詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中曽根の死

2019-11-30 09:35:03 | 自民党憲法改正草案を読む
中曽根の死
             自民党憲法改正草案を読む/番外307(情報の読み方)

 2019年11月28日の読売新聞(西部版・14版)の1面に中曽根康弘元首相の死亡記事が載っている。
 いろいろ書かれているが、注目したのが渡辺恒雄のコメントだ。

私が平記者、中曽根さんがまだ陣笠代議士の頃から、毎週土曜日にはきまって読書会をして、良書を読みあさった。

 「良書」が具体的に何を指しているかはわからないが、本を読んでいたことだけはたしかである。そして、語り合っている。コメントは、こうつづいている。

 夜二人で酒を飲むときも、話題は読書の話、政治の話ばかりだった。あのような勉強家、読書家は他に知らない。

 20行足らずの記事のうち、半分近くを占める。「読書家」の印象が強いのだろう。「読書」というのは単に他人のことばを読むことではない。他人のことばにふれて、自分のことばを点検することだ。ことばをつかって何を考えられるか、それを考える。考えを確かめるために語り合う。それを実践していたことがわかる。
 そこから今の首相、安倍を見ると、どうなるか。
 「読書」しているようには見えない。ことばをつかって考えている、考えるためにことばとむきあっているようには見えない。その場しのぎで、テキトウなことを言っている。信念は「ぼくちゃんが偉いんだから、みんなぼくちゃんのことを大事にしろ」だけのように思える。国会答弁などを聞いていると、なんといえばいいのか、「反論」したいという気持ちにならない。
 中曽根の場合は、「反論」が必要だった。安倍の場合は、「反論」ではなく、「非論理/論理的な間違い」への指摘にすぎない。よく安倍は「対案を出せ」というが「対案」を必要とする「論理」そのものを安倍はもっていない。「哲学」がない。
 中曽根を評価しているわけではないが、「ことば」が強い。「浮沈空母」は、日本列島を防衛するという「意味」で言ったのかもしれないが、「浮沈空母になって、アメリカの最前線で戦う(ソ連、中国、北朝鮮が太平洋へ進出するのを防ぐ)」という意思をアメリカにつたえることになったのではないだろうか。「ことばの射程」をごまかして小さくみせるのではなく、逆に「ことばの射程」の広がりを暗示させる。「空母」ということばで、ちゃんと「戦争」を明示している。「浮沈空母」には、中曽根の「世界戦略思想」がある。安倍のように「戦争法」を「安保法制」などということばでごまかしたりはしない。
 さらに中曽根は、声が明瞭だった。声は人格である。書かれたことばにも人格が出るが、声の方が直接的に出る。隠しようがない。中曽根の人格を知っているわけではないが、声の強さは「対話者」を真剣にさせる力になると思う。(田中角栄も強い声をもっていた。)
 政治はことばである。ことばは思想であり、哲学である。また、ことばは声であり、声はことばだ。そういうことを、あらためて思った。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(32)

2019-11-30 08:42:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (この砂漠は)

いつの日か通つたようにおもわれるが
いま哀しくもおもいだされない

 「おもう」が「おもいだされない」。「おもう」は気がする、ということだろうか。「おぼえている」のに「思い出せない」というのとは違う。「おぼえている」が「思い出せない」というのは「ことば」にならない、ということ。
 この詩では、「ことば」になっている。
 「哀しくも」というのが、その「ことば」だ。「おもいだせない」はずなのに「哀しくも」ということばが生まれてくる。こころが生まれてくる。「いま」となって。
 「いま」。
 このひとことも、切実だ。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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2019年11月29日(金曜日)

2019-11-29 23:59:08 | 考える日記
 「ことばがあって、同時に、ことばがさししめすものがあるとき、ことばは知性と感性に引き裂かれている、というのはどういう意味ですか?」と本棚の陰に隠れていた少年が、顔を上げて聞いた。ことばがうつむいた瞬間、目が合うのを待っていたかのようだった。路面電車のパンタグラフが電線にこすれて焦げた音を発するのが聞こえた。ことばは、どこかから剽窃してきたことばなのか、本を読みすぎたために文脈が乱れたために動き出したことばなのか考えたとき、遅れてきた顔をしたことばが、こう言った。「ものには知性で処理する部分と完成で処理する部分があるということです。五冊の本がある。本の形、色は感性でとらえることができる。でもそれを五冊だと判断するのは知性です。」その答えは少年を満足させなかった。軽蔑しながら笑った。「理性が働き続けるとき、そこには形の定まらないものしかない。言い換えると結論が生み出されるまでの間、そこには感性で処理できるものは何もない、ということを知らないんですか」
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北川朱実「川を見にいく」、長嶋南子「眠れない」

2019-11-29 11:46:01 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「川を見にいく」、長嶋南子「眠れない」(「zero」13、2019年11月14日発行)

 北川朱実「川を見にいく」。書き出しが魅力的だ。

降り出した雨が
体に届かない

水道の蛇口をゆるく締めて
川を見にいく

 北川は部屋の中にいるのだから、雨に濡れるはずがない。けれども、そのことに「違和感」をおぼえている。雨に濡れるためではないだろうが、雨を実感するために外へ出る。川を見にいく、とはそういうことだろう。
 その途中に

水道の蛇口をゆるく締めて

 ということばがある。なぜ「ゆるく」締めるのか。「ゆるく」とは、どの程度のことだろうか。私は水が静かに流れ落ちるくらいのゆるさを思った。雨の一筋のような。雨は水滴だから「一筋」というのは「比喩」でしかありえないが、その「一筋」というものへ向けて視線が動いていると感じた。
 「川」は「一筋」があつまって、どこからか流れてくる。

川べりに新しい病院が建った

熱でふくらんだ病室という病室が
逆さになって川面で遊んでいる

 「病院」「病室」に目が行ってしまうのは、北川が「病気」をかかえているからかもしれない。「事実」としての病気、「比喩」としての病気。
 北川と「病室」を結ぶ「一筋」のものがあるのだ。それは「川の流れ」を横切って(渡って)、北川と「病室」を結ぶ。
 「病室」に水道はあるだろうか。わからない。あるとすれば、そしてそこに北川がいるとすれば、やはり北川は「蛇口をゆるく締めて」川を見にくるだろうか。
 いま、雨は降っているのだろうか。



 長嶋南子「眠れない」。長嶋もまた「一筋」を書いている。

二階からあかりがもれている
食器をならべて
イスを引く音

笑い声が聞こえる
わたしと息子の声だ
二階には何年も誰も住んでいないはず

浮かない顔をしていた
そんな顔しないで遊びにいったら
と息子がいう
あれ 息子は家を出ていったはず

ここにいるわたしは誰なのか
わたしに息子はいたのか
真っ暗な部屋の中で耳をふさぐ
ひきだしの白い錠剤をさがす

という風景を見ているわたしがいる
その醒めた目つきが
にくらしい

 「一筋」は「いま」と「記憶」を結びつける。そこに「川」は流れているか。感情という川が流れている、という比喩はつまらない。感情とか意味というのは、誰にでもあるものなので(感情、意味をもっていないひとはいないので)、それを目立たせて「論理」にすれば、いつでも「批評」になってしまう。さらに自己を対象化する、メタ認識を言語化する、というような「批評の論理」も、どこまでもコピー&ペーストしていくことができる。
 だから違うことを書く。
 私は最終行で、あっ、と思った。引用するために文字をキーボードで打っているとき、長嶋は、こうだったかな、ふと思った。
 「にくらしい」でいいのか、「にくたらしい」ではないのか。
 私の勝手な思い込み(誤読)だが、長嶋には「にくたらしい」ということばの方が似合っていると、私は思ったのだ。いや、長嶋には「にくたらしい」ということばを言わせたいと、私は願っているのだ。それを裏切るように「にくらしい」。
 「にくらしい」と「にくたらしい」はどこが違うのか。
 正確な違いはわからないが、私は「にくたらしい」の方が「にくらしい」よりも気持ちが強いと思う。「にくらしい」では言いきれないものがあるとき「にくたらしい」ということばが出てくる。「にくらしい」には、ちょっとかわいらしいというか、甘えたような、こびたような感じもある。「にくらしい」と言うことで、あいてに気持ちを受け止めてもらいたい。「にくたらしい」というときは、きっとそういうものがない。
 私はいままで、長嶋を、自分の感情や意味なんか、他人に受け止められなくてもかまわない(受け入れられなくてもかまわない)と思っている人だと、勝手に想像していた。だから「にくらしい」ということばに出会ったとき、はっとしてしまったのだ。
 甘えたいとまではいわないが、甘えられたらどんなに楽だろうなあ、と感じている「さびしさ」のようなものが、最後の一行にある。
 長嶋は、ずーっとそういうものを書いていたのかもしれないけれど、私は、この詩で突然それを感じた。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(31)

2019-11-29 09:24:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2019年11月29日(金曜日)

* (わたしは水を通わせようとおもう)

愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら

 「愛する女」と「多くのひとの心」の対比がおもしろい。「多くのひとの心」と「愛する女の心」は違うのだ。もちろん、それは当然のことなのだが、わざわざ「多くのひと」と書いているところが興味深い。
 このあと「多くの人」は「針鰻」「蛙」「翡翠」という生き物の比喩となり、「蝉の啼いている水源地」へと変化していく。
 奇妙といえば奇妙だが、生き物がいる自然が嵯峨にとっての「ふるさと」なのだ。






*

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「桜を見る会」の暴走

2019-11-29 08:30:26 | 自民党憲法改正草案を読む


写真は、フェイスブックに投稿されていたものである。
菅の発言(字幕)がむごたらしい。


シュレッダー裁断の予約を担当しているのか、裁断の業務を担当しているのかしらないが、もし予約(の申し込み?)から2週間もかかるのだとしたら、それは「障害者」に責任があるのではない。
もしほんとうに担当が「障害者」だったために時間がかかったというのならば、「障害者」を適切な部署に配置できなかった人事上の問題。
できない仕事を「障害者」におしつけて、「障害者」のせいで業務が遅れたというのは変ではないか。

さらに、「障害者」が2週間も懸命に仕事をしているのに、誰も手助けをしないという職場に問題がある。
「障害者」が「すみません、仕事が立て込んでいるので、誰か手伝ってください」と職場仲間に言えない環境だとしたら、これも職場に問題がある。
「無言のパワハラ」が起きていることになる。
「障害者雇用」という名を借りた人権侵害である。

TBSのニュースを私は見ていないので、どういうことばが前後にあるのか、「文脈」がはっきりしないが、「字幕」で見るかぎり、とんでもない発言だ。
菅が自分で考え出したのか、官僚が書いてきた文章を読んでいるだけなのかわからないが、官僚がそういう報告書を書いてきたのなら、「職場点検」(適切な処遇がおこなわれているか、パワハラは起きていないか)を先にすべきだろう。
「障害者」(ひとり?)の人権も守れない内閣に、多くの国民の人権が守れるのか。
自分たち(お友達)が楽しく生きていけるなら、他人の人権(あんな人たち=安倍は都議選の応援演説で、批判する市民を、あんな人に負けるわけにはいかないと発言した=の人権)はどうでもいい、ということだろう。
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白石和彌監督「ひとよ」(★★)

2019-11-28 23:00:31 | 映画
白石和彌監督「ひとよ」(★★)

監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子

 久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
 そして、気がかりどおりの映画だった。
 田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
 唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
 映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
 それで、というのも変な言い方だが。
 このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
 私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
 しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
 そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。

(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)
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「桜を見る会」の決着のつけ方

2019-11-28 13:36:15 | 自民党憲法改正草案を読む

「桜を見る会」の決着のつけ方
             自民党憲法改正草案を読む/番外306(情報の読み方)

 2019年11月28日の読売新聞(西部版・14版)の4面(13S版)の見出し。

「桜を見る会」/反社会勢力の出席焦点/野党 追及の構え

 を読み、思い出すのは、2019年11月14日の読売新聞(西部版・14版)1面の記事である。そこには、こういうことが書いてあった。(番号は、私がつけた。)

①首相は同日、「私の判断で中止することにした」と首相官邸で記者団に語った。
②菅氏は「長年の慣行」として、内閣官房が招待者を取りまとめる際、首相官邸や与党に対して招待者の推薦依頼を行っていたことも明らかにした。

 ここで注目すべきことは「内閣官房が招待者を取りまとめる」ということばである。官邸や与党が「招待者推薦」をおこなったとしても、とりまとめる(整理する、取捨選択する)のは「内閣官房」。だれが出席するかは「内閣官房」の判断ということになる。言い換えると、安倍が誰を、何人招待したかは「不問」にされる。(このことは、すでにブログ「詩はどこにあるか」で書いた。(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/ff179cc5d37c33a83443bcff0d4bf4c8)
 そして、いま、「内閣官房」の「長官」である菅が、桜を見る会で暴力団組員と握手している写真が出てきた。誰が、その男を「推薦」したのか。いちばんの問題は、そこにあると思う。しかし、「誰が推薦したか」ではなく、追及の矛先が「どうして出席できたのか」という「結果論」に向けられている。菅の責任は、どうなるのか。
 それを強調するように、読売新聞は、菅の発言と、立憲民主の安住の発言を「対話」のようにチャート図(?)にしている。(番号をつけるなど、少し加工している。)

①菅「(版社会的勢力の)出席は把握していなかったが、結果的に入られたのだろう。」(26日)
②安住「会に加わっていたと認めた以上、菅官房長官は大きな責任を負った。進退に関わる問題だ。」(27日)
③菅「(反社会的勢力の)定義は一概に言えない。出席していたとは申し上げていない。」(27日)

 安住の追及の仕方に、読売新聞は乗っかるようにして書いているのだが、この論理で行くと、きっと菅を辞任させて、桜を見る会の問題は「決着」という方向に動いているのだと思う。
 招待者を取りまとめた内閣官房の長官、菅を辞任させることで、この問題をかたづけてしまう。安倍が、そういう作戦に切り換え、それをマスコミが追随している。そういう構図が見えてくる。いろいろな問題が起きるたびに、以下に安倍以外のだれに責任をとらせ、安倍を守り抜くかという工作がおこなわれる。そのことに、マスコミも加担しているように見えてならない。
 「反社会的勢力の定義は一概にはない」と菅は言っているが、「桜を見る会」で問題になっているのは菅と握手をしている暴力団組員だけではない。
 共産党・田村が追及している問題に、マルチ商法大手の「ジャパンライフ」会長が出席している(出席を宣伝につかっている)というものがある。(2015年の会だが。)そして、そこには安倍が関係していると「推測」できる。そういう資料を田村は公開している。
 反社会的というか、被害者の多さでは「ジャパンライフ」は暴力団以上かもしれない。その問題は「焦点」にしなくていいのか。
 「焦点」を「暴力団組員」と菅の握手写真に絞って、菅を辞任させれば、桜を見る会の問題は解決するのか。

 いちばんの問題は安倍の関与である。税金をつかって支持者を招待した。選挙活動に利用した。それが問われている。菅の問題も大きいが、ほんとうの「焦点」をすりかえるような「論理展開」には疑問を感じる。菅を辞任させて終わり、という「決着」ではいけないと思う。誰が参加しているかではなく、誰が、誰を、何人招待したか。そして、その目的は何か。それを追及し、明確にしないかぎりは「桜を見る会」問題は決着とは言えないはずである。

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(30)

2019-11-28 08:41:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはかぎりなく慕わしいために)

歩みよることができなかつた
運命がたちどまつてまた歩きだす僅かなあいだに

 詩は、このあと「僅かなあいだ」を別なことばでいいなおすのだが、言い直す前の、この二行を私は「倒置法」の文章として読む。そうしたい気持ちになる。「慕わしいために」という言い方が私にはなじめず、そのなじめなさが倒置法を私の「肉体」に求めてくる。
 倒置法は不自然な文体である。言いたい何かが、正常な文体(?)を突き破って動く。そういう生々しい動きが「慕わしいために」という不思議な言い方をすでに要求しているのだ。








*

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2019年11月27日(水曜日)

2019-11-27 11:08:02 | 考える日記
2019年11月27日(水曜日)

 ものの名。木を木と呼ぶとき、木は木である。しかし、木を別の名で呼ぶときがある。比喩である。そこには木ではない何かがある。つまり、「ない」が「ある」。
 たとえば木を、直立する精神である、と定義(比喩)する。精神は大地に深く根を張り、どこまでも迷い続け、不明なのもがあることを自覚する。その自覚が純粋化され樹液になって幹を駆け上り、枝や葉、さらには花となって開き、散ろうとする。そうことばにするとき、何が起きているのか。
 ことばにする前はなかったものが、つまり「ない」が「ある」として動いている。
 逆に言うこともできるにちがいない。「ある」を「ない」にするのが、ことばである。一本の木があり、花を咲かせている。それは散っていくが、それは「もの」ではない。私の知らないところから生まれ、育ってきたもの、形を変えて動き続けるものを、私は「形」と「名」を借りて「ある」ものと考えているだけで、それは「真実(実態)」ではない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(29)

2019-11-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛というものは)

 「薔薇の新種のようなものだろう」とつづくが、その詩の最後の二行。

もしそれを数え唄にうたおうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 「数え唄」がおわらない。
 私が「不思議(奇妙)」と思うのは、そういう「事実(意味)」のことではない。
 「それを」「それは」と繰り返される「それ」である。
 「それを」は「愛を」であり、「それは」は「数え唄にして歌うこと」である。微妙に違うのだが「それ」という共通のことばでくくられるので、「愛」と「数え唄にして歌うこと」が同じものとしてあらわれてくる。そのとき、「愛」とは「ひとつ」ではなく、どこまでも数え続けられないと愛ではない、という形で復讐(?)してくるように感じられるのだ。







*

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2019年11月25日(月曜日)

2019-11-26 23:49:58 | 考える日記
 「ことば」に本来の意味はない。ほんとうの意味はない。
 ことばには、すでにある意味を否定しようとする、「追加」があるだけだ。「追加する」という動きがあるだけだ。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(28)

2019-11-26 13:18:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (男のかなしさを知るまい)

おもいきり太鼓を打ち鳴らして
大きく胸を張つて歩いていく
だれかきてそのいじらしい機会をすばやくとらえて放りこめ
しずかなしずかな古里の入江に

 「故、長峰英七に」という註釈がついている。
 太鼓を鳴らしたあと歩いていく男の姿を「いじらしい」と呼ぶ。そこに目が(意識が)行ってしまうが、直前の「だれかきて」ということばの方に「不思議」がある。つまり「切実さ」がある。嵯峨にしかわからない「正直」がある。
 「来る」は「男のそばに来る」である。遠くからみつめていることでは「知る」ことにならない。「とらえる」「放りこむ」も「比喩」ではない。つまり、頭で処理する動きではない。そばに「来た」もの、いっしょに生きている人間だけにできることである。
 嵯峨には、長峰といっしょに生きていた時間があるからこそ、こう書けるのだ。








*

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2019年11月25日(月曜日)

2019-11-25 23:38:35 | 考える日記
2019年11月25日(月曜日)

 「ある」と「ない」について書こうとしたが、書けなかった。
 何もない「ある」がある。「無」が「ある」と書いてしまうと、違うのだ。「名づけられたもの」が「ない」。
 何もないは「具象(名)」がないということである。「具象」はそこにはなくて、しかし、「何か」特定できないものがある。そこから「具象(名)」生まれてくる。「具象がある」という状態。「世界」が生まれる。それはたしかに「ある」のだが、それを「ない」と言ってしまうのが、最初に想定された「ある」なのだ。
 もし「実在」するものがあるとすれば、「生まれてくる」という運動(具象を生み出す力)と、具象になった瞬間に「具象はない」と断定する力だけである。
 そのふたつは、ともに「ことば」であって、それ以外のものではない。「ことば」は、そういうことを明らかにするためにある。

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野沢啓『発熱装置』

2019-11-25 20:31:50 | 詩集
発熱装置
野沢 啓
思潮社


野沢啓『発熱装置』(思潮社、2019年10月31日発行)

 野沢啓『発熱装置』の巻頭の詩。その「1」の部分。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 「ことば」が主語/主役である。
 「ことば」は野沢ではない。だから「ことばは放たれたい(放たれることを欲する)」ではない。「がっている」という「ことば」が追加されている。つまり、野沢は「ことばははなたれたいと欲している+ようにみえる」と野沢自身の「立ち位置」を表明する。
 しかし二行目では、野沢は姿を消す。「+ようにみえる」がない。「ことば」がほんとうに「場所をもとめている」かどうかはわからないのに、野沢は「代弁」してしまう。
 三行目はどうだろうか。「ことば」と野沢の関係はどうなっているか。
 「ことば」は「この空間」に「放たれる」ことを願ったか。わからない。「ことば」がそう欲した、そう願ったのではなく、野沢が「放ちたがっている」のである。ことば「を」放ちたがっている。主語(主役)が一行目とは完全に違っている。交代してしまっている。野沢が「能動」として動いている。そして「この空間」を「用意した」のである。「用意された」と「受け身」の表現がつかわれているが、それは自然に用意「される」ものではない。野沢が用意しないかぎり、それは存在しない。
 「誰のものでもないことば」があるとすれば、「誰のものでもない空間」もあるだろう。しかし、その「誰のものでもない」は瞬時に「誰かのもの」になる。その「刻印」が「この」ということばのなかに残っている。
 「この」「その」あの」。「この」は身近なものをさす。「この」と言えるのは、どうしてもこの三行を書いている野沢である。「誰のものでもないことば」はどこに存在するか、それ自体わからない。あるいは存在するかどうかもわからない。そういう不確定な存在が「この」という指示詞をつかうことにはむりがある。

 ちょっと面倒くさいことを書いたが、何を言いたいかというと。
 ここに書かれているのは「ことば」それ自体ではない。「野沢」それ自体でもない。「ことば」と「野沢」が交渉している。そして、その交渉では、「ことば」はみずから何かを発言するということはないので、「野沢」が「ことば」になりかわって発言するということが起きる。
 問題は。
 「誰のものでもないことば」はほんとうに存在するかということがひとつ。だぶん、そういうものはない。だから早くも「2」では「他人のことば」が引用される。

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 このとき「引用されたことば」は、マラルメのものであるけれど、引用された瞬間から野沢が「引用したことば」になる。引用しなくても存在しているが、引用しなければ「この空間」には存在しない。「この空間」が野沢が用意したものである以上、「引用されたことば」は「この空間」に「放たれたがった」かどうかはわからないが、野沢が「放ちたかった」ということであろう。

 あ、こんなことを書いていけば堂々巡りか。
 もっと飛躍して、遠いところから、「ことば」と野沢の「交渉」(関わり合い)を見つめなおした方がいいのだろう。
 「18」まで飛んでみる。

そのひとにしか意味のない方法が
それがことばだ

 「意味」という表現がつかわれている。「ことば=意味」だと仮定して(途中を端折っているので、こういう乱暴を私はしてしまうのだ)、「意味」とはなんだろう。
 「ことば」が指し示すものに「現実/実在」がある。
 たとえば「机」。それは私がつかっている机の場合、木でつくれらている。四角い板がいちばん上にあり、脚がついていて引き出しがある。それをとりあえず「現実/実在」と呼んでおく。「机」の「意味」は、それでは何か。私の場合、「ものを書くときの台」と言えるかもしれない。
 でも別のひとは花を活けた花瓶を置く場所、さらに別なひとはドアが開けられないようにおさえるための「もの/道具」としてつかうかもしれない。「意味=つかい方」は人によって違う。
 野沢が書いていることは、そういうことではない、というのは承知の上で、私は、そういう具合に「ことば」と「意味」の関係を「誤読」する。つまり野沢が書き記したことばを利用して、自分勝手に私自身のことばを動かし、考え始める。
 私は、いつも、そうしている。だから、私の書いていることは詩の感想でも批評でもないことになるが、それはテキストを出発点としているという意味では、何らかの感想や批評でもありうるだろう。
 で。
 私が、ここからさらに考えたことというのは、こういうことである。
 「ことば」は「もの」の存在を指し示すと同時に、「意味」をも指し示す。「意味」というのは「人それぞれ」が何を必要とするかによって違ってくる。ひとは、それぞれの「意味」を生きている。だから「意味」が「共有」されるということはありえないと考えることもできるが、それにもかかわらず人間は「意味」をもとめ、それを共有したがる。このときの「意味」とは「真実」ということかもしれない。
 その「真実」とは、どこにあるのか。もちろんひとりひとりのなかに、そのひとだけの「真実」というものがあるのだろうけれど、そのことを厳密に語り始めると収拾がつかなくなるので、またまた端折って、私は……。

 「真実」というものは「ある」にはあるのだが、それ自体を指し示すことはできない。「意味」はいつでもどこにでも「ある」が、それ自体も直接的に指し示すことはできない。世界が「ことば」によって具体的な「もの」を出現させる。その「もの」としてあらわれた「ことば」を自分で動かすとき、必然的に「自分の意味(つかい方)」と「他人の意味(つかい方)」の違いに出会い、「意味」の修正が始まる。その「修正」作業をささえるもの(許すもの?)が「真実の幅」のようなものなのだ。「意味の修正」とは「間違いの修正」でもあるから、間違うことをとおして「真実」の方向を見出すと言ってもいいのかもしれない。
 「真実」は「ある」。でも、それは明示できない。「方向」として指し示すだけ、つまり、その方向へことばを動かしていくだけ。もし「真実」があるとしたら、そういう「動き(運動)」そのもののなかにある、ということになるだろう。
 で、書き出しにもどる。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 私はこの三行を、ことばは「間違い」から開放されたがっている。「真実」をもとめて動きたがっている、と野沢は感じている。(真実を「詩」と言い直すと、詩について語ることになるか。)
 ことばはすでに語られている。語られていないことばはことばではない。だから「誰のものでもないことば」というのは厳密にはない。ことばとことはの結びつけ方、ことばをつかって、ことば自体を動かしていく「方法」には、誰かの方法というものがある。「文体」と呼んでもいい。また単に、「確立された表現」と呼んでもいい。そのことばは「引用できる」。しかし、引用した瞬間に、それはテキスト(文脈)を失い、別の存在になる。引用したものが、引用に別の「意味」をつけくわえてしまう。別の「意味」になりたがっている、つまりいま「ことば」を拘束している「意味」から放たれたがっていると感じてしまい、どうしても別の「意味」をつけくわえてしまう。ひとはそれぞれ別の人生を生きているからである。引用される前から「別のテキスト」を求めているように感じられたが、引用してしまうと、物のテキスト(意味)になりたいという運動が加速する。これを「ことば」を主語ではなく、人(野沢)を主語にして言い直すと、野沢は別のテキストに組み込みたいからこそ「引用」するのである。そして、自分の「意味」をつけくわえることで、「真実」というものに近づこうとする。
 そして、その運動の場が、野沢の場合、この詩という空間なのだ。
 「運動」というのは熱を発する。「発熱装置」と野沢がこの詩集を呼んでいるのは、そういう意味、比喩なのだろう。



*

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