詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

本のなかを/異聞

2015-12-31 19:21:12 | 
本のなかを、

本のなかを走っている鉄道を八時間かけてたどりついた冬の朝、
ことばはホテルのベッドに横たわっている。それから
突然降りはじめた雨になって窓の外側を流れてみる。
上の方では葉を落とした梢が激しく揺れ、影が乱れ、ことばは、
その乱れを別なことばで言い直すのはむずかしいと感じる。
ことばは、ほんとうは、音楽界に行くべきかどうか迷っている。
ことばは、まったく希望をもっていない。胃の手術を二度したあとの父のように。

しかし、それはあしたの朝のこと。
枕元のスタンドは黄色い光。広げたノートの上にことばが小さな影をつくっている。
書こうとして書けないことの、あるいは鉛筆の、



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4200円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーネル・ムンドルッツォ監督「ホワイト・ゴッド」(★★)

2015-12-31 19:19:56 | 映画
監督 コーネル・ムンドルッツォ 出演 ハーゲン(犬)、ジョーフィア・プショッタリリ

 タイトルは「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」ととても長い。何が「ホワイト・ゴッド」なのか、わからない。「god」をひっくりかえして「dog」なのか。つまり「dog」のひっくりかえった状態を、そう呼んでいるのか。
 愛犬家としては、こういう映画はおもしろくない。
 だいたい自由恋愛で生まれた犬を「雑種」と差別してはいけない。「血統書」つきの犬のなかにも本気で好きになった同士の犬の子どももいるかもしれないが、飼い主の「好み」で相手を押しつけ、子どもをつくらせるなんて、古くさい政略結婚ではないか。
 というようなことは、映画とは関係ないかもしれないが、関係ない「事情」を抱えてみるのが「ファン(ミーハー)」というものである。
 さて、この映画。
 いちばんの見どころは、犬が集団で街中を走るシーン。わっ、すごい。CGではなさそう。どうやって、こんなに多くの犬を同じようなスピード(全力疾走)で走らせたのだろう。我が家の犬は走るのが嫌いだから、この映画には出られないなあ、と思いながら見た。
 どんな工夫がしてあるかというと。
 スクリーン全体に犬が走るシーンが広がる瞬間もあるのだが、アップが多い。スクリーン全体に犬の体が映る。あ、こんな近くで犬が走るときの「肉体」を見たことがない。それにびっくりして、少ない犬だけのシーンでも、非常に多くの犬がいるように見える。警官のバリケードを乗り越えて逃走するシーンにそれが効果的につかわれている。
 これは「闘犬」のシーンにも応用されている。アップすぎて、どんなふうに闘っているかがよくわからない。日常的に犬のけんか(あるいはプロレスごっこ)を見るときは、人間は犬から離れている。そして、自分の「見たい」部分に焦点をあてて犬の動きを見ている。「全身」を見ながら、一部に焦点をあてて見ている。ところがスクリーンでは、その「焦点」が「フレーム」全体に広がってしまう。どこを見ていいのか一瞬わからなくなる。一部を選んでみるのではなく、カメラが切り取った「フレーム」の「広さ」を見てしまう。
 で、混乱し、それを「迫力」と勘違いする。人間の目の機能と、レンズとフレーム構造の「違い」を巧みに利用している。犬の演技というよりも、「カメラ」の演技である。
 ラストシーン。犬が全部、伏せをした静止状態になってみると、犬の数が、それまで見てきた数より少なく感じられるのは、そういうことも影響している。犬ではなく、カメラが「演技」しているから、カメラが動かない(動けない)シーンでは、それまでの犬の表情とは差がでてきてしまう。クライマックスなのに、ここは大失敗だね。あと数倍の犬をあつめないと迫力にならない。
 ま、しかし、これは余分なこと。どうでもいいことを書いてしまってから、犬について書く。
 私が好きなシーンは、ハーゲンが街をさまよいながら歩くとき、船の汽笛に反応するシーン。大きな音だから驚いたのか。いや、そうではなく、その音が少女の吹くトランペットの音に似ているから、あ、少女はどこ?と探してしまうのである。このときの、船をみつめるハーゲンの表情(肉体全体の動き)がなんともいい。足の乱れ、耳の動きに、胸がせつなくなる。あれは船の汽笛だよ、と教えてやりたくなる。少女はあそこにはいないよ。
 このシーンがあって、最後のシーンの少女が吹くトランペットが生きてくるのだが、あれは何? もしかして「音階」がいっしょだった? 私は音痴なので区別がつかないが、もしかすると音色が似ているだけではなく、音階そのものが同じだったのかなあ。
 そうか、そこまで犬の聴覚はしっかりしているのか。
 少女は、ハーゲンを探すとき、青いパーカーを着ている。犬と遊ぶとき、いつも着ていた。そのパーカーを見れば、少女だと気付く。そう思ってのことなのだろう。しかしハーゲンは青いパーカーには反応せず、トランペットに反応する。
 犬は色盲といわれる。だからか。あるいは人間が「視覚」を頼りにすることが多いのに対し、犬は「聴覚」で世界を識別することの方が多いということだろうか。先に書いたカメラの「演技」、つまりフレームと人間の焦点のしぼり方の違いの利用は、人間だからおきる一種の錯覚なのか。
 我が家の犬は、ジャズとクラシックは平気だが、ミッシェル・ポルナレフのフレンチ・ポップスが苦手で、音楽をかけると部屋から出て行ってしまう。またかつては「津軽のふるさと」が「子守唄」だった。歌うと、そばに来て寝るのである。しかし最近は「津軽のふるさと」に反応しなくなった。飽きてきたのか。新しい「好み」を探して絆を深めなければ、と思った。
 こんなことは映画とは関係がない。だから、書いておきたい。
     (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン4、2015年12月30日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
カンヌ short5 [レンタル落ち]
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田拓也「「倭人伝」断片」ほか

2015-12-31 11:11:11 | 長田弘「最後の詩集」
福田拓也「「倭人伝」断片」ほか(「hotel第2章」37、2015年12月01日発行)

 詩とは何か。散文ではないもの、と定義すると簡単かもしれない。散文は論理でもある。だから論理ではないものが詩。論ではないは、論理を逸脱/破壊すると言い直すこともできるかもしれない。だから、詩とは論理を逸脱/破壊するものとできる。
 でも、この定義は危険だ。論理というものに頼りすぎている。論理とは何? 論理とはどこにある? そのことが明らかにならないかぎり、詩を定義したことにならない。つまり、繰り返しに陥ってしまう。
 --と、書いてわかることは、こういう抽象的なことは、ただ延々とつづいていくだけで、何も書いたことにならないということ。
 だったら書かなければいいのだが、なんとなく書いてしまった。書かないと、次のことばが出て来ないのだ。

 福田拓也「「倭人伝」断片」。その一連目。読点「、」はあるが、句点「。」は出て来ない。文章が終わらない。完結しない。つまり「論理」がない。「論理」とは、結論によって成立するものだからだ。(と、また抽象的なことを書く。)福田は、文章を終わらせない、という方法で詩を生み出そうとしている、と言い直すことができる。
 では、どうやって完結させない?

前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くう
ちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に
出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の模様を頼りに、しきりに
自分の身体に刻された傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四
通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわた
しの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光
と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るも
のがある、

 読点「、」に目を向けると、「頼りに、」「傷、」「痕跡、」「想うばかり、」「揺れ、」「動き」、「ある、」。「傷、」「痕跡、」は名詞+「、」だが、あとは動詞に連続している。動詞には「終止形」というものがある。終止形にすれば、文章は「終わる」。福田は、それを避けている。ある動詞から、次の動詞へと、ことばを連続させている。そうすることで、完結を避けている。最後の「ある、」も、福田の意識としては「あり、」だろう。
 この連続は、しかし、完全な連続とは言えない。「たよる」「想う」「揺れる」「震える」「ゆれ動く」「ある」は、その動詞自体として相互に関係があるわけではない。むしろ、断絶/切断している。連続しているのは「主語」である。
 この作品で言えば「わたしの身体」「わたしの睫毛」が「は」という格助詞をもって「主語」となっている。それは「わたし」と言い直すことができると想う。
 福田の意図がどうであれ、私は、ここには「わたし」というもの(わたしの身体、と福田は言うだろうか)が「連続」していると読んでしまう。
 後半の「震え、」「揺れ動き、」の「主語」は「水面」「光と影」なのだが、それは「わたし」が「見た」(把握した)情景であり、やはり強引に「わたし」というものが世界を連続させていると読むことができる。最後の「ある、」も「かがよい現われてくるものがある」と認識する「わたし」によってとらえられた世界と読むことができる。
 「わたし」という存在(身体)が連続している。それを利用して、福田は、動詞の不連続性を連続に変える。
 そう読むと……。
 これは結局、「わたし」の連続性を少し変わった手法で書き直した「抒情詩」に見えてくる。「わたし」が切断されながら、なお連続(持続)していくとき、「抒情詩」が見えてくる。
 抒情詩というのは、「わたし」が切断される瞬間、連続性が否定される瞬間の「陶酔」が大きなテーマになっているが、この詩でも「傷」「痕跡」というような「切断」を象徴することばが動いている。それは「象徴」として「こころ」に刻まれるものだけれど、それを「身体」そのものに刻まれた形で書いていることが見えてくる。
 この「傷」「痕跡」が「年」ではなくて「名詞(イメージ)」であることが「叙情性」に拍車をかける。「名詞」は静止している。「身体」を静止状態でとらえるということは、ある瞬間(時間)の強調である。スローモーションではなくストップモーション。動くことを忘れ、「身体」に陶酔する。ナルシズム。センチメンタル。ここから抒情まではほんの少しだ。隣接するというよりも、ほとんどまじりあっている。
 その延長に「睫毛」とか「微かに」とか抒情詩っぽい、ことばも見つけ出すことができる。
 しかし、このことばの動きが「抒情詩」であることを、何よりも証明するのが、二回登場する「あの」である。
 「あの出来事」「あの水面」。
 「あの」とは「ここ」にないもの。「ここ」から遠くにあるもの。それは読者にはどこにあるかわからない。知っているのは書いている作者(福田)だけである。「わたし(福田)」の「肉体/意識」のなかには「あの」が残っていて、それが「わたし」の「連続性」と一致している。
 「あの」と呼ぶことができる「連続性」が「わたし」の「連続性」となって、存在している。それがあるから、動詞は瞬間瞬間に逸脱して行くことができる。論理を分断していくことができる。論理が切断されることで、そこに逆に「こころ」の連続性も見えてきて、それが「抒情」へと結晶していく。

 で、これが、と私は飛躍するのだが……。
 三連目。

いつもそうだった、このように私は山の岨道を辿りながら曲がりくね
る草深い道沿いの山の中に迷い込み、

 その連続性が「いつもそうだった」と言い直される。そして、そう言い直されるとき、その「いつも」は「わたし(福田)」の「いつも」をはみ出し、すべての人間の「いつも」のように響いてくる。
 抒情は共有されて詩になる。「いつも」のなかには、その「共有」があると感じてしまう。
 最初は「わたし(福田)」だけの「連続性」だったものが、「抒情」という形で読者(他者)へと連続して行き、そのことで同時に「わたし(福田)」の感じだ「切断/断絶」が読者のものとなる。
 こんなめんどうくさいいい方をしなくても「倭人伝」という書物を主題にしているのだから、そのなにか「歴史=共有された時間」があると言ってしまった方が感嘆なのかもしれないが。そこから出発すると、共有された時間という歴史を「わたし(福田)」がことばで分断し、読者の「身体」に傷をつくり、それが読者の「身体」に「痕跡」を残し、その「痕跡」という「事実」から「叙事」が動くということになる。「あの」もひとりの記憶ではなく、「共有」された「事実」になる。--福田の思いは、「抒情詩」ではなく「叙事詩」なのかもしれないから、ほんとうはそう書いた方がいいのかもしれないという思いは残るのだが、
 私には「抒情詩」に見えたので、こういう書き方になった。



 根本明「風車ではなく」には、

街道の夜の鉄はしへと変化(へんげ)のひとつ〔そして希望とは何か〕略して〔希望〕が唐突ながら突き進むのだとする。

 という魅力的なことばがあって、後半には、その〔希望〕が何度か出てきて、ことばをひっかきまわす。それがおもしろい。福田の詩と関連づけながら、そのおもしろさを書きたかったのだが、目が痛くなったので、今年の感想はここでやめる。中途半端だが。

まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野村喜和夫「新潟即興」

2015-12-30 09:49:12 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「新潟即興」(「hotel第2章」37、2015年12月01日発行)

 野村喜和夫「新潟即興」の一連目。

西脇の
新潟に行って
新潟の
稲穂をみた

 三行目の「新潟の」は何だろう。
 これは、別の「問い」のたて方をした方がいいのかな?
 なぜ野村は三行目に「新潟の」と書いたのか。「新潟の」と書かないと、四行目の「稲穂」は「新潟の稲穂」にはならないのか。つまり、

西脇の
新潟に行って
稲穂をみた

 と書いたとき、それは「意味」が違ってくるのか。「新潟の稲穂」ではなく「秋田の稲穂」になるのか、「富山の稲穂」になるのか。
 文法的(?)には、そんなものになりはしない。つまり、「新潟の」と書かなくても「新潟の稲穂」である。
 それでは、なぜ、そんな不経済なことばのつかい方をしたのか。
 三行目の「新潟」は単なる「土地」をあらわしているのではないのだ。ほんとうは「西脇の新潟」なのである。つまり、

西脇の
新潟に行って
西脇の新潟の
稲穂をみた

 あるいは、

西脇の
新潟に行って
西脇の
稲穂をみた

 と言った方が正確かもしれない。
 野村にとって「新潟」は北陸の一地名ではない。「土地」ではない。あくまで西脇がいて、はじめて「新潟」という名前になる「場」なのである。
 では、なぜ、一連目、

西脇の
稲穂をみた

 と書かなかったか。
 「西脇」は野村の「肉体」にぴったり重なり、「西脇の目」になっている。その目は意識化されていない。だから省略されている。

西脇の目のみた
稲穂をみた

 なのである。
 だから、二連目、

まあたらしい新幹線の駅に降り立つと
土地の豊穰の
女神の化身の
ようなひとが出迎えてくれた

 これは、

まあたらしい新幹線の駅に降り立つと
土地の「西脇の」豊穰の
女神の「西脇の」化身の
ようなひとが出迎えてくれた

 「豊穰の女神」は西脇の詩集のタイトルである。そして、四行目の「ひと」はたとえそれがだれであろうと「西脇」そのものである。

土地の「西脇の」豊穰の
女神の「西脇の」化身の
ようなひと「になって西脇」が出迎えてくれた

 である。
 ここからもう一度一連目にもどると。

西脇の
新潟に行って
稲穂の
西脇をみた

 であり、

西脇の
新潟に行って
稲穂の「なかにある」
西脇「の目」をみた

 でもある。
 野村は新潟へ行った新潟など見ていない。新潟へ行って、西脇に会っている。西脇の「肉体」を体験している。
 これはまた別の言い方ができる。
 途中を省略して、ちょうど詩のなかほどあたり。

あむばるわりあ

の西脇なら
「人間の生涯は
茄子のふくらみに写っている」というところ

 ここで野村は「西脇なら」……「というところ」と、西脇の思いを想像しているが。「文法上」は「想像」なのだが。
 野村は想像などしていない。西脇になっている。
 「にしわきなら」の「なら」は「過程」ではなく、強調である。それまで省略されてきた「無意識の西脇」をくっきりと浮かび上がらせるために、わざと「仮定する」という具合に、精神を動かし、ことばを強調している。豊穰の女神はカッコのなかに入っていなかったが、ここでは「茄子」がカッコのなかに入っている。
「人間の生涯は/茄子のふくらみに写っている」は西脇のことばと口調(リズム)を真似したものではなく、野村が西脇になったときに動いたことばなのである。そうやって、こんどは野村は「西脇の精神」を動かしているのである。
 その「ことば」のなかで、ここが野村、ここが西脇という区別はない。
 区別はないのだけれど。

とろり
とした湯につかり
ひとりでかんずりと地酒を楽しんで
何も考えなかった
はだかのすべすべの肌の女子がいくたりか出たり入ったり
して夢の敷居を濡らし
眠れない

 私の西脇は「すべすべの肌の女子」ということばは書かないが、野村の西脇/西脇の野村は、そう書くのだ。
 私の西脇は、もっと野蛮である。
 その違いに、へええ、おもしろいなあと声が出てしまう。

野村喜和夫詩集 (現代詩文庫)
野村 喜和夫
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子「ほんの短いあいだに」

2015-12-29 10:15:17 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「ほんの短いあいだに」(「きょうは詩人」32、2012年12月05日発行)

 長嶋南子「ほんの短いあいだに」を読みながら「誤読」について考えた。

たらいで行水をしていました
テンカフンをまぶしてもらい
朝顔もようの浴衣を着ていました
きのうのことのようです
きょうわたしは行方不明です

 一連目。最後の行はどう読むか。「わたし」をどう読むか。少女のころの私は、行水をして浴衣を着ている。だから少女の行方(どこにいるか)は「わかる」。年取った(失礼!)、いまの「私」が「行方不明」という意味だろう。
 しかし、「いま/ここ」にいる「わたし」が「行方不明」ということはありうるのか。「行方不明」は「事実」というよりも「比喩」なのか。
 とりあえず、そう読んでみる。

キッチンでとうもろこしをゆでていました
ゆず時間は五分
ほんの短いあいだに
わたしは昔の台所に戻っていました
鍋のなかでお湯がシュンシュンいっています
もぎたてのとうもろこしゆで上がるのを
待っている女の子がわたしのようです
こんなところにいたのですね

 「女の子」を「わたし」と呼び、「こんなところにいたのですね」とつづける。そうすると「行方不明」だったのは「少女のわたし」ということか。
 しかし、これは変だぞ。
 「少女のわたし」は「年取ったたわたし」になっている。「少女のわたし」が「いま/ここ」にいるということはありえない。そうすると「少女のわたし」は「比喩」になる。

 さて、どっちが、ほんとう?
 わたしが「行方不明」ということが「比喩」? それとも「少女のわたし」が比喩?

 どちらも「ほんとう」で「比喩」なんかではない、という言い方もできるかもしれない。
 と、書くと、きっと「むちゃくちゃ。論理になっていない」と言われそうだが。
 でも、どっちも「ほんとう」なのだ。
 そしてその「ほんとう」というのは、とりあえず「そう言うしかない」という「ほんとう」。「年取ったわたし」が「行方不明」であり、同時に「少女のわたし」も「行方不明」なのだ。「年取ったわたし」は「いま/ここ」にいるし、「少女のわたし」もまた「あの日の行水」「あの日の台所」にいる。そして、その「いま/ここ」と「あの日の行水」「あの日の台所」は「時間」も「空間」も「離れていない」。「すぐそば」よりももっと近くに「あの日/あのとき」がある。「いま/ここ」で「あの日/あのとき」を思い起こす「わたし」の「肉体」のなかにある。
 「肉体」のなかって、どこ? 頭? こころ?
 言えない。特定できない。「どこ」と言ってしまうと、きっとまちがっている。だから「行方不明」と特定しないのだ。

 少し別な言い方(読み方)をしてみる。
 一連目と二連目には「同じことば」がある。「きうのうことのようです」「わたしのようです」の「……ようです」。
 この「ようです」は「特定しない」(断定しない)まま、何かを言うときにつかう。
 だけではない。
 むしろ、あえて事実を「誤読」して、「強調」して言うときにつかうこともある。
 「比喩/直喩」が、その例である。
 「きみは薔薇のようです」と言えば、「美しい」を強調している。「きみ」を「薔薇」と「誤読」することで、自分の思っている「ほんとう」を告げるために、あえて間違いを犯す。
 間違うことでしか言えないことがある。
 そして、その「間違い」は「間違い」を受け入れるとき、言ったひとと聞いたひと(読んだひと)を結びつける「ほんとう」になる。
 こういう「間違い」と「ほんとう」を行ったり来たりしていると、「論理」というものが「わからなくなる」。「わからなくなる」くせに、とっても「よくわかる」という気持ちにもなる。

 三連目は、そういうことを言っている。

行ったり来たりしているあいだに
いつどこにいるのか
わからなくなりました
途方にくれているのは
わたしのつもりでいたのですが
ちがうかもしれません
探しにくるものは誰もいません
たらいもテンカフンも浴衣も
ひらひら浮いています
キッチンにも台所にも誰もいません
とうもろこしがゆで上がって
湯気を立てています
あの子はだれなのでしょう

 「探しにくるものは誰もいません」は「誰も行方不明になっていない」を言い直したものである。しかし、「あの子はだれなのでしょう」というとき、「わたし(長嶋)」のなかでは「あの子」は「特定できない」存在、つまり「行方不明」の存在である。
 「あの子」が特定できなければ(もし、「幼いときのわたし」ではないのだとすれば)、「わたし」は「だれ」?
 「わたし」は「ほんとう」に「行方不明」になってしまう。
 「行方不明」というのは、ふつうは「いま/未来」について言うけれど、しかし、この場合は「いま/過去」、つまり「来歴」が「行方不明」になってしまうこと。
 こういう「かなしみ」、どう説明すればきちんと「意味」になるのかわからないが、感じることがあるなあ。

 で、
 少し戻って、また行ったり来たりをするのだが。
 この三連目には、一、二連目に共通してあった「……ようです」がないね。どうして「……ようです」がないのか。
 「誤読」できないのだ。「強調」できないのだ。「ほんとう」が「わからない」のだ。
 そのことを見つめなおした、おもしろいことばがある。

わたしのつもりでいたのですが

 「つもりでいる(いた)」の「つもり」。
 これは「……のようです」に似ている。
 「きみは薔薇のようです」は、私にとって「きみは薔薇」の「つもりです」と言い直せるかもしれない。強引に言えば。「つもり」は「考え/思い」。私の「考え/思い」では「きみは薔薇です」。
 ここから、私は、もう少し「強引」に私の「読み方/誤読」を押し進めてみる。
 なぜ「……ようです」ではなく「つもり」ということばを長嶋がつかったのか。
 「つもり」は名詞。これを動詞に言い換えると何になるか。「つもる」。
 では、何が「つもる」のか。どこに「つもる」のか。

途方にくれているのは
わたしのつもりでいたのですが

 「途方」が「わたし」に「つもる」のか。「わたし」が「途方」に「つもる」のか。
 「途方」は「行方」に似ている。「途」は「行く」に通じるし「方」はそっくりそのままである。どこへ行くべきなのかわからないが「途方」にくれる。どこへ行ったかわからないが「行方不明」。その「途方(不明?)/行方(不明)」と「年取ったわたし/少女のわたし」が絡み合うのだが。その「絡み合い/区別のできないもの」が「つもる」のだが……。
 私は、それが「つもる」場所を、「肉体」と考えている。「肉体」というのは、いくつもの「部位(器官/感覚)」で構成されているが、その「どこ」とは特定できない「場」、あえて言えば「部位(器官/感覚)」と「分節できない場」に「つもる」。「分節できない」から、私は「分節せずに」、ただ「肉体」と呼ぶ。
 「つもる」は「重なる」でもある。つもり/重なるものは、ときとして、その「つもる」がはじまった「領域」を超えてしまう。あふれてしまう。それがことばになって動くと詩になる。

 あ、何か、ずれてしまったか……。

 「……ようです」と言えていたことがどんどん入り乱れ、わからなくなり、「つもり」と言い直すが、さらに困惑してしまう。
 「……ようです」と言っているうちは「比喩」とかなんとか、「論理」っぽくことばを動かすこともできたが、わけがわからなくなって「つもり」としか言えない。
 「つもり」がつもっている「場」は「肉体」。
 この「つもり」がでてきた瞬間、「少女」の「かわいい」のイメージ(浴衣姿/とうもろこしを待っている姿)、昇華(純粋化?)されたイメージが消えて、長嶋の「肉体」を感じた。「年取った女のイメージ」というようなものではなく、昇華作用をともなわない、そのまんまの「肉体」にぶつかった感じがした。生々しさに、どきっとしてしまった。
 こんなことを書くと叱られそうなので……。
 「イメージに昇華されない肉体」を「正直な肉体」といいのかもしれないなあ、とつけくわえておこう。

 「……ようです」から「つもり」へと動くことばを追いかけながら、うーん、「つもり」か……。この「つもり」は手ごわいぞ、強いぞ、「おばさんの肉体」そのまんまだぞ、私は、そんなふうに長嶋を「誤読」するのである。

はじめに闇があった
クリエーター情報なし
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隣のことば

2015-12-28 10:32:54 | 
隣のことば

夜遅く帰ってきた
隣のことばが無言でものを食っている
箸を動かしたあとしつこいくらいに噛む
顎と舌を動かす唾液をまぜる
食うことを強制するようにむりやり

と描写することばと描写されることばのあいだ

木の椅子が木の床をこする歯ぎしりのような
足をくみなおす布のこすれるような
音を口蓋にとじこめなおも噛みつづけるが、
お茶をすすり終わると
歯も磨かずに奥の部屋へずって行き布団にもぐり寝る
だらしない乱れたゆくもりが交わることば



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4200円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エドワード・ズウィック監督「完全なるチェックメイト」(★★)

2015-12-28 09:11:35 | 映画
監督 エドワード・ズウィック 出演 トビー・マグワイア、リーブ・シュレイバー、ピーター・サースガード

 チェスをするひとは、みんな神経質なのだろうか。神経を病んでしまうのだろうか。そんな印象が広がってしまうと困るだろうなあ、ということが気になった。
 最初はトビー・マグワイアの姿が克明に描かれる。あらゆることに敏感に反応してしまう。集中できない、といらだつ姿が描かれる。トビー・マグワイアは、もともと陽気な顔をしていないので、その気になって見てしまうなあ。
 いちばんおもしろいなあと思ったのが、トビー・マグワイアの神経質がリーブ・シュレイバーに「伝染(感染?)」してしまう場面。
 トビー・マグワイアが物音のしない卓球室で試合をしたいと言い張り、リーブ・シュレイバーがそれに応じる。そして試合がはじまると、それまで神経質な様子はみせなかったリーブ・シュレイバーがささいなことを気にしはじめる。座っている椅子が震動するという。「高周波(?)の震動」だと言う。椅子をひっくりかえして、椅子の脚をまわしてみたりする。
 これをトビー・マグワイアが落ち着いてみている。「こいつ、乱れはじめたぞ」という感じで、冷やかに見ている。「自分と同じだ」というのではなく、「自分以下だ」という感じ。そして、ここから二人の力関係が逆転するのだが……。
 うーん。
 もしかすると、トビー・マグワイアの神経質は芝居? 嘘?
 たしかに神経質なところはあるんだろうが、ほんとうは「頑丈」かもしれない。神経質を装うと「自己主張」が通る、ということに気づき、それを利用しているのかもしれない。演技しつづけているのかもしれない。
 リーブ・シュレイバーとの対戦よりも前、はじめての「大会」に出るとき、時間切れ寸前になって姿をあらわす。これも緊張からぎりぎりまで動けなかったというよりも、相手の集中力を乱すための「作戦」のような気がする。
 自分のペースに相手を引きずり込む、といえばいいのかもしれない。
 マネージャーの弁護士、トレーナー(練習相手?)の神父、妹や母親さえもまきこんで「芝居」をする。いや、妹はトビー・マグワイアと「ぐる」だったかもしれない。母親も「ぐる」だったかもしれない。
 最初にブルックリンのチェス道場(?)へ行くときも、そこへ連れていったのは母親だ。母親がトビー・マグワイアのこと(演じているのは子役)を説明する。それは、いま思えば母親の「演技指導」でチェスすることを演じているという感じすらする。トビー・マグワイアは、父親と離婚した(?)母親を憎んでいる。それは憎しみであると同時に、母親への甘えというか、愛情の飢えが別の形になってあらわれている、という感じだ。
 全員を、だまし、自分の得意の「場」にひきずりこみ、そこで「勝負」をする。
 リーブ・シュレイバーは、その「芝居/勝負」の最大の犠牲者だろうなあ。相手の「迫真の演技」に影響され、「神経質」という「病」に感染してしまう。
 そう思えてならない。
 特に、「第6局」。語り種になっている試合らしいが、「負け」を悟ったリーブ・シュレイバーが立ち上がり、拍手をする。ふつうは、負けた方が握手の手を差し出す。そういうやり方を跳び越えて、拍手をしてトビー・マグワイアをたたえる。
 このとき、トビー・マグワイアが驚いた表情をみせる。このときだけ、「ほんとう」のトビー・マグワイアがあらわれる、という感じだ。「えっ、悔しくないのか。負けても気にならないのか」。
 きっと気にならない。
 リーブ・シュレイバーは、このとき悟ったのだ。負けたのではない。トビー・マグワイアが、自分の能力を乗り越えて、別の次元に到達したのだ。しかし、それは「自力」で到達したのではない。リーブ・シュレイバーがいたからこそ、トビー・マグワイアはその次元に到達できたのだ。「第6局」は、いわば「ふたり」でつくりあげた「完成品」なのである。そういう喜びがリーブ・シュレイバーの表情にあふれている。
 だから、といえばいいのか。
 トビー・マグワイアは結局、負けたのである。対戦結果はトビー・マグワイアが勝っているのだが、「人生」に負けた。「人間」として負けた。
 映画は、トビー・マグワイアの「破滅」を試合後の様子として語っているが、その「破滅」さえ、「芝居」にみえてしまう。「ほんとう」をどうあらわしていいかわからず、苦悩している姿に見えてしまう。
 もし、私がいま書いたようなことを、この映画が狙っているのだとしたら★4個の作品だが、よくわからない。私の深読み/誤読かもしれない。ほんとうは、そう読みたいんだけれど。
                   (天神東宝スクリーン4、2015年12月27日)






「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ブラッド・ダイヤモンド [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日原正彦「山茶花」

2015-12-27 14:20:34 | 詩(雑誌・同人誌)

日原正彦「山茶花」(「橄欖」100 、2015年12月20日発行)

 日原正彦「山茶花」について、私は何が書けるだろうか。

白い山茶花

おいしい!
といって 目が食べはじめたので
白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう

 「目が食べはじめた」がおもしろい。そして、そのことばが「おいしい!」という、とっさに出てくる「肉体」の反応からはじまるのも、いいなあ。「おいしい!」と言ってしまったあと、それを「目が食べはじめた」と言い直している。反芻している。この瞬間的な「往復運動」のようなことばの動きがとてもおもしろい。
 でも、「白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう」という一行はうさんくさい。特に「ぼんやり」が、なんともいえず気持ちが悪い。
 ここから、私は「おもしろい」という感想ではなく、いつものように「気持ちが悪い」という感想を書きたくなる。日原正彦のことばは猛烈に気持ちが悪い。
 どういうことか。
 ことばを言い直しながら繰り返すと、ことばはさらに変わっていく。
 それが、これから引用する部分。

こころは 驚いて消化液を出しはじめる
こなれていくのだろうか
ことばに届くのだろうか

ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる

 「ぼんやり佇んでいる」は「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と言い直されているのだが、その「言い直し(繰り返し)」までのあいだにはさまれたことばに、気持ち悪さがつまっている。

こころは 驚いて消化液を出しはじめる

 この行の「消化液を出しはじめる」というのは「肉体」の動きである。でも、「消化液を出す」というのは、自分ではどうすることもできない「肉体の動き」。「肉体」が勝手に動いていることであって、自分の意思で「消化液を出している」わけではない。「出している」かどうか、わからない。しかも、「消化液」なんて、私は自分で見たことがない。「頭」で、そう「知っている」だけである。
 この行で動いているのは「肉体」ではない。「知識」である。「頭」である。
 「頭」が「おいしい! 」と「目が食べはじめた」を「正しく」ととのえようとしている。「正しく」とことわったのは、「目が食べる」とは「学校文法」ではいわないからである。「目が食べる」はまちがったことばのつかい方だからである。この「まちがい」を「頭」で「正しくととのえる」という動きが、私には、とても気持ち悪く感じられる。
 そこに、さらに「こころ」ということばも加わってくる。
 「こころ」なんて、どこにあるんだ、と私は怒鳴りたくなる。
 目が山茶花を食べて、おいしい、と言ったのなら「目」にこそが「こころ」がある、「目」が「こころ」なのではないのか。(補註、参照)わざわざ「抽象的」なことばで言い直す必要がないのではないか。こんなふうに「抽象的」な思考をすること(抽象的に言い直すこと)を、きっと「頭がいい」と思っているんだろうなあ。まあ、日原は「頭がいい」のかもしれないけれど、この「頭」優先の思想が、私には気持ち悪い。
 「こなれていくのだろうか」は「消化液」をひきついだ「ことばの肉体」の運動。だから、それはそれでいいのだが、

ことばに届くのだろうか

 なんだ、これは。
 「おいしい!」と叫んでいたではないか。「おいしい!」はことばではないのか。
 感嘆というか、瞬間的に出てしまうことばは、日原にとってはことばではないのだ。日原にとってことばとは、「頭」で「正しくととのえられた」ものなのだ。
 日原にとって「おいしい!」も「目が食べはじめた」もことばではない。
 だから「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と繰り返す。
 このあと、これではおかしいと思ったのか、ことばは別な言い直しをこころみる。

いやことばを失ったからこそ
こなれていくのだ

こなれていくとても気持ちよくこなれていく

 まだ「消化液」にこだわって「頭」でことばを動かしているが、「こなれていく」ということばを繰り返すことで、「消化液」に飽きてしまったのか、ことばが突然変わる。「肉体」が再び出てくる。

目は両眼ともまっしろな汗をかいてみひらいている

 これは、とても「変」な日本語。「学校文法」からみれば「目が食べる」と同じくらいに「まちがっている」。目は汗などかかない。でも、「まちがっている」からこそ、そのことばは「肉体」で直接つかみとるしかない。「汗をかく」とき「肉体」の動きと「目」を重ねて、「目」が一生懸命になっているのを感じ取るしかない。
 で、強引に、目と、「汗をかくときの肉体」のあり方を重ねると、


はっとして

山茶花 しろい

とつぶやいてしまう

 この、ぽつんぽつんと、ばらばらに吐き出されたことば。深い「意味」をもたないことばの羅列。
 「深い意味」というのは、まあ、「頭で考えないとわからない意味」くらいの意味だけれど……。
 で、これが、最初の「おいしい!」と同じように、「頭」を経由しないで出てきているので、美しいなあと思う。俳句の「遠心/求心」のように「しろい」ということばが強く結晶している。
 書き出しの「白い山茶花」が「山茶花 しろい」と言い直されている。「主役」が「山茶花」から「しろい」に動いてきている。
 「しろい」というのは「形容詞」なのだが、私は「形容詞」を「用言」としてつかみなおしたい。
 「しろい」は「白」という「名詞」の形で存在している「状態/変化しない固定のもの」ではなく、「しろくなる」ということなのだ。ほかの「色」でありうるのだが、いま/ここに「しろくなって、あらわれている」それが、「山茶花 しろい」という一行のあらわしている世界なのである。
 でも、「しろくなって、あらわれている/あらわれる」ために、まあ、日原は、「こころは 驚いて消化液を出しはじめる」という行からのことばの動きが必要だったと言い張るだろうなあ。
 それは、とてもよくわかる。
 だけれど、わかるからこそ、その「白い山茶花」から「山茶花 しろい」への変化の過程に「おいしい!」「目が食べはじめている」ということば以外の「頭」が入り込んでくるところが、邪魔でしようがない。
 うるさい。
 「頭がいい」ことなんか、詩以外でやってくれ、と思ってしまう。
 詩は、このあとさらに一連(二行)あるのだが、それについて書くと、また怒り出しそうなので、ここでやめる。むかむかしてしまうので、やめる。

(補註)「こころ」は「目が食べはじめる」のうよに、ある肉体が別の肉体の働きをするときの「結合部」にあらわれてくるもの、と私はつかみとっている。「耳で音楽の色を感じる」とか「色に音楽を聴く」とかは、多くのひとが言うが、そのときの「学校文法」から逸脱した「肉体」と「動詞」の関係のなかにあらわれてくる。そのときそのときで「ありか」も「あり方」も違ってくる動き、存在の場も、働きも特定できないのが「こころ」だと思う。それは「ことば」の言い直しの瞬間に、より鮮明になる。だから私は、「言い直し」と「動詞」に注目して詩を読む。




 

アンソロジー日原正彦 (現代詩の10人)
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モフセン・マフマルバフ監督「独裁者と小さな孫」(★★)

2015-12-27 11:17:19 | 映画
監督 モフセン・マフマルバフ 出演 ミシャ・ゴミアシュビリ、ダチ・オルウェラシュビリ、グジャ・ブルデュリ

 冒頭、イルミネーションで飾られた道路のシーンが、嘘っぽいくらいに美しい。いや、嘘だから美しいと言い直した方がいいかも。
 で。
 全編、その嘘が貫かれる。
 クーデターが起き、国外逃亡のチャンスを逃した大統領と孫が国内を逃げ回る。逃げ回りながら、国内の「事実」を見る。
 大統領ひとりなら、「見える事実」は違ったものになるだろう。孫がいるために、どうしても「事実」が美しさを含むものにととのえられてしまう。「スター・ウォーズ」に血が出て来ないように、この映画でも血は出て来ない。傷跡(拷問の跡)に血はにじみ出しているが、血が流れ、それが原因で人間が死ぬというようなシーンはない。死ぬときも血は流さない。
 この嘘に輪をかけるのが、ストーリーのなかで描かれるもう一つの嘘である。逃亡するとき、身元がわからないように変奏をする。二人は「旅芸人」を装う。大統領がギターを弾き、孫が踊る。さらにその孫は少年なのだが、少女に変奏する。
 「音楽」というものは何か人間の「根源」に触れるものを含んでいる。「音楽」には「民衆の肉体/思想」が基本にある。「音楽」を奏でるとき、大統領は大統領ではなく「ひとりの国民」になって、「民衆」にとけこんでゆく。「音楽」を奏でる「旅芸人」だから、「民衆」にまぎれこむことができる。
 ここに、開放された政治犯(?)のミュージシャンが加わる。あるいは、そのミュージシャンのおかげで、大統領と孫は「民衆」に「溶け込む」(受け入れられる)というべきか。
 うーん。
 「意味」はわかるが、嘘っぽい。
 孫が知っている(いつも聞いている音楽)は「民衆の音楽」でもないし、大好きな少女と踊るダンスも「民衆のダンス」ではない。孫の「肉体」は「民衆」を知らない。その孫が、この映画に描かれるように動くとは思えない。
 一か所、孫の素性がばれそうになるシーンがある。検問のとき、「大統領の音楽」が流れる。すると、孫の「肉体」は音楽にあわせ、動き出す。「民衆の音楽」ではなく、肉体にしみついた「大統領の音楽」だからこそ、肉体が無意識に動く。この「無意識」が「思想」である。いつものように敬礼しながら、歩きはじめる。ここは、この映画で唯一の「ほんとう/思想」が描かれたシーンといえるが、その「ほんとう」はすぐに嘘にとってかわられる。孫は、ばれる寸前になって、「あっ、自分は大統領の孫ではなく、知らないおばさんの娘なのだ」と思い出し、おばさんのところにもどり、服をつかみながら、パンをくわえる。おばさんは、その子どもを知らないのだが、あどけない「少女」であるがゆえに、その嘘を受け入れる。
 あ、何か、いや感じ。
 「民衆」が嘘を受け入れた、だから観客も嘘を受け入れて映画を見なさい、と言われているような気分だなあ。
 この検問のシーン、孫が大統領の音楽にあわせて無意識に動くのを見た大統領は、必死になって孫に合図を送る。踊るな、おばさんのところへ戻れ。大統領の「ほんとう」があらわれる一瞬である。こういう動き(ほんとうの動き)というのは、どうしても目立つ。この動き(ほんとう)に検問をしている兵士が気付くなんてことはありえない。でも、だれも気付かない。
 ここでも、映画なんだから、嘘を受け入れろ、と言われているのである。
 さらに、このあと、政治犯が家にたどりついてみたら、妻は別の男と結婚していて、赤ん坊まで生まれている。(「ひまわり」だね。)それを知って、男は自殺するのだが、死ぬしかない男の絶望(ほんとう/思想)が、絵に描いたような嘘に見えてしまう。
 検問の孫と大統領のシーンの影響だなあ。
 さらに、このあと大統領と孫の身元がばれ、つかまり、絞首刑にされそうになる。そのとき起きるあれこれ、「報復は解決にならない」という「ことばの主張」が展開されるのだが、この「ほんとう」にならなければならない「ことば」が、どうも嘘っぽい。映画を終わるための嘘としか感じられない。「真実」として胸に迫ってこない。
 ファンタジーなのだから、これでいいのかもしれないが。
 「肉体」をほうりだして、「ことば」だけが「結論」になってしまうのでは、「映画」にする必要はないなあ、と思う。
                      (KBCシネマ2、2015年12月23日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
カンダハール [DVD]
クリエーター情報なし
ブロードウェイ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崔龍源「会いにゆく」

2015-12-26 13:24:10 | 詩(雑誌・同人誌)
崔龍源「会いにゆく」(「サラン橋」15、2015年12月27日発行)

 崔龍源が何篇かの詩を書いている。そのなかに「うけいれる(うけいれてくれている)」ということばが何回か出てくる。

大地も海も空も
ぼくをあたたかくやさしく
うけいれてくれている
ぼくをありのままに                    (「あっけらかん」)

向けられているまなざしに はじらい
ながらも また生まれようとする いま
ここに 在ることに気付かされたものたちよ
すべてを 受けいれるはじまりよ                (「まなざし」)

海の波がはね返すひかりを どこまでも
受け入れ始めたのは そのひかりを
宙[そら]に返すすべを覚えたのは
いつのことであったろう 少年の内部にあって            (「少年」)

 「あっけらかん」は「ぼく」が「ぼく」よりも大きなもの(大地、海、空)がつつみこむと言い換えることができる。「主語」は「大地、海、空」。「まなざし」「少年」は逆に「ぼく」が「主語」。書かれていないが、そう読むことができる。
 「うけいれてくれている」は「うけいれられている」、つまり受け身。これに対して、「うけいれる」は能動。運動の形は反対なのだが、絶対に反対、つまり「対立する動き」という感じがしない。

 「うけいれる」というのは、どういうことなのだろう。崔は「うけいれる」をどうとらえているのだろう。
 「会いにゆく」の後半。

許されていたのだ
むくわれていたのだ
見守られていたのだ
空の青や海の青にひそんでいる何かに
誰かに 世界にふわっと
ぼくのなかに入ってくる
そしてぼくをつつんでゆく

 ここには「あっけらかん」と似たことばの動きがある。空や海や誰かが「ぼくをつつんでゆく」。これは空や海や誰か、「ぼく」よりも大きな存在が「ぼく」を「うけいれる」ということ。「ぼく」は「うけいれられている」ということ。このときの「うけいれられている」は「許されていた」「むくわれていた」「見守られていた」を言い直したものだとも言える。
 しかし、崔の「うけいれられている」は、そんな簡単には「要約」できない。
 「ぼくをつつんでゆく」(ぼくをうけいれてゆく)の前に、不思議な一行がある。「無順」することばがある。

ぼくのなかに入ってくる

 「なかに入ってくる」は「つつむ」ではない。「なかに入ってくる」ものは逆に「つつまれる」。さらに言い直すと、「なかにつつまれる」。なにかが、入れ違っている。「主語(?)」と「補語(?)」の関係が、ねじれている。
 何が起きているのか。
 「入ってくる」を読み直してみる。
 空や海が「ぼくのなかに入ってくる」というのは「比喩」では可能だが、現実には不可能だ。あるいは「具体的」なひろがり(大きさ)をもたないものなら可能だが、具体的な大きさをもっていて、それが「ぼく」の存在よりも大きいときは、その大きなものが小さな「ぼく」のなかに入ってくるということは不可能だ。だから「空/海」とは書かずに「青」と書いているのかもしれないが、「青」では「具体的」でありながら、どこか「抽象的」だ。「空/海」は「青」とはかぎらないし……。「誰かが入ってくる」というのも「比喩」でなら可能だが、「誰かの肉体」がそのまま「ぼくの肉体」に入ってくることはできない。「青」も、その「比喩」に似ているかもしれないなあ。
 「比喩」というのは、このとき「ことばの論理」のことかもしれない。ことばでなら、そういうことができる、というだけのこと。あくまで、ことばの世界。
 簡単なことばで書かれているだけに、逆にむずかしいのだが、ここでは「ことば」が「ことば」の「肉体」として動いているといえる。「ぼくの肉体」にはできないことだが、「ことばの肉体」にはできる「運動」があって、それが書かれている。「ことばの肉体」で、「ある運動(動詞)」の本質(事実)をつかみなおそうとしているだ。

ぼくのなかに入ってくる

 これは、このままでは、「ぼく」が「入ってきたもの」を「つつみこむ」ことになる。「ぼくの内部」に「空/海/誰か」が「ある」ということになる。「ぼく」が「空/海/誰か」を「うけいれる」。
 そうすると、何が起きるのか。
 崔は、次の行でいきなり「そしてぼくをつつんでゆく」と書いてしまっているが、ここには「何か」を補ってみる必要がある。次の行へゆくまえに、「ぼくのなかに入ってくる」を「比喩」だと認識し、そこで「ことば」を動かしてみる必要がある。「ぼくの肉体」ではなく、「ことばの肉体」そのものを動かして、ことばがどんなふうに動けるかを確かめてみる必要がある。
 「ことば肉体(論理)」としての「可能性」をみつめる。
 「何か」が「ぼくのなかにはいってきた」なら、「ぼく」はそれまでの「ぼく」ではありえない。「ぼく」のなかの「何か」が変わってしまう。変わらないことには「うけいれられない」だろう。
 変わってしまった「ぼく」は、どうなるのだろう。「ぼく」ではなくなる。「ぼく」ではなくなったものは、「ぼく」から除外される。これを「除外される」と「受け身」ではなく、積極的に読み直す。
 「外」へ出てゆく。
 「ぼくではなくなったぼく」は「外」に出てゆき、そして「ぼくをつつむ」のである。「つつむ」というのは、あくまで「外部」からの動き。「内部」からとらえると「つつまれる」。

ぼくのなかに入ってくる
そしてぼくをつつんでゆく

 は、

ぼくは空/海/だれかをぼくの内部に受けいれ、空/海/誰かをぼくの「肉体」でつつむ
大きなものをつつむこと(うけいれること)でぼくは大きくなり
大きくなったぼくはぼくから「外部」へあふれだし
ぼくをつつんでゆく

 ということなのだと思う。「書かれなかったことば」が二行のあいだに動いている。「ことばの肉体」として動いている。
 こういうことを崔は次のように言っている。書き直している。

信じられる 昨日があって
今日があるということが
ぼくは生まれようとしている
ぼくはぼくでありながら
だれでもないだれか
かけがえのない誰か
あす
会いにゆく

 「ぼくは生まれようとしている」。その「生まれたぼく」が、それ以前の「ぼく」をつつむのである。「生まれたぼく」は「ぼくでありながら/だれでもないだれか」である。まだことばになっていない「ぼく」。「生まれた」けれど、ことばとしては「未生のぼく」。
 この「矛盾」が「ぼくのなかに入ってくる/そしてぼくをつつんでゆく」という「矛盾」とぶつかり、「矛盾」を帳消しにする。
 「うけいれる/うけいれられる」「つつむ/つつまれる」は反対の運動だけれど、その運動は一方的な運動ではない。能動/受け身は入れ替わる。その「入れ替わる」こと、その立場の変化を、崔は「生まれる」という「動詞」でとらえ直している。「生まれる」という「動詞」なのかに「受けいれる/受けいれられる」を結びつけている。
 「あす」会いにゆくのは、これから「生まれるぼく」である。「あす生まれるぼくに」会いにゆくのである。そして、その「あす生まれるぼく」というのは、「空/海/誰か」を「うけいれたぼく」である。「空/海/だれかが入ってきたぼく」である。
 なんだかごちゃごちゃしてきて、めんどうになったが、「うけいれる/うけいれられる」「はいってくる(つつまれる)/つつむ」というのは、一方からだけの運動としてとらえても、運動の全体がわからない。「世界」にならない。ひとつの動きには、その反作用の動きがあり、それら絡み合って「ひとつ」になっているのだから、「うけいれる」からみつめた世界は「うけいれられる」からもみつめなおしてみることが必要なのだ。
 ことばのうえでは「矛盾」した「動き」は、ふたつの方向から見つめなおすと、あたらしい「動き」もみえてくる。何かが「生まれる」。
 「生まれる」と「うけいれる」が密接な関係にあること、切り離せない関係にあるとこは、最初に引用した「まなざし」でも明らかだ。

向けられているまなざしに はじらい
ながらも また生まれようとする いま
ここに 在ることに気付かされたものたちよ
すべてを 受けいれるはじまりよ 

 「向けられているまなざし」は「ぼくのなかに入ってくる」。それは「ぼく」を「はじらわせる」。「ぼく」は「はじらい」に変わる。「はじらい」にかわり、「はじらい」が「ぼく」から「出て行く」。「はじらい」をもって「生まれる」。そうすることで、いま自分が「ここに 在る」ということに気付く。そうすることで「ぼく」は「すべてを 受けいれる」。これは、ただ他者を「受けいれる」だけではなく「受けいれられる」(つつまれる)であり、同時に他者を「受けいれる」でもある。
 ここにはことばが二重、三重に互いを浸食しあい、そうすることで「融合」し、「ひとつ」になる。何度も繰り返し、「ことばの肉体(論理)」を読み直しながら、「矛盾」を乗り越えていく。
 こういう二重、三重の「読み直し/言い直し」を誘うように、詩は、ときどき不規則な「行変え」をしている。「誰かに 世界がふわっと」という一行は、「誰かに」は前の行に、「世界がふわっと」は後の行に「意味」としてつづいている。このことから作品を読み直した方がいいのかもしれないが……。またの機会にする。
 さらに「矛盾」した動きについて書くと、

海の波がはね返すひかりを どこまでも
受け入れ始めたのは そのひかりを
宙[そら]に返すすべを覚えたのは
いつのことであったろう 少年の内部にあって 

 ここにも「受け入れる」と「返す」という逆向きの「動詞」がある。逆向きの「動詞」が「ひとつ」のように動く。そこに「世界」の連続性がある。
 「姉・まりも・星・きゃべつ、その他」には次の行がある。

テーブルの上に 銀河のように
こぼれている塩
結晶するぼくの思念
それは死してなお生きるということ
子どもたちのなかに生きるということ

 「生きる」は「生まれる」でもある。「死んで/生まれる」のである。「矛盾」だけが「世界」を連続させる。つまり「立体化」する。「動き」のあるものに変える。

 (目が痛くなったので、後半は端折ってしまったが、そんなことを考えた。「矛盾」した「動詞」を何度も読み替えながら、新しい「ひとつ」のいのちを生み出してゆく、生まれかわってゆく運動が、世界そのものを豊かにしていく、という崔の思想/肉体を感じた。「要約」すると、そんなことになるのかなあ。)

遊行―詩集
崔 竜源
書肆青樹社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋紀子「夜想曲」、朝倉宏哉「クチナシの花」

2015-12-25 10:47:25 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋紀子「夜想曲」、朝倉宏哉「クチナシの花」(「ヒーメロス」31、2015年11月発行)

 高橋紀子「夜想曲」は、ことばが「ねちっこい」。

どこかで
湿った薄翅のよじれる音がする
撓められたざわめきがこらえきれずに
うごめきながら逃げ延びる音色に似て
呻き声が伸び上がってくる

 「どこかで」と不特定なところからはじまる。これが「ねちっこさ」を引き出す。「不特定」を「不特定」のままにしておけば、「ねちっこく」はならないだろうけれど。「不特定」を「特定」しようとすると、どうしても、「厳密さ」が必要になる。
 で、この「厳密さ」を高橋は二つの方法で具体化する。いや、二つにみせかけたひとつかな?
 「修飾節」の多様性が目につく。いや、簡単に言ってしまおう。「修飾語」をやたらと増やす。「湿った」薄翅、「よじれる」音、「撓められた」ざわめき、「逃げ延びる」音色など。うるさいくらいである。
 この「修飾節/修飾語」は、それぞれ「動詞」派生のことばである。「湿る」「よじれる」「撓める」「逃げ延びる」。
 こういうことばを読むと、「音」に対して「耳」が反応するというよりも、「肉体」全体が反応してしまう。「音」を聞いているというよりも、「音」になって「肉体」が動いていく。「肉体」が「音」になっていく感じがする。
 「肉体」全体をつかって、というと、少し違って……。
 「肉体」の、それこそ「どこか」わからない部分(特定することができない部分/どこでもいいが、ともかく肉体の部分)が「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」。それは「どこか」の部分なのだが「肉体」というのは「ひとつ」だから、どこかで「つながる」。この「動詞」が異なりながら、どこまでも「つながり」になっていくというのが「ねちっこい」のである。
 別のことばでいうと「頭」で整理できない。「肉体」で未整理のままつないでいくしかない。めんどうくさい。めんどうくさいけれど、これが意外とスムーズにできてしまう。それは、たぶん「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」という「動詞」のなかに「共通感覚」のようなものがあるからだ。
 これがさらに「こらえきれず」「うごめき」「伸び上がる」へとつながっていく。「こらえる」「うごめく」「伸びる」のなかには「よじれる」や「たわむ」という変化も含まれている。
 「肉体」のなかに連続した曲線のような動きが感じられる。連続した曲線のようなものになろうとして「肉体」が動く。そういう動きをしながら、無意識に出てしまう「声」を感じる。「耳」で感じるのではなく「耳」以外の「肉体」で感じる。
 「耳以外」を象徴するように「音色」ということばが出てくる。「音の色」。「色」は「耳」では識別しない。「目」で識別する。けれど、「音色」になると、「耳」で聞くのである。どこかで「耳/目」が融合している。
 そんな感じで、一連目全体が「肉体/感覚の融合(肉体はひとつ)」を語っている。「音」をとおして「肉体の連続性」を語っている。この「連続性」を「肉体/感覚の各部分の接合(融合)点」ととらえなおすと、「ねちっこい」と感じる理由がわかる。肉体/感覚が、どこか特定できないところで、くっついて、離れない。ねばねばと、からみあっている。
 この感覚を、二連目で、少しちがった形で言い直している。

足裏に刻印された 孤児 という文字を
踏みしめるたびに押しつぶされる痛みが
わたしのなかどこまでも深く駆けめぐり
いっそ わたし 炎になろうか

 聞こえた「音」が「痛み」による「声」と言い直されている。
 私がおもしろいと思ったのは「踏みしめるたびに押しつぶされる」という表現。ここには「主役」が「ふたつ」書かれている。「踏みしめる」の「主語」、「押しつぶされる(踏みしめられる)」対象、つまり「補語」。
 私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かが「痛み」の「声(音)」を出す。
 しかし、そうなのか。
 ほかに読み方はできないか。私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かから、「反作用」として刺戟がかえってくる。たとえば尖った石を踏む。踏みしめる。足に力を入れる。そうすると「尖った石の、その尖り」が「肉体」を刺し、「肉体」が「痛む」。高橋は、それを裏付けるように、「押しつぶされの痛み」(私ではないものの痛み)が「わたしのなかを」「駆けめぐる」とも書いている。尖ったときの足裏の「痛み」をとおして、私たちは、「石の痛み」というものを想像することができる。「肉体」で「誤読」することができる。
 一連目で「肉体」の内部で「感覚」や「運動」が融合することを確認した。融合するから「ねちっこい」と感じるとも考えた。
 二連目からは、こういう「感覚」がひとりの「肉体」のなかだけで起きることではなく、「肉体」と「肉体の外部の存在(他者)」とのあいだでも起きるものと考えることができる。
 私は、こういう「感覚」を手がかりに、世界に存在するのは「私の肉体」のみ、と考える。尖った石を踏んだとしても、その石は「私の肉体」と連続した「肉体の一部」、「私の肉体が石という形をとってそこに存在している」と考えるのだが、まあ、これは私の「一元論」的思考であって、高橋がそう考えているかどうかはわからない。
 わからないけれど、高橋のことばから、そんなことを考えながら、あ、おもしろい詩だなあ、と感じている。
 この詩はさらに展開して、三連目で「踏みしめるたびに押しつぶされる痛み」は「忘れようとしても忘れられない」という「矛盾」の形で語られる。「矛盾」とは、「分節」される前の「世界」のあり方なのだ。この「矛盾」は「無/混沌」とも言い換えられる。その「無秩序」を高橋は「風を呼び寄せ風と烈しく混じり合い」と「混じり合う」という動詞のなかで表現している。
 ということも書きたいのだが……。
 ここで中断(保留)しておく。「わたしを産み捨てた女」ということばが二連目の「孤児」ということばと連動し、詩を「物語」にしてしまっている気がするからである。「物語」によって「詩」は説明しやすくなるが、その分だけ「詩(肉体)」の興奮が冷めるような気がする。
 「詩」は「肉体の体験(興奮)」なのである。



 朝倉宏哉「クチナシの花」は、前半がとてもおもしろい。

クチナシの花はすべて散り果て
ひと月あるいはふた月も経ち
庭の一隅が青葉の茂みと化したとき
忽然と一輪だけ咲いたのである

あまりにも鮮やかな白と
あまりにも濃やかな香の
クチナシノ花がまるごと
一輪の言葉を私に告げたのである
ここしばらくはクチナシになれ と

 私は「クチナシの花になれ」という具合に読んだのだが、実は違っていた。それは後半で書かれるのだが、花をみて、花になる。そのとき花が「私の肉体」である、と考えるのは私の「一元論」の癖。朝倉は「意味」でことばを整理し直している。その「整理」の部分が「肉体」を離れるので、私の「肉体」はことばを追いかけるのをやめてしまう。
 こんな抽象的なことを書いてもしようがないのだが。
 まあ、「ヒメーロス」で直接、高橋と朝倉の作品を読んでください。そして、高橋の作品の前半のことばが、どれくらい濃密なものであるかを感じ取ってください。

朝倉宏哉 詩選集一四〇篇 (コールサック詩文庫)
朝倉 宏哉
コールサック社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

声/異聞

2015-12-24 15:08:42 | 
声/異聞

呼ばれて振り返ったが誰もいなかった。声が残っていて、その暗い部分に窓があった。窓の外には夜があった。夜の樹がカポーティの部屋をのぞいていた。

そんなことがありうるのか。ありえないからこそ、あったのだ。覚えている。あったとこは、けっしてなくなることはない。

何を言っていいのかわからなかった。声もわからないまま、ことばを探しているのがわかった。

夜が鏡になった。鏡が窓になった。その部屋。私は半透明の自分の内部をのぞいているか。輪郭のない樹になって、声を茂らせているのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弘井正「須磨の雲」、近澤有孝「坂道の有る風景」ほか

2015-12-24 09:07:25 | 詩(雑誌・同人誌)
弘井正「須磨の雲」、近澤有孝「坂道の有る風景」ほか(「space」125 、2015年12月20日発行)

 弘井正「須磨の雲」の一連目。

舗装道路で固められた神戸の街の斜面には
汽車の高架があって
その上に初冬の青空が雲を走らせている

 描写の連続感がおもしろい。「斜面」の傾斜が視線を動かす。水平に動くのではなく、斜めに動く。この詩では、斜め上。その視線が動いた先に「高架(の線路)」がある。さらにそのまま視線は上へのぼっていく。そこに「初冬の青空」と「雲」。
 視線の動きに連続感があるので、街を歩いている気持ちになる。
 「青空が雲を走らせている」というのは、翻訳調。あるいは「新感覚派」という感じ。雲を走らせているのは「空」ではない。強いて言えば風。まあ、そんなことよりも、「雲」は自然に走るのであって、何かが走らせるわけではない。
 このちょっとした「違和感」が風景を「切断」する。風景ではないものが二連目に出てくるのを誘い出すようだ。二連目は「風景」ではなくなるのだが、「風景」でなくなることが、「走らせている」という語調の「切断」によって、スムーズになる。

親友と散歩を楽しんだ後にはおいしいコーヒーを飲む
僕の学生時代は遠い昔
大学生の子供と散歩をすれば
どこかになんとか昼のご馳走をひねりださなくてはいけない

 ここでは、連続感は「視線」ではない。誰かといっしょに歩く。そういう「肉体」の記憶の連続感。子供と歩いていると、友人と歩いたことを思い出す。歩いた街(過去)を思い出す。
 で、そこにも、妙な「ずれ」がまぎれこむ。子供に昼飯を食べさせる。
 「青空が雲を走らせる」と同じ「文体」ではないのだけれど、ずれていく感じがなんとなく、どこかで通い合っている。
 「ご馳走をひねりだす」は「ご馳走」のための金を「ひねりだす」。ひねりだすというほどのものではなく、まあ、子供に昼飯を食べさせる。そのとき、まさか子供にお前の分はお前が払え、とはいえない。親だから。そこが親友とは違うのだが、そのあたりの「事実」の隠し方が、なんとなく「青空が雲を走らせる」という「事実」の隠し方に似ているなあ、と私は感じる。
 そこからさらに、

子供が治らない病気を持ってしまったので
大丈夫だよと無意識に飾れる明るさを着なくてはいけない

 あ、大変なんだ。
 大変なんだと感じながら……。この、「客観」なのか「主観」なのか、よくわからないことばの動きがおもしろいなあと、感心する。
 何かを「切断」して、別の角度から見ている。
 「青空が雲を走らせている」に似た、「主語/述語」の「ずれ/切断」を感じる。「切断」なのだけれど、「ずれ」ながら「接続」する感じでもある。
 弘井が「大丈夫だよ」と言ったからといって、子供が「大丈夫」になるわけではない。「客観的」には変わらない。けれど「大丈夫だよ」と「明るく装う(飾る)」と「主観的」な「見え方」が違ってくる。子供の不安がやわらぐ(だろう)。
 「青空が雲を走らせる」わけではないが、そう言ったって誰も困らない、というのに似ているのかなあ。
 「主観」によって「事実」が違ってくる。
 これが一連目一行目の「斜面」ということばからはじまっている。「斜面」というのは「坂」だよね。「坂」といわずに「斜面」といったときから、不思議な「切断/接続」がことばを動かしている。その動きで詩が統一されている。



 近澤有孝「坂道のある風景」も、ことばの「統一感」がそのまま詩になっている作品。

じゃっかん傾いだ電信柱の立っている地点から
坂道はまっすぐにのびている
風はかすかな音をたて
まだ塗り立てのアスファルトの傾斜の向こうには
色鮮やかな住宅群を呑みこんでのっぺりした
初夏の青空がひろがっている

 「じゃっかん傾いだ」と「まっすぐにのびている」ということばが出合うとき、そこに「ずれ」が生まれる。不思議な「衝突」がある。それが「かすかな」と「のっぺり」という衝突に動いていく。「かすかな」は「少ない」印象があるが、「のっぺり」と感じるときは、それが「少ない」というよりは「多い」という「ずれ/衝突」がある。
 ことばのひとつひとつを具体的にいうのはめんどうだが、「傾いだ」と「立っている」の「矛盾」、「向こう」と「ひろがっている」の「連続感」、「矛盾」の対立ではなく、何か起きていることを「押し進める」のような感じ。
 ことばが、ことばにならないものをつかんだまま、いっしょになって動いている。いっしょになって動くことで、ことばにならない何かを生み出そうとしている感じがいいなあ。
 近澤はもう一篇「黒猫の質量」はタイトルの「質量」が象徴するように、いささか「形而上学的(抽象的?)」なことばの運動なのだが、ここでもことばが「統一感」をもって動いている。「黒猫」と「質量」という一種の「切断」を含んだ出合いが、「無」「実体」へとつづいていく。そのたびに、「常識」が「切断」され、異質なものが「接続」される。しかし、その異質(抽象)を、だれもが読んだり聞いたりしたことがあることばに限定しているのも効果的だなあ。

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高木護「葉書」(2)

2015-12-23 08:27:51 | 詩(雑誌・同人誌)
高木護「葉書」(2)(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)

 詩の感想は、書いてみないと、どうなるかわからない。書いているうちに、だんだん違うことに気がついて、ことばがずれていくことがある。書き終わったあとになって、あ、違うことを書くべきだったと思うこともある。何度でも、ああでもない、こうでもないと、ことばを突き動かしてくれる作品が、きっといい詩なのだろう。

膝の痛みで歩けないので
弁当の世話になっています
病院も人の世話になって
病院がよいをしています
なさけないです
まだ病院がよいよりも
弁当にころがっているほうがましのようです  

 高木護「葉書」の、この書き出しの「世話」について書きたい。とくに二行目の「弁当の世話になっています」について書きたい--そう思ってきのうも書いたのだが、思っていることは、どうも書き切れていない。
 で、きょうも書く。
 きのう私は、「弁当の世話になっている」を「他人の世話になっている」と同じ意味にとった。誰かがつくってくれた弁当を食べている。自分で食事をつくっていない。それは誰かの「世話になる」ということ。
 でも、違うなあ。
 高木は「弁当」を食うことで、自分自身の「世話をしている」。
 「世話になっている」と書いているけれど、どうも「世話になっている」ということばそのとおりに受け取ってしまっては、この作品のおもしろさは味わえない。
 最後の方に、

戦地でふせっているとき
まったく歩けなくなって
おんぶされていましたが
こうなったら死んだほうがましだと思いましたが
そのときもなさけなくて
死んだふりをしたりもしていました
死人あつかいもされました

 ということばが出て来る。
 これは戦場で戦友の世話になったときのことが書かれている。しかし、ここには「世話」ということばが出て来ない。いま、「弁当の世話になり」、病院へ「人の世話になり」通っているのに比べると、戦場での「世話」の方がはるかに大変なのに(なんといっても、他人のいのちをまきこんでしまう)、そこでは「世話になった」とは書いていない。
 なぜ?
 「世話」というような簡単なことばを超える状況だから?
 そうかもしれない。
 しかし、こんなふうに考えることはできないだろうか。
 戦場では高木は、誰よりも真剣に高木自身の「世話」をしていた。戦友も「世話」をしてくれただろうけれど、高木自身が高木を「世話」していた。死なないように「めんどうをみていた」。
 ときには「死んだふり」という形で「世話」していた。
 この「死んだふり」は、なかなか難しい。もしかすると、「死んだふり」をしていれば戦争をしなくてもすむ、ということもあるかもしれない。銃を撃たなくていい。ただ、隠れていればいい、ということもあるかもしれない。高木にその気持ちがあったかどうかはわからないが、戦友たちが銃を撃っている背後で、弾に当たらないようにただ隠れている。動けないのだからそうするしかないのだが、それが結果的に戦死しないように自分を「世話する」ということになったかもしれない。
 「死人あつかいもされました」というのは、満足な「世話」を受けることができなかったということだろう。食事も、どうせ死ぬんだから高木にはやらなくてもいい、ということで満足にもらえなかったかもしれない。そういう形の「世話のされ方」を高木は受けいれながら、同時に「おんぶされる」という「世話」をしてもらった。「おんぶされる」という「世話」をしてもらうかわりに、食い物を満足にもらえない、つまり「死人あつかいされる」という状況を受けいれたのかもしれない。
 微妙な状況で、高木は高木自身を「世話」していた。そういう「状況」を受けれいることで「生きる/死なない」という自分自身を「世話」していた。

 こういう「読み方」は「誤読」を超えてしまっているかもしれないなあ。
 しかし、私には、何か「世話される」だけの「弱者」としての人間ではなく、厳しい状況のなかでなんとか自分自身の「世話をする」、「生きもの」としての人間の姿をそこに感じる。「生きもの」の「本能」の「強さ」、「強者」を感じる。
 自分で自分の「世話をする」。そういう「生き方」を感じる。
 そういう「感じ」がわいてくるのはなぜか。
 「死人あつかいもされました」の「あつかい」ということばが、何かそう感じさせるのだ。「あつかい」は「あつかう」という「動詞」として読み直すことができる。
 「世話をする」も「あつかう」ということ。「病人の世話をする」は病人を病人として「あつかい」、病気から回復するように支えるということ。「あつかう」は「働きかける」でもある。冷たくいえば「処理する」ということになるかもしれないけれど。何か、「世話をする」と「あつかう」には似たところがある。
 けれど、高木はそれをはっきりとつかいわけている。
 戦場の記憶を語るときは「世話」とは書かずに「あつかい(あつかう)」と書いている。あるいは「おんぶされる」という具体的な「肉体」の運動として書いている。戦場では、誰も高木の「世話」をしなかったということかもしれない。「親身」ではなかったということかもしれない。戦場のルールに従って、高木を「あつかった(処理した)」。そういうルールでは死んでしまうことが多いかもしれない。高木が生きているのは、戦友たちの「あつかい」とは別に、高木自身が自分を「世話」していたからだ。
 「世話」ということばをつかうとき、高木には「自分の世話をする」という動きが含まれているように思う。
 それが、

弁当の世話になっています

 この一行に潜んでいる。
 人がつくってくれる弁当の世話になっている。そこには「人」が隠れている。きのうの感想ではそう書いたのだが、これは「嘘」っぽい。ここに「人」を補って読むのは「美しすぎる」と、私は感じている。
 きのうは、たぶん、高木に遠慮のようなものが働いて、私はそこまで書けなかった。こんなふうに読むのは失礼だという思いが、どうしても働いてしまった。でも、きのうは、そういうことを書いたので、きょうはあえて違う読み方をするという形で感想を書き直すことができる。
 詩の読み方は「ひとつ」ではない。「答え」があるわけではない。そう開き直って、私は、違うことを書くのである。
 「弁当の世話になっています」ということばに「人」が出て来ないのは、そのとき高木は「人」を考慮に入れていないからである。「病院がよい」について書くとき「人の世話になって」と書くのは、そこでは「人」を省略できないからである。
 「弁当」は、たしかに「人(他人)」がつくってくれたもの。「つくる」という過程では「人の世話になっている」。しかし、「弁当」は他人が「親身」になってつくったものか。あるいは、「弁当」を「食べる」ときはどうか。「人の世話になっていない」。高木は自分で食べている。(歩けない、とは書いているが手が動かせないとは書いていない。)つまり、「弁当」を「食べる」ことで、高木は「親身」になって、自分自身の「肉体(いのち)」の「世話をしている」。
 「世話をする」は「食べる」と言い直すことができる。つまり、

膝の痛みで歩けないので(買い物に行って材料を買ってきて料理をつくれないので)
弁当を食べています/食べることで親身になって肉体のめんどうをみている

 人(他人)がしてくれるのは、「弁当を買ってきてくれる」という「世話」であり、かわりに食事をつくってれくるという「世話」ではない。その「弁当」は高木がほんとうに食べたいものではないかもしれない。けれど、高木は「与えられた」弁当で、自分の「いのち」の「世話をしている」。

 「世話をする」という「動詞」は、どうしても「誰かを世話をする」という形で思い浮かべてしまうが、「他人」ではなく、「自分の世話をする」という形で動くときもある。高木は、そういう「世話をする」という「動詞」をこの詩のなかで生み出している。見えにくいけれど、そういう「動き」がこの詩にはある。
 自分で自分の「いのちの世話をした」という思いがあるからこそ、「世話」というあたたかいことばではない「あつかう」ということばで、「死人あつかいもされました」という一行が動くのだと思った。
 ここから逆に、前半に出てくる「世話」を「あつかい」と読み直すことができるかもしれない。「世話」ではなく「扱い」と感じ、怒りにかられているのかもしれない。そして、そんなふうに「あつかわれる」ことを「なさけない」と書いているようにも思える。何もできないことが「なさけない」のではなく、「もののように(死人のように)」「あつかわれる」。そのことが「生きているもの」として「なさけない」。それはまた、そんなふうにして「あつかう」ひとを「なさけない」と思うことでもある。そんなふうにしてしか「ひと(私/高木)」にむきあえないというのは、人間として「なさけなくはないか」。そういう「問い」も含まれていると感じる。

 「世話」は「世話をされる」とも「(自分の)世話をする」とも読むことができる。「なさけない」は自分を「なさけない」と感じているとも、他人に対して「なさけない」と怒っているとも読むことができる。
 どちらが「激しい誤読」なのか、わからない。
 わからないけれど、私は、「自分の世話をする」、他人を「なさけなく思う」と読む方が、高木の「肉体」になった気持ちになる。
 そして、そう感じたとき、不思議なことに、最終行の「死人あつかいもされました」の「あつかい」が逆に「親身」にも見えてる。表面的は「死人あつかい」したけれど、それは「比喩」的な意味。ほんとうは「親身」になって、ちゃんと高木を日本にまでつれかえっている。
 ことばは読むたびに「意味」をかえる。「肉体」のちがったところを刺戟してくる。だから、楽しい。

飢えの原形 (1983年)
高木 護
白地社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高木護「葉書」

2015-12-22 00:27:02 | 長田弘「最後の詩集」
高木護「葉書」(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)

 高木護「葉書」も、とてもめんどうくさい詩である。おもしろいのだが、どこがおもしろいのか、それを言おうとすると、自分の「肉体」をひっかきまわさないといけない。「風景描写の繊細なことばが、そこに書かれていない現代の人間社会への鋭い批評となっている」というような、「定型のことば」では要約できない。高木は、そんな「簡単」なこと(流通詩/流通する批評を受けいれる詩)を書いていない。
 何を書いているか。

膝の痛みで歩けないので
弁当の世話になっています
病院も人の世話になって
病院がよいをしています
なさけないです
まだ病院がよいよりも
弁当にころがっているほうがましのようです

 「近況」を書いている。近況を「なさけないです」と嘆いている。
 で、この詩の何がおもしろいか、どこがおもしろいか。
 私は二行目に出てくる「世話」がおもしろいと思った。「世話」について書きたいと思った。この「世話」は三行目にもつづけて出てくる。そして三行目の「世話」の方が「わかりやすい」。
 「世話」とは、ひとの助けを借りること、という意味だね。病院へ通うにも、自分ひとりでは通えない。ひとの助けを借りて通っている。「世話」は「名詞」だが、それが「事実」になるためには、そこに「ひと」がからんでくる。「ひと」の「肉体」が動く。だからこそ、三行目では「人との世話になっています」と、そこに「人」という「主体/動詞の主語となることのできる存在」が書かれている。
 でも、「弁当」は? 「弁当」が動いて、高木に何かをする? そんなことはない。だから、二行目の「世話」という表現は、ちょっと変。
 それなのに。
 「わかる」。「弁当の世話になる」ということばが、「わかる」。
 ひとりでは食事もつくれない。つくってくれるひともいない。だから、誰かがつくってくれた弁当を食べて生きている。それは、誰かの「世話になって」生きているということ。「弁当」の背後には人がいる。「弁当の世話になる」は「弁当をつくるひとの世話になる」ということ。その誰かが「わからない」から、そのひとのことは書かずに「弁当の世話になる」と言う。
 高木は自分のことを書きながら、同時に自分と「ひと」のことを書いているのである。「ひと(他人)」の力を借りないと何もできない。そのことを「なさけない」と言っている。「ひと」の力を借りるということは、「ひと」の時間を奪うということでもある。そういうことを気にするひとなのである、高木は。
 で、「弁当にころがっているほうがましのようです」というのは、「弁当」をつくってくれているひとと高木が直接関係しないからである。弁当を食べて、自分の家で寝転んでいるだけなら、まだいい。弁当をつくるひとは、高木ひとりのために弁当をつくっているわけではないだろう。個人的に、そのひとを「独占」しているわけではない。そのことが高木をいくらか気安くさせる。「まし」だと感じさせる。
 「病院がよい」は、どうしても誰かが高木といっしょに「同じ時間/同じ場所」にいる必要がある。高木は、気兼ねしてしまうのである。
 この「世話(する)」を、高木は次のように書きかえている。言い直している。

人さまがめんどを見ていると
なお歩けなくなってきて
足もよたよたになってきて
なお歩けなくなってきます
こうなったら
なお歩けなくなってきます

 「世話をする」は「めんどうをみる」。「世話をされる」は「めんどうをみてもらう」。「めんどう」は「手数がかかる」ということ。いつもよりも「手間」がかかる。誰かの「自由」に動く「手」を「自由」にさせないということ。
 ひとにめんどうをかけるのが「なさけない」。自分ひとりで何もできないのが「なさけない」。そしてひとにめんどうをみてもらっていると、さらに動けなくなる。そのことも「なさけない」。
 さらにそのことが「なお歩けなくなる」という肉体の変化を助長する。ひとの助けを借りていると、ひとの助けがないと歩けない状態にまで肉体がずぼらに後退する。困ったなあ。高木は「なおおあけなくなってき(きます)」を三回も繰り返している。「歩く」、自分で動くということは、高木にとっては重要なことなのだ。(これには過去の思い出、戦争の体験が関係しているのだが、それはこのあとわかる。)
 そんなことは気にしなくてもいいんだよ、とここで言ってもはじまらない。そんな「美辞」では高木は安心はしないねえ。
 そう思いながら読み進むのだが……。

戦地でふせっているとき
まったく歩けなくなって
おんぶされていましたが
こうなったら死んだほうがましだと思いましたが
そのときもなさけなくて
死んだふりをしたりもしていました
死人あつかいもされました

 いやあ。なんて言えばいいのか。なんと言っていいのかわからないが、ここがすごい。とくに最後の二行が、とても強い。
 高木には「歩けない」思い出がある。「なさけない」戦争の思い出。「なさけない」と思い、「死んだほうがまし」と思った。戦場で歩けない人間の世話をすることは、世話をするひとも死の危険にまきこむ恐れがある。自分のために誰かが死んではもうしわけない。それでは「なさけない」ということだろう。
 で、ここにも「……するより……するほうがまし」という「構文」が出てくる。比較して考えるひとなんだなあ、高木は。
 では。
 書かれていない「……するより……するほうがまし」をつけくわえてみようか。
 いま「弁当の世話になっている」のと、戦争のとき「ひとの世話になった」のと比べると、どちらが「まし」なのかな?
 高木は書いていないけれど、いまの方が「まし」。
 なんといっても「死人あつかい」をされない。
 いや、ほとんど「死人あつかい」されている、と感じて怒っているのかな? 現実に対して、怒っている。怒っているけれど、ここで怒ると「めんどう」になるので「死んだふり」をいまもしている。そうやって「死人」にならずに、生きていると、言っているのかな?
 「世話になる」ことを気にしながら「世話をするのは当然」と、ぺろりと舌を出しているのかもしれない。戦争を生き残ってきた。苦労してきた。「世話くらいしてくれよ」と言っているのかもしれない。
 こう書いてしまうと、きっと「高木に対して失礼だ」という批判が来るなあ。高木からも「抗議」が来るかもしれない。
 いろんなことを思うのだけれど、それをそのまま書くことで高木と向き合いたい。そういう気持ちになる。こんな感想で高木と向き合うと、ほんとうに「めんどう」が起きそうだが、そういう「めんどう」が生きていることなのだと思う。抗議する(怒る)というのは、高木にとっても「めんどう」だと思うが、そういう「めんどう」と「めんどう」が向きあいながら、「負けないぞ」「生きてやるぞ」と思うことが、きっと楽しい。

 この詩を読みながら、私は、「死にそう」、でも「生きている」という、「肉体」を感じた。それは「こんなに元気に、幸せに生きている」と書かれた詩よりも、強く「生きている」感じが迫ってくる。
 私が高木の「世話」をしているわけではないのだが、この詩を読むと高木を「世話」している気持ちになってくる。つまり、目の前に「肉体」として高木が見えてくる。
 そして、こんなしぶとい「肉体」を見ると、乱暴な気持ちにもなる。「こいつ、まだ死なないのか」と言ってみたい衝動に襲われる。そういわないと我慢できないという気がしてくる。人間には、何かつらいことをするには、暴力的にならないとくぐりぬけられないことがあるのかもしれない。言ってはいけないことも、言ってしまわないと自分が生きていけない。そういうこともあるかもしれない。
 そういう乱暴、冷酷を働いたあと、それでもなおそこに「生きている肉体」を見出し、その「肉体」の強さを、「思想」そのものの強さとして感じ、何か、畏怖の念に打たれる。
 あ、高木自身が、自分の「肉体」の「世話」をしているのだ、と気づく。他人が高木の「世話」をするよりもはるかに多くの時間と努力で、高木は、しぶとい「肉体」の「世話」をしている。その「世話」があまりにも熱心というか、強い何かなので、ひとはそこにまきこまれていく。ひとをまきこむために、高木は高木自身の「世話」をしている。「めんどう」を見ている。
 そこに、何とも言えない強さを感じた。

爺さんになれたぞ!
高木 護
影書房



谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする