詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「バベル」

2007-04-30 19:38:27 | 映画
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 ケイト・ブランシェット、菊地凛子、アドリアナ・バラザ

 菊地凛子がとてもすばらしい。友人たちといっしょにいるときの仲間に溶け込んだ顔と、たったひとりに帰るときの孤独な顔。その落差が、気持ちがことばにならない、思いがことばにならない苦悩と重なる。肉体、女であることを武器に自分の気持ちを伝えようとするが、それもうまくゆかない。肉体の接触にもことばが不可欠なのだ。そのことに菊地凛子の演じる女子高校生は気がついていない。その気がついていない幼さと苦しみがあふれている。菊地凛子がいなければ、この映画は成り立っていたかどうかわからない。
 アドリアナ・バラザもすばらしい。自分の思いとは違うものにふりまわされる。他人が彼女の思いを無視して彼女をひっぱってゆく。それに抗い、自分の思い通りに行動したいが、すべてのことばが拒絶される。太った肉体が苦悩をため込んでさらに膨れ上がる感じがすごい。焦燥感がすばらしい。
 ケイト・ブランシェットもすばらしい。途中からはほとんど動きのない役なのだが、肉体の痛みの中でことばがうごめく。悲しみでも、怒りでも、絶望でもなく、自分の肉体に起きていることをつたえる日常的なことば--それがきっかけでブラッド・ピットと会話を取り戻すシーンがすごい。

 カメラもすばらしい。あらゆるシーンが「物語」から独立し、それぞれに動いてゆく。「物語」に従属しない。東京では菊地凛子がブランコで遊ぶシーン、それにつづく一連のシーンが生々しい。個人とは別に、「場」という主役があることを明確にする。
 モロッコのシーンは「物語」に流れそうなのだが、最後のヘリコプターでケイト・ブランシェットを運び出すシーンは演技(演出)とは思えないほどリアルにカメラの位置をつたえている。ケイト・ブランシェットとブラット・ピットの思いとは無関係に動く「場」というものがある、群衆がいるということを、カメラがリアルに切り取る。群衆が演技をするというよりカメラが演技をする。カメラはもうひとりの演技者であるということを感じさせてくれる。
 音楽は少し過剰かもしれない。もっと控え目に、映像自身がもっている「音」を引き出す工夫があってもよかったのではないか、と思う。すばらしいカメラの演技が音楽のでしゃばりによって無残に削り取られてゆくという印象が残った。

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入沢康夫と「誤読」(メモ9)

2007-04-30 09:59:07 | 詩集
 入沢康夫『古い土地』(1961年)。
 「死んだ男」。「私たちは二人だった、わたしはそれをはつきり言える--マラルメ「散文--」というサブタイトルが付いている。「私たちは二人だった」を私は「私は二人だった」と読み違えてしまった。「私たち」の「たち」は複数を含んでいる。「私たち」が「二人」か「三人」か、あるいはそれ以上か。そうした複数の中の、最小の数が「二人」なのだが、ほんとうに複数の数を前提としているのか。「二人」ということばにさそわれて「私」が「私たち」になるということはないのだろうか。入沢の作品を読むと、そうした印象がいっそう強くなる。
 一連目の書き出し。

類似は第二の類似を生む
彼女が捨てようとしたのはひとにぎりの種子である

 ずーっと進んで4行の空白のあとにはじまる連の書き出し。

類似は第二の類似を生む
水の涸れた河床で彼が目をさましたとき
彼は痺れた夢の中空に
消えていく十二の宇宙を数える

 書き出しはぴったり重なる。そして、「彼女」であった存在が「彼」にかわる。「彼女」と「彼」は「私たち(二人)」なのか。私には「彼女」と「彼」は一人に感じられる。一人の人間の複数の内面(あるいは外面)。複数にひっぱられて「私」が「私たち」になっているように感じられる。
 「彼」の部分に出てくる「十二の宇宙」は「彼女」の詩の最後の部分には、次のように書かれている。

時間の平原の中央に 彼女の歯が埋められる
彼女の遠い唄を犬たちが聞いたはずだ
彼女の旅立ちを鳥たちは見たはずだ
彼女は子宮の形を下十二の宇宙に向つて
自分の夢をちぎりながら歩いていつた

 「彼女」と「彼」のことばは重なり合うのだ。「彼」の1連目にも「犬」と「鳥」が登場する。「時間の平原」という独特のことばも繰り返される。

そして第二の誕生を夜の鳥たちが目撃する
そして彼の紫色の誕生を犬たちが嗅ぎあてる
ずたずたの服をきた彼の肉体が
時間の平原でものすごい閃光をあげる

 「彼女」の部分では「時間の平原」「犬」「鳥」という順序で登場したことばは、「彼」の部分では「鳥」「犬」「時間の平原」という順序で出てくる。「彼女」と「彼」の間にあるものは「鏡」なのだ。「鏡」によって一人の人間が「彼女」と「彼」になっている。「鏡」にうつった存在を見つめて「私たちは二人だった」といっているのがこの詩の構造だ。
 「彼女」と「彼」はもちろん「事実」として「一つ」になりようがない。矛盾を含んでいる。矛盾によってふたつに分裂している。どちらが「事実」で、どちらが「誤読」なのか。

彼女の遠い唄を犬たちが聞いたはずだ
彼女の旅立ちを鳥たちは見たはずだ

 「はずだだ」の「はず」。「彼女」の部分にあって、「彼」の部分にないことばが、この「はず」である。推定、断定。想像力がとらえる世界。「彼女」の世界は想像力によって成り立っているから、「彼女」が「誤読」であり、「彼」が「事実」ということになるかもしれない。
 ただし、だからといって「彼女」の世界を否定することはできない。入沢は「事実」よりも「誤読」を重視している。「誤読」のなかには「気持ち」がある。「はず」ということばが端的に表しているが、その「気持ち」はほとんど「願い」(祈り)である。
 「私」は「事実」を生きると同時に「気持ち」を生きている。「私」はひとりというよりも「二人」である。「私たち」といっていいくらいに、「事実」と「気持ち」はいっしょに存在している。

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入沢康夫と「誤読」(メモ8)

2007-04-29 23:45:28 | 詩集
 入沢康夫『古い土地』(1961年)。
 「平原の街づくり」。
 この作品にはいくつもの数字が出てくる。「五本」「一団」「一つ」「三頭」「三十人」「一人」「二十数本」。「沢山」も数を含んだものと考えていいかもしれない。「七月」「九月」も数の内に入るかもしれない。
 何のためにこんなに「数」が出てくるのだろうか。複数は何を表したくて書かれているのだろうか。
 4連目。

それにしても水の鈍い光り ここには三頭の牝馬がおり
そして三十人あまりの男たちがいて こも包みにされた
鋼鉄の機械を次々に竪坑に運び込む 林のかげになつて
ここからはほんの少ししか見えない丘 右手には油の浮
いた薄い刃の群落 そこにあなたではないもう一人の娘
がいて悲しい眼付きで歌つているはず あなたの姉 幼
い時あなたが追い出したのだが あなたは覚えてはいま


 「そこにあなたではないもう一人の娘がいて悲しい眼付きで歌つているはず」。不在の「一人」(一)を浮かび上がらせるために、多くの数が書かれているように私には思える。「五本」も「三頭」「三十人あまり」「二十数本」も意味はない。あるいは「不在の一」も、そうした複数の数と同じように「実在」するということ、実在も不在も同等であるということを暗示するために複数の数が書かれているように思える。この詩において重要なのは「あなたではないもう一人の娘」の「もう一人」だからである。三人でも五人でもない、「もう一人」。
 あるいは、この詩において重要なのは「もう一人」の「もう」というべきかもしれない。「もう」という意識。「さらに」という意識。ここにあるものを超えて、何かを引き寄せる意識。
 「誤読」は、この「もう」からはじまっているのだ。様々な数は「もう一人」の「もう」を引き出すための呼び水である。
 「もう一人」を修飾する「あなたではない」の「ない」も重要である。ここにあるもの、存在するものを「ない」ということばで否定して、「もう」へと突き進む。「もう」は現実ではない。現実を超越した世界なのだ。
 この一文は「はず」という断定で終わる。事実ではなく、想像で終わる。想像の断定で終わる。「はず」は予定や道理を踏まえた結論だから、それは「誤読」とはいえないかもしれない。しかし、私は「誤読」だと思う。
 この詩には「事実」など何も書かれていない。そうあってほしいという「願い」(思い)だけが描かれている。
 「あなたは覚えてはいまい」の「まい」も同じである。ここに書かれているのは「気持ち」なのである。「気持ち」は事実を重視しない。「気持ち」は事実を超越して動く。「事実」を「誤読」して動く。
 これは「気持ち」は「事実」とは独立して存在する、ということを意味する。「事実」がどうであれ、「気持ち」は「気持ち」なのである。そして、「気持ち」をことばにすることこそ、文学である。

 最終連。

九月 鮮度の低い物質の奔流がすべて死んでゆく者の躰
を急激に通過し すでに去つた者の記憶を更に追いたて
る 埃 金属の灼ける匂い そしてあなた あなたに言
わなければならない 私もまたここに来た あなたに勝
つために そして更に遠いあなたに勝つために と

 「事実」と「気持ち」、「記憶」と「気持ち」。「事実」と「記憶」が違うことがある。「記憶」には「気持ち」が含まれているため、「事実」をねじまげてしまうのである。そのため奇妙なことが(けっして奇妙ではないともいえるが)起きる。
 私たちは絶対に「事実」に追いつけないのである。「事実」と相まみえることができないのである。
 「私」は「あなた」に勝つためにここへ来た。しかし、「あなた」はそのとき更に遠くにいる。「気持ち」と「事実」の関係は、この「私」と「あなた」の関係そのものである。全体に「気持ち」は「事実」に勝てない。だからこそ、「勝った」姿を想像する。そんなふうに「私」の力を「誤読」して生きる。


 
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ポール・バーホーペン監督「ブラックブック」

2007-04-29 22:01:50 | 映画
監督 ポール・バーホーペン 出演 カリス・ファン・ハウテン、セバスチャン・コッホ、トム・ホフマン

 深刻なテーマをあつかっている。そのせいだろうか。演出がきわめてよくいえばオーソドックス、悪くいえば古くさい。おもしろい映像がひとつもない。映像と音楽の融合もない。
 知らない役者ばかりのせいか、唯一知っている(見た記憶がある)セバスチャン・コッホが印象に残った。「善き人のためのソナタ」で劇作家(脚本家)を演じた。目に特徴があり、善良さと哀愁がまじりあう。虐殺はもうやめにしたい。だが、とめることができない。そういう苦悩がにじみでる。いわば弱い部分だが、その弱さをつかれて最後はナチスによって処刑されてしまう。その死によって、善良さが浮かび上がる。ナチスなのだが、ナチスにもそういう善良さをかかえこんだ人間がいた、善良さゆえに死んでいくしかなかったという役どころである。もうけ役といえばもうけ役だが、そういう役どころをつかみとる顔をしているのだろう。
 カリス・ファン・ハウテンはアメリカ(ハリウッド)の役者と違って不透明である。肉体を、これは肉体であって精神ではない、ときっぱり断言できる強靱さも兼ね備えている。その強靱な不透明さがこの映画では重要な要素となっているが、あまりに強靱すぎてはらはらどきどきが伝わって来ない。殺戮を思い出し嘔吐したり、罵られて糞尿を浴びせられても、そこに弱さが見えて来ない。彼女の痛みが痛みとして伝わってこない。(私だけかもしれないが)。ケイト・ブランシェットのような透明感のある女優が演じると、もう少し違った映画になったのではないかと思う。


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北爪満喜「保護区」

2007-04-28 14:46:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「保護区」(「モーアシビ」9、2007年04月20日発行)。
 近年、豊かな海(魚がたくさん棲む海)のために森が不可欠であることが指摘されている。海を育てるための森というものがたくさんある。北爪はその森と出会う。

崖っぷちの林の中を歩いてゆくと
小さなプレートが木に巻き付けられていた
魚保護区
と文字が読めた
林の中なのに 魚がいるの

ええっ 木々の間を魚が泳ぐの

そんなわけない
ぴたっと本を閉じるように
思い付いたことを閉じようとしても
ぴたりと閉じられない
どこかずれてしまって
もう木々のあいだを魚が泳ぎだしている

ええっ と思った隙間から
魚は
抜け出してきたのだろうか
魚は
しなやかに銀色の背を光らせて
林のあいだを幹を巡って
くるくると泳ぎ回っている

 「閉じる」「ずれ」「隙間」。意識の一瞬の動きを、そうしたことばで北爪はとらえている。もっとも興味深いのは「閉じる」である。「ぴたっと本を閉じるように/思い付いたことを閉じようとしても」と「閉じる」は2度使われている。
 この「閉じる」は何かが北爪の内部へ侵入してくることを拒むための「閉じる」なのだが、侵入を拒むどころか、逆に北爪の内部で拒否したかったはずのものが増殖する。増殖して、あふれだしてゆく。「閉じる」が拒絶ではなく「結合」へと変化している。「閉じる」が「結合」に変化することで、北爪自身が、北爪から「森」へと変化してしまっている。この変化が楽しい。
 驚き(「ええっ」と北爪は書いている)は「私」という枠を取り払う。消してしまう。だからこそ、北爪は急いで「閉じる」必要があったのだろう。「私」を「私」という枠のなかに「閉じる」必要を感じたのだろう。
 しかし、いつでも「私」が必要とするものよりも、「私」を壊してゆくものの方が大きい。いったん壊れてしまえば必ずその痕跡は残る、と言い換えればいいだろうか。
 北爪は、ここから「壊れてゆく私」を「閉じる」ことで再構築しようとしない。「ずれ」とか「隙間」とかを利用して(つまり、自分は一生懸命「閉じる」ことをこころがけているのだと自分に言い聞かせながら)、逆に「私」をひろげてゆく。解放してゆく。
 この感じが、とてもおもしろい。とても楽しい。

思い付いたことは閉じられない
思い付く
隙間がふえて
それが林になってゆく

 「隙間」が林になってゆくと北爪は書いているが、この詩を読むと、北爪が林になってゆく様子がよくわかる。
 あらゆる存在は別個に存在するのではない。林は林として存在するのではない。北爪が林を認識するとき、林は林になる。魚が泳いでいると認識するとき、何かが魚になる。「思い付く」ということばを手がかりに考えれば、北爪の「思い」が魚に「なる」。北爪の「思い」が同様に林に「なる」。それは北爪が魚に「なり」、同時に林に「なる」というのと同じ意味だろう。
 「なる」ことが「私」をおしひろげることであり、「なる」ことが「私」を解放することである。この動きに無理がない。だから楽しい。

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入沢康夫と「誤読」(メモ7)

2007-04-28 12:23:38 | 詩集
 「転生」(『夏至の火』)の、たとえば次のような行に、入沢の嗜好(無意識の思考=生理的な思想)を感じる。

                 あの人の墓だとい
う みんなが言うのだ あたしは それはうそだとすぐ
判つたが だまされたふりをせねばならぬ

 こに書かれているのはひとつの「神話」である。ある男(あの人)がいて、その男が死んでしまった。その男のことを「あたし」は思っている。思い出している。
 その途中に出てくる行である。
 嘘と分かって、それでも嘘を明らかにしない。逆にその嘘に身をまかせる。嘘には嘘を成り立たせるための「思い」がある。その思いを共有する。人と(みんなと)思いを共有することが、それが真実であるかどうかよりも重要なのである。「神話」とは事実を語り継ぐというよりも、その「時」を生きたひとの共有する「思い」を語り継ぐものなのだ。
 「事実」そのものではない、ということに的を絞って、「神話」を「誤読」された「時間」と読み替えることができる。同時にひとびとによって共有された「思い」と読み替えることもできる。
 そういう「神話」の中で、何が起きているか。

        海が陸地になり 陸地が海になり お
れはおれになり またおれが出来る

 「神話」のなかでおれはおれに「なる」。ひとびとの「思い」、「共有された思い」のなかで、おれはおれに「なる」。「思い」のなかでは生成が起きている。人はただ「男」を受け入れるのではない。そこに「思い」を託し、ことばにする。「男」を変形させる。「男」であって、「男」ではないものにしてしまう。
 「またおれが出来る」の「出来る」は「誕生する」(発生する)と同じ意味である。
 そして、この誕生には必ず死がついてまわっている。
 いま引用した行に先立つ断章の書き出し。

おもが死んだのは 今度がはじめてなのではない

 「男」は何度で死んでいる。死ぬことによって、ひとびとに語られ、その語りの中で、人々の「思い」を代弁するものへと変形させられる。「男」はおれに「なる」。語られるたびに、「またおれが出来る」。
 「誤読」は単に「誤読」のまま存在するのではない。「誤読」され、語られなおし、語り継がれる。そして、「ことば」になるのだ。
 「誤読」から「ことば」へ。--そこに、たぶん入沢の「夢」がある。
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ピーター・ウェーバー監督「ハンニバル・ライジング」

2007-04-27 22:34:55 | 映画
監督 ピーター・ウェーバー 出演 ギャスパー・ウリエル、コン・リー、リス・エヴァンズ、ケヴィン・マクキッド

 ハンニバル・レクターがどのようにしてレクター博士になったか--というよりもアメリカ人に日本がどのように理解されているかということを描いた映画だ。
 感情を表に出さない。能面のような表情。その奥にある怒り、激情。感情を表に出さずに、冷静な行動にかえていく。単純な、図式的な、紋切り型の構図である。それはそれで仕方がないことかもしれないけれど、その紋切り型の利用の仕方に私は疑問を持った。

 家族を殺された、幼い妹を殺された、というだけでは少年がどうやってあのレクター博士になったかを説明するには動機として弱すぎる。そのため、幼い妹を殺されただけではなく、食べられたという異常な状況を設定する。しかし、それだけでもまだあのレクター博士の誕生を説明するには何かが足りない。妹を食べられた、妹が殺され、食べられるのを見たという状況は異常すぎて、説明にはなりえない。そんなことを体験してきて、正常に(?)医学学生になるための試験(それも飛び級)に受かるような理性を保てるだろうか。驚異的な天才という設定だから、それでもいいのかもしれないが、やはりどこか不自然である。
 この不自然さを隠し去る手段(方法?)として「日本」が利用されている。武士の鎧、兜。日本刀。首切り。能面。コン・リー(日本人の役)はギャスパー・ウリエルに「日本」の哲学を教える。剣道も、その実践として、教える。生け花も教える。(茶も教えたように描かれている。)感情を表に出さず、冷静に行動する。ハンニバル少年がレクター博士にかわったとき、そこには「日本」の哲学が影響を与えている。ただし、その影響がどんなものかは、やはり「能面」のような「顔」の奥の世界であって、西洋人には理解できない--理解を超えたものである。「理解を超えた冷静さ」。その象徴として「日本」が利用されている。
 この利用の仕方は、かなり俗悪である。
 俗悪な利用の仕方をしてもいいのだ、というふうに日本は理解されている、ということかもしれない。

 この俗悪さを別にして見れば、ギャスパー・ウリエルはなかなかおもしろい役者だった。冷徹、非道な人間というより、生身のあたたかさ、アンソニー・ホプキンスに通じるひとなつっこさをただよわせている。復讐のために人を殺しても、そのことによって人格がかわらないことを、かわらない表情で演じる。コン・リーが徐々に表情をかえるのに反し、ギャスパー・ウリエルは表情がかわらない。汚れを感じさせない。血を浴びたりするのだが、その血がかえってギャスパー・ウリエルを美しくみせる。美男には血が似合うものだが、そういう意味ではギャスパー・ウリエルは美男なのだろう。そして、美男であることによって、すべてを拒絶する。殺人は悪である、という哲学を拒絶する。

 それとは別に、この映画にはひとつ不思議な点がある。
 ギャスパー・ウリエルは、「おまえも妹の肉を食べたのだ」と告げられる。そのことが置き去りにされている。ギャスパー・ウリエルが冷徹な殺人者になったのは、実は彼自身が妹の肉を食べたということを知られたくなかったからではないのか、と私は思ってしまった。ギャスパー・ウリエルは復讐というよりも、彼自身が妹の肉を食べてしまったという事実を知っている人間を世界から抹殺するために殺人をしている--そうとらえた方がレクター博士の誕生にはふさわしいのではないだろうか。そうとらえ、そんなふうに描いていけば「日本」を登場させずに、もっと「西洋人」の問題としてレクター博士を濃密に描けただろう。
 「日本」を登場させたのは、一種の手抜きである。--と日本人である私は思う。

 
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小柳玲子「三月 雨」

2007-04-27 21:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 小柳玲子「三月 雨」(「きょうは詩人」7、2007年04月23日発行)。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった
「お父さん サンマが」といったが聞こえなかった
父の部屋はとても遠い
長い廊下を走っていったが どの夕方も間に合わない

 「どの夕方も間に合わない」の「どの」がおもしろい。
 「窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった」ということがきょうの特別なことではない。またそれを声に出して叫ぶこともきょうに限ったことではない。父の部屋まで「長い廊下を走っていった」こともきょうだけのことではない。繰り返し繰り返しやってきたことである。つまり「日常」である。
 小柳がここに書いているようなことは、誰でもが体験することではない。いや、誰も体験しないことである、といった方がいいかもしれない。しかし、それゆえに「日常」なのだ。
 「日常」はきわめて個人的なことである。ひとりひとりの都合に合わせて私たちは生きている。他人(父さえも含める)の都合に合わせて生きているわけではない。他人(父をも含める)ももちろん小柳の都合に合わせて生きているわけではない。小柳が「サンマの顔をしたもの」を奇異に感じようが感じまいが、「サンマの顔をしたもの」は「サンマの顔をした」ままなのである。「イワシの顔」や「タイの顔」をしてくれるわけではない。ましてや「人間の顔」であってくれるはずがない。
 どうやって折り合いをつける。
 小柳は詩を書くことで折り合いをつけている。「サンマの顔をしたもの」と書くことで、小柳の「日常」のなかの理不尽なものを消化している。「お父さん」に向かって、叫ぶことによって。「父の部屋」まで長い廊下を走ることによって。--そう書くことによって。
 ここに書かれていることがらを誰かが見て、「小柳さん、それはそうじゃないでしょ」と言ってみてもはじまらない。「日常」とはもともと絶対にわかりあえない何かなのである。

裏木戸にはむらさきの大きなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い
不意に電話ボックス 廊下に電話ボックスも変だが
在るのだからしかたない

 この「しかたない」こそが「日常」だ。「サンマの顔をしたもの」も、それはそれで「しかたない」のである。「しかたない」と、存在をすべて受け入れる。「しかたない」と言って、存在するものを受け入れる。そこがおもしろい。
 「どの」存在も、「どの」時間も、「しかたない」。その積み重ねとして「日常」がそれぞれの「日常」になってゆく。そんなふうに自分をつくりかえていくという方法もあるのだ、ということを考えた。「どの」と「しかたない」には、小柳の「思想」がある。

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佐倉玲美「樹になりたがっている影」

2007-04-26 23:37:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐倉玲美「樹になりたがっている影」(「カラブラン」7、2007年03月15日発行)。
 詩の書き出しに私はいつも強く引かれる。たぶん詩の書き出しにはその詩人の一番いい部分があらわれているのだろう。インスピレーションの一瞬があるのだろう。

晴天の冬の朝日は
ピアノの隅の忘れ物さえ見つけだしてくれるから
わたしは両手をあげて樹になる
するとわたしの後ろで
冬枯れた裸ん坊の樹の影が
ひょろろんと泣き出すのだ

 ここから「わたし」と「樹の影」の対話がはじまる。もちろん対話といっても、それはすべて佐倉の頭の中でのことである。佐倉は「わたし」であると同時に「樹の影」であり、その「影」をもたらす樹でもある。三つのものが「ひょろろん」という魅惑的な泣き声で訴える。
 もう一度、泣き声は出てくる。

だからときにわたしは樹になって
枝をのばし葉をしげらせ風に耳を澄ます
風は行こうよ行こうよと誘うけれど
わたしは立派な樹だから知らん顔をする
するとわたしの後ろで影が
さびしい声で泣き出すのだ
ひょろろんひょろろんと情けない声で泣く

 「ひょろろんひょろろん」に意味はない。けれども肉体がある。意味、ことばになることを拒絶して、ただそのまま受け止めるしかない何かがある。
 わたしは、こういう存在感が好きだ。とても好きだ。
 このまま詩を終えることは、しかし、とても難しい。佐倉もせっかく肉体を発見しながら意味へと逃げていく。(逃げていく、という気持ちは佐倉にはないだろうけれど。)肉体が、ありふれた意味、感傷的な生活の陰影へと引き下がっていく。たぶんそう書くのが佐倉にとって一番安心感があるのだろう。「ひょろろんひょろろん」のあとを真剣に追いかけていくと、佐倉は佐倉ではなくなってしまう。今の暮らしが今の暮らしではおさまりがつかなくなる。そうなることがこわいのだと思う。こういう恐怖は恐怖心として大切なものだとは思うけれど、それでは「詩」は死んでしまう。
 一篇の詩を書くということは、「わたし」が「わたし」ではなくなることだ。そういう冒険にまで、ことばを動かしていってほしいと思った。せっかく「ひょろろんひょろろん」という声を聞いたのだから。

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三井葉子「はなも小枝を」

2007-04-25 14:14:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 三井葉子「はなも小枝を」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 きのう読んだ宮崎の詩もそうだったが、この三井の詩も書き出しが魅力的だ。

ながい間
死は禁忌(タブー)であったのでてのひらでやさしく伏せられていた
指を
じっとみていると それは
犬が鳴く夜もあったし
月光が
おお
月光のふちから這い上ってくることもあった

 「月光が/おお/月光の」。この一瞬の切り返し。主語の消滅。月光「が」どうしたのか書かれていない。述語が書かれていない。月光が……と書こうとする意識を追い抜いて、「月光のふちから這い上ってくることもあった」という動作がある。そして、ここでは述語があって主語がない。
 この錯乱(?)をつなぎとめているのが「死」という「タブー」なのだろう。
 タブーだからこそ、述語を伏せる。主語を伏せる。伏せられたものが、書かれたことばの奥深くで深く結びつく。

 伏せたまま書く。伏せたままというのは、しかし、意識しないということではない。むしろ、書いてしまうよりも意識し続けることかもしれない。書く、ことばにするというとこは、意識を持続するというよりは、意識を捨て去るという要素の方が強いことがある。「伏せる」は逆に、けっして捨てないことである。意識し続けることである。
 だからこそ、常に表へ出てこようとして暴れる。死は、次のような形になって登場する。

生が
止まっていた 血が
広がっていた
暖かい


 2行目の「止まっていた 血が」は倒置法によって書かれた文章ではない。もしそうであるなら、死はここにはなく、生がつづいている。「生が/止まっていた」は本来1行で書かれてるべきことばである。「生が/止まっていた」とは「死んでいた」を言い換えたものである。
 死を明確にするなら、「生が止まっていた/血が広がっていた」と書いた方が意味が通りやすい。しかしそれでは「伏せていたもの」がよく見えない。伏せるという意識がよくみえない。事実よりも、伏せているという事実、意識の在り方を明確にするために、「生が/止まっていた」と書き、その意味を混濁させたまま「止まっていた/血が」と主語を乱入させる。そうすることでいっそう死を伏せていることが、その伏せるという意識が明確になる。
 あるいは、こういうべきなのか。
 「生が止まっていた/血が広がっていた」を「生が/止まっていた 血が/広がっていた」と書くことで主語を切り離せない物にしてしまっている。死と生が緊密につながっていること、けっして切り離せないことを語るために、三井は、わざと行のわたりを作品のなかに導入している。
 行のわたりによって主語を錯乱させる。そのことによって、いっそう、死を際立たせるのだ。
 「死」と直接書かずに「生が/止まっていた」と書くことで、死を突き放す。死という概念を突き放す。もう一度、より深く抱き締めるために。

 「暖かい/土」。これは血が暖かい土の上にまで流れているという描写だが、「土」のなかにある「ち」という響きが、土そのものよりも、土にこぼれた「血」を誘い出し、暖かいと呼ばれているのが「血」であると錯覚させる。
 主語、述語が、揺らぎながらひとつの時空間になる。主語と世界がとけあう。まるで「一元論」の俳句の世界ではない。
 そんなことを思いながら読み進むと、最後に、俳句そのものが待っている。

暖流や
はなも小枝をひろげつつ
                             


 この詩を読んだあとで、もう一度宮崎亨「森」を読み返すと、また楽しい。先行する行のことばをのみこみながら(省略しながら)別のことばの中へと進んで行く意識。世界は広がるというよりは、より意識の奥へ奥へともぐりこんで行くようだ。
 三井のことばは、主語・述語を隠しながら、いっきに世界そのものへの転換をはかっているが、宮崎は世界へとかわることを拒否し、ひたすら意識へもぐりこむ。
 そんな違いも見えてくる。


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スティーヴン・フリアーズ監督「クィーン」

2007-04-24 23:51:28 | 映画
監督 スティーヴン・フリアーズ 出演 ヘレンミレン、マイケル・シーン、ジェイムズ・クロムウェル

 美しいシーンがある。ヘレン・ミレン(クィーン)がひとりで車を運転し、鹿狩りをしている山へ行く。川で車が故障する。迎えが来るまで岩(?)に腰掛け待っている。山と川と、冷たい空気。誰もいない自然のまっただなかで、こみ上げてくるものをこらえきれずに嗚咽する。カメラは背後から姿をとらえている。肩が動く。頭が動く。嗚咽が聞こえる。静かなバックグラウンドミュージックがあったかもしれない。風の音もあったかもしれない。風の音さえ聞こえてきそうな静かな山の中である。その音、あらゆる音が一瞬、消える。
 無音。
 不思議なことに、無音を聞いた、無音が聞こえた、と感じてしまう。
 沈黙の音かもしれない。
 この音、沈黙を聞くのは観客だけなのだが、あたかもヘレン・ミレンもその音を聞いたかのように、はっと顔をあげ、振り返る。
 そこに鹿がいる。角が14(だったかな?)に分かれた巨大な、立派な鹿だ。ヘレン・ミレンと鹿が見つめ合う。ヘレン・ミレンは何かことばを発しそうになるが、何も言えない。鹿も何も言わない。沈黙がつづく。
 鹿が何を考えているか、何を感じているかはわからない。遠くでライフルの音が聞こえる。鹿は鹿狩りがおこなわれていることも知らない。ヘレン・ミレンは鹿に逃げろ、と言う。しかし、ことばは通じない。
 ヘレン・ミレンが他の音に振り返り、もう一度目をもどしたときは鹿はいない。

 この鹿とヘレン・ミレンはもう一度対面する。このシーンも美しい。
 鹿は後日撃たれ、とらえられた。それを見に行く。首から上を切られ、天井からぶら下げられている。首がなくても、巨大で、美しく、威厳がある。首は台の上にのせられている。角は出会ったときのままの形をしている。ヘレン・ミレンは鹿の顔に銃弾のあとを見つける。そっと触れる。
 至近距離から撃たれたと聞き、「苦しまなかったのね」と言う。

 鹿はヘレン・ミレン自身である。鹿のこころを知らない人間によって殺される。ヘレン・ミレン自身は鹿と違って生きているが、彼女の中で護ってきたものは「死ぬ」。死ぬことによって、鹿はヘレン・ミレンのこころのなかにいつまでも生き続ける。同じように、ヘレン・ミレンも「死ぬ」ことによって、もう一度国民のなかに「生きる」。そんなことを考えたかどうかは、この映画は何も言わないが、鹿の死とヘレン・ミレンの「死」が重なり合う。美しく、威厳をもったまま。
 そして、威厳をもったまま死ぬということがどんなに難しいことか、ということが、ふっと浮かび上がる。そのとき、ヘレン・ミレンのふともらしたことばが胸に突き刺さる。「苦しまなかったのね」。死が苦しくないはずがない。人が願うことができるのは、その死の苦しみが短くあることだけだ。


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宮崎亨「森」

2007-04-24 23:05:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 宮崎亨「森」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。

梅雨の長雨を吸いこんだ森に雨が降り、厚い葉の茂みに吸収しきれ
 ない雨粒が、木々の根元にこぼれ落ちている。

 書き出しの1行。たいへん魅力的である。私は繰り返し5度読んだ。6度目を読もうとして、あ、このままだと終わらないと感じて、次の行へと進んだ。
 何が魅力的か。
 「雨」の繰り返しである。「梅雨」のなかの「雨」も含めると4回も使われている。しかも、その「雨」は書く度に「雨」の形がかわっていく、書くことで違った「雨」が見えてくるというものでもない。「同じまま」「同じこと」をずるずると書いている。
 それなのに、あるいはそれゆえに魅力的だ。「同じまま」「同じこと」を書けるというのは、不思議だ。不思議さに魅了されたのかもしれない。
 さりげなく「木々の根元にこぼれ落ちている」と変化するが、「雨」が天から地へと動くという、その動きは「雨」そのもののなかに最初から含まれているので、変化したという印象が非常に弱い。雨はいつだって天から地へと降り、より低い方へと流れていくことはだれもが知っている。「同じまま」「おなじこと」というのは、そういう意味である。いつまで、これをつづけられるかな、という興味がわいてくる。不思議はいつまでつづくのだろうという興味がわいてくる。
 2行目以降。

雨以来、仮死したように眠っている森の、暗い底に細い道が刻まれ
 ている。
道は、蟻の巣穴のような迷路の集合だが、それぞれの道にはそれぞ
 れ異なった時間が流れている。

 あいかわらず「同じまま」「おなじこと」だ。
 場面はたしかに少しずつかわっているといえばかわっているのだが、私には、やはりかわっているとは感じられない。
 2、3行目では「雨」のかわりに「道」(省略されているが「雨の道」と書くのが正確だろう)が繰り返されている。そして、その「雨の道」もだれもが知っている「雨の道」である。「それぞれの道にはそれぞれ異なった時間が流れている」が、「木々の根元にこぼれ落ちている」と似た感じで、すこし動いた印象だが、かわらない、「同じまま」「同じこと」という印象が強い。「道」が「雨の」を省略した形で引き受けいてるから、なおのこと「同じまま」「同じこと」という印象が強いのだと思う。
 「同じまま」「同じこと」を繰り返すことができる--というのが宮崎の文体の特徴である。
 そして、そんなふうに思わせておいて(同じまま、同じことだけを繰り返すと思わせておいて)、宮崎は、するっと世界をひっくりかえす。

密生の森に隠蔽された時間カプセルの中では、時の流れが歩くとい
 う行為に置き換えられていて、
迷い込んだ者の、寒さや疲れといった外界で起こるべき感覚は麻痺
 し、時計の針になったように歩かねばならない。

 「道」が「雨の道」であったように、4行目の「時間」は「雨の道の時間」である。前に書かれた要素が省略された形で引き継がれ、引き継がれながら、少しずつ重点をかえてゆく。1行目の「梅雨」に含まれている「雨」が「雨粒」という形で引き継がれ、その「粒」が「木々の根元にこぼれ落ちている」とつづくように。
 そんなふうに「雨」「道」で繰り返したことが延々とつづいていると信じ込ませておいて、するっと「森」ではなく「肉体」へと視点を動かしていく。「肉体」をことばで耕しはじめる。「雨」「森」を描いた文体と「同じまま」の文体で「肉体」を描く。すると「肉体」が「雨」「森」と「同じこと」にかわってしまう。
 あ、これこそが宮崎のやりたいことだったのだとわかる。
 この世界へ引き込むために、宮崎は1行目の、繰り返しの多い、ずるずるとした文体をつくりあげたのだ。ずるずるとしながら、最後のひとことで、ずるずるつづいていながらすっと横へ(深みへ?)動いてしまう文体を作り上げたのだ。
 ここまで読んで、私は、また最初の1行を読み返してしまった。6度目である。
 あとはもう、宮崎の作り上げた文体にのったまま、どこまでが「同じまま」「同じこと」なのかを味わうだけである。他人から見れば「同じまま」「同じこと」ではないものが、宮崎の文体の中では「同じまま」「同じこと」としてつながっている。いや、宮崎の文体が「同じまま」「同じこと」としてつないでゆく。
 世界は「同じまま」「同じこと」である、と信じさせる力が文体である。
 「何と」同じか。
 「雨」と、あるいは「森」と。
 しかし、その「同じまま」「同じこと」が、たとえば「雨」、たとえば「森」ではなく、宮崎自身と(宮崎の肉体と、そして宮崎の精神と)「同じまま」「同じこと」であるというところまで進んでしまうと、それは宮崎の「個性」(思想)となる。
 宮崎は、そこまで進んでしまう。長くなるので、詩のつづきは省略する。「ガニメデ」で読んでください。
 文体は思想である、と久々に実感した。

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豊原清明「人生の青い中也よ(一)」

2007-04-23 08:46:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「人生の青い中也よ(一)」(「SPACE」73、2007年05月01日発行)。
 詩とは屹立してくることばである--とあらためて思った。豊原清明「人生の青い中也よ(一)」の1連目。

ぐっすりと眠った、家族の顔よ、
このすこやかな顔には
涙が流れ、一つのラインを引き、
胸、しっかりと、襟立て、
人生の青い砂漠よ。
今、僕の目に映るのは、ただ人形のように可愛い、
家族の営みであった
くすっと笑って、僕と別れた
女よ。あなたの笑顔が
僕の喉にへばりつていいるから、
人生は青いたばこのようだ。

 「すこやかな顔」と「涙」の対比、「涙」と「一つのライン」の「ライン」への浮遊の透明さ。こういう透明さはことばの引き出しをいくらあけても出てこないものである。ふいに天から降ってくる美しさだ。
 「胸、しっかりと、襟立て、/人生の青い砂漠よ。」のなかの飛躍も美しいとしかいいようがない。人間の肉体、肉体を立て直そうとする意志(胸、襟)と青い砂漠のふいの衝突。肉体が、意志が、突然「青い砂漠」という透明さのなかにほうりだされる。
 人間の肉体や意志には関係ない世界(宇宙)がある。関係ないというのは、人間の肉体や意志がどんなにあがいても、宇宙はそんなことなど気にしない、非情だという意味だ。そういう非情さを知って、そこにとどまりながら、肉体へやわらかな視線をもどす。
 詩人だ。天才にだけ与えられた特権だ。

女よ。あなたの笑顔が
僕の喉にへばりつていいるから、
人生は青いたばこのようだ。

 私はたばこを吸わない(医師からとめられている)が、この感覚を味わうためにたばこを吸ってみたいという欲望に襲われた。
 肉体のあたたかく深い宇宙と、人間を考慮しない非情な宇宙の清潔さを、豊原は自在に行き来する。肉体の内部が深く温かくなればなるほど、宇宙は透明に冴え渡る。冷たくはりつめる。そのつなぎ目に豊原が生きている。



 豊原は、シナリオ『SPACE・泣き声をあげる』も同時に発表している。どの部分を取ってもすばらしいが、せりふが絶品である。

おかあさんの声「まゆみ」僕はどきんとして振り返った。
すると口元に黒子のある、女性が微笑みながら立っていた。(初恋の人だ!)
僕はゆっくりつけてゆく。色黒の男が居た。まゆみ「パパ!」男「マユコ、ホテルで一服して、トランプでもしようか?」僕はたまらなくなって、
お母さんという人に小説家の名刺を手渡し、正直に告白した。
するとマユコは大層、懐かしがった。「まゆみがあなたの小説の「超」ファンなんですよ。あの、今お一人ですか?」僕はまゆみちゃんに新刊のライトのベルズをプレゼントしてまゆみちゃんと友だちになった。
男は「ヨカッタナ」と言って、好感抱かれたと狂喜した。

 それぞれのせりふに「過去」があり、「過去」をことばのなかに出しながら「現在」から「未来」へと時間が動いてゆく。その動きを「僕」が支配しているのではなく、登場人物のそれぞれが支配していると感じさせる「日常」の時間があふれている。
 豊原の俳句、詩はすばらしいが、小説、戯曲(芝居)といった複数の人物が登場する文学を書くと、世界はもっともっと豊かになると思った。


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丁海玉「クリーンセンター」、入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」

2007-04-22 13:28:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 丁海玉「クリーンセンター」、入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」(「ドードー」13、2007年04月20日発行)。
 丁海玉「クリーンセンター」はごみを捨てる詩である。最終連にとても美しい1行がある。

ビニールの袋詰めに
消えかかったカバンのロゴ
履かなくなった運動靴のかかと
折れたバインダーの表紙
破れた傘の柄
が、透けながら落ちていく
穴の底で小さな点になっていく

 「透けながら落ちていく」。強い視力だ。ものが移動するとき、一種の錯覚なのだと思うけれど、隠れているものが隠しているものの形で浮かび上がる。そう感じるときがある。たぶん、その感じのことを書いているのだと思うが、あ、そうか、あれは「透けながら」という状態だったのだと教えられる。
 丁海玉には見えるものを見えるままの形で書こうとする強い意志がある。見えないものは書かない。わからないものは書かない。肉眼と実感を大切にしている。
 だからこそ、引用につづくことばがこわい。

落ちて行った先を
ずっと眺めていたかったが
むこうのものに引かれて
しまっては、いけない
こっち、こっち、と
わきあがる声に足首がすくわれて
しまっては、いけない

 「落ちて行った先」に誘われるこころがあることを自覚している。そのこころは「こっち、こっち」という声をはっきり聞いている。「すくわれて」はあるときは「救われて」に通じることを知っている。「墜落(落下)」がひとの何かを「救う」ということがあることを知っている。
 「救われて」クリーンになるということが、あるのか。
 丁海玉は、一方でことばになりそうな声をひきとどめている。

 そういう瞬間を感じる。「透けながら落ちていく」に、そうした緊張感を感じる。



 入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」はスイカの描写がすばらしい。

日清戦争より前、夏、精太郎はすっぱだかになってすいかの体内に飛び込み、
そこで姫君に会い、一夜をすごした。
堀内は、休暇を取っては、鉈(なた)で赤い肉に穴を開けて入り、
黒いゴーグルで目を護ってあま汁を掘る。
かんかん照りの日は蜜が湧いて出る、と言う。

 いくつかに切り分けられ、ラップでおおわれたスイカではなく、まるごとのスイカがここにある。スイカを作って食べるというか、大地としっかり結びついたいのちの豊かさがある。「精太郎」も「堀内」も私の知らない人なのに、まるでなつかしい悪友のように迫ってくる。大地と結びついたスイカ、その結びつきの強烈さが、入江田の友人を呼び寄せる力で私の幼友達を呼び寄せる。
 ああ、スイカが食べたい。スイカにかぶりつきたい。


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鈴木正枝「ひとりの重さ」

2007-04-21 13:27:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴木正枝「ひとりの重さ」(「るなりあ」18、2007年04月15日発行)。
 鈴木は学校の先生だろうか。不登校の生徒と向き合っている。

そっと
一枚の自分を差し出す
長い指にはめられた
いくつものリングは
きみの主張だね

だから
橋本くん

大小の金属が絡み合う音
を聞きながら
一枚のきみに
今日の印鑑を押す けれども

ジーパンの腰にも
二重の鎖がぶら下がり
耳にもさらにリング
どうしてそんなに
自分を重たくしてしまうの

橋本くん

ますます家から出られなくなってしまうじゃないか
ますますひとで会話するようになってしまうじゃないか
それでもきょうは会うことが出来たから
きみの歩いている音
をずっと聞いている

私が知らなくても
きみならきっと知っている ということを
知らなくてはだめだ 私は

 「私が知らなくても/きみならきっと知っている ということを/知らなくてはだめだ 私は」という「結論」がどこからでてきたのか、私にはよくわからない。
 鈴木は「大小の金属が絡み合う音」を聞いていると書いているが、どんなふうに聞いているのか、聞こえているのか書いていない。かわりに「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」と視点を体が感じる「重み」に置き換えている。
 「音」から「重み」への視点(思考)の動きが、何が原因でそうなったのかわからないから、「結論」もどうしてそうなのか、わからない。
 「音」はこの詩には2回出てくる。「大小の金属の絡み合う音」「きみの歩いている音」。せめて、その音と音とのあいだにどんな違いがあるか、どう聞こえたかを「橋本くん」に鈴木自身のことばで語ることができたら対話がはじまるのではないのか、と思ってしまう。
 「聞いた音」「聞こえた音」に対して、鈴木はどんな「音」をかえすことができたのか。
 「印鑑を押す」とき、どんな音がした? それは「橋本くん」にはどんな音として聞こえただろうか。どんな音として聞こえたと鈴木は想像するだろうか。会話を拒否している、自分の部屋から出ていこうとしていないのは鈴木自身ではないのか、と思ってしまう。 この詩の最後の連。

尋ねたりはしない
からだの中で次第におおきくなっていくもの
が気道をふさぎ始めている
それが現実
の重さである

 何を「尋ねたりはしない」のだろうか。「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」という問いかけを指しているのか。「からだの中で」と鈴木がいうとき、その「からだ」は誰のからだ? 「橋本くん」のだろうか。鈴木自身のだろうか。
 「橋本くん」のからだの中で何かが大きくなり、それが気道を圧迫して、橋本くんが「現実/の重さ」を感じているというのだろうか。どうして、そんなことを想像したのだろうか。
 あるいは「橋本くん」に「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」と尋ねなかったために、鈴木自身の中で何かがおおきくなってゆき、それが気道を圧迫し、その圧迫を現実の重さとして鈴木が感じるということだろうか。たぶん、そうなのだと思う。最終連は鈴木自身の感じている彼女のからだの重み、現実の重み、なのだろう。ひとりの不登校の生徒と向き合わなければならない現実、何も解決できない現実--その重みと鈴木はこんなにていねいに向き合っています、と訴えているのかもしれない。
 その苦しみは、詩からはっきり聞こえてくる。
 しかし、その声よりも、私はもっと聞きたいものがある。鈴木にもう一度はっきりと尋ねたい。(尋ねたりはしない、という態度は私はとらない。)「橋本くん」がからだにつけていた金属の音はどんな音を立てていたんですか? 「絡み合う」とだけしかいえませか? 「橋本くん」も「絡み合う音」として聞いていたと思いますか? 違うのではないだろうか。「橋本くん」は、彼がからだの中で聞いているその音をこそ、鈴木に聞いてほしくて鈴木に会いに来たのではないのだろうか。せめて、その音がどんなふうに聞こえたか、そこから対話したいと願っていたのではないだろうか。

 「橋本くん」はせいいっぱい自分自身を作り替えようとしている。変わろうとしている。しかし、鈴木は自分自身をかえようとはしていない。「橋本くん」をかえようとしている。「橋本くん」は自分自身をつくりかえるのを手伝ってほしいと祈るような気持ちで鈴木に向き合っている。いっしょにかわってほしいと願っている。でも、鈴木は鈴木自身がかわることを拒否している。
 「学校」で起きていることを、まざまざと見た思いがした。

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