宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」(「現代詩手帖」2018年2月号)
宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」は、何を書こうとしているのか。サブタイトルに「「ほんとうのこと」を脱構築する思想的震源へ」とあるが、ますます見当がつかない。
ことばは、まあ、見当をつけずに読むものなのだろうけれど。つまり、何事も「予測」せずに読むべきものなのだろうけれど。
いきなりジャック・ラカンが出てくる。ラカンは『エクリ』が日本で読まれることを期待していなかったというところからはじまっている。日本語が中国の「漢字」を利用している。その利用の仕方は「漢音」を「訓読み」するところに特徴がある。「外部(中国語/漢音)」と「内部(日本語/訓読み)」が接続されている。これから、ラカンは「日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、嘘つきであるということなしには、真実を語るということは日常茶飯事の行ないなのです」と断定している。いいかえると、日本語は嘘つきの言語であり、そこで語られることに「真実」があるとしても、それは「嘘つきの真実」としてみなければならない。嘘つきの日本人(嘘つきの言語で成り立っている日本人)には読まれたくない、読んでも意味がわからないだろうとラカンは言いたいのだろうか。
宗近はどうとらえているのだろうか。先の「日本語を話す人にとっては」の文を引き継いで、こう書いている。
つまり、ラカンは、訓読みとは、無意識(象形文字・隠されたもの)とパロール(発語)との距離(差異)をゼロにするような処方だというのだ。
あ、ぜんぜんわからない。「パロール」ということばがつかわれていることは、宗近が同時に「ラング」を意識していると思う。このパロールとラングを「漢字(漢音)」「訓読み」で言いなおすとどうなるのか。
「漢音(漢字)」は中国人にとって「パロール」であると同時に「ラング」である。書かれた文章は「パロール」ということになるだろう。それを日本人はどう利用して、日本語の文体をつくったか。
私の読み方では、「訓読み(中国語を日本語の方法でラング化する)」というのは、パロールされた(話された)意味(あるいは漢字にあらわされた象徴)を「自己流に」とらえなおすということである。「漢字」がもっている「真実」を自分の都合のいいように理解する。あるいは自分の言いたいことをいうために「利用する」。それは「嘘つき」の方法である。だから、そんな嘘つきの日本人に私の本を読まれたくない。繰り返しになってしまったが、私はそう言っているように思う。
あ、私はラカンを読んでいないので(宗近の引用している部分だけを読んでの感想なので)、それ以上は言えないのだが。
で、何が言いたいかというと。
最初から、ラカンと宗近の関係がわからない。ラカンを宗近がどう読んだか。それが書いてあるのだが、書かれていることがどうも納得できない。
こういうことは本を読んでいればいつでも起こることなので、ここまではあまり気にしないのだが。
この私がつまずいた部分を宗近がどう説明しなおすか。
宗近は自分のことばで語らない。代わりに柄谷行人に語らせる。柄谷の主張が宗近の主張ということか。(1、2の番号は私が便宜上、わりふった。)
(1)日本人には抑圧がない。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人は常に真実を語っている。
(2)言語の習得による「象徴界」への参入が集団的(複数的)な経験だというラカンを前提に則するなら、〈日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界というか、鏡像段階にとどまっている〉
あ、ぜんぜん、わからない。
(1)ラカンは日本人を嘘つきといった。けれど柄谷は日本人は「真実」を語っているという。「嘘」と「真実」の定義がはっきりしない。ラカンはすでに「意味」として存在する中国語(漢字)を利用して、別の読み方をする(訓読みをする)というのは嘘つきの方法だと言ったと私は理解しているが、柄谷はどう解釈したのか。
(2)で言いなおされている。「象徴界」というのは「漢字、漢語」のことである。「漢字、漢語」は「象形文字」。そこに「意味」が「象徴されている」。それを日本人は集団で「訓読み」した。中国人のパロールを、日本人のラングに取り込んだ。あるいは、乗っ取った。(乗っ取りと理解すれば、たしかに「嘘つき」というか、詐欺の手法だねえ。ラカンの日本人嫌いがよくわかる。)
これを柄谷は「象徴界に入りつつ(象形文字である漢字の世界に入りつつ)、同時に、想像界、というか鏡像段階にとどまっている(訓読みの世界にとどまっている)」と言いなおしている。
人は大事なことは何度でもことばを言い換えながら繰り返すものと私は考えているので、柄谷の繰り返しを、そう読んだ。
で、こういう「象徴界=意味が強化、あるいは純化された世界」を、自分と地続きのことばでとらえなおす、漢語を訓読みするということが、なぜ「去勢」ということばとともに語られなければならないのか。もし「象徴=純化された意味」を日常の(集団的)なことば(ラング)にまでひきおろすことが「去勢」ならば、「去勢」されていない言語とは、「象徴界」を暴走することば(パロール)のことであろうか。
あ、わけがわからないが。
そのわけのわからなさを増幅させるのが、いま私が書いた「去勢」ということばだねえ。なぜ、ここに「去勢」ということばが唐突に出てくるか。このことばをラカンもつかっているかどうか。それがわからないので、柄谷のことばとラカンのことばをつなげる方法がわからない。さらに、「去勢」ということばを宗近がなぜ引き継ごうとしているのかがわからない。
強引に考えれば、ラングは「母(性)」であり、パロールは「父(性)」であり、「パロール優先」の考え方は、いわば「男根主義」。「去勢」とは対極にある世界。ラカンは、日本語のラングが、「去勢」が不十分であり、「母性」としても不十分である(「母語」になりきれていない)と言っていると柄谷は解釈した、ということになるが。
でも、これは私の勝手な解釈。宗近が部分引用している部分から考えたことであって、柄谷の真意も宗近がなぜこの部分を引用したのかもわからない。
最初から何が書いてあるかわからない上に、宗近のことばは、さらに拡散していく。ラングのことばを宗近自身がどう引き受けたのか。さらに柄谷のことばをどう引き受けたのか。それを明確にしないまま、次に吉本隆明を引用する。
そこでは「自然」ということばがテーマである。「象徴界」に対して「自然」があるのか。「象徴界」は「直喩」、あるいは「思考力」というようなことばで、言いなおされているようにも感じられるが、論旨がたどれない。もし「象徴界(直喩)=純粋思考」というものと「自然」とが対比されているのだとしたら、その対比のなかで「去勢」はどう位置づけられるのか。「男根主義」というか、「去勢されていない性」というのは、私の感覚では「自然」になるが、吉本のことばを宗近がどう読んでいるのか、その「読み替え」の細部が、私にはまったくわからない。
どのことばを、どう読み替えながら論理が展開しているか、わからない。
このあと、「直喩」ということばを起点に、「換喩」が取り上げられる。さらにそれが「揺動」へと展開される。
「換喩」とは何か。私には、よくわからない。『坊ちゃん』に「赤シャツ」が出てくる。その「赤シャツ」という呼び方が「換喩」であると私は感じている。早稲田の学生というかわりに「角帽」というのに等しい。それは「象徴界=意味(思考)の純粋化」とは無縁のことばの動きであり、「換喩」はひとが共有している認識をあらわす。「パロール」というよりも「ラング」に近いものだろう。共有されているものを手がかりに、その共有の内部へと意識を向かわせるということが「換喩」を提唱する運動の方向性ならば、それはそれでわからないことはないが、私は自分の体験として「換喩」というものをつかったことがない。人を指し示すとき、あるいはものを指し示すとき「赤シャツ」とか「角帽」とかのことばをつかったことがない。何か正面から向き合っている気がしない。他人をずらすというよりも自分をずらしている感じがする。この自分をずらすというのが、私は面倒くさくてできない。奥歯にものが挟まったような感じが、いやなのだ。
「換喩」を意識的な「ずらし」と読み替え、そこから「揺動」へと動いていく論理は、論理としては理解できないことばないが、信じる気持ちにはなれない。
なんだか、わけがわからない文章になってしまったが。
なぜ、宗近はこんな変な文章を書くのだろうか。いや、宗近は「変な文章」(訳のわからない文章)とは思っていないだろうなあ。
だから、言いなおそう。
なぜ、私は宗近の文章を「変な文章」と感じるのか。
宗近の文章を読んでも、宗近がラカンをどう受け止めたのか、柄谷をどう受け止めたのか、吉本をどう受け止めたのか、さっぱりわからないからである。
「去勢」ということばを中心に考えてみよう。「去勢」というのは男にとってとは深刻な問題である。それが「比喩」としてつかわれているとしても「肉体」に響いてくる。柄谷は「日本人はいわば、「去勢」が不十分である」と書いている。それを宗近はひとりの「日本人」としてどう理解したか。宗近自身の「去勢」が不十分であると感じたか、「去勢」なんていやだよと感じたか。そういうことが、わからない。
タイトルには「去勢」不全、ということばがつかわれている。「勃起不全」ではなく「去勢不全」。これは具体的には(肉体的)には、どういうことだろうか。勃起してはいけないときに勃起してしまうということだろうか。ことばの運動で、ことばが勃起してはいけないときとは、どういうときだろうか。勃起不全は、一般的に「否定的」な意味でつかわれる。それを歓迎する男は、まあ、いないと思う。では「去勢不全」はどうなのか。それは男にとって理想のことか。女にとって理想のことか。
私は去勢されたくないから、去勢が不十分である(去勢不全である)といわれてもがっかりしない。よかった、と思ってしまう。だから、余計に何が書いてあるかわからない。去勢されたら(去勢が十分なら)、いいことがあるんだ、言語活動はこんなふうに展開するんだということが示されているならいいけれど、それがしめされないまま「去勢不全」といわれてもねえ。
吉本がつかった「自然」ということばと、「去勢」を関係づけるとき、宗近の「肉体」はどう反応するのか。「去勢」の状態が「自然」なのか、「去勢不全」が「自然」なのか、「勃起」が「自然」なのか。
「肉体」にかかわることばをつかいながら、「肉体」をどこかにほうりだして、つまり宗近自身をどこかにほうりだして、ただ「頭」でことばを動かしている。
そう感じてしまう。
タイトルの「去勢不全」ということば。これを、たとえば女性が(女性の読者)がどう読むか。そんなことは、宗近は考えないだろうなあ。自分の知っていることを語ればそれでいいということなのだろう。宗近は沢山の本を読んでいるといことはよくわかったが、それ以外は何もわからない文章だった。
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
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