器官は「のど」や「口」であり、「思考」は「音」になる。一方、細見の「思考」はまず「文字」になる。あるいは「/」というような「記号」になる。「/」は細見が「音」を基本に「思考」を動かしていない証拠でもある。あ、脱線した……。)

 小島の魂は躰を動かす。でも、どんなふうに動かすかは小島は書いていない。どんなふうに動かすかは書いていないが、なぜ、あるいは、どこへ動かすかは決まっているようだ。

見知らぬ正直さに出会おうとする

 ここにはふたつのことが書かれている。「見知らぬ」と「正直さ」である。そして、このことばは小島は、それとは別に「正直」を知っているということを語る。「知っている正直」がある。その一方で「見知らぬ正直」というものがある。
 「知っている正直」とは何か。魂である。小島の魂は正直である。それを小島は知っている。そして、それだけでは満足せずに、小島の知らない「正直」というものがどこかにあるはずだ、どこかで誰かの躰を動かしているはずだと考え、その方向へ動こうとしている。

現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする

 この2行は、「見知らぬ正直」と「正直」の関係を、パラレルに書いたものである。反復したのもである。細見なら「見知らぬ正直/現実が待っている真実」と書くかもしれない。「知っている正直/現実」があり、他方に「見知らぬ正直/現実が待っている真実」があるのだが、それは「知っている正直・現実/見知らぬ正直・現実が待っている真実」という形に書き直すこともできるかもしれない。--こんなふうに書き直すことを「考える」というのかもしれない。
 書き直し、考えながら、どうするのか。「待つ」のである。「ていねいに/待つ」のである。魂は躰を負いながら動く(働く)のであるが、それは「待つ」ことなのだ。「動く(働く)」と「待つ」は、矛盾してみえるが、矛盾しているからこそ、それが「思想」なのである。
 「考える」という行為のなかに「矛盾」があり、その「矛盾」のなかでこそ、躰と魂は出会い、その出会いだけが別の出会いと出会えるのだ。
 そういうことを小島は書こうとしているだと思う。

 でも、そういうことって何? 小島の「思考」はそれでは、どこへ行くのか。どこへ到達するのか--そう問い返されたとき、「答え」はいままで書いてきたことばのなかへ引き返す形でしか語れない。
 「見知らぬ正直」へ行くのだ。「ていねい」に「待つ」のだ。「ていねい」に「待つ」ことが、つまり現実の躰を「いま」「ここ」において、魂で背負った躰を「いま」「ここ」ではないところへ動かし、そのことを「思考」するのだ。「思考」したことをことばにし、それを書き留めるのだ。
 ことばと思考の一致、としての詩がここから生まれる。



 北川朱実「空の匂い」は「思考派」の詩人ではない--と書くと、「私も思考します」と叱られるかもしれないが……。
 小島の詩のなかにでてきたことばを借用して言えば、北川は「出会い派」の詩人である。「思考派」の詩人たちは自分の考えをしっかりと維持してことばを動かしていく。自分のことばを積み重ねる。だから、それはしばしば同じことばを何度もくりかえす。同じことばと書いたが、実は、見かけが同じだけで「意味」の詳細では違っていることばをくりかえす。小島の作品に「現実のための現実は」という1行があったが、先にでてきた「現実」と次の「現実」の差異(ずれ)は、小島の肉体にからみついていて、それを分離した状態で説明することはできない。(言いなおすと、数行を引用し、分析することでは明確にはできない。彼女の全作品を分析しないと、差異は明確にできない。)

 北川が「出会い派」というのは「空の匂い」という作品の読むだけでもわかる。友人がアマゾンへ旅行に行った。そして、その旅行先から電話をかけてくる。

--あ、聞こえる? アカホエザルよ
  ああ、もりじゅうに響いて、
  空気がビリビリ震えて、

突然電話が切れ
プラチナのような声が
明け方の空に貼りついたままだ

遠く
今からでも急がねばならない場所が
私にもあった気がする

 他者のことばによって、北川がめざめる。ことばにならないものがめざめる。それは「気がする」というぼんやりした形で動きだすが、この「ぼんやり」としたスタートに、小島のいう「正直」がある。
 ことばはいつでも後からやってくる。それを待って、そのことばについて行く。北川はいつでも、どこかからかやってくることばに「肉体」をあずけ、それから「肉体」のなかでめざめたことばが動きだすのを待っている。
 こういうことばの動かし方は、糸井や細見、小島のことばの動かし方からすると「他人まかせ」のようにみえるかもしれないけれど、自分はどうなってもいいというような覚悟があって、私は好きである。誰かを好きになる。愛する。それは、その人についていくことで自分がどんなふうに変わろうとも平気であると覚悟することである。
 「空の匂い」という詩に強引にあてはめていうと、友人がアマゾンからどんな電話をかけてこようが、そんなことは関係ないはずなのだが(関係ないと考えることができるはずなのだが)、北川は「関係ない」とは言わない。電話をかけてきた、そしてそこで何かを語った--その一瞬の出会い、そこから自分はどう変われるか、それを追うようにしてことばを動かすのだ。この一瞬から、北川はどこへ動いていくのか。どこへ行ったっていい。どこへ行ったって、そこへ行くしかない。一期一会を北川は生きるのである。それは、ある意味で「思考」を捨てることかもしれない。自分が自分であると定義してくれる「思考」を捨て、生まれ変わることかもしれない。
 北川の詩には、生まれ変わることにかけた詩人の伸びやかさがある。自由がある。







 今月のお薦め。
1 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』
2 糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」
3 粒来哲蔵「鳰」

詩集 等身境
小島 数子
思潮社

人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社
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マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」(★★★★)

2011-04-30 20:42:19 | 午前十時の映画祭
監督 マーティン・スコセッシ  出演 ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター

 映画の始まりがとても好きだ。地下鉄の蒸気がスクリーンを覆っている。その奥から黄色いタクシーがぬーっとあらわれる。その、ゆっくりしたスピードがおもしろい。目的地があるのではなく、また走るというのでもなく、時間をつぶす――という感じの無意味さ、無為の感じが、えっ、ニューヨークってこんな虚無にみちた街、と驚かされる。雨、雨にぬれた光があらゆるものにこびり着き、眠らない街を印象付ける。ただし眠らないといっても、活気にみちているというのではなく、疲れて眠れない――ロバート・デ・ニーロが演じる主人公そのままに、何もすることがなくて不眠症、しかたなく起きている、という感じが不気味である。ときどきみせる人なつっこい笑顔が、べたあっと肌にからみついてくる。あ、孤独で、人に餓えているのだ。
 眠れない男、何もすることがない男がニューヨークで見るのは、何もすることがなくて、それでも起きていて、時間つぶしにうごめく人々である。売春、ドラッグの売人、気弱な人間はポルノ映画館に逃げ込んでいる。汚れた人々。雨のなか、タクシーを走らせながら、この汚れをすべて洗い流す雨が降ればいいのに、と思っている。そういう男が副大統領の選挙ボランティアの女性を「はきだめの鶴」のように感じ、ひと目ぼれし、振られ、復讐として副大統領を暗殺しようとし、失敗し・・・と、ちょっとイージーなストーリーの果てに、ジョディ・フォスターが演じる売春の少女を組織から救い出そうとする。あ、なんだかいやあなストーリー。
でも、この当時のジョディ・フォスターは歯の矯正がまだすんでいなくて、前歯がすいている。醜いところが残っているのだが、それがリアリティになっている。演技というより、ふとみせるしぐさ、こんなことをしたって・・・という感じの表情がすばらしい。映画に対する変な怒りが感じられる。それはやっている少女売春婦という存在に対する怒りかもしれないが、それが彼女を清潔にしている。こういう表情をできる役者は好きだなあ。「人間の地」が美しい。 
 ロバート・デ・ニーロが銃に目覚めていくシーンもひきつけられる。ホルダーを改良し、使い心地を試すところなんか、いいなあ。銃という凶器に、男の狂気が重なってゆく。副大統領候補を暗殺して、デ・ニーロを振った女の目を引きつける。引き付けたい。あるいはジョディ・フォスターを悪から救いたい――あ、この二つ、まったく逆方向の動きだねえ。暗殺は完全な悪、少女救出は善意。正反対のものが、矛盾せずにデ・ニーロの「肉体」のなかで結びついている。だから、狂気なんだなあ。細い体が、ストイックな肉体鍛錬でさらに細くなっていくところが、むき出しの精神をみるようで、ちょっとぞくぞくする。
警官に囲まれ、自分の指で頭を撃ち抜くポーズをとるところも好きだなあ。ポーズだけではなく、口で音にならない音を出すふりをするところがいい。デ・ニーロがやったことは、どんなに現実と交渉があっても「ふり」なのだ。デ・ニーロの頭のなかで完結した世界なのだ。知っていて、にたーっと笑う。その笑顔が悲しい。ジョディ・フォスターの「地」と同じく美しい・
そして、その頭のなかの完結と、現実は、結局は分離する。ジョディ・フォスターの両親はデ・ニーロに感謝の手紙はよこすが、直接は会わない。デ・ニーロを振った女はデ・ニーロのタクシーに乗るが、それだけ。後者は、デ・ニーロの方が近づいて行かないのだけれど。
――でも、この部分が説明的すぎるし、センチメンタルでいやだなあ。指鉄砲で「ぽふっ、ぽふっ」とやっているところで終われば傑作なのになあと思う。冒頭の地下鉄の蒸気、そこからあらわれるタクシーのボディーがどうすることもできない「現実」だったのに、最後のバックミラーにうつる世界、窓越しに見える滲んだ光はセンチメンタルな「孤独」という夢想になってしまった。「孤独」を描いているうちに、「孤独」によごれてしまった。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ13本目、天神東宝6)

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細見和之「廃物処理」

2011-04-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
細見和之「廃物処理」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 細見和之「廃物処理」はリサイクルに出されたパソコンの山をみてトレプリンカを思い出す詩である。トレプリンカというのはユダヤ人が虐殺された収容所の設置されていた村の名前である。

大阪の人間が日置などという地名を知らないように
ワルシャワのポーランド人もトレプリンカを知らなかった
(略)
不思議なことに大阪と日置、ワルシャワとトレプリンカはほぼ等距離なのだ
かつてユダヤ人をしす詰めにした列車は
ワルシャワからマウキニアへ行き
そこからいまは廃線になっている支線でトレプリンカへむかった
同じころ
阪神間に出た日置の人々は
大阪から福知山線で篠山口までもどり
そこから篠山線に乗り換えて日置にたどりついた
現在その篠山線はやはり廃線になっている!

 私はワルシャワもトレプリンカも日置も福知山線も篠山線も知らない。知らないけれど、この部分がとてもおもしろいと思った。何ひとつ「具体的」なイメージを持つことができないのだけれど、とてもおもしろいと思った。
 ことばの運動が細見の考えていることを「正確に」伝えていると感じたからだ。細見は、ここでは現実の土地(場)を運動と距離に置き換えている。数学的といえばいいのか、物理的といえばいいのか、どちらがただしいのかわからないが、まあ、抽象化している。ただし、数学をつかわずに「土地」の名前、鉄道をつかって抽象化し、そこに相似形(あるいは合同)を見ている。
 その思考がくっきりとわかる。
 で、何を感じているか--ということは、この連だけではわからない。感じていることがわからないけれど、思考がわかるので、共感してしまうのである。「共感」ということばが「感情」だけにあてはまるものだとすれば、強引に「共思(共考)」と呼んでもいいが、細見のことばと私のことばがいっしょに動いているようでうれしくなるのである。もちろん細見のことばに具体を含んだものであるのに対し、わたしのことばは抽象にすぎないから、私がことばが重なるのは細見の「抽象としてのことば」だけなのだが、その抽象が重なれば、具象のほうも信じていいと思うのだ。
 「共感」「共思(共考)」ではなく、「共信」かな?
 まあ、なんでもいい。ともかく、細見の書いていることは「正しい」と思う。「正しい」ものを発見すると、とてもうれしい。それを「正しい」と呼ぶことが「誤読」であったとしても、というより、私は、そう「誤読」したいのだ。

 こういうとき、「ことば」は何に属しているのだろう。このことばは「肉体」? あるいは「頭」?

トレプリンカ/日置
パソコン野ざらしの虐殺の地
近くの日置神社では
数年前私の同級生があえなく首を吊ったこともある
あいつの霊が呼んでいるのだろうか
トレプリンカ/日置
その空き地で
焼かれることも埋められることもない
おびただしいパソコンが
青く輝く脳髄になってさびしい文字を明滅させている。

 トレプリンカと日置をパラレルでとらえることば--そのことばは「脳髄」で動いている。「文字」となって動いている。細見のことばは「頭」ではなく「脳髄」を通って動いている。脳髄をとおって、書かれ、並べられ、その並んだ姿から抽象を引き出している。そして、そこで確立された抽象をよりどころ、根拠として「さびしい」という感情へとたどりついている。
 ことばは「脳髄」を通ることで「肉体」を獲得している。この「肉体」は、私には「共信」できる。この「ことばの肉体」を私は「共信」できる。





アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)
細見 和之
岩波書店
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糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」

2011-04-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」はタイトルどおり「括弧」が使われている詩である。書き出し。

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。
ひからびた手が乾いた草と土をわけるように。踏みしだく踵が(わ
たし)の轍をつくって、こすれる皮膚の硬いところを草の汁がみど
りに染める。雷鳴のような(声)だった(かもしれない)。(昼の)
残像。あわい痕跡。ぽろぽろとほどける土がこぼれ、水を孕んだ南
風が湿地のほうへ静かにみちびかれる。

 括弧に入ったことばは強調されているように思える。そして、その強調は、そこに何か一般的ではないもの、糸井だけのものがあるからかもしれない。括弧に入れたことばにこだわりがあるのだ。ただし、この最初の部分を読んだだけでは、何にこだわっているのかわからない。(声)(わたし)(昼の)は、まだ「独特の何か」を含んだもの、という気がしないでもないけれど(独特のものがあるといわれれば、そうかもしれないと思うことができるが)、(かもしれない)はちょっと困る。「かもしれない」という考え(思い)の動きが「独特」といわれてもねえ。「肉体」なら、たとえば 100メートル競走とか、 100メートルバタフライとかの場合は、選手の「スタイル」(動きのスタイル)に独特のものがあるかもしれないが、思考の「かもしれない」が独特とはどういうことかなあ。何かを疑う、ということとは違うのかな? どんなふうに独特なのかな?
 わからないまま、私は読み進む。そして書き進む。

湿地。鳥の生まれる浅瀬。

夜という中断にとって、わたしは(わたし)という異物。眠りとい
うかりそめの詩にとって、めざめていることは(生きること)の逸
脱。

 このあともことばはつづくのだが、ここまで読んで私は括弧の「わかった」と思った。つまり、「誤読」したいことをみつけた。ここに書いてあることを、私の読みたいように「誤読」していこうと決めたのだ。
 括弧とは「異物」の感覚なのである。そしてそれは「中断」であり、「生きること」なのである。
 「わたしは(わたし)という異物」と書くとき、「わたし」はひとりではない。いや、ひとりなのだが、(わたし)を「異物」と感じる「わたし」がいる。(わたし)を「異物」と感じることで「わたし」は「生きている」。「異物」と感じることは(生きること)なのである。
 あ、こんなふうに括弧をいくつも書いていると(私はいつも括弧をいくつも書くが、他人の括弧を引用しながら括弧を書いていると)、ちょっと区別がつかなくなる。それはわ私にとって区別がつかなくなるだけであって、糸井は違うだろう。いや、私が括弧をつけくわえたために、私の文章はわからないかもしれない。けれど、糸井自身が書いた文章でははっきり区別がついているはずである。
 と、しちめんどうくさいことを書いたのは。
 糸井はとってもしちめんどうくさいことを書いているからなのだ。

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。

 これは、ある声が何かしら「異物」をもっているように感じられたということである。そして、そう感じた瞬間、意識はちょっと「中断」する。声(ことば)は意味を持っている。その意味は文脈のなかで決定されるものだが、意味を追いながら、その文脈とは少し「ずれ」たことを感じる。その瞬間、声が(声)になる。
 この感覚は、まあ、説明がめんどうくさいね。
 めんどうなことを、糸井のことばを借りながら反復すると(ということばで「誤読」を押し進めると)、「異物」としての(声)を感じた瞬間、声が「ずれ」て(声)になったと感じた瞬間、わたしは(わたし)になる。「異物」を感じる(わたし)。(わたし)とはわたしから「ずれ」た存在なのである。
 その(声)を「雷鳴」という比喩でとらえ直しているのは、(声)が一瞬だったこと、衝撃的だったことを「意味」している。何か衝撃的な「音(雷鳴のように突然の存在)」として響いたということだろう。いや、そうではなく、この「雷鳴」という比喩は、あとから思いついたものである。(声)について書こうとしたとき、あとからやってきたものである。
 だから(かもしれない)ということばが「異物」として追加されているのだ。(声)を聞いたとき、その(声)を「雷鳴のような」と思ったとき(そのことばでとらえなおしたとき)、そこには「ずれ」がある。そこでは、その「雷鳴のような」という「比喩」が「異物」として動いているということである。
 「比喩」はあとからやってくる。だから、それは「異物」である。「比喩」とは、そこにないもので、いまここにあるものを説明することである。そのとき、いま、ここは「中断」されて、どこかになる。「異物」としての時間・空間が存在することになる。いま、ここから、いま、ここではないところへと動いていくことは「逸脱」である。
 ああ、めんどうくさい。と書くと糸井に申し訳ない気がしないでもないが、こういうことをくりかえし書くのは、正直めんどうである。こんなめんどうくさいことを書いても、けっきょくごちゃごちゃして、何が書いてあるかわからないようになるだけである--と思うので、途中を省略。
 「異物」「逸脱」「中断」--それを糸井は次のように書き直している。

括弧(  )、という魅惑的な中間地帯。括られることで閉ざされ、
なお風を通過させる開口部をもって。(とざされる)ことでひらかれ
るのを待つ。

 「中間地帯」とは「中断」と同じである。「中断」したとき、ことばは、何かと何かの「中間地帯」にある。(何かと何かは説明しない。省略した部分に(名づけられぬもの)ということばがある。糸井にも書きようがないののである。だから、説明はしない。)そして、それを「保留」ととらえ直せば、それはそのまま(かもしれない)になる。断定を回避する。
 そして、その「異物」を「異物」として括弧に入れる。括弧に入れるのは、それを閉じ込めることであるが、糸井のことばの運動をそのまま追えばわかるように、閉じ込めるのはそれについて考えるためである。「異物」と感じたものについて、ことばを動かすこと。つまり「中断」した地点、「中間地点」から、それまでめざしていたところとは違うところへ「逸脱」していくこと--つまりは、その括弧を開いて、別なところへいくことである。行けないまでも、行こうとすること、行こうとする思いが、動きだすのを待つということでもある。
 「中断」し、「中間地帯」で「待つ」。どこへ行くかもわからず「待つ」--そのとき(わたし)はたしかに「異物」である。(わたし)はわたしを邪魔しているともいえるからである。だが、その邪魔があってはじめて、どこかへ行くという運動が明確になる。

 あ、まためんどうくさくなった。
 またまた、省略。
 こんなしちめんどうくさいことは「頭」の問題である。「肉体」の問題ではない。だから、私は、こんな作品は大嫌い--と書きたいのだが、実は、書けない。大好きである。ここには「頭」しかない。「肉体」がないのに、なぜ?--と聞かれたら、またまた説明がめんどうなのだが、ここには「ことばの肉体」がある。「頭の肉体」がある。糸井は、私がいま書いてきたようなことを、「頭」で考えているのではなく、「肉体」で動かしている。「頭」が「肉体」とはなれず、「肉体」になってしまっている。それは別のことばで言えば、だれそれの文脈を借りてきてことばを動かすのではなく、糸井は糸井独自の文脈をつくり、そこでことばを動かしているということなのだ。糸井独自の文脈で動くことばをもっている。糸井の「ことばの肉体」は、独自に糸井の文脈をつくっているということなのである。--糸井の文脈、「ことばの肉体」「頭の肉体」(肉体化した頭)が独自であるから、それを私ふうに言いなおそうとすると(誤読しようとすると)、とてもめんどうになる。接点をみつけ、そこから侵入して行って、また出てくるというのが、ややこしい感じになる。
 ということは、まあ、おいておいて。

 私が糸井の詩が好きな理由は、そこに「音」があるからだ。糸井がことばを「音」(声)として感じているのを直感できるからだ。(と、これまた、めんどうなので、一気に飛躍して書いてしまう。)

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。

 糸井が「声」(音)にこだわっているのは、いつかの詩集で「イレーヌ」というひとの名前の変遷について書いた詩があったことを思い出してもらえれば十分だろう。「音」は人から人へと動く間にかわってしまう。かわりながら、しかし、何かを引き継いでいる。そこには「異物」と「同質」がとけあって動いている。括弧に括られ、閉ざされながら、次に開かれるときには何かが違っている。違っているけれど、それを貫くものがある。それを普通は「意味」というけれど、たぶん糸井は「意味」というより「音」(声)だと感じている。「意味」という「頭」で維持しつづける何かではなく、「声」として維持しつづける何か。「音」が「声」となって「肉体」そのものを潜り抜けるときの、快感、愉悦、悦楽……それこそを人間は維持しつづけている。追い求めている。その「肉体」のなかを貫く「声」にならない「音」、聞き取ることができない「音」(ことばという表現を借りれば、生まれる以前のことば、未生のことばになるのかもしれない)を、糸井はとても美しいことばで定義している。
 「ささやき」と。
 最後の部分。

      ささやきが風穴から漏れてゆく(  )、わたしが(括
られ)、夜の(闇で)くるまれるように。聴き取れない(ささやきが)
秘密となって溢れだすように。閉じられない鞘、(  )という欠
落。漏れる、光り(囲われながら放たれる夢の中身)。(わたしが)
わたしに見えないように。在ることと眠っていること(   )の
境目。つながったままちぎれ、ぶらさがって(寄り添っている)。風
が封じ込める/呼び入れる((  )のささやき)。

 なんという美しい声。鍛えられた声、とただただ感心する。





アルチーヌ
糸井 茂莉
思潮社


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ミカエル・ハフストローム監督「ザ・ライト」(★★)

2011-04-28 10:54:06 | 映画
監督 ミカエル・ハフストローム 出演 アンソニー・ホプキンス、コリン・オドナヒュー、アリシー・ブラガ、ルトガー・ハウアー

 とても笑えるシーンがある。主人公が「悪魔払い」をみた後、「悪魔」ではなく精神疾患なのでは、と疑問を抱く。それについて、アンソニー・ホプキンスが「緑のヘドを吐いたり、首がぐるっと回ったりしないからか」というのである。
 この映画は、実際に生存する「エクソシスト」の誕生までを描いているのようなのだが、彼らもまた、あの「エクソシスト」を見たという設定だね。この台詞だけで、「もうこの映画はフリードキンの映画に負けています」と宣言しているようなもの。いやあ、ウィリアム・フリードキンの切れのいい映像と比べると、これはもう物足りなすぎる。緑のヘドにしろ、首がぐるりと回るシーンや、ブリッジしながら階段をおりてくるシーンは、グロテスクでこけおどしのような印象があるが、実は、とても美しい。いつだったか忘れてしまったが、私は「リバイバル」か「名作上映会」か忘れたが、2度目に見たときの印象が1度目の「びっくり」「ぎょっ」とはまったく違っているのにおどろいてしまったことがある。どのシーンも非常に美しい。シャープである。映像にとどこおりがない--というのがフリードキンの映画をあれだけヒットさせた理由である。
 この映画がいくらか「ていねい」だとすれば、見習いの「エクソシスト」が悪魔というものを信じていなくて、悪魔に取りつかれている少女を精神疾患と見ているということである。精神病理学の視点で少女を観察し、また科学的な治療が必要だと主張する点だろう。--でもねえ、これだってフリードキンの作品に比べると、物足りない。
 フリードキンの作品では、精神病理学を説く神父がでてきたかどうか忘れたが、ちゃんと病院がでてきた。病院でCTスキャンをとり、脳を調べている。そのレントゲンの写真もスクリーンにずらりと並んだ。「科学」をきちんと描いている。「ことば」ではなく、映像としてスクリーンに展開している。そういう「基本」があるから、「悪魔」が生きてくる。「ことば」精神科医に見せるべきだ、科学的な治療すべきだというだけでは、映画にはならない。安っぽい小説にしかならない。(小説でも、きちんとした小説なら「精神科医に見せるべきだ」だけではなく、精神科医が登場し、少女とどう向き合ったかを具体的に書くだろう。)科学の不在が、同時に神学(信仰)の不在へもつながっていく。バチカンで「エクソシスト養成講座」が開かれ、その講義にパソコン(プロジェクター)を使った映像が活用されるところなど、ばかばかしくてどうしようもない。パソコンなど、もはや「科学」ではないのだ。ここに描かれる「信仰」は「現実」とまったく向き合っていない。だから、「信仰」になっていない。「ストーリー(お話)」で終わっている。
 クライマックス(?)で、エクソシスト見習いの主人公が「悪魔を信じる。それは髪を信じるからだ」と言うことで、悪魔に打ち勝つところなど、私は笑ってしまったなあ。映画なんだから「ことば」でそんなことを言ったって説得力がない。こんなロジックに悪魔が負けるなんて、悪魔の資格がない。詭弁を突き破って暴れる悪魔の魅力がまったく描かれていな。だから神も描かれていない。
 冒頭の遺体処理(おくりびと、のような仕事)が少していねいで、シンクに流れる水の映像や、電信柱(と電線)などの街の風景がわりと「なま」な感じでおもしろかっただけに、これではどうしようもないなあ。
 アンソニー・ホプキンスも前半はいいのだが、悪魔にとりつかれてからが、演技になっていない。手が震えるシーンなど、おかしくない? 抑えようとしても震えるから震えになるのに、あんなにぶるぶる震えたら、震えの強調になる。観客に、はい、いまアンソニー・ホプキンスは悪魔にとりつかれています、と宣伝してしまっている。それじゃ、こわくないでしょう。どっちかわからない、というのが一番こわいのだから。メーキャップ技術はフリードキンの時代より格段に進んでいるはずなのに、印象ではリンダ・ブレアのメーキャップの方がアンソニー・ホプキンスのメーキャップよりシャープだ。アンソニー・ホプキンスの牧師館(その室内)も、安直なセットなのか、あまりに「時間」を感じさせない薄っぺらな印象で、舞台をローマにする必要がまったくない。

 この映画に手柄があるとすれば、フリードキンの「エクソシスト」は大傑作だったと証明したことかもしれない。
                        (2011年04月27日、中州大洋3)
                       



今月のお薦めの3本
1 シリアスマン
2 SOMEWHERE
3 神々と男たち

エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]
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永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(6)

2011-04-27 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(6)(思潮社、2011年04月25日発行)

 永島卓の「わたし」のなかに存在する「わたしたち」。もちろん、だれの「わたし」のなかにも「わたしたち」が存在する。「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」は存在させられないものかもしれない。そして、「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」が存在しえない、というとき、「わたしたち」と「わたし」は同類である。共通のものをもっている。永島の「わたし」も、「わたしたち」と共通のものをもっているのだろうけれど、永島の「わたし」は「わたし」とは異質なものをもっている「わたしたち」をも受け入れる。「同じ」でありながら「違う」のだ。それは「他者」だ。「他者」とは、「同じ」人間でありながら、何かしら「違ったもの」をもっているひとのことである。永島は「他者」を許容する。「他者」が「わたし」を通って「息」となって噴出し、それが「声」になるのを受け入れている。「ことば」になるのを受け入れている。というより、さらに進んで、そうやって「息」のなかにあらわれてくる「他者」を新しい自分の姿、自分の「肉体」のなかに眠っていたものが目覚めて暴れはじめる(?)と感じながら、その凶暴を楽しんでいる感じがするのである。「息」のなかに「他人」が噴出するとき、それをささえる永島の「肉体」は、永島という限界を超える。超越する。「超人」になる。その歓喜が、自然に「声」にこもり、「声」を励ます。
 --私の書いていることは、あまりにも抽象的で、変なことだとはわかっているのだが、そういう印象なのだ。
 
 長い詩について書くと、私のことばはどこまでも脱線しつづけそうなので、短い詩について感じたことを書いてみよう。「きょうはきのうのあしてたです」。この詩には「二〇〇八年一月碧南市成人式パンフレットに」という注釈がついている。永島が新成人に対して書いた詩なのだろう。この詩のタイトルは、とてもおもしろい。変な表現だが、論理的である。「きょう」はたしかに「きのう」を基準にして言えば「あした」になる。ここでは何を「基準」にするか、その「基準」がゆれている。
 それは、「わたし」を基準にことばが動いていたのが、いつのまにか「わたしの中の他人」を基準にしてことばが動くのに似ている。「わたし」を突き破って「他人」がでてきて、その「他人」が誕生することで「わたし」がかわってしまうのに似ている。そして、「わたし」が「わたし」ではなくなり、「他人」になってしまうのに、そのことばは、「わたし」の「一息」のなかにあらわれるのにそっくりである。--と、書けば、少しは私の書こうとしていることが明確になるかもしれない。
 永島のことばのなかでは「わたし」と「わたし以外のもの=他人」が同居し、「基準」を譲り合いながら(?)動く。そのことばの動きが「呼吸(一息)」のなかで完結というと変だが、ともかく「一息」のなかに、その同居が「混在」する。(混在、ということばをつかったのは、そういう詩があるからである。--この詩についても書きたいことがあるのだけれど、長くなるので省略。)
 で、その「きょうはののうのあしたです」の書き出し。

あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください

 なんだかよくわからないが、「あなた」と「わたし」、「朝の海」と「星の空」、「売る」と「買う」ということばの往復、交渉が若くて、ロマンチックな感じでいいなあ。「成人式」の詩っぽいなあ、と思う。
 で、じゃあ、何が書いてある? と考えはじめると、この2行がちょっと変だと気がつく。「朝の海」「星の空」を売り買いすることはできない--という意味ではない。その売り買いができるかどうかは、まあ、詩だから、どうでもいいのだ。できると思えばできる。
 おかしいのは2行目である。1行目と比較するとわかる。

あなたの朝の海をわたしに売ってください。

 これが「朝の海」ではなく「林檎」だったら、何の問題もない。わたし「に」売ってくださいという関係が成り立つ。
 けれど、2行目。

わたしの星の空をあなたに買ってください

 「星の空」が「林檎」だったら、どうなるか。あなた「に」買ってくださいは変である。あなた「は」買ってください。あなたは、わたし「から」買ってください。これが「日本語」の「対句」であるはずだ。「売る」と「買う」は、そんなふうにことばの一部を帰ることで対句になくるはずである。けれど、永島は「あなたに買ってください」と書く。
 そして、その日本語が変である、なんだかねじくれているのだけれど、何かわかったような気持ちになるだけではなく、そのねじくれ方のなかに「おもしろいもの」、いままで気がつかッなかった何かがあるように感じるのである。
 
あなたに買ってください

 これを、もし、正しい(?)日本語にするとしたら、何を補足すればいいだろうか。

わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください

 そうすると、この2行はほんとう(?)は、

あなたの朝の海を「あなたは」わたし「のため」に売ってください
わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください

 ということになるのだろう。
 「左岸」で、私は、永島のねじくれた文体の、そのねじくれの部分に「わたし」が省略されていると書いた。この作品では、文体のねじくれの部分に「あなた」が省略されていることになる。
 このときの「あなた」は「わたし」にとって「他者」なのだが、同時に「わたしたち」に含まれる人間である。成人式で、永島は若い人たちを祝っている。「わたしたち」のなかまとして祝っている。そう考えると「あなた」が「わたしたち」であることがわかる。
 「あなた」は「わたしたち」である。けれど、永島は「あなた」を「わたしたち」そのものに閉じ込めようとはしていない。どこかで違ったいのちであると知っている。
 そして、この「わたしたち」でありながら、「あなた」という「他人」が、永島のこの2行のなかでは、不思議な形で出会い、「息(声)」として、それを「同じもの」の出会いとして「肉体」化しているのだ。

あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください

 この2行の「文法」はおかしい。「学校教科書」なら、間違っている、といわれるだけである。けれど、その「間違い」は、「わたし」と「あなた」の入れ換え、「朝の海」と「星の空」の入れ換え、「に売ってください」と「に買ってください」の入れ替えのなかで、とても美しい「音」になる。
 「音」そのものの「対句(?)」が、文法の間違いを消し去り、同時に「文法」を超えることばの運動を教えてくる。
 間違える--というのは、とても楽しい。そして、この間違いのなかで、「わたし」と「あなた」は出会い、入れ替わり、新しい何事かを始めるのだ。
 いいなあ。こんなことばに出会って、新成人になれるなんて。うらやましくて、しようがない。
 こんなふうに「わたし」と「あなた」を出会わせるひとがいる街はいいなあ。碧南というのは行ったことがないけれど、行ってみたいなあ。永島に会ってみたいなあ、と思うのである。

あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください

新しい風紋の道に迷ってしまい
これから始まる出会いや別れの切なさを
誰に告げればよいのだろう

いつも知らないふりをしながら逢っていて
いつも指を結び合いながら

見つめあうふたりの勇気と信頼を
愛しい土地に賭けながら
さわやかに光る旗を夢みていたのです

樹葉から落ちる透明な雫を掌に包み
寂しさで震える川の物語を
遠い昔のように知っておりました

わたしの水の筋肉をあなたに買ってください
あなたの空の野菜をわたしに売ってください




 補足。

あなたの朝の海を「あなたは」わたし「のため」に売ってください
わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください

 と、「あなた」ということばを補って説明した部分で、書き漏らしたことがある。ひとは誰でも自分にとってあまりにも密着しすぎていることばを「省略」してしまう。こういう「無意識」にまでなってしまって、ついつい省略されることばのなかにこそ、私はそのひとの「思想」があると思っている。
 「左岸」では「わたし」であった。「わたし」が「思想」であるというのは、まあ、わかりやすいことかもしれない。
 永島の「思想」の特徴は、それが「わたし」に限定されないことである。
 この詩の、「あなた」がそれを証明している。
 永島にとって「わたし」が「肉体」(思想)であると同時に、「あなた」(わたし以外のひと)も「肉体」になってしまっている「思想」なのである。
 その不思議な結合が「長い息」、「息のなかでねじくれることば」となって動いている。





碧南偏執的複合的私言―永島卓詩集 (1966年)
永島 卓
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(213 )

2011-04-27 09:16:33 | 詩集
 『禮記』のつづき。
 「《秋の歌》」を読むと、詩はことば、ことばからことばへの飛躍だということをあらためて思う。ことばにはことば自体の「肉体」というか「文脈」がある。その自然を突き破って「わざと」が入り込むと、ことばが「もの」のようにばらばらになって自己主張する。その瞬間が楽しい。

ゴッホの
百姓のあの靴の祭礼が来た
空も紫水晶の透明なナスの
悲しみの女のかすかなひらめきに
沈んでいるこの貴い瞬間の
野原の果てに
栗林が絶望をさけんでいる

 最初のゴッホの靴の絵は、有名な履きつぶされた靴である。「あの」ということばで説明してしまうところが西脇流である。そのあとの「祭礼」。これもまた独特である。「祭礼」そのものが「来た」というのではなく、その靴を(その絵を)「祝福」するというか、何かしらの豊かな気持ち(実感)で思い出す「とき」が来た、実感をもって思い出しているくらいの「意味」なのだろうけれど、その「意味」になるまえのことばを「祭礼」ということばを借りて代用してしまうとき、「祭礼」が「もの」のようにそこで動きだす。「意味」をつくりかえる。この「つくりかえ」の運動に引き出されて、ことばがさらに動きだす。
 「空も紫水晶の透明なナスの」という1行には、西脇の大好きな「紫のナス」(ナスの紫)が出てくるが、その間に「水晶の透明な」ということばが割り込んでくる。そうすると、ここに書かれているのが「ナス」なのか「(紫)水晶」なのか、一瞬、わからなくなる。この混乱・錯乱がことばを自由にする。「文脈」を解放する。
 ここから、ことばが「音」になる。

悲しみの女のかすかなひらめきに

 こんな1行は西脇が書くから1行として成立する。普通なら「意味」が過剰になり、センチメンタルになってしまう。けれど、西脇はこういうことばを「意味」として書かない。「音」として書いている。「か」なしみ、「か」す「か」な、か「な」しみ、かすか「な」。こんなふうに「音」がくりかえされると「かなしみ」と「かすかな」は同じことばの異種(?)という感じがしてくる。「かなしみ」と「かすか」は光の輝き方が違うだけのような感じがしてくる。だから、次の「ひらめき」がとても自然である。「ひらめき」という音のなかには「か行」と、かなしみの「み」に通じる母音「い」がひらめ「き」という形でゆらいでいる。いや「ひらめいている」。

またあの黒土にまみれて
永遠を憧れたカタツムリが死んでいる

 「黒土」にはゴッホの靴の反映がある。「永遠を憧れたカタツムリが死んでいる」の「カタツムリ」にどんな「文脈」が隠されているのか、私は知らないが、「文脈」とは無関係に、私は「音楽」を感じる。
 「あこがれた」「かたつむり」。「が」と「か」、「た」と「た」。キリギリスでも蛇でもカエルでもない。どうしても「カタツムリ」という「音」でないと、何かが違ってくる。そして次の「しんでいる」。この「ん」は「ぬ」の変形であるが、「む」とも「音」が響きあう。だからこそ、「カタツムリ」でなくてはいけないのだ。

青ざめた宇宙のかけらの石ころも
眼をつぶつて夏のころ
乞食が一度腰掛けたぬくみを
まだ夢みているのだ

 「青ざめた宇宙」は、前の行の「宇宙」と対応して「意味」をつくるかもしれない。「意味」を感じる。でも、この「意味」を「青ざめた」ということばで揺さぶるところがおもしろいし--こういう部分にはたしかに多くの人が言っているように「絵画的西脇」を感じる。「色」を呼吸してことばを動かしている西脇を感じる。また、この「青ざめた」は前にでてきた「紫水晶」(の透明)と呼びかけあってもいるだろう。
 ことばが「乱反射」している感じがする。
 そしてその「乱反射」のなかに、「宇宙のかけらの石ころ」という「哲学」を紛れ込ませること--石に宇宙のみるという「思想」を紛れ込ませる瞬間がおもしろい。「宇宙」という巨大なものと「石ころ」という小さなものが衝突する。スパークする。この「スパーク」があるから、「乞食」が生きてくる。
 「乞食」は「乞食」ではなく、「旅人」でもいいし、「百姓」でもいいし、「妊婦」でも、「ひとの体温のぬくみ」という点では変わらないのだが、「乞食」がいちばんびっくりする。驚きがある。「音」が乱暴で、その乱暴な力が、「ぬくみ」の静かな力と出会うとき、そこに「新鮮」があらわれる。
 すぐ前の行の「眼をつぶつて」は「つむつて」でも「意味」は同じだ。また、「ぶ」と「む」は似てもいるのだが、「つむつて」では「こじき」の濁音の強さに拮抗しえない。「つぶつて」という濁音が先にあるから「こじき」がまっすぐに動く。「音」が(そして、その「音」を出すときの声帯の解放感が)まっすぐにつながる。

 一方で高尚な「哲学」と日常の些細な(つまらない)現実存在(もの)が衝突して、精神を活性化させ、他方に、その活性化した動きに対応した「音」の響きがある。「音楽」がある。
 「意味」の衝突、そしてそこから始まる「哲学」(あるいは、詩学、文学)と並列して「音楽」が動いている。「音楽」があるから、「哲学」が重苦しくならない。「音楽」があるから、かっこいい。


西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(5)

2011-04-26 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(5)(思潮社、2011年04月25日発行)

 永島卓のことばの特徴は、独特の「呼吸」(息継ぎ)にある。永島は句読点のある詩と句読点のない詩を書いているが、句読点はあってもなくても、とても変である。読点「、」は「呼吸」(息継ぎ)の位置を示すはずであるが、それは「息継ぎ」だけではなく、「飛躍」(逸脱)をもあらわすことがある。
 永島のことばは、「ひと呼吸」のなかにふたつのものを持ち込むことろにあるときのうまでの「日記」に書いたが、「呼吸」のたびに逸脱していくということもある。「呼吸」のたびに逸脱してゆき、「文章」のなかに複数のものが「融合」して存在するという形をとるものもある。
 「ニック・ユーサーに出会った場所」の書き出し。

 なぜって言われても、此処に立っているのは、ぼおお
ーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの
梯子が、どちらに倒れてゆくのか見定めてゆく場所。

 読点「、」(呼吸)のたびに、ことばが「逸脱」していく。「なぜって言われても、」は以後のことばが動いていくための「理由」だから、次に動くことばとのあいだに「飛躍」があってもいいのだが、それ以後がとても変である。「此処に立っているのは、」は「主語」(主題)をあらわしているはずだが、次に「述語」がこない。「此処に立っているのは、○○である」の「○○である」がない。「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの」の次に来る「梯子」が○○にあたるかもしれないが、「である」がない。「文法」が「学校教科書」の説明しているようには文章を構成していないのである。別なことばで言えば、「文法」がでたらめである。
 そして、この「でたらめな文法」を作り上げているものというか、「文法を破壊しているもの」というのが、「逸脱」である。「此処に立っているは、」とそこまで言ってひと呼吸したとき、新しく吸い込んだ息が、永島の「肉体」のなかに何か新しいものを目覚めさせ、その成長をあおるのである。そうやって噴出してきたのが「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」である。もしかすると、永島は「此処に立っているのは風である」と言おうとしたのかもしれない。でも、その「風」が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていることに気が付いた瞬間、「である」という「述語」を忘れてしまったのかもしれない。同時に、その風の「ぼおおーんぼおおーん」という不思議な鳴り方に刺激されて、「空」が「太く伸びて」ゆくのを感じたのかもしれない。空が太く伸びてゆくというのは変だけれど、風の動きが空の動きということかもしれない。私は、お、風が太く動いていって「空」になってしまうのか、すごいぞ、と感じてしまう。「日本語」として変なのだが(文法的には変なのだが)、その変を超えて、変ではないものを感じてしまう。変であっても、変でなくてもいいのかもしれないが、何かを感じてしまうので、永島のことばをそのまま読んでしまう。そこに「息の長さ」、「長い息のなか」でことばがねじくれながらどこかへ行こうとする「力」そのものを感じ、それに身をまかせてしまうのである。
 このとき、私は「此処に立っているのは、」という「テーマ(主語)」を忘れてしまう。テーマを破ってあらわれた「風」が強烈過ぎて、風を追ってしまうのだが……。あれれっ。読点「、」を挟んで、「風まかせの梯子が、」と「此処に立っているのは、」につながるような「梯子」の登場で、あ、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」というのは「風」を修飾する「節」だったのか、と気が付く。(でも、それは「正しい」ことかどうかわからないから、「錯覚する」とでもいっておいた方がいいかもしれない)。そして、その「節」を長い長い逸脱だなあ。長い長い息の永島だからできる逸脱だなあ、と思う。私はこんな長いことばを逸脱のままもちこたえることができない。どうしたって、自分がことばをもちこたえられるように整理してしまう。整えてしまう。「文法にあわせた文脈」にしてしまう。
 でも、この「長いひと呼吸」、長い逸脱は永島の「肉体」にも影響するんだろうなあ。「主語」が「風」を通り抜けて「梯子」になったあと、「梯子」の「述語」がまた変になる。「梯子」の述語は「倒れてゆく」(これは、日本語として正しいね)なのか、あるいは「見定めてゆく」(梯子が見定めるというのは、日本語として正しくないね)なのか。どうにも、判断ができかねる。「梯子が見定めてゆく」というのは日本語として正しくはない(?)のだけれど、梯子がどっちへ倒れてゆこうかなと考えている、決めようとしているというふうにして読むと、そうか、梯子はそんなことを思うのか、とも納得してしまう。永島の長い呼吸に影響されて、私のことば自体が「文法」を逸脱して動いてゆくのである。

 で。

 長々と書いたのだが、永島のこの書き出しを読むと--あ、ほんとうは、ここから書きはじめるべきだったかもしれないなあ。
 この書き出しを読むと、「文法」的にはおかしいのだが、「此処」に「梯子」が立っていて、その梯子のために風が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていて(風がぶつかって音を立てていて)、その音の太さ(太い音、太い声、という言い方があるね)のために、まるで風が空になっていくようにも感じられる。同時に、あまりに太い風なので、梯子が倒れそう。どっちに倒れていくのかなあ、とぼんやり(?)見ていた--此処は、それを見定める「場所」なのだと言いたいんだろうなあ、と感じる。
 理路整然と(つまり正確な「文法」で)書かれたとしたら、それはそれで「わかりやすい」かもしれないけれど……。
 でも、この「わかりにくい」文体、ことばの動きを追うと、「意味」ではなく、そこにある「ぼおおーんぼおおーん」という鳴る風が気持ちよくて、これは「整理」してほしくないなあ、とも思うのだ。「整理」されない乱れ、呼吸そのもののなかにある乱暴な(文法を破壊しながらそれでも動いてしまう)ことばの力--それが、永島のことばの気持ちよさなんだなあと感じるのだ。永島のことばが、長い長い息となって、私の「肉体」のなかを吹き渡るのを感じるのだ。まるで、私自身が永島の「肉体」になったような感じがするのだ。

 そのとき。

 私は、はっと気が付く。そして、とっても恥ずかしくなる。
 「此処に立っているのは、」の「主語」は「風」ではない。「梯子」でもない。「わたし」なのだ。「わたし」の「肉体」なのだ。
 「わたし」は此処に立っています。なぜと言われれば、ぼおおーんぼおおーと風が鳴っているからです。そして、ぼおおーんぼおおーんと鳴る風は、太く伸びて空になる、いや空はぼおおーんぼおおーんと鳴る風のために太く伸びてゆくからです。そんなふうに感じられるからです。梯子は風にまかせてゆれています。梯子はどっちへ倒れてゆくかなあ、と「わたし」はそれを見定めるために、此処に立っているのです。
 「わたし」(永島)という「肉体」を、そこに書かれていることばに「挿入」すれば、あらゆることばの「乱れ」は乱れではなくなる。永島の「肉体」がいつでも省略されている。
 永島の今回の詩集を読みはじめたときの、「左岸」の冒頭の1行。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 この「倒置法」の文章のようにもみえる1行の、その「呼吸」、省略された読点「、」はほんとうは「わたし」なのである。七月のあなたをまっていました。「わたしは」昔からこのサガンのなかで。さらにいえば、

「わたしは」七月のあなたを待っていました。「わたしは」昔からサガンのなかで。

 というのが、この1行なのである。繰り返される「わたし」。それは繰り返されることで無意識にかわり、そこから消えていくのだ。ことばを動かすとき、私たちはだれでも「肉体」を意識などしない。意識しないけれど、そこには「肉体」がある。その「肉体」をことばのなかに戻してやると(意識して、ことばを読むと)、わかることがある。
 ことばを読む--このとき、私たちは、書いた人の「肉体」を忘れてしまいがちである。そして、「肉体」を忘れてしまうから、わからなくなるのだ。「声」を聞かないいから、わからなくなるのだ。
 「意味」はたしかにことばのなかにあるのだが、ひとと対話しているとき私たちは「ことば」の「意味」だけに注意しているわけではない。「声」を聞いている。「声」の調子を聞いている。そして、そこに「ことばの意味」を超えるもの、その「声」を出す人の「肉体」のなかに動いているものを感じている。「意味」がわからなくても怒っているということがわかったり、「意味」がわからなくても悲しんでいるとわかったりする。笑っているけれど、悲しんでいる、涙をこらえているということがわかったりする。

 だんだん話がずれていってしまいそうだ。書いていることが、永島の詩から逸脱してしまいそうだ。けれど、きっとこの逸脱が永島の詩にもどることなのだ。

 永島の詩のことばは、「呼吸」に魅力がある。それは「省略」されたとき、ふたつのものを強い力で結びつける。そういうことをまず私は書いた。この「呼吸」は「肉体」そのものであるということに、私は気が付いた。「わたし」(永島)という「肉体」が「省略」されるとき、それはふたつのものを結びつける。他者を結びつける。
 ここから強引に飛躍するのだが……。
 永島の「省略」した「わたし」の「肉体」のなかには、「わたし」だけではなく「他者」がいる。ほんとうはていねいに書かないといけないのかもしれないけれど、乱暴に書いてしまうと「左岸」では、「サガンのある街」の「ひとびと」がときどき省略されている。

(わたしたちの)昔の哀しい物語を詰めたんだ(わたしたちの)傷ついた布袋が
路地に山積され(わたしたちは)あなたを此処から落としすることはできません

 「わたし」ではなく「わたしたち」が、そこには書かれていたのだ。「あなた」と「区別」がなくなるのは「わたし」であると同時に「わたしたち」だったのだ。
 「夏の冬」で「絶望」していたのは「わたし」だけではない。「わたしたち」だったのだ。永島が「生きている」と感じているときに、同時に「ここ」に生きている人々を含んでいるのだ。「ここ」は時にはサガンのある街という局所(?)であり、あるときは日本(広島、長崎)である。「いま」は「いま」であると同時に「かつて」でもある。
 永島の「わたしという肉体」には、「わたし」を超えて連帯する「ひと」がいる。永島は「連帯」というようなことばを使うかどうか知らないが、「わたし」を超えてつづいている「いのち」の意識が動いている。
 「わたし」ではなく「わたしたち」。だから、「息」のなかに「わたし」を超える何か変なもの(?)が紛れ込んで、ねじくれていくのである。永島の「肉体」はそういうものを引き受けながら、息を吐き出し、「わたしたち」の「音」を「声」に、つまり「ことば」にしている。
 永島の「息」は、そういう「巨大な息」である。

 「ニック……」については、句読点のことでまだ書きたいことがあったのだけれど、いま書いたことのなかに、消えてしまった。だから、省略。
 あすは、もう一回、別の詩について。




永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社


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マイケル・ウィンターボトム監督「キラー・インサイド・ミー」(★★★)

2011-04-26 11:45:55 | 映画
監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 ケイシー・アフレック、ケイト・ハドソン、ジェシカ・アルバ

 田舎町の保安官助手。この男がだんだん殺人に目覚めていく。ひとを殺すことがやめられなくなる。とてもおとなしい感じがするし、肉体的にも頑丈な感じがしないのだが、破壊のよろこびを知っている。
 恋人(2人)を殴り殺すシーンがすごい。顔(頭の骨)がくずれるまでに殴りつづける。内臓が破裂するまで殴りつづける。残酷なのだが、あまり残酷さがつたわってこない。2人は、どうも、この男の「本質」を知っている。知っているといっても、「頭」で理解しているわけではない。「肉体」で共感している。破壊すること-破壊されることのつながりのなかで、主人公の男と出会っていることを納得している感じがする。だから、殴り殺されることを受け入れる。「キラー・インサイド・ミー」の「ミー」は基本的には主人公の保安官助手をさすのだが、被害者のありようもまた、別の意味で「キラー」なのだ。誘っているのだ。こういう見方は、女性蔑視につながるかもしれないので、「誘っている」ということばはよくないのかもしれないが、何か、自分自身の力で生きていくという感じ、何がなんでも(つまり、主人公のように他人を殺してまでも)生きていくという感じがつたわってこない。特に娼婦の女は通いつめてくる父子から金をまきあげようとしているのに、その感情が「ことば」だけで「肉体」からあふれてこない。それが主人公を動かす。「その手にのった。おれがやってやる」という感じ。
 これはふたりの女だけではない。主人公を追い詰めていく捜査官や、被害者たちもそうなのである。どこかで男が「殺人者」になるのを許している。組合の幹部は、とっくにすべてを見抜いているのに(特に娼婦殺しの犯人が保安官助手であることを、「論理的」に証明し、男をおいつめているのに)、男が殺人者になることを許している。「よた話は頭の悪い奴のところでしろ」と、何度も主人公の男に言っている。「嘘をつくな、ほんとうのことは見抜いている」と何度も警告しているが、それは「もっとうまくやれよ」と言っている、「もっと気をつけて完全アリバイにしろ」とそそのかしているようも感じられる。どこかで、保安官助手が経営者を殺してくれれば組合員の生活は楽になるとまではいわないが、恨みつらみが発散できると感じているのかもしれない。経営者父子(娼婦の愛人父子)が殺されることを望んでいるような感じなのだ。
 それは街全体が望んでいることなのかもしれない。「街」そのもののなかに「キラー」が存在していて、その「思い」が主人公の肉体のなかで発酵し、噴出するのかもしれない。あくまでも静かで、落ち着いた(沈滞した?)街の風景がそんな感じを思い起こさせる。「街」の外からやってきた捜査官は、いわば、この「空気」に阻まれて主人公を追い詰めることがなかなかできないのかもしれない。
 この不思議な「事件」の背後には、また、「殺人者」を許してしまったこと、見逃してしまったことを、「自分の責任」と感じるひとの存在もある。上司の保安官がそうである。主人公の行為を見抜けなかった。そのことに責任を感じて自殺するのだが、この責任をとって自殺するという行為が、よくよく考えるとおかしなものであることがわかる。上司が自殺しても部下が逮捕されるわけではない。殺人が起きなくなるわけではない。保安官の自殺あとに、主人公は女教師を殺している。
 主人公のなかの「キラー」のを許す、助長する--というのは、主人公にとっては昔からそうだったのだ。昔から「許された男」だったのだ。幼い少女をレイプしたときは、「養子」の兄が身代わりになった。主人公は罰せられなかった。自分の悪は罰せられることはない--男は、どこかでそう信じ込んでしまっている。その不思議な狂気、それを受け入れてしまう街の狂気--それが静かに静かに動いている。ケイシー・アフレックの肉体からは女を殴り殺すような暴力を感じることができないのだが、それがこの静かな静かな「街全体の狂気」を象徴しているようでもある。
 ちょっと(いや、かなり不気味)な映画である。この狂気に、真っ正直に反応するのがアルコール中毒(?)のホームレスだけ、という構図が映画を弱くしているのかもしれない。そのホームレスの肉体だけが、肉体の痛みと感覚が一致している。感情が一致しているように感じられる。このホームレスひとりの肉体と「ストーリー」が向き合うのは、映画としてかなり厳しい。
 「どこが」と正確に指摘できないのだが、どこかでつくり間違えてしまったという印象が残り、もどかしい感じのする映画である。
                      (2011年04月22日、シネリーブル2)

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「現代詩講座」2

2011-04-26 10:09:12 | 現代詩講座
 「現代詩講座」の参加者が詩を読み、それぞれに感想を語り合った。20行以内の詩を持ち寄り、その場で読んで、その場で感想を語り合うという、即興詩ならぬ「即興感想」のような感じで、これはなかなかむずかしいやりとりだった。

 この日の作品のなかから2篇。

  お作法について      吉本洋子

茶道教室に通い始めたのですが
先生のおっしゃる言葉が良く分かりません
恥骨を立てて下さい
なんだか恥ずかしい気分で尋ねました
私の恥骨は眠っているのでしょうか
正しくイメージすれば脳が覚えてくれると
先生はおっしゃいます

あなたの場合脳もまた働いていません
毎日上を向いて暮らしていると首の後ろが圧迫され
脳に十分な酸素が供給されません
顎を引いて目線はやや下方に
足裏を正しく地面につけて歩かなければなりません
上ばかり向いていては見えるものも見えません
地面に開いた穴だって見逃します

先生私の足が踏んでいるのは猫の尾でしょうか
茂り始めたシロツメクサでしょうか
先生のおっしゃる正しい歩き方って

先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません

 2連目の「顎を引いて……」以後の部分は、その通りだ、いや説教くさい。あるいは「上を向いて歩こう」という「教え」が多いなかで「下を向いて」というのはおもしろい、という意見があった。守られて当然のことが「お作法」になっている点に「時代」を感じる、などなど、「内容」(意味)に反応した読み方が、いろいろ語られた。
 一方で、最後のどんでん返し(落ち?)がおもしろい。ことばのずれ方がおもしろい、という意見があった。1連目の「恥骨を立てて下さい/なんだか恥ずかしい気分で尋ねました/私の恥骨は眠っているのでしょうか」という意見もあった。ひとり一言ずつという限定で感想を語り合ったので、なかなか「読み方」を深めていくということまではできなかったのだが、私もこの3行が非常におもしろいと思った。
 そのとき私がおおざっぱに語ったこと、思ったことを、少し補足しておく。

 「恥骨を立てて下さい」という行の中にある「恥」。それが「恥ずかしい」を呼び覚ます。ことばは、「音」で呼び覚まされて動くものがある一方で、「文字」で呼び覚まされて動くものもある。「恥骨」には、それが「恥骨」と名づけられただけの理由があるのだろうけれど、ことばをあとから知った人間は、そういうことは関係なく「音」や「文字」に反応し、そこから「暴走する」ことがある。想像力がかってにどこかへ疾走し始めることがある。
 「恥骨」から「恥」という一文字への暴走。それが、私にはとてもおもしろかった。先生は、「恥骨」を「恥ずかしい」とは思わない。だから「恥骨」という。けれど、そのことばを聞いた「私(吉本)」は「音」ではなく「恥(骨)」という文字に反応して「恥ずかしい」という気持ちへ暴走する。
 この「文字」とは「漢字」、つまり「表意」文字である。一字一字が意味を持つ。あるいは絵画のような形象を持つ。別なことばでいうと、「イメージ」を持つ。「漢字」にはそれぞれ「イメージ」がある。
 そんなことを私は考えるけれど、その「イメージ」が次の行に「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」という形で出てくる。「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」というのは一種の「哲学」であるけれど、「イメージ」が「恥(骨)」→「恥」という漢字そのものとなってつながって動くので、この1行がとてもわかりやすい。「恥(骨)」→「恥」という移行は、「こころ」ではなく「脳」の動きでもある。「漢字」という「文字」そのものに寄り掛かるようにして動いている。「こころ」は「漢字」などには頼らずに動くだろう。「脳」は、「文字」のような「学問」に関係して動くのである。
 この「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」は、「イメージ論」として、おもしろいというか、説得力があると思う。特に「恥骨」→「恥」という「こころ」の動き、その移行のあり方を鮮明に描き出していると思う。「イメージ」のように「見える」ものにしていると思う。「こころ」の動き、というのは、本来目に見えないのだけれど、「漢字」のおかげで「動き」が見える。そういう効果をあげている。
 2連目は、私は感心しなかったが、3連目はおもしろい。私が踏んでいるもの--それが私にわからないわけはない。普通は。ここでは、「私(吉本)」は「わざと」わからないふりをしている。嘘をついている。(私の「現代詩講座」は「詩は気障な嘘つき」というのがテーマである。)で、この「嘘」のなかには、「実体」はない。「実体」はなくて、「イメージ」がある。先生に、「イメージ」で反論しているのである。
 「恥骨を立てて下さい」は「私(吉本)」にとって「イメージ」である。なんだか、よくわからない。「立てて下さい」は「イメージ」としてはわかるけれど、実際の「肉体」の動きとしてはわからない。わからないから「恥ずかしい気分で尋ね」もしたのである。で、そのわけのわからない「イメージ」のなかでとまどっている「私(吉本)」が踏んでいるもの--それは先生から見ればどんな「イメージ」なんですか? 猫の尾っぽ? シロツメクサ? ねえ、教えて下さい。
 「わざと」のなかには、ちょっと意地悪があるね。先生への仕返しがあるね。こういうやりとりって「日常」でもあるね。そんなことが紛れ込んでくる。「嘘」に「ほんとう」が紛れ込んでくる。--こういうのが、おもしろい。私は好きだなあ。
 意地悪されると、ちょっと時間が止まる。意地悪に引っ張られて何かを見落としてしまう。そして、4連目がやってくる。

先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません

 「先生……」と言ったのは「私(吉本)」。先生、ぼんやりしていてはいけませんよ。これは仕返しだね。
 それに対して、先生は「あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません」と、我にかえって「作法」で反撃する。
 いいなあ、このやりとり。

 でも、いちばんいいのは、やはり1連目の「恥骨を立てて下さい」からの3行だね。この3行があるから、ことばがここまで動いてきた。ことばは、ことば自身の力で動いてしまう。それを詩人がわきから支えるようにしてついていく。そのとき、詩が生まれるのかもしれない。



  花びら     上原和恵

毎年何事もなかったように
生み出されている花
去年の満開の花はまぶしげだった
今年の三月の出来事を
桜は知っているだろうか

幹は苔むし亀裂が走り
皮はめくれ
無残にも中身をさらけ出し
現実をむき出しにしている

うわべだけの華やかな
薄紅色の花は
いっそうしらじらしい
群れをなし散っていく花びらは
沈んだ心を一層沈ます
冷たい風が身体を通り抜け
地面は真白く心も凍てつく

風に弄ばれ
コンクリートの歩道に舞い降りた
ひとひらの花びらを
心に刻みつけた

 この詩について最初の発言者が「東日本大震災」について書いたものだと指摘したとき、私は正直びっくりしてしまった。ほとんど全員が大震災を思い浮かべたと知って、さらに驚いた。このことについてはあとで書くことにして……。
 大震災と理解して読んだ仲間は、2連目を桜の悲惨な状況と描いているととらえた。津波のために幹から折れてしまった、老いた桜である。しかし、その傷ついた桜が花を咲かせ散っていく--そこにいのちの力を読みとっている。これは多くの仲間の共通の解釈のように感じられた。そして、そういういのちの力に共感するからこそ「うわべだけのはなやかな」からの3行に対して「桜がかわいそう」という声も聞かれた。日本画の世界を思い浮かべる仲間がいて、またこの詩を書いた上原をタフな詩人だと批評する声も出た。桜の、この生命力に怖さを感じるという声もあった。最後の1行の「心に刻みつけた」の「心」は「私の心」のことか、とひとりが念押しをした。上原が被災地に咲く桜、そして散っていく桜をみて、それを「わたしの(上原の)」こころに刻みつけた--そのことに対する共感の確認であった。
 私はみんなの感想を聞きながら、あ、そういうことを描いているのか--と教えられながら、どうしても疑問に思い、聞いてみた。
 「どうして、震災のことを描いていると思う?」
 「今年の三月の、で震災を思わないひとはいない」
 たしかにそうなのだが……。

 私は、この詩を大震災以後のことを書いていると思わなかった理由を書いておく。私は「去年」と「今年の三月」の組み合わせから、この詩は「三月」にもなっていないときの詩と思った。「今年の三月」に起ることを知っているか、と疑問に思っている詩だと思い、読み始めたのである。起きたことではなく、「予兆」を描いた詩として読んだのである。(予兆だとしても、「今年の三月」なら大震災、ということになる--と指摘を受けた。)
 なるほどなあ。
 それでも、私の意識は大震災とは結びつかなかった。
 なぜだろう。
 私は、いま思い返すと、大震災を「今年の三月」のこととは思っていないのだ。みんなと語り合っていたときは気がつかなかったが、大震災は「今年の三月」のできごとではない。「今年の三月」というのは、「去年」から見ると未来であり、いま(4月)から見ると過去である。--ところが、私には大震災が「過去」とは感じられない。そのためかもしれない。大震災のことを書くとしても、私は「今年の三月」という言い方をしないと気がついたのだ。「今年の」という限定が、私の「読み方」とうまい具合に出会えなかったのである。
 こういう「時間」がときどき、ある。
 「今年の」(あるいは、何年前の)から、無関係に存在する「時間」がある。たとえば、8月6日、8月9日、8月15日。そして、9月11日。さらに3月11日。(1月17日という人もいると思うけれど。)それは何年前だっけ? よくわからない。けれど、その日付だけははっきりわかる。
 大震災の詩であると思わなかった理由はもうひとつある。私には大震災の詩が書けないからである。ことばが動かない。私のことばは、大震災の発生から、ずーっと遅れている。追いつけない。だから、大震災のことが書かれているとは思いつくこともできなかったのだ。
 
 あ、ここに大震災に向けて、自分自身のことばでかかわっていこうとする人がいる--そう気づいて、この「講座」はおもしろいものになると思った。ことばの力を借りて(利用して)自分から出ていく、自分からでてどこかへ行こうとする。そこにも、かならず詩がある、詩が動く、と思う。





 よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(4)

2011-04-25 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)

 永島卓のことばはねじれている--と書くと、「おまえのことばこそがねじれている」と言われそうだが……。私は永島のことばが「ねじれている」ことを批判しているのではない。評価しているのである。ことばは誰のことばでも「正確」ではない。必ず「間違い」を含んでいる。そこに引きつけられるのである。「正確」を破ってはみだしていく力--そこにことばの本能、欲望をを感じるのだが、それはことばの欲望・本能であると同時に永島自身の欲望・本能、つまり「肉体」だと思うのである。「正確」を破ってことばが動くとき、ことば自体は「間違える」のであるが、そのとき「肉体」は間違えない。欲望や本能は間違えない。欲望や本能が間違えないからこそ、それを制御できない(?)ことばのほうがねじれて、逸脱していく。「間違い」を突っ走る。
 そして、そのときの永島のことばの特徴、「肉体」の特徴、欲望・本能の特徴は「長い呼吸」である。「息継ぎ」がないところにある。本来(?)、ふたつのものが、「息継ぎ」によってふたつに整理されるべきものが、「ひと呼吸」(一息)のなかに封印される。どういえば、いいのだろうか。「もの」と「思考」が「ひと呼吸」のなかに閉じ込められ、強引に攪拌されて吐き出される。
 それは一種の「嘔吐」かもしれない。
 吐瀉物--何かしらの原型をとどめながら、異臭を放って輝く汚物。それは「美しい」ものではないかもしれないが(一般的には「美しい」とは言われないが)、なぜか「美しい」と感じるときがある。それは、吐瀉物のなかに「もの」の形が残されているからなのか、それともそこに「もの」を吐き出してしまう「肉体」のどうすることもできない抵抗の「力」があるからなのか--よくわからない。たぶん、そこには「もの」と「肉体」のせめぎあい、抵抗の「力」が輝いているのだ。

 あ、きょうもまた、変な具合にことばが動いていく。「吐き出す」ということばが動き、それが「吐瀉物」にかわったときから、私はどうしようもなく逸脱しはじめている。だんだん永島の作品を離れ、私の感じている「感じ」の方へ傾いて、暴走しはじめている。永島の詩にもどろう。もどらなければならない。

 「夏の冬」。「原爆投下したアメリカの男がテレビで話す戦争」というサブタイトルがついている。

わたしの乾燥した八月の河に だれも乗っていない船が
座礁して 客室には家具も調度品もなく テレビが一台
置かれ 訪ねてくることのなかったきみが 杖をつき古
い靴を引きずりながら なぜかテレビの中からわたしに
近寄ってきて かってこれ以上失うものは我々によって
のみ回避できたのだと 胸を張り自身ありげに話をして
きた
           (谷内注・「自身ありげ」は「自信ありげ」だろうと思う。)

 これは、サブタイトルを頼りに「理解」すれば、テレビでアメリカの男が原爆を投下したときのことを自慢げに(自信ありげに)話した、それを聞いたということだろう。「我々が原爆を投下し、戦争を終結させた。その終結によって、それ以後の損失を回避できたのだ」とアメリカ人が自信ありげに話したのを聞いたということだろう。
 そのときの「背景」として「八月」「座礁船」がある。「八月の座礁船」を思い浮かべながら、その座礁船に乗っているのが「わたし」だと感じながら、永島はアメリカ人の話を聞いたのだ。
 戦争に敗れた「日本」が「座礁船」の象徴かもしれない。ここには、あまり「逸脱」というものがないように見えるが、「座礁船」という「比喩」が「逸脱」である。--それは、あまりにも平凡な(?)比喩なので、逸脱とは気づきにくい。しかし、戦争に敗れた国を、座礁した船、動かなくなった船と呼ぶのは、「逸脱」であることに間違いはない。永島は、それを実際に座礁船のなかで聞いた(見た)のではなく、彼自身の家で(たぶん)見聞きしたのだから。永島の「肉体」のなかに「座礁船」が姿をあらわし、それがアメリカ人のことばを受け止める。
 そうすると、アメリカ人の話していることが、「胸を張り自信ありげ」という態度とともにあらわれてくる。この部分も、実は、逸脱である。「これ以上失うものは我々によってのみ回避できた」が話の「内容」だとすれば、その「内容」が「正確」であるかどうかは、その「内容」を分析・吟味することによってのみ判断されるべきことなのだが、人間は(人間の本能)はそんなふうには動かない。無辜の日本人を大量殺戮しておいて、その態度、「胸を張」るその態度は何なんだ。その「自信」は何なんだ。おかしいじゃないか。--これは、私の「ことば」で言いなおすと、永島はアメリカ人の話した「ことばの意味」に反発していると同時に、その「声」(肉体)に反応しているということである。そして、こういう反応、「声」(肉体)に対する反応には、絶対に「間違い」というものはない。そして、これからが面倒くさいのだが、その反応が「間違いない」ということを、もう一度「頭」をとおしたことば、整理したことばに置き換えるのは、実は、とても面倒である。そんなことは、普通、人間にはなかなかできない。相手の態度にむかっときて、怒りが爆発する。「意味」ではなく、「声」、「肉体の音」で反撃し、けれど、十分に反論できずに、哀しく、悔しい思いにとらわれる。
 「息」が、まず「本能・欲望」(怒り)を吐き出してしまって、「意味」がついてこれないのだ。「意味のないことば」(反論にならない反論)になってしまう。「間違い」を言ってしまう。--けれど、その「間違い」こそが、唯一「正しい」ものなのだ。

   積雲の層がテレビのなかに充満し なお透視でき
ない白光した光の粒が テレビの全面ガラスの奥から無
数に飛んできて わたしは知らず知らずにテレビの中心
に引き込まれ 締めつけられる目や胸をさすりながら
いつしか狭いブラウン管の管道へ吸引され気を失ってい
った

 これは、アメリカ人の発言に怒り、その怒りで永島の体が苦しくなったということを「比喩」をつかって書いているのだが。
 ほら、ここには大量殺人に対する論理的批判(意味)というものが、ひとことも書かれていないでしょ? この反論がアメリカ人に通じるわけがない。通じるわけがないのだけれど、そこに「意味」を越えた「正しさ」(間違いのなさ)がある。
 こういう「意味を越えた間違いそのものの正しさ」(矛盾した言い方だねえ)が永島のことばを動かしている。「息」のなかで「間違い・正しさ」が同居して動いていく。「間違い・正しさ」が語弊の多い表現だとすれば……この詩集の感想として最初に書いたこと--ふたつの文章が結合して動いていくというのが永島の「ことばの肉体」なのだ。

   しばらくして気が付くと 見渡すことができない
ほどの草原大地と 突き抜ける青空がわたしの視野をひ
ろげていた 風もなく雲も森も馬も鳥もない澄んだ異境
の地に ひと一人いない平穏も犯罪も触れられない の
っぺりした明るさだけが絵葉書のように現出し こんな
筈では決してなかったのだと あらゆる自戒や弁明のな
い刃物の並んだキッチンのような空間で 許すことと同
じくらいに忍び寄る保留なしの絶望がやってきた

 「意味を越えた間違いそのものの正しさ」は、それでも「ことば」になろうとする。一気に、息継ぎ(呼吸)をしないまま、動く。たとえば、それが、

あらゆる自戒や弁明のない刃物の並んだキッチンのような空間で

 である。「刃物の並んだキッチン」ならだれでも想像できる。けれど「自戒や弁明のない刃物」って、何? わからないでしょう? まあ、「意味」は考えろといわれれば考えるけれど……。考えてもしようがないというか、「自戒や弁明もない」と「刃物」というかけ離れたものを「ひと呼吸」のなかに閉じ込めてしまう「肉体」が永島だと信じるのがいちばんいいのだ。その「肉体」を好きになる(納得する)かどうかが、読者にまかせられているである。

許すことと同じくらいに忍び寄る保留なしの絶望

 これも同じである。こういうことばは、どんなにていねいに分析(?)してみても、永島にはたどりつけない。ただ、そのことばを好きになるかどうか。その「間違い」を、読者が受け止めるかどうかだけなのである。「肉体」で共感するかどうかだけなのである。私は「共感」できているかどうか、わからない。「共感」は私の「誤読」だろうけれど、「誤読」だろうなんだろうが関係ないのだ。私は「共感」するのだ。




永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社


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誰も書かなかった西脇順三郎(212 )

2011-04-25 12:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「フォークナーの署名」。

かれの旅の終りで彼は自分の心に
何というだろうかと東の国につれてこられた
この夏の夢をみる大きな神がかりの
男の霊のために
私の見たことを思いおこすのだ

 この書き出しは、わかるようで、わからない。わかるように感じるのは、そこに書かれていることばのひとつひとつが全部わかるからである。わからないのは、そのことばの接続が変だからである。こんなふうに私は語らないし、こんなふうに誰かが語るのを聞いたことがない。
 特に2行目がわからない。

何というだろうかと東の国につれてこられた

 「何というだろうか」と「東の国につれてこられた」の関係がわからない。そのふたつのことがらが「と」で結びつけられている「理由」(根拠?)がわからない。
 「何というだろうか」は1行目の「かれの旅の終りで彼は自分の心に」に結びつけると、「かれの旅の終りで彼は自分の心に何というだろうか」になり、これは、まあ、わかる。旅のおわり、それまでの旅で見聞きしたことを思い起こし、自分の心に語りかけてみる。そのとき「何というだろうか」。
 けれど、それにつづく「東の国につれてこられた」は何? 誰のこと? 「かれ」(彼)? 
 かれは東の国に連れてこられた。その連れてこられた旅のおわりに、彼は自分の心に何を語るか、という意味だろうか。
 つづく3行はの「男」と「かれ」は同じ人間だろう。「かれ(この/男--3行目の行頭の「この」は4行目の「男」にかかるだろう。そして、「この」以下は、「男」の修飾節だろう)」は、夏の夢をみる大がかりな「霊」をもっている。
 その「男の霊」と向き合うために、(私は)「私の見たことを思いおこす」。
 なんとなく、「意味」が通じたかな。
 なんとなく、「意味」がわかった(ような)気持ちになって、読み返すと、でもやっぱり2行目でつまずく。おかしいねえ。変な「日本語」だねえ。変なのだけれど、この行の真ん中の、変、の原因である「と」が不思議とおもしろい。わからないからこそなのかもしれないけれど、「と」が楽しい。
 「何というのだろうかと」というとき、「と」が繰り返される。そのくりかえしにあわせるように、次の「東の国につれてこられた」では「れ」がくりかえされており、その「音」がとても印象に残る。「つれて」「こられた」。「つ」と「こ」が似ているというと奇妙だけれど、私の「肉体」には何か響きあうものがある。「つれてこられた」というとき、早口ことばの「つまずき(つっかえ?)」というか、言い間違いになるような「音」の響きあいがある。「耳」ではなく、そのことばを「声」にするときの「肉体」(喉や舌や口蓋や……)のなかで何かがつながって「音」がすぐには出てこない感じがする。それが「思いおこす」という5行目の「意味」とも通い合う。
 さらに「何というのだろうかと」の直後の「東の国に」。これが不思議なことに、「ひがしのくにに」ではなく、私は「とうごくに(東国に)」と読みたい欲望を誘うのである。私にとっては「とうごくに」の方が2行目の音の響きあいは魅力的なのだが、西脇は「ひがしのくにに」と読ませている(たぶん)。そしてその「ひがしのくにに」が、私の音の印象ではちょっと「音色」が違っているので、今度は、その違いが次の行への飛躍というか、切断を身軽にする。
 あ、不思議だな。

 こういう印象は、詩の鑑賞にとって、どんな意味を持つのかわからないが、私はいつもそういうことが気になるのである。「意味」は気にならない。ことばの「出典」も気にならない。ただ、「音」の動きが気になる。

 詩はつづく。

かれは大使館の涼しい隅の席に
ただひとりすわつて空の日射病のあと
しばらく休んでいた

 「空の日射病」というのは変な表現である。こんな「日本語」はない。ないのだけれど、おもしろいねえ。とても目立つねえ。そして、おもしろく、目立つだけではなく、このことばが全体の中になじんでいる。
 なぜだろう。
 ここにも私は「音」の影響感じるのだ。「そらのにっしゃびょう」。「さ行」、特に「し」の「音」。

かれはたい「し」かんの「す・ず・し」い「す」みの「せ」きに
ただひとり「す」わつて「そ」らのにっ「し」ゃびょうのあと
「し」ばらくや「す」んでいた

 また「た行」も交錯している。「た」いしかん、すわ「つ・て」、に「っ」しゃびょう、あ「と」、やすん「で」い「た」。

 こういう「音楽」の助走のあと、西脇のことばは「カタカナ」の多い「ヨーロッパ」(というか、西洋というか……)へと飛翔する。

この没落のジュピーテルは空間のように
透明でこの静かなポセイドンのような
この百姓は鳶色の神からうまれた
いまは山国にあるアンズの国への
旅を考えているそこで牧人たちを
集めて夏期大学を開こうと
考えていたのであつた
西国人の心についてかれの笛のような思想を
東方人に語ることを考えていた

 ここでも、私の耳はいろいろな「音楽」を感じるが、書くと煩雑になるのでひとつだけ。
 「東方人」。ね、「東の国に」ではなくて、やっぱり「と」で始まる「と」うほう人。「西国人」と「さいごくじん」なのだろうけれど、私は「せいごくじん」と読みたい気持ちでいっぱい。「せーごく」「しそー」「とーほー」。音引きであらわす「音」が交錯するからね。これはさかのぼれば(?)、「ジュピーテル」「くーかん」「よーに」(よーな)「とーめー」とも響きあう。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



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永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(3)

2011-04-24 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(3)(思潮社、2011年04月25日発行)

 語ること、ことばにすることよって、「わたし」が「わたしではなくなる」ということは誰でもそうかもしれない。特に、作家とか、詩人と、ようするに「もの」を書いているひとなら誰でもそうかもしれない。「わたし」が「わたしではなくなる」ということばの体験を書いているから詩人であり、作家なのだ。それは永島卓だけではない--そう言われると、私は何も言えなくなる。
 でも、言いたい。
 「わたしがわたしではなくなる」ということばの運動--その運動の特徴としていろいろあると思うが、永島の場合、それは「呼吸」(息継ぎ)という「肉体」的な運動と硬く結びついている。「音」「リズム」と密接な関係がある。「声」と関係がある。
 私が永島の詩を読んで最初に感じるのは、私とは呼吸の仕方が違うということである。息継ぎの仕方が違うということである。そして、その呼吸、息継ぎの仕方が違うところに、永島の肉体を感じ、あ、こんなリズム、音を肉体に響かせることでことばを暴走(?)させるのか、と思うのである。
 「音」「リズム」「声」と「意味(思想?)」は関係がない、「論理」とは関係かないというひともいる。しかし、私は「音」「リズム」「声」こそが「思想(肉体)」と関係かあると信じている。「音」「リズム」が気に入らないと、私は、そのことばが嫌いなのだ。読むことができないのだ。「音」「リズム」さえ気に入れば、何が書いてあってもいい。
 「意味」はでっちあげてしまう。「これは、こういう意味。だから好き」と書いてしまう。「誤読」を繰り広げるだけである。
 --と書くと、永島の詩を評価するということと、逆のことをしていると受け取られてしまうかなあ……。
 でも、続けよう。
 「道化師の伝言」。

冬の公園の片隅で、見物人のいないパントマイムを長い
間やっておりました。

 この書き出しには何の特徴もない。何も感じずに読んでしまう。

          語り継いできた時代の風景を呼び
もどす物語も、やっと幕を引くことになりそうです。

 まだ、私は何も感じない。

                        古
い町並みをイメージする装置もなく、シーソーが置かれ
ている砂場で、シナリオもろとも忘れられてゆくでしょ
う。

 ここで、少しつまずく。読点「、」によって三つのことが分けて語られているが、間に挟まった「シーソーが置かれている砂場で、」がなんとなく変なのである。公園だからシーソーくらいあってもいいのだが、突然、ここに具体的な「もの」が入り込んできた感じがする。「文体」が乱れた、あるいは攪拌された感じがする。

  汗を流してきた行為や、パフォーマンスを問う笑い
や淋しさはともすれば冷やかに見られ、公園のそばの小
川や草もあとかたもなく流されて、すこしずつ失われて
ゆく摂理の哀惜に涙するのはわたしの自由です。

 うーん、変。この文章、「意味」がわからない。「主語」と「述語」はどうなっている? 何が「主語」「述語」は何?
 比較的「意味が」とりやすいのは(というのも変な言い方だが)、「公園のそばの小川や草もあとかたもなく流されて、」である。公園のそばには小川があって、草があって、それが跡形もなく流される--忘れ去られる、ということなのだろう。これは、その前の文の「シーソーが置かれている砂場で、」と同じようなものである。ふいに挿入された「現実」のように、わかりやすい。(わかったような気分になれることばである。)
 でもねえ。私には、それが邪魔。
 そのわかりやすさ(?)とは別の部分、「パフォーマンスを問う笑いや淋しさはともすれば冷やかに見られ」ということばの何だかねじくれたことばの動きがおもしろい。「パフォーマンスを問う笑いや淋しさ」というのは何のことかわからないが、「笑いや淋しさ」が「冷やかに見られ」というのは、とても気になる。あ、「わたし(と、とりあえず書いておく)」は、道化師の笑いや淋しさが「冷やかに見られ」ていることを感じているのだなあ、と思う。そして、その「冷やかに見れている」という自覚しているから、「わたしのパントマイムも小川や草のように忘れ去られていくんだろう」と想像もするのだろう。そして、そのことに対して涙も流すのだが、その涙を「わたしの自由」と道化師は言ってしまう。「涙するのはわたしの自由です」と。
 あ、あ、あ。
 でも、こんなふうに書いてしまうと、私の書きたいことが零れてしまう。
 私が書いたような「意味」ではなく、私が、いいなあ、これをまねしたいなあと思うのは、いま書いてこなかった部分なのだ。

すこしずつ失われていく摂理の哀惜

 説明(?)しようとすれば、いろいろ説明できないこともないけれど、「意味」ではないのだ。ただ、その「音」のつながり、つながってしまうときの「呼吸」の奥にあるもの。「意味」の径路というか「間」をぐいと押し退けてつながってしまう「息の力」。ようするに、「リズム」がおもしろいのだ。
 「頭」ではわからない、というか、わかろうとすると面倒くさいことをいろいろ書かないといけないのだが、「声」に出してしまう、「音」にしてしまうと、その「音」が輝く。「ことば」が「意味」を拒絶して輝く。その感じがおもしろいのだ。

すこしずつ失われていく摂理の哀惜に涙するのはわたしの自由です。

 「涙」というセンチメンタルなことばも、その前の「摂理」とか「哀惜」とか、ちょっとややこしいことばとぶつかることでセンチメンタルな「意味」が消え、「音」になる。「意味」をなくした「もの」になる。その「もの」の感じが「自由」ということばと出会って輝く。
 うまくいえないのだが、「自由」とは「意味」とは関係ないことなんだ、とわかる。「意味」を「音」が蹴散らしてしまう--そのとき、何かが輝く。それが「自由」だと私の「肉体」は感じる。
 こんなことは、どれだけ書いても、永島の詩について語ったことにならないかもしれない。永島の詩を「理解」する手助けにはならないかもしれない。
 でも、仕方がない。私が感じているのは、そういうことなのだ。「意味」ではなく、「意味」を蹴散らしてことばが動く。そして、その動きは永島の場合、「息が長い」。何か、余分なもの(?)を巻き込んで、ぐねぐねとねじれながら動いていく。なぜ、そう動いていくのかわからないけれど、そんなふうに「意味」のわからない径路をことばは動くことができ、そして動いてしまうと、その動きが何だかかっこよく見える。
 それがおもしろい。

                      眼のな
かにまだ残されているわたしの闇のなか、果物を盛る白
い皿が、遠くから射す星の輝やきに照らされて、わたし
は身の周りを糊のきいた黒服に整え、シェフが使うナイ
フを振り廻しながら慣れた媚をまだ売っているのです。
それでも複数の人称を演じるわたしは、時には別れや接
近をくりかえし、背中を相互に密着させたままどちらで
もない世界を作ろうと、疑問を抱きながら季節の春はも
う来ないのだと言い聞かせ、寒さに凍てつく広場で立っ
たまま、望郷の唄に酔っていったのです。天幕を支えて
きた星の梁に何度も飛びつき、パントマイムの無駄のな
かで、小川の流れが小さな石で止められてしまうような
錯覚も、筋書きのない飢えのなかで既に始まっていたこ
とでした。

 どのことばが余分、どのことばが脇道にずれている--と言えるわけではないのだが、変でしょ? ことばが、つながらないでしょ? 主語、述語がはっきりしないでしょ? たとえば「背中を相互に密着させたままどちらでもない世界を作ろうと、疑問を抱きながら季節の春はもう来ないのだと言い聞かせ、」という部分の「疑問」って何? 「背中を密着させたまま」の「どちらでもない世界」? 「疑問を抱きながら」、(私自身に)「季節の春はもう来ないのだと言い聞かせ」るというのは、わかったようでわからないし、「季節の春」って何? なぜ、わざわざ「季節の」ということばがある?
 おかしいんだよなあ。わからないんだよなあ。
 けれど、そのわからないもの、わからないことばを、ともかくくっつけてしまう力。くっつけたまま、ことばを動かす力--その力と「呼吸」(息継ぎ)が関係している。「息」の強さが余分なものを吐き出してしまう。余分な「音」、余分な「声」を出してしまう。

 「頭」で整えたことばではなく、「頭」では整えられない何か、ことばにならないことばが「肉体」のなかにあり、それが「息」といっしょに出てくる。分離できないものとしていっしょにでてきてしまう。その「声」は、まあ、濁っているといえばいいのか、透明ではない。不透明である。
 --不透明であることを、「わからない」と言うよね。何かを見通せない。なぜ、そんなことばが生まれてくるのか、その「奥」が見通せない(不透明である)。
 不透明であるのは、永島も同じかもしれない。永島が永島自身の「声」がどこからきて、どこへ動いていくか、その「出発点」と「到達点」をきちんと知っているかどうか(頭で理科いてしているかどうか)--そんなことは、関係ないのだ。ことばがどこへ行くかはことばが決めることである。わかなくても、「声」を出してしまう。「声」のなかには、ことばにならない「音」がある。「リズム」がある。それをただ信じて、ことばを動かす。
 いや、永島は「わたしは知っている」と言うかもしれないけれど、それは、いい。どうぞ、「知っている」と言ってください。永島が「知っている」としても、私には、それがわからない。そして、わからないけれど、その「声」をまねしてみたい。そんなふうに「声」を出してみたい、という欲望に誘われる。
 それは、たとえて言えば、美空ひばりの「声」をまねすることで、美空ひばりの「声」のなかにある「感情」を自分のものにするというのと似ているかもしれない。
 私は「意味」ではなく、「声」が、そして「音」が好きなのだ。「声」や「音」のなかにこそ、「意味」をこえる「思想」があると思うのだ。「肉体」があると思うのだ。
 と、きょうも、何だかむちゃくちゃなことを書いてしまったなあ。





永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社
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ジョン・シュレシンジャー監督「真夜中のカウボーイ」(★★★★)

2011-04-24 13:30:24 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・シュレシンジャー 出演 ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト

 この映画の主役は誰なんだろうか。ダスティン・ホフマン? ジョン・ヴォイト? そうではなくて、彼らのまわりを瞬間的に通りすぎていく「無名の人々」ではないだろうか。ジョン・ヴォイトの「田舎」っぽい感じ、ダスティン・フホマンのホームレスは、たしかにリアルだけれど、それはリアルという「演技」である。
 これに対してジョン・ヴォイトが働いていたレストラン(?)の従業員は役者なのかもしれないが、「演技」ではなく、そこに「いる」人間である。「いま」「ここ」にいる人間は、ただ「いま」「ここ」にいる。ジョン・ヴォイトのように「夢」を語らない。ダスティン・ホフマンのように「夢」を語らない。「いま」「ここ」から出て行って、「いつか」「どこか」(それはニューヨークであり、マイアミなのだが……)、別の暮らしをするという「夢」を語らない。ここには「夢」を語る人間と、「夢」を語らない人間が複雑に出てくる。いつでも、どこでもそうだが、「夢」を語る人間というのはくっきりとみえるものである。「夢」へ向かって動くということが「人間形成」の基本なのかもしれない。ひとに(映画の場合なら、主人公に)共感するとき、観客は登場人物の「夢」に共感し、その「夢の挫折」に人生を重ね合わせ、カタルシスを虚構のなかで体験しているのかもしれない。
 この映画のなかでも、ふたりの男の「夢」、「夢の挫折」に自己を重ねて何かを感じることはできる。できるけれど……。
 それよりも、彼らの「まわり」がおもしろい。瞬間瞬間に登場する「ひとびと」がとてもおもしろい。ジョン・ヴォイトが働いていたレストランのことは少し書いた。そこではジョン・ヴォイトは皿洗いをしている。他人がどんな「ゆめ」をみているか語られない。誰もジョン・ヴォイトの夢にも気を配らない。「いま」「ここ」から動かない。
 そこを飛び出してジョン・ヴォイトはニューヨークへ向かうのだけれど、その移動手段として「バス」をつかっているのが、これがまたまた、とてもおもしろい。「バス」は地上を動く。地上を動くから、どうしたってバスが止まるたびに「地上」(いま、ここ)がそこに進入してくる。ジョン・ヴォイトは「いま」「ここ」と出会いながらニューヨークへ行くのである。ジョン・ヴォイトにガムをくれ、という母親がいて、また、ジョン・ヴォイトのラジオがうるさいという男がいる。ジョン・ヴォイトの夢と挫折を描くことがこの映画の主眼なら、このバスの移動シーンはいらない。長すぎる。いきなりニューヨークから始まってもいいのだが、この映画はそうしない。主人公の夢と挫折は「狂言回し」で、ほんとうの「主役」は、「いま」「ここ」に生きている「人間」、「夢」を語らない人間なのである。そういう視点からみていくと、この映画は「ドキュメンタリー」なのである。ある個人の「夢」にそってその行動を描く映画ではなく、「いま」「ここ」に何があるか、何が動いているか、それを克明に記録した映画なのである。
 その「記録」される人間のひとりがダスティン・ホフマンなのだが、彼にもまた「夢」があるので、その「夢」の分だけ視界(視野)がかぎられるが、「夢」を語らずに登場してくる「群衆」がとてもいきいきしている。犬におしっこをさせている女、ジョン・ヴォイトの田舎丸出しの格好を見下す女、歩道に倒れているビジネスマン(?)、それを気にかけることなく歩いているひとびと。その「いま」「ここ」と「ひと」「ひと」の交錯が、ニューヨークなのだ。ジョン・ヴォイトは金持ちの女を相手にセックスをして金を稼ごうと思っているのだが、そんな「夢」は見え透いていて、誰も相手にしない。それがニューヨークなのだ。「夢」の相手をしてくれるひとなどいない。「夢」をいっしょに体験してくれる(夢をささえてくる)ひとなど、どこにもいないのが「現実」というものかもしれない。だからこそ、その孤独のなかで、ジョン・ヴォイトはダスティン・ホフマンと出会ってしまう。--これが、まあ、この映画の「ストーリー」といえば「ストーリー」だけれど、その「ストーリー」よりも、「まわり」がおもしろい。いきいきしている。
 特に今回見なしおしておもしろいと感じたのは、ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンがデリかなにかで食べているとき、カメラをもった男と女が入ってきて、ジョン・ヴォイトをパーティーにスカウトし、それからつづくパーティーである。ジョン・ヴォイトが田舎を捨ててニューヨークへ出てくるとき「バス」を利用した、それが「地上」を走ること--いわば、「地続き」であることはすでに書いたが、ここでも、あらゆることが「地続き」なのだ。デリへ無造作に入ってきて、無断で写真を撮り、何もいわずにチラシを置いていく。「地面」を離れずに、「いま」「ここ」が、人間の動きによってミックスされる。「いま」「ここ」にいる人間の「地上」を離れないミックス--それがニューヨークで起きていることなのだ。誰が誰であるかわからない。すべての人間が「無名」にもどって、マリフアナで「自己」を解放し、誰かと出会う。そして、その誰かから、そのとき、その場で何かをもらって、そのまま動いていく。「夢」--つまり、「計画」はない。「いま」「ここ」をエネルギーにしているだけである。
 ニューヨークの「深奥」の「ドキュメンタリー」。「ドキュメンタリー」であるからこそ、ダスティン・ホフマンの解体前のビルでの暮らしがいきいきする。その暮らしに「夢」はない。そこにあるのは「現実」だけである。そして、ダスティン・ホフマンは転んだことをきっかけに歩けなくなるが、その歩けなくなる、動けなくなるということに彼が絶望するのは、それが「ドキュメンタリー」だからである。「いま」「ここ」で動き回る、動き回ることでかろうじて「他者」の攻撃(?)から身を守っている。ビルの解体が実際に始まれば、また次の解体予定のビルへ動いていくということで生きていく、ということができなくなる。「いま」「ここ」を動き、そこに何らかの「すきま」を見つけて、そこに身を置くということができなくなる。
 ふたりはマイアミへ向かう。その移動手段は、またしても「バス」である。いつでも、どこでも降りられるバス。(飛行機に比べて、という意味だが)。だが、降りることなくバスの旅はつづく。最後に、ダスティン・ホフマンは死んでしまうのだが、彼の目は開いたままである。バスの運転手がジョン・ヴォイトに「目を閉じてやれ」という。これは、なかなか「意味深い」せりふである。もう、「現実を見させるな」ということになる。「現実」を見るから、「夢」も見る。ダスティン・ホフマンは現実に目を開いたまま「夢」を見ていた。(父親が靴磨きで体を傷つけて死んで行ったという現実を見ながら、マイアミの夢を見ていたのだ。)その目を閉じたからといって「現実」そのものがなくなるわけではないけれど、ダスティン・ホフマンは見なくてすむ。「現実」を見なければ、きっと「夢」の形も違ってくるだろう。楽になるだろう。
 あ、でも、運転手は、どうしてそんなことを知っていたのだろう。何人ものを人間をマイアミに運びながら、知らず知らずに「いま」「ここ」で何が起きているのか、知ったのかもしれない。
 そんなことよりも、なおおもしろい(?)のは、ダスティン・ホフマンの死を、バスの乗客がのぞきこむことである。気持ち悪がったりせずに、「いま」「ここ」で起きていることを--それはつまり、「いつか」「どこか」で自分に起きることなのだが、それをのぞきこむことだ。ひとは誰でも、「いま」「ここ」で起きていること、そして「いつか」「どこか」で起きることを知りたい。「夢」を語ることよりも「現実」に吸い込まれるものなのだ。
 「ドキュメント」のおもしろさが、ここにある。



 ドキュメントに拮抗するための演技。ダスティン・フホマンは、そのことを知っていたのかもしれない。この映画がドキュメントの性質をもっていることを脚本から読みとっていたのかもしれない。彼はこの映画のなかで足に障害をかかえた男を演じているが、それは最初から脚本に設定されていたことなのだろうか。どうも、そうとは思えない。あるいは、映画を撮り進む過程で、監督が役所の設定をかえたのかもしれないが、「いま」「ここ」、そして「地上」(地続き)ということを「肉体」でドキュメントにするには、足の障害はとてもリアルである。ジョン・ヴォイトがダスティ・ホフマンとの最初の夜、ブーツにこだわること、女と寝たあとブーツに香水を振りかけること、ダスティン・ホフマンの父が靴磨きだったこと--そういう細部の積み重ねも、ドキュメントをひとつの方向にしっかり定着させる。ニューヨークなのに摩天楼を感じさせない映像も、「いま」「ここ」「地上」のドキュメントの要素になっている。
 いろいろ書いていけば、この映画が「ドキュメント」であることがもっとはっきりするかもしれない。細部がともかくていねいに撮られた映画である。細部にきちんと自己主張させている映画である。
      (2011年04月23日「午前十時の映画祭」青シリーズ12本目、天神東宝6)


真夜中のカーボーイ (2枚組特別編) [DVD]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(2)

2011-04-23 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(2)(思潮社、2011年04月25日発行)

 「左岸」のつづき。

水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります

 この1行の「主語」が誰のなかわからない、と私は書いた。こんなことを書くと、それは前後の文脈をきちんとたどらないからだ、と批判されそうである。このあと詩は、つづいている。

水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります
さいごの見届け役としてこのサガンにいるのではありません
あなたと溺れながら次の水の物語を語り継ごうとしているのです

 「見届け役」ということばを頼りにすれば、「話者」が「あなた」を見届けるという関係が成り立つから、「あなた」を見失うの主語は「話者」である。そして、それは次の「あなたと溺れながら」によって補足されている。「溺れる」は「水が首に巻きつき」の言い換えである。「話者(わたし)」の首に水が巻きつき、そのために「話者(わたし)」は溺れそうになってる。溺れている。そうして、溺れながら「話者(わたし)」は次の水の物語を語り継ごうとしている。
 文脈をたどれば、「あなた」と「話者」を混同することはない。
 たしかにその通りなのだが、私の「肉体」は、そんなふうに読むことを欲望しないのだ。そういう「論理的(?)」な文脈を欲望しない。「誤読」したい。
 「溺れ」てしまえば、「水の物語」を語り継ぐことなどできない。だいたい「溺れ」て、死んでしまえば「次の」水の物語自体がありえない。この「次の」は「次」ではない。「いま」なのだ。「いま」、「あなた」と「話者(わたし)」が同時に溺れる--そのことによって、「物語」になる。「語り継ぐ」のではなく、「物語」そのものになってしまう--私は、そう「誤読」したいのだ。

 語ること、ことばを書くこと--そうすることで「話者(わたし)」も「物語」になる。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ

 こう「話者(永島)」が語りはじめたとき、そこに「あなた」がいて「話者(わたし)」がいる。そして「サガン」という「場」があり、「話者(わたし)」には「あなたを待っていました」という過去(昔)がある。「あなた」が「川の水をもとめてみえる(やってくる)」という「いま」があり、それは「知っていた」と「過去-いま」を結ぶ時間のなかで出会う。登場人物がいて、それぞれが「独自」の時間をもって生きてきて、その二人が出会えばそこに、それぞれの「過去(昔)=時間」がぶつかり、それまでとは違った「時間」が動きはじめる。--それが「物語」になる。そして「物語」のなかで、さらに、それぞれの「時間(過去、昔)」が掘り起こされ、「場」のなかの見えなかったものも見えはじめる。
 このとき、たしかにそこには、「あなた」がいて「わたし」がいて「場」があるのだけれど、それは「ことば」のなかからそのときそのときに「あらわれてくる」ものであって、ほんとうに「ある」といえるのは「ことば」だけである。
 「物語」があるのではない。「ことば」は「物語」に「なる」が、「ある」のは「ことば」である。あくまで「ことば」だけが「ある」。
 そして、そこに「ある」ことばが「物語」に「なる」、「物語」を語り継ぐとき、そこに「ある」ことばは「ことば」そのものに「なる」。

 同じことばばかりを繰り返すことしかできないのだが、永島のことばには「ある」と「なる」が繰り返されることで動いていくという運動がある。「ある」と「なる」は、ある瞬間「区別」がつかなくなり、区別がつかなく「なる」のはほんとうは「区別」というものが「ある」からなのだ、ということに気がつき、その「気がつく」ということがまた何かに「なる」ことなのだ。
 
 あ、こんなふうに「抽象的」になってはいけないなあ。

 違うことを書いてみよう。違う角度から、永島の詩を読み直そう。
 「あなた」と「話者(わたし)」が出会う。そこは「サガン」という「場」なのだが、ふたりが出会うことで「サガン」という「場」が動いている。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ
駅前通りからイナバの神を右折すると黒い塀のはてがサガンです

 「サガン」のあるところには「川」がある。だからこそ、「あなた」は川の水を求め、やってくることができる。そしてサガンのある街には「駅前通り」がある。「イナバの神」というのは神社だろうか。そこでは道が交叉する。そこでひとは「右折」することができる。そして、右折すると「黒い塀」がある。
 そうやってことばが描き出す「場」は「いま」そうあるだけではなく、「昔」からそうあるのだ。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ
駅前通りからイナバの神を右折すると黒い塀のはてがサガンです
捨てられてゆくものを許してしまう今日は不思議な暦ですね

 「捨てられてゆくもの」とはなんだろう。たとえば「黒い塀」かもしれない。「イナバの神」かもしれない。「駅前通り」かもしれない。ようするに「話者(わたし)」と「あなた」が出会う「街」そのものの、暮らし、暮らしがつくりあげたさまざまな存在かもしれない。
 「捨てる」はこのとき「忘れられる」「見向きもされない」「おざなりにされる」という「精神的な」ことがらかもしれない。
 「今日」、つまり「いま」、この街で起きているのは、そういうことである。
 それでも「あなた」は「川の水を求めて」やってくる。そして、「話者(わたし)」はそれを知っている。それは、(ここからが私の強引な「読み」、つまり「誤読」なのだが)、「あなた」がほかでもない「わたし(話者)」だからである。「わたし(話者)」はこの街を知っている。「わたし」のことばはこの街を語りながら「街」そのものにもなる。その「街」には当然「サガン」も含まれるから、

静かな室でノーゼンカズラとテーブルが薄明のなかで浮きあがり
わずかな一時ではありますが涼しい朝の匂いも呼んでおきました

 サガンも、そんなふうに語られることで、「わたし」はサガンそのものに「なる」。「わたし(話者)」は「あなた」で「あり」、サガンのある街で「あり」、サガンで「ある」。こういうとき、そこでは何でも起きる。起りうる。

静かな室でノーゼンカズラとテーブルが薄明のなかで浮きあがり
わずかな一時ではありますが涼しい朝の匂いも呼んでおきました
白いドレスと少年の仮面を付けて立っているのがわたしです
かすかな湯気のたつ苦味のコーヒーをまずは召し上がってください
宛名のない駅へゆく最終便のバスはもう出てしまいましたよ
あなたはもう帰ることができなくなってしまったのです

 「朝の匂い」から「最終便のバス」までの「時間」が凝縮される。「時間」のなかに、ひとは閉じ込められる。だからこそ「あなた」は、この「場」からどこかへ「帰る」こともできなくなる。
 ある「場」を語ること。それはその「場」の「時間(過去-いまをむすび付ける時間)」を語ること(知ること)であり、同時にその「場」、その「時間」に閉じ込められることなのである。
 「あなた」を語ることは「わたし」が「あなた」に閉じ込められることなのである。
 「あなた」を語ること、ある「場」を語ること--それはきのう最初に書いた1行についてのことばを繰り返せば「呼吸」(息継ぎ)の「間」をなくしてしまい、連続したものになってしまうことなのである。

あなたと溺れながら次の水の物語を語り継ごうとしているのです

 「語り継ぐ」は意図しなくても、つながってしまうのである。
 語ることは、その「場」、その「時間」を、常に押し広げ、深く掘り下げ、わけのわからない何か、語るという行為そのものに「なる」ことかもしれない。

 また、なんだかよくわからないことを書いてしまった。

 もっと単純に書けばよかったのかもしれない。永島の詩のなかには「あなた」と「わたし」の区別がつかなくなる「時間」があり、そこでは「あなた」と「わたし」だけではなく、「わたし」のいる「場」と「わたし」の区別もつかなくなる。「わたし」のことばが動くとき、そこに「あなた」がいて「わたし」がいて、そして「サガン」のある「街」がある。「わたし」はあらゆるものになりながら、「なる」ことで、「わたし」で「ある」ことかできる。
 あ、こんなふうに永島をつくりあげた(?)街、サガンのある街へ一度行ってみたいと思うのだ。その街はきっと永島の肉体そのものなのだ。その街を離れては永島は永島ではありえないのだ。どんな川があるのか。どんな水があるのか。そこで私のことばはどんなふうに動くことができるのか--そんなことを思うのだ。考えるのだ。



碧南偏執的複合的私言―永島卓詩集 (1966年)
永島 卓
思潮社
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