詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋優子「繊い糸」

2015-09-30 10:23:09 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋優子「繊い糸」(「poisson」39、2015年10月発行)

 私は、前に読んだ作品をひきずりながら読んでしまう。違う人の作品を読んでも、直前に読んだ作品の印象が残っていて、その印象とつながる部分を読んでしまう。
 森谷敬「沈丁花の……」につづけて、高橋優子「繊い糸」を読んだ。そうすると、ことばとことばの接続の仕方(呼応の仕方)が似ているように感じてしまう。これは、私が「似た部分」を探して読んでしまうということなのかもしれないけれど。

 遠ざかりながら繰り返される言葉に、もうたしかな意
味は消えかかり、むしろ声、吹きすぎる風のような響き
と抑揚に、言いしれぬ懐かしさがからみ合っていた。流
れよる余韻。その薄っすらとからみあうものに耳を傾け、
はるかな記憶の影に追い縋り、あなたを縫いとめる。

 「言いしれぬ懐かしさ」とか「流れよる余韻」とか。そこに、あるイメージ(すでに読んできた文学的イメージ)を書こうとする熱意(文学嗜好)を強く感じる。そして、それが強すぎて、具体的な「手触り(実感)」がない。
 いや、しかし、これは逆に読んだ方がいいのだ。
 高橋は(あるいは森谷は)、具体的な存在を書くというよりも、「文学嗜好」そのものを「文学」にしようとしているのだ。書きたいのは、「私はこんなに文学(ことば)が好き」という熱意なのだ。
 書き出し。
 「言葉」は「遠ざかる」と同時に「繰り返される」。遠ざかることが「目的」ならば、繰り返す必要はない。繰り返すのは、遠ざかるとは逆のことをしたいのだ。いつまでも、そこにとどまりたい。そこにとどまることができないなら、「記憶」を残したい。欲望。そのために繰り返す。
 繰り返しつづけていると、「言葉」から「意味」が消え、「繰り返す」という運動だけが残る。そこには、そこにとどまりたいという「欲望/意識」だけがからみついている。「意識」しか見えない。
 「未練」と言い換えると、わかりやすくなるかもしれない。
 「記憶を残したい/とどまりたい」という欲望は「意識」(精神の運動)というよりも「感情」(感情の運動)である。情念である。情念になることで「本能」にもどる。
 だから「からみあう」「追い縋る」。そして「感情」で、「縫い/とめる」。
 「遠ざかりながら繰り返す」ということばにもう一度もどると、ここには「迂回」がある。「わざと」がある。まっすぐに去っていくのではない。「わざと」時間をかけるのである。それは「時間」をゆっくり動かす。自分自身の「感情」をゆっくり動かし、その感情の動きを自分で味わうということでもある。

 
もうたしかな意味は消えかかり、

 この短い「文」を取り出してみつめるだけでも、「感情」がいかに「時間」をかけて動こうとしているかがわかる。「もう」も「たしかな」もなくても「意味」が「消える」という運動に変化はない(とは、いえないしもしれないが)。「もう」も「たしかな」も絶対的な動詞(消える)の前では不要なものである。けれど、その不要な「もう」と「たしかな」という「こだわり」を高橋は書きたいのだ。
 「意味」ではなく、その「意味」のまわりで動いている「感情/情念」を「ゆっくり」と描く。
 高橋は(そして、たぶん多くの批評家も)、私が書いている「ゆっくり」を「ゆっくり」とは書かずに「繊細に」と呼ぶと思うけれど。
 「繊細に」ということばをつかった方が、たしかに高橋の詩にはふさわしいかもしれない。けれど、私は「ゆっくり」といいたい。「ゆっくり」の方が「時間」をあらわし、「運動」の変化を伝えられると思う。また「センチメンタル」に陥らずにすむと思うからである。
 高橋の作品を「繊細な抒情」と呼んでしまえば、それは「センチメンタル」の「枠」のなかに収まってしまって、おもしろくない。「熱意」がわからなくなる。
 
 降りしきる雪のなかの、互いの膝に滴った薄青いしず
く。冷たさに潜む樹々の、微かなきしみ。そうして繁み
の陰で寄りそいあう牡鹿たちの、暗い瞬き。(放たれる
声にも似た瞬きを、不意に混濁した私は、とらえきれな
いまま)

 「薄青い」「微かな」「暗い」ということばは、「陰」にも通い合えば「とらえきれない」にも通い合う。「互いの膝」は「寄りそう」に通い合う。しっかり「文学の定理」を反芻している。
 「潜む」は「陰」や「暗い」に通い合うと同時に、「放たれる」という逆の意味のことばとも通い合う。矛盾することで、そこに濃密な運動を抱き込む。これは書き出しの「遠ざかりながら繰り返される」という運動に似ている。
 矛盾を含むことで、「意味」は消え、「意味」を消していく「情感」というものだけが「混濁した私」の「うわずみ」のように悲しく残る。
 それを「繊細」と呼ぶのではなく、「繊細」ということば(批評)を拒絶して、「混濁」が「透明」になるまでの「時間」を「ゆっくり」味わう。その「時間」に重なる「文学のことばの連続(歴史)」を思い出す。
 そんなふうに読む詩だと思った。
 この詩にも、いわゆる「現代」はない。「現代」があるとしたら、「文学を読んでできた」という「過去」と向き合う形であらわれる「現代」がある。



漆黒の鳥
高橋 優子
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森谷敬「沈丁花の……」

2015-09-29 08:58:11 | 詩(雑誌・同人誌)
森谷敬「沈丁花の……」(「poisson」39、2015年10月発行)

 森谷敬「沈丁花の……」も、「現代詩」とは少し違うかもしれない。ポーとかボードレーヌあたりの時代の雰囲気がある。

沈丁花の咲く頃 ひとり訪れた
坂のある街 変わらない果物屋
の前を過り 私自身を過る
夜風が頬を掠める頃 精霊は現れ
街角の灯は共にまたたく それは
いつの日の出来事であったのか

 「私自身を過る」は「すぎる」と読ませるのか、「とおる」と読ませるのか。「前を過り」は「とおり」の方が読みやすいが、「私自身」の方は「すぎる」と読みたい気持ちになる。「私」をそこに置き去りにして、別の私がつきぬけていく。「私」だけれど「私」ではない。この「私自身を過る」という運動は、私には、とても魅力的に見える。ここから「詩(現代詩)」がはじまると思う。思うのだけれど……。
 それが「精霊」と結びつくとき、なんだか、古い時代に迷い込んだような気持ちになる。
 「私自身を過る」という「非人間的(超人的?)」な行為があって、初めて「精霊」と向き合うことができる。「非人間的」な行為(運動)があったからこそ、そこに「精霊」があらわれる。
 うーん。
 「論理(?)」としては、そうなのかもしれないが、どうも古い。「精霊」が古い。その前に出てくる「ひとり訪れた」の「ひとり」もまた古い感じがする。「意味」が強すぎる。「文学」になりすぎている。言い換えると、そこには「現実」はなく「過去の文学(過去の文体)」がある。「ひとり」ということばで、そこから始まることがまったくの「個人的(ひとり)」の体験であると強調するのは、「幻想文学」の常套手段であるように思えるのである。
 「変わらない果物屋」の「変わらない」ということばの使い方も「ひとり」に似ている。果物屋が「変わらない」と書くことで、そこに「過去」の時間を呼び出すと共に、これから起きることは「変わったこと」であると暗示する。
 「夜風」も「頬」も「掠める」も古い。常套句である。
 なんだかけなしてばかりいるようだが、この詩の「強さ」は、しかし、実はこの「常套句」にある。どのことばも「文学」を潜り抜けているというところにある。

曇空の下 甘く切ない馨は流れ
遠く噴水は 時の別れを刻んでいた
青年はひとり祈りを捧げ 早春の
空の十字路に 友人たちを見送った

 「甘く切ない」なんて、「演歌歌謡曲」みたい。「甘く切ない」と書けば「甘く切ない」が実感になる時代は過ぎてしまった、と私は思うが、もしかすると「新奇」なことばなどもうどこにもなくなって、この「古さ」が逆に新しくなる時代になってしまったのかもしれない。
 書き出しの「ひとり」は、「私」という意味だと思うが、それが「青年はひとり」と「青年」になってよみがえってくることから、この詩は「青春」の思い出を描いているとわかるのだが、この省略された「私」から「青年」への変化のなかにセンチメンタルとロマンチックが同居している。「祈りを捧げ」が、それを加速させている。
 やりきれない。
 やりきれない感じがするのだが、どこまでつづけるのかなあ、ということが気になったりもする。

果てなく続く回廊の 影の見えない
円柱から 溢れ出る馨 音 色彩
無言の事物から洩れる言葉を掬い
いつの日からか迷っていた 夕暮時

 「果てなく続く」のは「ひとり(私)」と「青年はひとり」の「私/青年」という「循環(回廊)」の回想である。「影の見えない」「無言」ということばの「否定」の存在。それを突き破るように動く「溢れ出る」「洩れる」という「いのち(肯定的存在)」。あるいは、その交錯が「果てなく続く回廊」であると言うこともできる。そして、そのときそれはまた「私/青年/ひとり」の言い直しにもなる。
 ここまで書くなら、もっと技巧的になった方がおもしろいかもしれない。技巧そのものを詩にしてしまえばいいのかもしれない、とも思う。

不意に小路を横切った可憐な影
瑠璃色の眼に深い憂いを湛え
忘れがたい馨と 拡がりを残し
夜の沈黙へと消えていった その日

 「可憐な影」は何の「比喩」か。猫だろう。「私/青年/ひとり」なら「女(美女/娼婦)」でもよさそうだが、この青年はまだ童貞なのだろう。猫に女の「精霊」を見ている。しかし、「眼に深い憂いを湛え」まで書いてしまうと、それは「女/猫」ではなく、「青年」になってしまう。センチメンタルになってしまう。だから「沈黙」を呼び寄せる。
 ボードレーヌなら、「沈黙」ではなく「喧騒」(ざわめき)を、「馨」ではなく「におい(異臭/悪臭)」を引き寄せ、そのなかで感覚が裸になるだろうなあ、と想像した。
 あ、ボートレーヌなんて、ほとんど読んでいないのだけれどね。
 つまり、私の感想はいいかげんなものだけれど。
 でも、まあ、そうか、こういう詩がまだ書かれているのか、こんなふうに文学のことばをていねいに組み合わせて詩を書くひとがいるのかと思いながら、なつかしいような気持ちにもなった。「ていねいさ」が美しいとも思った。

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村野美優「伴走者」「ひとり」

2015-09-28 08:49:43 | 詩(雑誌・同人誌)
村野美優「伴走者」「ひとり」(「ひょうたん」56、2015年06月26日発行)

 村野美優「伴走者」は短い詩である。こういう作品を「現代詩」とは呼ばないかもしれないが……。

本のページからふと顔をあげると
窓の向こうを富士山が走っていた
すぐ建物に遮られ
見えなくなってしまったが
なおも目で追いつづけると
家並みの向こうにときおり白い頭がのぞいた
それを見ながらわたしは思っていた
こんなふうに見え隠れしながら
伴走しつづけているのかもしれない
だれかのことを

 二行目の「窓の向こうを富士山が走っていた」がいい。走っているのは新幹線。富士山は動かない。けれど、一瞬逆に見える。いや、そういう錯覚(間違い)は、もう無意識の内に修正するようになっていて、だれもそんなふうに見ない(見えない)かもしれないのだが。
 この一瞬の錯覚を大事に守ってことばを動かしている。そこがおもしろい。後半は少し「意味」になりすぎていて、それがよけいに「現代詩」らしくないのだが、「間違い」を持続するところに「肉体」を感じた。
 「ひとり」にも同じような行がある。

くちばしをつつきあって
キスをしているとりたちはいるけれど
てを(いや、つばさを)
つないでいるとりたちはみたことがない
とぶときはいつもひとりだ
生殖の季節はおわった
つれはいらないよ
なんていさましいことをいうつもりはないけれど
贈り物のこのつばさ
両の手にうけとめた

 鳥が手を(翼を)「つないでいるとりたちはみたことがない」。こちらの方は「錯覚(見間違い)ではなく、正しい認識。でも、それはほんとうに「正しい」か。特に「とぶときはいつもひとりだ」と簡単に断定しているが、ほんとうか。「ひとり」であるかどうかは「手をつないでいる」かどうかとは関係がないかもしれない。逆に言えば「手をつないでいても」ひとりということはあるかもしれない。
 が、そんなめんどうなことは、ここでは言わない。
 鳥たちは手をつなぎ合わない。「つばさ」をつなぎあわない。その「目で見た事実」を村野は、自分の「両の手」で受け止めている。「目で見た事実」を「贈り物」と受け止めている。
 「窓の向こうを富士山が走っていた」というのも、「目で見た事実」であり、それはやはり「贈り物」なのだと思う。ことばが、そんなふうに動いたということが、「贈り物」。そして、それを大切にして、ほかのことばを動かしている。


草地の時間
村野美優
港の人

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ロイ・アンダーソン監督「さよなら、人類」(★★★)

2015-09-28 00:44:33 | 映画
監督 ロイ・アンダーソン 出演 ホルガー・アンダーソン、ニルス・ウェストブロム

 映像のひとつひとつに「遠景」がある。
 冒頭のワインのコルクを抜こうとして心臓発作に襲われ死んでしまう男のエピソード。カメラは固定したままで、男が演技している。その男のいる部屋の向こう側にキッチンがある。おんなが洗い物をしている(らしい)。
 部屋に余分なものがないので、この「遠景」の「構図」がとても目立つ。
 こういう構図はホウ・シャオシェンがよく用いる。台湾は狭いから、空間の広がりを表現するのときはどうしても「遠近感」に頼ってしまう。スウェーデンも、そうなのか。うーん、台湾や日本よりも「広い」と思うのだが……。
 もしかすると北欧の「寒さ」とも関係しているかもしれない。外ですごすよりも室内ですごす時間が多い。だから室内の「風景」が多くなり、そこで「室内」にどうやって広がりをもたせるかというと、手前に「近景」、後ろに「遠景」という構図をとるしかないのかもしれない。
 床屋の、髪を切る部屋と、その奥の電話のある部屋の関係もこれに似ている。部屋の奥に別の部屋があり、それは「遠景」である。接続していても、とても「遠い」部屋なのである。
 そういう「構図」にしぼって感想を書くと。
 おもしろいのはフラメンコ教室。真四角な室内。向こう側の部屋がない。そう思っていたら、突然画面が切り替わり、廊下(?)のようなところで女が掃除をしている。そこへ、フラメンコを踊っていた男がドアを開けて出てくる。そして去っていく。後ろへではなく、手前へ。つまり、男の動きにあわせて、突然「遠景(遠くの部屋)」が生まれてくるのである。フラメンコ教室の描写がおもしろいので、そこに気を取られてしまうけれど、その描写よりも、この「遠景」が生まれるという瞬間を監督は撮りたかったのだな、と思った。
 「遠い/近い」はひとがつくりだすものなのである。「構図」だけみると、そこに最初からあったように見える「遠景」だが、部屋があるだけでは「遠景」にならない。ひとがそこで動いていてこそ「遠景」なのである。
 手前のひとと、後ろのひとが「違う」動きをするとき、そこに「遠景/近景」、「遠近」そのものが生まれてくる。
 フラメンコを踊る男のからだにからみつく女教師の手。背後からまさぐる手。それをふりほどく男。そこには気持ちの断絶があり、それが「遠景」をつくり出している。ということも、この廊下のシーンがあって、さらに明瞭になる。
 レストランの前で来ない友人を待っている男の描写もおもしろかった。この映画では、室内から窓を通して「風景」を「遠景」にしてみせるシーンがいくつかあるが、このエピソードでは、外から「室内」を「遠景」としてとらえている。これは、人間のいる「室内」にこそ「遠景」があるという監督の映像哲学を象徴しているように思える。そして、このシーンを見ていると、まるで通りが「内部」のように、つまり「セット」のように見えてしまう。窓から見える内部は、はてしない「外部」に見えてしまう。レストランの内部はどこまでも広い。けれど男がいる「通り」は男が歩き回る範囲が通りになっているだけで、あとは「密閉」されているという感じがするのである。スクリーンにうつっていない左側には「街」があるはずなのだが、そのあるはずの「街」の気配がまったくない。
 「室内」から「外部」を「遠景」として取り入れているシーンでは、タイムスリップしてきた(?)王と軍隊のシーンがおかしい。レストラン(?)へ入ってきて、トイレをつかおうとするのだが、そのレストランから見た「外部」というのは単なる「風景」としての「外部」ではないのだ。「外部」には「内部」とはちがった時間が存在している。「時間の遠景」が「室内」に闖入してくる。そうか、「外部」からだれかが入ってくるということは、そこに「別な時間」が入ってくるということか。これは、ひとつの「時間哲学」ということになる。
 みんながひとりひとり「個人の時間」を「室内」としてもっていて、それが接触するとき、そこに「室内の遠景」だけではなく「時間の遠景」も生まれる。そういう視点で、この映画を見直すこともできる。
 冒頭のワインのシーン。男は「ワインを飲む」という「時間」に夢中になっている。女は「洗い物をする」という「時間」に夢中になっている。おなじ「いま」にいるが、「時間(肉体の動き/感情の動きがつくりだしている時間)」は分離しているのだ。
 ひとはみんなちがった「時間」を生きている。いっしょに行動している人でもそうなのだ。主人公(?)は二人いて、パーティー用の面白グッズをセールスしているのだが、おなじことをしているからといって、同じように生きているわけではない。だから、ついたり、はなれたり、慰め合ったり、反発したりする。
 こういうことを、固定したカメラのフレームのなかで展開する。うーん、夢を見ているみたいに眠くなる映画である。思い返すと、色も消えている。セピア色というか、灰色と茶色が混じったような、薄暗いグラデーションになってしまう。グラデーションというのも、一種の遠近法か、と思ったりするのである。
                      (KBCシネマ2、2015年09月26日)




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南川隆雄『傾ぐ系統樹』

2015-09-27 19:42:19 | 詩集
南川隆雄『傾ぐ系統樹』(思潮社、2015年08月31日発行)

 南川隆雄『傾ぐ系統樹』は戦中・戦後と向き合っている。そこには「時代のことば」と「肉体のことば」が交錯する。私は「肉体のことば」が濃厚にでた作品の方が好きである。「かんづめ」。

いま食べたければ自分で開けるんだね
さらりと叔母がいう

墓の台石に缶をすえて石で焼け釘をうつ
ちいさな穴ひとつ
楕円の棺のしじまがくずれ
 濁世の吐息が入り込む幽かな音
穴むかでは砂にまみれて延びていく

 墓参り。缶詰の供え物。いったん供えたあと、持って帰って食べるのだろう。そのつもりなのだが、叔母が「いま食べたければ自分であけるんだね」という。
 どうやって?
 缶切りがあれば缶切りで、ということになるが、墓場に缶切りなどない。
 南川は、釘を見つけてくる。それから石を。缶の縁に釘をあて、石で叩く。穴ができる。その穴をつないで行って、缶の蓋をあけるのだ。
 したことがあります?
 私は、ある。釘のかわりに、ドライバーをつかったこともある。石のかわりに金槌もつかう。切るとは「線」として切る以外にも方法がある。「点」をつないで行って「線」にしてしまう。時間はかかるが、たしかにそういうことはできるのだ。
 この「点」が「線」になるまでの「時間」。そこで動いている「肉体」というものは、どういうものだろうか。「食べたい」という生の欲望。本能。それが「穴(点)」をつなげば「線」になるという「智恵」となって動く。急ぎたい気持ちと、急げば急ぐほど「点」が乱れるので、もっと正確にと「肉体」を制御する力も動く。
 それを見ている叔母の視線も気になるかもしれない。「供え物さえ食べたいという、この餓鬼め」と思っているかもしれない。「じぶんで開けるんだね」というのは、私は手伝わないよ、ということでもある。
 「濁世の吐息」とは、具体的には何のことか。ことばにするのはむずかしいが、缶詰を釘をつかって開けながら、「肉体」が受け止めるすべてのものだ。そこには自分の欲望と理性さえも絡み合っている。「むかで」のように、ざわざわと動き回っている。

泉下は缶のなか それともそと
釘を梃にわずかなすき間をつくる
ほら覗いてみな こちらの世の変わりようを

 「泉下」のひとは戦争で亡くなっただれか。叔母の夫か。あるいは南川の父か。「ほら覗いてみな」と言ったのは叔母だろう。「こちらの世の変わりようを」を叔母はまざまざと感じている。こどもの南川だって、ほら、自分で缶詰を食べるために智恵を働かしている。欲望を実現するために、こんなことをしている。あさましいのか、頼もしいのか。どうとでも言うことができる。どう言うかは、そのひと次第だ。判断の基準がなくなっている。それくらい「こちらの世の変わりよう」は激しいのだ。
 南川は、その叔母のことばを「理解」しただろうか。「わかった」だろうか。いや、「ほら覗いてみな こちらの世の変わりようを」と言ったのは、そのときの南川自身かもしれない。それは南川の声かもしれない。自分の変化を、そのときの南川はもう自覚していたのかもしれない。
 どちらともいえない。でも、それを「覚えている」。そして「思い出している」。思い出して、書いている。そのことばをつかって、あのときを、いまによみがえらせている。それは、あのとき見たものよりも、もっと生々しい。

ひそと横たわる数匹のいわし
 骨まで軟らかなふしぎな味
ぜんぶ食っちまうよ
血まみれの指で汁もすくって啜る

 いわしの缶詰。その「骨まで軟らかなふしぎな味」。いまのこどもなら、かなり抵抗があるかもしれない。あまり「舌触り(歯触り)」のいいものではないだろう。けれど、あの食料難の時代、それは「骨まで」肉体にしみこんでくる。食べたすべてが肉体になるのが、食べている瞬間からわかる。うまい/まずいを超えた味だ。「骨まで」と思うとき、そこにはなくなった父か、父の兄弟(叔母の夫)の「死」も、とうぜん連想されている。それは「軟らかなふしぎな味」としか言えない。「死」を食べているのだ。だれかの死を食べて、いま、こうやって生きている。生きているというのは、だれかの死を食べることだ。
 残してはいけない。全部食べて、そして生きるのだ。
 釘でむりやりこじ開けた缶詰。その縁はぎざぎざだ。指にひっかかり、指が傷つき、血も出る。その血まみれの指で、缶詰の汁もねぶりとり、なめてしまう。そのとき感じる血は、自分の血だけではないだろう。死んでしまった人たちの血も感じるだろう。感じながら、それを全部自分の肉体にするのである。

墓場からはみ出た墓石が山門前にならぶ
墓穴をあけてももうなにも出てこない
 でも墓に入れれなかった人たちが尻の下で仮眠している

あれほどの うつつが
 いまは真昼の影絵ほどに心許ない
あれはいわしではなく なにかの生きものの指
腹をすかしたこどもは じぶんではなく
 会えなかったじぶんのこどもだったか

 墓には必ずしも「骨(遺骨)」があるわけではない。遺体(遺骨)が帰って来なかったひともいる。父か父の兄弟も、そうだったかもしれない。もしかしたら南川がそういう人間になる時代があったかもしれない。そのとき、南川のこどもは、やはり墓の前にきて供え物の缶詰を、そのあたりにある釘と石をつかってこじ開けて食べたかもしれない。
 そういうことが、もう一度、あっていいのか。
 そう問い直すとき、この詩は、「あの時代の証言」ではなく、「いまの時代の予言」になる。告発になる。


傾ぐ系統樹
南川 隆雄
思潮社

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長嶋南子「神経」、井川博年「ポケットに手をつっこんで」

2015-09-26 12:50:25 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「神経」、井川博年「ポケットに手をつっこんで」(「zero」2、2015年09月15日発行)

 長嶋南子「神経」は歯の神経のことから書きはじめているのだが……。

歯医者は痛む歯の神経を
よじれた針のようなもので抜く
抜かれて神経は
くねくね身をよじり
外気に触れたとたんに絶命する

神経にさわると
からだのどこかが痛み出す
気が小さいわたしは
神経にさわることが
起きないように
殻に閉じこもっていた

 二連目で「神経」は「比喩」になる。歯の神経のような「肉体」ではなく、ここでは「気に障る」というときの「気」に近いものが書かれている。「肉体」に対して「精神」といえるかな?
 「殻」は自分という「殻(枠)」。これも「比喩」だね。

男が遊びにこなくなった
出かけるところも仕事もない
なにもすることがないので
殻から舌をだし
神経のない歯をなめている

 うーん、これはちょっと「分類」が難しい。
 「殻から舌をだし」の「殻」って何だろう。「比喩」? 自分という「殻」? 「神経のない歯」というのは「肉体(現実)」だけれど、「舌」というのも「肉体(現実)」なのだが、「殻」が何を指すか、よくわからない。つまり、言い換えがきかない。
 で、一瞬、何か、変な気持ち(よくわからない気持ち)になるのだが、「舌」で「神経のない歯をなめる」という「肉体」の動きがわかってしまう(自分でも、そういうことをしたことがあることを思い出してしまう)ので、ことばにひっぱられてしまう。
 わからないのに、わかったような気持ちになってしまう。
 「舌をだす」の「だす」という「動詞」もわかるけれど、もしかすると、この「出す」という「動詞」が「比喩」なのかな?
 「舌をだす」。どういうときに? 失敗したときに、「あっ、やっちゃった」という感じ。別に「心底」その失敗に気落ちしているわけではない。
 あるいは、何かに口をはさむことを「口を出す」というが、それも「舌をだす」の一種かな?
 何もすることがない。だから「舌」を動かす。ことばを動かす。詩を書く?
 かもね。

 そして最終連。

息子はナイフで牡蠣の殻をこじあけ
レモンをふって食べる
バカ それはわたしの舌だよ

 また「現実」と「比喩」が交錯する。息子が牡蠣を食べる。このときの「殻」は「現実」の殻。牡蠣は殻に閉じこもって、身を守っていた。それをこじ開けて、息子が食べている。
 それを見ながら長嶋は、「あ、自分は牡蠣のようなものだな」と思っている。自分の殻に閉じこもって、そのまま生きていたかった。でも息子がいる。息子のめんどう(世話)をみなければいけない。殻に閉じこもってばかりはいられない。口も出す。(舌も出す?)息子が長嶋の「殻」をこじ開けるのではないが、長嶋からすれば「こじ開けられた」に等しいのかもしれない。
 息子の世話をすることを、息子に食べられる、と「比喩」で語っている。「すねをかじられる」という「比喩」(慣用句)の言い直しかな?
 で、「牡蠣」なので「すね」ではなく「舌」。
 おまえは「わたしを舌を食べてるんだよ、バカ」と、まあ「殻(詩)」のなかで言っているんだねえ。

 というような具合にこの詩を読んでくると。

 「現実」と「比喩」、「肉体」と「比喩」がどこかで融合していて、区別をはっきりつけることができないことがわかる。
 まあ、こういうことは、きっと区別をする必要がないんだろう。
 どっちがどっち? わからない。それぞれが勝手に「誤読」しながら、うん、わかる、といえばいいのだ。
 「牡蠣の身って、たしかに舌に似ているね」「やめろよ、そんな言い方。気持ち悪くなるじゃないか」「舌も歯ブラシで磨いた方がキスするとき清潔感があるよ」「ちょっと不潔な方がなまなましくてエロチックだよ」とか「生牡蠣にはやっぱりレモンがいいねえ」「スダチもいいよ」「私は焼いたのでないと、だめ」とか言ったり、「歯医者はやっぱりこわいね」「歯を抜いたあとの歯茎ってつるっとしているね」とか、長嶋の書いていることを無視して、自分が知ってていること(体験し、肉体で覚えていること)をテキトウに話して脱線していく。こういうときの「肉体感覚(肉体のざわめき)」というのは、私は好きだなあ。そういう「場」で、長嶋の詩を読みたい。
 長嶋は、そんな「場」で自分の詩が読まれる(読者の、なまの声、詩とは無関係に「体験」を語ることばが暴走していく)のを体験したことがあるかな?



 井川博年「ポケットに手をつっこんで」には、長嶋が書いているような「自分の肉体が暴走する」ようなことばを引き出す要素がない。読みながら、読んでいる方の「肉体」が暴走するというようなことはない。井川のことば、長嶋とはちがったものを引き出す。

考えごとをしていると
ポケットをまさぐる癖がある。
いま来ているコートには
右のポケットには底に穴が空いていて
左のポケットには小さな紙屑が入っている。
歩きながらポケットに手をつっこんで
右のポケットの穴をまさぐり
左のポケットの紙屑をいじっている。

 こういうことは、だれもが体験している(きっと)。そのとき自分で「まさぐる」「いじる」という「動詞」をことばにしているかどうかはわからない。「つっこむ」という「動詞」も、まあ、ことば(意識)にはしないだろうなあ。で、その「動詞」の使い方が正しいかどうかも考えず、こういうことをしたことがあるなあ、井川は私と同じ人間なんだなあと「親近感」を覚えたりする。
 長嶋の体験にも、自分の体験と通じるものがあるだろうけれど、「歯の神経を抜く」なんてことは「親近感」をもって「そうだなあ」というのとは違う。親近感がありすぎて(生々しすぎて)そんなことわざわざ言うなよ、という感じが近いかな?
 井川のことばは「肉体」の「底」までえぐらない。「肉体の神経」をえぐらない、といえば違いがわかりやすくなるか。
 では、何を井川のことばはひっぱり出すか。
 右と左のポケットから美空ひばりの「東京キッド」の歌(歌詞)をひっぱり出し、

ひばりは美空だと空を見上げると
できたてのパンのような雲が浮かんでいる

 という「比喩」を動かす。「比喩」とは、いまそこにあるものを、そこにないないものを借りて動くことばであり、それはしたがって、次のように動いていく。

ほかほかのパンなんて
あの頃は匂いすら嗅いだこともなかった
薄いコッペパンに脱脂粉乳の給食
なにしろ進駐軍の時代だったからな

 「肉体」は「嗅ぐ」しか動かない。あとは「脱脂粉乳」「進駐軍」というような「時代のことば」が動く。井川は個人的な「肉体」というよりも「時代のことば」を書き、その「時代」を共有しようとする。「個人の肉体」の体験のようであって、それは「時代の体験」(時代の証言)である。
 詩が、「時代の証言」になるとき、その詩は「個人の体験」より共有しやすい。けれど、そこには何か危険が潜んでいると思う。「時代の証言」であってもいいのだろうけれど、それを「個人」の側へ引き寄せる必要があると思う。「時代」を「ひとりの肉体」として突き破らないと、危ないことになる、と思う。
 これは、最近の「政治」を思ってのことなのだけれど……。

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岡本勝人『ナポリの春』

2015-09-25 07:40:45 | 詩集
岡本勝人『ナポリの春』(思潮社、2015年09月15日発行)

 岡本勝人『ナポリの春』は、タイトルからわかる通り旅の詩である。松岡政則『艸の、息』もまた旅の詩だったが、うーん、旅というのはひとによってこんなに違うのか。訪れたところの違いというよりも、訪れ方(?)が違いすぎる。
 「プロローグ--ケルトの地から光をさがす」という作品の書き出し。

フェノロサが
法隆寺の救世観音をみたのは
いつのことだったろう
夫人から能の草稿をパウンドがあずかり
パウンドからイェイツが能をしったのは
--一九一三年の冬
いまから百年も
むかしのことである

 これは旅の詩だろうか。自分の家にいて、本を読めば書ける詩ではないだろうか。岡本は旅に出てこの詩を書いたのか。家にいて書いたのか。家にいて、旅に出る前に書いたから「プロローグ」なのだろうか。
 いつ、どこで書いたかによって、詩の読み方もかわってくるかもしれないが。
 いつ、どこで書いたにしろ、岡本にとっては、知らない場所へ行き、知らないひとに出会う、知らないことを体験するということよりも、知っていることを組み合わせて、組み合わせることではじまる世界へ行くことが旅なのだろう。
 フェノロサ、救世観音、能、パウンド、イェイツ。いくつもの固有名詞が出てくる。(能は固有名詞ではないけれど、きっとパウンドにとってもイェイツにとっても固有名詞のように感じられただろう。)その固有名詞は「ある場所/ある時間」に行けば「存在」しているわけではない。あくまで岡本の「頭」のなかで結びついてひろがる「世界」である。その「頭の中の世界」へ岡本は旅をする。

  (われわれはたましいで生きている)
  アイルランドの海のかなたには
  不老国があるという
  『鷹の井戸』では老人と若者が仮面をつけた
  ケルトの薄明がおりてくる
  井戸のそこでは
  笛の音が死の水を求めて
  誕生と死とこの世の愛と苦しみを輪舞させている

 これは実際にアイルランドの地を踏み、そこで考えたことなのかもしれないが、書かれていることばにアイルランドの「固有のもの」を感じ取ることはできない。
 ここからわかることは、岡本が能とケルトを結びつけ、そこにイェイツを見ているということである。イェイツによって「異化」された能。この「異化する(異化される)」という動詞は、すぐに「生かす(生かされる)」と言い直すことができる。そして、それはそのまま岡本の詩の書き方につながる。岡本は、アイルランド(ケルト)をイェイツという人間を通して把握し、そうすることでアイルランドを独特なかたちに「異化」し、「生かす」。岡本は、そのアイルランドで生きる、生かされる。
 松岡が旅先で「ことば」を脱ぎ捨て、「声(肉体)」に出合い、自分の「肉体」そのものをさらに解きほぐして「地べた」から裸足で立つつのに比較すると、岡本のこの詩は「ことば」を構築することで「土地」のうえに浮かんだ建築物をつくるような運動に見えてくる。
 岡本の詩は、ことばとことばが、しっかりと組み合わさり、そこに新しい場をつくり、その場がさらにことばの構築物の発展(拡大?)を促すという感じ。「肉体」を切り捨てて、「純粋精神」としての詩。
 あ、つらいなあ。
 岡本の詩を読むには、岡本と同じだけの「ことば」を知っていないといけない。「出典」を知っていないといけない。ことばは、その作品のなかのことばだけでは完結していない。そのことばが存在したはずの別の「テキスト」のことを知らないといけない。「間テキスト」といえばいいのか、テキストとテキストの「間」のなかに構築される建物。岡本にとって「場」は「土地」ではない。岡本にとって「場」ことば(テキスト)とことば(テキスト)の「間」であり、その「場」はそれぞれのテキストを「土台」としてつくられる。そこにできあがってくる「ことばの構築物」を楽しむには、土台のテキストを自分のものにしていないと、読んでいる方がぐらついてしまう。岡本のつくったものはがっしりした構築物なのに、読者の方ではその重さに耐えられず、ぐらぐらし、押しつぶされてしまう。
 簡単に言い直すと、かっこいいけれど、難しい、わかんないよ。
 それはたとえば、「月と足裏のラプソディ」のような作品に、顕著にあらわれる。(あ、これは、私がまったく理解できなかった、ということを裏返しに言っているだけなのだが。つまり、私の無知をさらけだすことになるだけなのだが……。)

ふだんは気にもとめない足裏だが
ほんとうは脳のように複雑で
いくつものつぼがある
つぼの位置はほぼ左右対称だ

 これは「肉体」のことを書いているのだと思う。足裏には肉体の機能と結びついた「つぼ」がある。それは脳のように複雑だ、というのはどこかで聞いたような気がする。ここだけを読むと、岡本は「肉体」と「脳」のことを書こうとしているのかな、と思ってしまう。
 ところが、次の連、

いまだ老いたとはいえない道元が
病のために山をおりた
生まれた京都が、終焉の地だった
「生死ぬ(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」
五十三歳の暑い夏だった

 「病」が「肉体(足裏のつぼ)」とつながっているようだが、よくわからない。
 詩はこのあと日蓮を呼び出し、さらにヘシオドスを始めとするギリシャ古典が次々に出てくる。アキレウスの逸話(アキレス腱の逸話)が「肉体」として出てくる。道元の「病」と結びつけるなら「死」というものが、すべての「固有名詞」をつないでいることになるかもしれない。肉体の苦悩と死。それがこれまでどのように描かれ、これからどう描くことができるか。そういうことを考えているのだろうか。
 でも、これは旅に出なくても、机の上で本を開きながら作り上げることのできる世界なのではないのか。
 どうやってその権化構築物をつくったかは問題ではなく、そこに出現した言語構築物としての詩のみが問題にされるべきだ、と言われそうだなあ。
 それはそうなんだけれど。
 こんなふうに「未練」がましく書いてしまうのは、まあ、私の無知を棚に上げて、文句を書き並べるようなものだけれど。

 で、(と、ここから飛躍する)
 その「無知」が非常に疑問に感じたある部分。「間奏--或るひとつの世紀の墓標 二〇一二年九月」の書き出し。

もしわたしが画家ならば
目の前でりんごをむく
きみの姿を描くだろう
しかしそれはかなうまい
なぜならわたしは
詩というやっかいな世界にいるからだ

 あれっ、

もしわたしが詩人ならば
目の前でりんごをむく
きみの姿を書くだろう

 「画家」を「詩人」に「描く」を「書く」にすれば簡単に解決する問題じゃない? 何をためらっている? 何か「書く」世界を最初から制限していない? テキストとテキストの「間」、「間テキスト」にこだわりすぎていない? この詩には、このあと「ノイズ」とか「クールジャズ」とか「現代詩」の好みそうなことばがちりばめられるのだけれど、そういうことばを棄ててしまえば、テキストからはみだした動きがうまれるかもしれないなあ、とも思った。
 「エピローグ--わたしは詩をかいていた」のなかの、

渦は宇宙の神秘のコンプレックスだ

 という「テキスト」を感じさせる一行よりも、

  生きるためにペットボトルを何度も口にかたむけたんだ

 という「肉体」そのもの描写したことばの方が、私には近付きやすい。
 詩集を読んだ順序が、この感想には影響しているかもしれない。松岡の詩集を読む前に読んでいたらきっと違う感想になっていただろう。「頭」の疲労具合も影響しているかもしれない。私は目が悪くて長い間読み書きをすることができないのだが、それも影響しているかもしれない。疲れを知らない「頭」のいいひとには、ゆるみのないことばが疾走するおもしろい詩集だと思う。

ナポリの春
岡本 勝人
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松居大悟監督「私たちのハァハァ」(★★★★)

2015-09-24 00:00:00 | 映画
松居大悟監督「私たちのハァハァ」(★★★★)

監督 松居大悟 出演 井上苑子一、大関れいか、真山朔チ、三浦透子

 北九州市から東京まで自転車で行こうとする女子高校生(三年生)のロードムービー。目的は大好きなロックバンドのライブを見るため。
 自転車で東京まで、というのは大変。それもロードサイクル用の自転車ではなく、いわゆるママチャリ。荷物かごが前についている。ひとりは自転車のタイヤが小さいミニ自転車。あ、無理だねえ。
 で、実際、無理。広島まではがんばって自転車で走るのだが、あとは走れない。まずヒッチハイクを試みる。これも現代ではなかなか難しい。なんとか神戸まではたどりつくが、そこから先はヒッチハイクもできない。しかたなくアルバイト(キャバクラ?)をして金を稼ぎ、北九州にいたときにバイトした金をあわせ、東京までのバス代捻出する。ところが、東京に着いてみると、東京駅から渋谷までの電車賃がない……。
 そういうむちゃくちゃな行動なのだが、これがなかなか楽しい。タイトルの「私たちのハアハア」の、その「ハアハア」が聞こえてくる。最初ははつらつだった「ハアハア」が苦しい「ハアハア(力のないハアハア)」なって、それでも力をふりしぼってまた「ハアハア(必死)」なる。それが、そのまま映像と台詞になっている。
 夜に出発してすぐ、門司あたりで、すでにひとりが「ほんとうに東京までゆくの?」と疑問を発するのだが、押し切られてしまう。広島では原爆ドームを背景に野宿する。ここまでは、ともかく元気だ。「ハアハア」も楽しい。こんなに力があるんだということを四人が歌も実感し、楽しんでいる。ノリノリである。途中で海で遊んだりもする。歌も歌えば将来の夢も語り合う。「東京なんかじゃなくて、フランスに行きたい。そのためには海外赴任の仕事がある銀行員と結婚したい」などという「現実的」すぎて非現実的な夢だったりする。恋人と電話で語り合うことも忘れない。
 二日目。はやくもからだのあちこちが痛み、自転車に乗っていられない。で、ヒッチハイク作戦。危ないね。実際、ヒッチハイクでは代償にキスを求められたり、キャバクラの面接では美人の二人は採用されるが残る二人は仕事にありつけない、という現実にも直面する。このあたりから四人の関係がぎくしゃくが激しくなる。けんかしはじめる。スマホでツイッター(実況中継)をしているのだが、金がなくて困っている、東京までゆけない、というようなことも書くのだが、バンドのリーダーへ向けても同じようなことを書く。それをめぐって「そんなことを書いたらリーダーに迷惑がかかる。消して」「リーダーがそんなものを読むわけがない」「ファンはルールを守らなければいけない」「私なんか最初からファンじゃなかった」「もう***(バンド名)は一生聞かない」というような、まあ、ミーハー高校生の会話でしかないやりとりがつづく。泣きながら「八方美人」だの「ブス」だのと、こころの奥で思っていることも言ってしまう。夜のシャッターがしまった路地で。「私はもう行かない」とかね。
 むむむ。
 これって、映画? 現実? ちょっと区別がつかない。脚本は最初から、そういう具合に書かれていたのかなあ。疲れてきた四人の「地」にまかせてしまったのかなあ。
 映像も、最初の「家出計画(東京旅行?)」はハンディ・ムービーで撮られていて画面も小さく、手振れも多い。途中からふつうのカメラで撮られた映像になるのだが、フレームがわざと揺れたりして、手持ちの感覚をいかしている。映画を見ているというよりも、四人のドキュメンタリーを見ている感じ。いや、ドキュメンタリーでもないなあ。ドキュメンタリーは編集されているから。未編集の、その場で、女子高校生を見ている感じなのだ。
 四人がだんだん疲れてきて、疲れてくると「本音」しか言えなくなってくる感じがおもしろいし、若いからぎくしゃくしながらも一瞬で気持ちが変わって、一致団結というのも、なかなか楽しい。東京駅から渋谷まで歩きながら、間に合わない、諦めた、と思いながら、もしかするとラストには間に合うかもと真剣に走り出すところなんか、若くていいなあ。
 で、ラストのラスト。
 ライブは間に合ったような間に合わなかったような、帰りは結局親のすねかじり、という感じのあれこれがあって、四人が走り出す前の映像「フレーム」のなかに、映画撮影のときの「テイク」のカチンコが映る。映画そのものにはいらない物なのだが、それをあえて映画のなかに組み込むことで、「映画ではなく、ライブなんだよ」と言っている。
 いや、ほんと、ライブなんだねえ。これが。
 傷ついても傷じゃない、失敗しても失敗じゃない。「ハアハア」するっていいもんだねえ。
                      (KBCシネマ2、2015年09月23日)




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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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松岡政則『艸の、息』(2)

2015-09-23 11:57:01 | 詩集
松岡政則『艸の、息』(2)(思潮社、2015年09月20日発行)

 松岡政則『艸の、息』を読むと「肉体」がざわめく。きのう、架空の「現代詩講座」のやりとりを書いてみたが、私は、講座でみんなと一緒に詩を読むのが好きである。私が意地悪で、奇妙な質問をすると、受講者の「肉体」がざわめく。その「音」が聞こえてくる。「わかる」のに、「わかっている」ということを言いたいのに、ことばにならない。それをことばにしようとするとき、「肉体」が動く。ざわめく、のである。「肉体」が松岡の「肉体」と重なり、その重なりのなかで、何かをつかもうとしている。セックスしている感じ。「ここなら一緒に感じる(気持ちがいい)かな」と「肉体」を探している感じ、「欲望」、いや「本能」を探している、その手探りの動くが「ざわめき」となって聞こえてくる。
 これはひとりで読むときはどんなふうに動くか。私がひとりで松岡の詩を読んでいるときは、どう動くか。私の「肉体」はどう動いているか、ということから言い直してみると……。
 きのう読んだ「漕ぐひと」。

ぐいぐい漕いでいる
ぐいぐいぐいぐい漕いで
しずかに怒っている
だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような
ほんとうはおんなにもよくわからない
たいがいそんなところだ

 引用の一行目の「ぐいぐい漕いでいる」はブランコをおんなの描写。二行目の「ぐいぐいぐいぐい漕いで」は、しかし、おんなの描写ではない。あることばを繰り返すとき、松岡は、そのことばで表現していることを自分自身の「肉体」で再現している。ただ再現するだけではなく、のめりこむように「肉体」のなかへ入っていく。「ぐいぐい漕いでいる」ではなく、「ぐいぐいぐいぐい漕いで」いる。「ぐいぐいぐいぐい」はおんなの「肉体」のなかで起きていることではなく、松岡の「肉体」のなかで起きている。
 こういうことを指して、私は「ことばがセックスしている」と呼ぶ。(それは「ことばの肉体」がセックスしている、ということであり、「肉体がことばになって」セックスしているということである。)セックスしていると、あいての「肉体」のなかで起きている変化がわかるが、それはほんとうに「あいての変化」なのか、それとも「私がかってに妄想していること」なのか、よくわからない。たぶん、「妄想」の部分の方が強いだろう。つまり、「あいて」のことが「わかる」のではなく、セックスを通して「あいて」になってしまっている。
 そういうことが松岡にも起きる。三行目の「しずかに怒っている」が、それ。
 ブランコを漕いでいるおんながほんとうに「しずかに怒っている」かどうか、わからない。おんながそう言ったわけではない。松岡が、「おんな(セックスのあいて)」になってしまって、妄想し、それを語っている。ほんとうは松岡の気持ちにすぎないのに、おんなはこう感じていると思い込んでいる。
 同じように、私は松岡になって、松岡が思い込んでいるように、「おんな」のこころのありようを勝手に思い込んでいる。
 「思い込み」なのだけれど、こういう「思い込み」は「たいがい」あたっている。人間の「肉体」は、そんなにちがわない。それぞれが別個の「肉体」であるけれど、どこかでつながっている。「感情」や「精神」がつながっているのではなく、「肉体」そのものがつながっている。

だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような

 これは松岡自身の体験でもあるし、ひとから聞いたことばでもあるだろう。(私の体験でもある。)「肉体」でつながっていることがらであり、それがたまたまこういう「ことば」になっている。「ことば」を聞く(読む)というより、ひとの「声」を聞いている感じがする。
 こういう「肉体の声」というのは、なんといえばいいのか、「論理」ではない。
 たとえば先日国会で成立した「戦争法」の「法律」を論理的に説明するときには何の役にも立たない。ここに書かれていることばで何かを説明し、それを発展させるということばではない。そこで「おしまい」のことばである。「肉体」のなかで「おしまい」。つまり「完結」している。
 ある意味では、役に立たない。役に立たないけれど、人間がそこにいるとき、そこに「肉体」があるように、しっかり存在している。その「存在」にふれる。その「存在」とつながる、そういう感じだ。
 で、そういう「完結」にふれると、あ、人間というのは自分をこんなふうに「完結」させて、ととのえることができるということが「肉体」でわかる。そこに不思議な「連帯」がある。
 「漕ぐひと」には、もう一か所「繰り返し」がある。

おんなはついに立って漕ぎだした
ひざをまげ、ひざをまげ
漕ぎに漕いでいる
加減はない容赦はない漕いでいる

 ここでも松岡はおんなを描写しながら、「おんなの肉体」になっている。「おんなの感情(こころ)」になっている。「加減はない容赦はない」の「加減」や「容赦」は、説明しようとすると難しい。

<質  問> 「加減はない」と「容赦はない」を自分のことばで言い換えてみて。
<受講者1> ええっ、「加減はない」は「加減はない」としか言えない。
<質  問> 「加減はない」と「容赦はない」の違いは?

 辞書を引きたくなるかもしれない。「意味」は「辞書」で引けば出てくるが、そんな面倒なことをしなくても、「肉体」はそのことがわかっている。わかりすぎている。わかりすぎていて、説明する必要がないから説明できないのである。

 こういうおもしろい現象(?)は「漕ぐひと」のように一種、抒情的というか、精神(感情)を刺激してくる「風景」とはまったく無縁の「日常」にもある。
 「土徳」という作品。「ばあさまが莚をひろげて/干したぜんまいを撚っている/ぼくもしゃがんでまぜてもらう」。そして、話をするのだが……

川のなまえをたずねると
「川」としか呼んだことがなあ、という
学がなあけぇ知らんのよ、と笑う

 「川」は「川」と知っている、わかっている。それで十分。それに特別な名前をつけて区別する必要がない。「川」はひとつなのである。
 「加減はない容赦はない」は「ことば」は違うが、この「川」のようなもの。それは「ひとつ」。「ひとつ」なのに、面倒くさいことに「ふたつ」の言い方をされている。「加減はない」「容赦はない」は、さらに「漕いでいる」とも「ひとつ」になっている。「肉体」のなかで「ひとつ」になって結びついている。
 ここから「分節/未分節」という言語理論を借用し、「川の名前(分節されたもの/学問)」を「分節」、「川」を「未分節」のものと言うこともできる。「未分節」のものが「未分節」の形で分節されてきており、そのために松岡は「「川」としか呼んだことがなあ、という」ことばに感動し(そこに詩を感じ)、そのままそれを再現しているということができる。しかし、これは私の考えというよりも単に理論を借用しあてはめてみただけのことであり……。
 これを私なりに言い直すと、セックスのとき、「肉体」のつっつきかたで、あ」という声が出たり、「う」という声が出たりするが、それと同じように、「同じもの」が一瞬の反応で違う形になっているだけのことである。(この違う形になるということが大切なことだけれども、私が言いたいのは、違いよりも「ひとつ」の方。)
 松岡のことばは、この「肉体」は「ひとつ」という部分を通ってきている。
 その土地のひとは「川」を「川」としか呼んでいない。そういう「肉体」を生きてきている。「川」と呼ぶことでわかりあえる「肉体」がそこにある。ことばはいつでも「肉体」の都合にあわせて動いている。その「都合」を松岡は、出会うひと、出会う土地でそれぞれつかんでいる。そして「都合」にあわせている。言い換えると、セックスして、なじんでいる。そのセックスへ還るようにして、ことばを動かしている。「都合」にこそ、「現実」がざわめいている。それを松岡は聞き取り、声にしている。
 それが、この詩集だ。


艸の、息
松岡政則
思潮社



谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
panchan@mars.dti.ne.jp
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
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松岡政則『艸の、息』

2015-09-22 15:02:04 | 詩集
松岡政則『艸の、息』(思潮社、2015年09月20日発行)

 私は詩を読むときはたいていひとりで読んでいるが、複数のひとと読むとおもしろい詩がある。松岡政則『艸の、息』はひとりで読むより、だれかと一緒に読んだ方がはるかに楽しい詩集である。
 「漕ぐひと」はブランコを漕いでいる「中年の地味なおんな」を描いている。「現代詩講座@リードカフェ」で、受講者と一緒に読むと、読むとこんな感じになる。

ぐいぐい漕いでいる
ぐいぐいぐいぐい漕いで
しずかに怒っている
だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような
ほんとうはおんなにもよくわからない
たいがいそんなところだ

<質  問> 知らないことば、わからないことばってある?
<受講者1> ない。
<受講者2> とてもよくわかる。こういう人を見たことがある。
<質  問> では、最後の「たいがい」って、言い直すと、どうなる?
<受講者2> ええっ、「たいがい」は「たいがい」。
<受講者3> 「たいてい」「おおよそ」「てきとう」
<質  問> 「正確」ではない、100パーセントではない、ということ?
<受講者3> 100パーセントではない。
<質  問> では、その前の行の「よくわかる」の「よく」は言い直せる?
<受講者4> 「よく」は「よく」。
<受講者3> 「わかる」を強調している。
<質  問> なぜ、「よく」わかる、と「よく」をつけて強調したのかなあ。
<受講者1> よくわかったから。
<質  問> 100パーセントわかった? 
       よくわかったのに、なぜ、「だいたい」?
       矛盾していない?

 こんなふうに質問すると、受講者のあいだに、困惑が広がる。なぜ、こんな簡単な詩なのに、こんな面倒くさいことを聞かれる? この「困惑」のなかに、ひとりひとりがくっきりと見えてくる。これが、実に楽しい。「意味」ではなく、ひとりひとりの「肉体」が動いている。
 うまく言い直せない。松岡の書いていることばを、そのまま反復してしまう。「丸飲み」にしてしまう。逆に、読んでいて、まるごと松岡のことばに飲まれてしまう感じと言えばいいのかな?
 詩って、べつに面倒なことを考えなくても、そのまま「丸飲み」して、「これが好き」と言うだけで十分じゃない?
 あ、そうなんだけれど、私は意地悪で聞くのである。

<質  問> では、「ぐいぐい漕いでいる」の「ぐいぐい」は?
<受講者1> 「ぐいぐい」は「ぐいぐい」。
<受講者2> 力をこめて。
<質  問> 力をこめるって、どういうこと?
<受講者1> ええっ、力をこめるは力をこめる。
<質  問> どこに? どんなふうに?
<受講者4> ブランコが下がってくるとき、からだをつんのめるようにして。
<質  問> そんなふうに漕いだことある?
<受講者4> ある。
<質  問> したことあるから、わかるんだね。
       なんとなく、「肉体」でわかる。
       「肉体」が何かを思い出すんだね。

 ことばで説明しようとすると、なんだかめんどうくさい。言い直す必要がない。言い直さなくても「わかる」。それは、ことばを「頭」で理解しているからではなく、「肉体」で受け止めているからだ。「肉体」が反応している。
 ブランコをぐいぐい漕いでいるのは、おんな。それは他人。詩を書いている松岡でもない。その他人が「わかる」。読んでいる読者の「肉体」がブランコを漕ぐという「肉体」の動きをそのまま「わかる」。自分ではブランコを漕いでいないのに、漕いでいる気持ちなってしまう。「ぐいぐい」と漕ぐ。そのときの「肉体」の動きを思い出してしまう。どこに、どんなふうに、どれくらい力を入れたか、とういようなことはめんどうくさくて言い切れないが「ぐいぐい」で全部「わかる」。
 そこから松岡は、「しずかに怒っている」以下のことを想像している。

<質  問> この想像、どう思う?
<受講者1> その通りだと思う。
<受講者2> さっき言ったけれど、こういうひと見たことがある。
<受講者4> いるよね。
<質  問> でも、ほんとうに怒っている? 聞いてみた?
<受講者3> そんなこと、知らないひとに聞けない。
<質  問> じゃあ、どうして怒っているが正しいと言える?
<受講者3> ええっ、……。

 私は意地悪だから、こんな質問をする。受講者は即座には答えないけれど、なぜ「わかる」かといえば、自分で、どうしようもない怒りを、そんなふうにして発散したことがあるからだ。「肉体」がそれを覚えているからだ。ブランコを漕いだかどうかはわからない。坂道を駆け上ったのかもしれない。道端の草を薙ぎ倒したのかもしれない。台所で汚れ物を洗ったかもしれない。いつもと違う感じで、何か力を込めて。「肉体」のなかから何かを押し出すような気持ちで。「ぐいぐい」。
 「ぐいぐい」は何かを押し出そうとする感じなのだ、と私なら言い直す。ただ、即座に、そういうことばにはたどりつけない。何度も自分の「肉体」が覚えていることを思い出す。そうして、押し出しても押し出しても、まだ何かが「肉体」のなかに残っているという、いやな感じも思い出す。それがだんだん「もうどうでもいいや」というような気持ちに変わってくるのも思い出す。
 これは「正解」ではない。「正確」ではない。「おんな」がそう言ったわけではない。でも、「だいたい」そんなところだ。「だいたい」なのに、それを「よく」わかると言える。それは「おんな」のことが「よく」わかるのではなく、自分のこととして「よく」わかるのだ。おんなのひとの感じていることは、だいたい「こんなこと」。それに反応している自分の気持ちが「よく」わかる。このとき、読者(私)、そして詩人の松岡は「おんな」そのものになっている。「おんな」と一体になって、区別がない。
 「わかる」というのは、だれかと「一体」になってしまうこと。「一体」になってしまうと、ついつい「よく」わかる、と思い込む。
 この「一体になる」ことを、松岡は別のことばで言っている。「野歩き」という作品を読む。

どっくん、どっくん
つよい脈動のある土地だ
ゆだんのならない引きもある
近づくとはどういうことをいうのか
ここには善し悪しの境目がない
どうしていいのかわからないお辞儀をする
おおもとに定まって
艸の時間になるのをまつ
そうやって野っぱらをひろげるのだ
それ以外に思いつかない
木苺のしろい花
からだのなかがあかるくなる
土地をうたがわないこと
境がないを生きること

 「境目がない」「境がない」。これが「一体」である。
 知らない土地、知らないひと。そこでは何を行動の基準(規範)にしたらいいのか、「どうしていいのか」わらかない。でも、ひとにであったら「お辞儀をする」。「肉体(身振り)」で挨拶をする。これは人間の「おおもと」の姿。そうやって、「肉体」と「肉体」がつながっていく。私はあやしいものではありません、が「挨拶」の基本。お辞儀はそのはじまり。それが、野に艸がひろがっていくように、他人の「肉体」のなかにひろがっていくのを「まつ」。「肉体」がつながるのを「まつ」。
 「漕ぐひと」を思い出そう。
 松岡は、ブランコを漕ぐひと(おんな)を見ていた。それは見ることを通して、「松岡の肉体」が「おんなの肉体」につながるのを「まつ」ということなのだ。見ているあいだに「ぐいぐい」という「肉体」の動かし方を感じる。それにあわせて松岡のなかの「ぐいぐい」が動きはじめる。そうして、おんながほんとうに怒っているかどうかはわからないのに、松岡が怒りをかかえて「肉体」がいらいらしたときのことを思い出し、「だれとも上辺だけのつきあいで/ふつうでいるのもたいへんで/思いを口にせずに生きてきた」というようなことも思い出す。このとき松岡は「おんな」との「境(境目)」をなくしている。おんなだけではなく、まわりにいる多くのひととの「境(境目)」のないところを生きている。
 この詩集のことばは、そういう「境(境目)」のないところをくぐって動きはじめたことばで書かれている。「肉体」をくぐりぬけたことばで書かれている。

 (松岡の詩については何度も書いてきたので、今回は、少しちがった視点から書いてみた。結果として同じことを書いたことになるかもしれないけれど。)

艸の、息
松岡政則
思潮社

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谷内修三詩集「注釈」発売中


谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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谷内修三詩集「注釈」発売中

2015-09-21 12:28:16 | 詩集


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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。

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井本元義『回帰』

2015-09-21 12:11:19 | 詩集
井本元義『回帰』(梓書院、2015年10月20日発行)

 井本元義『回帰』を読みながら、こういう詩集の感想を書くのはむずかしい、と思った。たとえば、「夏の光-堕紅残萼」という作品。

盛り上がる濃い深緑の葉陰に
ちりばめられた若い血のような柘榴の花が
おそるおそる初夏の陽を覗いていたが
次第にまわりを嘲笑しはじめる

深夜 鋭い音を立てて僕の夢を破る
鮮血をほとばしらせて割れて飛び散る果実
怒りか 耐え切れぬ欲情か 憎しみの自死か
夏の最後の光にきらめく宝石は弾丸

いつか海に投げようと持っていた柘榴
僕の机の上でとうとう化石になってしまった
裸電球に照らされてくすんだ美しい色

落葉した枝が冬の月の影に映え
熟さないまま枯れた柘榴がてっぺんに一個
それはあくまで沈黙を守る僕の頭蓋骨か

 ことばが互いにしっかり結びつき、引き締まっているように見える。「若いとき」をふりかえり、これからの「いのち」をみつめる姿が「比喩」を的確につかいこなして「正しく」書かれている詩、という具合に読むことができる。
 しかし、ここに書かれているのは詩というよりも、井本が詩と思い込んでいることばへの、その「思い込み」である。(思い込み、ということばよりも、「学習」したもの、と言う方が、井元にはふさわしいかもしれない。)
 一行目「盛り上がる濃い深緑の葉陰に」は柘榴の木をていねいに描写している。単なる緑の葉ではなく「深緑」、しかも「濃い」、さらにそれは「盛り上がる」勢いを持っている。井本は十分に描写したつもりになっている。その「十分」が、実は、詩ではなく、「詩への思い込み」である。「十分」と書けば「十分」の「意味」を理解してくれると思い込んでいる。たしかに「十分」は「十分」という「意味」を持っているけれど、辞書に書いてあるような「意味」は詩にとって大切なものではない。
 意識の過剰は、過剰であるがゆえに詩になるものを含んでいるのだが、それは「意味」ではつたわらない。「並列」の過剰では「過剰」という「概念」しかあふれてこない。あ、井元はこういうことばを知っているのだということしたつたわらない。
 二行目「ちりばめられた若い血のような柘榴の花が」も同じである。「血」を「若い」ということばが修飾し、さらにそれを「ちりばめられた」が修飾している。過剰な「意味」。そこには「過剰」という「概念」しか残っていない。
 井本が書いているような「たくさん」のことばを、私は瞬時につかみきれない。まあ、詩は瞬時にはあくするものではなくて、ゆっくりと味わうものかもしれないけれど、ゆっくり味わおうとしても、なんだかうるさい。「こっている」ということがわかるだけで、肝心の「緑」と「赤(血の色)」の対比が見えなくなる。
 「盛り上がる」と「ちりばめられた」は「対」になっている。「濃い」と「若い」も「対」である。「深緑」と「血(赤)」も「対」である。「葉(陰)」と「花」も「対」である。ここまで「対」を書かれてしまうと、「対」をつくっているという「頭」の方が見えてきて、肝心の「柘榴」が見えなくなる。
 「頭」が動きすぎる。きっと、「頭」のいい人なのだろう。「頭」がよすぎて、他人がわかってくれるかどうか心配になり、これでもかこれでもか、と「意味」を書かずにいられない。何だか「頭」がいいということを見せられているだけのような気がしてくる。

おそるおそる初夏の陽を覗いていたが
次第にまわりを嘲笑しはじめる

 というのは、「つつましさ」を棄てて、「傲慢(の美しさ)」になる、自分のいのちを謳歌する柘榴の「若さ」を表現しているのだと思うけれど、まあ、つたわらないだろうなあ。
 なぜだと思う?
 「まわり」と「次第」が、あまりにも抽象的すぎる。「頭」で書きすぎている。「頭」のよさに頼りすぎていて、かんじんの「柘榴」のかわりに、井元の「頭」が見えてしまう。
 「柘榴」と「対」になる他の植物(あるいは、昆虫でもいいが)が描かれていない。「まわり」は「概念」であって「実在」になっていない。「次第」も単なる「ことば」。
 井本にとって「次第」と言えばそれだけで「次第」という時間が生まれ、「まわり」と言えばそれだけで他の草花や木々が「頭」のなかで広がるのかもしれないが、読者には井本の「頭」のなかが、わからない。井本が「次第」「まわり」ということを考えていることはわかるが、それがどんなものかさっぱりわからない。
 二連目は、一連目で描ききれなかった「若さ(傲慢/豪華)」を言い直したもの。「きらめく宝石は弾丸」が、それをあまりにも語りすぎている。こんなにたっぷりと書いているから、詩はたっぷり、充実している(充実させることができた)、とたぶん井本は思うのだろう。
 ある「光景(存在)」を日常はつかわないような「豪華」なことばで描く。その「豪華(余剰)」が詩である、と井本は簡単に「頭」で考えてしまっている。「豪華」よりも「充実」が問題なのである。「頭」でかっこいいことばを集めてきても、それは「豪華」に見えるかもしれないけれど、「空疎」である。三連目の「くすんだ美しい色」は井本の「頭」のなかにしか存在しない。井本は「頭の中に存在すれば、それは実在したことになる」と思うのかもしれない。「理論的」には、そうなるかもしれないが、ひととひとは「理論」ではつながっていない。「肉体」とつながっているだけである。井本のことばは、その「肉体」と有機的につながっていない。

 もっと「頭のよさ」そのもののなかへ突き進んで行けば違ってくるかもしれない。「冬のパントウム」のように「形式」のある詩の方が、逆に井本のことばを「頭」から解放してくれるかもしれない。「形式」を守ることに「頭」がいっぱいになり、ことばが「頭」をするりとぬけだして暴走するということがあるかもしれない。
 それに「形式」というのはすでに井元以前の人間がつくったもので、井元のことばが形式にしたがっているからといって、それは井元の「頭」とは関係がない。井元の「頭のよさ」を気にしなくて読むことができる。妙な安心感がある。「こんな形式を知っている。こういう形式で書くことができる」ということろで「頭」自慢は終わっていて、安心するのである。井元は「形式」に夢中になっている。無邪気でいいなあ、とほほえましくなる。

雨の海 冷たい乳房をぶっきらぼうにつかむ

 自由律の俳句のようにおもしろい一行があった。「蜻蛉の羽のようなナイフが僕の皮膚を剥いでいく」、「朝のプールに浮かぶ僕の醜い肉体を白くするし」という、それこそ「醜い」行が同居しているのが気に食わないけれど。もっと「頭」が悩むような「形式」なら、そういう醜いことばもおのずと拾い集めている暇がないかもしれない。

回帰―井本元義第三詩集
井本 元義
梓書院
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たかぎたかよし「好天、歩いていると」

2015-09-20 10:19:56 | 詩(雑誌・同人誌)
たかぎたかよし「好天、歩いていると」(「LEIDEN雷電」8、2015年09月05日発行)

 シルバーウィーク、秋の連休。
 なので、たかぎたかよし「好天、歩いていると」を読んでみる。たかぎは、きょう、この詩を書いたわけではないが、詩は書いたひとの事情なんか気にしないものである。読むひとがかってに読むものである。

林が見えます
道が縫っています どれが本道だったものやら

穂など持ってすっくと立っているのは 大気に充ちていますね
あいつは好かんなどは言わないよ 人みたいに

花はいいなあ これが色ですと
カタバミ タンポポ 大犬フグリ……

やがて褪せて でもまた次のが
エアポケットのように闇が忍んでいるからね

あ 鳥が騒ぎ出しました
大気が色を変えてからかっているのですよ 人もね ふふ

 「大気に充ちています」ということばが、広々としていて透明で、ちょっと宮沢賢治風。秋にいいかなあ、と思う。「カタバミ タンポポ 大犬フグリ……」だから、秋ではないんだけれど。まあ、気にしない。(たかぎは、気にしてほしいと言うかもしれないけれど。)
 その前の「穂など持ってすっくと立っている」の方が宮沢賢治風?
 たぶん、ふたつが呼び掛け合って宮沢賢治風なのかも。
 い、や、そのあとの「あいつは好かんなどは言わないよ」が宮沢賢治?
 あ、私は宮沢賢治を教科書で読んだくらいしか知らないのだけれど、宇宙的な広さと、垂直性(直立性?)が交錯する感じが、宮沢賢治だと思っている。
 一連目の「どれが本道だったものやら」も、時間と空間が解放されてしまって(自在になって)、ただそこに「現実の場(もの/存在)」があるという感じで、とてもうれしい。具象(具体)が抽象を突き破る感じがあって、わくわくする。
 こんなふうにしてパソコンに向かって文字を書いているのではなく、どれがほんとうの道かわからないような原っぱや林へ行って、ただ歩き回れば楽しいだろうになあ、という気持ちになる。そうすれば、私の「肉体」を突き破って、何かが動く。この詩にふさわしいことばが動くかもしれないとも思う。
 三連目の「これが色ですと」というゆったり「迂回」する感じの音もいいなあ。
 でも、四連目で「やがて褪せて」、妙にしめっぽい音で、私は、ここが嫌いなんだけれど。さらに「闇が忍んでいるからね」ということばが「意味」をひっぱってくるようで、つまずいてしまう。「自由」がなくなった感じ。

 でも。(と、もう一度言う。)

 最終連。もう一度「大気」が出てくる。「大気が色を変えて」というのは夕方、夕焼けとともに空気の色が変わることを行っているのだろうけれど「からかっている」が「無意味」でいい。
 「意味」を忘れるのが、たぶん、詩なのだ。
 「どれが本道だったものやら」を「どれが本当だったものやら」と読み替えて、「どっちでもいいじゃない」とも思う。「頭」が出会うものが「ほんもの」ではなく、「肉体」が出会ったものが「ほんとう」なのだ。歩いて、出会って、からかわれて(からかって)、それでも「生きているもの」が「好天の大気」のなかにある。

 ひとは、広々としたところで遊ばないといけないなあ。
 私は、連休も仕事だなあ……。

うつし世を縢る―詩集
たかぎたかよし
編集工房ノア
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高塚謙太郎『花嫁』

2015-09-19 10:25:46 | 詩集
高塚謙太郎『花嫁』(Aa計画、2015年09月15日発行)

 高塚謙太郎『花嫁』は、読むとき「声」を出した方がおもしろいかもしれない。私は音読はしないので、カンで言っているだけなのだが。(黙読でも、私は、のどが疲れる。)

日のあたるむすびめにしばらくあると
ひかりは斜めにもたてにもすぎていく
あるとともにすぎゆく春
ひなあられもすぎゆく
いともたやすく日はうごくが
ともにながめていた気分のさしこみに
ふたりしてある

 音が繰り返される。この引用部分でいちばんわかりやすいのは「ひかりは斜めにもたてにもすぎていく/あるとともにすぎゆく春/ひなあられもすぎゆく」の「すぎていく」のずれ。
 そういう「ひととくり」の「意味」とは別に「あたる」「あると」「ある」という音、「あたる」「あると」「あられ」という変化や「にも」「にも」「ともに」「あられも」「ともに」の「も」の繰り返しも「肉体」のなかに残る。
 「意味」とは無関係な、こういう音の響き具合が快く、おもしろい。
 高塚は何か「意味(ストーリー)」を書こうとしているのか、どうか。よくわからない。ことばをストーリーで統一しようとしているのか、どうか。わからない。私の「感覚の意見」では、音にのってことばを動かしている、動かすことで快感を追い求めている、という印象である。音とセックスしている感じである。
 で、その音からいうと(私の音の感覚、あるいは黙読したときののどや舌の動きの感じからいうと)、「日のあたるむすびめにしばらくあると」の「しばらく」はつまずいてしまう。音(本能/欲望)ではなく「意味」としてことばが動いている。セックスだったら「そこは違う。感じない」とおもわず拒絶するようなことばだ。私なら。
 同じように音というよりも「意味」が動いている部分でも、たとえば

かかとおとしのおとをきくと
ししおどしのかかとの声がする
いいな
これがにっぽんの春にほんの春
せんじつめればかなづかいにすぎない
口づたえの見せ消ちから
もれきこえるひそひそおもいは
やりきれずに乳房にまわすのんどであったり
やり水のまいたなでさすりそっくりかえりであったり
こん
というのはいったいいずれのおとなのか

 という部分の「見せ消ち」などは、音そのものとしても全体の響きを突き破っているのでおもしろい。
 「のんどであったり」の「のんど」ということばも、私はつかわないが、ここでは「ん」と「っ」の無声音のリズムを響かせていておもしろいと思う。

 私が引用しているのは「春らんまん」という作品なのだが、その最後の方、

いったんわびでもいれようかとお茶をすすった
おとがまたなんともお春の
わらい声と入れかわりたちかわりわたしの耳を
さいなむのでございます
お春のおととわらい声とでございます
それはわたしの舌もしっかりとおぼえていることで
おもわず自分のゆびをくわえこんでしまいました
ああやはりあのおとだ
あのおとだ
おまけに匂いもそんな雰囲気かもしはじめるし

 「音」を中心に高塚のことばが動いていることが「意味」として書かれすぎている感じがしないでもないが、書かずにはいられなかったんだろうなあ。
 「おと(音)」「声」が「耳」「舌」と言い換えられている部分、さらに「おぼえている」ということばから「ゆび」という「音/声」から離れた「肉体」への移行(ずれ、ひろがり)、さらには「匂い(嗅覚/鼻)」へとことばが動いていくことについては、私には言いたいことがたくさんある。「誤読」したいことがたくさんあるのだが、それを書きはじめると、高塚の詩から離れて行き過ぎるおそれがあるので、ここでは書かない。書くととても長くなり、めんどうくさくなる。ただ、この部分からは、いろいろなことを考えたとだけ書いておく。(いつか、私自身の考えていることがもう少し論理的になったら書いてみたいことではある。)
 「意味(ストーリー)」を追うのではなく、音の響きあいの楽しさに酔えばいいのだと思った。酔うことで高塚と「一体」になれる、ことばのセックスができると思った。

 「肉体」と「ことば」の関係で、少しだけ書いておくと、やはり「見せ消ち」ということばが出てくる、「夏なんです」のなかの一行、

寝息をみせ消ちにして耳はいちさくかわいい

 というのはおもしろいなあ。「寝息」は自分の息ではなく、他人の息。それを聞いている「耳」は「わたし(筆者/話者)」の耳なのだが、ここに書かれている「耳(はちいさくかわいい)」は寝息を立てているひとの「耳」。けれど、「わたし」が「寝息」を「聞く」とき、「聞く」という「動詞」のなかでふたりの「耳」が融合して、区別がつかなくなる。「聞く」という「動詞」は、「みせ消ち」どころか書かれていないが、「肉体」的には「みせ消ち」状態である。「寝息」は見るものではなく聞くものである。聞こえるものである。そういう融合のあとに、「耳はちいさくかわいい」ということばがつづくと、まるで「わたし」が「寝息」をたてている人物になって、かわいい存在になっているような感じがする。実際、何か(対象)を「かわいい」というとき、そのひと自身も「かわいい」ひとになっているのだろう。
 「わたし」と「他者」の「肉体」は「分離」しているがゆえに、「接続」している。こういう「矛盾」をかかえた部分にセックスの至福がある。そんな思いを刺激してくる行である。(これは高塚の詩への「感想」というよりも、私の考えていることのメモである。)
ハポン絹莢
高塚 謙太郎
株式会社思潮社
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川島洋「配達」、長嶋南子「イヌ」ほか

2015-09-18 12:25:07 | 詩(雑誌・同人誌)
川島洋「配達」、長嶋南子「イヌ」ほか(「きょうは詩人」31、2015年09月15日発行)

 川島洋「配達」は、気にかかる詩である。

夜明け前 とある町角で
新聞配達人が
べつの新聞の配達とすれちがう
起きて待ち受けているひとはいないが
家々が目を覚ませば 戸口に
あたりまえのように届いている紙とインク
言葉が黙々と運ばれる未明に
似かよった息づかいと急ぎ足が
すばやい挨拶を交わす

 これは一連目だが、最後の二行がとても印象的だ。同じことをしている人間の「肉体」は同じように動く。「似かよう」。そのとき、ひととひとが挨拶を交わすのではなく、その「肉体」の「息づかい」「急ぎ足」の、その動きが「声を掛け合う」。「肉体」が「肉体」をわかってしまう。「ことば」を必要としていない。「ことば」になる前の何か、というよりも「ことば」を超えてしまっている何かかもしれない。
 その前に書かれている新聞配達の「情景」は川島の経験なのか、想像して書いたものなのかはっきりしないが、最後の二行によって「ほんもの」になる。私たちはけっきょく「肉体」を通じて「世界」をつかみとっているのだと思う。「肉体」が動くとき、「世界」が「ほんもの」になる。
 そうしたことが書かれたあと、二連目。

だが いつももう一人いる
何を配達しているのかわからない
けっしてすれちがわないので
顔もわからない
うしろ姿だけの
配達人が

 川島は「もうひとつの肉体」を感じている、と自分自身のことを書きはじめる。「新聞配達」のように、はっきりした「仕事(肉体の動き)」がわかるわけではないが、「だれか」を感じている。「感じたがっている」といった方がいいかもしれない。
 「すれちがわない」「うしろ姿だけ」ということばを手がかりにすれば、その「肉体」はいつも川島の「前」にある。それを川島は追っている、ということになる。
 少し意味が強すぎるかもしれない。「理想」とか「希望」というようなことばが、そこに紛れ込んできそうな気がして、これ以上は書きたくない。
 前に引き返して、一連目の最後の二行は好きだなあ、ということで、この感想は終わりにしたい。
 「猫の島」にも少し似たことが書かれている。

島の 車も人も滅多に通らない海ばたの道や
そこいらの石段にねそべり 猫たちは
彼ら独特のやり方で さりげなく
意思をかよわせているのだろう
で 寝てしまう
昼間はものうげに眠ってすごす
それも彼ら独特のやり方で

 「ことば」を交わさない。「肉体」をそこに存在させるだけで「意思をかよわせる」。このとき「意思」というのは「かよう」ことを通して「似かよう」。「似てくる」。
 「似てくる」というのは完全にひとつになるというのとは少しちがう。その少しちがうところが、なんだか気持ちがいい。どんなに「似かよっても」、それはあくまでも「似かよう」。「似た」ところを起点にして、出合い、すれちがう。つまり、「もうひとり(他者)」の存在を「許す」。そういうことがあるのだと思う。

 そんなことを思いながら、今度は長嶋南子「イヌ」を読む。

うす暗くなった帰り道
すれ違ったひげ面の大男がいた
出かけるよ という
一瞬誰のことかと顔を上げる

たしかにこの男を知っている
わたしが生んだもののにおい

夜になるとわたしはイヌになる
しわだらけのイヌになって
手足や胸の内側を
かじっては何度もなく

イヌになることはだれも知らない
朝になるとちゃんと母親に戻っている
ご飯を食べるか 洗濯ものはないか
世話をやくからだになっている
しわだらけになっても
母親でいることはつらいから
昼間もイヌになる

 大男は長嶋の詩に何度も出てくる息子(わたしが生んだもの)のことかもしれない。それは小さいときは「イヌ」のようだったのかもしれない。
 「いないいない ばあ」の一連目、

ボールを投げる
走っていってくわえてくる
なんどもなんども繰り返す
そんなに楽しいかいチビ

 これは幼いときの息子でもある。息子は引き戸を何度も開けたり閉めたりして笑っている。「いないいないばあ」をしている。その幼い「肉体」の動きと長嶋の「肉体」は呼応していた。「似ている」わけではないが、その「肉体」の内部で動いているものと「かよいあう」ことができた。
 今は「かよいあわず」、かといって「すれ違う」ともちがう。すれ違っても、「似かよった肉体の動き」がない。
 うーん、どうする?
 ここに「許す」が出てくる。この「許す」は、しかし、川島の書いている「許す」とはちがう。(川島は「許す」と明確に書いているわけではなく、また長嶋もそう書いているわけではなく、これは私の「誤読」なのだが……)。長嶋の「許す」は「受けいれる」。「もうひとり」は「自分の分身」であるという意味では川島の書いている「もうひとり」と通じるものがあるが、長嶋の「もうひとり」はほんとうに「分身」。「肉体」がわかれてしまっている「息子」。「顔」もわかっているし、「うしろ姿」ではなく「正面からの姿」もわかっている。
 「イヌ」の最終連。

ひげ面の大男が呼んでいる
とんでいってしっぽを振る
 散歩に連れていって
 電信柱についたにおいを思いっきり嗅がせて
 ドッグフードは脂肪分の少ないものにね
すっかり世話をやかれるからだになった
もうすぐやかれるからだになる

 「許す」(受けいれる)ということは、自分自身を「客観的」に存在させることかもしれない。「客観的」に見つめなおすことかもしれない。
 「もうひとり」になってしまって、そこから「ひとり(自分だけれど、自分ではない。つまり主観ではない)」をみつめる。
 「やかれる」(やく)という「動詞」が、「肉体」をつないでいる。その「やかれる」は似ているのか、同じなのか。正確に考えようとするとめんどうくさい。答えをだそうとするとめんどうくさい。長嶋は、「笑い」のなかへ、ほうり出している。
 「意思」を「かよわせる」かわりに、「肉体」そのものを「つないでいる」。
 こんなことを書くと不謹慎と言われるかもしれないが、「やかれた」とき、長嶋の「肉体」は「もうひとりの肉体(息子の肉体)」のなかで完全に「ひとつ」になる。こういう「ひとつ」になる方法を、男は知らない。川島は知らないし、私も知らない。その完全にちがった「肉体」のあり方を、長嶋の詩を読むと感じる。
 「もうひとり」について、川島の詩を呼んだとき、そこに「理想」「希望」というようなことばが紛れ込んできそうと書いたが、長嶋の場合は「現実」が紛れ込む。どんなふうに「寓話」を書こうとしても、そこを「現実」が突き破る、ということが起きる。
 男と女の「肉体」はちがうんだなあ、とつくづく思う。



詩の所在 (主体・時間・形)-シノショザイ シュタイ・ジカン・カタチ (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)
川島 洋
デザインエッグ社
コメント
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