瀬崎祐「片時雨」ほか(「どぅるかまら」12、2012年06月10日発行)
きのう河邉由紀恵の「あま水」の感想を書いたとき、つづけて瀬崎祐「片時雨」の感想を書くつもりでいた。ところが河邉の詩への感想が長くなって、瀬崎の感想を書いている時間がなくなってしまった。(私は目が悪いので時間を区切って書いている。)で、きょう書こうと思って読み返すと、きのう書こうと思ったことが少しも思い出せない。河邉の感想を書くことで、もう書いた気持ちになってしまったのかもしれない。でも、何か書いてみようか……。
河邉の詩には、「りん月」ということばはあるが、とりたてて「肉体」を描いているわけではない。それでも「肉体」を感じる。
瀬崎の詩には「身体」ということばがあり、「足」ということばもある。「あたため」ということばの一方「冷たくなって」ということばもある。それなのに、「肉体」がとても遠い。「露天風呂」なのに「裸」が見えてこない。まあ、瀬崎の裸が見えてきたら困るかもしれないけれど。
そして、それは実は瀬崎が「露天風呂」にいながら、実は裸になっていないからである。「恩人を裏切ってきたお前と一緒に露天風呂につかっている」。「私(瀬崎、ということにしておく)」は「恩人を裏切ってきた」のだが、それを「お前」と呼ぶことで対象化している。そのとき瀬崎は自分の裸ではなく、「お前」の裸を見ている。
で、「私」を「お前」と対象化した上で、ややこしいことに「一体化」をめざしている。「身体をあたため ながれるものをそこにあつめようとしている」の「そこ」というのは、後で出てくる「足のあたり」かもしれないし、その先の方かもしれないが、よくはわからない。身体をあたためながら、意識を(視線を?)そのあたりに固定して(そのあたりをぼんやりと、しかし視線をさまよわせずに)見つめ、あれやこれやを思い返している。そうすると「ながれようとしないものは 冷たくなって足のあたりにぐにゃりと横たわっている」ように見える。「お前」はそんなふうに見つめている--と「私(瀬崎)」は描写する。
うーん。この二重性。二重の肉体を描き、その隙間(?)に空虚な意識を展開して見せる。披露した意識を拡大して見せる。--まあ、そういう「抒情詩」なのだと思うのだが、どうもね。どうも、読んでいて楽しくない。空虚な意識が「楽しい」であってはいけないのかもしれないが--つまり、そういう意味では瀬崎の詩は、つまらないことをつまらないまま書くという抒情詩をきちんと書いているということになるのかもしれないが、うーん、わくわくしない。
ここにはもう「お前」はいない。「お前」と「私」の区別はない。自分を対象化していない。こんなに早く自己対象化をやめてしまうなら、最初から、「恩人を裏切ってきた私は露天風呂にいる」と書けばよかったのになあ、と思う。そうすれば、「お前」と「私」のあいだに「抒情」が割り込み、「肉体」をどこか遠くへ押しやるということもなかったのになあ、とも思う。
でも、瀬崎の書きたいのは「肉体」ではなく、「意識=抒情」だから、まあ、こう書くしかないのではあるのだが「堕ちて(堕ちる)」「涙」「嘘」は、あまりにも抒情抒情していないかなあ。
それがなんだかいやだなあ。
で、少し、きのう考えたことを思い出すのだが……。
河邉の詩には「りん月」の「むすめ」が出てきた。でも「階段を降りるのがむすめなのか私なのかよくわからない」。--あ、こんなこと、絶対にありませんね。現実では。むすめの肉体と私の肉体は同じではないから、階段を降りるのがどちらかわからないということは絶対にない。ないのだけれど、ことばにしてしまうと、その瞬間、それがありうることになる。
変だよね。
でも、その「変」を河邉は「びたらたら」だの「うとりうとり」だのの奇妙なことばと、「おもい(重い/思う)」だの「ゆらせる」だの「ぬるむ」だののことばでごまかして(?)、読者をだましてしまう。「いけないいけない」「あま(い)」何かで、「肉体の枠」を溶かしてしまう。そして、そこに「むすめ=私」が登場してきて、読者を、いままで見たことのない世界へと引き込んで行く。
瀬崎が「意識」によって自己を対象化(二重化)した。逆に、河邉は「肉体のなかにある明瞭に言語化できない感覚」を外にあふれださせることで、「むすめ」と「私」を、「ひとりの女」にしてしまった。
そうすると。
河邉は「裸」を描いているわけではないのだが(露天風呂に入っている姿を描いているのではないのだが)、ね、「はだか」が見えてくるでしょ? 「肉体」の原型がまじりっけなしの輝きであらわれてくるでしょ?
こういうまじりっけなしの「はだか」というのは、いわばギリシャ彫刻のビーナスや西洋絵画の裸体と同じであって、もちろんそういうものを対象としていやらしいことを考えてもいいのだけれど、そうじゃなくて、「あ、美しいなあ。この輝きはなんだろう」と思ってもいい。
どっちにしようかな、とその日、そのときの気分によって適当に「誤読」して楽しみ--そういうことが、まあ、詩を読むということかなあ。
*
秋山基夫「布引の滝を想像する夜」の1連目。
ねじれたような、強引なことばの動きがいいなあ。1行目は、
ということになる。「私(仮に秋山としておく)」と「白い帽子の人」の二人が登場するのだが、読点「、」のない文章のなかで二人が無意識(?)のうちに交代するようにして動いていく。で、無意識(?)であるからこそ、というのか、その無意識が無意識であることを明確にするようにして、といえばいいのか……。
という具合に世界が「一体化」する。明瞭にわかる部分(白い帽子の人がいる)と、不明瞭な部分(その人がだれか思い出せない)が一体になってしまう。
あら、うまい。
人と人--複数の人間の描き方、それと「私」との関係の書き方は、河邉、瀬崎、秋山の3人では、こんなにも違う。
きのう河邉由紀恵の「あま水」の感想を書いたとき、つづけて瀬崎祐「片時雨」の感想を書くつもりでいた。ところが河邉の詩への感想が長くなって、瀬崎の感想を書いている時間がなくなってしまった。(私は目が悪いので時間を区切って書いている。)で、きょう書こうと思って読み返すと、きのう書こうと思ったことが少しも思い出せない。河邉の感想を書くことで、もう書いた気持ちになってしまったのかもしれない。でも、何か書いてみようか……。
雨が降っている 恩人を裏切ってきたお前と一緒に露天風呂につか
っている 雨は露天風呂に降っている 身体をあたため ながれる
ものをそこにあつめようとしている 雨に濡れて ながれようとし
ないものは 冷たくなって足のあたりにぐにゃりと横たわっている
河邉の詩には、「りん月」ということばはあるが、とりたてて「肉体」を描いているわけではない。それでも「肉体」を感じる。
瀬崎の詩には「身体」ということばがあり、「足」ということばもある。「あたため」ということばの一方「冷たくなって」ということばもある。それなのに、「肉体」がとても遠い。「露天風呂」なのに「裸」が見えてこない。まあ、瀬崎の裸が見えてきたら困るかもしれないけれど。
そして、それは実は瀬崎が「露天風呂」にいながら、実は裸になっていないからである。「恩人を裏切ってきたお前と一緒に露天風呂につかっている」。「私(瀬崎、ということにしておく)」は「恩人を裏切ってきた」のだが、それを「お前」と呼ぶことで対象化している。そのとき瀬崎は自分の裸ではなく、「お前」の裸を見ている。
で、「私」を「お前」と対象化した上で、ややこしいことに「一体化」をめざしている。「身体をあたため ながれるものをそこにあつめようとしている」の「そこ」というのは、後で出てくる「足のあたり」かもしれないし、その先の方かもしれないが、よくはわからない。身体をあたためながら、意識を(視線を?)そのあたりに固定して(そのあたりをぼんやりと、しかし視線をさまよわせずに)見つめ、あれやこれやを思い返している。そうすると「ながれようとしないものは 冷たくなって足のあたりにぐにゃりと横たわっている」ように見える。「お前」はそんなふうに見つめている--と「私(瀬崎)」は描写する。
うーん。この二重性。二重の肉体を描き、その隙間(?)に空虚な意識を展開して見せる。披露した意識を拡大して見せる。--まあ、そういう「抒情詩」なのだと思うのだが、どうもね。どうも、読んでいて楽しくない。空虚な意識が「楽しい」であってはいけないのかもしれないが--つまり、そういう意味では瀬崎の詩は、つまらないことをつまらないまま書くという抒情詩をきちんと書いているということになるのかもしれないが、うーん、わくわくしない。
どうせ堕ちていくのなら 雨滴にでもなろうかと思う 雨滴は涙の
ような形に描かれるが あれはまったくの嘘だ 雨滴となって堕ち
ていくときはいろいろな苛めをうけるのだ それを忘れたとはいわ
さない だから堕ちていくとき 顔面は風圧でひきのばされている
ここにはもう「お前」はいない。「お前」と「私」の区別はない。自分を対象化していない。こんなに早く自己対象化をやめてしまうなら、最初から、「恩人を裏切ってきた私は露天風呂にいる」と書けばよかったのになあ、と思う。そうすれば、「お前」と「私」のあいだに「抒情」が割り込み、「肉体」をどこか遠くへ押しやるということもなかったのになあ、とも思う。
でも、瀬崎の書きたいのは「肉体」ではなく、「意識=抒情」だから、まあ、こう書くしかないのではあるのだが「堕ちて(堕ちる)」「涙」「嘘」は、あまりにも抒情抒情していないかなあ。
それがなんだかいやだなあ。
で、少し、きのう考えたことを思い出すのだが……。
河邉の詩には「りん月」の「むすめ」が出てきた。でも「階段を降りるのがむすめなのか私なのかよくわからない」。--あ、こんなこと、絶対にありませんね。現実では。むすめの肉体と私の肉体は同じではないから、階段を降りるのがどちらかわからないということは絶対にない。ないのだけれど、ことばにしてしまうと、その瞬間、それがありうることになる。
変だよね。
でも、その「変」を河邉は「びたらたら」だの「うとりうとり」だのの奇妙なことばと、「おもい(重い/思う)」だの「ゆらせる」だの「ぬるむ」だののことばでごまかして(?)、読者をだましてしまう。「いけないいけない」「あま(い)」何かで、「肉体の枠」を溶かしてしまう。そして、そこに「むすめ=私」が登場してきて、読者を、いままで見たことのない世界へと引き込んで行く。
瀬崎が「意識」によって自己を対象化(二重化)した。逆に、河邉は「肉体のなかにある明瞭に言語化できない感覚」を外にあふれださせることで、「むすめ」と「私」を、「ひとりの女」にしてしまった。
そうすると。
河邉は「裸」を描いているわけではないのだが(露天風呂に入っている姿を描いているのではないのだが)、ね、「はだか」が見えてくるでしょ? 「肉体」の原型がまじりっけなしの輝きであらわれてくるでしょ?
こういうまじりっけなしの「はだか」というのは、いわばギリシャ彫刻のビーナスや西洋絵画の裸体と同じであって、もちろんそういうものを対象としていやらしいことを考えてもいいのだけれど、そうじゃなくて、「あ、美しいなあ。この輝きはなんだろう」と思ってもいい。
どっちにしようかな、とその日、そのときの気分によって適当に「誤読」して楽しみ--そういうことが、まあ、詩を読むということかなあ。
*
秋山基夫「布引の滝を想像する夜」の1連目。
急な坂道をうつむいて登っていくと大きな木の蔭から白い帽子の人が現われ顔
を確かめる間もなくそのうしろ姿が坂道の底に消えてしまった。たしかに知っ
ている人だったがどうしても思い出せない。
ねじれたような、強引なことばの動きがいいなあ。1行目は、
急な坂道を(私が)うつむいて登っていくと(、)大きな木の蔭から白い帽子の人が現われ(、)(私が、その白い帽子をかぶった人の)顔を確かめる間もなく(、)その(白い帽子をかぶったひとの)うしろ姿が坂道の底に消えてしまった。
ということになる。「私(仮に秋山としておく)」と「白い帽子の人」の二人が登場するのだが、読点「、」のない文章のなかで二人が無意識(?)のうちに交代するようにして動いていく。で、無意識(?)であるからこそ、というのか、その無意識が無意識であることを明確にするようにして、といえばいいのか……。
たしかに知っている人だったがどうしても思い出せない。
という具合に世界が「一体化」する。明瞭にわかる部分(白い帽子の人がいる)と、不明瞭な部分(その人がだれか思い出せない)が一体になってしまう。
あら、うまい。
人と人--複数の人間の描き方、それと「私」との関係の書き方は、河邉、瀬崎、秋山の3人では、こんなにも違う。
風を待つ人々 | |
瀬崎 祐 | |
思潮社 |
秋山基夫詩集 (現代詩文庫) | |
秋山 基夫 | |
思潮社 |