長嶋南子「ほんの短いあいだに」(「きょうは詩人」32、2012年12月05日発行)
長嶋南子「ほんの短いあいだに」を読みながら「誤読」について考えた。
たらいで行水をしていました
テンカフンをまぶしてもらい
朝顔もようの浴衣を着ていました
きのうのことのようです
きょうわたしは行方不明です
一連目。最後の行はどう読むか。「わたし」をどう読むか。少女のころの私は、行水をして浴衣を着ている。だから少女の行方(どこにいるか)は「わかる」。年取った(失礼!)、いまの「私」が「行方不明」という意味だろう。
しかし、「いま/ここ」にいる「わたし」が「行方不明」ということはありうるのか。「行方不明」は「事実」というよりも「比喩」なのか。
とりあえず、そう読んでみる。
キッチンでとうもろこしをゆでていました
ゆず時間は五分
ほんの短いあいだに
わたしは昔の台所に戻っていました
鍋のなかでお湯がシュンシュンいっています
もぎたてのとうもろこしゆで上がるのを
待っている女の子がわたしのようです
こんなところにいたのですね
「女の子」を「わたし」と呼び、「こんなところにいたのですね」とつづける。そうすると「行方不明」だったのは「少女のわたし」ということか。
しかし、これは変だぞ。
「少女のわたし」は「年取ったたわたし」になっている。「少女のわたし」が「いま/ここ」にいるということはありえない。そうすると「少女のわたし」は「比喩」になる。
さて、どっちが、ほんとう?
わたしが「行方不明」ということが「比喩」? それとも「少女のわたし」が比喩?
どちらも「ほんとう」で「比喩」なんかではない、という言い方もできるかもしれない。
と、書くと、きっと「むちゃくちゃ。論理になっていない」と言われそうだが。
でも、どっちも「ほんとう」なのだ。
そしてその「ほんとう」というのは、とりあえず「そう言うしかない」という「ほんとう」。「年取ったわたし」が「行方不明」であり、同時に「少女のわたし」も「行方不明」なのだ。「年取ったわたし」は「いま/ここ」にいるし、「少女のわたし」もまた「あの日の行水」「あの日の台所」にいる。そして、その「いま/ここ」と「あの日の行水」「あの日の台所」は「時間」も「空間」も「離れていない」。「すぐそば」よりももっと近くに「あの日/あのとき」がある。「いま/ここ」で「あの日/あのとき」を思い起こす「わたし」の「肉体」のなかにある。
「肉体」のなかって、どこ? 頭? こころ?
言えない。特定できない。「どこ」と言ってしまうと、きっとまちがっている。だから「行方不明」と特定しないのだ。
少し別な言い方(読み方)をしてみる。
一連目と二連目には「同じことば」がある。「きうのうことのようです」「わたしのようです」の「……ようです」。
この「ようです」は「特定しない」(断定しない)まま、何かを言うときにつかう。
だけではない。
むしろ、あえて事実を「誤読」して、「強調」して言うときにつかうこともある。
「比喩/直喩」が、その例である。
「きみは薔薇のようです」と言えば、「美しい」を強調している。「きみ」を「薔薇」と「誤読」することで、自分の思っている「ほんとう」を告げるために、あえて間違いを犯す。
間違うことでしか言えないことがある。
そして、その「間違い」は「間違い」を受け入れるとき、言ったひとと聞いたひと(読んだひと)を結びつける「ほんとう」になる。
こういう「間違い」と「ほんとう」を行ったり来たりしていると、「論理」というものが「わからなくなる」。「わからなくなる」くせに、とっても「よくわかる」という気持ちにもなる。
三連目は、そういうことを言っている。
行ったり来たりしているあいだに
いつどこにいるのか
わからなくなりました
途方にくれているのは
わたしのつもりでいたのですが
ちがうかもしれません
探しにくるものは誰もいません
たらいもテンカフンも浴衣も
ひらひら浮いています
キッチンにも台所にも誰もいません
とうもろこしがゆで上がって
湯気を立てています
あの子はだれなのでしょう
「探しにくるものは誰もいません」は「誰も行方不明になっていない」を言い直したものである。しかし、「あの子はだれなのでしょう」というとき、「わたし(長嶋)」のなかでは「あの子」は「特定できない」存在、つまり「行方不明」の存在である。
「あの子」が特定できなければ(もし、「幼いときのわたし」ではないのだとすれば)、「わたし」は「だれ」?
「わたし」は「ほんとう」に「行方不明」になってしまう。
「行方不明」というのは、ふつうは「いま/未来」について言うけれど、しかし、この場合は「いま/過去」、つまり「来歴」が「行方不明」になってしまうこと。
こういう「かなしみ」、どう説明すればきちんと「意味」になるのかわからないが、感じることがあるなあ。
で、
少し戻って、また行ったり来たりをするのだが。
この三連目には、一、二連目に共通してあった「……ようです」がないね。どうして「……ようです」がないのか。
「誤読」できないのだ。「強調」できないのだ。「ほんとう」が「わからない」のだ。
そのことを見つめなおした、おもしろいことばがある。
わたしのつもりでいたのですが
「つもりでいる(いた)」の「つもり」。
これは「……のようです」に似ている。
「きみは薔薇のようです」は、私にとって「きみは薔薇」の「つもりです」と言い直せるかもしれない。強引に言えば。「つもり」は「考え/思い」。私の「考え/思い」では「きみは薔薇です」。
ここから、私は、もう少し「強引」に私の「読み方/誤読」を押し進めてみる。
なぜ「……ようです」ではなく「つもり」ということばを長嶋がつかったのか。
「つもり」は名詞。これを動詞に言い換えると何になるか。「つもる」。
では、何が「つもる」のか。どこに「つもる」のか。
途方にくれているのは
わたしのつもりでいたのですが
「途方」が「わたし」に「つもる」のか。「わたし」が「途方」に「つもる」のか。
「途方」は「行方」に似ている。「途」は「行く」に通じるし「方」はそっくりそのままである。どこへ行くべきなのかわからないが「途方」にくれる。どこへ行ったかわからないが「行方不明」。その「途方(不明?)/行方(不明)」と「年取ったわたし/少女のわたし」が絡み合うのだが。その「絡み合い/区別のできないもの」が「つもる」のだが……。
私は、それが「つもる」場所を、「肉体」と考えている。「肉体」というのは、いくつもの「部位(器官/感覚)」で構成されているが、その「どこ」とは特定できない「場」、あえて言えば「部位(器官/感覚)」と「分節できない場」に「つもる」。「分節できない」から、私は「分節せずに」、ただ「肉体」と呼ぶ。
「つもる」は「重なる」でもある。つもり/重なるものは、ときとして、その「つもる」がはじまった「領域」を超えてしまう。あふれてしまう。それがことばになって動くと詩になる。
あ、何か、ずれてしまったか……。
「……ようです」と言えていたことがどんどん入り乱れ、わからなくなり、「つもり」と言い直すが、さらに困惑してしまう。
「……ようです」と言っているうちは「比喩」とかなんとか、「論理」っぽくことばを動かすこともできたが、わけがわからなくなって「つもり」としか言えない。
「つもり」がつもっている「場」は「肉体」。
この「つもり」がでてきた瞬間、「少女」の「かわいい」のイメージ(浴衣姿/とうもろこしを待っている姿)、昇華(純粋化?)されたイメージが消えて、長嶋の「肉体」を感じた。「年取った女のイメージ」というようなものではなく、昇華作用をともなわない、そのまんまの「肉体」にぶつかった感じがした。生々しさに、どきっとしてしまった。
こんなことを書くと叱られそうなので……。
「イメージに昇華されない肉体」を「正直な肉体」といいのかもしれないなあ、とつけくわえておこう。
「……ようです」から「つもり」へと動くことばを追いかけながら、うーん、「つもり」か……。この「つもり」は手ごわいぞ、強いぞ、「おばさんの肉体」そのまんまだぞ、私は、そんなふうに長嶋を「誤読」するのである。
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