詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3の補足)

2011-09-14 23:59:59 | 田村隆一
田村隆一試論(3の補足)(「現代詩講座」2011年09月12日)

                --「講座」で話したことの補足。あるいは整理。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 1連目と2連目は、ことばの省略の仕方が違っている。1連目は2連目のように書くと、

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界を生きていたら
どんなによかったか
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 このことから、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」が田村にとって同じものであることがわかる。そして、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」を「生きていたらどんなによかったか」といっていることから判断すると、1連目は、私たちは実は「言葉のある世界」「意味が意味になる世界」を生きていることをあらわしている。
 「言葉のある世界」。これは、わかりやすいですね。実際に、私たちはいま、こうやって「言葉」をつかっている。これが「言葉のある」世界。
 田村は、そうじゃない方がよかったのではないか、といっている。

 2連目は、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつは ぼくとは無関係だ

 このことから「あなたが美しい言葉に復讐され」るということと、「きみが静かな意味に血を流」すということが同じものであることがわかる。

受講生「あなたは恋人(女性)で、きみは同士(男性)ではないのですか?」

 「あなた」と「きみ」は「ひと」が違うが、それは1連目の「言葉」と「意味」の違いのようなもので、田村の意識が問題にしているのは、「あなた」「きみ」以下の部分、つまり「美しい言葉に復讐され」る、「静かな意味に血を流」すということだと思う。
 「美しい言葉=静かな意味」「復讐される=血を流す」という具合に、田村は言い換えている。
 「(美しい)言葉=(静かな)意味」から「言葉=意味」という関係が浮かび上がる。これは1連目の「言葉のない世界=意味が意味にならない世界」の言い換えになる。

 1連目の「主語」は書かれていないが「ぼく」。「ぼく」が「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思っている。
 2連目で「復讐される」「血を流す」のは「あなた、きみ」であり、「ぼく」ではない。「ぼく」はそれとは「無関係」だといっている。わざわざ「無関係」というのは、「美しい言葉」「静かな意味」と「ぼく」が関係があるからだ。
 「ぼく」は「言葉をおぼえ」、「美しい言葉」を書き、そこから「静かな意味」が生まれた。その結果、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流した--ということが起きたけれど、それは「ぼく」とは無関係だといっている。
 原因(美しい言葉、静かな意味)に「ぼく」が関与しているのに、「無関係」を主張する。
 それは、なぜか。
 「意味」というものはどういうものか、ということに関係している。
 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界」と書いていた。「意味が意味になる」ということがあって、反対に「意味が意味にならない」がある。
 「言葉のない世界」に生きているわけではなく、「言葉のある世界」を生きている。同じように、「意味が意味になる世界」を私たちは生きている。

 この「意味になる」というのは、わかりにくい表現である。「意味」という言葉が出てくる別な行、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

 ここでは「意味がある」という表現がつかわれている。
 意味に「なる」、意味が「ある」。
 「なる」と「ある」を田村は明確に区別している。
 「美しい言葉」のなかには「静かな意味」が「ある」。けれど、そこに「ある」意味が、別の「意味」になって、「あなた」や「きみ」に「復讐してきて」、「あなた」や「きみ」は血を流すことになる。
 このとき「美しい言葉」が「乱暴な意味、ひとを侮辱する意味」に「なって」ではなく、「静かな意味」になって、復讐する、血を流させるといっていることが重要。
 「美しい」と「静か」はそっくり同じではないけれど、似通っている。似通っているけれど、違っている。「美しい」を「静か」と言い換えたとき、田村は「美しい」を「美しい」よりもさらに深いもの、美しいものに何か別なものがプラスアルファされた状態に「なっている」といいたいのだと思う。単なる「美しい」ではなく、「美しい」+アルファ。
 「ぼく」の言葉を、「あなた」や「きみ」は「美しい」以上のものとして受け止めた。「美しい」+「静か」な「意味」と「なった」ものとして受け止めた。
 「復讐される」というのは、予想しなかったことに襲われるということになるかもしれない。

 2連目の、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と「きみが静かな意味に血を流したところで」の「復讐」された状態、「血を流した」状態は、3連目の次の2行の形で言いなおされている。

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

 そっくりそのままイコールで結べる関係ではないけれど、「あなたのやさしい眼のなかにある涙」は、「あなたが美しい言葉に復讐されて、あなたは涙を流す」という具合に読むことができる。
 「きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦」は「きみが静かな意味に血を流し、その痛苦こらえて沈黙している」という具合に読むことができる。「舌からおちてくる痛苦」は「舌からおちてくる血」、「痛苦=血」だと思う。「涙が流れる」「血が流れる」と同じように「涙がおちる」「血が(滴り)おちる」という言い方がある。
 「涙」と「血」は、この詩のなかでは、「言葉」と「意味」のように、似通ったものとして書かれている。
 声を上げない--つまり沈黙しているとき、血は涙のように肉体の外へ流れるのではなく、からだの内側におちていく。それが「痛苦」。そのとき感じているのが「痛苦」。
 「涙」と「痛苦」は、涙は外に流れて見える、痛苦は内部に隠れていて見えないということになる。ひとの痛みには「見えるもの」と「見えないもの」がある。
 言葉や意味は、一種、「見えないもの」だけれど、それは人間に「見える」変化もおこさせるし、「見えない」変化もおこさせる。

 「涙」と「血」は、次の連でまた出てくる。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 1連目、2連目を書き換えて読み直したときのように、この連を書き直すと、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れのほどの意味があるか

 になると思う。
 「夕暮れの意味」というのは、あまりにも抽象的すぎてわかりにくい。「果実の核」が具体的なもの、見えるものなのに「夕暮れの意味」はわからない。だから、そこでもう一度「夕暮れの意味」を田村は言い換えている。

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 これも抽象的だけれど、「夕暮れの意味」よりは、何かを感じさせる。夕焼けは赤い。それは血の色に似ている。夕暮れ、夕焼けというのはなんとなくさびしい。そして、静かだ。その静かな夕焼けのなかに、音楽のようなもの、聞こえないのだけれど、ひとをいっそうさびしくさせるような何かを感じる--それを感じさせるものが、「意味」ということになる。
 これは、また逆な言い方もできる。
 「あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか」というときの、「意味」とは何?
 やはり具体的にはわからない。果実の中心とか、果実のいのちを支えているものとか、言い換えることができるけれど、それを「意味」といいきるには、ちょっとむずかしい。果実の核はあくまで果実の核であって、「意味」というものではない。

 1連目で「言葉」と「意味」が似通っていることを確認した。2連目では「美しい言葉」と「静かな意味」が似ていることを確かめた。「復讐(される)」と「血を流す」も似ていた。そして「涙」と「血」「痛苦」も似たものであった。
 この似ている、似通っている--というのは厳密な論理ではない。なんとなく感じるもの。感覚の世界。哲学のような厳密な論理ではなく、あいまいな「なんとなく」の世界。まあ、これが「文学の言葉の運動」。

 そして、この似通った「涙」「血」という言葉をつかって、田村は、もう一度「説明」し直している。田村がいいたいことをもう一回繰り返している。

ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 「あなたの涙」は「あなたが美しい言葉に復讐されて流したもの」、「きみの血」は「きみが静かな意味に(傷ついて)、そこから流れた血」、あるいは「きみの沈黙の舌から(血のように、きみのからだのなかに、滴り)おちてくる痛苦」。
 その「涙」や「血」、「言葉」と「意味」によって傷ついた(感動した)もののなかへ帰ってくる。その「涙」や「血」と「一体」になる。

 このことは、しかし、田村の言葉を読んだ「あなた」や「きみ」と「一体」になる--というだけではない。
 言葉を読み、意味を感じ、そして感動するということは、田村自身も体験することだと思う。誰かの言葉を読む。日本の作家、詩人もあれば、外国の作家、詩人のことばもある。そういう言葉を読み、感動すること--。
 それを思い出している。
 「あなた」「きみ」は田村自身でもある。
 たとえば「あなた」がドストエフスキー、「きみ」がエリオットかもしれない。その人たちの言葉のなかには、言葉がもっている意味、ドストエフスキーやエリオットがつくりだした「意味」のなかには、やはり人間の「涙」や「血」が流れている。
 その中へ、田村は「帰っていく」。
 「帰っていく」というのは、それがはじめて知る「涙」や「血」であっても、人間全員に共通しているものだからだ。いわば、「涙」や「血」ということばであらわされているのは、人間の感情の「ふるさと」。
 そこへ帰っていく。そうして、田村はドストエフスキーになる、エリオットになる。
 言葉はそういうことをするためにある。

 で、そういうことをする言葉--それをおぼえるんじゃなかった、というとき、これは田村独特の反語というか、逆説になる。
 言葉を知れば知るほど、読めば読むほど、人間の感情はきりがなく増えていく。知らなかった哀しみを知る。自分の哀しみではない哀しみに涙を流し、自分の痛苦ではない痛苦にこころの血を流す--どこまでも哀しみ、どこまでも苦しまなくてはならない。
 これは、つらい。
 でも、このつらさが、文学の楽しみだね。




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田村隆一全集 4 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
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『田村隆一全詩集』を読む(116 )

2009-06-15 00:35:10 | 田村隆一
 田村はウィスキーの詩をたくさん書いている。そうした作品のひとつ「一滴の光」。

琥珀色の液体が氷をゆっくりとかして行く
ただ それを●(みつ)めているだけで
沈黙がグラスのまわりに集ってくる
十年まえの
二十年まえの
三十年まえの
沈黙が形象化されてきて

沈黙は そこに在るものではない
創り出すものだ
                  (谷内注・「みつめる」は目ヘンに登)

 特に田村の特徴というものがでているわけではないけれど、この「沈黙は そこに在るものではない/創り出すものだ」という表現はとても気持ちがいい。
 沈黙にかぎらず、あらゆるものは「創り出すもの」なのどと思う。
 ウィスキーが樽の中で熟成する。十年、二十年、三十年……。そこから生まれる香と味が「沈黙」をグラスのまわりに集まってくるというとき、ウィスキーが沈黙を集めてくるわけではない。沈黙も自然にやってくるわけではない。田村のことばが沈黙というものをグラスのまわりに創り出すのである。
 そして、そのとき田村は、沈黙に「なる」のである。

 「夜明けの旅人」の「人」という部分の2連目の3行。

ぼくの指はピアノをひけないのにピアニストになる
ぼくの目は絵も描けないくせに画家になる
ぼくの腕は巨木の小枝さえも折れないのに彫刻家になる

 繰り返される「なる」。
 「なる」ために、ことばが動いていく。それが詩である。

 --ということを「結論」として書くために、田村隆一を読んできたわけではないのだが、全集を読んで最後に思ったのが、そういうことである。たまたま最後に読んだ部分にそういう詩があったから、そういう感想になったのだと思う。単行詩集未収録詩篇であるから、なんらかの理由で田村が除外した作品である。そういう作品を最後に取り上げて、何かいうのも変な感じである。
 もしかすると、この全集は後ろから前へもどる感じで読んだ方がいいのかもしれない。

 私はいつでも「結論」を目指して書いているわけではない。逆に、結論を書いてしまって、それから、その結論をどれだけつづけて言うことができるか、ということのために書いている。
 田村の詩から感じていることは、「矛盾」の美しさである。私は田村の「矛盾」が好きで、田村の詩を読みつづけた。そのことを最後に書いておく。


(このシリーズ、おわり)


田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(115 )

2009-06-14 00:50:15 | 田村隆一

 「単行詩集未収録詩篇Ⅲ 後期1983~1998」。そのなかの「裸婦」。男と女の違いを描いている。--というだけでは、おもしろくない。書き出しが、実は、私はとても好きだ。

肉体に
密生している
あらゆる種類の毛が
彼女の国境だ

 この「あらゆる種類の毛が」という行は、しかし、「あらゆる種類」ではなく「限定された」毛を想像させる。「あらゆる種類」ということばは、想像がどこまでおよんでも大丈夫と誘う一種の「逆説」である。何を想像しても大丈夫、と励まされて、読者は、たったひとつの「毛」、「恥毛」を想像する。こういう逆説が私は大好きだ。
 読者を(私を、と言わないといけないだろうか?)、そんなふうに誘っておいて、田村は書きつなぐ。2連目は、形としては行変え詩だが、ことばは「散文的」(論理的)である。句読点もついている。
 詩、というよりも、あとで書き直すための「メモ」という感じでもある。そして、「メモ」であるがゆえに、「思想」が剥き出しになっている。

 裸婦の後姿とその影は、
冑(よろい)をつけた男にそっくりだ。
では、男はなぜ冑で鎧(よろ)うのか。
 異民族に対抗するためには、まず論理。
論理が通用しないときには、
暴力で対抗するしかないからだ。
論理か、暴力。これしかないのである。だから男は冑で裸のカラダを覆うのだ。
 闘うとき、女性は、一枚ずつ脱いでいく。
 思わせぶりに脱いでいって、ついに裸になる。裸はもっとも強い武器だからで、暗がりが、夜の空が女性を守るのだ。

 男は戦うとき冑を身につける。冑は裸を守るためのものである。裸は「本当の自分」の比喩かもしれない。女は戦うとき(戦う必要に迫られたとき)、裸になる。身を守るものをすべて捨て去る。裸を「本当の自分」の比喩だとすると、本当の自分をさらけだすことになる。
 この、無防備な、さらけだされた「裸」を田村は「武器」と呼んでいる。「無防備」と「武器」というのは、矛盾する概念である。
 矛盾しているから、そこにはほんとうの思想がある。矛盾でしか言えない思想がある。矛盾がぶつかりあって、解体するとき、何かがおのずと生まれてくる。
 裸--その無防備を、田村は、次のように言い直している。

 暗黒の内臓、無限の宇宙がつまっている女性の皮袋。短刀もピストルも大砲も爆弾も核も、裸婦にはかなわない。

 「無防備」。その無防備とは、身につけているものを捨て去って、みずから選んだ無防備である。「武器」としての「無防備」である。
 「裸」というより、「武器」と「無防備」のあいだで、その矛盾が解体したところに、「無限の宇宙」があるのだ。そして、そこでは、あらゆるものが誕生しうるのだ。あらゆるものを産み出しうるから「無限」の「宇宙」なのである。短刀よりも強い無防備、ピストルよりも強い無防備、爆弾よりも強い無防備、核よりも強い無防備--それは、どのようにして可能か。
 そこからあらゆるものが誕生すると私は書いたが、実は、そのあらゆるものの誕生は、あらゆるものを「飲み込む」ということでもある。「無防備」と「武器」が矛盾した概念の中で互いをたたきこわし、いままでなかったものになるのだから、そこでの「誕生」もまた一般的な「誕生」とは逆の概念でなくてはならない。「誕生」とは「飲み込む」こと、吸収すること、つつみこんでしまうこと。
 矛盾でしか言えないものがある。そして、その矛盾こそが、真実なのだ。

 裸婦ほど恐しい、それでいて、やさしいものはない。

 「恐しい」と「やさしい」。その矛盾したものが「ひとつ」の形の中にある。「裸婦」という形の中にある。矛盾しているから、それは「真実」なのだ。



ノラの再婚 (1979年) (現代作家ファンタジー〈2〉)
田村 隆一,若尾 真一郎
ティビーエス・ブリタニカ

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『田村隆一全詩集』を読む(114 )

2009-06-13 02:14:45 | 田村隆一
 

 「合唱」。タイトルは「合唱」なのだが、書いてあることは「眼」についてである。

眼は泥の中にある
眼は壁の中にある
眼は石の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 この「眼」とは何か。「肉眼」か「眼」。その区別もつかない。2連目を読むと、さらにわからなくなる。

その眼は沙漠なのかでしか生きてこなかつた
その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた
その眼は近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて
深夜都会の窓とドアとベッドのかげで
月光と死と破滅の意味でみたされる眼

 「眼」は何をみつめるべきなのか。何を目撃しなければならないのか。「その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた」を中心に考えれば、「眼」は「空間」よりも「時間」をみつめてこなければならない。けれど、それはみつめてこなかった。
 そして、それは「近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて」いる。1連目と関連づけると、「泥」「壁」「石」が「近代生活の倦怠と現代の内乱」になる。「中にある」と「閉ざされている」は同じ意味になるだろう。同じ意味を言い換えたものだろう。
 それは求められている「眼」なのか。
 求められている「眼」のようには考えられない。
 しかし、その「眼」について、田村は「われわれの中にはない!」と書いている。その「眼」が求められているものではない「眼」、否定的な「眼」であるなら、「われわれの中にない」と言う必要はない。「われわれの中にある眼」とはいったいどんな「眼」なのか。何をみつめているのか。
 3連目。

それは その瞳は思いきり開かれて驚愕と戦慄と反問にみちみちている
それは俺の父の眼である
それは血と硝煙と叫喚のなかで存在の形式と
  有機的壊滅を目撃した男の眼である
それは或る不幸な青春が彼の属している国家の
  崩壊を見なければならなかつた眼である
それは彼の全経験の詩を確認した眼である
それは「私」の眼であつてしかも「我々」の眼である

 括弧でくくられた「私」と「我々」。ここに田村が言いたい何かがある。それは「俺の父」につながっている。「俺の父」と「私」と「我々」。それは「われわれ」とは無関係なものである。「我々」と「われわれ」は別なのだ。
 そうなのだ。田村は、「俺の父」につながる眼を拒絶しているのだ。「われわれの中にはない!」それは「われわれ」へとつながったこようとする。「われわれ」の誰かも、そういうものを求めるかもしれない。けれども、田村は、それを拒絶する。そういう人間を「我々」と括弧でくくることで明確にし、その眼を排除しようとする。

眼は火と医師と骨の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 これは、「戦後」からの「独立宣言」というべきものかもしれない。「俺の父」に代表される男たちの「眼」がみつめてきた何か。それはそれで貴重なものかもしれない。けれど、田村は、それを引き継ぐのではなく、田村自身の「肉眼」で世界と向き合おう、向き合いたいと宣言している。「俺の父の眼」ではなく、それとは断絶した「肉眼」で世界をみつめたい、そういう「われわれ」を目指しているのだ。
 「戦後からの独立宣言」はまた「肉眼宣言」でもある。

 タイトルが「合唱」となっているのは、その思想を田村個人のもではなく、「われわれ」の声にしたい、という思いがあるからかもしれない。



詩人からの伝言
田村隆一/長薗安浩
メディアファクトリー

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『田村隆一全詩集』を読む(113 )

2009-06-12 00:50:54 | 田村隆一
 詩は論理ではない。だから、厳密に「意味」を追いかけても仕方のないところがある。詩人自身、ことばが引き寄せるものを「意味」を特定せずに「肉体」で引き受けている。そこには「意味」のようなものはあっても、厳密な「意味」はない。「意味」を超えるイメージの特権がある。
 「黒」。その後半。

速めろ! テンポを
屋上で風に吹かれながら男が叫んでゐる 全世界にむかつて
男の指令が階上を駈けまはる 部屋から部屋へ ドアからドアへ そして
あわただしく街から街へと……
おまへの指が僕の背中のドアをひらく!
どうか本当のことを言つてくれ 僕の階段は何処へ果てようとしてゐるのだ
重なつてくる おまへの唇が僕の唇に ああ この不眠都市!

 「重なる」。「唇」が「重なる」。それは、「ことば」が重なるということだ。「ことば」が重なれば、そのときから「僕」と「おまへ」(男)は区別がなくなるが、「重なった」から区別がなくなったというよりも、最初から区別などない。屋上で叫んでいる男は最初から「僕」だったのだ。「僕」からでていった「男」が、「唇」が「重なる」ことで「僕」に帰ってきたのだ。
 「僕」を出入りする「男」(おまへ)というイメージが鮮烈にある。そして、それは「意味」ではない。「意味」にならない何かであり、そこでは、ことばがただ動き回っているだけなのである。何か、「意味」を超えるもの、つまり「意味以前」、これから新しい「意味」になろうとするものをつかみ取ろうとしている。その運動である。そのエネルギーこそが、ここに「ある」と言えるものなのだ。
 詩のつづき。

……だが眼はひらかれて だが耳をそばだてて 男の息は絶えてしまつてゐた
手も足もこの男の言ふことをきくときは もうあるまい
ひらかれた男の眼底に いまとなつてどのやうな面影がたづねてくるか
そばだてた男の耳に誰が囁くか 高価な言葉を
ふたたび夜がきた
僕らは一層不機嫌になつてしまふ
無言でドアから出て行かうよ 僕たちは……
しかし どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ
もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!

 「男」が死んでしまっても「僕」は「僕ら」(僕たち)のままである。
 そして、前の連で重なった唇--ことばは、最後に「主語」になっていく。ことばは自律運動をする。
 「どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ/もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!」は田村自身なのだ。もう、田村は田村へもどれない。「男」は死んだ。その死んだ男がかつての田村である。いま、田村は、その死を見届けて、田村からはみだしてゆく。自分自身を「殺し」ながら、はみだしていく。出発点の「僕」は死んでしまっているのだから、もちろん「もと」へは「還る」ことはできない。
 そんな運動をするのが「詩人」だ。




若い荒地 (1968年)
田村 隆一
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(112 )

2009-06-11 00:27:11 | 田村隆一
 「目撃者」は複雑な詩である。

かたかたと鳴つていたつけ 石が
固い表情を崩さずに待つていたつけ 僕が
石の中で不意に動くおまえの眼
かつて僕のものであつた正確な眼が いまでは逆に僕を狙う

 ここに登場する「おまえ」と「僕」の関係が複雑なのである。「おまえの眼」は「かつて僕のものであつた正確な眼」である。「おまえ」と「僕」はどこかでつながっている。重なっている。そのことが、この詩を複雑にしている。
 「僕」と「おまえ」がつながっていること、重なっていることは、次の行でもはっきりする。

僕が倒れる そこでおまえが僕の背中を抜けていくという仕組なのだ

 「おまえ」は「僕」のなかにあって、「僕」が倒れたとき「僕」から「抜けていく」、つまり出て行く。「おまえ」は「僕」にとっての「真実」なのである。だからこそ、

どうかおまえが考えるように僕にすべてが感じられるように

 という行も生まれる。
 この詩を複雑にするのは、さらに、別の「男」が登場してくるからである。それは「僕は何かを書いているのかも知れない 不眠の白紙をひろげて」というときに、あらわれる。書いているとき、あらわれる。もうひとりの「僕」ということになるかもしれない。
 そして、その「もうひとり」の「僕」である「男」は、さらに別の人間を引き寄せる。

どれもこれも見飽きた眺めだね その男は窓を閉めながらぼそぼそ呟きはじめる
あいつにしたつてそうだ 男は同じ調子でつづける
あいつとは一体誰のことだ 僕は思わず反問する
狙われているのです あいつは しかし或いは…… 男は僕に背中をむけたまま口ごもる
何のことだ 君は何を言おうとしているんだ 訳もなく僕は苛立ちはじめる
私には言えない 何も語れない 瞶めることです あなたの眼で!

 「あいつ」「君」「私」(引用のあと「わたし」も登場する)の関係は? そして、それと「僕」と「おまえ」の関係は?
 複雑にしたまま、もう一度、それが複雑になる。

窓の外で僕は立ち止まる
窓の内側のあの二人の男たちは何を話しあっているのだ
ここでは彼らの言葉が聞こえない

 「僕」は部屋の中で「何かを書いていた」のではないのか。いつの間にか、「僕」が入れ代わっている。そんなふうに、簡単に入れ代わるのなら、それまでの「ぼく」「おまえ」「あいつ」「男」「君」「私」「わたし」も入れかわっているかもしれない。
 でも、入れ代わるとは、どういうことだろう。

おまえの手は震えている だがおまえの眼だけは正確だ
僕は信じる 狙いは決して誤またず一分の狂いも生じまい そういう確信がかえつておまえの手を震わせる
何事が起こらねばならぬ いまは引金をひく時だ
見たまえ!
男は窓際まで歩いてくる 男がもう一人の男に重なる瞬間を待つがいい
最上の瞬間! 美しい幻影が僕の背中を過ぎ去らぬうちに捕えること
僕は信じるだけだ かつて僕のものであり いまではおまえのものである正確な眼を

 「男がもう一人の男に重なる」の「重なる」。「入れ代わる」のではなく、「重なる」のだ。そして、その重なったものを一気に破壊する。
 向き合うもの、たとえば「僕」と「おまえ」。その向き合いかたを「矛盾」と読み替えると、田村の考えていることがわかる。向き合っている「僕」と「おまえ」は、向き合うことで、いっそう「向き合う」かたちを増やしていく。「僕」も「おまえ」も増殖する。その分裂(?)を増殖させるのではなく、「重ねる」。そして、それを一気に狙撃する。破壊する。そのとき、何かがはじめて生まれるのだ。
 そして、その「狙撃」につかわれるのが、「石」、つまり「肉眼」である。すべての「僕」、「僕」から増殖するすべての人間を「重ね」、否定する。そのあと「肉眼」だけが残る。
 田村は、その「肉眼」を熱望している。





5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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『田村隆一全詩集』を読む(111 )

2009-06-10 00:20:51 | 田村隆一

 「紙上不眠」を書いていた時代(1946年ごろ)の作品には、田村の思想がうごめいている。キーワードとなることばがぶつかりあいながら、互いの動きを手さぐりをしているようなところがある。
 「不在証明」。その1連目。

風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで

 「閉ざされた時間」と「わたしの存在のはづれ」が、ここでは「同じもの」である。「風」と「生きもの」も「同じもの」であり、それに対して、田村は「寒いか」と問いかけている。
 「わたしの存在のはづれ」という表現は非常に抽象的だ。「はづれ」は「外れ」とも書く。そうすると「時間の外」の「外」と「はづれ」は「同じもの」になり「閉ざされた時間」と「わたしの存在」も「同じもの」になる。
 「わたし」を田村は「時間」と考えていることになる。
 そして、「時間」に「閉ざされた時間」があるということは、「開かれた時間」というものもどこかに想定されていることになる。同じように「開かれたわたしの存在(わたしという存在)」もどこかに想定されていることになるだろう。
 ここで田村がおこなっていることは、田村自身の「ことば」の定義である。あることばを別のことばで定義する。「重ね合わせる」ことで、「ことば」に田村独自の「意味」を持たせようとしている。「流通している」ことばではなく、田村独自のことばを手さぐりしているのである。

 いま、私は、「定義」をことばを「重ね合わせる」と書いたが、この「重ねる」は2連目以降に出てくる。

谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……

そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に

 「閉ざされた時間の外れ」と「わたしの存在のはづれ」。そのどちらが「死」であり、どちらが「生」なのか、よくわからない。それはたぶん、どちらでもいいのだと思う。「矛盾」ではないけれど、まったく別の「もの」(こと)がふたつあり、それが融合せずに向き合っている。それを「重ねる」とは、ある意味で「融合」させることでもある。このとき問題なのは、どちらが「死」、どちらが「生」であるかという判断ではなく、(どちらが「矛」で、どちらが「盾」という判断ではなく)、そういうものを「重ねる」という意識である。
 「重ねる」ために何をすべきなのか。田村は、この時点では、まだ「答え」を探り当ててはいない。ただ、そこに「答え」があるらしいと「予感」して書いている。

 この詩の1連目では「閉ざされた時間」と「わたしの存在」は「同じもの」だった。そして、2、3連目を読むと、「わたしの存在のはづれ」と「不在の生」もまた「同じもの」である。ということは「閉ざされた時間」というのは「不在の生」ということになる。
 このころ、田村は「わたしの存在」(わたしという存在)は、何もせずにそこに存在するだけでは「不在の生」なのだと感じていたことになる。
 「実在の生」(と、かりに呼んでおく)は、どこにあるのか。どうすれば、それを手にいれることができるか。
 田村のことばは、その「実在の生」をもとめて動いてく--そのことを暗示する初期の作品である。



ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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『田村隆一全詩集』を読む(110 )

2009-06-09 00:56:46 | 田村隆一

 『単行詩集未収録詩篇Ⅱ』(遷座1946-1969年)。「紙上不眠」というシリーズの詩が何篇かある。そのタイトルの作品のと終わりの2行

鳥が啼くのにわたしの眼はねむれない
夜が明けるのにわたしの耳はねむれない

 これは、少し奇妙である。一般的にいえば、鳥の鳴き声(さえずり)に眠りがじゃまされるのは眼ではなく耳である。また夜明けの光に眠りがじゃまされるのは身ではなく眼である。ところが田村はそのふたつを入れ換えて書いている。
 これは何度も書いてきたが田村の詩の特徴のひとつである。感覚が「肉体」のなかで融合する。入れ代わる。「肉眼」は聞き、「肉・耳」は見る。そういうことがおきる。その融合のなかに詩がある。
 この詩が特徴的なのは、その感覚の融合が「物語」からはじまっていることである。
 引用の2行に先立つ2連目。

 物語のなかの少年が物語のなかの窓の下を通る 私は頁をめくる…… 頁の翳で誰かがめざめる 扉をひらき鏡の奥の部屋から誰かが降りてくる…… 少年の過ぎ去つた跡を追つて誰かがわたしの窓の下を通る 私は夜をめくる…… (略) 輪のなかでわたしはねむれない……

 「物語」と「わたし」が融合する。「窓の下を通る」という「動作」(運動)によって「少年」と「わたし」が融合し、「頁」と「夜」が融合する。そして「ねむれない」。何かが融合するということは、実は、「わたし」の枠を越境して「めざめる」ことなのだ。「肉眼」「肉・耳」は「めざめる」ことしかできない。「ねむる」ことはできない。
 その体験を、田村は「物語」(紙上のことば)から体験している。「物語」はもしかすると「詩」かもしれない。「物語」と書かれているが、それは「ストーリー」ではなく、ストーリーを突き破ってあらわれる「詩」かもしれない。
 詩のことばによって、めざめ、ねむることができない田村--そういう「自画像」がここには描かれている。
 そう読んではいけないだろうか。

 「生きものに関する幻想」にも田村の「思想」の出発点というか、思想になろうとしていることばがうごめいている。

それは噴水
周囲から風は落ちて 水の音だけひびいてくる……
それは夜のひととき
誰もゐない……
わたしと星の対話
わたしと星のあひだには それでも生きものがゐて わたしを別のわたしにしたり 星の遠い時間に置きかへたりする生きものがいて……
それは噴水 生きものは孤独
生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独

 「あひだ」。「間」。「わたし」と「他者」、相いれないもの。それをたとえば「矛盾」と呼んでみる。「矛盾」の「間」には「生きもの」がいる。
 だからこそ、矛盾→止揚→発展という弁証法へと、田村のことばは動いていかないのだ。
 矛盾→相互破壊(解体)→いのちの原型(未分化のいのち)へと動く。「未分化のいのち」をくぐることで、「わたし」は「別のわたし」になる。たとえば「眼」は「肉眼」になり、「眼とは別」の機能を持つようになる。「眼」は「肉眼」となることで、「見る」ではなく「聞く」ということをしてしまう。
 そして、そのとき、そういう運動をしてしまう「生きもの」(いのち)は孤独である。なぜ、孤独か。「肉眼」は「眼」とはちがって、「聞く」。「肉・耳」は「耳」とはちがって「見る」。「肉眼」は一番親しいはずの「眼」と手を結ぶことができない。同じ仕事ができない。「肉・耳」も同じ。そういう状態を、田村は「孤独」と呼んでいる。
 その孤独は、田村の孤独と、声をかわす。互いに、その孤独を感じ取る。

生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独

 「未分化のいのち」は、それを発見されるのをただ待っている。だから、田村はそれを見つけにゆく。「矛盾」を叩き壊すことで。



エスケープのすすめ (1963年)

荒地出版社

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『田村隆一全詩集』を読む(109 )

2009-06-08 01:03:17 | 田村隆一

 「春雨」には「生」と「死」が「性」とともに書かれている。「頭」も出てくる。

地蔵の前で もう一度考へてみた
桃の花が頭の中で咲いてゐたとも思つた
藪の中には 坂のところで死んだと云ふ祖母の髑髏が音をたててゐた

色情だな
地蔵の鼻のあたりが 小さな効果を生んでゐた

 ここには、たとえば祖母が色情に狂って死んだ坂があるという「ストーリー」があるかもしれない。桃の花の頃のことである、というストーリーがあるかもしれない。ことばというものは、どんな任意のことばを書き並べても、かならずそこにストーリーができる。読者はかってにストーリーを捏造して、それを読みふける。書かれたことばを読むというよりも、自分の「頭の中」を読むのである。
 田村も、田村の「頭の中」を読んでいるのかもしれない。「頭の中」を読んだとき、そこに浮かんだことばを書き並べているのかもしれない。そのことばが、どう動いていくのか。どう動かしていくのか。田村はまだ決めかねている。そういうことばが、この詩の中に集中的に登場している。そのことを、私は、とてもおもしろいと思う。
 書く--というより、ことばに書かされている。この、ことばに書かされるという一時期をどんな詩人もくぐり抜ける。そういう時期が、田村にもあったのだと、この詩を読んで、ふと思った。

 「寄港地」の次の部分もとても印象に残る。(原文に「踊り文字」がつかわれているが、表記できないので、現在の表記にあわせて引用している。)

雨は はげしい!
広場は おそらく 沈んでしまふだらう
だが どんなことになつても 僕が石の上に座つてゐることは絶対だ!
「それは幻想だよ」
よせばいいのに 僕の智慧は また呟く
ああ 見知らぬいくつかの建物が 音を立てた!
そいつは聞える あれは言葉ではないんだ
僕には もう言葉が聞えない
ただ 音だけが 河の流れのやうに 僕の胸を抜けてゆく

 「言葉ではない」「言葉が聞えない」。これは「対」になっている。田村には「言葉」は聞こえない。けれど「言葉ではない」ものは聞こえる。そのことを田村は、しかし、歎いてはいない。否定的にはとらえてはいない。私には、そんなふうに感じられる。
 「言葉ではない」音は、「頭」(智慧)ではなく、「胸を抜けてゆく」。胸を通る。「肉体」を通る。
 それこそが「詩」ではないのか。

 「詩」とは、ことばではないことば。--田村は、そのことを、このころに確信したのではないかと私は思う。




ぼくの遊覧船 (1975年)
田村 隆一
文芸春秋

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『田村隆一全詩集』を読む(108 )

2009-06-07 01:05:45 | 田村隆一


 「アタマ島」という短い作品がある。

眠れない夜であつた 夜と言ふ言葉はボクの側の人々がいろいろな意味で語つてゐた 「小さな夜の場合」と「夜の人間」と言ふやうに

「市民的女神」 窓を抜ける外側は市民の輿論や 動物の生活などが起りはじめてゐた

 「アタマ」とは「頭」だろう。人間は「頭」で言葉をつかう。ひとつのことばをいろいろにつかう。その具体例として、田村は「夜」をとりあげ、「小さな夜の場合」「夜の人間」と書いている。どちらも「日常的なことば」とは言えない。ふつう「小さな夜」というような言い方はしない。「夜の人間」は「夜の仕事をする人間」「夜型の人間」というふうにつかうかもしれないが、なんとなく違和感が残る。
 それが田村の「違和感」かどうかはよくわからない。判断する根拠はないのだが、私は、田村は、「頭」で動かしていることばに対して違和感を感じていたのではないか、と思う。
 一方、それとは反対に「市民的女神」とのうような不思議なことばに田村は親しみを感じていたように思える。「市民的女神」の方が「夜の人間」よりも造語的な印象がつよいが、そのむりやりつくりだしたようなことばに親密感を感じていたのではないだろうか。ちょっとむりをした「小さな夜の場合」「夜の人間」ではなく、もっとむりにむりを重ねた「市民的女神」の方に。
 その実践として、それまでの作品があるとも言える。
 そして、そのむりにむりをかさねた、いわば「わざと」が極限にまで達したようなことばの運動に、田村は「市民の輿論」「動物の生活」というようなものを感じている。生々しい何かを感じている。
 初期詩篇は、モダニズムといえばいいのかどうかわからないが、ことばの運動がとても奇妙である。日常的なことばの動きとはまったく違う。しかし、その動きのなかに、田村は「頭」を超える何かを感じていたのだと思う。ことばを「頭」で動かすのではなく、「頭」から遠いもので動かす--その動かす力をどこかで感じ、そうしたことばの方向へ行こうとしていたように感じられる。

 「頭」(アタマ)ということばは、「アタマ島」(1940年6月13日)のあとの詩篇にも何度か登場する。
 「不思議な一夜を過ぎて」には、

「いろいろなアタマがあつた 海鳴りを耳にして島民たちも住んだ それからユリの花が咲いたりした」

先祖がこの道を歩いたやうに 僕も一通りの生活をはじめてゐた

わが先祖よ
あなたの感傷を僕たちは知つてゐる

 「アタマ」を「頭」と仮定してのことだが、それは「知る」ということと関係しているかもしれない。「頭」で知っていること。それをことばにするのではなく、「頭」のしらないことばを動かす。そのとき、詩が生まれる。--田村は、どこかでそんなふうに感じていたのかもしれない。
 「頭」を否定して動くことば--それが、詩。
 モダニズムふうの、風変わりなことばの動き--それは「頭」を否定したことばたちなのだ。

 「海霧のある村里」の冒頭。

坂をのぼり、花のある山波の麓へ曲つた
オルゴオルが俺の耳に響き、ふとこの村里の意識に触れた
「ナミダの意識か」 ひととき、俺の郷愁が海鳴りのやうであつた
村雨が俺のアタマを流れ、花花をたたいた
            (「たたいた」の2文字目の「た」は原文は、踊り文字)

 「村里の意識」とは「感傷」のことである。だから、それは「ナミダ」「郷愁」ということばで繰り返される。そういうものが「俺のアタマ」を叩く。攻撃をしかけてくる。それに対して田村は戦いはじめる。
 これからあとが、とてもおもしろい。

坂をのぼり、花のある山波の麓へ曲つた
オルゴオルが俺の耳に響き、ふとこの村里の意識に触れた
「ナミダの意識か」 ひととき、俺の郷愁が海鳴りのやうであつた
村雨が俺のアタマを流れ、花花をたたいた
形から遁れ、その時、むかしの鳥を見た!
俺の手は震へ、路傍の石を拾ふ
「形から遁れ、形へ帰るんだ!」
冷い石は父の体臭のごとく、俺の手のヒラに動いてゐた
ああ、その石の中に、俺は生きてゐるメダマを見た

 「頭」と戦うとき、「肉・体」が剥き出しになる。「父の体臭」。そして、突然、「肉眼」が「肉眼」ということばとは違うもっと生々しいことばで出てくる。「生きてゐるメダマ」。
 「頭」に押し寄せてくる感傷・涙・郷愁。どう戦っていいかわからないが、とりあえず「石」を拾う。そうすると、それは動いた。石が動いた。そこには「生きてゐるメダマ」があった。「生きてゐるメダマ」が「頭」と戦う武器である。
 このとき、「生きてゐるメダマ」は、その後に田村が書く「肉眼」にほかならない。

 最後の1行は象徴的である。

その夜、俺は海霧のある村里に眠り、いつの間にか父は海を渡り、濡れた手のヒラに形のメダマを握り、石の中に入れてゐた

 「石の中にメダマを入れる」。それは「石」のなかに「肉眼」で見たものを入れるということである。「肉眼」で見たものを「石」の中に入れて、それを武器にする。この「石」を「ことば」に置き換えると、そのとき「石」は「詩」になる。



5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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『田村隆一全詩集』を読む(106 )

2009-06-06 01:05:18 | 田村隆一


 『全詩集』に「単行詩集未収録詩篇」がおさめられている。戦前(1939~1942年)の作品。「インクと人造肥料」。

トランプは無意識に鏡をバラマキ
ルージュが午後の装飾を考慮する
笛に似て空がブラウスのやうに落ちてくると
羽をソメてトンボなどが
ハイ・ヒールをふみつぶす

 ことばがぶつかりあって乱反射する。ことばとことばの衝突からイメージが自律して動きだすのを待っている感じがする。
 まだ、ほんとうに書きたいのは何なのかわからず、ことばを手さぐりしている感じがする。

 「馬のピストル」には、おもしろい行がある。

蒼白い雨の角度から
燃え上がる植物たちは
暁の来るのを忘れてゐたが
時間が
沈んでゐる魚族の思想を剥ぎとる

 「雨」と「燃える」。水と火。「矛盾」の芽が、ここにある。




5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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『田村隆一全詩集』を読む(106 )

2009-06-05 01:00:34 | 田村隆一

 「館(やかた)」という詩には魅力的な逆説がある。矛盾がある。

昼間は素顔の女たち
赤裸の心に皮膚をまとって検診を待っている女たち
けだるい表情 白昼夢の中で呼吸している娼婦
身ぶり手ぶりまでモノクロの世界
これに彩色するのが小男の聖なる仕事
油彩だけで百点以上
『ムーラン街のサロン』はその代表作
夕暮れがせまってくると
女たちは裸体の皮膚をはぎとって
人工の織物 獣性の香水 顔には仮面をつけて

 「皮膚」のかわりの「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」。それが人間を「裸」にする。「皮膚」の下に存在する「肉・体」を引き出す。「肉体」になるために「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が必要なのだ。「裸体の皮膚」に「体」がつつまれているときは、それはまだ「肉体」ではないのだ。
 そして、男たちは、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」に出会うことで、「肉体」に出会う。それをはぎ取ったら「肉体」があるのではなく、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」なのである。だからロートレックは、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をつけた女たちを描くのだ。

心は水平軸 たえず左右に移動する
魂は垂直軸 とっくの昔に失ったはずの魂が
娼婦たちを聖地にのぼりつめらせ
その瞬間 異神の地獄へ突き落とす

 左右へ移動することが垂直に動くこと。聖地へのぼりつめることが地獄へ落ちること。それは切り離せない。対立したもの、「矛・盾」したものは、かたく結びつくことで「真実」になる。
 「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をまとうこと、それが裸とかたく密着することで、「肉・体」が誕生するように。
 この真実を、田村は「人間性」と呼んでいる。

「絵描きのアンリさん」
「コーヒー沸かしのアンリさん」
小男は女たちにニックネームをつけられても
彼の白熱した目は
女たちの人間性という血肉の線を見逃さない

この世の外(そと)に
小男の王国はあったのだ

 「小男の王国」とはもちろん「絵」である。それはそして、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」であるという「王国」でもある。それは「この世の外」である。ロートレックが生まれ育った「家庭」の「外」であるだけではなく、女たちが「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をまとっている「世界の外」でもある。「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」が世界であると同時に、それは「外」でもあるのだ。娼婦たちの「肉体」とぴったり重なる「絵」--世界は、「内」と「外」がかたく結びついて、「ひとつ」になっている。

 内は外。外は内。--この矛盾こそがロートレックである。そしてそれは、同時に、田村でもある。




靴をはいた青空〈3〉―詩人達のファンタジー (1981年)
田村 隆一,岸田 衿子,鈴木 志郎康,岸田 今日子,矢川 澄子,伊藤 比呂美
出帆新社

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『田村隆一全詩集』を読む(105 )

2009-06-04 00:39:50 | 田村隆一

 田村は「性」をしきりに書く。そして、その性は「簡潔」ということばに収斂するように思える。「声から肉体が生まれる」に「簡潔」ということばが出てくる。

宮廷の道化師たちは
モンマルトルのキャバレーで変身する
貴族の手から大商人 小商人のシルクハットのなかに
モンマルトルのみだらな夜を歌うイヴット・ギルベールの
邪悪な表情と声に
肉だけのブルジョアたちは歓喜する
男性そのものの黒いビロードのブリュアンの
不気味な悪の詩の朗読に
影の存在となった観衆は 性の簡潔さに
はじめて気づく

 この「簡潔」さは「肉・性」というものかもしれない。「性」もいろいろなものをまとっている。いろいろな技巧というか、形式がある。「枠」がある。それを叩き壊して、「無防備」な性になる。「簡潔」はたぶん「無防備」と同じである。無防備とは、何が起きてもかまわない、という覚悟のことでもある。
 その引き金として、田村は「声」を取り上げている。その「声」は「肉・声」である。
 田村は、ここでは「肉声」ということばはつかっていないのだが、自然に、「肉声」ということばを私は思い出してしまう。同時に、とても不思議な気持ちになる。
 肉眼と同じように、なぜか「肉声」ということばがある。「肉・耳」「肉・鼻」「肉・舌」ということばはないのに……。そして、その「肉・声」が「肉体」をひきだしている。
 「肉・体」の奥から出てくる「肉・声」。それが、たぶんさまざまな「枠」を否定するのだ。みだらに、邪悪に、人間がもっている「枠」に触れながら、それを引き剥がす。
 このとき「肉・声」は実は「声」であると同時に「ことば」である。「肉・声」は「ことば」になって、みだらで、邪悪なことばになって、人間の「枠」にぶつかる。はげしい衝撃のなかで、「枠」が叩き壊され、「肉・体」だけになってしまう。そこに、必然的に「性」が立ち上がる。
 その性は、人間関係をすべて消し去る。「肉・体」だけのぶつかりあいにかえてしまう。とても「簡潔」だ。
 「簡潔」は、田村が追い求めている純粋な何かである。





ファッションの鏡 (1979年)
田村 隆一,CECILWALTERHARDY BEATON
文化出版局

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『田村隆一全詩集』を読む(104 )

2009-06-03 00:18:45 | 田村隆一

 「市民権」という詩は、「肉・体」と「心」の関係について書いている。さらに、「肉・体」「心」とロートレックについて書いている。

骨なし男のヴァランタンがリーダーで
女たちに肉だけになるように訓練する
心などという余計なものは捨ててしまえ
その捨てられた心を造形するのが
小男の貴族

 フレンチ・カンカンを踊る女たちは「肉・体」だけになる。「肉・体」だけになってしまうと、それが「心」なのだ。--この表現は「矛盾」しているが、矛盾しているからこそ、そこには田村の「思想」がある。そのことをよりいっそう明確にするのが、

捨てられた心を造形する

 の「造形する」である。
 「小男の貴族」とはロートレックのことだが、「捨てられた心」はそのままそこにあるわけではない。「肉・体」は、いつでもそこにあるわけではない。「心」を捨てて、「肉・体」になった女性たち。--それは、ロートレックが絵にすることによってはじめて19世紀の世紀末のパリに、芸術のなかに誕生したのだ。
 ロートレックが、「肉・体」=「心」というものを、絵として、造形したのである。
 「造形する」は、主語をロートレックから「女」にかえるとき、「誕生する」に変わる。「誕生する」とは「生まれ変わる」であり、「再生する」である。女たちはフレンチ・カンカンという踊りのなかで「肉・体」に生まれ変わる。「肉・体」に再生する。その運動をロートレックは絵に「造形する」。
 そして、田村隆一は、ロートレックが「造形」したものを、ことばによって「語り直す」。詩にする。
 そのとき、ロートレックと田村隆一は共犯者になる。

この世紀末には捨てられた心は数えきれない
女たちが心を捨てるのは芸だが
その刺戟的な芸によって
山高帽だけをかぶって肉欲のかたまりになったブルジョアは
やっと市民権を得る

肉欲にシルクハットをかぶった自然主義の子どもたち
白髪の老人だってミュージック・ホールにはいれば
性に目覚める小動物に変わる
自然という生きものの血液は
緑色にちがいない
その繁殖力 針の穴の中にだって忍びこんでくる生命力
その邪悪な力から
赤と黄と黒の原色で緑の血液にあらがうのだ

 「肉・体」を描くこと。それは「肉・体」となった「心」を、もう一度ひっくりかえすことだ。「肉・体」そのものが「心」なのだから、「肉・体」を描くことで、そこにもう一度「心」を誕生させることである。ロートレックは「肉・体」を描いているのではなく、「心」を描いている。つくりだしている。「造形」している。

 いつでも、芸術というものは、その運動の中に「矛盾」をかかえている。矛盾があるから芸術である。
 「肉体」は「心」を捨てることで「肉・体」になる。そして、「肉体」ではなく、「心」を捨てきった「肉・体」を描くことが「心」を描くこと、「心」を「造形する」ことである。
 --こんな回り道をしなくても、さっさと「心」を描けばいい、というのは、しかし不可能なのだ。
 回り道をする。矛盾を生きる。そうしなければ、何も「誕生」しない。「思想」はいつでも「矛盾」を生きる--つまり、「矛盾」そのものになる、そして、そのなかでいままでの「生」の形を叩き壊すときに、はじめて、「生まれ変わる」という形で「誕生」するのである。

 それは「邪悪」な「生命力」に生まれ変わるということでもある。「邪悪」な「生命力」。それだけが「純粋」なのものである。




もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)
田村 隆一
PHP研究所

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『田村隆一全詩集』を読む(103 )

2009-06-02 01:28:52 | 田村隆一

 『ロートレック ストーリー』(1997年)はロートレックの「肉眼」を田村が語り直したものである。

男は少年期に
両脚の病で小人(こびと)になったが
上半身の肩や胸はたくましく 十字軍以来の
貴族の血が流れていて

そのおかげで独自のアングルが生まれる
貴族の血にうんざりしてブルジョアにあこがれる
ブルジョアとは市民のことさ 低い視線から
人間を瞶(みつ)めると肉だけが見えてきて

 ここには田村が大好きな「矛盾」がある。萎えた両脚、頑丈な上半身。貴族、市民(庶民)それは互いに互いを否定する。そこに必然的に「結合」ではなく「分離」が生まれる。亀裂が生まれる。しかし、それは、ほんとうは亀裂という名の結合なのである。遠く離れたふたつの存在形式の「間」、そこに「間」があることによって、その「間」を埋めるものが誕生することが可能になる。
 その「間」に生まれてくるもの--それを「肉」と見るのが田村の特徴である。

おびただしい心は男の胸の中に集中する
まるでムーラン・ルージュの赤が
黄色にかわり 第一次世界大戦後には黒になって
男の心の墓地になったように

 見えるのは肉。「肉眼」が見るのは「肉」である。そして、そのとき、「心」は、ロートレックの肉体(胸)のなかに押し寄せる。「肉」を見ることで、「心」を吸収してしまうのだ。
 それは別ないいかたをすれば、「肉眼」からさらに「肉・体」になり、あらゆるものを「肉」として受け入れるということかもしれない。「肉」と「肉」が直接触れ合う。「心」というものなど、消えてしまう。「心」の拒絶が、ここにはある。「心」は「墓地」のなかで忘れさられ、腐敗していく。そうして、「肉」は「肉」として完成する。
 あらゆるものが「肉」として直接触れ合うのである。

だから夕暮れになるとアトリエから脱走して
モンマルトルの寄席 居酒屋 淫売屋
山高帽と肉だけになった市民の群れのなかに
出没する 重いステッキに心を支えながら

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 「どこだっていい」。これが「矛盾」の行き先である。「どこだっていい」というよりも、「どこ」と前もって決めることができないのである。前もって決めるのは「心」(あるいは「頭」)であって、「肉・体」は何も決めない。決めないまま、そこに「肉・体」があることをたよりに、ただ「いま」「ここ」ではない「場」へと動いていくのである。そして、いっそう「肉・体」になる。
 そういう運動を、田村はロートレックのなかに見ている。そして、その体験を田村はことばで語り直している。



もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)
田村 隆一
PHP研究所

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