詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロバート・ベントン監督「クレイマー、クレイマー」(★★★★)

2010-05-31 14:09:19 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ベントン 出演 ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレクサンダー

 「午前十時の映画祭」17本目。
 ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープはほんとうにうまい。台詞を言っている時は、誰でもある程度観客をひきつけられる。人の話を聞くとき、人は、話し手をみるからね。
 2人は、黙っていても観客を引き付ける。そして、黙っているのに、その顔をとおして「ことば」が聞こえてくる。冒頭の、少し唇を開いたメリル・ストリープのシーンから、その印象があるが、法廷での2人の、それぞれ「証言」を聞いているときの顔がいい。
 ことばにすると対立ばかりが浮き立つが、無言で相手の言うことを聞くとき、あるいは誰かの話に困惑する相手を見つめるとき、その表情の奥に「理解」のこころが動く。あ、まるでほんとうに8年間夫婦だったみたいじゃないか。
 この「理解」が最終的に、すべての問題を解決するのだけれど、ことばにならないものを受け止め、受け止めたよ、とことばではなく、やはり肉体そのものとして相手にお返しするとき、涙というものが流れるんだね。
 ダスティン・ホフマンのアカデミー賞はいいとして、メリル・ストリープはどうして受賞しなかったんだろう。役どころで損をしてしまったのかな?
 また、ジャスティン・ヘンリーもすばらしくうまい。アイスクリームをめぐってダスティン・ホフマンと喧嘩をするところなど、芝居とは思えない。まるで本物の家族を見ているような感じがする。
 「ママが出て行ったのは、ぼくが悪い子だから?」と問いかけるのも、泣かせるねえ。
 最初と最後に、フレンチトーストが出てくるのも、いい感じだね。最初は、でたらめ(この、フレンチトーストをうまく作れないダスティン・ホフマンが、またすばらしい。上手は練習すればできるけれど、下手は練習すると上手になってしまうので難しい)だったけれど、1年半の間に父と子の間にチームワーク(?)が完成し、スムーズにフレンチトースト作りが進む。とても気持ちのいいシーンだ。

 この映画――といっても、映画そのものではないのだけれど。
 残念なことがひとつ。
 「午前十時の映画祭」は、福岡・天神東宝では、これまで5階の広い劇場で上映されてきた。ところが、今回は狭い劇場である。
先週の「バベットの晩餐会」は、昔、ミニシアターでみたもの。それを大きなスクリーンで見直すことができたのは大感激だった。けれど、以前は大きなスクリーンで見た「クレイマー、クレイマー」を今回は小さなスクリーンで見ることになってしまった。あ、ビデオ(DVD)じゃないか、これでは・・・。
来週は「レインマン」だが、まさか、ダスティン・ホフマン、トム・クルーズのサイズに合わせて、またミニスクリーン? スクリーンを小さくすると、登場人物はさらに小さく見えるんだけど、天神東宝さん、知ってる? 小さなスクリーンなら、小さい人が大きくなるということはないんですよ。





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河津聖恵『龍神』(3)

2010-05-31 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(3)(思潮社、2010年04月01日発行)

他者と出会い 他者と交錯して
私たちの生の山道は火照るように逸れ
昨日よりも少しだけ深い領域に迷い込むことができる

 この「野中(二)」の3行は非常に美しい。「他者」に出会う。「他者」と「交錯する」。そして、「私(たち)」の「生」が「逸脱」する。「逸脱」することで、その、いのちの領域が深く、広くなる。そして、その深く、広くなった「場」を「迷い」ながら進む。そのとき、「私」そのものの動き(運動)が、詩になる。「なる」ではなく、もしかすると、その瞬間に、詩が「ある」のかもしれない。
 詩は「なる」ではなく、たしかに「ある」ものなのだ。
 「補陀落(一)」には、「野中(二)」の3行よりも、もっと美しい4行がある。「野中(二)」では、まだ抽象的だったことばの動きが、「補陀落(一)」では具体的になり、そこに「肉体」がくっきりと刻印されている。

--その細い通路をとおって外に出られたんですよ
「その通路」をまるでその人のように身をほそめて辿っていく
--その手すりに身を凭せかけてよく海を見ていました
「その手すり」にそっと触れて眺めてみる

 「その人」の行動をことばではなく河津は「肉体」で反芻する。「肉体」で繰り返すことで「その通路」は河津の「肉体」にとっても「その通路」になる。「その手すり」も同じだ。ことばにするだけではなく、「肉体」でその存在を知る。
 そこに詩が「ある」。
 そこに「ある」詩を、ことばは、その「ある」を邪魔しないようにていねいに動く。そのとき、そのことばの動きが詩に「なる」。

 こういう美しい出会い、そして融合は、いつ、どうやったら起きるのか。
 それは、たぶん、誰にもわからない。
 けれども、わかることもある。間違っているかもしれないが、わかることが、ある。私には、そう思える。河津のことばの動きを見ていると、わかることがひとつだけある。
 ひとは、ことばを捨てない限り、詩には出会えない。詩はことばであるけれど、ことばが詩に「なる」ためには、ことばはことばを捨てなければならない。いままで知っていることば、つかっていたことばを捨てなければならない。
 これを「無意識」といっていいのか、「無我」といっていいのかわからないけれど、いままで河津のことばを呼んできた過程でわかったことを踏まえていえば、「無我」(あるいは、無心、放心)が近いだろう。「意識」という「頭」の問題ではなく、「肉体」全体をつつみこんで、そこにある「状態」そのものののような、「無」。
 「その人のように身をほそめ辿」る。(その人のように)そっと触れる。(その人のように)眺める。そのときの河津の「肉体」とことば。その関係。その人のように体を動かすとき、ことばはそこにはない。河津のこころは、ただその人の「肉体」を追っている。そうすると、その「肉体」のなかから、ことばにならないことばが動きはじめる。ことばを超えた、ことば。いままで、なかったことばが、そこに生まれてくる。そこに、ことばが「ある」。
 その「ある」はずのことばは、しかし、いま、ここでは語られていない。いままでのことばとは違うから、いま、ここにすぐには書けないのだ。それが詩だ。書けない。書けないけれど、その書けないということを別のことばで書き、やがて、そのことばが、どこからかやってくるのを待つ--そうすることしかできないものがある。
 それが、この4行にはある。

 河津はもともとことばの多い詩人だ。なぜ、こんなにたくさんのことばを知っているのだろうと私には不思議に思えるくらいである。「補陀落(一)」にも、そういう部分はある。

タッピング、今このときを消えていく人々の不在に足下を叩かれ
(うちよせる熊野灘の煌き返す七里御浜(しちりみはま)の鏡の反射)
ビブラート、絶望にくずれおちる人々の真空は天頂をふるわせ
(遠い瓦礫の海につらなり化石する誰しもの魂)
こまかな海岸線 山の稜線 木々の葉の輪郭に沿い
熊野という「うつほ」は音なくみずからをふるわせている
光と影、言葉と沈黙、愛と憎しみ、戦争と平和--そのあわいあわい
生は限りなく詩に近く色づき(限りなく黒に近い緑)
死は限りなく生に近く染み(限りなく青に似る朱)
水色の空と海 影を曳き走っていく光たち

 これらは「無我・無心・放心」によって書かれたことばではない。「無意識」でもない。いま、ここにあるものを隈なく書き表そうとする「意識」によって書かれたことばである。その華麗な組み合わせは--うーん、「詩」と呼ばれるものかもしれないなあ。けれど、私は、そういうものは詩ではないと感じている。そういうことばの動きがあってもいいのだけれど、ほんとうの詩は、それとは違うと思う。
 詩は、いま、ここに書かれているようなことばを捨て去って、「肉体」そのものを動かして、「無我・無心・放心」の状態にいるときに、ふいに、「向こう」からやってくるものなのだ。「向こう」というのは、たぶん「意識の向こう」、「意識」を超越したどこか、ということになると思う。
 でも、「意識の向こう」なんて、ことばで書くのは簡単だけれど、実際は、そりゃあ、なんのことだい、と聞かれたら答えようのないものだ。
 だから、私は逆に考える。
 河津は、いままで知っていたことば(いままで書いてきたような華麗な織物としてのことば)をまず捨てることからはじめているのだ、と。車に乗って(助手席、あるいは後部座席かもしれないけれど)、紀伊半島を巡る。そのとき見えるもの、感じるものを、知っていることばを総動員して書いてしまう。ことばを使い果たしてしまう。そして、そのあと、「他者」に出会う。「他者」との「出会い」を描写することばは、もう、残っていない。だから、ことばがないまま、「他者」のことばを河津の「肉体」で反芻する。ことばを反芻するように、そこにない「肉体」を、そこにある「肉体」で反芻する。そのこと、その人(他者)が語りえたかもしれないことばが河津の「肉体」のなかで動きはじめる。その動きを「先取り」して方向づけることば(流通言語、河津のなかの流通言語)はなく、河津はただことばに行き詰まり、「肉体」が何をしたかしか語れないのだが、その瞬間、その「肉体」のなかに詩が「ある」ことは、読者(私)にはわかる。

 「肉体」というのは不思議なものだ。何度も同じ例を書くけれど、見知らぬひとが道端でうずくまっている。腹を抱えている。そういう肉体に出会うと、あ、このひとは腹が痛いんだ。苦しいんだ。そう、わかる。自分の痛み、自分の苦しみでもないのに、そしてその人が「苦しい」とか「痛い」とか言っていないのに、「助けて」とも言っていないのに、私たちは、その「声」を聞いてしまう。
 それと同じことが詩でも起きる。
 河津は「肉体」のなかに生まれてきた詩を、まだことばにできない。河津はただ「そのひと」の「肉体」の動きを真似て、その人がそうしたように、そのことをする。そのとき、河津の「肉体」のなかで何かが動く。その動いたことが、読者にもわかる。
 河津のなかに詩が「ある」ということが、道端でうずくまるひとのなかに「痛み」「苦しみ」「助けて」という悲鳴が「ある」のがわかるのと同じように、わかってしまうのだ。
 河津がこのことをどれくらいわかっているか、ちょっと私にはわからない。河津のことばの振幅はあまりにも大きい。けれど、その振幅の一方の先端は、ことばを捨てたあとのことば、「無我・無心・放心」のことばである。
 そういうことばを追いかけて読むと、この詩集は楽しい。美しい輝きにつつまれる。




新鹿(あたしか)
河津 聖恵
思潮社

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龍神
河津 聖恵
思潮社

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志賀直哉(9)

2010-05-30 15:26:12 | 志賀直哉
「早春の賦」(3)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 雪の描写が美しい。151 ページ。宇奈月温泉へ向かう場面。

陽のあたつた所は桃色に、影の雪は紫がかつて見えた。近い雪の面(めん)は粒立つて光り、地を被ふ雪の厚さは自(おのづか)らそれと知れた。

 桃色と紫。朝の雪はたしかに色が違うのだ。ここでは雪というよりも、朝の光を描写しているというべきなのだろう。
 次のざら雪の描写は、なんでもないようだが、「近い雪の面」の「近い」に私はびっくりしてしまう。
 降り積もった雪が再結晶するというと変だけれど、六角形の美しい結晶がとけて塊、小さな氷になり根雪になる--その根雪の表面の雪。その「粒立つ」感じは「近く」でないと見えない。そんなことはわかりきったことなのに「近い」とわざわざ書く。
 ここに志賀直哉の視覚(視力)の正直さがでている。
 桃色と紫は遠い景色である。その桃色と紫も近くで見ると桃色、紫は意識できない。桃色、紫よりも、雪の「粒立つ」感じの方に視覚が引っ張られるからである。
 「近い」がないと、この描写は生まれてこない。

 視覚の強靱さ、その感覚をきちんと肉体に取り込む力は、剣岳越しに昇る朝日の描写にも強く感じる。155 ページ。

剣山(つるぎさん)の後(うしろ)から湧き上る曙光は恰(あたか)も金粉を吹き出すやうで、後年、伝源信(げんしん)作「山越弥陀(やまごえみだ)」を見て、其時の曙光を憶ひ出し、感心もしたが、未だ物足らぬ気もした程であつた。

 「未だ物足らぬ気もした程であつた。」がとても強い。画家の再現した光よりも、自分の肉体(視力)の記憶を美しい、と志賀直哉はいうのである。
 このあとすぐ、月の描写も出てくる。これも美しい。

月は能登(のと)半島の上へ落ちて行き、その空は銀色に澄んで暗く、東の空は金色から段々明るくなつて行つた。

 富山の早春の朝の、いちばん美しいものだと思う。
 「空は銀色に澄んで暗く」の「澄む」(透明)と「暗い」の対比が強烈である。
 志賀直哉の視力は、ほんとうに驚くほど強い。



志賀直哉はなぜ名文か―あじわいたい美しい日本語 (祥伝社新書)
山口 翼
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河津聖恵『龍神』(2)

2010-05-30 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(2)(思潮社、2010年04月01日発行)

 河津聖恵『龍神』には、私にはよくわからない部分がある。河津の「肉体」がつかみきれない。
 「野中(一)」の部分。

どこかに到達したい誰かに会いたい--
深い欲望のように幻想はふいに湧く
私たちはいつしか走りだしている
影となり光となり
何度も永遠でも小さな神話のような動作をなぞりつづける
とふたたび知らされた
かつてここに生きて死んだ複数の私が
助手席にあくがれでる

 私は車を運転しない。車に乗せてもらう(助手席に座る)ことも、皆無に等しい。だから私の感覚は多くのひととは違うかもしれない。そういう懸念があるのだけれど、私には、ここに書かれていることがわからないのだ。車が「いつしか走りだしている」と思ったことがない。「いつしか」がまったくわからない。車にかぎらず、どんな乗り物でも、わたしは「動きだす」瞬間を「いつしか」と感じたときがない。「やっと動きはじめた」「やっと浮かび上がった」とは思うけれど、それを「いつしか」とは思えない。
 「いつしか」走り出す--ということもあるが、それは乗り物に乗っているときではない。自分で、歩いていて、なにかに気がついて気持ちが先に行ってしまう。それを「肉体」が追いかけて、「いつしか」無意識に走り出す、ということはある。
 「いつしか・走り出す(走り出している)」のあいだには、「無意識」がある。運転しないで、助手席にいる、つまりその動きに関して主導的ではない人間が、「無意識」を意識するということが、私にはわからない。運転手が「いつしか」(無意識に)スピードを上げすぎていた、というのはわかるが、助手席の人間が、そういうことを感じる? 感じないと思う。--うーん、言い換えると、ここでは河津のことばは「現実的」ではない。「主体」をどこかで放棄していて、いわば「客観的」に動かしている。簡単にいうと、小説のような、作者がいて、登場人物がいて、という感じ。「私たちはいつしか走り出している」というとき、河津はその「私たち」でありながら、そこから離れた場所で「私たち」をみて、「私たち」を描写している。
 もちろん、そういう書き方はあっていいのだけれど、そういう書き方と、

かつてここに生きて死んだ複数の私が
助手席にあくがれでる

 が、なんとも奇妙にずれる。音楽でいうと、音程が半音ずれたような感じ。「助手席に」という「客観的」なことばが、ここは音程がずれているのではなく、半音ずらしているのです(シャープ記号か、フラット記号がついているんです)と言っているみたいなのだが、奇妙に不自然。違和感が残る。
 ある場所に行って、その土地の「いのち」を感じる。そしてその瞬間、そのいのちのひとつひとつ、木の葉や風や光や音や--そういったものが、「私」であると感じる。それも複数の、しかも、生きて死んで、また生き返る私であると感じる。この、つよい感覚と「助手席」が、私の感覚のなかでは結びつかない。
 簡単に言うと、「頭」でことばを動かしているように感じてしまうのだ。

 いま引用した行のすぐあとには、

複眼となって澄みわたり染みわたる
視野をふくらむ紅葉黄葉

 という魅力的な美しいことばが、それこそ「生きて死んだ複数の私」の別のことばとして(言い換え表現として)あるのだが、「助手席」と、省略された「無意識」が邪魔して、しっくりこない。
 複数の私というのは、「無意識」(あるいは意識)とは関係なく、関係あるとすれば、「無我」(無心)と結びついている。--これは、私だけの考えかもしれないけれど、無我・無心・放心というもの、解放された状態があって、そこに「複数の私」が生まれる。「無意識」というのはあくまで「意識」があっての「無意識」である。そこが無我・無心・放心と違うと私は思う。無我・無心・放心というのは、対極のことば(反対の意味のことば)をもたない。

 で、こんなに変な感じをいだきながらも、河津のことばをさらに読み進めるのは、「野中(二)」の最後で、「正直」に動いているからである。そこに「正直」を感じるからである。

ここを訪れ 他者を思う他者の語りに耳を澄ませた時間は
たしかに詩に属するということ
他者と出会い 他者と交錯して
私たちの生の山道は火照るように逸れ
昨日よりも少しだけ深い領域に迷い込むことができる
太陽が隠れ すでに夜の闇をたたえた山と山のあわいを
車は沈むように走っていく

 「他者」の発見がある。「他者」が「私」を揺り動かす。「私」のままでは「他者」に出会えない。真に「他者」に出会うためには「私」は「私」の枠をたたきこわさなければならない。「我」から「無我」へ、「心」から「無心」(放心)へと、見えない「枠」を取り払って「無」になる。そのとき「他者」に出会うことができ、「他者」と交錯することができ、詩が生まれる。「私」が「私」を逸脱して、わけのわからないものになる。それが、詩。
 そういうふうに、「正直」にことばが動いたあとの最後の1行。

車は沈むように走っていく

 ね、「私たちは」ではなく「車は」。主語が自然に違ってきているでしょ? 「野中(一)」とは、そこが違うでしょ?
 この最後の部分には、ちょっとややこしいことも(的学的?なことも)書かれているのだけれど、「野中(一)」の、

何度も永遠でも小さな神話のような動作をなぞりつづける

 のような、何度読み返しても、どこかに誤植・脱落があるのかなあ、と思ってしまうことばはない。
 ほんとうは、その1行に深い深い意味があるのかもしれないけれど、うーん、私はわけのわからないことばは、わからない、信じない。なんだかわかるまで読み返すなんていう面倒くさいことができない。
 この詩集には、とても美しい部分と、わけのわからない「頭」の部分が入り乱れている--私には、そんなふうに感じられる。





河津聖恵詩集 (現代詩文庫)
河津 聖恵
思潮社

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マイク・ニューウェル監督「プリンス・オブ・ペルシャ」(★)

2010-05-29 11:10:59 | 映画


マイク・ニューウェル監督 出演 ジェイク・ギレンホール、ジェマ・アータートン、ベン・キングズレー、アルフレッド・モリナ

 ジェイク・ギレンホールがこども時代も含めて(?)、一生懸命動き回っているけれど、でも、それでいったいどうしたの、という映画ですねえ。
 悪人は親切そうな伯父、プリンセスはおしゃべりでやんちゃで手がかかる--というのは、この手のストーリーの常套句。(プリンスがおしゃべり、というのはディズニーの大好きな設定かなあ……。)
 おかしいのは、こういう映画にまでも「現実」が反映されるところだねえ。
 武器を輸出している--という情報で攻撃(侵入)して見たら、それは「悪人」のでっちあげ。なんてねえ、アカデミー賞をとった映画もそうでしたねえ。いや、アメリカの中東政策そのものでしたねえ。
 特撮(いまは違った言い方をするんだっけ?)も、どこかで見たシーンばっかり。どこかで見たシーンでも、それを上回っていたら文句はないけれど、みんなちゃっちい。二流という感じ。
 ジェイク・ギレンホールは大きな目を見開いているんだけれど、うーん、眠くなります。


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河津聖恵『龍神』

2010-05-29 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(思潮社、2010年04月01日発行)

 河津聖恵『龍神』には熱いいのちが炸裂している。冒頭の「龍神」の、その書き出しに河津のキーワードがすばやく登場する。

赤い光、赤い闇、秋はどちらにもふきこぼれる
色はどこへでも流動する

 「どちらにも」「どこへでも」。ここには「限定」が、ない。「限定」がないから、「光」と「闇」という「流通言語」では対極にあるものが、ここでは対極ではなく「等価」のものとして存在する。そして、その等価な存在へむけて動きだす河津--その運動だけが、ここに、ある。
 ただし、私は、この激しい運動に完全に乗り切れない。最初の2行はすばらしいのだが、なぜか、つまずいてしまう。3行目。

いま山脈はしずかに魂の底をすべりだし

 この運動は、1行、2行目の「無軌道」(どこへでも)とは違って方向をもっているし、何よりも「しずかに」「すべりだし」という動きが、「ふきこぼれる」「流動する」という激しさから遠い。
 つまずいてしまうのだ。
 なぜなんだろう。
 答えはすぐにみつかった。

赤い光、赤い闇、秋はどちらにもふきこぼれる
色はどこへでも流動する
いま山脈はしずかに魂の底をすべりだし
はるか北方で京都(みやこ)の山並も靡きはじめる
高野龍神スカイライン、黄葉紅葉は透け、緑葉は撥ね、
ちらちらむれなす光の渦に眩暈する(太陽を背にしているのに)
車はトランスファー、小さな異界(トンネル)とびとび
ハンドルのさばき手はアクセルとブレーキを見事に踏み分ける

 河津は自分で動いているのではないのだ。車で走っているが、車の運転手は河津ではなく、誰か別にいるのだ。
 そのため、ことばのリズムが河津自身の「肉体」というよりも、他人の「肉体」から生まれている。ぴったり重なりあわない。他人の動きにひきずられるようにして動く「肉体」があり、その「肉体」をことばが追いかけている。
 「どちらにも」「どこへでも」動いていきたいという河津の欲望、その熱いいのちはほんものだけれども、それは、まず他人の「肉体」を経由しなければならない。そこに、なんともいえない不純なもの(?)が混じり込んでしまう。
 ことばが純粋ではない。余分なものにまみれて、どうしても多くなる。ことばは豊かに溢れだしているように見えるけれども、それは「溢れだす」(ふきこぼれる、流動する)ではなく、ちょっと無理をして「溢れださせる」(ふきこぼれさせる、流動させる)という印象がつきまとう。自分の「肉体」が動くのではなく、他人が(運転手)が河津の肉体を運んでいる。河津は運ばれている。その「受動」の「肉体」をなんとか「能動」にするために、無理やりことばを動かす。ことばで「肉体」を引っ張っていこうとしている。
 それは、ことば自身にも影響している。「異界」を「トンネル」というルビで突き破るというところに極端な形で露呈している。実際のことばの動きとしては、トンネルがあって、そのトンネルをくぐるときに、トンネルを「異界」と呼びたい「いのち」があるのだが、そういうことばの運動を「ふきこぼれ」「流動する」動きとしては表現できないので、まず「異界」という、いま、ここにないものを借りて、いま、ここに出現させ、そのうえで「トンネル」とルビをふって、世界に追い付く。
 ああ、違うのに、と思ってしまう。もし、河津が自分で車を運転し、河津ひとりで高野龍神スカイラインの秋を突っ走っていたら、ことばはもっと違った動きをするのに、ととても残念な気がするのである。
 まあ、これは逆な言い方をすれば、河津のことばは、ここではとても正直に動いているということかもしれない。助手席(?)に座って、秋の高速道路を突っ走るときに感じることを、正直に語っているということになる。

 そして、その「助手席」を、河津が暮らしている「土地(生活の主導権?の場)」ではなく、「よその土地」と置き換えてみると、河津の詩のありようが、意外とくっくりと見えてくるような気がする。
 河津は最近、紀伊半島、中上健次の「土地」を舞台にしてことばを動かしているが、それはいわば、中上健次の運転する車に乗っているようなものである。そこでは、まず動きだすのは中上健次なのである。中上健次はいないけれども、中上健次が動き、その動きを河津は追っているのである。紀伊半島でことばを動かすのではなく、紀伊半島で「肉体」にしてしまったものを、京都で動かさないと、ほんとうに「ふきこぼれる」「流動する」いのちそのものにはならないのではないか--と、私は思ってしまうのである。
 河津のやっていることはおもしろいし、そのことばも正直に動いているのだけれど、なにか可能性というよりも、「限界」が設定された世界で動いているという感じがする。それは、「完成された世界」へ向けてと「完全な運動」、美しさが保証されたことばの運動という気がしないでもない。
 私は欲張りな読者なので、そういう「完成された世界」、「誤読」を拒絶した(?)世界というのは、あまりおもしろくない。

 と、書いてはいるのだが、それでも、つづけて河津の詩を読むのは、

龍神、りゅうじん--喉にはかすかな恐れがのこる(言いたいのか黙りたいのか)

 この1行が途中で出てくるからだ。
 ここには明確な「肉体」がある。「喉」という河津自身の「肉体」がある。そして、その「肉体」をことばがくぐり抜けている。(私が「肉体」をくぐり抜けることばと書くときは、たいてい比喩的なことが多いのだが、ここでは比喩ではなく、現実にくぐり抜けている。)そして、その「肉体」が感じるもの、いや「肉体」がそのとき直感的に信じてしまうものを「恐れ」と正確に書いているからだ。
 さらには、その「恐れ」を、ルビではなく(とはいっても、カッコをつかっているけれど)、「言いたいのか黙りたいのか」とていねいに追いかけているからである。
 この「恐れ」は「異界」に「トンネル」とルビをふって固定化したようには固定化できない。どっちへ行くかわからない。冒頭の2行にあった「どちらにも」「どこへでも」を、河津はここで取り戻している。
 助手席に乗っているときは「どちらにも」「どこへで」は空想にすぎない。なぜなら、その車は河津ではなく、別の運転手の肉体によって動かされているからである。
 一方、「龍神」を「りゅうじん」と声に出すとき(声に出さずとも、黙読するとき)、そのことばは河津自身の「肉体」をくぐりぬける。運転手の「肉体」ではなく、河津自身の「肉体」をくぐりぬける。そして、そのとき「肉体」がつかみとる河津のこころ、気持ちは「言いたいのか黙りたいのか」、どちらであるかわからず、また「どちらにも」(どこへでも)動くのだ。

龍神、りゅうじん--喉にはかすかな恐れがのこる(言いたいのか黙りたいのか)
無のきらめく波しぶきのかかるヒゲがふるえる
龍神、リュウジン--私たちは身の内から光の裸形を脱皮する

 ことばを「肉体」をくぐらせることで、河津は自分の「肉体」を取り戻した。そして、自分の「肉体」をとりもどしたからこそ、そのあと「私たち」ということができる。「脱皮」したのはほんとうは河津だけかもしれない。運転手(それからまた別の同行者もいるようだが)は「脱皮」していないかもしれない。けれど、そんなことは河津には関係ない。河津自身の「肉体」の感覚が、「ふきこぼれ」「流動」して、他人をのみこんでしまっている。
 だから、自然に(つまり、無意識に)、「私たち」と書いてしまうのだ。

 龍神、りゅうじん、リュウジンとことばを「喉」(肉体)をくぐらせる。そうすると、身の内(肉体の内部)からいのちがあふれだし、流動し、「肉体」をつきやぶる。個々の、河津の、運転手の、同行者の「肉体」の区別がなくなる。あふれだした「いのち」にのみこまれてしまうのだ。
 これが「脱皮」。
 のみこまれることが「脱皮」というのは矛盾しているが、そういう矛盾でしかいえない部分に、詩があり、ほんとうのことがある。思想がある。



龍神
河津 聖恵
思潮社

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伊藤悠子「畳が一枚」

2010-05-28 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「畳が一枚」(「ふらんす堂通信」124 、2010年04月25日発行)

 伊藤悠子「畳が一枚」は、何かものを明確に言い切っていないもどかしさがある。書きたいけれど、書きたくない--そういうことがらが、ここには含まれているのかもしれない。
 そのなかほどに、とても美しい数行がある。この部分なら書いても大丈夫と判断したのか、ことばがいきいきと動く。

「写真を撮ってあげる」
と姉が言ってくれました
姉とその人と私は家の裏手に向かいました
「トスカーナの丘みたい」
とトスカーナに行ったことのない姉が言いました
見ると草の生えていない裸の丘がいくつもあり
遠くの丘の頂きのひとところ
黄色い花がしきりにこちらへと咲いていました

 「こちらへと」。このことばに私はつまずき、「あ、美しい」と声をもらした。花はただそこで(遠い丘の頂きで)咲いている。それが「こちらへと」向かって咲いている、伊藤へ、伊藤と姉とその人へ向けて咲いている--そう感じるときの世界の感じ。
 遠くから「私」へと世界が接近してくる。求心。「ここ」と「遠く」が一体になり、区別がつかくなる。
 その瞬間。

たしかエニシダのことをうたった詩人がいました
喘ぎ喘ぎ言葉を継いでいった絶唱

 「遠く」から「私」の方へ、「こちらへと」咲いてきた花が、「私」のこころのなかで、炸裂し、飛び散る。遠心。
 求心→遠心。ビッグバンのような炸裂。そして、新しい世界が誕生する。
 「私」「姉」「その人」のいる、「いま」「ここ」が「いま」「ここ」ではなくなる。瞬間的に、エニシダ(黄色い花)をうたった詩人のことば、そのことばのなかへと「私」は拡がってゆく。そして、そのことばとともに、あえぎあえぎ、絶唱している。
 その絶唱は、ここではことばとして書かれていないが、絶唱とはもともとことばにならないものである。田から、ことばにする必要がないともいえる。世界が私に向かって押し寄せてきて、それがこころのなかでぎゅっと塊り、凝縮しすぎてぱっと炸裂し、輝きとともに飛び散って、この世を越えていく。そこに絶唱がある。その炸裂し、輝き、遠ざかるものは、ことばでは追い付けない。
 それに追い付けるのは、放心だけである。

 求心→遠心→放心。

 伊藤が書こうとしているのは、その瞬間の運動である。
 放心は、次のように、しずかに語られる。

姉がその人と私をカメラに収めてくれたようです
黄色い花も写ったでしょうか

 伊藤が書いているのは、過去のできごと。ある日のできごと。だから、いま引用した部分の「黄色い花も写ったでしょうか」は、ほんとうなら、おかしい。写っているかどうか、伊藤は知っているはずである。姉が撮ってくれた写真を見ているはずだから。
 でも、伊藤は、そんなことは書かず「写ったでしょうか」と、それを知らないふうに書いている。「過去」としてではなく、「その日」の現在(?)に帰って、ことばが動いている。
 ことばは、ここでは「時間」を越えて動いている。
 充実した時間、美しい時間、求心→遠心→放心が一気に起きる時間には、「いま」しかない。それがいつであっても「いま」なのだ。たとえば、「古池やかわず飛びこむ水の音」という句がつくられたのが江戸時代であったとしても、その句を口にするとき、それが「いま」であるように。同じように「黄色い花も写ったでしょうか」は「いま」なのだ。
 求心→遠心→放心。そのなかに含まれる「時間」は「いま」であり、またたしかに「過去」でもある。求心→遠心→放心という時間のなかで、「いま」と「過去」が硬く結びついている。
 この「いま」と「過去」の硬い結合を「永遠」と呼ぶこともできる。

 この「いま」と「過去」の結合は、詩の最後で、もう一度姿をかえた形で書かれている。

四十年以上もたって私を訪ねてくれた昔のままの
その人に
母に
姉に
少し泣きながらお礼を言って今日を始めました

 「今日を始め」る。それは再出発、再生ということだろう。求心→遠心→放心の「永遠」。それを「いま」として生きなおす。40年前は「過去」ではなく、「いま」なのである。それを「いま」として、つまり「今日」であるとこころで決めて、生きなおす。
 再生の決意が書かれている。
 再生の決意の背後(過去)には、何かしらのことがらがあるのだが、それを伊藤は明確にはしていないそれはそれでいいと思う。過去が重要なのではなく、再生する瞬間、過去とは永遠をくぐり抜けて、「いま」となっているのだから。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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ロネ・シェルフィグ監督「17歳の肖像」(★★★★)

2010-05-27 21:16:47 | 映画
監督 ロネ・シェルフィグ 出演 キャリー・マリガン、ピーター・サースガード、エマ・トンプソン

 予告編を見たとき、キャリー・マリガンの魅力がよくわからなかった。頭がよくて、利発な少女というのは、そんなに珍しいものではない。演技をしているという感じも、「地」のナイーブな輝きを発揮しているというふうにも感じられなかった。
 ところが。
 本編でキャリー・マリガンを追っていると、その表情の変化に呑み込まれていく。
 ストーリーは少女がおとなの女性に変化していくという、いわば、ありきたりのものである。そこには当然ずるい男がからんでくる、というありふれたものである。
 この映画は、そのストーリーに、しかし、少しだけ特別な味付けをしている。少女の両親(家族)もいっしょに男にだまされる、ということを描いている。
 そして、そこにいっしょに騙される両親がいることで、キャリー・マリガンの演技の幅の広さ、素材のおもしろさがいっそう際立ってくる。家族の中では、家族が(特に父親が)、人生の疲労感を家中に満たしてしまう。少女はその疲労感がたまらなく嫌い。その疲労感から脱出するためには父がいうように有名な大学に進学しなければならない、という一種の疲れて切った人生観と向き合っている。そこでみせる若さ。それが、この手の映画ではちょっと珍しい。(学校、校長、担任とのやりとりのなかにも類似のことが起きるが……。)
 そのキャリー・マリガンが男の前では一変する。どんどん「抑圧」から解放されていく。若さ特有の無邪気、無防備(うぶ)から、秘密の共有、悪の容認、罪のよろこび……。その果の疲労。そして、そこからの覚醒。
 キャリー・マリガンは21世紀のオードリー・ヘップバーンとも呼ばれているらしいが、オードリーと違うのは、キャリー・マリガンは「純粋な夢」、その精神性だけで観客をひっぱるのではなく、もっと肉体を感じさせることだ。肉体といっても、マリリン・モンローのような肉体という意味ではなく、そこに生きているというときの肉体という感じ。キャリー・マリガンの「恋愛」はオードリーの恋愛と違って、あいての男を改心させない(たとえば「昼下がりの情事」)、つまり恋愛そのものとして昇華しない。燃え上がらず、燃え残ってしまう。
 その燃え残った何かをていねいに具体化してみせることができる。それがキャリー・マリガンである。この燃え残りの肉体というのは、最初に書いた両親、それから学校の校長、教師の疲労感ともつながっていくものでもあるけれど、それがそうであることを知って、いま、ここ、つまり青春にとどまる--そのときの肉体の強さ。そういうものをしっかりと体現している。
 ファニーフェイス(?)の魅力だけではなく、演技力をもった女優として、とてもおもしろい。
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金子兜太『日常』抄

2010-05-27 11:13:41 | その他(音楽、小説etc)
金子兜太『日常』抄(「ふらんす堂通信」124 、2010年04月25日発行)

 「ふらんす堂通信」124 に金子兜太『日常』の抜粋が掲載されている。冒頭の句がおもしろい。

猪の眼を青と思いし深眠り

 私は俳句は知らない。「深眠り」がもしかすると季語なのかもしれない。だが、まあ、季節とは関係なく、深い眠りのなかで猪と出会っていると思えば楽しい。このとき、猪は対象なのか金子なのか、ちょっとわからない。猪の目が青いと思うのもいいけれど、もし自分が猪なら目は青だぞ、と決めて(句では、「思い」と書いているが、「思う」のうちには、「決める」というこころの動きもあるだろう)、深い眠りに入る。
 青い目の猪--というのが、ちょっと「異界」を感じさせ、なんだか、その異界の「王」にでもなった感じ。百獣の王といえばライオンだが、ライオンのいない日本では狼か猪くらいが百獣の王だろう。狼のようにいかにも狂暴そう、こわそうというのではなく、体つきがなんとなく愛嬌もある猪。でも、強い。そのあたりのアンバランスも、夢見るにはいいかなあ。

木や可笑し林となればなお可笑し

 これは、おかしいね。林は木がふたつ。そりゃ、おかし+おかし=なおおかし、だね。「山笑う」というようなことばも、ふと思うねえ。山には木がたくさん。「おかし」×無数。笑ってあたりまえだね。
 でも、そう考えると、またおかしいねえ。
 「木や可笑し」と思っているのは「私(金子)」。木二本(?)の林は「可笑し可笑し」、木が無数の山なら「可笑し×可笑し」になってしまうかもしれないけれど、そう思うのは「私(金子)」。で、笑うのはたいてい「おかしい」と思っているひと。金子だね。「山笑う」は「山が笑う」ということであって、金子が笑うというのとは、違うね。木がいくらおかしくても、その木が何本集まっても、おかしいと思うのは「私」であって、山(木)自体がおかしいと認識するわけではないから、笑わないね。
 こうやって、論理的(屁理屈的?)にことばを動かしていくとわかるのだが、俳句というのは、どこかで「私」と「対象」が溶け込んでしまって、区別がなくなる世界だね。
 「山笑う」は山の緑が萌え出てきて、急ににぎやかになる、華やかになる様子をいうのだろうけれど、その山の木々そのものがおかしいと感じ、それを笑う「私」が存在すると、その「笑い」のなかで、世界そのものが融合する感じがする。笑っているのは、山? それとも「私」? こんな質問は、くだらないね。山が笑えば私も笑う。木がおかしければ、それを見て笑う私もおかしく、同時に楽しい。楽しさのなかで、木と「私」の区別がなくなる。
 「木は可笑し」というとき、木は木ではなく、木は「私」なのだ。同じように「林」というとき、そこに林があるだけではなく、その林そのものが「私」なのだ。対象と「私」は結びついて、離れない。その分離不能な状態のなかでことばが動くと俳句が生まれるんだろうなあ。

走らない絶対に走らない蓮咲けど

 これは、医者から「走ってはいけません」と止められている金子の様子かな? 蓮が咲いている。それが見える。もっと近くでみたい。近くで一体になりたい。その気持ちが肉体を「走る」にむけて動かす。でも、先生は「走ってはいけない」と言った。走らないぞ、走らないぞ、とことばで言い聞かせている。言い聞かせれば言い聞かせるほど、肉体は走りたがる。
 その矛盾と、蓮の、豪華な感じの対比がいいなあ、と思う。
 一方、(何が一方なのかしら、と書きながら思ったけれど……)

頂上はさびしからずや岩ひばり

 この清潔な感じも、おかしくていいなあ。



句集 日常
金子 兜太
ふらんす堂

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時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」

2010-05-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」(「ロッジア」7、2010年01月31日発行)

 時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」は、《わたし》が引き寄せた(わたしに漂ってきた?)ことばの「標本」に、「註解」をつけて詩を書くという試み--そのための「まえがき」のようなものである。ていねいにも、その「まえがき」に「註解」がついている。
 時里が愛用する「入れ子構造」である。
 「入れ子」によって、ことばは外へ出ていかない。ひたすら内部へと反射しながら、その構造複雑にしていく。そうすると、そこには「ことば」があるのか「構造」があるのか、ちょっとわからなくなる。あるいは、「ことば」そのものが「構造」になってしまうのかもしれない。逆に、「構造」が「ことば」そのものになる、ということもあるかもしれない。「構造」とは「ことば」によって書かれた「まだ存在しないことば」の全体(宇宙)なのである。いや、そうではなくて、ひとつの「ことば」そのもののなかに、いくつもの「ことば」が組み合わさっていて、ひとつにみえるもののなかに「宇宙」(全体)があるということを証明するために、時里は「入れ子」を利用しているのかもしれない。

 時里は、「仮剥製」という「ことば」から出発する。剥製が、たとえば鳥なら鳥の形をして木にとまっているのに、「仮剥製」は自然界にみる鳥の形をしていない。死体のまま、紡錘形にととのえられて、「モノ」になっている。
 その目撃から、時里は、次のような考えを思いつく。

 脚色のない、しかしそのことによって完璧な脚色となっている仮剥製という思想。野鳥の仮剥製を眺めながら、そふ頭をよぎったのは《ことばの仮剥製》というイメージだった。とりわけ詩というのは、鳥の仮剥製のようなかたちで差し出すべきものではないだろうかと。とまり木にとまらせたり、羽を広げてみせたりするのは詩人の仕事ではない。詩のことばは、日常のことばの死をいったん見とどけることにおいて、息を始めるものでなければならない。仮剥製の鳥が、《鳥》とは別の時空に滑り込むように、仮剥製のことばもまた、日常とは別の世界を切り開く。それは詩人にとっても、詩の読み手にとっても、未知の経験を含んでいるに違いない。

 「脚色」と呼ばれているのは、鳥を「とまり木にとまらせたり」することである。それは一見自然のとりに見えるけれど、そういうものよりも時里は不自然な形で死んでいるままの鳥の姿に興味を惹かれた。
 なぜなら、それはふつう考えられている鳥の時空とは「別の時空に滑り込む」からである。この「別の時空」を時里は「日常とは別の世界」と言いなおしている。脚色されていない剥製、死んだままの剥製は、「日常とは別の世界」を引き寄せる。想像させる。ことばも、脚色(日常的な、流通している使い方)から切り離して「モノ」のように独立させる(脚色の反対語が、独立、孤立である--何にもつながっていない、つながっているとしたら死とのみつながっている)と、そのことばは、「日常とは別の世界」、つまり「別の時空に滑り込む」、「別の時空(次元?)」で動きはじめる。
 そういうことが起きるのではないか。
 --こういう動き、この運動を、時里は、「完璧」と考えている。
 剥製の鳥をとまり木にとまらせるのが「完璧な脚色」であるなら、それをとまり木から遠ざけ死体そのものとして標本化するのは、「完璧な」別の時空へ誘うための出発点である。

 時里のキーワードは「入れ子」よりも、「完璧」かもしれない。

 時里が求めているのは、ことばの「完璧」なのである。「日常の世界」にしばられていることばは「完璧」ではない。それは「日常」の世界に「流通」しているだけである。それは「日常」の世界から出て行くことはできない。
 そういう運動が、なぜ、「完璧」なのか。
 これを説明するのは、少し、めんどうくさいが、「詩のことばは、日常のことばの死をいったん見とどけることにおいて、息を始めるものでなければならない。」が、その説明の手がかりになるだろう。死と再生。いったん死んで、息をふきかえす。甦る。それは、別のことばで言いなおせば、復活できる力、再生できることばをもっている、ということでもある。そんな力をくぐり抜けてきたもの--それが「完璧」である。
 これはまた別のことばで言いなおせば、そうやって死をくぐり抜け、再生したことばは、何度でも死に直面し、そのつど死を乗り越えて(切り開いて)復活できるということでもあるだろう。
 ことば→死→再生→死→再生→死→再生→→→→完璧なことば。
 そんなふうに「図式」にしてみると、あらら、不思議。死と再生が「入れ子」になっている。「完璧なことば」は、ことばの死と再生という運動(ことばの動きの構造)が「入れ子」になっている。

 時里にとって「入れ子」とは「完璧」と同義である。時里が「入れ子」の詩を書くのは、それが「完璧」をめざした運動だからである。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田

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野村喜和夫「眩暈原論(2)」川江一二三「蕎麦を届ける」海埜今日子「《あついみず》」

2010-05-26 12:12:12 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(2)」川江一二三「蕎麦を届ける」海埜今日子「《あついみず》」(「Hotel  第2章」24、2010年04月10日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(2)」は何を書いているのだろうか。何も書いていないなあ。強いて言えば、「書く」ということを書いている--いや、楽しんでいる。それだけである。「意味」をそこに求めてはいけないのだと思う。「意味」を求めると、わけがわからないし、おもしろくない。

最初のゆらぎはめざめのとき。宇宙めく夜のこめかみの境界を散り散りにして、胎児めく生気の何かしらクレッシェンド。その影が菫色になって、木の葉になって、霞になって、血の川の流れの絶え間ないノイズにもなって。だがやがて、眩暈地平にあっては、すべては絹、音楽も絹、乳房も絹、死ぬまでも絹。おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。

 ここには何もないけれど、リズムがある。そして、野村はリズムだけで書いている。リズムに乗せてことばを動かしている内、そこから何か生まれてくればいい。生まれてこなくて、リズムだけが取り残されてもいい。
 何も考えていない。それが「快感」である。

死ぬまでも絹。

 これ、いいなあ。
 「死ぬまでも」なんだよ。と、わざと書いて、「死ぬ」って、きっと「いく」と同じことだよね、とわどと書いておこう。ここでは。
 ね、いいかげんでしょ?
 あ、これはきっと注釈がいるなあ。
 この「いいかげん」がいい、というのは、そこには「抑圧」がないからなのだ。ことばに対して「抑圧」がない。そのために、ことばが勝手に動いて行って、勝手に「肉体」になってしまう。そういうときの、伸びやかな輝きがここにある。
 (ちょっと「現代詩」っぽい感想になってきたかな?)
 だいたいねえ、「眩暈原論」はいいとして「眩暈地平」って何なのさ。「眩暈」の定義もまだなのに(それとも、この詩は2だから、1で定義がすんでいるのかな?)、その「眩暈」に「地平」をくっつけて、あたかもことばの運動が新しい次元にはいりこんだかのように装うなんて、
 わ、いいかげん、
 ことばの「論理」というか、「論理」そのものというか、いったい野村はどう考えているのか。「論理」というのは、ひとつひとつのことばの定義を明確にして、それから積み上げていくのものだ、野村は、そういう積み上げを最初から拒否している。拒否しながら「眩暈」+「地平」とことばを「積み上げ」てしまう。
 ことばはとても不思議で、積み上げると(組み合わせて新しい何かにしてしまうと)、そこにいままでなかったものが存在してしまう。そして、存在してしまうと、その「論理」が不明でも、次の「論理」の土台になってしまう、ということがある。
 そういうことを、「原論」というような、なにやら「論理」っぽいことばでひっぱって、やってしまう。野村がここでやっているのは、そういうことである。

おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。

 あ、読んでいる私の方が「おいおい」と言いたくなる。
 おいおい、ことばの上にことばを乗せて、あれっ、でも「眩暈地平」って、「眩暈」の上に「地平」がのっているの? それとも逆? 「地平」の上に「眩暈」がのっているの? ああ、ことばの死、ことばの論理はどこへ行ってしまうのか。
 どうでもいい。「おいおい、……」の1行は、きっと「おいおい、」と書きたかったから書いただけなのだ。「おいおい、」と書くことで、「原論」を茶化したかったのだ。「現代詩」っぽいことばでいえば、「解放」したかったのだ。
 「原論」なんて、窮屈なものは、ことばを解放し、もっと「肉体」に密着したところから動かしていかないと形にならない--ということだろう。

時の軸のうえの逃走もまた眩暈主体を作動させるか。時を駆ける少女、とかいたな。それより、ガムようにいまこの瞬間を引き伸ばせたらどんなに面白いだろう。マジで眩暈とは、瞬間の永遠性がそこにのぞく時間の裂け目に呑み込まれることではないか。

 「疑似論理」を追いかけても、「疑似」世界にしかたどりつけないだろう。ここにあるのは「疑似」時間「論」である。ほんとうのことが書かれているとしたら「マジで」という部分だけだろう。
 前に引用した部分で、ほんとうのことばは「おいおい、」だけ。そしてここでは「マジで」だけてある。それは「流通言語」の「論理」が封印してきたことば、「書きことば」が封印してきたことばである。

 「書きことば」を書きながら(書きつつ、という意味ですよ)、解放したい。その矛盾と向き合いながら、ことばを揺さぶっている。そのゆさぶりは、効果があるのかどう、よくわからない。一冊にまとまると、「疑似」論理が「疑似」ではなくなるだろう。それまで、野村はことばにことばを「乗せる」。

 これは上に「乗せる」、積み上げるだけではなく、調子づかせる、という意味でもある。



 川江一二三「蕎麦を届ける」は1行の文字数を限定した「視覚」の定型詩である。「視覚」を重視しているから、その乱調もまた「視覚」の上において起きる。

     掛け捨てならひとりではなく大勢で
     にぎやかに太鼓を叩いて楽しみます
わたしはよそものです 五文字はみ出しており
     立っている場所はいつでも辺境の地
     あたたかい橙色のひかりをさけつつ

 後半にも、今度は上ではなく、下に5文字はみだした行があるが、省略。
 川江は、視覚にも「論理」があるということをからかっている。くすぐっている。

 海埜今日子「《あついみず》」はひらがなでかかれている。ここでは「意味」ではなく、音が音そのものとして、互いに呼び合っている。それは野村の書いている「リズム」に「乗る」というのとはまた違った「乗り」である。「乗り」というよりは、逆に「沈み」といった方がいいかもしれない。
 野村のことばが調子に乗って、適当に、いま、ここではないどこかへ飛んで行ってしまって、ほら、これが飛んだときの「奇蹟」じゃなかった、「軌跡」--つまり、「論理」と主張するとしたら……。
 海埜のことばは、ことばの奥底へ沈んでゆく。そうすることで、ことばが「論理」(流通言語)になるのを拒絶する。
 海埜は、この感覚を共有されたくない--という思いを共有してほしいと願ってことばを揺さぶっている。矛盾の中で、ことばを揺さぶっている。




ランボー『地獄の季節』 詩人になりたいあなたへ (理想の教室)
野村 喜和夫
みすず書房

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詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房

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マノエル・ド・オリヴェィラ監督「コロンブス 永遠の海」予告編(★★★★★)

2010-05-26 11:32:05 | 映画

 KBCシネマで、マノエル・ド・オリヴェィラ監督「コロンブス 永遠の海」予告編を見た。美しさに息ができなくなる。
 オリヴェィラのカメラは相変わらずどっしりしている。動き回りはしない。ただそこにあって、そこにあるものを映し出すだけである。それなのに美しい。それだから美しいというべきなのか。
 なんといっても海がすばらしい。海というのは、誰がとっても同じようなものである。海の方がカメラのフレームより大きいから、スクリーンに映る海は海の一部である。そうであるはずであるが、
 オリヴェィラの海は違う。色がおだやかで、どこまでもどこまでも遠い。遠くて、しかし、とても懐かしい。
 予告編でみる限り、この映画はコロンブスの見た世界(コロンブスの見た海)を夫婦がたどる映画である。若いときの夫婦、晩年の夫婦が出てくる。その夫婦の時間を超越して、海の時間がある。海の色、空の色、雲の色がある。(もちろんほかにも、街の色、建物の色があるのだが、海が一番印象的である。)
 その、二人のみつめる時間を超越した海が、時間を超越する力をそのまま利用して、そこにはいないはずのコロンブスの見た海につながる。いま、目の前にある海がコロンブスの海になるのではなく、コロンブスにつながる海になる。
 その「つながる」という感じのなかに、なつかしい、かなしい、うれしい、おだやかなものが拡がる。

 予告編で、こんなに胸が震えるのは久しぶりである。7月まで待ちきれない。

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谷部良一「ちっぽけな光が」ほか

2010-05-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷部良一「ちっぽけな光が」ほか(「火曜日」102 、2010年05月31日発行)

ローカルの
崩れかけたトンネルから
抜け出たような
ちっぽけな光が
今日も

ぼくのうす汚れた顔を
しきりに拭ってくれる

 谷部良一「ちっぽけな光が」の、この書き出しは、何のことなのかはっきりとはわからない。わからないのだけれど、ローカル線の(たぶん)トンネルということばが確かな風景をひっぱってきてくれる。トンネルの向こうに、ちいさな光が見えるということだろうか。トンネルを抜けると、そこは別の世界--そういう夢を見た記憶、それが「うす汚れた」何か、きょうの思いを洗ってくれるということかもしれない。
 この詩の途中に、とても好きな行がある。

 自分の手の平を見つめ直し
 自分の目の奥を聴き取り
 自分の喉ちんこのタクトを揺すり

 光に誘われて、「肉体」が反応している。その「肉体」をきちんとことばにしている。「目の奥を聴き取り」には、「肉体」の、感覚の、肉体のなかに在る感覚が互いに融合して、なにごとかを丸つかみするときの強さがある。その目と耳の融合に、喉の音楽が参加する。これは楽しいなあ、と思う。

 もう一篇「星座のブランコ」。

山をぼくが見るのではない
川の意志が窓となっている
時代の錯視が
曲がった遠近法で語っていただけ

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

一本の樹に見られているぼく
流れる星に呼ばれているきみ
一つの森は静かに呼吸している

 谷部は「自然」そのものをも彼の「肉体」にしてしまう。「錯視」ということばは、ちょっと「頭」のことばという感じがするが、まあ、いいさ。

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

 は、とても美しい。特に「空は」の1行はすばらしい。夢に見てしまいそうだ。この詩の最後は、

ヤアー

 という声で終わるのだが、ああ、そうなんだ。「宇宙」を「肉体」にしてしまうとき、ひとは、意味のない「声」を出すしかない。「ヤアー」という「意味」をもたない、「肉体」の奥からの声に比べると、ことばなんて、まあ、どうでもねいいね。

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ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(★★★★★)

2010-05-25 11:39:23 | 午前十時の映画祭

監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー

 「午前十時の映画祭」16本目。
 記憶していたシーンが2 か所、欠落している。その2 か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。バベットのつくってくれたお粥を食べたとき、老人の顔が、ほわっと明るくなる。
 もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。バベットがくる前の、昔ながらの方法で。これがまずい。バベットのお粥を食べることだけを楽しみに生きていたのに……。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。「いつもは、ちゃんと食べたのに」。
 そのふたつのシーンがない。
 たぶん(きっと)、私がかってに捏造したシーンなのだが、こんなふうに映像を捏造できるというのが、傑作映画の条件だ。スクリーンの映像の背後に、存在しないシーンを見てしまう。そういうシーンが多ければ多いほど、その映画は充実している。
 この映画は、実際、後半に入ると、そういう感じになってくる。スクリーンでは、村人が「食べ物の話はしない」という約束を守ってもくもくと食べている。けれど、そのもくもくの背後で「なんておいしんだ」と言っている。ワインの合間に水を飲み、「や、やっぱりワインの方がおいしい」とワインを飲み直す。そのとき、そこには描かれていない、その人々の「日常」の食卓がぱっと見える。テーブルクロスはない。皿もかぎられ、ワインなんてもちろんない。それでも、それを「おいしい」と思い、食べていた日々が見える。
 それは、もしかすると、村人の日常ではなく、私自身の日常かもしれない。いつも、どんなふうに食事をしているか--そのことが、村人の姿をとおして、頭のなかで映像として甦るのだ。
 それから、ひとこと二言の「だまして、ごめんよ」「俺もだましたことがあるんだ」というような会話の向こう側に、実際にそういうシーンが見えるのだ。ときにはひとにうそをついて出し抜いたり(出し抜いたつもりになったり)、そうやって生きることが「上手に生きる」ことだと勘違いしたり……。そういう日常、村人の日常であり、また私の日常であるものが、スクリーンに映し出されないにもかかわらず、私の「肉体」のなかで甦る。
 そういうことの繰り返しのあとに。
 牧師のメインの説教「願ったことはすべて実現する、願わなかったこともすべて起きる。起きないことはないもない」が将軍のことばで繰り返され、思い起こされるとき、出演者の顔をとおして、肉体をとおして、あらゆることが思い起こされる。あらゆることが「具体化」される。スクリーンに映し出されなくても、見ている観客の意識のなかに映し出されるのだ。
 こんなふうに、現実に見えているもの以上のものが、見えるを超えて「実感」できる――これを幸福というんだろうなあ。それが「おいしい」ものを食べる、「おいしさ」を共有するというよろこびの中で溶け合う。
 遠いもの、天の星さえも近くに見える。その遠いものには、亡くなった牧師がいる。そして、「神」がいる。
 晩餐会を終えて外へ出た村人。いがみ合いを忘れ、みんなで手をつなぎ、井戸を囲み、歌を歌う。踊る。「ハレルヤ」。

 人が天国へ持って行けるもの、それは人に与えたものだけ。いいことばだね。




バベットの晩餐会 - goo 映画
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北川透『わがブーメラン乱帰線』(10)

2010-05-25 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(10)(思潮社、2010年04月01日発行)

海辺の旅館で、変なカラスの鳴き声に眠れない夜が続き、
もう何日目か分からない。

 あのぉ、北川さん、きょうで10日目です。
 
わたしは詩を書くことをあきらめ、
漁師さんの家で一艘の小舟を借りた。

 私も、なんとなく「感想」を書くことをあきらめはじめているかもしれない。いや、感想は書いているのだが、なんというか、「批評」、それをあきらめている。北川のこの詩集をどう評価するかなんていう面倒くさいことはやめて、ただ、北川のことばに触れて思ったことをああでもない、こうでもない、と書いている。
 それでいいのかどうか、わからないが、そういうことしかできない。
 10日間、北川が10日間で書いたことばにつきあうと、どんな具合に私のことばはかわるだろうか、それをライブ感覚で味わってみたい(朗読会には行けないから、これが私の北川の詩とのライブな向き合い方だ)--そう思って書きはじめたのだが、やっぱりここまで長くなると、自分のことが面倒くさくなるねえ。ことばを動かすのがちょっと面倒になるねえ。
 「変なカラスの鳴き声」ということばは、きのう読んだ9日目の部分が頭に残っているので、変な「カフカ」の鳴き声、と読んでしまう。
 9日目の、引用しなかった部分には、「カラスの告げる真実の道」だの「魚網」ということばがあるから、北川もちょっと疲れてきて(?)、その「きのう」のカラスと魚網をひきずって10日目に入り込んでいるのかもしれないけれど。

 というようなことを書きながら、私はふとヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『フィツカラルド』『アギーレ』を思い出したりする。なんだか分からない映画で、『フィツカラルド』巨大な船をジャングルを、その山を越えて運んでゆく。『アギーレ』もジャングルで苦闘する。だんだん役者が疲れてくる。監督は元気なのかな? でもスタッフが疲れてくる。『フィツカラルド』の方は役者が次々にいやになってやめてしまって、ナスターシャ・キンスキーのお父さんが最後は主役を押しつけられ、完成したみたいだけれど、その映像が、強烈だけれど、なんだかだんだん疲れてくる感じが、うーん、スクリーンからつたわって来るんですねえ。
 その感じ。
 ええい、もう10日目か、しょうがない、やっちゃえ、やっちゃえ、やっちゃえ。
 これって、私は悪いことじゃないと思うなあ。それがいいことかどうかは、やっぱりわからないのだけれど、すごいなあ、と思う。

 漁師から舟を借りた北川は、三河湾に漕ぎだし、波に流されて遭難しそうになる、というようなことを書いた部分のつづき。

その時からきょうまで、わたしはいつも巨大な風力に抗い、
歴史という見えない海坊主の、無数の手に逆らっただけ、
余計に狂暴な渦潮に巻き込まれて、
自分を見失った。漂流する一枚の舟板にさえ見放され、
わたしはどこに消えてしまったのだろう。
絶対に見つからない遭難者のわたしを探し出す、
人食い鮫の餌食になった溺死者のわたしを探し出す、
そんな徒労に耐えるように、わたしは詩を書いてきたが、
もう、わたしには一篇の詩を書く力もない。

 あ、ほんとうに、『フィツカラルド』だと思う。ヴェルナー・ヘルツォークと思う。「もう、わたしには一篇の詩を書く力もない。」(もう、わたしには一篇の映画をつくる力もない。)と書くことで、それが詩になる。書けない、とかき、それが詩になる。いままで、存在しなかった詩になる。
 その矛盾したことがら。
 その矛盾の奥の「徒労」のたしかさ。
 「わたしはどこに消えてしまったのだろう。」と考えるときの「ほむたし」とは誰?
 「いま」「ここ」にある確実なものと、「いま」「ここ」に出現して来る不確実なもの。そのあいだで、北川は「小舟」のように揺れる。
 私も揺れてしまう。
 いま引用した行から、北川のことばの特徴、ことばの運動の思想に迫ることができるかもしれないと感じるが、その感じを追い詰めていくのには、もうなんだか疲れてしまって、でも、きっとこの疲れ、徒労の感じの中に、何が重なり合っていると思うので、疲れてしまったと書いてしまう。

 まあ、いいか。つづきを読もう。

 詩は、電話から、おいの死を知り、故郷にかえり、そこでは実はおいではなく、姉が死んでいた……というような錯綜した夢の描写のあと、また、舟で流されている北川が登場する。そして、そこには鯨が。

そこに巨大な抹香鯨の頭があった。

 うーん。「抹香鯨」が「抹香」と「鯨」に分かれて、その「抹香」が、その前に書かれていた「死」を呼び寄せる。なんだろう。この感覚。
 ことばがどこかへ進もうとすると、それは「過去」にひっぱられる。どんなに「でたらめ」(ごめんなさいね、北川さん)を書こうとしても、そこに、どうしても「過去」が紛れ込んでしまう。
 鯨と船、といえば『白鯨』だが、その『白鯨』もそのあと、北川のことばに紛れ込んで来る。闖入して来る。そういうものと闘いながら、北川のことばは、ただ「おわり」をめざす。
 ことばとは、常に、そのことばのなかに入って来る「過去」をふりしぼるようにしてしか進んで行けないのかもしれない。「過去」をしぼりだす、ふりきる、というのは、きっと巨大な船を山越えで向こう側の海へ運ぶようなものなのだろう。(『フィツカラルド』、です。)運んでしまって、何が起きる? 船は、やっぱり水に浮かぶだけ。ある、はてしない山越えはいったい、船にとってなに? そんなふうに船に山を越させる人間(わたし)ってなに? その船に山を越させた「わたし」は、いったいどこにいるの? 
 ことばに闖入して来る「過去」をふりしぼると、「わたし」もふりしぼられてしまう?だから、「わたし」は新しい「わたし」を手に入れるために、新しい「ことば」に向かって突き進むしかない、ということかもしれない。
 でも、それって、おわりがあるのかな?

 きっと、「おわり」はない。

 10日目なのか、10日目の、+αの部分が最後に書かれている。

 ……聞こえる。たしかに、聞こえる。
電話が聞こえる。
もしもし、岡山の「大朗読」の加藤健次です。
北川さんですか。予定通り、明日は来られますね。
岡山駅西改札口で、午後三時、
お待ちしています

わたしはどこをどうさすらっていたのだろう。
まだ一行の詩も書けていないのに、「大朗読」の日が来てしまった。
わたしは恐怖でぶるぶる震えている。
わたしは十日間で一万行の詩を書いて、
大詩人になるつもりだったのに。

 「まだ一行の詩も書けていないのに」、それが、詩。
 「まだ一行の詩も書けていないのに」と思うのは北川の思い込み。でも、そうやって、「まだ一行の詩も書けていないのに」という行を含むことばを読者に提出するのは、なぜ? ほんとうは、「これが詩だ」と思っているからだね。
 この矛盾。
 矛盾の形でしか、姿をあらわすことのできないもの。それが、詩。
 と、書いてしまうと、あ、私もいつもと同じことを繰り返しているだけだねえ。私のことばは、いくらか、北川のことばのあとを追いかけることができたのだろうか。

 わからない。北川の詩を十日間書けて読んだ、とだけ書けばよかったのかな? それ以外のことは、結局、何も書いていない。一行も、北川の詩への感想、批評を書き終わらない内に十日間が来てしまった。
 毎回毎回、くだくだとしたことばしか書けないので、今回こそ、きちんとした北川評を書きたいと思って十日間書いたのに……。





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