詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇285)Obra, Jesus del Peso

2023-01-31 17:44:29 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso

 Al ver la obra de Jesus en FaceBook, a veces es difícil distinguir si se trata de una escultura o una pintura. ¿Por qué? Quizá sea porque las "formas" expresadas son encarnaciones, pero trascienden la corporeidad. Es una abstracción, o mejor dicho, se ha sublimado en un concepto.
 Es, por analogía, un número primo.
 Un número primo es un número aislado que sólo puede dividirse por sí mismo y por uno, pero el objeto tridimensional en la conciencia de Jesus es único en cuanto a las longitudes y ángulos de sus lados y las superficies que crea. No se puede desmontar y volver a montar.
 No se sabe dónde existe, pero aparece de repente y afirma su independencia (individualidad). Rechaza las líneas rectas, los ángulos y las superficies que existían antes y existe por sí misma. La soledad es tan fuerte que, tanto si se trata de un cuadro como de una escultura, da la impresión de ser un "número primo".
 No tengo claro por qué deben existir los "números primos" en matemáticas. Del mismo modo, no sé por qué tiene que existir la obra de Jesus, pero existe.

(este texto traducido por DeepL.)

 Jesus の作品をFaceBookで見ていると、それが彫刻なのか絵画なのか、わからなくなる。なぜだろうか。表現されている「形」が具現でありながら、具現を超えているからだろう。抽象というか、概念に昇華している。
 それは、譬えて言えば素数。
 素数は、その数字そのものと1でしか割ることのできない孤立した数字だが、Jesus の意識のなかにある立体は、各辺の長さ、角度、それがつくりだす面が一回限りのものである。分解して組み立てなおすことができない。
 どこに存在するかわからないが、突然あらわれ、単独であること(個性であること)を主張する。それまで存在した直線、角度、面を拒絶して、単独で存在する。その単独性が強くて、絵画であろうが彫刻であろうが、「素数」の印象になってしまう。
 なぜ、数学において「素数」が存在しなければならないのか、私にはわからない。同じように、Jesus の作品もなぜ存在しなければならないのかわからないが、それは存在してしまっている。

 

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マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)

2023-01-30 21:34:22 | 映画

マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)(中州大洋スクリーン1、2023年01月30日)

監督 マーティン・マクドナー 出演 コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、バリー・コーガン、ケリー・コンドン

 打ちのめされる。希望しか存在しない絶望というものがある。一方、逆に、絶望が唯一の希望ということもある。この映画は、ふたつが交錯するのだが、私は、後者に強く揺さぶられた。
 希望しか存在しない絶望をコリン・ファレルが演じ、絶望しか存在しない希望をブレンダン・グリーソンを演じるのだが、映画のなかの年齢で言えば、ブレンダン・グリーソンに近いせいか、彼の絶望と希望(欲望といってもいい)に「チューニング・イン」してしまう。
 絶望のために、彼は、自分の指を切り落とすのだが、それしか希望を実現する方法がないからである。絶望と引き換えに、音楽を完成させる。それ以外に、方法を見つけることができない。
 この絶望が、コリン・ファレルにはわからない。同じように絶望が唯一希望であるケリー・コンドンにも、わからない。それはブレンダン・グリーソンが音楽をめざしているのに対し、ケリー・コンドンは文学(読書)を支えにしている違いから来るかもしれない。ブレンダン・グリーソンは「つくりだす」愉悦を求めている。ケリー・コンドンは「つくりだす」愉悦を求めてはない。
 言い直すと。
 ブレンダン・グリーソンにとって、音楽がつくりだせるなら、その音楽が「絶望」をあらわしているか、「希望」をあらわしているかなど、問題ではないのだ。だから「絶望」を唯一の「希望」として生きることができる。音楽が完成したとき、左手の指を全部切り落としてしまうが、その「絶望」と音楽を引き換えにする決意があったからこそ、音楽が完成した。そこには、「絶望」の愉悦があるのだ。
 これは、希望しか存在しない絶望しかわからないコリン・ファレルには、わからない。ここに、もうひとつ、絶妙な人間が登場する。希望しか存在しない希望を生きるバリー・コーガンである。彼には、絶望がわからない。警官の父親に殴られようが、オナニーをしながら眠り込んでしまった裸の父親を見ようが、絶望しない。絶望できない。絶望できないというのは、絶望に耐える力がないということである。だから、ケリー・コンドンに見捨てられたと知ったとき、その絶望に耐えられずに自殺してしまう。
 このバリー・コーガンと比較すれば、絶望しか存在しない希望を生きているブレンダン・グリーソンの強さがわかる。彼は、絶望するからこそ、生きていられるのである。指を切り落としたからこそ、生きていられるのである。
 希望しか存在しない絶望という「凡庸」を、しかし、コリン・ファレルは非常にうまく演じている。私は、コリン・ファレルの鋭さのない目(焦点がない目)が好きではないのだが、この映画ではそのおどおどした目も効果的だ。希望とは、彼にとって、いつも自分のなかから生まれてくるものではなく、だれかから与えられる何かなのである。希望をつくりだすことができない。だから、希望しかない絶望というのだが。希望を自分でつくりだせれば、絶望はしない。
 この、何もつくりだせない「凡庸」を端的にあらわしているのが、彼のついた嘘である。ブレンダン・グリーソンを困らせるために、ブレンダン・グリーソンの友人である音楽大の学生に嘘をついて島から追い出す。そのために、バリー・コーガンからも見捨てられるのだが。バリー・コーガンの自殺は、ケリー・コンドンに捨てられたことよりも、コリン・ファレルが信じられなくなった(希望にはなり得なかった)ということが原因かもしれない。
 こう書いてくると、これは映画よりも芝居(舞台)の方がわかりやすくなる作品かなあとも思った。マーティン・マクドナーは、「スリー・ビルボード」が映画というよりも、舞台(芝居)みたいで、少し物足りなかった。「芝居指向」の強い監督なのかもしれない。脚本を書くのも、「芝居指向」のあらわれだろう。今度も舞台っぽいのではあるけれど、舞台(土地)そのものが劇的で、そこにしか存在しない空間の美しさに満ちていて、効果的だった。海と荒野しかないから、人間がむき出しになる。人間の、希望と絶望がむき出しになる。
 私は最近ほとんど映画を見ていないのだが、これは傑作。希望しかない絶望は多くの人が描くが、絶望しかない希望を強靱に描き出す監督は少ない。マーティン・マクドナーは、そのひとりだ。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇284)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-01-30 10:27:45 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
exposición en el museo de la Diputación de Jaen. Andalucia (2020)

 ¿En dónde ves el cuadro? ¿Cuándo la ves? ¿Con quién?
 Es una pregunta muy importante. Si la luz y el aire son diferentes, la impresión de la imagen cambiará. También depende de si lo ves solo o acompañado, y de lo que habléis.

 Esta exposición de Jesus, no la he visto con mis porpios ojos, pero siento que hay algo diferente en la atmósfera de los cuadros de Jesus que conozco.
 Al contemplar los cuadros, tuve la sensación de pasear por el interior de la iglesia, y más concretamente por el santo mausoleo, y ver la historia de una familia. Además el pasado o sea el tiempo, ellos estan fijado y preservado.....yo lo sentí así.
 Los cuadros verticales y rectangulares parecen un árbol genealógico. Y no sólo representa el "pasado", sino que vive en el "ahora" y el "aquí". Apoyan el aquí y el ahora.

 He estado considerando las obras de Jesús como una mirada al "pasado" desde el "presente" o una mirada a la "memoria" desde el "presente", pero puede ser lo contrario: Jesús puede estar mirando el "aquí" y el "ahora" desde el "pasado" (la historia). Qué efímera es la vida en el presente en comparación con el pasado y la historia. Los muertos viven en el "pasado" y existen en el "pasado", pero los que viven en el "ahora" se están muriendo y no pueden hacer otra cosa que desaparecer.
 Aquí nace el amor.
 Es amor por lo que muere y desaparece.
 Y el amor que sostiene lo que está desapareciendo es el amor que ha continuado desde el pasado. El amor que continúa como una línea familiar sostiene el presente. El amor de los muertos sostiene el presente.
 Por extraño que parezcais, oigo una voz que me dice que los vivos desaparecen, pero los muertos nunca desaparecen, así que vive y muere en paz.

 Una de las cosas que crea esta impresión es el color. Cada color tiene la intensidad de la muerte. Es la intensidad del no más cambio. Todos los colores se desvanecen bajo la influencia de la luz y el aire. Puede haber cambios en la propia pintura. Pero en los cuadros de Jesus los colores ya no se romperán. Son los colores que quedan después de que se haya destruido el brillo. Por el contrario, son los colores que han sobrevivido a la muerte. Son los colores de la memoria, o los colores de lo grabado. Son los colores del pasado. Los clores que se han convertido en "tiempo".
 Los colores que me rodean ahora cambiarán con el tiempo. Pero los colores de estos cuadros no cambian. Tienen una fuerza que me hace sentir tales absolutos.

 Jesus conoce la fuerza de la muerte. Por lo tanto, también conoce la alegría de vivir. Su obra va y viene entre la muerte que sigue viviendo y la vida que sigue muriendo.

 

 絵をどこで見るか。いつ見るか。だれと見るか。
 これはとても重要な問題だ。光と空気が違えば、絵の印象がかわる。ひとりで見るか、だれかと一緒に見るか、何を話したかによっても違ってくる。
 ここに掲載したJesus の展覧会は、私が実際に見たものではないが、写真を見ながら、そのことを強く感じた。私が知っているJesus の絵の雰囲気とは違うものがある。
 絵を見ているというよりも、教会の内部、さらにいえば聖廟の内部を歩いて、ある一家の歴史を見ているような気持ちになった。過去が、時間が、固定され、保存されていると感じた。
 縦長の長方形の作品は、家系図のように見える。そして、それは単に「過去」をあらわしているだけではなく、「いま」「ここ」に生きている。「いま」「ここ」を支えている。
 私はいままで、Jesus の作品を、「いま」から「過去」を見ている、「記憶」を見ていると思って見てきたが、逆かもしれない。Jesus は「過去」(歴史)から、「いま」「ここ」を見ているのかもしれない。「いまを生きているいのち」は、「過去」「歴史」に比べると、なんと儚いのだろう。死んだひとは「過去」になって生きている、きちんと存在しているのに、「いま」生きている人間は死んでいく、消えていくしかない。
 ここから愛が生まれる。
 死んでいく、消えていくものへの愛である。
 そして、その、消えていくものを支える愛こそが、過去からつづいているものなのだ。家系のようにつづく愛が、今を支えている。
 奇妙な表現になってしまうが、生きている人間は消えていなくなってしまうが、死んだ人間は決していなくなることはない、だから安心して生きるだけ生きて、死になさいと言っている声が聞こえる。

 この印象を生み出すもののひとつに、色がある。どの色にも、死の強さがある。もう、これ以上変化しない、という強さである。どんな色も、光や空気の影響で褪せていく。絵の具そのものの変化もあるかもしれない。しかし、ここにある色は、もうこれ以上壊れていかない。輝かしさが破壊された後に残った色である。逆に言うと、死を乗り越えて生き残った色である。記憶の色、あるいは記録された色である。「過去」になった色である。「時間」になってしまった色である。
 いま、私の回りにある色は、やがてみんな変化してしまう。しかし、この絵のなかの色は、変化しない。そういう絶対を感じさせる強さがある。

 Jesus は死の強さを知っている。だから、生きる喜びも知っている。彼の作品は、生き続ける死と、死に続ける生を往復している。

 

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇283)Obra, Belén Díaz Bustamante

2023-01-29 22:30:54 | estoy loco por espana

Obra, Belén Díaz Bustamante

 Esta obra de Belén evoca un hexaedro regular. Las columnas de cada lado constituyen un hexaedro regular. Sin embargo, es una ilusión. Las columnas no están todos alineados. Algunos de ellas se interrumpen a la mitad. Pero esto, a su vez, estimula mi imaginación. Las columnas que hay resaltan el hexaedro regular, que no está. Si fuera un hexaedro regular sin desconexiones, sin espacios en blanco, no le prestaría atención.
 El arte es el poder de mostrar lo que está pero no está.
 Así es como me gustaría definirlo.
 Y la obra de Belén se mueve, aunque sea una escultura inmóvil.  A veces se mueve en busca de un hexaedro regular, y a veces se mueve para destruirlo y convertirse en una nueva forma, un nuevo hexaedro regular que nadie ha visto antes. Ese movimiento es visible.
 Belén no puede hacerlo. Sólo esta obra es una forma que se mueve y se crea a sí misma. Es muy intenso.

 Belén のこの作品は、正六面体を連想させる。柱が各辺になり、正六面体を浮かび上がらせる。しかし、それは錯覚である。柱は全部そろっていない。なかには途中で中断したものがある。しかし、それが逆に想像力を刺戟する。そこにある直角に接続された柱が、そこにない正六面体を強調する。もし、これが切断、空白のない正六面体だったら、私はそれを見過ごしてしまうだろう。
 芸術とは、そこにありながら、そこにないものを見せる力である。
 そういう定義をしたくなる。
 そして、Belén の作品においては、それは「形」だけではない。動きがある。動かない彫刻なのに、動いている。正六面体を求めて動くときもあれば、それを破壊し、新しい形、だれも見たことのない新しい正六面体になろうとして動くときもある。その動きが見える。
 それはBelén にも作ることができない。ただ、この作品だけが、自分自身で動いてつくりだす形だ。とても強烈だ。

 

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三木清「人生論ノート」から「偽善について」

2023-01-29 21:41:13 | 考える日記

 「偽善」ということばは、どの国のことばでもありそうである。しかし、ことばがあるからといって、その意味がぴったりとあうとは限らない。きょうイタリアの18歳と読んだ「偽善について」は、そのことを考えさせられた。事前に書いた「偽善について」の作文で、そのことに気づいたので、ゆっくり読み始めた。
 書き出しの文章は、特にむずかしい問題を含んでいる。

 「人間は生れつき嘘吐きである」、とラ・ブリュエールはいった。「真理は単純であり、そして人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない、それはいはば出来上って、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」

 三木清が訳した文章だと思うが、二回目に出てくる「そして」が複雑である。
 最初に出てくる「そして」は「順接」というか、ふつうの「そして」であり、なくても自然に読むことができる。しかし、二回目の「そして」は「順接」とは言えない。
 「接続詞」のつかい方には一定の決まりがあるが、厳密ではない。なくても意味が通じる。一回目の「そして」はなくても意味が通じるだろう。二回目の「そして」は、ないとなんとなく読みにくい。直前が句点「。」で切れていることもあるが、「話題」というか「主語」がまったく変わってしまうからである。「主語」の連続性が感じられない。だから、それを「接続詞」をつかうことで連続させている。
 「そして」は一般的に「順接」である。そして、「順接」のとき、あるいは「並列」のときは、実は、省略してもそんなに不自然には感じない。一回目の「そして」はその類である。「真理は単純であり、人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む」にしてしまうと、主語が変わるので少し読みにくいが、なくても「意味がわからない」というひとは少ないだろう。
 「飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない」には接続詞がないが、おぎなうとすれば「そして」がいちばん最初の候補になるだろうか。前の文章が「真理は単純であり」を引き継いでおり、主語が変わらないので「そして」が省略されたのである。ここでは、「そして」以外の接続詞をつかうとすれば「また」かもしれない。「また」は並列だが、ここでは少し論理が転換するというか、論理が少し飛躍するので、何かしらの「逆接」めいた働きもするだろう。
 そうした文章(意識)の流れを受けての、二回目の「そして」。
 ここで、私はイタリアの18歳に質問した。「もし、ほかの接続詞をつかうとしたら、なにをつかう?」
 「しかし、をつかう」
 いやあ、びっくりしたなあ。
 「しかるに」ということばもあるが、いまはあまりつかわない。つかうなら、「しかし」がいちばん落ち着くだろう。「真理は天から来る。しかし、人間はその真理を愛さない。その真理よりも、自分自身がつくりだした作品(作り事)しか愛さない」と読むと、「論理」がすっきりする。
 「論理」をどうやって把握するか(正確に順を織ってとらえるか)ということと接続詞は緊密な関係にあるのだが、もう、教えることない、という段階。

 質問も、非常に鋭い。この書き出しの最後の文章についてであった。

真理は人間の仕事ではない。それは出来上って、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく、そこにあるものである。

 この「そこにある」の「そこ」とはどこか?
 答えられます? これはフランス語の「il y a」の「y 」、 スペイン語の「hay 」の「y 」、英語の「there is」の「there 」のようなものである。特定の「場」ではなく、頭のなかに浮かぶ「ある」という動詞をささえるための「そこ」としか呼べないものなのである。
 「そこ」とはどこか、と問うたとき、18歳のイタリア人は、日本語の、具体的なものとは対応していない何かに触れていて、それを言語化することを要求している。こういうことは、少しくらい勉強しただけでは質問できない。何かわからないことはない? どこがわからないか、わからない、という段階ではなく、わかることと、わからないことを明確に意識できる。
 だから、接続詞「そして」も、自分なら「しかし」をつかうと言えるのだ。

 この「偽善について」には、「偽悪」ということばも出てくる。こうした考え方(概念)はイタリア語にはないようだが、三木清が「偽悪家深い人間ではない」の「深い」ということばを手がかりに、きちんと定義することができた。

 

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池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」

2023-01-29 12:44:42 | 現代詩講座

池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」(朝日カルチャーセンター、2022年01月16日)

 受講生の作品。

時代はあった  池田清子

地方のまち中に育った

友達と山に分け入ったり
兄妹で磯遊びをした思い出はない

でも
時代は、あった

すきま風を知っている
火吹き竹で火を吹いた
近所の大人達がもちをついた
火鉢の中でもちを焼いた
裏庭ではチャボにみみず
おちょうずの水は
ひしゃくか 指先でチョン
あんよポイ

抱きしめたくなる、過去

 「時代」「過去」ということばが観念的ではないか、という指摘があった。「観念的」という意味では「地方」「まち」も観念といえるだろう。「思い出」も観念かもしれないが、それは,いったん脇においておく。
 たしかに「時代」は観念なのだが、その観念を「あった」と断定しておいて、四連目で具体的な「時代」の描写が始まる。「観念」が具体的に言い直される。この「言い直し」をスムーズにするためには「観念」からはじめる必要がある。
 観念は、何かを整理するときに必要だ。この詩では「過去」がそういう働きをしている。そして抒情詩の多くは、具体的なものをある観念で整理し直してみせるときに成立しているのだが、池田の四連目は観念的な整理にならずに、つまり、意味にならずに具体的なまま並列されている。それを象徴するのが「あんよポイ」である。だれも、その「意味」を理解できなかった。「あんよ」は「足」だと推測できるが、それがどうしたのか、だれもわからない。しかし「意味がわからなくても平気、記憶を語るときの音とリズムがいい」という指摘があった。この指摘につきる。
 どんなことばも意味(観念)を含んでしまうが、それを蹴散らしてことば(音)が動くとき、そこに何か楽しいものが生まれる。それが楽しい。
 最初に書いた「地方」「まち」「思い出」も観念であるというのは、そこに具体的なことが書かれていないからだ。抽象化された「意味」しかないからだ。その「意味」を「ない」と否定して、「ある(あった)」のは「時代」である、とさらに観念を強調する。そのあとで、その観念を「具体的」に語るというのは、たぶん、無意識にしたことだとは思うのだけれど、数学でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような効果がある。「ない」もの、「観念」が、「ある」にかわる。この「枠構造」もおもしろいと思う。
 ほんとうは「ない」ものが「ある」にかわる。その運動を支えるのが「ことば」である。というところから、今回の講座に集まった作品を読んでいく。

朝食  永田アオ

ボップアップのトースターは
トーストが好き
でもトーストは
トースターが嫌いで飛び上がってる

湯気を立てて
朝からブツブツ哲学を語る
コーヒー爺さんは
遠視が酷い

むかし
詩人が欲しいといった
春風で作ったゼリーを添えて
今日のささやかな朝を始める

 ことばにすることによって初めて存在するのは何か。「春風で作ったゼリー」が注目を集めた。(その詩人はだれですか? 立原道造です、というやりとりがあったが、特に「事実」に結びつける必要はないだろう。永田のつくりだしたことばと理解してもいいはずだ。)「コーヒー爺さん」と「遠視が酷い」も、ことばにしないと存在しない。
 私が最初に注目したのは一連目の「好き」「嫌い」ということばである。トーストも、トースターも「もの」であり、ものは感情を持っていない。擬人化されているのだが、ここにもことばにしないと存在しないものがあるといえる。
 すべては、ことばにしないと存在しない。
 「朝からブツブツ哲学を語る」ということばは「コーヒー爺さん」を修飾する。学校文法では「爺さん」に焦点をあてて、「爺さんが哲学を語る」と整理するかもしれないが、この二行は「コーヒーがブツブツ哲学を語る」とコーヒーを擬人化した方がおもしろいだろう。
 そういう世界の変化があるから、「春風で作ったゼリー」も、何か実在するもののように見えるくるし、だれかが作るのではなく春風そのものが春風のゼリーを作ると読むこともできる。そのあとの「ささやか」もことばがつれてきた「新しい世界」として輝く。「ささやかな朝」というのは、だれでもがつかうことばに見えるが、この詩では、それがしっかりと詩の最後をおさえている(落ち着かせている)のは、ことばによって「ある」をつくりだす運動がゆるぎないからだろう。

~眠れるソファ~  木谷 明

ねえこのソファ ちょうだい
そう言って 眠って 
持って行かない

帰って来るたび 眠って
やっぱりこのソファ ちょうだい
いいよ
と言っているのに


このソファがなくなったら
どうなるかな


つつみこまれるようだね って

座れば眠ってしまう

家族が座って そして眠った

いいよ 持っていってください

 「この詩は、見たもの、体験したことを書いている。写生している」という指摘があった。ことばにしなくても「ある」世界が前提になっている、その「ある」世界から別の世界へ行っていないという意味だと思うが。
 ほんとうに、ここに書かれていることは、すべて「ある」のか。
 娘かだれか明確に書いていないが、一緒に暮らしただれかが、「ソファをちょうだい」といい木谷が「いいよ」と答える。しかし、持っていかない。たしかに、そのことが、嘘を交えずに「ある」がままに書かれているのだろうが、ほんとうにすべてが「ある(あった)」のか。
 池田の詩を読んだとき、リズムが問題になったが、この詩でもリズムが重要である。リズムの中でも、行間がつくりだすリズムが大切である。「間(ま)」もまた、ことばがつくりだす「ある」なのである。
 後半の行をつめてしまうと、まったく違う詩になってしまう。その起点となる「と言っているのに」の「のに」という語尾、語尾が含むゆらぎも、ことばにしないと明らかにならないものを含んでいる。「のに」を書かなければ、つぎのことばは出てこない。だから「のに」にによって「行間」も「ある」ことができた、と言い直すこともできる。

ライブハウスから  徳永孝

Gue のアルバムジャケットの
シックな絣柄の模様

居酒屋の垂れ布のデザイン

らふのアルバムジャケットは
まっ黒な地に鮮やかな絵の具をたらしたよう

診察所の棚の上の小箱

あいみょんのファーストアルバムには
大きな卵焼

スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼

ライブハウスの閉じた音楽空間から
色や形が
街に世界に滲み出してきている

 最終連が徳永の言いたいことであり、それはことばにしないと存在しないもの(ことばが存在させた現実)ということになるのだが、これは、私の見方では「要約/整理/結論」である。「結論」は、詩の場合、ときどき、それまでの生き生きとあらわれていた世界を壊してしまう。
 詩の感想を語り合うとき、どうしても詩の世界を要約した後、それについての感想を言うことが多い。たとえば、この詩の場合なら、ミュージシャンのアルバムジャケットで見たもの、それに類似したものを街のなかで見かけ、あ、ミュージシャンの世界が街にあふれている(滲み出しいている)ということが、生き生きと鮮やかに書かれている、という具合。
 要約すると、安心してしまうが、それでは詩が死んでしまう。「生き生きと鮮やかに書かれている」と感じたのは、どのことばから? 私は、それを聞きたい。自分には思いつかないことばは何? それこそが、作者がことばにすることによって生まれてきたもの、「ある」になったもの。
 この詩では、たとえば「長い卵焼」である。その直前にある「大きな卵焼」は多くの人がつかう表現である。でも「長い」ということばと卵焼を結びつけることは、ふつうはしない。だいたい、「長い」って、どれくらいの長さ? 何センチ?
 「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼」という一行を読んだら、その卵焼の大きさがわかる。目に浮かぶ。この一行で、この作品は詩になっている。しかし、最後の三行で、詩を壊してしまっている。
 もし、アルバムジャケットとの関係を明確にしたい(街に「滲み出している」をつたえたい)というのであれば、「居酒屋の垂れ布のデザインになった」「診察所の棚の上の小箱になった」「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼になった」という具合にすれば伝わると思う。自分が見たものをことばにする、そのとき、すでに「ある」は起きている。事件は起きている。詩というの事実は生まれている。それを「整理/要約」しては、学校の国語の授業の先生の説明になってしまう。
 どうしても最終連の三行が必要ならば、最終連にではなく、最初に書いた方がいい。池田が「過去」と抽象的に書いた後、具体的に言い直しているように、「滲み出している」を最初に書いた後、それを具体的に言い直した方が「要約」に陥らずにすむ。

細れ粒  青柳俊哉

葦原は白く靡き 
  水辺を行く鳥の
    羽に雪がふる 

 細れ粒の肌触り 
   細れいく群青の波頭の移り
     ひとすじの薄日のさす岸に

  朝がふり 蒼穹を
    つきぬけていく透明な
      鳥かげ 葦の葉擦れの音に 

   舞い遊ぶ金色の水粒 
     幼いものの至福のように
       ちらちらきらめいて

 青柳の作品は、出発点には現実の風景があるかもしれないが、そこからどんどんことばを展開させていく。青柳自身「具体的なものを書いたのではなく、気持ちを書いている」という。つまり、すべてがことばによって「ある」になっていると言えるし、だからこそどのことばによって「ある」が生まれているかと見つめなおすのはむずかしいのだが。
 私が、これはいいなあ、と感じたのは「朝がふり」。この「ふる」の動詞のつかい方。ふつうは「朝がくる」(日が昇る)のような言い方をする。朝は、ふつうには地平線上というか水平線上というか、人間と同じ高さ(あるいは低いところ)からやってくる。しかし、青柳は「朝がふり」と書く。上から、突然襲ってくる感じだ。待っている余裕がない。
 そのあとの「蒼穹を/つきぬけていく透明な/鳥かげ 葦の葉擦れの音に」の「つきぬけていく」の主語は、学校文法では「鳥かげ」か「葦の葉擦れの音」になるのかもしれないが、私は朝が「蒼穹を/つきぬけて」降ってきて、世界が透明になったように錯覚する。
 私は青柳のことばを「誤読」しているかもしれない。しかし、詩とはもともと世界に対する「誤読」なのだから、私は作者の「意図」を気にしないのである。作者が言いあらわそうとしているものよりも、私が作者のことばをとおして見たもの(感じたもの)の方がおもしろいと感じれば、それを詩と呼ぶ。
 蒼穹(天)から啓示のように降ってくる朝、その透明な力、降ってくるものが透明であるだけではなく、世界を透明にしてしまう力、それが「降る」ととらえることば、精神の運動、そこに詩がある、と。

 


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(5)

2023-01-28 18:51:05 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「テルモピュレ」。戦争での「正義」がテーマ。「連中は正義でひたむき」ということばが前半に出てくるが、後半に次の一行がある。

けっきょくエフィアルテスのたぐいが出てきて、

 「たぐい」ということばが、とてもおもしろい。「そんなヤツとは同類ではない」という侮蔑、怒りのようなものが噴出している。
 もし彼が裏切り者ではないときは、「たぐい」ということばは不要だ。
 「正義」には「たぐい」というものはない。それは、「ひとつ」なのだ。それが「ひたむき」という意味でもある。
 だから「ひたむき」が「たぐい」の伏線にもなっている(予感させる)のだが、この呼応のなかには戦士との「一体感」がある。中井(カヴァフィス)は、歴史家ではなく、この詩のなかでひとりの戦士になっている。

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中井久夫『アリアドネからの糸』

2023-01-28 17:27:29 | 考える日記

中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年08月08日発行)

 中井久夫『アリアドネからの糸』のなかに「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」というエッセイがある。これは、とてもこわい文章である。最初に出会ったとき、こわくなって、最後まで読むことができなかった。中井がつかっていることばを借りていえば「悪夢」のような文章である。
 「悪夢」は、こうつかわれている。

 もし、ロールシャッハ・カードが別々の十枚ではなく、ブラウン管の画面にまず第一カードが映り、この第一カードが変形して第二カードになり、第二カードが変形して第三カードになり、以下同様に第十カードまでつづくならば、これは想像するだに怖ろしい。これこそ端的な悪夢である。われわれはなすすべもなく、ただおののいて眺めるか、あるいは逃げ出すしかない。(354、355ページ)

 私は十枚のカードを「ブラウン管の画面」ではなく、中井の文章のなかで、次々に変形していくものとして読んだのである。十枚が別々のものではなく、一続きの連続した「流れ」としてあらわれ、その「流れ」のなかにのみこまれていく。
 そして、それは「映像」ではなく、「誤読」を許さない完璧な「論理」なのである。「論理」が私をのみこんでいく。これから書くことを中井は否定するかもしれないが、「論理」というのは「結論」という枠のなかにひとを閉じ込める。この閉塞感が、私とにっての「悪夢=恐怖」なのである。
 しかも、その「論理」が「中井の論理」というよりも、「ロールシャッハの論理」に感じられてしまう。中井は、いわゆる「チューニング・イン」状態で、カードの持っている美学とそれぞれの「意味」を語るのだが、それがほんとうにロールシャッハの「意図」そのものとして浮かび上がってくる。私は、ロールシャッハのカードを見たことはないし(本に収録されているのはモノクロの図版)、ロールシャッハの書いたものを読んだこともないから、私が感じる「ロールシャッハの意図(論理)」というのは「空想」でしかないのだが、ロールシャッハはそう考えたに違いないと感じてしまう。私は二重の「悪夢」のなかに取り込まれてしまう。
 この感じは、訳詩について書いた文章、特に「「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について」を読んでも感じられる。それは中井の分析なのだが、中井が分析しているというよりもヴァレリー自身が語っているような揺るぎない「論理」なのである。中井がヴャレリーに「チューニング・イン」してしまっている。

 たぶん「若くパルク」「魅惑」の中井久夫訳を「象形文字」に掲載した前後だと思うのだが、私は、中井久夫に会いたくて手紙を書いたことがある。そのとき、中井は「私は職業柄、どうしても会った人を分析的に見てしまうので、会わない方がいいでしょう」と断られた。そのことばは、「真実」であると同時に、今から思うと「親切」でもあったのだとわかる。
 「チューニング・イン」というのは、一方においてだけ起きることではなく、二人の間で起きることである。だから「生身」の人間が相手のときは、たぶん、危険なのだ。中井にとって「危険」というよりも、私にとっての「危険」の方が大きいだろう。私は、そのころ、中井の訳詩(そのことばのリズム)に陶酔していたから、「チューニング・イン」を起こした後では、もう詩が書けなくなっていたかもしれない。
 それから何年かして、『リッツォス詩選集』を出版するとき、編集者をまじえて三人で会ったことがあるが、これは三人だからよかったのだと思う。「ニューニング・イン」が緩和される。

 中井の文章は、あるいはことばと言った方がいいのかもしれないが、それは「チューニング・イン」を経てきて、表面化される。あるテーマについて書く。そのときそのテーマとともに存在する人間がいる。その人間に「チューニング・イン」して、そのリズム、論理でことばが動いている。だから、どの世界も「中井個人」の超えて、「別の世界」が二重写しになってダイナミックに動く。奥が深いとは、こういうことを言う。
 それが詩の場合は、わあ、おもしろい、という感嘆になるが、ロールシャッハ・カードの分析では、何か、私自身が「強制的」にテストされているとさえ感じてしまうのである。
 奇妙な言い方だが、中井が死んでしまったいまだからこそ、安心して読むことができる。「チューニング・イン」が、現実ではなく、ことばのなかだけで起きるからだ。中井の訳詩については、私はこれまでいろいろ書いてきたが、エッセイについて書いてこなかった。それは、どこかでこの「チューニング・イン」の力を恐れていたからなのだろう。
訳詩を読んで、そのことばの肉体感染したとしても、私はカヴァフィスに、あるいはリッツッスに「チューニング・イン」したと言い逃れることができる。

 

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Estoy Loco por España(番外篇282)Obra, Antonio Pons

2023-01-28 09:39:07 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons
“La immortalitat de la memòria”

  La obra de Antonio Pons para recordar la liberación del campo de concentración de Auschwitz. Se publicó el 27 de enero, décimo aniversario del Día Internacional en Recuerdo de las Víctimas del Holocausto.
  ¿El tramo recto sigunifica los barrotes que encerraban a los judíos? ¿El semicírculo es una esposas o un grillete? ¿Es un símbolo de tragedia?
  No. Es la figura de un judío que ha sobrevivido a las penurias. Una fuerza que se extiende hasta el cielo. Pero había dificultades en el camino. Un círculo que circunvala, con dificultades. Sufrimiento, pena, llanto a gritos. El hueco del corazón. Pero el poder que ha sobrevivido vuelve a apuntar directamente a los cielos. El poder que sobrevivió se transmite al futuro. Esta es la historia del mundo.

  Este semicírculo abierto, el semicírculo que une las líneas rectas, es la boca de la que emana el grito sin voz. Y esa voz no era muda, pero no la oímos.
  Cuando hacemos de esta boca vociferante (el semicírculo) de los judíos supervivientes nuestros oídos, cuando abrimos bien los oídos y oímos la voz de los judíos masacrados, esa línea recta se convierte en nuestra figura. Así es como debemos convertirnos en nuestra propia figura.

 No debemos limitarnos a recordar la miseria de los judíos. No debemos limitarnos a recordar el Holocausto. Debemos convertir las voces que oímos en nuestras propias bocas que cuenten la historia.
 La obra de Antonnio está impregnada de esta determinación. No son simples monumentos conmemorativos.


  Antonio Pons のアウシュビッツ強制収容所解放を忘れないための作品。「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」10周年の1 月27日に公開された。
  まっすぐに伸びるのは鉄格子か。半円は手錠か、足かせか。悲劇の象徴か。
  そうではなくて、苦難を生き抜いたユダヤ人の姿だろう。天に向かってまっすぐに伸びる力。ただ、まっすぐなだけではない。困難を抱えて、迂回する円。苦しみ、悲しみ、大声で泣く。そのときのこころの空洞。しかし、そのあと再びまっすぐ天をめざすものに力を引き継ぐ。そうした歴史を語っている。

  この開かれた半円、直線を結びつける半円は、声にならない叫びを発する口だ。そして、その声は、声にならなかったのではなく、私たちが聞かなかったのだ。
  この生き抜いたユダヤ人の声を発する口(半円)を、私たちの耳にするとき、私たちが耳を大きく開いて、惨殺されたユダヤ人の声を聞くとき、その直線は私たちの姿になる。そうやって、私たち自身の姿にしなければならない。

 単にユダヤ人の不幸を思い出すだけではいけない。ホロコーストを思い出すだけではいけない。聞き取った声を語り継ぐ私たち自身の口にしなければならない。
 Antonnioの作品には、そういう強い決意がこもっている。単純な追悼のモニュメントではない。

 

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禿げ頭のピカソが

2023-01-27 15:28:12 | 

禿げ頭のピカソが  谷内修三

禿げ頭のピカソが
砂浜で絵を描いている
半袖半ズボンから
太った腹と同じ筋肉でできた
太い輝きがはみ出る
太い腕、太い腕で太い棒をつかむ
それは太いペニスになって
世界を獲得する
強靱な円がかさなり
ぎょろりとした目が
精液のように飛び出す
太陽よりもまっすぐに突き刺さる
頭には牛の角が生え
禿げ頭なのに毛むくじゃらだ

荒荒しくえぐられる
砂の奥のきのうの温んだ水
透明に乾いて駆け抜ける
あしたの光
砂はいつまでおぼえているだろうか
どんな色よりも強い線
になったその日
永遠を拒絶する
ピカソを

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Estoy Loco por España(番外篇282)Obra, Joaquín Llorens

2023-01-26 09:46:26 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 

(un poema inspirado por la obra de Joaquín.)

 El hombre que pidió pasar la noche porque se había perdido mientras leía un libro, se covertió en una escultura abstracta por la mañana. La lámpara seguía encendida y la luz de la mañana inundaba el exterior, pero sólo una esquina seguía siendo de noche. El libro estaba cerrado y sobre la mesa. Al sentarme en la silla, oí las voces de ayer. La voz era tan pequeña que resultaba difícil distinguir si procedía de la escultura o del libro, pero las palabras eran claras. Como el viento nocturno que entraba en la habitación cuando abría la puerta. Iba a escuchar las palabras del libro, pero en el libro sólo había palabras, e incluso el sonido de mis pasos se extendía como palabras. Cuanto más leía, más palabras había, y cuanto más pesado se hacía el libro, más me costaba sostenerlo. En cuanto cerré el libro, perdí los todos. Me di cuenta de que no estaba perdido las palabras, sino que lo había perdido yo mismo. O quizá no fueran las palabras del hombre que pidió pasar la noche porque se había perdido mientras leía un libro, sino mi recuerdo, o quizá mi añoranza. Quizá no era el libro lo que estaba leyendo, sino las palabras que se leían dentro de mí. ¿Pero de dónde? ¿Hasta dónde son las palabras escritas en el libro y desde dónde son mis palabras que se leen por el libro? Las tres líneas siguientes estaban pintadas de azul, pero una lámpara que había olvidado apagar se encendió, y en el fondo de la oscuridad azul pude ver las palabras: el hombre que pidió pasar la noche porque se había perdido mientras leía un libro, se había convertido en una escultura abstracta al despertar por la mañana.

 本を読んでいたら道に迷ったので泊めてほしいと言った男は、朝起きると抽象的な彫刻になっていた。ランプはついたままで、外には朝の光があふれているのに、その片隅だけ、夜のままだった。本は閉じて、テーブルの上に置いてあった。椅子に座ると、きのうの声が聞こえた。彫刻の中から聞こえるのか、本の中から聞こえるのか、区別がつかないくらい小さな声だったが、ことばははっきりわかった。扉を開いたとき、部屋に入り込んだ夜風のように。本のなかのことばを尋ねて行こうとしていたのだが、本のなかにはことばしかなく、足音さえもことばになって広がっていった。読むほどにことばが増えてきて、重くて本が持てなくなった。本を閉じた瞬間に、道を失ってしまった。迷ったのではなく、失ったのだと気がついた。あるいは、それは本を読んでいたら道に迷ったので泊めてほしいと言った男のことばではなく、私の記憶、あるいはあこがれかもしれない。読んでいたのは本ではなく、私のなかのことばが読まれていたのかもしれない。だが、どこからだろう。どこまでが本に書かれていたことばで、どこからが本に読まれたことばなのだろうか。つづく三行は青く塗りつぶされていたが、消し忘れたランプに照らされ、青い闇の底に、本を読んでいたら道に迷ったので泊めてほしいと言った男は、朝起きると抽象的な彫刻になっていた、という文字が見えた。

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なんどう照子『白と黒』

2023-01-25 15:39:30 | 詩集

 

なんどう照子『白と黒』(土曜美術社出版販売、2022年06月05日発行)

 なんどう照子『白と黒』の「くじらの森」。

足下ばかり見ている
人生だった
疲れすぎて
夕方の空を
久しぶりに見上げると
そこには
風にちぎれる
雲と一緒に
空を泳ぐくじらが
遊んでいた
遠い山並みの向こうには
きっとあるのだろう
くじらが帰っていく森が

 なぜ「くじら」なのか。わからない。しかし、それがいい。なんどうには「くじら」である必要があったのだ。
 「空をゆくイワナ」には、鳥に狙われて食べられ、空をゆくイワナが描かれる。なぜ「イワナ」なのか。それは、やはりわからない。だから、そこには「真実」がある。

鳥とともに空になったわたしは
安堵のうちにさよならを言った

死者たちはいつもイワナだ
空を飛んでいったイワナだ

 この詩では「イワナ」とともに「鳥」と「空」も描かれている。「鳥とともに空になったわたし」ということばがあるが、「なる」という動詞がとても強い。「わたし(イワナ)」は鳥に食べられ、空を飛ぶ。そのとき、「わたし(イワナ)」は「鳥」でも「空」でもある。区別がつかない。それが「なる」ということ。
 中井久夫のことばでいえば「チューニング・イン」である。
 「あめ」では、「あめ」になるのか、「おかあさん」になるのか、迎えにきてもらえなかった「こども」になるのか。やはり、区別がない。全部になってしまう。それぞれが、自分でありながら自分ではなくなる。そのときあらわれる世界がある。たぶん、その「世界」になる。そのために、ことばがある。ことばは「存在」を越境していく。

 


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Estoy Loco por España(番外篇281)Obra, Belén Díaz Bustamante

2023-01-25 10:39:35 | estoy loco por espana

Obra, Belén Díaz Bustamante

 En cuanto vi la obra de Belén me quedé desconcertado. Hay una extraña perfección. Es conmovedor. Está en movimiento, buscando la forma más hemosa. Pero es tan completa que sólo se ve belleza desde todos los ángulos.   Es similar a cómo Nastassja Kinski es bella desde todos los ángulos.
 Me quedé aún más perplejo cuando vi la obra colocada al aire libre.
 ¿Es la misma obra que la primera foto? ¿Es sólo una colocación diferente, un ángulo diferente en el que se tomó la foto?
 No, lo que me desconcertó aún más.
 Ya no sé qué colocación o ángulo me gusta más. No puedo decir exactamente hacia dónde me siento atraído. Cuanto más los miro, menos sé cuál me gusta.
 ¿Puede existir tanta belleza?
 No importa cómo lo coloques, no se cae. Es como si los tres marcos rectangulares cambiaran ligeramente de posición cada vez que se colocan de forma diferente, y luego se reequilibraran. Los humanos y los animales pueden hacerlo. La obra de Belén, sin embargo, es de hierro. Los tres marcos están fijos en alguna parte. Y, sin embargo, parecen moverse libremente, como si se moviera la "rueda de la sabiduría".
 De hecho, puede haber algún secreto extraordinario que haga que esta obra se mueva. En otras palabras, podría ignorar las instrucciones de Belén y modificar la posición del marco a mi gusto.
 Quiero tocarlo. Quiero moverlo. ¿Cómo reaccionaría entonces la obra? Quiero tocar esta obra como toco a Nastassja Kinski. ¿Entonces cambiará la forma de la obra? En realidad no, pero yo mismo probablemente cambiaré.
 Es peligroso.
 Esta belleza perfecta es muy peligrosa.

 Belénの作品を見た瞬間、私は困惑した。不思議な完璧さがある。動いている。動きながら、いちばん美しく見える形を探している。しかし、完璧すぎて、どこから見ていいのかわからない。ナスターシャ・キンスキーを見て、どの動きを、角度から見るのがいちばん美人か判断するのに迷ってしまうのと同じだ。
 屋外に置かれた作品を見たときは、さらに困惑した。
 これは最初の写真と同じ作品なのか。置き方、写真を撮るときの角度を変えただけのものなのか。
 いや、さらに困ったことは。
 私は、どの置き方、どの角度がいちばん好きなのか分からなくなってしまったことだ。どこに引きつけられているのか、それを明確に言うことができないのだ。見れば見るほど、わからなくなる。
 こんな美しさが存在していいのか。
 どんな置き方をしても倒れない。それはまるで置き方を変えるたびに、三つの四角い枠が位置を少しずつ変えてバランスを取り直しているような感じだ。人間なら、動物なら、そういうことはできる。しかし、Belen の作品は鉄である。三つの枠は、どこかで固定されている。それなのに「知恵の輪」が動くように自在に動いて見える。
 実際、何か、とんでもない秘密があって、この作品は動かせるのかもしれない。つまり、Belénが指示した通りの置き方、あるいは枠の位置を、私は自分で変更し、私の好きな形に変更できるのかもしれない。
 触ってみたい。動かしてみたい。そのとき、この作品は、どんな反応をするだろう。ナスターシャ・キンスキーに触ってみたい。思い通りに動かしてみたい、という欲望に似ているか。そのとき変わるのは、作品の形か。そうではなく、私自身が変わってしまうんだろうなあ。
 危険だ。
 この完璧な美しさは、とても危険だ。

 

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中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」

2023-01-24 19:08:19 | 詩集

 

中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」(『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年08月08日発行)

 リッツオス「ペネロペの絶望」を読むと、カヴァフィスとリッツォスの違いがよくわかる。

彼の乞食の仮装が暖炉の弱い光で分からなかったわけではなかった。
そうではなかった。はっきり証拠が見えた。
膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。
ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えを漏らさないために
答えを避ける暇がほしかった。あの男のために虚しく二十年を待ち、夢を見ていたのか?
あのいとわしい異邦人、血塗れの髭の白い男のためだったのか?
無言で椅子に倒れ、己の憧憬の骸を見る思いで床の求婚者たちの骸をとくと眺めてから
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。
部屋の隅の機織り器が天井の上の籠のような影を作った。
今まで織っていた、緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって
これからの終わりのない忍耐という平べったい空を低く待った。

 ペネロペとオデュッセウス。この物語を知らないギリシャ人はいないだろう。だから、どこまで省略し、どこまで書くか。
 最初の四行は、カヴァフィスも書くだろう。しかし、そのとき「分からなかったわけではなかった」や「自分の考えを漏らさないために」は書かないだろう。カヴァフィスなら、ただ事実だけを書くだろう。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」にみられる素早い事実の列挙がカヴァフィスのことばの特徴である。
 リッツオスは「真理」をカヴァフィスよりも克明に描く。ただし、そのとき、「真理」をこころの外にあるもの、あるいは行動としてあらわれるものとして描く。中井久夫の表現を借りて言えば「映画のように」。
 カメラは、ペネロペが見たものと、ペネロペの行動を行き来しながら、ペネロペを描写する。オデュッセウスの乞食の変装、膝頭の傷跡、筋肉質の身体、素早い目配りをミドルショット、アップでとらえた後、ペネロペが壁に倚りかかる姿を、その全身をとらえる。それから、ペネロペのさまよう視線が見たものと、椅子に倒れ込むペネロペの動作を交互にとらえたあと「おかえりなさいまし」という唇をアップでとらえる。それは、もしかすると「声」ではなく、唇、舌の動きだけで表現されるかもしれない。口の動きを見れば、「おかえりなさいまし」という声が聞こえる。そんな感じだ。
 ここからは、もう、ペネロペの「肉眼」が見ているというよりも、「こころ」が見ている世界だ。そこでは「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒に」に変わっている。この「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって」ということばは、カヴァフィスは絶対に書かないだろう。
 そしてまた、この一行は、まるで中井がリッツォスになって書いたのではないかと感じさせる色彩の変化の表現である。中井のことばを借りていうなら、中井はここでは完全にリッツォスに「チューニング・イン」している。どこまでがリッツォスで、どこからが中井か、区別がつかない。中井の「ことばの肉体」がここにくっきりとあらわれている。
 カヴァフィスとリッツオスは似たところもあるが、完全に違うところもある。その完全に違うところを、完全に違う文体で訳し分けるところに中井のことばの不思議な強さがある。リッツオスなら、たしかに、この通りのリズムで語るだろうと想像させてくれる。私は、中井の訳をとおしてしかリッツォスを知らないのだが。(カヴァフィスの詩は、池沢夏樹の訳でも読んだ。)
 この詩を読みながら、どうしても知りたい思ったことが一つある。
 
答えを避ける暇がほしかった。

 中井がこう訳している「暇」。それは原語ではどう書かれているのだろうか。私は、この「暇」にカヴァフィスの声(カヴァフィスを訳すときの中井の声)を聞いた。もしかしたら、それはふつうには「時間」と訳すことばではないか、と想像したのである。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」という一行が、あまりにもカヴァフィスに接近してしまったために、その口調のまま「暇」ということば(声)が出てきたのかもしれないと思ったのである。
 ギリシャ語でこの詩を読んだことがある人がいるなら、ぜひ、教えていただきたい。

 


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朽葉充『聖域』

2023-01-24 10:28:55 | 詩集

 

朽葉充『聖域』(澪標、2023年01月10日発行)

 朽葉充にとって『聖域』とは、ジャズと本とアルコールである。煙草、コーヒーも含まれるかもしれないが、何と言うか、これはある年代の「定型」である、と私は感じてしまう。その「定型」から、どれだけ逸脱して、ジャズ、本、アルコールそのものになれるか。反動のようにして、労働と大衆酒場(?=居酒屋の前進?)も書かれているのだが、それはそれで「定型」になってしまう。
 それがもっとも簡潔な形で「結晶」しているのが、「漂流」。

JAZZは
野良犬のように淋しい男のための音楽
ビクター・レコードのロゴ・マークのように
飼い馴らされた従順な犬ではなく
ゴミ箱をあさる犬でもなく
一匹のやせこけた狼の末裔よ
お前 俺よ!
吠えることも忘れ 牙をむくこともなく
ただ夜の街を 今日も漂流する

 「お前 俺よ!」が、その「定型」の基本である。「お前」を「俺」と思い込む。区別がつかなくなる。JAZZを例に言えば、表現された「完成形」を自己と同一視する。マイルスにしてもコルトレーンにしても、彼らの「音」は個別の存在であり、個別の到達点である。それは、聞く人間にとっての「理想」かもしれないが、それに陶酔し、自己同一視しても、それは聞いている人間が自分の精神を何かに到達させたということとは違うのである。「同化」という錯覚があるだけだ。
 私は先に「逸脱」ということばを書いたが、「定型」と「逸脱」の違いは、「同化」か「拒絶」かの違いである。
 朽葉はつぎつぎと「文学」に「同化」していく。「定型」を利用して「同化」していく。だから、ある意味では「詩」に到達しているように見える。この「漂流」は、その典型であるだろう。
 清水哲男が生きていたら百点をつけるかもしれないなあ、と思ったりする。
 百点をとる作品を書くことはむずかしいかもしれない。しかし、百点をつけることは、とても簡単である。「定型」をものさしにし、それにあっている、と言えばいいだけだからである。「漂流」に百点をつけても、多くのひとは文句を言わないだろう。だからこそ、私は「批判」を書いておきたい。

 「ブルー・ブラッド」も、とてもすっきりした作品である。タイトルは忘れたが、ガルシア・マルケスに同工異曲の「換骨奪胎作品」がある。男と女は、逆であるが、何よりも違うのは、死んでいく人間が主人公ではなく、生きつづける人間が主人公である。
 「敗北=詩/抒情/青春」は、あまりにも「定型」過ぎる。もう「文学」ではない。イコールにならないもの、「同化」できないものが重要なのだ。朽葉は、社会に同化できないいのちを書いたのかもしれないが、その「社会に同化できない/敗北者」を描くことが「抒情文学の定型」そのものなのである。それは現代の「悲劇」にはなれない。

 

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