ファティ・アキン監督 出演 シベル・キケリ、ピロル・ユーネル
トルコの音楽が「章」の幕間に流れる。海峡をバックに男6人の楽団が演奏し、女性歌手が歌う。非常に魅力的である。
トルコの歌については何も知らない。この映画でつかわれる歌の歌詞には繰り返しが多い。その繰り返しが、まるで自分で言ったことを確認するために自分で繰り返すことばのように聞こえる。相手がその歌を受け止めるというより、ただひとり、自分自身のために歌っているように切なく聞こえる。
愛のことばは相手に届くとき美しいが、自分自身で繰り返すしかないとき、悲しみにかわる。
愛していると気がついたとき、相手は手の届かないところにいる。いや、手は届く。セックスさえする。しかし一緒に暮らすことができない。こころは、一緒に暮らした時間のなかにいつまでも彷徨っている。そして、互いのこころをまさぐっている。なぜ、傷つけあったのか、わからないまま、愛が、こころだけが悲しくふるえている。そのふるえそのものがメランコリックなトルコの歌になっている。
このとき悲しさとは愛なのだということがわかる。悲しみは愛となってこころに残る。
映像は、そのメランコリックな歌とは対照的にとてもリアルである。生々しい。血と傷にまみれる肉体。暴力的なセックス。肉体が、そうしたものを求めてしまう。酒があり、ドラッグがあり、暴力がある。肉体が、そうしたものを求めてしまう。理由はわからない。どうしようもなく肉体の欲望にひきずりまわされながら、こころがだんだんやわらかくなっていく。こころが傷つきやすくなっていく。その変化が、とても丁寧に映像化されている。
主役の二人の目の色がいい。シベル・ケキリのしなやかな肉体もいい。弱いものだけが強いという矛盾した思いがふっと沸いてくる。
トルコの音楽が「章」の幕間に流れる。海峡をバックに男6人の楽団が演奏し、女性歌手が歌う。非常に魅力的である。
トルコの歌については何も知らない。この映画でつかわれる歌の歌詞には繰り返しが多い。その繰り返しが、まるで自分で言ったことを確認するために自分で繰り返すことばのように聞こえる。相手がその歌を受け止めるというより、ただひとり、自分自身のために歌っているように切なく聞こえる。
愛のことばは相手に届くとき美しいが、自分自身で繰り返すしかないとき、悲しみにかわる。
愛していると気がついたとき、相手は手の届かないところにいる。いや、手は届く。セックスさえする。しかし一緒に暮らすことができない。こころは、一緒に暮らした時間のなかにいつまでも彷徨っている。そして、互いのこころをまさぐっている。なぜ、傷つけあったのか、わからないまま、愛が、こころだけが悲しくふるえている。そのふるえそのものがメランコリックなトルコの歌になっている。
このとき悲しさとは愛なのだということがわかる。悲しみは愛となってこころに残る。
映像は、そのメランコリックな歌とは対照的にとてもリアルである。生々しい。血と傷にまみれる肉体。暴力的なセックス。肉体が、そうしたものを求めてしまう。酒があり、ドラッグがあり、暴力がある。肉体が、そうしたものを求めてしまう。理由はわからない。どうしようもなく肉体の欲望にひきずりまわされながら、こころがだんだんやわらかくなっていく。こころが傷つきやすくなっていく。その変化が、とても丁寧に映像化されている。
主役の二人の目の色がいい。シベル・ケキリのしなやかな肉体もいい。弱いものだけが強いという矛盾した思いがふっと沸いてくる。