詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「ロークス・ミノーリス」

2010-12-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「ロークス・ミノーリス」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 岡井隆のことばは自在である。この「自在」というのは、ちょっと変な言い方にあるかもしれないが、目的地がないということである。ゴールがない。結論がない。いや、それがないわけではなく、ちゃんと「おわり」があるのだから、それは目的地(結論)を設定せずに動いていると言いなおした方がいいかもしれない。

まづ食べものと着るものを求めて努力せよ今までぼくはさうして来た神の国がその後でやつてくるかどうか知らないが別の徴候が来たのだぼくの結膜は春のはじめから腫れて涙腺を犯したので眼科へ走つた

 簡単に要約してしまうと、春先から目(結膜、と限定して言ってしまうところが、あ、やっぱりお医者さんだねえ)がおかしい。それで眼科へ行った--ということが書いてある。これは、ほんとうに何でもないことだ。何でもないことだ、というと岡井に対して失礼にあたるかもしれないけれど、それでどうしたの?と普通の知り合いになら私は言ってしまう。この、何でもないこと、どうでもいいことが、けれど読んでいておもしろい。
 なぜなんだろう。
 何でもないことなのだけれど、ことばにゆるぎがないからだ。そして、そのゆるぎのなさをつくりだしているのが、ちょっと「気取った」ことばである。

まづ食べものと着るものを求めて努力せよ

 この書き出しでは、「努力せよ」が「気取っている」。人間はなぜ働くか。食べるため。そして着るため。私なら、遊ぶため、と言いたいのだが、「着るため」というのは自分をかっこよく見せるため、ということかな? まあ、食べないと生きていけないから、「着るため」は脇においておいても、そのために「努力」しなければならないのはよくわかる。昔の親は、よくそういうことを言ったものである。ただし、「努力せよ」というような変なことばはいわないなあ。ひとは食べなきゃ死んでしまう。だから一生懸命やりなさい(働きなさい)、がんばれよ(「かあさんのうた」には「おまえもがんばれよ」ということばはあるけれど、「おまえも努力せよ」ということばはないね。)「意味」は同じなのだが、「努力せよ」というのは、なんといえばいいのか、ちょっと「他人行儀」なところがある。「親身」というのとは少し違う--と私は感じてしまう。
 この「親身」とは少し違う感じを、私は「気取っている」と呼ぶのだ。
 それは「神の国」になるともっと強く感じる。「神の国」が「やってくる」。うーん。「国」がやってくるというようなことはないねえ。よその国へ人間が行くことはあっても、むこうから「国」がくることはない。まあ、「お迎えが来る」というような言い方はあるけれど。--「神の国がくる」とは、「お迎えが来る」ということなのだけれど。それは簡便に言ってしまうと、「死ぬ」ということだね。「お迎えが来る」自体、気取ったというか、婉曲的な言い方だけれど、それが「神の国がくる」になると、もっと気取っている。そんな言い方を普通はしない。
 それにつづく「徴候が来た」も変だねえ。「涙腺を犯した」も変だねえ。
 そして、その「変」が、しかし、誰にでもわかる範囲で「変」ということろが、岡井の詩のおもしろさなのだ。「気取っている」のだが、その「気取り」のために言いたいことがわからなくなっているかというと、そんなことはない。「気取った」言い方なのに、書いていることがわかる。
 そして--これからが、私の言いたいこと。
 そして、その「気取り」には「一定の水準」がある。「一定の水準」が保たれている。それが「ゆるぎのなさ」をつくりだしている。私たちが、(私だけかな?)、普通つかわないことばが、そこに書かれていることを、日常なのだけれど、少しだけ違った「枠組み」のなかにとじこめる。日常から切り離して、「芸術」にしてしまう。
 このとき、その「気取り」の「水準」が乱れると、とても気持ちの悪い文体になってしまうが、岡井の場合は、けっして乱れない。岡井は、自分のことばがどこに属しているかをはっきりと知っている。
 ひとつは「神の国」というような表現にみられる「文学」。もうひとつは「徴候」「涙腺」のような、「医学」、あるいは「科学」。その「文学」「医学(科学)」に共通するのは、「学」である。--つまり、岡井のことばは「学」が「一定水準」に保たれているのだ。日常はもっと違ったことば、たとえば「がんばれよ」といってしまうところを「努力せよ」という「学」のことばで、全部、いいかえてしまう。
 そこから「安定」が生まれる。
 そして、そんなふうに「日常(とりあえず、日常、と書いておく--ほかの表現を思いつかないので)」ではなく、「学」の「水準」をたまったままことばを動かしていくと、それは「日常」とはどうしても違ったものになってしまう。「日常」から剥がれてしまう。
 その離れ具合が、またまた、とてもおもしろいのだ。

眉の太い医師は偉丈夫で昔全共闘安田城攻防で鳴らした指を伸ばしてぼくのかゆい結膜いたい眼瞼(がんけん)を翻(ひるがえ)したのち「軽症ですよただし」と言ひよどんだが「疲れていますね最も弱い部分(ロークス・ミノーリス)を病ひは襲ひますからね」ああロークス・ミノーリス久しぶりに聞く此の医用ラテン語の響きだ

 まぶたをひっくり返す(めくる)のかわりに「眼瞼を翻し」と変なことばで助走して、「ロークス・ミノーリス」という超へんてこりんなことばが飛び出す。そのへんてこりんなことばへ飛んで行ってしまう。
 あ、もうこうなると、目がかゆい、目が痛い、どうも目の調子がおかしいという「日常の肉体」のことは、どこかへ吹っ飛んでしまうね。
 何これ?
 私は笑い上戸というか、笑いだすと止まらないので、ちょっと困りましたね。笑いが止まらない。おかしくて涙が出てくる。で、笑い転げながら、岡井のことばがどんどんどんどん違うところへ行ってしまうのに、どこまでもどこまでもついていってしまう。笑っていると置いてきぼりになりそうなので、もう、何も考えない。ただ、このひとばかじゃない(失礼!)と思いながら、そういう「奇行」を、その果てまで見とどけたいという気持ちになって、追ってしまうのだ。
 岡井のことばの「一定水準」は「学」の「水準」であり、「学」というのは「奇行」なのだ。

思ひ出すのはいくつかの理由があつて古代ギリシャに接近してゐた時たとへばレッシングの『ラオコオン』が漱石の『草枕』に深く影響し『ラオコオン』はあのウィンケルマンの「良き趣味はもと希臘(ギリシャ)の蒼空のしたに形成し始めた」を思はせ(略)

というようなことばを経て、いまのギリシャの財政危機にもふれながらギリシャはもしかするとヨーロッパのロークス・ミノーリスかと書き……

身体に弱点をもつことは孫子の所謂(いはゆる)「虚」であり敵はそこを撃つなら撃たせて置けとぼくは二種類の点眼薬の処方箋(せん)をたづさへてふや急な階段を左眼をいたはりながら降りた先はデフレ傾向に揺れる夕ぐれの街で「食べるもの」をたべ「着るもの」を求める市民の上にむらさきの藤の花房は匂ひながら此の世の最弱所を隠さうとしゐた

 突然、終わるのだ。
 「此の世の最弱所」って、何? 岡井は説明しない。読者に判断をまかせている。なんだかよくわからないが、「和歌」(日本の古典文芸)につながるような何かを藤の花は隠そうとしている--うーん、藤の花を見ることで、岡井のこころは、ふっと動き、その瞬間、それまでのへんてこりんな「学」の「水準」のことばもさっと洗い流されたように消えるのだが、そんなふうに(私が感じたふうに)、「学」としてのことばの水準、それがつくりだす世界を瞬間的に忘れ、美しい抒情に流れてしまうのが、日本の「最弱所」?
 あ。
 それこそ「虚」をつかれたような感じで、私は何かを見失う。いままで岡井の詩を読みながら考えていたことをすっかり忘れてしまい、

むらさきの藤の花房は匂ひながら此の世の最弱所を隠さうとしゐた

 これって、そのまま「和歌(短歌)」だなあ、「長歌」のあとの「反歌」だよなあ、と思ってしまうのだ。「学」の世界に対して、「和」(抒情?)の配合が、ここに突然出現してきているんだなあ、と思うのだ。
 思ったからといって、それから先、どう考えるというわけでもないのだが、うーん、こんなふうに、自在に、ことばを動かし、どこへも行かず(結論など、どうでもいいという感じで)、「いま」「ここ」に存在しつづけるというのはすごいなあと思う。
       (岡井隆「ロークス・ミノーリス」の初出は、「読売新聞」05月15日)



 今月のお薦めベスト3。
井坂洋子詩集『嵐の前』
奥田春美「足の裏考」
岡井隆「ロークス・ミノーリス」
 (いずれも12月に発表されたものではないけれど、私が今月読んだもの。)



2010年のお薦め詩集ベスト3
粕谷栄市『遠い 川』(思潮社)
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(思潮社)
高柳誠『光うち震える岸へ』(書肆山田)
注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社


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杉田成道監督「最後の忠臣蔵」(★★★)

2010-12-31 01:19:51 | 映画
監督杉田成道 出演役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ

 変な恋愛映画だね。新種の恋愛映画といえばいいのかな。
 映画の中に人形浄瑠璃が出てくるが、これは人形浄瑠璃の構造を借りた生身の浄瑠璃なのかもしれない。言い直すと・・・。
 役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみの背後には「黒子」がいる。「忠臣蔵」が黒子である。3 人は自分で動いているようで、実は黒子の忠臣蔵に動かされている。
 人形浄瑠璃がそうであるように(あ、私はほんものを見たことはないのだけれど)、肉体も台詞も人形そのもののものではない。肉体は黒子が動かし、台詞はまた別の人が発している。観客がそれを結びつけ、想像力の中で「人間」にする。自分そのものにする。人形浄瑠璃を見るとき、人は「人形」そのものになる。「人形」には「肉体」がない。「声」がない。だからこそ、それを結びつけるとき、人は感情移入を完璧におこなえる。自分の肉体を重ね、自分の声を重ね、そこに自分を見る。誰のものでもない「中立(?)」の人形だからこそ、没頭できる。
 同じことが、(ちょっと、いや、かなり違うかな?)、この映画でも起きる。
 役所広司と桜庭ななみが対話するとき、その動き、そのことばは、実は彼らのほんとうのものではない。もっと別な「生の肉体」「生の声」が別のところにある。その生の肉体、生の声を観客は自分のなかから引っ張り出し、役所広司と桜庭ななみの肉体、声に重ねる。重ねるだけではなく、乗っ取る。
 そして感動する。泣いてしまう。
 「忠臣蔵」という、いま、そこにはないストーリーが、役所広司と桜庭ななみの生身の肉体、生の声を洗い流し、「抽象的な恋愛」(純化された恋愛)を描きだす。その、純化された世界へ観客は自分の肉体と声を持ち込み、自分のことと勘違いする。
 おもしろいねえ。
 桜庭ななみが茶屋に見染められる場面は人形浄瑠璃でなくても、たとえば歌舞伎でもいいのだろうけれど、映画の構造を明確にするためには人形浄瑠璃がいい。「人形」がいい。「人形」であるから、役者もまた「人形」になり、恋愛を純化するのである。

 書きそびれたが、この映画が美しい作品になっているのは、風景描写が美しいことも重要な要素だと思う。この世のものではないような純粋な森の奥。そのまわりの竹や木々。その緑。そして雪。それはあまりに美しすぎて、まるで舞台の書き割りであるが、それが書き割りに徹しているところが、また「人形芝居」にふさわしい。
 桜庭ななみという女優は、私ははじめてみたが、あ、おもしろいなあ、と感じた。




12月のベスト3
「武士の家計簿」
「最後の忠臣蔵」
「クロッシング」
いささか不毛の月だったなあ。


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川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」

2010-12-30 23:59:59 | 詩集
川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 あ、これはいいことばだなあ、真似してつかいたいなあと思う詩に出合ったとき、ちょっとうれしくなる。
 川口晴美「発熱」。

皮膚を滑りひそかにわきのしたにはさみこまれる体温計の
内部を伸びていく水銀のように
西へ向かう午後の私鉄の空いた席に座って運ばれる

 この2行目がとてもいい。私は「体温計」ではないのだが、体温計になって、川口の脇の下に挟まれ、勃起する。あ、これって、セクハラ? 体温計のなかの水銀の伸びていく感じが、「内部を」ということばによって、私の内部で「伸びる」ものを刺激するのである。
 こんな「誤読」は川口には迷惑かもしれないが、もし私が10代なら、この1行を読みながらマスターベーションをしたかもしれない。

ぬるくあたためられたからだの内部で増していくつめたさ
うごめく鈍い光は誰にも見えない

 あ、いいなあ。
 川口は川口自身の「発熱」についてていねいに書いているのだが、なぜだか、私は痴漢になった気持ちになる。
 川口の意志というか、感情とは無関係に、私は川口のことばの一部に欲情する。そのとき、きっと川口の「からだ」の内部では、冷たい憎悪がうごめいている。でもね、そのつめたい憎悪は「誰にも見えない」。
 --書いていない。そんなことは、まったく書いていない。川口は「痴漢被害」のことを書いているわけではない。
 けれども、なぜか、私はそう読んでしまう。そして、読みながら痴漢になってしまう。最後の方を読むと、(原作の全文を知らず、私の引用している部分だけを読むと)、きっと「誤読」するだろう。

それならかたく透き通った先端を突き抜けてどこまでも行ってもかまわない
砕け飛んだ殻と触れることのできない痛みを撒き散らしながら
かくされた皮膚は笑うかたちで破れるだろう
向井の席に座って眠り書けていた知らないひとが
がくりと頽れるようにうなずいて
急行電車の扉が開く

                (川口晴美「発熱」の初出は、「かばん」6月号)



 阿部嘉昭「川幅に似たからだが」も、書き出しが刺激的だ。

川幅に似たからだが
ひとのいない夕暮れに
みずから陽炎となり
水を運ぶことがあるだろう

 私は「からだ」ということばに弱い(ひきずられる)のかもしれない。
 この詩がおもしろいのは、「川幅に似たからだ」というものが実際にはありはしないことである。私は田舎の山の中で育ったが、その山のなかの小さな川でも、人間のからだの幅よりは広い。人間のからだを基準にしていうと、そんな狭い川幅など、きっとどこにもない。
 それなのに、この行にひかれてしまう。
 このとき、私は「川幅に似たからだ」ではなく、「からだの幅に似た川」を思い出しているのではなく、「からだの幅」で「川」が生まれるのを見ているのだ。ありもしないものが出現してくるのを見ている。
 夕暮れ。ゆらゆらゆれる陽炎。そこに「逃げ水」はあるか。私は「からだの幅」で「逃げ水」を見てしまう。そして、その「逃げ水」を阿部が「川」と呼んでいるのだと「誤読」する。
 「逃げ水」とともにある「遠いからだ」--それは「逃げ水」をひきつれて流れる「川」なのだ。
 このとき、「川」となった「ひと」は暑苦しいだろうか。暑苦しいかもしれない。けれど、そこにある「逃げ水」のまぼろしが、不思議な涼しさをも感じさせる。「逃げ水」が涼しいというのは幻だし、矛盾なのだが、矛盾だからこそ、そこに「正しい日本語」では書けない真実--詩という真実がある。




EXIT.
川口 晴美
ふらんす堂

昨日知った、あらゆる声で
阿部 嘉昭
書肆山田
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ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(★★★★)

2010-12-30 11:06:13 | 午前十時の映画祭
監督ジョナサン・デミ
出演ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス

 この映画の成功は、ジョディ・フォスターの力が一番大きい。まるでギリシャ悲劇の主役のように、内面に傷をかかえながら、他者(アンソニー・ホプキンス)に翻弄されながら、状況を切り開いていくのだが、低く知性的な声とシャープな肉体が、小さいながらも画面をぐいと引き締める。この映画以降、女性が「華」から「主役」へと大きく前進したと思う。
 アンソニー・ホプキンスはもしかするとジョディ・フォスターの身長に合わせる形でキャスティングされたのかもしれないが、イギリス俳優特有の立ち姿の美しさで、小さな体を大きく見せている。
 定評のある作品なので、あえて不満点だけを書いておく。
 ひとつめ。
 冒頭のクレジットが不細工。文字の大きさ、位置が目障りでしょうがない。私は、この冒頭のクレジットをすっかり忘れていた。ジョディ・フォスターが森を走っている。ジャージーの襟元と背中に汗がにじんでいる。(どうせなら、脇の下にも汗のにじみをつくるくらいのリアリティーがほしかった。)そこへ背後から大きな背中が近づいてくる。ジョディ・フォスターの小ささを生かした緊迫化のある始まりなのだが、文字が本当に邪魔である。私は記憶の中でその邪魔な文字を知らずに消してしまっていた。
 ふたつめ。
 ジョディ・フォスターがアンソニー・ホプキンスのことばを手掛かりに、連続殺人犯に迫っていく。その一番肝心な場面。ジョディ・フォスターが女友だちと会話する。「欲望の対象は一番身近にある(いつも見ているもの)」「最初の被害者にだけ重石がついていたのは発見を遅らせるため」などなど。あ、これが小説(ことば)ならそれでいいのだけれど、映画のクライマックスにこれはないだろうなあ。いや、ことばでもいいのだけれど、そのときは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが同時に画面にいないとなあ。ふたりの役者の肉体がことばを超えていれば、そこにどんなにことばがあってもいけれど、一方のアンソニー・ホプキンスが不在で、話し相手が女友だちでは、ことばが主役になってしまう。
映画の主役はことばじゃないよなあ。
だからね。ほら、
最後のシーンがおもしろいよね。アンソニー・ホプキンスの主治医が南米(?)へ逃げてきて、「安全は大丈夫だろうな」と周りを見合し、そそくさとどこかへ行く。それを金髪で変装したアンソニー・ホプキンスがゆったりと追う。結論は描かず、いつもと同じ街、人通りが延々と写される。クレジットが画面の細部を隠す。あ、もしかしたら、あの文字の陰で・・・なんて思いながら食い入るように見てしまう。
こういうシーンが映画なんだよなあ。


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入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」

2010-12-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」は、「偽記憶」シリーズの続編の一篇。「偽」という考えは、私にはとても魅力的に感じられる。私はよく「誤読」ということばをつかうが、その「誤」と「偽」は似ているようでかなり違う。「誤」はあくまで「間違い」である。けれど「偽る」は「間違い」ではない。「わざと」が、そこにある。作為がある。なぜ、「わざと」ニセモノをつくるのか。「偽」とは、いったい何なのか。

 納屋の軒端に、蜜蜂の巣箱が三つ並ん
でゐて、右はじの箱にだけ蜂がしきりに
出入りしてゐるのを、八歳の私は、何分
にも蜂の巣箱などといふものを初めて見
たことでもあつて、磨き込まれた縁側に
腰を掛けて、小半時もじつと見詰めて
--見詰めてといふよりも、見惚れてゐ
た。

 「見詰める」「見惚れる」というふたつの「見る」が登場する。そこに秘密があるかもしれない。「八歳」の子どもに対してこんなことを書くのは変かもしれないが、「見惚れる」というのは私であることを忘れることだ。「見詰める」とき、私は私のままである。けれど「見惚れる」になると、違う。私ではなくなる。私でなくなり、何になるか--それはわからないが、何か、私が私ではなくなることを私たちは願うところがある。本能的な欲望のようなものである。
 「見詰めてといふよりも、見惚れてゐた。」というのは、「八歳」のあるときの「記憶」を客観的に再現したものかもしれない。しかし、そうではなく、そこに「欲望」が含まれているというふうに読むこともできるだろう。
 私が気にしているのは「よりも」という比較である。
 「比較」というのは、実際には「現実」というか、「いま」「そのとき」にはできないことである。「見詰める」「見惚れる」というのは「いま」できる。けれど、その「いま」やっていることが「見詰める」なのか「見惚れる」のなかは「比較」できない。それは、別な時間から「いま」を振り返ったときに初めてできるものである。入沢は「記憶」と書いているが(タイトルは「思ひ出」であるが……)、その「とき」をふりかえる、「そのとき」の「いま」をふりかえることで、あれは「見詰める」か「見惚れる」かという「比較」ができる。
 そして、そのどちらかを「選ぶ」。そこに「わざと」がある。「わざと」ではなく、「正確に」という選び方もあるが、「わざと」違ったものを、「ニセモノ」を選ぶということもありうる。なぜか。
 「ニセモノ」は、「ほんもの」では体験できないことをさせてくれるからである。かなえられていない欲望を実現してくれるからである。実現されていない本能の可能性を「ニセモノ」のなかで解放するのだ。

 子どものころ、自分はほんとうはこの家の子どもではないのだという夢を見るものである。そんなことはありえないのだが、この家の子どもではないと考えたとき、底は知らない可能性がある。そういう可能性を夢見るのは人間の本能である。どんな可能性を夢見ていいかわからないから、この家の子どもではないと、とりあえず(?)自分を否定する形で夢を見るのだ。
 その「本能」を、そのまま書いていけば、それは完全な「夢」(間違った夢)になる。甘ったるい抒情になる。そこを「間違えず」に、「ニセモノ」にするために、入沢のことばは、ちょっと複雑に動く。

 夏の光の矢が降り注ぐ中で、蜜蜂の営
みはいかにも単調に続き、さすがにそろ
そろ見飽きた頃、異変が起つた。

 「見飽きた」が絶妙である。「見詰める」、「見惚れる」、そうして「見飽きる」というのは単なる「時間」の変化ではない。「見惚れる」から「見飽きる」は、いわば「夢」からさめるのである。現実にもどる。
 これは最初の段落で注目した「よりも」に似ている。「比較」する行為にいくらか似たところがある。「現実」「客観」というものによって「ニセモノ」のなかにしのびこんでくる「甘ったるさ」を排除するのである。ことばは「客観的」であればあるほど、ニセモノなのである。本能とは遠いところを動いているのである。
 装われた「客観」から「わざと」がはじまる。「わざと」というのは、あくまで「現実」に対する明確な認識があり、その認識を裏切って動くことなのである。

 入沢は、いや、それは「わざと」ではない。実際に「見飽きた」ころに起きたことなのだというかもしれないが、そうだとしても、ここでいったん「現実」にもどることが、次に起きることが「見惚れた」、つまり「私が私でなくなった」状態に起きたのではなく、「見惚れる」と「見飽きる」の境目に起きたことを明らかにする。
 入沢は「わざと」境目--境界をつくり、その「境界」で、ありえないことを存在させるのである。どんなありえないことでも、「境界」線上でなら起きうる。「境界線」というのは「もの(存在)」の力関係が揺れ動いている「場」だからである。「境界線」が「右、左を分けるのか、上下を分けるのか、あるいは此岸と彼岸をわけるのかわからないが、その境目にはふたつの力が押し寄せてくるのだから、そこでは何が起きてもいいいのだ。此岸のことが起きようが、彼岸のことが起きようが、そこには両方の論理が動いているので、どちらが間違っているとはいえないのである。

 蜂たちがいつせいに巣箱から飛び出し、
中空に群がつたまま渦を巻き、その渦が
しばらくは右に左にと揺れ動いたあと、
ほぼ一ヶ所に留まり、回転の速さは益々
はげしくなつて……

 この段落の文章は完結していない。途中で終わっている。これは、ここから「論理」が飛躍することを意味する。此岸か彼岸であるか、断定せず、「境界線」そのものになり、「境界線」を「線」ではなく、ひろがりのある「場」にしてしまう。
 それは飛躍であると同時に、潜入であるかもしれない。ある一点への潜入。そして、潜入することによって、その小さな「場」を自分の「肉体」のサイズに合わせて拡大していく--ということかもしれない。
 それは、新たな「見惚れる」ということにならないだろうか。
 「見惚れる」というのは、私が私でなくなることだが、それは私を対象のなかに放りこんでしまって、私が「対象」になるということでもある。
 そこで何が起きるか。何を起こしたいのか。

 そして、その渦の中心部に、差し渡し
一尺ばかりの空洞があってそこにまるで
ガラスの薄膜ででもできたかのやうな透
明な球体がしつかりと嵌まつて激しく光
り輝き、その眩しさ故に、しかとは見極
められなかったものの、女雛のやうなき
らびやかな衣装を着けた小さい小さい生
き物--小人か、それとも、ひよつとし
たら姫神?--の姿が見え隠れしてゐる
のだつた。

 ここに描かれているのは「女王蜂」と呼ばれるものをかもしれない。「女王蜂」ということばを「八歳」の入沢は知っていて、その知っていることを手がかりに「女王」というものを、ことばの力で見ようとしたのである。
 これは、とてもおもしろいことだと思う。
 「見惚れる」、「見惚れる」ことによって、私が私でなくなるというときにさえ、私たちは「知っている」ことを土台にする。
 ここでは、これまでに見てきた「客観」ということが別の形でおこなわれている。「現実」というか、たしかに存在しているものを手がかりにして、私たちはニセモノの世界へ入っていくのである。ニセモノをなんとか「ほんもの」にするために、現実に確実にあるものを出発点にするのである。
 「見詰める」(客観)、「見惚れる」(客観の喪失、主観への没入)、「見飽きる」(主観からの覚醒)を経てきて、「客観」を土台にして、もう一度「主観--本能」の方へ逆戻りしてみる。「本能」が「見惚れる」ではなく「見詰める」ことができるとしたら、いったい何を「見詰める」ことができるのか。--それを探る。
 あ、これは、もはや「記憶」ではないね。
 「記憶」を借りた人間の「可能性」の追及である。「ニセモノ」をかたることで、入沢は、ことばの「本能」の可能性を探っているのである。

 そして、ここにもうひとつ「見る」が出てくる。
 見極める。
 ただし、それは「見極められなかつた」という否定の形で出てくる。

 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」ということろから、一瞬の錯覚のようにして触れた「見惚れる」(見惚れた)世界へ逆戻りする。「見飽きる」というときの「客観」に逆らって、「本能」もまた「覚醒」するのである。「見飽きる」と感じたが、それはほんとうに見飽きたのか。まだまだ「見詰める」ことができなかったものがあるのではないのか。ほんとうは、「いま」「ここ」で起きていること以上のものを知りたくて「見詰め」たのではないかったのか。「見つめる」も「見惚れる」もほんとうは「完結」していないのではないのか。「見飽きる」が、かりそめの「完結」を引き起こすので、その運動に逆らうようにして、本能が目覚める。
 入沢のことばは、何か、そういう「往復運動」をしながら、書こうとして書けないもの、「書き切れなかったもの」(書き極められなかったもの)を暗示する。提示する。
 それこそ、たどりつけない「本物」なのだ。
 「本物」を暗示する--暗示という形で提示するために「ニセモノ」を入沢は書くのである。「偽・記憶」にしてしまうのである。


 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」「見極める」--この「見る」をめぐる運動のなかに「わざと」がある。入沢は、「わざと」そういう運動をさせながら、「ニセモノ」を作り上げる。そのとき「ニセモノ」は、ことばではたどりつけない「本物」になる。そして、もし「本物」があるのすれば、そのときの「本物」に「なる」の「なる」という運動のなかにだけある。 
 意識の変化、意識の運動が、「もの」をつくる。「もの」は最初からそこにあるのではなく、意識の運動とともにそこに「ある」。それは、意識の運動、ことばの運動によって「ほんもの」にもなれば「ニセモノ」になる。
 そこにあるのは、「なる」という運動だけである。たしかに存在するといえるのは「なる」という運動だけである。

 「偽」(ニセモノ)とは、まだ「見極められていない」本能の「本物」のことである。それが見極められないのは、それが「ある(存在)」ではなく、「なる(運動)」だからでもある。

 *

 入沢の、この「偽記憶」シリーズは「散文」の形を借りて(装って)書かれている。「散文」というのは「事実」を積み上げて書かれるものである。「客観」こそが「散文」のいのちである。
 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」「見極める」(見極められない)という動きのなかに、常に「客観」の揺れ戻しがある。「客観」を「わざと」組み込みながら、入沢は「主観(本能)」の運動そのものの軌跡へと入り込む。
 「わざと」「客観」を組み込むために、「散文」という形式が選ばれているのである。この「偽記憶」シリーズは、行わけの形式では絶対に書かれることはない。

        (入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」の初出は「びーぐる」8、7月)
かりのそらね
入沢 康夫
思潮社

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田原「階段 画家廣戸絵美に」、高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」

2010-12-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「階段 画家廣戸絵美に」、高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 田原「階段 画家廣戸絵美に」はちょっと不思議な詩である。

陽射しは階段の暗闇を締め出している
時間の大きな流れが
階段にそって勢いよく流れ
ひっそりした空間は埋没しているように見える

絵筆を持った手は
光を持ち上げるように
階段を暗闇のなかに復元し
立体の現象を平面の抽象に変える

 私はまったく知らないのだが、廣戸絵美という画家には「階段」という作品があるのだろう。そしてその作品を見て田原がこの詩を書いた。そこまでのことはわかる。しかし、そのあと、私にはちょっと変なことが起きるのである。

陽射しが階段に反射する光に
感動。人生は何と似ていることか
反射光のなかに漂っている雲に
太陽の移動につれて とりとめもなく変化して消える
そうしてまた太陽の昇るにつれて現れる

 私は「絵」ではなく、ほんものの階段を思い浮かべてしまうのである。廣戸絵美とその作品を見たことがないせいもあるのかもしれないが、どうしても「絵」が浮かんでこない。
 なぜだろう。
 「太陽の移動につれて とりとめもなく変化して消える/そうしてまた太陽の昇るにつれて現れる」。太陽の移動とともに、消え、また現れる。暗くなると見えなくなり、明るくなるとまた見えるようになる。--この現象のなかに「時間」がある。ものが見える、見えないという変化、見るということが「時間」としてとらえられているからだと思う。
 「絵」とは「時間」ではなく「空間」として存在している。
 ピカソの作品のように、ひとりの顔のなかに複数の表情が描かれるときでも、それは「複数の時間としての表情」ではなく、「一瞬のなかの複数の表情」の同居である。朝喜んでいたが、昼に怒り、夜に泣いた、という顔ではなく、喜びと怒りと哀しみが同居してしまう「瞬間」としての顔である。そこには「時」はあっても「時間」はない。
 けれども、それがどんな絵であるかわからないのだけれど、田原は廣戸絵美の絵に「時間」を見ている。「時間」とともに表情を変える「絵」--その「絵」の向こうにある「時間」を見ている。
 そして、その「時間」は次のように変わる。

階段は一つの秩序と規律
その哲学のなかに奥義を宿している
階段は一種の沈黙
暗闇と孤独の圧迫に黙々と耐えている

 「時間」のなかに「哲学」がある。「時間」によって、あらゆることが積み重なり、そこに「哲学」が生まれる。あ、さすがに中国、歴史の国の詩人なんだなあと思ってしまう。
 田原の詩を(ことばを)読んでいて、どうしてこんな具合に「世界」が見えるのかなあ、とときどきびっくりすることがあるが、それは田原が「世界」を「時間」として見ているからだろうと思う。田原のことばの底から、ふいに「時間」が噴出してくるのである。それは日本の短い(?)歴史を一番奥底から突き破ってくるような「時間」である。

階段にはいろんな構造と材質がある
急な階段、緩やかな階段、広い階段、狭い階段、
そうして木の階段、セメントの階段
しかし必ず実行する仕事は一つしかない
昇ると 太陽の距離が縮まる
降りると 地平線や広々とした大地へ出る

 まいるなあ。「中国」の「長大な時間」から世界を見ると、階段を上り下りするだけで「太陽との距離」がかわるのだ。私の感覚では階段を上ったくらいでは太陽との距離なんかは変わりっこないが、田原は変化を感じる。「長大な時間」の単位は、実はとても「精密」なのだ。「精密」だけが「長大」という広がりまで測定できるのだ。
 階段を降りて歩き回るのは、私はせいぜいが1階、がんばっても家の近くの公園くらい。連れている犬の気分次第ではあっちの公園、こっちの公園と歩き回るけれど、地平線を感じる(認識できる)ほどの「大地」へは降り立ったことがない。
 「時間」は「空間」「立体」さえも変化させてしまうのだ。

 一枚の絵(それとも廣戸絵美には何枚もの階段シリーズの絵があるのかな?)から、こんなところへまで行ってしまう田原のことばに驚いてしまう。これでは、廣戸の絵ではなく、田原の階段哲学である。



 高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」にも「絵」が登場する。

肖像画の女性は 見つめる
誰を? とりあえず私を
いいえ 私をつきぬけて 向こうを
そのまっすぐな矢によって
私は消去される
女性は消え失せている

 ここにかかれていることばは、田原のことばとは対照的である。肖像画の視線は、絵を見つめる「私」を突き抜けて遠くまで進む。その結果、私は消え失せる。存在しなくなる。そうしたことが起きたあと、肖像画を見ると、女性も消えている。
 あ、絵は、見るひとがいてはじめて存在するのものだ。
 見るひと(私)が消えてしまえば、絵もまた消えるのである。
 --この哲学は、とてもおもしろい。また、私としとは、田原の哲学に比べるとずいぶんとなじみやすい。よくわかる。わかるなあ、この感覚。
 でも、繊細だなあ、と思ってしまう。繊細が悪いというのではないが、感覚的過ぎて、こわれてしまわないか不安になってしまう。田原の哲学は、どんなに叩いてもこわれないというか、こわれてもそのこわれたところがまた哲学になるという感じだが、高橋のことばは「箱」にいれて大事にしまっておかないと消えてしまうそうな感じがする。

 (田原「階段 画家廣戸絵美に」の初出は「新美術新聞」4月21日、
  高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」の初出は、詩集『箱宇宙を讃えて』4月)

石の記憶
田 原
思潮社
未来者たちに
高橋 睦郎
みすず書房

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毛利珠江『みみぱぁまぁ』

2010-12-27 23:59:59 | 詩集
毛利珠江『みみぱぁまぁ』(書肆山田、2010年11月30日発行)

 毛利珠江『みみぱぁまぁ』は花を題材にした詩集である。「れんげそう」もまたレンゲのことを書いているのだが、主題(?)の花に入る前の部分がおもしろかった。

夜のプールに行った。ねじれた水着の肩ひもを直す気にもならなくて、光り揺らぐ水面に足先から入る。もぐるわたしを水が閉じる。

 「水が閉じる」がとてもいい。この記憶を「肉体」にかかえたまま家に帰り、眠る。眠っているが、夢見ているのか、目覚めているのか、あいまいになる。その部分。

時々波の頂から落下するのは誰かがバタフライで泳いでいるからだ。そのままゆだねていよう。崩れたうねりの先端が勢いよく耳に入る。奥からうねりが引き返すとき、抜けなかったプールの水もさらってくれる。体温にあたためられたプールの水が冷たい水にとめどなく流れ出て、排水溝に落ちる。ざざざーざざざー同じリズムで落ちる水音がわたしの内にあるのか外なのか区別がつかない。

 「水が閉じる」とき、「わたし」は水にとじこめられる。そして、体内に水が浸入してくる。その水は「体温にあたためられ」、「わたし」の一部、いや、「わたし」そのものになる。それが、夢のなかに押し寄せてくる水と混じり合って、「わたし」から出て行く。
 このときの感じは、詩の冒頭の部分に重なり合う。

夜のプールに行った。ねじれた水着の肩ひもを直す気にもならなくて、光り揺らぐ水面に足先から入る。もぐるわたしを水が閉じる。光の帯をすり抜ける。壁を蹴ってゆっくりターン。夥しい気泡がからだにまとわりついてゆらぎ、はじける。それは消えていく記憶のかけらのようだ。小さく透明になって皮膚を突き破りあぶくになって脱け出てゆくのだろうか。いま離れていったものは何だろう。

 「わたし」を「水が閉じる」。「水に閉じられたわたし」のなからから「皮膚を月や出って」何かが水のなかへでていった。それがプールでのできごと。そしてベッドのなかでは、「わたし」のなかから「体温にあたためられプールの水」が流れ出る。その水はきっと、プールのなかでターンしたとき出ていったもののかわりに入ってきた「水」なのだろう。
 「わたし」の「からだ」から何かが出て行く。そのとき何かがはいってくる。内と外が瞬間的に入れ代わる。そういうことを体験したあと、水のこぼれる音を聞く。それは「わたし」の「からだの奥」から流れ出たはずのものなのだが、夢のなかでその音だけを聞いていると、その音が「内」にあるのか「外」にあるのかわからなくなる。
 これは「内」と「外」が「ひとつ」のものになる、ということだ。「内」と「外」の区別などないのだ。瞬間瞬間にそれはいれかわりながら存在する。区別しても意味がない。この自己の内・外の未分化を毛利は何度も何度も繰り返し書いている。
 この区別のない「世界」が、たぶん、毛利の「理想」の世界なのだ。
 「ミミ・パーマー」。

蘭園主が何か言いながら黒い日除けケットをめくってくれる。水の滲みこんだ土に足を踏み入れる。指さす先。ついに匂いを発する蘭を手に入れた。かかえる胸に触れてくる。しっとりしているのはわたしの皮膚だろうか。

 蘭の「におい」。その「におい」を感じるとき、「におい」が「わたし」の「内」に入ってくる。そして、「内」と「外」が区別がつかなくなる。

しっとりしているのはわたしの皮膚だろうか。

 毛利は1行しか書いていないが、そこには書かれていない「こと」がたくさんある。しっとりしているのは「蘭の匂い」だろうか。しっとりしているのは「蘭の花びら」だろうか。しっとりしているのが「わたしの皮膚」だとしたら、それは「蘭の匂い」が「わたし」の「内」に入ってきて、その結果「わたし」が「蘭の花」になったせいだろうか。「わたし」はいま「蘭の花」なのだろう。車に、蘭を運び……。

ドアを閉める。ほのかな香りは遠くに見える熱帯雨林の森からとどいてくるかのようにかすかだ。

 このとき、毛利は、遠い森にいるのだ。そして、それは次のように繰り返される。

揺れながら湿った森の奥、苔を割って誕生する野生の蘭を想像した。

 「想像する」とは、そのものに「なる」ことだ。毛利は、湿った森の奥で、苔を割って誕生する。生まれ変わる。野生の蘭に。
 ことばを書く--ということは、私が私ではなくなること、書いたものになってしまうことである。私とは対象が入れ代わってしまうのである。この入れ代わりを、毛利は「誕生」と考えている。
 そして、こういう「誕生」は、「ことば」の動いた範囲までの「誕生」である。いいかえると、「誕生」というところまでは、ある程度ことばを書き慣れてくるとだれでもたどりつけるのだが、そこから「生きる」ところまで書いていくのは、実は、むずかしい。毛利は、その「誕生」を超え、「生きる」いのちを次のように書いている。

袋の内壁に黄色い花粉を塗りつけたような円い模様が滲んでいる。香りを分泌しているのはここかもしれない。動かすとカオリが飛び出てきそうだ。頬杖をつき嗅ぐ。嗅ぎ続ける。だるくなる。木目の渦で腕を囲んで横顔を埋めると、からだ全部が溶けた目蓋に覆われた。カオリは透明なカプセルに詰められ、何かに導かれ、わたしを巡って葉裏のようなところへ運ばれてゆく。蜂の巣状に溜め込まれたカオリは体温で保たれ、数週間でとろりとした体液になる。

 プールの水が体内であたためられたように、この作品では「カオリ(におい)」が体温であたためられる。そうすると「カオリ」は「体液」になる。蘭として生きはじめた毛利の「肉体的変化」である。
 「生きる」とは「変わる」ことなのだ。--これが、毛利の「肉体」であり、「思想」だ。書くということ、ことばをとおして「肉体」が「変わる」ということが。


みみぱぁまぁ
毛利 珠江
書肆山田

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時里二郎「卵歌」

2010-12-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「卵歌」(「ロッジア」9、2010年12月20日発行)

 時里二郎「卵歌」は「『水郷ノオト』抄」というサブタイトルを持っている。そして、その冒頭に、次のように書いている。

○これは「水郷ノオト」と名づけられた父のノオト類からの抄出である。抄出部分の選択、及びその意図と順序は、ひとえにぼくの恣意によることを断っておきたい。

 私は、この「前書き」を信じていない。時里の「父」が歌人であったこと、その父が「ノオト」を残しているということ、それを時里が抄出しているということを信じていない。それらはすべて時里の創作であると思っている。
 私は時里の熱心な読者とはいえないかもしれないが、時里の書いている「ことば」と「父」のことばの区別がつかない。もしほんとうにここに抄出されているものが「父」のことばなら、時里と「父」はあまりにも似すぎている。「一卵性双生児」を通り越して似ている。

 ヨウハヒトデハアリマセヌ

 一息あつて、

 ケモノデモアリマセヌ

 わたしが葦間の見えない声と交はしてゐた対話をうかがつてゐたかのやうに、ヨウはさう言つた。

 ヨウハウタデス
 ウタヲフルハセルノドデス

 少女に「ヒトデハナイ」と言わせている。これは実際に「父」が体験したことではなく、「父」の創作だろうと私は思う。時里は「父」の「ノオト」を捏造し、その捏造のなかで「父」に「少女」を捏造させている。--この「入れ子構造」と時里のもっとも好きな「構造」、ほとんど「肉体」といっていい「思想」である。
 そして、その「入れ子」のなかで捏造されていることが、またまた時里の「思想」である。
 少女は、自分のことを「ウタデス」という。つまり、「ことば」であると言うのだ。そして、そのあとがとてもおもしろい。

 ウタヲフルハセルノドデス

 「ウタ」、つまり「ことば」であると言ったとたんに、それを「ノド」と言い換える。「ノド」とはもちろん「肉体」である。時里にとって「ことば」と「肉体」は同一のものなのだ。それは切り離せないものなのだ。
 「ウタ」といって、「ウタヲフルハセルノド」であるというのは、一種の「矛盾」である。もし「少女」が「ウタ」ならば、「ウタ」を「フルハセル/ノド」というのは別個の存在でなければならないはずである。別の存在でなければ、「ノド」は「ウタ」を「フルハセル」ことはできない。他動詞として動くことはできない。
 この「矛盾」はどうやったら乗り越えることができるか。
 実は、とても単純である。
 「ヨウ」という「少女」も「ウタ」(ことば)も「ノド」も同じもの(ひとつのもの)であると考えればいいのである。「一元論」である。
 「世界」に存在するものは「ひとつ」である。「ひとつ」のものが、ときと場合に応じて、その瞬間瞬間に、それにふさわしい「もの・こと」になるのである。あるときは「ヨウ」という「少女」になり、「ウタ」になり、その「ウタ」を声にしてしまう「ノド」になる。
 あらゆる「捏造・創造・想像」は時里(父)という詩人(歌人)が「いま」「ここ」にいて、「世界」を思い描くとき、その「ことば」とともに「あらわれる」。「ことば」にするときだけ、「いま」「ここ」に「ある」。それも、「少女」に「なる」、「ウタ」に「なる」、「ノド」に「なる」という運動によって「ある」。

 こういう「世界」では「父」は「父」のままではありえない。「父」は「時里」に「なる」。あるいは、「時里」は「父」に「なる」しかない。
 そして、こういう運動(一元論の世界)では、どっちが先かと問うことは無意味である。「父」がいて、その子として「時里」がいるのか、あるいは「時里」がてい、その「親」として「父」がいるのか。どっちでもない。「時里」が子であるとき、つまり「父」を思うとき、そこに「父」があらわれ、「父」の存在によって「時里」は子に「なる」。
 このとき「ことば」はだれのものでもない。そのことばを使った者のものになる。

 だから。

 この、だから、はちょっと曲者なのだが、もし、ほんとうに時里が「父」の「ノオト」を抄出しているのであっても、そのことばが時里を潜り抜けた瞬間から、それは「父」のことばではなく、時里のものになる。
 その「ことば」の選択が、「恣意による」ものならなおさらである。たとえ「父」が書いたものであれ、それは時里のことばになってしまっている。
 ことばは「書いた人のもの、言った人のもの」ではなく、それを「読んだ人のもの、読んで使った人のもの」なのだ。
 だから、私は言うのだ。たとえ時里が私(谷内)の読み方が「誤読」であると言おうとそんなことは私には関係ない。時里に、そんなことを言われる筋合いはない。私がそのことばを読んだのだ。どう読むかは私の勝手なのだ、と。
 作者の「意図」とは無関係に、それを無視して「読む」のが「読む」という行為のすべてなのだ。時里も、「父のことば」を「恣意によって」読んでいる。順序を入れ換えさえしているではないか。





翅の伝記
時里 二郎
書肆山田

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粕谷栄市『遠い 川』(19)

2010-12-25 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(19)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「残月記」。この詩でも、粕谷は、ただただ同じことを繰り返している。どこまでいっても同じである。私の感想も、だから同じことの繰り返しになるのだが、繰り返しであるけれど、書きたくなるのである。

 遠い天に、小さな三日月の出ている砂丘ばかりのとこ
ろだ。杖をついて、一人の老人が歩いている。
 そのあとを、同じく、杖をついて、別の老人が、歩い
ている。そのあとにも、低く腰を曲げて、杖をついて、
歩いている老人がいる。それだけではない。そのあとに
も、さらに、そのあとにも、低く腰を曲げて、杖をつい
て歩く老人が、どこまでもどこまでも、続いている。
 遠い天に、小さな三日月の出ている砂丘ばかりのとこ
ろだ。そこを、蟻のように、一列となって、同じような
老人たちが、杖をついて歩いているのだ。
 気がつくと、自分も、その一人だ。自分の前を行く老
人の背中を見て、同じく、杖をついて歩いている。
 いつから、どうして、自分がそうしているのか、考え
ようとするのだが、歩くほか、何もできない。とにかく、
一歩ずつ、前の老人のあとを、歩いている。

 要約すると、老人である私は、老人の列に混じって、杖をついて歩いている--というだけになってしまう。天には三日月が出ている、とか、低く腰を曲げて、とか、補足することはあるけれど、そんなことは補足したってはじまらないようなことである。
 この詩で重要なのは、「考えようとするのだが」ということばだ。
 要約すれば30字足らずですんでしまうこと。けれど、それを「考えようとすれば」どうなるだろうか。考えようとすれば、それは、同じことばを繰り返すしかない。考えるということは、同じことばを、ひたすら繰り返すことなのだ。考えに新しいことばなどやってくることはない。いや、やってくるにはくるかもしれないが、それは忘れたころにやってくる。ただそれまで、ひとはひたすら同じことばを繰り返すだけなのだ。しかも、面倒くさいことに(?)、間違えずに考えようとすると、それはどうしたって同じことばの繰り返しになってしまう。新しいことばが正しいという保証はどこにもない。だから同じことばを繰り返すのだ。--もちろん、繰り返したことばそのものに間違いがないかというと、あるかもしれないのだが、同じことばを繰り返している限り、繰り返されることには間違いがないという、変な(?)「真実」が生まれてしまう。同じことばを間違えずに繰り返すことができた、という「真実」が生まれてしまう。
 この新しく生まれてきた「真実」を修正するのはむずかしいなあ。

 永い人生を過ごして、老人が、杖をついて歩くことは、
知っていたが、自分が、ここで、そうしなければならな
いとは、思いもしなかった。一歩ずつ、杖をついて歩い
ていて、考えることといえば、そんなことだ。

 この部分は、いろいろに書き換えながら読みたくなる。
 私は、ついさっき、新しく生まれてきた「真実」について書いたが、その新しく生まれてきた「真実」を、粕谷は「こと」と呼んでいる。「考えることといえば、そんなことだ。」ということばのなかで繰り返される「こと」。
 繰り返していると、繰り返しが「こと」になる。「こと」というのは、間違いを含まない。そして間違いを含まないという点で「真実」なのだ。
 そして、繰り返しによってうまれた「こと」は修正ができない。
 老人になれば、ひとは腰を曲げてて、杖をついて歩く--その「こと」。それは、永遠にかわらない「こと」だが、それは最初から「真実」だったのではなく、多くの老人によって繰り返され、「こと」になったのだ。いや、老人になったら腰をまげ杖をついて歩くのは絶対的な「真実」だから、それを老人が繰り返しているだけ--ということもできるのだが、「こと」と「真実」のどちらが先かは、ニワトリと卵のどちらが先かというのに似ていて、意味がない。そこには繰り返しと、繰り返される「こと」が「真実」であるということ以外の何もない。
 こういう「こと」のまえで、人間は何もできない。

知ってはいたが、自分が、ここで、そうしなければならなかったとは、思いもしなかった。

 あ、この「思い」ということば。「思い」は繰り返さない。一回限り。粕谷にとって、考えもしなかったことというのは存在しないだろう。ところが「思いもしなかったこと」というのは、たぶん、無数にあるのだ。
 考えは繰り返され、考えた「こと」は、知識(知る)になる。いや、知る「こと」を繰り返せば、そしてその知った「こと」は積み重なって「真実」になる。
 「思い」はそうではなくて、いつでも「間違い」なのかもしれない。「思いもしなかった」ということは、それまで「思っていたこと」は、その瞬間から「間違い」になる。

考えることといえば、そんなことだ。

 考える。繰り返し、考える。そして、どうなるのだろうか。

 そして、既に、気がついているのだ。何ものかに導か
れて、このまま、自分は歩き続ける。やがて、ありもし
ない永遠の虚無のなかに消えていくのだと。

 考えは虚無に消えていく。これは考えは虚無にしかたどりつけないということである。そして、それに粕谷は「気がついている」。
 人間の精神(心?)の動きにはいくつもの種類がある。「思い」があり、「考え」があり、そして「気」がある。

 うまくいえないが--つまり直感としてしかいえないのだが、粕谷は、「気」の領域に到達している。「思い」「考え」「気」というものがあるとすれば、その最高位(?)にあるものを「気」と「気がついている」。
 この詩集は、そういう詩集である。この詩集を統括しているは「気」なのだ。粕谷は「気」に到達しているのだ。
 人間をつくっているのは「気」である。「気」には間違いとか、正しいとかはない。それは一定ではないということで一定している。一定ではないがゆえに、一定でありうる。たぶん、そういう点で、「思い」や「考え」とは違うのだ。

 「気」は「思い」や「考え」より、はるかに「あいまい」である。--ここで、私は、また岡井隆のことばを勝手に拡大解釈して借りるのだ。
 「気」は「あいまい」であるがゆえに、絶対的なのだ。

 私は、いま、粕谷のこの詩集について何か書かなければならないことがあるとすれば、この「気」についてだと気がついたのだが、それはまだ「気」なので書けない--とだけ、書いておくことにする。


遠い川
粕谷 栄市
思潮社

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山本楡美子「航行」

2010-12-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本楡美子「航行」(「ぶりぜ」9、2010年12月10日発行)

 きのう読んだ岡井隆の『詩歌の岸辺で』(思潮社)のなかに、詩なのだから「あいまい」でいいのだ、というようなことが書いてあった。私は、そのことばがとても好きだ。で、岡井が書いていた前後のことを無視して、詩の意味など「あいまい」でいいのだ、詩の論理など「あいまい」でいいのだ、と勝手に言い換えて、「座右の銘」とすることにした。--あ、これは、都合が悪くなったら、岡井隆は詩のことばの論理はあいまいでいいのだと言っているように……と言い逃れをするのに利用する、という意味である。
 で、さっそく、そういう例に出合った。作者がどういうつもりで書いているかよくわからない、ことばの論理(意味)を正確に理解することはできないけれど、とても気に入った作品がある。その作品が好き--という「根拠」に、岡井の言っていた「あいまい」を利用したい。というか、「あいまい」なところを、私は私の勝手な「誤読」で補い、ここがいい、というために利用したいのだ。
 山本楡美子「航行」は2連目がとても魅力的だ。

島は海ののど
ひと笛で
わたしから船が出る
フェリーを降りるのは
水の上を渡ってきた旅人
波光が
(泊まっていくのか 帰るのか
(泊まっていくのか 帰るのか
と繰り返す

 この2連目の書き出しの3行が、私にはセックスの絶頂のときの歓喜の声に思えるのだ。
 「島」というのは「わたし」。(詩は私小説ではないけれど、まあ、私はこの「わたし」を山本と思って読む。)「海」というのも「わたし」。
 男がやってきて、セックスをする。「わたし」の「海」のなかへと漕ぎだしてくる。「海」のなかには「島」がある。男は、そこへたどりつく。絶頂である。そのとき、「わたし」も絶頂を迎える。声が洩れる。「のど」から。「わたし」は「海」であり、「島」であり、いま、ふいに「わたし」自身にかえり、「のど」が別の生き物となる。「笛」になる。「笛」のなかを息が通り抜ける。声にはならない。
 そのとき、「わたし」から、つまり「島」から船が出る。男は、その船の客である。
 男は船(フェリー)からおりる。また船にのる。どちらかに限定はしない。男は船を降り、また船に乗る。男は海を渡ってやってくる。そしてまたぞこかへゆく。「泊まっていくのか、帰るのか」。これは、同じこと。泊まっていったって帰るし、帰ったって、また泊まりに来る。
 セックスは、互いに行き来するものである。往復するとき、「意味」や「論理」は常に相互に入り乱れる。わからなくなる。厳密に「意味」を固定せず、「あいまい」にしておけばいいのである。
 「あいまい」ななかで、「島」「海」「のど」「笛」「船」が次々に存在のあり方をかえながら、セックスそのものになる。それはまるで、セックスに夢中になって、しらずしらず体位をかえるようなものである。そして、それは、どんなに体位をかえようとも、セックスしているということ自体はかわらない、いや、かえること、かわることで、「いま」を超えてしまうというところが、まことにおもしろい。

 で、(で、というのは便利なことばで、何が「で、」なのかわからないくても、「で、」と言ってしまうと、なんとなく、何かを言っているような感じがするので、私は愛用してしまうのだが……)
 なぜ、2連目をそんなふうにセックスにこだわって読んでしまうかというと、1連目がやっぱりセックスを書いていると思うからなのである。
 ほんとうは1連目、2連目の順序で書けばよかったのかもしれないが、2連目がともかくおもしろかったので先に書いた。これから書く1連目に関することは、いわば補足。

海に浮かぶ
果てるまで
重なりあう山の向こうの
一番大きな島
聳え立つサトウキビの根方に
汗まみれのひとふたり
いもうとが走ってくると
近くのものが遠のき
樹の悲鳴が聞こえる

 この1連目、その最後の部分で、私はどうしてもセックスを感じてしまう。「いもうとが走ってくると/近くのものが遠のき」というのは、女が(わが妹は、と古い歌でいうときの「妹」、いもうと)走ってくると、まわりにいたもの(近くのもの)が遠のく。男と女と二人だけにする。で、サトウキビ畑で、セックスがはじまる。「樹の悲鳴が聞こえる」は、遠くの森の樹の悲鳴とすると、ちょっと変な状況になるが、つまり麦畑で歓喜の声(悲鳴)があがるはずなのに、なぜ、樹? という疑問が生まれてくるが、それこそ岡井隆がいっているように「論理(意味)」は「あいまい」でいいのだ。遠い樹のところまで下がった人々が、ふたりの声を「悲鳴」のように聞いた、という意味であってもかまわないのだ。
 そこから詩の行の展開とは逆の方向に、私の意識はもどっていく。「汗まみれのひとふたり」。これは、実はセックスをしているふたりである。ふたりがセックスをしているのに、そのあと「妹(女)」が走ってくるというのは変かもしれないが、それは、「いもうとが走ってくると」以下の3行を、あとから付け足した説明と考えれば解決する。つまり、なぜ、ふたりがあせまみれかって? それは、女が走ってきて、男とセックスをはじめたからさ。わたしらは(これは、近くにいたもの、ということだね)、ふたりに遠慮して遠く、樹の陰に隠れていたんだよ。でも、そこまで声が聞こえてきた。「悲鳴のようにね」。
 そんなふうに読んでしまうと、それに先立つ部分も、ずいぶんとセックスを暗示させる。「果てるまで」は絶頂にたどりつくまで、と読むことができる。「重なり合う」はもちろん肉体が「重なり合う」ことであり、セックスそのものだね。

 山本はセックスなど書いていない、こんな感想は谷内の「誤読」だ、というかもしれない。
 そんな抗議は、しかし、私は気にしない。
 ここにはおおらかなセックスが書かれている、と読むとき、私は楽しくなる。だから、そう読む。どんな文学も、それは読まれたときから、読んだもののものなのだ。書いた人のものではない、と私は思っている。


森へ行く道
山本 楡美子
書肆山田


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アーサー・ビナード「機上のおどり」

2010-12-24 12:44:55 | 詩(雑誌・同人誌)
アーサー・ビナード「機上のおどり」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 アーサー・ビナード「機上のおどり」は飛行機の乗務員が非常時のときの脱出方法説明するときの様子を描いている。飛行機に乗ったことがあるひとなら一度くらいは見たことがあるだろう。

まず両手を合わせて伸ばし、前方と中央と後方の非常口を指し、続いてシートベルトのバックルのはめ方と外し方を見せる。それから酸素マスクを軽く引っぱり、口につける動作、次に救命胴衣を着てもし膨らみが足りなければフーフーと息を吹き込むふりまでする。

 何も新しいことは書いてない。そして、何も新しいことが書いていないということが、実は、新しい。
 何も新しくないから、きちんとことばにすると、そこに、本来そのことばが指し示しているものとは違っているものがまじりこんでくる。アーサー・ビナードの「体験」が、「肉体」がまじりこんでくる。

一つ一つ彼女の所作にひきこまれて、盆踊りを教わった夏の夜の感覚がよみがえる。指して回り、はめて外して、引っぱって、フーフーと。

 ことばにしてみると、盆踊りがまじりこむ。踊りを教わるとき、アーサー・ビナードは、単に見て、それをなぞっただけではないことがわかる。「はい、そこで、手を伸ばしてあっちを指して……」という具合に。「肉体」の動きには「ことば」がついてまわるのである。だから、「ことば」で肉体を描写してみると、そこに「肉体」が紛れ込んでくる。そのことをアーサー・ビナードは「発見」している。それが新しい。
 さらに、そういう「動き」を「動作」と言わずに「所作」と呼んでいるところが、まったく「新しい」。

所作

 美しいことばだなあ。この美しいことばを、アーサー・ビナードをとおして知るということが、なんだか悔しい。
 「動作」ではなく「所作」ということばをつかったからこそ、アーサー・ビナードは「盆踊り」へと自然に動いていくことができたのだ。
 「ことば」には「ことば」を呼び込む力がある。アーサー・ビナードは日本人ではないのに、その日本語の力を「自然」に利用している。それとも日本人ではないからこそ、日本語に敏感なのかな?

象徴性に富み、代々伝えられたこの芸も廃れるのか。

 ここでも、「所作」と「芸」がしっかりと結びついている。この力はすごいなあ。「動作」ということばをつかうと、絶対にたどりつかない「思想」がここにある。「代々伝えられた」もその系譜に属することばである。
 思わず、

象徴性に富み、代々伝えられたこの「所作」という「ことば」も廃れるのか。

 という1行をどこかに挿入したい気持ちに襲われる。そうすることで、アーサー・ビナードに対して、「所作」という日本語を守ってくれてありがとうといいたい気持ちになる。ありがとうを伝えたい気持ちになる。

それとも着ないから解放され、星の下「サノヨイヨイ 飛行機が 出た出た飛行機が出た さぞやお月さん……」

 「思想」を「思想」としてしっかり見せるなら、この最後の「炭坑節くずし」はいらないかもしれない。けれど、アーサー・ビナードはわざとそれを書いている。「思想」など、詩にはいらないからだ。だから、「炭坑節くずし」で隠しているのである。
 この奥ゆかしさ(?)は、どこの国の「思想」だろう。
 日本? それともアメリカ? きっとアーサー・ビナードという国の「思想」なのだ。
      (アーサー・ビナード「機上のおどり」の初出は「朝日新聞」 4月6日)



釣り上げては
アーサー ビナード
思潮社

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岡井隆『詩歌の岸辺で』

2010-12-23 23:59:59 | 詩集
岡井隆『詩歌の岸辺で』(思潮社、2010年10月30日発行)

 岡井隆が詩歌について書いた批評、感想を集めたエッセイ集である。岡井の詩と同様、自由自在で、とても楽しい。こんなふうに批評、感想を書けたらいいなあ、と思う。
 私が特に気に入ったのは、西脇順三郎『旅人かへらず』の詩について書いた次の部分である。「四六」を取り上げている。

「くぬぎの葉をふむその音を」「明日のちぎりと」おもつて--とは、くぬぎの葉を踏むにつけても、それを機縁として、未来のいのちをおもひ、また「昔のこと」もおもふのであろう。この辺は詩のレトリックだから、あいまいでいいのである。
                                (51ページ)

 「あいまいでいいのである。」詩は、これにつきる。わかったようでわからない、わからないようでわかる。厳密にあれこれいってもはじまらない。だいたい、詩は(文学は)書いたひとがいるがいるにはいるが、それを読んでしまえば、それから先は読んだひとのもの。書いたひとが、いや、そうじゃないと言おうがどうしようが、そんなことは関係ない。読んだひとが、それをどう感じ、それから自分自身のことばをどう動かしていくかだけが大切なのだ。書いたひとだって、ほんとうはどう考えて(どう感じて)いるのか、正確にはわからないだろう。こんなことを書くと叱られるかもしれないが、人間はだれだって、ほんとうは何を感じているかわからないものだと思う。自分の気持ちなんか、正確にはわからない。

 「あいまい」ということば「中也についての断想」という文章の中にも出てくる。中也の詩ではなく、中也が16歳のとき読んだ高橋新吉の、あの「皿皿皿……」というような詩について触れた部分なのだが、

しかし、詩想(といふあいまいなことばを使ふ)が、ある型にはまつている感じもする。

 この「あいまい」ということばに触れて、先に引用した部分にある「あいまい」と重ね合わせ、あ、岡井隆は「あいまい」を「肉体」として知っているひとだと感じた。そして、岡井隆がますます好きになった。
 あらゆることは「あいまい」。だから、書くのである。はっきりしていたら、書く必要はない。「あいまい」であるからこそ、その先へ進んでみたくなるのだ。
 岡井はそういうことを言いたくて『詩歌の岸辺で』という本をまとめたわけではないだろうけれど、私が感じるのは、そういうことである。岡井は「あいまい」が好きなのだと思う。
 岡井のことばの運動のキーワードは「あいまい」である、といつか、書いてみたい。そういう欲望に襲われた。--これは、はっきりと何かがわかったのではな、あ、この「あいまい」ということばの先に岡井の「思想」があるな、と私がぼんやりと感じたというだけのことであるのだが……。
 岡井が「あいまい」というものを見据えている--そのことがわかったのが、この本を読んでの私の「収穫」である。

 こんな、中途半端な、感想でも何でもないような走り書きは「日記」だからできることなのだが、走り書きだからこそ、私は残しておきたいと思う。まだ何も書けないけれど、ここに私の書きたいことがあるのだ。



 で、(で、というのは変なのだけれど)。
 「詩歌の音律について」という文章も非常におもしろかった。(ページの下の方に「詩歌の音津について」という表記がある。100 ページの終わりから2行目の下の方にも「音津」という表記がある。誤植である。--なぜか、見えてしまった。)
 何がおもしろかったかというと……。

木曽さかのぼるふりこ電車にまどろまむときはなたれてゆくにあらねど

の原作(雑誌発表時の形)は、第三句が「眠らなむ」であつた。この「なむ」という終助詞の使用法が、古典文法と違つてゐたのを批判した人があつたので、わたしは「まどろまむ」と改作して歌集に入れたのであつた。ところで、「まどろまむ」と「眠らなむ(あるいは眠りなむ)」とは、詩のことばとして同価であろうか。なるほど、意味としては近似してゐる。(略--意味の違いがあることは……)その点をかりにいま軽く見すごすにしても、「マドロマム」と「ネムラマム」との音韻上の差異は、見逃すことはできない。
詩歌の音楽的要素を総括して「音律」とよぶとすれば、「音律」とは、単に音数律のことではない。一語一語の韻も含む。

 岡井ははっきりとは書いていないが「眠らなむ」でもよかったんじゃないか、と言っているのだと思う。
 そして、私は、「眠らなむ」の方がはるかにいいと思う。私は文法学者ではないから「文法」はまったくわからない。ただ読んだときの印象だけでいうのだけれど、「眠らなむ」は繰り返して言ってみたい音だが「まどろまむ」はちょっと違う。悪いわけではないが「眠らなむ」が好きだ。
 どうしてだろう。岡井の書いていることにそって考えてみた。
 「音数律」はわりと客観的に数えることができる。でも、「音韻」を一語一語でみきわめるというのはなかなかむずかしい。
 「まどろまむ」は「ま行」の響きがある。「ま」どろ「ま」「む」。「ねむらなむ」では「ま行」と「な行」の韻がある。「ね」むら「な」む。ね「む」らな「む」。「眠らなむ」の方が音の揺れが大きい。強弱(?)の感じが、私の「肉体」には気持ちがいい。(「まどろまむ」には「ど」と「ら」の響きあいもあるけれど。)
 この「肉体」の気持ちよさ、というのは、喉や舌や鼻腔、口蓋などの気持ちよさである。この気持ちよさは、しかし、どんなふうにして説明していいかわからない。
 「ねむらなむ」と「まどろまむ」の気持ちよさの違いは、「あいまい」である。音の数のようにははっきりとは言えない。説明できない。
 けれど、この「あいまい」が結局のところ、詩の好き嫌いを決めているのだと思う。どの詩が好き、どの詩が嫌い、というとき、私の場合、この説明できない「音韻律」にとても影響を受けている。支配されている。嫌いな音の響きというものが、私にはあって、そういうものに出合うと私は一種の拒絶反応を起こしてしまう。また逆に、音が好きだと、なぜその詩がいいのか説明できないけれど、ぐいっとひかれてしまう。

 私の、この「日記」は、まあ、「あいまい」なことしか書いていない。--でも、いいんだ。詩への感想なのだから「あいまいでいいのである」と岡井のことばを借りて、私は言ってしまうのである。


詩歌の岸辺で―新しい詩を読むために
岡井 隆
思潮社

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李承淳『そのように静かに跨がっている』

2010-12-22 23:59:59 | 詩集
李承淳『そのように静かに跨がっている』(思潮社、2010年10月25日発行)

 李承淳『そのように静かに跨がっている』の帯に「詩人として、音楽家として日本と韓国の文化の架け橋となってきた著者が深い祈りをこめて紡ぎだす29篇」とある。あ、音楽家なのか。「略歴」には「幼いころからピアノを学び」とある。声ではなく、楽器の音楽に親しんできた、ということになるのだろうか。
 うーん。
 私にはどうすることもできない欠点がふたつある。ひとつはカタカナ難読症。もうひとつは音痴。音楽の音に対する音痴。どんな音を聞いても、それを理解できない。音を聞きながら楽譜を見て、はじめてその音が何であったかがわかる。これは、ほんとうに音を理解しているのか、それとも楽譜から音を認識しているふりをしているだけなのか、よくわからない。楽譜にしても、そこに書かれた音が「ド」とか「レ」とか、あるいは「は」とか「C」という具合にわかるだけで、その音を声に出せるわけではない。
 こんな音痴の私が感じることなのだから、間違った感想なのだろうけれど、あえて言ってしまえば、李承淳『そのように静かに跨がっている』の作品からは「音楽」がまったく聞こえてこない。--いや、正確に言えば、李承淳の音楽が、私には理解できない、ということになる。韓国語で読めば(私は読むこともできないし、聞いてもわからないが)、違った印象になるのかもしれないが、日本語からは音楽が聞こえない。
 「密閉された空間から魂を飛ばしてみると」。その冒頭。

ごっそり
生き身から抜け出た
羽が生えた魂を
開けた空の光の奥へ
遠く飛ばしてみると

閉ざされた己の空間が見えるだろうか

 読みながら、あ、私にはもうひとつ、どうすることもできない欠点があった、と思い出した。私は今でこそ本を読んでいるが、そして、何かわかったふりをして感想を書いたりしているが、私は文字を読んで理解する力というものが極端に欠けている。文字はどれだけ読んでも理解できない。でも、声をとおして聞くと、なんとなくわかるような感じがする。小学時代の思い出だが、私は教科書を読んでも何が書いてあるかわからない。先生が声にして説明してくれると、わかる。私は小学生時代、教科書を読んだ記憶がない。国語の時間に朗読させられたことがあるのは覚えているが、それ以外に教科書を開いた記憶がない。文字が苦手なのだ。文字と音が結びつかない。音がわからないと、そこに書かれている文字がわからない。聞いたことしか、私は理解できないのだ。音痴の癖して、とても変な人間なのだ。
 李の詩にもどると、私は、ほんとうにとまどってしまった。「ごっそり」は、まあ、わかる。しかし次の「生き身」がもうわからない。私もいまでは文字が読めるから、その文字から「意味」は理解できるが、その「意味」は私の肉体になじまない。どこか、私とは違ったところにあって、私をにらんでいる感じがする。こまったなあ。
 「生き身から抜け出た/羽が生えた魂を」。「から」はとてもよくわかるが、それ以外は困ってしまう。「……から抜け出た」は納得できるが「生き身から」がわからない。「抜け出た/羽が生えた魂」がまたわからない。ことばが進めば進むほどわからなくなる。いま、なんて書いてあった?
 それは、ちょうど、はじめて聞く「音楽」に似ている。音痴の私が聞く「音楽」に似ている。一つ一つの音があることはわかる。そして、その音が動いて、そこに新しい何かをつくりはじめていることがわかる。けれど、音と発せられた瞬間から消えていく。その、消えていく音に似ている。音が音楽になるためには、記憶のなかで、消えていった音が常に鳴り響いていないといけない。そうしないとメロディーもリズムも存在しない。ただ、ある音がそこに存在しただけ、ということになる。はじめて聴く音楽を私は何ひとつ再現できないが、同じように、李のことばは、何ひとつ再現できない。そのことに気がついた。

 李は、私の理解できないまったく新しい「音楽」を書いているのかもしれないが、その音楽は私にはほんとうに遠い音楽である。

--イデオロギーの網に囚われた身体
  もがきばたつきながら
  地球村のあちこちで
  欲望の沼に落ち 目がくらみ
  狂い暴れる為政者たちの
  幕を張った檻に塞がれ
  縛り付けられた見えない鎖に
  閉ざされている--

 これは先に引用した部分の「閉ざされた己の空間が見えるだろうか」を受けたことばだ吸うか。説明し直したことばだろうか。推測はできるが、わからない。納得できない。
 「抜け出た」「魂を」「飛ばしてみる」ということがわからなかったからかもしれない。「抜け出た」「魂」に「羽がはえ」ているなら、その魂は飛ばさなくたって飛べるんじゃないか、羽は飛ぶためにあるんじゃないか、だいたい「抜け出た」のなら、それは勝手にどこかへ行ってしまうものじゃないか、なぜ遠くへ飛ばすという「身体」の動きが必要なのだろうなどと思ってしまったことが影響しているかもしれない。
 もしかすると、魂から羽が「ごっそり」抜け落ちて、飛べなくなっているから飛ばした?
 私の「聞いたことのある音」は、「聞こえない音」の前で、そんなふうに反論してしまうのだ。

 もちろん、李の書いていることばの全部が「聞こえない」というわけでもない。「甦生」。このタイトルは、私には「聞こえない」が、そこに書かれていることばは聞こえる。

お母さんと呼ぶと
経帷子(きょうかたびら)で装った母の小さい顔が
黄泉路へ歩むようにたずねてくる

 特に「黄泉路へ歩むようにたずねてくる」が美しい。美しいというのはこういうときに適切な表現ではないかもしれないけれど、ぐぐぐーっと引きこまれていく。常識的には、黄泉路へ歩むというのは「去っていく」ということである。けれど、「去っていく」ではなく「たずねてくる」。そこには、「たずねてくる」としか言えない「矛盾」がある。「矛盾」が「音」を豊かにして、「黄泉路へ歩むように」をのみこんでいく。のみこまれながら、「黄泉路へ歩むように」が「メロディー」として私の肉体によみがえってくる。
 言い換えると。
 思わず「黄泉路をあゆむようにたずねてくる」と、その1行を、私の肉体が、喉が、舌が、耳が繰り返してしまうのである。ちょうど大好きな「音楽」が聞こえたとき、追いかけるようにして口ずさむのに似ている。
 こうなると、次が自然に「音」になる。それは李が書いていることばだけれど、そのことばを読む前に私の肉体が反応する。大好きな曲を聴きながら口ずさむと、曲より先にメロディーやリズムを発してしまうのに似ている。ほんとうはモーツァルトの曲なのに、モーツァルトより(誰かが演奏するその音より)先に、自分の声が出てしまうのに似ている。

心臓が止まって
とうに一日が過ぎたが
母のやつれた頬は
冷たくもならず
硬直もせず

 ここにも一種の「矛盾」がある。死んでしまって「やつれた頬」は、普通は「冷たくなり」、また「硬直する」。けれど、李のことばは「冷たくもならず/硬直もせず」と動いていく。ことばが「現象」を裏切って、李の「事実」の方へ動いていく。そのときの、ことばの強さ。そこに「音」がある。
 私は、こういう「音」なら、聞き取ることができる。






そのように静かに蹲っている
李 承淳
思潮社


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誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

2010-12-22 11:23:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

 『豊饒の女神』のつづき。「あざみの衣」は、とても好きな詩である。どこが好きなのか--説明するのはむずかしい。

路傍に旅人の心を
悲します枯れた
あざみのうすむらさきの夢の
ようなものが言葉につづられる
あざみの花の色を
どこかの国の夕陽の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であつた

 2行目がとても不安定である。不安定--というのは、「悲します枯れた」ということばが「意味」をもたないからである。この1行だけでは何のことかわからない。わからないけれど、「悲します」は1行目につながっていることはわかる。「旅人のこころを/悲します」であることはわかる。そして、「枯れた」は次に登場する何かを修飾することばであることも想像できる。「意味」はわからないが、この1行のなかで、ことばが普通とは違うスピード(普通よりは早いスピード)で動いていることがわかる。「か」なします「か」れたという頭韻がスピードを加速させていることもわかる。--わたしは、きっとこのことばのスピード感が好きなのだ。
 そして、西脇のことばのスピードは、直線の高速道路を走るようなスピード感ではない。複雑な街角を曲がっていくときのスピード感である。急ブレーキと一気にエンジンを噴かせる燃料の爆発のようなものが同居している。ブレーキの音や道に落ちているものをはねとばすノイズのようなものも混じっている。しかし、それはすべて「軽快」である。そこが好きなのだ。
 よく読むと1行目から、とても変なのだ。

路傍に旅人の心を

 「路傍に」を受け止めることばが1行目にはない。1行目は1行として独立していない。詩の1行目が1行として独立していなければならないという理由などないけれど、たとえば1行目が「路傍に」だけであるとか、あるいは「旅人の心を」だけであると仮定してみると、西脇の書いている1行の特徴がよくわかる。
 「路傍に」あるいは「旅人の心を」は、それぞれ独立している。けれど「路傍に旅人の心を」は独立していない。なにかしら次の行をせかせるものがある。「路傍に」どうしたんだ、「旅人の心を」どうしたんだ(どうするんだ)とふたつの思いがことばを駆り立てる。「路傍に」か、「旅人の心を」が1行だったら、それはどちらかの思いがことばを駆り立てるだけだが、「路傍に旅人の心を」だと、ふたつの思いがことばを駆り立てる。
 駆り立てるものが「ひとつ」か「ふたつ」か。
 西脇のことばは「ふたつ」を駆り立て、そして、そのどちらに重点があるかを明らかにしない。「あいまい」である。これが、たぶん、おもしろさの「秘密」である。詩の「秘密」である。
 「散文」だと、こういう文章は嫌われる。ある事実を踏まえ、その先にことばを動かしていく。ふたまたの道を用意していては、ことばはどちらへ行っていいか迷ってしまう。読者はことばの動きを予測できない。したがって、読むスピードが落ちる。これは散文にとっては不幸である。迷いながら長い文章、積み上げられた文章を読むのはつらいからね。
 ところが詩ではこういう運動が逆の効果を産む。ふたまたの道によって、どっちへ行ったっていいじゃないか、という「自由」が生まれる。どうせ「長旅(長い文章)」ではない。ぶらぶらしていけばいい。そのときそのとき、道草をする楽しみを味わえばいい。
 「ふたまた」は、また方向性が見えないことをとらえて「不安定」と呼ぶこともできる。そして、そう考えるとき、2行目が、その構造がより鮮明に見えてくる。2行目「悲します枯れた」は「ふたまた」を加速させる「ふたまた」である。このときの「また」は「またがる」の「また」でもある。「ふたつ」を「また」いで、「ひとつ」にし、その「ひとつ」のなかへ加速して飛びこむのである。
 「ひとつ」って、どっち?
 わからないねえ。
 わからなくしているのだ。わからなくて、いいのだ、そんなことは。
「ふたつ」を「また」いで「ひとつ」にして、その「ひとつ」をさらに突き破っていく。そのスピードの中に詩がある。
 「わからない」ものをあれこれ分析して「意味」にしてしまったら、「ふたつ」を「ひとつ」にする強引な喜びが消えてしまう。

 たとえば川がある。あるいは深い深い溝がある。それを跳び越す--そういう危険なことをせずに橋を渡ればいいという考えもあるけれど、この「跳び越す」よろこび、ね、味わったことがあるでしょ? 何でもないことなのだけれど、「肉体」に自身があふれてくる。「できた」というよろこびがあふれてくる。
 これに似ているのだ。西脇のことばの運動の、不安定なよろこび、不安定なスピードの加速は。どうしようかな、跳べるかな、ちゃんと着地できるかなという不安と、「ほら、やれ、がんばれ」という悪友のはげましが交錯する中、ともかくやってしまうのだ。

 跳び越してしまって、後ろを振り返ると、不思議なものが見える。走ってきて、跳び越す瞬間に見えた何か--それは障害物だったのかな? それともジャンプ台だったのかな?
 たとえば、この詩では「ようなものが言葉につづられる」という1行。前の行からわたってきた「ようなもの」という行頭のまだるっこしさ。それは「障害物」? それとも「ジャンプ台」? 「キイツ」は? それは「障害物」なのか、それとも「ジャンプ台」なのか。
 わからないけれど、そのわからないものが全部「背景」になって輝いている。
 それは、どうやっ跳べたのかわからないけれど、跳び越してしまったときの「肉体」のなかにあふれてくるよろこびの輝きに似ている。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社

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辺見庸「善魔論」

2010-12-22 11:15:31 | 詩(雑誌・同人誌)
辺見庸「善魔論」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 辺見庸「善魔論」の2連目がおもしろい。(1連目は、ちょっとベケットを思わせる「終わりがない」感じがただよう。ただし、「すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。」というようなことば、特に「虚」ということばは、「意味」を語りすぎていておもしろくない。)

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、自らを殺せるか、だ。
<・blockquote>
 善と悪の違いがクママチスとテッセンの違いほどのものなら、他を殺すことと自分を殺すこともまた善と悪の違いのように差異がない。「どのみち善魔にしきられる」(3連目)。人間に「悪」はおこないえない。「悪魔」ではなく「善魔」という「虚」が人間を支配している--というような「意味」は、私には関心がない。
 私は「クレマチス」と「暗れまどう」の音楽に感激したのだ。「クレマチス」のなかに「暗れまどう」がある。もちろん「クレマチス」を「暗れまどう」と読むのは「誤読」なのだが、そのなかに「真実」がある。「クレマチス」を「暗れまどう」と読みたい欲望の真実がある。それは、べつのことばで言い換えれば、それが「クレマチス」であるかどうかは問題ではなく、ここに書かれていることばを発している人間は「暗れまどい」たいということである。「暗れまどう」というようなことをしたいと思う人間は少ないかもしれないが、そういう否定的(?)な状況をたっぷりと身にまといたいという欲望が、人間の本能のなかにある。どこかにある。それを、このことばを発している人間はみつけたのだ。
 それは「善」をおこなう「魔」、人間を「善」へとかりたてる「魔」がいる--という空しい考えから、遠く離れたいという欲望かもしれない。--という「意味」は、また、ちょっと脇にしまいこんで……。
 「クレマチス」「暗れまどう」は「夕まし」という音楽をとおって、「夕まぐれ」という音楽になる。「ま」という音が響きあう。この「ま」を「魔」に結びつけると、またまた「意味」になってしまうから、「意味」を拒絶しながら、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」という音楽だけを楽しむ。そうすると「ま」のほかに「ら行」の音が響いているのがわかる。「ら行」と「だ行」はどこか近接したところがある。(クレマチスとテッセンの外形よりは、「ら行」「だ行」は近接している--と、私の肉体は思う。)もし暗れ「まどう」が暗れ「まよう」だったとしたら、この音楽はどこかで破綻する。「暗れまどう」だからこそ「夕まぐれ」へと変奏していくことができるのだ。
 その音楽と響きあう「ますます青む一輪の花」も美しいなあ。
 けれど「テッセン」という音は「意味」(形?)としては「クレマチス」と通い合うけれど、音楽としてはクラシックのなかに安っぽいJポップスがまじりこんだよりも気持ち悪い感じがする。「ほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために」というのも、とても気持ちが悪い。
 あ、辺見庸にとっては、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」というのは音楽ではないのかな? 音楽であるとしても、辺見はことばを動かすとき、音楽を捨てて「意味」へ傾く人間なんだな。
 私は「意味」に傾くことばはとても苦手である。「誤読」すると、「そういう意味じゃない」と反論されるからね。反論されること自体は、あ、そうなのか--と新しい視点を提供されるようでうれしいけれど、それが「意味」にしばられた反論だとすると楽しみがなくなる。「意味」って、楽しくない。
                          (初出は、詩文集『生首』)


詩文集 生首
辺見 庸
毎日新聞社

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