詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』

2009-12-31 00:00:00 | 詩集
松尾真由美『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』(思潮社、2009年09月30日発行)

 松尾真由美の詩はちょっと読みづらいところがある。『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』というタイトルが象徴的だが、そこに書かれているものが「ひとつ」ではないからだ。「雪」「火花」「蘂」と3つの「主語」が出てくる。目がちらついてしまう。私は9月の下旬に目の手術をした。その後遺症というか、回復過程で、左目と右目の焦点があわない。そういう人間には、「主語」が3つも出てくるタイトルは、どうにも目がちらついてしまう。
 あれっ、「主語」がいくつであろうと、本のページの上では同じ活字、目で見るのは活字(文字)だから、その活字が何をあらわしているかという「意味」と目のちらつきは関係がないんじゃないか。活字の大小(ポイントの大きさ)は影響しても、そこに書かれている内容は目に影響しないのではないか--たぶん、そういう疑問を、この文章を読んだひとは持つかもしれない。
 私も、かつてはそう考えたかもしれない。
 ことばを読む、活字を読む。そのとき目に影響するのは活字の大きさ、活字の組み方、部屋の明るさが関係するだろうけれど、活字が指し示すもの(対象、意味)は無関係だと思っていた。「主語」の数など関係ないと思っていた。
 ところが、そうではない。
 本は「視力検査表」ではないのだ。そして目が見るのは「活字」だけではないのだ。たしかに目で活字を追っているのだけれど、そういう目とは別の目がある。普通は活字を追う目を「肉眼」、活字の提示する意味内容を追う目を「精神の目」と呼ぶかもしれない。けれど、私は、逆のような気がする。活字の「意味内容」そのものを追う目こそ「肉眼」だという感じがする。だからこそ、「主語」が3つも出てくるから、目が疲れるのだ。精神的に疲れるというより、ほんとうに目が疲れる。これは、私の実感である。
 
 しかし、不思議なことに、「主語」がいくつも登場する小説、たとえばカズオ・イシグロの『夜想曲集』を私は読んだけれど、これは疲れない。登場人物(主語)は複数なのに、疲れない。

 何が違うのか。「主語」の性質が違うのだ。松尾の今回の詩集の冒頭の作品に、

それら多面体の残骸よ

 という1行がある。そして、21ページには

ふくよかでいたいたしい多面体の鉱物を見つめている

 という1行もある。「多面体」がキイワードである。松尾は「主語」を3つ書いているのではない。ほんとう(?)の「主語」は書かれておらず、そのほんとうの「主語」が「多面体」として描かれているのだ。描かれた多面体のそれぞれの面(主語)を読者が統一して読者自身で多面体をつくらなければならないのだ。
 3つにみえても、実は「ひとつ」である。最初に松尾の書いていることばの「主語」は「ひとつ」ではないと書いたが、実は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」に見えないのは、それが「多面体」だからである--と言いなおさなければならない。

 多面体は(たとえばミラーボールは)、光を受けてきらきらと乱反射する。目が痛くなるときがある。発光体が多面体でも同じかもしれない。多面体の面の数が文字通り多くなると、さっき見た面といま見ている面が、違ったものか同じものであるかわからなくなる可能性もある。あ、ほんとうにこれは、私のような病み上がりの人間にはつらい本である。
 いちばん簡単に引用できる(読み通すことができる)冒頭の作品で、松尾の「多面体」についての感想を書いておく。

さらにまた、

溶けゆくものと消えさるもの

あわい雪の日々から陽炎の声を生みだす冬の相聞に抱かれてみる

無毒と有毒、乾いた空気を感じていって火はもっと激しく燃え、

望んでいるかもしれない 滅ぶことを、訪うことを、

つめたく軽やかな浮遊物がここでまかれ、

狂暴であり、獰猛であり、瀕死であり、

それら多面体の残骸よ

いずこへ……

 とても接近した「多面体」の「面」がある。
 「溶けゆくものと消え去るもの」。たとえばその「もの」を「雪」と仮定すると、雪は溶けてゆき、消え去る。それは同じことを意味している。しかし、微妙に違う。隣接した意味ではあるけれど、微妙に違っている。そこには多面体の「小さな角度」を見ることができる。
 他方、かけ離れた「多面体」の「面」がある。
 「無毒と有毒」。これは「多面体」の「反対」の「面」である。いわば出会うことのない「面」である。隣接しないことが、この「多面体」を「意味的構造」である。意味的には「無毒」と「有毒」は反対のものだから、「溶けゆくもの」と「消えさるもの」のようには隣接しない。「多面体」の「角度」をつくらない。
 はずである。
 はずであるけれど、それは「意味構造」にしばられるからそう感じるだけであって、隣接することは可能である。実際、松尾は「溶けゆくものと消えさるもの」も「無毒と有毒」も同じ「と」ということばで結びつけている。
 「意味」ではなく「ことば」そのものは、どんなものでも隣接させることができる。そしてそこに「角度」をつくりあげ、その繰り返しによって「多面体」をつくることができる。
 こう考えれば、よくわかるかもしれない。
 「溶けゆくものと消えさるもの」が作り上げる角度(多面体の面の角度)と「無毒と有毒」の作り上げる角度は、実際には何度? わからない。「意味的」には前者の角度はなだらか(水平に近く)、後者は鋭角と考えてしまいそうだけれど、それがほんとうにそうなのか「目」でみることはできない。
 「目」で見えないからこそ、その「見えない」ものが、「見えないもの」を見る「精神」に問いかける。いまの考え方でいい? でも精神は答えられない。自分が知っている「意味」から判断すれば、「溶けゆくものと消えさるもの」のつくりだす角度はゆるやかで「無毒と有毒」がつくりだす角度は鋭角だが、詩というものは、だいたい既成の意味を破壊していくものだから、常識(?)にもとづいて角度を云々してもはじまらない。

 さらに、松尾の多面体は、簡単に角度が想像できる(? 思い描くことができる?)ものだけではない。たとえば

狂暴であり、獰猛であり、瀕死であり、

 この1行はどうだろう。
 「……であり、……であり」というのは並列の表現である。「と」と同じようにことばを結びつける。
 「狂暴」と「獰猛」は私にはきわめて近い「概念」である。ところが「瀕死」は「狂暴」や「獰猛」そのものとは無関係である。とおい「概念」である。しかし、私はしばしば「狂暴」なものや「獰猛」なものが「瀕死」の状態にあるのを見たことがある。そして、そういうときおだやかなものの「瀕死」よりも、「狂暴(獰猛)」なものの「瀕死」の方がリアルに感じられることがある。とおい概念であるけれど「肉体」の印象としては「狂暴(獰猛)」は「瀕死」にとてもよく似合う(?)のである。
 だから、狂暴、獰猛、瀕死が結びつきながら、どんな「角度」をつくるか、やっぱり想像できなくなる。
 
 だから。(というのは、論理の飛躍だし、いいかげんな言い方だけれど。)

 松尾のことばは複雑な「多面体」としての「ひとつ」の存在である。「主語」がいくつか登場し、それぞれがそれにふさわしい修飾語で自身を飾り、それによって多面体の表示いうがさらに複雑になる--としか言えない。

 でも、ひとつつけくわえたい。
 「多面体」の「接着剤」について。

 詩集の冒頭の詩は、まあ、よくわからないしてあるけれど、特に4行目が私にはわからなかった。というか、わからないことばがあった。

無毒と有毒、乾いた空気を感じていって火はもっと激しく燃え、

 「感じていって」の「いって」って、どういうこと? 「感じて」では意味をなさない? いや、そんなことはない、と思う。
 無毒と有毒。その対立する概念は、無毒と有毒のあいだにある「空気」を刺戟する。空気は乾いている。(親密なものは湿っていて、対立するものは乾いている--というふうに考えることができる。松尾の皮膚感覚は、そんなふうに世界をとらえていると思う。)そして、空気は乾いていれば火は激しく燃える。「乾いた空気を感じて火はもっと激しく燃える」で「意味」は成り立つ、と思う。
 けれども、松尾は「感じていって」と書く。この「いって」は何?
 「いって」は「行って」であり、運動である。「感じる」で動詞の動きが終わるのではなく、感じて、さらにもっと感じて、感じれば感じるほど--という同じ動詞の繰り返しが「いって」のなかにあるのだ。加速する動詞が、ここにはあるのだ。
 この「加速する動詞」が「多面体」の接着剤であり、松尾の「肉体」であり、「思想」だ。
 ことばは類似したことばに後押しされてスピードをあげ、反対のことばに出会って、立ち止まるのではなく、それをジャンプしつつ加速するか、あるいは反対のことばの力を借りて方向転換し、反対のことばのエネルギーでさらに加速する。どこまでもどこまでも、その運動がつづく。
 それが松尾の詩である。


雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を
松尾 真由美
思潮社

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安水稔和『遠い声 若い歌』(2)

2009-12-30 00:00:00 | 詩集
安水稔和『遠い声 若い歌』(2)(沖積社、2009年2009年11月17日発行)

 自分の切実な感覚を、どうやって明晰にするか--という課題と安水は向き合っていた。私はきのうの「日記」の最後にそんなふうなことを書いた。
 今回の詩集の冒頭の作品は、そのことを強く感じさせる。
 「春 スケッチ 1」という作品。

開幕!
緑色のライトに揺れて揚っていく



舞台裏に孵化する鉄の臭い

 最後の1行の中の異質なものの衝突。「鉄」は「孵化」などしない。けれどその鉄を孵化すると修飾する。あるいは、それは鉄ではなく「臭い」を修飾するかもしれない。いや、そうではなく、その両方を区別しないで修飾するかもしれない。
 わからない。
 そのわからなさこそが、実は、切実な明晰なのだと私は思う。どう区別していいかわからない。わからないものがあることを、切実に、明晰に書いていくと、どうしても、それは渾沌としたものになる。その渾沌、そこから、たとえばこの1行なら「鉄」が孵化してきてもいいし、「臭い」が孵化してきてもいい、「鉄の臭い」が孵化してきてもいい。
 舞台裏の何かが異様に自分の肉体に迫ってくる--その感覚を、こんなふうに書いていいのだ。「孵化する」ということばをそんなふうにつかっていいとは辞書には書いてないし、学校教科書でも教えない。けれど、そういう、まだどこにも書かれていないことば、誰にも認定されず、「流通」していないことばを、自分の感覚のだけのために「従事」させる。自分のものにする。
 このことばの特権。詩人の特権。
 わからないまま、何かを、自分自身が何を感じることができるか、そしてそれをことばにできるかどうかを、ほんとうに、切実に探しているのだと思う。
 ことばを探す。ことばを取り戻す。そのとき、自分も人間を取り戻すことができるのだ。そういう思いが凝縮されている。

 一方に、「孵化する鉄の臭い」という硬質なものがあり、他方にまた、暮らしというか、「家」にしっかりと根ざした感覚もある。一方に工業(鉄、都会)があれば、他方に農業(村?)がある。そして、その「農」の描写が、とても「異質」である。
 「農 スケッチ 4」

かざした手の下でひっそりと炭火がさいなむ

畳の逆毛に疲労が固着し

藁と土と火と

湿った土間に草履が坐っている

 「畳の逆毛に疲労が固着し」という1行がとてもおもしろい。畳の逆毛という目で見るよりも肉体でさわったときに感じる微細なもの--そういう目に見えないものに触れながら、そこに感覚を結晶化させる。そして、そのときの「疲労」ということば。何でもないことばのようだけれど、この「疲労」ということばは実は「都会」のものだ。「農村」のことばではない。「農村」ではせいぜいが「疲れた」であり、「疲労した」とは言わない。「くたびれた」とは言っても「疲労した」とは言わない。
 さらに、こういうとき「農村」のひとは、「固着(する)」ということばをつかわない。せいぜいが「こびりついている」である。
 「疲労」にしろ「固着」にしろ、それは「農村」のことばではなく「都会」のことばである。「農村」の口語、話しことばではなく、「都会」の文語、書きことばである。
 したがって、これは一種の「虚構」なのだ。「農村」を「農村」自身の目で内部から描写したものではなく、「外部」から「表面」をさらったもの、しかも「都会」の視点をすてることなく、そこにあるものをとらえ直した表面的なものである。「藁」「土間」「草履」を登場させても、それは虚構である。スケッチとあるが、虚構のスケッチである。生活とは密着していない。
 それが悪いというのではない。
 安水は、虚構を利用して自分の感覚をつくりだしているのだ。それがおもしろい。自分の暮らし(都会の書きことば)と、自分とは無関係の農の存在を結びつけることで、自分の感覚をつくりだしている。

 詩は自分の感じていることを書く--というのはたしかにそうだが、それだけではない。感じていなくてもいい。感じたいことを書く。感覚をつくりだすために、ことばを動かす。ことばの創造、新しい運動つくりだすだけではなく、新しい感覚をことばでつくりだしてこそ詩なのである。
 そういう運動をつくりだすために、農村の実際と、都会の書きことばが、そこで衝突しているのだ。わざと衝突させているのだ。
 どんな感覚もすでに存在している。そして、それをあらわすことばがいままでなかったから、そのことばをつくりだす。その一方で、新しくみつかったことばの運動を利用して、感覚・感情・思想そのものをつくりだしていく。そこにも詩はあるのだ。
 安水は、畳の逆毛に触れて、それをていねいに描写しているともとれるが、そうではなく、新しい感覚、疲労の、一種不思議な「郷愁」のようなものを浮かび上がらせるために、わざと「畳の逆毛」に触れる。そうとらえる方が、この詩はわかりやすい。ことばの運動としてすっきりする。安水は畳の逆毛というような、暮らしのなかで「消費」され、つかい捨てられこそすれ、利用されることのないものに目を向ける。そうすることで新しい感覚そのものをつくりだすのだ。
 都会で感じる疲労、工業生産で感じる疲労、その孵化してくる鉄の臭いのようなもの--それは、畳の逆毛の感触、くらしのなかで静かに浮き上がってくるもの出会い、(実際に、鉄の臭いが出会うわけではなく、鉄の臭いを描写する「都会のことば」が出会うのだが……)、そのときふたつの存在のどこかが、ひそかに呼び合う。
 「肉体」は「畳の逆毛」のように荒らされ、疲れているのか。鉄ではなく、畳のやわらかさに体を押しつけたい、畳がなつかしい--そんな気持ちが、渾沌と入り乱れる。なつかしく、かなしい「郷愁」。
 ここにあるのは、新しい抒情だ。
 抒情は、いつでも「切実」で「明晰」だ。自分のこころの中にある「抒情」ほど切実で、明晰なものはない。だから「切実に」「明晰に」書く。
 戦後の詩は、そういうところからはじまっている。そこに「時代」が見える。安水は過激な(?)現代詩の主流にいる(いた)詩人という印象はないけれど、その安水も、こんなふうに「時代」を呼吸している。「時代」が安水のことばに反映している。



安水稔和詩集
安水 稔和
沖積舎

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安水稔和『遠い声 若い歌』

2009-12-29 00:00:00 | 詩集
安水稔和『遠い声 若い歌』(沖積社、2009年2009年11月17日発行)

 安水稔和『遠い声 若い歌』は『安水稔和全詩集』以前の、文字通り「若い歌」である。安水自身の声の他に、その「時代」の「声」も含まれているように感じる。「若い」時代は、誰の声でも自分自身の声であると同時に「時代」の声に染まっている。それは、私には美しいことだと思える。他者を受け入れながら自分の声を探している--そういう動きのなかに、自分の声だけではたどりつけない何かをつかもうとする情熱があるように感じるからだ。
 「扉銘 詩誌「ぽえとろ」創刊号によせて」には、「時代」の声、同じ志をもった詩人の声が反映されている。誰が同人だったか知らないが、同人をリードしていくベクトルのようなものが輝いている。ベクトルの、その先に何があるかわからないが、方向だけはしっかり「実感」できる--そういうときのことばが、何があるかわからないゆえに、まだ何にも汚染されずに、純粋に輝いている。

美しいものが、あるところにない時に味う、空間の切実な虚粧よりも、もっと明晰に、誰も知らないところに何もない、という幻想を書き加えることによって、美のありかを設定しおわろう。

 ここに書かれてあることばの「意味」を正確にとることは、私にはできない。「虚粧」ということばを私は知らない。「虚飾」「化粧」ということばは知っているが、「虚粧」は知らない。知らないけれど、「虚飾」「化粧」から、かってに、むなしい装いと「誤読」する。ある方向へ向けて、ことばを動かし、その動きのなかに何かをかってに感じてしまう。
 私の感じていることが安水の感じていること(そのことばで伝えたかったこと)とぴったり重なるかどうか、私は知らない。きっと重ならないだろう。けれども、私はそういうことは気にしないのである。
 詩を読む時、私は、書いた人の「真意」を知りたいわけではないのだ。そこに書かれていることばから、私が何を感じているかだけを知りたい。「誤読」をとおして、いままで知らなかったことと出会いたいだけなのだ。きっと。

 この安水の長い長い一文。そのなかにある、不思議な省略とねじれ。「虚粧」ということばのなかにある省略とねじれ。省略とねしれが、安水に、辞書にもないようなことばを欠かせているのだ。
 そのもっとも強烈なものを、私は、その次に出てくる「明晰に」に、強く感じる。
 「明晰」ということばは知っている。辞書にも載っている。広辞苑によれば、明晰とは、「①明らかではっきりしていること。②概念の内容が一つ一つはっきりしていなくても、その対象を他の対象から区別するだけの正確さをもつ概念についていう語。明白。」とある。
 「意味」は、それこそ「はっきりとわかる」。けれど、その「明晰に」はいったいどのことばを修飾しているのか。「明晰に→誰も知らない」なのか。「明晰に→幻想を書き加える」のか。「明晰に→美のありかを設定し」なのか。ぜんぜん、わからない。どうつなげても「意味」が明確になるわけでもない。「明晰に」の単独の「意味」はわかるが、どのことばと結びつけて安水がそのことばをつかっているかがわからない。
 そして。
 そのことから(?)というもの変だけれど、何もわからないのに「明晰に」だけが「明晰に」わかるということから--私は安水が「明晰に」ということばにこそ詩を見ていたのだろうと感じるのだ。
 ことばの運動の先に何があるのか、何もわからない。どういうことばの運動の方法があるのか、実際のところはわからない。けれども、そのことばの運動の先にあるものは「明晰」でなければならない。「明晰」なもものこそが詩に値する--そう感じていたと思うのだ。

 私の推論(誤読?)の根拠は何もない。ただ、この不思議な一文のなかで「わかる」のは「明晰に」ということばだけである。だから、安水は「明晰(に)」ということをめざしていたと推測する。誤読する。
 そして、その「明晰に」ということばしかないのだ、と思って、一文全体を読み返すと、「明晰に」は、先行する「美しいものが、あるところにない時に味う」「空間の切実な虚粧よりも」にも結びついてしまう。

 美しいものが「明晰に」あるところにない

 空間の切実な、あるいは「明晰な」虚粧よりも

 もちろん、安水はそんなふうに書いてはないのだが、私は、そんな結びつきをも感じてしまう。「明晰に」はそのあとの文章を修飾するだけではなく、(どれを修飾するのかわからないが……)、同じように前の文章をも修飾する(これも、どの文章を修飾するか断定はできない)。つまり、この一文は「明晰に」ということばを中心に、そこから、どこかへ動いていこうとしている運動そのものとして見えてくる。
 そして、その運動は「明晰に」「切実」なのである。
 「切実」と「明晰」同じ重要さで、安水のことばの運動の基本なのだ。

 これは、安水だけではなく、たぶん当時の詩人たちの同じ「基本」だったと思う。あらゆることばのなかに「切実な」「明晰さ」を確立すること。戦後直後、ことばは、「切実な」「明晰さ」では独立していなかった。たぶん、「戦時体制」の権力によって「切実さ」と「明晰さ」を剥奪されていた--そんなふうに「時代」は感じていたのかもしれない。
 「切実さ」「明晰さ」とは--言い換えると、個人としての「切実さ」「明晰さ」である。戦時中は、「個人」の「切実さ」「明晰さ」ではなく、「国家」の「切実さ」「明晰さ」がことばを動かしていたのだ。国家に切実や明晰があると仮定しての話だけれど。--しは、そういう国家からことばを奪いかえす運動だったかもしれない。
 自分の切実な感覚を、どうやって明晰にするか--そいうことを考えつづけた時代の詩、として、このころの安水の詩を読むことができるかもしれない。




遠い声 若い歌―『安水稔和全詩集』以前の未刊詩集
安水 稔和
沖積舎

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西原理恵子「毎日かあさん」

2009-12-28 18:18:55 | その他(音楽、小説etc)
西原理恵子「毎日かあさん」339回(毎日新聞、2009年12月27日朝刊)

 女性の作品に触れると、あ、こういう感覚はいいなあ、私にはないなあ、と驚くときがある。映画ではノーラ・エフロン監督。漫画家なら西原理恵子。
 西原理恵子「毎日かあさん」339回は「好き」といタイトルがついている。
 吹き出しを引用する。

子供のころ読んだ本「星の王子さま」でこの話の中に「待ってるのが好きなキツネの話」っていうのがあった。大好きな人を待つのが大好きなキツネ。

へんなことが好きなキウtネだな。子供のころそう思った。

それから大人になって自分もいろんな事が好きになった。これみんなすきかなあって夕飯の買い物をする時

街中でふらっと看板をみてこの映画いっしょにいこうって決める時。

自分のこととかどーでも良くなった時(お母さんイモジャーで外出しちゃダメー)

家族で旅行する時

そして

あ、もうすぐ帰ってくるなあって

待ってる
時。

いろんな新しい好きがいろんな思い出をつれてくる。

 最後の部分が、とても「おんなっぽい」と私は感じる。男性の視点に染まっていない「おんなっぽい」部分だ。
 「おんなっぽい」はどうしても男性の視点で語られる。性がまぎれこむ。男性の性意識を刺激する何かが「おんなっぽい」と定義されることが多い。
 西原の、「あ、もうすぐ帰ってくるなあって/待ってる/時。」は性の意識とは無関係で、」そして私の感覚にはない何かで、それに触れるととても気持ちがいい。ずーっと触れていたい気持ちにさせられる。ずーっと触っていたいという感じでは「おんな」なのだが、それが性を刺激しない――というところが、なんとも不思議だ。
 次の、

いろんな新しい好きがいろんな思い出をつれてくる。

 これは、なんともいえない感じ。ぎゅーっと抱きしめたいような、自分の感覚ではないのに懐かしいというか、あ、こういう感じをおんなは抱いて生きているのか、それをぎゅーっと外から抱いて、その抱いているものに触れてみたい。
 こういう感覚は、私には絶対ない。
 たぶん自分からは絶対に見つけることができないなにかだ。
 自分にはたどりつけない人間性――その大切なもの、それを教えてくれる。そういうものを「おんなっぽい」と私は呼んでいる。





毎週かあさん―サイバラくろにくる2004‐2008 (ビッグコミックススペシャル)
西原 理恵子
小学館

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山崎るり子『終わらない絵画展』

2009-12-28 00:00:00 | 詩集
山崎るり子『終わらない絵画展』(思潮社、2009年10月31日発行)

 山崎るり子『終わらない絵画展』には「前書き」がついている。

ある小さな街でみんなが絵を描き持ちよりました。
この画集は、その絵画展の絵をまとめたものです。

 もちろんこの本は「画集」ではなく「詩集」である。だから、ここにかかれていることは「嘘」である。この「画集」(という名前の詩集)には、描かれていない「絵」、空想のなかの「絵」が集められている、と読んだ方がよさそうである。
 「壁を背に立つ白い少年」(カラーコンテ・紙)の3連目。

描かれなかった書物
描かれなかった窓
そんなものに囲まれて
まっすぐに立つ少年

 これは2連目の描写にしたがえば「壁のこちら側 部屋にかかった絵の中で/立っている少年」の描写になる。「絵のなかの少年」は、未完成の絵と向き合っている。絵の中に絵がある--というのが、この絵の構造であり、そして詩のなかに、その未完成な絵と向き合っている少年の絵が書かれていることになる。
 入れ子構造の虚構である。
 
 あ、でも、この「虚構」は山崎の文体にはあっていない。どうも、ちぐはぐというか、何か物足りない。
 未完成な絵のなかの少年--という絵は、さらに未完成でもある。刺激的なことを書こうとしているのかもしれないが、刺激的ではない。
 たぶん、そこには知らないことというか、予想外のことが書かれていないからだ。
 虚構は、山崎の文体とはあわないのかもしれない。
 奇妙な言い方かもしれないが、虚構、あるいは嘘というものは、ほんとうのことを含んでいないと虚構、嘘にはならない。ほんとうのものが虚構や嘘に侵入していくとき、そのほんとうのことをなんとか虚構、嘘にしようとことばが必死になる。そこに、むりが生まれ、そのむりがことばを輝かせる。--そういうことばの運動は、たぶん山崎の文体の本質ではないのだろう。

 山崎の狙いとは離れてしまうかもしれないが、私がおもしろいと思ったのは、「猫を抱く女」の2連目である。(ここが、この詩集のなかでいちばん好き。)

シミーズになったその人は
シミーズを脱ぐと生きもののように見える
一回り大きくなって 体ごと呼吸しだす
脱皮した皮のように縮んでいくシミーズ
猫が匂いを嗅ぎに戻ってくる

 「一回り大きくなって 体ごと呼吸しだす」がとてもおもしろい。ほんとうに体が一回り大きくなったのか。あるいは、呼吸のときの動きが見えてくるので(体ごと呼吸)、そのために大きくなって見えるのか。わからない。このわからないところにこそ、詩がある、と思うのだ。
 虚構、嘘というのは話している人にはわかりきっている。聞き手にはそれが嘘かほんとうかわからないが、話してはいつでも虚構、嘘がわかっている。ところが、それがわからなくなる瞬間があるのだ。いま、言ったのはほんとうのこと? それとも嘘のこと? ちょっと話のついでに実際に知っていること、体験したこと(ほんとうのこと)を紛れ込ませた瞬間、ことばがどっちを土台にしていいかわからなくなり、話者の意識を離れ、ことばがかってに動いてしまう瞬間がある。そこから、ことばは突然おもしろくなる。

脱皮した皮のように縮んでいくシミーズ

 あ、すごいなあ。私は猫ではないから、その匂いを嗅ぎにはいかないが(と、冷静に書いておく)、その縮んだシミーズは見たいなあ、拾い上げてみたいなあ、と思ってしまう。とてもリアリティーがある。虚構・嘘には、こういうリアリティーが絶対必要だ。

 「瓶の中の子鳥」の3連目もいい。「小鳥を飼ってみないか」と言われたのだが……。
v
うちには犬がいるからなあ
どこかの隅に生かしていたのだろう
そんな細胞をかかえた私がいて
そんな私をかかえた闇が濃くなっていた

 小鳥を飼ってみないかと誘われたとき、「私」の家にはほんとうは犬はいない。いなかった--というべきか。いたのは昔。4年前には死んでしまった。
 だが、記憶が、いまのことであると、嘘をつく。
 その瞬間、私のなかに、もうひとりの私。でも、どっちがほんとうの私? どんちもほんもの。だから、こまる。だから、楽しい。
 ことばは、小鳥も犬も忘れて、「私」の「細胞」を突然問題にする。「闇」を突然問題にしだす。いいかげん(?--これは、もちろんいい意味で「いいかげん」と書いているのです)でしょ、この話題の転換の仕方。突飛でしょ? そこに詩がある。ほんとうと嘘が区別がなくなり、どこかへ動いていってしまわないといけない。
 そして、この「いいかげん」である「細胞」がなぜか、不思議なことに、よくわかるのである。納得できるのである。変だよなあ、人間が使うことばの説得力というのは。ほんとうのことが嘘を励まして、とんでもないことばを引き出す。それはとんでもないことなのに、なぜかぐいと胸の奥へ入り込んでしまう。それは、たぶん「常識」を破壊して存在する「真実」という詩なのかもしれない。



終わらない絵画展
山崎 るり子
思潮社

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日原正彦「一枚で」

2009-12-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
日原正彦「一枚で」(「橄欖」86、2009年11月10日発行)

 日原正彦の詩について「気持ちが悪い」と書いたことがある。日原から抗議を受けたが、やはり気持ちが悪い。「一枚で」は秋の美しい風景を描いている。

遠い午後の静かな庭に
散らばった枯葉たちが 掃かれている
かさこそと
おたがいに何かささやきあうような音をたてて
掃かれている

明るくあるいは暗く黄金色に燃えた あの
騒々しい日々は終わった

いまはみなやさしく捨てられることの
やがてはひとつぶの土にかえることの
甘受のてのひらのうえ だが

見よ
かたすみに 一枚だけ
掃き忘れられた枯葉が息をひそめている

日は傾く
一枚の枯葉は黙って影を曳いている
影は湿っても乾いてもいない

ただ一枚で暮れてゆく
ただ一枚で暮れてゆくこの枯葉を
愛してやれ

 なぜ美しいのに「気持ちが悪い」のか。その美しさが「予定調和」であって、そこに破綻がないからだ。矛盾がないからだ。
 1行目。「遅い午後の静かな庭に」の「静かな」が作り上げてしまう情感。これが「気持ちが悪い」。ほんとうに静かなのだろうけれど、それを先回りして「静かな」ということばで「世界」を塗り込めていく。「静かな」にあわせて、ことばが選ばれてゆく。「かさこそ」「ささやきあう」。矛盾がなく、ほんとうに「正しい」日本語である。
 「正しくて、何が悪い」と言われそうだが、何も悪くない。そして、何も悪くない、というところが、絶対的に悪い。詩は正しくてもかまわないけれど、正しくない方が、元気でかっこうがいい。正しいのは、行儀がよくて「気持ちが悪い」。
 あ、そうだ。日原の詩は「行儀がいい」と評価すれば、きっと日原の満足する批評になるのだな……。
 でも、私は詩人を満足させるために感想を書いているのではない。自分の思ったことを書きたいから書いている。だから、やっぱり「気持ちが悪い」と書いておく。

 枯葉は掃き集められ、「やさしく捨てられ」「ひとつぶの土にかえる」という「運命」を「甘受」している。誰も(?)、それに対してあらがわない。
 ように見えて、実は、一枚。
 あ、この、いわゆる「起承転結」の「転」の運び方。

見よ
かたすみに 一枚だけ
掃き忘れられた枯葉が息をひそめている

 ほんとうに教科書そのもののように「正しい」。そして、その「正しい」転のなかに、きちんと「起承」の基本的な雰囲気「静かな→かたすみ、一枚」、「ささやきあう→息をひそめている」が呼応する。
 すごいなあ。
 詩はこう書くべき、という教科書そのもの。
 でも、そこが気持ちが悪い。「窓際のとっとちゃん」のように、授業中によそみをせずにはいられない私のような人間には、この行儀のよさが、とてもむずがゆい。

 そのあとも、ことばの運動は予定通り。最初の「午後」からはじまった時間は、「日は傾く」、「静かな、ささやきあうような→黙って」、「黄金色に燃えた(明るい)→影(くらい)→暮れ」。
 そして、とどめをさすように「愛してやれ」。その一枚こそ、やさしく捨てられ、一粒の土にひとりで帰っていく運命を甘受している「私」自身、(あるいは、「あなた」自身)、その存在に気がつくのは、精細なこころをもった「私(であり、あなた)」しかいない。だから、「愛してやれ」。

 いま、「現代詩」ではなかなか読むことのできない作品である。そういう意味で貴重だし、ファンも多いだろうと思う。
 あ、でも、気持ちが悪いなあ。


詩小説 かほこ
日原 正彦
ふらんす堂

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ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」

2009-12-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」(「ロシア文化通信 群 GUN」34、2009年07月31日発行)

 冬になると冬の詩を読みたくなる。厳しい冬をことばはどんなふうに追うことができるか。そして追い越すことができるか。
 ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」のⅠの部分。

世界の北部でわたしは隠れ家を探した、
風の部分で探した、そこでは鳥たちが岩場から飛びすさり、
魚たちに映りこみ、舞いおりてはついばむ
きいきい叫びつつさざ波の鏡面を。

たとえ錠がかかろうと、ここでは正気づくべきではない。
家の中はがらんとして、しかも舞台には営倉がある。
朝から窓には黒雲のぼろぼろ帳が垂れこめている。
土地はわずか、ましてやひとけはない。

この緯度帯にあっては水はだんな面。だれひとり
指を空間に突きたてないだろう、《出て行け!》とわめくために。
水平線はおのれをコートのように裏返しにする、
砕けやすい波のたすけを得て。

そしておのれの脱いだズボンとは区別できない、
吊りさがるジャケットとは--すなわちぎりぎりの感懐とは区別ができない
あるいはあかりは暗くなる--おまえはそれらのフックに触れる、
さっと手をひっこめて《復活せり!》と宣うために。

 何が、「厳しさ」を印象づけるのだろう。私は、2度出てくる「面」という文字に北の、冬の「厳しさ」が凝縮されているように感じた。「鏡面」「だんな面」。それは同じ読み方ではないし、意味するところも違うのだけれど、そうか、「北」の印象は「面」なのか、と思った。この「面」は「立体」に対しての「面」である。「立体」にも「面」はあるが、「鏡面」「おやじ面」は「立体」ではない。
 いや、「鏡面」はその底に「水」を持っているから「立体」の一部である、「おやじ面」は「頭」に、そして「体」につながっているから「立体」の一部である--という反論かあるかもしれない。が、問題は、そこなのだ。「鏡面」には「水」がある、「おやじ面」には「頭」がある。けれども、それは「水」に、あるいは「頭」に触れることを拒絶した「面」である。「面」の力で、人間が(鳥が)、「面の背後の立体」に触れること、その内部へ入っていって一体になることを拒絶する。ロープのような線ではなく、広がりとして拒絶する。「線」としての拒絶なら、「線」をまたぐ、あるいはくぐることができる。けれど「面」はまたぐこともくぐることもできない。そういう絶望的な拒絶--そういう印象が、「北」の人間に対する姿勢だ。
 そういう意識が反映されているかどうか、よくわからない。たぶん「深読み」のしすぎ、「誤読」なのだろうけれど、「面」の印象は他のことばのなかにも隠れている。たとえば「黒雲のぼろぼろの帳」の「帳」に。あるいは、「水平線」の「コート」の比喩に。「面」で何かが押し寄せてくる。「面」で行く手をさえぎられる。

 「面」で、たとえば「布」でやさしく包む、ということもできるかもしれない。けれども、「北」では「面」では不十分である。「立体」、「布」ではなく、たとえば「布」と「布」のあいだに「綿」や「羽」などをいれて、それを「立体」にしないことには、何ものをも包めない。守れない。
 「面」こそが「包む」のに、そのとき「面」は「面」ではない--という矛盾。「面」が「立体」になったときのみ、「面」のつつむということが有効になる--「面」がいったん否定されて、別なものになることで「面」として機能する。この何かしら、奇妙な
ことがら。そういうものが、どこかにある。論理的に(?)説明しようとすると、とても面倒なことがらが、世界には存在する。「北」の厳しい「冬」にもそういうものが存在する。

たとえ錠がかかろうと、ここでは正気づくべきではない。

 厳しさに向き合い、生き抜くためには「正気」ではだめ。「狂気」が必要なのだ。「狂気」のような、何か逸脱していく力がないと、厳しい「拒絶」しか存在しない「北」の「冬」は生き抜けない。「狂気」のなかにある、熱、それしか人間には頼るものがない。
 そう思って読むと、最後の1行は、まさに狂気、そして狂気の熱気だ。

《復活せり!》と宣う

 この熱さが、北の厳寒と拮抗して、さらに状況は厳しくなる。



ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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高橋昭八郎『ペ/ージ論』

2009-12-25 00:00:00 | 詩集
高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社、2009年05月01日発行)

 私は目の状態がよくない。そして、頭を使うのも苦手である。だから、といっていいのかどうかわからないが、高橋昭八郎『ペ/ージ論』は読んでいてとても疲れる。
 たとえば8ページの中央に黒い四角がある。インターネットの私の「日記」では白く表示されてしまうが、

     ■ 

 というマーク(?)がページの中央にあり、左端の方に、下詰めで

これは前ページより、正確には〇・〇一ミリ大きくなった穴である。

 と、書いてある。私は、その違いを目で認識できない。手元にある定規でも、その違いを識別することはできない。測っても、その違いがわかるような単位が私の定規にはついていない。「頭」で「〇・〇一ミリ」は認識できない。その数字は「正確」に理解できるが、理解と認識は違う。認識と納得も、また違ったものだが、私は、こんなふうに「頭」で「正確」に理解できることを、「肉体」で納得しなければならないという作業がとても苦手である。というよりも、まったくできない。

 私が好きなのは、たとえば、「文/字のミイラ」。高橋の書きたいことと私が読みとっていること(感じていること)は重なるかどうか知らないが、その作品が好きだ。一ページに1行ずつ書かれているのだが、引用は1行空きの形にする。



ひら

ひらかれ

ひらかれる 殻

 「ひ」という音がしだいに他の音を引き寄せる。「文/字のミイラ」ということばにしたがえば、「ひ」は「悲鳴」であり、ミイラをつつんでいる布がひらひらとひらかれるということなのかもしれないけれど。そしてひらかれたのはミイラという「殻」であり、ひらかれたとき内部が噴出するということかもしれないけれど……。
 私にとっては、「ひ」は「ひかり」の「ひ」である。音自体に輝きがある。それが「ひらひら」ひらめく。ひらめきながり「ひかり」を開いて行く。ひかりをひらいてゆくと何があらわれる? 闇? そんな簡単には言えないだろうなあ。ただ、ひらいたひかりの破片(?)が、「殻」のように感じられる。その内部は、ひかりを超えるひかりだ。名付けられないものだ。だから、それについては何も書かず、「殻」が残される。
 まあ、典型的な「誤読」だね、これは。高橋の書きたいこととはまったく重なり合わないだろうなあ、と思う。しかし、■や〇・〇一ミリとも重ならないんだから、こういうときは重ならないということ、詩人とのことばの「ずれ」を楽しめばいいんだろう。
 この詩でひかれるのは、音の輝きということと関係があるかもしれないけれど、「ひ」が「ひらかれる」にまで変化していくその音自体のなかに「殻」、「か」と「ら」が存在するからである。そして、「ひかり」と私が感じてしまうのは「ら」と「り」が同じ「ら行」にあるからかもしれない。(ミイラの「み」はどこにも出てこないし、「ま行」さえ存在しない。)さらに「ひらかれる」と「から」と動くとき、音の順序が入れ替わる。この入れ替わりそのものがリズムの変化のようで楽しいのだ。

 「消して/みる」も好きである。

ようこそ
感動はさめないうちに
よしや たとひ もし と書く 消してみる
実と虚の よも まさか けだし
恐らく さぞ あるいは と書く 消してみる
あんまりだらしがないなあ
なにとぞ どうか どうぞ 是非 と書く 消してみる

 いろいろなことば、意味の定まらないことばがいくつも登場する。登場して、「消してみる」ということばで否定されて行く。
 「頭」には何も残らない。何がいいたいのか理解できない。認識できない。けれど「肉体」は、ことばを言いよどみ、ああでもない、こうでもないという「時間」をかかえこんでいることを納得できる。納得できて、けれど、わからない。だから、そのわからないものが、もしかすると次の行でわかるかもしれないと期待して読んでしまう。こういうリズムが私はとても好きだ。
 ことばはどこへ行くかわからない。だから追いかける。その追いかける過程こそが詩なのだと私は思っている。



ペ/ージ論
高橋 昭八郎
思潮社

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坂本久刀『貂(てん)』

2009-12-24 00:00:00 | 詩集
坂本久刀『貂(てん)』(詩遊社、2009年11月20日発行)

 坂本久刀『貂(てん)』は「自分史」とも言える詩集である。あとがきに「私は徳島の農家の五男に生まれた。/五歳の時、兄たちが供した養子の話に、キャラメルを貰った嬉しさだけで北海道に連れて行かれた。そこはオホーツク沿岸の屯田兵の開拓村の魚屋だった。」とある。それ以後の出来事をつづっている。
 「自分史」が「自分詩」になっているかと言えば、なってはいない。ことばが自由に動き回るという楽しさがない。「自分史」だから、それはしようがないといえばいえるのか--どうかは難しい問題である。きのう読んだ大石陽次の『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は祖母の語りを再現したものだ。それは「事実」を書いているだけだと思うけれど、不思議なのびやかさがあった。ことばが生きていた。坂本のことばには、そののびやかな動きがない。少なくとも、私には「自由」を感じることができなかった。
 そのかわり、一点、強く響いてくるものがあった。「自由」とは違ったものが、そこにあった。
 「義兄(あに)の一言」は養父が死んだ時のことを書いている。

医者がきたときは既に死んでいた
酒好きだった養父(ちち)は脳溢血だった
五歳で養子にきた私は涙が溢れでた
翌日になっても止まらない
四年前、戦地より復員していた
寡黙な義兄(あに)がそっと言った
「これは養父(とう)さんの運命だよ」
この一言で涙が止まり心が軽くなった

 「運命」。そのことばを、たぶん坂本はすでに知っていた。けれども、その「意味」を真剣に考えたことはなかっただろうと思う。「運命」ということはば、誰でも、そうかもしれない。聞いて、知っている。簡単に「運命」ということばをつかいもするに、「運命」を占ったりもするが、「意味」をじっくり考えることはない。
 その考えたことのなかった「運命」の「意味」がこのときはじめてわかったのではないだろうか。
 自分の力ではどうすることもできないものを受け入れる。そして、受け入れたことを納得するために「運命」ということばが必要なのだ。--というか、その「ことばが必要」ということ、ことばによって何かを納得していくということが「生きる」ということを知ったと言うべきなのか。
 ちょっと、どう区別していいかわからない。
 坂本はこのとき人間が生きていくときには自分の力ではどうすることもできないものがある、「運命」があると知る。と同時に、坂本は、「運命」を信じ、それを生きる力にする(あるいは、あきらめるための理由にする)というよりも、自分を納得させることばそのものによって自分を支える。「運命」という事実(?)ではなく、「運命」ということばが坂本の生きる力を支える。
 このときから坂本は詩を書きはじめているのだと私には思える。

 「運命」というものがある。それは何かはよくわからない。それは自分の力、人間の力を超越している。そういうものによって人間は動かされている。坂本も動いている。その動きを、誰かがあたえることば(運命ということばのように、自分よりも先に意味がきまっていることば)ではなく、なんとか自分の見つけ出したことばで語り、その語るということで、自分自身の「生きる」という意味が決定される。--そんなことを坂本は考えたのではないだろうか。

この一言で涙が止まり心が軽くなった

 あ、人間は、いつでも「この一言」を探している。それは、ふいにどこからかやってくる。そして、ひとを思いもかけないところへ動かしていく。そういう瞬間がある。その瞬間こそが、詩であると私は思う。
 ことばが人間を助ける瞬間、ことばが人間を、いま、ここからどこか別のところへ運ぶ瞬間--そこに、詩のすべてがあると思う。
 坂本の書いている多くのことばに、私は詩を感じることはできないが、この作品の、引用した部分には、とても正直な詩が隠れていると感じた。



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大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』

2009-12-23 00:00:00 | 詩集
大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』(青灯社、2009年12月10日)

 大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は方言で書かれている。「あとがき」によれば八女(福岡県)の方言らしい。私は九州の生まれではないので、九州弁には詳しくないが、そういう人間にもむりなく読める範囲で九州弁が使われている。九州弁を「標準語」の文体のなかに、「語尾」として取り込む形で使われている。大石という詩人の作品を読むのははじめてで(たぶん)、大石のことも何も知らないのだが、たぶん「標準語」の「読書」量が、九州弁の「会話」量より多いのだろう。「話しことば」ではなく「書きことば」の詩人なのだろう。
 見かけは「標準語」だけれど、文体が「九州弁」という詩人が九州には多いけれど、大石はそういう詩人とは違って、見かけは「九州弁(八女ことば)」だけれど、文体は「標準語」ということになる。
 「八女ことば」と「標準語」がぶつかる。というのは、「八女の暮らし」と「標準語」のもと(?)になっている「社会」がぶつかるということである。足が地についた暮らしと、「流通」のために整理整頓された暮らしがぶつかるということである。ふたつがぶつかったとき、「標準語」の「流通」する暮らしが整理整頓のために「切り捨ててきた暮らし」が、死ぬ間際の最後の声のように「生の声」を発する。それは、そういう「ことば」のなかで生きてきた「いのち」そのものである。

 「焼かれた丑蔵じいさん」は82歳で死んだ「丑蔵じいさん」にまつわる話である。死の間際、火葬はいやだ、土葬にしてくれ、と言う。困った。じいさんは体が大きい。その遺体を墓まで運ぶのはたいへん。土を掘るのもたいへん。
 そこで、

こりゃかなわんばい、ちゅうて、
寄り合いも開き、長男の勝造の了解もとり、

舟木の手前の焼場まで骸ば運ばした。
さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、
ち、窯に棺桶ば押し入れて火ば付けらした。

 「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」がとても美しい。遺言を聞かず、土葬にせず、火葬にする。そこには生き残った人間の側の「わがまま」があるのだけれど、その「わがまま」を生き残った人間は知っている。そして、その「わがまま」をわびて、それをとおす。この「わびる」という行為--それを、しっかりとことばにするということ、そこに、「いのち」が見える。「同じことば」を話してきた人間に対する「ことば」の語りかけ。そのなかに「ことば」がつちかってきた「いのち」がある。
 死んでしまった人間に熱いの感覚があるかどうかわからない。けれど、生きていれば「熱い」。ことばは、その「生きている」人間とつながっている。じいさんは死んでしまったが、「ことば」を語りかけるとき、じいさんはいつでも「生きている」。「ことば」は「生きている」ひと、「生きている」いのちへとつながるのである。ことばには「いのち」があり、それが死んでしまったひとを「生きている」状態へと引き戻す。
 技巧として、社交辞令(?)として「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というのではない。いつもの「暮らし」のつづきとして、そのことばがある。
 「ことば」があるのではなく、そこには「暮らし」がある、と言い換えた方がいいかもしれない。暮らしのなかの「いのち」。かわらないもの。それは、あたたかくて、また、こっけいで、ちょっとばかり、だらしがない(?)ものも含んでいる。--というのは、先走りした感想だけれど、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というあたたかいことばは、「暮らし」のなかで、どんなふうに落ち着くか。
 最終連。

お骨になるまで人の倍の時間のかかったけん、
男たちは清めの酒ば飲みすぎて、
あくる日は二日酔いで頭ば抱えとらしたたい。

 死者にねんごろなことばをかける。生きているひとに話しかけるように、死者と生きているひとを区別しない。けれどもそれは、誰かが死んだからといって、生きている自分たちの暮らしを死者のために犠牲にするということとは違う。死んでも生きていると同じように、ねんごろにことばをかけるということは、実は、じいさんは死んではいないのだから、暮らしが変わらないということでもある。いつもと同じように(あるいは、それ以上に)、男たちは時間潰しに(?)酒を飲む。そして二日酔いになる。この「いのち」のたくましさ。
 あ、これはたしかに方言でないと伝えることのできない「いのち」の形だと思う。

 あ、うまく言えない。
 書き直そう。

 「ことば」のなかには「暮らし」がある。「思想」がある。ことばを、その国民の到達した思想の頂点であるというようなことを三木清は言った。それは何も有名な政治家や思想家のことばにかぎらない。むしろ、暮らしに深く根付いていることば、暮らしのなかで日々語られることばのなかにこそ、思想があり、そしてそれは美しい。いつでも人間の思想の最高到達点を指し示している。
 「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」
 この1行のなかにも、死者に対しても、生きているときと同じようにねんごろに声をかける、という美しい思想がある。土葬はむずかしいので火葬にしてしまうという行為のなかに死者に対する裏切り(?)があるかもしれていけれど、その死者に対して「いきていることば」をかけることで、それをつぐなっている。自分のやっていることを「焼きますばい」と語ることで、明確に自覚する。行為をことばで自覚しなおす。そこから、しずかに「申し訳ない」という気持ちが立ち上がってくる。「申し訳ない」ということばはないけれど、それ以上に、「申し訳ない」という気持ちがつたわってくる。「申し訳ない」と言ってしまえば、そしてそれを行為に反映させようとすれば、火葬はできない。火葬寸前でとどまらざるを得ない。
 そういう矛盾に陥らずにというか、そういう矛盾を乗り越えたところに「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。
 私は、いつでも「矛盾のなかに思想がある」と書くが、それは矛盾を乗り越えて思想が生まれる--ということと同じ意味である。じいさんが火葬はいや、土葬にしてくれと言った。それを守らないのは失礼である。しかし、土葬はできない。火葬しなければならない。だから申し訳ないと思いながら火を付ける--この矛盾。その矛盾を超えたところに、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。 
 矛盾を乗り越えて、思想が美しく共有される。だからこそ、それは酒を飲む、飲みすぎたら二日酔いをするという暮らしのなかに、まるで「思想」という面倒くさいものがないかのように溶け込んでいくのである。

 暮らしのなかのことば。それは、暮らしのなかで、静かに行動をしばる。「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」も、ひとに対して、その人が望んでいないことをする場合は、きちんと何をするかを説明する。自分がしていることをことばにして確認すれば、遺体を火葬するときだって、その行為がていねいになる。ことばには、人間の行動を律する力がある。そういうことばの力を、「方言」はしっかり守っている。
 「流通する言語」ではなく、日々の暮らしのなかのことば。暮らしに根付いたことば。その人間を律することばの美しさは暮らしそのものの美しさにもつながる。
 「村から消えた光男しゃん」は「夜逃げ」をした一家のことを書いている。その最後の2連。

ここんにきでは、
夜逃げしたもんば追いかくるごたるまねはしちゃならん、
ちゅうとが、昔からのきまりたい。
借金の話も、根も葉もなか噂話に違いなか。
貸した人にじかに聞いた話じゃなか。

陽しゃんも、めったなこつば言うて、
光男しゃんたちば辱めちゃならんぞ。
行った先でよかこつのあるごつ、ち、思うごつせんとの。

 「昔からのきまり」がそれぞれの土地にある。そしてそれは「ことば」としてきちんと伝えられていく。「書きことば」ではなく「話しことば」として。
 「話しことば」の「思想」。その特徴は何か。この作品は、それをとてもはっきりと語っている。

貸した人にじかに聞いた話じゃなか。

 この行の「じかに」。それが「話しことば」の思想である。ことばはいろいろな方法で伝えることができる。大切なのは「じかに」聞くことである。「じかに」聞くとき、ひとは話している相手を間近に見ることができる。そうすると間接的に聞いたときとは違った「情報」を吸収できる。そして、その「ことば」以外のものも判断材料にして、その「ことば」の「意味」を理解することができる。そういう「ことば以外のもの」を含みながら語り継がれるのが「方言」なのである。
 「標準語」(流通言語)は、そういう「ことば以外のもの」を省略することで、人の暮らしの「場」を超えて広がっていく。
 それでいいのか--という問いかけが、この詩集には含まれている。 

 「往還の郵便局員」は戦争から帰還した男のことを描いている。勤勉な郵便局員が戦争で白兵戦を体験した。無事に帰って来たけれど、ひとこともしゃべらなくなった。そして、昔のまま、自転車で自宅と郵便局を往復する。同じ一着制服、制帽。ほこりだらけ。泥だらけ。その男の描写。

風の吹こうが、雨の降ろうが、
真っ直ぐ正面ば向いたままハンドルば握り、
地面にぼろ革靴ば引きずり、
からくりで動くやせこけた泥人形のごつ歩いて行かす。

 「からくり」は男の動きを描写しているのだが、なぜか、このことばに触れた瞬間、男が「からくり」で歩いているのではなく、「流通社会」(男の生きている村?以外の場、「標準語」が話されている社会)が、その全体が「からくり」で動いているのではないか、と思えてくる。
 「いのち」があり、自分の行為を「自分のことば」で常に確認しながら生きている人間には人を殺す戦争はできない。死者にさえ「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」と説明して自分の行動を律する人間には、生きている人間を、ことばもなく、ただ殺してしまう、殺し合うというようなことは絶対にできない。そんなことができるのは「いのち」のない人間、からくりで動く人間である。
 郵便局員が「からくり人形」になったとしたら、それは彼の触れた世界の「からくり」が郵便局員をのっとってしまったからだ。
 ここには強烈な「流通言語」の社会に対する批判がある。こういう批判を明確にするためには、「方言」は書かれつづけなければならない。語られつづけなければならない。



ちゅうちゅうまんげのぼうめいて
大石陽次
青灯社

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海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」、広瀬大志「[場所]」

2009-12-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」、広瀬大志「[場所]」(「ヒマラヤ」創刊号、2009年10月25日発行)

 海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」は不思議だ。最初は何が書いてあるかわからない。

かれ、はへんがくびにつかった。たけのながいきんきがついばみ、ゆかしさめがけてかみしめる、のちのはなしにくいいるのだ。のけぞるはがたが、あいずをまだしらないうち、やどのあかりをふかんするから。

 ひらがなが、私の頭のなかでかってに漢字に変わる。「彼、破片が首に浸かった」「枯れ、破片が首に使った。」でも、何のことかわからない。「たけのながいきんき」。「竹の長い禁忌」「丈の長い錦旗」。混乱してしまう。イメージが結べない。

 ところが、そのイメージがきちんと像を結ばないことが、急に楽しくなる瞬間がある。2連目というべきか、2段落目というべきか……。

は、へんにかくし、うろおぼえ、かれは、ちぎれたにくをなだめるだろう。

 最初の「はへん」(破片)が「は、へん」(は、変)に変わってしまう。これはもちろん正しい断定ではない。私の「誤読」であり、海埜が「破片」を「は、変」に変えたということではない。私がかってにそう思ったということである。
 「はへん」という「は行」+「ん」ということばは「こはん」というちょっと異質な音をまじえながら、「はたん」「はもん」「はんえい」「は、たんに」(これは、単に、かな?)と変化する。「ぺぺぺぺ」というオノマトペがあり、「へへへへ」という笑いも「はたん」から派生している。
 そして「は、へん」という呼吸からは「ち、くびなんかにしないでよ」という奇妙な変化も生まれている。私はスケベだから「乳首なんかにしないでよ」と読み替えるけれど、「ち(これは、舌打ち)、首なんかにしないでよ」なら「首にキスなんかしないでもっと違うところに」という別のスケベごごろだし、「首」を「首切り(解雇)」ととらえればまた違った意味になる。
 そして、そのとき、「意味」って、ことばにとって何? という疑問も浮かんでくる。
 私は「意味」は読者(読書の場合だけれど)がかってにつくりだすものと思っている。話し相手があるときなら、聞き手がかってにつくりだすもの。書いた人、話した人は別のことをいいたかったかもしれない。けれど、そういう「意図」とは無関係にことばの受けては「意味」を考える。
 まあ、そうすると「行き違い」が起こるのだけれど、「政治」や「法律」の世界ではないので、それが楽しいかなあ、とも思う。
 ほら、相手の言っていることなんて、正確に知りたくないことってあるでしょ? ふーん、そうなんだと、適当にあしらって、かかわるのはよそう、って思うこと、あるでしょ。
 詩は、そんなふうに簡単にあしらうものではないのだけれど。
 言いたいのは、別に、筆者の「言いたい意味」なんか気にしなくたっていいじゃないか。どっちにしろ「正確」には把握できない。書いている人だって、いつも「正確」に書き切れているとはかぎらないだろう。だから、何か違うなあ。何を言っているのかな? わからないけれど、あ、この部分、わかった気持ちになる--正しいかどうかわからないけれど、自分のなかで「意識」がすっと動く瞬間がある。その瞬間的な動きが、動くものがあるということが、気持ちがいい。
 そういう瞬間。
 海埜のことばに対して、こういうことを書くと、またまたスケベ、セクハラと言われてしまうかもしれないけれど、その意識が動く、動く瞬間がある、というのは、ちょっと射精の瞬間のような快感。
 自分の「肉体」から出て行ったものが何なのか、まあ、説明ができないことはないけれど、そんなものは普通は「説明」しない。「でちゃった」でおしまい。「でちゃった」なんて、おかしいんだけれど、その瞬間、ほら、たしかに「交流した」と思えるでしょ? 相手は「そんなことくらいで交流したなんていわないでよ」と怒るかもしれないけれど。でも、怒りながらも、別々な人間が出会って、そこで何かが動いたということはわかるよね。(わかるから、怒るんだけれど。)
 こういう「動き」(おおげさに、あるいは気取っていえば、「交流」)は、「意味」に置き換える必要がない--と私は思う。あれ、なんだろうなあ、何かが動いたなあ、が少しずつ積み重なって、それがやがて「大切なもの」になる。
 そういうことを考えた。
 女性に対してこんなことを書くと、迷惑かもしれないけれど、まあ、詩ということばのなかのことだからね。許してね。



 広瀬大志「[場所]」。うーん、と書いて、ちょっと困った。うーん、以外に書くことばがみつからない。海埜の詩に対しては「軽口」のようにして感想がことばになったが、広瀬の詩に対しては、私のことばはちょっと動かなくなった。

イチジクの木が茂っている
太陽が高くのぼっている
蝿を追い払っている
農具を置いたままにしている
水をくんでいる
風の向きが変わっている
トビが回っている
家に入ろうとしている
たくましい歌声が澄んでいる

長くまっすぐな小道がのびている
永遠に動かないかもしれない
場所がある
あることを受け入れるための緊張が
そこに張り詰めているから
人の記憶に
場所はありつづける

 2連目の3行、「長くまっすぐな小道がのびている/永遠に動かないかもしれない/場所がある」がとても好きだ。特に「永遠に動かないかもしれない」という行が修飾しているのが「小道」なのか「場所」なのかわからないところが好き。わからないから、「小道」と「場所」がしっかり結びついて、一点に収縮していく感じ、凝縮して行く感じ、「求心」という感じになる。それがいい。
 で、2連目から1連目を振り返ると。
 1連目に描写された風景は「記憶」ということなのかもしれないが。
 うーん。
 「記憶」だとしても、私は、いやだなあ。いったい、いつの「記憶」? 「記憶」というより「郷愁」というような感じがしない? 「記憶」ということだけが問題なら、そんな透明な農村風景ではなく、猥雑な路地の夕暮れでもいいのではないだろうか。地下鉄の真昼、あるいはビルの屋上の真夜中。なんだって、「永遠に動かない」ということばで描けると思うのだ。なぜ、農村の風景? なぜ、いま、農村? ねえ、いまの農村って知ってる? いま、問題になっている農村に対して、そういう「記憶」(郷愁)をぶつけることは、ちょっと失礼じゃないか--と私は思ってしまうのである。

 まあ、いいけれど。



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マイケル・マン監督「パブリック・エネミーズ」(★★)

2009-12-21 12:00:00 | 映画

監督 マイケル・マン 出演 ジョニー・デップ、クリスチャン・ベイル、マリオン・コティヤール

 犯罪ものの映画はむずかしい。犯人が悪くて、強くて、それにくわえて愛らしくなければならない。ひとなつっこさというか、知らずにひとを引き寄せる力。引き寄せるというより、相手が近づいてきて、それにのみこまれる感じ……。悪くて、強くて、ひとなつっこいから、まあ、得たいのしれないと言い換えてもいいのかもしれないけれど。
 ジョニー・デップは「もてる男優」の代表的な役者だから、女性を引きつける力はあるんだろうなあ。暗い陰りのような力。ついていくと、自分の暗い欲望(?)に直に触れることができる--という好奇心(?)をそそる感じかな。
 よくわからないが。
 私には、ちょっと「犯人」の魅力からは遠い感じがするのだ。まず体が小さいから、強い、悪いという印象が薄い。なぜ、仲間はジョニー・デップについているかな? 頭がよくて、銀行強盗をうまくやれるから? うーん。でも、一方で、言うことを聞かないところされるかもしれないという「恐怖心」だって、ひとを引きつけるんじゃないかな? そういう「乱暴」な魅力が、ないなあ。
 マリオン・コティヤールはとてもうまい。そして美人だ。あ、それに小柄。だからジョニー・デップの相手役なんだろうなあ。キム・ベイシンガーじゃあ、ジョニー・デップはこどもに見えてしまうもんなあ。
 映画のできとは関係がない? そうかなあ。映画はやっぱり役者がかっこよくなければ。映画を見終わったあと、主役になったつもりで映画館から街へ出てきたい。架空の体験を「肉体」にいっぱいつめこんだまま、しばらく「主人公」でいたいなあ。

 この映画で、あ、この役ならやってみたいなあ、と私が思ったのは、ジョニー・デップの最後のことばを聞き取り、それをマリオン・コティヤールに伝える刑事。二つの映画館のどっちを張り込むべきかを冷静に分析し、ジョニー・デップの遺言(?)も女にだけ伝えるという、わ、わ、わっ、すごい紳士じゃないか。私なんかお喋りで、「おまえはひそひそ話ができないのか」とひとにあきれかえられる人間なので、うーん、かっこいいなあ、と思ってしまった。
 そして。
 この映画のほんとうの拾い物(?)はダイアナ・クラールの「バイバイ・ブラックバード」かな。キャバレーで歌うシーンに、本人がそのまま出演し、歌っている。この歌が、最後の最後に、せつなくせつなくよみがえる。この歌声を聴くだけのために、とわりきって見るといい映画かもしれない。



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町田康「気持ちを動作に押し込めて」

2009-12-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
町田康「気持ちを動作に押し込めて」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)

 きのう、谷川俊太郎の作品に触れながら、

谷川の少年を描写することばは谷川の「肉体」に働きかけ、谷川を「少年」に整え(?)、そこから少年の現実を動かしはじめる。

 と、書いた。こういうことは、谷川にかぎらず、たぶん多くの作家(詩人)に共通することなのかもしれない。ことばで「肉体」の動きを描写する。そうすると、その「肉体」が「こころ(気持ち)」を整え、そこからことばが動きはじめる。そのことばによって「現実」が生まれ変わる。生まれ変わった「現実」がその前にひろがり、そこから、いままでとは違ったものが動きはじめる。
 その何か、生まれ変わった「現実」の姿は、最初から予想していたものではない。まったく予想外のことである。だからこそ、詩人・作家は、そのことばを追いかけながら「現実」を知る。
 町田康「気持ちを動作に押し込めて」は、そんなふうにしてことばが動いていく。

気持ちを動作に押し込めて
一匹の犬のことを思っている

 このとき、町田は(と、仮に呼んでおく--話者が町田であるといっていいかどうか、わからない。それは町田がつくりあげた架空の登場人物かもしれない。いや、きっとそうなのだと思うのだが……)、まだ犬の姿を思い浮かべていないと思う。
 1行目の「動作」も実はどんな動作かはっきりしていない。谷川は「みちばたにぼくはしゃがんでいる」(しゃがむ)と具体的な動作で書きはじめていたが、町田にはその具体的な動作がない。動作が具体的ではないから「気持ち」も具体的ではない。まだ、何も決まっていない。ただ、「気持ち」をことばにするには、「気持ち」を「動作」をとおして描写しなくてはならない。(作家の、文章作法の基本ですね。)だから、そうしようと思っている。けれど、「動作」も「気持ち」も決まっていない。

一匹の犬のことを思っている

 と書いているが、その犬はまだ想像力のなかにすら存在しない。犬ということばしかない。犬のことを思っているのではなく、犬のことを思おうとしている--そんなふうにしか、私には感じられない。
 犬のことを思い、その気持ちがあふれているなら、わざわざ「気持ちを動作に押し込めて」と抽象的には書かないだろう。自然に、その具体的な「動作」、たとえば「しゃがんで」という動作が描写されるはずである。
 どんな動作も存在しない。どんな気持ちも存在しない。
 そこから出発して、「気持ち」をつくっていくのだ。

その犬はベリーキュートで
街を歩けば甲乙人が押し寄せ
写真撮影をせがまれた

 あ、いいなあ。「その犬はベリーキュートで」。なんて気楽な(?)、明るい展開だろう。
 ほんとうに「ベリーキュート」なら、「気持ち」なんか「動作」にこめなくたっていい。
 町田が書いているように、「ベリーキュート」なら、ひとは思わず犬に近づいていく、という「動作」をとる。それから「写真撮影」という「動作」をとってしまう。「動作」のなかには、自然に「気持ち」がこもっている。「気持ち」は「動作」のなかに「押し込める」ものではなく、「動作」と一体となって、自然にそこに存在している。
 でも、そんな「気持ち」はつまらない。
 自然発生(?)的な「気持ち」ではなく、自分で「気持ち」をつくりたい。新しい「気持ち」をつくりだして、それを動かしてみたい。
 町田の欲望は、そこにある。

飼い主のおっさんはそのことが自慢で
ことあるごとにその犬を連れ歩いた
ことに若い女がきゃあきゃあ言うのが
おつさんは実にうれしかつた
  (谷内注・「おっさん」「おつさん」と表記が乱れている。「きゃあきゃあ」
   も別な場所では「きやあきやあ」となっている。誤植と思われるが、そのま
   ま引用した。以後も同じ。)

 この展開のなかで、1行目の「気持ちを動作に押し込めて」が消えてしまう。
 「どんな気持ち」を「どんな動作」に押し込めて、この4行を書いたのだろう。私には想像がつかない。「気持ち」も「動作」も消えてしまって、そこには、「おつさん」と「犬」と「若い女」がいるだけである。まあ、「おつさん」には「うれしい」という「気持ち」がある、「若い女」には「犬がベリーキュート」という「気持ち」があると考えれば考えられるけれど、そんなことは考えないなあ。
 私は。

しかーし。
しかれども。

 いいなあ。ほんとうに、いいなあ。この2行は、私のことばではなく、町田のことばなのだが、数行前に、「私は。」とぶつんと切れたことばを書いた私も、実は、ここで「しかーし。/しかれども。」と思っているのである。

しかーし。
しかれども。
その犬は難病であった
不治の病にかかつていたのであつた
そのように長いこと座りをし
多くの人と記念撮影をすることが
犬の命を削つた

 またまた飛躍する。「おつさん」の「うれしい」も「若い女」の「きやあきやあ」(と先取りして、ここでは「や」をつかっておく)も、完全にかき消されてしまう。そんなものは、あったことさえ忘れてしまう。

しかし、おつさんは
単純化した哲学と図式化した宗教を
相撲取りが突つはりをするように
互い違いに繰り出して
摺り足で街を進んでいつた

 あらら、こんどは、なんともしれぬ「気持ち」(単純化した哲学と図式化した宗教)が突然登場してくる。変な「動作」も出てくる。「相撲取りが突つはりをするように/互い違いに繰り出して」。何だろう、これは。「摺り足で街を進んでいつた」もなんだろう。なんだろうを、ひっくりかえすように(?)して、あれ、「相撲取りが突つはりをするように/互い違いに繰り出して」というのは、哲学と宗教のこと? それとも摺り足のこと? わからない。両方をひっくりめて修飾していることば? わからない。
 あ、この、「わからない」が大事なんだなあ。
 「気持ちを動作に押し込めて」って、ほんとうは、こういうことかもしれない。どこからが「気持ち」、どこからが「動作」なんて、わからない。それはいっしょになってしまって、ぐちゃぐちゃになって、人間を動かしている。ぐちゃぐちゃになっているから、ときどき、これは「これこれの動作」、これは「これこれの気持ち」と、ことばでわけて、ようやくなんだかわかったような気持ち(これは、どんな気持ち?)になっているだけだ。
 わからないものにぶつかりながら、わからないものをわからないまま、ことばで浮き上がらせる。「気持ちを動作に押し込める」のではなく、「気持ち」と「動作」を浮き上がらせようと、懸命にことばを動かす。
 なんだか奇妙な逆転--矛盾。
 ここに町田のことばのおもしろさがある。
 いつでも思想は「矛盾」と結びついて、そこに存在している。「矛盾」のなかに、「思想」がある。

得意顔で
疲労困憊して
それでも飼い主のために笑つている犬を連れて
若い女にきやあきやあ言われながら
正義の微笑を浮かべて
どこまでもどこまでもどこまでも
犬が死んでも
気がつかずに
どこまでもどこまでも
進んでいくのであつた
雲が空に流れていく
人間の秋
動物の終わらない冬

 どんどんどんどん変わっていく。「どこまでもどこまでも」変わっていく。とても楽しい。
 町田の「思想」はたぶん「しかーし。/しかれども。」を「どこまでもどこまでも」つづけて行くことである。ことばを動かして行くことである。
 振り返って作品を読み返すと、よくわかる。「しかーし。/しかれども。」は1回しか書かれていない。けれども、そこには書かれない形で(私がいつも書いていることばで言えば、「無意識」のうちに、「肉体」の内部で書いてしまっているので、表面には出でこない形で)何回も書かれている。何回も、そのことばを補って読むことができる。補っても不自然にはならず、逆に、補うと「思想」がよくみえる。そういう箇所がある。
 「犬の命を削つた/しかし、おつさんは」という行間には「しかーし。/しかれども。」がある。(「しかし、」ということばは、その一部を引き受けて書かれている。)おなじように、「摺り足で街を進んでいつた/得意顔で」の行間にも「しかーし。/しかれども。」が静かにしのびこんでいて、それが「正義の微笑」というものをあぶりだし、「しかーし。/しかれども。/犬が死んでも/気づかずに」と動いていく。「どこまでもどこまでもどこまでも」は「しかーし。/しかれども。」の変形なのである。

 2回出てくる「どこまでも」の繰り返しは「しかーし。/しかれども。」に置き換えてみると、ね、寂しい気持ちになるでしょ?

 そして、そのとき突然、あ、「気持ちを動作に押し込めて」人間は生きている--と気がつく。どこまでもどこまでも「気持ちを動作に押し込めて」人間は同じことを繰り返している。その反復のなかに、反復のずれのなかに、いのちの寂しさが見えてくる。そんなことに気づかされる。
 誰も(というと、反論があるかもしれないけれど、少なくともすぐれた作家・詩人は、誰も)、自分の書いていることばがどこへ動いていくか知らない。知らないまま、そのことばに導かれて動いて行ってしまう。知らずに動いて行って、不思議なものに突き当たってしまう。
 この不思議なもの--それをどう表現していいかわからないけれど、そういうものに突き当たるまで、知らず知らずに引っ張られて行くとき、引っ張られながらそのことばを読み終えたとき、なんとなく、うれしい。うれしくて、感想が書きたくなる。


告白 (中公文庫)
町田 康
中央公論新社

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イエジ・スコリモフスキ監督「アンナと過ごした4日間」(★★★★)

2009-12-20 12:00:16 | 映画
監督・脚本 イエジ・スコリモフスキ 出演 アルトゥル・ステランコ、キンガ・プレイス、イエジー・フェドロヴィチ、バルバラ・コウォジェイスカ

 あらゆる映像が美しい。とりわけ雨を含んだというか、湿気を含んだ空気の感じがすばらしい。
 いちばん印象に残っているのは、川を流れてくる死んだ牛である。死んでしまった牛がこの映画のように横向きに浮いて流れるかどうか私は知らないが、異様さに引きつけられる。これは私が知っているもの? それとも知らないもの? そのわからなさを、雨の色、川面の色、川面にうつる風景、空の色、空気の色が、これは「現実」である、とささやきかける。雨の色や空気の色はたしかに私の知っているものだ。だから、その川を流れてくる牛もまた現実だと映像は告げるのである。
 映画の主人公は病院の火葬場(?)で働く男である。男には病気の祖母がいる。男は祖母の面倒をみながら働いている。この男の楽しみは、寮に住む看護婦を覗き見ることである。長い間、ただ覗き見をしていた男が、祖母が死んで、祖母ののんでいた眠り薬が残ったために、ふと思いついてしまう。覗き見するだけではなく、女に眠り薬をのませ、部屋に侵入することを。「覗き見」ではなく、もっと近くで女をじかに見ることを。
 女は寝る前にお茶(コーヒー?)をのむ。砂糖をいれてのむ。その砂糖に眠り薬を混ぜる。そのために、女が砂糖をいれているジャムの空き瓶を調べる。同じジャムを買ってくる。中身を捨てて、眠り薬をまぜた砂糖をつめる。女がつかっている砂糖の量にあわせて、瓶ごとすりかえてしまう。--こういう手順をとてもていねいにていねいに描写していく。死んだ牛が川上からゆっくり流れてくる。それが、あ、牛だとわかるように、空き瓶を調べ、同じメーカーのジャムをスーパーで買って……という動作が、ことばもなく、ただたんたんと同じスピード、牛を運ぶ川の水の流れのスピードのように、緊密に動いていく。
 どんなものでも、激しく動いているものは、それが何かわからないときがある。けれど、ゆったりと動いていると、それが何であるか少しずつ、しだいにわかってくるときがある。緊密に動くと、その動きがこころのなかに根付いて、見ている対象と一体化してしまう--そんな感じで、そこで起きていることがわかってくるときがある。
 この映画は、それに似ている。
 女が眠る。眠ったのを確認して、男は女の部屋にしのびこむ。懐中電灯の明かりで、そっと眠った女を見る。遠くからはわからない肌の感じ。それを確かめるように男は女の枕元へ近づいていく。
 男は女を犯すのか。
 男は、そんなことはしない。何をするか。眠り薬のために、途中で終わってしまったペディキュア。その足の指に、そっと紅い色を塗りはじめる。まるで女そのものよりも、ペディキュアの紅い色に引き寄せられているかのようだ。(これは、あとで重要な色だったということがわかるのだが、それは映画のお楽しみ。)あるいは、看護婦の制服のとれかけたボタンを針と糸でつくろう。あるいはパーティーのあとの汚れたままの食器類を洗って片付ける。あるいは落ちてこわれた鳩時計をなおす……。
 途中に、パーティーの残りの料理と酒とで、「ひとりパーティー」というか、女といっしょに踊っているような気持ちになるシーンもあるが、そのときでも、男は女に触れているわけではない。男は頭のなかでは女に触れているが、現実には女には触れていない。
 男が女に触れるのは、先に書いたペディキュアのシーンと、退職金で買った指輪を女の指にはめようとするときだけである。誕生日のプレゼントとして、男は女のために指輪を買った。それを、女が眠っているあいだに、そっとその指に残していこうとする。そうすることで、愛を伝えようとする。
 ……これは、結局、うまくいかない。
 うまくいかないのだが、そのうまくいかないことが切ない。男の愛は、いわば異常なものだが、その異常さが、とてもとてもゆっくり進むので、知らず知らずに男が感じていること、考えていることがスクリーンからつたわってくるのである。その男の感情がしらずしらずに私をのみこんでしまうのだ。指輪のシーンなど、思わず、うまく指にはまりますように、と思わず祈ってしまうのである。サイズが合わずに指からするりと落ちる。そうすると、男が「しまった」と思うより先に、私の方が「あ、しまった」と思ってしまう。床板の隙間にはさまり、とれなくなると「どうしよう」と焦ってしまう。私は当事者ではなく、たんなる映画の観客なのに、まるで看護婦の部屋にいて、女の指にそっと触れ、転がり落ちた指輪をどうすれば拾えるだろうと考えてしまう。
 スクリーンで展開されるスピードに、そのゆったりした流れに、のみこまれいっしょに流れていることに気がつく。そして、そのとき、それがただたんにスピードがゆったりしているからだけではなく、そこに「空気」そのものがとりこまれているからだということにも気がつく。女の部屋。使い込まれた家具の伝えてくる落ち着いた時間の美しさ。(これは「長江哀歌」がとてもていねいに描き出したものにつながる。)その窓。破れた硝子。そこにも存在する「時間」。そして、窓の外の冷たく湿った感じ。車が通りすぎるとき、ふいに車のライトが部屋を照らしながら駆け抜ける。そのときの光の動き。どんな世界も、ふいの侵入者を防ぐことはできない--ゆったりしているけれど、そこに「緊張感」もある。あ、カメラがすごいのだ、映像がすごいのだ、とそういうときにあらためて気がつく。
 この映画に描かれていることがほんとうにあるかどうかわからない。映画は作り物だから、もちろん嘘であってもかまわないのだが、それが嘘ではないと感じさせるのはカメラの力だ。男が女の部屋にしのびこむのを私は現実に見たことがないし、女の部屋にしのびこんで寝顔を見るということもしたことはないが、いまスクリーンで繰り広げられていることを「現実」と感じるばかりか、まるで「男」になったような気持ちにさえなってしまうのは、カメラがとらえるあらゆる映像のなかに「空気」がしっかりととらえられているからだとわかる。
 雨の色、雨にぬれた木の色、土の色、破れた納屋の扉、使い込まれ汚れがしみついたさまざまなもの。汚れながら、それを美しく磨き、つかう繰り返しによって生まれてくる時間の美しさ。そういうもの、存在が必然的にかかえこんでしまう「過去」とそれをつつむ「空気」そのものが、私をスクリーンのなかにぐいと引き込んだのだとわかる。
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谷川俊太郎「しゃがむ」

2009-12-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「しゃがむ」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)

 きのう、谷川俊太郎の「ホルンのこだま」について触れた。そして、最後に、

 「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。

 と書いた。この最後の部分はちょっと説明不足だった。というよりも、そのことばを書いたとき、私は意識のどこかで、「しゃがむ」という詩を思い出していたのかもしれない。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

ぼくにはなまえがある
でもぼくはだれでもない
ただいきているだけ

いまぼくはたんぽぽみたい
みみずみたい かまきりみたい
ちょうちょみたい とべないけど

みちばたでぼくはたちあがる
そしたらにんげんになった
りんごかじりたくなった

 「にんげんになった」は正確には(?)人間にもどった、だろう。
 「ぼく」から「きもち」が出て行って、「ホルンのこだま」で「ぼく」が「かわになった」ように、この詩では「ぼく」は「たんぽぽ」「みみず」「かまきり」「ちょうちょ」になった。けれども、たんぽぽもみみずもかまきりもちょうちょも、どこへもたどりつけず、「ぼく」にもどってきた。「孤独」な旅を終えてもどってきた。そのとき、たんぽぽ、みみず、かまきり、ちょうちょが抱えてもどってきた「孤独」--それがそのまま「ぼく」の「孤独」にいままでとは違った影を、陰影を、あるいは輝きかもしれないが、なにかしらの変化をもたらす。それを受け入れるために、「ぼく」は「にんげん」に「なる」しかないのである。
 「ぼく」は「ぼく」に「なる」。けれど、その「ぼく」は「それまでのぼく」とは少し違っている。あるいは、まったく違っている。その「ぼく」は「それまでのぼく」につながっているだけではない。「それまでのぼく」とだけつながっているのなら、「にんげんになった」ではなく「ぼくにもどった」と正確に書くことができる。
 でも、「ぼくにもどった」のではない。
 「旅の孤独」「孤独な旅」をかかえてもどってきたとき、「ぼく」は、そういう旅をする「ぼく以外の他者」ともつながってしまう。「ぼく以外の他者」、ただし、同じ孤独な旅、旅の孤独を知っている「他者」とつながりながら、そういう旅の孤独を知っているひとを「にんげん」と呼び、その「にんげんになった」。「にんげんになる」。

 谷川にとって、「なる」ことが「ある」ことなのである。
 「かわ」になる。「たんぽぽ」になる。「かまきり」になる。「なる」はまた「旅」することであり、それは「孤独」を知ることでもある。「孤独」を知り、「孤独」同士が結びつく。ただし、この結びつきは、離れたままの結びつきである。離れたままの結びつきというのは矛盾表現だが、「肉体」そのものは離れて別々のところにあるが、孤独は互いを呼び合っている。そういう結びつき。離れていないと呼び合うことはできない。そういう結びつき。そういう呼び合うことができるということが、たぶん、人間の証なのだ。時空を超えて呼び合うのだ。そういうことができるように「なった」とき、できるように「なる」とき、谷川は谷川として「ある」。そしてその谷川は谷川ではなく、「詩人」という普遍的な存在である。谷川という個別の肉体をもちながら、その内部で「普遍」になる。

 あ、こんなことは、書いてもつまらないね。
 あ、いや、正直に書こう。きのうの「日記」を書いたとき、いま書いたようなことを書こうと考えていた。そして実際に書いたのだけれど、書きながら私は実はほかのことが気になっていた。もっと違うことを書きたい、と詩を引用した瞬間に思ったのだ。
 以下は、その、急に思い立ったことがら。
 (私はいつでも結論も、論理の組み立て?も考えずに、ただ書きはじめる。だから、この詩はおもしろいと思って書きはじめながら、最終的にとてもつまらないと書いたり、逆に否定するつもりで書きはじめて、そうではなくとんでもない傑作なのだと気づき、そう書くこともある。そういうときも、私は書き直しはしない。ただ、書きすすめるだけである。)

*

 この詩でおもしろいのは、「なる」ということばの、そういう面倒くさい(?)働きよりも、実は、最初の3行かもしれない。
 いや、そこにも「なる」がほんとうは書かれている。どこにも書かれないないが「なる」がある。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

 「ぼく」の様子がただ書かれているだけ--というのは、表面的にはそうである。でも、その表面的なことがらを超えて、私は「誤読」する。ここに、谷川の「肉体」を見てしまう。「たんぽぽ」になり「ちょうちょ」になり、そして「ぼく」にもどり「にんげん」になった「孤独」よりも、もっと生々しい「肉体」、むきだしの「肉体」を感じてしまう。

みちばたにぼくはしゃがんでいる

 こう書き出したとき、谷川はまだ何を書いていいかわからないでいる。(こういう「断定」を「誤読」というのだが、こうやって「誤読」するのが、私の趣味である。癖である。)何を書いていいかわからないから、1行目をくりかえす。言いなおす。「ひとりでしゃがんでいる」。それでも、谷川はまだ「ぼく」になれない。まだまだ大人の谷川、詩人ではなく、詩を書きはじめたばかりの谷川である。そして、もう一度「しゃがんでいるだけ」と書いてみる。
 ことばをくりかえす。そうすると、そのことばが「肉体」を整える。「肉体」が少しずつ、「しゃがんでいる」こどもにもどっていく。そして、「肉体」がこどもにもどってしまうと、そこからことばが動きはじめる。

ぼくはなにもしていない

 これは「しゃがんでいる」を「内側」からみつめたことばである。「外側」から見れば「なにもしていない」わけではない。なにもしていない、ということは、まあ、ありえない。外側から見れば「しゃがんでいる」。「肉体」の形をそういうふうに描写できる。
 けれど、なにもしていない。
 これは、「こころ」「きもち」が何もしていないということだ。

 この、「肉体」から「こころ」「きもち」への切り替え、そのために、まず谷川は「肉体」そのものを「しゃがませる」。ことばが「肉体」に働きかけ、「肉体」がことばを完全に反芻し終えたとき、その「肉体」が自分自身のことばを語りはじめる。
 そういう変化を引き起こすための、最初の3行。
 それは、2連目に取り込んでしまって、次のように書きはじめてもよかったはずである。

みちばたにしゃがんで、ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

 1行目は少し長くなるけれど、そう書いても詩全体の「意味」はかわらない。「意味」はかわらないけれど、谷川はそんなふうには書かない。長い1行目、ことばがなんとなく未整理でうるさいのは、私がかってに書き換えたからで、谷川自身がかきなおせばもっと自然な行になるだろうけれど、たとえそうであっても、谷川はそんなふうには書かない。いや、書けない。
 詩は「意味」ではないからだ。「意味」を書くものではないから、きょうの日記の前半で、私が書いたような「なる」だの「ある」だのは、まあ、どうでもいいことなのだ。

 谷川は、どうなふうにして「こども」の「ぼく」になったか。
 想像力を働かせて、記憶をたどって……ということはできるが、私は、ことばをくりかえすことでと言いたい。
 何が書けるかわからない。何が書きたいか、わからない。
 そういうとき、谷川は、まず書けることばを書き出す。そして、それを繰り返し、自分の「肉体」になじませる。ことばが「肉体」に形をあたえる。「肉体」がしゃがんで、それをことばが「しゃがんでいる」と描写するのではない。「しゃがんでいる」ということばがまず最初にあり、それを「肉体」が描写するのである。
 谷川のことばは、いつでも、そういう運動の形をとる。
 何かがあり、それをことばが描写するのではない。何かがあって、それをことばが描写しているように見えても、実は、ことばが書かれ、それを実際のものごとが描写するのである。
 名作「父の死」でも同じだ。父・谷川徹三が死ぬ。そして葬儀がある。そういう一連の現実をことばで描写しているのではない。逆なのだ。ことばが書かれ、それを現実が描写しているのだ。--これは、そんなことはありえない、と反論がありそうだけれど、実際に、そうなのだ。ことばが書かれ、それにあわせて現実が整えられていくのだ。そういう逆転したことが文学と生活のなかでは起きる。
 大江健三郎の私小説でも同じである。大江の生活があり、それをことばが描写しているだけではない。ことばが書かれることで、生活が整えられていく。整理しなおされ、生活が美しく動きはじめる。
 「父の死」のそれぞれの1行は、現実をもとにして出発しているけれど、いったん出発してしまうと、ことばが現実に働きかけ、現実を整え、美しく動かしはじめる。

 「しゃがむ」の書き出しは、そういう谷川とことば、現実のあり方を映し出している。谷川は「ぼく」という少年を描写しているのではない。谷川の少年を描写することばは谷川の「肉体」に働きかけ、谷川を「少年」に整え(?)、そこから少年の現実を動かしはじめる。常にことばが現実を美しく動かしていく。
 この運動のなかにある、書かれていない「なる」こそ、谷川の詩のいのちかもしれない。



これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
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