詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『何処へ』(3)

2011-10-31 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(3)(書肆山田、2011年10月20日発行)

 いちばん優れた読書感想文はどういうものか。私はときどき思うのだが、小学生が切羽詰まって書く夏休みの宿題の読書感想文である。本を読んでいる時間はない。だから、タイトルだけ読んで、適当に内容を想像し、その想像した内容についての感想を書く。そこにあらわれる「正確さ」、あるいは「正直」は、ただその少年の「思っていること」以外は書かれていないという正直さである。無意識の内に動いていく欲望がそこにある。
 --これは、私の、夢というより、欲望そのものかもしれない。
 そして、強引に言ってしまえば、博覧強記の高橋睦郎の夢ではないか、欲望ではないかとも、私は思うのである。
 夏休みの宿題の捏造--そこにある欲望は、ことばを「原典」から解放し、自由に動かし、それがどこまで動いてゆけるかに賭ける悦びである。もちろん宿題に取り組む少年はそういうことは意識はしない。けれど、そういう悦びが肉体のどこかにある。

 きのう書けず、ふと、書けないなあと思ったときに思い浮かんだのが、いま書いたようなことなのだ。
 そして、きょう私がここで感想を書くのは「冥府行」である。この詩には「三つの短詩形によるエセーおよび自註ノート」というサブタイトルがついている。実際に「自註ノート」がついている。なぜ、高橋がこの詩を書いたのか。そして、どういう「意味」(意図)をこめたのか。--私は、この「自註ノート」を読まずに感想を書く。高橋の「意味」(意図)を無視して、ただ、それに先立つ「詩」を読む。小学生が本のタイトルを読んで感想を書くように、作者の「意図」などおかまいなしに、詩の部分だけを読んで感想を書きたい。
 私の感想が、高橋の「意図」に重なるとしても偶然にすぎない。まったく違ったことを書いてしまうにしても、それはしかし偶然ではなく、必然である。高橋のことばと私が出会ったときに起きる「必然」である。「自註」に従って読むとき、また別の「必然」と「偶然」があらわれるだろうけれど、それはまた別問題である。

 高橋の書いている詩の部分は、俳句、短歌、詩の三部構成で、それぞれ共通のタイトルをもっている。たとえば「杖」は次のように書き分けられている。

命終(みやうじゆう)やわが杖芽吹くこともなく

わが杖芽吹くなければうつしゑの海やま越えて影の國指す

杖を植ゑて水を遣(や)る。死者を裸にし、女を跨(またが)らせる、ただし未通女(おとめ)たるべきこと。

 この三つに共通するのは、杖を植えることである。杖はもちろん生きている木ではないから、それが芽吹くとはいうことはない。そのことに対して、俳句は「命終」ということばを向き合わせてている。短歌は「影の國」ということばと向き合わせている。詩は、エロチックに死と処女のセックスを向き合わせている。
 ここから私が感じること。それは。
 高橋は、「杖」ということばにふれた瞬間に動きだす高橋の「文学の記憶」を「原典」から解放して、自由にしているということである。博覧強記の高橋は「杖」ということばからいくつもの作品を思い出すだろう。いくつものシーンを思い出すだろう。そのひとつひとつは、「署名」をもっている。そして「意味」をもっている。その、そのことばが「作品」の内部に閉じこめられているときにもっている「意味」(作者がそこで言おうとしたこと)から解放し、いくつもの作品をつきまぜて(かきまぜて)、高橋の「肉体」に残ったものだけを自由に動かす。高橋は、ここでは、まるで小学生が切羽詰まって感想文を書くように、「杖」ということばから思い浮かんだこと(自分が知っていること)をつなぎあわせ、自分の欲望を書いてしまうのだ。
 ひとつのことばを手がかりに書く。これはひとつのことばに縛られることでもある。けれど、縛られながら、そのことばを思うときに浮かんでくる何か--肉体が覚えている何かを動かしてみる。そうすると、その動きにあわせて、何かが解放される。「書物」が解体される。「ことばの原典」が解体される。
 それは、破壊。
 同時に、復元。
 ただし、「書物」という「作品」そのものの復元ではない。ことばの力の復元である。「原典」を離れても、ことばは動いて行ける。高橋の「肉体」と交錯しながら、「ことば」が「ことば自体の肉体」を取り戻して動いていく。
 その運動に高橋は寄り添っている。
 そうすることで、高橋自身も、高橋の「肉体」を取り戻している。

 高橋にとっては、「ことば」だけが「肉体」なのだ。三島由紀夫と双子のように「ことばの肉体」を生きている詩人だ、と私には思える。
 「ことば」を解放し、ことばの自由を目指すとき、高橋の「肉体」も自由になり、自然に動く。
 このことは、たとえばいま引いた俳句・短歌・詩の、それぞれのことばの「出典」を明確にすれば、より正確に高橋のしていることを説明することになるとは思う。つまり、誰それの作家の何々という作品のことばを踏まえて高橋はこのことばをつかっている云々と指摘すれば、高橋のしている解体と復元、解体と解放がより具体的にわかるはずである。けれども、私は、そういうことをしなくてもいいと思っている。どんなふうに「出典」探しをしたところで、では、なぜ、高橋がその「出典」を選んだかということはわからない。高橋の「欲望」の底にあるものまでは「出典」探しではつきとめられない。ことばの「好み」までは「出典」からはわからない。
 むしろ、「出典」を無視して、そこに動いていることば、いま、解放されて動いていることばの「本能」を見ていく方がおもしろい。高橋の「肉体」に、つまり無意識的に動いている「思想」に近づけると私は信じている。
 「杖」の次の作品は「坂」。

秋の坂ことごとく黄泉(よみ)へ傾斜なす

坂なべて黄泉比良坂(よもつひらさか)なるなればわれは黄泉路(よみじ)を辿るいざなぎ

棺は坂に沿って挽(ひ)け。挽歌(ひきうた)は逆歌(さかうた)たれ。

 「死」と結びついていることばが多い。これは「杖」と重ね合わせると、もっと濃厚に感じられる。高橋の肉体がいま、死というのもと接近してながらことばを動かしていることが実感できる。そこまで来ている死--というと不吉な予言のようで申し訳ないが、高橋のことばは、どこか死にあこがれながら動いている。誰もが体験する死--けれど、だれも体験していない死。死んでしまえば、書けないという矛盾。その矛盾とあらがいながら、ことばを解放しようとしている。
 それは死を生き返らせるというか、死を生き生きと生きる(死ぬ)ということにつながっている。「死」に「いま」はないのだけれど、高橋は死を「いま」にしたいと本能的に欲望している。そして、あらゆることばを「死」を「いま」にするために動かしているように思える。
 「死」を復元する欲望。
 高橋は「書物」を往復しながら、「書物」のなかにある「死を復元することばの力」を目覚めさせている。そのことばといっしょに動こうとしている。

 そして、このとき、高橋の本能は「文字」だけではなく「声」とも交錯している。「視力」だけではなく「聴力」、そして「喉力(こんなことばがあるだろうか?)」とも交錯しているのを私は感じる。高橋のことばは「書物」にどっぷりつかっている印象があるが、その「書物」は深い「音」をももっている。「音楽」をもっている。
 短歌を読むと、特にそれを感じる。

黄泉竈(よみつへ)に火取(ひど)りたる食摂(じきと)りし者わが父不帰(かへらず) 祖父(おほぢ)不帰

 「意味」ではなく、ことばの「音」の響きあいが、「肉体」を深くめざめさせていく。そういう「音楽」がある。
 ことばを解放し、音楽を解放し、そこから新しく何かが生まれてくる。たぶん、ことばが、新たに生まれてくる。すでに書かれているのだけれど、だれも書いていないことばが。本能の、欲望の、ことばが。



今月のおすすめ
1 粒来哲蔵『蛾を吐く』
2 田中宏輔『the Wasteless Land Ⅵ』
3 高橋睦郎『何処へ』
4 田中郁子『雪物語』
5 松本秀文「速度太郎の冒険」



永遠まで
高橋 睦郎
思潮社
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高橋睦郎『何処へ』(2)

2011-10-30 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(2)(書肆山田、2011年10月20日発行)

 「書物戒」は高橋の「言語観」を端的にあらわしている。

書物を警戒せねばならぬ
書物は我等の目を盗んで増殖するから

 ここに書かれているのは「書物」だが、その「書物」を「ことば(言語)」に置き換えると、高橋の詩の「誕生の秘密」になる。ことばは増殖する。しかも、「我等の目を盗んで」、つまり「ことば」独自で増殖する。

書物を記憶した遺伝子も絶滅せねばならぬ
書物を記憶した遺伝子は書物の種子であるから

 「ことば」のなかには「遺伝子」がある。その「遺伝子」は「自己増殖」する。「種子」になり、かってに広がっていく。
 詩人は自分でことばを書いているのではない。ことばの遺伝子、ことばの種子に引きずられて動いているに過ぎない。--と書くと、言い過ぎになるかもしれない。けれど、「ことば」というのはたしかにことば自身の力で形を変え、動いていくものである。ことばには「過去」があり、「いま」と出会いながら、「過去」を作り替え、「未来」にしてしまう。「過去」を掘り起こせば掘り起こすほど、「未来」に近づく。そういう「矛盾」をことばは生きている。
 この「ことば」を「書物」と言ってしまうのは、高橋のことばが「書物」といっしょに育っているからである。「話しことば」ではなく「書きことば」、あるいは「声」ではなく「文字」。高橋のことばの「ふるさと」は「書物」なのである。

 書物のなかで、高橋は、夢を見る。作者が書いたストーリーがあるが、それとは別にことば自身がかってに動いて作り上げてしまう世界がある。作者の(そして読者の)「目を盗んで増殖する」ことばがある。
 その「増殖する力」こそ、高橋の「ほんとうのふるさと」かもしれない。
 「書物」など、どうでもいいのだ。
 「書物」をつくりあげるのは、「作者」ではない。ことばそのものなのだ。ことばを縛りつける何かを解き放つ--その解放のための「運動」を用意するのが作者ということになる。また読者ということになる。
 詭弁の一種になるかもしれないけれど、作者と読者(つまり「我等」)がいないことには、ことばは、我等の目を盗むことができない。我等かいるから、ことばは我等の目を盗むのである。我等がいなければ、ことばは我等の目を盗むこともできなけれど、増殖することもできない。
 これはつまり、ことばが自律して運動する、増殖するとはいいながら、そこには間接的に「我等」がかかわっているということである。--こういう「論理」が成り立つために、私たちは、ことばが自律運動で「書物」を作り上げるのではなく、「作者」がことばを動かして「書物」をつくりあげ、「読者」がそれを読むのだと信じ込むだけなのである。

 あ、めんどうくさい。
 私のことばは、なぜ、こんな具合に、まだるっこしく、同じところをまわるのだろう。まわりながら、ただまわるだけではなく、私は私のことばが螺旋状を描いて上昇、あるいは下降するように動けばおもしろいと願うのだけれど、どうもうまくいかない。
 高橋のことばが強靱で揺らがないからである。
 しかも面倒なことに、それは私からみると揺らがないだけであり、高橋にとっては解体しながら運動しているということが--私には分かる。
 高橋は、ことばを書きながら、そこに「意味」を出現させながら、その「意味」を信じていない。

書物を記憶した遺伝子も絶滅せねばならぬ
書物を記憶した遺伝子は書物の種子であるから

 という2行について、あるいは「遺伝子」について、私はいろいろ感想を書いた。それは私の感じ取った「意味」を語り直すということに等しいけれど、高橋がほんとうに書いているのは「意味」ではない。「意味」など信じていない。「意味」はいつでも、だれでもが抱え込むことができる。そんなものは、不必要である。不必要であるという言い方が乱暴なら、「意味」は必要に応じていつでもつくりだすことができる。その「意味」は肯定することもできるし、否定することもできる。
 「意味」はことばにとって「絶対基準」ではないのだ。「存在理由」ではないのだ。

 また、めんどうなことになってしまった。「意味」に「意味」はない--と書いたとき、それは「意味に意味せない」という「意味」を形作ってしまう。矛盾である。矛盾でしかいえないことがあり、その矛盾を言わないことには何もいったことにならない。ほんとうに面倒である。詭弁と弁解が交錯し、そこにあたかも何かがあるように錯覚してしまう。

 だから、ぜんぜん関係のないことを書くことにする。(だから、という「接続詞」でいいのか、は、わきに置いておく。)
 「アンアン」という作品。

この霊魂の暗夜
暗喩の庭に 杏が落ちる
杏はむろん 暗喩の杏
安易な解釈は許されない
「案ずるより産むが易し」は
ここでは成立しない塩梅(あんばい)だ
王は鮟鱇の肝から生まれるや
手にアンク あんよは上手
大地という餡パンの臍へ
案内もなく 行脚(あんぎゃ)する
按摩は アンドロジナスな世界の
アントナン・アルトー風の裾を手に
巨大なアンモン貝の謎を按手する
家の安本丹(あんぽんたん) 又の名 昼行灯(ひるあんどん)は
(ひょっとしたら 恐るべき赤んぼ(アンファン・テリーブル)?)
あーんとばかり 大あくび
アンチョコの暗記はまるでお留守
行火(あんか)の鞍馬にうちまたがり
アンプのボリュームを
unbelievable incredible
菴没羅(あんもら)型宇宙モデルの
甘皮が弾けるまで

 この詩は「あん」という音を含むことばを連ねたものである。「あん」を含むことばが他の「あん」を含むことばを呼び寄せる。
 ことばは、こういうことができる。
 そして、そこに「意味」を持ち込むこともできる。たとえば「王」と「昼行灯」ということばを手がかりに、ぼんやりした王と周囲の人間のあれやこれやを1行1行につけくわえることができる。その「あれやこれや」は高橋の意図した「意味」とは違っていても、「意味」を書いてしまえば(そういう感想を書けば、そこにそういう「意味」が生まれる)だから、「意味」はないのだ。

杏はむろん 暗喩の杏

 と、高橋はわざわざ「暗喩」ということばで隠された「意味」の存在をちらつかせているが、この1行がなくても、人は、わからないことばを「暗喩」と理解して、「意味」を探してしまう。
 でも、「意味」を探してしまうと、音が弱くなってしまう。音が解放する世界が狭くなってしまう。その狭さに入り込んではいけない。(狭い方が、楽だから、どうしても狭い部分を求めてしまうのが人間かもしれないけれど。)
 ここで楽しむべき(べきは、よくないか……)は、高橋のことばの「出典(読んできた書物)」の幅の広さである。
 「狭さ」へ入り込むのではなく、「広さ」で途方に暮れる。--ようするに、何が書いてあるかわからなくなることが、大切なのだと思う。
 「おーい、高橋さん。この詩はいったい何? 何が書いてあるかわかんないぞ。あん・あん・あん・あんとあんの音ばかり繰り返して、雑誌アンアンの宣伝かい?」と言ってしまうことが大切なのだ。
 そうやって「意味」を否定してしまうと、ことばがおもしろくなる。
 ことばは、どの「書物」にも存在しうる。高橋は、どの「書物」にも還っていくことができる。そして、その「書物」から、ふたたびこの詩に戻ってくることができる。
 そして、そこにことばの「過去」以外に、高橋の「過去」も混じってくる。
 「恐るべき赤んぼ」に「アンファン・テリーブル」とフランス語のルビを打つのは、このことばが「流通言語」だったとき、高橋はそれを「アンファンテリーブル」という音であらわしていたという「過去」(ある時代)の「証明」である。「過去」(ある時代)が役者の「肉体」に刻み込まれた「過去」のように見えてくる。
 まあ、見えても見えなくてもいいのではあるけれど。でも、見えてしまう。
 「あんよは上手」というふいにあらわれる「口語」にも、なんだか「遠い過去」を見たような気持ちになる。そうか、高橋にも「あんよは上手」ということばに誘われながら歩いた時代があるのだ。あるいはだれかを「あんよは上手」ということばで歩かせた「過去」があるのだ、とか。--こんな「過去」はもちろん間違っていて、それはほんとうは高橋の過去ではなく、読者の(私の)「過去」に過ぎないのだが、そういうながら、ほら、その瞬間、高橋と私の肉体が重なる。あ、ことばは、そういうところから動きはじめる、ということが瞬間的に分かる。
 ことばは自律して動く--とはいうものの、そのとき、肉体は「作者」と「読者」の交錯をも感じるのだ。それがあって、はじめて、その自律運動に身を任せることができる。それがないと、ことばの自律運動には、とてもついていけない。

 (きょうの感想は、支離滅裂だなあ。きっと、もっと別な作品について書けば、きょう書いたことが結晶のように固まるかもしれない--と自分自身に期待して、きょうはここまで。)

 あ。
 最後の1行。

甘皮が弾けるまで

 ここに「あん」の音がないのはどうしてだろう。「甘皮」は「あまかわ」ではなく「あんかわ」? まさか。でも不思議なことに「あまかわ」のなかの「わ」が、近くに「ん」の音があるよと言っているような気がしてくる。
 どうして?




小枝を持って
高橋 睦郎
書肆山田
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ロマン・ポランスキー監督「ゴーストライター」(★★★★)

2011-10-30 10:22:46 | 映画
監督 ロマン・ポランスキー 出演 ユエン・マクレガー、ピアース・ブロスナン

 雨。曇った空。冷たい風。--舞台はアメリカ東部の島がメーンなのだが、どこで撮ったのだろう。冬の冷たい感じが美しい。暗い色の統一感がすばらしい。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、ピアース・ブロスナンの住んでいる家の構造である。窓である。巨大な一枚ガラスの窓。ピアース・ブロスナンの書斎になるのだろうか、ユエン・マクレガーが「自伝」のためのインタビューをする。その部屋の窓が、なんともいえない「圧迫感」がある。ガラス窓だから、そのガラス越しに向こうの海が見える。波が見える。見えるのだけれど、それは見えるだけ。音は聞こえてこない。もちろん空気も入って来ない。巨大な一枚のガラスが世界を区切っている。「引き戸」なのかもしれないが、どうもそうは見えない。防犯・防衛もかねて、きっと強化ガラスなのだと思う。こういうのって、苦しくない?
 この外部との遮断、建物の外部がそこにあるのに出ていけない感じとは逆に、家の内部はドアがあっても閉ざされていない。ユエン・マクレガーの部屋へピアース・ブロスナンの妻が簡単に入ってくる。セックスもする。それはもちろん「秘密」にされるのだけれど、どうも、あの一枚ガラスの窓と比較するとき何か奇妙な感じがする。とても違和感が残る。
 見せたいものと見せたくないもの。見てもらいたいものと見てもらいたくないもの。それが、ごく一般的な市民感覚とは違うのだ。いや、市民感覚というと変かなあ。私の感じとは相いれない。
 イギリス人って、こういうのが平気?
 それとも、これはポランスキーの仕組んだ罠?
 まあ、映画の「罠」なんだろなあ。「雨」もそうだなあ。この映画では、雨も演技しているなあ。雨というのは不思議だ。雨が降っているからといって、ひとは動けないわけではない。向こう側が見えないわけではない。でも、雨だと、なんとなく動きたくない。濡れたくない。--そういう気持ちに逆らって(いや、雨はイギリス人は平気だから?)、ユエン・マクレガーが「前任者のゴーストライター」が死んだ現場へ自転車で行く。このあたりの、「抵抗感」(肉体が感じる空気の感触)が、なんともいえずざらついている。爽快感がない。マット・デイモンの出るスパイ映画だと、もっとからっとした空気のなかでものごとがつきつめられていくけれど、ポランスキーの映画では、そうじゃないねえ。うーん。
 そうして、だんだん「距離感」がおかしくなる。人間関係の「距離感」が。だれが味方? だれが敵? 敵味方というと変だけれど、「事実」が人によって違ってくる。そこに「見える」ものは「ひとつ」なのに、そうではない。その「ひとつ」は別の角度からみると、まったく逆のものである。
 あ、いつ、あの巨大な一枚ガラスをユエン・マクレガーはすりぬけたのだろう。そうして、いつ簡単に開く扉を固く閉ざし、「自己」を確立したのだろう。「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったのだろう。

 「ゴースト」が「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったとき、それまで「リアル」だった人間が「ゴースト」になる。

 それで終わればハッピーエンディング。
 でも、ポランスキーだらか、そんな具合には終わらないね。観客がかってに「真実」を知ればそれでいいだけであって、ストーリーは、また暗く冷たい雨のなかへ封じこめられる。濡れて、冷たくなって、それでも「真実」を自分で探す勇気はあるか。
 見えているものと見えないものの区別を自分でつくりだせるか。見せたいものと見せたくないものの区別を知った上で、見えないものを見るだけではなく、それが見えるようにすることができるか。
 ちょっときびしいことを問いかけてくる映画である。
 でも、まあ、こういうストーリー(意味)はどうでもいいなあ。あの、雨の感じ、空の感じ、冷たい冬の雨に濡れる感じ--そのなかで、体の芯が凍える感じを味わえばそれでいい映画である。それ以上は、ストーリーの付け足し。



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高橋睦郎『何処へ』

2011-10-29 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(書肆山田、2011年10月20日発行)

 高橋睦郎のことばには「背後」がある。「歴史」あるいは「過去」がある。だから劇的である。
 それは「芝居」の構造に非常によく似ている。
 「芝居」(戯曲)と「小説」の違いは、芝居では「過去」が説明されない。役者は「過去」を背負って舞台に登場する。舞台に登場したとき、役者はすでに生きた過去をもっていて、役者が動いていくとき、その動きの中に、つまり「いま」が「未来」へと突き進んでゆくときに、その動きの中に過去が噴出する。ぱっと飛び散る。そして「いま」を大きく変化させる。それが芝居だと私は思っている。
 そのときの役者の肉体、戯曲のことばの動きに、何か通じるものがある。「小説」のように、実はこれこれにはこういう過去があって--と過去を振り返ったりはしない。「いま」のなかを動くときに、ことばの「過去」が噴出する。

 「肉体という都市」の書き出し。

モンス・デジデリオ あの都市の崩壊にこだわりつづけた
謎の画家の画集は見たか まだならぜひ見るべきだ と
あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由は 何だったか

 「あの都市」とは「どの」都市か。知っている人は知っている。分かっている人は分かっている。私は「モンス・デジデリオ」ということばが「画家」の名前か、「都市」の名前かも判断がつかず--そして何の根拠ももたずに画家の名前だと思うのだが、その「根拠」のことを私は「ことばの過去」と呼ぶのである。「モンス・デジデリオ」を知っている人は(分かっている人は)、当然、「あの都市」が分かる。そして「崩壊」も分かる。そういう「分かる」ことがら、「過去」を「いま」のなかに噴出させながら「画集を見るべきだ」と迫る。そして、そのとき、さらにことばの奥から噴出してくるのは「あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由」という「過去」である。そこには、「あの都市」の「あの」と同じように「そのようにも」の「その」がある。分かる人にしか分からない「過去」がある。
 で、この「分からない過去」が凝縮されたことばが展開する世界というのは、「過去」が分からないゆえに何のことかはっきりしないのだけれど--でも、なぜか、分かるのだ。それはまさに芝居と同じで、そこにある「肉体」が動くので、その「肉体」に引きずられてしまうということである。役者の特権的な肉体と同じように、高橋のことばは特権的に動いている。その特権の強さが、高橋の詩の魅力である。

 と、こんな抽象的なことを書いても感想にならないかもしれない。けれど、一度は書いておきたかったことなので、書いておく。
 高橋のことばは特権的である。「過去」を背負っている。それは高橋が多くの「文学」をくぐりぬけてことばを動かしている。ひとつのことばには、必ず「過去」という「文学」がある--ということでもある。
 たとえば「モンス・デジデリオ」は特別の「過去」をもち、また「画集」は特別の画集である。「見るべきだ」ということばさえ、「いま」を突き破る特権をもっている。「理由」をもっている。

 あ、また、同じ「抽象」を繰り返してしまった。
 「特権」の印象がうすい(弱い?)作品を読み、そこから私の感想を動かしていった方がいいのかもしれない。
 「泳ぐ母」を読んでみる。

泳ぐ母を見たことがある ただ一度
ぼくが水練を覚えた 小学三年生の夏
繋がれて水に浮かぶ舷(ふなべり)に つかまっていると
いきなり白い手が ぼくの日焼した手の横に
見ると濡れたシュミーズの母 たちまち泳ぎ去った
「何年ぶりかしらん」眩しい笑みと声音(こわね)を残して
たしかにそこにいたのは その時より十数年前
ぼくを産むはるか以前の お下げ髪の女学生
どんな衝動が その時の母を少女に戻したのか
いま息を引き取ったと 遠い島の病院から
電話があった朝 思い浮かんだのは 泳ぐ母
七十八歳から十七歳に戻り 泳ぎ去る母
泳ぐ後ろ髪は いまも十七歳のまま
変幻してやまない 昼下がりの雲の塔の下
息子は夏ごとに老いを重ねて 残される
肝斑(しみ)の手で この世の舷につかまったまま


 ここに書かれていることばは、「文学」の「過去」をもっているというより、高橋自身の「過去」を噴出させる詩である。--と、一見、見える。
 「遠い島の病院」から「ぼく(高橋)」に母が息を引き取ったと電話が入る。それを聞きながら高橋は小学生のころを思い出す。泳ぐ高橋のかたわらを母が泳いで去っていく。そういうことを思い出す。
 ところが。
 その母は、実は、「十数年前」の母、「十七歳」の母である。そんなことは、実際にはありえない。だからこそ高橋も「変幻」ということばを差し挟んでいる。
 しかし、この不思議な「幻」、その「記憶」こそ、高橋のことばの運動をそのままあらわしているように私には思える。

 高橋(ぼく)が思い出したのは、実際の母ではなく、母が母になる前の少女である。その少女は高橋の生まれる前のことであるから、高橋はその少女を知らないはずである。しかし、高橋には、それが見える。
 知らないものが、なぜ、見えるのか。
 それは、人がそれぞれに「過去」をもっているからである。「いま」ここにいる母には「過去」がある。十七歳の夏という過去が母にもあるはずである。その過去が、「いま」の母から見える--そういうことは、実際にあるのだ。
 高橋は十七歳の母(少女)を知らない。知らないけれど、いまの(つまり三十歳くらいの--十七歳+小学三年生の年齢=三十歳くらいか)姿の向こうに、少女の姿が思い浮かぶということがある。その姿を、あたかも知っているもののように明確に思い浮かべることができるときがある。
 いや、これは正確ではない。正確には、三十歳の女(母)の「肉体」のなかから、十七歳のときのままの「肉体」が噴出してくるのを、私たちは見る瞬間がある。リアルに感じ取ることができる瞬間がある。
 人には「過去」があり、その「過去」が突然「いま」の「肉体」を揺さぶるのである。そして、その揺さぶりのなかに、突然、過去の肉体が動くのである。
 すぐれた役者の芝居を見ていると、その「役」の人物がどんな「過去」をもっているか、ふと見えることがあるように……。

 この「母の肉体」から、知らないはずの「過去」、「十七歳の肉体」が噴出してくるのを見たときのように。
 あることばのなかから、知らないはずの「過去」が噴出してくるのを見ることがある。高橋のことばにふれると、いまそこに書かれていることば以外に、そのことばの「過去」が見える瞬間がある。
 このとき見えた「ことばの過去」というのは、幻である。
 実際に、そのことばの原典を知っている高橋にとって「ことばの過去」は幻ではない。それは三十歳の母にとって十七歳の少女の肉体が幻ではなく、はっきりした過去であるのと同じように幻ではない。ただ、その十七歳の少女が生きていた時代をいっしょに生きていない「ぼく(高橋)」にとって幻であるに過ぎない。

 ちょっとごちゃごちゃしてきたが……。

 私は高橋が書いていることばの「過去」(出典、原典)を知らない。けれど、そのことばを読むときと、そこに「手触りのある過去」を感じる。それがはっきり動いているのを感じる。
 このときの私の感覚は、たぶん、「泳ぐ母」のなかで高橋が書いている「十七歳」の少女の肉体を見た記憶にとても似ていると思うのである。
 
 また、こんな書き方をすると飛躍が大きすぎるが。
 高橋は、「いま」ことばを書きながら、そのことばのなかに、やはり「過去」を感じているとも私には思える。「十七歳」の少女の肉体をリアルに感じるように、何か「過去」を感じ、感じるがゆえに、それをことばにしていると思える。
 たとえば「泳ぐ母」の2行目の「水練」。
 「水泳」でも「泳ぎ」でもなく「水練」ということばをつかうとき、その「練」の文字のなかにある不思議な「肉体」の動き。そして、それが「覚えた」ということばと結びつくとき、いっそう強くなる「肉体」の意識。「肉体」の感覚。
 「覚える」というのは、いつでも「肉体」で「覚える」ことである。
 そして、この「肉体」で「覚える」ということこそ、「ことば」の奥深いところの「過去」なのだ--というのは、まあ、私の考えなのだけれど。
 (田村隆一「帰途」に関する「日記」を参照してください。)




高橋睦郎詩集 (現代詩文庫 第 1期19)
高橋 睦郎
思潮社
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田中郁子『雪物語』(2)

2011-10-29 13:59:59 | 詩集
田中郁子『雪物語』(2)(思潮社、2011年09月30日発行)

 田中郁子の書いている「時間」と「世界」、「わたし」を超えて「わたしたち」となる「肉体」。その不思議さ。その深さ。その豊かさ。
 詩集を読みながら、傍線をひいたところが何か所もある。その一部と、そのときふと思ったことがらを、ただ書き記してみる。

降りやまぬ雪の日の遠い夢の中で 女は私の眠りをひたすらねむり 私はもう誰のものでもないない眠りをねむった
                                (「雪物語」)

 「私」と「女」は区別がない。「男」ははっきり区別されるはずだが、--つまり、そこにセックスが存在するのなら、セックスが可能であるためには「私」と「男」は別個の存在でなければならないはずだが、不思議なことに男をとおして「私」と「女」の区別がなくなる。そこには「セックス」という「こと」があるだけなのだ。
 「私」は「男」であってもかまわない。
 この詩には、馬も登場するが、その馬であってもかまわない。
 何よりも「雪」が「私」であり、「女」であり、「男」であり、「馬」なのだ。
 「雪」のふる日には、そういうことが起きるのだ。
 いま引用した部分に先立って、次の部分のがある。

女は瞬きもせずに一点を見つめてい 男は降る雪の中 杉山に出かけたが夕刻になっても帰らなかった 「あの人はまた白い馬に出会ったのだわ 訪ねてくる友人もなくさみしくて」 女の声はたった昨日の私の声のようだった

 ここで書かれている「ようだった」は「想像」ではなく、まさしく「そのもの」なのだ。昨日の私の声なのだ。それは昨日の私なのだ。そんな具合に、時間を超えて、いや時間を超えるからこそ、その瞬間に、ひとりひとりの区別もかき消され、そこにもし区別があるとしても、それはただそれを思うとき浮かび上がってくる区別に過ぎない。「こと」を明確にするためにあらわれる「もの」(存在)にすぎない。「こと」のなかでひとは「私」になり「女」になり「男」になり「馬」になる。そして、「雪」にもなる。

いきなり糸きりばさみを投げつける
キンとタタミにはねかえる
それはたった昨日の断片
                           (「たどりつけば憶う」)

 この「昨日」とはいつのことか。きょうが10月29日なら、それは10月28日か。そうではない。はるか前のことである。何年も前のことである。けれど、思い起こすときそのあいだの「時間」は消えて「昨日」になる。
 過去はいつでも「昨日」である--だけではなく、1秒前、いや、1秒前ですらなくて「いま」なのである。
 同じ詩の別の部分。

暗い山峡のきびしい林業の日々が板戸に残る
それはたった一つ前の世代のこと

 「一つ前の世代」。それは年にすれば10年か20年か、あるいは 100年か、それがどのように数えられようとも「一つ」という「単位」にくくられてしまう。
 田中の時間はいつでも「ひとつ」に、つまり「いま」に集約する。
 「いま」は「過去」であり、「いま」のなかに「過去」があるから、「いま」は同時に「未来」である。つまり「永遠」なのだ。

人語が絶えた家ではどこかふしぎな音がする
しかし何年何十年とながく孤立すると
ふと詩文のこころを取り戻すことがあるのか
こっそりとささやきはじめている
                                (「風の家」)

 「人が絶えた」ではなく「人語」と田中は書く。その「人」と「語」のあいだにあるものを田中は見ている。ひとは「語」と出会う。「語」のなかで「わたし」と「他者」が「ひとつ」になるということだろう。
 もし、誰とも出会うことができなかったら「語」はどんなぐあいに変化する。
 「こころ」を取り戻す。つぶやく。そのときの「こころ」とは「わたし」が「わたし」に出会うことによって生まれる。「孤独」である。
 けれど、とても不思議なのは、田中がこうしてことばにするととき、「家」の「孤独」は消える。「私」の「孤独」も消える。「家の孤独(こころ)」と「私の孤独(こころ)」が出会い、「一つ」に「合わさって」、そこに「世界」が生まれる。

女はいつもうすい衣ひとつで出たり入ったり
くりかえしくりかえし 雪に混じって形を結ばない
雪の降る向こうへ向こうへ遠ざかっていく
わたしも向こうへ向こうへ体を移していくのだが
                            (「あれは向こうへ」)

 「くりかえしくりかえし」「向こうへ向こうへ」、さらに「向こうへ向こうへ」。田中は反復する。反復するとき、そこに必然的に「合う」が生まれる。くりかえすとき、その行為へ「複数」であるはずである。1回、2回、3回と「複数」であることが繰り返すことなのだが、それは「外形」のことであって、その行為の内側では、くりかえせばくりかかすほど、その行為が「ひとつ」になる。揺らぎのないものになる。
 「向こうへ向こうへ」はもっと不思議だ。と向こうへ向こうへと遠ざかっていけばいくほど、それは「肉体」のなかの奥深く、とても「近い」どこかへ--つまり、けっして忘れることのできないところへ近づいていく。
 まるで「焦点」のように「一つ」を通り越して「無」になるように。
 田中の書いている「一つ」(合体)は「無」なのだ。
 「無」をくぐりぬけるからこそ、その瞬間に、「わたし」は何にでも「なる」。「わたし」が「わたし」以外のものに「なる」ことを邪魔するものが何もない--その何もないが、「無」なのである。

帽子がこんなに年月を保存するなんて
いつの間にかわたしを脱ぐなんて
                               (「萩の家」)

 「年月」と「思い出」はここでは同じことばとしてつかわれている。そして、その「年月」というのは、「保存」ということばがとてもおもしろいけれど、遠くにあるのではない。「いま/ここ」にある。
 その「いま/ここ」にある「時間」によって、「いま/ここ」がゆっくりと過去へとときほぐされてゆく。ほどかれてゆく。そうして「いま/ここ」が「過去」と「一つ」になる。
 --そう思ってみても、というか、その思いを超えて……。
 「わたしを脱ぐ」の「わたし」がとても不思議で、とても魅力的だ。「わたし」とは「田中」? それとも「帽子」?
 つきつめようとするとわからなくなる。
 どっちでもいいのだ。あるいは、どっちでもあるのだ。
 そう思ったときの、この瞬間の、不思議な愉悦。
 私(谷内)が、「帽子」か「わたし(田中)」になってしまったような気持ちになる。 その詩のつづき、そして、最後。

また 呼ばれているような気がしてふりむくと
若い母親が買ったばかりの帽子を着せたわたしを抱いて
オイデオイデをさせているのでした
それはバイバイだったのかも知れません

 この、どちらでもありうる「世界」の、愉悦。その美しさ。哀しさ。いとおしさ。

その名は「盗人萩・盗賊室内に潜入し足音せぬよう蹠(アシウラ)を側だて其の外方をもって静か歩行する其の足跡が莢(サヤ)の形状相類するによる……」とある その間わたしは日常から抜け出していた
                             (「ヌスビトハギ」)

 図鑑で「ヌスビトハギ」を調べる。そのことばを追う。「その間わたしは日常から抜け出していた」。抜け出して、どうしていたのか。そこに書かれている「ことば」、ことばの向こうにある「こと」と「一つ」になっていたのだ。
 「遠い何か」と「一つ」になっていて、そして、そこからまた「日常」に戻ってくる。その往復と、繰り返し。 

 田中は、時間を往復する。世界を往復する。そして、複数の「いのち」になることで、田中自身の「いのち」を「一つ」にする。


ナナカマドの歌
田中 郁子
思潮社
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田中郁子『雪物語』

2011-10-28 23:59:59 | 詩集
田中郁子『雪物語』(思潮社、2011年09月30日発行)

 田中郁子『雪物語』には独特の時間と世界がある。「ノドの地」を私はゆっくりと時間をかけて読んだ。

去る日には百日草の花があかい
カラスアゲハがふるえながら蜜を吸っている
山と山に囲まれた辺境があった

 この3行で、田中がどうやら辺境の集落、ふるさとを離れ、どこかへ(たぶん町の方へ)出ていくということが分かる。ふるさとの山、百日草、アゲハ蝶。だれでもがこころをとめる「土地」が静かに描かれている。一種の「望郷の詩」である。まだふるさとを離れていないのだが、こころはすでに「望郷」のなかにある。
 --と読み、そう書こうとして(ことばにしようとして)、私はふと立ち止まる。どこか、何かが違う。

去る日には百日草の花があかい

 この書き出しの、「あかい」という用言のつかい方。「去る日には百日草の花が咲いていた(咲いている)」ではなく「あかい」。いろいろな咲き方があるのだが、田中は「あかい」という「色」のなかにすっぽりと入り込んでいる。「あかい」が「世界」になっている。花を見ているのではない--というと誤解をまねくかもしれないが、田中は花を見ているのではなく、色を見ている。そして、その色というのは「あか」というよりも「あかい」という状態である。「あかい」--「あかく・あること」。その「こと」を見ている。田中は風景を絵のように見ているのではなく、風景を「こと」として見ている。「いま/ここ」で「おきている・こと」。

風が吹いた畔草がゆれた
ここからはミゾカクシ キケマン マツヨイクサが見える

 田中は「見える」と書く。だから、それは一見、ふるさとを絵のように見ているような感じがする。そして、実際、私にも「ふるさとの絵」が見えるのだが、田中が書いているのは「絵」ではない。「絵」のなかにある「こと」、「おきている・こと」なのだ。
 田中が書いている「こと」とは、では、何か。私が感じる「こと」とは、では何か。別なことばで言いなおすとどうなるのだろうか。

何ひとつ紡ぎはしない無人の静かな真昼
ただそこには田に合う水と田に合う品種があった
早苗が植えられた稲穂は刈り取られ何かが終わった

 「こと」とは「合う」である。「こと」を田中は「合う」ということばのなかに凝縮している。
 「合う」とは田中が書いているように、たとえば「田に合う水」という具合に二つのものが出会うことである。ただ出会うだけではなく、出会うことで、いままでなかったものを生み出すことである。「合う」という「こと」のなかから「何か」が生まれる。
 ここでは田と水が出会い、さらに稲(その田に合う品種)が出会い、米を生み出す。米を生み出すということは、「暮らし」を生み出すということである。米を育て、食べて生きる暮らし。
 「合う」ということから「世界」が始まる。世界が動く。
 田中は、その「世界の動き」(動く世界としての「こと」)を見ているのだ。
 「こと」は「出会い」にはじまり、「合う」をとおして何かを生み出し、そして「終わる」。

早苗が植えられた稲穂は刈り取られ何かが終わった

 「終わった」らどうなるか。「時間」が残される。
 私は最初、この1行で、一瞬まごついてしまった。「早苗が植えられた稲穂は」とつづけて読んでしまって、ことばを負えなくなったのである。「意味」がわからなくなったのである。
 この1行は、ふつうは2行にわけて書く。「早苗が植えられた/稲穂は刈り取られ何かが終わった」。散文で書き直せば句点「。」が必要である。(「風が吹いた畔草がゆれた」もふつうに書けば「風が吹いた/畔草がゆれた」であるだろう。)しかし、田中はそこに句点「。」をはさまない。「1字空き」もはさまない。つないでしまう。
 ここに、田中の「時間」の、「思想」の特徴がある。
 「時間」のなかに「区切り」、句読点「。」のようなものはない。それは「こと」として連続している。
 「こと」が「合う」ということばのなかで、区切り(句読点)のないまま二つの存在が出会うように、「時間」のなかでは、ある時間と別の時間が出会い「こと」を起こして、つながっている。つながるだけではなく、常に変わっている。変化しているけれど、そこには「切断」が存在しない。
 「何かが終わった」の「何か」は、矛盾した言い方になってしまうが「時間」が「終わった」のである。苗を植え、育て、刈り取るという一連の「時間の動き・くらしのこと」が、ふるさとを去ることで「おわる」のである。
 ふるさとは、ずっーとそこにある。けれど、そこで田に合う水、田に合う稲と出会い、苗を植え、育て、刈り取り、生きるという「こと」、その一連の「つながり」が終わる。「時間」が「終わる」。
 これからも田中に「時間」はあるが、「ふるさとの時間」は「終わった」。
 この「時間が終わった」という認識をくぐりぬけて、詩は佳境に入る。

去る日に後ろを振り向く
一億年前の馬が見たものが畔草のなかにあるのではないかと

 「後ろを振り向く」のは「わたし(田中)」である。けれど、そのとき田中は田中であって、田中ではない。田中は田中自身の「時間(暮らし)」を見るのではない。田中が苗を植え、育て、刈り取っている過去の姿を見るのではない。それを見ようとするのではない。
 田中が見るのは、「一億年前の馬」であり、また「一億年前の馬が見たもの」である。つまり、このとき田中は「一億年前の馬」になっている。振り返ることで、「一億年前の馬」を見て、「一億年前の馬」に会い、「一億年前の馬」となって(合体して、--このことばのなかに「合う」がある)、そして畔草を見る。
 「いま」と「一億年前」が出会い、そこに「馬」があらわれる。「一億年前の馬」はどんな風景を見たか--それを、いま、田中は、見たように感じるのだ。
 この超時間的な感覚が、とても自然で、美しい。ふいに「一億年前の馬」が振り返るのが見える。一億年前の馬、というもの私は見たことはないが、見える。そして、その馬が見ているのものが見える--ではなく、馬が振り返って見ている「こと」が見える。その「こと」のなかで、私は見えないものを「見る」。「見えた」と感じる。
 何が見えた? どんな「こと」が見えた? --そういう具合に、論理的に問い詰められると答えることはできないのだが、一瞬、何かが肉体のなかをさっと通りすぎていく。その感覚に、私はふるえてしまう。
 田中の書いている「時間」と「こと」に感応し、ふるえてしまう。

けれど目路のはるかで切り株がならび
キャタピラの沈んだ跡に水があおく光っている
収穫の後の瞬かぬ放心の目
わたしたちの生涯はその繰り返しで終わる
辺境の水田で無数のわたしたちは
限りない労役を惜しまない
それでも願ったものを手にすることは少ない

 「わたしたち」とはふるさとの人々(農家の人々)のことであるのだが……。
 私には、それ以上のものに感じられる。そこには田も水も、そして百日草やカラスアゲハや一億年前の馬もいるように感じられる。区別がない。人間・動物・植物・それから鉱物(?)を超えたものが「わたしたち」。あるいは、それらが「合う」ことによって動きだす「こと」が「わたしたち」。
 「わたしたち」は、田(の泥)も水も、もちろん人間も「労力を惜しまない」。けれども、それがどんなに「合う」をめざしても、「願ったもの」に手がとどくことは少ない。少ないけれど、さらによりよい「合う」をめざして労力を惜しまない。
 この不思議な「わたしたち」を田中はもう一度書いている。

いかなる日にも風が吹いた畔草がゆれた
チカラシバ アメリカセンダン アカマンマ ツユクサ
何ひとつ装うことのない無人の静かな夜明け
何も言わなかった田が牛のように起き上がり
背から泥土をこぼし近づいている

 「田」は「牛」になる。この変化(変身)のなかに、田中の「合う」の「合体(一体)」と「こと」がある。

--田は田であるところと田でなくなったところがあるが
--田はただ田であり続けたい--白い息を吐いて言う
そこにはわたしの影が長い列をつくってうなずいている

 牛のなかには「わたし」がいる。そして、その「わたし」は「長い列」をつくっている。「わたし」はひとりではない。「わたし」は「わたしたち」なのだ。そして、そこには「人間」だけではなく、「世界」そのものが「一体」になっている。

何ということだろう
わたしたちは地の果てにいる
雑草と穀物と根菜類の地に埋もれている
それだからか
永遠のことばが風になる畔草になる
お別れに群れて咲くママコノシリヌグイに声をかける
この世でながく辺境の風に吹かれると
ただ 野花の名前をおぼえてしまうのだと……
ただ 声のないものの声を聞くのだと……

 「人間」を超えて「わたし」が「わたしたち」に「なる」。そのとき「永遠」があらわれる。あらゆるものに「なって」、あらわれてくる。
 「野花の名前をおぼえてしまう」の「おぼえる」にも、田中のしなやかな「肉体」を感じる。「おぼえる」は「知識」ではない。「肉体」である。田中の「肉体」は「ママコノシリヌグイ」にも当然「合体・一体化」し、「わたしたち」に「なる」。「わたしたち」に「なって」、そこで起きることを「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」は、いつでも「つかえる」。
 (田村隆一の「帰途」について書いた「日記」を思い起こしてください。)
 そして、田中は、

声のないものの声を聞く

 のではなく、

声のないものの声を、その声のないものにかわって声にする

 そして、詩が生まれる。
 この詩は、そうやって誕生した詩である。ここには百日草が生きている。カラスアゲハが生きている。風が生きている。畔草が生きている。田が生きていて、水が生きている。一億年前の馬も、無言で働く牛も生きている。「わたしたち」が生きている。その「声」を田中が、あらゆるものたちに押されるようにしてしずかにことばにしている。




雪物語
田中 郁子
思潮社
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柴田基孝再読(補足)

2011-10-27 23:59:59 | 詩集
柴田基孝再読(補足)(2011年10月24日、よみうりFBS文化センター「現代詩講座」)

 きのう「柴田基孝行を読む」という催しがあって、きょうは、いわばそのつづきのことを話します。いつもは一篇の詩を取り上げるのだけれど、今回はいくつかの詩を行ったり来たりして、柴田さんの詩の特徴について話してみようかな、と思います。

 柴田基孝さんの詩を読むと、「のど」が奇妙なつかわれ方をしている。「のど」というのは、基本的に「声」を出す器官(肉体)。でも、柴田さんは「声」というものをあまり信じていない。「音」が大好きなくせに、人間が出す「音」が嫌い。
 というと変だけれど、ことばではない「音」の方に関心がある。「うがい」とか「咳」ですね。正直になにかを言おうとするとことばにならずに、ことば以前の「音」になる。その「音」のなかに柴田さんがいる--という感じです。
 「音楽」という詩があります。『無限氏』という詩集のなかに入っています。

ドメニコ・スカルラッティを
がさがさと弾く音が流れてくるが
その音のなかに
どうみても
咳をする坂道がある
塀が たくさんつづく門構えの
カニのような家がある
結局どこを探しても
人間の球根の影を宿した音は
雨の音のほかにはない
じぶんのなかの雨のほかには……

 いろいろ不思議な表現が出てくるけれど、いちばん不思議なのは「咳をする坂道」。まあ、その坂道をのぼるとき(くだるときでもいいけれど)、ついつい咳をしてしまうということも考えられないわけではないけれど、そうではなく「坂道」そのものが咳をするとも考えられますね。だから、とっても変な感じがする。ようするに「意味」がわからないという感じがする。
 「咳をする坂道」っ何、と聞かれたら困る。すぐには自分のことばで言い換えられないですよね。つまり「意味」がわからない。私は「意味」がわからないものは、まあ、ほうっておきます。いつかわかるようになるかもしれないし、わからなくたって別に困るわけじゃないですから。
 ちょっと脱線しました。
 その行の周辺の「塀が たくさんつづく門構え」「カニのような家」というのは、絵に描くことができる。「カニのような」という比喩にはとまどうけれど、カニの絵は描ける。そうすると、この詩は、音楽を会画風に表現したものといえなくはない。
 すばらしい音楽を聴くと、何か情景が浮かんでくる。そういう情景を描いた詩だといえるかもしれない。その情景のなかに坂がある。その坂の両側に塀があって、門があった、家がある。その家は「カニのような」形か、色かをしている。柴田さんは、あまり色にはこだわっていないように感じられるので、ここはやはり形かな。
 で、「坂道」。これも「坂道」だけなら絵に描くことができる。でも、「咳をする坂道」になると、突然、絵に描けなくなる。
 意地悪ですねえ、柴田さんのことばは。
 私は、こういうときは絵を求めない。絵を考えない。
 では、どうするか。
 書かれていることばを、音そのものとして聞こうとする。そうして、その瞬間、とても不思議なことを経験する。

咳をする坂道がある

 この行のなかには「さ行」の音がひびいている--とは、今回は、私はいいたくない。この1行を読んだとき、私のなかで何が起きる。「咳(せき)」という「音」が消える。そして、その奥から「咳」そのものの音が聞こえてくる。「ごほん」「こほっ」その他いろいろな音があるだろうけれど、「意味」になる前の、「咳」の実体を結びつける「音」そのものが聞こえる。それは「頭」の反応というより「肉体」の反応。言い換えると、私の咳をした肉体の記憶が甦ってくる。
 そして、このときの「肉体」の記憶というのは、病気の咳とはまったく違う。苦しい咳とは違う。「おっほん」とか「えっへん」とか--自分はここにいる、という感じのことを主張する「咳ばらい」の咳ですね。おい、坂よ、おれが登ってるんだぞ。つらいんだぞ、気づけよ、という感じですね。そう考えると、ふいに、そこに柴田さんが見えてくる。柴田さんは、この冊子の写真ではやせているけれど、私の知っている時代の柴田さんは太っていましたねえ。坂を登るのは、苦手だったかもしれない。そういうひとが、坂を登りながら、いやだなあ、と思いながら「いやだなあ」と言いたくないので、「えっへん」と空咳をしている--そういう感じって、おもしろいと思うなあ。
 似た「咳」を書いた作品があります。
 『水音楽』のなかに「パン屋にパンを買いにいった日」という作品がある。そのなかに出てくる「咳ばらい」。

おおきな土佐犬が 前を
尻をふりながら散歩しているので
咳ばらいしてみたがよけてくれない
しょうがないので土佐犬の後につき従った

 この作品の「咳ばらい」の咳を思い出す。
 ほんとうは、ここをすばやく通りすぎたい。でも、できない。土佐犬にかみつかれたら困るしなあ。そういう感じで、ちょっとどいてよ、と思いながら柴田さんは咳をしている。おかしいですね。滑稽ですね。
 で、音楽に戻ると。
 音楽は、横道をゆくわけにはいかない。ついていくしかない。本のように読みとばすわけにもいかない。ちょっとどいてといわずについていく--けれど、いいたい。で、思わず咳をしてしまいそうな部分--そういうことを考えました。
 また、こんなことも考えました。
 この「咳ばらい」の咳を思い出すのは、その前の行に「がさがさ」という荒れた音が出てくるからですね。同時に、その「がさがさ」とは反対のねっとりした感じがする「どうみても」という音がある。

がさがさと弾く音が流れてくるが
その音のなかに
どうみても
咳をする坂道がある

 「がさがさ」。のどがかわくでしょ? 「どうみても」。この論理の追いかけ方、なんだかねっとりしていませんか? がさがさがのどりねっとりとはりつく--この矛盾した感覚から肉体を解放したい。「こほっ」という感じで吐き出したい。自分を楽にしたい。不快感を吐き出したい。
 不快感、いやなことがあったら、私なんかはすぐ怒りだしてしまう。怒るというのは、ことばで自分の主張をするということだけれど、柴田さんはずいぶん違う。ことばにしないのです。でも、音は出す。それが「咳」ですね。
 いつか機会があれば話したいのだけれど、柴田さんの詩には「半分」の「半」をつかったことばがたくさんある。咳は「半分」の「声」ですね。ことばはないけれど、自己主張する。ちょっと覚えておいてくださいね。
 ことばではなく、けれど「声」を出す。いや、音を出す、の方がいいですね。
 この「音を出す」ということでは、まり、おもしろい作品があります。
 「裏地図」という作品。

花蘇芳(はなずおう)の葉がふとって
枝が大大的にしなだれてきたので
それを見ているわたしの首も
たいへんしなだれてくる
目はいつも足首だけみることになって
視野が足の幅に限定されることはつらい
そしてかなしいことである
ボードレールの「旅への誘い」の歌の尻尾をききながら
水っぽい唾がわいてくる
唾はへんに心を浸食するものである
だから なんべんも
心の袋地の行きづまりでガラガラと含嗽をするのだ

 ここに出てくる「含嗽」。これは、やっぱり「のど」の解放ですね。のどに絡みついている「ことば」にならない「音」を解放する。いや、捨て去る。
 「意味」、つまり「頭」で考え、整理することばとは違う何かがある。それとは違った「ことば」が「肉体」にはある。それをなんとかしたい。
 さっき「咳」のとき「咳ばらい」を例にとって、いわば「空咳」のことを言ったのだけれど……。この「裏地図」の「含嗽」とつなげてみると、ちょっとおもしろい。比較するとおもしろい。
 なぜ、咳ではなく、嗽になったのだろう。
 濁音のおもしろさ、ということについて話してみたいと思います。濁音というと、反対は清音。多くのひとは濁音は濁っているから汚い、清音の方が響きが美しい--とよくいうのだけれど、私は濁音がとても好き。
 豊かさがある。この豊かさは肉体で感じる豊かさ。だぢづでど--と言ってみる。ざじずぜぞと言ってみる。たちつてと、さしすせそ、と違って、のどの奥が開かれる。開いたのどを口で閉じこめる。そうすると、口のなかに唾がわいてきて、音に湿り気が出る。つややかさがでる。うるおった声なら、まあ、ほめことばになるのだけれど、なんとなくそういう感覚が好きですね。
 で、この唾がたまってくる--というのは、詩が「はなずおう」という音から始まっているからですね。「だいだいてき」とか「あなだれて」というのも濁音。それがあるから、自然に唾が出てくる。
 柴田さんは、とっても自然に発音と肉体関係を書いている。とても正直に書いている。こういう正直さにふれると私は感動してしまう。だれでもある瞬間、ひとは正直になる。「地が出る」。その瞬間というのは、私は、とっても好きです。
 のどには、そして「がさがさ」という乾いたからみつきもあるし、「唾」があふれるからみつきもある。どっちでも、嗽をする。つまり、それは何かから自分の肉体を解放するということかもしれない。ここのことろは、私のことばではうまく説明できません。
 「音楽」には「がさがさ」という、一種かわいた感じを誘う音がある。それが「空咳」の「空」につながり、「咳ばらい」にもつながっていくのだけれど、「裏地図」では「水っぽい唾」と「乾いた」とは反対のことばが出てきますね。そして、「水っぽい」がゆえに「唾」は心を浸食する、とつながっていくのだけれど。
 うーん、どういえばいいのだろう。
 乾いたものと水とは正反対なのに、それに対する「のど」という肉体の反応は同じ。その「同じ」のなかにというか、矛盾したものを同じ肉体の反応でこたえるところに、不思議な肉体の正直さを私は感じてしまう。乾いた、も、水、も「違和感」ですね。その違和感にであったときに、肉体は同じ感じで咳をする。その「同じ感じ」が私の言う「正直」です。「同じ」になってしまうのは、ようするに「嘘」ではない--だから「正直」。この感覚は、うまく論理化できないけれど、私は、そう感じています。

 柴田さんは、柴田さん自身が「咳ばらい」をするだけではなく、他人の「咳ばらい」にも耳を傾けている。「雑居ビルのある場所」(『耳の生活』)。

バッハは白内障になって脳卒中で死んだが
あれは月明かりで楽譜を書いたりしたためで
あれはいかん
あれはいかんよ あんた
波斯猫の首を洗う犬猫病院の院長は
草いきれのする臭い咳ばらいを前後三回
事務室でおこなった

あすという日はトゲをもっている
あれはいかん か
煮沸する首の都市
あれはいかんよ あんた か
世界はいつも臭い咳ばらいをしている
だから臭い夏が町のすき間から洩れてくる

 ここでも「咳ばらい」は自己主張ですね。「あれはいかんよ」に「自己主張」がある。「違和感」かもしれまんせんが、つまり、違和感を感じたものに対する否定のことばかもしれないけれど、そういう否定をすることを自己主張ともいいますね。まあ、どっちが正確ということはいえないので、どっちでもいいなあ、と考えてくださいね。
 この「あれはいかんよ」がおもしろいのは、「あれはいかんよ」はことばだけれど、「意味」がない、「意味」がわからないことですね。何がだめなの? わからないでしょ?まあ、そのことばを聞いた柴田さんには「意味」は分かったかもしれないけれど、読者はわからない。わからないふうに柴田さんは書いている。それは「意味」ではなく、それを一種の「咳払い」のようなものとして書いていることだと思います。
 ことばにしない「自己主張」ですね。

 この詩でおもしろいのは、このときの「咳ばらい」に「臭い」ということばがついてまわることですね。
 いままでは「がらがら」とか「がさがさ」とか、「音」がついていた。「耳」がついていた。けれども、ここでは「臭い」。鼻というか、嗅覚がついて回っている。
 ここから、私はいろんなことを考えてしまう。感じてしまう。
 ひとつは、柴田さんの感覚は「のど」「耳」というところに集まってきていて、そこでは聞いたり音を出したりというだけではなく、匂いを嗅ぐということもする。実際に匂いを感じるのは鼻なんだろうけれど、その鼻はのどや耳とつながっている。「耳鼻咽喉科」という病院があるけれど、あ、つながっているんだ、というのが病理学的な「肉体」からではなく、感覚からもなんとなく納得できる。
 そして、そこには多くのひとが重視する「視覚」、目の情報が少ない。少なくはないのかもしれないけれど、それを上回って「耳」「のど」の感じが強い--というのが柴田さんのことばの特徴だと思う。
 また、こんなことも感じました。
 この「臭い」は「口臭」ということばを思い起こさせる。他人の「息」は臭い--というよりも、他人の口から出てくるのもは「臭い」。そして、他人の口から出てくるものといえば、いちばん多いのは、ことばかな?
 他人のことばは臭い。うさんくさい。
 でも、そうとばかりはいえない。他人のことばでも「くさくない」ものがある。たとえば、

あれはいかんよ

 これは、その内容を具体的に言いなおすととっても面倒くさい。この詩のなかでは月明かりでものを書くこと--くらいの意味だけれど、いいたいのはそのこと? たぶん違うね。「あれはいかんよ」という拒否、否定、その感じが気持ちいい。
 そこには口臭がない。ことばの臭さがない。
 だから、柴田さんは、そのことばを何度も繰り返し、自分でも言ってみている。
 「臭くないことば」、過剰な「意味」をもたないことばが、柴田さんは好きだった、といえるかもしれませんね。

 臭い咳ばらいということばを中心にして、感覚の融合ということを少し話したので、そこからもう少し脱線してみます。
 「雑居ビルのある場所」のさっき引用した部分。そこに、

波斯猫の首を洗う犬猫病院の院長は

 ということばがある。
 なぜ、首なんでしょうねえ。背中でも胸でも尻尾でも、肛門でもいい。
 こういうことは、まあ、どうでもいいことかもしれない。けれど、そのどうでもいいことに、私は詩人の無意識がまじっていると感じます。無意識。無防備の意識。そこに、私は「思想」というものを感じるのです。
 「思想」というのは、私の定義では、そのひとを動かしている基本。そのひとが信じているなにか基本的なこと、本能的にまもろうとしている「いのち」につながる部分。「肉体」になってしまっている精神。「肉体」で覚えているなにか大切なもの、ということです。
 首というのは、別のことばで言うと「のど」になる。そう考えると、いままで私が話してきた「耳」とつながりませんか? 「首」は「耳」と一体になっている。しばたさんにとっては、「耳」と「首」は切り離せない関係にある。
 「裏地図」にもどってみましょうか。
 これもおもしろいですよ。

花蘇芳(はなずおう)の葉がふとって
枝が大大的にしなだれてきたので
それを見ているわたしの首も
たいへんしなだれてくる

 花蘇芳の葉が太ってきた、そして枝がしなだれてきたのを確認しているのは「目」です。「見ている」ということばもそれを強調しています。けれど、その目はすぐに「首」に移動していく。
 花蘇芳を見て、それを肉体で模写する。真似する。そのとき、柴田さんの肉体で一番先に反応するのが首。首がしなだれてくる。目ががっかりする、目の焦点がだらしなくなるとかではなく、首がしなだれてくる。

目はいつも足首だけみることになって

 ここでも、目ということばが出てくるけれど、それを追いかけてすぐに「足首」ということばが出てくる。「足首」ではなく、つま先でもいいのだけれど、柴田さんは「足首」と書いてしまう。無意識が「首」ということばを要求している。
 それがおもしろいですねえ。
 さらに先。

視野が足の幅に限定されることはつらい
そしてかなしいことである
ボードレールの「旅への誘い」の歌の尻尾をききながら

 ここでも「視野」という「目」をあらわすことばから動きはじめるのだけれど、「目」で終わらない。「目」が別の肉体へ動いている。
 「ききながら」。
 ふいに「耳」が登場する。この「聞きながら」は頭の中で反芻しながら、思い出しながらということだと思うけれど、それを「頭」ではなく、つまり「精神」をあらわすことば、「精神」につながることばではなく、「聞く」という「耳」、「耳」という「肉体」につながることばで書いてしまう。
 こういうことばの操作は意識的でもあるけれど、無意識的でもある。知らず知らずにしてしまうことですね。だから、それを私は「思想」と呼ぶのです。
 肉体が「目」から「首」、そして「耳」へと動いてきて、そのあと

水っぽい唾がわいてくる
唾はへんに心を浸食するものである
だから なんべんも
心の袋地の行きづまりでガラガラと含嗽をするのだ

 「首」が「首の内部」、つまり「のど」になる。そして、それが「心」へとつながっていく。

 耳→首→のど→心。

 この「肉体」の変化、「肉体」が「心」にかわるときの、ことばの径路が私にはとても興味深い。
 この径路を、私は直感的に信じています。
 別のことばで言うと、このとき柴田さんの「肉体」が見える。変な言い方になるけれど「裸」が見える。
 それで、柴田さんの詩がとっても好きなんです。


柴田基孝詩集 (日本現代詩文庫 (46))
柴田 基孝
土曜美術社





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柴田基孝再読

2011-10-26 23:59:59 | 詩集
2011年10月23日(日曜日)

柴田基孝再読(2011年10月23日、「柴田基孝の世界」から)

  (「柴田基孝の世界」のための下書き。パネルディスカッション形式になったため、実際には話した内容とは異なります。一部、パネリストの発言を取り込んでいます。)

 『耳の生活』という詩集があります。このタイトルは、あ、柴田さんっぽい、という感じがします。
 私が柴田さんの詩に一番ひかれるのは、「音」です。ことばが持っている「音」の美しさ。

 私は、九州のひとのことばはときどき聞き取れない。福岡・博多かいわいでいうと、「は行」の「は」の音が聞き取れない。「H」の音が聞き取れない。「高橋」という名前は、ときどき「たかあし」と聞こえる。「たかあし」という名前はまあいないでしょうから高橋だなあと思うけれど、これが「浜本」になると「浜本」なのか「天本」なのか、ほんとうにわかりません。
 これはあまり詩とは関係ないことなのだけれど、音に関するわかりやすい例なので話しました。
 それとは違うのだけれど、九州のひとのことばはときどき音が聞こえない。聞き取れない。この音の次にはこの音--というきまりは文学ではないはずだとおもうけれど、どこかで音楽の和音のように次のことば、次の音を予感している。それとは違う音があって、それが私には一瞬聞き取れない。そういうことが九州のひとの書かれる詩にはとても多い。
 でも、柴田さんの詩にはそういうことがない。柴田さん以外では、山本哲也さん、宮崎のみえのふみあきさん、フランス文学の有田忠郎さんかなあ。
 そして、柴田さんの詩には聞き取れない音がないという以上に、私の知らなかったとても新鮮な音がある。あ、そうか、ことばの音はこんなふうに響きあうのか、ということを教えられる。それで、柴田さんの詩、そしてその音がとても好きです。
 もっとも詩を読むとき、私は基本的に声に出しません。黙読です。だから音は関係ない--はずなんだけれど。 そして、そういうことが起きないのが、柴田さんの詩です。

 柴田さんのことばは、声に出して「聞く」ことばではなく、声に出さないまま「耳」で聞く--そういう音楽かなあと感じています。声に出さないけれど、耳が反応する。ことばを追うとき、知らずにのどを動かす神経が動いている。口や舌を動かす無意識の肉体が動いている。その無意識に耳が反応する。
 「耳」といっても、これは「無意識」の耳、肉体の奥にある「耳」。そんなことを思います。柴田さんは、そういう「耳」でことばを動かしていた--そう感じます。
 でも、まあ、これは意識のどこかに置いておいてください。

 「耳の生活」は

半音階の生活なんてあるか
どうか知らないが

 と始まります。
 私は、もうここで夢中になってしまう。いま、私は冒頭の2行を読んだのだけれど、実は1行で夢中になる。--というのも、正直な感想ではなくて、「半音階の生活」で夢中になる、いや「半音階」という書き出しの音で夢中になってしまう。「は」んおん「か」い。この「は」と「か」の響き。子音HとKの交錯が、とても気持ちがいい。そのあいだにある促音の「ん」。無音の響き、バランスがとてもいい。その音とリズムが書き出しの1行に凝縮している感じがいい。
 あまりに美しい音が出だしにあるので、あとは、まあどうでもいい--というと柴田さんに申し訳ないけれど、柴田さんも、まあそう感じたんじゃないかなあ。わりといいかげんに、ふらふらとことばが動きますね。
 詩は、マン・レイの写真展、そこでみかけたキリコ。それから銀座を北園克衛と、それから藤富保男、鍵谷幸信と歩いていたときに見たキリコの絵、そして北園克衛の詩、その色紙と動いていくのだけれど、とりとめがないですね。

半音階の生活なんてあるか
どうか知らないが
たとえば きのう見たマン・レイ展の
写真のなかに閉じこめられていたキリコ氏
その周囲では
かれのさびしい輪切りの永遠
細長い影が
わたしの足もとをゆっくりと浸しはじめ
それから 耳の迷路で
半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて
それはまさしく一九三四年だった

 柴田さんは「半分」の「半」、これがけっこう気に入っていたようですね。私もとても好きで、柴田さんの「半壊の雲」ということばを盗んで、何度も詩につかったことがあります。「半壊の雲」は「半音階の生活」と同じようにHとKの交錯が楽しいのだけれど。柴田さんは、その音と同時に「半」というイメージも好きだったんじゃないかなあと思います。
 「半分」の「半」。これが柴田さんの生き方ではなかったかなあとも思います。
 柴田さんは銀行につとめていたんだけれど、そういう生活が「半分」。そして、残りの半分が詩。ことば。
 生活の半分、銀行を中心とした生活はがっしりと動かない。のこり半分、詩の方は、なんといえばといいのだろう。壊れていますね。壊している、といえばいいのかな。固まっているものを壊すことで、そこから生まれる自由--そういうものを追い求めている。
 まあ、これは逆に、ことばの運動を強固にしてゆき、それを利用して銀行を中心とした生活を支配している精神を叩き壊して遊ぶ、ということかもしれません。
 どっちにとっても同じだと思います。
 二つが、重なり合って、互いを壊し、同時に壊す力を利用して、その破壊のなかに復元の夢を見る、ということだと思います。
 この二つが重なり、半分融合してひとつになる--というのは正確な「数学」ではありえないことなのかもしれないけれど、ことばのさ世界なので、まあ、だいたいのことろ、そういう感じでいいかげんに処理していいと思うのだけれど。
 二つと重なりと、そのときの「ずれ」--そこから半分はみだしてきて動くものが、ここに書かれていると思います。
 マン・レイの撮った写真、キリコ。
 それを見るとき、私たちはマン・レイの写真を見ているのか。それともキリコを見ているのか。区別がつきませんね。そのとき、私たち自身をふりかえると、私たち自身も、写真を見るということと、写真の中の人物を見ることをしている。「半分」ずつ、ほんとうのことをして、「半分」ずつ、わけのわからないことをしている。
 詩のなかで、柴田さんは、マン・レイを置き去りにして、キリコに重心を移していく。これはキリコがシュールレアリストで、柴田さんのことばがシュールレアリスムに影響を受けいているからでしょうね。
 キリコは形而上絵画というものを提唱した人です。その絵の特徴は遠近法の焦点がずれている。このずれを音楽であらわすと「半音階」になるかどうかわからないけれど、ずれだから「半分」違っているということでしょう。おもしろいのは、こういう「何かが間違っている(ずれている)」という意識が働くとき、他方に「正しい」何かがあるということですね。正しいあり方を知っているから、「ずれ」もわかる。正しいことがわからないと「ずれ」もわからない。「ずれ」は「正しい」を呼び覚ます、覚醒させる何かかもしれない。銀行勤めという正しい生活が、詩ということばのずれに出会う。それは銀行勤めといっしょにあることばの正しさを呼び覚ます。--けれど、ほんとうは、ことばのなかの「ずれ」の方が正しくて、銀行のなかで動いていることばの方が「正しく間違えている」のかもしれない。詩のことばは「ずれ」ながら、自分自身のことばを修復して言っているといえるかもしれない。
 あ、わたしはまた、あいまいな、どっちつかずのことを言ってしまったけれど、これが詩というものですね。と、ごまかしながら、先をつづけます。
 キリコの絵--そのなかに、細長い影が出てくる。真昼なのに、夕方のように長い影。その矛盾が形而上絵画というか、キリコの特徴のひとつですね。柴田さんは、その説明を半分、この詩のなかに取り込んでいます。

 でも、不思議ですねえ。絵--長く歪んだ影。遠近法がずれていると感じるとき、それを判断する人間の肉体の器官はなんでしょうか。
 目ですね。
 でも、柴田さんは、その間違い、ずれを、

耳の迷路で

 と「耳」で受け止める。
 ええっ、どうして?
 私は詩を読みながら、こういう瞬間、声がでてしまいます。詩を読むその声は出ないのだけれど、驚いたときの声は出てしまう。私は思ったことを見境なく言ってしまう性格なのです。
 柴田さんの目と耳はどこかでつながっている。いや、それはだれでもそうなのだけれど、その回路が普通のひとより広いというか、いいかげんというか、簡単にいうと変です。「未分化」「未分節」といえばいいのかな。こんとんとして混じり合っている。そこが、私はとっても好きです。「肉体」そのものを感じます。
 いま、柴田さんが「耳の迷路」と書いたところ、視覚型の詩人ならば、「網膜の迷路」と書き、つづく1行を、「補色の色彩が攪拌する」という具合に書いてしまう。そうして、「意味」がどんどん窮屈になっていく。
 でも柴田さんは、視覚から聴覚へ、するーっとずれていく。
 視覚と聴覚が「半分」どこかで重なり合っていて、その重なりを通り抜けて、ずれていく。
 そして、そこでもう一回、

半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて

 と「半音階」が出てくる。
 写真が絵に、そして絵のなかの影が、ここで「音」になる。
 この「飛躍」に柴田さんの特徴がある。その特徴を象徴的にあらわしているのが「耳」ということば--その肉体なんですね。

 耳を基本に動く肉体、耳を頼りに動く肉体。そして生活。私は、そういう肉体を信じている。聞いている音は違うのだけれど、柴田さんの詩が好きというとき、私は、柴田さんの耳が好きと言っているのだと思う。
 で、ちょっと「耳」というか「音」に話をもどすと。

それから 耳の迷路で
半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて
それはまさしく一九三四年だった

 この3行のなかの「さ行」の動きがおもしろい。「さびた」の「び」が「ひびかけ」の「び」のなかで繰り返されるのも楽しい。「さ行」でいえば、最後の「それはまさしく」が楽しいし、「一九三四年」の「さんじゅう」の響きがおもしろい。銅鑼の「おと」ではなく「ね」が「年」のなかに甦るのも楽しい。この復活のために「銅鑼のね」だったわけですね。
 ところで、この「一九三四年」は何なんでしょうね。

パネリストのひとり「キリコの写真撮影の年ですよ。註釈に書いてあります」

 えっ、ほんとうですか?
 私はいままで気がつかなかった。註釈は字がちっちゃいから、私は読まないことにしている。知りませんでした。
 ありがとうございました。
 私は知らなかったので、ぜんぜん違うことを考えました。まあ、「誤読」なんだけれど、私は「誤読」が好きなので、正解は横に置いておいて、誤読の方向をさらに伸ばしてみたい。
 何もわからず、私は、キリコがときどき絵にわざと違った制作年代を書いたというエピソードを思い出しました。柴田さんは、それをまねたのかな?と思ったのです。
 もし、年代にでたらめを炊き込むというキリコを真似したのだとしたら、茶目っ気がありますね。
 こういう部分も、私は、とっても好きです。
 こういう部分では、詩が好きなのか、柴田さんという人間が好きなのか、ちょっと区別がつきませんが。詩は、まあ、人間性が全部出てくるから、どっちが好きといってもいいのだと思いますが。

 茶目っ気--ここから、私は誤読の延長線を伸ばしてゆきます。
 その次の連ですね。こういうことばの動きが独特です。

耳をたべるのはパンだけである
耳をたべるのはパンだけではない
君は深海魚の耳をたべることができるか
きみは行き詰まりの耳をたべることができるか
………………
この種の想像のハミングを唱えるとき
耳の葉がふやけるから
イヤなんだよ
と つれの男が爪を噛みながらいった
爪を噛むと
爪がパンのようにふやけると思うんだがね
と わたしは答えた
それも想像力のハミングかね

 「耳」つながりで、「耳」ということばだけでことばが変な具合にというか、いったい何がいいたいの?という世界を動いている。キリコが完全に消えていますね。変でしょ?
 「ハミング」ということばがここに出てくる。そこから柴田さんが音楽にどっぷりつかっていたことが「半分」見えてきますね。想像できますね。想像というのは「半分」現実で、半分作り事なのかもしれないなあ。
 この連で一番おもしろいのは、しかし、ハミングよりも「耳の葉」ですね。
 「耳の葉」って、何?
 なんだと思います?

パネリスト「耳の形が葉っぱのようだから、そのことをいったんじゃないのかなあ」
パネリスト「言の葉、言葉を思い出した真下」

 私も、言の葉--ことばを、私はすぐに思い浮かべました。
 実際、それに先立つ数行「耳をたべるのはパンだけである」うんぬんは、なんだかふやけたことばですね。「意味」がない、というより、「意味」を破壊していく力がない。内容というより「輪郭」がない。
 そして「ハミング」になる。ハミングには「意味」はないですね。「音」だけがある。「意味」を書こうとしているのかもしれないけれど、柴田さんの詩は、いつも「意味」を明確にはしないで、あいまいなまま、「音」を感じた、「音」を聞いているというような方向にことばが動いている。

 ことばといわず「耳の葉」というところが、柴田さんなのです。柴田さんにとっては、ことばは「耳」と一体化しているものなのです。「意味」はなくても「音」がある。「言の葉」は「言う」という「口」とつながっているけれど、何を「言う」かではなく、何を聞いたか--「耳」でつかみとったものが、柴田さんの考えている「ことば」なのかもしれない。
 「口」だけで成り立っているのではなく、あくまで「耳」で受け取って、そこでことばになる。「音」が「耳」のから体のなかをとおることで「ことば」になる。
 それは「ことば」は「耳」をとおって「意味」になる、ということだとも思います。
 「頭」ではなく、あくまで「音」そのものに反応する肉体のなかで、ことばは「意味」になる。その「意味」は、まあ、「頭」で整理しなおした「意味」とは当然違っているかもしれない。
 違っているというより、「頭」で整理しなおしていないから、他人とは共有できない「意味」をもっているかもしれない。あいまいなもの、あるひとの声が嫌いだから、そのひとのいうことを聞きたくないとか。逆に、声が美しいのでなんとなく聞いてしまい、説得されてしまうとか。
 そういうことと、どこか関係があるように思う。

 このあと、柴田さんは、北園克衛、藤富、鍵谷とキリコを見つけたときのことを書いている。

 (この部分については、パネリストから「具体的でわかりやすい」「柴田さんの詩にはかならずこいう具体的なひとが出てくる」などの指摘があった。)

 私は実はみなさんと違って、この連にはぜんぜん魅力を感じない。なぜ柴田さんがこの連を書いたのかよくわからない。
 「キリコの永遠の日没」を引き継ぎ、北園の死亡--「没する」とつながっていく(飛躍していく、ねじれていく)--それだけのために書いているとしか思えない。

 その、「キリコノ永遠の日没」につながる連。

北園克衛が没したのは一九七八年
わたしの家の黄色い壁にかかっている
かれの色紙は死の二年前に書かれたもの
 枢機官よ
 枢機官よ
 そのこえはいつもゼロ
 あるいは扉
 または双曲線である
わたしの記憶の暗がりにある「影の空間」と題する詩の一冊は この色紙と少し違っていた
 そのこたへはいつもゼロ/あるひは/扉/または/水/の双曲線である
「現代詩代表詩集・一九五〇」にもこの初出の姿がある
ゼロなのはいつも声であったり答えであったりするのだ


(この部分について、あるパネリストは「枢機官、がなぜ出てくるのかわからない」という指摘があり、別のパネリストは「枢機官は北園克衛であり、その上に西脇順三郎がいる--北園克衛は詩の世界で2番目の地位にいるということではないか」という指摘があった。)

 私は、そういうことは考えなかった。「こえ」と「こたえ」の違いがおもしろかった。そこに柴田さんの書きたいことが書かれているのではと思った。
 耳にとって、声こそが答えなのだと考える柴田さんがここにいる。声も音なのだけれど、ここで「音」ではなく「声」が出てくるところが、とても興味深い。
 「声」とはなんだろう。「声」と「音」はどこが違うだろう。どこが同じだろう。
 「声」は人間が出す「音」。人間をとおりぬけた「音」。
 そして、その「声」は「答え」と区別されない。人間の出す音は、なんらかの意味で「答え」を含んでいるということかもしれない。
 その「声」が「ことば」になるとき、そこには「意味」が生じてくるけれど、柴田さんはその「意味」を

 いつもゼロ

 と拒否しているような感じがする。
 柴田さんは、いわば「意味」にそっぽを向いている。
 「声」を否定しているかどうかわからないけれど、「声」よりもほかのものを信じていると考えることができるかもしれない。
 それは「半音階」ということばのなかにある「音」。
 「声」ではなく「音」に身を寄せる、信頼を置く。
 それは「耳」を信じるということにつながる。柴田さんは「音」を聞き取る「耳」に、その肉体に身を寄せている。

 柴田さんの詩には「思想」がないというか、「答え」がない--というと、まあ、もうしわけないような言い方になるのだけれど。
 でも、まあ、書いていることに「意味」がない。茨木のり子の「倚りかからず」のような、ひとをささえるものがない。頼りとするものがない。
 では何があるか。「肉体」がある。「耳」がある。ことばを聞いてあれこれ判断している「耳の肉体」がある。それは信頼できる耳である、と私は感じています。その耳が、私は大好きです。





無限氏―柴田基典詩集 (1980年)
柴田 基典
葦書房
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柴田基孝の詩作の「秘密」

2011-10-25 23:59:59 | 詩集
柴田基孝の詩作の「秘密」(2011年10月23日、「柴田基孝の世界」から)

 みなさん、こんにちは。谷内修三です。きょうは柴田基孝の世界についてみなさんといっしょに考え、感想を語り合うことができたらと思います。
 私は、こういう詩の催しへはほとんど参加したことがありません。詩人のみなさんともほとんどお付き合いがありません。2年前に失明しそうになり、目の手術をしました。それ以降、もし会うことができるならひとりでも多くの詩人に会ってみたいなあと思うようになりました。詩は読んでいるけれど、ほんとうに生きているだれかが書いたかどうか、まったく知らないというのは変かなあ、と思うようになったからです。と、言いながら、その後実際に会ったのは谷川俊太郎くらいで、やっぱりだれともあわずにひとりで詩集を読み、感想を書いているという状態です。
 私は早口です。話すことにも慣れていません。ですから、聞き苦しかったり、わかりにくいこともたくさんいうと思います。気長にお聞き下さい。

 さきほど話しましたが、私はほとんど詩人に会ったことはありません。
 唯一、会った回数が多いのが柴田基孝さんです。最初にお会いしたのは35年ほど前で、それ以後のおつきあいになります。ただ会った回数が多いといっても、たぶん10回程度だと思います。電話でもときどき長話をしましたが、それも20回はいかないと思います。柴田さんは、とても交際関係の広い人で、私は柴田さんの紹介で鍋島幹夫さんとお会いしたことがあります。大濠公園のレストランで3人で食事をしました。
 柴田さんがご馳走してくれました。メーンの料理が何だったのか、何を食べたのか、すっかり忘れたのだけれど、パンを食べたことだけを覚えています。パンにしますか? ライスにしますか? 3人とも、それぞれがパンと答えたんだけれど、なぜか鍋島さんにだけはライスが運ばれてきた。鍋島さんは、こういうときに「注文と違います」と抗議しないひとなんですね。ふーん、と思いながら食べはじめたそのあと、柴田さんは「ここはパンがおいしんだ」という。うわーっ、変なひとなんだ、と思いました。
 あ、これは、詩とは関係ない話なんですけどね。
 何がいいたかったかというと。
 柴田さんは、いろんなひとと親しい。交際範囲が広い。だから柴田さんにとっては、私は大勢のうちのひとりに過ぎません。私にとっては、柴田さんは、先ほど言ったように、唯一の人ですが。
 この会場に来ていらっしゃるみなさんの方が柴田さんとは親しいかもしれませんね。そういうひとたちを前にして、柴田さんの詩作の「秘密」を語るのは、ちょっと無謀な試みかなあとも思いますが、「秘密」を話してみたいと思います。もし、柴田さんがだれにも話していなければ、ということになりますが。

 柴田さんの詩に「商工会前のベンチ」という作品があります。この作品に関する、創作秘話、この詩が生まれるまでの裏話を話してみたいと思います。

(朗読)

 長い詩ですが、この詩の一部、次のところに「秘密」があります。

だれでも欠点をもっている
たとえばフケ頭とか
斜めに歩くくせとか
季節のかわり目は厄介だ
無定見になって心棒がゆらゆらする
伊予の松山をたずねると市内電車が走っていた
子規堂を探して
子規の机と子規の墓に出あう

 この部分について、あれっ、変だなあと思うことはありませんか? どうして、こんなことばを書いているんだろう、と疑問に思うところはありませんか?
 実は、ここには柴田さんが書いたのではないことばがあります。見当がつきますか?

会場から「斜めに歩くくせとか、が違う」
谷内「あ、鋭いですねえ。どこが違いますか?」
会場から「発想が違う。」

 たしかに発想が違いますね。
 私は、「発想の違い」という言い方ではなく、ほかの言い方でちょっと秘密を話してみたいと思います。
 柴田さんから、直接聴いたのです。
 「だれでも欠点をもっている/たとえばフケ頭とか」というのは柴田さんのことばではありません。ちょっと忘れてしまって思い出せないのだけれど、東欧かどこかのスパイ小説に出てくることばです。
 ある夜、私に柴田さんから電話がかかってきました。家に、ではなく会社だったと思います。私は夜の仕事なんですね。わりと忙しいのだけれど、電話で雑談しても平気な、まあいいかげんな仕事です。
 で、そのときの電話というのが、この詩の「秘密」のはじまりです。

柴田「あ、谷内さん? スパイ小説を読んでいたら、とってもおもしろい部分があった。だれでも欠点をもっている。フケ頭とか、というんだ。」
谷内「あ、それ、いいですねえ。詩につかいたいなあ。」
柴田「いや、私が詩につかおうと思っている。ところが、そのつづきが出てこない。何がいいだろう。」
 びっくりしました。柴田さんは、私の大先輩で、尊敬する詩人です。そういう詩人から、こんな大事なことを打ち明けられ、しかも相談までされるとは思っていなかったからです。それに、あまりにも突然ですからね。
 フケ頭から私はすぐに脂足--脂でべたべたした足、足の裏を思い浮かべました。頭に対して足、乾燥したフケに対してべたべたの脂。反対のもののとりあわせですね。でも、これでは「意味」が強すぎる。関係が強すぎる。「反対」であることがはっきりしすぎて、おもしろくない。
谷内「脂足では、意味が強すぎますねえ。」
柴田「そうだえね。」
谷内「音もおもしろくないなあ。」
柴田「そうだねえ。何かない?」
谷内「うーん、斜めに歩くくせとか。これも足が半分ついてまわるんだけれど、ことばとしては足は出てこない。でも、音がちょっと……」

 そのあとは何を話したか覚えていません。ちゃらんぽらんとした仕事だけれど、そんなに長い間電話しているわけにもいかず、そのときはそれくらいの話しで終わりました。
 それからしばらくして、この詩が「アルメ」に発表されました。柴田さんが参加していた同人誌です。

 「斜めに歩くくせ」というのは、柴田さんのことばではなく、私のことばなのです。--これが、この詩の「秘密」というと、自慢話みたいですねえ。
 でも、自慢にはなりません。実は、この行は詩のなかで座りが悪い。音がとっても悪い。会場から「発想が違う」と指摘を受けたのだけれど、発想もそうだけれど、「音」が違いすぎる。
 で、これからが、ほんとうに柴田さんの「詩の秘密」、「詩作の秘密」です。私の感じている「秘密」です。
 柴田さんはことばを動かすとき、「意味」ではなく「音」でことばを選んでいます。これは柴田さんから直接聴いたことではありません。
 私が感じたことです。
 さっき話した「スパイ小説からの引用」と「斜めに歩くくせ」が柴田さんのことばではないというのはほんとうのことだけれど、これから私が話すのは、ほんとうのことというより、私が感じたことです。
 ほんとうではないかもしれない--そう思いながら聴いてください。「秘密」と私はいったのだけれど、秘密ではなく、私の妄想だと、眉に半分つばをつける感じで聞いてください。

 「だれでも欠点をもっている/たとえばフケ頭とか」という2行。小説では1行かもしれませんが。
 このことばは二つの点でおもしろい。
 ひとつは、フケを欠点と、人間にとって、さも大事なことがらのようにいったこと。これは「意味」からとらえたおもしろさですね。そんなもの「欠点」ではありませんね。まあ、デートのときに、肩にフケがまっしろに積もっていたら女性に嫌われるかもしれないけれど。
 もうひとつは、音。「た行」の音、「だ」れ「で」も、けっ「て」んをもっ「て」いる。その「た行」の音と「欠点」と「フケ」の「ケ」の音、それからつまった「っ」の音、これを「た行」に入れると「た行」はもっと多くなるのだけれど、それがとても複雑に交錯する。
 特におもしろいのが「けってん」と「フケ頭」の「け」を中心にした音の動き。
 「けってん」というのは「け」と撥音、つまった音の「っ」が組み合わさっている。
 「フケあたま」というのは文字にしてしまうと気がつきにくいのだけれど、「フケ」の「フ」は母音の「う」の音が不完全ですね。ときどきこういう母音が半分欠落したことばがありますね。野原に生えている「くさ」の「く」も「う」の音が半分以上なくなっていて、いまでは「K」の音+「さ」という感じで発音すると思います。「フケ」も「F」というか「H」というか、ちょっと難しいけれど、「う」の音は半分存在しない。「むかし」というときの「む」の音と「う」の感じが違うでしょ?
 こういう音の問題は、個人差が大きくて一概にこうだとはいえないのだけれど、私は、そう感じています。
 柴田さんも、私のように感じているのではないかな、と思います。このあたりの好みというか感覚は、話すのが非常に難しくて、私自身柴田さんと具体的に話したことはないのだけれど、たぶん似た感覚をもっていたのだと思います。だから、私に、「次はどんなことばがいい」と聞いてきたのだと思っています。

 私の書いたというか、提案した1行。これがなぜまずいか。そのことを話したいと思います。
 まず「斜めに」が完全にまずい。音に歯切れがない。滑っていく。それはさっきいった「け」の音の周囲の関係と完全に違っている。音楽になっていない。「和音」というか、響きあう音がない。
 私は、前半が滑ってしまったので、後半で「歩くくせとか」と「く」を重ねてみたんです。とっさのことなので、まあ、無意識の反応ですけれど。
 歩くの「く」はほとんど「う」の音がない。「くせ」の「く」は半分あるかなあ。そのあたりで、まあ、ごまかしています。その「音」の感じが「欠点」「フケ」の「け」を中心にした音の動き、母音と子音の関係にいくらか近いかなあ。響きあわないこともないかなあ、と思わないでもないのですが……。
 でも、私の音(ことば)は柴田さんの、音楽でいうと主題の音の構成にあっていません。「和音」になっていない。

 私の音が拙かったのだけれど、そのあとの1行が、おもしろいですねえ。あ、柴田さんだなあと私はほんとうに感心しました。

季節のかわり目は厄介だ

 この「やっかい」がとても響きが美しい。撥音の「っ」があるので生き生きしている。「欠点」「フケ頭」の音、歯切れのようさが戻っています。「季節」の「き」「かわり目」の「か」と「か行」でことばを動かしてきて、次の「か行」の「やっかい」の「か」はことばの先頭ではなく、まん中に突然あらわれる。このリズムの変化もいいですねえ。「欠点」の「け」がことばの先頭、「フケ」の「け」が後ろと順序が変わっているのに呼応している。
 そして、そのあと、

無定見になって心棒がゆらゆらする

 ここでの「け」、「欠点」の「け」は「むていけん」と「ん」促音といっしょになって、変化している。その「ん」はつぎの「しんぼう」のなかに動いていく。「むてーけん」(伸ばす音がありますね)、「しんぼー」(ここにも伸ばす音がでできますね)。こういう変化がとてもおもしろい。
 私はいまここでこうして話しているので、声を出して詩を読んでいますが。
 私は家で詩を読むとき、声には出しません。黙読しかしません。けれど、そういう音の変化は感じてしまう。喉や耳が無意識に動いて、それをつかんでしまう。だから、文字を読むと、声を出すのとかわらないくらい喉が渇くときがあります。書くときも同じです。 いわば、肉体をつかいながら、ことばを感じています。

 そのあとも、音がおもしろいですね。

伊予の松山をたずねると市内電車が走っていた

 なんでもない1行のようだけれど、「市内電車」がいいなあ。「路面電車」ではなく「市内電車」。ただの「電車」でもありません。意味は変わらないけれど、音が違いますね。なぜ「市内」電車なのかというと、そのあと「子規」が出てくるからです。「し」の音をあらかじめ準備している。音が響きやすいようにしている。「はしって」でいったん「し」の位置をずらして、それから「しき」。さらに「さがして」でまた動かして、次は「しき」「しき」と繰り返す。おもしろいでしょ?

子規の机と子規の墓に出あう

 この1行の、子規の墓の「子規」は、なくても意味が通じるし、学校の作文では、同じことばをなんども繰り返すな、と注意されるかもしれませんね。でも、柴田さんは書く。そうして、そこに音を響かせる。
 これが、柴田さんの詩の秘密です。「意味」ではなく「音」を中心にしてことばを動かしている。ことばの「音楽」を書いている。
 で、さっき話した「市内電車」に少しもどると、この「市内電車」はひとつづきになっているけれど、「市内を電車が走っていた」でも「意味」は同じになりますね。市内を走る電車が市内電車ですから。
 でも、ここを「市内を電車が」とすると、その直前の「松山を訪ねると」の「を」と「を」が重なってしまって、ことばの動きが鈍くなる。と同時に、「市内」が強調されて、意識が電車の動きではなく、空間のほうに広がってしまう。拡散する。
 柴田さんの詩は、そういう全方向にぱっと広がるという運動がちょっと苦手ですね。だから「市内電車」とすることで「電車」に焦点を起き、レールの上を走っていくように突き進んでゆく。
 柴田さんのことばは、拡散ではなく、線を描きながら動いていく。
 じぐざぐに動いていく。
 じぐざくの結果として、そこに「空間」が広がることはあるけれど、その一瞬一瞬は、意外と「視線」が限定されていると感じます。絵画的な詩人ではないと思います。

 よく絵をみると音楽が聴こえてくるという絵がありますね。逆に音楽を聴くと光景が絵のように浮かんでくる作品もありますね。
 柴田さんの詩は、そういうたとえを利用しながらいうと、絵が思い浮かぶというよりも、音楽が聞こえる詩、ですね。
 もちろん絵というが、風景も見えるのだけれど、ことばが動いていくのは風景を頼りに動いているというより、音を頼って、音を信じて動いている。
 私は、そんなふうに感じています。

 で、いま話したことを反省点として「斜めに歩くくせとか」をほかのことばにするとしたなら……と考えてみました。
 いまなら、私は

空港でけつまずくくせとか

 と言うかなあ、と思います。
 「空港」も音としてはなめらかな音なんだけれど、次の「けつまずく」。これでなめらかさが一変する。「つまずく」ではだめで、あくまで「けつまずく」。この「けつ」は実際に発音すると「けっまずく」に近い。「つ」のなかに「う」の音が半分くらいしか入っていない。それが「欠点」と似ている。
 また「空港」といったん視野を拡げるふりをして、「けつまずく」できゅっと見える世界を狭くする。この変化--これなら柴田さんっぽくなるかなあ、と思います。

 以上でおしまいです。
 このあと、また柴田さんの詩を読むのですが、私が体験したようなこと、柴田さんから詩の相談を受けた方がいましたら、そのお話なんかを組み合わせることができたらいいなあと感じています。



 このあと私を含め四人がパネリストになり、「耳の生活」を読みました。
 いろいろな意見が出て、思い出せない部分もあるので、私の考えだけ、別の日にアップします。
 いろいろ会場から質問が出て、そのなかに「なぜ、そんな読み方をしないといけないのか。もっと意味を追う読み方があるのではないか」「谷内の読みは深読みだ、と柴田さんがよく言っていた」「感想を書いて、作者から反論されることはないですか」という趣旨の発言があった。そのことについて、私は次のように答えた。

 作者から反論されることはあります。たとえばだれかの詩を「肉体が書かれていない。実際に肉体が動いていない」と批判すると、「いや、私は実際に体験したことを書いた。谷内のいうような意味を書いたのではない。私の書いた意味はこういうことだ云々」ということばが返って来ることがあります。
 でも、私は、そういうことは気にしません。
 「意味」というのはだれでもがもっています。そして、書いたひとは書いた人でつたえたい意味があるのは当然ですが、それをどう受け止めるかは書いたひととは関係ありません。たとえば私が田島さん(となりにいるので例に出しますが)を好きだとします。そして、一生懸命、愛を告白します。でも通じない。私の「意味」がつたわらない。「意味」は分かっても、田島さんは、それを拒むことができる。ことばを聞いたひとが(ことばを読んだひとが)他人の「意味」につきあわなければならない「理由」は存在しない。
 好きに読んで、好きなふうに「これが意味だ」と誤読してかまわない。というか、先に「意味」を作り上げた方が「勝ち」なんです。「意味」は「ある」ものではなく「つくる」ものなのです。
 だから好き勝手に私は読みます。
 柴田さんの詩にも「意味」はあるのだと思いますが、私は「意味」にたどりつくよりも、ことばを動かしている柴田さんの肉体に反応してしまう。ことばを聞いている耳、ことばを発しているのどをそのままリアルに感じる。「意味」ではなく、音に触れて動いている肉体を感じ、それに共感します。


柴田基孝詩集 (日本現代詩文庫 (46))
柴田 基孝
土曜美術社
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高橋馨『詩への途上で』

2011-10-24 23:59:59 | 詩集

高橋馨『詩への途上で』(港の人、2011年09月20日発行)

 高橋馨『詩への途上で』は詩集のタイトルどおり、ことばが詩に向かう途中のありようを書いているのかもしれない。この場合、詩とは、ことばが転換する一瞬のことである。どんなことばでも、あるとき、それまでもっていた「意味」から離れて、別な「意味」としてあらわれることがある。
 「しじみ峠」は、そういう一瞬の変化をとても静かな形で書いている。「峠」なのに「しじみ」とは変である。

しみじみ峠が訛ったのではない。ガイドブックによれば、昔、シジミの貝殻がたくさん見つかったためとあるが、こんな山奥に人が住んだ遺蹟があるだろうか。

 なるほどねえ。しみじみ峠か。あるかもしれない。峠を越しながら「しみじみ」と何かを思う。その「しみじみ」が訛ったという説はなかなかおもしろい。
 そういうことから書きはじめて、高橋は「私は、このしじみ峠で危うくいのちを落とすところであった。」と体験を語りはじめる。詩? あれっ、エッセイ? 書き方の形式も、「行わけ」の詩とは少し違っている。いわゆる「散文詩」に近い。
 高橋の命を落としそうになったこと--というのは滑落である。強風に吹き飛ばされる形で沢に落ちる。
 そこで、不思議なものを見る。
 幻想なのか、現実なのか、ちょっとわからない。「散文詩」というより、「幻想詩(こんなことばがあるかな?)」なのかもしれない。自分の体験したことを、幻想をまじえながら「詩的」に書いたもの、とも読むことができる。

底なしに深い、真っ青な空がどこまでも広がっていた。ときどき、羽毛のような淡い雲が通り過ぎた。小さな薄紫の蝶が一匹、ちらちら飛びまわっていた。その蝶が視界に一匹ではなく、数えれば四匹、五匹--。現れる蝶の色は次第に鮮明になり、薄紫というより紺碧も濃紺に近く、金属的なきらめきさえ感じられた。
あおむけに、空と蝶たちの乱舞を眺めていた視界に、ようやく体を動かせられる感覚が戻ってきた。両肘を張って頭を少しもたげると、自分は、谷底ではなく、尾根の山道に横たわっているのに驚いた。さらに視線をもたげると、逆光の陰のような大男が立ちふさがっていて、見下ろしていた。

 高橋は、この男に誘われるようにして、歩きはじめる。「そのとき、小さな薄紫の蝶の群れが、私にまとわりつくのか、先を行く姿を慕って飛んでいるのか、ちらちらと可憐な花びらのように飛んでいた。」
 幻想的で、美しいことばである。ことばも美しいが、そこに描かれる情景、薄紫の蝶、よくわからない大男の幻影が、まさしく「幻想詩」そのものに見える。ただ、その「幻想」が想像力を超えるというか、まったく知らないことを描いている、どこへ行くのか不安にさせるということはない。言い換えると「現代詩の冒険」からはちょっと遠い感じかするなあ、と私は思いながら読み進んだ。
 すると、突然、クライマックスがやってくる。大男が仁王立ちになった。「青光りする蝶で出来た装飾刈り込み(トピアリー)の人形(ひとがた)のように。」そして、そのあと、

ほんの数秒のことであったかも知れない。そよとも風のないのに、まるで木の葉が散るように、数限りない蝶が大空へと飛び散った。
それこそ、なにも跡には残っていなかった。あたかも、飛び散った蝶で出来ていたかのように。薄紫の蝶の影さえなく。

 大男はどうやら蝶が群舞していた姿のようである。高橋は、その「幻影」にいわば導かれる形で命拾いをしたのだが、そのとき、はっと気づくのである。
 「しじみ峠」の「しじみ」は「しじみ蝶」の「しじみ」なのである。シジミ(貝)のシジミではないのである。「しじみ蝶」の「しじみ」は、シジミが貝殻を拡げると内側が薄紫で、蝶が羽根を拡げた形になるところから来ているのだ。
 偶然、そのことに高橋は気づいた。
 シジミ(貝)がしじみ(蝶)にかわった。
 これは、なんといえばいいのだろう、高橋が「命拾い」をした体験そのものに比べると現実的にはとても小さなことである。しじみ峠がしじみ蝶のたくさんいる峠であるということは、どうでもいいことである。--はずなのだが、それでも、あ、これがしじみ峠ではなく、アゲハ峠とかモンシロ峠だったら、やっぱり違うなあとも思う。
 アゲハ峠やモンシロ峠では起きないことが「しじみ峠」では起き、そこには「ことば」の発見、「意味」の発見がからんでいる。そこに「意味」の交錯があるから、幻想がいっそう肉体にしみこんでくる。
 
 これは「意味」の交代というにはおおげさすぎるかもしれない。だからこそ、「詩」そのものというより、「詩の途上」という気もする。「詩の途上」にはたしかにそういうことが起きているのだと思う。
 先鋭的な現代詩ではないからこそ、その「途上」が(過程が)、静かにうかびあがる。そこに、ふとひかれた。





詩ヘの途上で
高橋 馨
港の人
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辻和人『真空行動』

2011-10-23 23:59:59 | 詩集
辻和人『真空行動』(七月堂、2011年09月09日発行)

 辻和人『真空行動』の文体には「速度」がない。ことばに飛躍がない。かわりに何があるかというと、一種の「脱力感」である。
 「聖なる印」の書き出し。

4時前に目が覚めてしまってどうしても眠り直せない
ジョギングでもして気分を変えるか、と
Tシャツ短パン姿で家を飛び出した

30分ほども走っただろうか
汗もかいたし、あのでかい公園でちょっと休憩しよう
だれもいない野球グラウンドから心地良い風が吹いてくる

あれっ、マウンドの上にヘンなモンのっかってる
何だろう
わっ、犬のフンだわ

 詩がいつ始まるんだろうか、と不安になるくらい、ことばに力がない。というか、ことばが、何かにたどりつくことをあきらめている感じがするのだ。
 で、その何かとは、何だろうか。

いなくなった者たちが残した謎のメッセージ
広い空間のなかでぼおっと浮かび上がってくる
いくら探してもメッセージの真意に到達できない
それはすばらしいことだ
到達できない分、謎が深まり神性が高まっていくからだ

 そうか。辻はメッセージをあきらめているんだな。メッセージの真意をあきらめているんだな。ことばで何かメッセージをつたえるということをあきらめて、メッセージにならないことばを書きつづけようとしているんだな。
 でも、何のために?
 メッセージの真意にたどりつけない--という不可能性のなかに「神性」があるからだ。(この「神性」は「神聖」とどう違うのかな?)
 辻は「神性」というものを書きたい。でも、書いてしまったら、それは違ったものになる。だから、書かない。書かないことによって、それを「読者」にまかせてしまう。辻の書くことばのなかに「神性」はないけれど、メッセージの真意にたどりつけないと読者が感じたとき、その不可能と感じるこころのなかに「神性」があるのだと、いいたい。読者がそれを発見するまで、辻のことばは読者に寄り添っていたい。この、寄り添いの感覚を大切にしたくて、辻は、わざと頼りなげなことばを書くのだ。脱力感のあることばを書くのだ。はりつめたことばに寄り添われたときは、緊張してしまうし、「真意」をつか見とれないと叱られそう--それは、いやだね。
 という感じなのかなあ。

 あ、でも、この感じ--わからないなあ。

到達できない分、謎が深まり神性が高まっていくからだ

 と、辻が、自分で「思想」をことばにしてしまっている。ここに辻の考えている「メッセージの真意」(詩の真意)があるのでは? それを辻は書いてしまっているのでは?
 どうも矛盾しているね。
 矛盾しているからこそ、そこに辻の思想があり、肉体かある--といいたいのだけれど、私が「矛盾に思想がある」というときの矛盾と、辻がここで書いている矛盾はちょっと違う。ずいぶん違う。まったく違う。
 辻は、単に自分のいいたいことを「流通言語」で言ってしまっただけなのである。
 こういう「論理展開」を回避しないといけない。遠回りして、それこそ、読者がいったい辻はどこを遠回りしているんだろうと感じさせないといけないのではないのか。
 ここだけ、辻のことばの脱力感が、脱力感になっていない。脱力感に到達していない--というのは変な言い方かもしれないが、ふいに、意識がショートして、火花が飛び散っているような感じがする。
 辻は、とっても難しいことをやろうとしているのだと思う。
 「喋らなくなった床屋」にも、ふいにショートする部分がある。

いつかこの店が廃業する時
ぼくは、ああ遂に廃業したな、と無言で思い
あのオヤジさんどうしているかな、と無言で思い
頭の中で徐々に店とオヤジさんのイメージを薄れさせていくんだろうな

 「無言で思い」の「無言」。
 これは、「到達できない」ではなく「到達しない」という意思である。ことばで「到達しない」こと、「無言」でいること、--そうすると、その「無言」(ことばで到達しないこと)のなかで「神性」が浮かび上がる。
 辻の書いていることは、とてもよくわかる。
 でも、そのよくわかるは「頭」へひびいてくる「わかる」である。「頭」が先回りしてわかってしまうので、「肉体」は「わかったつもり」になる。実際は、「肉体」はわからないまま、ということになってしまわないか。
 それが、疑問だ。

 「まだ」という詩は、辻のなかではかなりかわっている。あまりにかわっているので、この詩集に収められていなければ、辻の作品ではないと思ってしまうだろう。(私は、この詩が、この詩集のなかではいちばん好きだが--これは、辻にとっていいことなのかどうかわからない。)

ん?……と思ったら
テーブルの上にみるみる動きが起こっていたんだ
コップを倒してしまっただけなのに
さっきまで”水”だったものは
不定形に生育していくものになった
コップからのがれて
これからどんな形になるかわからないのに
とりえあず嬉しそうだ
ぼくも嬉しい
ぼーっと眺める
ぼーっとして
どうしても飽きることができない
細かな埃が表面に浮いているのがとてもよく見える
逃げいてくものの中にも逃げていこうとしているものがあるんだね
よく見える
粒子のようなもの
明るいなあ
まだ眺めている
まだ
もうすぐテーブルの縁に到着する
わかっている、わかってるって
だけど
「ウェイトレスさんを呼んで拭いてもらわなければ」のその時を
一瞬でも遅らせたい

 コップを倒した。水がこぼれる。それだけのことを書いているのだが、途中の、水が「とりあえず嬉しそうだ/ぼくも嬉しい」の呼応がとても気持ちかいい。「ぼーっと眺める/ぼーっとして/どうしても飽きることができない」の「ぼおーっ」がいいし、「どうしても」「できない」の「できない」がいいなあ。
 前の作品の「到達できない」は、「主語」が「頭」。ここでは「感情」というか、「こころ」というか、「肉体」そのものだね。「頭」も「精神」も、「こころ」さえもほうりだして、自分自身が「もの」になる。
 この瞬間に、私は「神性」を見る。
 辻の言う「神性」がどういうものか、まあ、よくわからないが、この「ぼーっ」は、私には「神性」そのものである。「脱力感」のあることばが、ほんとうに「脱力」にたどりついて「ぼーっ」とする。そこに、水の「嬉しそう」と「ぼく(辻)」の「嬉しい」が重なり合う。感情が重なり合って、なにもすることがない。ぼーっとする。エクスタシーだね。
 さらに、

わかっている、わかってるって

 これが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにすばらしい。池井昌樹だって、こうは書けないなあ。谷川俊太郎だって書けないだろうなあ。
 「頭」は「わかってる」。
 でも「肉体」は「わかりたくない」。
 「肉体」は、このままの「時間」をずーっと味わっていたい。永遠に味わっていたい。「頭よ、じゃまするな、もうちょっと待て!」。
 「まだ」のなかにいたいのだ。「肉体」は「まだ」を「永遠」にしたいのだ。

まだ眺めている
まだ

 この繰り返される「まだ」こそが、辻の「思想」そのもであり、「肉体」そのものだ。辻の「肉体」から切り離せないことばである。
 最初に「思想」に触れた「聖なる印」に、「まだ」を補ってみると、それがよくわかると思う。

いくら想像してもメッセージの真意に「まだ」到達できない
それはすばらしいことだ

 「到達できない」がすばらしいのではなく、そのときの「まだ」がすばらしいのだ。「まだ」があることがすばらしいのだ。
 「喋らなくなった床屋」も同じようにして読み替えてみることができる。

いつかこの店が廃業する時
ぼくは、ああ遂に廃業したな、と「まだ」無言で思い
あのオヤジさんどうしているかな、と「まだ」無言で思い

 この「まだ」は「店が廃業する時」という一瞬と「矛盾」するが、オヤジさんのことを思うとき、辻は何も喋らずに髪を切られていた「あのとき」を思い浮かべている。「いま」と「あのとき」が重なり、結びつき、そこに「まだ」があらわれる。その「まだ」を辻は愛おしんでいることがつたわってくる。
 この「まだ」は実現していない「まだ」なのだけれど、そうであるからこそ「まだ」が温かい。書けない「まだ」、つまり「たどりつけない」永遠の神性としての「まだ」がそこにある。


詩集 真空行動
辻 和人
七月堂
息の真似事
辻 和人
書肆山田
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松本秀文「速度太郎の冒険」

2011-10-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松本秀文「速度太郎の冒険」(「ウルトラ」14、2011年08月31日発行)

 松本秀文「速度太郎の冒険」は「第3部 純粋詩性批判あるいは諷刺家伝」というサブタイトルがついている。「前書き(?)」に「現代詩の不毛な言説と作品の不毛に徹底的に反抗する。」とあって、それから、それぞれの作品に番号がふられて、延々とつづく。詩集一冊分くらいはある作品群である。
 何が書いてあるのか--というと、実は私にはわからない。
 たとえば「4・蒟蒻残酷物語」の書き出し。

歴史の余白に背を押されて……

天の川
恥ずかしさだけで生きる近松蒟蒻太郎は
メランコリーな田畑の真ん中にある
素朴な食道「魔圏」にて(時間がバッタのようにはねる
銀河の孤独を背負いつつ(不幸が特技なの?
ヤモリ丼大盛り(つゆだく)を
へらへら注文して(蒟蒻のように生きる
「全身全霊の蒟蒻でありますから」

天の川
婚約出来ないままの蒟蒻で(ぷよぷよ
血まみれの婚礼(ドレスとマシンガン
言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ
異言語の衝突(言語が揺さぶられる(ぷよぷよ
死んだ蒟蒻芋の両親に内部でビンタされて
おっぱいのような蒟蒻に闘争的思考が詰め込まれ

 「わからない」とはいっても、そこに書かれていることばのひとつひとつを「知らない」わけではない。全部「知っていることば」である。でも、「わからない」。これは、ことばとことばが結び合って、その結合がつくりだす「意味」がわからないということになる。
 でも、詩で最初に印象に残るのは「意味」ではなく、そこに書かれていることばの運動の仕方だ。ことばの動き方だ。ことばの肉体のつかい方だ。
 たとえば、いま、私が書いたばかりの、ことばとことばの結び方。
 そして、それは「わかる」よりも「わからない」方がおもしろい。あれっ、これはどういうこと? 何が書いてある? そういう疑問より先に、次はどんなぐあいに動く?とどきどきするのだ。そして、わからないけれど、何かありそう--そういう期待があふれてくるとき、おもしろいということになる。「わからない」、けれど「おもしろい」。「わからない」と「おもしろい」は矛盾しないこともあるのだ。

 だから、詩の「意味」はどうでもいい--というと申し訳ないけれど、この松本のことばの群れをつらぬく「意味」を拾い上げてもおもしろくないだろうと思う。(もし、「意味」を拾い上げることができたら、という過程を前提とするのだが。)
 だから、私は「意味」を考えない。
 ということにしたいのだが。

言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ

 という行で立ち止まってしまった。「意味」を感じてしまった。あ、いやだなあ、という感覚が、肉体の中心をヒヤリときらめいていくのを感じてしまった。
 「翻訳出来ない」ということばが気になってしまった。逆説的な意味で「おもしろい」と感じた。
 詩は、ことばにならないものをことばにする。ことばを、どこかで「翻訳」するという行為だと私は感じている。何語を何語に「翻訳」するのかといえば、「流通言語」を「詩人語」に翻訳する。松本の例でいえば、「松本秀文語」に翻訳する。だれのものでもない「言語」を創出することである。
このときの「だれのものでもない言語」--というのは、まあ、矛盾で、どうしてもそれは「ことば(単語)」そのものがオリジナルなのではなく、組み合わせ方がオリジナルということになるのだが。
 --でもねえ。
 「翻訳」なんて、簡単に言ってしまっていいのかなあ。
 「翻訳出来ない」と松本は書いているのだが、

言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ

 に「翻訳」は存在しない?
 「言葉も蒟蒻で」は「言葉も蒟蒻である」と「言葉」そのものを「蒟蒻」に「翻訳」してしまっている。それではまずいので、大急ぎで「翻訳出来ない蒟蒻で」と「蒟蒻」そのものを「翻訳」し、さらに「ぷよぷよ」という音に「翻訳」している。
 そして「翻訳」しながら「翻訳出来ない」ものを求めている。
 この「翻訳出来ないもの」というのは「翻訳」した瞬間、「翻訳」からこぼれ落ちていく何かなのだろう。その「翻訳」からこぼれおちていくものが、半かっこというのだろうか、かっこのはじまりだけがあり、おしまいがない状態で追加される。追加しながら、実は追加ではなく、こぼれ落ちたものです、とでもいう具合だが。
 この、こぼれ落ちたを、解放した、ときはなったと「翻訳」すれば、「翻訳出来ない言葉」をむりやり「翻訳」し、そうすることで、いまここにあることば(流通言語?)を壊しながら、壊すことで、その「流通言語」の束縛から何かを解放する--ということになる。
 このスピードが、松本の詩のおもしろいところである。--と、まず、松本の詩を肯定的にとらえておこう。
 でもねえ。
 やっぱりなあ。
 意外と「意味」の詩人なのだ--と思うのである。つまり、どこかでことばの「肉体」ではなく、ことばのなかの「頭」が、松本の「頭」といっしょに動いているという感じがする。
 その瞬間の、「肉体」と「頭」のスピードのずれ。
 --これは不思議なもので、「肉体」が先に動いて、後から「頭」が動くときは、ちょうど森繁久弥の芝居のように、とっても間合いがよくて、逆に「頭」がうごいて、それを「肉体」が追いかけると、わざとらしい感じがする。
 こんなたとえは、たとえになっていないのだけれど、ふとそう感じるのだ。

 でも。
 長く、速く書くのはけっして悪いこととは思わない。いいことだと思う。「頭」が動いて「肉体」が追いかけているようでも、このまま進めばきっと逆転する。「肉体」が動いて、あとから「頭」が仕方なしについてくる。
 そういう瞬間に、松本のことばはビッグバンのように炸裂すると思う。そういう予感がある。
 こいう予感があるとき、詩は、まったくわからなくてもいい。わからないから、いい。わからなくても、「いい」といいつづければ、それにあわせてことばがかわってくれる。松本がかわるのではなく、松本のことばがかってに「いい」ものにかわっていく。--これはほんとうによく起きる現象である。「受け手」が広がり、その広がりのなかで、ことばがかってに自由になっていくのである。そのとき、もちろん「受け手」(読者)もかわる。そういう相互変化が、ここから始まる。--これも、予感だけれどね。



白紙の街の歌
松本 秀文
思潮社
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田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』(2)

2011-10-21 23:59:59 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』(2)(書肆山田、2011年10月10日発行)


 この詩集には「数学詩集」という「帯」がついている。だれがつけたのか知らないが、これは適切ではない。田中が関心をもっているのは「数学」ではなく「数式」である。つまり、あることがらに対して「数式」を用いて「正しい答え」を導くことなど、田中にとってはどうでもいいのである。「答え」が「正しい」か「間違い」かどうかは関係がない。ある「数式」のなかで、数字が動くかどうかだけである。あるいは記号が動くかどうかだけである。
 そして、やってみるとわかるのだが、「数式」はどんなふうにでもつづけることができる。そして、それがつづくあいだ、つまり「=」(等記号)で何かをあらわそうとしないかぎり、ほんとうに止まることがない。
 「悲しみ」というのは、そのことを実際に数字をつかって実践してみせる。

1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+1/64……=1

半分にその半分、さらにその半分を足しつづけると1に限りなく近づいていくが絶対に1にはならない。--のではなく、その「答え」はどうでもよくて、ようするに、そういう「数式」は永遠に書けるということである。
 そして、私はいま「永遠」と書いたのだが、そういうばかげた「数式」のなかにというか、そういう運動のなかに「永遠」は偶然のようにあらわれてしまう。この「永遠」が「正しい」ものかどうかはわからない。おそらく「無意味」なのものなのだが、だからこそ、そこに美しさがある。
 「意味」から解放されて、ただそこにあることの美しさがある。「無意味」の潔癖さがある。

 あ、私の書いていることは、きのう書いたことのつづきというより、繰り返しだね。完全に田中の「数式詩」にのみこまれてしまったようである。

 私は目が非常に悪く、パソコンで文字を書いていると頭が足がしびれるようにちりちりしびれてくる。だから誤字・脱字などは無視して、ただキーボードを叩き、変換キーを押すだけなので(文字の確認をしないので)、これから引用する部分は、たぶん誤字・脱字の連続になるかもしれない。
 私は、次のようなことばの「音」が好き。「順列 並べ替え詩。3×2×1」という作品から、引用した。(変だなあ、と思ったら、詩集で確かめてください。)

どこの馬の骨。
馬の骨のどこ。
骨のどこの馬。
どこの骨の馬
馬のどこの骨。
骨の馬のどこ。

 どこか、間違えていない? 私の引用は正しい?
 間違えていても、間違えであるとわからないのはなぜ?
 そもそも、ここにあるのは、何?
 ことばの並べ替え。
 並べ替えると、なぜ、詩になる?
 いや、詩に、みえる?
 いや、詩、だといえる?

 くずれない「数式」の強さ。つまり、方法の強さ。あることばを自分で決めた方法で動かす。そのとき、そこに「意味」がなくても、それを完遂するとき、「方法」が残る。この「残った方法」、それが「方法である」ということが、「哲学」そのものであり、また「音楽」なのだ。

右の耳の全裸。
耳の全裸の右。
全裸の右の耳。
右の全裸の耳。
耳の右の全裸。
全裸の耳の右。

 この6行は、先の「どこの馬の骨。」と同じルールで動いている? 「右」を「どこ」、「耳」を「馬」、「全裸」を「骨」と書き直すと、「どこの馬の骨」と同じ詩になる? 確かめないまま、私は「同じになる」と断定する。そういう「断定」を誘い出してしまうことばの運動--その運動の法則。いや、運動の力。

 「数式」とは「運動の力」そのものなのかもしれない。

 それにしても、おもしろいなあ。

両頬のマクベスの渦巻き。
マクベスの渦巻きの両頬。
渦巻きの両頬のマクベス。
両頬の渦巻きのマクベス。
マクベスの両頬の渦巻き。
渦巻きのマクベスの両頬。

 音が美しい--どの行も、音がとても軽くて歯切れがいい。
 私は声に出して詩を読むことはないのだが、耳のなかに純粋な音楽を聴いてしまう。田中の詩を読むと。

 と、書いて、また前に書いたことの補足をするという形で繰り返してしまうが。
 「数式」は永遠に書きつづけることができる。けれど、そこに書かれた「数式」が美しいかどうかは別問題である。
 「数式」が詩になるためには、その「数式」が美しくなければならない。
 「美しさ」の基準は、どこにあるか。これは人それぞれによって違う。田中の場合、といえばいいのか、田中の詩を美しいと感じる私の場合といえばいいのかよくわからないが、--音楽である。音である。読んでいて楽しい。読んでいて「意味」を忘れる楽しさがある。「意味」から解放されてというより、「意味」から外れた部分で「肉体」がかってに歓ぶ感覚がある。

 あ、これって、ただ、「好き」というだけのことなんだけれど。よくよく考えてみれば。「好き」に「意味」はないでしょ?



The Wasteless Land: 5
クリエーター情報なし
書肆山田
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田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』

2011-10-20 23:59:59 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』(書肆山田、2011年10月10日発行)

 田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』は「数学詩集」と「帯」に書いてある。さて、数学とは何だろう。
 考えるのは面倒なので、感じてみることにした。
 「数式の庭-前編-」のある部分。89ページ。

考えごとでもしていたのだろうか。
間違えて
ある演算記号を置くべきところに
別の演算記号を置いてしまったのだ。
すると
その数式の花は
みるみるうちにしぼんでしまって
ばらばらの数字と記号になってしまったのだった。
しかし
見ているとその数字と記号のひと塊のものが光り輝き
見事に美しいひとつの数式の花となったのだった。

 「間違えて」ということばは非常におもしろい。どんなことにも間違いはあるが、数学は間違いが発見しやすい。というか、ようするに答えが違っているかあっているかが、すぐにわかる。
 というのは、ほんとうかどうかわからないが。
 まえ、簡単にいうと数学の試験。答えが間違えると点数がもらえない。だれでも経験したことがあると思う。
 このとき、その「間違い」を「間違い」だと判断する「間違い」ではないもの--つまり「正解」があるというのが、数学の一番不思議な明瞭さである。
 これが哲学だとか……ではなく、たとえば恋愛だとかセックスだとかになると、「間違い」を「間違い」と判断するための「正解」がない。「明瞭な判断基準」がない。思い込みがすべてである。より強く思い込んで、より強くことばにしてしまえば「勝ち」なのだ。
 でもねえ。
 「間違い」が「間違い」であるとき、答えはどこかへ行ってしまって、いわば咲いている「花は/みるみにしぼんでしまって」というような状況になるのだけれど、それを「間違い」であると判断するときの「頭」は、そうではなくて、一種の「輝き」に満ちている。
 そこにはない「正しい答え」を見ている。その不思議。
 「間違い」を「間違い」であると判断するとき、「頭」のなかには「間違いではないもの」「正しい答え」がある。そして、その「正しい答え」は、もし、この世界に「間違い」というものが存在しなかったら「正しい」を主張できない。
 あれっ、変?
 そうかもね。

 でも、まあ、そういうことへ向かって田中のことばは動いていると思う。
 「いま/ここ」にある何か。それを「間違い」であると「判断」する「頭」の美しさ。その美しさを手に入れるために、田中の「頭」は、あえて、「間違える」という冒険をおかす。「間違い」をくぐりつづけることで、その「間違い」を「間違い」であると判断する「絶対頭脳」のようなものが動きだすのである。

 108 ページから109 ページにかけての部分。

この数式の花は
わたしの位置を変える。
わたしの視点を変える。
わたしのいる場所を変える。
わたしを沈め
わたしを浮かせる。
わたしを横にずらし
わたしを前に出し
わたしを退かせる。
しかし
もっともすばらしいのは
わたしを同時に
いくつもの場所に存在させることだ。

 「わたし」は「同時に/いくつもの場所に存在」することはできない--というのが一般的な「哲学」である。
 でも、そんなことはない。
 「数学」は「わたしは同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。あるいは「数式はわたしを同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。「数学」が問題にしているのは、そこにある「運動」を運動として表現できるかどうかだけである。それが「間違っている」か「正しい」かどうかではなく、そう考えることができるかどうかだけである。つまり、ことばが動けば、それは「数式」として成り立つ。

 で、ですねえ。
 実は、これが田中の「発見」。

 この詩集は「数学詩集」と銘打たれているが、「数学詩集」ではない。「数式詩集」なのである。
 田中が書いているのは、ことばをつかった「数式」であって、「数学」ではない。
 「数学」には「正しい答え」がある。
 「数式」は「正しい答え」を求めない。むしろ、「間違い」としての答えを求める。どこまで間違えつづけることができる。
 あるいは、なぜ人間は間違えつづけることができるか。
 そう考えるとき、この詩集はいっきに「哲学書」に変わる。

 私は面倒くさがり屋だし、目も悪いので、これから先へは「ことば」を追わない。田中の「哲学」をひとつひとつ吟味しはしない。
 どこまでいっても同じだからだか。人間はなぜ間違えつづけることができるか。それは間違えつづけるのが人間の本能だからだと繰り返すだけである。
 私は、この「哲学」を信じているので、私の考えていることと田中の考えていることのあいだにある「差異」を明らかにすることには興味がない。想像力というのは「間違える力」なのである。--といったのは、私ではなくバシュラールだけれど、それはプラトンというか、ソクラテスというか、ギリシャの時代から、そのままかわらない。
 「正しさ」を求めながら「間違い」だけを発見する。「間違い」を発見するということのなかにしか「正しさ」はないけれど、その「正しさ」を浮き彫りにするためには、まず「間違い」が必要である。片方に「間違い」を明記して、他方に「正しさ」を対比させるかたちに「数式」をつくるとき、そのとき「=」(等記号)はどこにあるか。「≠」(不当記号)のなかにある。--これは永遠の「入れ子細工」のようなものである。
 田中は、この「入れ子細工」を、ことばの「リズム」で蹴散らしながら組み立てていく。その速度、その音楽。
 「数学」も「数式」も「ことば」で語られるとき、それは「音楽」という「肉体」になる。--この感想は唐突すぎるかもしれないが、それを具体的に説明するのは面倒なので、このままにしておく。





The wasteless land
田中 宏輔
書肆山田
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北原千代『繭の家』

2011-10-19 23:59:59 | 詩集
北原千代『繭の家』(思潮社、2011年09月30日発行)

 北原千代『繭の家』の巻頭の「鍵穴」は「転調」を含んだ「寓話」の印象がある。

破壊をもたらすかもしれない しろがねのキイを
くらいところにあてがう

さしこむと 奥のほうで やわらかに
くずおれるものがあった

お入りなさい
声は言った

無調音楽の階段を
ころがりおちていくのは
棄てたキイ それとも
眠りにおちていくわたし

孔雀のえりあしに うでをからませる
なつかしく はじめての匂いを嗅ぎながら
あおむけに 咲いてしまうかもしれないとおもう

 「寓話」と感じるのは、「鍵穴」と「キイ」といっしょに動いていることばがセックスを想像させるからである。
 セックスを肉体の部位をあらわすことばではなく「鍵穴」と「キイ」で象徴的にあらわし、その運動がひらいていく世界を「部屋」(屋内)ではなく、肉体の動きと重なることば、たとえば「やわらかに/くずれる」であらわしているからだ。「鍵穴」にはたしかに「奥」はあるけれど、そこに「やわらかに/くずれていく」ものなど存在しない。いや、あったとしても、それは「目」で確認できない。想像力のなかで、くずれていくだけである。
 「現実」と「想像力」が二重になっている。そして、その「想像力」のほうは、肉体とセックスと重なっている。

 私が「転調」と呼んでいるのは、最終連のことばの動きである。
 その前までは、まあ、想像力の世界ではあっても「鍵穴の奥」「階段」という「空間」が描かれている。空間があり、そのなかに「おちていくわたし」、あるいは「キイ」。
 ところが最終連では「部屋」が完全に消える。「肉体」が主役としてあらわれてくる。「えりあし」「うで」という肉体の部位が突然明確に出現する。想像力を、「室内」ではなく「肉体」へとひっぱっていく。そして、そこに広がるのも「空間」ではない。「肉体」の「運動」である。「からませる」(触覚)「匂いを嗅ぐ」(嗅覚)を動員しながら(潜り抜けながら)、「あおむけに 咲」く。
 そのとき開くのは部屋のドアではなく、官能のドアである。

 「鳩の血」は、とても複雑な「寓話」である。母のつくってくれたお菓子の首飾りをちぎりながら食べていく。

苺のルビーがひとつだけ転がって
お皿のうえにかがやいていました

お姫さまになれるのはたったひとりなのよ
うなずくより早くつっと伸びた
いもうとの手
ルビーをにぎりしめました

庭の茂みへまっさかさまに墜ちてゆく鳩

まるい膝にこぼれる血
鳩をあやめた侏儒の狩人
にぎりこぶしに
獲ものを高くかざし
ぬめぬめ赤いものを口にふくみました
小首をかしげ
てのひらをなめずりました

いもうとがお姫さまになるのをゆるしました
あのころほんとうにちいさないもうとでした

 ほんとうは「わたし」が食べたかった苺のお菓子(ルビー、お姫さまの象徴)。それが「鳩の血」にかわる。そこにある「殺戮」。そうして「ぬめぬめ赤いものを口にふくみました/小首をかしげ/てのひらをなめずりました」ということばのなかで動く欲望。超越的な本能。それだけがもつ愉悦。
 ふいに見てしまった「真実」。
 そのきっかけとなった「お姫さまになれるのはたったひとりなのよ」ということば。
 ことばが「肉体」を目覚めさせる。
 そうやって目覚める「肉体」を「ゆるす」。
 その「ゆるし」のとき、「お姫さま」になったのは、ほんとうに「いもうと」なのか、それとも、いもうとを「お姫さま」と呼ぶことを許した「わたし」の「ことば」なのか。--そのとき「ことば」とは「肉体」そのものなのだと、思う。
 つまり、「わたし」は「ことば」で「いもうと」を許したのではなく、「わたしの肉体」のなかでうごめくものの力で「いもうと」を許したのだ。許すことで「一体」になったのだ。
 「いもうと」の「肉体」につながり、その「肉体」は「鳩」の「肉体」につながり、その「血」にもつながっていく。
 あやめられ、血となって「肉体」のなかにのみこれまていくもの。その輝きは、「肉体」のないぶだけにあるのではない。掌のなかにもある。「内部」にくみこまれることで「外部」が強烈に輝く。
 「なめずりました」の音の強さがそれをあらわしている。


繭の家
北原 千代
思潮社
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