田村隆一試論(3の補足)(「現代詩講座」2011年09月12日)
--「講座」で話したことの補足。あるいは整理。
1連目と2連目は、ことばの省略の仕方が違っている。1連目は2連目のように書くと、
このことから、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」が田村にとって同じものであることがわかる。そして、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」を「生きていたらどんなによかったか」といっていることから判断すると、1連目は、私たちは実は「言葉のある世界」「意味が意味になる世界」を生きていることをあらわしている。
「言葉のある世界」。これは、わかりやすいですね。実際に、私たちはいま、こうやって「言葉」をつかっている。これが「言葉のある」世界。
田村は、そうじゃない方がよかったのではないか、といっている。
2連目は、
このことから「あなたが美しい言葉に復讐され」るということと、「きみが静かな意味に血を流」すということが同じものであることがわかる。
「あなた」と「きみ」は「ひと」が違うが、それは1連目の「言葉」と「意味」の違いのようなもので、田村の意識が問題にしているのは、「あなた」「きみ」以下の部分、つまり「美しい言葉に復讐され」る、「静かな意味に血を流」すということだと思う。
「美しい言葉=静かな意味」「復讐される=血を流す」という具合に、田村は言い換えている。
「(美しい)言葉=(静かな)意味」から「言葉=意味」という関係が浮かび上がる。これは1連目の「言葉のない世界=意味が意味にならない世界」の言い換えになる。
1連目の「主語」は書かれていないが「ぼく」。「ぼく」が「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思っている。
2連目で「復讐される」「血を流す」のは「あなた、きみ」であり、「ぼく」ではない。「ぼく」はそれとは「無関係」だといっている。わざわざ「無関係」というのは、「美しい言葉」「静かな意味」と「ぼく」が関係があるからだ。
「ぼく」は「言葉をおぼえ」、「美しい言葉」を書き、そこから「静かな意味」が生まれた。その結果、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流した--ということが起きたけれど、それは「ぼく」とは無関係だといっている。
原因(美しい言葉、静かな意味)に「ぼく」が関与しているのに、「無関係」を主張する。
それは、なぜか。
「意味」というものはどういうものか、ということに関係している。
1連目で、田村は「意味が意味にならない世界」と書いていた。「意味が意味になる」ということがあって、反対に「意味が意味にならない」がある。
「言葉のない世界」に生きているわけではなく、「言葉のある世界」を生きている。同じように、「意味が意味になる世界」を私たちは生きている。
この「意味になる」というのは、わかりにくい表現である。「意味」という言葉が出てくる別な行、
ここでは「意味がある」という表現がつかわれている。
意味に「なる」、意味が「ある」。
「なる」と「ある」を田村は明確に区別している。
「美しい言葉」のなかには「静かな意味」が「ある」。けれど、そこに「ある」意味が、別の「意味」になって、「あなた」や「きみ」に「復讐してきて」、「あなた」や「きみ」は血を流すことになる。
このとき「美しい言葉」が「乱暴な意味、ひとを侮辱する意味」に「なって」ではなく、「静かな意味」になって、復讐する、血を流させるといっていることが重要。
「美しい」と「静か」はそっくり同じではないけれど、似通っている。似通っているけれど、違っている。「美しい」を「静か」と言い換えたとき、田村は「美しい」を「美しい」よりもさらに深いもの、美しいものに何か別なものがプラスアルファされた状態に「なっている」といいたいのだと思う。単なる「美しい」ではなく、「美しい」+アルファ。
「ぼく」の言葉を、「あなた」や「きみ」は「美しい」以上のものとして受け止めた。「美しい」+「静か」な「意味」と「なった」ものとして受け止めた。
「復讐される」というのは、予想しなかったことに襲われるということになるかもしれない。
2連目の、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と「きみが静かな意味に血を流したところで」の「復讐」された状態、「血を流した」状態は、3連目の次の2行の形で言いなおされている。
そっくりそのままイコールで結べる関係ではないけれど、「あなたのやさしい眼のなかにある涙」は、「あなたが美しい言葉に復讐されて、あなたは涙を流す」という具合に読むことができる。
「きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦」は「きみが静かな意味に血を流し、その痛苦こらえて沈黙している」という具合に読むことができる。「舌からおちてくる痛苦」は「舌からおちてくる血」、「痛苦=血」だと思う。「涙が流れる」「血が流れる」と同じように「涙がおちる」「血が(滴り)おちる」という言い方がある。
「涙」と「血」は、この詩のなかでは、「言葉」と「意味」のように、似通ったものとして書かれている。
声を上げない--つまり沈黙しているとき、血は涙のように肉体の外へ流れるのではなく、からだの内側におちていく。それが「痛苦」。そのとき感じているのが「痛苦」。
「涙」と「痛苦」は、涙は外に流れて見える、痛苦は内部に隠れていて見えないということになる。ひとの痛みには「見えるもの」と「見えないもの」がある。
言葉や意味は、一種、「見えないもの」だけれど、それは人間に「見える」変化もおこさせるし、「見えない」変化もおこさせる。
「涙」と「血」は、次の連でまた出てくる。
1連目、2連目を書き換えて読み直したときのように、この連を書き直すと、
になると思う。
「夕暮れの意味」というのは、あまりにも抽象的すぎてわかりにくい。「果実の核」が具体的なもの、見えるものなのに「夕暮れの意味」はわからない。だから、そこでもう一度「夕暮れの意味」を田村は言い換えている。
これも抽象的だけれど、「夕暮れの意味」よりは、何かを感じさせる。夕焼けは赤い。それは血の色に似ている。夕暮れ、夕焼けというのはなんとなくさびしい。そして、静かだ。その静かな夕焼けのなかに、音楽のようなもの、聞こえないのだけれど、ひとをいっそうさびしくさせるような何かを感じる--それを感じさせるものが、「意味」ということになる。
これは、また逆な言い方もできる。
「あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか」というときの、「意味」とは何?
やはり具体的にはわからない。果実の中心とか、果実のいのちを支えているものとか、言い換えることができるけれど、それを「意味」といいきるには、ちょっとむずかしい。果実の核はあくまで果実の核であって、「意味」というものではない。
1連目で「言葉」と「意味」が似通っていることを確認した。2連目では「美しい言葉」と「静かな意味」が似ていることを確かめた。「復讐(される)」と「血を流す」も似ていた。そして「涙」と「血」「痛苦」も似たものであった。
この似ている、似通っている--というのは厳密な論理ではない。なんとなく感じるもの。感覚の世界。哲学のような厳密な論理ではなく、あいまいな「なんとなく」の世界。まあ、これが「文学の言葉の運動」。
そして、この似通った「涙」「血」という言葉をつかって、田村は、もう一度「説明」し直している。田村がいいたいことをもう一回繰り返している。
「あなたの涙」は「あなたが美しい言葉に復讐されて流したもの」、「きみの血」は「きみが静かな意味に(傷ついて)、そこから流れた血」、あるいは「きみの沈黙の舌から(血のように、きみのからだのなかに、滴り)おちてくる痛苦」。
その「涙」や「血」、「言葉」と「意味」によって傷ついた(感動した)もののなかへ帰ってくる。その「涙」や「血」と「一体」になる。
このことは、しかし、田村の言葉を読んだ「あなた」や「きみ」と「一体」になる--というだけではない。
言葉を読み、意味を感じ、そして感動するということは、田村自身も体験することだと思う。誰かの言葉を読む。日本の作家、詩人もあれば、外国の作家、詩人のことばもある。そういう言葉を読み、感動すること--。
それを思い出している。
「あなた」「きみ」は田村自身でもある。
たとえば「あなた」がドストエフスキー、「きみ」がエリオットかもしれない。その人たちの言葉のなかには、言葉がもっている意味、ドストエフスキーやエリオットがつくりだした「意味」のなかには、やはり人間の「涙」や「血」が流れている。
その中へ、田村は「帰っていく」。
「帰っていく」というのは、それがはじめて知る「涙」や「血」であっても、人間全員に共通しているものだからだ。いわば、「涙」や「血」ということばであらわされているのは、人間の感情の「ふるさと」。
そこへ帰っていく。そうして、田村はドストエフスキーになる、エリオットになる。
言葉はそういうことをするためにある。
で、そういうことをする言葉--それをおぼえるんじゃなかった、というとき、これは田村独特の反語というか、逆説になる。
言葉を知れば知るほど、読めば読むほど、人間の感情はきりがなく増えていく。知らなかった哀しみを知る。自分の哀しみではない哀しみに涙を流し、自分の痛苦ではない痛苦にこころの血を流す--どこまでも哀しみ、どこまでも苦しまなくてはならない。
これは、つらい。
でも、このつらさが、文学の楽しみだね。
*
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--「講座」で話したことの補足。あるいは整理。
帰途
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
1連目と2連目は、ことばの省略の仕方が違っている。1連目は2連目のように書くと、
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界を生きていたら
どんなによかったか
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか
このことから、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」が田村にとって同じものであることがわかる。そして、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」を「生きていたらどんなによかったか」といっていることから判断すると、1連目は、私たちは実は「言葉のある世界」「意味が意味になる世界」を生きていることをあらわしている。
「言葉のある世界」。これは、わかりやすいですね。実際に、私たちはいま、こうやって「言葉」をつかっている。これが「言葉のある」世界。
田村は、そうじゃない方がよかったのではないか、といっている。
2連目は、
あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつは ぼくとは無関係だ
このことから「あなたが美しい言葉に復讐され」るということと、「きみが静かな意味に血を流」すということが同じものであることがわかる。
受講生「あなたは恋人(女性)で、きみは同士(男性)ではないのですか?」
「あなた」と「きみ」は「ひと」が違うが、それは1連目の「言葉」と「意味」の違いのようなもので、田村の意識が問題にしているのは、「あなた」「きみ」以下の部分、つまり「美しい言葉に復讐され」る、「静かな意味に血を流」すということだと思う。
「美しい言葉=静かな意味」「復讐される=血を流す」という具合に、田村は言い換えている。
「(美しい)言葉=(静かな)意味」から「言葉=意味」という関係が浮かび上がる。これは1連目の「言葉のない世界=意味が意味にならない世界」の言い換えになる。
1連目の「主語」は書かれていないが「ぼく」。「ぼく」が「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思っている。
2連目で「復讐される」「血を流す」のは「あなた、きみ」であり、「ぼく」ではない。「ぼく」はそれとは「無関係」だといっている。わざわざ「無関係」というのは、「美しい言葉」「静かな意味」と「ぼく」が関係があるからだ。
「ぼく」は「言葉をおぼえ」、「美しい言葉」を書き、そこから「静かな意味」が生まれた。その結果、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流した--ということが起きたけれど、それは「ぼく」とは無関係だといっている。
原因(美しい言葉、静かな意味)に「ぼく」が関与しているのに、「無関係」を主張する。
それは、なぜか。
「意味」というものはどういうものか、ということに関係している。
1連目で、田村は「意味が意味にならない世界」と書いていた。「意味が意味になる」ということがあって、反対に「意味が意味にならない」がある。
「言葉のない世界」に生きているわけではなく、「言葉のある世界」を生きている。同じように、「意味が意味になる世界」を私たちは生きている。
この「意味になる」というのは、わかりにくい表現である。「意味」という言葉が出てくる別な行、
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
ここでは「意味がある」という表現がつかわれている。
意味に「なる」、意味が「ある」。
「なる」と「ある」を田村は明確に区別している。
「美しい言葉」のなかには「静かな意味」が「ある」。けれど、そこに「ある」意味が、別の「意味」になって、「あなた」や「きみ」に「復讐してきて」、「あなた」や「きみ」は血を流すことになる。
このとき「美しい言葉」が「乱暴な意味、ひとを侮辱する意味」に「なって」ではなく、「静かな意味」になって、復讐する、血を流させるといっていることが重要。
「美しい」と「静か」はそっくり同じではないけれど、似通っている。似通っているけれど、違っている。「美しい」を「静か」と言い換えたとき、田村は「美しい」を「美しい」よりもさらに深いもの、美しいものに何か別なものがプラスアルファされた状態に「なっている」といいたいのだと思う。単なる「美しい」ではなく、「美しい」+アルファ。
「ぼく」の言葉を、「あなた」や「きみ」は「美しい」以上のものとして受け止めた。「美しい」+「静か」な「意味」と「なった」ものとして受け止めた。
「復讐される」というのは、予想しなかったことに襲われるということになるかもしれない。
2連目の、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と「きみが静かな意味に血を流したところで」の「復讐」された状態、「血を流した」状態は、3連目の次の2行の形で言いなおされている。
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
そっくりそのままイコールで結べる関係ではないけれど、「あなたのやさしい眼のなかにある涙」は、「あなたが美しい言葉に復讐されて、あなたは涙を流す」という具合に読むことができる。
「きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦」は「きみが静かな意味に血を流し、その痛苦こらえて沈黙している」という具合に読むことができる。「舌からおちてくる痛苦」は「舌からおちてくる血」、「痛苦=血」だと思う。「涙が流れる」「血が流れる」と同じように「涙がおちる」「血が(滴り)おちる」という言い方がある。
「涙」と「血」は、この詩のなかでは、「言葉」と「意味」のように、似通ったものとして書かれている。
声を上げない--つまり沈黙しているとき、血は涙のように肉体の外へ流れるのではなく、からだの内側におちていく。それが「痛苦」。そのとき感じているのが「痛苦」。
「涙」と「痛苦」は、涙は外に流れて見える、痛苦は内部に隠れていて見えないということになる。ひとの痛みには「見えるもの」と「見えないもの」がある。
言葉や意味は、一種、「見えないもの」だけれど、それは人間に「見える」変化もおこさせるし、「見えない」変化もおこさせる。
「涙」と「血」は、次の連でまた出てくる。
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
1連目、2連目を書き換えて読み直したときのように、この連を書き直すと、
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れのほどの意味があるか
になると思う。
「夕暮れの意味」というのは、あまりにも抽象的すぎてわかりにくい。「果実の核」が具体的なもの、見えるものなのに「夕暮れの意味」はわからない。だから、そこでもう一度「夕暮れの意味」を田村は言い換えている。
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
これも抽象的だけれど、「夕暮れの意味」よりは、何かを感じさせる。夕焼けは赤い。それは血の色に似ている。夕暮れ、夕焼けというのはなんとなくさびしい。そして、静かだ。その静かな夕焼けのなかに、音楽のようなもの、聞こえないのだけれど、ひとをいっそうさびしくさせるような何かを感じる--それを感じさせるものが、「意味」ということになる。
これは、また逆な言い方もできる。
「あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか」というときの、「意味」とは何?
やはり具体的にはわからない。果実の中心とか、果実のいのちを支えているものとか、言い換えることができるけれど、それを「意味」といいきるには、ちょっとむずかしい。果実の核はあくまで果実の核であって、「意味」というものではない。
1連目で「言葉」と「意味」が似通っていることを確認した。2連目では「美しい言葉」と「静かな意味」が似ていることを確かめた。「復讐(される)」と「血を流す」も似ていた。そして「涙」と「血」「痛苦」も似たものであった。
この似ている、似通っている--というのは厳密な論理ではない。なんとなく感じるもの。感覚の世界。哲学のような厳密な論理ではなく、あいまいな「なんとなく」の世界。まあ、これが「文学の言葉の運動」。
そして、この似通った「涙」「血」という言葉をつかって、田村は、もう一度「説明」し直している。田村がいいたいことをもう一回繰り返している。
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
「あなたの涙」は「あなたが美しい言葉に復讐されて流したもの」、「きみの血」は「きみが静かな意味に(傷ついて)、そこから流れた血」、あるいは「きみの沈黙の舌から(血のように、きみのからだのなかに、滴り)おちてくる痛苦」。
その「涙」や「血」、「言葉」と「意味」によって傷ついた(感動した)もののなかへ帰ってくる。その「涙」や「血」と「一体」になる。
このことは、しかし、田村の言葉を読んだ「あなた」や「きみ」と「一体」になる--というだけではない。
言葉を読み、意味を感じ、そして感動するということは、田村自身も体験することだと思う。誰かの言葉を読む。日本の作家、詩人もあれば、外国の作家、詩人のことばもある。そういう言葉を読み、感動すること--。
それを思い出している。
「あなた」「きみ」は田村自身でもある。
たとえば「あなた」がドストエフスキー、「きみ」がエリオットかもしれない。その人たちの言葉のなかには、言葉がもっている意味、ドストエフスキーやエリオットがつくりだした「意味」のなかには、やはり人間の「涙」や「血」が流れている。
その中へ、田村は「帰っていく」。
「帰っていく」というのは、それがはじめて知る「涙」や「血」であっても、人間全員に共通しているものだからだ。いわば、「涙」や「血」ということばであらわされているのは、人間の感情の「ふるさと」。
そこへ帰っていく。そうして、田村はドストエフスキーになる、エリオットになる。
言葉はそういうことをするためにある。
で、そういうことをする言葉--それをおぼえるんじゃなかった、というとき、これは田村独特の反語というか、逆説になる。
言葉を知れば知るほど、読めば読むほど、人間の感情はきりがなく増えていく。知らなかった哀しみを知る。自分の哀しみではない哀しみに涙を流し、自分の痛苦ではない痛苦にこころの血を流す--どこまでも哀しみ、どこまでも苦しまなくてはならない。
これは、つらい。
でも、このつらさが、文学の楽しみだね。
*
「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。
【受講日】第2第4月曜日(月2回)
13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>
受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
維持費 630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
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田村隆一全集 4 (田村隆一全集【全6巻】) | |
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