詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大山元「坂の上の家族」

2016-12-31 16:24:35 | 詩(雑誌・同人誌)
大山元「坂の上の家族」(「アンダンテ・パルランド」創刊号、2017年01月01日発行)

 大山元「坂の上の家族」は連作詩。その最初の「ネコ」という作品。

向きをかえたままでいると
視線が体にふれてゆく
姉をよぶなき声が聞こえる
とぎすまされた空気を
声でおさえてさがしている

 何が書いてあるのかわからない。わからないけれど、気になる。
 何がわからないかというと「主語」がわからない。「誰が」向きをかえたままでいると、「誰の」視線が「誰の」体にふれてゆくのか、わからない。それなのに気になるのは「向きをかえたままでいる」という「肉体」の動きがわかる。「視線が体にふれてゆく」もわかる。ただしこれは非常に微妙だ。「視線」そのものは「手触り」がない。「つかめない」。それなのに「視線」を私たちは感じる。「肉体」で受け止めてしまう。「肉体」というのは、「つかみどころのないもの」でさえもはっきりと受け止める。「視線」は「名詞」ではなく「目の動き」「見つめる」という「動詞」のことかもしれない。見えないけれど「動いている」、その「動き」を「肉体」はつかみ取る。「わからない」ものをはっきりと感じる力を持っている。だから、わからないのに、何かを感じ、気になる。
 次の「姉をよぶなき声が聞こえる」も「誰の」鳴き声なのかわからない。けれど「姉を呼」んでいるということが、わかる。
 「わかる」もの(肉体で直に反応してしまうもの)が、頭で「わかる」もの(主語/名詞)を通り越して動いている。この感覚がおもしろい。
 「とぎすまされた空気を/声でおさえてさがしている」という「動詞」の動きは、「わかる」かといえば「わからない」としかいえないけれど、それまでに読んできたことばの力の影響を受け、「ぐい」とひきずられる。大山が書いていること(書こうとしていること)の「急所(詩)」のようなものがここにある、と感じる。
 詩は、きっと「わからない」もの/こと。「わからない」けれど「わかりたい」もの/こと、なのだ。
 私はこの2行を読みながら、あ、ここがいい。ここをもっと読みたいと感じた。

その場にこっそり近より
枯れ草を嗅ぐ仕種でうかがう
姉の素足に体をこすりつけている
くらい空はながれず
姉は目を流してふりかえり

 「枯れ草を嗅ぐ仕種」の鼻の位置の低さ、「姉の素足に体をこすりつけている」から、「主語」が「ネコ」であることが推測できる。「こっそり」というのも「ネコ」を連想させるかもしれない。一番重要なのは「枯れ草を嗅ぐ仕種」。これは「ネコ」の姿であると同時に、書いた大山が「ネコ」になって鼻を枯れ草(地面)に近づけている。「肉体」で「ネコ」をつかみ取っている。
 「空はながれず/姉は目を流してふりかえり」は一連目の最後の2行と同じようにおもしろい。「空はながれず」というのは、空が流れるものではないだけに「無意味」な一行に見えるが、「姉は目を流して」の「流す」と交錯し、世界を活性化する。「空(自然?宇宙?)」は変化しないが(動かないが)、人間は「動く」。
 一連目の「空気」と二連目の「空」は呼応しているのだろう。ことばに、何か不思議な力が動いている。不思議な力がことばを統一しているというか、制御している。その力が強すぎて、大山を突き破って動いている。「詩」を生み出している。
 このあと、詩は、一、二連目の「なぞとき」のように動いていく。

つめたい風に頭を振って
束ねたながい黒髪をパラッと解いた
きゅうに空がながれだし
身震いして毛についた滴をとばす
おだやかな肌寒い午後だ

「ネコが死にそう」
叫ぶ声がする
はげしく駆けつける

 ネコを探しているという「物語」に落ち着く。そう動くしかなかったのかもしれないけれど、「物語」になってしまうのは残念。姉が「頭を振って」振り返ったとき、黒髪がパラッと解けたというのでは、シャンプーのコマーシャルみたいな「なぞとき」である。「詩」が消えてしまう。
 「家族」の一連目も非常におもしろい。

私たちが坂をくだろうとしたとき
姉は後ろから呼ぶ声の内側をすりぬけ
体の中を夕映えに向かってたどってゆくと
忘れ去られた父がおのずからひょっこり
定年退職の花束にかくれて坂をあるいていた
「おわったね」などと声の中から顔を出し
あとは未完の死を完成させるだけなので
誰はばかることなくありふれてきた

 「声の内側をすりぬけ」は、「声」を追い越して「肉体」が動いていくようで、とてもいい。父を見つけた姉が、声よりも早く父に近づく。そこに「感情」がある。「肉体」が「感情」となって動いている。「感情」が「肉体」になって動いている、かもしれない。



記憶の埋葬
大山元
土曜美術社出版販売
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稲田の靖国参拝(美しいことばには罠がある)

2016-12-30 15:27:53 | 自民党憲法改正草案を読む
稲田の靖国参拝(美しいことばには罠がある)
               自民党憲法改正草案を読む/番外61(情報の読み方)

 稲田防衛相が靖国神社を参拝した。2016年12月29日。安倍の真珠湾慰霊につきそってアメリカを訪問した翌日である。2016年12月30日読売新聞(西部版・14版)は2面で中国、韓国、アメリカの反応を書いている。
 韓国、中国が抗議した。韓国は在韓日本大使館公使を呼びつけている。中国はやはり在北京日本大使館の次席公使を呼びつけている。
 アメリカの反応は「慎重な対応/米が求める」という1段見出しで紹介されている。ワシントンの小川聡の記事である。

米国務省当局者は28日(日本時間29日)、稲田防衛相の靖国参拝について読売新聞の取材に「米政府は、歴史に起因する問題や癒しと和解を促進するように取り組む重要性を、引き続き強調する」とのコメントを出し、歴史認識を巡る問題には慎重に対応するよう改めて求めた。

 これは、とても変。これでアメリカの対応を紹介したと言えるのか。単に匿名の「米国務省当局者」が読売新聞の取材に答えただけ。正式発表ではないだろう。正式発表ではないものを、中国、韓国の発表とつづけて紹介するのは、稲田への「批判」を薄めようとしているとしか思えない。
 私が注目するのは、「非公式コメント」と同時に書かれている次の部分。

米政府は2013年末に安倍首相が靖国神社を訪問した際、「失望した」とする談話を発表し、日米関係はぎくしゃくした。ただ、今回は記事志井批判は控えている。首相の真珠湾訪問で内外に示した日米の「和解」ムードに、影響を及ぼしたくない考えとみられる。

 末尾の「みられる」は推測を意味する。だれが「推測」したのか。記者の小川である。これが「事実」かどうかは、わからない。「和解ムード」が高まっているから、稲田の行動は見過ごされる、と読売新聞の記事は読者誘導をしている。
 ここから感じ取れるのは、アメリカの「思惑」というよりも、記者の稲田へのおもねりと、稲田の思惑であり、安倍の思惑である。真珠湾慰霊で「和解」を強調した。その直後なら、アメリカは「和解」ムードをこわすような発言はするはずがない、と稲田(安倍)は思い、靖国を参拝した。真珠湾慰霊を「利用」するために、稲田は安倍についてゆき、安倍は稲田を連れて行った。最初から仕組まれていたのだろう。オバマは利用された。オバマの花道を飾るために真珠湾慰霊に行ったのだから、それくらいの「恩返し」はしろ、ということだろう。このことを、記者は「よくやったね」と評価しているように、私には感じられる。
 安倍は人をだますのがうまい、という批判かもしれないけれど。
 安倍は誰に対しても「嘘」をつく。「嘘」が通じなかったのはプーチンくらいか。

 また、こういう記事もある。そこから、稲田が、どんなに嘘つきかをみてみよう。

稲田氏は参拝後、「戦争で家族と古里と国を守るために出撃した人々の命の積み重ねの上に、今の平和な日本があることを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくない」と記者団に強調した。

 一見「美しく」響くことばである。私はこういう「美しい」ことばを信じない。抽象的にことばを連ねるのではなく、そのことばを「具体的」に考え直す。
 稲田の言っていることは「正しい」か。
 「戦争で家族と古里と国を守るために出撃した人々」を「真珠湾攻撃」にあてはめるとどうなるか。(「真珠湾慰霊」のあとなので、「真珠湾」にかぎって考えてみる。)
 彼らは「家族と古里と国を守るために」出撃したの。そうではない。アメリカの兵士は真珠湾を攻撃され、戦争を布告された。だからアメリカの家族と古里、国を守るために、出撃した。「反撃」した。自衛行為をした、と言える。
 だが「真珠湾攻撃」は「防衛」ではない。先制攻撃である。アメリカが参戦してきたら(アジアの諸国と連合し、日本に攻撃をしてきたら)負けてしまう。そう思って、先制攻撃をした。戦争さえはじめなければ、そういう事態に至らなかった。
 だから、稲田の言っていることは「嘘/虚言」である。「命の重み」とか「今の平和な日本」ということばを導き出すために語っている「嘘」である。
 さらに考えてみる。稲田が語るときの「家族」「古里」「国」とはどういうものか。どんな国家体制になろうと、「家族」はある。両親がいて、兄弟がいて、子供がいる。愛する人を「守る」というのは「美しい」し、「正しい」。
 しかし、そのときの「国」はどうだったのか。「国」は「国民」に対して何をしていたか。「戦争」のとき「国」はどんな「国」だったか。天皇を頂点にして、その下に軍部がいた。国民の自由を圧迫していた。国民には自由がなかった。そんな「国」を守るために「出撃した」と言って、「論理」敵に「正しい」と言えるのか。
 「国民のため」ではなく「国民の自由を圧迫する国のため」に、なぜ、国民は出撃しないといけないのか。
 むしろ、国民は「自由を圧迫する国」と戦わないといけない。戦う相手はアメリカではなく、そのときの「日本政府」である。
 こういう反省があるから、日本国憲法は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 と「前文」ではっきり言っている。「戦争」は「政府の行為によって」「起る」。
 「今の平和な日本」があるのは、「戦争で家族と古里と国を守るためと名目で出撃させられた人々の命の積み重ね」があるからだけではない。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と決意し、それを実践している国民がいるからだ。
 稲田は、戦争を反省し、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と定めた国民をないがしろにしている。
 今の日本の平和は、かつての日本を牛耳っていた政府と断絶しているからこそ成り立っている。
 稲田の発言は、日々を生きて、平和を築いてきた国民を否定するものである。美しいことばで、戦後を生きてきた国民の努力を否定している。
 国民を戦前のように、「政府に従属する奉仕者」にしようとしている。そのとき「国のため」とは「安倍や稲田の金儲けのため」「軍需産業の金儲けのため」と同義である。
 戦争で多くの兵士が犠牲になった。尊い命を失った。そのことは「忘れてはならない」。同時に「誰が」その命を奪ったのかということも忘れてはならない。戦った敵が奪っただけではない。(兵士は、殺さなければ殺される、とうい「防衛」本能で動いている。)本当に命を奪ったのは「戦争」を引き起こした「政府」である。「政府」が戦争さえ起こさなければ死なずにすんだのである。
 稲田はそれを知らないのか。知っているけれど、「嘘」をついているか。

 稲田は、日本国民も、アメリカ政府も、嘘でごまかせると思っているらしい。真珠湾を慰霊すれば「平和を愛する稲田(安倍)」を印象づけられる。「嘘」がばれても、「和解ムード」が高まって直後は直接批判されない。そう思っているらしい。
 オバマはもう引退が決まっている大統領だ。トランプが、この稲田の嘘(安倍の嘘)に対して、どう行動するかは、まだどこにも書かれていない(私は読んでいない。)


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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橘上『うみのはなし』

2016-12-29 09:35:55 | 詩集
橘上『うみのはなし』(mutaormuta@yahoo.co.jp、カニエ・ナハ編集、2016年11月23日発行)

 橘上『うみのはなし』は「論理的」な文体で構成されている。そして、「論理的」ということと「矛盾」してしまうかもしれないが、否定と肯定が交錯する。というか、あることばがあって、それが「否定」されるとき、そこに「論理」が浮かび上がってしまう。「否定」が成り立つのは「論理」があってこそなのだ。「肯定」だけだと、不思議なことに「論理」という印象よりも「事実」という感じが強くなる。「否定」によって「事実」が「論理」の側面を持ち始めるということか。
 「さよならニセ中野先生」から引用する。

椿のおいしい季節になってきました。先生お元気ですか?
僕は右肩の脇腹化が進んで少し苦しいです。
って誰もそのことについて話さないのに何故みんな知っているんでしょう?

 「椿のおいしい季節」「右肩の脇腹化」は奇妙なことば。そういうこと(もの)があるかどうかしらないが、まあ、「想定」することはできる。
 このあと「そのことについて話さない」という「否定」を含むことばがつづくと、不思議なことに「架空の想定」が「架空」ではなく「事実」のように見えてくる。「事実」があるから「話さない」。話さなくても「事実」として存在してしまう。「事実」は「知っている」に変化していく。「知る」という形で「肯定」させられる。
 「話さない」という「動詞」が、橘の場合、重要だと思う。
 「話す」ことは架空のことも話せる。ところが、その架空を「否定」のことばで話の中にとりこむと、話(ことば)が「事実」になり、それから「知る」という形で定着する。
 説明しようとすると、面倒くさい。「説明」になっているかどうかわからないが、「否定」が「架空」そのものを「ありえない」こととして否定してしまうのではなく、逆に「ある」から否定が成り立つという感じ。
 あ、堂々巡りのことを書いているかな?

 詩のつづきは、こうなっている。

おかしいですよね、先生。みんなって誰のことでしょうね。
きっと椿のおいしさを知っているものだけがみんなって呼ばれるんでしょうね。
先生はそういうことを何一つ教えてくれませんでした。
けれど、今になってわかります。
先生はそういう風に教えてくれたってことが。

 「みんなって誰のことでしょうね」には「否定」のことばは含まれていない。「疑問」が書かれている。「疑問」というのは一種の「否定」。「肯定」するときは質問などしない。「疑問(問いかけ)」は、存在を疑うこと。「ない」と問うこと。それが「否定」に通じる。
 「呼ばれるんでしょうね」は「推定」。推定には「否定の推定」と「肯定の推定」がある。「誰のことでしょう」と存在そのものへの疑問/存在の否定を、「肯定の推定」でひっくり返す(反論する)ことで、論理が動く。
 「推定」そのものが「論理」でもあるなあ。
 それから「教えてくれませんでした」という「否定」がくる。「教えるものがある」のに「教えてくれない」。「否定」を語ることで「ある」という「肯定」が引き出される。さらに、この「教えない」が「教える」ということであると言いなおされる。
 ごちゃごちゃしているのだけれど、ごちゃごちゃのなかに「論理」が動いていることがわかる。それが橘のことばに、ある種の「力」というか「安定感」を与えている。「事実」かどうかわからないが、「論理という運動」がある。動き続ける、推進力という安定感。安定した運動を支えるエネルギーの豊かさ、豊かさという安定感。

 同時に。
 たぶん、これが大切。
 この「否定」「肯定」「疑問」「推定」のリズムが素早い。ごちゃごちゃしているが、重くない。軽快である。衰えることを知らない。ここにもエネルギーの豊かさ、安定感を感じる。しかも、「明瞭」。
 ごちゃごちゃなのに、軽快、明快というのは「口語」だからだね。
 「話す」という「動詞」が詩集に何度も登場するが、立場のことばは「書きことば」ではなく「話しことば」なのである。「論理」も「書きことば」の論理ではなく、「話しことば」の論理。


僕は言われるまで先生がニセモノなんてわからなかったんですが、言われてみると確かにニセモノでした。
素材が全然違っていました。
まぁ、わかろうがわからなかろうがニセモノはニセモノなんですけどね。

先生は不潔です。
でも不潔なところがいいと思います。
不潔じゃなければもっといいと思います。
不潔な先生がニセモノで本当によかったと思います。
でも不潔じゃない先生もニセモノなので、それはとても残念です。

 「口語」の特徴は繰り返しが多いこと。ことばを整理する、経済的につかうということは「おしゃべり」ではしない。成り行き任せで、話しながら考える。話しながら「論理」にしてしまう。「
 そして「繰り返し」とは相いれないことだが、「飛躍」も多い。「素材が全然違っていました。」なんて、なぜ、そこに「素材」が出てくるのか、わからない。「飛躍」というのはある意味で「論理」の否定(わかりにくい)なのだが……。
 そして。
 この「わからないものがある」というのが、また「口語」の魅力。
 「口語」というのは話す人がいるということ。(書きことばにも書く人がいるのだけれど、あらわれ方が違う。)話す人は「肉体」を持って、目の前にいる。「肉体」はだれでも「過去」を持っている。「過去を持った肉体」がそこにある、「存在感」があることが「飛躍」を促すのである。
 あ、あのひと、こういう性格(性質?)だもんなあ、と思う。
 役者が舞台の上にいる。その姿だけで、うさんくさいとか、薄倖とか、いろいろ思うでしょ? 暴力団みたいとか、スケベそうだとか。そうすると、そこからそんなことばが出てきても驚かない。「飛躍」がすっとなじんでしまう。
 「話しことば」には、そういう特徴がある。「書きことば」だと説明しないといけないものが「話しことば」だと説明なしで通じる。「口調」が「意味」を浮かび上がらせる。
 そういう意味では「口調」も「論理」なのだ。「話しことば」のリズムそのものが「論理」なのだ。

 いやあ、おもしろいなあ。

 で、「論理の飛躍」、あるいは「口語」の「話し手(登場人物)の存在感」ということに目を向けると。
 この「ニセ中野先生」の「中野先生」もそうなのだが、橘の詩には「固有名詞」が多い。誰か知らない人が次々に出てくる。それがまた、おもしろい。知らない人(もしかしたら架空の人/虚構)なのかもしれないのに、そこに人がいるように感じてしまう。
 「口語」の「論理」が人間を生み出している。

 読むべし。
YES(or YES)
橘 上
思潮社
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安倍の真珠湾演説(「和解の力」って何?)

2016-12-28 21:31:46 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の真珠湾演説(「和解の力」って何?)
               自民党憲法改正草案を読む/番外60(情報の読み方)

 2016年12月28日読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面が安倍の真珠湾慰霊を報じている。見出しは、

首相 真珠湾慰霊/日米首脳「和解の力」/オバマ大統領と献花

 「和解の力」ということばにつまずいた。「意味」がわからない。2面に「真珠湾演説の全文」が掲載されている。それによると、

 私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation 、「和解の力」です。

 とある。「英語」を翻訳したものだということがわかる。私は英語を話す人間ではないので、こういうことばがあるのかどうか、わからない。だれかの有名なことばなのだろうか。そうであるなら、「出典」を言うべきだろう。
 同じ演説の中には、こういうくだりがある。

 The brave respect the brave.
 「勇者は、勇者を敬う」
 アンブローズ・ビアスの、詩は言います。

 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
 「永続する平和を、我々全ての間に打ち立て、大切に守る任務を、やり遂げる」。
 エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。

 いずれも「出典」が明示されている。(ただしリンカーンのことばには「原文」はない。)
 いったい安倍は

the power of reconciliation 、「和解の力」

 を、どうやって「思いついた」のか。
 私は安倍に対してたいへん意地悪な人間なので(会社の同僚に言われた)、ここでも「意地悪」を発揮する。
 日本人なら、まず日本語で考えるべきである。(安倍が、ネイティブと同様に英語を使いこなし、いつも英語で思考しているなら、私の批判は当たらないが。)
 日本語の表現には、そのままでは英語(外国語)にならないものもあるだろう。それはしかし、「翻訳」の問題であって、考えること(思考)の問題ではない。
 the power of reconciliation が英語として「なじみ」のある表現だとしても、日本語の「和解の力」は奇妙である。「真新しい」。こういう「真新しい」ことばというのは、人が「うそ」をつくときにつかう。
 「和解の力、って何ですか?」
 「そんなこともわからないのか。わからなければ、自分で調べろ」
 ここには「おまえの知らないことばを知っているから、おれの方が正しい(偉い)」という「主張」が隠れている。「和解の力」という前に「the power of reconciliation 」というところが、さらに曲者である。
 「おれは英語を知っている。英語ではこういうんだ。英語を知らない人間はだまっていろ」
 ということである。
 真珠湾での演説、アメリカ国民に向けての演説だから、それでもいいのかもしれないが、日本を代表して演説しているのだから「日本人の心」を語ってほしい。

 わけのわからないことばは、しめくくりでもつかわれている。

 パールハーバー。
 真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
 私たち日本人の子供たち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子供たちが、またその子供たち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。

 「和解の象徴」。どうして、真珠湾が「和解の象徴」になるのだろう。真珠湾には何か両国が力を合わせて作り上げたものがあるのだろうか。
 「和解」とは争っていたものが争いをやめて、争いの原因を取り除くことである。そのとき、たぶん何かを新しく生み出す。争いの原因を取り除くだけではなく、克服した証として何かを生み出す。その生み出されたものが「和解」の証(象徴)というのなら理解できるが、「アリゾナ・メモリアル」はアメリカ国民と日本国民が共同して作り上げた「記憶」の展示館なのか。
 逆に言いなおしてみようか。
 たとえば広島の原爆ドーム。広島の原爆資料館。長崎の資料館。それは「和解の象徴」と呼べるか。だれも、そんなふうには呼ばないだろう。
 「和解の力」とか「和解の象徴」ということばは、聞こえがいいが、私には「うそ」にしか聞こえない。

 もっと真摯に語るべきは「和解の力」の前に述べられている「寛容の心」だろう。許すこころの広さ。大きな犠牲を払った。しかし、そのことについて犠牲を強いたひとを攻めることはしない。非難はしない。だが、この大きな犠牲を直視してほしい。そして忘れないでほしい。たぶん、アリゾナ・メモリアルを訪れる日本人に対して、寛容なアメリカ人はそう言うだろう。広島・長崎を訪れるアメリカ人に対して、寛容な日本人はそう言うだろう。
 オバマは広島で「謝罪」しなかった。安倍も真珠湾で「謝罪」しなかった。寛容な人なら言うだろう。「謝罪」よりも、ここに記録されていることを忘れないでほしい。多くの人々のことを忘れず、そのひとたちの願っていることを実現してほしいと言うだろう。
 「和解」は結果であって、「和解」へとつながる「寛容」こそが大事なのだ。「和解」は「結果」だが、世界は「結果」のあともつづいていく。「和解」のあとに何をするかの方が重要である。「和解」で終わらせるのではなく、そこから何を持続し、つくりだすか。
 読売新聞は安倍の演説を「未来志向に力点」という見出しで要約しているが、「和解の象徴として記憶する」では、どこに「未来」があるのか、私にはわからない。

 ことばと引用、出典について、もうひとつ。
 演説の前半にとても感動的なことばがある。

 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
 私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
 戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 私は「日本国憲法の前文」と「第9条」を即座に思い浮かべた。

日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 「戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩み」とは「平和憲法(戦争の放棄)」と一体のものである。「不動の方針」とは「憲法」のことである。
 なぜ、ここで、安倍は「不動の方針」である「日本国憲法」を引用しないのか。英語で書かれただれそれのことばを引用するのではなく、日本人がだれでも知っている日本のことば、「日本国憲法」を引用して「決意」を表明しないのか。「日本国憲法」を引用すれば、安倍の語ったことばは、即座に「日本国民のこころ」そのものになる。安倍の演説を聞いたアメリカ人に「日本人の決意(誠意)」がつたわるはずである。
 アメリカの「寛容」に応えるために、日本人は「日本国憲法を守る」と言える。そのとき、「日本国憲法」は、それこそ「和解」の「象徴」である。
 そんなふうに言えない安倍のことばは、すべて「うそ」である。
 アメリカは真珠湾攻撃を「寛容」のこころ(力)で許してくれた。だから、その「寛容」に応えるために、アメリカの代わりに「戦争」に行きます。アメリカ軍が行きたくないところへ、自衛隊を行かせます。アメリカから兵器を買います。アメリカの軍需産業を支えます。自衛隊の海外派兵、アメリカからの兵器の購入は、アメリカと日本の「和解の象徴」です、というのが安倍の「ほんとう」のことばなのだ。それを伝えるために安倍はオバマに合った。その「約束」がオバマの花道を飾り、トランプへとつづいている。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
谷内修三
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天皇生前退位の「論点」、あるいは「口封じ」の手口

2016-12-28 15:37:04 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇生前退位の「論点」、あるいは「口封じ」の手口
               自民党憲法改正草案を読む/番外59(情報の読み方)

 2016年12月28日読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面に、次の見出し。

退位論点 来月23日公表/有識者会議調整/法制化理由 焦点

 記事では、「前文」でこう書いてある。

特例法を制定し、現在の天皇陛下にかぎった退位の実現を求める方向性を打ち出す方針だが、退位理由をどう説明するかが焦点となっている。

 これを「末尾」で、こう言いなおしている。(番号は、私が便宜上、振ったもの)

 焦点となっているのは、
(1)なぜ退位を可能とする法整備を行うかという点の書きぶりだ。
天皇は「国政に関する権能を有しない」と定める憲法4条との関係から、
(2)陛下の「意思」を退位理由にすることは難しいとの見方が強い。
同会議は「高齢」を退位理由とすることも検討したが、
(3)「何歳から高齢なのか定義できない」との意見が相次いだため、
(4)報道各社の世論調査などで「多くの国民が退位を支持している」ことを理由とする案が有力になっている。

 いくつかの疑問を感じる。要点から言うと、(4)に特に疑問を感じる。
 世論調査ではたしかに「多くの国民が生前退位を支持した」。しかし、これは天皇が「生前退位」の意向を持っているということがニュースになり、その後、天皇が8月8日にビデオでメッセージを放送した直後のものである。「多くの国民」は、天皇の「意向」に対して安倍がどういう姿勢で向き合っているのか知らない状態で「生前退位」を支持した。ビデオ放送からすでに4か月が過ぎた。その間に、国民の意見は変わっているかもしれない。簡単に「多くの国民が退位を支持している」とは判断できない状況ではないのか。4か月前の「判断」をそのまま採用するというのは無責任である。
 4か月の間に有識者会議が何回か開かれた。専門家がヒアリングに応えている。それを読んで国民はどう考えたか。それを重視しないといけない。4か月の間に起きたことを省略するのでは有識者会議の意味もないだろう。
 そして、これがさらに重要なのだが、この4か月間、有識者会議は国民に向けて、どれだけ情報を提供したか。国民からどれだけ「意見」を聞いたか。単に「密室」で専門家から意見を聴き、それをつまみ食いして「論点」を生理用としているだけである。
 これは民主主義に反する。
 広く国民から意見を聞きとる工夫が省かれている。世論調査も有識者会議が主体となって調べたものではない。他の機関が調べたものを、精査もせずに採用しようとしている。都合がいいから、それを「つまみ食い」する。専門家の意見を「つまみ食い」しながら論点を整理するのと同じ方法である。
 そこでは少数意見が無視されている。議論も無視されている。「主張/意見」というのは他人の意見に触れることで変わるものである。その変化を大事にし、意見の向かう先を見極める。これが民主主義である。
 そういう「手間」を省いたものは民主主義とは言えない。「手間」を省きながら、最後は「国民の多くが支持している」と自分たちの責任を放棄している。責任を「国民」に押しかぶせている。
 こういういい加減なあり方でいいのか。
 最初から「結論」があって、それを打ち出すために「国民」を利用している。

 (3)は、もっともらしく聞こえるが、今後のことを考えると危険なものがある。有識者会議は「一代限りの特例法」を念頭に置いているようだが、先に御厨が「一代限りであっても、特例法を今後に適用できる」というような発言をしていた。
 これは次に天皇になった人が、たとえ「高齢」でなくても「退位」させる口実になる。「85歳で退位」と決めておけば「85歳」になるまで退位させることができない。それでは不都合だから、年齢を設定しないということだろう。いつでも政権にとって不都合な天皇(政権が口封じをしたい天皇)の場合は、「高齢」の「年齢設定」があっては困る。だから、設定せずにおく。
 そしてそのとき、きっと「国民の多くが天皇の退位を支持している/望んでいる」という形でまた「国民」が利用される。

 (2)も逆に読むべきだろう。天皇が「退位したい」という意思を持っており、それに従うことは憲法違反になる、というよりも、天皇が「退位したくない」といったときにどうするかを考慮に入れているのだと思う。天皇の「意思」ではなく、政権の「意思」をどう反映させるか。政権の「フリーハンド」を残しておくために、「天皇の意思」に従うことは憲法違反であると言うのである。

 私の読み方は「妄想」に満ちているかもしれない。
 しかし、ことばは、どう読むことができるか。裏から、表から、斜めから、点検する必要がある。
 「TPP反対とは一度も言ったことがない」と平気で嘘をつく安倍が設置した有識者会議である。安倍のように平気で嘘をつく、と考えて向き合わないといけない。

 これは(1)の問題につきあたる。
 「書きぶり」ということばを読売新聞はつかっている。
 「結論」をどう書くか。書き方次第では、違った読み方ができる。外交文章では、あることばを自分の国のことばでどう翻訳するかということが常に問題になる。「ことばの意味」は「ひとつ」ではない。
 新聞ではこう書いてある。テレビでは、こう言っている。それを「私のことば」で読み直すと、どうなるか。「私」の「多様性」で、「多様な読み」をつきあわせる。そして考えるということが重要である。

 きのう、天皇の「新年の感想」が来年は中止になるということについて書いた。天皇のことばは「天皇の見た現実」である。天皇は象徴だけれど、ひとりの人間でもある。「個」である。つまり「多様性」の「ひとつ」である。その「多様性」の「ひとつ」が安倍によって弾圧され、消される。

 籾井NHKが「天皇の生前退位」をスクープしたあと、宮内庁長官が風岡典之から西村泰彦に変わった。このとき、世間では「天皇の気持ちを抑え込めなかった風岡への、安倍からの報復人事」という見方が広がった。
 私は、逆だと思っている。
 籾井NHKをつかって「天皇の生前退位」という問題を表面化させ、それを利用して天皇の口封じをするというのが安倍の動きの基本である。口封じを加速するために西村を送り込んだのである。
 「報復人事」などというの「書きぶり」は世間を興奮させる。問題を見えにくくする。それに「報復人事」を全面に出すと、その影響で「天皇が自分の意見を言う」ということが「憲法違反」という印象を強くすることにもなる。悪いのは天皇。悪いことをする天皇を抑えきれなかった風岡を更迭するというストーリーを全面に出すとき、安倍の天皇の口封じというストーリーは背後に隠れる。
 安倍は天皇の口を封じるためなら何でもする。
 「生前退位」問題も、突然のものではなく、すでに事前に何度も宮内庁(天皇)と官邸は交渉している。官邸が「摂政ではだめなのか」と提起し、天皇が「だめだ」と応えたらしいことは報道されている。すでに安倍が熟知していることが表面化しただけである。そうであるなら、それは「表面化した」というよりも、「表面化させた」ととらえるべきである。
 「表面化」させることで天皇の口封じを加速している。
 天皇の退位問題をどうするかは憲法に関係してくる問題なのに、それを「特例法」という場当たりで解決しようとしているところからも、天皇の口封じをするのだという安倍の「強い決意」を私は感じる。

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河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』

2016-12-28 09:59:50 | 詩集
河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』(ミッドナイト・プレス、2016年10月28日発行)

 河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』には「散文詩」が多い。小さなストーリーという感じもする。ストーリーといっても、「結末」があるわけではない。あるのかもしれないが、私は「結末」よりも、ことばが動いていく動き方の方がおもしろいと感じた。
 ただ、私の感じ方は「誤読」としかいいようのないものかもしれないので、このまま感想を書いていいのかどうか、ずいぶん迷った。
 「六本木猫坂」の書き出し。

丹阿弥坂と四十五度の角度で交わっている小さな坂がある。
名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく、その姿を見かけない
日はない。二つの坂が交わった所に小さな二階家があり、外階段が張り出し
ている。その天辺に黒猫がいて、下から三段目に雉猫がいる。二匹は睨み合
うでもなく、見つめ合っているわけでもない。

 二行目の「その」というのは「猫」のことである。「猫の姿を見かけない日はない」と河江は書いている。
 わかっているのだが、私は「誤読」する。
 「その」を「二つの坂」と読んでしまう。「二つの坂を見かけない日はない」と読む。さらに「二つの坂」のうち「名もない坂」と読んでしまう。名もない坂だから「その」という指し示しを「名前」のかわりにしてしまう。そしてそこを通るたびに「その坂」を見てしまう。
 「坂」は動かないから、常にそこある。「見かけない日」ということがある方がおかしい。でも、なぜか、そう読んでしまい、「そうか、そこに来るたびに河江は坂が交わっていることを確かめるのだな」と思う。
 坂が二つ交わっているという「事実の確認」があって、それが次第に「事実」を広げていく。そのひとつが「猫」である。その坂に「猫がいる」。それから「二階家」がある。「外階段」がある。もし坂が交わっていなかったら、そのすべてが「ない」。そう感じる。「四十五度」で「交わる」という坂のあり方が「二つの坂」を生み出し、そこから「猫」や「二階家」「外階段」がさらに生み出されていく。
 それが証拠に。
 「名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく」と書かれていた「猫」はいつのまにか「坂」ではなく「外階段の天辺」と「下から三段目」に「黒猫」と「雉猫」にかわってしまって、「外階段」にいる。「居心地のよい場所」は「坂」ではない。「外階段」である。
 で。
 と区切ってしまうのは、私の「飛躍」なのだが。
 「その天辺に黒猫がいて」というときの「その」は「外階段」だね。この「その」を私は「誤読」しないのだが、その「誤読しない」が逆に「誤読」だと私は感じてしまう。
 奇妙な言い方になるが、ここでも私は「猫」を忘れてしまう。「猫」よりも「階段の天辺」と「下から三段目」の方に「視線」が集中してしまう。
 妙にずれるのだ。
 「猫」が描かれているのに、「猫」ではないものの方が「具体的」に見えてきて、「猫」はその「具体的なもの」の陰に隠れていく。まるで「猫」が「具体的なもの」を次々に生み出していく。
 あれっ、最初、私は「坂」が他のものを生み出していく、と書いたのではなかったっけ? そう書いたはずである。それが「その天辺に」の「その」を読んだ瞬間から、とらえどころのない何かに引っぱられて、「猫」が他のものを生み出していくと感じている。
 「坂」が「猫」を生み出し、「二階家」「外階段」生み出したように、「猫」が「外階段の天辺」と「下から三段目」を生み出す。
 「ストーリー」が進むに連れて、更に変わっていく。生み出されるものが変わっていく。

 「その」ということばには不思議な力がある。魔力がある。
 「その」とは「指し示し」である。「意識」の持続というか、引きずりというか、粘着力というか。よくわからないが、何かをつないでゆく。その「つなぎ(持続)」のために、本来なら「個別」の存在であるべきものが、どこかで「融合」する。
 「坂」と「猫」は「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できなくなる。「猫」と「階段」も「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できないというよりも、どっちがどっちでもいいという感じ。
 この詩には、このあと「男(風来坊)」が登場する。この男には、

男もその一人かと思っていた。

 という具合に、また「その」がついて回っているのだが、たぶん「その」があるために「わたし」とくっついてしまう。「わたし」が「その男」を呼び寄せる。

ある日、わたしが外階段の下に座ると、雉猫が隣に移動してきた。黒猫と雉
猫、風来坊とわたしが外階段の上と下に向き合って座っている、ただそれだ
けだ。

猫たちはそうやって対話しているのかもしれないが、人間たちは違う。見つ
め合うのはつらいので互いに違う方向を見ている。わたしがたまたまそこを
通りかかったついでに、座ったまでだ。そこを通りかかると、つい座りたく
なる。すると、雉猫がわたしの隣に移動してくる。そして猫と人間の二組が
向き合う図になる。

 と、ここまで読んで、私はまた「はっ」とする。「誤読」する。「誤読」だと気づきながらも、その「誤読」のなかに入っていってしまう。
 「二組」ということば。これが「その」なのだと気づく。
 「その」という「指し示し」があるとき、そこには必ず「対象」と「対象を意識するもの」が存在する。「二」が存在し、それが「組」になっている。そして、それが「組」であるからこそ、相互に入れ替わりが可能なのだ。
 「二」はすでに「二つの坂」「二匹」という形で出てきている。「二階家」にも「二」がある。「外階段」にも「天辺」と「下から三段目」という「二つの一」がある。それは単に「二」ではなく「組」である。
 入れ替わり可能とはいうものの、その「二」は違った存在なので、完全には入れ替われない。入れ替わるためには何かを捨てる、あるいは何かを身につけないといけない。「捨てる」と「身につける」が交錯しながら、「二」にはなかったものを生み出し続ける。
 これを「組」の力と読むことができる。河江の詩なかに「キーワード」を探すとしたら、「組」ということになる。
 「組」は「組む」という「動詞」からうまれている。「組む」は「かかわる」でもある。「その」という「指し示し」が「組む」を過剰にする。刺戟する。つまり、傍らを通りすぎるのではなく、「絡み合う」という形で動き、絡み合いが何かを生み出すのだ。
 これが河江のことばの運動かもしれない。

 これでは「批評」にはならないし、「感想」にもならない。つまり「論理的」に言及したことにならないのだが、何かに引っぱられて、私はこんなことを考えたのだった。

冬の夜、しずかな声がして
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ミッドナイトプレス
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天皇のことばへの弾圧

2016-12-27 13:01:37 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇のことばへの弾圧
               自民党憲法改正草案を読む/番外58(情報の読み方)

 2016年12月27日読売新聞朝刊(西部版・14版)の2社面に、次の見出し。

天皇陛下/新年の感想取りやめ/来年から 負担軽減の一環

 「負担軽減」については、「生前退位」の報道の頃からしきりに登場することばである。宮内庁の西村泰次長彦の記者会見のことばが引用されている。

「年末年始に行事が続くなか、お言葉をいくつも作成することは大きな負担だ。陛下の了解をいただいたうえで、新年の感想を見直した」

 ここで疑問。
 年末年始の行事というのは、具体的には何か。年末の「行事」としては「天皇誕生日」がある。これは、すでに過ぎた。「お言葉」は質問に答えるという形で発表された。
 年始は「新年にあたっての感想」と「新年一般参賀」が国民にわかりやすい行事である。ほかに何があるか、私は知らない。
 いくつかある「行事」のなかで「新年にあたっての感想」はどれくらいの重要性を持っているのか。その位置づけが読売新聞の記事ではよくわからない。
 私は「一般参賀」よりも「新年にあたっての感想」の方が重要だと思う。「お言葉」は文字として「記録」に残る。一般参賀は「ことば/文字」の「記録」を伴わない。どんなときでも、ある「事実」をどうことばで残すかということが大切。
 天皇の「お言葉」は、抹殺されようとしている。
 西村の発言で非常に気になるのは、

陛下の了解をいただいたうえで、

 という表現である。
 天皇が「新年の感想をまとめることが負担になったから、やめたい」と言ったのではない。自発的に天皇が行動を起こしたのではない。「やめたらどうですか」と天皇に働きかけ、「了解」を取り付けたのである。いや、むりやり「了解させた」。
 これは籾井NHKが「生前退位」の意向をスクープし、その後「象徴としてのつとめ」について天皇がビデオで発言した経緯に似ている。天皇が自発的に「お言葉」を言ったのではなく、籾井NHKがつくりだした「状況」のなかで強いられた発言である。
 2016年12月24日の毎日新聞(西部版・14版)は「生前退位」を巡る意向の「公表」について

宮内庁/昨秋官邸に退位意向/公表見送り「政権の事情」

 という見出しで、8月の「生前退位意向公表」の経緯をスクープしている。それによると、

 天皇陛下の退位の意向について風岡典之・宮内庁長官(当時)が2015年秋、官邸に対して正式に伝えていたことが明らかになった。陛下のおことば原案を文書で示し、同年12月の天皇誕生日に合わせた記者会見での公表を打診したが、官邸との調整がつかず、公表が見送られた。

 補足して、こう書かれている。

 15年12月の公表が実現しなかった理由について宮内庁側は「受け入れ側の態勢だ」として官邸側の事情を説明する。政権が16年夏の衆参同日選を検討していたことが背景にあると見られる。

 「生前退位」の問題が国民の話題になると、16年夏の衆参同日選がやりにくくなる。みんなが「争点」として注目する。選挙に関心が向けられると、投票率が高くなる。自民党に不利になる。だから、公表「させない」。(籾井NHKはこの「不利」を回避するために、夏の参院選では選挙報道を避ける、知らせない作戦を実行し、自民党の勝利を後押しした。)
 そして参院選で大勝すると、その直後に、今度は籾井NHKを利用して、「天皇生前退位の意向」というニュースを流す。選挙に影響しないから、天皇を引っぱりだした。
 それも「口封じ」のために、である。「生前退位」を強要するために、である。
 天皇は政治に関与することができない。しかし、政権(安倍)は天皇を利用している。天皇の発言をあるときは強制し、あるときは封じるという操作を行っている。
 今回の「新年の感想」の中止も、安倍の圧力だろう。発言させたくないのである。

 2016年12月27日読売新聞の記事にもどる。「お言葉 準備に長い時間」という「解説」がある。とてもおもしろい。

 天皇陛下が元日に発表される感想の取りやめは2015年も検討されたが、戦後70年の節目で「陛下のお言葉は必要だ」という声もあり、見送られた。
 同年の元日、陛下が発表された「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なこと」という感想の一節は反響を呼んだ。

 私はいつも「時系列」を疑う。
 天皇は、新年の感想を発表するか、しないかを「検討」したあとで、感想をまとめ始めたのか。
 逆なのではないのか。
 「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なこと」という一文があったために、これを新年のことばとして発表していいかどうか、宮内庁と官邸(安倍)の側でやりとり(交渉)があったのではないのか。
 官邸(安倍)が「削除しろ」と言った。しかし「戦後70年の節目なのに、戦争に触れないわけにはいかない」と天皇(宮内庁)が主張した。安倍はさらに「削除できないなら、新年の感想そのものをやめろ」と反論した。しかし、「中止」を発表するには時間が押し迫っていてできなかった、ということだろう。今回は、まだ間に合うと安倍が判断した。「生前退位」が国民の話題になり、「負担軽減」ということばも広まった。国民を納得させる「理由」がある、というわけだ。
 解説には、次の文章もある。

 実践に裏打ちされた陛下のお言葉は年々、重みを増している。だが、準備には大変な労力を伴う。事実関係を確認し、憲法上の立場に配慮し、語句を選びながら文章を構成する作業は、ここ数年、長い時間を要するようになっている。

 「事実関係を確認し、憲法上の立場に配慮し、語句を選びながら文章を構成する」には、多くのことばが省略されている。
 どうやって事実関係を確認するのか。天皇がひとりで資料を読み、確認するのか。
 憲法上の立場に配慮するとき、天皇はやはりひとりで配慮するのか。あるいは官邸側の「助言」を仰ぐのか。
 「語句を選ぶ」とき、天皇は天皇だけで「選ぶ」のか。あるいはその選択に官邸が関与するのか。
 私は、天皇のことばは「事前検閲」を受けていると思う。そこに「政治的発言」がないか、官邸が「事前検閲」しているはずである。何のチェックもせずに天皇のことばを公表すれば、内閣は天皇に「助言する」という義務を放棄したことになる。
 文章の作成に「長い時間」が必要になったのは、天皇だけの問題ではない。天皇のことばに対して安倍が苦情を言い、その調整に時間がかかるようになったということだ。
 天皇のことばは記録として残る。いわば「歴史文書」だ。何を言うか、その文言をどうするか、は簡単には決められない。「外交文章」のように、どの立場から、どういう解釈ができるか、ということろまで検討されているはずである。

 今回も、すでに「新年の感想」は出来上がっているだろう。少なくとも「原案」は書かれているはずである。いまから書き始めるということは、私には考えられない。いまから書き始めるのでは時間的に余裕がないから、精神的・肉体的負担が大きいから中止するというのではないだろう。
 書かれている「原案」を見て、安倍が「だめ」と言ったのである。
 その「だめ」だしされた文言をどう調整するか。その「時間」がなくなったのである。安倍は真珠湾慰霊に出発し、日本にいないということも関係しているかもしれない。文言の調整は必ずしも日本にいないとできないことではないが、安倍はハワイでオバマにあったりしないといけないので、時間的な余裕がない、ということだろう。天皇ではなく、安倍に時間がないのである。ここでも「政権の都合」が優先されている。あるいは、「時間的余裕」をなくすために安倍は真珠湾慰霊を利用しているのかもしれない。
 天皇はフィリピン慰霊など戦後と正直に向き合っている。そうやって諸外国の、そして日本国民の「信頼」をつかんでいる。安倍は、そういうことは天皇ではなく、自分でもできる、と「実践」してみせようとしているかもしれない。
 2016年12月27日読売新聞の一面には安倍が真珠湾慰霊に出発したと書かれている。出発前に、安倍は記者団に、こう語っている。

「日本国民を代表し、慰霊のためにハワイ真珠湾を訪問する。戦争の惨禍は二度と繰り返してはならないという未来への誓い、そして和解の価値をオバマ大統領とともに世界に発信したい」

 天皇には「戦争」に関する発言や慰霊の行為をさせないぞ、という「決意」とも読むことができる。
 天皇を国民(世界)から見えないところにおいやり、都合に合わせて利用する。そういうことが着々と進められている。

 しかし、読売新聞のこの記事の扱いは疑問が残る。他のメディアがどう報じているか、私は知らないのだが、天皇が「発言をやめる」というのは大ニュースである。安倍の真珠湾慰霊を上回る「歴史的ニュース」である。
 「起きる」こともニュースだが、「なくなる」こともニュースである。先にも書いたがてんのうのことばは「歴史的文書」である。「歴史」が記録されなくなるのである。私たちは「歴史」を失うのである。
 一面のトップニュースでないことが、私には信じられない。安倍の「天皇の口封じ作戦」(歴史の抹殺/修正主義)にメディアが加担していることになる。

(追加)

天皇のことばへの弾圧(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外58(情報の読み方)

 天皇が「新年の感想」を取りやめるということに関する感想のつづき。
 朝日新聞、毎日新聞(ともに西部版・14版)と西日本新聞はどう報道しているか。

朝日新聞(第3社会面、2段)
「新年のご感想」取りやめ/宮内庁 天皇陛下の年齢考慮

毎日新聞(第3社会面、2段)
「年頭所感」取りやめ/天皇陛下 高齢、負担軽減目的

西日本新聞(第3社会面、1段半見当=横組み)
陛下の新年感想取りやめ

 読売新聞が一番丁寧に報道していたことがわかった。
 どうしてこんなに扱いが小さいのだろうか。天皇の「ことば」の意味を軽く見ているのか、背後にある問題点を「高齢、負担軽減」とだけだとみているのか。なぜ、いま発表されたのか、疑問を感じないのだろうか。

 こんなに簡単に「新年の感想」を中止できるのはなぜか。憲法は「天皇の所感」を「国事行為」と定義していない。「公務」になるのか、あるいは「私的行為」になるのか。たぶん、安倍は「私的行為」にしてしまいたいのである。天皇がかってに述べる「感想」である。
 「新年の感想」が「私的行為」と定義されてしまえば、これまでの発言もすべて「私的行為/私的発言」と定義しなおされることになる。
 先に発表された、

「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なこと」

 ということばも、単に天皇の「私的発言」。安倍の見解とは違っていても問題はない。いや、安倍の見解と違うから、それを「正式発言」と認定するわけにはいかない、という具合に「過去のことば」が読み直されていくことになる。
 安倍の真珠湾慰霊、たぶん発表される安倍のことばが、これからの日本の「歴史観」の基本になる、ということなのかもしれない。
 あす、安倍が何を言うのか、ということも関連付けてとらえなおす必要もあるだろう。

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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今井好子「白いちじく」

2016-12-27 11:25:44 | 詩(雑誌・同人誌)
今井好子「白いちじく」(「お休みの時間」、2016年11月発行)

 今井好子「白いちじく」は、「こちらの方が甘いよ」と勧められた白いいちじくを食べるときの詩。

小ぶりの黄緑色のそれは
成熟途中にしか思えない

あえぎの口から芳香が漏れる傍らで
少女の乳房は頑なに慎ましく
沈黙をきめている

 今井は少女だった時代を思い出しているのだろうか。
 「傍らで」ということばをこういうときにつかうのかどうか、私にはわからない。「傍ら」と言っても離れているわけではない。ひとつのいちじくの描写である。「ひとつ」なのに「傍ら」と書くことで「距離」をつくりだしている。
 このために「少女を思い出す」という感じが強くなる。いま現在の「肉体」が、ここにある。その「傍らに」少女だった時代の「肉体」がある。乳房はどう反応していいかわからず「沈黙」している。
 「芳香の漏れる口」、何も漏らさず「沈黙」を守る「乳房」。その「守る」を「頑なに」「慎ましく」という。

ぺしりと軸を折り一気に皮をむく
飛び散る濃厚な香り
真っ赤な無数の花 咲かない花
白い乳がこぼれてくる
乱暴にしてはいけない
優しく掌で受け止めて
乳の伝う手で次の皮をむいていく

 今井はいちじくの皮をむきながらいちじくになっている。「一気に」が若くていいなあ。いちじくになることが少女の今井を思い出す方法なのだ。
 次の連で「思い出す」という動詞は「記憶」ということばになる。

光の記憶を蓄え
甘美な喜びを内包していた
無口な果実
あらわになった白い
しなやかな体躯を
ほとぼりのさめた風が
渡っていく

 単なる「記憶」ではなく「光の記憶」。直接的にはいちじくが光を浴びて熟成している(そのいちじくの中にある太陽の恵み)をあらわしている。間接的には今井の少女時代の記憶を語っているだろう。光に満ちて輝いていた少女。「甘美な喜びを内包していた」のは「肉体」か「こころ」か。区別などできない。いちじくと少女の今井を区別できないのと同じである。
 比喩は区別できない存在になるときが美しい。
 「ほとぼりのさめた風」は、記憶から、現在の時間にもどってきたということだろう。もどってこないで、少女の「肉体/こころ」のままで生きるのが詩だと私は思うが。もどってくるのは「抒情詩」にしたいからかもしれない。

 ところで。
 いちじくって、皮をむいて食べるもの? 私はあるとき、桃の皮をむいて食べるという詩を読みびっくりしたことがある。梨と柿は皮をむくことが多いが、リンゴはむかない。いちじくはむいたことがない。

佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス
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金子敦の俳句

2016-12-26 15:22:31 | 詩(雑誌・同人誌)
金子敦の俳句(「出航」64、2016年12月発行)

 フェイスブックで見かけた金子敦の俳句。

秋燕や足場をひよいと宮大工
雲梯の子の息荒し葉鶏頭
廃材の三角四角小鳥来る
狛犬の眼に稲妻の走りけり
鬱といふ文字のひしめく曼珠沙華
瘡蓋になりかけてゐる秋思かな
月光を拒んでゐたる獣道
成分はメレンゲならむ月の舟
長き夜やピラフ解凍して独り
吾が膝に猫の擦り寄る夜食かな

 「ピラフ」の句がとてもおもしろい。秋の夜、ピラフをつくって食べる。冷凍ピラフを解凍し、たぶん電子レンジで加熱して食べる。フライパンで加熱するよりも、手軽。同時に、まあ、味気ない。それが「独り」ということばにつながっていく。
 情景は、だれでもぱっと思い浮かぶと思う。ぱっと思い浮かぶのは、だれでもそういう経験をしたことがあるからだと思うのだが。
 おもしろいのは、「解凍して」だね。
 電子レンジで「チンして」、あるいはフライパンで「加熱して」の前の「肉体」が描かれている。食べるとき、たいてい、この「解凍して」は忘れてしまう。「解凍して」よりも「チンする」「加熱する」の方が重要だからだ。「解凍して」は肉体の奥に、無意識にしまいこまれてしまう。(電子レンジの場合、解凍から加熱までひとつづきなので、よけいに見えなくなる。)この無意識にしまいこまれた「動詞」を引っぱりだしてきている。あ、そうだ。先に解凍があるのだった。あたりまえのことに、はっと気づかされる。ここに驚き、おもしろいなあと感じる。
 「秋燕」の句もおもしろいが、この句の場合、私の「肉体」が動いていかない。宮大工が働いているところを実際に見たことがない。テレビや何かでも、ちらりとは見たことがあるけれど、じっと見たことはない。熟練の宮大工は身軽に動くだろう。若い宮大工も若さ特有の機敏さで軽く動くかもしれない。「ひよい」ということばに身軽さが出ているのだが、熟練の大工と若い大工のどちらを思い浮かべていいのかわからない。どちらを思い浮かべるにしても、それから先は「頭」で考えて感想を書いてしまうことになる。
 「雲梯」は、運動会か。あるいは「宮大工」を引き継いで同じ現場か。「子」を宮大工の若い弟子と思えば、前の句の宮大工は熟練者。「ひよい」に対して「息荒し」が対応していておもしろいが、これも私の「頭」の考えたこと。
 「廃材」はやはり現場の一画の描写。「さんかく、しかく、ことり、くる」の「く」が小気味よい。「小鳥」が何かわからないが、具体的な名前ではなく「小鳥」が効果的だ。「小」がいきいきしている。
 「狛犬」は同じ現場。私は神社へはあまり行かない。近くにある神社にはいちおう「狛犬」はいる(ある)が、稲妻が光れば逃げ出しそうなもの。情景を思い浮かべようとすると、完全に「空想」になってしまう。空想でもいいのだけれど、私には美しすぎるように思える。「頭」で整えた感じ、整えすぎた感じといえばいいか。

 「鬱」。曼珠沙華の細い花びらのからみあい(からまってはいないかもしれないが、なんとなくからみそうである)の複雑さが「鬱」の書きにくい感じに通じる。これも、私は「頭」でつかんでしまう。
 「瘡蓋」。この句は「鬱」に似ている。「肉体の記憶」よりも「瘡蓋」という「文字」に反応してしまう。子供の頃、夏休みにはよくころんで擦り傷をつくった。それが新学期がはじまるころ、かさぶたになっている、というようなことを思い出したりする。かさぶたには「秋」が似合う。でも似合いすぎて、これはある時期の「現代詩」、とりわけ「抒情詩」がはやったころの雰囲気を感じさせる。「瘡蓋」「秋思」の組み合わせが、新しそうで、意外と古いかもしれない。

 「月光」は、なるほど、と思う。「拒む」という動詞が強くて、「ピラフ」の次にはこの句がおもしろいかなあ。獣道自体見えにくいものだが、月が出ていてもなお月を拒むということろに、獣の真剣さが浮かび上がる。いのちの強さが。私は子供時代、山の中で遊び回ったので、そうか、月光さえも拒んでいるのかと感心した。昼間でも、目で見えるというよりも歩いたときに足に感じる草や土の雰囲気で知るのが獣道である。
 「写生」ではなく「比喩」と読むのもおもしいろかもしれない。「獣道」は人間が「獣」になるためにあるく道。夜這いだね。月よ照らしてくれるな。
 そう読むと、次の「メレンゲ」は男を待っている女が見る月かも。あ、これでは既成のジェンダーにとらわれていることになるかな?
 「夜食」は「ピラフ」かな。「吾が猫が」ではなく「吾が膝に」と「吾が」がすれちがうところが、なかなかおもしろい。「吾が膝」なんていわなくても「独り」なら「吾が膝」しかない。「夜食」もそうだが、この「吾が」という一語が「独り」を浮かび上がらせておもしろい。「猫」よりも「吾が膝」の方に、私は注目した。

乗船券―金子敦句集
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ふらんす堂
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くりはらすなを『遠くの方で』

2016-12-26 10:01:19 | 詩集
くりはらすなを『遠くの方で』(国文社、2016年12月20日発行)

 くりはらすなを『遠くの方で』の「小景」に、次の断章がある。

駅から歩いて帰る途中、不意にカーブミラーが
目に入る。そこには今まで気付くことのなかっ
た路地が写っている。子供の頃よく見かけた、
道路から細く入り込んでいく道だ。こんな所が
あったことに今まで気がつかなかった。同時に
気味の悪さが襲ってくる。そのまま振り返りも
せず歩く。カーブミラーからは鏡文字の様にひ
っくり返ったままの日常がこちらを覗いていた。

 「今まで気付くことのなかった」ことを書く。それがくりはらの詩である。それは「不意に」やってくる。そのとき「同時に気味の悪さが襲ってくる」。
 どんなふうに気味が悪いか。
 「カーブミラーからは鏡文字の様にひっくり返ったままの日常がこちらを覗いていた」。「鏡文字=ひっくり返る」が気持ち悪いのか。あるいは「覗いていた(覗く)」が気持ち悪いのか。それは切り離せない。鏡とは「ものを映す」ものである。「覗く」としても、鏡を見るひとが自分を覗く。しかし、この詩ではくりはらが「覗く」の主語ではない。くりはら以外のひと(日常)がくりはらを覗いている。
 ただ、それは「事実」かどうかわからない。「気味」とは「気配」。くりはらが感じるだけかもしれない。「感じる」自分を発見したのかもしれない。
 この詩を読みながら、私は、「声」という詩を思い出していた。そこにみカーブミラーが出てくる。

あっちの山から登ってこっちの山を降りてくる
と、くねくねと曲がった林道に出た。民家がひ
とつふたつ離れたところにある。再び曲がった
ところにカーブミラーがあって誰かが立ってい
る。マイクを握って大きな声で話している。み
なさんの生活を、と声は演説をしている。近く
にはその人のものらしいライトバンが止まって
いて、その車の腹の所に政党の名前が大きく描
いてある。聴衆の姿は見えない。家は二軒しか
ないのだから、窓を閉め切ったまま家の中から
覗いているのかもしれない。

 「覗く」も出てくる。
 「見る」だけではなく、「覗かれる」をくりはらは感じるのかもしれない。「応答」と言えばいいのだろうか。反作用といえばいいのだろうか。何かをすれば、その逆のことが生まれる。
 こういう作品もある。「阿佐ヶ谷四丁目の頃」のなかの「階段」。

カーテンを少しだけ開けて外を覗くという癖が
ついていた。道路を挟んだ向かいのアパートに
は細長い鉄製の外階段が付いていて、登ったり
降りたりするたびにガタガタと音をならしてい
た。

その頃私は赤ん坊を抱えどこにも出て行くこと
が出来ずにいた。六畳二間の部屋で身を潜ませ
ていた。

向かいの階段が音を立てている。若い男女が暗
い部屋の小窓で時折見え隠れする。

 「覗く」がやはり出てくる。「覗く」という動詞がくりはらの「肉体」に染みついているので、「覗かれる」という具合に反応するのかもしれない。
 「向かいの階段が音を立てている」はなんでもない描写のようで、なかなかおもしろい。「覗く/見る」は「目」の働き。「音」聞きとるのは「耳」の働き。覗いていないときも「肉体」は「外」を感じている。「外」に向かって開かれている。「音」を「耳」が聞き取り、そのあと「目」が追いかける。そして「目」で「若い男女」が「見え隠れする」のを確かめながら、今度は「耳」で聞こえない「音」を聞こうとする。「音を覗く」のである。
 このあたりの「目」と「耳」の交錯が「覗く」の本質だとしたら……。
 演説を「覗いている」ひとは、当然演説も聞いている。聞こえている。でも、聞いているのではなく、ことばを拒否して、見ているだけかもしれない。
 カーブミラーに映った「日常」は、単に「覗いている」だけではなく、不意にカーブミラーに気づいたくりはらの「こころの声」を「聞いている」かもしれない。「聞こうとしている」かもしれない。
 ここで最初に書いた「気味悪さ」に戻ると。
 「目」が目だけではいられなくなる。「耳」が耳だけではいられなくなる。感覚が融合して、「目」で声を聞き、「耳」で姿を見る。そこから「耳」では聞こえなかった声が生まれ、「目」では見ることのできなかった姿が見える。
 くりはらの「肉体」のなかで、新しい(あるいは原始の、いのちそのものの)「肉体」が目覚める。それは「頭」ではつかみとれない「気(配)」「気味」となって動く。

 詩の形が好きなのかもしれないが、くりはらの書いていることばの運動は、世界を切って捨てる詩よりも、世界とねんごろになる「小説」のような世界の方に向いているかもしれない。詩では「見る」と「覗く」に「耳」がどれだけ深く関係してくるかが描きにくい。短いことばだと、どうしても「図式」になるよう気がする。
天窓―くりはらすなを詩集
くりはらすなを
七月堂
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テレンス・マリック監督「聖杯たちの騎士」(★)

2016-12-26 08:46:45 | 映画
監督 テレンス・マリック 出演 クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、
ナタリー・ポートマン、ブライアン・デネヒー、アントニオ・バンデラス

 私はテレンス・マリックの映画が嫌いだ。ケイト・ブランシェットとナタリー・ポートマンが出演していなかったら見に行かなかっただろう。その二人のシーンは予告編で見たのとほとんどかわらない。ナタリー・ポートマンが妊娠したと告白するシーンが目新しいくらい。その部分は、まあ、しっかりと見たが……。
 
 テレンス・マリックの映画は「映像美」が云々されるが(私の見た映画館は「映像美」を味わうのにふさわしい映画館とはいえないが)、どこか「美しい」のか、私にはわからない。
 テレンス・マリックの映像にはふたつの特徴がある。
 ひとつは、人物の「首」から上がうつらないシーンが多い。スクリーンをひとがよぎるとき、首から下だけが残される。水中のシーンでは水面に出ている「顔」は映らずに、下だけが動いている。これは最初に見たときは斬新な感じがした。しかし、「頭」がないために、視線がさまよってしまう。私はどうしても「顔」を見てしまう。「目」を探してしまう。役者の目と私の目があわないので、「人間」を見ている気がしない。「抽象的」に感じてしまう。
 「抽象的」な映像を「美しい」と感じるのは、抽象的な詩(象徴詩)を「美しい」と感じるようなものである。私は頭が悪いので、こういう「意味」のないものにはついていけない。
 もちろん、この「頭なし人間」を「肉体」そのものに焦点をあてた映像(「頭」で整理されていない「肉体」をつかみとる映像)という具合にとらえることもできるかもしれないが……。まあ、こういうのは「屁理屈」だ。人間が映っていないのに「美しい」が独立して存在するなら、それは「人間の否定」である。
 もうひとつは「目のない人間」とつながっていると思うが、画面が揺れる。水平線が水平ではないときがある。「目がない」というのは「目」が一点を見つめないということ。だから「揺れる」。私は目が悪いので、こういう「映像」を見ると、酔ってしまう。「映像美」に酔うのではなく、船酔いか何かのように「頭の中」が酔ったようになる。
 気持ちが悪い。ときどき酔いから逃れるために目をつむる。そしてそのまま眠ってしまう。(私は目をつぶれば10秒で眠れる。)大事なシーンを見逃しているかもしれないが。
 この変な映像趣味は、別なことばで言えば「カメラが演技をしすぎる」ということでもある。役者の演技を超えて、カメラがかってに演技をする。これでは「映画」にならないだろう。誰の視線かわからない映像などてくていい。観客は何よりも役者を見に来るのである。
 マノエル・ド・オリヴェイラ監督のように、カメラをしっかり固定して、役者に演技をまかせろとは言わないけれど、こんなにカメラが動き回っては、「人間の本質」というものが見えてこない。
 室内を、何を映すという目的もないまま、無意味に移動するカメラの動きなど、観客をばかにしていないか。「無(意味)」を映すことで、登場人物の「虚無感」を代弁させているだとしたら、役者をばかにしていないか。役者が「虚無感」を表現できないと思っていることにならないか。
 この「無意味」な映像に、「会話」ではなく「独白」が重なるのも悪趣味である。人間と人間がぶつかるからドラマがある。「独白」が「風景」をさまよえば、それはどうしても「ひとりよがり」になる。

 あ、やっといいたいことばが出てきた。テレンス・マリックは「ひとりよがり」の監督である。
                      (KBCシネマ1、2016年12月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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うるし山千尋『時間になりたい』

2016-12-25 12:57:30 | 詩集
うるし山千尋『時間になりたい』(ジャプラン、2016年11月25日発行)

 うるし山千尋『時間になりたい』には繰り返しが多い。

うすいなあ
と言ってみる
なめらかに
区切りのないように
ペースト状になるまで
繰り返し言ってみる
うすいなあ
きょうという日は
いつまでも
おそいなあ                       (「ウィリー・ロウ」)

 繰り返すと「うすいなあ」が「おそいなあ」に変わっていく。「なめらか」「区切りのない」「ペースト状」ということばが、その「あいだ」にある。「うすいなあ/おそいなあ」の「区切り」がなくなる。

血流のように
時間は時間を流れていく
流れていることが
時間であり
流された角度が
時間であり
時間をなぞらえるひとたちもまた
時間そのものとなって                  (「時間になりたい」)

 「時間」が繰り返され、「流れる」「流される」の区別がなくなる。「角度」という「比喩」(「なぞらえる」という動詞)は「なぞらえられる」「なぞらえる」と区別がなくなる。能動と受動が入れ替わる。
 この運動は「花と名まえの日々」と「未成年」で「日常」を深く耕す。

暮れの市役所に
お墓をみているのはあたしなのに
と言っているひとがいる
そのひとはお墓の面倒をみているのに
年金がもらえないのだ
わたしは順番を待ちながら
お墓をみているひとはそのひとなのに
と思っている
そのひとが年金を認めてもらえないと
いつまでたってもわたしの順番はこない         (「花と名まえの日々」)

 「繰り返す」とは「繰り返されるもの/こと」になることか。「繰り返す」ことは「思う」ことであり、「思う」ことは「思われるもの/こと」になることだ。「思う/思われる」ことが「重なり」、それが「わたし」になる。この詩では「わたしの順番」と書かれているが。
 「順番」を「時間」と言い換えると「時間」のなかで「そのひと」と「わたし」が「区切りなく」つながり、つながることでまた「そのひと」と「わたし」が分かれていくことがわかる。「時間」のなかで「ひとつ」になって、「わたし」が新しく「生み出される/生まれる」と言い換えることができる。

そのひとが年金を認めてもらえないと
いつまでたってもわたしの順番はこない
そのひとのみているお墓がきれいであってほしい
そう願っている
けれど仕事にもやはり順番というものはあって
係のひとはことばを整えないと
それを認めるわけにはいかないのだ

 詩は、こんなふうにつづいていって、「わたしの順番」は「仕事の順番」にのみこまれていく。「順番」が「わたし」と「仕事」の区別をなくし、「きれい」と「整える」の区別をなくす。同時に、そこに「そのひと」「わたし」とは別の「係のひと」を生み出していく。いや、これは「係のひと」がそういう区別を生み出していくということでもある。「区別」を生み出した途端に、「区別」が消えていくというか、どこかで「区別」をつなげるものが生まれてくると言えばいいのか。
 「ひとり」がずれながら重なり、離れ、増えていく。それが「日常の世界」という感じがしてくる。
 市役所で年金手続きをしている、前の人の処理がすんだら自分の番になるというのを待っているだけなのだが……。
 「きれい」「順番」は、またこんなふうに言い換えられていく。

いつかくる順番の日のために
お墓にはきれいな花を供えることにして
きれいな花を供えるときは
前方に飾るものをすこし短めに
左右は対称にしないほうが
立体的でよりうつくしくなるよ

 「より」が生まれてくる。「より」は比較。何かがあって、それと「区切る」ことばが「より」なのだが、それは「区切る」と同時に「接続」でもある。
 「切断と接続」
 うるし山はことばを繰り返し、相互に入れ換えながら切断と接続を広げる。そこに「より」ということばが隠れている。「より」によって、新しいものを生み出しながら、生み出すことで切断と接続を整えている。
 「より」のなかに、うるし山の「思想/肉体」がある。「より」が、うるし山のキーワードである。
 「未成年」には「より」ということばは出てこないのだが、出てこないからこそ、私はそれを「キーワード」と呼ぶ。書かずにすむときは書かれないのがキーワード。書かないとことばが動かないときにだけ、しかたなにし出てくることば。それくらい「肉体」にしみつき、「無意識」になってしまっていることばが「キーワード」である。
 と書いても、それは「証明」(論理的説明)にならないか……。

おなじことを二度言うようになった
二度目はわざと言っているのに
わざとだということに誰も気づかない
だから「いま、おなじことを二度言ったよ」
と教えられる
わたしはそのことをよく知っているし
おなじことを二度言うときは
二度目ははじめからおなじことばを
唇に貼りつけている

 「わたしはそのことをよく知っている」の「よく」は、そのことを教えてくれたひと「より」わたしの方が知っている、ということ。「よく」は「比較」であり、そこには「より」が隠れている。

音もたてずやわらかいものを選んで箸を動かしている
すこし離れた席から
そのひとの顔をじっとみている

 「すこし離れた席から」の「から」は「より」をつかって「すこし離れた席より」と言いなおすこともできる。(文語っぽくなるが。)これは「おなじ(こと/もの)」からの引き離し、「切断」。そこに「すこし」という「比較」から生まれたことばが「接続」されている。「すこし」と「から」が「より」を一つにしている。
 先に見た

立体的でよりうつくしくなるよ

 は

立体的で「すこし」うつくしくなるよ

 と言い換えることができる、と言いなおせば、「すこし」と「から」に「より」が隠れているということが、さらにわかりやすくなるかもしれない。
 この詩はさらにつづいている。

テーブルの上にはテンプレートのような食事が載っていて
窓からは秋の光がすこし眩しいくらいだ

 「窓から」は「窓より」射してくる、である。そのあとの「すこし」は何と比較して「すこし」なのかわかりにくい。うるし山の「肉体」が覚えているもの、無意識の光の感覚と比較してということだろう。うるし山が、きょうの光はこれくらいと「肉体」が思い出そうとしているものよりも「すこし」眩しい。
 論理的に説明しにくいものが、ことばの奥でつながって動いている。その説明のしにくさが「肉体」を刺戟してくる。言い換えると、あ、ここにうるし山がたしかにいる、という「手触り/手応え(?)」のような感じで迫ってくる。
 こういうことを、私は、私のことばの肉体はうるし山のことばの肉体とセックスをしている、というのだが……。
 ことばのなかで「快感」が生まれ、動いていく。あ、もっと読みたい。もっと新しい「快感」がほしい、という気持ちになる。

音もたてずやわらかいものばかり選んで箸を動かしているね
もしもわたしがそのひとにそう話しかけたら
そのひとはもうやわらかいものばかり選んで食べられないし
わたしの唇にはおなじことばが貼りついて
はじめての衝動に戻れない
窓からは秋の光がすこし眩しくて
冬がくるまえに
唇の乾きを知っている

 最後の「唇の乾きを知っている」に「より」が隠れていると私の「直感の意見」は言う。それを説明するのは複雑だが……。
 「知る」という「動詞」は「事実」と「ことば/認識」から成り立っている。「事実/事象」を「ことば」にして言うことができるとき「知っている」と言える。「事実」を「ことば」にすることが「知る」ということ。これを「事実」から「ことば」を引き出す。事実「より」ことばを引き出し、それを確立すると言いなおせば、ここに「より」が隠れているという説明になるかもしれない。
 
 巻頭の「紫陽花」もおもしろい作品だが、透明すぎる。花と名まえの日々」「未成年」の不透明さ/わかりにくさの方が、私は好きだ。
猫を拾えば―詩集
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ジャプラン
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糸井茂莉「モランディ、モルテ」、鈴木東海子「月夜の戸口」

2016-12-24 08:42:40 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「モランディ、モルテ」、鈴木東海子「月夜の戸口」(「櫻尺」41、2016年10月20日発行)

 糸井茂莉「モランディ、モルテ」はモランディ展を見て動いたことば。

滅びはじめの人の放つなまの臭いの垣根を
頭ひとつぶん浮かせてかきわけてゆく

その名に死をふくんだ

瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、

MORANDI MORTE

絵をみないで 気配が切りとった枠のなかに
魅入っている
というより 踊っている
人の動線は絵よりもみだらで みだれて

 「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、」という行の「空白」が気になった。瓶はモランディの描いている瓶のことだろう。缶も描かれた缶のことだろう。
 では、空白は?
 私はモランディはどこで見たか、記憶にない。見ていないかもしれない。フェリーニの「甘い生活」でモランディを知ったことだけは覚えている。
 実物は記憶にないが画集で見たことはある。
 「記憶」からいうと、私は瓶と瓶との「間」に「空白」があるとは感じたことがない。瓶が、あるいは描かれている対象がつかみとった「空間」そのものが描かれているような気がした。瓶(あるいは、他の対象/静物)が「支配できる」だけの空間が描かれている。余分なものが描かれていないというか、「支配」が及ばないものは絵のなかに入ってきていない、という印象。瓶なら瓶の「存在」が絵のなかで完結していると言えばいいのだろうか。「空白」というよりも完結した「充実」が、そこにある。(これは画集の記憶であって、ほんとうにそうであるかどうか、わからない。そして、たぶんこういう印象には映画の印象も反映している。)
 あえて言えば、

気配が切りとった枠のなかに

 糸井が書いているこの感じが、私のモランディの印象に近い。「気配」を「瓶(対象/静物)」読み替えると、私の記憶のモランディが蘇る。
 瓶が切り取った「空間」の充実。静物が切り取った「空気」。それが「絵」が絵になっている。
 そう思った瞬間、

瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、

 「一字アキ(空白)」は、一枚の絵の中の「空白」ではなく、「絵」と「絵」のあいだの「空白/空間」かもしれない。絵の一枚一枚が「切り取った空間/気配」の周辺に、絵になれなかった「空白/空間」が存在する。その「絵になれなかった空間」をひとは動いていく。
 みだらに、みだれて。
 私はモランディの絵を「みだら」と感じたことはないので、

人の動線は絵よりもみだらで みだれて

 ということばには違和感があるのだが、「気配が切りとった枠のなかに」が、何か強く響いてきて、「私の読み方は違っているぞ」と警告する。

 私は「正しい読み方」よりも「誤読」が好きなので、この「警告」は無視してもいいのだが。
 非常に気になる。
 ふいに「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、」は「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、 」と、行末にもうひとつ見えない「空白(一字アキ)」を隠しており、その見えない「空白」で糸井は「みだら」に「みだれて」いる。それが詩を生み出しているのかもしれないと感じた。
 「死」は「いのちの空白」である。

 「滅びはじめの人の放つなまの臭い」「その名に死をふくんだ」という最初に書かれていることばから、「空間/空白」を問い直さなければならないのかもしれない。
 「滅び(る)」のなかには「死」がある。まだ死んでいないから「なま」の臭いが、「滅びる」のなかにある。「生」「滅び始める」「死」という動きは、どこで連続し、どこで切断しているか。その「区別」のつかない領域(糸井は書いているが、行末の一字アキのように読者には文字として見えない。その見えないところ)が、糸井の見ている「死=空白/空間」かもしれない。
 私はモランディの絵から「死」を感じたことはないが、あまりに完璧な「空間」のとらえ方、「空間」を完結させるやり方は「生」というよりも「死」と呼ぶ方がふさわしいのかもしれない。「生」は未完成ゆえの「なまなましさ」がある。「死」はそれが「目的」を達成していないものであっても、「完結」しているという清潔さがある。「死」は「なまなましくない」。
 「なまなましさ」の拒否、完結した清潔さは、私の印象ではモランディにつながる。
 糸井は、完結した清潔さに死を感じ、そこからモランディを見つめなおしているのかもしれない。
 


 鈴木東海子「月夜の戸口」。

閉めたカーテンの揺れる序曲の会話が耳元に
漂う月夜である。眠りのうす眠りの窓からう
すい光がもれているのを眠るまで見ている習
いが見る動作をゆすっている。

 色の塗り重ねのように、同じことば(眠り/眠る、うすい、揺れる/ゆする、見る)が重ねられている。重ねることで、前のことばを「死」として取り扱っているのか、それとも「滅び始めた/まだ生き残っているいのち」を引き継ぐために、重なっているのか。
 むずかしい。
 かさなりは「空白」を消すのか。重なるときの微妙な差異(ずれ)が識別できない「空白」を生み出すのか。
 むずかしい。
 たぶん、「結論」は出してはいけないのだろう。わからないまま、そこに書かれていることを相対化/固定化するのではなく、揺れることに身をまかせてることが必要なのだろう。
 ここから糸井の作品、さらにモランディへと引き換えてみる、ということもしてみるとおもしろいかもしれない。
 でも、私はモランディを見たとは言えないからなあ……。

夢の水槽―詩集 (1985年)
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書肆山田
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「生前退位」の行方

2016-12-23 12:12:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「生前退位」の行方
               自民党憲法改正草案を読む/番外58(情報の読み方)

 2016年12月23日読売新聞朝刊(西部版・14版)に御厨貴のインタビュー(前紹介)が載っている。天皇の「生前退位有識者会議」の座長代理である。見出しは、

特例法で実質制度化/「退位」有識者会議 御厨氏が見解

 見出しに相当する記事部分には、こう書いてある。

御厨氏は(略)皇室典範を改正して退位を高級制度化するのは困難との認識を示したうえで、「いったん特例法で退位が実現すれば、同じような事態が起きても特例法で対応することになる。自動的に先例化する」と語った。特例法であっても退位は事実上制度化するとの見解を示したものだ。

 これでは「特例法」が憲法や皇室典範より上位にならないか。また先に「一代限り」と言っていたことと矛盾しないか。
 制度をつくるのではなく「実質」制度化を目指す。これでは、「特例法」をつくったひとの思いのままである。
 「同じような事態」と御厨は「あいまい」に言っている。
 「同じような事態」とはどういうことか。天皇が高齢化し、退位の意向をビデオをとおして表明したときか。
 私は今回の「生前退位」騒動は、安倍が天皇を退位させるために仕組んだものだと見ている。安倍は天皇と国民の接触(国民が天皇に寄せる信頼)が気に食わない。憲法改正の動きの障害になると見ている。何としても「退位」させたい。「信頼」を集めない「地位(肩書)」にしてしまいたい、と安倍は思っている。
 安倍が「特例法」を狙っているのは、恒久的な制度ができれば、安倍が口をはさむ余地がなくなる。次の天皇がどう動くか、確定していない。天皇の動きを見ながら「特例法」を適用する。新たに「特例法」をつくる。そうして、自分に都合のいい天皇を誕生させる。その「方便」につかわれてしまう。
 さらに4妄想」すれば、いまの皇太子には男子のこどもがいない。皇太子が天皇になれば「新皇太子」はいなくなる。皇位継承をスムーズにするために、秋篠宮をはやく天皇にしてしまえ、ということも起きる。そのときの「新皇太子」が年齢的に天皇にふさわしくないなら、「摂政」を設置すればいい、という具合に……。安倍は、安倍が簡単に「あやつることができる」天皇(摂政/システム)を誕生させようとしている。

「いったん特例法で退位が実現すれば、同じような事態が起きても特例法で対応することになる。自動的に先例化する」

 これはさまざまに読み替えることができる。

天皇の存在が気に食わないという理由で、いったん政権が圧力をかけて天皇を退位させるということが実現すれば、同じような事態(天皇が気に食わない)が起きても政権は特例法で対応することになる(圧力をかけて退位させることになる)。だれを天皇をするかということは、政権の恣意的な判断にゆだねられる。政権が好き放題にできる。自動的に先例化する。

 私は、どうしても、そう読んでしまう。安倍の「本音」丸出しである。
 ほんとうに「自動的に先例化」することを目的とするなら、憲法改正、皇室典範改正が最善だろう。「法が定めるままに自動的に」が最善である。「自動的」というのは恣意的な操作が入らない制度のこと。それを目指さないのは、「恣意的操作」をもぐりこませようとする意図があるからである。

 天皇誕生日なので、同じ紙面に

天皇陛下、議論「深く感謝」きょう83歳

 という見出しで、天皇のことが書いてある。そこに、以下の注目すべき一文がある。8月の「お言葉」を巡って、こう書いている。

お言葉が退位規定がない現行の皇室制度の改正につながり、憲法が禁じた政治的関与にあたるのではないかという議論もあるが、「内閣とも相談しながら表明しました」と、憲法上の立場に配慮した点を強調された。

 「内閣と相談しながら」というのは、天皇の「お言葉」の文言は天皇が独断で決めていないということである。外交の「共同声明」のように天皇側と内閣(安倍)側が、このことばの「定義」はどうなるか、ということを突き合わせながら「妥協点」として具体化したものであるということを示している。
 その結果、表現にとても不自然なところがあった。
 これは何度も書いたが「思われます」というような形で言語化されていた。(「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」という具合につかわれている。)「思います」ではなく「思われます」。そのとき誰が「思う」のか。天皇は、自分で「思う」ときは「思います」と書いている。「縮小すればいいじゃないか」と「思う」ひとがいて、それに対する反論として、それは「無理があろうと思われます」と言っているのである。天皇が「思います」とは直接言っていないのだ。
 83歳の「会見」全文には「思われます」という主語をぼかした妙な表現はない。
 「うれしく感じました」「うれしく思っています」「心を打たれました」「感謝しています」と、すっきりした言い方をしている。主語が天皇であることが、すぐにわかる。
 「思われました」にいくらか似ている表現は、フィリピンを訪問したときの感想のなかにあるにはある。

当時のマカパガル大統領が笑顔で迎えてくださったことが、懐かしく思い出されました。

 「思い出しました」ではないのは、ガマパガル大統領夫妻への「敬意」が自然とにじみ出てきたためにそうなったのだろう。ガマパガル大統領夫妻を「主役(意識上の主語)」にして、彼らが天皇に働きかけている(思い出させている)のである。
 こういう「尊敬する対象」を「主役」にして、天皇自身が「脇」へ引いて「敬意」をあらわすということばづかいは、昨年の天皇誕生日の会見全文のなかにもある。ノーベル賞受賞者に触れた部分。

11年前、スーパーカミオカンデを訪問したことが思い起こされました。

 科学研究の地道な努力に対する「敬意」が自然に「思い起こす」という働きかけを天皇にしたのである。
 「思い起こされる」「思われる」というとき、そこには天皇以外の「ひと」や「事実」がある。

 「高齢化」の問題に対しては、即位二十年の次のことばを思い起こす必要がある。(現在とは年齢が違うが、考え方の基本として抑えておく必要がある。)天皇は、「高齢化・少子化」問題に触れて、こう言っている。

高齢化が常に「問題」としてのみ取り扱われることは少し残念に思います。本来日本では還暦、古希など、その年ごとにこれを祝い、(略)90歳、 100歳と生きていらした方々を皆して寿ぐ気持ちも失いたくないと思います。

 高齢者を「祝う」という気持ちの大切さ。天皇は、それをことばにしていた。
 ここから逆に、今の政権は少しも天皇の「高齢化」を祝っていないではないか、といういらだち、悲鳴が聞こえる。天皇は直接ことばにしていないけれど、私には、そう聞こえる。

 (私は「天皇制」を支持しない。出生がその人の「権能/価値」を決定するというのは民主主義に反している。廃止すべきである、と思っている。私がなぜ天皇のことばから怒りや悲鳴を感じるかといえば、天皇だけへの攻撃ではなく、憲法、民主主義への攻撃と感じるからである。安倍・麻生が組んではじめた「知らせずに実行する/隠したまま実行する」という作戦があらゆるところで進んでいる。7月の参院選、籾井NHKを使った報道しない作戦は自民党に大賞をもたらした。その直後に表面化した天皇の生前退位問題も、「知らせず実行する作戦」のひとつ。「静かな環境」と安倍は何度か言っているが「静かな」とは「議論しない」という作戦である。
 民主主義の否定である。
 安倍は天皇を退かせたがっている。安倍が押しつけた退位ではないと偽装するために、籾井NHKを使ってスクープというかたちで問題を表面化させ、「有識者会議」という組織を利用している。安倍の結論ではない、「有識者会議」の結論であると装っている。今回の御厨の発言は、安倍の意図を隠そうとしなければならないはずなのに、とんとん拍子に進んでいるために、思わず「漏らしてしまった」ということかもしれない。)


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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千人のオフィーリア(メモ28)

2016-12-23 00:55:02 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ28)

自称オフィーリアは早く来すぎた。
独断的告白をしたいのに噂好きの聴衆はおろか
くそったれハムレットもいない。
               こういうとき、
日に焼かれていく花の色が何を意味するか
わからないものは誰もいない
くそったれ、
      純潔ばかり心配するくそ親父のせいだ。

教会の鐘の音はひとつ、ふたつ、みっつ、いつつ、ななつ、じゅうさん、
それぞれが違う音程で自称オフィーリアの希望を無視して答えた
--全部、無効だ。
  高貴が悲劇の始まりだ。
自称オフィーリアの耳には、まるで教科書に書かれた絶対定理に聞こえた。
スカートの下の腿の白さを赤い血が流れ、
尖塔の影は歩道を二分割して伸びていく。
自称オフィーリアは葉の裏側の細かいささくれを堅くして枯れていく
春の花、夏の花、

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