監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 ケイト・ブランシェット、菊地凛子、アドリアナ・バラザ
菊地凛子がとてもすばらしい。友人たちといっしょにいるときの仲間に溶け込んだ顔と、たったひとりに帰るときの孤独な顔。その落差が、気持ちがことばにならない、思いがことばにならない苦悩と重なる。肉体、女であることを武器に自分の気持ちを伝えようとするが、それもうまくゆかない。肉体の接触にもことばが不可欠なのだ。そのことに菊地凛子の演じる女子高校生は気がついていない。その気がついていない幼さと苦しみがあふれている。菊地凛子がいなければ、この映画は成り立っていたかどうかわからない。
アドリアナ・バラザもすばらしい。自分の思いとは違うものにふりまわされる。他人が彼女の思いを無視して彼女をひっぱってゆく。それに抗い、自分の思い通りに行動したいが、すべてのことばが拒絶される。太った肉体が苦悩をため込んでさらに膨れ上がる感じがすごい。焦燥感がすばらしい。
ケイト・ブランシェットもすばらしい。途中からはほとんど動きのない役なのだが、肉体の痛みの中でことばがうごめく。悲しみでも、怒りでも、絶望でもなく、自分の肉体に起きていることをつたえる日常的なことば--それがきっかけでブラッド・ピットと会話を取り戻すシーンがすごい。
*
カメラもすばらしい。あらゆるシーンが「物語」から独立し、それぞれに動いてゆく。「物語」に従属しない。東京では菊地凛子がブランコで遊ぶシーン、それにつづく一連のシーンが生々しい。個人とは別に、「場」という主役があることを明確にする。
モロッコのシーンは「物語」に流れそうなのだが、最後のヘリコプターでケイト・ブランシェットを運び出すシーンは演技(演出)とは思えないほどリアルにカメラの位置をつたえている。ケイト・ブランシェットとブラット・ピットの思いとは無関係に動く「場」というものがある、群衆がいるということを、カメラがリアルに切り取る。群衆が演技をするというよりカメラが演技をする。カメラはもうひとりの演技者であるということを感じさせてくれる。
音楽は少し過剰かもしれない。もっと控え目に、映像自身がもっている「音」を引き出す工夫があってもよかったのではないか、と思う。すばらしいカメラの演技が音楽のでしゃばりによって無残に削り取られてゆくという印象が残った。
菊地凛子がとてもすばらしい。友人たちといっしょにいるときの仲間に溶け込んだ顔と、たったひとりに帰るときの孤独な顔。その落差が、気持ちがことばにならない、思いがことばにならない苦悩と重なる。肉体、女であることを武器に自分の気持ちを伝えようとするが、それもうまくゆかない。肉体の接触にもことばが不可欠なのだ。そのことに菊地凛子の演じる女子高校生は気がついていない。その気がついていない幼さと苦しみがあふれている。菊地凛子がいなければ、この映画は成り立っていたかどうかわからない。
アドリアナ・バラザもすばらしい。自分の思いとは違うものにふりまわされる。他人が彼女の思いを無視して彼女をひっぱってゆく。それに抗い、自分の思い通りに行動したいが、すべてのことばが拒絶される。太った肉体が苦悩をため込んでさらに膨れ上がる感じがすごい。焦燥感がすばらしい。
ケイト・ブランシェットもすばらしい。途中からはほとんど動きのない役なのだが、肉体の痛みの中でことばがうごめく。悲しみでも、怒りでも、絶望でもなく、自分の肉体に起きていることをつたえる日常的なことば--それがきっかけでブラッド・ピットと会話を取り戻すシーンがすごい。
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カメラもすばらしい。あらゆるシーンが「物語」から独立し、それぞれに動いてゆく。「物語」に従属しない。東京では菊地凛子がブランコで遊ぶシーン、それにつづく一連のシーンが生々しい。個人とは別に、「場」という主役があることを明確にする。
モロッコのシーンは「物語」に流れそうなのだが、最後のヘリコプターでケイト・ブランシェットを運び出すシーンは演技(演出)とは思えないほどリアルにカメラの位置をつたえている。ケイト・ブランシェットとブラット・ピットの思いとは無関係に動く「場」というものがある、群衆がいるということを、カメラがリアルに切り取る。群衆が演技をするというよりカメラが演技をする。カメラはもうひとりの演技者であるということを感じさせてくれる。
音楽は少し過剰かもしれない。もっと控え目に、映像自身がもっている「音」を引き出す工夫があってもよかったのではないか、と思う。すばらしいカメラの演技が音楽のでしゃばりによって無残に削り取られてゆくという印象が残った。