詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(1)

2015-04-30 12:41:03 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(1)(思潮社、2015年04月30日発行)


 谷川俊太郎『詩に就いて』は、そのタイトルのあとにどんなことばが省略されているのだろう。詩について「考える」、詩について「詩を書く」、詩について「書いた詩」。詩について「ことばを動かした」ということになるのか。
 あとがきに、「詩を対象にして詩を書く」ということばが出てくる。

 詩を書き始めた十代の終わりから、私は詩という言語活動を十全に信じていなかった。そのせいで詩を対象にして詩を書くということも少なくなかった。本来は散文で論じることを詩で書くのは、詩が散文では論じきれない部分をもつことに、うすうす気づいていたからだろう。

 「詩が散文では論じきれない部分をもつ」。だから、詩で詩を語る(詩について書く)。「書く」を「論じる」ということばで言いなおしている。
 このことばを手がかりにするなら、この詩集は詩について「論じた」詩集ということになる。ただし、少し保留が必要だ。「散文では論じきれない」。谷川は、そう書いている。詩でなら「論じきれる」のか。さらに「論じる」は詩になじむことなのか。
 「論ずる」という「動詞」を定義してみないといけない。「本来は散文で論じること」という「本来」についても考えてみないといけない。散文の性質(本質、本来もっている性質)を「論じる」という動詞で定義していいのかも考えてみないといけない。
 「論ずる」というのは、何かを説明することである。説明とは言いなおすことである。言いなおしたとき、そこに「整合性」(合理性)があれば、それは「論理」として受け止められる。「論ずる」とは「理をつくること」かもしれない。(「論=ことば」によってつくられたものが「論理」ということになるだろう。)
 けれど「論理をつくること」が、あることがらの「言い直し」によっておこなわれるのだとしたら、「言い直し」をすることで「理」を偽装することもできるかもしれない。繰り返し(言い直し)によって、そこに「論理」があるかのように装うことができる。
 「論ずる」「論理をつくる」というのは、何か「嘘をつく」ということと似ている。
 ひとはどうしても自分にとって都合のいいものを「論理」と考え、それにあわせてまわりに起きていることを整理・排除してしまう。
 そう考えるなら、「詩が散文では論じきれない部分をもつ」というのは、散文が論理の都合で整理・排除したものが詩ということになる。論理からはみだしたもの/ことを書いたものが詩ということになる。
 谷川の「立場」というか、この詩集の「立ち位置」は、そのあたりにあるのだろう。

 しかしそれでは、そうやって書かれた詩に対して、もう一度、散文の方から近づいていく(論じていく/感想を書く)ということは、どういうことになるのか。これから私がしようとしていることは何になるのか。せっかく「散文では論じきれない(書くことができない)」ものを谷川が書いたのに、それを散文で言いなおせば詩を否定してしまうことにならないか。
 たぶん、こんなふうに「論理」の「理」を追い求める「ふり」がいちばんの問題なのだろう。谷川の書いた詩に接する前に、私はもう「理」を強引につくりあげて、ことばの動きを制限しようとしている。
 「理」にならないように、散文を動かしていかないと、詩とは向き合えないのだろう。--と書くと、これもひとつの「論理」になってしまう。
 こういうことはやめて、詩を読むことにしよう。

 しかし、その前に「詩とは何か」ということについて、私の考えていることを少し書いておくことにする。谷川の「あとがき」をもう一度引用する。

 日本語の詩という語には、言葉になった詩作品(ポエム)と、言葉になっていない詩情(ポエジー)という二つの意味があって、それを混同して使われる場合が多い。それが便利なこともあるが、混乱を生むこともある。

 「言葉になった詩(作品)」と「言葉になっていない詩(情)」がある。この定義を利用していえば、「言葉になっていない」何かを「言葉にする(言葉にならせる)」と、それが詩ということになるのではないだろうか。
 実際、あ、詩だなあと感じるのは、いままで誰もことばにしてこなかったこと、あるいは自分がことばにできなかったことがことばになっているのを感じたときだ。ことば以前(未生のことば)がことばになる。ことばとして誕生する。それが詩ということになる。そういうことばに出会ったとき、驚く。その驚きが詩。驚きは発見でもある。刺戟でもある。そして、そういうものはかっこいいし、美しい。
 私は詩を、美しいことば、驚きをもたらすことば、刺激的なことば、かっこいいことば、こころを揺さぶることばくらいに感じている。もっといろいろ言えるかもしれないが、それは実際に詩に出会ってみないとわからない。漠然と感じるのはそういうことだ。
 こういうところから、詩集を読みはじめることにする。(と、書いたが、ここにはひとつ「嘘」がある。私は、すでに一回この詩集を読みとおしている。「あとがき」というものを私は基本的に読まない。作者の考えとは無関係にことばを読みたいからである。でも今回は「あとがき」まで読んでしまった。そして、まずそのことについて書いた。だから「読みはじめる」は方便である。嘘である。)

 詩を読みはじめる。詩集を手に取る。その、最初の瞬間を思い出しながら書く。私はまず『詩に就いて』の「就いて」につまずいた。私は「ついて」と書く。「就いて」とは書かない。なぜ、谷川は「就いて」と書いたのか。漢字にすることで何を言おうとしたのか。
 「就く」は「成就」ということばがあるくらいだから「なる」でもあるんだろうなあ。詩はどのようにして詩になるのか、そういうことについて書くことが「詩について」論じることになる。そういいたいのかもしれない。
 「つく」ということばを広辞苑で調べると「付く・着く・就く・即く」と漢字の表記がでてきた。そこに「即く」(すなわち=即ち)が含まれていることがおもしろいと感じた。その「即」にむすびつけていうと「詩即○(詩すなわち○)」ということを書いたのがこの詩集になる。
 詩即○は、あることばが別のことばに「なる」という変化の中にある。変化しているのだけれど、それは即。そのまま同じ。
 「論理」というものが繰り返しによってできる「道」のようなものだとするなら、詩は「道」ではなく、ある「場」そのもの。「なる」という変化は「道」を歩くように「距離」を動くのではなく、別なのもが固く結びつく「場」そのものなのかもしれない。
 詩集のタイトルの中に、谷川はすでに詩をはじめている。詩について、語りはじめているということかもしれない。





隙間

チェーホフの短編集が
テラスの白木の卓上に載っている
そこになにやらうっすらと漂っているもの
どうやら詩の靄らしい
妙な話だ
チェーホフは散文を書いているのに

山の麓の木立へ子どもたちが駈けて行く
私たちはこうして生きているのだ
心配事を抱えながら
束の間幸せになりながら

大きな物語の中に小さな物語が
入れ子になっているこの世
その隙間に詩は忍びこむ
日常の些事に紛れて

 「詩」と「散文」ということばがさっそく出てくる。詩について考えるとき、どうしてもどこかで散文を意識するということだろう。
 そのこととは別にして、私はこの作品を読んだとき、「チェーホフ」と「テラスの白木の卓」ということばが「詩」として目に飛びこんできた。私が感じたのは「定型」としての「詩」なのだが。
 もし「チェーホフ」でなくて「ドストエフスキー」だったら、「短編」でなく「長編」だったら、この作品の印象はまったくちがってくる。「テラスの白木の卓」ではなく「物置の閉まったままの長持ちの蓋」だったら、印象はちがったものになる。「チェーホフ」にも「短編集」にも「テラス」にも「白木」にも「卓」にも、なにかしら「詩情」がある。「詩情」と私たちが呼んでいるものの「定型」のようなものがある。
 谷川の詩は、こういう「定型」を利用して始まることが多いように思う。ひとがなじんでいるものを集め、繰り返す。「チェーホフの短編集」と「テラスの白木の卓」はそっくりそのままの繰り返しではないが、「チェーホフの短編集」ということばを聞いたときに感じる「印象」につながるものを「テラスの白木の卓」ということばで繰り返すことで、最初の印象が深くなる。これは一種の「感覚(印象)の論理」である。感覚(印象)も繰り返され、言いなおされることで、だんだん形が固まってくる。論が繰り返し言いなおすことで「論理」になるのに似ている。どんなことばも繰り返し、言いなおすことで徐々に明確になるという性質があるようだ。
 この「印象(感覚)」の変化を谷川は、さらに「なにやらうっすらと漂っているもの」と言い換える。「明確に、確固として(不動のものとして)存在する」のではなく、「うっすら」「漂う」というあいまいなもの、感じ取ることができる不確かなものと言い直し、それをさらに「詩の靄」と言いなおしている。そうか、詩とは、「チェーホフの短編集」と「テラスの白木の卓」とを「ひとつ」に組み合わせるときに生まれてくる「印象」のようなものなのだな、と感じる。
 そう感じさせておいて、谷川は、この印象をそのまま固定化しない。むしろ叩き壊す。これが谷川の詩のひとつの特徴だ。
 「妙な話だ」の「妙」は意外、驚き、不思議ということ。そういう驚き(新しい発見)のなかに詩がある。
 谷川は、この驚きをていねいに語りなおしている。「チェーホフは散文を書いているのに」、そこに「詩の靄」を感じるというのは「妙」だ、と。このとき「散文」と「詩」という別なものが出会っている。
 かけ離れたものの偶然の出会いが詩であるというのは「現代詩」の「定義」だが、その「定型」にしたがって、詩を書きはじめている。このかけ離れたものの出会いは二連目の「心配事」と「幸せ」の組み合わせにもあるし、三連目の「大きな」と「小さな」という組み合わせにもある。
 ただし、この「詩」「現代詩」の「定義」は私が私の考えを書いたことであって、谷川自身は詩については「定義」してない。「散文」については「チェーホフ(の短編集)」で例にあげることで定義しているが詩については具体的には書いていない。
 書いていないからこそ、それを二連目、三連目で言いなおす。「詩の靄」を別な表現で言いなおすとどうなるか。
 山へ駈けていくこどもを見る。こどもを見ながら、心配事を忘れて、束の間幸せを感じる。そんな生き方のなかに「うっすら漂っている」ものが詩。
 ひとりだけの人生ではなく、多くのひとの人生が組み合わさって世界ができている。ひとの人生のなかに自分の人生が見えることもある。山へ駈けていくこどもの幸せのなかに自分がこどもだったときの喜びがそのまま動いている。そう感じるとき、その感じのなかに「うっすらと漂っている」ものが詩。
 この「詩」と「うっすら漂う」は三連目では「詩は忍びこむ」という形で言いなおされる。「漂う」ではなく「忍びこ込む」。さらに「忍びこむ」は「紛れる」という動詞で言いなおされる。
 心配事に幸せが「忍びこむ」は少し変。でも心配事に幸せが「紛れ(こむ)」はあるかもしれない。たとえばこどものことを心配することができる幸せ。幸せに心配事が「忍びこむ」「紛れ(こむ)」、「大きな」のなかに「小さな」が「忍びこむ」「紛れ(こむ)」もある。
 そうやって言いなおされてみると、詩は「うっすらと漂う」をやめて、しっかりと定着している。
 どこに?
 「隙間」に。
 何の隙間に?
 「日常の些事」の、その「些事」と「些事」の隙間に。たとえば心配事をしながら、こどもが山へ駈けていくのを見るという二つの「こと」のあいだに。「紛れる」というのは「抱えながら」「なりながら」の「ながら」のなかに動いている動詞だ。
 ここから一連目に引き返してみる。そのとき詩は、詩と散文の隙間に、やっぱり「紛れ」こんでいるのだろうか。
 「情」を補って、詩情は詩と散文の「隙間」に「紛れ」こんでいるのだろうか。「忍び」こんでいるだろうか。
 そうなのだろうなあ。その「紛れ」こんでいる何か(もの/こと)を、「忍び」こんで隠れているものを、ことばにして定着させるとき、そこに新しい詩が生まれるのだろう。
 三連目の、そしてタイトルになっている「隙間」ということばは、私には散文的に感じられる。少なくとも「チェーホフ」や「テラスの白木の卓」のように詩情をひきおこすことばではないが、そういうことばにいのちを吹き込み、新しい詩にしている。
 一読したときとは、こうやって感想を書いたあとでは「隙間」ということばが違って見えてくる。こういう体験を詩の体験と呼んでいいのだろう。

 「隙間」について考えるとき、この詩の構成も気にかかる。三連で構成されている。連のあいだの行空き。その「隙間」。三連目の「入れ子」という表現から、二連目の「山の麓の木立へ子どもたちが駈けて行く」(さらには二連目全体)をチェーホフの短編集からの「引用」は見ることもできるのではないだろうか。
 チェーホフのことばがそのまま「日常」へ「忍び」こみ、「紛れ」こむ。それを許す「日常」の「隙間」がある。その「隙間」こそ、詩かもしれない。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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嵯峨信之を読む(55)

2015-04-30 09:30:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(55)

98 休暇

ゆるやかな川のながれはいつもとおなじゆるやかなながれだ
それからぼくはふたたび玩具の小さな船を作りはじめた

 この詩の三行目と四行目。「いつもとおなじ」川の流れが書かれたあと「ふたたび」ということばが出てくる。これに先立つ「最初」はなくて、いきなり「ふたたび」なのだが、この「ふたたび」が非常になつかしいものに感じられる。「ぼく」は川の流れのように「いつもとおなじ」感じで船を作りはじめたのだろう。「作る」ということが何度も繰り返されているのだろうか。あるいは「ふたたび」によって、その「作る」時間がこれからも繰り返され、それが「いつもとおなじ」になる感じが含まれてるのかもしれない。
 そういう「時間」のなかで、

遠くで泳いでいたひとりの少年が
ぼくの前を悠々と川しもの方へ泳いでいつた

 その少年は、「幼いぼく」の姿のように見える。幻の「ぼく」であり、実際に少年が流れにのって川下へ泳いでいったということではないかもしれない。
 船を最初に作ったのは少年のとき。それを思い出しながら船を「ふたたび」作りはじめる。そうすると「ぼく」は「少年」に戻って、川を泳いでいく。船といっしょかもしれない。昔の風景が繰り返され、それは「いつもとおなじ」に感じられる。
 そんな感じがつたわってくる。

水の動きと時間の動きのみごとな一致が
この川ぎしをおだやかに充たしている
変ることがこの川にはふしぎなことなのだろう

 「水の動きと時間の動きのみごとな一致」というのは、表面的(?)には、遠くで泳いでいた少年が水の流れに乗って川下へ泳いでいく、そのスピードの一致のように見えるが、そうではないのかもしれない。川の水が流れるように時間は流れる。でも、遠く川上の方を見れば、そこには「少年」だった「ぼく」がいる。その少年は、ぼくが「船」を作はりじめると、少年のときのまま目の前にあらわれて、それから川下の方へ泳いでいく。あるとき、船を作り終えた少年が川下へ泳いでいったように。いや、泳いでいったのは「少年」ではなく、「少年の作った船」だったかもしれない。船を作った「時間」を乗せて(船を作ったという思い出を乗せて)、船は流れていった。それを「少年が泳いでいった」という具合に、「いまのぼく」が見ている。
 川岸にきて、船を作るたびに、「ぼく(嵯峨)」は、そのことを思い出している。変わらない。「いつもとおなじ」。何度来ても、つまり「ふたたび」その川岸にきても、それは変わらない。「変わらない」ことが「当然」(真実)であり、「変る」ということがおきれば、それは「ふしぎ」。
 そういう「思い出の場所」というのは誰にでもあるかもしれない。そういう思い出の場所で「こころ」の休暇を楽しんでいる。「こころ」を休暇させている。
 それにしても、

変ることがこの川にはふしぎなことなのだろう

 この一行は強い。捩れが、強さを感じさせる。捩れは「擬人法」から生まれてきている。川は人間ではないから、何かを「ふしぎ」とは感じたり、考えたりしないだろう。そういう意味で、川は擬人化されているのだが、その擬人化のなかには嵯峨の思いがこめられている。言い換えると、川を擬人化するとき川が人間のようになるのではなく、逆に人間が川になって「ふしぎ」を感じている。川になって、川の時間を生きている。この交錯のなかで、人間と川が「一体」になり、その「一体感」のなかに「永遠(いつもとおなじ)」があらわれてくる。

99 石階(きざはし)の上で

 この「石階(きざはし)の上で」は、「休暇」とはまったく逆のことを書いているように思える。「休暇」の「川ぎし」がなつかしい場所だったのに対し、ここに描かれているのは「新しい場所」(未知の場所)である。

ぼくの血液の収穫にたちあうために
見知らぬ時がそこに立つている

 「見知らぬ時」の「見知らぬ」が「新しい」を意味する。「新しい時」が「新しい場所」になる。おなじ場所であっても「時間」が新しくなれば、そこは「新しい場」になる。「いつもとおなじ」ではなく、「いつもとは違った場」になる。その「違い」を生み出すのが「ぼくの血液の収穫」である。「収穫」よって「ぼく」が変る。そうすると、その「場」が「いつもと違った場」になる。
 そのことを嵯峨は次のように言いなおしている。

大きな門のところに
いつも新しい客が立つているように
いま静かな石階(きざはし)の上にぼくは立つている

 その「石階」は、別な言い方をすれば「大きな門」である。どこかへの「入口」である。「石階」もどこか「新しい場」への「入口」である。

新たな国にむかつて
ぼくは注意ぶかく一歩一歩頂上へのぼつていく

 これは、いまの言い直しをさらに言いなおしたもの。言いなおすことで「石階」がだんだん「比喩」から「現実」に変わっていく。思っている何かに向かって繰り返し繰り返し近づいていくと、それがだんだん「現実」になってくるような感じである。
 そして、そのあとに、詩があらわれる。

そしてもう下界になにも見えないところまでのぼつてくると
空は輝かしい大理石のアーチを大きな翼のように張つている

 空に大理石のアーチ、鳥の翼のように広げられたアーチ。そんなものが現実に「宙」に浮かんでいるはずがない。浮かんでいるはずがないのだが「実感」する。その「感じ」の強さが詩である。
 論理的にはありえない。けれど、「感じ」(感覚)としては、そういうものが存在するように感じられる。
 で、その「感じ」なのだが……。
 「輝かしい大理石のアーチ」と「大きな翼」という二つのことばが「矛盾」しているから、それが「存在」して見える。「輝かしい大理石のアーチがそびえている」だとしたら、「そんなものは宙に存在しない(存在しえない)」と否定できる。けれど「大きな翼」というのは「宙(大空)」にふさわしい。「大きな翼のように」という「比喩」が「大理石のアーチ」という「比喩」を「ほんもの」に変えてしまう。ほんものに変えるだけではなく「輝かしい」ということばで「ほんもの」を強調する。
 ことばが暴走(?)して、嘘をほんとうにしてしまう。

 詩には、こんな力もある。

 ここには、一種の「感覚の論理」のようなものがある。「頭の論理」も「感覚の論理」もあることを繰り返す(言いなおす)ことによって、繰り返すことができるからそれは「ほんもの」であると主張する。繰り返しの積み重ね、少しずつ「進む」という錯覚を利用して、前進できるから「ほんもの」であると偽装する。それがだんだん暴走する。
 詩は(あるいは感覚は)、それを「実証」はしない。ただ「暴走」し、そこに「輝かしい」何か、「熱」を感じさせる。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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北野武監督「龍三と七人の子分たち」(★★★★)

2015-04-30 00:11:45 | 映画
監督 北野武 出演 藤竜也、近藤正臣、中尾彬、品川徹、樋浦勉

 とてもシンプルな映画だ。映像情報が必要最小限しかない。これが、いさぎよい。コメディの極意はシンプルにある。ギャグもブラックなものが多いのだが、軽い。どうせ、嘘、という感じがいいなあ。何回が出てくるおならの音もいいなあ。軽い。おならというのは毎回違った音なのだろうけれど、そういう「事実」は無視。はい、ここでおならの音という単純さがいい。
 「おれおれ詐欺」に騙されそうになった元ヤクザの老人が、詐欺集団のちんぴらに復讐する。いくら元やくざといっても老人。できることがかぎられている。かぎられているんだけれど、やってしまう。正義感に燃えて? いや、ただ楽しいから。昔の仲間といっしょにいるのが楽しいから。昔の仲間といっしょだと血が騒ぐ。「日常」なんて、つまらないからねえ。老人だから「正業」がないんだけれど、かといって「ぶらぶら」もできない。昔、大暴れしたことがなつかしい。年を取ったって、何かを楽しみたい。
 ああ、そうなんだ。
 つまらない「日常」をどう生きるか。蕎麦屋で、入ってくる客が何を喰うか、賭をするなんていいなあ。勝つか負けるか、というよりも、当たるか当たらないか、その半々の感じが楽しいんだねえ。
 まあ、そういうところから始まるんだけれど、息子夫婦に邪魔者扱いされていた藤竜也がだんだんいきいきしてくるのがとても楽しい。裸になって背中の竜の入れ墨を見せる。それからズボンも脱いでブリーフ姿で「愛のコリーダ」で披露した逸物の面影(膨らみ)を見せる。あらら。映画を遊んでいる。年寄りなのにがっしりした体をしていて、なかなかかっこいい。そういう自慢げな感じが肌の張りにもあらわれている。肉体がちゃんとアクションしている。こうアクションって、舞台じゃ出せないからねえ。ストーリーやギャグは舞台(芝居/漫才)でも可能なものなんだけれど、映画でないとできないことをきちんと押さえているのがいいなあ。
 最後のカーチェイス(バスジャック)もいいなあ。乱暴なことをしているようで、運転はバスの運転手。藤竜也たちは「脅迫」しているだけだから。つまり、アクションはしていない。
 アクションは、さっき藤竜也の入れ墨と裸について書いたことと重なるが、藤竜也たちの年取った「肉体」。それをそのまま見せる。それがアクション。近藤正臣なんて、昔は美青年で売っていた。しかし、「敵役」だったりした。なぜなんだろうなあ、というのはこの映画を見るとわかる。いまでも美男子なのかもしれないが、目がどこか陰険。中尾彬なんて、でぶの間抜け。顔に刻まれた表情、肉体の無様さ。それが、そのままアクションとなっている。討ち入り(?)で弾除けにされるなんて、でぶじゃないとできないからなあ。
 ビートタケシも、まあ、同じだな。派手な動きはせず、ただ存在している。他の役者の
肉体に合わせて、肉体を動かすのではなく、肉体を存在させるアクションの方へ近づいていっている。
 こういうアクションでは、どうしても若手は損をする。動きで勝負できないのだから。その勝負できない感じが、この映画では生きていて、見ていて、チンピラが負けるというのが肉体の存在感そのものでわかってしまう。(コメディだから、結論がわかっているのがいい。)
 肉体そのもののアクションという意味で、おもしろかったのが萬田久子。「オカマに間違えられるのよ」という台詞があったが、動かずに座っているだけ(立っているだけ)では、顔の造作がね……って、私の偏見? まあ、いいさ。映画なんて、偏見を楽しむものだから。
      (2015年04月29日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン11)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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嵯峨信之を読む(54)

2015-04-29 10:05:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(54)

96 土冠

夏が終わつたので
ぼくは散り散りの島になつた
魂のあいだから立ち昇るものは声にはならぬ
ただひとすじに昇りゆくのみ

 二行目の「散り散りの島になつた」という表現はわからない。しかし、三、四行目が「散り散り」のものを「ひとすじ」にまとめていくということろがおもしろい。島は海に水平に広がっている(散らばっている)。その「散り散り」の何もないところ(島ではないところ、島と島のあいだ)から「声にならぬ」ものが立ちのぼって「ひとすじ」になる、という感じが切ない。
 「島」は「魂」なのだ。「魂」が「散り散り」になって、それが「島」のようになっている。その「散り散り」になった「魂」のあいだから(「島」と「島」とを隔てる海、というよりも「魂」と「魂」のあいだの空虚から)、何かが「ひとすじ」のもののようにして立ちのぼっていく。

真夜中
星のひかりが木の葉を島々にぬいつけるとき
木の繁みをくぐつて誰かが立ち去る音

 「立ち昇りゆく」ものは「星」になる。そして、真夜中に今度は「立ち昇」ったところから下りてくる。ひかりになって。そして、それが島々の木の葉に降りそそぐ。島々は(魂は)「散り散り」になっているが、その島にある木々が星のひかりで「ひとつ」(おなじ)になる。
 そのとき「木の繁みをくぐつて」誰かが立ち去る、その「誰か」が誰なのかわからないけれど、魂のあいだから立ちのぼっていったものが、夜には姿をかえて降りそそぎ、離れた存在を「同じもの(ひとつ)」にするという運動はとても美しい。
 「宇宙」の不思議な運動がある。
 そういうものを見たあとで、

もはや渇望のためにぼくが一個の彫像にほかならぬなら
その場で微塵に砕けるがいい

 これは、夏の恋を失って、魂が「散り散り」になった自画像、いきいきとした「魂」を失って、「一個の彫像」のようになった「自画像」を書いたものか。
 立ち去っていった誰かは、恋をしていた自分。恋をしていた自分が立ち去るとは、恋を失うこと。
 恋を失った自分は砕けてしまえ。そして、魂のあいだから立ちのぼり、魂のなかにある「木」(何の象徴か、いのちのかけら、生き残った力か)へ降りそそいでくるひかりに身をまかせる、ということだろうか。
 しかし。
 詩はここで終わっているわけではなく、次の三行がある。

真昼の太陽をとらえた泥沼は
その輝くしろい土冠をぼくの頭上に置く
ぼくはぼくの悲しみをせめてその白く輝いている土冠で飾るだろう

 真夜中の美しい祈りのようなことばと、それとは反対の、自分を厳しくみつめることば。厳しくといっても「土冠で飾る」という「ナルシズム」もある。「ナルシズム」といっても「土冠」で否定しながらのものだけれど。
 何か激しい運動がある。「声にはならぬ」運動がある。「矛盾」がある、と言ってもいい。恋を失った悲しみと、そこから生きていく(生きなおす)ためのナルシズムという矛盾がある。

 矛盾があっても、というべきなのか、矛盾があるからこそ、というべきなのか。どちらでもいいと思うが、だからこそ、詩はおもしろい。それを読んだときの「気持ち」で「矛盾」の「矛」か「盾」かのどちらかを選んで、それを好きになればいいのだ。
 魂のあいだから立ち上り、下りてくるという何か(悲しみ?)の一種の往復運動を美しいと思ったり、否定を含むナルシズムを気障でいいなあと思ったり。その日、その日で揺れながら、何度もことばに出会ってみる、出会いなおしてみる--そういう愉しみが詩にあると思う。
 だいたい詩のことばは「論理」を目指していないから、気まぐれである。脈絡が前後で入れ代わる。突然比喩があらわれて、それをあとで事実(わかりやすいことば?)で言い直し、説明し直したりする(「散り散りの島」と「魂」の例)。一篇の詩のなかでも、読者は行きつ戻りつしなければ、何が書いてあるのかつかみとれない。一篇の詩を読む短いあいだの時間でさえそうなのだから、永い人生のあいだでは、それが繰り返されて当然なのだ。あ、あれは、こういうことだったのか。いや、やっぱり違った。何度も思いなおしながら読み返す。それがおもしろい。

97 レダ

 ギリシャ神話を題材にして書いている。書き直し、批評している。その批評の部分が最後にある。

一切は終つたのだ レダは亡びた 神話はふたたび葉に帰る 太陽の蝕の中へ繋駕は進む 無人の繋駕は粛々と遠ざかる すべての子午線は書き替えられた だかその間にもレダは生まれ変る 死灰の中から 肋骨の七絃琴の中から

 「レダは生まれ変る」。すべては「生まれ変る」。いや、何かを変えながら産み直すことができる。死んだものに自分のいのちを吹き込み、甦らせる。単に甦らせるだけではなく、新しく「産む」のだ。
 そのために、ことばがある。
 嵯峨は、この詩では、そういうことを言おうとしているように思える。
 そして「生まれ変る」ために詩がある。詩を書く。そう書いているように思える。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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嵯峨信之を読む(53)

2015-04-28 10:33:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(53)

94 文学修行

 「文学」(詩)を「帆船」という比喩にして語っている。

大きな白い帆がだらりと重くたれさがつている
空を突き刺したまま帆柱は少しも動かない
その船は忘れられてしまつた言葉の港に入つてから
もう幾日も停泊つている
船といつしよに内海をそつくりそのまま抱いて
どこか別の世界に移したら
文学の海がきゆうに明るく広くなるだろう

 「船といつしよに内海をそつくりそのまま抱いて」という一行が魅力的だ。どう読むべきか。
 船が停泊している港、その内海という空間を、そのまま抱え込んで(抱いて)外洋(外海)へ、というのだろうか。
 それとも、船が船の内部(記憶)に抱え込んでいる海(内海とは、地理的な「内海」ではなく、船の内部の海)をという意味で、その記憶を抱えたまま船を外洋へ、ということだろうか。
 私は後者と読んだ。
 外洋に出て、そのひろがりに触れて、帆船のなかの記憶の海が、新しい光と風と呼応する姿を思い浮かべた。
 ことばを書く(文学を書く)とき、人間のなかにあることばの海(内海)は、どんなふうに広がるのか。書きたいことがある。けれどそれはまだことばにならない。ことばになるきっかけを探して、外(外洋)へ出て行く。外と触れ合って、内部のことばに変化が起きる。そうすると、その変化がそのまま「風」や「光」になって、ことばをさらに突き動かす。風や光が「帆船(文学)」を誘い出す。
 こういうことが起きるためには、まず人間の内部にことばが存在しないといけない。「内部のことば」と「外部のもの/ことば」が触れ合って、「内部」が「外部」に向かって開かれる。そこから始まる広がり--そのなかへ進んでゆく帆船の豊かな帆を思った。

95 夜の頂上で

闇の中
レモンのつよい匂いで
ぼくは急にわれにかえつた

 「闇」と「レモン」は、「黒」と「黄色」を連想させる。強い色彩の対比がある。これを色ではなく(闇なのだから色は見えない)、「匂い」と対比させている。このとき「闇」は「無」、どんな匂いもない。匂いのないところに、突然、レモンの鮮烈な匂いが広がってくる。無と有の衝突。その瞬間、見えないはずの黒と黄色の対比が、また浮かび上がる。「強い匂い」が「黄色い匂い」として輝く。視覚と嗅覚が、混乱する。
 こういう「混乱」こそが人間の「覚醒」の瞬間なのかもしれない。「われにかえつた」というのは、「われ」という存在が、そのまままるごと、存在として自覚されたということだろう。「われ」としかいいようがない「かたまり」。「色を見るわれ」「匂いをかぐわれ」になる前の、感覚が生まれる前のわれ、感覚が肉体の中にあると気づく前のわれ。その「われ」はまだ「われ」以外の何かに触れていない。「われ」という感じ以外の何も生み出していない。「匂い」とか「色」とかのことを書いたが、それが「匂い」や「色」であるとわかる前の、すべてが融合した感じ(未分節の感じ)が「われ」なのだ。
 だから、この「われにかえつた」は「わからない(世界が分節されていない)」ということばと結びつき、次のような行になる。

人間はじぶんの声がわからなくなつたとき
その声は大きな編みで捕らえられるのか

 「じぶんの声がわからない」とは「世界」をどのように描写していいのか「わからない」、世界を描写する(世界を分節する)前の、「未分節」の状態(「色がわかるわれ/匂いがわかるわれ」の前の、ただの「肉体」としてのわれ)。そういう「われ」(われという意識)は、どんなことば(声)のなかにいるのか。
 ふと、さっき読んだばかりの「文学修行」の「帆船」を思い出す。
 自分の内部に「海(ことば)」を抱えて、世界に飛び出す。そこには「内海(自分が抱え込んできたことば)」を超えるものがあふれている。それをどうことばにすればいいのか、わからない。その「わからない」という瞬間に、つよく自覚する「われ」というものがある。
 何かを書く(書けたと思うとき、結論が見つかったと思うとき)の、その前の「時間」。それまでのことばでは書き表わすことができないと困惑した瞬間の、興奮。それが「われにかえる」であり、また、それは「無」になる。「無我になる」ということにも通じるように思う。
 「われにかえる」と「無我になる」は、文法上の意味(?)は正反対のものだが、私の実感としては「おなじ」もの、おなじというと語弊があるなら、「表裏一体」のもののように感じられる。
 嵯峨が書いている「われにかえつた」を読みながら、そう思った。
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破棄されたの詩のための注釈(35)

2015-04-27 10:59:49 | 
破棄されたの詩のための注釈(35)

   私を追い越した男が、路地を曲がったところで脇の階段をのぼっていく
   のぼり口に水道の蛇口が星の光を集めて滴をたらしている
   それは誰の光なのだろう
   あれは誰の階段なのだろう、もう誰もいないし、誰かがのぼった気配もない

一行目。「追い越した男」は「前を歩く男」の方がよかったかもしれない。前を歩く男の絶望というものはいつでも刺戟的である。「前」というのは実際の通りであることもあれば、その人の人生でもある。ある男色家の手紙によると「絶望は背後から見ると、まるで人を誘っているかのようにまっすぐである」。いつか剽窃して詩に書いてみたいと思うが、「まっすぐ」が伸びていかない。この詩でも「曲がる」という動詞が動き、絶望が奇妙な欲望に変わってしまった。

二行目。ことばは存在しないものに輪郭を与えるという哲学のために書かれた一行。形而上学的な意味を含まないと詩ではないと考える詩人のために、そういう注釈をつけたくて書いた。「たらしている」ということばのあとに、意識のなかでは「音が響く」と書いてあったのだが、それはやはり意識のなかで消されてしまった。ことばがねじれすぎるのを避けるためと、つぎの「光」への移行が、ことばの飛び越しになってうるさいからである。

三行目。「誰の」ということばは「ひと」を近づける。そこに誰もいなくても、「誰の」ということができる。「誰の椅子だろう」「誰の窓だろう」と書くだけで、椅子や窓といっしょに、そこにいただろう人間の人生が見えてくる。斧で叩ききった木を荒縄で結んだだけの椅子。路地から見上げると顔の下半分だけが見える窓。そう書くと、「誰の」はさらに濃密になる。

「誰の」と書くことで、私は「前を歩く男」に自分を近づけるのである。

四行目。「誰の階段だろう」は意識のなかで「あの男の階段なのか」から、肉体を動かすことで「私の階段」にかわり、その変化のなかで私は私ではなくなる。「階段をのぼる男は誰の肉体なのだろう」と言い換えることができる。私が私ではなくなる。その「裏切り」。それをことばにしたい欲望にとらわれる。欲望が私を裏切っている。そうことばを動かしていくとき、人間のいちばん大きな欲望とは絶望することである、ということばがどこからともなくやってくる。



*

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嵯峨信之を読む(52)

2015-04-27 09:59:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(52)

91 死の海

 「死海」からヒントを得て書いたのか。塩分濃度が高く、人間のからだが浮いてしまうという海。

死の近くの海は
たれも見たものがない
海は途方もなく暗く深い
その海水の一滴一滴はひとをただちに盲目にするほど塩辛い
ぼくらはその海水を頒ち持つていて
朝夕 垂直の背骨をそれで磨き立てる

 「海水(塩分の強い水)」を「頒ち持つ」とは「涙」をさして、そう言っているのだろう。「涙」ということばが思い浮かぶのは、その直前に「盲目」ということばがあり、また二行目に「見る」という動詞があるためかもしれない。「目」がことばのなかを動いているために「涙」を連想してしまう。
 「塩辛い」の「辛(から)い」は「辛(つら)い」でもある。つらいとき、ひとは涙を流す。その涙が「垂直の背骨を磨き立てる」。つらさ、苦労がひとを育てると読むと、人生訓のようでもある。

強く逞ましくなつたその背骨が
すべてを焼きつくす太陽
すべてを吹きとばす大風にむかつて
ぼくらを荒野にひとり立たせるのだ

 これは人生訓の繰り返しになる。
 しかし、その次の行はどうだろう。

そして最後に死がやつてきたときぼくらは静かに海の中にはいることができる

 人生訓を超えている。あるいは、ずれている、というべきなのか。人生ではなく、人生を通り越して、死と対面している感じがする。「こんなふうにして生きなさい(つらくても我慢していきなさい、そうすれば背筋ののびたまっすぐな人間になれる」というような「声」はこの一行からは聞こえてこない。
 さらに最後の三行。

深夜
野のはてに
燐光を放ちながら背骨はするどく直立する

 死に向き合い、「直立する」嵯峨が見える。死は、嵯峨をまっすぐにするものの象徴なのだと思う。死を意識しながら「直立する」。このときの「直立」は「孤立」かもしれない。少なくとも「孤立」を恐れずに、嵯峨は立っている。ことばを、詩を書いている、と感じる。

 死と向き合った生、死と生は「対」になっている。
 「対」の意識はこれまで読んできた作品の中にあらわれていたが、次の作品にも「対」がある。
 (次の作品からは「多嶋海」という章。)

92 多嶋海

それは何かのまちがいかも知れない
沈黙でしやべつているひろい海

 「沈黙」と「しやべつている(しゃべる)」が「対」。「沈黙」が「しゃべる」というのは矛盾である。矛盾だから「まちがい」とも言える。しかし、嵯峨は「かも知れない」というだけで、断定はしていない。
 「矛盾(まちがい)」としてしか言い表すことのできなことがあるのだ。
 「沈黙でしやべつている」。その場に立ち合うと「沈黙」がうるさく感じられるだろう。「沈黙」が煩すぎて、何も聞こえない。

なにもかももうとつくに過ぎ去つているのに
すべてはいま始まつたばかりのようだ

 「過ぎ去つた(終わった)」と「始まつた」が「対」になっている。
 「対」はその接点に注目すれば「矛盾/衝突」(まちがい)になるが、「対」は必ずしも接しているとはかぎらない。「対」その存在、二つの存在のあいだに「間」がある、巨大な隔たりがあることもある。
 「生」と「死」という「対」のあいだには、広いのか狭いのかわからない。接していてるのか離れているのかわからない。
 遠く離れて存在していると思う「対」も、同じように、接している/離れていると「方便」で言うだけのことであって、実際にどんな「間(ま)」がそこにあるのかは、たいていはわからない。
 そのわからない「間」をことばで埋めて、そのことばで何かを「実感」させるのが詩なのだろう。「対」(二つの存在の組み合わせ)が詩であるというよりも、離れた存在(二つ)の「間(ま)」のなかを動くことばが詩なのだろう。



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嵯峨信之を読む(51)

2015-04-26 11:28:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(51)

89 不死鳥

 「続・小品」のことばと通い合うものがある。

不死鳥は
砂と鉱石と小草のあいだから生まれる
深い井戸からたえず水を汲みあげている無一物の男よ
足もとに咲く薊の花を踏みにじれ
悔恨の薊の花を踏みにじれ
そして愛のコロナでおまえの棺を飾れ

 「不死鳥」は「無一物の男」である。「無一物の男」に「不死鳥になれ」と呼びかけている詩だ。
 「不死鳥」は炎の中から生まれ宙を飛ぶ。その姿と「深い井戸」が向き合う。水を汲み上げる姿が「非対称」の「対称」になる。「非」は単純な「対称」よりも強烈に「対称」を意識させる。「非対称」の形で向き合ったものが、それぞれの「直喩」になる感じだ。矛盾しているが、矛盾によって、その存在(あり方)が強烈に輝く。
 こういう「論理の暴力」というのか、「感覚の錯乱の暴力」というのかわからないが、激しい対立の、その「激しさ」を引き受けて、

足もとに咲く薊の花を踏みにじれ

 ということばが生まれる。花を踏みにじる。そう乱暴が「非対称」の「暴力」を突き破るのだ。美しい薊の花は「悔恨の」ということばで、「非対称」になる。「非対称」を「踏みにじる」という動詞の暴力が美しい。
 「おまえ」のなかにある何かを踏みにじれ。殺してしまえ。そうして、その死んだもののなかからおまえは不死鳥として甦れ、そう嵯峨は自分自身を励ましている。

90 ピラミッド

 この詩はなんだろう。私にはわからない。感じるところがない。

ぼくに注意してくれるものも
おなじ流沙の上に立つ
ふたりとも内部に傾くピラミッドを持つているが
諸々の地方の千の川にその影を落している

 「ふたり」というから「ぼく」と「注意してくれるもの(者)」がいるのか。どうも「二人目」の印象が薄い。「傾くピラミッド」という存在もイメージしにくい。ピラミッドは傾きようがない形をしているように私には思える。「内部に傾く」の「内部」が重要なのかもしれないが……。
 「川にその影を落としている」をピラミッドが川面に自分の姿を映していると読めば「傾く」は逆さまに映る(逆像)で映るピラミッドになるが、川面は「外部」であって「内部」ではない。その「矛盾」につまずいてしまう。
 嵯峨が書いている「川」は「内部」の存在なのか。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
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法橋ひらく『それはとても速くて永い』

2015-04-26 10:35:52 | 詩集
法橋ひらく『それはとても速くて永い』(書肆侃侃房、2015年03月20日発行)

訪れることはないだろう(ザルツブルグ)靴音がきっと冷たい

 この歌で二つのことが気になった。
 一つは(ザルツブルグ)の処理の仕方。
 一首のおもしろさは「音」にこころが動いていることである。行ったことがない外国の都市。それを思うとき、ひとは、どう反応するのだろうか。写真を見たり、本を読んだりして、その都市のことを考えることが多いと思う。
 法橋は「音」に反応している。都市の名前。ザルツブルグという音。音に反応しているから、それにつづいて「靴音」が出てくる。そして、その耳に「冷たい」という触覚が紛れ込む。この感覚の変化、移行が「肉体」の内部を広げ、同時に未知の都市の空間と時間を広げる。さまざまな情景が、ぱっと目に浮かぶ。ザルツブルグへは、私は行ったことがないのだけれど……。靴音が似合う石だたみの通り、夜霧、古い路面電車などを「異国」を想像してしまう。
 音が不思議に美しい。不思議な美しさにあふれる音だ。濁音と促音(ツ)、「ル」の繰り返し。カタカナで書いてしまうと七文字になるが、音(母音)は七つはないと思う。この表記と実際の音の「ずれ」、日本語にない感覚が「冷たい」という印象になるのかな? 「肉体」をつつむというよりも、「肉体」に突き刺さってくる感じが、「冷たい」に通じるのかなぁ。よくわかないが、聴覚に触覚(皮膚感覚)が反応し、触覚から聴覚に何かがかえってくる。それが先に書いた石だだみだの夜霧だのという「視覚の風景」をも広げる。この感覚の連携がおもしろい。
 おもしろいのだけれど、違和感が残る。
 私は「音読(朗読)」というものをしない。しないけれど、ことばは「音」で伝えるものだと思っている。法橋のこの歌は、どう読むのだろう。括弧を、どう「音」にして伝えるのだろう。括弧は何のために書いたのだろう。現地に行っていない、現地で発音される「ザルツブルグ」という音を聞いていない。それは「架空の音」という意味で括弧のなかに入れたのかな? でも、その「架空」を括弧だけで処理していいのかな?
 (ザルツブルグ)という括弧付きの表記もそうなのだが、どこかで「視覚」が強引に音に割り込んでくる感じがある。音の動きが紛れ込んできた「視覚」のために、音が音になりきれていない。そんな感じがする。
 一首を貫く「音」がない--そう感じてしまう。
 これは、もう一つの気がかりと重なる。
 私は「きっと」ということばにもつまずいてしまった。もしかすると、(ザルツブルグ)という表記の仕方よりも「きっと」という音でのつまずきの方が大きいかもしれない。「きっと」につまずいて、その瞬間に(ザルツブルグ)の音を囲んでいる括弧に目が行ったのかもしれないなあ。つまずいて倒れるとき、つまずいた石とは別のものに目が行ってしまうのに似ているかな?

靴音がきっと冷たい

 これは「靴音がきっと冷たい(だろう)」と「だろう」が省略されている。「だろう」は「訪れることはないだろう」と「だろう」がすでに書かれているから省略したのか。省略したのだろう。
「だろう」は推測のことばである。法橋は、ザルツブルグを歩く靴音を想像している。そして想像で「冷たい」と感じている。その感じたことを「きっと」で強調している。
 なぜ「きっと」と強調しなければならなかったか。
 こころから「冷たい」と感じていないからだ。明確に感じていないからだ。「冷たい」は「実感」の強さをもっていない。だからこそ、「きっと」と強調する必要があったのだ。
 このふいに紛れ込んだ「弱さ」(実感の欠落)が音の響き(強いはずの響き)を壊している。
 「靴音が冷たいだろう」の「だろう」を省略して、それが「想像」であることを隠しながら、一方で「きっと」と強調する。そこにある「矛盾」が、この一首を弱くしているように感じる。
 「きっと」で「強調」するのではなく、もっと「肉体化」すれば(肉体の実感を紛れ込ませてしまえば)印象が違ってくるのだと思う。「冷たい」とはどういうことか。靴音が石だたみの凹凸を這っているのか。靴音が夜霧の大通りのなかで反響し、その反響が空虚を広くするのか。あるいは、いっしょに歩いてきた恋人が噴水の前で別れるのか。
 法橋の歌には、「肉体」の動きが欠落している。その「欠落」を「きっと」で隠している。「きっと」と書けば、それで「事実」になると思っている。
 その「きっと」のように、(ザルツブルグ)の括弧は、何かを強調するという「意味」が共通している。強調が(ザルツブルグ)の括弧だけならよかったのかもしれないが「きっと」ということばによって強調が繰り返されたために、強調ではなくなってしまった。しつこくなった。奇妙な形で括弧が浮いてしまった、ということになるのか。

開かれたままの図鑑の重たさよ虹のなりたち詳細すぎる

 「開かれたままの図鑑の重たさよ」はとてもおもしろい。図鑑はきっと手に持っているのではなく机の上かどこかにある。だから、それは実際には「重たさ」を肉体には伝えない。けれど、肉体はその重さをおぼえている。立ち読みしたときの瞬間的な「開かれた図鑑の重たさ」をおぼえていて、それは机の上にあっても甦る。この上の「五七五」だけで詩があるのだが、それを「虹のなりたち」で引き継ぐとき、「重たさ」を感じた肉体が途切れてしまう。「頭」のなかの、架空のできごとになってしまう。
 「靴音がきっと冷たい」の「きっと」のように「頭がつくりだす強調」によって嘘になってしまう。「虹」だけでも事件なのに、わざわざ「なりたち」というものを持ち出して「事件」を強調することで、そこにある「事実」が、開かれた図鑑の重たさが嘘になってしまう。「重たさ」にはもっと凡庸なものの方がしっくりなじむだろう。「肉体」で知っているものの方がなじむだろう。
 「虹のなりたち」という音、特に「なりたち」がそれまでの音とあわないし、「詳細すぎる」も「開かれたまま」という平易なことばの響きとあわない。極端に言い切ってしまうと、上の句と下の句では「文体」があわない。
 「イメージ」が強すぎて、架空の視覚が肉体を裏切っている。イメージが肉体として消化されきっていない。せめて「詳細すぎる」ではなく、その「詳細さ」をどう読んだか、それをことばにしないと「重たさ」と向き合わない。「重たさ」は肉体が感じている。「詳細さ」は「頭」が感じている。「肉体」と「頭」が分離している。
 (ザルツブルグ)と「きっと冷たい」も「肉体」と「頭」の分離だったんだろうなあ。「ザルツブルグ」は耳に響いてくる確実な「音」だったのに(だからこそ、足音を思い出させたのに)、それを括弧でくくってしまうとこで「肉体」から切り離した。その切断を「冷たい」という触覚(肉体)でつなぎなおしたのはいいのだけれど、「きっと」という「頭」の判断(念おし)で、ほんとうはつながっていないということを明るみに出してしまったということかなあ……。

途中から夢とわかって視ていたよ郵便ポスト打つ雨粒を

 これは「途中から夢とわかって視ていたよ郵便ポスト打つ雨粒を(視ていたよ)」とおなじ動詞が肉体の内部で反復されるで、音の響きが強くなって、気持ちがいい。ただし、この歌も「を」が倒置法を強調していて、そこが嘘っぽい。「雨粒」に焦点が当たってしまうのが、嘘っぽい。
 「文学なんて嘘」とわりきれば、まあ、それはそれでいいのだけれど。

それはとても速くて永い (新鋭短歌シリーズ)
法橋ひらく
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嵯峨信之を読む(50)

2015-04-25 09:39:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(50)

88 続・小品

 この作品にも死が登場する。死は生と同時に書かれている。

死がそこに在ることを誰も信じない
それでも透明な死の幕にふれてひとびとは大きくよろける
鋭い叫び声をあげてその場に昏倒したものが
あるときは一本の青い麦を掌の中にしつかりと掴んでいる
熱い石壁と
夜明けの冷たい雷雨に育てられた純粋な麦の穂だ
ああ その麦は誰にも瞶められない土壌の中から伸びあがるのだ

 死は倒れたひと。生は青い麦。「瞶められない」は読み方がはっきりしないが「みつめられない」と読んでみた。
 一行目の「死がそこに在ることを誰も信じない」の「そこ」とはどこだろう。「そこ」ひとのすぐそばを指す「直喩」かもしれない。「信じない」は「知らない」かもしれない。「知らない」は「見つめない」(見ない)ということかもしれない。「信じない」を「見ない」と読むと、最終行の「瞶められない」と呼応する。
 ひとは「死」がどこにあるのか「見つめない/見ない」。同様に「生」がどこにあるか(どこからはじまるか)「見つめない/見ない」。麦の場合、「生の始まり」は「土壌の中」。だから、それは誰も「見つめない/見ない」。「見ない/見つめない」けれど、そこから生は始まっている。
 死と生は、その秘密(どからはじまり、いつ完結するか)は、だれも「見つめない/見ない」つまり、知らない、ということで「ひとつ」になる。
 「知らない」を「気にしない」と言い換え、「信じない」と言い換えると一行目にもどるのだ、もどったところから、その一行目の「在る」という動詞を見つめなおしてみる。
 死は「在る」けれど、ひとはそれを「見つめない/見ない/見えない」。生もまた「在る」のだけれど、私たちが見ている生はほんの一部で、その始まりは「見えない/見ない/見つめない」。麦の場合、土中に始まりがあるが、それは当然「見えない」。そういうふうに「見えない」ものが「在る」ことを忘れてはいけない。
 死は「在る」ことが見えないけれど、それは生が「在る」こと(生に始まりが「在る」こと)が見えないのと同じことである。
 こんな「理屈」は書いていておもしろくないし、読んでもおもしろくない。「続・小品」は、「理屈」を分析しても味気ないだけである。

 この詩でおもしろいのは……。

熱い石壁と
夜明けの冷たい雷雨に育てられた純粋な麦の穂だ

 この二行だ。「熱い」と「冷たい」が向き合って、その間にあるものを洗い流していくような感じ、余分なものを剥ぎ取るような強さがある。「熱い石壁」も「冷たい雷雨」もやさしくはない。むしろ厳しい。そういう厳しいものに育てられて(そういう厳しい環境を潜り抜けて)生きるものが「純粋」なのだ。
 「純粋」は厳しさのなかで磨かれる。この「純粋」に「青い」という表現が響きあう。「共通感覚」の美しい響きあいがある。「意味」を忘れて、一瞬、インスピレーションを与えられたと感じる。それまで見えなかった何かが輝いて見える。輝きが見える。その瞬間が詩なのだと思う。

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破棄されたの詩のための注釈(34)

2015-04-25 01:35:04 | 
破棄されたの詩のための注釈(34)

「咳」ということばがあった。部屋の隅で、はっきりと自己主張した。それが前後の沈黙を分けた。
薄暗い部屋のなかで少しずつたまってきた沈黙が、ゆっくりと距離を測っている。近づいてそろそろ手を取り合おうとする瞬間だった。
誰かが見張っている。
どう動いていいのか、だれもわからない。わからないまま、沈黙が固くなった。

椅子がガタンという音を立てた。
「咳」ということばが、さっきとは反対の部屋の隅で動いた。振り向かずに、肉眼ではない眼で見ているひとの、のどのやわらかさを感じさせる「咳」だ。(そのように描写しようとして、何度も書き直した様子がノートに残っている。)
けれど、一度変化してしまった沈黙はもとにはもどれない。

「咳」ということばがあった。
ひとりが立ち上がり、そっと歩きはじめる。抑えても、抑えても、足音がはみだしてしまう。そのひとの内部の沈黙は、それ以上に荒らされている。荒れている。
足音が、一呼吸、とまる。
その一呼吸を消すようにして「咳」。
だれのものかは読者の判断に任された、その「咳」ということば。
形容詞はついていない。

「咳」ということばがあった。
はばかることなく足音を響かせ、ドアを締めるときに、合図をするように発せられたその咳ではなく、
「のどにつまったままの」という修飾語が「咳」ということば。
「沈黙でさえない」沈黙の孤独ということばに沈んでいく。



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嵯峨信之を読む(49)

2015-04-24 10:45:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(49)

87 小品

 ここからは「小品」という章の作品。
 その章の冒頭の「小品」にも「死」が登場する。
 なぜ、嵯峨は死を書くのだろう。「肉体」の死を私たちは現実には体験できない。他人の死を知ることはできても自分の死を知ることはできない。一方、精神といえばいいのか、思考といえばいいのか、あるいは感覚といえばいいのか、そういうものの「死」は体験することができる。それまで動いていたものが突然動かなくなる。とまってしまう。それはふたたび動き出すかもしれないが、その停止の「瞬間」を私たちは「死」と「比喩」で呼ぶことがあると思う。
 嵯峨の書いている「死」は、そういう「比喩」としての「死」かもしれない。

ぼくがおまえに直言するとおもうな
ぼくは死者の口を通してそれをおまえに告げる
そして死者だけが槍の重さを知る

 三行の詩だが、わからないところだらけである。「ぼく」を嵯峨自身と想定して読みはじめる。そのとき「おまえ」とはだれだろうか。友人か、恋人か、あるいはこの詩を読んでいる読者だろうか。
 私はこの「おまえ」も嵯峨なのだと直感的に思う。嵯峨が嵯峨自身に対して「おまえ」と語りかけている。
 そのとき「直言」ということばが問題になる。自問・自答。そのときかわされる「自己批判」。これを「直言」と言っていいのか。「直言する」なら、そうかもしれないが、「直言するとおもうな」と否定している。直言しないと言っている。このときも「批判しない」という「意味」が成り立つかもしれないが、私の直観は、それは違うと言っている。
 私の直観の意見にしたがえば、この「直言」は「比喩」。そして「直言」しないなら、どんなふうに対話するのか。「直言」とは違うことば、たとえば「詩」をとおして真実を語る、と言っているのではないだろうか。「直言」は「詩」の裏返しの直喩である。(学校教育の鑑賞方法としては、こういう表現を「直喩」とは言わないのだが、私はあることばがそのまま言い換えられたものを「直喩」と呼んでみたい。数学でA+3=5のとき、Aは2である。このときのAは2の「直喩」というくらいの意味である。)
 ぼくはおまえに(自分自身に)直言はしない。直接批判したりはしない。そのかわり詩を語る。2+3=5というかわりにA+3=5という具合に、2をAとして語る。
 そのときA(2の直喩)は、死者の見たものである。死者の口がA(2の直喩)と語っているである。死者によってAは絶対的な「数字=真実」になる。死者がつかみとった真実なのだから、それは変わりようがない。変化しない絶対的存在がAなのだ。ほかのことがらは変化するが、Aは変わらない。A+3=5、A+4=6、A×3=6……。
 あ、私の「例」は詭弁のようなものかもしれないが、私は、直感的にそんなことを感じたのである。
 二行目の「それをおまえに告げる」は「直言」をしないかわりに、真実を別な形で、つまり死者を通して語ると言っている。詩を通して、おまえに語ると言っている。二行目は一行目の言い直しなのである。
 三行目はどう読むか。「槍の重さ」とは何か。これは「真実」の「直喩」である。「絶対的な存在」の「直喩」である。人間に死をもたらした「絶対的な存在=永遠」が「槍の重さ」。それによって、人間は、もうそれ以上「変化」することができなくなった。「死者」とは永遠に変化しない人間のことなのだ。

 こう読むと、この詩は「矛盾」に満ちていることがわかる。全体的真実(永遠)に触れたら、人間は完全に変化してしまう。死者になってしまう。人間は生きているから人間なのであって、死んでしまえば人間ではない。死んでしまっては「真実」に触れる意味がない。「真実」に触れながら、生きていなければ「真実」など必要ないだろう。でも、人間には生きていくために「真実」が必要なのだ。「絶対的」な何かが必要なのだ。それがないと、どう生きていいかわからない。

 詩はわからないとよく言われる。「現代詩はわからない」と言いなおした方がいいのかもしれないが。そして嵯峨の書いている作品は、すこし「現代詩」と呼ばれるものとは傾向が違っているかもしれない。抒情的でわかりやすいと思われているかもしれないが、よくよむと、やっぱりわからないところだらけである。そして、それがわからないからこそ、そこに「真実」が書かれているようにも感じる。
 わからない何か、ことばのひとつひとつはわかるのに、全体としてはわからないものが、わからないままぶつかってくる。そのときの衝撃--そこに詩があるのかもしれない。

 別の断章。

たつた一つしかないぼくの地平線を
昨日ぼくはふいに見失つた
それつきりぼくの叫びは砂になつた

 「地平線」に「ぼくの」ということばがついている。その「ぼくの」によって詩は始まる。だれのものでもない「ぼくの」もの。所有というよりも特別な関係がある。思い入れ。親密な何か。それはしかし、「地平線」に向けられたことばではないかもしれない。自分自身へ向けられたことば。「地平線」ではなく、「水平線」であってもいいし、木であっても坂であっても信号であってもいいのだ。「ぼく」自身を意識するための手がかりがたまたま「地平線」ということばといっしょに現われている。「地平線」があって「ぼく」がいるのではなく、「ぼく」が「地平線」を生み出しているのだ。
 「ぼく」「ぼく」「ぼく」と書き出しの三行に、それぞれ「ぼく」が出てくるのは、ことに書かれていることはすべて「ぼく」が生み出したことがらであることを証明していると思う。
 「ぼく」は「ぼく」が生み出した「地平線」を失った。「ぼくの叫び」は「地平線」を必要としていた。何かを遠くへ叫ぶために生み出されたものが(仮定の遠い場所が地平線だったのだろう)、消えてしまった。「地平線」があったとき、「叫び」は「石」のようなものだったかもしれない。遠くへ投げつけることのできる「塊」だったかもしれない。しかし、「地平線」が消えてしまうと、その「石」は投げることができない。そして「砂」になってくずれていく。「砂になつて」の「なる」という「動詞」から、私はそんなふうに考えた。
 この「地平線」と「石(書かれていないけれど、何かの塊)=叫びの比喩(あるいは直喩)」と「砂」、地平線が「消える」と砂に「なる」の「消える」「なる」の関係は、どちらが先が、実はよくわからない。詩は「地平線が消える」「叫び(石)が砂になる」という順序で書かれているが、「叫び(石)が砂になる」が先で、その結果として「地平線が消える」ということがあるかもしれない。
 時系列(時間の前後関係)よりも、そういう「こと」が「ぼく」というひとりの人間の中で起きるということが大事なのだ。「ぼく」が「ぼく」であることが、この詩を支えている。「地平線/叫び/砂」という別個の存在、「消える/なる」という別の動詞が「ぼく」という「肉体」のなかで「ひとつ」になり、その「ひとつ」の「場」を通って、一行ごとに別の姿で現われなおしている。この濃密な凝縮した「ぼく」のあり方が詩なのだ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩のための注釈(33)

2015-04-24 01:12:48 | 
破棄されたの詩のための注釈(33)

「たとえば」ということばがあった。「たとえば」について最初に語ったのは鳥の顔をした男であった。「ことばにはそれぞれ性質というものがあって、たとえば『たとえば』と言えば、私の場合は冒険好きで気まぐれだ。」鳥の顔をした男の「たとえば」は、つまり「机の上の鉛筆の角度を語っていたかと思えば、次の瞬間には犬が見上げる角度になり、リードを強引に引っぱり川原へ下りてゆく。それから、土の中から目覚めたばかりの蛙をつかまえて私を驚かす。」

「たとえば」ということばがあった。たとえば私の「たとえば」が。それは、逃走しようとしたが、鳥の顔をした男は上空から蛙をつかまえる角度で急降下すると「きみの場合、『たとえば』は非常に臆病で、いま私が語っている『たとえば』の寓話は、ことばの性質ではなくて、ことばをつかう人間の癖、文体のことだろうと判断する。つまり、問題をすりかえ、鉛筆で架空の紙にメモをする。架空の紙に書くのは、それが記録として残ってはこまるからだ。記録したくない。けれど、記憶したい。たとえば、そんなレトリックの中に隠れようとする。」

「たとえば」ということばがあった。「たとえば、論理を構築すると感情は衰弱する。感情を具体的に書こうとすると論理はくずれる。『たとえば』ということばは、論理を継続するというよりも切断し飛躍させるときにつかうと効果的である。感情を切断するふりをして、感情のさらに奥にある生まれる前の感情を引きずり出す力もある。」これは、鳥の顔をした男の文体を拒絶した女が書いていた「例文」である。

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嵯峨信之を読む(48)

2015-04-23 09:39:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(48)

86 借りを返す

 「広大な国」の章では、ひとつのタイトルのもとに複数の作品がつづいたのだが、その最後の「借りを返す」は一篇だけで構成されている。

ゆつくりとくと考えてみたい
死への路上をこんなに気軽に歩いていつていいかどうか
足跡を残さないことは
小さな泥鰌とそつくりおなじだ
息のつまつたような泣き声も泥鰌に似ている
たとえどんなぶざまな死でああつても
どうか笑わないでください
かれはたつたひとりで借りをかえしたのですから

 死(死の国)をテーマに作品を書く--そのことを「死への路上」を「歩く」と言っているのだろうか。死をテーマに作品を書いてきたことを「気軽に」書きすぎたと反省しているのかもしれない。そうであるなら、最後に出てくる「かれ」とは嵯峨自身のことになるだろう。
 いわば「自画像」が書かれていることになる。
 おもしろいのは「泥鰌」の比喩。ドジョウはたしかに足跡など残さない。泥をはねあげるようにして動くので、どんな「痕」も残らない。
 でも、ドジョウは泣くだろうか。空気を求めて水中から浮かび上がり、口をぱくぱくさせてまた水中へもどる姿を「息のつまつたような」と表現し、そのときの水音を「泣き声」と言ったのだろうか。私はドジョウの「泣き声」を聞いたことはないが、「息のつまつたような」という比喩に誘われて、「泣き声」が聞こえたような気がした。比喩の的確さを感じた。
 ただタイトルと最後の「借りを返す」が指し示すものが何かは、あいまいだ。生きてきたことの証として詩を書く。そういうことを言っているのだろうか。


嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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ポール・トーマス・アンダーソン監督「インヒアレント・ヴァイス」(★★★★★)

2015-04-23 01:14:22 | 映画
監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ホアキン・フェニックス、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、キャサリン・ウォーターストーン、リース・ウィザースプーン

 ポール・トーマス・アンダーソンをはじめて知ったのは「ブギー・ナイツ」。びっくりしたが、今回の「インヒアレント・ヴァイス」にも、うーん、うなってしまった。
 「インヒアレント・ヴァイス」って何のこと? 英語に疎い私にはわからない。映画の中で、私立探偵ホアキン・フェニックスの元の恋人が自分のことがそう呼ばれていたという具合に説明される。「字幕」も出てきたが、私にはなじみのない「日本語」だったのか、まったくおぼえていない。
 こんなふうに、何かわからないまま感想を書く(批評をする)のはいいかげん?
 私はそうは思っていない。あれこれ資料(パンフレットとかメディアに書かれている情報)を取り寄せて、それをもとに「説明」をくわえても、それは私が見たことではない。私は「インヒアレント・ヴァイス」って何かわからないまま、この映画を見た。見終わったあとも、わからない。それでも、わかることがある。その、わかること(わかったつもりになっていること)について私は感想を書く。
 「ブギー・ナイツ」の場合、ポルノ映画をつくっているという、わりと「わかりやすい」内容だったが、だからといって、そこに描かれていることのすべてがわかるわけではない。ストーリーも、巨根の男がスカウトされてポルノスターになり、やがて落ちぶれるという「概略」はおぼえているが、感動はストーリーとは無関係。
 同じように、今回の「インヒアレント・ヴァイス」の場合、不動産業の男が誘拐される(精神病院に強制入院させられる)という事件が起きて、それを私立探偵が調査してみると、ドラッグがらみの組織が裏で動いている、ということがわかるというストーリーはあるのかもしれない。しかし、感動は、そんなストーリーとは関係がない。
 私がびっくりし、感動するのは、映像の情報量の多さと的確さ(濃密さ)である。1970年代のロサンゼルス(中心街ではなく、はなれた場所?)のヒッピー文化(なつかしいことばだなあ)が、「未整理」のまま、ずっしりした重量感で描かれる。登場人物のひとりひとりが70年代のままなのである。ホアキン・フェニックスのアフロヘアやモミアゲからのびる髭も「演技」といえば「演技」なのだが、「演技」を超えて「現実」になっている。マリフアナ、ドラッグ、セックスも「小道具」を超えて「現実」になっている。
 何を、どう撮れば、こんな具合に「現実」になるのか。
 いま書いたことと矛盾したことを書くことになるが、ポール・トーマス・アンダーソンの映画では、カメラは演技をしない(極力カメラの演技を抑える)で、役者にたっぷりと演技をさせる。演技を超えて、そこに生きている人間にしてしまう。
 象徴的なのがホアキン・フェニックスが最初の方で電話で話す「おばさん」。おばさんは、化粧に忙しい。うまくいかない。「アイラインに集中しないといけないので、電話を切るね」。うーん、このおばさん、映画にする必要はないなあ。けれど、そこに出てきて「自己主張」する。そうすると、ストーリーとは無関係に、こういう女がいるなあ、と思う。いまとなってはけばけばしいアイシャドー、アイラインだが70年代は、そういう顔をした女がいた。その人たちは、こんなふうに真剣に化粧していたのだということが、わかる。ストーリーとは無関係に、生きている人間がそこにいると思ってしまう。おばさんは、ストーリーとは無関係に生きてしまう。(不動産業者の情報をホアキン・フェニックスに与えるという形でストーリーに関係しているという見方もあるかもしれないが、そこで語られる情報など、おばさんではなくても提供できるだろう。情報とは無関係に、おばさんが化粧している、化粧しているのでもう電話を切りたいと言っていることが、映画なのだ。)
 「小道具」で言えば(小道具の方が説明がしやすいので、小道具で説明するのだが)、「ネクタイ」。不動産業者のクロゼットにはネクタイがたくさんぶら下がっている。ネクタイの絵は、女のヌード。どうやら男が関係した女らしく、ネクタイの一本一本の図柄が違う。違う女が描かれている。これは「小道具」が存分に「演技」している。一本一本が時間をもって、生きている。
 さらに、たとえば殺人課の警部オーウェン・ウィルソンが日本人が経営する食堂でパンケーキを食べるシーン。バックに坂本九の「見上げてごらん夜の星を」が流れている。効果音としてではなく、実際にその店で流れている音楽として。その音楽が、その店を出るとき「上を向いて歩こう」に変わっている。歌が変わることで、その店内にいた「時間」がそのまま映画の中に描かれる。「小道具」が「時間」を演技しているのである。「小道具」が「時間」を生きているのである。
 登場人物のすべてが、そういう調子で描かれる。ストーリーを動かすために演技をするというよりも、「時間」がそこにあり、その「時間」を人間が生きているということをあらわすために演技している。何もしなくても「時間」は過ぎるが、その何をしなくても過ぎてしまう感じを「肉体」そのもので表現する。そういうストーリーそのものとは無縁の演技を、ポール・トーマス・アンダーソンは役者に要求し、役者はそれに応えている。
 役者たちは会話をするが、その会話のほとんどは、「なんだ、こいつ。何を考えてるんだ」というような思いを互いに抱きながら「時間」をすごす会話である。「会話」によってストーリーが進む(動く)部分もあるが、たいていは「無為/むだ」の「時間」がそこにある。ホアキン・フェニックとリース・ウィザースプーンがピザを食べ(食べたのかな?)、そのあとじゃれ合っているシーンなどセックスがあるわけでもなく、なんともいえず「むだ」。化粧しているおばさんのシーンのように「むだ」。「むだ」なんだけれど、その「むだ」がきちんと映像になって充実しているところが、もう、映画だなあ。映画しているなあ。「むだ」なのに飽きさせない。逆に、視線を強烈に引き込んでしまう。まいってしまう。「純文学」の「映画」なのだ。「描写」を読ませる「映画」なのだ。人間の「存在感」を描いた映画なのだ。存在感を描くことで「映画」になっている作品なのだ。
 「演技しないカメラ」について書いておく。最初の方にホアキン・フェニックの住む家、階段、海が映し出されるが、この映像がとても奇妙。両脇に家があり、そのあいだが坂道(階段)になっているらしい。中央に手摺りのようなものが見える。「絵」になっていない。印象的な「美しさ」がない。「美しさの構図」からはみ出てしまった「むだ」な映像である。で、「構図の美しさ」が「絵」から排除されてしまうと、そこには「もの」の「存在感」だけが残る。カメラはカメラであること(印象的な映像をつくりだすこと)を拒否して、そこにある「もの」に対して、かってに存在感を主張しろ、と言っているのである。
 こういう映画を見ると、その映画が描いている「街」と「時代」へさまよいこんで、そこを登場人物たちといっしょに生きている感じになる。こういう感じは「総合芸術」と呼ばれる「映画」ならではの体験である。
 必見!
   (「ユナイテッドシネマキャナルシティ13」4スクリーン、2015年04月22日)
 






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