詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石井久美子「生き字引」ほか

2013-02-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石井久美子「生き字引」ほか(「火曜日」113 、2013年02月28日発行)

 石井久美子「生き字引」は亡くなった父のことを書いている。「火曜日」にはほかに2篇の作品があるが、その2篇も父のことを書いている。「生き字引」がいちばん印象に残った。

生き字引のような父だった
分からないことがあれば
いつ聞いてもめんどうがらず
丁寧に教えてくれた
最後にたいてい
「間違っているかもしれんで」
と言ってたっけな

突然旅立ってしまった
父の代わりとなる人がおらず
分からないこと
ネットで調べてみたりするけど
読んでもよく分からない

やっぱりお父さんの声で聞きたいよ
間違っていてもいいから

 「分かる」というのは不思議なことだと思う。「分かる」は「正しい」かどうかではなく、信じられるかどうか、納得できるかどうかなのである。そして、そのとき「信じられる」「納得できる」は、そのことばが語る「こと」ではなく、そのことばを語った「ひと」なのである。抽象的な「こと」ではなく、いま、目の前にいる「ひと」という肉体なのである。
 これは--なんというか、「非哲学的」「非論理的」な「事実」なのだが、だから、そこに「真実」がある。で、この「真実」を「愛」と呼んだりするのだが。まあ、そんなことを書いてしまうと、どこか「きれいごと」になってしまいそうだが。でも、書いたおきたいなあ。最後の「間違っていてもいいから」は、私の書いていることを叩き壊して、そこに生き残る。そう思うから。

 「間違っていてもいいから」。ひとはいつだって「間違い」か「正しい」かを問題にしない。というよりも、もしかすると「間違っている」からこそ、わかり、また信じるのかもしれない。
 父に聞いて「わかった」ことを誰かに言う。そして、その「答え」を、たとえば学校で教室で先生に、あるいは友だちに「それは間違っている」と指摘される。そういうことは、多くのひとが経験すると思う。そして、その瞬間、恥ずかしくなったり、「お父さんは、もう、でたらめばかり言って信用できない」と思い、家に帰ってお父さんに苦情を言う、ということもするかもしれない。そういうとき、「お父さん」がしっかりと「わかる」。「肉体」として生きている実感が、「肉体」のなかに生まれてくる。そして、生きつづける。この「実感」に「間違い」はない。絶対的に「正しい」。だから、教えてもらったことが「間違っている」としても、それを越えることができるのだ。

 石井の詩は、いわゆる「現代詩」ではないかもしれない。けれど、いいなあ、こういう実感が正直にあふれてくる詩は。



 村中秀雄「ことばは」は、「わからない」。

ことばは
どちらかと言えばやさしく
いばっているより裸木のあの
わかりやすさがいい。
アルプスの峰のように
厚い氷のカーテンを重ねた冬の雲が
南の空を--
天が荒れ狂っても
じっとしておれば怖くないんだ、と
黙って輝いている

 「わからない」のだけれど、いいかえると、「流通言語」になるように、主語と述語の関係を明確にし、「意味」を散文化して言いなおすことはできないのだけれど。
 冬の裸の木のように、ただそこに存在する、そういう「ことば」でありたい。何があってもじっとしていれば大丈夫。荒れ狂う天気も過ぎ去る。「ことば」はたえることができる。たえて、生き残る。何も言わず、黙っている冬の裸の木、その木にも、聞こえないけれどほんとうは「声」がある。「ことば」がある。その力を、村中は、こういう詩を書くことで「共有」している。共有することで、村中は木が「わかる」。
 それはもしかしたら、石井の父が言ったように「間違っているかもしれん」ことだけれど、それが間違っていたとしても、それはそれでいい。「わかる」ことが大事なのだ。

 あらゆることが、そうなのだと思う。詩を読む。その読み方は「間違っているかもしれない」。けれど、間違いなど、どうでもいい。「わかる」ということが大事なのであり、その「わかる」は他人には関係がない。読んだ人間が「わかる」と実感できるかどうかだけである。だから「わからない」という言い方でしか「わかる」ことができないということもある。言い換えると「間違える」という言い方で「わかる」ということもある。


幸せのありか―れお君といっしょに
石井久美子
編集工房ノア
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アカデミー賞・主演賞考

2013-02-28 11:50:14 | 映画
 先日米アカデミー賞の発表があった。主演男優賞は「リンカーン」のダニエル・デイ・ルイス、主演女優賞は「世界にひとつのプレイブック」はジェニファー・ローレンス。ジェニファー・ローレンスはほんとうにすばらしく、彼女が受賞してほんとうにうれしかった。ダニエル・デイ・ルイスについては「リンカーン」は予告編しか見ていないのだけれど、たぶん、そうだろうなあ、と思っていた。
 というのも。
 アカデミー賞は実在の人物を演じると受賞しやすいのである。最近だけでも「英国王のスピーチ」「サッチャー」「エリザベス女王」「カポーティ」。それから「アミン(大統領--タイトルは忘れた)」「レイ(レイ・チャールズ)」も実際にいた人物である。数え上げたらきりがない。あのロバート・デニーロも最初の賞は「レイジング・ブル」の実在のボクサーだった。「ゴッドファザー」さえも実在の人物。そして、その「演技」というのは、実は「そっくり賞」的な要素がある。
 で、思うのだけれど。「そっくり賞」って、演技?
 それに、その賞に対する評価は、演技そのものに対して?
 どうも、そこに演じられている「人物」への評価(再評価)が含まれているような気がしてならない。「ガンジー」というような偉大な人物(今回のリンカーンも同じ)にかぎらず、たとえばシシー・スペイシクが主演女優賞を受賞したのは、「炭鉱夫の娘」。私は知らないけれど、実在のカントリーシンガー(?)だった。ロバート・デュバルも誰かよく知らないが実在のシンガーを演じて受賞している。(私は見ていない。)これなんかは、その人を「私たちは忘れません」という評価が半分くらい含まれているように思えてしようがない。
 演技に感心すると同時に、その人が生きていたこと、そしてやりとげたことに対する評価が半分くらいまじっていない? まあ、それでもいいのだろうけれど。映画というのは、いろんな要素があって、その要素が絡み合って一つになっているものだから。

 ダニエル・デイ・ルイスにケチをつけるつもりはないのだけれど。
 私は主演男優賞・女優賞というような「人物(演技)」を対象とした賞の場合、やっぱり「役」じゃなく、「俳優」に賞をやる方がおもしろいと思う。私はミーハーなので、映画を見るときは、役--ストーリーのなかで動く役割ではなく、どうしても「個人」を見てしまう。
 具体的に言うと。
 「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。これは架空の王国の王女の物語だけれど、映画を見ているとき「王女」を忘れるでしょ? オードリー・ヘップバーンのきらきらした輝きに見とれてしまう。ストーリーは付録。こういう人こそ、賞にふさわしい。映画を活気づける大切な人だ。
 自分ではそういう人にはなれない。でもスクリーンを見ている間は、その人になってしまう。それが男でも女でも、性差も年齢も越えて、その人になってしまう。いいなあ。魅力的だなあ。ミーハーになってしまう。観客をミーハーにしてしまう俳優こそ「主演男優・女優賞」にふさわしい。観客をミーハーにしないような俳優はスターではない。
 だからね、ブラッド・ピットとか、キャーキャーさわがれる人が受賞すると、映画はもっとおもしろくなると思う。
 (あ、私自身は、今回のジェニファー・ローレンスはそんなに美人とは思わないけれど、これはまた別のことで……。)

 ちょっと話をもどすと。
 実在の人物は受賞に有利、というのは「コメディ」の苦戦にも通じる。「ビッグ」のトム・ハンクス、「テッド」のマーク・ウォールバーグ(今回)のような、とんでもない「おもちゃ」映画では、どんなに「演技」が秀逸であっても、演じられた人物(役)に対する評価が追加点にならないので、賞レースでは苦戦してしまう。「チャンス」のように「おもちゃ」映画ではなくて、かなり厳しい諷刺を含んだ映画(作品そのものも評価が高い作品)でも、ピーター・セラーズと主演男優賞をとれなかったからねえ。
 まあ、賞は映画を活気づけるためのお祭りだから、それはそれでいいのだろうけれど、なんだか「そっくり賞=アカデミー賞」という好きになれないなあ、というのが私の気持ち。アカデミー賞に比べると昔あった「スクリーン」「ロードショウ」の俳優人気投票の方がはるかにすばらしい名誉だと思う。
 「うまい」よりも「好き(かっこいい)」の方が、映画を見にゆく要素なのだから。






チャンス 30周年記念版 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧井孝作全集第七巻

2013-02-27 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
瀧井孝作全集第七巻(中央公論社、1979年03月25日発行)

 昨年の年末から思い立って瀧井孝作を読んでいるのだが、とても奇妙なことに気がついた。瀧井孝作の文章はごつごつしていて、必ずしも読みやすいとはいえないのだが、一巻から五巻までの小説を読み終わり、あとは随筆だから早く読めるかな……と思っていたのだが、逆だった。短い随筆なのに、読めども読めども、進まないのである。むずかしいことが書いてあるわけではない。
 たとえば、きょう読んだ「碧梧桐の随筆」という文章。「晩年のものは、筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、ほがらかで、滋味が溢れて、幾度読んでも飽きのこない、名文になつてゐます」という紹介で始まる。「筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、」というような、「枯れる」の繰り返しのつかい方、ふつうなら整理して「枯れる」をひとつ減らすかな、というところを、繰り返すことで、意識を反復させて、ごつごつした生の実感にひきもどすようなことばの動きに瀧井の特徴があると私は思うのだが、実際にどんなふうに碧梧桐の随筆を紹介しているかというと……。

 昭和十年一月の東京堂月報に「子規居士と読売」といふ五六枚の原稿を出してゐます。これは文人の書斎のありさまが描かれてゐます。獺祭書屋と云つた、乱雑な投出した机のまはりは、子規ばかりでなく、碧梧桐にしろ、私共にしろ、同じやうだと、これを読んで吹き出しました。が、病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。

 具体的な引用がなく、内容の「要約」と「感想」をさーっと書いている。乱雑な机のまわりの描写に笑ったが、勉強ぶりを紹介している部分には頭がさがり、涙が出た。うーん。何も書いてないくらいに、何も書いていない。どうしてこんなに読むのに時間がかかるのだろうと、思ってしまうが。
 たぶん、何も書いていていくらいに見えるから、時間がかかるのだ。「病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。」には、いくつもの動詞がある。肉体の動きがある。「襟を正して」「頭がさがり」「涙がわきました」。この三つの動詞は、ひとつの文章におさまっているために「時間」の経過がないようにみえる。一瞬にみえる。けれど、勉強ぶりを書いた文章に出会い、はっと気がついて「襟を正す」ということがあり、それから「頭がさがる(頭をさげる)」までのあいだには、かなり長い「時間」がある。襟を正して、ことばを読み返す。そこには、何か反復というだけではとらえきれない「時間」と肉体の変化がある。襟を正すだけでは追いつかず、頭をさげるという動詞として肉体が動くまでには、肉体のなかをことばがなんども行き来している。さらにそれが「涙がわく」になるまでにも、おなじような繰り返しがある。
 繰り返して繰り返して、余分なものを捨ててしまって、繰り返しをつらぬいているものだけを、最小限度のことばで書いている。その繰り返しの「時間」に、無意識のうちに引き込まれてしまう。そこで、無意識のうちに「長い時間」をつかってしまう。そのために、読むのに「時間」がかかる。
 小説では、登場人物たちの動きが、もっと客観的に描写される。他人の肉体の動きとして書かれている。ところが随筆では、もっぱら自分の肉体の動きを書くので、自分(瀧井)にとってわかりきったことは省略されてしまう。しかし、その省略は、そのときの肉体の動きそのものまでは省略できない。勉強ぶりを読んで襟を正し、頭がさがり、涙がわいた--というときの「精神」の動きは、とてもまっすぐで、あっという間だが、肉体はあっという間にそういうことができるのではない。ところが、瀧井は、それが自分の肉体なので、まるで精神の動きのように簡潔に書いてしまう。小説には存在した肉体の動きが随筆では最小限度にとどめられているので、それを読者は自分の肉体で反復(復習?)しないといけない。そのために、とても時間がかかるのかもしれない。
 瀧井は、どうも、「反復(繰り返し)」という動詞で鍛え上げた何か、磨き上げられた何か(それは、整えられたを上回る結晶化のようなもの)を文章にしようとしている。そしてそれは他人の文章を読むときの「基準」のようでもある。
 碧梧桐がパリでマチスにあっている。そして、ふたつの文章を書いている。それに触れながら、こう書いている。

巴里の旅宿ですぐに書いた「マチスを訪ふ」といふ紀行の一章もあり、それは新鮮で溌剌としたスケツチですが、後の「アンリ・マチス」の方は、何年か経つて思ひ出のくり返された所のしんみりした姿が写されています。

 「思ひ出のくり返された所のしんみりした姿」という文のなかの「くり返す」。くり返すことで「しんみり」する。感情が「しっかり」と定着する。強固なものになる。「しんみり」を「強固」と呼ぶのは変だけれど、繰り返しよって「しんみり」が「しんみり」そのものになる。それ以外のものをはねのけて、純粋になる。そういうものを瀧井は信じているのだと思う。
 それは最初に引用した「筆が枯れて、枯れ光りしたやうに」の「枯れる」という動詞にもあらわれている。くり返すことで「枯れる」ということばそのものになる。それ以外のものはいらなくなる。そうなるまで、瀧井は肉体を繰り返し動かしている。そして、その肉体の繰り返しの運動を、小説ではないので、瀧井は省略している。読むときは、その省略された肉体の動きを再現しながら読まないといけないので、とても時間がかかるのだと気がついた。






無限抱擁 (講談社文芸文庫)
瀧井 孝作
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川逸子「消された物語」、増田耕三「蓮根」

2013-02-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「消された物語」、増田耕三「蓮根」(「兆」157 、2013年02月05日発行)

 石川逸子「消された物語」には、何かこころに残るものがある。

晩秋の一日
消された物語を さがしに さまよう

紅葉の森 目立たない路地裏
よごれたゴミ捨て場 K刑務所の運動場
だれもふりむかない祠 古い反故紙に
うずくまっている 物語

目をこらすと
ふうっと立ちあがる
まだ 出を待っている
登場人物たち 動物たち 切り株や草原

 「うずくまっている」「ふうっと立ちあがる」「出を待っている」--そのことばのなかにある「肉体」。それは「物語」の肉体なのだが、同時に石川の肉体でもある。石川の肉体が覚えていることが、まだことばにならないまま、「物語」と共震している。
 ほんとうは、石川は「物語」を探しているのではなく、というか、石川の肉体の外、風景のなかに物語をさがしているのではなく、自分自身が物語になろうとしているのだ。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」というものに、石川自身の肉体を分け与え、--言い換えると、そういうものの肉体を借りて、石川自身の内部から、肉体が覚えていることを引き出そうとしているのだ。

目をそらせば
たちまち消えていってしまう
「行かないで!」
呼べばふりかえり ほほえんでくれるのか

 それは、「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」の声ではなく、石川自身の「肉体」が覚えている、石川自身の「声」のように、私には聞こえる。「行かないで!」と呼んだことがある。けれども、ふりかえりもしなければ、ほほえんでもくれなかった。そういう「こと」を石川は覚えている。
 その覚えている「こと」をことばにして動かしたい。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」を借りて「物語」にしたい。作者になって、自分の肉体が覚えていることを、見つめてみたい。

かつて たしたに 在り
辛うじて
物語 として のこり
それも いつしか 消されていったのだね

 「物語」は「行かないで!」に結晶している。「行かないで!」だけで、「物語」である。その「物語」さえ、「消されていった」。
 そうは書いてみたも、ほんとうは違うね。
 今度は「消されていった」という「物語」がのこる。肉体に刻まれる。そして、その「消されていった」という「物語」は「行かないで!」という「物語」のあいだを往復する。
 あるいは「さまよう」。

容易に消えるペンながら わずかでも よみがえらせないか
ねがい さまよう 晩秋の一日



 増田耕三「蓮根」は、私には石川の詩と「一対」になっているように感じられた。

裏庭のリュウキュウの根方に蓮根を埋める
おせち料理に使いそびれたものだが
黒ずんでもう食することもできない代物

鍬で穴を掘り二つの固まりを放り込む
正月という営みが人の心を乱すのか
ここ数日
心の襞のどこかがかきむしられるように騒いで
落ち着かない

もしかしたらそれは
台所の片隅に残されていた
蓮根の仕業だったのか
幾通りかの空洞が私を拒むように
静かに腐敗を深めて
私の心もまた
帰ることのできない道の途上に
迷い込んでしまったのだろうか

--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます

埋めたはずの蓮根から
そんな言葉が漏れ聞こえるような気がした

 石川の作品では「出を待っていた」ものが、増田の作品では、増田の思いを突き破って出てくる。自己主張する。
 「幾通りかの空洞が私を拒むように」の「拒む」は、増田の肉体を(増田は「心」と書いているのだが)拒むということだが、この「拒む」は逆に言うと(?)、増田とは違った何かを主張したいということだ。
 それも「空洞」が。
 「充実した何か」(何かでいっぱいの何か)ではなく、それが「空洞」であり、なおかつ、そこには入ることができない。それはほんとうは「空洞」ではなく、増田の知らないことばでいっぱいであり、そのぎっしりつまったことばが増田を拒んでいるのだ。増田が「空洞」と思い込み、入ろうとしているところから噴出したがっている。
 そして、実際に、噴出する。

--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます

 この「空洞の三十五年」。それは「空洞」ではなく、増田が信じている「物語」とは別の「物語」なのだ。
 「行かないで!」と呼んだ女は、いま「三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます」と、じわり「腐敗」のように滲み出てくる。--と書くと、石川にも増田にも叱られそうだが、ふと「物語」と「ことば」が、ふたつの作品のなかで重なって見えるのである。
 こういうことが起きるのは、たぶん「行かないで!」も「今でもあなたのことを恨んでいます」も、だれの肉体のなかにも残っていること、肉体が覚えていることだからだろう。肉体がおぼえていることは、いつでも、ことばになりたがっている。

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房


水の街―続続競輪論
増田 耕三
土佐出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八木忠栄「草相撲」

2013-02-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
八木忠栄「草相撲」(「潮流詩派」232 、2013年01月10日発行)

 八木忠正栄「草相撲」はどこかの神社でみかけたこどもたちの相撲を描いている。

まわしを締めたやせがえるども
境内にキャッキャッとあふれ
走りまわり たわむれやまない
東も西も待ったなし

 あびせたおし
 ちょんがけ
 さばおり
 やぐらなげ
 うっちゃり

はあ はっけよい

徳俵にひっかかった陽は
かわいい土踏まずをくすぐり
草相撲もしばし抒情的にかがやく

 あ、ここがいいなあ。「草相撲も抒情的にかがやく」か。
 「抒情的」って、どういう意味?
 わからないけれど、そうか、「徳俵にひっかかった陽」か。あ、そうじゃなくて、徳俵にひっかかっているのは、こどもの小さな足。そして、その「かわいい土踏まず」に陽が射している。陽がひっかかっている。あ、これも違うね。土踏まずは徳俵を感じて、そこで踏ん張っている。そのとき足裏がのびる。土に汚れていない土踏まずが、輝いて見える。--説明すると、面倒くさいけれど、まあ、そういうことが「ぱっ」と目に浮かぶ。目という肉体が「覚えている」ことが、そのとき説明をはねのけて噴出してくる。
 ふうん。これが「抒情」か。
 最近読んだ、藤維夫の「抒情」とはずいぶん違う。藤の抒情は「精神的」だった。けれど八木の抒情は、どちらかというと「肉体的」。そして、そこに何か「健康」なものがある。
 これは、いいなあ。
 この「健康(肉体)」に、「はあ はっけよい」という掛け声が重なる。「はっけよい」は確かに「はっけよい」とだけでは、力がこもらない。思わず「はあ、」と言って呼吸をととのえ、それから「はっけよい」と声にする。「はあ」は、そこにいるひとの「呼吸」を「ひとつ」にするための準備なのだ。
 「肉体」の無意識のリズム、動きがそのまま出ている。
 この無意識の自然(肉体)を通ったあとだから、ことばが「徳俵に……」ときざに動いていっても、まるで「肉体」が自然に動いたかのように感じてしまう。八木の「意識」ではなく、「ことばの肉体」がぐいっと八木の意識を破って動いた感じがする。
 ほんとうに、いいなあ。

 でも、ちょっと不満もある。詩のつづき。

--と軍配は粋なことをつぶやいた
危ういけんがみねに
陽も足うらも辛うじてのこった
はあ はっけよい のこった
軍配は抒情的にたちまわる

 「軍配」はたぶん「行司」のことだろうなあと思うけれど、ここに突然「軍配(行司)」という「他人」が出てくるところが、どうもね。
 1行独立した「はあ はっけよい」はもちろん行司の声だったのだろうけれど、その声に八木は「一体化」していた。それは同時にこどもたちとも一体化することであり、徳俵とも陽とも土踏まずとも一体化することなのに。
 行司が出てきて「粋な」ことをつぶやいてしまってはね。
 このときの「粋な」という感想は、八木のものであり、「粋」と批評した瞬間、一体感がなくなるでしょ? こどもたちは「粋」に相撲をとっているわけではない。「粋」かもしれないけれど、「粋」を意識していない。
 「無意識」がもっている「美しさ」が突然、「意識」で定義されなおす。
 あちゃあ、これでは、「抒情」はやはり「意識」の領域のことがらになってしまうではないか。
 自分(八木)の肉体がこちらにあって、離れたところに別の肉体(もの/存在/こと)があって、その自分と他者との「あいま(あいだ)」で動く「意識」が抒情ということになってしまうじゃないか。
 つまらないね。
 繰り返される「はあ はっけよい のこった」は、もう「肉体」でなく、「意識」に組み込まれて輝いていない。八木の肉体から分離してしまった「風景」に見えてしまう。
 「軍配は情状的に立ちまわる」と再び「抒情的」ということばを書かないことには(念押ししないことには)、抒情も確かめることができないということなのか。
 「--軍配は……」以下をやめてしまえばおもしろい詩なのになあ。






「現代詩手帖」編集長日録 1965‐1969
八木 忠栄
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾静明「呼ばれる」ほか

2013-02-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「呼ばれる」ほか(折々の」28、2013年03月01日発行)

 松尾静明「呼ばれる」は美しい詩だ。

背骨を渡るような声を落としながら
雁の群が北へ帰っていく

餌を啄(ついば)んでいて
ふいに 呼ばれたのだ
遠い声に

呼ばれて
契約のようなものが体に満ちて
約束のようなものが沼沢地を飛び立たせ

 呼ぶ声について、松尾は「遠い」としか書いていない。そして、その声に「呼ばれた(呼ばれる)」と書いている。餌をついばんでいる、という「能動」が、「呼ばれる」という「受動」に変わる。そして、それを松尾は自然に受け止めている。「聞いた」という「能動」を省略して「呼ばれる」という「受動」のかたちで雁を描写する。
 美しい--と感じるのは、ここに何かがあるからだ。
 「呼ばれる」、そして気づく。「肉体」が「覚えていること」を思い出す。そういうことが松尾の体験のなかにもあり、その体験を松尾は雁と無意識のうちに共有しているのだ。「遠い」と思わず書いてしまうのは、それは外から聞こえる声ではなく、「肉体」の内部から聞こえる声だからかもしれない。
 肉体の「内部」なら、なぜ「遠い」のか。たとえば空のかなたから聞こえるかすかな声と比較すると肉体の「内部」の声は「近い」はずである。それを「遠い」と定義するのは矛盾していないか。--矛盾している。だから詩なのである。矛盾している。だから美しいのである。
 声(音)は本来、空気の振動であり、それが鼓膜をつたわって聞こえる。ところが肉体の内部の声は空気を震わせることができない。だからほんとうは存在しない。それは「声(音)」ではないのだ。「聞こえない」はずである。けれど、「声(音)」のように聞こえる。「聞こえる」ように感じる。だから、それを「呼ばれている」と言いなおす。「聞こえる」ということばが成り立たないので、「呼ばれる」と言うしかないのである。この「聞こえない」と「呼ばれる」のあいだにある飛躍--それが詩である。
 それはまた、「肉体」そのものである。無意識(本能)の思想である。

さきほどまで餌をあさっていたこの場所が
どういう場所だったのかを問う間もなく

 「無意識の思想」は「問う間もなく」ということばに集約されている。無意識の思想、肉体の思想(本能)は「問う」というようなことはしない。なぜ、心臓は止まらないか。どうやって人間は呼吸するか--そういうことは、肉体は「問わない」。問わずに、本能で動く。そこに本能という思想がある。問わないから間違えることもない。それと同じように、雁は「問わない」、そして間違えないのである。その「問わない」ということを、松尾は、ここでは共有している。それは「問わない/肉体(思想)」を共有するということである。
 肉体は間違えて生きるということをしない。間違えて心臓を動かしたり、間違えて呼吸をするということはしない。肉体の無意識、その内部の「声(命令/本能)」は絶対的に正しい。
 この「正しい」に達すると、ことばは「肉体」を忘れたかのように動いていく。それまでの描写の約束を忘れたかのように、自由に動いていく。松尾の意識(頭)を通らずに、ことばが、ことばの肉体で動いていく。その部分が、また、非常に美しい。

稜線のむこうには
しずかな言葉が深く横たわっていて
安息の日のように薄い明るさが広がっていて
そこを
信じるやわらかな動悸が
たくさんの焦点となって目ざしていく

 このとき、松尾は「雁」そのものである。



 同じ号に英理恵「一つになって」がある。遊びにきた孫を新幹線のホームで見送る。

この手で抱き上げた小さな肉体
瞳だけはしっかり見開いて
いつまでも祖母の瞳を見つめていた
二人の瞳は一つになった
あの時とおなじ瞳がこちらを見ている

 からだに気をつけて元気でね!
 身体に気をつけて元気でね!

ことばは一つになって
夏の名残の白い雲の中へ
とけ込んでいった

 英が書いている「一つになって」ということ、赤ん坊と祖母が「本能」で「一つになる」ということが、松尾の詩でも起きているのである。松尾と雁は「一つになって」、ことばを動かしたのだ。それは雁が聞いた「遠い声」を雁になって松尾が聞いたからこそ、書くことのできたことばである。
 一つと一つが出会って、ふたつにならずに「一つになる」というのは矛盾した(間違った)算数だが、間違っているから、そこに「頭」ではとらえることのできない「ほんとう/本能」があるのだ。




松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97))
松尾 静明
近文社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デヴィッド・O・ラッセル監督「世界にひとつのプレイブック」(★★★+★)

2013-02-24 20:51:40 | 映画

監督 デヴィッド・O・ラッセル 出演 ブラッドリー・クーパー、ジェニファー・ローレンス、ロバート・デ・ニーロ

 ジェニファー・ローレンスの演技に目が釘付けになる。「あの日、欲望の大地で」のときからうまいと思い、「ウインターズ・ボーン」ですごいと思い、この作品では、もうただただびっくり。
 予告編ではレストランでブラッドリー・クーパーと口論になるシーンとダンスをするくらいしかないのだが、その口論のシーンに、あ、すごいと思った。そして本編で見ると……。
 主人公はブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスの二人だが、どちらに重点が置かれているかといえば男の方。妻の浮気に現場を目撃し、浮気相手の男に暴力を振るい、精神科の治療を受けている男が、平常心を取り戻し立ち直るというストーリーなのだが。
 そのメインのストーリーが「狂言回し」に見えてしまう。
 ジェニファー・ローレンスは夫が急死したショックから、会社の同僚全員とセックスし、それが原因で会社を首になったという、びっくりする役どころなのだが、その同僚全員とセックスするということなど、別にどうということはない、と感じさせてしまう。過去の体験など、それがどんなに常軌を逸していようが、あまり大したことではない。というと、変だけれど、彼女のように同僚全員とセックスしてしまうというような体験はふつうの人はしないから、それがどんなに常軌を逸していても、肉体で想像しても追いつかないので、結局わからない。肉体でわからないことに対して、私たちは(私だけ?)、親身になることはできない。
 はずである。
 ところが、ジェニファー・ローレンスに引きつけられる。
 もちろん、会社の同僚全員とセックスをしてしまうというようなことがいったいどういうことなのか、わからないけれど--言い換えると、そういうことは私は肉体のどこを探しても「覚えていない」のでわからないとしか言いようがないのだけれど、ジェニファー・ローレンスの、「どうせ私の悲しみなんてだれもわかってくれない」という気持ちが痛切につたわってくる。「どうせ私の思っていること、感じていることなんて、だれもわかってくれない」という感じ--これなら、私は肉体で覚えている。そして、その「わかってくれないと」というのは、あとから考えれば大したことではないのだけれどね。
 あ、少し脱線したかな。
 結婚して2、3年(だったかな?)で夫を事故で亡くすというのはたいへんなことだ。その反動で会社の同僚全員とセックスしてしまうというのも常識はずれのたいへんなことである。けれど、そのたいへんなことを、「とてもたいへん」と呼ぶことで枠の外へ出してしまうのではなく、だれにでもある悲しみ、だれにでもあるのだけれどわかってもらえない苦悩という感じで表情にだし、観客を引きつけるというのは、うーん、すごいなあ。
 映画の途中に、ジェニファー・ローレンスは、「自分のしたこと、自分の過去は全部受け入れている」というようなことを口にするが、まさにそれ。自分の過去を全部受け入れている人間の「つらがまえ」がある。全部受け入れながらも、その全部を同じように受け入れてくれるひとがいない、私のことなどだれもわかってくれないという悲しみにはがまんできない、という一種の矛盾(?)のようなものを、突然内向する視線と、悲しみが内向した瞬間に、それが他人への怒りとなって爆発する--その、これも矛盾(?)としか言いようのない感情の動きで具現化する。(悲しみが怒りになるというのは矛盾だけれど、悲しみのために怒るというようなことは、だれでも肉体で覚えているでしょ?)--これが、ほんとうに、びっくりしてしまう。
 演技ではなく、そこに、そういう人間がいるのだと思ってしまう。目が釘付けになるというのは、こういうことを言う。ジェニファー・ローレンスは、私の基準(?)でいうと、美人というわけではないのだけれど、美人であるかどうかは関係なくなる。目が離せないのだ。
 ジェニファー・ローレンスはアカデミー賞の主演女優賞の候補にあがっているが、彼女が取らなかったら、アカデミー賞の意味はないだろう。他の俳優たちも主演男優、助演男優、助演女優賞の候補になっているらしいが、これはジェニファー・ローレンスの演技のおかげだね。彼女がすばらしいのでいっしょにそこにいる人間まで、あ、こういう人間がいるなあ、と感じてしまうのだ。

 それにしても、こんなに若くて「過去」を感じさせる演技力はすごいなあ。スクリーンにあらわれたときから、「過去」をもっている。会社の同僚全員とセックスしてしまったというような衝撃的な「過去」を語らなくても、「過去」を感じさせる。そして、その「感じさせる過去」は実際の「過去」より、もっと強い力で肉体に迫ってくる。
 で、その結果として「いま」、彼女の肉体のなかでどんな感情が動いているかもわかるのだが。

 こういうことをていねいに伏線として描く「脚本」もなかなかいい。ジェニファー・ローレンスは、ブラッドリー・クーパーの妻の手紙を捏造する。そのなかに「サインが見える/見えない(見落としている、だったかな?)」というようなことばが出てくる。それを、ある瞬間、ジェニファー・ローレンスが口にする。ブラッドリー・クーパーは、声でそのことばを聞いたときには気がつかないのだが、捏造された手紙のなかに「サイン」ということばを見つけ、あ、これはジェニファー・ローレンスが書いたのだと気がつく。そして、その瞬間に、彼女のこころそのものを知る。彼女のこころの「サイン」に気がつく。そのこころに動かされる、という具合である。ここからブラッドリー・クーパーはほんとうに変わりはじめる。(これ以後のブラッドリー・クーパーの演技も、とてもすばらしい。生まれかわった、ということが、とてもよくわかる。クライマックスのダンスのあと、彼が妻に語ることばはいっさい説明されないが、何を言ったかは観客にはわかる。ジェニファー・ローレンスだけには、それがわからないのだけれど。)
 「サイン」というものは、そういうものなのかもしれない。あるひとにははっきりわかる。そして、別なひとにはまったくわからない。逆に受け取られることもある。それは、ある意味では、ありふれたことであるう。
 サインということばは、ありふれたことばだが、どんな過去も、あるいは悲しみも、そういう「ありふれたもの(こと)」なのだろう。ありふれているけれど、あるいはありふれているからこそ、他人にわかってもらえるようで、わかってもらえない。他人からはときどき「ささいなこと」に見えるのだ。誰もが自分で体験するときはそのささいなことがとても重大なことなのだけれど。
 で、この映画のもうひとつ、きめのこまかい点は、いま書いた「サイン」のくだり。これを「ことば」だけで描いていないということ。ブラッドリー・クーパーが捏造された妻の手紙を声に出して読むシーン。声に出すのだから文字など見えなくていいのに、ちゃんと文字をスクリーンで見せている。これはもちろん、その手紙が手書きではなく、タイプで書かれているから「偽造」であるという暗示もあるのだが、その暗示だけなら全体を一瞬見せればすむ。それなのに、この映画はキーワードの「サイン」をきちんと映像で紹介している。身と目へ、きちんと情報をつたえている。こういうことも、この映画を手堅いものに仕上げているのだと思う。

 散点の★★★+★は、ジェニファー・ローレンスの演技ゆえにこの映画が充実しているということをはっきりさせたくて、+★という表記にしてみた。
                        (2013年02月24日、天神東宝1)

ザ・ファイター コレクターズ・エディション [Blu-ray]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)








あの日、欲望の大地で [DVD]
クリエーター情報なし
東宝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤維夫「さいごの秋」ほか

2013-02-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「さいごの秋」ほか(「SEED」31、2013年02月20日発行)

 藤維夫の詩はいつでも書き出しが魅力的だ。「さいごの秋」は、

秋が終わってひまな秋になる
空は無口になり駅が遠すぎるからさらに無口になる

 とはじまる。1行目が特にいい。まねしたくなる。盗みたくなる。で、そういう気持ちが強すぎて、実は何が書いてあるかわからない。でも、この「わからない」けれど、「これがいい」と感じるのが詩なのだ。そこには何か新しいものがあって、それが新しいからことばで説明できない。つまり「わからない」ということになる。
 「わからない」とはいいながら、「わかる」こともある。「秋が終わって」というのは「わかる」。「ひまな秋」というのも、それが藤の言いたいことかどうかわからないけれど、何もすることがなくてひまなんだろうなあと思う。つまり、「わかった」気持ちになる。何かやることがすんでしまって、ひまになった。することがあるあいだはそれが「秋」のテーマ(?)だったが、それが終わると秋が終わったような気になって。そして、ひまになったのだけれど、季節はまだ秋だ……。
 「秋」という「ことば」のなかに、違う秋がある。いま、その違うものが出会っている。あ、これが詩なんだね。異質なものが出会う。異質であるけれど、まったく違うわけではなくて何かを共有することで、さらに「異質」がはっきりするような、何かの出会い。微妙な「違い」。繊細な違い。この、微妙、繊細が藤の詩の特徴である。
 2行目には、「無口」という同じことばがある。でも、それは1行目の「秋」と同じように、同じだけれど「違う」。空が無口になり、さらに無口になる。無口の度合いが強くなる。--と書いてきて、気がつくのだが、藤のことばの「違い」というのは最初からあるのではなく、「なる」ということばといっしょに生まれてきている。

秋が終わってひまな秋に「なる」
空は無口に「なり」駅が遠すぎるから「さらに」無口に「なる」

 「なる」は、変化である。これは、いいことなのか、悪いことなのか--というのは変な質問の仕方だけれど。
 きっと「なる」ということは、それまでの何かを失うことだ。失って、別なものに「なる」。充実したものに「なる」のではなく、充実が「終わる」。それは「消える」ということかもしれない。--喪失ということかもしれない。
 「なる」のなかには「失われる」が「ある」。共存している。「なる」と書きながら、ほんとうは「ならない」のである。
 秋が終われば、秋にはならない。ふつうは冬になる。その冬になるまでのあいだ、「ひまな秋」というものが、充実した秋(ひまではない秋)の反動(?)のように見えてくる。「なる」が強烈になればなるほど、その影に「失われる」という意識が生まれてくる。この喪失感--それを「抒情」と呼ぶことができる。
 で、藤のことばは、

あれから午後はきまって不運な山彦のこだまをきいた
透明な秋の行き来が去って
ことばもうわずりかなしみの道となるだろう

 「不運」「透明」が「去って」、「かなしみ」に「なる」。センチメンタルの構造とはこういうことなのかなあ。

 「交差点」の書き出しには「なる」がないけれど、やはり「なる」という世界を書いているように思える。

少しだけ待つとそこから何かが始まっていく
戻り道の景色が動きはじめた
空虚なあいまができて
しばらくどうするか迷っている

 少しだけ待つと、そこから何かが変化し、べつのものに「なる」。景色も動いて、べつなものに「なる」。空虚なあいまができて、の「できて」は「なる」と同じである。空虚なあいまに「なって」ということである。
 ここに「あいま」ということばが出てくるところが、藤の、おもしろいところである。私は「さいごの秋」で「なる」によって、最初の存在が「消える」と書いたけれど、ほんとうは「消えない」。それは「意識」として残っている。そして「消えない」ことで「最初の意識」と「なったあとの意識」のあいだに、「あいま」をつくる。
 「最初の何か」と「それが変わって何かになった何か」のあいだ--それを藤は「空虚」と呼んだり、「あいま」と呼んだりするのだけれど、その「あいま」の特徴は、きっと「透明」ということになるだろう。「透明」で「美しい」。だから、それが「抒情」に転化するのである。
 で、そのときの「透明」「美しい」は、やはり「意識」なのだ。意識が透明で、美しいのだ。消えない意識といまある意識の「あいま」で形にならないまま存在する意識は、形がないから「透明」であり、形に固定されないから「美しい」。藤の詩は「意識の詩」である。
 意識の詩であるから、ほんとうはある「存在(もの)」に「なる」ではなく、「なる」という動詞によって「意識」に「あいま」をつくりだし、そこに「透明な美しさ(悲しさ)」を繰り広げるというのが藤のことばの基本的な動きのように思える。
 「あとがき」の書き出しの3行。

ことばの苦境を越えられず
花びらの水滴にひきよせられる
世紀の長さにたちつくすただの能弁は形骸に放置されたままだ

 「ことばの苦境」と「花びらの水滴」、その「あいま」は「世紀の長さ」であり、そこには「形骸」が放置されている。「形骸」ということばは「美しい」ものを指し示すとはかぎらないが、藤はそれを「透明/美しい」ものと見ているような感じがつたわってくる。藤のことばが指し示す「形骸」は、きっと「腐肉」のようにどろどろしていない。枯れてしまった木のように、肉も血もすべて消え去った「骨」のように乾いている。不純なものを取り払って意識として純粋な骨組みになってしまった何かである。--と私は想像してしまう。






外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャスリン・ビグロー監督「ゼロ・ダーク・サーティ」(★★★★)

2013-02-23 12:33:19 | 映画


監督 キャスリン・ビグロー 出演 ジェシカ・チャステイン

 ビン・ラーディンの居場所をつきとめたCIAの女性職員を描いた「実話」である。この女性の変化が、なかなか克明で興味をそそられる。アカデミー賞の候補にあがっているが、「世界でひとつのプレイブック」の女優(予告編しか見ていないが、肉体がスクリーンから飛び出してくる)とどちらかが主演女優賞を取るだろうという感じの、非常に深みのある演技である。
 監督がキャスリン・ビグローが女性であるからかもしれない。(私は、この監督の「ハード・ロッカー」は、そんなに感心しなかったのだが、その感覚になれていなかったのかもしれない。)監督が女性だから……というのは、まあ、偏見の類だろうけれど、男の監督の場合は、たぶん、違う女性像が描かれたと思う。たとえばジョディ・フォスターがいつも演じるようなCIA職員になったのでは、と。
 ジェシカ・チャステインは最初、現場の様子にとまどっている。ビン・ラーディンとつながりがあると思われる男を拷問。それが最初の「現場」である。彼女が男を拷問するわけではないのだが、その場にいること自体が苦痛なのである。そして苦痛を感じながら、それも「仕事」だとも思うのである。
 ここから出発して、同僚の女性がテロの被害にあって死んでしまうということを体験し、彼女のなかで何かがかわる。ビン・ラーディンは彼女にとって、どこか別の場所にいる「架空」の存在ではなく、親友を殺した首謀者なのである。「親密感」というと奇妙だが、親友を殺害されることで、彼女にとってはビン・ラーディンはとても「接近」した存在になったのである。「直接的」になったのである。「直接性」を発見したといえばいいかもしれない。
 この「直接性」が、たぶん、この映画のひとつのテーマである。「直接性(直接的)」というのは、ことばで書いてしまうと簡単だが、なかなか説明のむずかしいことがらである。で、この「直接性」を映画ではどう描いているか。
 男の視点と対比することで浮かび上がらせる。
 あ、女性からは男のふがいなさ、「直接性」の回避はこんなふうに見えるんだなあ、と思いながら見ていたのだが。
 つまり、ビン・ラーディンの隠れ家が見つかったらしい、そこにビン・ラーディンがいるらしい、とわかったあとの会議。攻撃を仕掛けるべきか、捕獲に向かうべきか、という議論をするとき。男たちは情報を分析して「60%の可能性」という。イランの大量破壊兵器情報のときより資料がとばしいから。男たちは、主人公が集めてきた情報を「情報」としか見ない。その向こうにビン・ラーディンがいるか、いないかを「情報」から推測しようとする。出発点が「情報」なのである。ところが主人公は逆なのだ。出発点はビン・ラーディンの存在であり、それにあわせて「情報」を「証拠」としてととのえる。--帰納法と演繹法のように、向き合い方が違うのだ。隠れ家には三人の女性がいる。だから、確認されている二人の男以外にもうひとりの男がいる可能性がある。その男はしかしビン・ラーディンであるかどうかはさらにあいまいである。見えないものの存在を特定することはできない。男たちがそう考えるのに対して、主人公は、そこにはビン・ラーディンがいる。その証拠には、二人の男の相手としての二人の女以外に、もうひとりがいる。絶対に姿をあらわさないのがビン・ラーディンなのであるから、それはビン・ラーディンである。見えないがゆえに、それはビン・ラーディンである。
 「見えないゆえに、存在する」というのは「直感」というものだろうけれど、その「直感」の「直」こそが彼女にとっては「直接性」の「直」なのである。
 で、この主人公は、「ビン・ラーディンがそこにいる確率は?」と、問われたときとてもおもしろいことをいう。「 100%いる。けれど、 100%というとみんなが逆に不安がるから95%いる、と主張したい」。5%のあいまいさ、「間接性」--推測の余地を男たちに「わざと」提示するのである。男なんて、結局、直接触れることを避けている。直接性を回避しているという厳しい批判がそこにはある。それはまた「直接性」を生きる女の自信でもある。実に毅然としている。スクリーンに最初に登場してきたときの弱々しさはまったくない。
 で、「直接性」を回避しているCIAのトップ陣(男)にへの強い批判があるからこそ、この監督は、終盤に「直接性」を生きている現場の兵士たちにたいへん温かい目を向けている。隠れ家急襲の準備、実際の行動を、それまでの主人公をそっちのけにして、実にていねいに、緊密に、粘着力のある映像でスクリーンに展開する。(「ハード・ロッカー」も、思い返せば、「直接性」を生きた男を描いていた。)ビン・ラーディンを殺害したあと、そこにある「証拠(資料)」をどんな具合に整理しながら集めるかというような、「本筋」とは関係ないようなところまでしっかり描いている。こういう「直接性」を生きる人間がいて、事実が動いている。事実は、作戦本部の「頭」のなかで組み立てられるのではなく、そこにある「もの」が直接つくりあげるものなのだ。
 男の監督の場合、こういう「直接性」の哲学までは、映画にならなかっただろうなあ、とつくづく思った。
                        (2013年02月21日、天神東宝4)

ハート・ロッカー (期間限定価格版) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野かおる『嘘八百』

2013-02-22 23:59:59 | 詩集
桐野かおる『嘘八百』(砂子屋書房、2013年03月05日発行)

 桐野かおる『嘘八百』はエッセイを読んでいるような感じ。詩を読んでいるという感じとはちょっと違う。エッセイと詩はどう違うのかといえば、まあ、「わざと」という感じがしないのがエッセイなんだろうなあ。「わざと」変なことばを使って、新しい感覚、感情、知性をつくりだしていく(生み出していく)というのが「現代詩」というものだろうなあ、と私は、なんとなく思っている。
 「西成仏」という作品も、エッセイ風である。アルコール中毒で入院していたYさんがある日飛び下り自殺をした。そのことが、ごくふつうに(?)書かれている。初めて聞くことばは書かれていない。

借金取りに生活保護費をまきあげられながらも
昼間から真赤な顔で千鳥足
やめるにやめられないのがアル中だけど
病院を隠れ蓑にしてきたのだから
自業自得としか言いようがない

 行分けになっていなかったら、つぶやきエッセイかもね。
 おもしろくないなあ、と思っていたのだが。
 最後の方(終わりの四分の一)。

(Yが死んだてホンマか わしらYに金借してるんや
どないかしてもらわなな)
と派手ななりの二人組がやってきた
追いかけたいのならどうぞどこまでも
あの世まででも
死ねばあなたたちのような人でも仏さま

逃げる仏に追う仏
あの世がどうなっているのかは
よく知らないけれど
この世から手を合わせてさしあげます

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏……
             (谷内注・「金借してるんや」は「金貸してるんや」か)

 この部分も、ふつうに口にすることばかもしれないけれど、私は「追いかけたいのならどうぞどこまでも/あの世まででも/死ねばあなたたちのような人でも仏さま」が、とてもおもしろいなあと思った。
 で、なぜおもしろいのか、と私は私の「肉体」に問いかけてみた。そうすると、省略があるからだと気がついた。桐野は生真面目な正確なのだと思う。だから思ったことはすべてことばにしている。そのために「説明」っぽく、その説明っぽさが、ことばをいっそうふつうに感じさせる。誰もが同じことを言っているように感じさせる。
 この3行も、とりたてて変わっているのではないけれど、ちょっと違うと感じるのはと、そこに省略があるから。

(Yさんを)追いかけたいのならどうぞどこまでも
あの世まででも(追いかけてください)
死ねばあなたたちのような(借金取りの)人でも(アル中で死んだYさんと同じように)仏さま
(あの世まで追いかけることができます)

 で、この省略。どうして省略したんだろう。わかりきっているからだね。桐野には、そういうことは言わなくてもわかりきっている。だから、それは「意識的に」省略したのではない。「無意識的に」省略してしまったのだ。
 たぶん、私が指摘しなければ、桐野は「省略した」とは思わないかもしれない。
 それくらいに、桐野には、ここに書かれていることが「肉体」にしみついているのである。「思想」になってしまっている。人は誰でも死んでしまえば「仏様」。アルコール中毒で死のうが、借金取りになって人を追い詰めようが死んでしまえば「同じ仏様」。
 そして、そういう「思想(肉体)」のあり方は、実は私にもしみついている。だから、それを「省略している」ということが、あれこれ考えなくても、私にすぐにわかった。
 「人は誰でも死んでしまえば仏様」という「思想」は、私自身何度も聞いて(聞かされて)知らず知らずに「肉体」が「覚えてる」。「覚えている」から、そこに省略されたことばを、私はすーっと思い出すことができたのである。
 私の肉体が「覚えている/こと」が、他人のことばの力で「いま/ここ」に引き出されてくる瞬間--その瞬間に、私はいつでも引きつけられる。あ、ここに「ほんとう」の人間がいる、と感じる。その「ほんとう」の人が、私に何かを思い出させてくれるのだと思い、ちょっと感動するのである。あ、出会えてよかったな、と思うのである。

 で。(と、ここで、私はいつものように「飛躍」する。)
 この「人は死んだら誰でも仏様になる」という「思想」--これを桐野は信じているのかな? 実は、私には、よくわからない。けれど、そういう「思想」を桐野は疑っていないと思う。ほんとうかどうか、桐野はそれを吟味したことがないと思う。心底疑うということをしたことがないと思う。
 そして、これが「肉体」の強さ、「思想」の強さだと思う。「思想」なんて信じなくてもいいのだ。疑わないければいいのだ。疑うということは「不安」になるというとだ。疑わないことで、「不安」を消してしまう。それが「肉体の思想」である。
 息をするのと同じ。心臓が動くのと同じ。そこに「考え」は入り込まない。どうして動くのかということを疑問に感じない。動いているのが心臓、動いているのが呼吸。それで充分。動きつづけてくれると「信じる」わけでもない。

 こういう「肉体」の無意識に通じる部分を、桐野のことばは、「省略」によって「共有」する。ふつう、何かを「共有」するとき、その何かを「提示」するのが一般的なのだけれど、「省略」することで、読者がかってに「共有」する何かを読者自身からひっぱりだす(肉体が覚えていることを思い出させる)という具合に、桐野のことばは動いている。その動きがほんとうに自然で、あ、いいなあ、と思うのだった。

 もうひとつ。(これが、ほんとうに書きたいことだと、私はいま気づいている。)
 この「肉体が覚えている/こと」が動きはじめたのは、実は、借金取りが突然やってきて、桐野のことばとはまったく違うことばをしゃべったから。想像していなかった他人の肉体が目の前にあらわれた。暴力的に自己主張している。それに抵抗するようにして、桐野の肉体はぐっと動いた。「体を張って」といういい方があるが、そういう乱暴な他人に対しては「体を張って」私は違うことを考えている。私はあなたとは違う、と言わなければならない。こういうとき、こまかな論理は邪魔になる。どっちにしろ、論理なんて、あいつらはきかない。だから、思っていることの要点だけをぱっと言ってしまう。このリズムによって、桐野のことばは詩になるのだ。
 詩は出会うはずのない未知のものが突然であったときに生まれる--というのは、こういうところにも隠れているのである。






桐野かおる詩集 1988―2002
桐野 かおる
文芸社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子忠政『蛙の域、その先』

2013-02-21 23:59:59 | 詩集
金子忠政『蛙の域、その先』(土曜美術社出版販売、2012年06月20日発行)

 金子忠政『蛙の域、その先』は、表題作がおもしろい。

きさま、
燃焼しうるものは
嘘をついている
俺の中の不燃物
燻ろう、燻ろう、だけ、
それだけを、懸命に
がつがつの息をついで
もう一息
 はぁ、はぁ、はぁ
夜気が気管にしみ入り
青白い月がつきまとう
靄が立ちこめた夜に
「絶句せよ、絶句せよ」と
また鳴く
不眠の青蛙
(路上に引き出されるべき屍はどこにある?)

 何のことかわからない部分もあるのだけれど、詩なのだから、私は気にしない。書き出しの3行がかっこいい。リズムがある。自分のなかにあるどうしようもないもの、燃焼しきれないものを肯定し、その反動(?)で燃焼してしまうものを「嘘をついている」と否定する。この肯定と否定の緊密な強さがいい。「燃焼」という音もいい。「きさま」という音もいい。
 「がつがつの息をついで/もう一息/ はぁ、はぁ、はぁ」のリズムもいい。「はぁ、はぁ、はぁ」に「意味」がないのもいい。「意味」のかわりに、「意味」を超える「肉体」の手触りがある。この手触りこそ、ほんとうのリズムかもしれない。
 だからね、どことは言わないが、「肉体」の手触りが稀薄な行は、何かおもしろくない。

 ということはちょっと無視しておいて。
 肯定と否定の緊密な結びつき--という部分に戻る。肯定と否定が結びつくというのは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。おもしろいものがある。別ないい方をすると、「わかる」けれど、きちんと自分のことばでいいなおすことのできない何か、金子のことばを頼りに、ふいに見てしまう何か、聞いてしまう何か、触ってしまう何か、嗅いでしまう何か、というものがある。ことばではなく、「肉体」がつかんでしまう何かがある。
 で、それが結晶したのが、

(路上に引き出されるべき屍はどこにある?)

 蛙。路上で死んでいる蛙。車にひかれ、ぺしゃんこ。その屍。--あ、見たことがある。鼻を近づけたことはないが、立ち上ってくるものに鼻をそむけたことがある。触ったことはないが、足でけったことがあるかもしれない。踏んでしまって、ぎょっとして靴底をアスファルトでこすったことがあるかもしれない。と、なんでも書けそうなくらい、そういう蛙の屍を私の肉体は覚えている。覚えているが、いままで、私はそれをことばにしたことはなかった。
 おもしろいのは、金子が蛙の合唱(?)を聞きながら、草野心平のようにその生きている蛙と共震するのではなく(共震しているのかもしれないけれど)、死んでしまった蛙を目の前に呼び出していることだ。そこには存在しないものを、しかも死んでしまったものを、「絶句」にしろ、絶望にしろ、なんでもいいのだが、いのちの盛りから引き出して向き合わせていることだ。
 いま頻りに鳴いている蛙。こいつらだって、車にひかれれば一瞬で死んでしまう。さあ、それはどいつだ。--をさらに通り越して、「屍はどこにある?」
 変でしょ? 鳴いている蛙。それが田んぼだと仮定して、蛙が鳴いているのだから、そこに屍はあるはずがない。あるはずがないから、その屍に「路上に引き出されるべき」という修飾語をつけている。「矛盾」を正当化(?)というか、論理化(?)するために、「頭」を働かせて、ことばを動かしている。
 こういう「頭」のことばというのは、私は、本来好きではないのだが、この1行にはとても引きつけられた。
 それは「路上で死んでいる蛙の屍」というものが「頭」で覚えていることではなくて、肉体で覚えていることだからだと思う。「……されるべき」というような「論理」を肉体は覚えていない。けれど、死んだ蛙というなまなましい存在は、ことばではなく、肉体で覚えている。ことばにすることを拒んだまま、肉体のなかに隠れている。
 それが突然引き出されてきて、ことばとして動くので、その瞬間には肉体が引き裂かれた感じがする。「頭」ではなく。
 「頭」でいまの1行を整理しなおすと、

路上にでてきて(引き出されて)、死んでしまう運命(死んでしまうべき)、屍になってしまう運命(屍になってしまうべき)の蛙は、どこにいる?

 ということになると思う。「主語」は蛙であって蛙の「屍」ではない。「主語」が蛙(生きている)からこそ、その前の「「絶句せよ、絶句せよ」と/また鳴く/不眠の青蛙」と一致して、「文章」になる。
 でも金子は「蛙はどこにいる?」ではなく「屍はどこにある?」と書く。
 そこに、飛躍がある。「主語」が入れ替わる飛躍がある。生と死の対立(矛盾)を乗り越えて動く「ことばの肉体」がある。
 先に私は、「頭のことば」ということ少しを書いたが、「頭のことば」であっても、それが「ことばの肉体」となって動くとき、それは「肉体」に働きかけてくる。だから、きっとおもしろいのだろう。「ことばの肉体」とならず、ただ「頭のことば」のまま動くと、頭が刺戟されるだけで、うーん、めんどうくさい、わからない、わからなくたっていいや、わからななくたって生きていけるからね。ほら、微分・積分なんてつかわなくたって生きていけるでしょ? という具合。

 ああ、それなのに。
 この詩の最後は、

路上に引き出されるべき
屍はどこにいる?

 屍は生きた蛙ではないから、ほんとうなら「ある」というのが正しい(?)表現だけれど、ここでは「いる」と間違えることで、ほんとうは「蛙は」どこにいる? 路上に引き出され(路上にでてきて)屍になってしまう蛙はどこに「いる」という具合なのだけれど。
 これだと、見えてくるのが屍ではなく、生きている蛙。さっき指摘した「また鳴く/不眠の青蛙」になってしまう。それは「文法」的には正しいのかもしれないけれど、驚きがない。屍が死んでしまう。屍が生きて来ない。何か、矛盾を超えて、それでもそれを書くのだ、という感じがない。--矛盾こそが詩なのに。
 「その先」のことではなく、最後の2行は、「その前」になってしまう。
 「先」と「前」は日本語では混同されるけれど、いま書いた「その前」は「それ以前」。「その先」はこれから先、「その(その)以降」だね。「その前(それ以前)」は「過去」だからすでに存在している。「その先」は未来だから存在していない。(私はほんとうはそう考えてはいないけれど、便宜上、そう書いておく。)
 金子は、詩のなかほどでは、そのまだ存在しない「未来」を肉体を突き破って出現させたのに、最後には、それを「頭」でととのえなおして、ありえない「その先」ではなく、予測可能なものにしてしまった。「頭」のなかではなんでも予測できるというか、空想できる。
 「肉体」はそうではなくて、「覚えていること」を思い出すだけである。
 この「頭」と「肉体」の関係が、ちょっと……。
 なんといえばいいのかなあ。まあ、「頭」がよすぎるのだろうなあ、金子は。肉体でつかみ取ったことを、自然に「頭」でととのえなおしてしまうのだろうなあ。

 きのう読んだ秋亜綺羅もとても「頭」のいい詩人なのだが、秋亜綺羅はとてもずるくて、「頭」が完全にことばをととのえる前に、わざと不完全なととのえ方のときに詩にほうりだす。そして読者を混乱させる。「その先」を読者にまかせる。金子は「その先」を自分で整理してしまう--という違いがあるのかもしれない。
 でも、批判はしたけれど、「蛙の域、その先」はいろいろな可能性がきらめいている詩だと思う。思うからこそ、不満も強くなる。


詩集 蛙の域、その先 (現代詩の新鋭)
金子 忠政
土曜美術社出版販売
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋亜綺羅「自傷」

2013-02-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「自傷」(「孔雀船」81、2013年01月15日発行)

 秋亜綺羅の詩の特徴は、ちょっと感じさせることである。その「ちょっと」を言い直し、説明するのはなかなかむずかしいのだけれど。
 「自傷」の書き出し。

脳ずいから垂れ下がってくる影に
時計じかけの時計を仕掛けた

 1行目はとてもあいまい。何のことかわからない。何だろうなあ、と思わせる。そして2行目。変だね。時計じかけの爆弾(時限爆弾)というのはあるね。それからタイマーつきもの日常の器具。これも時計じかけと呼ぶことはできるかな。でも、時計が時計じかけというのはどういうこと? 時計は時計だけで動いているから時計。時間になったら動く時計って、まるで目覚まし時計。
 で、この「変」という感じが繰り返されると、ことばの「有効範囲(?)」が妙にあいまいになる。「意味」がなくなる。「もの」と「ことば」の関係が切断された感じがする。「ことば」がどこへ動いていいかわからない、を経て、どこへ動いてもいいのだという感じになる。このどこへ動いてもいいを「自由」と呼ぶなら、秋亜綺羅のことばは「自由」を手に入れるヒントを教えてくれるのかもしれない。
 あ、先走りしすぎたね。
 ちょっと感じさせるのつづき。たとえば、次の展開。

鍵をかけない部屋の砂漠で眠りにつけば
夢を見ている夢を見ます
蜃気楼の蜃気楼を蜃気楼する

 「蜃気楼」ということばが繰り返される。「蜃気楼する」という奇妙な動詞も出てくるのだけれど、そうか蜃気楼の蜃気楼というものがあるとすれば、それは蜃気楼を蜃気楼したものなんだな、と変な具合に納得してしまう。「夢を見ている夢」というのは体験したことがあると思う。夢がそうであるなら、蜃気楼という幻(?)の蜃気楼があってもいいと思う--という具合に納得してしまう。
 いままでつかっていたことばを(いままで知っていることばを)、そのままつかわなくてもいいんだ、ということもわかる。そして、いままでとは違ったつかい方をするとき何かが「わかる」。
 で、この「わかる」。
 たぶん自分の外側にあるものではない。自分のなかにある力、ことばをこんなふうにして、他人の思っていることとは関係なく「自由」につかうことができる、ということがわかる。

 時計が時計じかけというのは変だけれど、そういうものがあるとことばで考えることができる。蜃気楼の蜃気楼があるということも、考えることができる。(私は蜃気楼そのものを直接見たこともないのだけれど、そういうことを考えることができる。)
 で。
 さっき書いた「わかる」と「考える」が、このとき「一体」になる。「できる」という運動のなかで「一体」になる。秋亜綺羅にとって「わかる」ということは「考える(ことができる)」ということなのだ。そして、その「できる」という可能性--それが「自由」ということなのだ。
 「ことばの肉体」がかってに動くのを許す。このときの「かってに」というのは「流通言語」とは無関係に、ということなのだが。

 また、先走りしてしまった。秋亜綺羅のことばには伝染力があって、読んでいると、ついつい「考え」が暴走する。
 詩に戻って、秋亜綺羅のことばの特徴に戻って、ことばを動かしてみる。
 秋亜綺羅のことばは、ちょっと変。たとえば、

世界中のコンピュータは絶えまなく
IとOで計算をつづけているのでしょう

 「1(イチ)と0(ゼロ)」ではなくて「I(アイ)とO(オー)」。誤植ではなく、秋亜綺羅はそう書いている。コンピュータは「1(イチ)と0(ゼロ)」で情報処理しているのは世間の常識なので、それが「I(アイ)とO(オー)」と言われると、ちょっと変だね、間違いじゃない?と思わせる。
 この「変」は「時計じかけの時計」「夢を見ている夢を見る」「蜃気楼の蜃気楼を蜃気楼する」ということばと、どこか似ている。どこが似ているか--たぶん、知っていること(肉体が覚えていること)とどこか重なるけれど、どこかずれているということだね。そして、ずれていながら、その「ずれ」の指し示していることを「頭」ではっきり理解できることだね。
 ここに「頭」が登場してくるところ、「考える」という運動を刺戟してくるところが、まあ、秋亜綺羅のことばの特徴だ。
 で、その考えるという運動、頭への刺戟は、次のように展開する。

きょうはきのうのコピーです
生きています
さむいし
さみしい
わたしはコピーです
I(わたし)をO(ゼロ)にしてしまえば
LIVEはLOVEになる

 O(オー)と0(ゼロ)はとても似ている。それを踏まえた上で、秋亜綺羅はO(オー)にあえて「ゼロ」とルビをふって、さっきのように書くのだけれど。
 巧妙だね。
 そのずらしかたが、なんというのだろう、誰でも知っているレベルでのずらしである。英語のIが「わたし」であることを知らない人はたぶんいない。「LIVE」が「生きる」であること、「LOVE」が愛・愛するであることを知らない人はたぶんいない。
 そういう誰もが知っている範囲でずらす。ずれを利用しながら、ずれていないもの(「流通言語」の意味)もいっしょに見せてしまう。
 「ほんとう」と「うそ」が出会っているのだ。

 現代詩を定義して「異質なものの出会い」と言った人がいる。シュールレアリスムの定義だったかもしれないが、まあ、どっちでもいい。ポイントは、何かいままで出会わなかったものが出会ったとき、そこに「新鮮」がある。詩があるということ。
 で、秋亜綺羅はその「出会い」を「ほんとう」と「うそ」の出会いにする。そうして、「うそ」をつく自由というものをさらりと見せる。そのとき「うそ」のなかに、ほんとうは見たかったもの、知りたかったもの、体験したかったもの--夢がかいま見える。だからこそ、そこに「自由」を感じるのかもしれない。
 で、このときの「ほんとう」と「うそ」をどうやって人は判断するか(見わけるか)というと、いままで自分が「考えてきたことば」に照らし合わせて判断する。(見わけるよりも、たぶん判断するという抽象的なことばが秋亜綺羅っぽい。--私は「見わける」といいたいのだが、たぶん、秋亜綺羅は「見わける」とは言わない。ここが、私と秋亜綺羅の違いなのだが……。また脱線した。)
 秋亜綺羅は、言い換えると「考える人」(頭で判断する人)ということになる。
 で、私は「頭」というものを疑っているのだが(信じていないのだが)、秋亜綺羅のすごいところは、その「頭」を暴走させてしまわないこと。他人の「頭の範囲(?)」を熟知した上で、「頭」を「頭」と感じさせない領域を知り尽くした上で、「頭」を動かし、ことばを動かすところだ。
 コンピュータが「1と0」で動いていることは誰もが「頭」で知っている。「肉体」としてその電子の動き(?)を体験している人はいないだろうが、そういう処理(?)が行われていることを「頭」で知っている。「IとO」が「1と0」に似ていることも知っている。「I」が私であることも知っている。「LIVE」「LOVE」という英語も知っている。日本語のように知っている。「頭」で知らないことを、そこにもって来ない。あまりにも知りすぎていて「頭」で考えているということを感じさせない領域で「頭」を動かしている。
 「肉体」になってしまっている、つまり無意識でも動くものになっている「頭」の領域でことばを動かしている。
 こういうことができるから、

さむいし
さみしい

 という「肉体」そのもののようなことばの「ずれ」もいっしょに動かすことができるのだ。






透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永島卓「霜踏んで」

2013-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
永島卓「霜踏んで」(「コオサテン」2013年02月10日発行)

 詩は不思議である。ことばである。ことばには意味がある。だから、どうしても意味を追って読むのだけれど、その途中で意味を追っていることを忘れてしまう。
 永島卓「霜踏んで」。

気付けば問いかけられた声を改めて耳にして
長い年月を費やしてしまっていた
微かに震えつづけてきたのを
いつもカラダとココロに被ってくる小さな空
風雨と青天の予報を手にしていても
予想通りの道はまだ工事中で
地盤沈下してゆくばかりであった
家族や仲良しクラブの隣人達だってきっと
劇中劇の役者に化けたかったに違いない
空の極みはまだまだ誰も知らない創造の世界なのか
腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお
溜池の除草をしている変わり目ない日常
きっと眼の水晶体が混濁していて
剥離されてゆく製品の磨きの努めが飛んでしまったのか
届かぬ背を癒すこともなく捩じ向けた
はるか水平線に映る波の皺を数えていると
合図もなく意思をもった一本の矢が
今日から今日の日付を翔び越えて
目の届かない的も光りもない無数の霜踏んでいて

 よくわからないが、誰かから非難された(ある行為の意味を「問いかけられた」)ことがあって、それがもう一度「長い月日」ののちに同じように繰り返されたときの感じを書いているのだろうと思う。こういうことは、たいてい誰でも経験し「肉体」で覚えていることだから、いちいち「論理的」に意味を説明しなくても、なんとなくことばのリズムで伝わってくる。まあ、そんなものを思い出す必要もないのだけれど、知らず知らず思い出してしまう。感じてしまう。道に倒れて腹を抱えている人間を見ると、その人は腹が痛いのだと、自分の痛みでもないのにわかってしまうようなものである。
 こういうのは、一種の「呼吸」である。肉体がかってに反応してしまう。意識して「呼吸」をする人はふつうはいない。ときに意識的に「呼吸」することもあるが、人間はたいてい無意識に呼吸している。
 ちょっと書きたいこととずれてきたが……。

 永島の詩を読むと、そのことばのリズム、その「呼吸」に何か吸い込まれる。息遣いに感染してしまう。何を書いていたか--あ、裏切り、背信、そういう指摘と問いかけ、それに対する反応だったか。まあ、そうだと仮定して、

腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお

 このリズム。この3行は、具体的にはどういうことなのか。「流通言語」で言いなおすとどうなるのか。「流通言語」でなくてもいい。自分の(谷内の)ことばで言いなおすとどうなるのか。--ということを、私は、一瞬忘れてしまう。意味を理解するということを忘れてしまう。
 腫れ物に触る。それが自分のものであっても他人のものであってもいいが、何か気持ちが悪いと同時に、それが破裂するところを見たい、膿が飛び出るところを見たいという矛盾した気持ち(おののき--えっ、おののきって矛盾だっけ?)。その「矛盾(おののき)」を感じてしまう。
 それとは反対に、そういう腫れ物にはさわらず、ことば巧みに(口上巧みに)言い逃れてしまうときの、肉体に残るいやあな感じ(後味?)、その背後に押し寄せてくる無言の批判(もの言わぬ沈黙?)。
 えっ、じゃあ、永島は「腫物」に触ったの? 触らずに逃げたの? あ、そういう「意味」は大切なのかもしれないけれど、そういう「意味」を突き破って、腫れ物に触るときの矛盾した気持ち、それから逃げるときのやはり矛盾を抱えた気持ち(触ればよかった、という後悔)のリアルな感じが、「肉体」に伝わってくる。
 永島の「呼吸」を私の「肉体」が「呼吸」してしまう。
 こういうときに、私は、詩を感じる。
 きのう読んだ川上明日夫のことばでは、私には、こういう感じがまったくしない。「呼吸」がまったくあわない。人工的な「呼吸」のリズムが立ちはだかっていて、ぎょっとしてしまう。

 永島の書いていることは、何か矛盾しているかもしれない。意味にはならない何かかもしれない。それなのに、それをそのまま私は「呼吸」してしまう。
 --と書いただけでは、あまりにも、漠然としているか……。

腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお

 この3行のリズム。ここにある不思議な矛盾。その矛盾とは、

おののきに(おののきゆえに)口上巧みに逃げきってしまう
そのことへの後味の(悪さを・感じている)背中へ……

 ちょっと永島の詩のことばに私のことばを補いながら書き直してみたのだが、永島のことばは、散文の構造を逸脱している。簡単に言うと、散文がもっている(あるいは「流通言語」がもっている)修飾節の構造の論理を逸脱している。もっと簡単に言うと、行の分け方が非論理的、ことばが行渡りをしている。
 つながるべきことばが改行によって分断されながら、その分断を越えて接続していく。ことばの論理(意味の構造)と改行(息継ぎ、呼吸の構造)に、何か「無理」がある。無理のある部分を、いいかえると「矛盾」を強引に突き破って(押し動かして)進んでいく感じがある。
 そこに力がある。力が働いている。意味にならない力、肉体そのものの、存在する力が働いている。
 この力を「呼吸」として、私は感じるのである。ジョギングなんかしていて、そばを通るひとの、苦しいのだけれどその苦しみを楽しみながら(?)、さらにスピードを上げるときの「呼吸」の強さのようなものだ。ついついつられていっしょに足が動くでしょ? 抜かれる? 抜かれたくない。ついていく。いや、引き離してやる。あの感じ。自分のなかに肉体の強さ、力が点火される。
 ことばを読んでいると、自分のことばのなかに何かそれが伝染してくる。
 この強引さ(?)を別のことばでいえば、「粘着力」なのである。矛盾したものを、なおくっつけて動いていく。矛盾を自覚しながら、なおそれをひきずって動いていく。だからこそ、かつての批判(問いかけ)がまた繰り返されるということを引き起こすことにもなるのだが……。
 この粘着力は永島の場合あまりにも強くて、その結果、

もの言わぬ沈黙

 というような「重複表現」を引き寄せることにもなる。「もの言わぬ」なら、それが「沈黙」。でも、そう言ってしまう。意味を重ねてしまう。さらに、それだけでは足りずに「なお」とつづける。
 「なお」って何? 「なお」でつづいていくものと、その前との「意味」上の関係はどうなっている?
 こういうことは問いかけても無意味。問いかけによって、ことばを切断し、ととのえなおすことは無意味。人間は、何かを「切断」して生きているのではなく、何かを「接続」して生きているのである。そしてその何かの中心には「自分の肉体(いのち)」がある。肉体が欲するものを接続して生きる。
 というようなことを、私は、永島のことばのリズム、強引な行わたり(改行しながらの接続)、長々とした文体、それから「触るときのおののきに」「しまうことへの後味の」に見られる「の/(「お」という母音)」の響きのなかに感じてしまう。それを「呼吸」してしまう。

 で、(と、ここで私はとんでもない飛躍をする)。
 そういうことを象徴するのが3行目の「震えつづけてきた」の「つづける」という動詞である。永島はなんでも「つづける」のである。「つづける」ところから「いのちのリズム」が生まれる。「つづける」は「つなげる」。つまり「粘着力」だ。
 それは川上明日夫の「と」とか「ね」という独立した1行と比較するとき、リズムの違い、呼吸の違いとして実感できると思う。
 永島の詩は「踏んでいて」という中途半端な形でことばがおわっているが、それはおわっているのではなく、中断しているのでもなく、「つづいて」いるのである。つづいているけれど、まだはっきりとつづきが存在しない。永島の肉体のなかに「つづく」という力が満たされずに動いているかは、そういう形であふれているのである。



水に囲まれたまちへの反歌
永島 卓
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上明日夫「蔵」

2013-02-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川上明日夫「蔵」(「木立ち」114 、2012年12月25日発行)

 川上明日夫「蔵」を読みながら、「声」があわない、呼吸が合わないなあと思う。というより、合わせようがない、と私は感じる。

そんなに飾らなくても生きていけたものを
光の ここは
呟きのとほいところだから

おもうはそんなことばかり
いいものも わるいものも
息を あつめて
ただ
隠されることで生きている
繕われることで生きている


 「主語」がわからない。「生きていけたものを」の「主語」は死んでしまった人だろうか。「おもう」の「主語」は死ななかった人、生き残った人であり、その生き残った人が「生きていけたものを」と思っているのか。そして、生き残った人は「隠されることで生きている/繕われることで生きている」とも思っているのか。
 「おもう(思う)」ということのなかで「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」が「ひとつ」になっているのか。
 で、そのとき「ここ」って、どこ?
 「思う」という「こと」のなかに「いいものも わるいものも」も「ひとつ」になる。それは「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」が「ひとつ」ということと同じである。
 で、そのとき「ここ」って、どこ?
 死んだ人と生きている人(川上)が出会う「ここ」、--言い換えると、死んだ人のことを思い、その人と「出会う/こと」が「ここ」なのだろう。「ここ」のなかに「こと」がある。そう思うと、これはとても深い詩である。何かを言おうとして、うまく言えないのだけれど、それでもなお言ってしまう、そのときに「ことば」が意味を越えて動いていくという感じがつたわってくるすばらしい詩のように感じられる。
 ところが「ここ」が「呟きのとほいところ」と言いなおされるとき嘘が噴出してくる。(私には「嘘」に思える。)「出会い」という「こと」のなかに起きている「こと」に「遠い」はありえない。(川上は「とほい」と書いている。「遠い」ではないのかもしれないが、「とほい」ということばを私は知らないので「遠い」と読んでしまう。)あらゆる「こと」は直接性ゆえに「こと」なのである。
 せっかく出会ったものが、その出会いという「こと」が分離していく。もし、そういう分離が死ならば、わざわざ「出会い」を演出する必要はない。
 「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」や「いいものも わるいものも/息を あつめて」というのは、生者と死者の出会いの瞬間にあらわれる「こと」なのだろうが、それが「とほい」ものとして分離される。そこに、人間の悲しみ、生きることの悲しみがある。あ、いやだなあ、この安直な抒情。
 ほんとうに川上は「ここ」を感じているのかなあ。書いてあることばは実感なのかなあ。実感のもつ「声」が聞こえない。

 どうにも、こうにも、私にはわからない。「意味」がわからないのではなく、「意味」はなんとかわかるのだが(わかっているつもりだが)、それが「声」に聞こえない。詩は「意味」ではないから、「内容」「論理」などわからなくてもいいと私は思っている。「声」が聞こえればいいとおもっている。その「声」が聞こえてこない。

 いや、違う。
 実は、「声」が聞こえる。そしてそれが問題である。ふつうは感じないところに(感じる必要がないところに)、「声」を強烈に感じる。
 それは、



 独立して1行を形成している。これは何かといえば、「念押し」なのである。「と」をつかうことで、川上は「川上」と「おもっていること」をつなぐ。「と」によって、川上が「動詞」になる。「と」がないと、川上は「おもうこと」もできない。
 私の書き方は、わかりにくいかもしれない。
 次の部分を引用すれば、いくらか説明がしやすくなるかもしれない。

黄泉と常世のそんな辺 うららなみじまい
の 汀を
しずかに波だてれば
そこから艀が
一艘の小舟に 水勢に ゆるやかにもたれ
ほどけてゆく
紐のようなものでした


 この1行に独立した「ね」と「と」は同じものである。それまでに語られたこと、「ね」は1文字で同格である。そして、その「ね」によって川上は川上自身を刻印する。その前のことばは、単なる描写である。川上が「おもっていること」ではない。「ね」という刻印をすることで、そのまえのことばが「おもっていること」になる。
 同じように、「と」ということばによって、そのほかのことばは川上の「おもっていること」になる。
 そんな短いことばで、川上は川上の「肉体(声)」を存在させる。こんな引っ込み思案の「肉体(声)」にあわせることなど、私はできない。親身になれない。
 「黄泉と常世の……」以下の数行は美しいが、そしてその美しさを守ろうとする意識が川上のどこかにあって、「ね」ということばでわざと分離させるのだろうけれど、そういう具合に「おもっていること」がいったん分離されると、そこに「肉体」がなくなり、「風景」になる。川上の「肉体」がつかんだものではなく、だれかがつかんだものを聞きかじり、伝聞でつたえているのと区別がつかない。
 もちろんこの区別のなさから「生き残ったもの(川上)」と「生きていけたもの(死んだもの、川上以外のだれか)」の「肉体の融合」を導き出すこともできないではないけれど、私の感覚の意見は、それに反対している。
 「声」が弱音すぎて、気持ちが悪い。

 あることを、ほんとうに見て、見て、見抜いて、肉体を目そのものにして、それを見たのなら、こんなことばにはならない。「波だてれば」の「れば」が、実際の見たものではないということを証明している。実際に見てはいないものであっても、そこに「見る(見たい)」という肉体の欲望があればいいのだが、それもない。「紐のようなものでした」の「でした」(過去形)が、「肉体」を遠ざける。
 見てもいなければ、見たいわけでもない。というのも、それは「ここ(いま)」ではなく、「過去」のことばだからだ。
 「ここ(いま)」を消し去っているくせに、「ここ」と言う。何か言うことがあるふりをして「と」「ね」と言う。「こと」のなかに入り込んで、そこからことばを動かすのではなく、「こと」から離れた場所で、離れていながら「ここ」と呼ぶことで「頭」だけ「そこ」に置いている。そしてその「分離」された悲しみを「抒情」と呼んでいる。そんな気がして気持ちが悪い。そりゃあ何だって離れてしまえば美しく切ないさ。
 この「肉体」の見せ方はずるいと思う。私は本能的に、そう思う。



川上明日夫詩集―白い月のえまい淋しく (北陸現代詩人シリーズ)
川上 明日夫
能登印刷出版部
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タヴィアーニ監督「塀の中のジュリアス・シーザー」(★★★★★)

2013-02-17 19:08:19 | 映画


監督 パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ、ファビオ・カヴァッリ 出演 コジモ・レーガ、サルヴァトーレ・ストリアーノ、ジョヴァンニ・アルクーリ

 1時間とちょっとの非常に短い映画である。だが、まるで5時間の映画を見たような充実感がある。大傑作。今年のベスト1--と、もう言い切ってしまうのだ、私は。
 映画のストーリーは単純である。イタリアの刑務所に服役している囚人たちがシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を演じる。「ブルータス、お前もか」の台詞が有名な、あの芝居。そのオーディションから始まり、上演までを描いている。途中の、刑務所のなかでの稽古がどきどきするほどおもしろい。
 芝居と映画はどこが違うかというと、芝居というのは役者が「過去」を背負って舞台に上がらなければならない。そして、そこでは「現在」だけが演じられる。実はこの場面にはこういう背景がありました、という具合にフラッシュバックを挿入するわけにはいかない。映画はいつでも「過去」をフラッシュバックで挿入できるが、芝居はそういうわけにはいかない。だから舞台役者は舞台に上がったとき、そこに「過去」をもっていなければならない。台詞で「過去」を説明しはじめると、それは「劇」ではなく、つまらない「学芸会」になる。役者は、語られることのない「過去」を感じさせなければならない。舞台に立つ前に、演じられる前の「過去」を体験していないといけない。そう感じさせなければいけない。こういう滲み出る「過去」を「存在感」などと呼んだりする。映画でも「存在感」は必要だが舞台ほどの絶対条件ではない。
 と、寄り道をしてしまったが……。
 この「シーザー」を演じる役者たちは囚人である。ということは、つまり、もうとんでもない「過去」をもっている。ふつうの人が体験したことのない「過去」をもっている。隠したい過去といってもいい。「存在感」はすでにある、といっていい。隠そうとしても、それは滲み出てくるし、だいたい囚人が芝居をすると聞けば、観客はそこに「ありもしない過去」さえ押し付けてみてしまうものである。こういうのを「偏見」というのだけれど、まあ、「偏見」を捨てられないのが人間である。
 で、その囚人たちが芝居の練習をしはじめると、たいへんなことが起きる。隠していたはずの「過去」がふいに噴出してくるのである。シェークスピアが書いたはずの「ことば」なのに、それが自分自身の肉体のなかから聞こえてくる。肉体が覚えていることが、シェークスピアによってひっぱりだされてくる。ブルータスを演じる役者は、「胸を切り開いて精神を取り出したい」という台詞を言おうとした瞬間、ことばをなくしてしまう。そのままそっくりではないが、同じ意味のことを「仲間」に言ったことがあるからだ。それは、たぶん服役仲間の誰にも語ったことのない「秘密」だ。それが、芝居を稽古しているなかで噴出してしまう。「自分」が知られてしまう。
 これは、たぶん彼らにとってはたいへんなことだろうと思う。刑務所のなかにも友情はあるだろうが、それは私たちの「日常の友情」とは違っているだろう。特に重大な犯罪者の場合、刑務所にいるからといっていのちの安全が守られているわけではない--というのは犯罪映画の見すぎによる偏見かもしれないけれど、まあ、「人間性」を知られてしまっては、生きていきにくい。「弱み」を見せたくないというのが彼らの本心のような気がする。それを隠したままでは「芝居」がつづけられない。
 ふつうの役者は「過去」を感じさせるために苦労するが、ここでは囚人達は「過去」が噴出してくるために、困惑してしまうのである。そして困惑をとおして、シェークスピアのことばを「自分のことば」にしてしまう。「肉体」にしてしまう。
 「隠したい過去」は稽古をすればするほど噴出してくる。「本心」が噴出してくる。そのひとの「人間性」が出てきてしまう。そして、その「人間性」が出てくれば出てくるほど、「役」が完成されていく。つまり、登場人物になってしまう。最後は、台詞を書いたのがシェークスピアとは思わなくなってしまう。自分の「声」だと信じて、それを生きてしまう。
 この、「過去」と「現実(芝居を演じる)」と「役(虚構)」が交錯しながら「一体」になってしまう感じがすごいのである。芝居の稽古、芝居の登場人物を見ているというより、彼らの「人生」そのものが動くのを見ているようなのだ。芝居なのだから嘘であるはずなのに、嘘のままではおわらない。ほんとうになってしまう。
 囚人達が芝居を演じるのではなく、まるで芝居の登場人物が囚人になってあらわれてくる。そして苦悩を語りはじめるという感じである。シェークスピアが、そこにいる囚人達に「あてて」芝居を書いたような感じをさらに越えて、彼らがシェークスピアにさえ思えてくる。
 これだけですごいなのだが、ちょっと最初に戻って、芝居と映画の違いから見ていくと……。(いままでは、どちらかというと芝居の視点から見てきたことになると思う。)

 これが映画なのは--というか、芝居の稽古を撮りながら「映画」そのものになっているのはなぜかというと。
 芝居と映画では「肉体」の見せ方が違う。芝居では、どんなに前の席でも役者の細部は見えない。映画はそうではなくて、実際に見ることのできない細部をスクリーンいっぱいに広げて見せることができる。
 シェークスピアのことばが囚人のなかでよみがえるのは芝居そのものでもつたえることができるが、そのことばが肉体にどんなふうに動いているかは芝居よりも映画の方がうまくつたえられる。
 「目を見ろ」という台詞が出てくるが、その目のなかに、シェークスピアの書いた裏切りではなく、シェークスピアの書いた困惑や苦悩ではなく、囚人達の「過去」が動くのを、映画はそのままスクリーンに切り取る。一瞬の、かげり、迷い、ひらめき……。それが動く瞬間をカメラはとらえ、スクリーンに映し出す。そうすると、まるで目の前で「彼」を見ている気持ちになる。
 「台詞」を抜きにして、「肉体」そのものが語る「ことばにならない声」を、見ていて感じ取ってしまう。私はこの映画に登場する彼らのような裏切りや犯罪をしたつもりはないけれど、そのときの困惑、苦悩が、そのまま「ことば」を越えて伝わってくる。
 目だけではない。たとえばブルータスとキャシアスがシーザーの戴冠式を見ている。窓から二人が覗いているのを見て、演出家は「ブルータスは窓から覗かない。それを見たくないはずだ。どうする?」と問いかける。そうすると、ブルータスは窓を背にして、窓のしたにしゃがみ込む。
 このとき。
 そのしゃがみこむ肉体をとおして「彼」の「過去」があらわになる。そういうことが彼には実際にあったのだ。だれかの何かを見たくない、隣でだれかがそこから見えるものを説明する。けれど、それを見たくないとき、背を向けてしゃがみこんだということが。そして、その「肉体」は、私の「肉体」にも響いてくる。彼が演じていることが、そのときの「気持ち」が「肉体」として私の「肉体」にそのままつたわってくる。
 この「肉体」の動きは芝居でもつたわるけれど、それを完成された形ではなく、映画のなかで、そういう「肉体」を彼に発見させるという「過程」を見せることで、「過去」が濃密になる。「過去」が遠いものではなく、いま、ここにあるものとして、強烈に噴出してくる。
 あ、その「彼」って、ブルータス? シーザー? それとも「囚人」? わからないまま、そこに「人間」を見てしまう。名前も肩書も関係なく、ただ人間はこんなふうに生きているということを肉体で感じてしまう。

 あまりにおもしろすぎて、興奮しすぎて、私はまだ何を書いていいのかよくわからないが、わからなくても、書きたくて書いてしまうのだ。
 タヴィアーニ兄弟は、私にとってはルノワールと同じで、人間をまるごと受け入れる監督に思えるが、その許容力(包容力)の大きさは、この映画でさらに広がったように思える。過去の作品をまた見直したいと思った。
                        (2013年02月17日、中州大洋3)





タヴィアーニ兄弟傑作選 DVD-BOX
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする