詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(19)

2007-01-31 22:38:33 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『初冬の中国で』(1984年、青土社)は中国旅行を題材にしている。現代の中国を旅行し、清岡は古代の中国に、たとえば李白に会う。時間と場所の交錯。その瞬間が「円き広場」である。「蘭陵酒」。そのなかで「わたしの頭はこころよく混乱しはじめた。」と清岡は書く。「蘭陵(ランリョウ)ノ美酒(ビシュ) 鬱金(ウコン)ノ香(カオ)リ/玉椀(ギョクワン) 盛(モ)リ来(キタ)ル 琥珀(コハク)ノ光(ヒカ)リ。」と李白が詩に書いた酒と今、そこにある酒が違っているからである。

今ここにある蘭陵酒は 無色透明で
いかにも白酒(パイチュウ)らしい匂いだ。
盛唐のころ 蘭陵酒の美酒は
別の匂い 別の色をもった
醸造酒であったということか?
それとも 今と同じ蒸溜酒ではあったが
多年草である鬱金の根茎を
香料としてそのなかに浸したため
アジア熱帯ふうの香りを放ち
琥珀色に近い黄色が滲み出たということか?
いや それとも 鬱金の香りの実体はなく
それは酒の匂いについて 選び抜かれた
きらびやかな比喩であったということか?
そして 琥珀の光りは
詩人が手にした玉椀が
白玉製や緑玉製ではなく
琥珀色の玉でできていたということか?
とにかく へんにこんがらがってきたぞ。

 李白の詠んだ蘭陵酒「と」清岡が今のんでいる蘭陵酒。そのあいだに広がる差。それを埋めようとして清岡の「頭」はいろいろ考える。「円き広場」の放射状の道のように、それはあらゆる角度へ伸びて行く。さまざまなものを結びつける。「比喩」という「頭」のなかのことばさえひっぱりだす。そんなふうに広がり、交錯することで「頭」は「肉体」になる。李白のことばが李白のことばのまま清岡を動かすのではなく、清岡自身のことばが動き回り、「円き広場」そのものになってしまう。
 「こんがらがってきたぞ」。清岡はそう書いている。「頭」はこんがらがることはない。「肉体」になってしまったからこんがらがるのである。「頭」がいつも同じ場所で動かないのと違って、手や足は方々に動いて、ときには邪魔さえする。ごんがらがりながら存在するのが「肉体」である。
 答えは一つであるはずなのに、「円き広場」になってしまった肉体は、どの答えだっていい、と主張する。それは、どの答えだって間違っている、ということでもある。正しくて、同時に間違っている。あるいは、正しいから間違える。間違えるからこそ正しい。それが「肉体」化した「頭」のありようである。清岡は、いつもそういう世界を描いている。正確に書こうとすればするほど間違いが増え、間違いが増えれば増えるほど、正しくなる。「円き広場」はそうした世界である。「円き広場」からどこかへ行く。そのとき、そのたどった道はそれぞれ別個のもの(重なり合わない、合致しない--間違っている、というのは何かと合致しないということだ)だが、必ず「円き広場」とつながっているという「正しさ」とつながっている。
 この「こんがらがり」、混乱、あるいは錯乱を「美」と言う。
 清岡は「美」に酔い、放心する。放心したときのみ、「肉体」はひとつになる。「美」を呼吸する存在になる。そのとき「肉体」は充実し、「頭」は「空白」になる。「地平線を走る太陽」の最終連。

より爽やかな到着のためには たぶん
天変地異にすこし似た
たいへん美しいものによって
意識を しばし
空白にしておくといいのだ。



 「望郷の長城--海の匂い」と「長城で--境界線の矛盾」は一対の形で読まれるべき作品かもしれない。
 清岡は万里の長城で大連を、その海を思い出している。海から遠い場所で、遠い遠い海--思い出の海を思い出している。
 その海は、ほんとうに海なんだろうか。

澄みきった水の底には
波で円くなった 無数の小石の
絨毯が敷かれている。
それは 太古の夜空から
落ちて 砕けて 散らばった
星のかけら。
幼いわたしは ボートのふちから
童話めいたその伝説の
水の底を覗きこむ。
頭から
真逆さまに落ちるまで。

 海「と」夜空の出会い。まるで海ではなく、夜空を見上げて、そのまま夜空を海と間違えてダイビングするような不思議な感じ。落下と昇天が同時に存在する。その錯乱の「美」。海「と」空を分け、同時につなぐ「わたし」。
 海は自然がつくった「長城」であり、中国と日本をわける。そして隔てながら、同時に結びつける。分離する力が同時に分離しているものを結びつける。海「と」夜空が「わたし」によって分離され、「わたし」によって結びつけられ、融合するように。
 この混乱のなかに「美」があり、「詩」がある。

 「長城で」には「わたしは 自分の顔を忘れる。」という美しい行がある。なぜ、清岡は清岡の顔を忘れるのか。長城がつくりだす境界線によって対立するものをまざまざと思い描くからだ。

やがて夜がきて
月の眼が地球の長城の線に
くりかえし驚くとき
わたしは 北の丘で死んで行く
遊牧騎馬の 若い奴隷の兵士だろう。
馬乳酒(コスモス)のきのうの宴(うたげ)
別れを思わず
そこで舞った 異族の娘よ!
そして同時に わたしは
南の林で死に絶えようとする
農耕定住の 若い徴募の兵士だろう。

 万里の長城は「円き広場」ではない。しかし、人間の想像力は、ある世界を区切る存在さえも、それが区切るという働きをするがゆえに、そこから逆に、結びつけるものをもつかみとる。
 これは矛盾である。矛盾であるがゆえに、そこに思想がある。
 万里の長城によって区切られた北と南。そこに住む人間。その人間たちは、北と南に区切られていても同じように死んで行く。そういう死を思い描くこと。その死をなげく人がいる、たとえば娘がいると思い描くこと。万里の長城の意図に反して、そういうものを思い描くこと、その矛盾こそが思想である。そして、詩である。

 清岡の描く「美」がいつも私をとらえるのは、それが思想だからである。「円き広場」、その対極にある「万里の長城」。そこから始まることばの運動は、逆方向に見えても、ほんとうは同じである。区切りながら結び合う。結び合いながら別れる。その混乱、あるいは混乱ゆえの自在さ。その酩酊。その放心。矛盾ゆえに、それは世界そのものになる。

 
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清岡卓行論のためのメモ(18)

2007-01-30 18:16:39 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『西へ』(1981年)の「段丘の岡」は岡鹿之助の「段丘」に寄せる詩である。清岡は岡の見たものを次のように想像している。

迫ってくる死を前に
無意識のいざないのもと
身近な日本の風景に
遠い青春のフランスの風景を
あらためて夢深く
重ねようとするために。

 日本の風景「と」フランスの風景。晩年「と」青春。遠く離れたものを結びつける「と」。それは岡にとって「絵」なのだった。「段丘」という絵は、このとき岡にとって「円き広場」そのものである。そう、清岡は想像している。
 このとき岡「と」清岡もまた、「と」によって結びつけられている。
 日本「と」フランスをただ結びつけるのではない。結びつけるというより、重ね合わせる。つまり、一体になる。しかも単に重ね合わせるのではない。「夢深く」重ねる。日本「と」フランス。その「と」の部分が「夢」であり、しかも「深い」。そこでは「夢」は深さを持って動いている。
 この「夢深く」ということばにこめられたものは、「眩暈」であり「至福」であろう。この作品のなかには「浄福」「瞑想」ということばも出てくる。
 そして、清岡は、そんなふうに岡を思い描くことで、なんと、今まで出会ったことのない岡に絵のなかで出会う。今まで見てきたかもしれないが、新たに出会い直すのである。それは新しい岡の誕生であると同時に、また新しい清岡の誕生でもある。
 この最後の連も非常に美しい。

わたしの眼はふと 空を見あげる
段丘のうえのわずかな空。
それは青く晴れている。
ほのぼのと晴れている。
驚いたことに そこで
無窮動の点描が
幻覚か
ごくわずかな赤を散らしている。
まるで 七十九歳の画家の
頬を染める羞じらいのように。

 「幻覚」は「眩暈」に通じるかもしれない。「眩暈」は「至福」であった。「至福」はときとして羞恥でもあるかもしれない。幸福であることの恥ずかしさ。そこに、なんともいえぬ生きる喜びがある。



 『幼い夢と』(1982年)は清岡と幼い息子、50歳をすぎてから誕生した幼い息子とのの交流を描いている。「一年と一瞬」は、自分の人生と息子の人生を重ね合わせ、苦悩し、焦り、そしてまた喜びかみしめる詩である。

ああ あの明るい唐楓(とうかえで)の林のなかに
二人で手をつないで入って行こう。
枝枝に溢れる黄 赤 橙の葉が
ときに 一枚二枚舞い降りてくる。
小さな翼の生えた小さな固い実も
地面のあちこちに散らばっている。
ああ なんと冴えた
なんと澄みきって 底知れぬ照明だろう。
思い出と区別のつかない 小鳥たちの歌。

 「思い出と区別のつかない」。この区別のなさが「眩暈」であり、至福である。今と過去とが融合しひとつになる。繰り返される「ああ」は清岡の声であると同時に幼い息子の声でもある。ことばになる前の、ため息としての声。その声のなかでひとつになる。清岡は、その「ああ」という声の重なり、清岡の「ああ」という声と息子の「ああ」という声のあいだに、深い夢を重ね、呼吸するのである。
 この融合を清岡は最後にもう一度別のことばで言い換えている。

ここにおまえと立てば ようやく
一年を一瞬にとらえ
一瞬を一年にひろげることができるのだ。

 幼い息子は清岡にとって「円き広場」そのものである。息子に注ぐ愛が「円き広場」である。

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清岡卓行論のためのメモ(17)

2007-01-29 14:47:44 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『西へ』(1981年)の「西へ」は葬儀から帰宅する清岡を描いている。その作品のなかに「放心」が2回登場する。1連目の最後「ほとんど放心」。5連目6行目「わたしのほとんど 放心もろとも」。「放心」して、自己を失って、ぼんやりと列車の窓から森を眺めている。そのとき大きな変化が起きる。

雑木の森の丘の裾を
捲くるように走りつづける
四輌連結の 秋の風。
ぐぐぐぐと
その巨大な昆虫の胴体は
わたしのほとんど 放心もろとも
約九十度 左へ曲がった。
なんと そのとき
くりかえしの 日常の忘却へ
落ちこぼれようとする太陽が
進行方向のどまんなかに
ぴたりと位置したのである。

一瞬 赤っぽい すさまじい明るさが
長く空洞をつらぬいた。
先頭のガラス窓
という閉じられた口から侵入し
後尾のガラス窓
という閉じられた肛門を通過して
おお 眩暈にも似た
日光の 別れの洪水。

 「放心」は「空洞」に通じ、また「眩暈」にも通じる。「放心」のなかで、空っぽの、無のこころの中での「眩暈」。その「眩暈」は何かが見えなくなることではない。そうではなく、あふれる光景が、視界を錯乱させることによって始まる「眩暈」である。見えなかったものが突然肉眼に飛び込んでくる。それをどう受け止めていいかわからない。そのときの「眩暈」。一瞬の、一瞬だけれど、無限の至福。至福としての「眩暈」。
 がここで私が思いだすのは、またしても「円き広場」である。
 列車という空洞は「円き広場」である。広場の中心である。放射状に伸びる道の代わりにレールがある。ある道から、広場に入ってきて道を曲がるように、列車はある角度からその位置に侵入し角度を変える。そのとき新しい道、外縁-広場-外縁を結ぶ道ができる。その新しい道そのものとして、太陽が広場を(列車を)貫く。そのとき目撃する光の洪水。錯乱のなかで、清岡は、自分がどこへ進んでいるか忘れる。どこへを忘れ、その瞬間の充実に夢中になる。その至福。
 清岡は、先の引用部分につづいて、はっきりと「幸福」ということばもつかっている。

沈もうとする
絶遠絶大の 花火の球の輝きを
体いっぱい ほんのりと
暖かく浴びることは
かすかな幸福にさえ 似ていたか?

 「放心」「眩暈」。それは「幸福」のことである。清岡は何度も何度も「幸福」を歌う詩人なのである。葬儀の帰りにさえ、悲しみではなく、ふと見つけた「幸福」について歌うのである。

わたしの行く先 あるいはもどる先は
どこであったか?

 そして、不思議な「幸福」からやがて我に返る。「わたしの行く先 あるいはもどる先は/どこであったか?」。それは、「円き広場」を通ってなら、どこへでも行けるということの裏返しの疑問である。
 生のすべての一瞬において、私たちは私たちを捨て、どこへでも行ける。今まで進んできた道を曲がる。その瞬間に新しい世界が見える。しかも、その世界は世界の果と果を一気に結びつける「永遠」そのものである。だから「眩暈」を感じずにはいられない。
 この瞬間、人は生まれ変わる。再生する。
 葬儀からの帰り道。悲しみにうちひしがれていたかもしれない。人生について輝く未来とは違うことを清岡は考えていたかもしれない。そうした考えが、一瞬、消える。不思議な体験、列車と夕陽が一直線につながり、夕陽が列車のなかに満ちるという体験をとおして、異性へ向かう衝動のようなエネルギー、あるいは火葬の炎へ向かう絶対的な消滅……どちらと名付けていいかわからないような「眩暈」のなかで、清岡自身のいのち、感覚が再生するのを感じる。
 この詩の最後の6行は非常に美しい。

空耳か ヒマラヤ杉を
めぐって飛ぶ 数羽の小鳥の
季節を告げて鳴く声が
遠くから聞こえた。
おお
湖のほとりの嬰児。

 「嬰児」は再生した清岡である。「嬰児」となって、今、清岡は湖のほとりにいる。列車のなかではない。そして小鳥の季節を告げる声を聞いている。
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石山淳「メモリアル・パーク」再読

2007-01-29 11:33:09 | 詩集
 1月26日に石山淳『石山淳詩集』(トレビ文庫、2007年01月10日日本図書刊行会発行、近代文芸社発売)の感想を書いた。直後、19540507さんというビジターから、「肉体/頭」という区分が文学の生命線ではないのではないか、というコメントが寄せられた。
 「メモリアル・パーク」について、もう一度触れる。

二十世紀文明を象徴する
ニューヨークの世界貿易センターへ
黒いミニチュア機が 水平のまま
液状ゴムの皮膜か
チョコレート液面に
すっぽりと吸い込まれていった

 1連目。私は「液状ゴムの皮膜」「チョコレート液面」がおもしろいと感じた。そのときは書かなかったが「ミニチュア機」「すっぽり」もおもしろいと思う。
 私がおもしろいと感じた部分は、いずれも「事実」とは違ったものである。貿易センタービルへ突入したのはミニチュア機ではない。ビルは液状ゴムの皮膜ではできていない。チョコレート液面でもない。すっぽり吸い込まれていったわけでもない。コンクリート、鉄筋、ガラスとぶつかり、そういうものを激しく壊しながら侵入していったのである。侵入することで破壊しつくしたのである。しかし、テレビで目撃したとき(と、思う)、石山の肉眼には、その後明確になった「事実」(頭で整理しなおした客観的な事件のありよう)はわからなかった。まったく違ったものに見えた。いわば、石山の肉眼(肉体)は「事実」を間違えて把握した。
 私がこの間違いをおもしろいと感じるのは、その間違いは修正されるものだからである。修正が可能なものだからである。肉眼(肉体)は見間違える。そして、それが間違いだと気がつき、少しずつ修正する。その修正という過程から「思想」が生まれる。何が正しくて、何が間違っているかを判断する基準をはっきりさせることから始まり、間違えないようにするにはどうすればいいか、と考え直さなければならない。間違えた部分を言いなおさなければならない。自分自身のことばをつくりかえなければならない。そして、そのとき「肉眼」そのものも鍛えられ、真実を見抜く眼になるのである。肉体の間違いの修正は肉体を鍛え直す。そして人間は生まれ変わる。人間を再生させるものを「思想」と私は読んでいる。

 自分のことばを修正するにはいろいろな手段がある。石山は、いきなり「他人の頭」をつかっている。それが2連目。

それは
怪獣映画の一コマに見紛(みまが)う
スロー・モーション映像におもわれた

 「怪獣映画の一コマ」「スロー・モーション映像」は映画監督が表現したものである。その一コマ、スロー・モーションは映画監督の肉体がつかみ取ってきたものを「頭」で整理し、再現したもの、いわば「ことば」である。それを石山は借用している。「映像」であるために石山は、そういうものを「肉眼」で見たと錯覚しているのかもしれないが、映画の映像は小説や詩、哲学でいえば「ことば」と同じものである。「ことば」のかわりに映像で語るのが映画である。そういうふうに他人の「ことば」(映像)を借用することは、自分のことばで考えることではなく、他人のことばで考えることである。「肉体」は何もせず、「頭」が他人のことばを借りてきて、石山の肉体に密着したことば「液状ゴム」「チョコレート液面」を「スロー・モーション映像」に修正する。石山は単に「頭」を修正しているに過ぎない。
 肉体と頭が、このとき断絶したのである。1連目と2連目では大きな断絶、修復しがたい断絶がある。
 「液状ゴム」「チョコレート液面」「すっぽり」にはいずれも皮膚感覚がある。手でさわったときの感触、触ったもののもっている柔らかさ、ねばねば、あるいは不気味さの感触。そういうものが2連目で一気に、跡形もなく消えてしまっている。「肉体」そのものがなくなってしまっている。
 こういう「修正」の仕方は、石山の独自の視点を単に消し去ることであって、真の意味での「修正」、間違いを乗り越えることによって獲得する「思想」とは関係がないと私は思う。
 映画監督の「頭」、そのことば(映像)をつかって石山の肉眼が見たものを修正したために、石山は、最後を次の6行で閉じることになる。

ツイン・ビルに黒鉛が上がり
骨材が 火を噴き
耐火ガラスが火を噴き
あれから 半年がきて
「受難の聖地」に
今も 人間が生き埋めになっている

 ここには最初のことばの痕跡など少しもない。最後の6行はまるでテレビレポーターの報告である。どこにも石山のオリジナルを感じさせるものもない。こういうことばになってしまったのは、1連目のオリジナルなことばを、2連目の絵画監督のことば(映像)で修正してしまったことに起因すると私は考えている。その後も最終連まで石山はさまざまに修正を試みるが、そのどこにも1連目のような「間違い」がない。間違えながら現実に接近していくときのリアルさがない。
 石山は、「液状ゴム」「チョコレート液面」ということばを石山自身の肉体を動かして修正する可能性を捨ててしまって、映画監督の「頭」で修正してしまった。それを私は残念に思う。今、石山の「液状ゴム」「チョコレート液面」を見た肉眼は何を見ているのかわからない。「受難の聖地」の痛み(触覚)がわからない。「液状ゴム」「チョコレート液面」を感じた触覚が、9・11テロの現場で何に触り、そこからどんな触った感じを肉体のなかに受け止めているのかわからない。
 石山の肉体は何も変わっていない。これでは詩を書いた意味がない。詩を書くということは、書く前と書いたあとではまったく違った人間になってしまうことである。すくなくとも、そういう可能性に接近することである。
 もし、ほんとうに石山が自分の肉体を大切にし、そこからことばを積み上げていく作業を進めるなら、最後は、修正された触覚が修正されたものとして立ち上がってくるはずである。誰も書かなかった「触覚」がことばとして書かれるはずである。それが「思想」というものである。そうならないのは、繰り返しになるが、2連目で映画監督の「頭」(ことば、映像)に頼って石山の肉眼を修正してしまったためである。石山は、いわば自分で自分の可能性を放棄してしまっている。「頭」で書くことで、石山は「肉体」の可能性を閉ざしてしまったのである。こうした変質を、私は非常に残念に思う。
 
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今敏監督「パプリカ」

2007-01-28 15:57:36 | 映画
監督 今敏 制作 マッドハウス

 キャラクターのアニメーションが特徴的である。陰影が強調される。影がスムーズに描かれるのではなく、真夏の真昼の影のように深く刻まれる。網膜に強烈に焼きつく感じがする。それがそのまま潜在意識を照らす強い光になり、「夢」そのものを感じさせる。特に、悪夢を。逃れたいのに逃れられない悪夢を。夢がなんといっても怖いのは、それが異常なまでにくっきりと見えることである。見たくないものまでくっきり見えてしまう。その怖さが、網膜そのものを刺激する。
 アニメならではのシーンの連続--というところなのだと思う。この映画の評価はアニメの可能性を最大限に生かしているということにつきると思う。思うけれど……。
 私はアニメを見ながら、これを実写で見ることができたらどんなにおもしろいだろうと感じた。アニメなのに、アニメを忘れ、実写を切望していた。
 焦点がすべての存在にあたって、何もかもがくっきり見える。そして、それをどうすることもできない。何かしようとすると必ず障害物があらわれる。それも理不尽な形で。そういうことは実際の世界ではありえない。ありえない世界であるからこそ、それを実写で見たい、という欲望がわきおこる。
 筒井康隆がパンフレットで「もしかするとこの作品、おれの一番の傑作だったかもしれない」とつい思わされてしまいました、と書いているが、そう、そんなふうに、アニメであることを忘れるのである。小説のすごさを感じさせるし、これが実写だったらと、とてもとても強く感じるのである。アニメを見ながら、欲望のなかで、ほとんど実写を見ている。そんな錯覚に陥る。アニメだから、という安心感がない。というより、そういう安心感を拒否してスクリーンを見つめてしまう。
 ちょっと、いや、かなり異常な体験であった。この体験は、まだことばにできない。ことばにならない。

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難波律郎『難波律郎全詩集』(1)

2007-01-28 13:23:09 | 詩集
 難波律郎難波律郎全詩集』(書肆山田、2006年12月25日発行)。
 文体の美しさにひかれる。『十四中隊』の冒頭の「野」。その書き出し。

秋の 日の終わりの
かわいた溶暗を風の手が拡げる

 余分なものが何もない。それでいて、余分なものというか、過剰なものというか、今ここに書かれていないものが書かれているという予感のようなものがある。何かが、ことばとことばのあいだに広がっている。
 難波の詩は、そのことばとことばの間隔(間合い)が美しいのだと思う。
 第1行の「秋の 日の終わりの」の「秋の」のあとの1字あき。その呼吸のようなものが全体を支配している。1字あきはあってもなくても文の論理上の意味はかわらない。しかし、その呼吸がととのえるリズムには大きな違いがある。1字あきの一呼吸があって「日の終わりの/かわいた溶暗を風の手が拡げる」という改行を含めたリズムが生き生きとしてくる。
 「溶暗」という一瞬意識を立ち止まらせる漢語。それを「風」という日常的なことば、冒頭の「秋」と同様、誰にでもなじみのあることばが引き受け、つづいて「手」というこれもまた日常的なことばがつづき、こらに「拡げる」と一気に進む。
 そのリズムのなかに、何か不思議なものが見えるのである。「溶暗」ということばで難波が書こうとしたもの、書こうとして、そのことばだけでは書き表せない何か、まだ形にならない不定形なものが予感のように感じられるのである。
 この不思議な感じはどこからきているのか。
 「溶暗を」と「風の」のあいだにこそ、ほんとうは深い断絶のようなものがあるはずである。少なくとも、この詩を読んでいる私には、その二つのことばは容易につながらない。何かむりやりというとおかしいけれど、そこには難波独自のことばの連絡がある。難波にはわかりきっているけれど、しかし、わかりきっているがゆえにことばにできないような、つまり「肉体」になってしまっている連絡がそこにあり、その連絡が「あき」を拒んでいるのだと思う。
 そして、この連絡は、「秋の 日の終わりの」の1字あきとが、どこかで関係しているのだと思う。ふつうなら「1字あき」はない部分に「断絶」の強調があり、ふつうなら「断絶」があるはずなのに、いっきの飛躍が、そこにあるはずの「架け橋」を吹き消してしまう。その不思議な「1字あき」の存在と、「1字あき」以上の隠された断絶の存在。そのふたつがつくりだすリズムが、難波のことば全体に不思議な予感を引き込むのだと思う。

剃刀程の流れを懐に
野は絞首後の広場のように
贓物臭い

吊るされたままからびる果実……
……たゆむ樹の骨 茜の狂気

 「断絶」をつなぐ「橋」がすべて省略されている。剃刀、絞首、臓物、からびる果実、樹の骨、狂気。「溶暗を」から「風の」へのつながりと同様、そこには何がそのことばを連絡しているかが省略されている。そういうことばを呼び込むものが難波の「肉体」であるとだけ唐突に宣言されている。
 この省略を引き受ける難波の「肉体」、そのリズムが美しいのだと思う。

 このリズムはいったい何だろう。どういう具合にことばにすれば私の感じているものを明確にできるのだろうか。「古い写真によせて」のなかの一語がその役に立ってくれるかもしれない。

風は窓から 鏡のうえをすべる
鏡に写るカンナ カンナのうしろで光る海 遠い海……

……その伸び縮みする青い響きに しずかな午後のとき

 「伸び縮みする青い響き」。これは波音の比喩だろう。その比喩のなかの「伸び縮み」ということば。難波の書くことばとことばの間合いは自在に伸び縮みするのである。そしてそれがリズムになり、音楽になる。そして、その音楽は「青い響き」のように、いつも透明である。そのときどきで色々な色がついているかもしれないが、透明さを感じさせる。
 そして、その透明さを支える「肉体」。それを私は「正直」と呼びたいと思う。難波のなかにあるどうしようもない「正直」な部分。それがある部分で不思議な「一字あき」となり、ある部分で不思議な「間のない」つながりとなる。
 人間には語れることとと語れないことがある。あるいは語ってはいけないこともあるかもしれない。そういうものを人間は「肉体」で引き受ける。そうしたものを引き受けてきた「肉体」が、難波のことばを支えている。
 そう感じるのである。
 「十四中隊」もすばらしいが、「アブダラ--古い写真によせて--」がとてつもなく美しい。正直さ、正直であることの一種の恥じらい、美しくあることの一種の恥じらいのようなものが「アブダラ」ということばに凝縮している。「アブダラ」が「アブダラ」であることを難波の「肉体」が引き受けて、そして、どうすることもできなくなって泣き崩れる。
 難波の詩について何か批評するとすれば、ほんとうは、この正直さと私がどう向き合ったかということを書かなければならないのだと思うが、圧倒されて、書くべきことばがみつからない。最後の2連を引用する。全体は、ぜひ、詩集で読んでください。

とにかく愉快なやつだったが
それからあとは もう歌えない

アブダラ 本名虻田 良 特別操縦見習士官
昭和十九年十月十五日未明 享年二十 レイテ湾で死んだ

 書いても書いても書けないものがある。それを見つめる難波の「肉体」の悲しみが、書かれたことばの深い深い場所から、ことばをかきわけるようにして立ち上がってくる。そういうことばの自然な動きを引き出すのが難波のリズムなのだと思う。



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八重洋一郎『トポロジィー』

2007-01-27 08:58:47 | 詩集
 八重洋一郎『トポロジィー』(澪標、2007年01月10日発行)。
 「0」から始まり「∞」までの断章で構成されている。その「27」。

わきだすいずみのさざなみよりも
やわらかくそとへそとへと
ひらいていくはなびら
世界をまき込みまき込み中心へ中心へといざなう
はなびら
どっちがどっち? ふるえる
バランス

 「どっちがどっち?」。この、わからないことのなかに「詩」がある。なぜわからないかといえば、それは「同時」に起きていることがらだからである。何もかもが「同時」あるいは「同等」。こういう視点が随所にある。たとえば「9」。

同時に「0」と「1 」である量子
スーパー・コンピューターの一億倍の速さで計算するが
その答えは
同時に「1」と「0」である
かも? なんと楽しい計算機

 あるいは「11」の書き出し。

あらゆるはしっこがあらゆる中心
あらゆる中心があらゆるはしっこ

 さらには「51」の冒頭。

爆発は求心力

 え? そんなことありえないでしょう。矛盾しているよ。そう言いたくなる瞬間、この「どっちがどっち?」と問いたくなる瞬間を、八重は「なんと楽しい」と楽しんでいる。その楽しみのなかに「詩」がある。
 「矛盾」「どっちがどっち?」と言いたくなる瞬間を「97」では、また別のことばで書き表している。

老人と幼な子
わずかな未来と膨大な過去
膨大な未来とわずかな過去
いいえ
幼な子は無限大のいのちの記憶をせおって
ここにあり
老人は全く未知のはるかな行く手を前に
ここにあり
めぐりあうおぼろな交点

 「交点」。「矛盾」や「どっちがどっち?」のなかでは、二つのものが出会い交わる。その交わる点のその一点で、私たちは何かを見失なう。そして私以外のものを発見し、一瞬の幻かもしれないけれど、その私以外のものになってしまう。それが楽しい。「交点」も「どっちがどっち?」も、私を閉じ込めるのではなく、逆に私を解放する。解き放つ。一瞬にして、理性も感性も爆発して、それまでの自分自身ではなくなる。「私」の「ビッグバン」である。「爆発は求心力」と八重は書いているが、爆発し、自分ではなくなってしまうことによって、自分が何であったかわかるのである。爆発した瞬間に中心がなんであったかわかるのである。
 八重はあらゆる瞬間にあらゆるものになる。トカゲにもなれば大ワニにもなるし、虹にも星雲にも砂にも風にも翡翠にもなる。「頭脳」は「肉体」になって輝き、世界に満ちる。それって本当に「肉体」? 「頭脳」じゃないの? あるいは「頭脳が肉体と判断しているもの」じゃないの? どっちがどっち?
 どっちがどっちでもいいのである。どっちがどっち?とわからなく瞬間が増えれば増えるほど世界は豊かになる。いろいろな見方ができる。いろいろ見方ができるということは、それだけ自分の可能性が広がるということだ。

 矛盾したものが交わる一点を探し、そこでビッグバンを繰り返し続けるエネルギーに満ちた詩集である。混沌の美しさ、楽しさ、ほがらかさに満ちた詩集である。読むとからなず若返る詩集である。

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石山淳『石山淳詩集』

2007-01-26 19:49:06 | 詩集
 石山淳『石山淳詩集』(トレビ文庫、2007年01月10日日本図書刊行会発行、近代文芸社発売)。
 批評精神、あるいは批判精神が印象的な詩人である。
 石山にかぎらないが、厳しいことばが「世界」に向けられたとき、ことばはしばしば肉体を見失なう。「世界」は具体的であるよりも抽象的だからだろう。相手の肉体が見えにくいために、批評する側も自分の肉体を見失なう。「頭」がことばを動かしてしまう。「世界」(対象)が巨大であればあるほど、肉体は根拠を見失ない、「頭」が冷徹になって行く。ことばから肉体の温かみが消えて行く。こうなると、おもしろくない。
 「自己菜園」は、こういう問題から免れている。視線が他者にではなく石山自身に、しかも肉体に向けられているので、おのずとユーモアが生まれる。

下顎の外側の部分
柔らかな表皮に
小豆大の突起物が
唐突として生えてきました

それはカリフラワー状の
歪な表象で笑いかけ
わたしの全神経を
瞬く間に
吸い取っていくのです

紊乱(ぶんらん)の存在は
絶えず気掛りで
手鏡を こっそり
覗き見ずにはおれません

洗顔時や
風呂上がりには
つい 指先で
局部をつまんでいて
意識下の産物となりました

 「表象」という哲学用語(?)がおかしい。吹き出物(にきび?)がそんなおおげさなものか? もっと簡単な言い方があるんじゃないの? 「洗顔時」ということばもおかしい。顔を洗ったとき(洗うとき)というような口語ではなく、「洗顔時」という文語体がおかしい。ここでは、ふつう日常でつかわれないことばが、誰もが体験するようなささいなことを描くのにつかわれている。そのギャップがおかしいのである。
 ことばが過剰につかわれている、という感じがおかしいのである。
 そうした堅苦しいこと、過剰なことばのあいだに挟まっている「こっそり」という副詞がとても温かく感じられる。「表象」などという日常ではつかわないことばが、石山の肉体を、とてもやわらかく浮き彫りにするのである。
 「こっそり」の寸前の「手鏡」の「手」がそのまま肉体の温かさを引き出す効果を上げている。これが拡大反射鏡(凹レンズ状になっていて、顔を映すと拡大する鏡--なんと呼ぶのかわからさないので、とりあえず「拡大反射鏡」と書いておく)だったりすると、それはそれでグロテスクな笑いになるだろうけれど、石山のことばはそこまでは過激ではない。ほどほどに肉体的である、「手」のように肉体と意識しない肉体程度の距離がおもしろい。

 と、ここまで書いてきて、私は思う。もし、石山のことばが、ここで「拡大反射鏡」をつかうくらい自己増殖していくものであるなら、世界へむけられた批評、批判もおもしろいものになったのではないかと思う。
 石山のことばは増えていかない。世間に流通していることば、すでに書かれたことばの範囲内にある。たとえば「メモリアル・パーク」。

二十世紀文明を象徴する
ニューヨークの世界貿易センターへ
黒いミニチュア機が 水平のまま
液状ゴムの皮膜か
チョコレート液面に
すっぽりと吸い込まれていった

それは
怪獣映画の一コマに見紛(みまが)う
スロー・モーション映像におもわれた

 「液状ゴムの皮膜か/チョコレート液面に」という独自の感覚で、つまり流通していることばからはみだした石山の過剰な部分をあらわすことばで語りはじめながら「怪獣映画の一コマ」「スロー・モーション映像」という語り尽くされた比喩に頼るようになる。そのときから、石山の肉体が排除されてしまう。「頭」のなかの世界になってしまう。何も新しいものが出てこない。
 とても残念である。

 「自己増殖」することばとは「過剰」なことばである。抽象的な批評、批判を繰り広げるときには、そういうことばはいらない。そういう余分なものは、抽象的な論理を邪魔してしまう。事件を検証するときの現場でなら、「液状ゴムの皮膜」「チョコレート液面」なんて正確なことばじゃない。ガラスとコンクリート、鉄骨でできているのに、何がゴム、チョコレートなのか、と、完全に無視されてしまうだろう。そういうことばは排除されてしまうだろう。
 ところが詩では違うのだ。文学では違うのだ。
 「液状ゴムの皮膜」とか「チョコレート液面」ということばは、石山の肉体、視力や皮膚感覚を伝える貴重なものになる。体験を語ることばになる。9・11テロを目撃した瞬間の違和感、いったい何が起きたのかわからないという、そのわからなさをそのまま伝える大切なことばになる。
 「世界」や「事件」は何が何だか、すぐにはわからないものである。わからないから混乱する。頭が混乱すると同時に肉体も混乱する。そのときの混乱を正確につたえることばが文学、詩なのである。「液状ゴム」も「チョコレート液面」も、やがて「頭」で整理され、脆弱なコンクリート、ガラス、鉄筋、現代文明の華奢なはかなさというようなことばに収斂していくだろう。しかし、そういうものに収斂させてしまってはいけないのである。「頭」に収斂され、整理されることばを肉体の方に取り戻し、肉体という場で強暴なウィルスのように増殖させなければならない。それが強暴に増殖すればするほど、「頭」は肉体をばかにするだろう。何を言っているんだ、コンクリートとガラス、鉄筋と何度いったらわかるんだ--というような批判が強くなるだろう。しかし、それでも「液状ゴム」「チョコレート液面」ということばを増やしていかなければならない。そうしなければ、石山の肉体が見たもの、その感覚が消えてしまう。世界が、そうして石山の肉体が見たものを失なった分だけ貧弱になっていく。

あれから 半年がきて
「受難の聖地」に
今も 人間が生き埋めになっている

 こういう終わり方はテレビニュースの代弁に過ぎない。
 こうしたことばを叩き壊し、「頭」からことばを肉体に奪い返さないかぎり、どんなに批判してみても、そのことばはテロリストには届かないだろう。テロリストの肉体を刺激しないだろう。もちろんテロリストの「頭」にも刺激を与えないだろう。
 「液状ゴム」「チョコレート液面」というような、石山の肉体に即したことばをもっともっと過剰に、過激に増やしていってほしい。そういう石山の肉体に根差したことばで書かれた批評、批判を読みたい。

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石峰意佐雄『かごしま詩文庫2 石峰意佐雄詩集』

2007-01-25 10:22:30 | 詩集
 石峰意佐雄『かごしま詩文庫2 石峰意佐雄詩集』(ジャプラン、2006年09月01日発行)。
 石峰の詩はとてもおだやかである。そのおだやかさはどこからきているか。「あまりにもまぶしいしろさのなかで」。その書き出し。

こうして飛行機で
あなたの遺骸に向かって近づきながら
もう お茶目なあなたはやってきている
私をためすように そっと
身をかくしたりしながら
あなたが いっぱい
やってきている

 「私(石峰)」が亡くなった「あなた」を思い出す。そのことをいったん「あなたの遺骸に向かって近づきながら」と石峰は書くのだが、すぐそれを訂正し、書き直す。「もう お茶目なあなたはやってきている」と。近付くとは石峰が単に他人の方へ接近するということではなく、他人が近付いてくる、やってくるのを受け止めることである。相手がやってきやすいように「私」の広げることである。
 包容力が石峰の自己主張である。自分を押しつけるのではなく、他人を受け入れる。そうすることで石峰は石峰がどんな人間であるかを明らかにする。

 「息子たち」は暴走族を描いている。寝床のなかで暴走族が走り回る音を聞いている。そのバイクの音の表現がおもしろい。

ねどこのなかで こうして きいている
とおいいので

(行ったり来たり)

なんだか まゆを織っているような

 めん めんめん めめめんめん めん めん
 めめめめめん めめめめめん

だだっこみたいに
しりあがりに たたみかけてくる なんという
甘えかた
ぐっしょりだ

 へうん へうん   へうん へうん

だれか いってなぐりたおしてやれ

 をあ-----お をあ-----

(あいつら ぼくらの 息子たち)
 へうん へうん    へうん へうん

 「だれか いってなぐりたおしてやれ」ということばはあるが、それは一瞬のこと。飛行機で「あなたの遺骸」に近付くようなもの。実際には、バイクで走り回るしか自分を表現する方法を知らない少年たちの声を聞いているのである。「なんという/甘え方」。少年たちを甘えん坊と受け止めている。甘えん坊は、2歳の直子が「麦茶」を「ぶぶちゃ」としか言えないように、意味のわからないことばしか話せない。それが繰り返されるバイクの音のオノマトぺである。何を言っているか、わからない。でも何かを言いたいことはわかる。だから「なんという/甘え方」というしかない。そんなふうに批判しながらも、石峰は少年たちを受け止めている。「あいつら ぼくらの 息子たち」と受け止める。この包容力が石峰のことばの力である。

 石峰は彼自身の包容力をもちろん「包容力」というようなことばでは表現していない。「共生」ということばで表現している。「ら獣」という詩のなかに「共生」ということばが出てくる。「ら獣」とは、ラクダのことだろう。その長い毛を裸(ら)の獣にとりついた蚊のようなものと見立て、動物と蚊が「共生」していると描いた作品である。
 裸の動物にとって、蚊にとりつかれて生きることはどんな意味があるだろうか。蚊は裸の動物に寄生することで生きているが、宿主である「ら獣」は? 
 石峰は、最後に何やら結論めいたもの(?)を書いているが、すっきりしない。
 実は結論などないのだ。それがどんなものであれ、何かが自分の方に向かってきたらそれを受け入れる。それが幼い子供、自分の考えを自分のことばで語ることのできない少年ならばなおのこと、それをそのまま受け入れる。「包容力」というよりは、受け入れながらいっしょになって生きる。そういうことを石峰は石峰の生き方として選んでいる。そういうことを「思想」として肉体化している。
 そういう思想がそのまま、ことばのやわらかなふくらみとなっている。積み重なって、人間のぬくもり、やさしさを滲ませる詩になっている。

 「樹と火」という詩もすばらしい。火事の延焼を樹木が身を挺して防ぐという詩である。そのなかほど。

火が跳び移ろうとしたのか 樹が
抱き抱えようとしたのか
吹きちぎるような音がして いっしゅん
風のようにさあっと靡いたのに合わせて
樹が火のかたちと同じになったみたいだった
すると 樹は火をすっかり呑みこんで
もう火はどこにもなかった

 「私は火だったのか」ということばでこの作品は締めくくられているが、これは石峰の深い深い自省のことばだろう。火事の延焼を防いだ樹のように生きたい、そういう包容力で何かを受け止めたい。けれど、ほんとうにそういうことができているだろうか。もしかすると樹を理想とする石峰自身が火ではなかったか。そんなものが無意識のうちになかったか。
 夢--人間の無意識がつくりだす世界を描くという形を借りながら(「樹と火」は石峰が夢のなかで目撃した世界である)、石峰は静かに思いめぐらしている。
 「私は火だったのか」という自省で作品を閉じる力、そこに石峰のほんとうの人間としての力、「思想」があると思った。
 深く深く感動した。


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清岡卓行論のためのメモ(16)

2007-01-24 13:11:36 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 散文詩集『夢のソナチネ』(1981年、集英社)は文字通り夢を描写している。夢でしかありえない不思議な飛躍、ずれが、強靱な文体で描かれている。「青と白」「便器と包丁」のように「と」を含んだものもある。その「便器と包丁」は野球連盟の事務局につとめていたときの夢である。何度か事務所が引っ越している。その引っ越しの何回目か。清岡は尿意を覚え、トイレに駆け込む。すると、便器のなかに包丁が沈んでいる。

 私の仰天は二つの思いに分裂していた。一つは恐怖である。私の下腹部に秘かに擬せられていたかのような包丁。それはペニスあるいはホーデンの切断という脅しをかけているのではないか?(略)
 二つに分裂した思いのうちのもう一つは、審美的な感嘆である。どちらもまっさらなものである便器と包丁が、澄みきった水によって結びつけられるという奇妙な組合わせに、ある緊張の魅力を覚えたのである。それを一つの美、一つの歪んだ美と呼ぶことは、滑稽だろうか?

 二つの思いのうちの後半のもの。そこに清岡の「詩」の原形のようなものがくっきりと説明されている。何かと何か。その組み合わせを清岡は「結びつけられる」と書いている。そして、その結びつきを「緊張」と呼んでいる。
 この「緊張」はとても不思議な定義である。清岡独自の定義であると思う。
 便器と包丁には、私の感じではどんな「緊張」もない。野菜と包丁なら、そこには野菜を切るという緊密な関係がある。そしてそのとき指を誤って切るなら、指と包丁の間には緊張した関係が生まれる。便器と包丁では、そのどちらも相手に作用することはいっさいない。無関係である。単なる出会いである。
 それが「緊張」したものに感じられるのは、実は一つ目の恐怖、ペニスやホーデンが包丁で切断されるかもしれないという恐怖があってのことである。「澄みきった水によって結びつけられる」と清岡は書いているが、ほんとうは、「尿意」によって、トイレという場所で、清岡の肉体と便器が出会い、清岡のペニス(肉体)と包丁が出会っている。緊張の奥には肉体が潜んでいるのである。また、「尿意」の「尿」、その黄色く肉体の老廃物にまみれた水(肉体)と、便器のなかのまっさらな水の出会いも、ほんとうはそこに隠れている。「澄みきった水によって結びつけられる」は目に見える現象であり、ほんとうは「尿意」(肉体のなかの尿)によって便器と包丁は結びつけられているのである。
 清岡の文体は清潔であり、また論理的であるために、そのことばは精神・頭脳というものに強く支配され、リードされているように感じるけれど、実は、その奥にはかならず肉体がある。肉体感覚がある。それがことばにふくらみを与えている。このことを忘れてはならないと思う。
 そして、この「緊張」を清岡は「美」と呼んでいる。
 あるものとあるものが出会い、結びつく。そのあるものとあるものが、日常のなかではほとんど出会うことのないものである場合、その結びつきは、「緊密」(包丁と野菜のような関係)ではなく、「緊張」(包丁と無防備な肉体)になる。肉体の危機、とは自分が自分でなくなってしまう可能性を秘めている。そうした「緊張」が「美」である。もちろん肉体が危機にさらされるだけでなく、それが実際に危害を加えられてしまえば、そういうものを「美」などとは呼べないけれど、危害が加えられないあいだは「美」である。いわば「歪んだ美」である。
 そして、この日常ではありえない出会い、というものを考えるとき、また「円き広場」が思い浮かぶ。どこからかやってきて「広場」にたどりつく。そしてそこから目的とは違った道に間違って入ってしまう。すると、そこには予想外の出会いが生まれる。人間とものとの関係が一気に緊迫する。ときには危険なものにもなる。そういうスリルを含んだ世界のありようが「円き広場」を中心にした世界なのである。そして、清岡は、そういう緊張した世界に「美」を感じるのである。

 清岡は「と」による出会い、結びつき、その緊張と「美」。 清岡は常に「美」を描こうとしている。「美」の体験を描こうとしている。「牡丹のなかの菩薩」(『駱駝のうえの音楽』)には次の行がある。

現世を愛するための唯一の通路は
真理ではなく
慈悲でもなく
ほかならぬ美であるということを
あの顔は教えてくれたのであった。

 清岡は「真理」も「慈悲」も描こうとはしていない。「美」だけを追い求めているのである。引用部分のつづき。

白く大きな 満開の牡丹の花に
その魅惑のまぼろしを
わたしはきょう 生き生きと感じた。
幻影となることによって
美は確実なものとなる。

 「魅惑」はこれまで何度か書いてきた「放心」につながる。魅惑され、人間は「放心」する。自分が自分であることを忘れる。それは自分の「枠」を見失い、自分以外のものと融合することでもある。そして、そうやって自分を見失ってしまうとき、人間は「生き生きと感じる」。もちろん自分の肉体がとけて、何か別なものと融合してしまうということなど実際にはありえない。そういう思いは「幻想」(幻影)である。だからこそ、その幻影は絶対的な「美」なのである。
 清岡は精神と肉体の関係も、どこまでも徹底的に追い詰めていく。そして、そこにことばの運動を展開する。
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清岡卓行論のためのメモ(15)

2007-01-23 12:08:48 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 「穀物と女たち」(『駱駝のうえの音楽』)は「四個の女子泥俑」を描いた詩である。そのなかにに「円き広場」を連想させることばがある。

楽しむにしろ 倦むにしろ
また和むにしろ 恨むにしろ
ゆるやかな 忘我に近い時間の流れだ。
対象のない ふしぎな郷愁の
風もゆるやかに吹きぬける。

 「四個の女子泥俑」は「円き広場」である。そこから放射状に伸びる道が楽しむことだったり倦むことだったりする。「四個の女子泥俑」を通ることでどこへでも通じる。そうしたことを「忘我に近い時間」と清岡は呼んでいる。それに近いことばとして、清岡は「放心」ということばもつかうことがある。「放心」の「放」は「円き広場」の中心から、その外側へ向けて広がる道をあてどなく広がっていくことだろう。
 「忘我」を清岡はまた「対象のない」ということばで言いなおしている。そこには「円き広場」の中心からただただ放射状に伸びる道を外側へ向かって動く運動があるだけである。それがどこを目指しているかは問題ではない。「どこへ」という対象がない。それはつまり、どこへ行こうと、結局それは「円き広場」の中心とつながっており、いつでも「円き広場」の中心へ舞い戻り、別の方向へ行けるという意味でもある。ある方向へ向けて動くことだけが思念されているわけではない。往復する運動が常に思い描かれているのである。
 そうした「忘我」を「ふしぎな郷愁」と呼ぶのは、そのイメージのなかに「円き広場」の記憶が反映しているからだろう。清岡はさまざまなものに触れながら「円き広場」の夢のような一瞬を体験し続ける。清岡の詩には、いつも「円き広場」が隠れている。「と」という中心と、その外周。「と」を通りながら広がる空間(宇宙)が隠されている。

 『駱駝のうえの音楽』には何度か漢詩が引用されている。引用しながら清岡は杜甫や李白と交流している。そのときたとえばその漢詩を思い出させた中国の遺品が「円き広場」なのか、それとも杜甫や李白の詩が「円き広場」なのか、あるいは清岡自身が「円き広場」なのか。たぶん、いずれでもいいのだと思う。往復すること、何度も何度も繰り返しそこを通り、別の場所へ行き、またもどってくることさえできればいいのである。
 表題の「駱駝のうえの音楽」は唐三彩に描かれた駱駝に触発されて書いたと思われる作品である。(あるいは唐三彩でつくられた駱駝の置物?に描かれた絵に触発された詩かもしれない。)そこには楽師があつまり音楽を奏でている。その聞こえない沈黙の音楽を聴こうとして、想像力の翼を広げる作品である。そのなかに、「円き広場」に通じるおもしろい比喩がある。
 李白の「煙花(エンクワ)ハ 落日(ラクジツ)ニ宜(ヨロ)シク」で始まる4行を引用したあとで清岡は書いている。

これら二つの情緒が交差するやっとこで
唐三彩が秘める
音楽の尻尾の先でも挟めないか?

 「二つの情緒が交差する」。これは「やっとこ」の描写だが、その「交差する」という部分に私は「円き広場」を感じるのである。
 「円き広場」からは放射状に道が伸びる。それは「円き広場」の中心に立って眺めた風景である。少し位置をずらして眺めれば、いくつもの道は「円き広場」で交差しているのである。交差したとき、その交差を無視してまっすぐに突き進むこともできる。しかし、交差を利用して違った角度の道へと進むこともできる。そのとき何が起きるだろうか。今まで歩いてきた道の記憶が新しい道の両側に広がる風景をどんなふうに見ることができるだろうか。その道だけを通っている人間には見えない新しい何かが見えはしないだろうか。きっと見えるはずである。
 だからこそ、「円き広場」には重要な意味がある。そこを通ればどこへでも行けるというだけではなく、そこを通って別の道をいつでも選ぶことができ、角度を変えるたびにその道は必ず新しい道に生まれ変わるのだ。すでに誰かが通った道であっても、それはそのとき誰かが見た道ではなく、清岡自身の道なのだ。
 李白の詩を通って、そのまま李白のことばの延長線へ進むのではなく、唐三彩の驢馬の絵へと進む。すると、そのとき、今まで清岡には聞こえなかった音楽が聞こえるかもしれないのである。
 そういうことを、清岡は次のように書いている。

おお 鑑賞の回廊での
馬鹿げた観念のあそび。

 「あそび」。その楽しさ。そこに「忘我」がある。「放心」がある。そして、「ふしぎな郷愁」もある。
 「詩」は目的ではない。「あそび」なのである。「忘我」「放心」し、目的に固執していたときには見えない新しい世界を楽しむことなのである。そうやって「我」の形をくずしてしまう。変形される。何にでもなれるものにしてしまう。それが「詩」だ。
 その起点として、清岡は「と」を考える。「円き広場」を考えるのだが、この「あそび」の広がり、豊かさを、清岡は、最終連で次のように書いている。

いつかわたしが この古い都の
千三百年ほども経った
新しい通りを歩くかもしれない日
夜 ホテルに泊ったわたし日本人の
深い疲労の眠りのなかで
その沈黙の音楽は
やっと溶けはじめるかもしれない。
それも 遥かに遠い過去の
声や音としてではなく
わたしを初めて
そして優しく迎えてくれる
樹や建物の匂いとして
空や雲や衣装の色として
湯ざましや饅頭(マントウ)の味として
あるいは
戦争の傷をおおう
歴史の流れの 甘く沁みる時間として。

 「初めて」ということばに託された思想は、「詩」は人間を再生させるということである。「円き広場」を通って、新しい道を歩くとき、人は生まれ変わるのである。それも「観念」が新しくなるのではない。五感が、肉体が新しくなるのである。「匂い」「色」「味」を「初めて」のごとく体験するのである。そうした肉体の体験のあと、初めて「時間」という観念も肉体に甘く沁みるのである。


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マーチン・スコセッシ監督「ディパーテッド」

2007-01-22 23:55:07 | 映画
監督 マーチン・スコセッシ 出演 レオナルド・ディカプリオ、マォト・デイモン、ジャック・ニコルソン

 この映画にはとても不思議なシーンがある。レオナルド・ディカプリオが演じる覆面捜査官が精神科医を訪問しセラピーを受けるシーンである。「インファナル・アフェア」にはこういうシーンはなかった。マーチン・スコセッシがリメイクするにあたってつけくわえたシーンである。このシーンは映画を間延びさせる。「インファナル・アフェア」が「男の世界」に徹底し、緊張感を高めていくのに対し、この映画ではこのシーンが邪魔をしハードボイルドではなく半熟程度に成り下がっている。
 しかし。
 このシーンがあって、この映画ははじめて「リメイク」を超えて「オリジナル」になる。
 この映画の「オリジナル」とは何か。ディカプリオの演技である。ディカプリオの魅力を最大限に引き出す--それがこの映画の「オリジナル」である。
 レオナルド・ディカプリオの演技の特徴は透明感にある。演じる、というのは映画にしろ劇にしろ、本人以外の人間を造形しながら、それでもなおかつ本人(レオナルド・ディカプリオ)であることを観客に伝えるものである。役であると同時に本人でもある。その一体感があるとき、私は「透明感」がある役者と呼んでいる。この映画ではその透明感がいっそうとぎすまされている。

 この映画でディカプリオが演じるのは、マフィアに潜入する覆面警官である。殺人にも平然と向き合い、向き合うことで警官の使命に反していると意識しながら、なおかつ大きな犯罪を摘発するために、それはくぐり抜けなければならない矛盾だと意識して任務についている。つまり、自己矛盾を抱えながら、演じるということを演じているのである。というより、演じていることがばれてはいけないという役を演じるという矛盾をさらけだしているのである。
 まずディカプリオは、そういう一面を引き出す。演じる。そして、透明になる。
 役のなかではタフな男である。しかし、それを演じているディカプリオは華奢な体と繊細な顔である。目の色、輝きに感情が浮き彫りになって見える。ここにすでに「矛盾」の芽がある。マフィアの組織のなかで、華奢な体、繊細な顔が、苦悩し、おびえ、震えるたびに、それがまるでディカプリオそのものに見えてくる。ディカプリオが警官を演じ、その警官が覆面捜査官を演じているということは頭のなかでは理解しているが、緊迫したシーンでは、見ている私の五感はディカプリオが覆面捜査官そのものになっていると受け止めてしまう。それがスリルをあおる。
 次に、いのちの危険がおよばないシーン、つまり「演技上での地」の警官を演じる部分では、緊張感ではなく、いらいらの演技の中にディカプリオ自身を出してくる。覆面捜査官であることがばれたらどうなるか、という緊張感に苦しんでいるのだが、警官にもどった場面では、その緊張感を上司にわかってもらえないという、いらいらした感情がむき出しになる。このいらいらも華奢な体、繊細な顔があってこそむき出しになる。強靱さを感じさせる体、叩いても壊れないような顔では、いらいらは不安ではなく欲求不満になってしまうだろう。ここでも私は、役ではなく、ディカプリオそのものを見ている気分になる。
 精神科医との関係では、いらいらの原因を説明できないために、二人の間にマフィアとの間でも警官との間での生じなかったもうひとつの感情が噴出する。「不透明」な自分を伝えるしかできない悲しみ。悲しみを救ってもらいたいという甘え、悲しみを訴えることができない憤懣、頼りたい気持ちと反抗心が入り交じった思春期の少年のような表情が噴出する。今の自分は「演じられた男」である、何を演じているのか知らないまま、演技していることだけは理解してほしいとディカプリオは医師に訴える。もちろん直接ではなく、苦悩する元警官というもうひとつの役を演じながらである。この複雑さの中に、生々しいディカプリオが顔を出すのである。ディカプリオそのものが顔を出すのである。「ディカプリオそのものだって? 冗談じゃない。実際にあったこともないのに、あんたが見ているのは演技しているディカプリオだけだというのに」という生々しい声が聞こえてきそうである。その生々しい声に引き込まれてしまうのである。一体感を拒否する声そのものに一体感を感じてしまうのである。
 このシーンがなくてもストーリーは成り立つが、このシーンがあるからこそ、この映画にディカプリオをつかった理由がわかる。このシーンゆえに、ディカプリオがいっそう輝く。ディカプリオがディカプリオとして、全体に広がって行く。映画全体を引き締める。もうひとりの「裏切り者」、マット・デイモンは単なる「助演」以下の登場人物になってしまうのである。マット・デイモンは単なるストーリーを展開するための役者であって、この映画では彼自身を見せる必要がない。そして、実際に彼自身を見せてはいない。

 たぶん、マーチン・スコセッシは原作のハードボイルドな「男の世界」よりも、その「男の世界」をとおして「恋愛」を描きたかったのだろう。「恋愛」といっても男が女を口説くというハードボイルド恋愛ではなく、女が男の繊細さ、鋭敏さに気がつき、それの保護者となることで成立する「恋愛」である。そういう世界でこそディカプリオが輝くということを描きたくて、こういうシーンが生まれたのだと思う。
 変な部分、というより精神科医の登場がない方が映画そのものは緊張感が強まりおもしろくなるという意見があると思うし、私もそう考えるひとりだが、そういう変な部分、余剰の部分、どうしてもそれてしまった「脇道」のような部分に、人間の本質は出るものである。
 つまり、精神科医はいわばマーチン・スコセッシなのである。精神科医に託して、マーチン・スコセッシは「ディカプリオは繊細で敏感だ。その感情の奥には甘えと反抗心が拮抗している思春期の少年がいる。ディカプリオ自身どう制御していいのかわからない。それが心配でしようがない」と言っているかのようである。
 それがこの映画の「オリジナル」である。
 この映画はストーリーを描いているのではない。ストーリーは「リメイク」である段階で、すでに放棄されている。そんなものに監督は執着していない。執着しているのは、ディカプリオをどれだけ魅力的な役者に仕立てるかということだけである。それが「オリジナル」の部分だ。
 これはマーチン・スコセッシからディカプリオにあてたラブレターであり、ラブレターであるという点で「オリジナル」であり、その監督の要求に完全にディカプリオがこたえているという点でも「オリジナル」である。

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清岡卓行論のためのメモ(14)

2007-01-22 22:50:09 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『駱駝のうえの音楽』(1980年)は中国を題材にしている。清岡卓行の特徴は「頭」で旅行しないことである。かならずそこには肉体がある。「白玉の杯」。

注がれたものが
葡萄の美酒であったかどうか
手にしたものが
夜光の杯であったかどうか
そんな外側の夢は 忘れてしまったが
今も 舌の先に
甘く悩ましい別れの味は 沁みたままだ。

 「外側」。その対極は「内側」。そして「内側」が「肉体(舌)」であるなら、「肉体」の対極にあるのは何だろうか。「頭」である。「頭脳の記憶」である。それが「頭脳」のものであるからこそ、「頭脳」はそれを「忘れ」ることができる。ところが「肉体」は忘れることができないのである。いつまでも肉体の内部に「沁みたまま」残っている。しかも、「甘く悩ましい」という感情となって残っている。あるいは「味」という味覚として残っている。そして、その味覚に「別れの」という修飾語がかぶさるとき、味覚はまたひとつの感情となる。「頭脳の記憶」は「忘れ」ることができる。しかし肉体にからみついた感覚、感情はいつまでも残り続ける。
 最後の連。

淡い白の半ば透明な肌のなかで
濃い白や薄い黄の 小さな濁りが
若い日に解けなかった
いくつもの謎のように
散らばって 凝えたままだ。
そして 飲口にかぶせられた金の輪の
深く静かな輝きが
若い日の赤裸裸な告白を
やさしく吸って 黙ったままだ。

 これは「杯」の描写だが、まるで性愛の始まりのように、濃密な揺らぎで肉体を揺さぶる。「頭脳」ではなく、肉体を揺さぶる。先に引用した2連目の「舌」と「吸う」が重なり合う。杯から酒を飲む。その単純な動きが、まるで舌(唇)と杯との性愛のように生々しい。杯から舌をつたい、のどの奥へと流れていく酒は、一期一会の出会い、一期一会の激しい恋愛のように肉体に刻印される。一期一会は出会いであると同時に「別れ」である。もしかすると、「若い日に解けなかった/いくつもの謎」とは、一期一会のことかもしれない。出会いと別れ。(ここにも、書かれないない「と」がある。つまり、出会い「と」別れが……。)その深くからみあった「事件」。それを「頭脳」の記憶としてではなく、肉体の在り方として(今ある状態として)清岡は描く。その瞬間に、人間が生々しく立ち現れてくる。

 清岡は他人を思い描くときに、常に肉体を思い浮かべる詩人のように感じられる。「頭脳」(思考、記憶)ではなく、具体的な肉体を思い浮かべ、その肉体への共感を手がかりにして他者へと接近していくように感じられる。
 「ある画像●」(谷内注・黒丸は石偏に専、せん、と読む。煉瓦、タイルに似たものを表す)。駱駝が「蘇蘇草(駱駝草)」を駱駝が食べたのではないかと想像する。それにつづく行。

そして しこたま
その好物を食らったのではないか。
一かたまりの蘇蘇草--
いっぱいの細い棘が
口のなかを血だらけにしてくれる
いとしのアルカリ植物を。

血はもう おさまっているだろうか。
左手で杖をつき
右手に握った手綱で
驢馬をひいて歩く男の
とんがり帽子の頭のなかに
女のことで傷ついて滲んだ
血はもう おさまっているだろうか。

 清岡にとって「頭」さえも肉体である。「頭」は「思考」「記憶」する前に、まず肉体である。そこには血が流れている。「思考」や「記憶」にとって「血」は比喩であるが、「肉体としてのあたま」にとって「血」は比喩ではなく、肉体そのものである。手で触れれば生暖かい存在である。そうした手触りのあるものを媒介にして、清岡は駱駝にもなれば、駱駝をひいて旅する男にもなる。「頭」で想像するのではなく、「肉体」で想像するのである。
 清岡の詩は論理的でありながら「知」の冷たさがない。いつも人間の温かな感覚がある。それは清岡がことばを「頭」ではなく「肉体」で動かしているからだろう。清岡は、いつも彼の肉体が存在する場所で詩を書いている、という印象がある。

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高岡修『蛇』

2007-01-21 23:27:46 | 詩集
 高岡修『蛇』(思潮社、2006年12月20日発行)。
 高岡のことばはとても清潔である。透明である。
 「天網の蛇」の第1連。

火にも
凍点がある
むしろ火は
凍点の周囲に
思念の肉を燃えさせる

 むだなことばがない。だから清潔である。そして、「火」と「凍点」という、いわば反対の概念のすばやい衝突が余分なものを削ぎ落としているこのために透明な印象が強くなる。
 第2連目も似た印象がある。

蛇たちの冷血の
それゆえの情念の火
永劫に眼を閉じられぬ奈落の
それゆえの悦楽の火

 「冷血」と「情念の火」。また1連目と2連目の最終行の「思念の肉を燃えさせる」と「悦楽の火」の呼び掛け合いもすっきりしていて、とても透明な感じがする。
 対立する概念の衝突と、類似のものの呼び掛け合い。この手法は高岡の好むものらしい。2つのものが対立したり、向き合ったりして、無駄なくことばが動いていく。その清潔さが高岡のことばの特徴だと思う。
 そう理解した上で、私にはひとつの疑問がある。不満がある。あまりに清潔すぎる。透明すぎる。なぜこんなに清潔で透明でなければならないのか。
 たとえば「思念の肉」「悦楽の火」ということばがあるが、私には「肉」や「悦楽」が実は感じられない。ことばとしては理解できるが、そこに書かれている「肉」も「悦楽」も手触りがない。私のどんな感覚も呼び覚まさない。ただ頭脳のなかでことばが結びつき、そういうことばの結びつきというものがあるということしか明らかにしない。頭で読まされているような感じがする。
 「笛」に象徴的な行がある。

蛇たちはかつて
外耳を捨てた
蛇たちは
地の声のみを
脳凾で聴く

 高岡がつかっていることばを借りて言い換えれば、高岡が書いていることは、すべては「脳」の世界なのである。
 そして、高岡のことばの運動は、いわば「数学」なのである。
 「肉」にしろ、「悦楽」にしろ、そういうものは個人個人の生活、体験によってどうしようもなく汚れているし、その汚れゆえにうさんくさく、うさんくさいがゆえにひきこまれてしまうものだが、高岡のことばにはそういうものがまったくない。すべてのことばは「数字」と同じように、そのものを指しているのではなく、それを動かして思考するときの抽象的な概念の形なのである。
 5センチの鉛筆も10センチの鉛筆もそれぞれ1本であり、1+1=2。あるいは赤鉛筆も青鉛筆もそれぞれ1本であり、1+1=2。ほんとうは1+1=2といえないものがあるにもかかわらず、そんなふうに処理してしまって困らないという部分が「数学」にはある。5センチの鉛筆ではいやだなあとか、赤鉛筆がほしかったのにとか、これでもがまんするか、とかというような思いを除外しても成り立つある関係というものが「数学」にはある。そういう「頭脳」でのみ通用する便宜上の関係をなんとなく感じるのである。
 「火」と「凍点」、「思念」と「肉」、「冷血」と「情念」、「肉」と「情念」と「悦楽」と「火」。これらを結んでいるのは「肉体」の深い闇というよりは、「頭脳」のなかでおこなわれる加減乗除のようなものである。
 そして、この「数学」は、何といえばいいのだろうか、あまりにも整然としている。つまり、間違いがない。「正解」へ向かって、まったくむだな過程をたどらない。一直線に最短距離で進む。そのことがいっそう「頭脳」のなかの世界を印象づける。

 「水の空」という作品のなかに次の2行がある。

ほんとうの洪水は
こころの中にこそ起こる

 この「こころ」も「肉」や「悦楽」と同じように、私にはとても抽象的なものに感じられる。「こころ」というより「頭脳」と置き換えた方がわかりやすいような感じがする。「こころ」というには何かあまりにも具体性に欠ける感じがするのである。「こころ」さえも高岡にとっては「頭脳」なのだろうと思う。ことばの「数学」のなかで動く抽象的な概念なのだと思う。

 だから「肉体」「情念」を描けば描くほど、そこから「肉体」「情念」が消えて行く。美しい「数式」のような関係のみが浮かび上がる。「眼裏」の最後の部分。

死んだ蛇たちは
ついに
月光の情欲そのものとなって
永劫を
飢えるだろう
性愛の果てに咲くという
桔梗の花弁のような眼裏に焦がれたまま

 「性愛」も「性愛の果て」も、私には、この作品からは実感できない。いやらしい、けれどしてみたい、うらやましくて、憎らしいとも、じれったいとも感じない。気持ち悪いとも感じない。ぜんぜん「焦がれ」ないのである。
 刺激されるのは「頭脳」だけである。
 「月光の情欲」ということばが美しく感じられるとしたら、それは「月光の悲しみ」というような「常識」(既成概念、常套表現)を裏切る「数学」がそこにあるからだ、そういう「数学」をつかえば「詩」はできるのだ、という刺激だけである。最初に引用した「火」と「凍点」の関係も同じである。既成概念を裏切る「数学」、想定したことがなかったものの出会いという「数学」が「詩」を、頭脳のなかにつくりだすときの、不思議な快感がそこにあるだけなのだと思う。
 「言語の数学」を楽しみたい人にはとても楽しい詩集だろう。「言語の数学」ではなく、「言語の混沌」を読みたい人にはあまり向いていないだろうと思う。



 これまで書いてきたことと少しずれるのだが……。
 詩集中、「笛」の次の部分だけは、私は非常に好きである。そこには「頭脳」ではないものがある。「数学」ではないものがある。あるいは、私の「数学」では計算できないというだけのことかもしれない。

脱いでも脱いでも
おのれ自身が
やってくる
脱いでも脱いでも
いのちに鱗が
生えてくる
 
 特に「生えてくる」に肉体を感じた。こころを感じた。情念と言い換えてもいいし、ほかのどんなことばに換えてもいいのだが、ようするに「頭脳」ではないものを感じた。手触りを感じた。
 こういう行がもっとあれば、私は『蛇』が大好きになったと思う。

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植田理佳「売買」ほか

2007-01-20 17:06:17 | 詩集
 植田理佳「売買」ほか(「不羈」32、2007年1月15日発行)。
 植田理佳「売買」は短文が積み重ねられた作品である。

 石を置くと歌が現れた。骨を置くと酒が差し出された。皮には穀物。心臓には刃。

 短文の魅力は飛躍力にある。省略することが生み出すスピードにある。植田のこの作品はそうした魅力を生かしきっていないと思う。
 書き出しの「石を置くと歌が現れた。」は美しい。この一文自体に飛躍がある。石と歌。その異物同士が出会いそのものが飛躍である。飛躍は、一瞬、私の頭を空白にする。つまり何が起きたかわからず、その空白の中で迷ってしまう。迷ったときは、何か、その迷いから救い出してくれる「道」のようなものが欲しい。ところが植田はそういう「道」を差し出さずに、さらに飛躍しつづける。その飛躍が最初の石と歌の飛躍(断絶)より大きければ、自然にその飛躍(断絶)に誘われてしまうものだが、その飛躍(断絶)が小さいと、ただ混乱させられているだけという気持ちになる。骨と酒、皮と穀物、心臓と刃。これでは「物々交換」になってしまう。石と歌は「物々交換」のようであって「物々交換」ではない。「歌」が「物」ではない。石と歌を等価とみなすものは、よほどの「好き者」である。そして、実は最初の1行は、そういう「好き者」を暗示しながら、次のことばで「好き者」を否定してしまっている。そのために短文でありながら、ずるずるとした感じ、飛躍力ない感じが漂ってしまう。
 それはそれでいいのかもしれない。植田は短文によって飛躍力ではなく、むしろ停滞感を書くという試みをしているのかもしれない。書き出しにつづいてすぐ「水は留まりながら流れ」という停滞を象徴することばが書かれている。それならそれで、もっと粘着力のある文体が必要なのだと思う。ことばが誘っていく方向が、その1行1行に内在する粘着力が必要なのだと思う。どうもちぐはぐな文体という印象が強い。短文なのに短いという印象がまったくない。粘着力ですべてを直列にして暴走するという感じでもない。並列、分散、という感じがしてしまう。
 ただ、ときどきおもしろい飛躍がある。突然「詩」が立ち上がってくる行がある。

 川に小便をすると蛍が飛んだ。

 小便をすることと蛍が飛ぶことは無関係である。その無関係なものが突然出会う。そして、その出会いに肉体が介在することで、感覚が刺激される。眠っていた感覚が一気に目覚める。飛躍とは実は感覚の目覚めのことなのだと実感させられる。このことばに先立つ「川の匂いが鼻にある。」という短い文もすばらしい。さりげなく肉体を覚醒させている。これがあるから「川に小便をすると蛍が飛んだ。」の視覚の覚醒がすーっと理解できるのだと思う。



 小杉元一「そのとき緋牡丹博徒は傘をさして」。最後の2行がおもしろい。

匕首を胸にのんで傘は闇のはらを
渡る

 「闇のはら」は「闇の原」だろうか。「闇の腹」だろうか。私は「腹」と取りたいのだ。それに先立つ「みんなのどぼとけばかりひかっていた」の「のどぼとけ」、「匕首を胸にのんで」の「胸」が「原」ではなく「腹」を引き寄せる。「闇の腹」と思った瞬間、闇が肉体をもったもののように生々しくなる。闇が体内と融合することで、そこを渡って行くのが映画俳優ではなく、「私」になる。そういう感覚の混乱、夢のような感じが楽しい。



 小柴節子「ゆき ふるる」のなかの2首にもひかれた。

うたわないわけについてうたおうか実存の傘を折りたたみてのち

まなうらを寺山修司駆けぬけり五月の書架を翔びたつカモメ


コメント (2)
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