詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦朗「奇妙な日」

2008-02-29 12:42:53 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 03月号 [雑誌]

思潮社

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 高橋睦朗「奇妙な日」(「現代詩手帖」2008年03月号)
 「奇妙な日」というタイトルに引きずられていうわけではないが、奇妙な詩である。そして、この奇妙さというのは、実は作品のなかにあるのではなく、私のなかにある。書かれていることばに奇妙なところはない。それでも私は奇妙に感じる。

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たった八歳ちがい
おかあさん というより
おねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
おねえさんではなく 妹
そうのち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね

 死んだ母のことを書いている。その高橋の年齢の差。そのことに注目して、思いついたことを書いている。こういうことを思うのは別に高橋だけではないかもしれない。多くの人がおなじことを考えるだろう。
 私が感じる奇妙さは、そのことと関係がある。
 高橋は、こんなふうにだれもが感じることをだれもが感じるようなことばで書く詩人だっただろうか。--ことばがあまりに簡単に動いて行ってしまっているので、高橋の詩という印象がしない。高橋らしくない--というのが、私の感じる奇妙さである。
 特に、

年齢って つくづく奇妙ですね

 という1行。こんなふうに書いてしまわないで、こういう感想を読者が自然に抱くようにするのが詩なのではないか、と私は、思ってしまうのである。「つくづく奇妙ですね」の「つくづく」という自分の感情の動きをそのまま他人に押し売りするような、こんな奇妙な作品を高橋は書いてきただろうか。
 そして、奇妙と書きながら、私はこの安易な(?)ともいえるような感情の打ち明けになんだかこころがひかれるのである。(だからこそ、こうして感想を書いている。)
 安易に打ち明けることのなかには、母との距離を縮めようとする意図が、母との距離をちぢめたいという愛、一体になりたいという思いがこもっている、と感じて、こころがひかれるのである。

 この詩のなかには、私が絶対につかわないことばがある。「十六年前 七十八歳で亡くなった」の「亡くなった」。「おかあさん」(母)に対して、私は、「亡くなった」とは絶対に書かない。「死んだ」ということばしか出てこない。
 実は、この文章を書きはじめてすぐ、私は「死んだ母のことを書いている」と文章を何度も書き直した。高橋のつかっていることばにならって「亡くなった母のことを書いている」と書き直し、どうも自分の文章じゃないと感じ、「死んだ母のことを書いている」「亡くなった母のことをかいている」「死んだおかあさんのことをかいている」「亡くなったおかあさんのことを書いている」「死んだ母のことを書いている」という感じで、あれこれ悩んでしまった。
 普通は、高橋の母は私の母ではないから、「亡くなった母のことを書いている」と書くべきなのだろうけれど、何か奇妙なのである。私は、精神がむずむずするのを感じてしまうのである。「亡くなった」と書く時、母との距離がひろがってしまう。その感じが、とてもいやなのである。母の死というものは、私には「距離」のあるものではない。だから、他人が書いていることであっても、そこに「亡くなった」というようなことばが入り込んでいる時は、むずむずしてしまう。
 しかし、母という存在がほんとうに「距離」をもっているときもあるのだ。高橋には「距離」があったのだ。
 高橋は、その距離について書いている。距離を感じる高橋自身について書いている。距離がある。そしてそのことをよいことだとは思っていない。なんとかして距離のないもにしたいと考えている。そのための念押しのようなことば、自分自身を納得させるためのことばが「つくづく奇妙ですね」の「つくづく」なのだと思う。実感しているというより、「つくづく」を頼りに実感したいと感じ、ことばとこころを動かしている。そんな感じがするのだ。

 高橋は、この1連のあと、ことばを、母と高橋の「距離」に向けて動かしていく。「つくづく」と念押ししたことばを頼るように、正直になろうとしている。葬儀の様子、古いしゃんしのこと、死に関する記憶。--心中未遂のこと。「距離」はその事件に関連している。いわば「おどろおどろしいもの」に関連している。
 「おどろおどろしい」のでではあるけれど、実は、それは他人から見て「おどろおどろしい」だけであって、当の高橋にとっては「おどろおどろしい」ものではない。たったひとつの現実である。それは「距離」ではなくて、ほんとうは密着なのだ。一体になっている部分なのだ。「距離」と「密着」は一体となったもの、ひとつのものである。
 その世界へ分け入り、そこからふたたび出てくるためには「つくづく」というような、自分自身に言い聞かせることばも必要なのだ。だれでもがつかうような平易なことば、なるべく「おどろおどろしい」と結びつかないことば、強い印象をのこさないことばが必要なのだ。簡潔で、さらりとしたことばが必要なのだ。ありふれたものであることが必要なのだ。「おどろおどろしさ」もありふれたもの、たとえば「腐爛死体」というような「流通言語」にかぎられるのである。
 高橋は余分なことばを排除しながら、「距離」を少しずつ縮めていく。そうして「つくづく」に通じる感情の押し売り(?)ともいうべき、ありふれた、しかしありふれているからこそ、だれもが見逃してしまいそうなひとつのことばに到達する。「愛」。しかし、この「愛」ということばはない。「大好きな」「おかあさん」。
 高橋は「死んだ母」について書いたのではない。「大好きなおかあさん」について書いた。書くことで「死んだ母」を「大好きなおかあさん」に高めた。だれにでも共通する幸福の一瞬にたどりついた。--その世界が、ありふれている(と思われている)だけに、奇妙なという印象、高橋がなぜ、いま、こんな作品をという思いがあるにはあるのだが、この奇妙さがなぜかこころを打つ。
 読んでいて、最後の二行は思わず、声になって出てしまう。声を誘い出すためには、やはりことばは平易・簡潔なものである必要あったのだとも思う。
 その最後の部分。

いま ぼくがしなければならないのは
写真の前の奇妙な老人を殺すこと
みごと殺しおおせた暁には
その時こそ 言えますね
ぼく 一歳になりました
もう 二歳にも 三歳にも
もちろん七十歳にも なりません
安心して ずっと二十五歳のままの
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん


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龍秀美「結界」

2008-02-28 11:03:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 龍秀美「結界」(「鷭」3、2008年01月31日発行)
 龍秀美はいつから「意味」を書くようになったのだろうか。ふと、そんなことを思った。「意味」はとてもつまらない。

肥後の男は よく
女をばか呼ばわりする
--あん ばかおんなが
とか
--こん ばかひでみが
という具合だ

(略)

まったく
かれらこそ本物のばかではないかと思うのだが
相手をばか呼ばわりする時の彼らの
得も言われぬ声の甘さと
目尻のシワは
抵抗できないブラックホールのような
力を持っている

 こういう行自体が「流通」の「意味」にまみれていて、ぞっとしてしまうが、そのあとにさらに「意味」が押し寄せる。

昔に生まれなくて良かったと思うのは
あんな力で呼び込む領域を持っているものが
もうひとつあったからだ

国のため 家族のため
愛する者のため
おまえの命をくれという
優しく 甘く
抵抗できない力で呼ぶものが…

(略)

ばか女としては
難しいことは分からないが
ひょっとして九条とかいうものが
結界を囲むもうひとつの結界になれば
と ふと思ってしまう

 「ばか」にはさまざまなニュアンスがある。かつて映画『ラストワルツ』で主人公の女性が男の胸をたたきながら「I love you. 」を連発するシーンがあり、その字幕が「ばかばかばか」だったことをいまでも覚えている。男が死んだかどうかしたと思っていたのだが、その男が目の前にあらわれたときの感情の昂りを、そういうふうに伝えていた。あ、日本語はおもしろいものだと思った。「ばか」にはたしかに愛をつたえる「意味」がある。それはそれとして、ぐいぐい書き込んでゆけば、「流通」している「意味」であっても、その「流通」の領域を超えて、「流通」以外のものになり得ると思う。
 しかし龍はそういうふうにはことばを動かして行かず、唐突に、「過去」の「抵抗できない力」へとことばを動かしてゆく。
 でも、この動かし方というのは、ほんとうに龍の肉体に基づいている動きなのか。そんな昔、龍は実際に「優しく 甘い」力を肉体で感じたことがあるのか。肉体で感じたことはなく、ただ「頭」で知っているだけなのではないのか。
 肉体で知らないことを書くなとは言えないけれど、肉体で知らないことでも、肉体を総動員して書かないと、ことばを「頭」を完全支配してしまう。自分のなかにあることばにならないものの芽が根こそぎ引っこ抜かれてしまう。そして砂漠のように無味乾燥してしまったことばの死骸がひろがることになる。

 「流通」していることばはいつでも肉体ではなく「頭」を通ってゆく。「頭」を通ってゆくことばをつかうと、人間はなんだか自分の「頭」が成長したような錯覚に陥りやすい。それは単に他人のことばが自分のことばを支配するようになった、ということにすぎないのに。

 他人のことばが「頭」を支配すると、肉体は、もう自分の力では動くことができない。「ばか女としては/難しいことは分からないが」と「ばか」を装いながち、その実「私はばかであることを自覚できる」とソクラテス気取りである。「九条」などを突然出してきて、「ばか」を自覚できるということはほんとうは「頭」が明晰であり、その証拠に、ほら、私は「平和」について、「憲法」について、こんなふうに良識を持っている--そう言いたいようでもある。
 しかし、こういう物言いもすでに「流通」している。
 いったん「頭」をことばが動いてゆくと、もうどんなふうにしても、「頭」「頭」「頭」の「意味」になってしまう。

 「ばか」の「意味」を龍はもう一度考え直した方がいい。奇妙な詩を批判することが私の「日記」の目的ではないが、あえて書いておく。

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美空ひばり『ナット・キング・コールをしのんで』

2008-02-28 01:11:11 | その他(音楽、小説etc)
ナット・キング・コールをしのんで ひばりジャズを歌う
美空ひばり
コロムビアミュージックエンタテインメント

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 美空ひばりの声はとても不思議だ。たとえば「スターダスト」。英語で歌っているのだが、「Sonetimes I wonder」と歌いだす瞬間、それが日本語に聞こえる。英語が日本語みたいというのではない。とても美しい英語(だと思う)で歌っているのだが、英語なのに「私はときどき思ってしまう」という日本語としてこころのなかに響いてくるのである。引き込まれて、美空ひばりが英語で歌っているということを忘れてしまう。
 「Fascination 」(魅惑のワルツ)は日本語で、そして途中から英語にかわるのだが、英語にかわったことを一瞬忘れる。そして英語なんだと気づいているはずなのに、やはり「Then I touched your hand And next moment I kissed you 」の瞬間に、日本語として聞こえてしまう。キスした瞬間を思い出してしまう。とても不思議でしようがない。
 「Too Young 」も日本語と英語で歌っている。いつ歌ったものかわからないのだが、少女から大人にかわる瞬間のような不思議な声である。ほんとうの恋に気づいた瞬間、そういうものをまざまざと思い出させてくれる。恋に恋する季節から、ふいに大人にかわって、これが恋なんだと気づく時のどうしようもない不思議な一瞬。そういうものを思い出させる。
 「せつない時にはそっと目を閉じてうたを歌えばこの世はあなたのもの」(「Pretend 」)は、そのまま美空ひばりの生き方なんだなあ、と実感するが、この歌の場合、日本語から英語に変わった瞬間に、なんといえばいいのだろうか、日本語で聞いていた時よりもしあわせな気持ちになる。美空ひばりがぴったりそばに寄り添って「さびしくてもちょっと笑顔をつくってみない?」とささやきかけてくれる気持ちになる。これには心底驚かされる。美空ひばりは英語を英語として歌っていないのである。
 美空ひばりは、たぶん奇妙ないい方になるが、ことばを歌っていない。気持ちを歌っている。歌手ならばそういうことは当然のことなのかもしれないけれど、とりわけ美空ひばりには、そういうことを強く感じる。
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豊原清明「トリを焼いたら目がうるむ」

2008-02-27 10:25:56 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「トリを焼いたら目がうるむ」(「火曜日」93、2008年02月29日発行)
 豊原の詩があいかわらずおもしろい。豊原の詩ばかり取り上げてもしようがないかなあ、と思って最近は感想を書くのを控えていたが、やはり書かずにはいられない。
 「トリを焼いたら目がうるむ」。この詩のタイトルがどこから来たのかわからない。そのわからないところに、まずひかれる。わからない、というのは脈絡がわからない、ということである。それは豊原が私とはまったく別の脈絡を生きているということである。別な脈絡を生きているというのはひとりひとりがそうであるから、ごく自然なことである。そして、そういう違った脈絡を生きていながらも、何かがわかる。「トリを焼いたら目がうるむ」というのがどういう脈絡かでてきたことばなのかわからないが、そこに書かれている「意味」が肉体へ直接働きかけてくる。炭火で焼き鳥を焼いたら、その煙が目にしみて目がうるむ--という単純なことかもしれない。そしてそれがたとえば自分で焼くのではなく焼鳥屋で注文し、その焼く煙が流れてきて目がうるむ--ということかもしれない。そのとき、そこには友達がいるかもしれない。何か話していて、その話と目がうるむことが重なって、「トリを焼いたら目がうるむ」とごまかしたのかもしれない。目がうるんだことの言い訳に……。とういうようなことかもしれない。こういうことは、どうでもいいことなのだが、そんなふうにまったく脈絡がわからなくても、ふいに肉体の奥をつかみとられる瞬間というものがあり、そういう肉体の奥にあるものをふいにつかみとる力が豊原のことばにはいつもひそんでいる、ということがおもしろいのである。

 作品にもどる。2連目の書き出し。そこに、豊原のことばの力の特徴がよくでている。

工事の音はクラシックより美しい

 突然はじまり、突然おわる。この1行は他の行とは関連がない。他の行と関連がないぶんだけ、直接、私の肉体に響いてくる。無意識に響いてくる。はっ、とする。たしかに工事の音がクラシックよりも美しく聞こえるかもしれない。そういう瞬間があるかもしれない。工事の音はクラシックの音の動きとは違うがそこにはやはり「美」がひそんでいる。

工事の音はクラシックより美しい
しかし六ヶ月にもなると
塩が噴き出してやがる
( かほうは ねて まて
ねる が ごくらく)
うっくつとして
白アンくって
ひとりぼっちになった

 これらの行には「意味」の脈絡がない。しかし、肉体の脈絡かある。工事の音に美を感じたことのある人間が「白アンくって/ひとりぼっちになった」。この、とんでもない脈絡のなさというか、突然の出会いが、とても美しい。なんだか工事現場でその音楽を聞いて、かえりにどこかで白アンの菓子を買って、それから部屋の中でむしゃむしゃくって、ひとりぼっちになりたい気分にさせられる。
 この「ひとりぼっち」は、少しだけ(あるいは強烈に?)詩の後半で「脈絡」を持ちはじめる。「少しだけ(あるいは強烈に?)」と矛盾するようなことを書いたが、それは感じるひとによって違っていて、そしてその違いがあることこそが、豊原の詩を豊かにするからである。ひとによって違うということは、読むたびに違って感じられるということである。つまり、それは、いつでもその瞬間その瞬間であるということでもある。豊原のことばはいつでも脈絡を生きているのではなく、その瞬間瞬間を生きている。だから、おもしろい。読むたびに「一期一会」の世界なのだ。

神様っているんかな
友は言った
僕は「居る」って言いたかった
しかし
神は居る、と、友に言えなかった

いるんかな?
という問いだけが残って
偽善者クリスチャンの僕のシンコーは
本の上だけ、
取り残されている
十字架を見たよな顔で
うがいしている 私

 最後の「うがい」がとてもいい。偽善者になってうがいをしてみたい、そんな気持ちになりませんか? うがいをするために、何か偽善者になる方法はないかなあ、なんて、いま私はどうでもいいことを真剣に考えている。ああ、うがいがしたい。でも単純にうがいするだけでは、だめ。偽善者になって、それからうがいをしなければ、と真剣に考えはじめている。

 詩を読む楽しさは、たぶ、こういう役にも立たないことをしてみる(考えてみる)楽しさのなかにあるのだと思う。




 豊原の詩集を読むなら。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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谷部良一「一個の小石」

2008-02-26 10:32:39 | 詩(雑誌・同人誌)
 谷部良一「一個の小石」(「火曜日」93、2008年02月29日発行)
 読みながら、どこがいいのか、よくわからなかった。つまらない作品というのではなく、こころをひかれる作品である。そして、その作品の魅力を語ることばを私が持っていない、という意味である。
 全行。

小石のなかの地図は風の唄で
いっぱいだ
小石は木の根っこの端に
だきついて
よじ登ろうとしている
小石はきっと
空になるつもりだ
ほんとうに誰もいないく
小石だけが
鳥を呼んでいる
空のページのなかへ
入っていきながら

それから時には
小石は小川をころげて
駆け下り
海にもなろうとする
小石は海のページに
沈んでいきながら
いきなり
鯨の口へと吸い込まれ
小魚やプランクトンと一緒に
そらとの境目あたりにある
南極あたりを
巡るのだ

そんなことで
空と海は
一個の小石

 石になってみたいなあ、と思わず思ってしまう。
 ことばの大きさと、書こうとしていることがぴったりあっているから気持ちがいいのだと思う。ふと思ったことを、その思ったままの大きさで書いている、そのことばの大きさ。それが気持ちがいいのだと思う。
 詩は(あるいは、詩だけではないのかもしれないが)、書き続けているとことばが大きくなる。ついつい、ことばがことばを超えて、違う姿をみせる。もちろん、そういう違った姿にかわっていくことばの運動こそが現代詩の追い求めているひとつの形なのだが、ここにあるのは、そうした運動とは対極のものだ。大きくなることを拒みながら(という意志が谷部にあるかどうかは少し疑問だけれど)、そこにとどまることで、ことばといっしょにある「気持ち」をゆったりとひろげる。ことばが多くない分、こころの広がりが、一種の反作用(反比例)のようにひろく、大きくなる。

空と海は
一個の小石

 これは論理的には矛盾している。空は空であり、海は海である。そして小石は小石であって、そこには共通するものはない。ましてや空の広がり、海の深さは小石の世界とはまったく違っている。しかし、その違っているものが、ここではとても自然に結びついている。その不思議な融合の仕方が、とても気持ちがいい。

 読み返すと、谷部が細部に目をとめることでことばが大きくなるのを自然におしとどめていることがわかる。たとえば「木の根っこの端」ということばの「端」。そうした小さなものにまず身を寄せて、徐々に動いていく。いきなり大きなものにとびつかない。
 「小石は小川をころげて」の「小川」も同じである。「小さい」川。手に触れることのできるもの。肉体でそのすべてをつかむことができるもの。そういうものにまず視線を向ける。そして、そこから自然に別なものへと移動していく。その動きが、とてもいいのだ。
 3連目の「そんなことで」という1行も、とても気持ちがいい。2連目から3連目にかけては、説明しようのない大きな飛躍があるのだが、その飛躍をなんでもないかのように「そんなことで」と口語で言ってしまう。その響きのなかにある肉体--肉体がことばに触れている感じが、不思議にかわらしく魅力的である。
 この肉体の感じ、ことばと肉体の感じを保ち続けられたらとてもいいだろうなあ、と思う。



 「一個の小石」と比較すると、もう一編の「蜜柑の夕日が」は、ことばが突然「大きく」なる部分があって、そこで私は、すこし興ざめする。比較のために(あるいは、私がここで書いていることを補足するために)、少し書き添えておく。
 「蜜柑の夕日に」の5連目。

蒼穹の黄道に
沿って
後退する
アレージュ氷河の上を

 ほかの連にもどうしてこんなことばをつかうのだろうと思う部分があるが、この連では「蒼穹の黄道に」。谷部はここでは肉体でことばを書いていない。肉体とは無縁のもの、「流通することば」を利用している。そういう部分はつまらない。「木の根っこの端」は手で触ることができる。「小川」も、「ほら、手を浸してみて」と誘いかければ誰でもが触れることができる。でも「蒼穹の黄道」はどうだろう。誰もそんなものがどこにあるか知らない。
 「一個の小石」に書かれていることは肉眼では見えないこと、想像の世界であるけれど、それは身近に、肉体の範囲でしっかりと感じ取ることができる。一方、アレージュ氷河の減少(後退)は肉眼で見ることもできれば、実際にそれを数字として記録することもできる現実である。しかし、「蒼穹の黄道」ということばに邪魔されて、肉眼で見る前に頭の中で完結してしまう。大きなことばは頭の中を簡単に整理してしまう。そこでは詩は生きてはいけない。詩は、ことばが動いていくときに輝くものだからである。

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大石陽次詩・太田拓美画『あいうえお・・・ん』

2008-02-25 11:31:01 | 詩集
 「あ」から「ん」までを頭韻にして書かれた作品。こうした作品の特徴は、そこにどうしても「意味」が入ってしまうことだろう。谷川俊太郎は「意味」を書くと同時に「意味の破壊」も試みているのでおもしろいが、なかなか谷川俊太郎のようにはいかない。
 「み」という作品。

みみずくの
みみは
みどり

みずばしょうの
みみは
みずいろ

みどりごの
みみは
みらい

みらいは
みえない
みみをすます

みどりと
みずいろと
みらいに

 「みどりご」と「みらい」が近すぎで「意味」になりすぎる。そこが、読むひとによって違うだろうけれど、私は「うるさく」感じる。「みどりご」ではなく、ここに「みず」がでてきたら違うだろうなあ、と思う。「みみず」にも「みらい」はあるわけだが、どうなるかなあ。
 こうした作品こそ、「意味」をこえた何か、突然の出会いが必要なのだと思う。
 せっかく「みみずく」の「みみ」、「みびばしょう」の「みみ」と異質なものを出会わせているのだから、そのあとはさらに異質なものを出会わせることで世界を攪拌してほしかったなあ、という思いだけが残った。


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シェカール・カプール監督「エリザベス・ゴールデンエイジ」

2008-02-25 11:16:54 | 映画

監督 シェカール・カプール 出演 ケイト・ブランシェット、ジェフリー・ラッシュ、クライヴ・オーウェン、サマンサ・モートン、アビー・コーニッシュ

 「エリザベス」(★★★★)の続編。
 ケイト・ブランシェットが女王の悲しみをドラマチックに演じている。彼女の皮下脂肪の少ない顔が激変し、顔がそのまま表情、こころになる。目の色の変化など、ぐいぐいひきこまれていく。
 それはそれでいいのだろうけれど、あまりにドラマチックに演じるので、女王のふるまいが演技なのか、それとも実際の行動かわからないような部分が出てくる。
 よろいに身を固めて軍を鼓舞するところが特にそうだ。はるかに軍勢の多いスペイン軍を迎え撃つイギリス軍。勝ち目はない。それでも女王は鎧に身を固め兵を鼓舞する。「イギリスの自由を守るために戦い、天国で会おう。あるいは運がよければ、この荒野で再び云々」という具合である。とても感動的である。けれど、女王はほんとうにそう感じて兵を励ましたのか。あるいは、そんなふうに兵を鼓舞することが女王の役目だと感じ、そう振る舞ったのか。そんな疑問がふと浮かんできてしまう。もしそこに女王ではなく王がいから、たしかにそうするであろうと感じてしまう。そして、そのことが、もしかすると女王はこころに不安をかかえながらも(王でも不安をかかえているだろうけれど)、演技として、そう演じているだけなのではないのか、疑問に感じてしまうのである。
 そしてそのことが、この映画全体の印象を微妙に変えてしまう。
 映画はスペイン軍との戦いを背景にしながら、女王の孤独、男への思いに自由に身を任せられない苦悩・悲しみ、その「人間性」を中心に描いているのだけれど、そこに描かれているのはほんとうにひとりの女性の悲しみなのか、という疑問が忍び込んでしまう。
 たとえば恋しい男にキスを迫る。それはほんとうにキスがしたいからなのか、それともそんなふうに男を誘うのが男と二人きりになった時に女がするべき行為だからだからだろうか。そんな疑問である。
 もちろん、この映画では女王はほんとうにキスをしたくてキスを迫るのだし、侍女に嫉妬するのもほんとうに嫉妬しているからなのだが、それらの演技があまりに真に迫っているので、演技じゃないのか、と逆に疑問が生まれるのである。ほんとうに感じていることは、こんなふうに劇的な表情として肉体のなかに(生活のなか、くらしのなかに)あらわれないのではないだろうか。どこかに「ためらい」みたいなもの、あらわしきれないものを含んでいるのではないだろうか、という疑問が生まれ、何か生身の人間をみた感じがしないのである。
 もちろんケイト・ブランシェットが演じているのは庶民ではなく女王なのだから、そこにはおなじ人間であっても表情に違いかあるかもしれない。絶対的な1人と、その他大勢の人間では表情の役割が違うだろうから、そういうものを反映した演技といえばいえるのだろうけれど。
 私はケイト・ブランシェットが大好きだが、この映画に関して言えば、表情の激変の演技を見るのは、ちょっとつらい。ドラマチックであることが「嘘」につながって見えてしまう。「演技」として見えてしまう。役者は演技をみせるものであるが、その演技は演技であってもストーリーに属したものではなく、役者個人の肉体に属したものでないとおもしろくない。ストーリーに付属しているだけの演技なら女優が演じる必要はない。肉体は必要はない。ストーリーだけなら小説でもいいし、アニメでもいい。(小説にしろアニメに白、小説には小説の文体、アニメにはアニメの文体、役者で言えば肉体というものがあり、それはそれで別の論になるのだが。)ケイト・ブランシェットの演技力が裏目に出た映画である。

 ケイト・ブランシェットに比べると非常に損な(?)役所を演じているサマンサ・モートがなかなかよかった。つまらない役なのだけれど、なんだかほれぼれと見とれてしまった。そこには、この映画のケイト・ブランシェットが欠いている肉体の不透明さがあった。クライヴ・オーウェンはコスチュームプレイがあっていない。表情が現代的すぎる。過去の時代の顔ができない。そのために、もともと間が抜けたような顔が、この映画ではいっそうノーテンキに見えてしまう。完全な配役ミスである。



ケイト・ブランシェットの「エリザベス」なら、やはり前作の方がすばらしい。

エリザベス

ソニー・ピクチャーズエンタテイメント

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米田憲三「荒野を抱く」

2008-02-24 10:02:49 | その他(音楽、小説etc)
 米田憲三「荒野を抱く」(『合同歌集 第一集 耀』原型富山歌人会、2008年01月20日発行)

 修司悼むこえいつまでも満ちており荒野と呼べるものを抱けば

 「修司」とは寺山修司である。
 この歌に、私はとても驚いた。声の響きがとても若い。奇妙な言い方かもしれないが、この歌を高校生が書いたと誰かが言ったなら、私はそれを信じたと思う。ところが、私は、米田の年齢(正確な年齢ではないが)を知っている。米田が高校生ではないことを知っている。実は、私が高校1年生だった時、米田は国語の先生だった。それなのに、この歌の響き、声を、まるで高校生が書いたものであるかのように、どうしても感じてしまう。高校生が言い過ぎというなら、大学生と言い換えてもいいが、どんなに想像しても今の米田とは重ならない。(米田とは高校1年のとき以来会ったことがないので、今の米田を私は知らないけれど。)とても若い。信じられないくらい若い。
 米田は、この作品をいつ書いたのだろうか。
 私の記憶では寺山は1980年代に亡くなっている。たとえその直後に書いたものだとしても、80年代には米田はすでに40代を超えている。(50代かもしれない。)高校生では、もちろん、ない。最近書いたものだとすれば、なおのこと、米田の年齢と大きくかけちがった若さである。
 どうしてこんなに若い響きが歌の中にあるのだろうか。

若き修司に逢いしは居酒屋「古今」にて場を設けくれし繁次も今亡く

朴訥な語りのなかに溢れいし刃のごとき修司のことば

 米田は寺山と会っている。一連の歌といっしょに掲載されている短い文章を読むと、米田は寺山と2度会って、話している。ここに書かれている寺山はだから実際の、生きた寺山である。この実際に会っているという体験、若い時代の体験が、米田の声を若くしている。若い時代に米田を引き戻し、その記憶のなかで、若い時代のことばがそのまま動きだしているかのようだ。
 若い時代のことばの特徴のひとつに、というより、まだ体験していない、実際に感じていないけれど、ことばにすることで体験や感情を先取りするという動きがある。若い時に他人のことばに刺激されるのも、そのことばのなかに自分の体験していないもの、これから体験するかもしれないものの予感を感じ、予感のなかで体験を先取りするということがある。一種の、知らないものを知りたいという欲望の裏返しである。予感のなかで、感情を体験したいという欲望のようなものを、若い時代のことばは、ことばのなかに抱き込んでしまう。

 修司悼むこえいつまでも満ちており荒野と呼べるものを抱けば

 この「荒野」は実際の「荒野」ではない。「荒野と呼べるもの」--それは「象徴」である。象徴、あるいは比喩というものは、その存在が、今、目の前に存在しないことによってはじめて比喩、象徴として成り立つ。実際に荒野を抱くということはできない。だからこそ「荒野を抱く」という比喩が生まれ、「荒野」が「荒野」ではなく、ひとつの象徴にもなる。若い時代は、ことばはいつでも「体験」よりも、「体験」にまみれていない、何か象徴のようなものである。予感のようなものである。ことばを書くことで、そのことばを体験したいと思って書くものである。
 「荒野と呼べるものを抱けば」というけれど、実は、逆なのである。そういうものを抱けば寺山を悼む声が満ちているのではない。寺山を悼むこと、そういう声を発し続けることで、米田は「荒野と呼べるもの」を胸に抱こうとしているのである。「荒野」なにもない野。何もないとは、よごれもない、という意味である。純粋である、という意味でもある。そんなものは、いま、ここにはない。そして、いつだって、どこにだってない。だからこそ、それを抱きたいのである。呼び寄せたいのである。
 --そういう不思議な飛躍、精神の、肉体を超えて動いていく動き、それが、肉体を超えると同時に「時代」(時間)を超えて、若い時代と結びついている。寺山を思い出す時、米田は米田自身の若い時代を思い出し、その米田の若い時代のことばの動きそのものとして、いま、ここで生きている。
 ことばを書くということはことばを生きることなのである。

 ことばを生きる--そのことが米田の歌を若くしている。若い響きにあふれるものにしている。ことばを生きる、というのは、ことばでしか書けないものを生きるということでもある。「荒野と呼べるもの」というロマンチシズム。あるいはセンチメンタリズム。その「若さ」。それは、寺山が生きたことばであり、また、寺山と同時代を生きた米田のことばなのでもある。米田と寺山が「荒野と呼べるもの」ということばのなかでいっしょに生きているのである。
 「寺山の影響」「寺山の亜流」ということではない。それはいっしょに生きるものの、ことばの共鳴なのである。共鳴の美しさが、その美しさのなかで「若い時代」を輝かせる。そういう輝きが一連の歌にある。

垂直の思考といえど酔い痴れて卓上に立たせゆくビール壜

 「垂直の思考」という比喩、それが「卓上に立たせゆくビール壜」と重なり合いながら、精神の動きの象徴となる。学生の、熱い熱いことば、ことばを追いかけることで精神を何かにかえようとする力、自己を超越しようとする力の共鳴。そういうものを、いま、米田は生きている。

貧しき語彙、貧しき心、矩(のり)越えぬ日常を週末のハンガーに吊る

 この歌も同じである。「貧しき語彙」「貧しき心」の「貧しさ」は「経験の貧しさ」(経験をともなわないとこ)を意味する。それは逆説であって、ほんとうは余分な経験にまみれていない、とういことである。(「荒野」の「荒」とおなじ意味である。)経験を抱え込んでいない純粋な語彙、純粋な心(理想)ということでもある。
 「貧しき語彙」「貧しき心」と否定的に書きながら、実は、その否定の向こうにある純粋なものを絶望的に求めている。
 日常に流通していることばではなく、ことば自身のなかにある純粋な存在のあり方、たとえば理想の「荒野」というものが目指されている。そういうものを目指してしまうのが「若さ」の特権である。そういう特権を、米田は、寺山を思い出すことで手に入れている。「週末のハンガーに吊る」という絶対的な、純粋な「敗北」--純粋な敗北などというものは現実にはない。しかし、それをことばとして、ことばの向こう側に求めてしまう。その若さの特権を米田は寺山を思い出すことで手に入れている。

 これはある意味で、寺山論としての短歌かもしれないと思った。



 米田憲三の最新の歌集を読むなら。


ロシナンテの耳―米田憲三歌集
米田 憲三
角川書店

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古井由吉『白暗淵』

2008-02-23 11:10:33 | その他(音楽、小説etc)
白暗淵 しろわだ
古井 由吉
講談社、2007年12月10日発行

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 本(小説)には最後まで読まないといけないものがある。そうではなくて途中まででいい本がある。あるいは任意の場所を開いて読むだけでいい本がある。古井由吉の小説は、最近、最後まで読まなくていいし、任意のどんなページを開いてもいい小説になってきた。これは、ことばが「詩」になりはじめたということでもある。ことばは「結論」をもとめない。ことばは動いては行くが、動いた結果、それでどうなったか、と問われると何もおこらない。あ、ことばはこんなふうに動くことができる、というそれだけがわかる。そして、ことばがこんなふうに動くことができるとわかることが強い衝撃として残る。ことば自体の力が、そこに見えてくる。--この短編集の作品は近年最大の「詩」である。
 「朝の男」の冒頭。
 
 物を言わずにいるうちに、自身ではなく、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで壺に吸い取られたその底から、地へひろがって、かすかに躁(さわ)ぎ出すものがある。

 「静けさ」を感じる一瞬。そのことを書いている。ただその「静けさ」は一瞬「静けさ」に感じられるだけで、何も動いていないわけではない。いままで誰も書かなかったものが動いている。しかも、それは「ことば」が動くので、その「ことば」にしたがって動いているだけなのである。「ことば」が何かを動かしているとさえ言える。
 最初読んだ時、

 物を言わずにいるうちに、自身ではなく、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。

 という感覚の新鮮さに引き込まれた。自分ではなく壺が沈黙している。自分と壺が一体になってしまっている。自分というより、自分の中にある沈黙と自分の外にあるものが一体になってしまっている。そういう感じだ。そういう不思議な感覚から、ことばが自然に、不思議な感覚の、さらに動いて行き、動いて行くことで、その世界の構造を強靱なものにする。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある。
 
 そして、そういう構造が強靱なものになったとき、同時にとても不思議なことが起きている。
 「沈黙」(静けさ、静寂)を書いていたはずなのに、あっと言う間に「躁ぎ出す」という世界に変化してしまっている。「躁ぎ出す」こと自体は、それが音をともなっているとはかぎらない。無言のまま「躁ぎ出す」ということもあるだろう。しかし、その「躁ぎ出す」は「さわぎだす」であり、「さわぎだす」は「騒ぎ出す」を引き寄せる。どこかに「騒ぐ」(騒音の騒、つまり音)を含んでいる。何かしら最初に書いたことと矛盾したものを含んでいる。
 
 だが、それはほんとうに矛盾なのか。それとも世界というものの必然なのか。

 古井由吉のことばは、実は、そういうところへ動いて行く。古井由吉のことばが問いかけているのは、世界の存在の意味そのものである。世界に何かが存在する。そのことの意味へ迫ろうとする。その何かを、たとえば「男」(私)と言い換えてもいいが、その存在の意味を他人との関係というよりも、「男」(私)と「ことば」、「ことば」がとらえることのできる「世界」のなかで追い求める。

 別な言い方をしてみる。先に引用した冒頭の3行。その3行のなかで、もしこのことばがなければ古井由吉がこの文章を書くことができなくなるということばは何か。私がときどき「キーワード」として取り上げていることばは何か。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 この一節に書かれている「その」である。
 「物を言わずに」の代わりに「ことばを一言も発せずに」ということができる。「自身」のかわりに「私」でもいい。「背後」のかわりに「目の前の」でもいいし、「壺」のかわりに「花瓶」でもいい。そういう名詞そのものは代替がきく。しかし、「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」の「その」だけには代替になることばがない。
 「その」自体は省略することもできる。ただし、そのときは文体がすこしかわる。たとえば、「沈黙まで吸い取った壺の底から」という具合に。そして文体がかわるとき、実は、ほんとうは「世界」そのものがかわっている。「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」と「沈黙まで吸い取った壺の底から」は似ているようで、共通するところはまったくないのである。その違いをつくっているのが「その」である。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 この「その」には「連続」と「連続する」ことで「そこ」から離れ、「そこ」の内部へと分け入って行く動きがある。粘着性と連続性、粘着しながら世界をじわりじわりとひろげてゆく力がある。
 古井由吉はことばのもっている粘着性を利用しながら、ことばの世界をじわりとひろげてゆくことを試みている。古井由吉のことばの冒険は、たんに世界をひろげることではなく、あることがらを粘着力をもったまま、じわり、ずるり、とひろげ、「沈黙」が「さわぐ」になったように、すべてのものが表裏一体になっているということを明るみに出す。
 「沈黙」は「静か」なだけではない。「沈黙」は「躁ぐ」であるり「さわぐ」は「騒ぐ」である。「騒ぐ」は「音」であり、「音」は「沈黙」の対局にある。それは対局にありながら、常に凝縮した一点でもある。一点と無限--そういう結びつきが、ことばを分け入っていくと見えてくる。
 こうした矛盾(あるいは、形が定まっていないことを指して、「混沌」と言い換えてもいいかもしれないが)は、次のような形の文章にもあらわれている。

急いではならない。急ぐほどに道は遠くなる。急いで踰(こ)えられるような距離ではない。時間も空間も永遠の相を剥いている。歩調を乱してもならない。立ち停まるはまして危い。足を停めてあたりを見まわしたら最後、魂が振れて、昨日と今日とのあいだにぽっかりとあいた宙に迷い出し、妻子の安否も忘れることになりかねない。

 急ぐと急がない。永遠と一瞬。矛盾したものがからまりあいながら、世界をつくっている。世界は、矛盾したものがからまっている。そのなかには、「昨日と今日とのあいだにぽっかりとあいた宙」というような、ことばでしかとらえられないものもある。
 古井由吉は常にことばでしかとらえられないものを書いている。ことばの世界を書いているのである。つまり、それは「詩」だ。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 はことばだけで成り立つ世界である。沈黙が壺に吸い取られるという現象そのものもことばでしかありえない世界だが、「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」の「その」はさらにことばでしかない。純粋なことば。対象を持たないことば。ことばが動くときにことば自身が要求することば--ことばのためのことばである。

 古井由吉の作品は全部読まなくてもいい。全部読んでも「結論」などはない。「答え」はいつも書かれていない。しかし、だからこそ、全部読みたくなる本である。

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大橋政人「春」

2008-02-22 09:28:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 大橋政人「春」(「独合点」92、2008年02月08日発行)
 書き出しが魅力的な詩と終わり方が魅力的な詩がある。大橋の「春」は終わりがとても魅力的だ。と書いても、たぶん最後の4行だけ書いてもその魅力は伝わりにくいかもしれない。全行引用する。

春には毎年
先ばかり越されている

どっちから来るのか
わかっていれば
遠くまで出迎えに行くことだってできる

あしたとか
あさってとか
その次の午前九時とか
いつと行ってくれれば
心の準備の一つや二つ
あろうというものだが

春は
いつだって断りなしに
気がついたら
もうここに来ている

気がついたときには
すっかり春に囲まれていて
万事休す

降参の格好で
両手を挙げてフラフラ
あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 最後が魅力的なのは、実は、終わっていないからだと気がつく。変ないい方になるが、「結論」がない。春に先を越されて、それでどうなった? どうもならない。何もかわらないことがあるのだ。
 ことばは書いてしまうと、どうしてもその書いた先へと動いて行ってしまう。動いて行って、その結果として、自分が自分でなくなってしまう。そこに書くことの「意味」があるのだと思うけれど、そういう書くこと(ことばの運動)に逆らって(?)、同じところにとどまりつづけている。どこへも行かない。何にもならない。これはなかなか難しいことである。
 「先を越される」と、ひとはどうしても追いつきたくなる。追いつかなくても、すくなくともそれ以上引き離されないようにしたがるものである。大橋も、そうなふうに一応は動いてはみせている。「どっちから来るのか/わかっていれば/遠くまで出迎えに行くことだってできる」というような、どうでもいいことというか、ことばの上でだけでならできるが、実際はできるはずがないことを平気で書いていたりする。
 たぶん、このことばではできるけれど実際にはできないこと--その「むだ」のなかで時間をすごすということが、大橋の詩の魅力であり、そういう「むだ」のなかの行為だからこそ、終わってはいけないのだ。「むだ」を終わらせない。「むだ」でありつづける。そこに、なんといっていいのか私にはよくわからないのだが、人間の生存のひとつの重要な役割があるのだ。何か役に立つことをするというのは人間にとって大切なことであるけれど、そうではなく役に立つことをしない、無為にすごす、時間をむだづかいする--そういうことのなかに人間のいのちを救う何かがあるのだ。
 どんなふうにして人間は「むだ」を生き、その「むだ」が気持ちいいかを、大橋は詩のなかで実践している。

両手を挙げてフラフラ
あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 「あっち」へ後ずさりしづけるのではない。「こっち」へ後ずさりしつづけるのでもない。どちらかへ限定しない。「後ずさり」の「後」がけっして「前」へ行かないことを静かに決意している「ずさり」という消極的(?)な態度が、ここでは積極的に採用されている。「むだ」を選ぶことの美しさ、この連の前に書かれていることの美しさは、この「後ずさり」によって輝いている。
 まだ春というには早いけれど、春になったら「後ずさり」してみたい、という気持ちになる楽しい詩だ。




大橋はこんな詩も書いている。


十秒間の友だち―大橋政人詩集
大橋 政人
大日本図書

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滝悦子「DUST」

2008-02-21 10:33:29 | 詩(雑誌・同人誌)
滝悦子「DUST」(「夜凍河」13、2007年12月発行)
 読点「、」のなかに何が存在するか。滝の詩を読みながら、ふと思った。「DUST」の書き出し。

閉ざされたブラインド
その羽を細くあける、と

月の夜だね
西風が吹いているね

 滝は正確に息づかいを読点「、」にこめている。改行にも呼吸の間合いをこめている。滝にとっては、呼吸、間合いというものこそ詩なのだろう。
 1連目の2行も、よく読むと読点意外にも静かな息づかいの動きがある。「閉ざされたブラインドの/羽を細くあける、と」ではなく、いったん「閉ざされたブラインド」と対象を提示しておいて、そこから「その羽を細くあける」という具合に焦点を絞っていく。「その」という指示、その焦点の絞り方が、そのまま「細く」を導き出している。「その」と「細く」が呼吸し合っている。そういう呼吸をしっかりと見極めた上で「、と」と、読点を含んだことばが引き受ける。このリズムはとても気持ちがいい。引き込まれる。
 そうした呼吸のリズムがきちんとしているからこそ、1行空きのあとの転調が楽に(スムーズに)響いてくる。「月の夜だね/西風が吹いているね」。解放された口語。そして、その「ね」の脚韻というにはおおげさすぎるけれど、静かな繰り返しも、自分自身への問いかけ、自問自答にぴったりしている。

ガラス張りの
ビルに反射しているのは
視界の外を出て行く船で
予約リストに名前を書くのはいつの日だろう

 この詩を読みながらくやしく感じるのは、この連のことばがうるさいことである。1連、2連と呼吸を大切に書いてきているのに、ここでは呼吸が忘れられている。意味が、書きたい対象がのさばっていて、呼吸を殺してしまっている。1、2連目の呼吸を引き継ぎながら3連目を読むことは私には難しい。2連目と3連目の1行空きで、もう一度転調するのだと言われればそうなのだろうが、もしここでほんとうに滝が転調を狙っているのだとしたら、つぎにもう一度転調があって、いわゆる「起・承・転・結」というスタイルになるのでなければ、形式的にむりがあると思う。そういう形式なら、3連目は転調になるけれど、そうなっていないので、どうしても、あ、呼吸が突然乱れてしまった、という印象になってしまう。とても残念だ。

 「TRIP Ⅳ」でも、滝は読点「、」をつかって呼吸を制御している。呼吸のなかにある思いをなんとか表出しようとしている。その書き出し。

霧は
裸の落葉樹から生まれている、と
確認する夜

続いているような 行き止まりのような中を
歩きながら
私は方角を知っているのだと思う

 1行ごとの呼吸を大切にしている、ことばを呼吸という肉体でしっかり受け止め、そうすることで肉体の中にあるもの、ことばとして定着していないものをきちんと書いていこうとする精神の動きを強く感じる。「続いているような 行き止まりのような中を」の1字空きにも、精神の動きと呼吸の関係を感じる。こういう繊細な息づかいが私はとても好きだが、滝は、私の感じではその息づかいを途中から忘れてしまう。途中からことばが暴走する。静かな呼吸が荒くなる。呼吸がととのったから、そのあとは駆けられるところまで駆けて行くのだ、ということなのかもしれないが、どうもピンとこない。ことばの駆け方が最初のていねいな呼吸とそぐわない--これはもちろん私の呼吸の感じとあわないというだけのことであって、滝の呼吸がぴったりくるひともいるかもしれないのだが。

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北爪満喜「SU I CA 移り映るから」

2008-02-20 10:24:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「SU I CA 移り映るから」(「フットスタンプ」15、2008年02月29日発行)

 前半部分がとても美しい。

硝子に肩を寄せてがら
友達の声に耳をそばだてると
言葉が硝子を通るとき ときどき文字が光って灯る

SUIREN SUIZOKUKAN SUZUMUSI SUISEI-NO-O
(スイレン)  (スイゾクカン)   (スズムシ)   (スイセンノオ)

友達の声を聞きながら
硝子の表面を光って流れる文字を眺めて拾い読む
アルファベット表示になって文字が光って映るのは
ニホンゴが母国語でない彼女の声も同じように点滅するため

 「友達」「ニホンゴを話せる外国の女の子」と「私」。その3人の会話の様子なのだが、「ニホンゴを話せる外国の女の子」の存在がことばを少し変化させる。その不思議な変化を音と把握するだけではなく、同時に文字として把握する。
 3人の関係、そのなかでのことばの変化は説明しようとするととても複雑になるだろう。感覚を具体的に表現するのはとても難しいことだ。その困難な部分を北爪は、ここでは軽々と超えている。その軽さ、スピードがとてもいい。

聞き取れる SUIREN SUIZOKUKAN
水滴のように響く SUZUMUSI SUISEI-NO-O
軽い呼吸が続いてゆく

 SUIREN SUIZOKUKAN SUZUMUSI SUISEI-NO-Oのなかにある「す」(そして「すい」)の音を引き継いで「水滴のように響く」が動きだすのだが、この輝きが「硝子」とも響き合う。音としてではなく「光」(「光って映る」ということばが先にある)として反射する。聴覚と視覚が融合する。(この融合は、すでに書かれてもいるけれど。)そして、この「水」を手がかりに「呼吸」が呼び出される。
 「硝子」のなかから、世界が「水」のなかへ移っていく。この変化が軽くて、とても気持ちがいいのである。

話す友達の唇がみたくて 硝子に額を押しつける
友達はすぐに私に気づいて
ひとつ深く息を吸うと
やわらかいピンクの唇を丸く大きく開けながら
ほか見て と言うように
口から光を放ちはじめる

まぶしい光が口から出ると
テーブルの表面を揺れながら映像を少し結びはじめる

 北爪は少女の年代ではないのだが、このきらきらした会話(内容はわからないが、輝きだけははっきりとわかる)と、そこからふいにあらわれる肉体の感じが、なんとも色っぽい。ロリータっぽく(?)、ちょっとわくわくする。北爪たちが「子供」(少女、処女)にかえっていく感じ、北爪がこの詩でつかっている表現を借りれば「移っていく」感じがとても自然で美しい。
 実際、このあと3人は「子供」になってゆく。「はしゃぐ子供になっていた」という行が後半に出てくる。

 ことばをつかって、というと少し変ないい方になるが、ことばに耳を澄まし、同時に目を凝らしてことばを見る。その肉体のなかで、ことばが何かを越境する。肉体のなかで感覚が融合し、いま、ここにない世界を呼び寄せる。そのここにない世界を、もういちどことばを使って定着させる。
 --あいまいなことしか書けないけれど、(どう書いていいかわからずに書くしかないのだが)、ここには、ことばに出会うことではじまる詩がある。ことばに耳を澄まし、感覚を解放し、肉体の奥に踏み入り、まだことばになっていないものを、ことばを借りてひっぱりだそうとする詩のよろこびがある。音楽がある。はつらつとした躍動、こどもがもっている柔軟な躍動がある。

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白鳥信也「ロビーがさみしい」

2008-02-19 10:04:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 白鳥信也「ロビーがさみしい」(「フットスタンプ」15、2008年02月29日発行)
 白鳥信也の「ロビーがさみしい」は最初の2行がとてもおもしろい。

ロビーがさみしい
なんだかロバが背を向けてせつなくいななきそうじゃないか

 「ロビー」と「ロバ」の音の響きあいがとてもいいのだ。そして、なぜ「ロバ」かということを考えさせる前に、その音を飲み込んでゆく2行目の「な」の繰り返し。「なんだか」と1行目の頭で「な」を印象づけて「せつなくいななきそうじゃないか」。「いななく(き)」のなかにある「な」の重なり。それが「意味」ではなく「音楽」にかわる。その美しさがいい。
 つづく2行もいいなあ。

東側の窓と北側の窓の交差するコーナーに何か置こうじゃないか
心がわきたつオブジェがいいな

 2行目の「じゃないか」が3行目でも繰り返されている。繰り返すことで、そのふたつの「じゃないか」にはさまれたことばが凝縮する。そこにも「東側」「北側」の「が」の繰り返しがあり、「窓」と「窓」の繰り返しがあり、「交差」「コーナー」の「こ」の繰り返し、「コーナー」「何か」の繰り返しがあり、最後の「な」の繰り返しは「コーナー」「何か」「ないか」の「な」と広がり、4行目の「いいな」の「な」で締めくくられる。
 とても気持ちがいい。
 こういう作品は、音楽をどれだげ持続できるか、ということが大切だと思う。白鳥はいろいろ工夫はしているが、だんだん音楽が「意味」に飲み込まれてゆくようである。1連目の残りの5行。

社長はそう言って、社長室のドアをパタンとしめた。
わきたつオブジェと言われても
花瓶に赤いバラじゃいけないかしら
ロバだってちょっとは興奮して外に出ていくんじゃないか
だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ

 音楽は「社長」「社長室」の無残な繰り返しでつまずき、すでに遠くなった「わきたつオブジェ」という揺れもどしで破綻し、「花瓶」「赤い」の「か」の繰り返しで音楽の復活を試みることで完全に消えてしまう。「復活」の試みが、すでに存在したものが消えてしまっているからこそ復活させようとしているのだという感覚を呼び起こすのである。こうなると、音楽は復活しない。復活しなくて「沈黙」にかわればまだそれは余韻を生むのだが、音がつづけばつづくほど、それは「雑音」になってしまう。聞き苦しくなる。「バラ」のあとに「ロバ」を呼び出し、「ば」の脚韻を強調するようになると、もうげんなりしてしまう。
 とどめが、

だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ
<
blockquote>
 あ、むごい。むごたらしすぎる1行である。ロバなんて、だれも信じてはいない。ロビーとロバの組み合わせなんか、だれも現実とは思っていない。意味があるとは思ってはいない。それでも、あ、もしかしたら「音楽」のなかでロバが単なることば遊びを越境して実在するようになるかもしれないと期待して読んだ気持ちが完全に砕け散ってしまう。

ロビーがさみしい
なんだかロバが背を向けてせつなくいななきそうじゃないか

 この美しいロバはどこへ行ってしまったのだ。
 2連目に「ロバ」は一応登場するが、作者が作者自身で「だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ」と「意味」を書いてしまったあとでは、何を書いても同じである。書けば書くほど「意味」にしばられる。
 この作品の最後の1行。

ロバに乗った女の人がどうしたのかよりも気になってしかたがなかった

 ああ、こんなところで音楽にもどろうとしても、そんなことがでるきわけがない。それに「ロバに乗った女の人がどうしたのかよりも気になってしかたがなかった」と書くことは、同時に「ロバに乗った女の人」のことを意識していることを意味する。ブラックホールにひきこまれていくような気分である。


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ジャ・ジャンクー監督「長江哀歌」

2008-02-18 23:04:42 | 映画
監督 ジャ・ジャンクー 出演 シェン・ホン、ハン・サンミン、ワン・トンミン

 この映画については、すでに2007年10月31日の日記について書いた。前回はシネテリエ天神で見た。今回はソラリアシネマ2で見た。ソラリアシネマ2もこの映画を見るのに万全の映画館とは思わないがシネテリエよりは幾分ましである。スクリーンが汚れていないから、映像の美しさがきわだつ。
 この映画の第一の特徴はすべての存在に生活の跡が刻印されていることである。すべての映像に、暮らしの刻印が美しく残されている。主人公の着ているよれよれのシャツや汗とほこりによごれた肉体さえも、その生活の刻印ゆえに美しく迫ってくる。壊されるだけのビル、その配管や壁、破れたガラス窓はもちろん、ダムの中に生えている草、山にかかる霧さえも、そこで暮らしている人々の息を含んで揺れている。人々に差す太陽の光、太陽の光を受けてやわらかく変わる人々の輪郭の色にも、暮らしというものが、しっとりとなじんでいる。映像を見ている、というより、いま、そこにある暮らしそのもの、苦悩も悲しみもよろこびも含んだ人間の息づかいそのものを全身で浴びるような気持ちになる。こんな美しい映像は、この先10年は絶対にあらわれることがない。(何回も書いたことだが、この映画は10年に1本の映画である。この美しさを超えられるのはコーエン兄弟しかいないかもしれない。生きているならルノワールにも期待したい。)
 再び見て、映像の美しさには再び息を飲んだが、前回、映像の美しさに目を奪われて見落としていたものに気がついた。音だ。映画は映像と音でできているが、その音もたいへんすばらしい。(シネテリエ天神はスピーカーが悪いのか、劇場の構造に問題があるのか、音も無残な状態であった。)映像がはじまる前の、暗闇に流れる船の汽笛の深い音。水を、空中の水分を含んで揺れる音--その響きに、もうこころが奪われてしまう。通りを行き交うバイクの音や遠くから聞こえるビル解体の音。言い合っている人々の怒りに満ちた激しい声さえ、人間の声を超越して、暮らしの音になっている。(役者ではなく、現地のひとをつかっているということも関係しているかもしれない。)主役の男と妻が飴をなめながら見つめ合っているとき、遠くのビルが爆破で崩れるときの音の美しさもいいが、今回は特に、船の上で少年が歌う流行歌のようなもの、その歌声にとてもひかれた。男女の仲を歌っている感じ(日本でいえば演歌だろうか)なのだが、その内容を、実際の恋愛を知らないがゆえに、予感のリアリティーで覆ってしまう響きにひかれた。主人公の携帯電話の着メロ、主人公の友人(?)のやくざの携帯の着メロの違いにも、ていねいな気配りが感じられる。そうした細部の音にも、暮らしというか、人間の「歴史」があらわれており、その暮らし・歴史がそのまま人間の「思想」となっていることがよく伝わってくる。
 映像も音も、その映像、音とともにある人間の思想なのだ。あらゆる存在の中に、監督の、ではなく、長江で生きているひとびとの思想がはっきりと刻印されている。そのことがこの映画を、10年に1本の傑作にしているのである。この映画を抜きにして、今後10年の映画は絶対に語れない。再び、その思いを強くした。


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アン・リー監督「ラスト、コーション」

2008-02-18 02:06:04 | 映画
監督 アン・リー 出演 トニー・レオン、ワン・リーホン、タン・ウェイ

 戦争とセックス。大島渚の「愛のコリーダ」を思い出してしまう。大島渚の「愛のコリーダ」は戦争をほんの少しだけ登場させているが、そのほんの少しがたいへんな傷になっている。人間のセックス図式化してしまうことになってしまった。戦争(国家暴力)から逃れるようにセックスをむさぼる--という関係の中にセックスを閉じ込め、国家対肉体(恋愛)という図式を浮かび上がらせてしまうことになってしまった。セックスとはたしかに個人的なことであるが、それは国家と対峙しないことには魅力を語れないもののように図式化されてしまった。個人を否定する戦争(国家権力)と対比しないことにはセックスのほんらいのいのちの輝きを描けないかのような印象を残し、セックスが不当におとしめられることになってしまった。
 この映画も同じである。男と女が出会う。そこに戦争がからんでくる。さらにはスパイという関係がからんでくる。尋常ではありえない関係のなかで、「わな」が「わな」ではなくなってゆく。肉体でだますつもりが、極限状況のなかで、肉体が理性を越境し、心情にかわってゆく。これが、国家というと少し違ってくるかもしれないが、政治の権力のなかで描かれるとき、奇妙なことが起きるのである。極限のなかで、肉体がめざめ、新しい愛の形がはじまるのだが、もし、その極限状況がなかったなら、それではセックスの愛は成立しないのか、という疑問がうまれるのである。
 セックスの不可思議さ、どんなものをも越境する力を描きたいのだろうけれど、その「どんなもの」を「国家権力(戦争)」と安易に結びつけると、戦争がなければ深い愛、肉体の愛はめざめないのか、という「いやらしい」疑問が頭をもたげるのである。
 何か障害がないと、セックスからはじまり、愛へ移行するという関係はあり得ないのか、という疑問をいだいてしまう。極限のなかで、肉体が理性を越境するというのはかっこいいが、極限がないとだめなのか、不可能なのか、という疑問が生まれる。極限や、セックスを禁じる何かがないときにだって、肉体は理性を越境してもいいはずである。そういうもの、愛を制限するもの、障害がないときにだって、肉体を心理を越境してもいい、心情を越境してもいいのではないか。

 この疑問に、この映画はこたえない。「愛のコリーダ」を一歩も超えない。「愛のコリーダ」には「赤」という強烈な美しい色が存在した。また、愛人の肉体を破壊するという個人的な暴力も存在し、それが愛を燃え上がらせていた。(「愛のコリーダ」は、そういう個人の肉体の暴力、どうすることもできない欲望の越境を描いているのだから、なおのこそ、軍隊の描写は不要だったのだが。)
 この映画は、「愛のコリーダ」が提出した「色」も「個人の暴力」もスクリーンに提出していない。肉体を提出していない。セックスはたしかにていねいに、念入りに描かれてはいるが、そこから肉体を破壊してしまうまでの暴力は誕生していない。そのかわりに、「愛」というまるで恋愛の教科書のようなものが引き出されている。
 女が最後の最後になって、男に対して「逃げて」という。それは女の「愛」がそういわせるのだが、これがとてもつまらない。純愛さかげんが、とてもつまらない。女は単に「恋愛」にめざめただけなのだ。しかも、それが「わな」にかけた男とのセックスによって何かを見つけ、その結果、「愛」にめざめたというのならまだいいが、そんなふうには受け止めることは私にはできない。
 女は男を「わな」に誘い込むために、事前に別の男(同志)とセックスの練習をする。そういうくだらないことに肉体をつかってきた女が、ほんとうに女の肉体を求める男の欲望のなかで、欲望こそが愛なのだと気がついただけなのだ。もし、同志とのセックスの練習がなかったら、男の欲望に、その欲望の悲しさに気がつくこともなかっただろう。セックスの練習--そのお粗末なセックスが、男とのセックスを輝かせ、女を錯覚させただけなのである。
 これは、いわば意地悪な見方なのだろうけれど、そういう意地悪な見方がやすやすと成立してしまうほど、浅薄な映画である。
 「愛のコリーダ」が、ただただ、なつかしくなる映画である。この映画になにか功績があるとすれば、それは「愛のコリーダ」がいかにすばらしい映画であったかを思い出させてくれるという功績である。



この映画を見る暇があったら「愛のコリーダ」を見ましょう。


愛のコリーダ 完全ノーカット版

ポニーキャニオン

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