岡井隆「ロークス・ミノーリス」(「現代詩手帖」2010年12月号)
岡井隆のことばは自在である。この「自在」というのは、ちょっと変な言い方にあるかもしれないが、目的地がないということである。ゴールがない。結論がない。いや、それがないわけではなく、ちゃんと「おわり」があるのだから、それは目的地(結論)を設定せずに動いていると言いなおした方がいいかもしれない。
簡単に要約してしまうと、春先から目(結膜、と限定して言ってしまうところが、あ、やっぱりお医者さんだねえ)がおかしい。それで眼科へ行った--ということが書いてある。これは、ほんとうに何でもないことだ。何でもないことだ、というと岡井に対して失礼にあたるかもしれないけれど、それでどうしたの?と普通の知り合いになら私は言ってしまう。この、何でもないこと、どうでもいいことが、けれど読んでいておもしろい。
なぜなんだろう。
何でもないことなのだけれど、ことばにゆるぎがないからだ。そして、そのゆるぎのなさをつくりだしているのが、ちょっと「気取った」ことばである。
この書き出しでは、「努力せよ」が「気取っている」。人間はなぜ働くか。食べるため。そして着るため。私なら、遊ぶため、と言いたいのだが、「着るため」というのは自分をかっこよく見せるため、ということかな? まあ、食べないと生きていけないから、「着るため」は脇においておいても、そのために「努力」しなければならないのはよくわかる。昔の親は、よくそういうことを言ったものである。ただし、「努力せよ」というような変なことばはいわないなあ。ひとは食べなきゃ死んでしまう。だから一生懸命やりなさい(働きなさい)、がんばれよ(「かあさんのうた」には「おまえもがんばれよ」ということばはあるけれど、「おまえも努力せよ」ということばはないね。)「意味」は同じなのだが、「努力せよ」というのは、なんといえばいいのか、ちょっと「他人行儀」なところがある。「親身」というのとは少し違う--と私は感じてしまう。
この「親身」とは少し違う感じを、私は「気取っている」と呼ぶのだ。
それは「神の国」になるともっと強く感じる。「神の国」が「やってくる」。うーん。「国」がやってくるというようなことはないねえ。よその国へ人間が行くことはあっても、むこうから「国」がくることはない。まあ、「お迎えが来る」というような言い方はあるけれど。--「神の国がくる」とは、「お迎えが来る」ということなのだけれど。それは簡便に言ってしまうと、「死ぬ」ということだね。「お迎えが来る」自体、気取ったというか、婉曲的な言い方だけれど、それが「神の国がくる」になると、もっと気取っている。そんな言い方を普通はしない。
それにつづく「徴候が来た」も変だねえ。「涙腺を犯した」も変だねえ。
そして、その「変」が、しかし、誰にでもわかる範囲で「変」ということろが、岡井の詩のおもしろさなのだ。「気取っている」のだが、その「気取り」のために言いたいことがわからなくなっているかというと、そんなことはない。「気取った」言い方なのに、書いていることがわかる。
そして--これからが、私の言いたいこと。
そして、その「気取り」には「一定の水準」がある。「一定の水準」が保たれている。それが「ゆるぎのなさ」をつくりだしている。私たちが、(私だけかな?)、普通つかわないことばが、そこに書かれていることを、日常なのだけれど、少しだけ違った「枠組み」のなかにとじこめる。日常から切り離して、「芸術」にしてしまう。
このとき、その「気取り」の「水準」が乱れると、とても気持ちの悪い文体になってしまうが、岡井の場合は、けっして乱れない。岡井は、自分のことばがどこに属しているかをはっきりと知っている。
ひとつは「神の国」というような表現にみられる「文学」。もうひとつは「徴候」「涙腺」のような、「医学」、あるいは「科学」。その「文学」「医学(科学)」に共通するのは、「学」である。--つまり、岡井のことばは「学」が「一定水準」に保たれているのだ。日常はもっと違ったことば、たとえば「がんばれよ」といってしまうところを「努力せよ」という「学」のことばで、全部、いいかえてしまう。
そこから「安定」が生まれる。
そして、そんなふうに「日常(とりあえず、日常、と書いておく--ほかの表現を思いつかないので)」ではなく、「学」の「水準」をたまったままことばを動かしていくと、それは「日常」とはどうしても違ったものになってしまう。「日常」から剥がれてしまう。
その離れ具合が、またまた、とてもおもしろいのだ。
まぶたをひっくり返す(めくる)のかわりに「眼瞼を翻し」と変なことばで助走して、「ロークス・ミノーリス」という超へんてこりんなことばが飛び出す。そのへんてこりんなことばへ飛んで行ってしまう。
あ、もうこうなると、目がかゆい、目が痛い、どうも目の調子がおかしいという「日常の肉体」のことは、どこかへ吹っ飛んでしまうね。
何これ?
私は笑い上戸というか、笑いだすと止まらないので、ちょっと困りましたね。笑いが止まらない。おかしくて涙が出てくる。で、笑い転げながら、岡井のことばがどんどんどんどん違うところへ行ってしまうのに、どこまでもどこまでもついていってしまう。笑っていると置いてきぼりになりそうなので、もう、何も考えない。ただ、このひとばかじゃない(失礼!)と思いながら、そういう「奇行」を、その果てまで見とどけたいという気持ちになって、追ってしまうのだ。
岡井のことばの「一定水準」は「学」の「水準」であり、「学」というのは「奇行」なのだ。
というようなことばを経て、いまのギリシャの財政危機にもふれながらギリシャはもしかするとヨーロッパのロークス・ミノーリスかと書き……
突然、終わるのだ。
「此の世の最弱所」って、何? 岡井は説明しない。読者に判断をまかせている。なんだかよくわからないが、「和歌」(日本の古典文芸)につながるような何かを藤の花は隠そうとしている--うーん、藤の花を見ることで、岡井のこころは、ふっと動き、その瞬間、それまでのへんてこりんな「学」の「水準」のことばもさっと洗い流されたように消えるのだが、そんなふうに(私が感じたふうに)、「学」としてのことばの水準、それがつくりだす世界を瞬間的に忘れ、美しい抒情に流れてしまうのが、日本の「最弱所」?
あ。
それこそ「虚」をつかれたような感じで、私は何かを見失う。いままで岡井の詩を読みながら考えていたことをすっかり忘れてしまい、
これって、そのまま「和歌(短歌)」だなあ、「長歌」のあとの「反歌」だよなあ、と思ってしまうのだ。「学」の世界に対して、「和」(抒情?)の配合が、ここに突然出現してきているんだなあ、と思うのだ。
思ったからといって、それから先、どう考えるというわけでもないのだが、うーん、こんなふうに、自在に、ことばを動かし、どこへも行かず(結論など、どうでもいいという感じで)、「いま」「ここ」に存在しつづけるというのはすごいなあと思う。
(岡井隆「ロークス・ミノーリス」の初出は、「読売新聞」05月15日)
*
今月のお薦めベスト3。
井坂洋子詩集『嵐の前』
奥田春美「足の裏考」
岡井隆「ロークス・ミノーリス」
(いずれも12月に発表されたものではないけれど、私が今月読んだもの。)
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2010年のお薦め詩集ベスト3
粕谷栄市『遠い 川』(思潮社)
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(思潮社)
高柳誠『光うち震える岸へ』(書肆山田)
岡井隆のことばは自在である。この「自在」というのは、ちょっと変な言い方にあるかもしれないが、目的地がないということである。ゴールがない。結論がない。いや、それがないわけではなく、ちゃんと「おわり」があるのだから、それは目的地(結論)を設定せずに動いていると言いなおした方がいいかもしれない。
まづ食べものと着るものを求めて努力せよ今までぼくはさうして来た神の国がその後でやつてくるかどうか知らないが別の徴候が来たのだぼくの結膜は春のはじめから腫れて涙腺を犯したので眼科へ走つた
簡単に要約してしまうと、春先から目(結膜、と限定して言ってしまうところが、あ、やっぱりお医者さんだねえ)がおかしい。それで眼科へ行った--ということが書いてある。これは、ほんとうに何でもないことだ。何でもないことだ、というと岡井に対して失礼にあたるかもしれないけれど、それでどうしたの?と普通の知り合いになら私は言ってしまう。この、何でもないこと、どうでもいいことが、けれど読んでいておもしろい。
なぜなんだろう。
何でもないことなのだけれど、ことばにゆるぎがないからだ。そして、そのゆるぎのなさをつくりだしているのが、ちょっと「気取った」ことばである。
まづ食べものと着るものを求めて努力せよ
この書き出しでは、「努力せよ」が「気取っている」。人間はなぜ働くか。食べるため。そして着るため。私なら、遊ぶため、と言いたいのだが、「着るため」というのは自分をかっこよく見せるため、ということかな? まあ、食べないと生きていけないから、「着るため」は脇においておいても、そのために「努力」しなければならないのはよくわかる。昔の親は、よくそういうことを言ったものである。ただし、「努力せよ」というような変なことばはいわないなあ。ひとは食べなきゃ死んでしまう。だから一生懸命やりなさい(働きなさい)、がんばれよ(「かあさんのうた」には「おまえもがんばれよ」ということばはあるけれど、「おまえも努力せよ」ということばはないね。)「意味」は同じなのだが、「努力せよ」というのは、なんといえばいいのか、ちょっと「他人行儀」なところがある。「親身」というのとは少し違う--と私は感じてしまう。
この「親身」とは少し違う感じを、私は「気取っている」と呼ぶのだ。
それは「神の国」になるともっと強く感じる。「神の国」が「やってくる」。うーん。「国」がやってくるというようなことはないねえ。よその国へ人間が行くことはあっても、むこうから「国」がくることはない。まあ、「お迎えが来る」というような言い方はあるけれど。--「神の国がくる」とは、「お迎えが来る」ということなのだけれど。それは簡便に言ってしまうと、「死ぬ」ということだね。「お迎えが来る」自体、気取ったというか、婉曲的な言い方だけれど、それが「神の国がくる」になると、もっと気取っている。そんな言い方を普通はしない。
それにつづく「徴候が来た」も変だねえ。「涙腺を犯した」も変だねえ。
そして、その「変」が、しかし、誰にでもわかる範囲で「変」ということろが、岡井の詩のおもしろさなのだ。「気取っている」のだが、その「気取り」のために言いたいことがわからなくなっているかというと、そんなことはない。「気取った」言い方なのに、書いていることがわかる。
そして--これからが、私の言いたいこと。
そして、その「気取り」には「一定の水準」がある。「一定の水準」が保たれている。それが「ゆるぎのなさ」をつくりだしている。私たちが、(私だけかな?)、普通つかわないことばが、そこに書かれていることを、日常なのだけれど、少しだけ違った「枠組み」のなかにとじこめる。日常から切り離して、「芸術」にしてしまう。
このとき、その「気取り」の「水準」が乱れると、とても気持ちの悪い文体になってしまうが、岡井の場合は、けっして乱れない。岡井は、自分のことばがどこに属しているかをはっきりと知っている。
ひとつは「神の国」というような表現にみられる「文学」。もうひとつは「徴候」「涙腺」のような、「医学」、あるいは「科学」。その「文学」「医学(科学)」に共通するのは、「学」である。--つまり、岡井のことばは「学」が「一定水準」に保たれているのだ。日常はもっと違ったことば、たとえば「がんばれよ」といってしまうところを「努力せよ」という「学」のことばで、全部、いいかえてしまう。
そこから「安定」が生まれる。
そして、そんなふうに「日常(とりあえず、日常、と書いておく--ほかの表現を思いつかないので)」ではなく、「学」の「水準」をたまったままことばを動かしていくと、それは「日常」とはどうしても違ったものになってしまう。「日常」から剥がれてしまう。
その離れ具合が、またまた、とてもおもしろいのだ。
眉の太い医師は偉丈夫で昔全共闘安田城攻防で鳴らした指を伸ばしてぼくのかゆい結膜いたい眼瞼(がんけん)を翻(ひるがえ)したのち「軽症ですよただし」と言ひよどんだが「疲れていますね最も弱い部分(ロークス・ミノーリス)を病ひは襲ひますからね」ああロークス・ミノーリス久しぶりに聞く此の医用ラテン語の響きだ
まぶたをひっくり返す(めくる)のかわりに「眼瞼を翻し」と変なことばで助走して、「ロークス・ミノーリス」という超へんてこりんなことばが飛び出す。そのへんてこりんなことばへ飛んで行ってしまう。
あ、もうこうなると、目がかゆい、目が痛い、どうも目の調子がおかしいという「日常の肉体」のことは、どこかへ吹っ飛んでしまうね。
何これ?
私は笑い上戸というか、笑いだすと止まらないので、ちょっと困りましたね。笑いが止まらない。おかしくて涙が出てくる。で、笑い転げながら、岡井のことばがどんどんどんどん違うところへ行ってしまうのに、どこまでもどこまでもついていってしまう。笑っていると置いてきぼりになりそうなので、もう、何も考えない。ただ、このひとばかじゃない(失礼!)と思いながら、そういう「奇行」を、その果てまで見とどけたいという気持ちになって、追ってしまうのだ。
岡井のことばの「一定水準」は「学」の「水準」であり、「学」というのは「奇行」なのだ。
思ひ出すのはいくつかの理由があつて古代ギリシャに接近してゐた時たとへばレッシングの『ラオコオン』が漱石の『草枕』に深く影響し『ラオコオン』はあのウィンケルマンの「良き趣味はもと希臘(ギリシャ)の蒼空のしたに形成し始めた」を思はせ(略)
というようなことばを経て、いまのギリシャの財政危機にもふれながらギリシャはもしかするとヨーロッパのロークス・ミノーリスかと書き……
身体に弱点をもつことは孫子の所謂(いはゆる)「虚」であり敵はそこを撃つなら撃たせて置けとぼくは二種類の点眼薬の処方箋(せん)をたづさへてふや急な階段を左眼をいたはりながら降りた先はデフレ傾向に揺れる夕ぐれの街で「食べるもの」をたべ「着るもの」を求める市民の上にむらさきの藤の花房は匂ひながら此の世の最弱所を隠さうとしゐた
突然、終わるのだ。
「此の世の最弱所」って、何? 岡井は説明しない。読者に判断をまかせている。なんだかよくわからないが、「和歌」(日本の古典文芸)につながるような何かを藤の花は隠そうとしている--うーん、藤の花を見ることで、岡井のこころは、ふっと動き、その瞬間、それまでのへんてこりんな「学」の「水準」のことばもさっと洗い流されたように消えるのだが、そんなふうに(私が感じたふうに)、「学」としてのことばの水準、それがつくりだす世界を瞬間的に忘れ、美しい抒情に流れてしまうのが、日本の「最弱所」?
あ。
それこそ「虚」をつかれたような感じで、私は何かを見失う。いままで岡井の詩を読みながら考えていたことをすっかり忘れてしまい、
むらさきの藤の花房は匂ひながら此の世の最弱所を隠さうとしゐた
これって、そのまま「和歌(短歌)」だなあ、「長歌」のあとの「反歌」だよなあ、と思ってしまうのだ。「学」の世界に対して、「和」(抒情?)の配合が、ここに突然出現してきているんだなあ、と思うのだ。
思ったからといって、それから先、どう考えるというわけでもないのだが、うーん、こんなふうに、自在に、ことばを動かし、どこへも行かず(結論など、どうでもいいという感じで)、「いま」「ここ」に存在しつづけるというのはすごいなあと思う。
(岡井隆「ロークス・ミノーリス」の初出は、「読売新聞」05月15日)
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今月のお薦めベスト3。
井坂洋子詩集『嵐の前』
奥田春美「足の裏考」
岡井隆「ロークス・ミノーリス」
(いずれも12月に発表されたものではないけれど、私が今月読んだもの。)
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2010年のお薦め詩集ベスト3
粕谷栄市『遠い 川』(思潮社)
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(思潮社)
高柳誠『光うち震える岸へ』(書肆山田)
注解する者―岡井隆詩集 | |
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