病気療養のため、当分のあいだ、当ブログを休ませていただきます。(代筆)
夏目美知子「心の底」「過去の領域」(「カラン」4、2009年07月25日発行)
夏目美知子「心の底」が不思議にこころに残った。
「実際に見たかのように私の眼の中に残る。」この、現在形の文体が強い。「残った」だったら、たぶん、それは夏目の意識の側にとどまって、私にまでとどかなかっただろうと思う。「残る」と現在形で語られた瞬間、それが、夏目の感覚というよりは、私自身の「肉体」の中に残ったような気持ちにさせられてしまったのである。
「残る」という現在形の動詞によって、「いま」という瞬間に、夏目と私の「肉体」が重なって、同じ「肉眼」、同じ「眼の中」を持ったような気持ちにさせられた。
夏目は、「可笑しなことをと自分で笑う一方で、やっぱりそうだったのかと思う気持ちがある。」と、いわば、「夏目」と「夏目をみつめる夏目」というふたりにわかれるのに、読者の私の方が「夏目」に(どちらの夏目だろう)に吸収されてしまう。
「奇妙なこと」は、「夏目のことばの中」で進行中である、といいたい気持ちになる。
「過去の領域」は、むかし見た光景を描写している。
ここでも、夏目の動詞は現在形である。
日本語の時制は、過去のことであっても現在形で書くことがある。現在形にして書くと、その瞬間が、過去ではなく、「いま」として目の前にあらわれてくる。なまなましくなる。
考えてみれば、1秒前も10年前も、あるいは 100年前も、思い出すという行為のなかでは区別がない。意識的に「1秒前」「10年前」というだけであって、「1秒」と「10年」を「へだたり」として「手触り」として、「手触りの距離」として(肉体で触れ得るものとして)、把握できない。
そのことを、夏目は、無意識の内に知っているのかもしれない。「肉体」として知っているのかもしれない。そういうあいまいさ(?)のようなものが、ぐい、と私を引き込む。私は、そういう領域にぐいと引き込まれてしまう。
夏目美知子「心の底」が不思議にこころに残った。
夜中、大勢の人が家の前を通っていく気配で
目が覚める。白装束で、黙々と歩いて行く。
町が眠っている間に、何処へ移動するのか。
俯き加減の人々の、街灯に照らし出された頬
が、まるで実際に見たかのように私の眼の中
に残る。
可笑しなことをと自分で笑う一方で、やっぱ
りそうだったのかと思う気持ちがある。
奇妙なことは心の底で進行中である。
「実際に見たかのように私の眼の中に残る。」この、現在形の文体が強い。「残った」だったら、たぶん、それは夏目の意識の側にとどまって、私にまでとどかなかっただろうと思う。「残る」と現在形で語られた瞬間、それが、夏目の感覚というよりは、私自身の「肉体」の中に残ったような気持ちにさせられてしまったのである。
「残る」という現在形の動詞によって、「いま」という瞬間に、夏目と私の「肉体」が重なって、同じ「肉眼」、同じ「眼の中」を持ったような気持ちにさせられた。
夏目は、「可笑しなことをと自分で笑う一方で、やっぱりそうだったのかと思う気持ちがある。」と、いわば、「夏目」と「夏目をみつめる夏目」というふたりにわかれるのに、読者の私の方が「夏目」に(どちらの夏目だろう)に吸収されてしまう。
「奇妙なこと」は、「夏目のことばの中」で進行中である、といいたい気持ちになる。
「過去の領域」は、むかし見た光景を描写している。
長屋らしき一角だ
開け放たれた玄関の外側に
赤い傘が一本、斜めに立て架けられている
人の気配はない
前庭に光があたっている
時が止まっている
すっぽり青空に抜かれるような
静寂がある
掴みどころもないが
疼くような懐かしさに
呆然としてしまうことがある
ここでも、夏目の動詞は現在形である。
日本語の時制は、過去のことであっても現在形で書くことがある。現在形にして書くと、その瞬間が、過去ではなく、「いま」として目の前にあらわれてくる。なまなましくなる。
考えてみれば、1秒前も10年前も、あるいは 100年前も、思い出すという行為のなかでは区別がない。意識的に「1秒前」「10年前」というだけであって、「1秒」と「10年」を「へだたり」として「手触り」として、「手触りの距離」として(肉体で触れ得るものとして)、把握できない。
そのことを、夏目は、無意識の内に知っているのかもしれない。「肉体」として知っているのかもしれない。そういうあいまいさ(?)のようなものが、ぐい、と私を引き込む。私は、そういう領域にぐいと引き込まれてしまう。
私のオリオントラ夏目 美知子詩遊社このアイテムの詳細を見る |
夏目典子「枝先の、その先に」(「六分儀」35、2009年07月08日発行)
夏目典子「枝先の、その先に」は春先の自然との呼応がていねいに語られている。
3行目は「空」ではなく、「天」でなければならないのだろう。「空」では、見えるものを見ているにすぎない。その見えるものを超えて、その向こうにあるもの--見えないものを木々は指しているのだ。いま、ここにはまだそんざいしないもの。未生のものを。もちろん、それは「未生のもの」、存在しないものだから、「呼ばれているような気がして」の「気」としか呼応しない。
存在しないものは、目ではなく、耳ではなく、「気」に直接働きかけてくる。いや、「未生」ゆえに、「肉体」よりも、もっと不定形な「気」に直接触れるのかもしれない。形があるものは形があるものに触れ、形がないものは形のないものに触れる。
そして、「気」のなかでだけ見えるものもある。「気」の視力が見てしまうものがある。
「天」を指す力が、「天」のなかではじける。枝から飛び出して、「天」の「気」に触れ、そして散ってくる。降り注いでくる。光となって。
「木々の上に私の上にまでも」と夏目は「木々」と「私」を区別して書いているが、ほんとうは区別がない。「木々」と「私」は一体である。だからこそ、樹液の流れる音が、そのまま「私の鼓動」になる。「一体感」のなかでの、呼応--それは、常に「肯定」である。「はい」である。「いのち」は否定のことばを媒介に弁証法的に進むのではなく、どこまでも「肯定」をつづけながら加速する。
感想を書くのが遅くなって、季節的にずれてしまったが、春に読むと、この詩はもっと輝くだろう。
夏目典子「枝先の、その先に」は春先の自然との呼応がていねいに語られている。
呼ばれているような気がして、広場で立ち止まる。
立ち並ぶ大きなプラタナスの一本の木を仰ぐと
人差し指を立てているように天を指し示す黒い枝々の先々
長い冬の時間は去ったと教えるのか
他の木々も枝先を見て欲しいと私を促す。
3行目は「空」ではなく、「天」でなければならないのだろう。「空」では、見えるものを見ているにすぎない。その見えるものを超えて、その向こうにあるもの--見えないものを木々は指しているのだ。いま、ここにはまだそんざいしないもの。未生のものを。もちろん、それは「未生のもの」、存在しないものだから、「呼ばれているような気がして」の「気」としか呼応しない。
存在しないものは、目ではなく、耳ではなく、「気」に直接働きかけてくる。いや、「未生」ゆえに、「肉体」よりも、もっと不定形な「気」に直接触れるのかもしれない。形があるものは形があるものに触れ、形がないものは形のないものに触れる。
そして、「気」のなかでだけ見えるものもある。「気」の視力が見てしまうものがある。
一本一本の枝先を追うと指さす彼方
空のさらなる蒼の中に弾かれて散っていくものが見える。
それが光に解けて溢れ、降り注がれる。
木々の上に私の上にまでも・・・
それぞれの木々、樹液がいつにもまして勢いよく音を立てて流れ始め
私の鼓動がその響きに応えている。
『呼ばれていますか』
『はい、呼ばれています』
『はるかな遠い声が聞こえますか』
『はい、聞こえます』
「天」を指す力が、「天」のなかではじける。枝から飛び出して、「天」の「気」に触れ、そして散ってくる。降り注いでくる。光となって。
「木々の上に私の上にまでも」と夏目は「木々」と「私」を区別して書いているが、ほんとうは区別がない。「木々」と「私」は一体である。だからこそ、樹液の流れる音が、そのまま「私の鼓動」になる。「一体感」のなかでの、呼応--それは、常に「肯定」である。「はい」である。「いのち」は否定のことばを媒介に弁証法的に進むのではなく、どこまでも「肯定」をつづけながら加速する。
感想を書くのが遅くなって、季節的にずれてしまったが、春に読むと、この詩はもっと輝くだろう。
異質なものの出会い、「俗」の乱入。それは、西脇の乱調の美学によるものだろう。乱調というのは、意識の脱臼だ。脱臼された世界--そこでは、ものがものとして存在する。ことばとものとが直接出会う。つまり、ことばが、ある意識によって統合された状態ではなく、意識が解体された状態で、独立して動く。
それは、あたらしいことばの運動の可能性でもある。巨大な哲学(?)を構築する動きをとらないので、その運動は、可能性という視点からはとらえにくいが、それは、私たちに(私だけかもしれないが)、そういう世界を構築する視点が欠けているからにすぎない。すべての構築は、解体をしないことにははじまらないのだから。
「アタランタのカリドン」の、ことばの不思議な出会い。
深沢のおかみさん
一生色ざめた桃色の腰巻きを
して狼のようにうそぶく
その頬骨のために
ピカソの作つた皿をあげる
雪女(ゆきおんな)の庭に春が来る
生きていた時紫のタビをはいた
女にあげる
あらびあ語に訳した伊勢物語を
「色ざめた桃色の腰巻き」がいちばん魅力的だが、「頬骨のために/ピカソの作つた皿をあげる」の「頬骨」と「ピカソの皿」の取り合わせが、なんともいえず、「頬骨」を明るくする。強烈にする。「あらびあ語」と「伊勢物語」も、とてもおもしろい。
こうした取り合わせを、私は「乱調」、あるいは「脱臼」と呼んでいるが、西脇自身は、別のことばをつかっている。その「西脇用語」の出てくる部分。
ピカソ人は
皿の中に少年を発見
少年の中に皿を発見
野ばらの中に人間
人間の中に野ばらを発見
野ばらの愛は
人間の中の野ばらの情感
野ばらとしての人間
人間としての野ばら
生命が野ばらと人間とに分裂した
がまだその記憶がにじんでいる
野ばらと人間の結婚
この生垣をのぞく
女の庭
「取り合わせ」を西脇は「結婚」という。(フランス語で、料理と取り合わせの妙を「マリアージュ」というのに似ている。)そして、「脱臼」(解体)は「分裂」ということになるのだが、そのことばよりも重要なのは「記憶がにじんでいる」である。
世界を解体する--そのとき、世界の存在が、ものが、もの自身が、孤立するのだが、その孤立の中に、人間が、そのものと一体だったころの「記憶がにじんでいる」。「記憶がにじんでいる」からこそ、解体した世界のなかで、そのものが、人間に直接触れてくる。他のものをおしのけて、たとえば「野ばら」が。野生のいのちが。
そして、この「記憶がにじんでいる」感じが「淋しい」である。
詩は、「もの」ににじんでいる「記憶」の発見--「もの」から人間のにじんでいる記憶を引き出すことである。
西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む沢 正宏双文社出版このアイテムの詳細を見る |
斉藤倫『さよなら、柩』(3)(思潮社、2009年07月30日発行)
きのうの「日記」には余分なことを書いてしまった。斉藤の詩の魅力を伝えるには、まあ、書かなくていいことだったかもしれない。頭がいい、とか「哲学している」なんてことは、きっと読む気をそぐだけだろうなあ、と反省している。--でも、まあ、私は、書き直すというようなめんどうなことはしないので、きょうは別なことを書こう。
斉藤のことばは読みやすい。リズムがある。リズムがあるということは、たぶん、余分なものを書かない、ということと関係しているのだと思う。(余分なことを書かないのは、頭がいいから--とまたまた、書いてしまうのだが……。)
「バビロン」という作品。
何が書いてあるか。何も書いてないと私は思う。何も書かなくても、ことばは動く。「じゃないか」ということばがリズムをつくっている。
そして、この「じゃないか」が、なんとも「くせもの」である。
「ない」という「否定」のことばを含んでいる。「否定」をふくむことで、ことばが突き進む。「否定」を含むということは、「肯定」される「ほんとう」がどこかにある。「いんちき」じゃないものが、どこかにある。少なくとも「いんちき」ではないもの、「ほんもの」を斉藤が知っていると感じさせる。
だから、その「ほんもの」がきっと書かれるはずだ、と思って、誘い込まれる。その誘い方と、軽いリズムがとてもうまくあっている。
斉藤の詩は、書かれている(印刷されている)のだが、こういうリズムと「口語」を読むと、きっと、斉藤は、ことばというものを、きちんと「声」にだして伝える習慣があるのだと感じる。話し相手の表情を見ながら、どこまで理解しているかを的確に判断しながら、つぎのことばを選び、それを声にするという習慣がしっかり身についているのだと感じる。
とても安心する。
「おしゃれじゃないか」が、ずるい。ずるい、というと否定的になってしまうけれど、あ、頭いいっ、と思ったとき、思わず「ずるい」と言ってしまうときの、あの「ずるい」。(ごめんね、また、頭がいい、と書いてしまった。)
1連目の「じゃないか」は全部否定。「いま」「ここ」にあるものが「いんちき」であって、「ほんもの」はどこかにあるという意識からはじまる「否定」。けれど「おしゃれじゃないか」は違う。これは「絶対肯定」。「とても、おしゃれ」という意味。
そうなんだねえ。「ない」には「否定」と「肯定」が入り乱れている。ことばなんて、すべて、そうなっている。否定的意味にも、肯定的意味にもつかうことができる。文字だとわからないけれど、「声」でなら、「大嫌い」と言っても「大好き」になる。「ばか」と言っても「愛してる」という意味にもなる。
むかし、「ラストワルツ」か「ラストソング」か忘れたけれど、若い女が中年の男の胸を叩きながら「アイ・ラブ・ユー」を連発する。死んでしまったと思っていたら、生きて歩いてくる。その男を見て、興奮して、そう口走る。そのときの字幕。だれが訳したのか知らないけれど「ばか、ばか、ばか」。ね、状況次第で、それが「好き、好き、大好き」になる。
2連目で「じゃないか」を、そんなふうにずらして、それから、ことばはとんでもない(?)動きをする。
詩全体としては、何か予想外のものを見てしまって(?)、そのときの興奮を書いているのだろうけれど、それが本当に買い物をする部長かどうかは知らない。そういうことは、まあ、私はどうでもいいなあ、と考える。
リズムと口調が楽しければそれでいい。
そして、
この2行。この「ない」は「否定」、それとも「肯定」?
びっくりしたときというのは、それを「否定」していいのか、「肯定」していいのか、一瞬わからなくなるね。そのわからない感じを、わからない感じのまま、きちんとことばにする。あ、すごいなあ。「おもった」は、そのまえにも出てくるのだけれど、「おもった」が、この否定、肯定の入り乱れた(?)感覚をいっそう複雑にする。「おもった」ことは間違い? でも、間違えて、くやしいの? うれしいの? 両方。矛盾ではなく、両方。
私はよく、矛盾のなかに思想がある、と書くのだけれど、斉藤は矛盾のかわりに「両方」一緒の状態なのかに思想があるといいそうだなあ。
最後に、念押し。
最終行がすごい。ここだけ「じゃないか」がつかわれていないじゃないか。(わざと、つかってみました。)
「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」と書いても「意味」はかわらない。かわらない、と思い込んでしまうが、ほんとうは違う。「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」だと、ことばがつづいていってしまう。最初に書いたように、「じゃないか」は否定を含んでいる。それも、どこかに「肯定」があるということを前提とした「否定」である。「じゃないか」で終わってしまうと、読者は(わたしだけ?)「肯定」を無意識に探してしまう。それでは、「語り」にならない。「語り」というのは、「はい、きょうは、これでおしまい」という安心感が必要なのだ。
最終行から「ない」という「否定」を取り除くことで、斉藤は、この詩をとても落ち着きのあるもの、安心感のあるものにしている。
斉藤が何をしている人(職業のことだけれど)か知らないけれど、きっと話を聞くと、そのまま、そのことばを全部信じてしまいそう。そういうリズムと、明解さと、しなやかさがある。
きのうの「日記」には余分なことを書いてしまった。斉藤の詩の魅力を伝えるには、まあ、書かなくていいことだったかもしれない。頭がいい、とか「哲学している」なんてことは、きっと読む気をそぐだけだろうなあ、と反省している。--でも、まあ、私は、書き直すというようなめんどうなことはしないので、きょうは別なことを書こう。
斉藤のことばは読みやすい。リズムがある。リズムがあるということは、たぶん、余分なものを書かない、ということと関係しているのだと思う。(余分なことを書かないのは、頭がいいから--とまたまた、書いてしまうのだが……。)
「バビロン」という作品。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
はりぼてじゃないか
あんちょこじゃないか
ぼくはまた
いまだかつてないクイズ番組が
スタートしたかと
わくわくしちゃったじゃないか
何が書いてあるか。何も書いてないと私は思う。何も書かなくても、ことばは動く。「じゃないか」ということばがリズムをつくっている。
そして、この「じゃないか」が、なんとも「くせもの」である。
「ない」という「否定」のことばを含んでいる。「否定」をふくむことで、ことばが突き進む。「否定」を含むということは、「肯定」される「ほんとう」がどこかにある。「いんちき」じゃないものが、どこかにある。少なくとも「いんちき」ではないもの、「ほんもの」を斉藤が知っていると感じさせる。
だから、その「ほんもの」がきっと書かれるはずだ、と思って、誘い込まれる。その誘い方と、軽いリズムがとてもうまくあっている。
斉藤の詩は、書かれている(印刷されている)のだが、こういうリズムと「口語」を読むと、きっと、斉藤は、ことばというものを、きちんと「声」にだして伝える習慣があるのだと感じる。話し相手の表情を見ながら、どこまで理解しているかを的確に判断しながら、つぎのことばを選び、それを声にするという習慣がしっかり身についているのだと感じる。
とても安心する。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
よく見たら
ファファのファーが
いたることろに貼ってあるじゃないか
おしゃれじゃないか
ぼくはまた
オープンカーで走ったら
女の子が降ってくる国かと
コウフンしちゃったじゃないか
「おしゃれじゃないか」が、ずるい。ずるい、というと否定的になってしまうけれど、あ、頭いいっ、と思ったとき、思わず「ずるい」と言ってしまうときの、あの「ずるい」。(ごめんね、また、頭がいい、と書いてしまった。)
1連目の「じゃないか」は全部否定。「いま」「ここ」にあるものが「いんちき」であって、「ほんもの」はどこかにあるという意識からはじまる「否定」。けれど「おしゃれじゃないか」は違う。これは「絶対肯定」。「とても、おしゃれ」という意味。
そうなんだねえ。「ない」には「否定」と「肯定」が入り乱れている。ことばなんて、すべて、そうなっている。否定的意味にも、肯定的意味にもつかうことができる。文字だとわからないけれど、「声」でなら、「大嫌い」と言っても「大好き」になる。「ばか」と言っても「愛してる」という意味にもなる。
むかし、「ラストワルツ」か「ラストソング」か忘れたけれど、若い女が中年の男の胸を叩きながら「アイ・ラブ・ユー」を連発する。死んでしまったと思っていたら、生きて歩いてくる。その男を見て、興奮して、そう口走る。そのときの字幕。だれが訳したのか知らないけれど「ばか、ばか、ばか」。ね、状況次第で、それが「好き、好き、大好き」になる。
2連目で「じゃないか」を、そんなふうにずらして、それから、ことばはとんでもない(?)動きをする。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
花嫁かとおもったら
部長じゃないか
どこまでが股上かわからないじゃないか
夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか
ヘイ ヘイ
ばらを咥えたまま
近所に買い物なんて本当にいんちき
でもここに
たどりつくまで
ずいぶん遠回りしちゃったなあ
詩全体としては、何か予想外のものを見てしまって(?)、そのときの興奮を書いているのだろうけれど、それが本当に買い物をする部長かどうかは知らない。そういうことは、まあ、私はどうでもいいなあ、と考える。
リズムと口調が楽しければそれでいい。
そして、
夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか
この2行。この「ない」は「否定」、それとも「肯定」?
びっくりしたときというのは、それを「否定」していいのか、「肯定」していいのか、一瞬わからなくなるね。そのわからない感じを、わからない感じのまま、きちんとことばにする。あ、すごいなあ。「おもった」は、そのまえにも出てくるのだけれど、「おもった」が、この否定、肯定の入り乱れた(?)感覚をいっそう複雑にする。「おもった」ことは間違い? でも、間違えて、くやしいの? うれしいの? 両方。矛盾ではなく、両方。
私はよく、矛盾のなかに思想がある、と書くのだけれど、斉藤は矛盾のかわりに「両方」一緒の状態なのかに思想があるといいそうだなあ。
最後に、念押し。
最終行がすごい。ここだけ「じゃないか」がつかわれていないじゃないか。(わざと、つかってみました。)
「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」と書いても「意味」はかわらない。かわらない、と思い込んでしまうが、ほんとうは違う。「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」だと、ことばがつづいていってしまう。最初に書いたように、「じゃないか」は否定を含んでいる。それも、どこかに「肯定」があるということを前提とした「否定」である。「じゃないか」で終わってしまうと、読者は(わたしだけ?)「肯定」を無意識に探してしまう。それでは、「語り」にならない。「語り」というのは、「はい、きょうは、これでおしまい」という安心感が必要なのだ。
最終行から「ない」という「否定」を取り除くことで、斉藤は、この詩をとても落ち着きのあるもの、安心感のあるものにしている。
斉藤が何をしている人(職業のことだけれど)か知らないけれど、きっと話を聞くと、そのまま、そのことばを全部信じてしまいそう。そういうリズムと、明解さと、しなやかさがある。
「山の酒」。誰の詩だったか思い出せないのだが、唐詩に、友が尋ねてきて一緒に酒を飲み、音楽を楽しむ。やがて、主人が「俺は酔ったから、寝る、きみは帰れ。あした、また、その気があるならやってくるがいい」というようなことをいう。その詩に雰囲気が似ている。
そのなかほど。次の部分が好きだ。
つかれた友人はみな眼をとじて
葉巻をのみながらねむつていた
認識論の哲学者は
その土人女の説によると
映画女優のなんとかという女に
よく似ているというので
礼拝してほろよいかげんに
石をつたつてかあちやんのところへ
帰つたのであつた
ふいに登場する「かあちやん」ということばと「認識論の哲学者」の取り合わせがおもしろい。「俗」が「認識論の哲学者」を脱臼させる。そのあいだに入ってくる「映画女優」というのも「俗」で、とてもいい。「聖」といっていいのかどうかわからないところもあるのだけれど、「哲学者」という硬い感じのことばと、その対極にある「映画女優」「かあちやん」の取り合わせによって、世界をつなぎとめている何かが一瞬解き放される。そして、すべての存在が、それぞれ、世界そのものとは無関係に、一個一個の存在として輝き始める。
この詩は、次のようにつづいていく。
ゴーラの夜もあけた
縁先の古木には
鳥も花も去つていた
アセビの花
霧
岩の下に貝のような山すみれ
が咲いていたが
だれも気がつかなかつた
山の政治と椎茸の話ばかりだ
ツルゲニェフの古本と
まんじゆうを買つて
また別の山へもどつたのだ
あすはまた青いマントルを買いに
ボロニヤへ行くんだ。
世界は解体し、そこに自然が自然のまま取り残される。その孤立した自然としての、たとえば「山すみれ」。それと向き合い、新たに世界全体を構築しなおす。そのとき、世界は、やはり「俗」を含みながら展開される。
ツルゲーネフとまんじゅう。ロシアと日本。その出会いは、意識をくすぐる。「異質」なのものが出会い、その出会いの場として「世界」というものがある--ということを感じさせてくれる。
西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章太田 昌孝風媒社このアイテムの詳細を見る |
監督 細田守 声の出演 神木隆之介、桜庭ななみ、富司純子
バーチャルシティというのか、仮想空間というのか知らないけれど、その暗号キーを解いてしまったために、バーチャルシティが混乱する。そして、そのバーチャルシティには警察や米軍まで参加していたため、バーチャルシティが現実にまで影響を及ぼしはじめる。(こういう紹介でいいのかな?)--というアニメ。
現実にバーチャルシティのパスワードが盗まれ、悪用される、というニュースを読んだ記憶はあるが、私は、この手のネットの事情はまったくうとい。私は目の調子がよくないので、何やら細かいキャラクターが飛び交うバーチャルシティの映像は、見ていてちょっとつらい。
そのうえ。
肝心の対決のシーンに使われる「ゲーム」が「花札」というのが、なんともまあ、おもしろくない。誰もが知っている簡単なゲームで巨大コンピューターと戦う(コンピューターを混乱に陥れる)というのは、この手の映画の最初の作品「ウォーゲーム」のまねごとだねえ。コンピューターの反乱自体は「2001年宇宙の旅」から描かれているけれど。まあ、ストーリーはというか、「戦い方」は「ウォーゲーム」や「2001年宇宙の旅」とは違うのだけれど、その「違った」部分に、「人情」というか、人と人のつながりが出てくるのが、なんともいやらしい。
この映画のとても重要なキャラクター、おばあちゃん(声・富司純子)の「哲学」が、ここに反映している。「重要なのは人と人とのつながり」という主張。
それはそれでいいけれどさあ、なんか、ばかにしていない?
そんなありふれた「哲学」を主張するために、バーチャルシティだの、アバター(だったっけ?)、パスワード窃盗だのを登場させ、あれこれやってみせるというのは。まるで、PTAの「説教映画」。
「花札」で負けそうになった主人公側に、世界の人々が、「私のアバターをつかってください」と提供し、それによって最後の大逆転というのは、うさんくさいなあ。いやだなあ。
ああ、「2001年」の「ハル」がメモリーを取り外される過程で、必死になって「デイジー……」と歌う、その音がだんだんくずれて低くなっていくシーンの悲しみ。(私が見たあらゆる映画のなかで3番目くらいに泣けるシーン。思い出すだけで、涙が出てしまう。)「ウォーゲーム」の「3マス五目並べ(?)」を必死になってやるコンピューターの突然の覚醒。そこには、なんといっても「機械」の正義のようなものがあった。機械から人間に対する信頼のようなものがあった。--これって、結局、人間の、機械に対する「信頼」の裏返しの表現だけれど。
「サマーウォーズ」には、そういう機械の悲しみ、機械のいのちが描かれていない。人間の「わがまま」だけ。「わがまま」なのに、それを正当化する「説教」。いやだね。
ストーリーは別にして、映像という点でも、バーチャルシティの色使いが、とても気持ちが悪い。色に深みがない。唯一おもしろいのは、富司純子おばあちゃんが、ダイヤル電話を使うところかな。うーん、まだ、つかっているんだ。嘘だとわかっていても、あの、じーこ、じーこ、じーこというリズムを再現したのは、この映画の手柄。そのリズムが映像全体を動かしてクライマックスにつながればいいんだけれど(そうすれば、傑作)、リズムは捨てて、「説教」だけ引き継いだのが、失敗。この監督は、映画を知らないね。
2001年宇宙の旅 [DVD]ワーナー・ホーム・ビデオこのアイテムの詳細を見る |
ウォー・ゲーム [DVD]20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
斉藤倫『さよなら、柩』(2)(思潮社、2009年07月30日発行)
斉藤倫はとても頭がいい。それも天性の頭のよさであって、一生懸命勉強して身につけたガチガチの論理ではなく、とてもしなやかな構造を感じさせる頭のよさである。
「ルドルフ・ヘスの部屋」。書き出し。
ヒトラーの側近のひとり。その思いを一人称で語る。こんなむずかしい題材を、斉藤はやすやすと(と私には感じられる)書きすすめる。斉藤がヘスをみつめるように、ヘスがヘスをみつめる--しかも、ヘスがヘス自身をみつめるというより、4行目の「じぶんのあいだ」ということばが明らかにするように、「あいだ」をみつめることで。
斉藤は「あいだ」を発見している。
肩入れもしない。批判もしない。
「じぶん」と「こと」があり、「じぶん」と「こと」をつないでいるのが「あいだ」である。
「じぶん」と「こと」を繋いでいるのは「思い」というものだが、その「思い」を「あいだ」と定義しなおす。「あいだ」というものは、どんなものでも大きかったり、小さかったりする。そして、「あいだ」がそういうふうに拡大・縮小が自在であるとするなら、その「あいだ」という物差しは、対象(こと)を大きくも小さくもみせる。
「考えている」。その「考え」のなかで、「こと」がかわってしまう。「事実」はひとつなのに、それを「じぶん」と結びつけ、「こと」ということばでとらえなおすと、それは大きくなったり、小さくなったりする。
「事実」はかわならないけれど、「こと」はそうではない。「こと」は「じぶん」ときりはなした客観的なものではなく、あくまで「じぶん」とつながっている。そして、その「つながり」が「こと」なのだ。
「わるいこと」といえば、「わるい・つながり」。そしてつながったことによって「じぶん」は「わるいもの」になる。「よいこと」といえば「よい・つながり」であり、「じぶん」は「よいもの」になる。「あいだ」は「つながり」であり、「あいだ」は「じぶん」と「こと」を同時に定義するものなのだ。
斉藤は、ここではヘスを描くというより、「じぶん」「こと」「あいだ」の哲学をやっているのだ。ナチスの犯罪を簡単に悪と定義するのではなく、人間とこととの関係を哲学する素材としてつかっている。
ナチスの犯罪については、もう結論が出ている。
だから、犯罪を裁くのではなく、犯罪のなかにある「哲学」、人間が生きるときの「こと」と「じぶん」の「あいだ」の関係を「考えている」。
ヘスを題材に選んだのは、ヘスについて書けば、犯罪そのものについて書く必要がないからかもしれない。
斉藤はあくまで「あいだ」を哲学したいのだ。
「あいだ」は感じで書けば「間」。それは「ま」とも読む。そして「ま」は「魔」とも書くことができる。あるいは「真」とも書くことができる。
「あいだ」のありかたしだいで、「魔」になる。それが「あいだ」の「真」の姿なのかもしれない。
--ということを斉藤はくどくどと書いているわけではないのだが、私は、そんなふうに考えてしまった。
斉藤の作品のなかにある「考えている」が「考え」を誘うのである。
斉藤は、ヘスの「じぶん」と「こと」との「あいだ」について考えながら、斉藤とヘスのあいだに何かがあるとしたら、その「あいだ」はどんなものだろうかと考えている。ヘスのしたことは犯罪であると言ってしまえば簡単だが、そうはせずに、人間と人間の「あいだ」について考えている。人間と「こと」との関係を考えている。
こんなふうに、ナチスの犯罪にしばられずに(?)、しなやかにことばを動かしていけるのが、斉藤の頭のよさなのだと思う。
そして、そのことばの動かし方には、「あいだ」「間」「魔」「真」と、斉藤のことばを借りながら書いてみたのだが、何か、日本語そのものと向き合う姿勢がある。「魔がさした」という表現がヘスのことば(ドイツ語)であるのかどうか知らない。あったとして、どういうのか私は知らない。斉藤は、それを日本語、しかも、誰もが知っている「口語」を土台にしている。そこに、「口語」をきちんと生きている頭のよさ、しなやかさを私は感じる。
斉藤倫はとても頭がいい。それも天性の頭のよさであって、一生懸命勉強して身につけたガチガチの論理ではなく、とてもしなやかな構造を感じさせる頭のよさである。
「ルドルフ・ヘスの部屋」。書き出し。
ルドルフ・ヘスはぼんやりしている
部屋には日がさしている
じぶんのやったことと
じぶんのあいだに
落ちこんでいる
たくさんの殺した
ひとこのことを考えている
ヒトラーの側近のひとり。その思いを一人称で語る。こんなむずかしい題材を、斉藤はやすやすと(と私には感じられる)書きすすめる。斉藤がヘスをみつめるように、ヘスがヘスをみつめる--しかも、ヘスがヘス自身をみつめるというより、4行目の「じぶんのあいだ」ということばが明らかにするように、「あいだ」をみつめることで。
斉藤は「あいだ」を発見している。
肩入れもしない。批判もしない。
「じぶん」と「こと」があり、「じぶん」と「こと」をつないでいるのが「あいだ」である。
「じぶん」と「こと」を繋いでいるのは「思い」というものだが、その「思い」を「あいだ」と定義しなおす。「あいだ」というものは、どんなものでも大きかったり、小さかったりする。そして、「あいだ」がそういうふうに拡大・縮小が自在であるとするなら、その「あいだ」という物差しは、対象(こと)を大きくも小さくもみせる。
じぶんのやったことは
巨きな妄想なのか
小さなディテールなのかを
考えている
「考えている」。その「考え」のなかで、「こと」がかわってしまう。「事実」はひとつなのに、それを「じぶん」と結びつけ、「こと」ということばでとらえなおすと、それは大きくなったり、小さくなったりする。
「事実」はかわならないけれど、「こと」はそうではない。「こと」は「じぶん」ときりはなした客観的なものではなく、あくまで「じぶん」とつながっている。そして、その「つながり」が「こと」なのだ。
「わるいこと」といえば、「わるい・つながり」。そしてつながったことによって「じぶん」は「わるいもの」になる。「よいこと」といえば「よい・つながり」であり、「じぶん」は「よいもの」になる。「あいだ」は「つながり」であり、「あいだ」は「じぶん」と「こと」を同時に定義するものなのだ。
斉藤は、ここではヘスを描くというより、「じぶん」「こと」「あいだ」の哲学をやっているのだ。ナチスの犯罪を簡単に悪と定義するのではなく、人間とこととの関係を哲学する素材としてつかっている。
ナチスの犯罪については、もう結論が出ている。
だから、犯罪を裁くのではなく、犯罪のなかにある「哲学」、人間が生きるときの「こと」と「じぶん」の「あいだ」の関係を「考えている」。
ヘスを題材に選んだのは、ヘスについて書けば、犯罪そのものについて書く必要がないからかもしれない。
斉藤はあくまで「あいだ」を哲学したいのだ。
ひどいことをした
悪いことをしたと思うのに
そのひどいこと
悪いことが
紙にかいた花みたいだ
魔がさしたというなら
いまのじぶんはまだ
魔がさしたままだろう
「あいだ」は感じで書けば「間」。それは「ま」とも読む。そして「ま」は「魔」とも書くことができる。あるいは「真」とも書くことができる。
「あいだ」のありかたしだいで、「魔」になる。それが「あいだ」の「真」の姿なのかもしれない。
--ということを斉藤はくどくどと書いているわけではないのだが、私は、そんなふうに考えてしまった。
斉藤の作品のなかにある「考えている」が「考え」を誘うのである。
斉藤は、ヘスの「じぶん」と「こと」との「あいだ」について考えながら、斉藤とヘスのあいだに何かがあるとしたら、その「あいだ」はどんなものだろうかと考えている。ヘスのしたことは犯罪であると言ってしまえば簡単だが、そうはせずに、人間と人間の「あいだ」について考えている。人間と「こと」との関係を考えている。
こんなふうに、ナチスの犯罪にしばられずに(?)、しなやかにことばを動かしていけるのが、斉藤の頭のよさなのだと思う。
そして、そのことばの動かし方には、「あいだ」「間」「魔」「真」と、斉藤のことばを借りながら書いてみたのだが、何か、日本語そのものと向き合う姿勢がある。「魔がさした」という表現がヘスのことば(ドイツ語)であるのかどうか知らない。あったとして、どういうのか私は知らない。斉藤は、それを日本語、しかも、誰もが知っている「口語」を土台にしている。そこに、「口語」をきちんと生きている頭のよさ、しなやかさを私は感じる。
オルペウス オルペウス (新しい詩人)斉藤 倫思潮社このアイテムの詳細を見る |
「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
西脇の詩には植物がたくさん出てくる。
ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない
生垣にはグミ、サンショウ、マサキが
渾沌として青黒い光りを出している
私がおもしろいと感じるのは、そうのち「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」というような否定の中に出てくる植物だ。そこにあるもののなかから美しいもの、珍しいものをことばにするのなら、そこには植物に対する美意識が働いていることになる。もちろん、そこにないものを「ない」というときも、もしそれがあれば、という美意識が働くだろうけれど、そのほかに「音」、音に対する感覚が働くとはいえないだろうか。
「ゆすら梅」「りんぼく」--その音だけではなく、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」と言ったときの「音」。それは、たぶん、次のように書き換えることができる。全部ひらがなにして、音がわかるように書くと……。
ゆすら・むめ・も・りんもく・の・み・も・みつからない
「ま行」の音の動きがとてもおもしろいのだ。「むめ(うめ)」「りんもく(ぼく)」。私には、西脇は、この行を、音の楽しみのために書いたとしか思えない。
その音は、「ジュピーテル」や英語で書かれている音とはずいぶん違う。くずれ方(?)というか、つながり方というか、そういうものがずいぶん違う。日本語の、不思議にまるっこい(?)音が、カタカナ(外国語)の音と拮抗して、何か、いままで聞いたことのない音楽を聴いたような気持ちになる。
たぶん、その「ま行」のくずれ方を浮き彫りにするために、次の行に「グミ、サンショウ、マサキ」というシャキッとした音が選ばれているだと思う。
そして。
これから書くことは、私の「誤読」の癖だと思っているのだが、その「ま行」が、復活してくるのを感じる行があるのだ。
この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している
「偉大なたかまるしりをつき出して」。この行の「ま」の音が、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」という行をぐいと引き寄せ、その間のことばを圧縮する。消してしまう。消してしまうというと言い過ぎかもしれないけれど、私には、なんだかどうでもいい行に見えるのである。
「たかまるしり」(高まる尻)とは、直接的には女神・プロセルピナの尻であり、プロセルピナは「ジューピテル」との関連で出てくると思うのだが、私は、それとはまた別のことを考えてしまう。連想してしまう。
接ぎ木をした木は、その接ぎ木の部分が、すこし膨れ上がっている。これを「たかまるしり」と呼んだのだとしたら、どうなるだろう。
私は、そう読みたいのだ。誤読したいのだ。
接ぎ木の膨れ上がった「肉体」。そこにある「いのち」。その「かたまり」の「たかまり」の「まるっこさ」。私の、口蓋で、「ま行」がゆらぐ。そして、「ゆすら梅……」の「ま行」のゆらぎの間で、すべてのことばが消えていく。
「ゆすら梅……」の行がなかったら、「偉大なたかまるしり」はきっと違うことばになっていたと思う。
それは、途中をちょお省略するが、次の行へとつづいてゆく。
散歩に出て蝶ががまずみの木や熊鉢
がたかとうだいの樹にとまつている
のをみつめている人間と生垣との間に
恐ろしい生命のやわらかみがある
「生命のやわらかみ」。それは人間と人間とは別のものの「間」にある。そういう「間」をうめるもの、つなぐものとして、人間は「ことば」を持っている。ことばは基本的には「意味」なのかもしれないが、「意味」を超える何かも持っている。「音楽」を持っている。
どう書いていけば、それをきちんと証明(?)できるのかわからないが、私が感じるのは、西脇は人間と人間ではないものの「間」を「音楽」で埋めようとしているということだ。「音楽」のなかに「生命のやわらかみ」がある。そんなふうに西脇は感じている--と思うのである。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |
斉藤倫『さよなら、柩』(思潮社、2009年07月30日発行)
斉藤倫『さよなら、柩』はとてもおもしろい。とてもおもしろいけれど、そのおもしろさを語ることばを私は持たない。きっと高岡淳四ならうまく語ることができるだろうなあ、と思う。リズムの正直さ、軽さ、明確さが通い合っている。
「伏線」という詩が私はとても好きだが、私の場合、どこが好きかを書きはじめると、きっと「意味」が目立ってしまう。斉藤が、せっかく「意味」を消しながら書いているにもかかわらず。軽快にリズムなのに、私のことばが、きっとそれを邪魔してしまう。
でも、まあ、私にはこんな書き方しかできないのだから、斉藤には申し訳ないが我慢してもらうことにする。
「伏線」の書き出し。
斉藤の詩の特徴のひとつに「明確さ」と書いたが、引用した部分でいうと、最後の2行「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」に、頭のよさがとてもよく出ている。「ひっぱってみたら/伏線だった」ということばも、とても頭がいい印象を与えるけれど、まあ、それは誰もが感じることかもしれない。「伏線」がしゃれているからね。あ、真似してみたいなあ、と思わせるからね。
それに比べると「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」は単純に思っているままを書いているから、別に、頭のよしあしとは関係ないと思うかもしれない。
でも、私は、ここがすごいと思う。斉藤はとても論理的な頭をしている、思う。いま、民主党のトップが理工系出身であるということが話題になっているが、その話題の理工系に通じる論理的な頭のよさ--それを感じる。その理工系の論理が斉藤のことばの運動を支えていると思う。
「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」のどこが論理的か。
「やだなあ」という感覚が感覚のままことばになるまえに、「やだなあ」の理由を言っているところが論理的である。感覚的な人間は、まず「やだなあ」と言ってしまって、それからその理由を考える。けれど、斉藤は逆。「なんで見えちゃったんだろう」と言ったあとで「やだなあ」と感想を漏らす。
あ、すごい。
きっと斉藤は、他人から「なんで?」と聞かれたことは少ないだろうと思う。他人が「なんで?」と聞く前に、きちんと「理由」を説明して、それから思っていること(感情)をことばにするのだと思う。
このことは、実は、書き出しそのものにもあらわれている。
口語で書かれているために、論理的には感じられないかもしれない。(変な理屈だが。)ただあったことを、文章というより、お喋りの感じで語っているだけに見えるかもしれない。けれど、とても論理的だ。
2行目の「思って」。ね、ちゃんと「思ったこと」を最初に書いている。
「ほつれている糸をひっぱってみたら伏線だった」ではなく、なんかほつれてるな「と思って」ひっぱる。もちろん、誰もが、そんなふうに思ってひっぱるのかもしれないが、そういう行動をとるとき、わざわざ「思って」なんて、意識しない。「思って」いるのだけれど、その「思い」はことばにならない。ところが、斉藤は「思い」をきちんと順序立ててことばにできるのだ。
すごく頭がいい。
そして、こういう頭のよさは、勉強して獲得できるものではなくて、きっと天性のものである。天性のものであるから、厭味がなくて、正直な感じがするのだ。(これが高岡淳四と似ている。)
最初にこういう論理的なことばの動きでリズムをつくられてしまうと、もう、あとは何を書いてあっても、それが真実になる。
「歪んだバイオリズム」って何? とほんとうは聞きたいけれど、あ、これは私が頭がわるいからわからないだけ。頭のいいひとにはすぐにわかること--と、私なんかは、自分に言い聞かせてしまう。言い聞かせながら、読んでしまう。「ダメダメ!」って言ってるんだから、「ダメダメ!」がわかればいい。
きっと、次は、もっとわかりやすいことを言ってくれるはず。
そうすると、その期待通りのことが起きる。
こんなことがほんとうにあるどうかなんて、「歪んだバイオリズム」より疑わしいけれど、信じちゃうでしょ? 体に傷をつけると、ほかの部分にまで影響する。親からもらった肉体に傷つけるなんて--という古くさい(?)ことばなんかも思い出しますねえ。「いとこの友だちの姉さん」という、実際にはみたこともない(きっと)ひとのこと、ことばだけで聞いているひとのこと、この微妙な距離感が、嘘をほんとうにかえてしまう不思議な論理。ここでも、論理をとても軽々と走らせている。これが、単純に「いとこ」だったら、完全に嘘になってしまうんだけれど。
嘘なんだけれど、ぐい、とひっぱる。そういうことばの論理。論理をいつでも的確につかいこなす頭のよさが、とても美しく輝いている。
だから、次のように脅されると(????)、だまって、うん、と言ってしまいそう。
きっと、知ってしまうとまずいことになるぞ。頭がわるいんだから、わるいまま、知らなかったことにしよう。私なんか、臆病だから、もう単純にうなずいてしまいますね。斉藤のいいなりです。
斉藤のいいところは、そんなふうに頭のわるい読者(私だけかな?)を脅しても、ちゃんと、それをフォローするところだね。
どうすべきかを、ちゃんと書いてくれている。
世界の表と裏をきちんと説明して、どうすればいいかを教えてくれる。
斉藤倫『さよなら、柩』はとてもおもしろい。とてもおもしろいけれど、そのおもしろさを語ることばを私は持たない。きっと高岡淳四ならうまく語ることができるだろうなあ、と思う。リズムの正直さ、軽さ、明確さが通い合っている。
「伏線」という詩が私はとても好きだが、私の場合、どこが好きかを書きはじめると、きっと「意味」が目立ってしまう。斉藤が、せっかく「意味」を消しながら書いているにもかかわらず。軽快にリズムなのに、私のことばが、きっとそれを邪魔してしまう。
でも、まあ、私にはこんな書き方しかできないのだから、斉藤には申し訳ないが我慢してもらうことにする。
「伏線」の書き出し。
なんかほつれてるな
と思って
ひっぱってみたら
伏線だった
ダメダメ!
なんて神の声がして
なんで見えちゃったんだろう
やだなあ
斉藤の詩の特徴のひとつに「明確さ」と書いたが、引用した部分でいうと、最後の2行「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」に、頭のよさがとてもよく出ている。「ひっぱってみたら/伏線だった」ということばも、とても頭がいい印象を与えるけれど、まあ、それは誰もが感じることかもしれない。「伏線」がしゃれているからね。あ、真似してみたいなあ、と思わせるからね。
それに比べると「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」は単純に思っているままを書いているから、別に、頭のよしあしとは関係ないと思うかもしれない。
でも、私は、ここがすごいと思う。斉藤はとても論理的な頭をしている、思う。いま、民主党のトップが理工系出身であるということが話題になっているが、その話題の理工系に通じる論理的な頭のよさ--それを感じる。その理工系の論理が斉藤のことばの運動を支えていると思う。
「なんで見えちゃったんだろう/やだなあ」のどこが論理的か。
「やだなあ」という感覚が感覚のままことばになるまえに、「やだなあ」の理由を言っているところが論理的である。感覚的な人間は、まず「やだなあ」と言ってしまって、それからその理由を考える。けれど、斉藤は逆。「なんで見えちゃったんだろう」と言ったあとで「やだなあ」と感想を漏らす。
あ、すごい。
きっと斉藤は、他人から「なんで?」と聞かれたことは少ないだろうと思う。他人が「なんで?」と聞く前に、きちんと「理由」を説明して、それから思っていること(感情)をことばにするのだと思う。
このことは、実は、書き出しそのものにもあらわれている。
なんかほつれてるな
と思って
口語で書かれているために、論理的には感じられないかもしれない。(変な理屈だが。)ただあったことを、文章というより、お喋りの感じで語っているだけに見えるかもしれない。けれど、とても論理的だ。
2行目の「思って」。ね、ちゃんと「思ったこと」を最初に書いている。
「ほつれている糸をひっぱってみたら伏線だった」ではなく、なんかほつれてるな「と思って」ひっぱる。もちろん、誰もが、そんなふうに思ってひっぱるのかもしれないが、そういう行動をとるとき、わざわざ「思って」なんて、意識しない。「思って」いるのだけれど、その「思い」はことばにならない。ところが、斉藤は「思い」をきちんと順序立ててことばにできるのだ。
すごく頭がいい。
そして、こういう頭のよさは、勉強して獲得できるものではなくて、きっと天性のものである。天性のものであるから、厭味がなくて、正直な感じがするのだ。(これが高岡淳四と似ている。)
最初にこういう論理的なことばの動きでリズムをつくられてしまうと、もう、あとは何を書いてあっても、それが真実になる。
ふつうは目に見えなくて
ときどきおおっぴらに
風にふかれて
気持ちよさそうに
歪んだバイオリズムを
自然に演出して
袖口からひっぱられて
ダメダメ!
「歪んだバイオリズム」って何? とほんとうは聞きたいけれど、あ、これは私が頭がわるいからわからないだけ。頭のいいひとにはすぐにわかること--と、私なんかは、自分に言い聞かせてしまう。言い聞かせながら、読んでしまう。「ダメダメ!」って言ってるんだから、「ダメダメ!」がわかればいい。
きっと、次は、もっとわかりやすいことを言ってくれるはず。
そうすると、その期待通りのことが起きる。
ピアスの穴から
神経が出て
なにげにひっぱったら
失明した
いとこの友だちの姉さん
みたいに
なりたいの?
こんなことがほんとうにあるどうかなんて、「歪んだバイオリズム」より疑わしいけれど、信じちゃうでしょ? 体に傷をつけると、ほかの部分にまで影響する。親からもらった肉体に傷つけるなんて--という古くさい(?)ことばなんかも思い出しますねえ。「いとこの友だちの姉さん」という、実際にはみたこともない(きっと)ひとのこと、ことばだけで聞いているひとのこと、この微妙な距離感が、嘘をほんとうにかえてしまう不思議な論理。ここでも、論理をとても軽々と走らせている。これが、単純に「いとこ」だったら、完全に嘘になってしまうんだけれど。
嘘なんだけれど、ぐい、とひっぱる。そういうことばの論理。論理をいつでも的確につかいこなす頭のよさが、とても美しく輝いている。
だから、次のように脅されると(????)、だまって、うん、と言ってしまいそう。
この世界以外に
他の世界があるなんて
知りたいの?
バレたいの?
きっと、知ってしまうとまずいことになるぞ。頭がわるいんだから、わるいまま、知らなかったことにしよう。私なんか、臆病だから、もう単純にうなずいてしまいますね。斉藤のいいなりです。
斉藤のいいところは、そんなふうに頭のわるい読者(私だけかな?)を脅しても、ちゃんと、それをフォローするところだね。
どうすべきかを、ちゃんと書いてくれている。
世界の表と裏をきちんと説明して、どうすればいいかを教えてくれる。
平和そうにニュースを読んでる
フレームの端に
兵士がバレてるし
書き割りのブッシュが
ホンモノなのもバレてるよ!
舞台下手に
いやな生き物が
見えてるのに
やっぱり知らん顔して
ことばだけにしがみついて
ちょっとハサミもってない?
なんて とりあえず
伏線を隠して
現実が
ほつれないようにして
さよなら、柩斉藤 倫思潮社このアイテムの詳細を見る |
「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
詩は「意味」ではない--そうわかっていても(頭で理解していても)、「意味」が出てくるとどうしても「意味」を追いかけてしまう。頭は「意味」に頼ってしまうものなのかもしれない。
連想を破ることだ
意識の解釈はしない
この2行には、どうしても、そこに西脇の「思想」が書かれていると思ってしまう。詩の「理想」が書かれていると思ってしまう。
きのう読んだ部分につづく行にも同じことがおきる。
連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ
さんざしの藪の中をのぞくのだ
青い実ととび色の棘(とげ)をみている
眼は孤立している
「眼は孤立している」に、どうしても「意味」を感じてしまう。「孤立した眼」に西脇は「理想」を託していると読んでしまう。
「象徴もやめるのだ」という行は、たとえばさんざしを見る。そのさんざしになんらかの意味を与える。象徴としてながめる、ということをやめることを言っていると思う。眼はただ単純にさんざしをみつめるだけで、そのさんざしを「いま」「ここ」にないものの象徴としてみない、象徴とすることで、そこになんらかの「意味」(意識)をつけくわえないということだろう。さんざしに、「意味」も「意識」も、あるいは「意味」や「意識」につながる何者をも結びつけない。そうすると、「眼」は人間の意識から離れ、つまり孤立して、さんざしという存在と向き合うことになる。
「孤立している」とは、「自然」(詩人のまわりにあるもの)から「孤立」しているという「意味」ではなく、詩人の「意識」そのものから切り離され、孤立しているということである。
こういう状態こそが、「意識を解釈しない」ということであり、「連想を破る」ということだ。「意識」から離れて「孤立」しているから意識を「解釈」しようがない。そして、「孤立」しているといことは、「意識」の「連続」を破っているということでもある。「意識の連続」とは、また、連想のことでもある。
西脇は、ここでは、西脇のいちばん大切な思いをことばにしている。「思想」を書いている--と私は思ってしまう。
そして、たしかに「思想」を書いているのかもしれないけれど、それを「思想」として読んでしまってはいけない。こういうことばを「思想」と連続させて解釈してしまう--そういう意識を破らないことには、西脇の書いている詩とはほんとうに向き合っていることにはならない。
ここでは、私たちは、西脇の「思想」に触れているのではなく、西脇から重大な課題を与えられているのである。
ことばを連想からひきはがしてしまうこと。肉眼を「意識」からひきはがしてしまうこと。そういうことを求められているのだ。それは、「意識」を、「いま」「ここ」という「社会」からひきはがすということでもある。
ひきはがして、どうするか。と、書くと、また「意味」になってしまうのだが、たぶん、こういう矛盾を犯しながらというか、西脇が禁じていることをやりながらしか、西脇には接近できないのだと思う。禁止を犯し、同時に犯していると自覚して、考える。いま、考えていることは、やがて否定されなければならないとわかっていて考える--そういう行為でしか、西脇には接近できないのだと思う。
ひきはがして、どうするか。「いま」「ここ」ではなく、「宇宙」と一気につながってしまうのだ。
レンズの神性
ジュピーテルの威厳
バスの終点から
一哩も深沢用賀(ふかざわようが)の生垣をめぐる
オ! ジュピーテル
あらゆる生垣をさまよつた
初めてthe wayfaring treeに wood-spurge
を発見した
「ジュピーテル」と叫んでみる。叫ぶことで、ジュピターと一体になる。ジュピターのように、「意識」から離れて、宇宙に孤立してしまう。
あ、またまた「意味」を書いてしまった。
ボードレールと私 (講談社文芸文庫)西脇 順三郎文芸文庫このアイテムの詳細を見る |
山口賀代子「少女期」(「左庭」14、2009年08月30日発行)
山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。
山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。
「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。
別の言い方をすべきなのかもしれない。
私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。
「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
「少年」は違うのである。
からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。
ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。
腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。
山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。
山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。
ときどき波のすくない水際で
こわごわ海に足指をいれたり
ひっこめたり
おそるおそるすることが恐ろしい
そんなわたしを海に誘ったのは誰だったのか
記憶にもないその人につれられ
下着のまま海にはいる
こわごわ 足をすすめる
綿のシュミーズが肌にまとわりつく
恥ずかしさよりも
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
ゆるゆるとからだにまとわりつく水の感触
「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。
別の言い方をすべきなのかもしれない。
私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
「少年」は違うのである。
からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。
ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。
おそるおそる顔を海水につけてみる
すこしからだを沈めてみる
沈めたまま腕をまえにだし
泳ぎの真似事をしてみる
魚になれるかもしれない
腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。
詩集 海市山口 賀代子砂子屋書房このアイテムの詳細を見る |
柴田実「平田診療所」(「火曜日」99、2009年08月01日発行)
柴田実「平田診療所」は、子どもの時代にお世話になった「平田診療所」のことを淡々と書いている。ただ、それだけのことなのだけれど、読んでいて、こころが落ち着いた。「現代詩」というジャンルには入らない。ことばでことばを破壊し、新しいことばをつくりだしていく、新しいことばにあわせて現実そのものをつくりかえていく--という作品ではないのだが、私は、こういう作品もとても好きだ。
「平田内科の枇杷の木が/今年も実をつけた」ではじまり「平田内科の枇杷の木は/今年も実をつけている」。枇杷の木そのものに対して思い出があるわけではない。思い入れがあるわけではない。季節がくれば枇杷の木に花が咲く。木はただ実直に自然の摂理を守っている。そして生きている。それだけのことである。
そして、柴田は、まるで枇杷の木が自然の摂理を守るように、枇杷の花が咲く季節になると平田先生を思い出すのだ。平田先生のおかげで生きていられるのだ、と。平田先生のことろで同級生が死んだ。だから、その病院へは行くまいと、思ったこともあったが、それは子供時代の思い違いであった。先生は同級生を救えなかったかもしれないが、それは先生が何もしなかったということではない。いつでも、いのちとていねいに向き合っている。それが先生の摂理。
自分の摂理をまもって生きる、枇杷、平田先生、そして、同じように柴田も摂理をまもっている。いのちを救ってくれた先生への感謝を枇杷の花のころには必ず思い出す。それはささいなことかもしれない。けれど、そのささいなことが、たぶん社会を支えている。
柴田実「平田診療所」は、子どもの時代にお世話になった「平田診療所」のことを淡々と書いている。ただ、それだけのことなのだけれど、読んでいて、こころが落ち着いた。「現代詩」というジャンルには入らない。ことばでことばを破壊し、新しいことばをつくりだしていく、新しいことばにあわせて現実そのものをつくりかえていく--という作品ではないのだが、私は、こういう作品もとても好きだ。
平田内科の枇杷の木が
今年も実をつけた
先生はもういない
先生には二人の娘があって
二人とも
遠くの医師へ嫁いで行った
娘が嫁いでしばらく経ってからだ
次女にダウン症の子供が産まれた
先生はことのほか
その孫を可愛がっていると聞いた
先生の診察室の窓辺には
いつも花があった
幼い僕には
聴診器は冷たかったが
先生の触診は暖かく
病気が治りそうに思えた
枇杷のなる頃
小学校の同級生が
腸チフスに罹り平田内科で死んだ
初めての身近な死だった
伝染病の診療所には行くまいと思った
その頃だ
生まれて間もない僕が
肺炎にかかり
当時貴重だったペニシリンを
平田先生が米軍から手に入れ
命を救ってくれたと教えられたのは
あれから数十年
平田内科の枇杷の木は
今年も実をつけている
「平田内科の枇杷の木が/今年も実をつけた」ではじまり「平田内科の枇杷の木は/今年も実をつけている」。枇杷の木そのものに対して思い出があるわけではない。思い入れがあるわけではない。季節がくれば枇杷の木に花が咲く。木はただ実直に自然の摂理を守っている。そして生きている。それだけのことである。
そして、柴田は、まるで枇杷の木が自然の摂理を守るように、枇杷の花が咲く季節になると平田先生を思い出すのだ。平田先生のおかげで生きていられるのだ、と。平田先生のことろで同級生が死んだ。だから、その病院へは行くまいと、思ったこともあったが、それは子供時代の思い違いであった。先生は同級生を救えなかったかもしれないが、それは先生が何もしなかったということではない。いつでも、いのちとていねいに向き合っている。それが先生の摂理。
自分の摂理をまもって生きる、枇杷、平田先生、そして、同じように柴田も摂理をまもっている。いのちを救ってくれた先生への感謝を枇杷の花のころには必ず思い出す。それはささいなことかもしれない。けれど、そのささいなことが、たぶん社会を支えている。
「夏(失われたりんぼくの実)」は最初に俳句のような不思議な1行がある。俳句なのかな? 「人間の記号が聞こえない門」。「人間」の「間」と「門」の向き合い方がとても気になるのだが、「聞こえない」ことのなかに、何かを見ているのかもしれない。
黄金の夢
が波うつ
髪の
罌粟(けし)の色
に染めた爪の
若い女がつんぼの童子(こども)の手をとつて
紅をつけた口を開いて
口と舌を使つていろいろ形象をつくる
アモー
アマリリス
アジューア
アーベイ
夏が来た
「アモー」からはじまる行の展開がとても好きだ。耳が聞こえないこどもに読唇術を教えているのだろうけれど、その聞こえない耳へむけて発せられる音の美しさ。口の形が、他の存在と結びつく。そのとき、こどもの「肉体」のなかで何が起きているのだろう。わからないけれど、そこにも音楽がある、と感じさせる音の動きだ。
こどもは、若い女の「口」という肉体の門をくぐって、世界につながる。聞こえないけれど、聞こえないまま、若い女の口の動きに自分自身の口の動きを重ねる。「肉体」の重なりが、「肉体」のなかで音になる。「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」。突然、やってくるいままでと違う音。その瞬間、その夏は「光」である。音のない世界の、「肉体」のなかの闇(?)から、「声」、まぼろしの「声」になって噴出してくる真っ白な光のように感じられる。
そして、「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」というリズムだけを引き継いで(と、私には感じられる。リズムだけ、というのは「意味」を引き継がずに、ということである)、新しい行が展開する。
オルフェ コクトオ ガラス屋の背中
オルフェの話を古代英語で読まされた
ブリタニアの日のかなしみに
暗い空をみあげるのだ
ガラスの神秘
カーリ(詩の女神)の性情
連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ
その新しい展開のなかで、ふいに、西脇のことばの運動を、西脇自身で解説したような2行が登場する。「連想を破ることだ/意識の解釈をしない」。そこに詩があると、西脇はいっているような気がする。
連想を破る。「アモー/アマリリス/アジューア/アベーイ」という音の動きのように。そこには音があるだけで、それらのことばを結びつけるものはない。音は、音そのものに分解される。なぜ、「アモー」のあとに「アマリリス」かなど、解釈してはならない。ただ音だけになる。
オルフェも、コクトオの書き直したオルフェも、きっと「意味」を解釈してはだめなのだ。ただ、そこにある「音」として、あじわう必要があるのだろう。
必要--などということばを書いてしまうと、そこには、もう「意味」が入ってくるから、こんなことは書いてはいけなかったのだ、とふと思う。
ボードレールと私 (講談社文芸文庫)西脇 順三郎文芸文庫このアイテムの詳細を見る |
岬多可子「領分」(「左庭」14、2009年08月30日発行)
岬多可子「領分」のことばは、ことばの「領域」が少し私の感覚と違う。違うのがいけない、というのではなく、その違いの中に、ふっと吸い込まれて、あれこれと考えてしまう。
1連目。
「てくらがり」というのは、手によってできる暗がりのことである。それはもちろん明るい時は問題にならない。光が(日が)陰り始めたとき、自分の手によって、手本が暗くなり、手を使った仕事が少し不便になる。少し不便だけれど、手は手で(肉体で)いろいろなことを覚えているから、それなりに動くことができる。私は、そんなふうに「てくらがり」の「意味」を考えている。
この手が手で知っていること、肉体が覚えていることを、岬は「生きていたものたち」と定義しなおしている。
ふーん。なるほど。
ことばにはなりきれないいのち、未生のいのちが生きている。それが「てくらがり」という「領域」なのだ。
そして、その「領域」では、岬の手が(肉体が)動くだけではない。手が動くとき、その手に触れるものがある。たとえば夕御飯を準備する。その時、魚が、野菜が手に触れる。その魚や野菜の「肉体」が、「てくらがり」という「領域」のなかで触れ合う。「てくらがり」は、岬の「肉体」と、魚や野菜の「肉体」が「いのち」を触れ合わせる「場」でもあるのだ。
「いのち」と「いのち」を触れ合わせるためには、明るい光ではなく、静かな暗さ、「てくらがり」が必要なのだ。他者の、魚や野菜のいのちを切ったり煮たり焼いたりする暴力を和解させるためには、光ではなく「てくらがり」が必要なのだ。
こういうことは、しかし、どういえばいいのかわからない。だから、岬は、ことばを動かす。ことばで、まだことばになっていない「領域」へ踏み込んでゆく。ことばにしようとする。
つまり、詩を書く。
ここにも不思議なことばがある。「みずたまり の そこしれず」。「そこしれず」は限りない、無限という意味だと私は理解しているが、「みずたまり」がたとえ比喩だとしても、そこに「無限」があると想像するのは苦しい。
けれど、そのことばの運動が苦しいだけに、その苦しい部分に引き込まれてしまう。
むりをしてでも言いたいことがあるのだ。
台所の、シンクの「みずたまり」。それは「つくらがり」の別の形なのだ。シンクの「みずたまり」は「てくらがり」なのだ。だから、「みずからの影をしたたらせ/できた薄墨のような」ということばがある。「みずからの」、つまり「自分の」影、その「薄墨の」(「てくらがり」では「薄闇」だった)なかで、いろいろなものを和解させる。「赤い小えびや青いたまご」と、岬自身の「視線や感情」も。
この「和解」を岬は、「沈ませて」という物理的な運動で書いたあと、すぐに「静まらせ」
と「精神」に通じることばで定義しなおす。
物理(もの)から精神へ。岬のことばは、そんなふうに動き、深さ、広さを獲得する。それはいつでも、「わたくし」を広げ、深める運動なのだ。
最終行は、「わたくし」が「わたくし」に「なる」――と、私は読んだ。
ことばにならないものを、いまあることばを微妙にずらした形で動かしながら、ことばにする。隠れて見えない存在を、運動を、ことばのなかにすくい取り、そのことばの運動としての精神を「わたくし」と定義し、新しい「わたくし」になる。
新しい――とはいっても、それは、ことばにならないまま、「てくらがり」のような「領域」にひそんでいた「わたくし」だ。だから、それは「わたくし探し」の運動といってもいい。
そうやって獲得した領域を、岬は「領分」と呼んでいる。「わたくしの領分」、誰のものでもない、自分の「分」と。
岬多可子「領分」のことばは、ことばの「領域」が少し私の感覚と違う。違うのがいけない、というのではなく、その違いの中に、ふっと吸い込まれて、あれこれと考えてしまう。
1連目。
てくらがり という
ちいさな薄闇のなか
生きていたものたち
刃も使い 火も使う
薄い闇で 口元を覆い
種の蜜を しつこく啜ったりもする
「てくらがり」というのは、手によってできる暗がりのことである。それはもちろん明るい時は問題にならない。光が(日が)陰り始めたとき、自分の手によって、手本が暗くなり、手を使った仕事が少し不便になる。少し不便だけれど、手は手で(肉体で)いろいろなことを覚えているから、それなりに動くことができる。私は、そんなふうに「てくらがり」の「意味」を考えている。
この手が手で知っていること、肉体が覚えていることを、岬は「生きていたものたち」と定義しなおしている。
ふーん。なるほど。
ことばにはなりきれないいのち、未生のいのちが生きている。それが「てくらがり」という「領域」なのだ。
そして、その「領域」では、岬の手が(肉体が)動くだけではない。手が動くとき、その手に触れるものがある。たとえば夕御飯を準備する。その時、魚が、野菜が手に触れる。その魚や野菜の「肉体」が、「てくらがり」という「領域」のなかで触れ合う。「てくらがり」は、岬の「肉体」と、魚や野菜の「肉体」が「いのち」を触れ合わせる「場」でもあるのだ。
「いのち」と「いのち」を触れ合わせるためには、明るい光ではなく、静かな暗さ、「てくらがり」が必要なのだ。他者の、魚や野菜のいのちを切ったり煮たり焼いたりする暴力を和解させるためには、光ではなく「てくらがり」が必要なのだ。
こういうことは、しかし、どういえばいいのかわからない。だから、岬は、ことばを動かす。ことばで、まだことばになっていない「領域」へ踏み込んでゆく。ことばにしようとする。
つまり、詩を書く。
そして 針と糸で編みあげる
羽は 飛ばさない一語の代わり
実は 落とさない一語の代わり
うなだれて
みずからの影をしたたらせ
できた薄墨のような
みずたまり の そこしれず
赤い小えびや青いたまご
視線や感情
沈ませて 静まらせて
ここにも不思議なことばがある。「みずたまり の そこしれず」。「そこしれず」は限りない、無限という意味だと私は理解しているが、「みずたまり」がたとえ比喩だとしても、そこに「無限」があると想像するのは苦しい。
けれど、そのことばの運動が苦しいだけに、その苦しい部分に引き込まれてしまう。
むりをしてでも言いたいことがあるのだ。
台所の、シンクの「みずたまり」。それは「つくらがり」の別の形なのだ。シンクの「みずたまり」は「てくらがり」なのだ。だから、「みずからの影をしたたらせ/できた薄墨のような」ということばがある。「みずからの」、つまり「自分の」影、その「薄墨の」(「てくらがり」では「薄闇」だった)なかで、いろいろなものを和解させる。「赤い小えびや青いたまご」と、岬自身の「視線や感情」も。
この「和解」を岬は、「沈ませて」という物理的な運動で書いたあと、すぐに「静まらせ」
と「精神」に通じることばで定義しなおす。
物理(もの)から精神へ。岬のことばは、そんなふうに動き、深さ、広さを獲得する。それはいつでも、「わたくし」を広げ、深める運動なのだ。
だれもまだ 起きてこない 朝方
だれもまだ 帰ってこない 夕方
周囲の明暗は いそぎうつりかわり
てくらがり という
いつも熱っぽく湿った薄闇のなか
わたくしが おこなっているのは わたくし
最終行は、「わたくし」が「わたくし」に「なる」――と、私は読んだ。
ことばにならないものを、いまあることばを微妙にずらした形で動かしながら、ことばにする。隠れて見えない存在を、運動を、ことばのなかにすくい取り、そのことばの運動としての精神を「わたくし」と定義し、新しい「わたくし」になる。
新しい――とはいっても、それは、ことばにならないまま、「てくらがり」のような「領域」にひそんでいた「わたくし」だ。だから、それは「わたくし探し」の運動といってもいい。
そうやって獲得した領域を、岬は「領分」と呼んでいる。「わたくしの領分」、誰のものでもない、自分の「分」と。
桜病院周辺岬 多可子書肆山田このアイテムの詳細を見る |