詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井ひさ子「捨てる 捨てない」

2007-07-31 14:36:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 中井ひさ子「捨てる 捨てない」(「鰐組」223 、2007年08月01日発行)
 身の回りにはいろいろなものが集まってくる。すべてを残しておくわけには行かない。どうします? 中井は、そのときのこころの動きを書いている。

そろそろ身辺をきれいにしようと
うっすら積もっているものを
そっとはらい

捨てる 捨てない 捨てられない

 「捨てられない」がいいなあ。単に「捨てない」ではない。捨ててもいいんだけれど、未練が残る。「捨てられない」。
 なぜ捨てられないか。その理由は書いていない。これもいいなあ。
 そのひとつひとつに理由はたしかにあるのだけれど、こういう理由というのは書けばきりがないし、書かなくても読者に伝わる。誰もが、「捨てたい、でも捨てられない」というこころの動きは経験したことがあるからだ。そういう経験のないひとには、あれこれ説明してもわからないし、経験をしたことがある人には「捨てられない」ということばだけで十分にこころが通じる。
 こういう簡潔さが、私は好きだ。
 こうしたすばやいこころの動き。説明がいらないこころの悲しみはもう一度形を変えて出てくる。

捨てられない やるせなさ
ゆらり ゆらり
あてない想いも立ち上がってきて
からだの原っぱに 積もるもの

座りなおして
捨てる 捨てない 捨てましょう

 「捨てましょう」。この「……ましょう」は中井が中井自身に語りかけることば。声に出すか出さないかは別にして、こころにしっかり言い聞かせることばだ。ああ、こんなふうにして、人間は動いてゆくんだなあ。

 何気ないことばだけれど、そこにこころがあるとき、そこに「詩」がある。「詩」は人間が動いた瞬間に立ち上がってくるものだ。



 「鰐組」に読者からの感想が掲載されている。私は前号の平田好輝「先生!」について感想を書いた。柳田教授とトイレでばったり出会った。先生はハカマを捲くり上げてオチンチンを取り出して小便をした、という詩である。私は、平田はずーっとこのシーンを思いだすんだろうなあ、おもしろいなあ、人間的でいいなあ、というような感想を書いた。その感想にもからませて、村嶋正浩が感想を書いている。

私にとってふと考え込んでしまったのは、言い辛いことですが、まずこの「オチンチン」がどのような代物かわからないことです。萎びて役立たずの代物なのか、生々しくも立派なものなのか、それによってこの作品のおもしろさは変わってきます。
 勿論、それを察するのが想像力なのかもしれませんが、それがこの作品には具体的に示されていません。
 それは言わずもがなのことで、もしかして、この柳田教授を知っている方にとっては周知の事実であり、それをふくめて面白いと、たとえば谷内修三さんは評価されているのかもしれません。

 びっくりした。私は平田も知らなければ柳田教授も知らない。まして柳田教授の「オチンチン」がどんなものか想像もしなかった。
 私がおもしろいと思ったのは、誰でも小便をするということ。そしてそのためにはオチンチンを出すということ。オチンチンを出すのに不便なかっこうをしていれば、それなりに無様(?)なかっこうをするということ。その滑稽さのなかに人間性がある。それを滑稽と思い、忘れることができないという平田の思い出に人間性がある、と感じた。

 平田が見てしまったのは教授の「オチンチン」というよりは、教授であっても小便をするときはオチンチンをひっぱりだすという愛しく、こっけいな人間の姿、裸の姿そのものなのではないだろうか。

 「オチンチン」について村嶋が書いていることは、私にはちょっとわかりかねる部分がある。人の性器の大きさ(状態)が気になるというのは誰にでもあるこころの動きだと思うけれど、そういうとき「オチンチン」ということばをつかうだろうか。ちょっと違う気がする。
 そして、「オチンチン」ではなく、チンポでもペニスでも男根、性器でもいいのだが、そういうものを実際につかうとなると、それが他人と比べて大きいとか小さいとか持続力が長いとか短いとかというのは、そんなに気になるものなのか。性交のあと、「ちっちゃいね」と言われながら愛撫されるとき、その声に愛が感じられれば、その「ちっちゃいね」さえ、とてもうれしい。愛が感じられなければ「すっごく大きいのね」と言われてもしらじらしいだけだ。性交は愛を確かめるためのものだから、人の性器と自分の性器を比べても何の役にも立たない。
 村嶋は「私は『オチンチン』が社会的優位にたつ時代を不幸にして理解できる最後の世代に属している」と書いているが、え、そんな時代ってあったのか? というのが私の感想だ。
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大谷良太『ひなたやみ』

2007-07-30 08:24:14 | 詩集
 大谷良太『ひなたやみ』(ふらんす堂、2007年07月11日発行)
 無為の時間を大谷は描いている。たとえば「台風」。

台風が近づいているらしく、
雨が降ったり止んだりした
ベランダの洗濯紐のしなる音がガラス越しに聴こえた
朝から何も食べず、
じっとしている内に夕暮れになった

明かりもつけないでいるうちに夜になった

 そして、この無為を特徴づけるのが「ベランダの洗濯紐のしなる音がガラス越しに聴こえた」の「ガラス越し」である。何かを直接体験するというよりは、何かを媒介にしている。洗濯紐のしなる音を直接聞くのではなく、ガラス窓という「へだたり」を置いて聞く。このとき見だけではなく、目も強く意識されている。肉体が、聴覚と視覚がとけあっている。感覚を融合させるための無為--そう呼ぶことができるかもしれない。
 似た描写は「朝」にもある。

私は網戸にして
しばらく風の音を聴いた
(こんな軒下にも吹く風

 「窓を開けて」ではなく、わざわざ「網戸にして」。夏だから虫が入って来ないように「網戸にして」なのかもしれないが、わざわざそうした行(ことば)を挿入するところに、何か対象と直接的に触れたくない、間接的に触れることで、肉体になじませたいというような欲求めいた本能を感じる。
 肉体と対象をさえぎる何か(ガラス窓、網戸)がない場合にも、不思議な間接性が導入される。「何をしていても」。

川魚屋の店先に
水が流れていて
それが側溝に吸われていく具合を見ていた

 「それが」。これは「強調」とも受けとれるけれど、大谷の詩全体をとおしてみてくると、強調というよりは、「間」、「一呼吸」のための「言い直し」のように感じられる。「流れる水」を直接見るのではない。「流れる水」というものをいったん意識して、そのあとで「吸われていく具合」を見る。この「具合」ということばも大谷の思想の微妙さを語っている。「吸われていく」を直接見るのではない。あくまで「具合」を見るのだ。
 対象と自己(大谷)のあいだにある距離、「間」。大谷の意識は常に「間」のなかでゆらいでいる。

 これは人間を描くときも同じである。人間との関係を、大谷は「間」とは感じさせないような「間」で描いている。
 「午後」。社員食堂の昼。

食器返却口でおばさんが
ちゃわんを洗っている
ごちそうさま、と挨拶をして
階段を屋上に昇った

 「ごちそうさま、と挨拶をして」が美しい。行為として美しいというのはもちろんだが、おばさんとの距離の具合が美しいのだ。常に人と人が接するときの「間」がそこに存在する。「ごちそうさま」という「間」をとおして、大谷は食堂のおばさんと向き合っている。
 もうひとつ、「路地」。狭い路地が入り組んだ街での人と人のすれ違い。

出口に
ひょこっと頭が現われて
待っていると
おじさんがやって来る
すいませんね、と挨拶を交わしたりなんかして
あるいは私が通っていると
あちらで待っているということもある

 これは食堂での「ごちそうさま」と同じように暮らしのなかで培われてきた礼儀といえばそれまでなのだが、現代ではそういう「礼儀」という「間」が失われつつあるだけに、そういう「間」を大切にし、それをことばとして意識し、書き記すところに大谷の「間」を重視する思想があらわれている。
 この「間」から、冒頭の2篇、「うっとうしかった」と「泣いている」(ともに「日記」の別なところで書いた)を読むと、大谷の精神が何に傷つくかがよくわかる。大谷の感受性がよくわかる。「間」の越境に大谷は震えるのである。

 「間」の揺らぎのなかで、ひっそりと自己を守ろうとしている繊細な詩人がここにいる。


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小柳玲子「月夜の仕事」

2007-07-29 12:30:46 | 詩(雑誌・同人誌)

 小柳玲子「月夜の仕事」(「葡萄」54、2007年07月発行)
 小柳は父の死を描いている。死は不可解なものである。その不可解なものを不可解なまま描いている。

「月夜の戸締りは これはまた難しい」博士咳き込む 鍵束を観客に見せる
「あれたちはどんな隙間からも入ってくる
 鍵穴といえども油断はできん」
舞台の右手に扉が出てくる 若かった父の部屋だ
「しずかに!」父の字で貼り紙がしてある 化学式を解いているのだ
差し込み式の鍵穴からうすい明かりがもれている
「あれたちは天窓から」博士が言う 博士のような父が言う
博士は月夜に殺されるのだ 父は月夜に
客席は一面のサンマでざわめき

私は『月夜の仕事』という本を書いたのだった
三十年前 とりとめもない月が昇ってくる表紙絵だった
ビーカーを高く掲げた父が言う
「ごらん 月の光がこんなに溜まっている」
そこで幕が下りる物語だった

 月夜は美しい。人間の死を考慮しない。その美しい月と、父の死という悲しみ。それをどうやって折り合いをつけるか。
 「ごらん 月の光がこんなに溜まっている」。たぶん、実際に父が小柳にそんなふうにして語ってくれたのだろう。そういう体験が、ことばとものとの不思議なあり方、実際は違うのにことばでは出現してしまう世界--ありえないものをあるように出現させてしまうことばの力を、小柳の魂に吹き込んだのかもしれない。小柳が父から学んだものはいろいろあるだろうが、「化学」ではなく「文学」--ことばの力で世界を新しく出現させるとうい方法、ことばのなかに美しい世界を定着させる「ことば・化学」というものを学んだのだろう。ことばとことばがぶつかりあい、今までなかった世界を出現させる「ことば・化学」というものを、小柳は学んだのだろう。
 そして、

私は『月夜の仕事』という本を書いたのだった

 「書く」ということを「仕事」にしたのだ。
 ことば、ことば、ことば。ありふれたことばも、出会い方次第で、不思議な化学反応を起こす。不可解で、美しい反応をおこし、不可解のまま美しい結晶になる。
 「書く」という行為がなければ、小柳は父の死を受け入れることがむずかしかったかもしれない。「書く」という行為が小柳を支えている。意識的にか、無意識にかわからないが、人間は家族の誰かから何かを美しい形で引き継ぐものなのだろう。

 「ごらん、お父さんへの思い出がこんなに溜まっている」とことばを変えて、この詩をかかげたいような気持ちになる。小柳のお父さんに教えてやりたい気持ちになる。小柳のことも知らないし、もちろん小柳のお父さんも知らないのだが、そんなふうに語りかけることで、ちょっと幸せ(人を愛する喜び)をわけてもらった気持ちになった。

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鈴木正樹「同じ」

2007-07-28 14:57:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴木正樹「同じ」(「葡萄」54、2007年07月発行)
 娘が結婚したあとの父親の家の風景。娘の写真や少女の人形が増えている。尋ねてきた妹が「父親に同じ」と鈴木に言う。その妹が結婚したあと、父は少女の人形を飾っていた、というのである。

それから何年も経ち
僕が娘を結婚させる年になり
式が住んで 一ヶ月
妹が真顔で
「寂しいの?」と 聞く
そんなことは無い そう答え
そう思うのだが

 「そんなことは無い そう答え/そう思うのだが」の2行が美しい。「そう思うのだが」の断定を避けた語尾が、鈴木自身のこころを探している。鈴木自身の気づかないこころを探している。自分のこころだからといって、自分に理解できているわけではないのである。
 最終連もいい。

妹は
「同じ」と つぶやいて
笑いながら 部屋を見回している

 妹は鈴木のこころを知ることで、父のこころを確認している。結婚して父親のもとを離れたとき、父は寂しいこころでいた。それくらい自分を愛していた--そう知ることは、喜びなのである。鈴木をとおして、妹は自分の喜びを再発見し、その再発見のなかで父と出会っている。
 そうした家族の愛というものを感じるからこそ、鈴木は「そんなことは無い そう答え/そう思うのだが」と、半分、妹の指摘に対してこころを開いたのだともいえる。

 家族というものを静かに描いていて、軽いユーモアと悲しみ(これは「愛しい」に通じる)が漂い、気持ちがいい作品だ。

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豊原清明「金色の朝と夜」

2007-07-27 12:42:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「金色の朝と夜」(「白黒目」6、2007年07月01日発行)
 きょうもまた豊原の詩を繰り返し読んだ。「金路胃の朝と夜」。その書き出し。

みこしの音がきこえる
僕の万年布団にも。
僕は直角に立ち上がり
窓を開けて、「ええなあ、子供は。」

 私はこういうことばづかいをしない。「みこしの音がきこえる/僕の万年床にも。」となら書くかもしれない。「僕は垂直に立ち上がり」となら書くかもしれない。「万年布団」ではなく「万年床」、「直角」ではなく「垂直」。私は無意識の内に、日常的につかわれることばにひきずられてしまう。ところが豊原は、そういう部分で踏みとどまる。豊原自身のことばで言い直す。
 こうした言い直しがあるから「ええなあ、子供は。」というつぶやきが、普通の「子供」への感嘆とは違った形になっても驚かない。「無邪気で、いいなあ」「純粋で、いいなあ」という感慨を、次の行に呼びよせなくても、それは当然なことのように感じられる。豊原独自の感情が、すっと立ち上がってくる。

みこしの音がきこえる
僕の万年布団にも。
僕は直角に立ち上がり
窓を開けて、「ええなあ、子供は。」
幼児たちの頼りなげな佇まい。

 「幼児たちの頼りなげな佇まい。」この1行は、「万年床」や「垂直に立ち上がる」という常套句のとは無縁の、深い深いところからふいに立ち上ってきた1行である。肉体と感情がそのまま無垢に輝いている。無垢ゆえの不思議ないのちが輝いている。
 詩はつづく。

ワッショイ、ワッショイ
 僕は直ぐ、窓を閉めタバコを吸った 五本ほど吸ってうがいしていると
僕の心の中の幼児が ワ…ショイ、ワ…ショイ、と
囁き始めた。

 豊原はもちろん「幼児」ではない。タバコを吸い、タバコを吸ったあとはうがいをする大人である。そういう肉体をもっているのだが、幼児の無垢ないのちの輝きに触れたために、こころは幼児と一体になってしまうのである。
 豊原が不思議なのは、この一体感を一体感のままずーっと維持し、そのなかに没入するということがない。豊原自身の「違和」を「状況」(場)として描き出す。

僕はみこしを追いかけていた。
みんな容器で。にこにこしていて。
僕というオッサンに周りのヒトからの
危険な視線を感じた。
幼児が言った
「なーに?何か用?なーに」
(別に…用はナイ。)
僕は気力を失って、万年布団に入って、

 ふいに、悲しみが押し寄せてくる。
 いのちの無垢に触れえたことの悲しみが。その悲しみは「愛(かな)しい」がそのまま「いとおしい」「うれしい」という一体感になりえないという「哀しみ」である。

 豊原の詩は「愛」ということばが「愛しい」という具合につかわれる、「かなしい」ということばとなって、「哀しい」「悲しい」につながってゆくことを教えてくれる。
 肉体のどこかに、「愛」が「かなしい」ものでありながら「哀しい」(悲しい)ものへと変わる「場」があることを教えてくれる。

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豊原清明「小学校の恋」

2007-07-26 12:46:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「小学校の恋」(「白黒目」6、2007年07月01日発行)
 小学生の初恋の相手は学校の先生と決まっているわけではないが、まわりの児童とひとりだけ違っているのでどうしても意識が先生にいってしまう、ということがあるかもしれない。それが「初恋」といえば「初恋」かもしれない。--よく思い出せないいが、豊原のことばを読みは出すと、そのよく思い出せないということが、なんだか悔しくなる。豊原はいつでもリアルに思い出せるのである。過去が現在を突き破るように噴出してきて、今でも、過去でもない時間、「永遠」という時間をつくりあげる。

児童というひとが
いるのだろうか
唯、彼は苛められることもなく
傷だらけになって、
体育館にもたれていた
女教師の顔を思い浮かべて
ぐずるっと、泣くの。
白い世界に入って、
彼は膝をかかえ
くらっと頭を垂れる。
ああ、ああ、ああああああ!
ふざけた男がやってきて、
チンチン電車に乗っている。
昔は何処かに消えてゆく。
白い詩を思い浮かべながら、
彼は死から生へ、逆流を繰り返し、
母親がやってきて連れて帰って
女教師はホッとした。

 豊原のことばの不思議さは「私」という存在に拘泥しないことかもしれない。「私」のかわりに、「状況」に忠実である。ある状況のなかで、「私」はいつでも「私」を中心にして考えているわけではない。あ、あの人は、今、こんなふうに考えている、感じている--ということをふくめて「状況」である。そして、豊原は、そういうときに「私はあのひとがこう感じている、と思う」とは書かずに、その人になってしまって「状況」に加わる。
 「詩」というよりも、「劇」なのである。
 以前、他の雑誌で清原が映画のシナリオを書いたのを読み、非常に感心した。傑作だと思った。そこでは登場人物がそれぞれ過去を持っていて、その過去が「状況」のなかへ噴出してくる。そして動いていく。それと同じことが「詩」でも行なわれている。
 小学校の恋を思い浮かべる豊原がいる。恋を思い浮かべた瞬間から、児童が生きてくる。児童が豊原の思いを裏切るように、あるいは豊原の思っていることを超越して、児童のこころの真実の世界へ入っていく。そのとき「児童」は「児童」という「枠」を超え、ひとりの人間になっている。「こころ」になっている。
 「ぐずるっと、泣くの。」という描写もすばらしいが、その直後の

白い世界に入って、
彼は膝をかかえ
くらっと頭を垂れる。

が、とてもおもしろい。「白い世界」の「白い」は「児童」にしかわからない色である。「彼は」と書いているのは、その「児童」を豊原が外から見ている。どの行も、こんなふうに対象と豊原が融合している。その融合が「超越」であり、「永遠」の入口である。
 いったん、「永遠」の入口まで来てしまえば、あとは、ただ加速し、「永遠」を突っ走る。

死から生へ、逆流を繰り返し、

 ふいにあらわれる「生硬なことば」。世界がショートしたような感じ。これもまた豊原の詩を活気づかせている。豊原のことばは「尺度」が一定していない。そのかわりに「ショート」が一定している。奇妙な言い方しかできないが(私自身、きちんと把握できていないから奇妙なことばになってしまうのだが)、その「ショート」のタイミングがとても美しい。
 「ぐずるっと、泣くの。」もある意味では「ショート」だし、「ああ、ああ、ああああああ!」以後はれんぞく「ショート」、花火の共演のようなものかもしれないが、その「ショート」が物理的というよりは、なんというのだろう「いのち的」なのだ。
 そこが、とてもおもしろい。


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スティーブン・シャインバーグ監督「毛皮のエロス」

2007-07-25 22:35:29 | 映画
スティーブン・シャインバーグ監督「毛皮のエロス ダイアン・アーバス幻想のポートレイト」

監督 スティーブン・シャインバーグ 出演 ニコール・キッドマン、ロバート・ダウニーjr

 ダイアン・アーバスという写真家を私は知らない。
 この映画は、ひとりの女性がどのようにしてダイアン・アーバスという写真家になったかを独自の視点で描いている。
 ダイアン・アーバスは異様なものが好きである。自分にないもの、を持っているからか。そういう部分はあるだろうが、それよりも異様なものは何かを隠しているからである。肉眼では見えないものを持っているからである。それは、誰にも触れさせない「精神性」のようなもの、である。
 そうしたものを表現するために、なぜ、ダイアン・アーバスは写真(カメラ)を選んだのか。たまたま昔から写真を撮っていた。夫が写真家だったので、写真になじみがあった……。いろいろ理由はあるだろうが、そのひとつのヒントとなるシーンがある。
 夫がコマーシャルの写真を撮っている。ダイアン・アーバスがその手伝いをしている。何人もの女性がにっこりほほえんで立っている。その、写真になる前の、現実が気に入らない。どうも違っていると思う。ところが夫にうながされ、いっしょにファインダーを覗く。そして、これでいい、と納得する。カメラをとおして世界を見ると違って見えるのである。肉眼で見た世界と、夫がファインダー越しに見ていた世界は違っていたのである。それは、もし、ダイアン・アーバスが自分でファインダーを覗いて世界を切り取れば、そこにはほかの誰かが撮影したものとは違った世界、違った写真ができあがることを意味するだろう。写真の世界は、撮影者が誰であるかによって、世界そのものが違うのだ。そういうことを発見する。(このあと、ダイアン・アーバスは夫の撮影助手をやめる。)
 ダイアン・アーバスは、たとえば多毛症の隣人に近づく。シャム双生児に近づく。手のない女性に近づく……。異様な肉体。肉眼で見えるその形を超越して立ち上がってくる精神--それがダイアン・アーバスには感じられるからであり、感じられるからには、それを写真に撮れば、他の誰かが撮った写真とはまったく違ったものになるからだとわかっているからだ。
 映画は、もっぱらダイアン・アーバスが多毛症の男にひかれて行く姿を描いている。
 その過程で、とてもおもしろい映像が繰り返される。ダイアン・アーバスは、多毛症の男を訪問するために、たとえば階段を上る。そのときカメラは、ダイアン・アーバスの足元を、階段を上るスピードにあわせて移動しながら映し出す。カメラが固定されていて、その枠のなかの階段をダイアン・アーバスが上っていくのではない。カメラそのものが階段を上っていくのである。ダイアン・アーバスは動かずに、背景が動くのである。
 これはとても暗示的なシーンである。
 ダイアン・アーバスが誰かを撮影するために接近する。そのとき動くのはダイアン・アーバスではなく、世界が動くのである。ダイアン・アーバスがたとえば多毛症の男を撮る。そのときダイアン・アーバスの視線が変わるのではなく、その写真を見ることによって、世界の視線が変わるのである。
 私はダイアン・アーバスの写真を知らないので感想はいえないけれど、ダイアン・アーバスによってポートレイトの世界(写真の世界)がかわった言う映画のクレジットに書かれていたことが真実だとすれば、それは、ダイアン・アーバスが対象にカメラで接近するとき、世界の視線がダイアン・アーバスといっしょに動いてしまったということだろう。ダイアン・アーバスは何一つ変わらない。世界の視線が変わるのである。

 ニコール・キッドマンは、透明な肌のなかに独自のいのちで輝く視線で、目の不思議、そしてカメラの不思議を演じきっていた。驚くべき役者である。彼女が異様な人間に近づくたびに、世界の輪郭がゆらぐ。他の人は、まだダイアン・アーバスの写真を見ていないので、彼女が見ている世界がどのようなものかわからない。そして、うろたえる。そのうろたえを認識しながら、ダイアン・アーバスはさらに世界を変形されながら異様な者たちに近づいて行く。異様な者たちの持っている秘密の至高性のようなものに近づいて行く。その目の力がすばらしい。何回か繰り返される「あなたの秘密を聞かせて」ということば、そしてその秘密をしっかりと受け止める力だ。

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たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」

2007-07-25 21:49:04 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」(「coto」14、2007年07月27日発行)
 2連目がとてもおもしろい。

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

 何が書いてある? わからない。けれども音がおもしろい。「植えるでも海凪ウエルカムでもなく、」は「うえるでも・うみなぎ・うえるかむ・でもなく、」と読むのだと思うけれど、音のうねりがとても不思議だ。読んだあと(私は黙読するのだが)、ちょっと声に出してみたくなる。うみなぎ、の「ぎ」は鼻濁音で読む。そうすると「な」行と美しく響きあう。
 次の行の「海彼」はどう読む? 「うみ・かれ」? たなかの意図はわからないが「うみ・かれ」と読むと「うみなぎ・うえるかむ」が短縮されたようで、なんだか笑いだしたくなる。
 たなかは耳が非常にいいのだと思う。そして、耳だけでなく目もいいのだと思う。ことばを読むとき、口蓋・のど・舌をつかうのはもちろんだが、たなかは耳をつかう。そして目もつかう。
 「木の頭蓋にモノカゲを」の「カゲ」は「造影的」「影」となって繰り返される。
 音と文字(耳と目)が、ことばのなかで繰り返され、詩が動くのである。繰り返しのなかで意味を失ない、失なうことで新しい意味を誘う。
 1、2、(途中を省略して)、最終連を引用する。

とっくに木の鱗は
なぎ
払われた
浮遊空間のその針目をどんどん詰めるには
いまや枝ぶりも葉ぶりも定かではない、

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

(略)

釘をたてつづけにただ釘を
斜めに釘を遊離空間だからもっぱら釘を
重力散布には反れ反れ釘耳わたり、
水母の羽振りをアカペラで攪拌しつつ
地を這うようにぐるぐる釘を

 1連目の「なぎ/はらわれた」の「なぎ」は2連目の「海凪」の「凪」に、1連目の「葉ぶり」は最終連の「羽振り」に、そして2連目の「ぺらぺら」は最終連の「アカペラ」のなかで蘇る。耳と目が、ときおりちゃんと聞いているか、ちゃんと見ているか、と叱咤激励(?)される感じだ。
 最終連の「反れ反れ」は「それそれ」と囃子詞のように、耳と目をあおる。


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大谷典子『自転車紀行』(2)

2007-07-24 07:29:18 | 詩集
 大谷典子『自転車紀行』(2)(編集工房ノア、2007年07月16日発行)
 大谷の詩の魅力はことばのスピードにもある。「すべてを含む」と重くなって、スピードも鈍くなりそうだが、逆に加速する。そこがおもしろい。
 「賀状のうらみ」

先生の花は
今年も枯れきっているのに魅力的です
(略)
賀状をめぐっていびつになるわたしは
先生の花をみてもとに戻るはずですが
絶交したAは
昨々出していなかったのに来たので
昨年は早々に出しておいたのだが来ておらず
今年は出さないでいると早々に届いたのだった
先生の花は、いい。
先生は枯れた人だが
花は枯れていない

 「絶交したAは」からはじまる4行。くだくだしているのだがスピードがある。なぜか。こういうことは誰もが経験したことだから、これくらいくだくだ書いても、何も書いていないくらい(?)のスピードで読み切ってしまうのである。考えないでいい。感じないでいい。と、言い切ってしまうと誤解を与えそうだが、この4行についてこれはどういう意味だろうなどと考える読者はいないだろう。本当は違う意味が隠されているのではないかと「深読み」する読者もいないだろう。
 これに対して、「先生の花は、いい。」の3行はどうだろうか。簡潔だ。「先生の花は、いい。」には句読点までついていて、独立していて、他の行をよせつけない。きっぱりしている。そのくせ、どういいのか、その1行だけではわからない。考えないとわからない。感じをしっかり受け止めないと、なにがなんだかわからない。その「いい」は、その次の2行「先生は枯れた人だが/花は枯れていない」で説明されているのだが、このありきたりな(?)というか、定型的な説明が、定型であることによってスピードを加速する。定型によって、いわば、それ以上の「深読み」を拒絶する。拒絶して、ことばが動いていく。
 この「くだくだ」のスピードと、「拒絶」のスピードが、とても滑らかである。無理がない。「先生の花は、いい。」の断言(句読点つき--と、もう一度強調しておく)がとても効果的なのだ。
 「深読み」を拒絶したあと、大谷はもういちど「くだくだ」をやりはじめる。ただし、「拒絶」をはさんでいるので、その「くだくだ」は「絶交したAは」の4行とは完全に別なものになっている。
 詩のつづき。

わたしは枯れた花を「生け」たいのだが
先生になったと同時にうらみははれてしまう
先生の花は
じっとりしている
わたしの怨念のようだ
先生の花は
じっとりしている
わたしの目つきのようだ
先生の花は
みだらなかんじがする
わたしの文字のようだ
お茶の先生が書いていた文字のようにみだらだ
うらみは逆うらみではいけない
万年青と書いておもととよむ
万年なのは賀状のうらみだ
土に埋めて
根や芽や茎や木のことから
枝や葉や花のことにいたるまでを
うらむようにして

結局、見守る

 「先生の花は」の繰り返しによって、「わたし」の内部に入っていく。「先生の花は」を繰り返すことによってリズムが生まれ、そのリズムがスピードになる。繰り返すことで加速する。そして、加速の果てに、ふわーっと浮き上がる。「万年青」に触れて、「昇華」というとおおげさだけれど、ちょっとした別次元に到達する。
 ここではスピード、加速することばが、読者そのものを浮き上がらせてしまう。浮き上がったまま、あれ、これは(ここは)、どこかなあ、と静かにもう一度大谷のことばを読み返したいような気持ちにさせられる。つまり、ほんとうに考えさせられる。今感じているこれは何なんだろうと思考が動きはじめる。

結局、見守る

 大谷自身、何も結論は出していない。こういう問題は結論を出すような問題ではなく、大谷が書いているように「見守る」だけのことがらにすぎない。その諦観(?)のようなものが、冒頭の「先生の花は/今年も枯れきっているのに魅力的です」をくすぐる。「枯れて」「生きる」とは、もしかすると、内部にいのちをかかえたまま、死んで見せること? と思ったりする。そういうものに出会ったとき、いのちが見えたり、死が見えたり、次元が揺れ動く。揺れ動いて、その振幅が宇宙になる、という感じがするのかもしれない。
 そして、その振幅がそっくりそのまま、大谷がこの作品で描いた感情の振幅と二重になるように感じる。大谷が書いたことは、絶交した相手との賀状と先生の花とのあいだの宇宙で起きた振幅なのである、という気がしてくる。

 加速することばは、「くだくだ」した恨みを経て、宇宙にまで行ってしまう。それくらい大谷のことばにはスピードがある。
 とてもおもしろい詩集だ。

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大谷典子『自転車紀行』(1)

2007-07-23 12:37:04 | 詩集
 大谷典子『自転車紀行』(編集工房ノア、2007年07月16日発行)
 どの詩もおもしろい。どれを取り上げればいいのか悩んでしまう。とりあえず「のびる足指」。

湿気はくどく感じたので
今日は
除湿日です

しつこく電話をしてくる人も
請求書通りより二万円少なく振り込んで殺害されかけた人も
からっとしてください

信仰の神秘
主の死を思い復活をたたえよう
主が来られるまで
うたっています
女子学院
修道院
カトリック教会
男子学院と
続きます



「もみじ」のもみじ焼きが
脳内を通過しました

勝手に時間は過ぎたのではないのです
足指は以前から榎茸

 4連目がとてもいい。教会の近く、女子学院や男子学院などが並んだ通りをすぎる。そして、ふっと視界に教会なんかとはまったく関係ないものが飛び込んでくる。「もみじ焼き」という店の看板(?)の「もみじ」。なぜ? そこにあったから? たしかにそこに存在しなければ、それは目に見えることはない。視界に飛び込み、さらに「脳内」にまでやってくるはずがない。しかし、そこにあればかならず目に入り、「脳内」にまでやってくるかというと、そうとは限らない。いま、ここに存在しながら、視界に入って来ない、物理的に視界に入っていても、ことばにならないもの、というものがたくさんある。では、なぜ、「もみじ焼き」が? そんなことは、わからない。わからないから、大谷はそのことについては書かない。ただ、大胆に飛躍する。

勝手に時間は過ぎたのではないのです

 「もみじ焼き」の「もみじ」が「脳内」を通過する。その時間。それは「勝手に」「過ぎたのではない」。人間のからだのなかの時間は、何がしかの「理由」にそって流れている。動いている。その「理由」はわからないけれど、こそにはかならず厳密な「理由」がある。そのことを大谷は直感している。そして、その厳密な「理由」は厳密でありすぎるので(つまり、他人にはうつく伝えられないたぐいのもの、大谷だけに直接的にわかることがらなので)、次のように言うしかない。

勝手に時間は過ぎたのではないのです
足指は以前から榎茸

 足指が榎茸? 以前から? 以前からって、いつから? そんなことは、読者の知ったことではないだろう。大谷はそう答えるだろう。大谷の足指が榎茸なのは、その指が榎茸になるだけの時間が大谷のからだのなかで過ぎたということである。勝手にではなく、大谷の、あらゆるものと相談(?)しながら、大谷の了解(?)を得て、そうなったのである。大谷は何もかもになるのである。それは、「大谷」という人間は「何もかもを含んだ」存在なのである、というのに等しい。
 「変色する淀川」に次の行がある。

ずっとずっと考えていました考えなければいけなかったんです
感情だけではありません
本能も頭も心も理屈も何もかもすべて含みます
軽率ではありません

 足指が榎茸になるのは軽率だから? そんなことはない。そこにはすべてが含まれている。
 「すべてを含み」、大谷のことばは動き、詩に「なる」。大谷の足指が「すべてを含み」榎茸になるとき、大谷のことばは「すべてを含み」、詩に「なる」。
 とても楽しい詩集だ。

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河津聖恵『ルリアンス 他者と共にある詩』

2007-07-22 23:01:38 | その他(音楽、小説etc)
 河津聖恵ルリアンス 他者と共にある詩』(思潮社、2007年06月25日発行)
 「空気」「濃い」「薄い」「気圧」などのことばが随所に出てくる。たとえば柴田千晶『空室』にふれた「詩は「恋愛」になれるか」の冒頭。

 今、私たちは、私たちのこころにとってどんな気圧の、どんな濃度の時代の空気の中で生きているのだろう。(略)どこかひどく「薄い」という感じを私の知覚の先端はとらえ、それが私だけのものでないと確信している。だが一方、身体の方はその「薄さ」についていけず、とまどい疲れ、だがそのぶん濃くよどんでいるとわかる。

 河津にとって時代の空気は「薄い」。一方、身体は「濃い」。そこに「気圧差」が生じ、そこに「詩の現場」というものを感じている。
 私はこの視点に疑問を持っている。(柴田の作品とは逆に、身体の方が薄く、「陰圧」を持っているととらえる視点もあるが、ここでは省略する。)「濃い」身体の、その身体が「女性の身体」(女性の肉体)と置き換えられ、「詩の現場」が「女性詩の現場」に置き換えられることに疑問を持っている。(これは、そのまま「女性詩」というくくりに対する疑問でもある。)
 
 「時代の空気」が薄いとしたら、それは単に時代の空気をとらえる「ことば」(それぞれ個人のことば)が「薄い」からである。意識が「薄い」だけではないのか。「身体」が 「疲れ」「濃くよどんでいる」としたら、身体の疲労や淀みを表現することばが濃密になっているだけであり、「時代の空気」がもしそこにあるとするなら、「時代の空気」は「身体」が疲労し、よどむのを望んでおり、ことばはその望みにこたえているだけのことだろうと思う。

 ことばは薄いものを批判するときは「薄いことば」で批判する。わざわざ「濃いことば」で批判はしない。もし、「薄いもの」を「濃いことば」で批判するとしたら、そのことばを発した人が、世間の人とは違って「薄いもの」を「薄くはない」と見ている証拠である。
 詩から離れるが……。
 安倍首相が赤城農相の事務所費が問題になったとき、「光熱費の月平均額は 800円。 800円で辞任させるのか」と野党に反論した。この軽いことば。薄っぺらなことば。それは安倍が事務所の問題を薄っぺらな問題、軽い問題と見ている証拠である。国民の税金がどんなふうに浪費されているかという問題を軽く見ている証拠である。安倍のことばに再反論できなかった野党も同じである。光熱費が(たぶん光熱水費のことなのだと思うけれど、つまり水道代も含むと思うのだけれど、電気代、ガス代だけだとしても)、月々 800円などということは普通の生活ではありえない。電気、ガス、水道には基本料金というものがある。そういうものもふくめて「 800円」だとしたら、それは事務所がなんの活動もしていなかったという証拠であり、事務所がちゃんと機能していたというのなら月々 800円が嘘になる。「なんとか還元水」が何千万円というのが嘘なら、光熱費が月 800円というのも嘘であり、国民の税金をどのようにつかったかと証明する際に、片岡農相が嘘をついたことと、赤城農相が嘘をついたこと、その嘘をついたことに対する重大性は同じなのである。何千万円という嘘が問題であり、月々 800円という嘘が許されていいということにはならない。赤城農相の月々 800円の嘘の背後には、もしかするとやはり何千万円という嘘が隠されている可能性があるからである。大きな嘘を隠すために小さな嘘をつき、露顕すると「小さな嘘なのに、それを問題にするなんて……」と逃げようとしているのである。
 世界のあらゆることは、向き合い方次第で「薄いもの」になったり、「濃いもの」になったりするのである。
 批評(批判)にとって一番大切なことは、自分以外の要請(たとえば「時代の要請」)にはけっして乗らない。自分自身の基準を明確に持つことである。

 こんなことを書いてしまうのは、河津のことばが、吟味され、正確なものであるにもかかわらず、どうも、「時代の要請」に乗って動いているように見えるからである。
 「女性詩」=「身体性」というくくりで「女性詩」が語られるとしたら、それは「時代」が「女性」を「身体性」という枠のなかでとらえたがっていたからだろう。新しい詩の書き手が登場する。女性である。その作品はおもしろいのだが、どう評価していいのか、批評のことばがみつからない。手っとり早く、「女性」=「女性の身体」という枠をつくってしまえば作品について語ることができる。たぶん、男性詩人が女性の詩人たちがつくりだした新しい潮流をひとくくりにして、「男性詩」とは別の存在であると定義することで、「男性詩」を既得権として守ろうとした--そういう動きはなかっただろうか。
 そうした保守的な、既得権を守ろうとしてつくりだされた「薄っぺら」な「枠」であったからこそ、それは女性の書く詩の力によって、なし崩し的に消えていかざるをえなかったのではないのか。

 これはまた別な視点から言えば、「女性詩」ということばが登場したとき、「男性」は「女性」を理解するのに「身体」の違い(ペニスを持っているか、子宮を持っているか)程度しか知らなかったということかもしれない。とりあえず明確に見える「違い」を中心にして「枠」をつくる。--これは、安倍の「月 800円の光熱費」という「枠」の作り方と同じである。本当はそんな「枠」自体が嘘である。無効である。「枠」(ことば)は都合に合わせでどんな具合にも薄っぺらにできるのである。



 疑問に思ったことだけを、もう二つ書いておく。
 ひとつは、瀬尾育生について語った文章。その冒頭。

 生きるリアリティとは言葉になりがたいものだ。それは、「この私」「自分」さらには「身体」や「欲望」にひそむものであり、外部に向かっては言葉(観念としての)や社会のシステムへの違和感という「体感」となってあらわれる。むしろ生きるリアリティとは自足するものではなく、そうした異和の場所にこそ存在しうるものである。

 これは、先に引用した柴田の作品についての言及の言い換えのようなものである。(これは悪い意味で書いているのではない。そんなふうに河津の論は一貫しているという意味で書いている。論理的であり、正確であるという証拠になる部分である。)「私」と「世界」は空気の濃度が「薄い」「濃い」という違和感とともにあり、その違和感が「詩の現場」である、と河津は一貫して考えている。
 そして、そういう「詩の現場」を提示した上で、河津は瀬尾の論を引用して、河津自身の論を補強する。「二重の言語」(瀬尾)ということばを、河津の論の方へ引き寄せる。

 この詩論集の論理をたどれば「区別」とは、「いまここにいる自分」が一般的なものから身をふりほどく身振り、力のことであり(『区別』とは固有な他者と自分との間に異和(「違う」)が存在するか否かを語るもので、自らをその固有の他者と区別することで、自分が自分であること=『同一性』へと照らし返されることである」)、異和(「違う」)という身振りによって、「自分」を一般化されまいとする態度のことだ。すると詩は、「二重化」という自体が覆うなか、「言語一般」に対しそのつど「違う」と身振りするものであり、そうした身振りの喚起する生きるリアリティが呼びよせる、そのつどに固有の言葉の領域であるといってもいいだろう。

 こんなふうに読んでもらえ、瀬尾はしあわせだろうなあ--と思いながら、一方で浮かび上がる疑問。
 私の感じていることは今まで言われていることとは違う。誰も感じていないことを私は感じている。そういう「違い」(異和『というものがあったとして、そのことによって、「自分」を一般化されまいとすること、そういうことばを書くことが「詩」を書くこと? ええっ?  私は驚いてしまう。逆じゃないのか。自分が感じていることはみんなの言っていることとは「違う」。でも、それを「違ったまま」の状態にしておきたくはない。むしろ逆にだれかにわかってもらいたい。そして、まず誰かひとり、できればふたり、3人と共感してくれる人が増え、「一般化」(普遍化)してほしいというのが、「物書き」の願いではないのだろうか。

 河津の論は、何か、「詩」を特異なものにしようとしているように思える。女性の書いた詩を「女性詩」と呼ぶことで、何か特異なひとつのジャンルにしようとした時代に似通った意識が感じられる。
 河津の論が論理的で正確であるだけに、何か、ちょっと、言い難い感じ、いやな感じを覚えてしまう。
 瀬尾の論理によっかからずに、もっとていねいに河津自身のことばを追っていけば、違ったものがあらわれたかもしれない。

 もうひとつ。吉本ばななについて触れた文章。

 心の変化を中心とした「小説」。けれど吉本のそれはいわゆる心理小説や私小説ではない。それは心の「内容」にみたされているわけではないから。あるのはただ「変化」であり、しかもそれは自分が自分の心のありさまに気づくといった態のものである。本当の意味で変化ともいえない(自分が、自分に気づくということは「変化」とはいいがたい)。

 私は、いま引用した文の最後の部分(自分が、自分に気づくということは「変化」とはいいがたい)にびっくりしてしまった。読み違えたのかと思って、読み返した。引用しながらも、いまでも読み違えではないかとびっくりしている。
 自分が自分に気づくということ以上の変化があるのだろうか。
 私は、いまこうして感想を書いているが、その感想がほんとうに書きたいこととは少しずつちがっていることに気づいている。そして、そういうことは、もし、本当の自分に気がつけばすっかり解決して、新しい文章を書きだすことができるようになる。
 自分に気づきたい。
 自分に気づきたいから、私は、気づかないまま、気づいたように感じる部分を書いている。

 漱石の小説がある。なんでもいいけれど、どの作品も私には、主人公が「自分に気づく」小説だと思って読んでいた。自分に気づく。自分を発見する。そうして「自然」にかえる。その「変化」がいつでも感動的である。自分に気づく以上の「変化」が人間にあるとは私には思えないのである。


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山本純子『海の日』

2007-07-21 22:00:58 | 詩集
 山本純子『海の日』(花神社、2007年08月21日発行)
 2006年01月13日に「男の子が三人」、2006年10月26日に「満月」についての感想を書いた。その2篇がこの詩集に収められている。どちらもとすも好きな作品だ。その2篇については、上記の日記を読んでください。きょうは別の作品について感想を書く。
 「月」。

まるい月をじっとみていると
月のふちのところが
じわじわ
うごいているように見える

わたしのことで
そして
わたしの知らないことで
ともだちが
何かいいことを知っているとき
ともだちの
顔のふちのところが
じわじわと
うごいていることがある

だから
まるい月のじわじわを
じっとみていると
おもう
何かわたしに
いいことがあるのかなあ


 山本の人間観察力は不思議だ。日常のなにげない変化、微妙な肉体の変化や、ふともらしたことばをていねいにすくいあげ、それがいきいきと動きだすまで大事にあたためている。卵からひながかえるように、人間のこころが肉体やことばの殻を破ってよちよち歩きだすのをうながすように。その「よちよち歩き」が「よちよち」だけに、ちょっと「現代詩」として弱いかなあ、という印象があるかもしれない。しかし、「よちよち歩き」の「よちよち」はほんとうはとても力に溢れている。なんといっても、それまでとは違った世界へ歩きだす一歩なのだから。
 この詩では、山本は人が何かいいことを知っていて、それを言おうかな、どうしようかな、と思っているとき、表情がいつもと微妙に違うことについて書いている。どんなふうに違うのか。違うとしか、じつはわからない。むりやりことばにすれば「じわじわ」。この「じわじわ」は「ことば」が「じわじわ」と顔までのぼってくる感じかもしれない。「ことば」「こころ」が「じわじわ」と胸の奥からのどを通って、口元までやってくる。「言おうかな、どうしようかな」。言うまいと押さえつけている力も「じわじわ」変化している。
 私はついついことばを重ねてしまうのだが、山本はことばを重ねず、瞬間だけをさっと切り取って、その「呼吸」を輝かせる。この「呼吸」について説明するのはむずかしいが、とても気持ちがいい。やわらかな、だれをも傷つけない声を聞いたときのような、人にやさしく語りかけるときの声を聞いたような、その声というよりも、その人の「呼吸」そのものを聞いたときのような感じなのだ。

 「少年」もとても好きだ。

この草
何ていうんだろう、と
三人で取り囲んで

穂さきが
か細く
風になびいているから
けむり草にしよう、と
三人で決める

本当は
何ていうんだろう、と
ときどき考えながら
大人になって

ある日ふいに
聞かれる
おとうさん、
この草何ていうの

ああ、それ
けむり草

 ふっと生まれた「こころ」。そして「ことば」。少年三人がいっしょに生み出した「こころ」と「ことば」。「ことば」のなかの「こころ」。それが肉体となっている。肉体となっているから、ふっと「呼吸」した瞬間に、その息のなかに「声」になってあらわれてくる。
 でも、それは「声」ではなく、やっぱり「ことば」の「こころ」なんだなあ。「ことば」には「こころ」があるし、その「ことば」には肉体もある。それにとても自然な、すべすべの赤ちゃんのような「からだ」だ。
 山本の詩について書くとき、「肉体」ということばをつかってきたが、本当は「からだ」と書くべきだったなあ、といまごろになって思う。


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瀬崎祐『雨降り舞踏団』(2)

2007-07-20 11:49:49 | 詩集
 瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社、2007年07月04日発行)
 「蛇の背骨」。また、蛇、なのである。そして、その蛇はやはり魅力的なのだ。蛇とともにあらわれる世界が魅力的なのである。それは蛇ぬきにしては存在しない世界であり、言い換えれば、蛇とつながることによって、共に存在する世界なのである。

かつて恐ろしいものの一部として メデューサの髪とな
った蛇よ そのとき おまえたちの身体はどんなふうに
つながっていたのだろう 排泄孔はだれと共にしていた
のだろう 生殖器は満たされていたのだろうか

 「つながる」「共に」。その2語に瀬崎の「思想」を感じる。何かを描写とするということはつながることだ。何かと「共に」するもの、共有するものを発見することだ。「つながる」「共に」は「必要」と言い換えることもできる。

蛇の身体は冷たい 内臓までが冷たい 自らの内に発熱
するものを持たないために 他人に暖められる必要があ
るのだ いつも誰かを必要としている 

 この「蛇」を「ことば」と置き換えてみるとどうなるだろうか。私は、ふいに、「蛇」を「ことば」と置き換えたい欲望にかられる。

 ここに書かれている「蛇」は「ことば」である。

 瀬崎が描いた「蛇」をとおして、私は「ことば」の欲望を見る。この欲望は瀬崎のものか、瀬崎によって触発された私のものか、それとも私がかってに瀬崎におしつけようとしているものなのか。区別がつかない。「つながって」「共に」ある感じがする。瀬崎のことばにつながりながら、そのことばを共に持つことで、そのつづきを考えたいという私自身の欲望があり、その欲望は、瀬崎のことばを「必要」としている。
 「蛇」は、わたしにとっては「ことば」そのものである。

 瀬崎にとっては、どうだろうか。「蛇」は「ことば」ではないのだろうか。
 ことばで対象を(蛇を)描く。蛇とことばがつながり、その蛇が世界とつながる。ことば抜きにして世界は存在しない。世界とつながることはできない。瀬崎は(あるいは人間はといってもいい)、ことば抜きにしては、世界と共に存在することはできない。
 そのとき「ことば」は、どんな形をとることができるだろうか。
 世間で流通している「ことば」そのままでも、あるいはかまわないかもしれない。多くの場合、そうした「流通することば」の方が便利である。しかし、自分がいま感じていること、考えていることを「ことば」にしようとすれば、どうしても「流通することば」では間に合わなくなる。そういう「ことば」では、いま自分が感じている「世界」がうまく描写できないのだ。今時分が感じている「世界」を描写するためには、「ことば」は「流通することば」の形を捨てなければならない。

結局のところ 蛇の形はものをつかみ取ることを放棄し
た形といえる かわりに蛇が求めたのは 身体全体で絡
みつくことであった 身体をくねらせるとき 骨は妙な
形でかたむきあう そして きしむような音を立てる
蛇は 小手先だけではなく 身体の全部を投げ出して相
手と接触しようとする
このぞっとするような濡れた冷たさをやわらげようとし
て 蛇は 相手の体温を求める 身体全体でからみつく
と 相手の鼓動は 蛇の内臓にまで響いてくる それこ
そが蛇が手足を失った意味だったのだ

 瀬崎のことばは対象をつかみとることを放棄している、というのは正確な言い方ではない。瀬崎のことばは「流通している世界」をつかみとることを放棄している。そして「流通している世界」ではなく、瀬崎が感じる「世界」に直に感じるために「流通することば」を放棄したのである。
 「流通することば」を放棄し、そのかわりにことば全体、文体そのもので対象にからみつく。つまり、どこにもない形、文体を目指す。
 「流通することば」を捨てたのだから、瀬崎の文体は普通の人の文体とは微妙に違っている。
 瀬崎は、ことば全体をきしませて、対象と接触し、対象の体温を求める。対象の鼓動を求める。--対象に直にふれることのできる文体を探して、ことば全体をくねらせる。
 瀬崎の文体は対象の表面をなぞるのではなく、対象の内部にあるものを文体全体で受け止める。そのために「流通している文体」(日常の散文体、会話体)を放棄する。そして詩に「なる」。(流通している文体を放棄した独自の文体が「詩」である。)

 瀬崎がたとえば蛇を描写するとき、瀬崎が蛇になるのではない。ことばが蛇になるのではない。瀬崎が「詩」になる、瀬崎のことばが「詩」に「なる」。
 その結果、瀬崎のことばに「つながる」もの、瀬崎のことばと「共に」あるもの、対象が「詩」になる。「詩」になった対象(たとえばこの作品では「蛇」だが)、その対象の方が、今では瀬崎のことばを「必要」としている。
 ことばの運動が逆転することで、円をつくる。あるいはそれは球と言った方がいいかもしれない。完全な形--宇宙をつくる。

 こうした文体を完成させるまでに瀬崎がどのような作品を書いてきたのか、私は不勉強なので知らないが、ずいぶん多くの作品を書いてきたのだろうと推測できる。文体の確かさ、ことばの動きに無理がない。何よりも対象との距離のとり方、ことばの「尺度」に揺れがない。

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瀬崎祐『雨降り舞踏団』(1)

2007-07-19 23:15:32 | 詩集
 瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社、2007年07月04日発行)
 文体がとても魅力的である。瀬崎の視点は安易に対象と一体にならない。しかし、その対象との距離(尺度)は非常にしっかりと「一定の距離」を保っている。突然近づいたり、離れたりしない。その結果、何が起きるか。瀬崎に、ではなく、瀬崎が描いている対象そのものになったような気持ちになる。ことばの「距離」が一定であるために、読んでいて対象そのものになってしまった感じがするのだ。言い換えると、瀬崎が描いている対象から瀬崎をみつめているような気持ちになる。瀬崎という人間が見えたとしても、それはあくまで対象になってしまった私が対象の視点で瀬崎をみつめているという感じなのだ。
 巻頭の「いきがい」。

森の中を歩いていると 蛇の目玉があった
蛇の身体はどこにもなくて 目玉だけが枯れ葉のあいだ
に見えているのだ
目玉をひろいあげようとすると 神経のようなものが目
玉の背後からのびている
あ これは蛇の視神経だな と思い さらに引っ張ると
神経はずるずるとどこまでも伸びて出てくる
おれは目玉を持ったまま森の中を歩き出す
神経はそれでもずるずると伸びてくる
蛇の目には目蓋はない だから 蛇の目はいつも見開か
れたままだ
蛇は 見たくないものを常に見つづける運命をになって
いたいのだ
おれは蛇の目玉を頭上に高くかかげ 蛇に話しかける
どうが 見えるか
見えるもの それがお前の世界のすべてだぞ

 蛇になった気持ち、目玉だけの蛇になった気持ちになるのは私だけだろうか。
 
 これはとても不思議な快感である。私は人間であるが、私の目玉の背後にも視神経が伸びているだろう。ずるずるずると、どこまでも。どこまでも、というのはたぶん「脳」が時間を(過去を)ふくめてつづいているからだ。見たくないもの、見たいもの、そういうさまざまなものが視神経の長さ(蛇の身体の長さ)そのままに、ずるずるずるずると背後につづいていて、今見える世界は、そのずるずるとした過去をふくめた時間を通って脳へたどりつきひとつの世界を描くのだ。

 瀬崎がもしも蛇になってしまったら、そこにはたぶん「抒情」(センチメンタル)が入り込む。蛇にならずに、あくまで一定の「距離」を保ち描写することで、抒情(センチメンタル)を排除している。そこから「批評」が生まれる。そしてその「批評」は簡単には「世界」を批判したり、「世界」に共感したりというものとは違う。「世界」を批判したり、「世界」に共感するかわりに、「どうだ、お前に、いったい何が見える?」と読者に問いかけるという「批評」である。自分で「世界」を見てみろ、という強烈な批評である。

 痛烈である。

 ページをめくると次の詩が待っているのだが、そのページをめくるのが怖い。怖いから、そして、はやくめくりたい。


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三木聡監督「図鑑に載っていない虫」

2007-07-19 00:42:28 | 映画
監督 三木聡 出演 伊勢谷友介、松尾スズキ、菊地凛子

 芝居が映画を越境する--そういう映画が増えた。メディアとしては映画なのだが、やっていることは芝居である。「舞妓Haaaaan!!!」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」もそうである。3本の中では、この「図鑑に載っていない虫」が一番おもしろい。全編、芝居、芝居、芝居のリズムで突っ走る。そして芝居の欠点、こまかい表情や細部が見えないという部分は「映画」で突き破ってしまうのである。
 芝居のリズムは冒頭の「黒い本」の編集室の描写からいきなり疾走する。女編集長がレール(?)の上の椅子ですいすい移動するシーン。そのせりふのリズム。「死にモドキ」を探し出して「臨死体験」を書けという無理な注文。うさんくさい世界をことばで出現させる力と役者の肉体の見せ方。(女編集長の、口の周りの青い痣の見せ方--その過去の描き方。)でたらめ(?)も役者の肉体を通すとほんとうになるという芝居特有のスピード感。
 あるいは片桐ハイリがSMクラブの廃品を処分するシーン。「SMもやめてしまえばただの不燃ごみ」(だったかな? 燃やせるごみだったかな?)と3回くりかえして言う。それに対して「何回も言うなよ」と突っ込まれると、逆に「何か言いたいことがあるんじゃないの。はやく言ったら?」と突っ込まれるシーン。その他、もろもろ。せりふの切り返し、ギャグの乱発のリズム。
 芝居では無理な描写というのは、たとえば瞬間接着剤でコンタクトレンズをつくる、一重の目を二重にして「かわいく」見せる、ゲロを燃やしてお好み焼きにするなどである。(いずれも松尾スズキがからんでいるところがおもしろい。)あるいはリストカットマニアの菊地凛子の手首のザラザラでわさびを下ろして見せるシーン。
 全部が全部、日常を超えて、「芝居小屋」のなかのできごと、嘘を共有しにくる観客だけを相手に嘘はここまで肉体で表現できるという芝居のリズム、テンポで突き進む。
 そして。
 そういういわばでたらめの果てに、でたらめを通り越した現実が浮かび上がる。
 「臨死体験」のリポートなんてうさんくさい。そんな本なんかうさんくさい。でも、そのうさんくささの底には、いま、ここで生きている人間の欲望がある。生きているんだから、何かしなくてはならない。世の中の役に立つというような立派なことだけでは生きていけない。嘘も、ごまかしも、だらしないことも全部含めて存在して、生きていることになる。でたらめって楽しい、ふざけているって楽しい。でたらめができる、ふざけることができる、というのは楽しい。
 生きるというのは、結局は楽しくやること。
 などという「結論」は、まあ、とってつけたようなものである。
 私が書いているこの文の「そして。」以後は無視してください。そして、ただただ、芝居のリズムが映画を活性化させていることだけを楽しんでください。日本映画は、最近、とてもおもしろい。その楽しさを堪能できる作品だ。
 ただし。
 この映画は「地方都市」で見るよりも「東京」で見るべき映画だ。とてもブラックな映画で、あまりのブラックさに笑うしかないのだが、ブラックなものに対する笑いは地方では少ない。映画館でひとりだけ声を張り上げて笑うと(それが私だが)、ちょっと浮いてしまう。観客が何人も何人も声を上げて笑ってこそ楽しくなる映画だ。
 (私は水曜日、レディースデイに見たせいか、観客に「おばさん」が多く、ほとんどブラックなシーンに無言である。笑わない。こういう作品はあまり見たことがないのだろう。笑い声がないとおもしろみが共有されない。もう一度、どこか、笑いがたえない映画館で見てみたい作品である。)
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