詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐「片時雨」ほか

2012-07-31 10:15:22 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「片時雨」ほか(「どぅるかまら」12、2012年06月10日発行)

 きのう河邉由紀恵の「あま水」の感想を書いたとき、つづけて瀬崎祐「片時雨」の感想を書くつもりでいた。ところが河邉の詩への感想が長くなって、瀬崎の感想を書いている時間がなくなってしまった。(私は目が悪いので時間を区切って書いている。)で、きょう書こうと思って読み返すと、きのう書こうと思ったことが少しも思い出せない。河邉の感想を書くことで、もう書いた気持ちになってしまったのかもしれない。でも、何か書いてみようか……。

雨が降っている 恩人を裏切ってきたお前と一緒に露天風呂につか
っている 雨は露天風呂に降っている 身体をあたため ながれる
ものをそこにあつめようとしている 雨に濡れて ながれようとし
ないものは 冷たくなって足のあたりにぐにゃりと横たわっている

 河邉の詩には、「りん月」ということばはあるが、とりたてて「肉体」を描いているわけではない。それでも「肉体」を感じる。
 瀬崎の詩には「身体」ということばがあり、「足」ということばもある。「あたため」ということばの一方「冷たくなって」ということばもある。それなのに、「肉体」がとても遠い。「露天風呂」なのに「裸」が見えてこない。まあ、瀬崎の裸が見えてきたら困るかもしれないけれど。
 そして、それは実は瀬崎が「露天風呂」にいながら、実は裸になっていないからである。「恩人を裏切ってきたお前と一緒に露天風呂につかっている」。「私(瀬崎、ということにしておく)」は「恩人を裏切ってきた」のだが、それを「お前」と呼ぶことで対象化している。そのとき瀬崎は自分の裸ではなく、「お前」の裸を見ている。
 で、「私」を「お前」と対象化した上で、ややこしいことに「一体化」をめざしている。「身体をあたため ながれるものをそこにあつめようとしている」の「そこ」というのは、後で出てくる「足のあたり」かもしれないし、その先の方かもしれないが、よくはわからない。身体をあたためながら、意識を(視線を?)そのあたりに固定して(そのあたりをぼんやりと、しかし視線をさまよわせずに)見つめ、あれやこれやを思い返している。そうすると「ながれようとしないものは 冷たくなって足のあたりにぐにゃりと横たわっている」ように見える。「お前」はそんなふうに見つめている--と「私(瀬崎)」は描写する。
 うーん。この二重性。二重の肉体を描き、その隙間(?)に空虚な意識を展開して見せる。披露した意識を拡大して見せる。--まあ、そういう「抒情詩」なのだと思うのだが、どうもね。どうも、読んでいて楽しくない。空虚な意識が「楽しい」であってはいけないのかもしれないが--つまり、そういう意味では瀬崎の詩は、つまらないことをつまらないまま書くという抒情詩をきちんと書いているということになるのかもしれないが、うーん、わくわくしない。

どうせ堕ちていくのなら 雨滴にでもなろうかと思う 雨滴は涙の
ような形に描かれるが あれはまったくの嘘だ 雨滴となって堕ち
ていくときはいろいろな苛めをうけるのだ それを忘れたとはいわ
さない だから堕ちていくとき 顔面は風圧でひきのばされている

 ここにはもう「お前」はいない。「お前」と「私」の区別はない。自分を対象化していない。こんなに早く自己対象化をやめてしまうなら、最初から、「恩人を裏切ってきた私は露天風呂にいる」と書けばよかったのになあ、と思う。そうすれば、「お前」と「私」のあいだに「抒情」が割り込み、「肉体」をどこか遠くへ押しやるということもなかったのになあ、とも思う。
 でも、瀬崎の書きたいのは「肉体」ではなく、「意識=抒情」だから、まあ、こう書くしかないのではあるのだが「堕ちて(堕ちる)」「涙」「嘘」は、あまりにも抒情抒情していないかなあ。
 それがなんだかいやだなあ。

 で、少し、きのう考えたことを思い出すのだが……。
 河邉の詩には「りん月」の「むすめ」が出てきた。でも「階段を降りるのがむすめなのか私なのかよくわからない」。--あ、こんなこと、絶対にありませんね。現実では。むすめの肉体と私の肉体は同じではないから、階段を降りるのがどちらかわからないということは絶対にない。ないのだけれど、ことばにしてしまうと、その瞬間、それがありうることになる。
 変だよね。
 でも、その「変」を河邉は「びたらたら」だの「うとりうとり」だのの奇妙なことばと、「おもい(重い/思う)」だの「ゆらせる」だの「ぬるむ」だののことばでごまかして(?)、読者をだましてしまう。「いけないいけない」「あま(い)」何かで、「肉体の枠」を溶かしてしまう。そして、そこに「むすめ=私」が登場してきて、読者を、いままで見たことのない世界へと引き込んで行く。
 瀬崎が「意識」によって自己を対象化(二重化)した。逆に、河邉は「肉体のなかにある明瞭に言語化できない感覚」を外にあふれださせることで、「むすめ」と「私」を、「ひとりの女」にしてしまった。
 そうすると。
 河邉は「裸」を描いているわけではないのだが(露天風呂に入っている姿を描いているのではないのだが)、ね、「はだか」が見えてくるでしょ? 「肉体」の原型がまじりっけなしの輝きであらわれてくるでしょ?
 こういうまじりっけなしの「はだか」というのは、いわばギリシャ彫刻のビーナスや西洋絵画の裸体と同じであって、もちろんそういうものを対象としていやらしいことを考えてもいいのだけれど、そうじゃなくて、「あ、美しいなあ。この輝きはなんだろう」と思ってもいい。
 どっちにしようかな、とその日、そのときの気分によって適当に「誤読」して楽しみ--そういうことが、まあ、詩を読むということかなあ。



 秋山基夫「布引の滝を想像する夜」の1連目。

急な坂道をうつむいて登っていくと大きな木の蔭から白い帽子の人が現われ顔
を確かめる間もなくそのうしろ姿が坂道の底に消えてしまった。たしかに知っ
ている人だったがどうしても思い出せない。

 ねじれたような、強引なことばの動きがいいなあ。1行目は、

急な坂道を(私が)うつむいて登っていくと(、)大きな木の蔭から白い帽子の人が現われ(、)(私が、その白い帽子をかぶった人の)顔を確かめる間もなく(、)その(白い帽子をかぶったひとの)うしろ姿が坂道の底に消えてしまった。

 ということになる。「私(仮に秋山としておく)」と「白い帽子の人」の二人が登場するのだが、読点「、」のない文章のなかで二人が無意識(?)のうちに交代するようにして動いていく。で、無意識(?)であるからこそ、というのか、その無意識が無意識であることを明確にするようにして、といえばいいのか……。

たしかに知っている人だったがどうしても思い出せない。

という具合に世界が「一体化」する。明瞭にわかる部分(白い帽子の人がいる)と、不明瞭な部分(その人がだれか思い出せない)が一体になってしまう。
 あら、うまい。

 人と人--複数の人間の描き方、それと「私」との関係の書き方は、河邉、瀬崎、秋山の3人では、こんなにも違う。




風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社


秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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河邉由紀恵「あま水」

2012-07-30 10:24:43 | 詩集
河邉由紀恵「あま水」(「どぅるかまら」12、2012年06月10日発行)

 河邉由紀恵「あま水」は「雨水」あるいは「天水」なのかもしれないが、私には「あまい(甘い)水」のように感じられる。

あま水がびたらたら

と南の窓をつたいおちてくるひるま
りん月のむすめがこの家の二階でうとりうとりして
いるから重いおもい春がおもいミモザの花のつぼみ
がふくらむうちに

私たちは似てきている

 書き出しは「雨水が(び)たらたらと、南の窓を伝い落ちてくる昼間」と書き直すと、雨が降っていて、その雨が南の窓を伝い落ちてくる風景が見える。時刻は昼間。明るい光--かどうかはわからないけれど、まあ、暗くはない情景である。「臨月の娘」が「二階でうとりうとり」昼寝をしているのだろう。けだる、重い感じ。ミモザの黄色い色が春の雨にぼんやりと濡れている。そのぼんやりが、膨らんだ感じに見えるのは、臨月の娘の肉体の感じが反映しているからかもしれない。
 --というのは、普通の読み方なのだろうと思う。「臨月」「つぼみ」「ふくらむ」「重い」が重なるようにしてことばの「あいまいな」領域を広げていく。
 「うとりうとり」は「うとうと」「こくりこくり」がいっしょになったものかなあ。ちょっと変(?)だけれど、まわりのことばの少しずつ変(?)なものに影響されているので、それほど変とは感じず、「うとりうとり」を受け入れてしまい、やっぱり春の情景、とぼんやりと感じるのだが。

 でも、私がこの作品を読んで、おもしろいなあと思ったのは、そういうことではなくて。いや、そういことなのかもしれないが。

あま水がびたらたら

 この書き出しというか、「あま水」。その「あまい」感じ。これは、砂糖の甘さという「味覚」の問題ではなく、その「甘い(甘さ)」のもっていることばの、あいまいさと関係しているのだが。
 (どうも、きちんとしたことばでは言えない。)
 「あまい」は「甘い」。砂糖の「甘さ」が、まあ、代表的な「意味」なのだろうけれど、ほかに「ゆるやか」というような意味がある。厳しくない。チェックがあまい。戸締りがあまい。意識があまい。
 で、それが、

あま水がびたらたら

 とつづくとき、私には「雨水が、びたらたら」ではなく「雨水(あえて漢字で書いておく)」「がびたらたら」と奇妙な形にことばがねじれる。「びたらたら」ということばを私は知らないからかもしれない。(そういうことばを私はつかわない。)
 じゃあ、「がび」ということばをつかうのかといわれれば、つかわないのだけれど。
 なぜ、そんなふうに感じるのかわからないけれど、どうも「雨水が(び)たらたら」という具合には、つまり、意味が通じるようには読みたくない、という気分にさせられるのである。

 ここには、ふつうのことばではないことばが書かれているぞ、と感じる。そのふつうじゃない、が、詩なのである。
 ことばは「意味」の厳格さを逃れて、「あまい」部分で動いている。その、厳格を無視したところに、変な言い方になるが、私は「肉体」を感じるのである。
 「肉体」というのは、精密なものだけれど、同時に「あいまい」というか「あまい」というか、ゆったりしたところがある。わけのわからないものをのみこんで消化してしまうところがある。
 それが冒頭の1行からはじまっている。
 「うとりうとり」については先に書いたけれど、「りん月」という表現も、みょうにあいまいである。「臨月」でいいはずなのに、そう書かない。「隣月」なのかもしれない。「臨む」と「隣り」は、どこか似ている。「臨海」とは海に臨んだ場所だが、それは海の「隣り」でもあるからね。で、「臨月」というのは出産が近づいた月だけれど、この近づくは「隣り」にくる、すぐつながっている、という意味でもあるからね。
 そして、この「臨=隣」は、娘と母との「接続」と「切断」の感じにも通じるなあ。

私たちは似てきている

 ではなくて、「臨=隣」という形で「一体」になるということだろう。だからこそ、次の連で、

ゆりゆりと花つぼをゆらせて
階段を降りるのがむすめなのか私なのかよくわから
ないけれど

 ということばがやってくる。
 この区別のなさ--これは、やはり「あまい(甘さ)」だね。

なの花のにおいぬるんで

春のあま水がとっぷりと
この家をぬらすなんねんもなんねんもぬらしている
いけないいけないあま水のなかであおい茎がのびて
ゆくつめたい魚が泳ぎだす

 「ぬるんで(ぬるむ、ぬるい)」も「あまい」に通じるなあ。あいまいである。
 そして。
 「なの花」が、「あま水」「りん月」のように、あいまいである。「菜の花」を想像すべきなのだろうけれど、「なんの花」と思ってしまう。菜の花でいいの? 
 その前にでてきた「ゆりゆりの花つぼ」の「ゆりゆり」って何? 百合を連想してしまうなあ。ミモザ(黄色)の花の「つぼみ」、ゆりゆり(百合の複数形?、白い色)の花の「つぼ」み? 百合のつぼみは細長い壷のようでもあるなあ。
 黄色→白と動いたものが、「菜の花」と黄色にもう一度もどる?
 なんの花かわからないけれど、黄色でも白でもない色になってほしいなあと思うから「菜の花」ではなく「何の花」と読んでしまうのかもしれない。

 ほんとうは、もっと違うことを書きたい。

なの花のにおいぬるんで

 変な一行だよねえ。なぜ変なのかなあ。主語を指し示す「助詞」がないからだ。「菜の花のにおい(が)ぬるんで」の「が」がない。
 そして、そのかわりに「な行」のゆれうごきがある。「な」の花の「に」おい「ぬ」るんで。
 うーん、なんだか、ことばが「ぬるぬる」といっていいのか「ぬらぬら」といっていいのか「ぬめぬめ」といっていいのか、変な感触になってくる。さわっている感じがあるけれど、向こう側から「厳格な」何か、固体の明確さがつたわってこない。
 何かが逃げていく。
 「ぬらすなんねんもなんねんもぬらしている」を「濡らしている何年も何年も濡らしている」と書いてしまうと、何か違ってくる。
 ぬらしてぬらして、ぬらすなんて、「いけないいけない」とわかってるけれど、「あま(い)」誘惑があるなあ。そのなかで「あおい(あまい)」何かがのびる、つまり育っていく……。

 そんなことは書いてませんよ--と河邉はいうだろう。
 でも、私はそんなふうに「誤読」したいのだ。そんなふうに「誤読」するとき、ことばの肉体をとおして、河邉の肉体が見えてくる--というのは「厳格な解釈」ではなく、私の「幻覚」なのだが。

 ちょっと脱線して……。
 私の「現代詩講座」では、よく、このことばを自分のことばで書き直す(言いなおす)とどうなる? という質問を受講生にしてみる。
 河邉の詩には、わかったような、わからないようながつまったことばがたくさん出てくる。「びたらたら」「うとりうとり」も、「河邉語」から「日本語」に翻訳するとどうなるかな? そのことは、もう書いたので。
 私が聞きたいのは。

春のあま水がとっぷりと

 この「とっぷり」。
 さあ、何といいなおしてみます?

 最終連も変ですよ。

うぼうぼうぼとあま水を
すいながらこの家をゆっくりと泳いでいるそれから
南の窓の下にうずくまりそのふところにやわらかな
ふたごをうんでゆく

 「うぼうぼうぼ」はわけがわからないけれど、最後の「うんでゆく」。これは? 「産んで行く」「倦んでゆく」。どっちでしょう。
 「意味」としては「産んで行く」なのだろうけれど、そこに「倦んで」が重なる。そうすると、ことばが妙に「あいまい」になる。あまくなる。ぬるくなる。
 そこが、おもしろいんだね。



 書き損ねたことの「補足」。
 今回の私の引用は全行ではない。同人誌で確かめてもらいたいのだが、1行+4行+1行+4行、という形式がある連の構成になっている。さらに4行の連は、中央の2行が文字の数が同じで長い。前後の行は中央の行より文字数が少ない。そういう「定型」になっている。この「定型」をまもるために、ことばが余分につかわれたり、造語(?)がつかわれたりしている。
 形の明確さ、それに反して音の(意味の)不明確さ。
 ふたつが交錯しながら、うーん、変だなあと思う。その「変」の部分が、河邉なのだ。

 (5月-7月は、福岡大病院、慈恵会医科大病院、滋賀医科大病院と「検診」行脚をしたが、結局、私のような症状を訴えてくる人はいないようで、対処方法がわからないまま。「詩はどこにあるか」も飛び飛びになってしまったが、8月からは、なんとか休まずに「日記」を書きつづけたい。)




桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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ハニ・アブ・アサド監督「クーリエ(過去を運ぶ男)」(★)

2012-07-29 11:18:43 | 映画


監督 ハニ・アブ・アサド 出演 ジェフリー・ディーン・モーガン、ジョシー・ホー、ティル・シュヴァイガー

 映像の色調が黒く冷たい感じで統一されている。登場人物は少ないわけではないのだが、その他の人物(エキストラ)が少ないので、これは変だなあ、と思ってしまう。ニューオリンズが舞台だが、街に人がいない。それが非常に奇妙なのである。
 まあ、この奇妙な雰囲気、情報量を極端に抑え、画面もカメラの力で押さえつけている感じは、「クーリエ(過去を運ぶ男)」という謎めいたというか、気取ったタイトルにはぴったりなのだが……。
 男に持ちかけられた仕事というのが「シーヴィル」(だったと思う)とかなんとかという聞き慣れない名前の男を探し出し、鞄を届けるというもの。この、なんとも不思議な仕事というよりも、私は、「シーヴィル」という繰り返し出てくる名前に、とても変な感じを持ってしまった。一回かぎりならそうでもないのだろうけれど、何度か出てくる。そこに「秘密」があるということは、うすうす感じられる。
 で、ね。
 私の感想は「ネタばらし」をして書いてしまうのだが、こんなひどいトリックは映画ではない。
 昔、クーブリックの「シャイニング」に「レッドラム」ということばが同じようにつかわれていたが、ちゃんと伏線として生きていた。子どもが鏡を見ながら、鏡のなかの自分と話す。そのとき「レッドラム」と口にする。一種の「予言」だね。子どもには「未来」ガ見える。そして、それは「鏡」に映っている。鏡文字なのだ。「レッドラム」は「マーダー」。これが、あの水平にすーっと動く揺れのない映像で展開されると、ぞくぞくっとするねえ。いま思い出してもこわい。いちばんこわい映画だ。
 脱線した。
 「シーヴィル」も鏡文字。エルビスである。(ほんとうの名前は、シーヴィルなんとかかんとかというのだが、どっちにしろ、まあ、エルビスのライブショーと関係があるということだけわかればいい。)--で、この映画がひどいのは、それを最後の最後になって、突然、秘密は「鏡文字にありました」というところである。実際、そこに突然「鏡」が出てくる。その直前にも、「エルビス」役の男が鏡をつかって扮装するところが出てくるが、主役の男と鏡の関係は、それ以前には出てこない。出てこなかったと思う。--つまり、「鏡」の伏線がなかった。シャイニングには最初から「鏡」がキー・アイテムとして登場していた。映像化されていた。
 で、この「鏡文字」の「エルビス」の登場によって、男は、実は、鏡に向き合うようにして自分の過去と向き合い、過去へ旅していた。そこには、男の隠された秘密があった……。という具合にストーリーは急展開する。
 まあ、それはそれでいいさ。映画なんだから、どんなふうに観客をだまそうと、それはそれでいいのだが、と言ってもいいかもしれないけれど。
 ひどいなあ。あまりにも、ひどい。
 これって、この展開の仕方、謎解きというのは、映画じゃなくて「小説」でしょ? しかも、英語の小説。日本語の字幕「シーヴィル」からエルビスはとても遠い。小説ならSIVLE→ELVISは鏡文字というか、逆並びは想像がつくが、日本語じゃわからないでしょ? 
 まあ、それやこれやで日本語のタイトルも「運び屋」や「配達人」では説明不足と感じ「過去を運ぶ男」という謎解きのための補助線を仕組んだのだろうけれど。
 ひどいね。がっかりだねえ。
 ジェフリー・ディーン・モーガンは、私は、スクリーンで見た記憶がないのだけれど、なかなかいい男である。かげりがあって、しかも線が細くない。目が大きいのだが、その目に憂いがある。哀愁がある。簡単に言うと、男臭い色男である。それが一生懸命肉体をつかって演技する。アクションが人間ぽい。トム・クルーズやなんかのように身軽で軽快ではない。そういう男が拷問にあって苦しむシーンというおまけまでついている。色男が血まみれになって苦しむというのは、何かぞくぞくさせるものがある。--こういう部分が、この映画の手柄である。そのいちばんの見せ場(?)にあわせて、全体の色調も統一する。そして、その色調の不思議な統一によって、これは実際の現実ではなく、ある特定の視点から見た世界ということを象徴するという具合に、とても手が込んではいるのだが……。
 しかしなあ。やっぱり「シーヴィル→エルビス」というのは、いくら舞台がニューオリンズといったって、日本人の観客には最後の最後までわからないよなあ。アメリカ人にだって、音を文字化するという習慣がない人にはわからないと思う。
 原作があるのかどうかわからないが、「小説」を「原文(英語)」で読むなら、この「謎解き」アクションはそれなりにおもしろいと思う。

 ジェフリー・ディーン・モーガン。こんな色男がいたのかと、確認するだけになら見てもいい映画。色の統一感から映画のテクニックを学ぶということの参考にもなるかもしれない。でも、この映画から映画のカタルシスを期待して見にゆくとがっかりします。
                        (2012年07月28日、中州大洋4)



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広岡曜子『冬のことづけ』

2012-07-28 10:33:59 | 詩集
広岡曜子『冬のことづけ』(水仁舎、2012年06月12日発行)

 広岡曜子『冬のことづけ』は父親の介護の日々をことばにしている。「庭」という作品に、相沢正一郎、粕谷栄市の詩で読んできた「繰り返し」につながるものがある。別の変奏がある。

庭は 外の世界との
ゆるやかなつながりだと読んだことがある

中庭の飛び石は
受け継がれてきた棕櫚竹の
かすかな葉ずれとともに

晴れた 秋の空に
つながっているのかも知れない

 「庭は外の世界とのゆるやかなつながり」というのは、家(内)と外(家以外、社会)とのことを指すのだと思う。「家(内)」が広岡の詩では省略されているのは、「家(内)」というものが広岡にはことばにする必要がないほど肉体に密着しているからである。肉体から分離できない。思想になっているからである。
 だから、

晴れた 秋の空に
つながっているのかも知れない

 というとき、それは単に「家(内)」が秋の空とつながるという意味ではない。秋の空を見つめる広岡の肉体そのものが、やはり秋の空とつながるのである。
 そして、この「つながり」というのは、線としてつながるのではない。「つながり」というより「一体」になるという感じである。区別がなくなる。自由に、そこを行き来する。「つながり」という場そのものに「私(広岡)」がなってしまうということである。
 私(広岡)の肉体から離脱し、同時にその離脱することが肉体である、という瞬間。
 そこは、また、新たな「つながり」の場、「つながり」の時間でもある。

父が一日中テレビの前に座って
自分の行く末を じっと案じていた椅子

もっと昔は
祖父祖母 父母 姉とが
日々の暮らしをしていた家

 「つながり」を広岡は、そこで発見する。いや、思い出す。
 「家(内)」が「外」につながっていると同時に、「家(内)」はさらに「内」とつながっている。「過去」とつながっている。そして「過去」というのは過ぎ去った時間ではなく、「いま/ここ」にある時間である。
 父が椅子に座っていた姿を思い出すとき、父はそこにいる。祖父母を思い出すとき、祖父母はそこにいる。「もっと昔」とことばでは言うことができるが、思い出すとき「昔」と「もっと昔」の隔たりはない。「つながり」の「距離」がない。「いま-昔-もっと昔」はひとつの時間のなかで凝縮している。
 「つながり」は「ひろがり」を意味することが多い。「つながる」は「ひろがる」である、ということは、たとえば、私と広岡がフェイスブック(ネット)で「つながる」ということは、私の交遊関係が「ひろがる」ということである。それは「空間の拡大」である。あるいは「自己拡大」という具合に言うことができるかもしれない。(鈴木志郎康なら「自己拡張」というかもしれない。)
 けれど、「時間」の場合、それは単純に「拡大/拡張」とは言えない。たしかに時系列を直線で図式化すれば、それは拡大というか延長線上に表記できるけれど、友達の輪のように、「あっち」と「こっち」という具合に肉体を運んで行って、その「ひろがり」を確認するようなことは、時間の場合できない。(タイムマシンがないので、いまのことろは。)時間がつながるということは、時間が「肉体」の内部で輻輳すること。同時に複数存在することだ。時間は一秒一秒過ぎ去っていくものだが、思い出すとき、それは「一秒以内(一秒よりも短い時間)」で「昔」も「もっと昔」も瞬時にあらわれ、「いま」と同時に存在してしまう。
 この不思議な「つながり」。
 これを広岡は、「祖父祖母 父母 姉」ということばで、さらりとつなぎとめる。把握する。

 「庭は外の世界とのつながりである」ということばを繰り返し、その文のなかから「つながり」を引き取り、その「つながり」を繰り返しにみせかけながら生き直す--そのときに、「つながり」が少し変化する。異質なものになる。それは広岡が意識的にやっているのではなく、広岡のいまの肉体が無意識にやってしまう必然というものなのだが、だからこそ、それがおもしろい。
 この異質性は、相沢が書いていた清少納言の「動詞」を繰り返しながら、その動詞に「現在」をつなげるときのおもしろさと、似ているけれど、少し違う。相沢の場合、そこには「頭脳」が入ってくる。つまり意識的だ。そういう意味で、まあ、清少納言的だ。
 広岡の場合、無意識である分、それは「個性」よりも深い部分--変な言い方だねえ、ほんとうはもっと別な言い方があるのだと思うけれど、いまは思いつかない--つまり、私たちの暮らしのようなものを潜り抜けて近づいている。
 簡単に言うと、あ、この世界は知っている、こういう暮らしがあったということを肉体に思い出させる形、そういう「普遍」(ありふれた日常)を通ってやってくる。
 まあ、そこが「庭」といえば、「庭」なのかもしれない。広岡を家(内)と仮定し、そのたの人々を外と仮定した場合。

 つまり。

その気配は
ふとしたときに色濃く私の前にあらわれては
また 何処かへ静まっていく

仏壇に
裏庭の満開のアベリアを切って供える
地味な白い花からは
むせかえるほどの芳香が満ちて

玄関先に立つ
人の気配がする

 「気配」。亡くなった人の気配。亡くなった人の霊が家に帰ってくる。自分の前にあらわれる。それは私(広岡)とその霊とに「つながり」があるからだ。「つながり」をたどって、そういうものがふっとやってくる。「気配」として。
 --この宗教観(?)は、広岡の個性ではない。むしろ日本の暮らしに根付いている「普遍」のようなものである。
 そういうものと交錯し、一体になる。
 1連目の「つながり」が3連目で少し変化し、そこからさらに変化して「先祖」へとつながる。家を此岸(内)、死後の世界を彼岸(外)と定義し直せば、まあ、そういうことになるのだが、こういう再定義なんて、ふつうはしない。しないまま、そういうことをつかみ取る具合にことばが動いていく。そして、その変化は、不思議なくらい「強引」という感じがしない。そういう部分が、広岡のことばの、たぶんいちばんおもしろいところだと思う。




落葉の杖
広岡 曜子
詩学社
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粕谷栄市「西片町」

2012-07-27 10:20:50 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「西片町」(「歴程」580 、2012年07月10日発行)

 粕谷栄市「西片町」は、マンネリ作品である。いつもと同じことが、いつもと同じように書かれている。

 夏の日、涼しい縁側で、片肘をついて、寝転んでいた
い。久しぶりに、おふくろのいる家に戻って、何もしな
いで、ゆっくりしていたい。
 一人前の左官職人になって、間もない私は、その日は、
仕事の休みの日だ。何もすることがないし、したいこと
もない。ただ、ぼんやり、横になって、片肘をつき、垣
根に咲いている、青い朝顔の花を眺めていたいのだ。

 「何もしない」「何もすることがない」「したいことがない」。「ぼんやり」と何かを「眺めていたい」。そして、そこでは「片肘をついて」ということばが繰り返される。「寝転んで」は「横になって」と言いなおされる。「夏の日」は「朝顔」と言い換えられて説明される。
 同じことばを何度も使い、「何もすることがない」「したくない」を少しずつふくらませている。
 そうして、

 考えていることといえば、まだ、よく知らない娘のこ
とだ。娘は、たしか、自分と同い年で、片西町の蕎麦屋
につとめている。色が白くて、小さい尻をしている。

 何もすることがないまま、「よく知らない」だれか、何かのことを考える。これも粒来のこれまでの一連の作品と変わらない。「よく知らない」くせに、「色が白くて、小さい尻をしている」とよく知っていることが紛れ込んでくる。それはほんとうに知っていることなのか、そうあってほしいと思っているから、思っていることに合致したものをみつけだしてきた結果なのか、よくわからない。
 で、この不思議な「現実」感覚から少しずつずれて行って、最終段落。

 思えば、この私には、一生、そんな日はないのだけれ
ど。夢のなかの西片町の蕎麦屋に行くこともないのだけ
れど。もう、とっくに死んでいて、どこかの寺の墓石の
下で、若い左官屋の幻をみているのだけだけれど。

 死と幻と夢。区別が相変わらずつかない。そういう境地へたどりつく。何度こういう作品を読んできたかわからない。何も変わらない。マンネリである。

 と、いう具合に批判するのは、とても簡単。
 しかし、実は、そういうことではないのだ。

 粕谷はたしかに同じこと(抽象化すれば、区別のつかないパラレルなことばの運動)を繰り返し繰り返し書いているのだが、繰り返しのなかで人間がたしかになっていくのである。すこしずつ膨らんできて、重さを増して、動かない「手応え」のようなものになっていくのである。
 きのう読んだ相沢正一郎の詩では、清少納言が反復されていた。反復することで、相沢は清少納言になり、また相沢の父も清少納言になる--と同時に、歴史をこえる(歴史をわかる、時間をわたる)人間になる。そして、そのときのことばは、やはり歴史を超え、時間をわたる--つまり、永遠、というものが一瞬、そこに見えてくる。
 「興ざめしたり」「怒ったり」ということが、「ある」というものに変わる。この「ある」というものを、別のことばで言うのはむずかしくて、いまの私にはできないのだが、私はようするに、そこに「興ざめする」とか「怒る」という「動詞」が動くのを感じる。動くことによって、動詞が動詞になる--その「いま/ここ」を感じる。
 それと同じようなことが、粕谷のことばの運動から感じるのである。死と夢と幻が「ある」。そういうものを私も一瞬夢想することがあるし、そういう詩も粕谷の真似をして書いてみたことがあるように記憶しているが、私は粕谷のように、それを繰り返せない。マンネリにできない。あきてしまう。しかし、粕谷は、そういうことにあきない。それしかないのだ。そうして、その繰り返しによって、粕谷は詩人になるから、詩人で「ある」にかわる。詩は、そのとき、不思議な光につつまれる。ことばなのに、ことばを超えて、何か「ある」ものに「なる」。そして、そこに「ある」。

 私のことばは説明足らずだと思うけれど。私は、まだ、そのことを適当なことばでいうことができないのだけれど。
 そういう「ある」は、あるのだと思う。
 そういう「ある」を感じさせてくれる詩は、詩人は、おもしろい。繰り返されているのは、基本的な「動詞」、ことばの運動--そのエネルギーが「ある」のかもしれないなあ。「ある」エネルギーを感じるとき、どきどきするなあ。それを感じたくて、詩を読むのだなあと思う。




遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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相沢正一郎「日記」

2012-07-26 10:33:47 | 詩(雑誌・同人誌)
相沢正一郎「日記」(「歴程」580 、2012年07月10日発行)

 相沢正一郎「日記」の2段落目。

 わたしもまた清少納言のように<車窓で別れの挨拶をした後も、なかなか出発しない電車>に興ざめしたり、<自転車の買い物籠に捨てられていた空き缶>に怒ったり、<コートの袖口のぶらぶらのボタン>が気がかりだったり……。

 この連では、詩、とどこにある。詩を新しい視線がとらえた新しい「もの」、そのことばと定義するなら<>のなかに入っていることばが、詩になるかもしれない。
 <車窓で別れの挨拶をした後も、なかなか出発しない電車>はたしかに言いえて妙である--と言いたくなる。実際、軽い気持ちで、そう言ってしまいそうである。まあ、たしかにそうではあるのだけれど。そして清少納言の書いたものは、そういうちょっと言いえて妙、誰もが気づいているのだけれど、きちんとより分けてていねいに分類しなかったものを、ていねいに整えて提出するおもしろさがあるのだが。
 でも、私は、その部分ではなく、「に興ざめしたり」「に怒ったり」「が気がかりだったり」がとてもおもしろいと思う。ここに詩があると思う。
 < >のなかのことばは清少納言とは重ならない。つまり、「新しい」。「新しい」野多けれど、「古い」。たしかにだれかがしっかりことばに定着させたものではないけれど、まあ、どこかで見たような雰囲気がある。だからこそ、その手際になんというか「ていねいなより分け」のようなものを感じ、あ、いいなあ、と思うのかもしれないが。
 一方「に興ざめしたり」「に怒ったり」「が気がかりだったり」に新しさは何もない。ただ、誰もが感じる感情の動きが、誰もがつかうことばで書かれている。
 しかし、しかしですねえ。ここに「繰り返し」がある。それは私たち(だれもの)の経験の繰り返しであるだけではなく、清少納言の経験の繰り返し。で、それを繰り返すとき、「私たち(だれでも)」が浮かび上がってくるのではなく、なぜか、清少納言が浮かび上がってくる。
 あ、そうか、こんなふうにして「過去」を「いま」に甦らさせる方法があったのか、という不思議な驚きがある。
 同じようなことばの動きが後半にも出てくる。

 父の日記を読んだとき、父もまた、<潔くわれずに、いびつになった割り箸>に苛立ったり、<ふるい本に挟まれていた演劇のチケットの半券>をみつてけ懐かしがったり、<靴下のかたっぽをさがしまわっ>て癇癪をおこしたり、<茶柱の立つ熱い湯呑み>にしあわせを感じたり……。

 < >の外の部分、いわば「地の部分」といえばいいのかな? それは詩のことばというより、散文のことばなのかもしれないけれど、やはり「繰り返し」がある。そして、それは繰り返しであるのだけれど、その前にある< >によって、繰り返しが同じものではなく、「差異」として浮かび上がってくる。
 「差異」は< >のなかのことばにこそある、という見方がほんとうなのかもしれないけれど、私には、逆に見える。< >は清少納言を現代風に、あるいは父親風にコピーすれば「必然」として姿をあらわす。繰り返しは、コピーに見えて実はコピーではない。そのつどの「更新」なのである。繰り返すことによって、前に進んでいる。その前に進む力がそこにある。
 だからね、これを、詩、と呼ぶのである。私は。 

 (体調不慮、短い感想でした。)


テーブルの上のひつじ雲/テーブルの下のミルクティーという名の犬
相沢 正一郎
書肆山田
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細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」(★★★★★)

2012-07-25 10:15:14 | 映画

監督 細田守 出演(声)宮崎あおい

 予告編のときから、これは傑作、わくわく、見たい見たい見たい見たい見たいという感じでドキドキしていたのだが、実際に見て、見せたい見せたい見せたい見せたい見せたいと叫びたくなる。だれに対しても、見て見て見て見て見てと言いたくなる。
 どこを取り上げてもいいのだけれど、予告編から大好きだった雪のシーン。真っ白な、だれも足跡をつけていない雪の山で子どもたちと母親が遊び回るシーンがすばらしい。走り回っているうちに、子どもたちが野生にかえり(?)、おおかみになる。走るだけではなくサーフィン(?)みたいに雪を滑る。スキー、いやスノーボードという方が適当なのかもしれないけれど、どうもそれとは違う。スキー、スノーボードだと、ほら、雪にあいすぎるでしょ? そうではなくて、それは雪であるけれど雪ではない。まったく新しい自然。だから、雪山でやるサーフィン。(まあ、スノーボードを思いついたひとは、ゲレンデでサーフィンしようと思ってなのかもしれないけれど。)このときのリズム感、スピード感がとてもいい。いっしょにスクリーンのなかで遊び回りたい。
 あの斜面はあそこの山、あの木はあの山の木、あの川、あの水の冷たさは、あの川--と昔遊んだ野山のすべてが思い出される。絵かかれている雪山のすべてを見た記憶がある。50年前の私に戻ってしまう。映画の舞台が私の古里に近いこともあるのかもしれないけれど。
 それから、このときの青空が実にすばらしい。大雪のあと、この映画が舞台になっている富山では、空がこの映画のように群青色に透明になる。夏の太陽で汚れてくすんだ青ではなく、ほんとうにどこまでも群青色に透き通り、昼までも星が見えるのじゃないくらいに完璧な深さとして広がる。空気中の水蒸気(水分)を全部雪にして降らせたために、もう空中には湿度というものが存在しないかのような、完璧な輝き。うれしくてドキドキする。
 この雪遊びにはまた危険もひそんでいて、そこからこの映画は大きく変化するけれど、その変化も、自然の厳しさと本能のようなものがしっかりかみ合っていて、ぐいぐい引き込まれる。あらゆる瞬間に、人間の「本能(いのちの原型)」が自然そのものと出合い、そこで新しくなっていく。新しい欲望、そして新しい反欲望というか、抑制。そのせめぎあい、せめぎあいとも感じずに選び取る何か。--そういう子どもの成長というか、自分自身を選んでいく過程を、そして母親は見守る。そういうことを、まあ、書きはじめるとめんどうくさいことを、とてもていねいに描いているのだが、これは書くまい。
 雨と雪が、自然や周囲のひとと触れあうことで、どんどん「本能」に目覚める。そこには「はずかしい」というような気持ちさえも「本能」として描かれている。雪が「野性児」からどんどん少女にかわっていく。逆に雨の方は、どんどんことばを否定して自然の、ことばではない世界へ入っていく。そうすることで家族のバランスも変化していく。まあ、これも書くと、めんどうくさい。だから書かない。
 ただ、何かに出合いながら、子どもがどんどん変わる。そしてその変わって行く先は、どんなふうに見えようとも、その子どもの「自然=本能」である。そして、それが「道」になる。「道」というのは、まあ、「論語」の「道」なのだけれど。別のことばで言えば「生き方」なのだけれど。それを親は、その「自然=本能=道」がそのままどんどん拡大され、自由をつかみとるよう祈る、そうなるよう応援するだけなのだが。それしかできないのだが。
 いやあ、なんといえばいいのだろう。あ、私の両親もきっとこんなふうにして私を見ていたのだろう、といまごろになって思うのである。ちゃんと、私は私の「自然=道」をみつけて歩いているかな? そんなことも思わず自問してしまう。子どもには子どもの見方があって、まあ、私のような感想は、とりあえずは持たないだろうけれど、いつか同じように思うかもしれない。--これはまた、余分なことなのだけれど、言いなおせば、子どもにはこの映画の、大人に向けたメッセージはわからないだろう。でも、それでいいのだと思う。たとえ子どもにわからないものでも、そういうものがあるのが「世界」というものなのだから、それを大切にストーリーの中に組み込んでおく。気づかなくてもいい。そういう映画づくりの姿勢もいいなあ。あ、こういうことも書くと「うるさい」ね。書くまい。もう書いてしまったけれど。

 少しだけ、補足。
 映画を見るとき、自然の描き方と登場人物の描き方に、ちょっと注意してみてください。とても変わっている。
 この映画は、自然をとてもリアルに描いている。雪も雨も、森も、アニメを超えている。ところが、人物はとても簡略化されている。ポスターはポスターの都合でそうしているのかもしれないが、この映画に登場する人物の描写は、簡単に言うと平面的である。立体感がない。影さえ描かれていない。線の輪郭があり、その輪郭の内部は一色の色である。昔のテレビアニメのような印象である。(最近見ていないのでわからないのだが、「サザエさん」がそういう絵である。--印象で書いているので違っているかもしれない。)
 で、このすっきりした人間の絵(アニメ)が、実にいい感じなのだ。この映画に描かれていることはほんとうは重い重いことがらなのだが、それを軽く、スピーディーに見せる。観客の視線を立ち止まらせない。映画のなかで何度か「おとぎ話」「童話」というような表現がつかわれているが、映画を「おとぎ話」「童話」にしてしまう力が、その簡略なアニメにこめられている。大切なことがら、重いテーマを「異化」して、ぐいとひっぱっていく力がある。これが今風の3Dアニメでリアルに描かれてしまうと、登場人物の「心理」が重たくなってしまう。引き込まれすぎて、自分自身の問題と区別がつかなくなってしまう。「絵」であるとはっきりわかるからこそ、そのなかで動いているあらゆるものを安心して見ることができるのである。大人である私でさえそうなのだから、子どもにとっては、この「絵」であることが明確なアニメは、とても安心感があると思う。安心してみることのできる表現になっていると思う。


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壱岐梢『樹念日』

2012-07-24 10:52:20 | 詩集
壱岐梢『樹念日』(花神社、2012年07月01日発行)

 壱岐梢『樹念日』は不思議な詩集である。読みはじめると、何かぼんやりした印象がある。このぼんやりは、まあ、どこかのおばさんが書いた詩らしきもの、と言い換えることができると思う。
 巻頭の「きらきらと」。

その女(ひと)はまっすぐ歩いてくる

雑踏の秋の
疲れ切った夜の空気を
すうっとかきわけ

光るものを宿しているのだ

 この女は妊娠しているのかもしれない。新しいいのちを「光るもの」と呼んでいる。それを「宿している」。「宿している」は「妊娠している」を言いなおしたものである。こういう言い直しを「詩」と感じているのだと思う。

その女(ひと)からは
ふたくみの瞳や耳や心臓ごと
とてつもない大事に向かう
ふたくみの決意が
いっしょに流れてくるのだから
きらきらと光が放たれているのは
神秘などでは ない

 「妊娠」は「ふたくみ」ということばで言いなおされている。母と胎児、その「ふたくみ」。
 たしかに、詩は、ある事実を別なことばで言い換えるときに生まれるのだけれど、それはそれでいいのだけれど、批判するようなことではないのだけれど。
 あ、どうしようかなあ。
 「現代詩」とはちょっと違うんだけれどなあ、というのが、私の感じた「ぼんやり」ということになるかもしれない。
 この印象が「梅田事件」でがらりとかわる。
 長いので引用しないが、無実の罪を着せられ、再審をへて無罪を勝ち取った梅田義光との交流を描いている。仮出所中の梅田は廃品回収をしている。新聞を集めにきたとき、壱岐の娘を抱き「めんこいな、たまんねえな」と言う。そのことがきっかけになって、ふたりは会話をするようになる。そして「俺にも、子どもはいたはずなんだ。俺、人を殺したっていわれて、十九年刑務所に入って、いま仮し出所中さ。驚かんでくれなあ、殺ってないから」。
 こうした会話が自然に成り立つまでの経緯を壱岐は詳しくは書いていない。ただ「めんこいな、たまんねえな」という梅田の声に集約させている。これが、なんとも不思議である。

古新聞を集めにくるたび、おじさんは、赤ん坊だった娘を抱っこする。
「めんこいなあ、たまんねえな」

 「抱っこする」ということば。抱くではなく、抱っこする。抱っこ、としか言えない(言い換えることができない)おじさんのしぐさ。そして、抱っこしながら「めんこいなあ、たまんねえな」という。その声。--そこに壱岐は梅田の正直を感じている。
 そして梅田はまた、赤ん坊を抱っこしながら、こんなふうに自分を信じて娘を抱っこさせてくれる壱岐に正直を感じたのだろう。だから自分が刑務所にいたというようなことを言うことができたのだ。
 正直と正直がであったとき、そこから人間が動きはじめる。
 「道」ができる--と孔子なら言うかなあ。
 まあ、めんどうなことはおいておいて……。
 「抱っこ」--この、「きらきら」にはなかった、自然なことば。壱岐の肉体にしみついていることば、「抱っこ」するときの思想というとおおげさだけれど、「抱っこ」いがいに言い換えのきかない何かが、ひとをぐいと近づける。
 「きらきら」のような、ちょっときどった表現を詩だと思って壱岐は詩を書いているけれど、あ、こんな正直を生きてきたんだと感じ、私はどきどきしてしまった。「めんこいなあ、たまんねえな」という梅田の、せつない声が聞こえるのだ。

 壱岐の正直は、自分のことばにかえるときに、突然、他人にも伝わる。「神居町(かむいちょう)」という作品の1連目。

ちいさな赤んぼつれて北の町に越した
あらかたのダンボールが片付いたら
近所のおばさんたちのお茶のみに呼ばれた
男の子がおたまじゃくしにご飯粒をやったので
のどにつまらないかな と言ったら
おはさんたちは顔を見合わせた
その日からだ
世話をやいてくれるようになったのは

 おたまじゃくしがご飯粒でのどをつまらせる--というようなことがあったとしても、ふつうは気にしないなあ、おとなは。あるいは、子どもでさえも。でも壱岐にはそのことが気になった。それは壱岐が赤ん坊を抱えていることと関係がある。小さないのち。そこで何が起きるか、壱岐ははっきりとは知らない。だからどんなことでも不安である。赤ん坊は何を食べたら、のどをつまらせることがないのか。ご飯粒は大丈夫? おたまじゃくしと赤ん坊を知らず知らずに、無意識に、つまり正直に、重ねてみている。
 正直というのは、こういう無意識の、そのひとの肉体にしみついているもののことである。
 こういう正直、肉体そのものからあふれてくる「仁」のようなもの(先に孔子と書いたので、なぜか、そんなことばがでてきてしまう)、仁というとおおげさだけれど、いのちを大事にする感じ、いつくしみ、おもいやり--そういう「人柄」は、他人にすーっと伝わるね。共感を呼ぶよね。この人、大好き、という気持ちが自然に生まれる。
 私はその場に居合わせた「おばさん」ではないけれど、いやあ、よくわかるなあ。「人柄」というのは、なんともいえず気持ちがいいものである。
 この「神居町」も、なんといえばいいのか、「現代詩」から見ると「現代詩」ではない(?)というようなものなのだけれど、そういうことを忘れてしまうね。「現代詩」であるかないか、あるいは「文学」であるかないか、そういうことは忘れて、すっーとことばに引き込まれていき、そこで壱岐に出合う。実際に壱岐に会ったことはないのだけれど、会った気持ちになる。肉体に触れた気持ちになる。これはいいなあ、と思う。

 壱岐の正直がわかったあとで、「樹念日」に出合う。ここでは壱岐は、壱岐自身で書いているように「嘘」をつく。

いっぽんの樹に
立ち寄ります
青葱や薬や洗剤
さまざまなものが
ざくざく詰まった袋を
足もとに置きます

幹に手をまわし
陽がさして
木漏れ日にくるまれたら
樹に解けてもよいのです

幹に耳をあてれば
こくん こくん
樹が水をのむ音が
あざやかに聞こえる
そんなうつくしい嘘を
たくさん たくさん ついて
声をあげて
笑ってよいのです

 いっぽんの樹に
 耳をよせる
こくん こくん こくん
 樹がしずかに
 水をのんでいる

 いいなあ。「うつくしい嘘」が「うつくしい」ということばが邪魔にならないくらい美しい。これは正直な人間だけがつける嘘である。
 正直な人間は、人間であることを超越する。「樹に融ける」、融けて一体になる。壱岐が融ける。そして樹も融ける。ふたりがとけて「ひとつ」になる。そのとき、その世界は、私たちが生きている世界を超えているから、「嘘」は嘘ではない。樹と人間が一体化した世界を動いている新しいことば、つまり、詩なのだ。正直がつかみとった、新しいことば、詩、そのものである。

 2012年07月01日(まだ、なっていないのだけれど)は、壱岐梢の正直にであった「記念日」として記憶しよう。このブログを読んでいるみなさん。いまから注文すれば07月01日には詩集が届くかもしれない。ぜひ、壱岐と出合った「記念日」にしてみてください。
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現代詩講座@リードカフェ

2012-07-23 10:05:23 | 現代詩講座
現代詩講座@リードカフェ(2012年07月18日、福岡市中央区「リードカフェ」)

 持ち寄った作品を読んで、感想を言う--その過程でおもしろいことが起きた。上原和恵の「白い雨」。
 「無理をしてことばを(詩のなかに)いれている」
 「先日の豪雨のことを書いている。気持ちはわかるが情景描写に終わっている」
 「展開のおもしろさに欠ける」
 「意味深なことばがあるが、おもしろさを詩にいれないといけないという意識がつよすぎるのかもしれない」
 「平面的な感じがする」
 否定的な意見が続出したのだが、その批判が一段落(?)したとき、「私、ちょっと朗読してみます。目をつぶって聞いてください」とひとりの受講生が言った。

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか
窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

足にまとわりつく雨で
どこにも行けない
しとど濡れ
冠水した道路に
足を引きずり
立ち往生している

道しるべの
山の中腹の白い仏舎利塔も
雨の白さの中に消え
脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

 「あ、なかなかいい」
 「さっき、谷内が読んだときとはまったく違う」(上原は欠席、作品のみの参加だったので、私が代読したのである。私は朗読がへたくそである。)
 「どうしてだろう」
 「連を入れ替えたんだよね」
 そう、連を入れ換え、かつある部分を省略した。もとの詩は次の形をしていた。

だんだん垂れ下がっていく雲の手は
街を夕暮れに染めていき
頭にも覆いかぶさっていく
オレンジ色の街灯は心に灯るが
早くこの暗い道を通りすぎようと
ハンドルを握りスピードを増す

道しるべの
山の中腹の白い仏舎利塔も
雨の白さの中に消え
脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか
窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

足にまとわりつく雨で
どこにも行けない
しとど濡れ
冠水した道路に
足を引きずり
立ち往生している

 1連目。豪雨の降り始める前から(垂れ下がってくる雨雲の様子から)書きはじめ、雲のために街が暗くなり、昼なのに街灯がつく。そして雨が降りはじめる--ていねいに状況を描写することからはじめている。時間の経過、それとともに起きるこころの変化の推移を書こうとしていることがよくわかる。
 2連目。最初は山野中腹の仏舎利塔も見えていたが、その雨はまるで脳の中に直接降ってくるくらいに激しい。3連目。車の天井を破り、首を流れ、乳房をながれる。4連目。車の中は、外と同じように水浸し。立ち往生してしまう。
 「首を伝って流れ/乳首の突起で滝となり/一気に駆け降りる」というおもしろい部分がある。「しとど濡れ」と繋げて読むと、たしかに意味深である。雨のことを書いているのだが、雨からはみだしていく部分に、何か、詩がもっている「二重性」を感じる。
 「二重性」というのは、現実には「雨」を描写するとみせかけて、ほんとうは違うことを書いてしまうということである。「雨」は空から降ってくる「雨」ではなく、たとえば情欲(肉欲)の象徴とか。そうすると、雨と車と私(上原)の関係は、男と女の関係に変わってくる。読者をそういう「誤読」に誘うことができる。こういう「誤読」では、読者は作者を無視して、自分のなかにある情欲を読むのだけれど、こういう瞬間が、実は楽しい。
 で、
 「まだまだ、男を吐く、という詩にはなっていないね」
 という意見もでたのだが、それは、上原の詩が「誤読」を誘うまでには作品として独立していない--上原の書こうとしている「意味」から離れていない、ということである。人には(詩人には)だれでも書きたいことがある。書きたい意味がある。
 けれど、読者はそういうものとは関係なしに、自分の知らないこと(自分の中にあるのだけれど、自分のことばでは外に出すことのできない感情の動き)を、他人のことばを借りて読みとりたいものなのだ。
 作者は「これはこういう意味です」と説明しはじめると、どんな作品でも「傑作」になる。作者の言いたいことを正確につたえることばになってしまう。
 でも、読者は、そういうことは無視したい。作者が何を書きたいかではなく、私が何を読みたいか、そこに書かれていることばから何を感じるかだけが問題なのだ。
 ここに作者と読者のすれ違いというか、断絶がある。
 私は、そういう断絶が、実は好きである。つまり「誤読」大好き人間なのである。「誤読」をどこまで暴走させることができるか。しかも、その暴走の過程で、作者を自分の暴走の方にどれだけ引き込めるか、ということをことばで試してみるのが好きなのである。私が何人かの仲間と「現代詩講座」という形でやっている読書会は、いわば私が「詩はどこにあるか」で書いていることがらの延長にある。

 ちょっと脱線したかな?

 で、今回の講座では、その「暴走」を受講生のひとりが、さらりと実践してみてくれたということになる。
 「だんだん垂れ下がっていく雲の手は」という書き出しは、「雲の手」ということばのなかに「詩的」なにおいが濃厚に漂っている。ふつうのことばではなく、ちょっと気取ったことばで現実(見えるもの)を言いなおす。そうすると、そこに詩が生まれてくるという作者の意識が見えることばである。「街を夕暮れに染めていき」の「夕暮れ」にもそういう思いが反映しているかもしれない。そういうことばをつかいながら、上原は状況を説明しはじめる。
 説明だから(そうして、この講座のときは、まだ「九州北部豪雨」の印象が強く残っていたし、その日も雨が降りそうだったから)、書いてあることがとてもよくわかる。しかし、この「わかる」がくせものである。わかると突然、おもしろくなくなるということもあるのだ。わからなかったものがわかるにかわると興奮するけれど、わかりすぎていることをわかるように説明されてもなあ、しかも気取ったことばで説明されてもなあ……ということだろうか。
 だから、その「わかる」を捨ててしまう。

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか

 この2行ではじまると、何を書こうとしているのかわからない。わからないから、読者はわかろうとしてことばを追いかける。そこから、ことばがどんなふうに変わっていくかを知りたいと思う。作者の書いていることばと、自分が読みとろうとすることばが重なる瞬間を探してしまう。

窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

 「窓に打ち付ける雨は」では、その窓が車の窓であることはわからない。わからないから、その次の「首」や「乳房」に目が行ってしまう。読者は(私は)「窓」を忘れ、雨にぬれる女を思い描く。ブラウスは肌に貼り付き、乳首の突起が見える。--こういうのって、見た記憶(見たいと思った記憶)があるでしょ? あるいは、あ、これを見られたらいやだなあと思った記憶、ということかもしれないけれど。
 いったん、そういう肉体の記憶にまきこまれると、「まとわりつく」も「しとど濡れ」も、「どこにも行けない」も「立ち往生」も違った「意味」をもちはじめる。そうか、あれは(あの瞬間は)「立ち往生」ということばでも言い表すことができるのか……。
 そうして、

脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

 ほら、「意味」を考える「脳」なんて、とってもちっちゃい。そんなものを突き破って、情欲の雨はあふれていく。そのとき、私(上原)は私ではなく、雨そのものになる。
 上原はそんなふうには書いていない。書いていないけれど、そんなふうに読みたくなる。もっと、そういう感じのことばにしてしまえば、詩はおもしろくなるのになあ、と思ってしまう。

 詩は、書きあがったあと、いったん捨て去って、そこから別のことを暗示してみようとするとおもしろくなるかもしれない。豪雨で立ち往生した体験。それをそのまま豪雨の体験ではなく、豪雨を捨て去って、読者にわからないようにしてしまう。簡単に言うと、豪雨を「嘘」にしてしまう。豪雨ではなく、何か別なものにできないかなあ、と考え、人を騙してみるとおもしろいかもしれない。
 で、読者が、「あ、上原さん、すごい。こんなこと書いていいの?」と言われたら「あら、これはこのまえの豪雨のことを書いたのよ。立ち往生してたいへんだったんだから。情欲なんて、まあ、いやらしい人ね。あなたがいやらしいからそんなこと想像するのよ」と逆襲すればいいのだ。
 読者を騙す(嘘をつく)と、詩は、おもしろくなる。詩は、気障な嘘つき。書く方も読む方も嘘をつきあって、嘘のなかで、本音をちらりとのぞかせる。ほんとうのことというのは、隠しても隠しても出てきてしまうものである。で、そうやって出てきたもののうち、かっこいいなあ、と思うものは自分から出てきた、みっともないなあと思うものは相手から出てきたと、自分勝手に放言し合う。
 そうすると、楽しい。
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しばらく休みます。

2012-07-10 23:58:42 | 詩集
しばらく休みます。(代筆)
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アスガー・レス監督「崖っぷちの男」(★★★★)

2012-07-09 12:33:46 | 映画

監督 アスガー・レス 出演 サム・ワシントン、エリザベス・バンクス、エド・ハリス
 とても古くさい映画である。ふたつのビルがあり、ひとつのビルでは男が飛び下り自殺をしようとしている。これは実は「おとり」で、ほんとうのストーリー(?)は隣のビルでのダイヤモンド強奪。もちろん、狂言自殺を計画した男が犯行の主役である。
 で、この二重構造に、自殺しようとした男が実は無実である。警官なのだが、ダイヤモンド強盗に仕立てられ、いまは脱獄中という事情が重なる。そして、その強奪したはずのダイヤモンドは、実は隣のビル(被害者がオーナー)の金庫にあるはずだから、それを奪い返して無実を証明するという二重構造が重なる。
 さらに、主役の男がダイヤモンド強盗の犯人に仕立て上げられたのは、同僚の裏切りがあったからである。同僚は二人いて、ひとりは主人公の親友であり、もうひとりは隣のビルのオーナーの用心棒(?)をやっているという「裏切り」の構図が重なる。
 さらにさらに。この自殺願望の男を説得しようとする刑事(女性)は、実は男が「指名」したのだが、なぜ指名したかというと、最近、自殺願望の男を説得しようとして失敗したという過去があり、彼女なら野次馬テレビの注目を浴びるに違いないという男の「読み」が背後にある。テレビも、野次馬も、みんな男に引きつけておいて、隣のビルの犯行(男にとっては無罪証明)をスムーズにやりとげようとする手段だね。
 さらに。 と、書いていくと、きりがないことはないのだが、まあ、面倒くさい。だから省略して……。
 ようするに、この凝りに凝った何重もの(しかし、ほんとうは二重に収斂してしまう)構造を、この映画は実に手際よく映像化している。台詞もあるにはあるのだが、台詞のないところがスピーディーで、まさに映画。--というと変だけれど、ほら、最近の「映像体験」とやらは、やたらと絶対に見ることのできないシーンの連続を売り物にしているが、この映画は違う。
 たとえば、主人公の男が逃走の過程で、隠れ家(ほんとうは父親が準備したもの)から大金をポケットにしまい込む。それはしかし誰かを買収(?)するためのものでもなければ、海外へ逃亡するためのものでもない。男は、その金をビルの庇からばらまく。群衆がそれに群がる。それは隣のビルへ捜査の手がのびるとき、捜査官をすぐに到着させないためである。群衆にもみくちゃにされて、捜査員がなかなか隣のビルに入れない。
 うーん、誰なんだ。こんな手の込んだ群衆の利用方法を考え出したのは……。というくらい、細部がていねいなのである。宝石強盗役の二人が金庫の暗証番号を盗み出すシーンなんか、「ミッション・インポッシブル」に見せてやりたい。--「ミッション」を書いたついでに書いておくと、まあ,ぱくりというかコピーが随所にあるのだけれど、それを新しいビル、新しい機材でコピーするのではなく、古くさい形でコピーしているのが、この映画の「天才的」なアイデアである。あ、このシーン見たことがあるぞ、ではなく、あ、「ミッション」はここから盗んでいるじゃないかと錯覚させる。えらい。
 自殺志願者が元警官、しかも脱獄犯だとわかって狙撃隊が屋上から突入するとき、男と狙撃手が命綱のロープで宙に舞うところなんか、ほんとうに、えらい。えらいとしかいいようがない。パクリを越えている。トム・クルーズの場合、ぜったい失敗しないとわかっているからびっくりは笑いになってしまうが、いやあ、私は笑うのを忘れてしまいましたねえ。思わず、がんばれ、と応援してしまいました。自殺志願の男に。
 というわけで、男の「動機」はもっぱらことばでしか説明されない弱みがあるのだけれど、これを自殺志願者を説得する刑事を登場させることで、そこにはことばがあっていいのだと納得させて(説得というのは、ことばでするものだからね)、一方で、宝石強盗の方はもっぱら映像を主体にストーリーを展開するという、ほんとうにほんとうに、どこまでも二重構造を巧みに活かした、まあなんというか、

渋い、渋い、渋い、渋い

 映画でした。これだけ渋いときっとヒットはしない。けれど、見逃すと損ですぞ。これは。
                      (天神東宝シネマ3、2012年07月08日)
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早矢仕典子「枝垂れる」ほか

2012-07-08 11:22:29 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「枝垂れる」ほか(「橄欖」94、2012年06月03日発行)

 早矢仕典子「枝垂れる」には、「詩的」なことばから遠い部分がある。「散文的」な部分がある。しかし、そこがおもしろい。

「庭の枝垂れが咲いたから 遊びにおいで」
二年前
年老いた伯母から誘われた

亡くなった父は この伯母が苦手だった
伯母は 亡くなった母を深く愛していた

電話で伯母は
伯父さんには 施設に入ってもらったの と言った
暴れて 骨折させられてね
そのころの私には 距離が少し遠かった
伯母の声の奥にあるものが 耳に響いていなかった

わずかに 後れをとりながら
我が家にも やがてその声の影がしずかに染み透っていった
「施設」は具体的な「施設」の形になり
「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち
伯母の庭のしだれ桜の満開の花
は遠くなったり 近くなったり
しながら頻りに匂った

 「散文的」というのは、

「施設」は具体的な「施設」の形になり
「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち

 というような行のことである。これでは「散文」にすらなっていないかもしれない。散文とは事実(具体)を積み重ねて、新しい事実へたどりつくことばの運動である。(森鴎外の「渋江抽斎」は、その見本・手本である。)早矢仕は、その「具体」を書かずに「具体的」ということばですませている。これでは何も書いたことにならない。
 --と、書いて、私はその「散文にすらなっていない」「何も書いたことにならない」がゆえに、ここには「事実」が書かれている、と思うのである。
 書いていることが矛盾してる?
 あ、そうだねえ。
 書き直そう。
 早矢仕は、ここでは、「後れ」というものを書いているのである。

わずかに 後れをとりながら

 という行があるが、すべては「後れる」。ことばが先にあって、そのあとを「事実」がゆっくりと追いかけてくる。最初はことばしかわからない。そして、その最初のことばがなければ、そのあとを事実が追いかけてくることもできない。
 ふつうは逆に考えると思う。事実があって、それをことばで追いかけ、ことばで定着させる。
 でも、ほんとうは違うのだろう。事実を語ることばという便利なものはない。つまり事実に対応することばは、たいていの場合「手持ち」にはない。いま/ここにはない。人は誰でも新しいことに向き合い、そこでことばを失う。いままでのことばでは何も言えないことを知る。何も言えないのだけれど、とりあえず知っていることばを使って言ってみる。そして言い足りなかったことを少しずつつけくわえる。あるいは、どこかから自分の声を代弁してくれることばを借りてくる。そうやって、少しずつ何かがはっきりしてくる。
 阪神大震災のあと「出来事は遅れてあらわれる」と書いたのは季村敏夫(『日々の、すみか』書肆山田)であったが、大事件だけではなく、日々の暮らしのなかでも出来事は遅れて(後れて)あらわれる。やってくる。
 その「後れ」は「後れ」としてしか書きようがない。「後れ」てあらわれたものは、どう書いても、何かが違う。「後れ」ということだけが、この場合、事実になるのだ。

 その「遅れ」を早矢仕は、とてもおもしろい形で書いている。そこに、詩がある。

伯母の声の奥にあるものが 耳に響いていなかった

「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち

 この2行の「耳」と「肉体」は、ほんとうはことばの「次元」が違うのだけれど、ともに「肉体」に属することばである。そして耳を澄ませば「声」もまた「肉体」であることがわかる。
 ことばは「意識」ではなく、「肉体」そのもののなかで動く。ことばにならないまま、何かが動く。ことばと肉体が離れ、肉体はことばに後れている--これを肉体は意識に後れていると言いなおすと、少しは早矢仕のことばの運動に近づくか。あるいは、意識は肉体に後れていると言った方がいいのか……。
 実は、あいまいである。
 ポイントは、ようするに「ずれ」である。肉体とことば(意識)がずれる。それは前後しながら「いま/ここ」をつかまえようとする。そして、その前後運動のなかで、ことばも豊かになるが、実は肉体も豊かになっている。
 「いま/ここ」を、なんといえばいいのだろう、別のことばで、別の態度で飲み込み、把握できるようになっている。
 「後れ」を取り戻し、それを追い抜いていく。
 こういうことが起きて、ほんとうに「出来事は遅れてあらわれた」と言えることになるのかもしれない。

伯母の庭のしだれ桜の満開の花
は遠くなったり 近くなったり
しながら頻りに匂った

 「遠くなったり 近くなったり」がとてもいい。肉体とことば(意識)の不思議な前後関係は、たしかに「遠くなったり 近くなったり」としか言いようがないのだろう。この不思議な運動を、早矢仕は「匂った」という嗅覚のなかで昇華させている。ここが、とても美しい。この美しさにたどりつくためには、私が先に「散文的」ということばで否定したものが必要なのだ。

 早矢仕の詩は、このあともう一度別の展開を見せるのだが、省略。少しだけ補足(暗示?)しておくと……。


この家で
あばれていたものたちが
満開の枝垂れ櫻の下で 束の間 ねむりこけている

 そこでも「ねむり」という肉体のありようが、どっしりと落ち着いている。眠りは、もちろん「意識」の眠りでもあるのだが、その意識は肉体のなかにある。意識ではなく、肉体そのものが「ねむりこけている」ということばで「もの」(手触り)として見えてくるところが私は好き。



 日原正彦「かけら」。その88。

一本の木は
何も言わない
言わないことで何かを言っている
と言うのは人間の小癪な解釈にすぎない

言うことが
言わないことであるように言うこと
人間にできるのはせいぜいそれくらいのこと

 えっ、と驚く。「言うことが/言わないことであるように言うこと」。そんなことがほんとうに人間にできるのだろうか。「人間にできるのはせいぜいそれくらいのこと」とはとても思えない。あの寅さんだって「それを言っちゃあおしめえよ」と言うくらいである。
 人間は、たぶん日原の観察とは逆に

言わないことが
言うことであるように言わないこと

 を通してしか生きられないのだと思う。
 じゃあ、なんのために詩を書くか、ことばを「言う」のか。
 矛盾だよね。
 でも、矛盾していることを知りながら、どうしてもそうしてしまうのがふつうの人間。寅さんのように「かわりもの」として受け入れられる人間(暮らしのなかで生きて行ける人間)は、生きていることが詩であるから詩を書かないだけ。

 「かけら86」

爪を切る
青い空の底で
かわいた音
それは 爪の悲鳴なのか
それとも爪切りの
歓声なのか

痛みがないので
わからない

 大嫌いだ。こういうことばは。「青い空の底で」というきどった言い方。「痛みがないので/わからない」というでたらめ。肉体ではなく頭でことばを動かすから「わからない」のである。肉体はわからないものに対してはことばを動かさない。
 こんな詩は破って捨てたい。





詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂
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柿沼徹『もんしろちょうの道順』

2012-07-07 09:43:54 | 詩集
柿沼徹『もんしろちょうの道順』(思潮社、2012年06月30日発行)

 柿沼徹『もんしろちょうの道順』を読みながら、私はとまどってしまった。たとえば「もんしろちょう」。その作品の一部が「帯」に引用されている。

それは立ち止まることとはちがう
考えることとはちがう
語りかけることとはちがう
それは流れることですらない

切って落とされたような
白い今が
ひらひらと宙に浮いている

 ここだけを読むと、もんしろちょうを描写していることがわかる。もんしろちょうが世界から切り落とされて(つまり何とも関連づけられないで)、純粋に「もの」としていま/ここに浮いている。これは前後するけれど「立ち止まることとはちがう/考えることとはちがう……」の4行の言い直しである。つまり、それはパラレルというか、二重の構造になっていて、比喩が比喩と重なることで、新しいことばの運動を誘う仕組みになっているのだが。
 うーん。
 ことばの運動の構造はわかるけれど、それがわかるからといって、それがおもしろいとは限らない。
 そして、たぶん、ここが一番の問題点だと思う。
 書いている柿沼にしてみれば、ことばの運動の構造がわかるということは、柿沼が考えたことが相手(読者)に伝わったということになるかもしれない。自分の言いたいことを読者につたえるのが文学--というなら、まあ、それで目的は達成したことになるのかもしれない。
 でも、私は「違う」と思うのだ。
 柿沼の言いたいこと、書きたいことは、わかればわかるにこしたことはないのだけれど、わからなくてもいいと思う。わからなくても、あ、これはおもしろい、という方が好きなのだ。そして、その「これはおもしろい」というのは、たいていがわからないからおもしろいのである。えっ、それで、この先、どうことばが動いていく? その不安定な感じ、わからないけれどついて行ってみようと思う瞬間が愉しいのだ。
 申し訳ないけれど「白い今が/ひらひらと宙に浮いている」と「立ち止まることとはちがう」「考えることとはちがう」が同じというだけでは、そこには「思念」(これは帯にあったことば)にはなりえない。「思念」は抽象的ではなく、具体的なものだ。
 私はいまちょっと思うことがあってプラトンを読み返している。そこではソクラテスがばかの一つ覚えみたいにして「馬・医者・体育・靴づくり職人」という比喩を繰り返している。あ、その話はもう聞いた、といいたいくらい何度も何度も出てくる。それは、いわば「運動」を考えるときの比喩なのだが、いいかえると柿沼の詩集の帯に書かれている「思念」の説明なのだが、ソクラテスが知っていて、なおかつ対話の相手が知っている「もの」を潜り抜けることで、それは抽象ではなく具体に変わる。そして、この具体が「真実」(真理)というものなのだ。「思念」は「抽象」ではなく、ほんとうは具体そのものなのだ。その具体を積み重ねて、考えるということが始まる。人間は、具体以外のことは、ほんとうは考えられない。肉体で覚えているものしか土台にできない。

 言い換えると。
 「抽象」には「まちがい」がない。それが「抽象」の一番まちがっているところだ。
 言い換えると。
 「抽象」を持ち出して、これが私の言いたいこと--と言ってしまえば、それは全部「正解」になる。つまり、私が言いたいのはこういうことであって、それを理解できないとしたら読者が悪い、と言ってしまえば「文学」は成立しないことになる。
 言い換えると。
 あらゆる作品が「傑作」になる。
 「抽象」--まちがいのない「思念」を表現しているのだから。

 あ、何か、私の書いている文の方が「抽象」そのものかな?

 詩にもどろう。「もんしろちょう」は次のように始まっている。

もんしろちょうは
不可解な過去をもっている



もんしろちょうには
もんしろちょうではなかった過去がある
切って落とされたかのように

あとかたも残っていないが

青虫


 「切って落とされたかのように」ということばからわかるように、最初に引用した部分は、このことを言いなおしているのだけれど--まあ、それは、ちょっとめんどうくさいことになるので、その点を指摘しておくだけにして……。
 いま引用した部分1連目から4連目までは、かなりおもしろい。「過去」という「抽象」が「蛹」「青虫」「卵」という具体的なものをとおして語られ、それはもんしろちょうのいまとはどうつながるのかわからない(あまりにも形が違いすぎる)ということが語られる。
 どうつながるかわからない--と私は書いたけれど、わからないわけがないよね。実は、知っている。蝶は卵→青虫→蛹→ちょうという具合に変化することは、たいていの人間なら知っている。だから、わからないわけではない。
 しかし、
 これは知識というものである。
 だから、ほんとうは「知っている」であって「わかる」というのとは違う--ということろから、この柿沼の詩は始まっている。(始まったはずである。)
 なぜ「わかる」ではないのか、というと、卵→青虫→蛹→ちょう(羽化)という変化を私たちは私たちの肉体で体験していないからだ。肉体で覚えていることではないからだ。人間は傲慢(?)な存在で、自分の肉体で体験していないことさえ、知ることをとおして「わかる」と思ってしまう。
 そのことを深く反省すれば、そこからほんとうは「思念」が始まるのだけれど。
 柿沼は、ここで踏みとどまることができない。

 「卵」にまで、「過去」をさかのぼったら、そこで突然行き詰まって、「いま」(もんしろちょう)に戻ってしまうのは、「思念」することをやめているとした思えないのだ。私には。
 卵のさらに先の「過去」を掘り起こしてこそ、「思念」なのじゃないのかな?

 卵の先には「無」しかない?
 そうかなあ。
 遺伝子しかない。
 そうかなあ。
 究極はヒッグス粒子しかない。
 え、そうなのかなあ。

 たとえばね、これは蝶が夢見たのか、それとも私が夢見たのか--なんて、二重構造を生きた詩人がいたねえ。その詩人は青虫や卵に比べると、完全に、「もんしろちょうではなかった過去」というものじゃないだろうか。蛹も青虫も卵も、それに比べたら、もんしろちょうに過ぎない。あの詩人にとっては、ことばがそういう運動をできるということが「過去」そのもの、なのだ。あの詩人にとっては、ことばに踏みとどまることで、蝶と夢とことばを区別できないものにした。それを手で触ったのだ。
 踏みとどまるとは、逸脱することである。そうして、自分の肉体が覚えているものを掘り起こし、そこからもう一度ことばを動かしなおすことである。ソクラテスなら馬にもどる。そういう何か、絶対にここにもどればやりなおしができる、という「もの」を書かないかぎり「思念」は動かない。

 (あ、詩集の「帯」に焦点をしぼって文句を書けばよかったかなあ。--と、いま少し反省している。珍しく「帯」を読んでしまって、それにひきずられて詩集を読んだ。素肌かの状態で詩集を読めば、またちがった感想になったかもしれない。)



もんしろちょうの道順
柿沼 徹
思潮社
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松岡政則『口福台湾食堂紀行』(2)

2012-07-06 10:16:56 | 詩集
松岡政則『口福台湾食堂紀行』(2)(思潮社、2012年06月30日)

 松岡政則『口福台湾食堂紀行』はとても魅力的な詩集である。何度でも書きたくなる。で、また書いている。
 「艸の実、艸の実」の1連目。

ひかる雨を歩いてきた
ひとはときどき無性に雨にぬれたくなるものだ
からだが決めることはたいてい正しい
雨は未来からふるのか
過去からもふっているのか
かんぶくろの艸の実、艸の実、
土から離れたものはみなさみしい

 「ひとはときどき無性に雨にぬれたくなるものだ」という1行は無造作だと思う。特に「無性に」が詩のことばからは遠い。つまり、あまりにも漠然としていてとらえどころがない。「無性に」ではなく、「無性に」に思えることのなかにも、ほんとうは「有性に」があるはずである。あるのだけれど、自覚できない。つまり、それは「無意識」みたいなもので、いいかげんすぎる。
 のだけれど。

からだが決めることはたいてい正しい

 この1行と固く結びつくとき、それは「無性に」としか言いようがないとわかる。「からだ」は「意識」とは違う--からではなく、「からだ」こそ「意識」だからである。「意識されない意識」が「からだ」。そこには「性」がうごめいている。うごめいているけれど、意識されない。つまり、ことばにならない。
 「無性に」と「からだ」は同じであり、「ぬれたくなる」の「……したくなる」と「からだが決める」の「決める」は同じなのだ。「……したくなる」のは「意識的に……したくなる」のではなく、「無意識」なのである。そして、それが「無意識」だからこそ、おさえることができない。でも、そういう無意識の欲望は、「正しい」。意識にまみれていないから、「からだ」に一番あっている。「からだ」の正直が、そこにある。
 この「からだの正直」(無性に)が、自然と出合う。そうすると、そこにすばらしい化学反応のようなものが起きる。感情が、そこからさ生まれてくる。

かんぶくろの艸の実、艸の実、
土から離れたものはみなさみしい

 「さみしい」と「正しい」が出合うのである。
 雨にぬれて歩く肉体。それは土の上を歩くのだが、そのとき人間の肉体は土に接しながら土と離れている。草の実は、草そのものは土に縛られているが、実は離れている。その、人間の「からだ」と草の実の、一種のパラレルの関係のなかに「さみしい」が、ふっと浮いてきて、ふたつをつなぐ。
 これは「意識」ではなく「無意識」の世界。「無性に」の「無」の世界。「無」だから、そこには「未来」と「過去」の区別はない。

ことばとからだが反目しあって
はらいせみたいに歩いたはずかしいほど歩いた
どこにも着きたくない歩くなのか

 「ことば」と「からだ」は反目するしかないものである。いつでも「からだ」には「無性に」の「無」の部分がある。それは「ことば」では把握しきれない。把握しきれないけれど「無性に」のように、ことばが動いてしまう。
 ほんとうは「無性に」ではないのに。
 だから、その「ことば」にはらいせをするように「歩く」。「からだ」は「からだ」をうごかすことで、「ことば」を遠ざけようとする。
 この反目、この関係を、松岡は「はずかしい」と呼んでいる。「さみしい」と同じように、これは、どこかの隙間からやってくることばである。感情である。人間的な、あまりに人間的な感情である。

わかっている艸の実、艸の実、
泣いていいのはわたしではない

 「わたしではない」からこそ、わたしは泣くのだ。「艸の実」は泣くことができない。だから、かわりにわたしが泣くのである。





草の人
松岡 政則
思潮社
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マリウス・ホルスト監督「孤島の王」(★★★)

2012-07-05 10:42:22 | 映画
監督 マリウス・ホルスト 出演 クリストッフェル・ヨーネル、ベンヤミン・ヘールスター、ステラン・スカルスガルド

 北の海の色、空気の色、湿気の感じがスクリーンいっぱいに広がる。ここに描かれている北の海、孤島へ行ったことがあるわけではないのだが、あ、北の海だ、と思う。波の色や、雪の色も、私たちがふつうに見る色とは違う。内部が硬い。やわらかみがまったくない。青く、暗い。どこまでも冷たい。体温をすべて吸収してしまいそうな色が、常にスクリーンを支配している。その冷たさに、圧倒される。
 そこでは人間が人間でいることがむずかしい。そんな土地では互いの温かさを分け合うことが必要なのに、温かさを否定している。やわらかな接触というものを否定している。象徴的なのが、少年たちを名前で呼ぶのではなく番号で呼ぶことだ。親しい接触を拒絶し、人間をものとして扱う。それを秩序だと思い込んでいる。単に「管理」するのに都合がいいから、というのが管理する側の、一種の経済(合理主義)である。
 この、なんといえばいいのか、少年たちが「もの」になってしまっている状態を、カメラは痛いくらいの緊張感で映像化する。食事の場面が象徴的かもしれない。大きな食堂。少年たちのテーブルが縦に並んでいる。それを真横から見るように管理する側のテーブルが一列。そこでは話すことを禁じられ、ただ食べることだけを命じられている。しゃべる人間は、食事の変わりに木の棒をくわえさせられる。その状態では、食べることも話すこともできない。少年たちは食べる人間ではなく、食べる「もの」のように、ただ整然と並んでいる。そして、それを院長たちが監視している。食べるよろこびも、ここでは禁止されている。
 こうした場(空間)では、接触はどうしても暴力的になる。そして、それは暴力なのだけれど、それした他人との接触が不可能なので、そうした暴力の体験をできない少年たちは、いっそう不幸である。暴力的な接触をとおして、それでも人間的な痛みの共有から、不思議な連帯が生まれることもあるが、そういうこともたいてけんできない。なによりも暴力を振るわないことには自己表現の方法がないのである。自己実現の方法がないのである。自己表現をしないこと、自己実現をしないこと--この施設の院長のことばを借りれば「一員になる」ことを少年たちに強いる。「一員」と院長が言うとき、そこに名前を否定し、番号で呼ぶという思想が組み込まれる。C-19がダメならC-18でもC-20でもいい。それはほんとうに「一員」なのである。定冠詞をもった人間ではなく、不定冠詞(あるひとつ、あるひとり)でしかない。
 そうした世界にあって、なんとしても自己実現をしようとする少年は「英雄」になる。脱走を試みる少年は、彼らのあこがれであり、そして同時に妬みの対象にもなる。羨望には祈りもあるが、それから自分がおいてきぼたをくらうと怒り、裏切りにもなる。「英雄」が脱走しそうになるとき、つれて行ってもらえない少年は密告をする。それも、もっとも自分が憎んでいる相手に。
 この哀しさ。裏切りでしか、自分の欲望を実現できない哀しさ。裏切りでしか自分の願いをつたえることのできない切なさ。手を取り合うべきとわかっているのに、それができない。
 みんな孤立している。そこから、さらに孤立してしまう--その絶望のなかで、少年は裏切るのだ。
 そして、そのことを少年たちはわかっている。自己実現ができないからこそ、わかりあっている。密告してしまう人間になりうることを知っているのだ。だから、その少年が自殺したとき、彼を自殺に追い込んだ寮長に対して怒りが爆発する。おとなの不正が許せない。我慢できなくなる。自分の「未来」を投げ捨てて、寮長に怒りをぶつける。その怒りが少年たちをのみこんでいく。このエピソードは、そこにいる少年たちが、そうやってここにやってきたのだと感じさせる。彼らは、どうしようもない悪辣な少年たちではない。大人への正当な怒りのために何かをやってしまった。過去はいっさい語られないので事実はわからないが、そういうことを感じさせる。
 でも、少年たちは弱い。自分たちを組織する「方法」を知らない。だいたい、少年たちの施設は、そういう「組織的な運動」を拒絶し、少年たちを孤立するように「教育」しているから、そこでは組織的な運動というものは存在しえないのである。怒りは怒りとして孤立し、怒りが力にはならない。そして、ただ悲しみに分裂していく。孤立した悲しみは、やすやすと管理する側に取り押さえられ、ふたたび孤立した「檻」に封印される。そこにあるのは悲しみではなく、「乱暴(暴力)」である、という具合にレッテルをはられて……。

 とてもつらい映画である。そして最後には悲しい死がある。それでもこの映画は不思議なことに希望を持っている。ひとはいつでも自分自身のなかに「物語」を持っている。それは、意地悪く言えば「逃避」かもしれない。しかし、その「物語」のなかにかけがえのないものがある。誰にも渡せない--誰にも渡せないがゆえに、誰かと一緒にその時間を共有したいという願いがある。そして、それはある瞬間、人にしっかりと手渡されることがある。いっしょに同じ時間を生きることで共有されるものがある。そうやって引き継がれるものがある。
 それが、やがて力になり、この映画の舞台である少年矯正施設を廃止に追いやったというこになる。

 冷たい雪を握りしめていると、ある瞬間から、それを「熱い」と感じることがある。雪は冷たいままだが、体のなかで一種の変化が起きて、雪の冷たさではなく、体の熱さを感じるのだと思う。
 この映画は、そういう変化を、私の「肉体」のなかで引き起こす。
 冷たい北の海、波、氷、傷ついたくじら。そして少年たちの悲劇。どうしようもない死。それを握りしめていると、体が熱くなる。

                          (2012年07月04日、KBCシネマ1)

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