詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ38)

2018-09-17 15:53:45 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ38)

追いつけない
追いかけても追いかけても

ジェラシー
私のなかから流れ出た川

黒いうねり
光る悲しみ

ジェラシー
私をさらっていってしまう川

澱みに落ちた花びらは
形がなくなるまでぐるぐるまわっている

ジェラシー
私の知らないところまで行ってしまう川

私のこころなのに
私の言うことを聞かない

ジェラシー
太陽が沈んでも海にはたどりつけない川






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谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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千人のオフィーリア(メモ37)

2017-12-02 10:47:55 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ37)

「花は散った」
何の花? ばら、すみれ、りんごの花?

花は宇宙。
花はひと。
花は時間。
花は生命。

花は愛といい、
花は悲しみという。

花は真理か、嘘か
花はいくつあるか。
それが比喩ならば、
光かもしれないし、
鏡かもしれないし。

どこに散るのだろう。
大地にか、水の流れにか。

オフィーリア、オフィーリア、
十二月のオフィーリアはどこにいる?

空に散るか。
こころに散るか。

散るとは、
無になること。空になること。
そのとき生まれる色になること。
ことばになること。

「花は散った」と言ったのか。
「花は散った」と聞いたのか。
オフィーリアよ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社


*


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最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)

2017-08-06 13:06:50 | オフィーリア2016
最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)(リトルモア、2017年08月08日発行)

 最果タヒ『愛の縫い目はここ』を、私は理解しているか。たぶん理解していない。いや、きっと理解していない。私の感じていることは最果が書きたいと思っていること、あるいは最果の読者が感じていることとはまったく違っているだろう。「誤読」の典型といわれるだろう。
 私は「誤読」を承知でというか、「誤読」したいから読んでいる。昨日書いた「誤読」のつづきをもう少し書いてみる。
 「しろいろ」という作品。

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、光
がそれを避けながら届いたとき、誰にも気づかれずに炎症し
た空気の、傷口をさがしていた。ひとりでいることが、私の
体温を不安定にするのはほんとう。手を伸ばしていくとその
うち、ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる
気がしていた。だから、うつくしいものへと手を伸ばすんで
しょう。私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 書き出しの

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

が繊細で美しい。これは「情景」の描写として読むことができる。けれど、たぶん「情景」ではない。では、何か。最果の「肉体感覚」である。どういう「肉体」感覚かというと、最後の

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 である。たぶん、この最後の部分に最果の「特質」がある。「肉体」がちぎれていく。「肉体」が欠ける。そのかけた部分を「景色」が補う。「肉体」と「景色(情景)」が、そうやって「ひとつ」になる。
 これは最果独自の「一元論」である。世界に存在するのは「肉体」のみ、と最果が考えているかどうかわからないが、私は、実はそう考えているので、これは私の考えから見つめなおした最果ということになるかもしれないが。
 「肉体」と「景色(情景)」が「ひとつ」になる。これは「肉体」と「情景(もの)」を「ひとつ」と考えるということである。
 だから、書き出しの「レース」は実は「最果の肉体」そのものである。すでにこの段階で「私=最果の肉体」と「景色(レース)」は「まじっている」。つまり、最初のことばは、

「私の肉体」は、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

 なのである。
 そして「縫い込む」という「動詞」は「傷口」という名詞(動詞の動いた部分)へとつながり、「ひとつ」であることを強める。自分の「肉体」のどこかに「傷口」と「縫い目」を探し当てたとき、最果は「レース」そのものになり、「光」を通過させる。「光」を通過させる「傷口」としての「肉体」。いま、最果が感じているのは、そういうものだろう。

うつくしいものへと手を伸ばす

 と最果は書くが、私にはむしろ、そうやって

うつくしいものに「なる」

 という具合に読める。読んでしまう。
 「ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる」、その「途切れ」が「傷口」かもしれない。自己というものの、一瞬の欠落。これは、もちろん最果の「誤読/誤った認識」だろう。「肉体」のなかで「肉体」が途切れる(ちぎれる)ということはない。けれど、そう錯覚する。
 たぶん、これは時系列としては逆なのだ。
 「景色/情景」が「肉体」のなかに入ってくる。「景色」が「肉体」のなかに入ってくるために、とまどい、自分の「肉体」が途切れた、傷が開いたと感じる。その傷を縫い閉じて「肉体」をもとに戻す。そうすると、「肉体」が「景色」にかわってしまっている。「肉体」の「内」と「外」が入れ替わっている。
 入れ替わるというよりも、それは「融合」である。あるいは「ひとつ」になることである。これを私は「最果の一元論」と名づけたいと思っている。
 この「最果の一元論」は、また、別の角度からも指摘できる。

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 この文章の「動詞」のつかい方は、ある意味ではとても奇妙である。私なら、この文章は

私がちぎれて「いく」かわり、景色が私に混ざって「くる」。

 と書いてしまうかもしれない。「行く」と「来る」を対にすることで「一元論」にしてしまうだろうと思う。
 しかし最果は「いく」と「いく」を重ねる。「動詞」がすでに「ひとつ」になってしまっている。最初から「肉体」と「景色」は「ひとつ」になって動いている。「動詞」の「いく」が共有されるところから、それを読み取ることができる。
 「一元論」と言われても、たぶん最果と、「えっ、それ何のこと?」と思うに違いない。完全に「無意識」になっている。「一元論」が「肉体(思想)」になってしまっているのである。
 だからこそ、たとえば、

体を、論理で機械化していくのは楽しいかもしれないけれど。
                         (グーグルストリートビュー)

 のような「論理」批判が書かれたりする。ここに書かれている「機械」とは「肉体」と「景色」に対抗する存在のことである。「肉体」と「景色(存在)」を分断し、機械的に「二元論」を展開することばを「論理」と呼んでいることがわかる。
 最果にとっては「景色」は「心象風景」ではない。心象を風景に託す、というような近代的な「手法」をとらない。「景色」はさいはてにとって自己拡張した「肉体」そのものだ。
 (と書いてしまうと、きのう書いた感想と整合性が取れない部分が出てくるのだが、私は気にしない。昨日書いた感想は感想で、そうやって書くしかなかったものなのである。だから、修正するというよりも、さらに「誤読」を重ねることで、ごちゃごちゃにごまかしてしまう、というのが私の読書の仕方であり、感想の書き方なのである。きのうにはきのうの「事実」があり、きょうにはきょうしか書けない「事実」がある。)

暗いところから見る、明るい場所が好きだ。
喫茶店が流れていく車両を無視して、
大きな窓から橙の光をこぼしていた。
体の奥にああした部分があるなら、
もうすこし体をいたわって生きることもできる、    (冬は日が落ちるのが早い)

美しく光っている体が、また、目覚めて私になる。
昼間、口のなかに夜がひろがり、甘い気がした。
体の構造が複雑すぎて、内臓のどれもがまぶしくて、
生きるとは星空の真似事をしているみたいだった。          (12歳の詩)

 ここに書かれている「景色」と「肉体」の「一体化」も「最果の一元論」を証明することばだと言える。(説明は省略。)


愛の縫い目はここ
クリエーター情報なし
リトル・モア
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岩佐なを「仕事」(「孔雀船」90、2017年07月15日発行)

2017-07-30 09:33:48 | オフィーリア2016
岩佐なを「仕事」(「孔雀船」90、2017年07月15日発行)

 岩佐なを。また、気持ち悪い詩に戻った。「仕事」。

ひと気のない公園へ行っては
気になる樹をみつけその
肌に両掌をおしあててみる
性別があっても問わない
一本の気配や息づかいを
触覚でおぼえて言葉にしない

 公園へ行って、木に触る。そこから何かをつかみとる。そういうことを書いているのだと思うが。
 なんだろうなあ。
 書かれている「こと」そのものが気持ち悪いわけではない。木から「鋭気」をもらう、というのは岩佐以外の人もするかもしれない。
 「触覚で覚え(る)」というのは、「肉体」にグイと迫ってきて、あ、ここが核心だなあと思うのだが、どうも気持ちが悪い。
 「意味」ではなく、たぶん、リズムだな。

気になる樹をみつけその

 この「その」が特徴的だ。この「その」はなくても「意味」は通じるが、岩佐は「その」と書く。「その」と書いた後、一呼吸置いて(改行して)「肌」ということばにたどりつく。そのときの「ねちっこさ」。これが、気持ち悪い。
 「両掌」の「両」も「ねちっこい」。言い換えると、なくても「意味」は通じる。「おしあててみる」の「おし」も「みる」も「ねちっこい」。なくても「意味」は通じる。

公園へ行って
樹をみつけ
掌をあてる

 ほら、通じるでしょ?
 「幹」を「肌」と言っているのも「ねちっこい」。「肌」が「性別」と言い換えられるのも「ねちっこい」。こっちの「ねちっこさ」は「その」のように、なくてもいい、という「ねちっこさ」とは少し違う。妙に、余分な深みにはまっていく感じがする。
 で。
 いま書いた「余分」。
 これが「ねちっこさ」に共通している。
 どうも余分なことを書いている。言い換えると、「どうでもいいこと」を書いている。もちろんこれは説明のための極端な言い方なのだが。
 逆に言いなおすと、こうなる。
 「余分なところ」とは、つまり岩佐の個性である。だから、その「余分」をとってしまうと、単なるストーリーになる。「余分」こそが岩佐の詩を支えている。まあ、これは、だれの詩についても言えることだから、これでは岩佐の詩についての感想にならないのだが。
 「余分」の「特徴」について説明しないといけない。私が感じていることを書かないといけない。
 で、そうしようとすると、「うーん、気持ち悪い」という感じになってしまう。

あらためてみどりの匂いについて
記憶をまさぐる
子どものころの嗅覚は
年齢を経て立体から
平面に変わってしまった

 わっ、何だかすごいことが書いてある。「すごい」をどう言いなおせばいいのかわからないが、おっ「哲学」が書いてある、新しいことが書いてあると思い、どきどきする。
 どきどきするんだけれど。
 「みどり」(色)が「匂い」ということばでとらえられ、「まさぐる」という動詞と結びつくと、そこに前に読んだ「肌」とか「掌」という「主語」が侵入してきて、「触覚」が目覚める。「色(視覚)」「匂い(嗅覚)」と「まさぐる(触覚)」が、融合するというよりも「ねばる」、まじりすぎて「ねちっこくなる」。まじりすぎては「余分に」まじって、ということかなあ。
 何かが、妙に多い。

ふくよかに起立してる新緑の香が
黒一色で描かれていくふうに
悪いことではない趣はある
仕事場の机上では酉の内という
和紙が広げられ墨と筆で
たくましくしぶとい樹の胴体を描く
掌で想いおこすべき
こうしてああして触ったじゃないか
小声で念を吐く
こうなったら
色をほどこすことで
幹の肉の秘香を
引き出さなくてはねと聞こえる
耳 あすのあさはあらためて
公園へ味見しに行く
舌 あさってのよるもああ
仕事

 「趣はある」なんていう「哲学(概念化された意識)」が書かれた後、「胴体」を「こうしてああして触ったじゃないか」(こうしてああして、が余分)のあと、端折って書くと、声、耳、舌とあらゆる感覚器官があつまってきて、ごっちゃりとねばる。
 私は、こういう「感覚の融合」というのは「肉体」そのものをつかみとっているで、とても好きなのだが、どうも岩佐の場合、それが「多すぎる」。融合しすぎて、ねばっこい。
 これが、私には苦手。
 これはすごいなあ、と思いながら、うっ、気持ち悪いなあと思う。肉体が感覚レベルでリアルにいきなおされている。しつこく再現されすぎている。細密すぎる。私の肉体は岩佐のように貪欲ではないということなのかもしれない。岩佐の肉体は貪欲で強靱である。その強さの前に、私の方がひるんでしまうと言いなおせばいいのかもしれない。

 気持ち悪いは、すぐに快感に変わってしまうものではあるけれど。
 快感は気持ち悪いにもすぐに変わるとも言える。

パンと、
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池井昌樹「種子」

2017-07-01 11:51:54 | オフィーリア2016
池井昌樹「種子」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 池井昌樹「種子」は「連載詩・未知」の最終回の四篇のなかの一篇。

死はめをさまし
死はふたばして
死はえだになり
死はみきになり
死はおいしげり
死はちりしかれ
死はめぐりゆき
死はめぐりきて
めぐりのはての
つぶらなひとみ
死はめをとじて
死はみちたりて
やすらかにいま
はなひらくとき

 読み始めてすぐに「死」が「木」に見えてくる。「ふたばして」「えだになり」「みきになり」ということばが「木」につながる。
 でも、なぜ「死」なのだろう。「生/いのち」の方が読みやすくないか。「木」にすっきりと重ならないか。
 「ちりしかれ」は「木」というよりも「枯れ葉」を連想させる。「枯れ葉」は「死」なのかもしれないが、それまでは「生きている」。
 生きているものを「死」ということばで象徴するのは、なぜなのだろう。

 「死は」とはじまる行が、突然「死」を放棄して、「めぐりのはての/つぶらなひとみ」という二行になる。
 「めぐり」は「死」と言い換えられるか。
 微妙だが、言い換えられないことはない。
 そして、言い換えようとするとき、「死」ではなく「生」と言い換えることもできると思う。「生」を「いのち」と読ませれば、「めぐる」のは「死」ではなく「いのち」という気がしてくる。
 「木」、成長する木は「いのち(生)」の象徴である。それを「死」と呼んで、池井は詩を書き始めているのだが、「死はめぐる」と書いたとたんに、「生(いのち)はめぐる」ととすりかわってしまう。
 「めぐる」という「動詞」が入れ替わりをうながすのだろう。「円環」になる。最初と最後が重なる。「ひとつ」になる。
 「死」は、めぐり、「生(いのち)」に重なる。生まれ変わる。
 「死はめをとじて」は「生はめをとじて(死ぬ)」であり、「死はみちたりて」は「「生はみちたりて(満足して)」であると同時に、死の瞬間、その「死のなかに新しい生(いのち)が満ちてきて」でもある。
 「はなひらく」のは「死の生涯が記憶として花になる」というよりも、「新しいいのちの花がひらく」という感じがする。

 最初の一行に戻るのだ。

 「死はめをとじて/死はみちたりて」、その瞬間に、「死は、いのちとしてめをさまし」ということだろう。
 死と生は、あるいは生と死は区別がつかない。いや、区別できない、区別してはならないものなのだ。死と生、生と死は「結晶」している。その結晶が「種子」ということ。「種子」のなかには「死と生」が同居している。
 しかし。
 こんなふうに要約してはいけないんだろう。
 「種子」ということばを捨て去り(忘れ去り)、ただ「めぐりのはての/つぶらなひとみ」になってしまうことが大事なのだ。
 だから、というのはかなり変な「論理」の展開になるが、タイトルは「種子」というのは、ちょっとまずい。
 何もない方がいい。
 この「めぐり」のはてに、読者が何をつかむか、それは「種子」ということばで限定されるのはつまらないと思う。「種子」に限定されると、「象徴詩」になってしまう。

 もう少し書きたい。
 「めぐりのはての/つぶらなつぼみ」の「つぼみ」は「ひとみ」であるかのように、私は「誤読」する。「つぶらな」ということばが「ひとみ」を呼び寄せるのだが、それだけではない。池井の、時間を超えて(生と死の限界を超えて)永遠を見つめる「視線」が「ひとみ」を呼び寄せる。
 「種子/つぼみ」が「ひらく」というより「め(目/ひとみ)」が開かれて、その開かれたひとみのなかで、ことばのなかで、「世界」があたらしく生まれ変わる。詩になる。



池井昌樹詩集 (ハルキ文庫)
池井昌樹
角川春樹事務所
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千人のオフィーリア(メモ36)

2017-03-30 10:23:27 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ36)

耳のなかに風の音がする
ドアを開けたとき、いっしょに入ってきた風の音が
まだ耳のなかで動いている
愛は残酷と笑った、
川を渡り木の間を通ってきたあの日の風

あの日、透明な匂いを残して出ていったけれど、
春がはじまる日、また戻ってきた
遠い鉄橋を見ているうさぎの聞いた風、
愛は美しいと嘘をついて
病院で生まれた赤ちゃんの泣き声が弾き飛ばした音、

風の音を追いかけて図書館の活字が並び順をかえる
風の音をまねして高速道路がカーブする
ように輝かしいタンクローリーが、
愛は破滅するもの。
耳のなかに螺旋階段が駆け下りて行く

耳のなかには誰も訪れたことのない部屋があって、
誰も聞いたことのない音がひしめいていて、
それは大都会のなかの地下室よりも小さくて、暗くて、
愛は悲しいと弱気になった
耳のなかに風の音は、その暗さが好き。
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米田憲三「長崎さるく」

2017-03-17 10:28:17 | オフィーリア2016
米田憲三「長崎さるく」(「原型富山」173 、2017年03月12日発行)

 米田憲三の短歌は現実を描いてもどこか虚構性というか、演劇性があって、そこに私は「青春」を感じるのだが。
 「長崎さるく」は、旅そのものが一種の非日常なので、虚構・演劇性が薄れる。そこにもうひとりの米田がいる。

聞き慣れぬ「さるく」の語意を訊ぬれば気儘な散歩かと老師は応う

 さっと読んでしまう歌だが、その「さっと読める」リズムが気持ちがいい。「聞き慣れぬ」から「訊ぬれば」までが、とくに自然だ。また「語意」の濁音の強さが「訊ぬれば」の「ば」の濁音と呼応して自然に「ひと呼吸」できるところが、下の七七を呼び出すようでおもしろい。「対話」がそのまま「呼吸」として残っている。

ジャガタラ文の真贋問わず読みており時が紡ぎし物語として

 「真贋」と「物語」が向き合う。「物語」には「真」と「贋」が同居している。米田の「青春」はこの同居を好む。
 こんな具合に。

土佐訛り強き龍馬が叫ぶ声木霊して西海へ消えゆきたり

 そこに龍馬がいるわけではない。だから、その声を聞くというのは嘘(贋)。しかし、それを思うということは「真」。想像力の「真」が、そのあとの「劇」(物語)を動かしていく。
 このとき浮かび上がる「青春」が、私は好き。

白秋らが大江御堂のパアテルさん尋ね辿りし山坂これか

 この歌は、「聞き慣れぬ」と同じような自然なリズムをもっているが、倒置法の形に演劇性が残る。語順のうねりの持続。息の長さ。若い息である。
 短歌は一気に読みくだすということと関係があるのかもしれないが、このうねる息があると、肉体そのものが刺戟されるから楽しい。

 「短歌年鑑」(角川)自選作品集のなかでは、

テスト終えし少年ひとり投げつづく釣り糸怯まず弛まずに伸ぶ

反転して抗う獲物を押さえ込む少年の耳いちずに火照る

 が印象に残る。釣りをする少年を見かけた、という「描写」なのだが、単に目で見ているのではなく、米田が「少年」になって「物語」をしている。「テスト終えし」という状況説明は演劇性が強いが、「怯まず弛まずに伸ぶ」には少年の肉体がある。肉体がそのまま精神になっている。そこに「青春」がある。
 「少年の耳いちずに火照る」も客観描写ではなく、少年の肉体になっての「実感」である。


ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書)
米田 憲三
角川書店
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千人のオフィーリア(メモ35)

2017-03-16 07:38:30 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ35)

そして戻ってきた
誰かを愛していたはずだけれど、誰を愛していたのか忘れてしまった
愛したこころだけを持って戻ってきた
敗北して、疲れて、頭の中をことばでいっぱいにして。

ちょっと待って、プレイバック、プレイバックと
山口百恵は歌った、
ちょっと待って

愛したこころって、誰のこころ?
私のこころ?
愛したひとのこころ?
誰が何を言っているのか、自分の声も聞こえないくらいに
ことばが騒がしい。

覚えておいてほしい
話の核心はそれ、
それがオフィーリアの問題なのです。
愛した私のこころか、愛した人のこころか
それが問題だ
いや、そんなふうに動き回ることばが。

戻ってきた、
ベッドは焼けるように熱い、
ドアのノブは凍るように冷たい、
オフィーリアを見たら聞いてほしい。
ここで何をしているのか、と。
死ぬたびに生き返り、
果てしなさに少しずつ狂っていくのです。


詩を読む詩をつかむ
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思潮社
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千人のオフィーリア(メモ34)

2017-03-14 10:40:57 | オフィーリア2016
私は春の雨に恋するのが好き
イエロー、シアン、マゼンダ、ブラックの傘が
あたらしい花のように音を立てて開く

私は春の雨に恋するのが好き
ガラスを斜めに叩いて向かいの本屋を隠してしまうと
コーヒーのかおりがあたたかくなる

私は春の雨に恋するのが好き
通りすぎると空は青いシャツに着替えて
私の目を透きとおった目で満たす

私は春の雨に恋するのが好き
交差点でクラクションが世界の変化を予言する
小鳥たちの噂話をかき消して

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千人のオフィーリア(メモ33)

2017-03-12 20:35:31 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ33)

街をぬけると街がある
鏡をのぞくと鏡がある

時間の中に時間があり
不思議のなかに不思議が生まれる

私のなかに私がいる
間違わないようにと言って、

あなたは薔薇の匂いをくれた

秘密のなかに秘密が隠れ
喜びのなかに喜びがある
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千人のオフィーリア(メモ32)

2017-03-10 01:01:11 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ32)

春を告げるミモザは
黄緑色の強烈な謎。
遠い国からやってきて、
突然私の目を讃える。

鳥が騒ぎだすように
恋の予感が騒いでいる。
新しい太陽の光が
感覚のなかで光る。

私は不安でいっぱいだ。

空へ果てしなく落ちていく青と、
庭の椅子の白の間を
音楽が駆け抜け
世界はかわる。


The magic box―谷内修三詩集 (1982年)
クリエーター情報なし
象形文字編集室
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千人のオフィーリア(メモ31)

2017-03-09 00:54:08 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ31)

私は私を無視してあなたをみつめている。
あなたはあなたを無視して私をみつめている。

私は私の私を知らない。
あなたはあなたのあなたを知らない。

けれど私の私はあなたのあなたを知っている。
あなたのあなたは私の私を知っている。

私の私、あなたのあなた、
私たちは私たちを無視して互いをみつめている。
いつも。

あなたがいないときもあなたがいないことを無視して。
私がいないときも私がいないことを無視して。
外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
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書肆侃侃房
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千人のオフィーリア(メモ30)

2017-03-08 01:06:06 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ30)


今夜、川がオフィーリアを発見した、そのすばらしい体を。
キスをするとき舌と舌が激しくもつれて、
「もっと」。ほかのことばが無意味になったみたいに「もっと」
こころが叫んだとき熱のある肌が大きく起伏して、
遠くでフクロウが闇に嘘をついていた。
春のやわらかい葉裏になって風が手のように動いた。

今夜、川は裸になってオフィーリアを追いかけ、
今夜、川はなめらかなまま光る激流になってオフィーリアをえぐり、
「もっと」。あえぎながら初めて自分をとりもどすオフィーリアの
すばらしい体に重なる裸として月に発見された。
橋の上を猫が音を立てずに歩いている
一枚の絵がしなやかに動いてきて鏡のなかに映る今夜。

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千人のオフィーリア(メモ29)

2017-02-20 09:28:03 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ29)

水は見ていた、水をみつめるオフィーリアを。
水は晴れ上がった空を映す水の色。

梢から雨の名残が落ちてくる。水面に小さな輪を描いては消えていく。
水は聞いていた、その音楽に耳をすませるオフィーリア。

高いところで知らない小鳥が鳴いた。
さえずりは鋭くちらばる光になった。

水は見ていた。
オフィーリアが水を踏むのを。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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千人のオフィーリア(メモ28)

2016-12-23 00:55:02 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ28)

自称オフィーリアは早く来すぎた。
独断的告白をしたいのに噂好きの聴衆はおろか
くそったれハムレットもいない。
               こういうとき、
日に焼かれていく花の色が何を意味するか
わからないものは誰もいない
くそったれ、
      純潔ばかり心配するくそ親父のせいだ。

教会の鐘の音はひとつ、ふたつ、みっつ、いつつ、ななつ、じゅうさん、
それぞれが違う音程で自称オフィーリアの希望を無視して答えた
--全部、無効だ。
  高貴が悲劇の始まりだ。
自称オフィーリアの耳には、まるで教科書に書かれた絶対定理に聞こえた。
スカートの下の腿の白さを赤い血が流れ、
尖塔の影は歩道を二分割して伸びていく。
自称オフィーリアは葉の裏側の細かいささくれを堅くして枯れていく
春の花、夏の花、

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