詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(73)

2019-07-31 08:53:50 | 嵯峨信之/動詞
* (文字に時を託したことがある)

 抽象的にはじまる詩は尻取りのように「時を人間に託したことがある/人間に愛を託したことがある」とことばを入れ替えた後、転換する。

生と死との間に架かる透明な橋
ぼくは風に吹かれながらその橋を渡つて行つた

 なぜ「渡つて行つた」と過去形なのだろうか。それは「託したことがある」が過去形だからである。「託した」が過去、「ある」は現在。いま、「過去」を思い出している。
 それが「渡つて行つた」になる。つまり、渡つて行つたのあとには「ことがある」が省略されている。
 「愛」は尻取りの力を借りて「生と死」のあいだへ大きく飛翔している。愛をことばにし、愛の時間を生きることで人間は人間になる。人間は「生と死」の間にかかった橋である。そういうことを思ったのだろう。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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estoy loco por espana (番外37)

2019-07-31 08:35:45 | estoy loco por espana


Joaquinの作品。

私は展覧会で作品を見る。
作品は誇らしげである。
私はアトリエで作品を見る。
作品は少し恥ずかしげである。作品は言う。「私はまだ生まれたばかりです。見せるこころの準備が整っていません」
個人に所有された作品は、何と言うだろうか。
窓からの眺め。部屋の中。どれもはじめてみる風景だ。そして、部屋にはいつも愛してくれる人がいる。
「ここにいることが幸せだ」と言うに違いない。

veo las obras en una exposicion.
los trabajos son orgullosos.
veo el trabajo en un taller.
el trabajo está un poco avergonzado. el trabajo dice. "acabo de nacer. no estoy listo para mostrar mi corazon".
que dirías un trabajo propiedad de un individuo?
vista desde la ventana. en la habitacion. es el paisaje que todos ven por primera vez. y siempre hay personas en ese habitacion que le aman.
la obra decir: "estoy feliz de estar aquí".


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彦坂美喜子『子実体日記』

2019-07-30 22:55:19 | 詩集
子実体日記 だれのすみかでもない
彦坂 美喜子
思潮社


彦坂美喜子『子実体日記』(思潮社、2019年02月25日発行)

 彦坂美喜子『子実体日記』の「あとがき」によれば、発表ずみの短歌作品に手を入れて再構成したもの、とある。
 本人がそう書いているからそうなのかもしれないし、本人がそう書いているのだからそうではないのかもしれない。私は短歌にはあまり関心がないので、短歌が発表されていたという同人誌は読んだことがあるけれど、彦坂の短歌は記憶していない。
 私がおもしろいと思ったのは、「変態をくりかえし」という作品。

太りゆく月みつめつつ痩せてゆく男の足は地中にのびて
 (呆けていくって、せんないことやねぇ……
吸根をあなたの身体に刺し入れて枯れるまで一緒にいてあげる
 (お礼いうてええのんかしら
上弦の三日月が呼ぶ抜け出して三日月の上に重なって果て
 (いつからそんな数奇なことをおもいつかはったん

 短歌の間に「独白」がはさまれている。対話しているのかもしれないが「呆けていく」男には音は聞こえても「意味」は聞こえないから独白になるしかない。
 短歌を素材にしていると彦坂が書いているから思ってしまうのだが、この独白をこそ短歌にした方が刺戟的ではないだろうか。発表ずみの短歌を利用するのではなく、それを解体してしまって、解体した瞬間に生まれてくる「韻律」になりきれないものを力業で韻律にしてしまった方が強いものが出てくると思う。
 こう感じるのは、短歌がそのまま引用されているのかどうかわからないが、たとえば一行目の

太りゆく月みつめつつ痩せてゆく男の足は地中にのびて

 このリズムは、いまはやりの短歌とはずいぶん違う。「太りゆく」を「痩せてゆく」と言い換えるとき、そこにしのびこんでくる同じ音の繰り返し。これは万葉時代の長歌のうねりを思い起こさせる。「上弦の三日月」が「三日月」ともう一度言いなおされるときのリズムにも、それを感じる。
 このうねり。肉体の中をくぐっていく「声」というか、「音」。そこには「意味」ではなくて、もっとほかの力が働いていると思う。整理される前のいのち。抽象化される前、意味になる前の「肉体」そのものの動き。
 声、喉、音、耳で「ことば」を突き動かしている。
 この衝動のようなものを、私は括弧に入った「独白」の、たとえば「せんないことやねぇ」にも感じる。関西弁と言っていいのかどうかわからないが、「共通語」とは違う「肉体」が動いている。「共通語化」されずに生きている「肉体」そのものの動きがある。
 これを五七五七七に噴出させれば、きっと「現代の万葉」になると思う。
 「ええのんかしら」「おもいつかはったん」というようなことばは、彦坂にとっては「日常」なのだろうが、その暮らしのもっている「肉体」の響きがいい。
 「漢字」のもっている「抽象」と闘う力を感じる。
 古今、新古今は、この視点から見ると、漢字の力で抽象することを覚えた人間の到達点にも思えるが、日本語の詩にとってのそれは衰弱の始まりだったかもしれない。

 あ、これは自分で書いていながら、変な感想、変な思いつきだなあ。

 一種「理路整然」としたあとがきの「方法論」(引用はしないが)を読むと、「方法」で整えてしまうと、美しくはなるかもしれないけれど、弱くなってしまわないかなあ、と不安を抱いてしまう。
 このままならいいけれど(傑作だと思うけれど)、このままというのは、どういうときでもいちばんむずかしい。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(72)

2019-07-30 06:47:08 | 嵯峨信之/動詞
* (川底の渦巻きに光りが射してくると)

黄金の砂の舞いまでよく見える

 ほんものの「黄金」ではなく「黄金」に輝く反射である。こういう「舞い」を私もこどものころの川遊びで見たことがある。
 どこにでも「渦巻き」がある。
 流れ去るものあるだろうから、同じ砂が舞っているわけではないが、渦巻くという動きが同じなので同じに見える。
 --というところまで、こども時代に見ていたかどうかはわからない。歳をとると、ことばはこどもとは別の「小賢しさ」を身につけてしまうものらしい。
 これは、私自身へのことば、反省であって、嵯峨の詩への感想ではない。


*

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estoy loco por espana (番外36)

2019-07-30 06:07:47 | estoy loco por espana


黄色と灰色(明るい灰色と暗い灰色)。
暗い灰色は深遠か。
明るい灰色が黄色に近づくのか、黄色が灰色に近づくのか。
遠く離れた色が近づく。
分離した(あるいは剥落した)断片が、まず動き出す。
斥候のようにも、伝令のようにも見える。
自由なリズムが新しい美の宇宙をつくる。

これまで矩形と直線をつかった作品を多く見たが、Javierは円と曲線をつかい、新しい世界を試みている。
展覧会は8月3日まで。

Amarillo y gris (gris claro y gris oscuro).
Es gris oscuro profundo?
El gris claro se aproxima al amarillo o el amarillo se acerca al gris?
Los colores lejanos se acercan.
Los fragmentos separados (o raspados) se mueven primero.
Parece un explorador o un mensajero.
Un ritmo libre crea un universo de nueva belleza.

He visto muchos trabajos usando rectángulos y líneas rectas, pero Javier intenta crear un mundo nuevo usando círculos y curvas.
La exposición es hasta el 3 de agosto.


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ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

2019-07-29 22:04:09 | 映画


ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

監督 ジャン=リュック・ゴダール

 ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」から始まり、次々に過去の映画が引用されるが、あまりに断片過ぎて、私が見たことがある映画かどうかもよくわからない。しかも多くの映像が特殊加工されていて、元の映画からかけはなれている。「イメージ(映像)」になってしまっている。「夢」と呼んでもいいかもしれない。ルイス・ブニュエルやフェデリコ・フェリーニの「道」はわかりやすいが、ほとんどがわからない。
 そういう映像を見ながら思うことは、ジャン=リュック・ゴダールの色彩には「遠近感」がないということである。サイケデリックということばがあるが、それに近い。このときの「遠近感」とは「空間」の遠近感だけではなく、むしろ「時間」の遠近感と言った方がいい。赤、黄色、青、緑。そういう色には、それぞれ「過去」があるはずだ。映画からの引用ならば、映画という「過去」が。それをなかったことにして、はじめてこの世界にあらわれてきたかのように「原色」で噴出させる。
 で、それは色彩がいちばん「抽象的」で目立って感じられる(私の場合は)。しかし色彩だけではなく、他の「シーン(あるいはカットというべきか)」や「セリフ」、あるいは「本からのことばの引用」も同じである。すべては「過去」を持っている。しかし、その「過去」を「過去」ではなく、「過去をもたないいま」として噴出させる。それは「未来」でもない。「時間」というものが存在しない「いま」。したがって、それを「永遠」と言いなおすこともできる。
 ゴダールのやっていることは、「いま」を「いま」のままスクリーンに定着させる。「過去」にも「未来」にも、それを引き渡さない。「ストーリー」にしない。「散文」にしない。「詩」にすることだ。
 こう書いてしまうのは、私が詩が好きだからかもしれない。
 別のひとは「音楽」というかもしれない。映画の後半に「音楽」が「ことば」によって少し説明される。和音がメロディーをつくる。一方、メロディーが和音を生み出すということもある。同じ旋律を重ねる必要はない。まったく異質なものがであったときも和音は誕生する。
 この定義の方が、ゴダールの映画を的確に表現しているだろう。映像(色、光、形)とことば(意味と無意味)、音楽(和音とノイズ)。ぶつかり合い、その瞬間に、それぞれがもっている「過去」を破壊し、それが散乱する瞬間に「いま」が絶対的なものとして誕生し、存在する。
 しかし、これでは私の感想ではなく、ゴダールがゴダールの映画を語ったことになりはしないか。
 私は、そのゴダールの論理を「破壊」するために、あえて書く。ゴダールが何よりも大事にしているのは「色の美しさ」である、と。ゴダールの色は混じらない。常に「個」として独立している。他の色と共存はするが、それは「融合」ではない。
 まあ、どうでもいいか。こういうことは。
 また変な映画をつくりやがって、勝手にしろ、と突き放すのがいちばんいいのかもしれない。

 (KBCシネマ1、2019年07月29日)

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大島憲治『シャドーボクシング』

2019-07-29 16:08:06 | 詩集
大島憲治『シャドーボクシング』(蝶夢舎、2018年10月31日発行)

 大島憲治『シャドーボクシング』をふと思い出した。嵯峨信之の詩の感想を書いていて、どこか似ているところがあるかもしれないなあと感じた。
 「巨人」の書き出し。

ぼくのなかに極小のぼくがいる
それが物質なのか非物質であるのか
わからない
おそらくはその中間に存しているのでは
とぼくは踏んでいる

 「物質」と「非物質」を対峙させたあと、「中間」という項目を挿入している。そうすることによって「論理」を動かし始める。
 大島の詩は実際はその「中間」を追い詰めてはいかない。しかし、ことばを動かすきっかけにはなっている。ことばを動かすことが詩である。そのときことばは「論理」を踏まえながら動く--こういう姿勢が嵯峨に似ていると思う。
 「を」は、こうはじまっている。

傾いだ鳥のちいさな頭を
突き刺さった空の小枝を
凍った雲を
地下深く
広げた翼を

十三歳の冬の精嚢から
天井を飛ばした晩を
ミルクがほとばしった夜空を

モルタル校舎の西階段を駆け上がった
白いソックスを

 「を」につづく「動詞」が省略されている。かわりに「を」に先行するイメージが連絡を取り合って抒情を構成する。
 「小さな頭」「小枝」は「十三歳」と言いなおされ、「モルタル校舎」へとつながっていく。「突き刺さった」は「劇」である。その「劇」は「空」と「地下」を結ぶ運動である。「深く」ということばを手がかりにすれば、大島に意識されているのは「地下」である。
 「意識」か「無意識」か。そうではなく、その「中間」と考えた方がいいだろう。「意識」でも「無意識」でもない、まだ「ことば」になっていない「中間」にあるもの。
 それ「を」どうするんだろう。
 動詞は最後まで書かれない。つまり読者にその選択が任されている。
 私は「探す」と読んでみる。しかも「探しに行く」というよりも、書かれたことばが「現実」としてあらわれるのを「待つ」、その祈りのような耐えるしかない行為を「探す」の意味として補いながら。

 実は私は、きょう、嵯峨のこういう詩を読んだのだ。『土地の名~人間の名』に出て来る。

ぼくは記憶する前に記憶を失つた
その記憶の蘇生を待つぼく自身を 水を 砂を
生きるためにぼくは空のなかに路を探した
雲と雲とのあいだの羊の路を




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(71)

2019-07-29 09:23:08 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは記憶する前に記憶を失つた)

 論理からはじまる抒情。論理というよりも「思考する」かもしれない。あるいは「精神」と言い換えることもできるかもしれない。

その記憶の蘇生を待つぼく自身を 水を 砂を
生きるためにぼくは空のなかに路を探した

 「失う」は「探す」と対になっている。しかし「探す」という動詞にたどりつく前に「待つ」という動詞がはさまれている。「生きる」も経由しており、これは「蘇生(する)」という形でも隠れている。しかし、「待つ」の方が興味深い。
 「待つ」とき、ひとは何もしない。ただ「待つ」。「待つぼく自身を」「探す」とは、「ぼく」を探すというよりも「待つ」という行為を探すことだ。
 ひとは「待つ」ことができないのかもしれない。思考してしまう。そういう人間の「本質」があらわれている。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(70)

2019-07-28 10:51:34 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは帰る場処がない)

ぼくは果樹園にそつた夜道をひたすら急いでいる

 「帰る場処がない」が「行く場処がある」というわけではないだろう。「帰る」と「行く」は対になっているから、「帰る場処がない」ぼくには「行く場処もない」だろう。
 では、どこへ「急いでいる」のか。
 「そつた」(沿う)を修飾語ではなく「動詞」そのものとして読んでみる。
 「帰る」か「行く」か、わからない。けれど「沿う」ことができるものがある。「果樹園」も「夜」も具体的な場所ではなく「比喩」かもしれない。
 「急いでいる」のは「肉体」ではなく「ことば」かもしれない。
 思想が動くときの、一つのあり方が描き出されている。



*

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estoy loco por espana (番外35)Joaquinの作品

2019-07-28 09:43:22 | estoy loco por espana



私は沈黙よりも美しいことばを言うことはできない。
しかし、書く。

線は空間を分割する。
生み出された分割は、さらに新しい分割へと線をうながす。
空間は線を受け入れながら、空間であることを保ち続ける。
「線」を「ことば」に、「空間」を「沈黙」と呼び変えてみる。
ことばは沈黙を分割する。
生み出された分割は、さらに新しい分割へとことばをうながす。
沈黙はことばを受け入れながら、沈黙であることを保ち続ける。

no puedo decir palabras que sean mas bellas que el silencio.
pero escribe algo.

las lineas dividen el espacio.
la division resultante llevara a la linea a una nueva division.
el espacio sigue siendo un espacio mientras acepta lineas.
llama "línea" como "palabra" y "espacio" como "silencio".
las palabras dividen el silencio.
las division resultante llevara a la palabra a una nueva division.
el silencio sigue siendo silencio mientras acepta palabras.
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estoy loco por espana (番外34)Joaquinの作品

2019-07-27 22:29:50 | estoy loco por espana



この作品も男の頭部、顔に見える。
直線が作り出すさまざまな空間、あるいは穴。
穴と言った方が肉体的な感じがする。
人間の顔にはいくつもの穴がある。目、鼻、口、耳。
その穴は肉体の内部と外部をつなぐ。
同時にその穴は肉体の内部と宇宙をつなぐ。

este trabajo tambien se parece a la cabeza y la cara de un hombre.
varios espacios o agujero creados por lineas rectas.
se siente fisico decir que es un agujero.
hay muchos agujeros en el rostro humano. Ojos, nariz, boca, orejas.
los agujero conectaa el interior y el exterior del cuerpo.
al mismo tiempo, los agujeros conectan el interior del cuerpo con el universo.
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ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

2019-07-27 14:15:08 | 映画
ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ステファノ・アコルシ、カロリーナ・クレシェンティーニ

 登場人物が多すぎて、ついていけない。イタリアでは有名かもしれないが、あまり顔なじみのない俳優ばかりなので、人間関係が覚えきれない。
 ストーリーは両親の「金婚式」の祝いに集まった家族(親類?)が嵐のためにフェリーが欠航して帰れなくなる。どうしても一泊しないといけない。あれこれしているうちに、登場人物それぞれの家族の問題(主に男女のいざこざ、あたりまえのことながら)が噴出してきて、ドタバタにある。
 というものなのだが。
 これが意外と「ごちゃごちゃ」してこない。「ひとつ」にまとまっていかない。つまり「いくつもの」どたばたを見たという感じは残るのだが、その「どたばた」から「結論」が出てくる(生まれる)という感じがない。これが「登場人物が多すぎる」という印象につながる。どんなに登場人物が多くても、それが「ひとつ」のストーリーに向かってまとまっていくなら、なんとなく「印象」は「ひとつ」になる。
 この「ばらばら」感は、いったい何なのか。
 と考えたとき、思い出すのは、和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」。そのなかで和辻はシスティナ礼拝堂の壁画を見たときの印象を、「こんなにごちゃごちゃ描いているのに、ごちゃごちゃしていない。ここにはローマ帝国の『分割統治』の思想が生きている」というような具合に書いている。
 「分割統治」。これが、たぶん「イタリア人気質」なのだろう。この映画では、それは「両親」がいて、「子供たち」がいて、その「子供たち」がそれぞれ「家族(家庭)」をもっている。騒動は各家庭で起きる。「分割統治」だから、騒動は常にそれぞれの「家族(家庭)」のなかで展開される。そして、収束する。「家族」と「家族」が交渉しているように見えるシーンもあるが、それは「形式的」交渉であって、その交渉では登場人物の「心情(感情)」は変化しない。「心情(感情)」が変化するのは、あくまでもそれぞれの「家族(家庭)」内部の男と女の問題である。言い換えると、だれひとりよその家族(家庭)の恋愛問題にふれることで、触れた人自身の「心情/恋愛」が変化するわけではない。
 わっ、ばらばら。ぜんぜん「結末」に向かって動いていく「ひとつ」のストーリーがない。
 で、まあ、イタリア人ってこんな感じなのかと「理解」するには役立つが、そこから影響を受け、考え込むという映画ではないなあ。なんだか「めんどうくさい」という印象が残る。
 (KBCシネマ2、2019年07月27日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(69)

2019-07-27 09:32:01 | 嵯峨信之/動詞
* (昼はどこにもない)

あるのは夜ばかり
ぼくの顔から 手足から 全身から昼がぬけ落ちてしまつたのだろう

 「ぼくの」顔から、手足から、全身から昼が抜け落ちても、それは「ぼくの」ことであって、「ぼく」以外のところに昼は存在しているかもしれない。むしろ、「ぼく以外」のところに昼が存在するから「ぼくから」昼が抜け落ちたと感じるのではないだろうか。もし、「ぼくの周囲」に昼が存在しないのなら、「ぼくから」昼が抜け落ちるとは意識しないかもしれない。
 というのは、理屈。
 夜になって、「ぼく」も夜を生きている。昼は昼の時間を生きている。「時間」と「ぼく」という存在が融合していたときがあった。それが理想の「時間」と「人間」とのありようだと言っているのかもしれない。
 「ぬけ落ちる」という生々しい肉体を刺戟する感覚が「一体感」があったことを語る。





*

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河野俊一『ロンサーフの夜』

2019-07-26 23:46:03 | 詩集
ロンサーフの夜
河野俊一
土曜美術社出版販売


河野俊一『ロンサーフの夜』(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 河野俊一『ロンサーフの夜』は白血病、滑膜肉腫、大腸がんのあと死亡した娘のことを書いた詩集である。
 「十一月五日、晃子を入院させる」という作品に強い力がこもっている。

大分から長崎は遠い
十二時二十五分に発ち
湯布院を通り水分峠を越え
豊後森を過ぎ日田を抜け
浮羽で十四時五十四分休憩

 と「記録」のようなことばが並ぶ。

長崎までは七時間だ午後八時までに
晃子の働く店に着けばよい

 と思いながら、異変の知らせを受けて車を走らせている。しかし、思うようにはいかない。

久留米からの国道二四六号線は
最初は滑らかな運転だったのに
次第に車が満ちてきて絡まる
あの時こうすれば
もっとこうしていれば
というのは
道の選択も同じだ
鳥栖から国道三四号線に入っていれば
甘木の南を抜けていれば
などと思いながら
またもや渋滞に巻きつかれる
(略)
注意して見れば
熱気球とかバルーンとかいう文字が
目に入ってくる
こんな大会の真っ只中の道に
入り込んでしまったのだ
握りしめる 噛みしめる
指をほどく 膝に力を入れる
(長崎は遠い)

 人は、車は、河野の思いなど知らない。非情である。河野にできることは少ない。「握りしめる 噛みしめる/指をほどく 膝に力を入れる」ということが車の流れをスムーズにするわけではない。でも、そうするしかない。
 仕事場に着き、次は晃子のアパート(たぶん)へ行く。そこで日常の整理をし、次の朝、入院先の福岡の病院へ車を走らせる。

出島道路を出て拘束に入る
距離と時間を計算する間は
安らげる
鳥栖ジャンクションで
進行方向を東から北へと変える
目的地は
確実に近づいている
太宰府インターで降り
三号線を三笠川まで
宝町を抜け
岡本を通り
あみだクジをなぞるように
老司で右折する
国立九州がんセンターは近い

 固有名詞(土地の名前)が正確に、順序通りに書かれる。地理に詳しい人なら、この固有名詞を読めば、車を運転士ながら見える風景のすべてまでを思い出せるだろう。
 より早く病院にたどりつきたいという思いが、次のポイント次のポイントを思い起こさせるのか。そうかもしれない。しかし、それは運転をしていたときのこと。いま、再び、その地名を正確に書き残すのはなぜなのか。「目的地は/確実に近づいている」と頭の中で繰り返しただろうことばも書かれているが、そういう「直接的な思い」は少ない。正確に、正確に、その日のことをドキュメンタリーのように書いている。
 どうしてだろう。あの日を忘れないためか。もちろんそうだろうけれど、忘れないためというよりは、何度も何度も思い出し、完全に覚えてしまったのだ。河野の「肉体」にまでなってしまっているのだ。

信号を右折して
正面を左折して
もう一度左折して
駐車場の入り口だ

 そういう「地名」ではないもの、けれど運転するときに絶対に必要な動作、それが「肉体」そのものになっている。
 このとき河野はいろいろなことを思っていたはずである。その「思い」ではなく、そのときの「肉体」をそのまま書いている。
 この「肉体」感覚が、私は車を運転しないが、とても強く響いてくる。河野が感じている「不安」「焦り」を「意味」としてではなく、「肉体」として感じる。

紙を何枚も手渡される
血圧を測ったり
主治医に説明を受けたり
紙にサインしたり
その時には
そこに何が書かれているのか
分かってはいるのだが
そのあと
どれをどの順にやったのか
ちっとも覚えていない
長崎からここに来るのは
大村を通って佐賀を通って
鳥栖を通ってと
覚えているのだが
いやそれも
あらかじめ位置を知っていたからか

 「分かっている」と「知っている」、「覚えている」と「覚えていない」。ここに不思議な時間がある。
 道順を知っている、というのは当然のようであって当然ではない。
 娘が元気であったときも、河野は、何度も道順をたどり直したのかもしれない。もしか何かあったときには、と考えながら。いや、そうではないだろう。何もかもが終わったあとで、河野は、やはり何度も何度もその日の道をたどったのだ。記憶のなかで。そのために道順が「肉体」になってしまい、あの日それを知っていたのか、それとも繰り返し反芻したために知っていたと思ってしまうのか、区別がつかなくなっている。

福岡にたどり着いて入院する晃子は
遥か長崎で太腿に汗滲ませて
通院と治療費のために働いていたのだ
疲れて痩せた晃子が
パジャマに着替えて
ベッドの上に座っている
秋の葉脈のように薄い身体で
文庫本のページを開いて

 あ、と私は声をあげる。
 生きている晃子が見えるからだ。もちろん入院したばかりのこの日、晃子は生きている。死んではいない。しかし、詩集を読んでしまった私は晃子が死んでいることを知っている。河野が記憶を書いていることを知っている。わかっている。
 しかし、その知っていること、分かっていることを忘れてしまって、私は晃子がいると感じる。
 「河野の娘」がではなく、思わず「晃子」が書いてしまう切実さで、それを感じる。
 私がそう感じるくらいだから、この詩を書いている河野にとっては、その日の晃子はいつも、いまも、これからも生きているのだ。
 こういう言い方が適切かどうかわからないが、このときの「晃子」と感じる感覚、呼び捨てにしてしまうしかない感じは、詩の途中に出てくるいくつもの「地名」に似ている。それはその土地(地点、道路)の名前であって、私のものではない。けれど道路を走っているとき、その「地名」は単にその「地点」の名前ではなく、自分の「肉体」にとって刻印された何か、絶対にその「地名」でないといけないもの(別な「地名」であったら、まったく違った場所に行ってしまう)なのである。それと同じように、詩集を読んできて(読み終わって)、思い返す瞬間、その「晃子」というのは単なる「名前」ではなく自分の「肉体」と結びついた存在になっていると感じる。自分の「肉体」(肉親)であるから、私は「敬称」はつけない。河野が「晃子」と呼び捨てにするように、私も「晃子」と呼び捨てに書いてしまう。
 そういうところまで、河野のことばは、私をひっぱって行く。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(68)

2019-07-26 11:03:13 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいを語の中に沈めてみた)

語はしずかにゆれ動き
日は暮れがたから雨になつた

 何という語、あるいはどんな語だろうか。手がかりは「しずかに」と「ゆれ動く」。「魂しい」を沈める前は、揺れ動いてはいなかった。不動だった。そして、そのゆれ動きが「しずかに」というのだが、これは「ゆれ動く」という動詞よりも重要かもしれない。「しずかに」のなかに動詞の本質が隠されている。
 この「しずかに」が次の行で「暮れがたから」に言いなおされていると思う。「沈めた」そのときから暮方までの、長い時間。あるいは「ゆれ動き」はじめたときから暮方までの、長い時間。それが「しずかに」の「意味」である。変化する時間は、変化の「様態」でもある。「雨」は「しずかに」がこらえきれずにあふれた「魂しい」の別の形である。「魂しい」は「しずかな雨」に「なつた」。 







*

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