詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(12)  

2018-12-31 08:33:01 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
12 テルモピュライ

 池澤の注釈を読む前はそうでもなかったのだが、読んでしまうと、カヴァフィスの詩はすべて「恋」の詩、許されない恋の運命を描いているように見えてしまう。

そしてなお一層の栄誉を与えよ、
最後にはエピアルテスが立ち現れると、
メーディア勢が押しよせると予見する
(多くのものは予見するのだ)その時のかれらに。

 池澤澤は「エピアルテス」について、こう書いている。

祖国を裏切ってペルシャに通じ、ギリシャ勢の背後にぬける間道を教えた男。ためにギリシャ勢は全滅した。

 「裏切り」と「全滅(完全なる破壊)」は、誰にとっても好ましいことではない。けれど「恋」というのは、いつもそうなるのが運命ではないだろうか。
 そして運命がわかっていても、たぶん人間は恋してしまうのだ。

 タイトルの「テルモピュアイ」については、中澤は、こう書く。

テルモピュアイはペルシャ戦争の際 (ギリシャ側にとって)最も悲壮な戦いの行われた場所。

 これをカヴァフィスは、こう書き出している。

その人生においてそれぞれのテルモピュアイを
定め、また護る人々にこそ栄誉あれ。

 「人生」における「テルモピュアイ」とは、場所ではなく、「時間」であり「出会い」だろう。そのとき何を「護る」のか。自分の人生か。あるいは出会った人の人生か。
 恋は、あるいは愛は、自分がどうなってもいいと覚悟して出会った人についていくことである。だからそのとき「護る」のは自分の人生とは言い切れない。他人の人生を護るために生きなければならないときがある。
 こういうことは、運命の出会いならば、その瞬間に「予見」してしまうことかもしれない。





カヴァフィス全詩
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池澤夏樹のカヴァフィス(11)

2018-12-30 08:50:38 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
11 窓

しかし窓はなかった、あるいはわたしに
みつけられなかったのか。その方がよいのかもしれない。
外の光はまた別の圧制者かもしれない。

 この三行が印象に残る。「窓はなかった」と断定してしまうのではない。直後に「あるいは」と言い直し、「わたしに/みつけられなかったのか」と「わたし」の問題にしている。
 「あるいは」は単純に考えれば「論理」を動かすことばである。その「論理」の方向(ベクトル)を自分の方に向けている。
 そのうえで「その方がよいのかもしれない」と付け加える。
 窓はあった、しかしわたしはみつけられなかった。これを残念なこととしてではなく「よい」こととして理解しようとしている。カヴァフィス自身を納得させようとしている。そのために「かもしれない」という仮定がもういちど繰り返される。
 これが、この論理の動きが、カヴァフィスの「内」である。闇である。闇の中で動くのは論理だけである。というか、闇であっても論理は動かすことができる。あるいは何も見えなくても論理は動いてしまう。
 だからこそ、その「内」に向き合う形で「外」が描かれる。

外の光はまた別の圧制者かもしれない。

 これは、外からやってくるものは「制圧者」と決まっている、ということなのだが、このことばの響きのなかには、なにか「制圧されたい」という気持ちが隠されている。かき乱され、自分が自分でなくなる瞬間。そういう「暴力」を密かに期待している感じがする。
 これも「恋」の詩と読むことができる。
 いま、カヴァフィスは恋に苦しんでいる。何も見えない。出口もない。でも、もし、他の恋を見つけることができたとしても、やはり何も見えなくなる。苦しむだけだ。だから、いま、この恋に苦しんでいるということの方がいいのだ。そう言い聞かせているように思える。

 この詩に対して池澤は、こう注釈をつけている。

閉じ込められた精神を扱っているが、その精神は1「壁」などよりもまた一歩後退して、すでに脱出の意志を放棄している。




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池澤夏樹のカヴァフィス(10)

2018-12-29 08:50:27 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
10 中断

 人間の子に永遠の生命を与えようという神々の好意が、その子この親の浅慮のために成就しない。(略)ギリシャ神話における神々と人との関係は詩人のよくとりあげたところ

 と池澤は書いている。しかし、詩がギリシャ神話の要約ならば、何の面白みもない。詩を読むよりもギリシャ神話を読めばすむ。
 私は、ここでも「恋」の詩として読んでみたい。

盛大な炎と濃い煙の中で見事に業を進める。しかし、
かならずやメタネイラは王の間から
恐れおののき髪をふり乱して駈けこむし、
かならずやペーレウスはおびえて邪魔をするのだ。

 「盛大な炎」と「濃い煙」は、ある意味では矛盾している。炎に煙はつきものだが、炎だけなら「盛大」だが、「濃い煙」がつきまとうなら単純に「盛大」とはいえない。「豪華」とは違ったものが含まれる。何もかもを見えなくさせてしまう「黒い」ものがある。その「矛盾」のなかで「進む」ものがある。
 これを「肉体」と読み直してみるとどうだろうか。完璧な美しさの肉体。けれど、どこかに邪悪なものが動いている。だからこそ、ひとは肉体に引きつけられる。その肉体に触れたら、わけのわからないもの、邪悪なものに飲み込まれてしまうのではないか。
 精神はその予感に、「恐れおののく」、そして「おびえる」。
 だが、それを含めて「恋」なのだ。
 神が与えたものが肉体なら、その絶対的な強さ、美しさにおののくのは精神である。
 肉体の望むがままにまかせておけばいいのだが、精神はそれを邪魔する。その戦いをギリシャ神話の神々と人間との関係に託している。


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池澤夏樹のカヴァフィス(9)

2018-12-28 09:26:56 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
9 ……オオイナル拒否ヲナシタル者

 題は『神曲地獄篇』の第三歌第六〇行から取られている。点線の部分は“per vilta (怯懦ユエニ)”であるが、カヴァフィスはことを一般化するためにこれを故意にはぶいた。『神曲』の中ではこれは自信のなさゆえに教皇位をボニファキウス八世に譲ったケレティヌス五世を指すと解釈される。

 池澤はこう書いているのだが、これでは『神曲』の解説になってしまわないか。「一般化するために」というのも、よくわからない。詩は「一般的」なことを書くものではない。むしろ個人的なことを書くものだ。

また拒否するだろう。しかしその--正しい--拒否が
彼の一生をだいなしにしてしまうのだ。

 「怯懦」の意味はなかなかむずかしい。池澤は「自信のなさゆえに」と言いなおしている。「自信のなさ」は、臆病とか、気が弱いというふうにとらえることができる。
 私は、こう読む。
 「正しい」と「怯懦」を結びつけるなら、気が弱いので拒否することを「正しい」と判断したということだろう。拒否しなかったら「正しくない」と批判されるかもしれない。そう恐れて、世間的に「正しい」と言われている方を選んだ。
 でも、それが一生を台なしにした。
 これをカヴァフィスの「恋」と結びつけて読み直すとどうなるだろうか。
 カヴァフィスは「恋」を拒否したことがある。その恋が「正しい」恋とは呼ばれないものだからである。もし、その恋を拒まなかったら、一生はもっとすばらしいものになっていたかもしれない。そんなふうに後悔しているのではないのか。
 拒否したから、「間違っている」という批判は受けなかった。「正しい」人間と判断された。でも、それでよかったのか。運命の出会いを棄ててしまったのではないのか。カヴァフィスは、そういう思いを『神曲』を借りて語っている。
 いまでも同性愛は完全に受け入れられてはいない。「正しい」恋とは呼ばれることは少ない。カヴァフィスの生きた時代なら、なおさらである。
 ケレティヌス五世の心境を語るために、詩を書いたとは私には思えない。



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夏野雨『明け方の狙撃手』

2018-12-27 18:06:04 | 詩集
夏野雨『明け方の狙撃手』(思潮社、2018年11月30日発行)

 夏野雨『明け方の狙撃手』。「月食」の二連目。

靴についてきた砂粒を、机の上に並べてみた。すべてが破片
だったから、まるくて、すこしずつとがっていた。出自を尋
ね、また、答える。いつかみた更新世の、氷河時代の、名残
なのだと、欠けた部品を示して、言った。きみのてのひらの
骨と、水かきの消えた部分に、残されず剥落してゆく、ねえ
それが記憶と言うの、残ったほうが、それとも、通り過ぎて
ゆくほうが。

 「まるくて、すこしずつとがっていた」という矛盾の直列が夏野のことばの特徴のひとつだと思う。この矛盾は「きみのてのひらの骨と、水かきの消えた部分」という形で繰り返される。そして、繰り返しによって運動の法則に整えられた後、抽象化とかというか、哲学化というか、「意識」としてして言いなおされ、「それが記憶と言うの、残ったほうが、それとも、通り過ぎてゆくほうが」ということばになる。
 ことばがことばになるとき、ことばになった方が「意識」なのか、ことばにしなかった方が「意識」なのか、実際は、よくわからないときがある。だからこそ、「まるくて」と言った直後に「すこしとがっていた」と言いなおさずにはいられない。言いなおすことによって「意識」は「全体」を獲得するということだ。
 そういうことばの運動によって夏野の詩は形作られている。
 「白熊と炭酸水」には、こんなことばの運動がある。

                        その仄
あかるい色彩を、明け方とはいわず、夕暮れと呼ばないで、
ただ太陽、とだけ呼びとめ、心中していく。

 「明け方とはいわず、夕暮れと呼ばない」という部分に矛盾の直列がある。それが「ただ太陽、とだけ呼びとめ」ということばの中でひとつになる。
 さらには、こんなことばの運動もある。

 白熊が近づいて、ふいに手が滑って、炭酸水の瓶が落ちる。
白い泡が広がって、微かに音がしたはずだけど、ちっとも聞
こえなかったよ。でも確かに時間の粒たちを、僕らは一緒に
吸い込んだんだ。

 「微かに音がしたはずだけど、ちっとも聞こえなかったよ」というとき、どちらが現実で、どちらが意識か。この区別は、実はできない。
 そこに詩がある。
 つまり矛盾が詩なのだ。
 詩をくぐり抜けることで、ことばは「比喩」から「抽象」へ、「抽象」から「意味」へと動いていく。「時間の粒」という意識でしかとらえられないものをつかみ取り、それを炭酸の白い泡という現実の中へ強引に引き返していく。
 このときの「炭酸の泡」とか「瓶が落ちる」とか、かなりなつかしい「抒情」のことばが動くというのが、夏野のもうひとつの特徴である。ちょっと見には、「きれいなことば」のあつまりを詩と考えているのだろうか、というような疑問も起きる。
 昔々、タイガースというグループがあった。沢田研二がジュリーと呼ばれていたころだ。その歌を思い出させるようなものが、ときどき出てくる。ロックンロールに疲れた耳には、それが新鮮なのかもしれないが、私は、少しとまどう。
 たとえば、次のようなことばの運動に。

                     わたしは 鳥でした ピアノ
を弾く人をみていたのです 森の瀬戸際の明るい場所でした 木々がそこだ
け光を用意してくれたようでした 男の人がピアノを弾いていました 黒い
ピアノでした つやつやとした表面に空がうつって水のようにみえました 
音階ははじめとぎれとぎれに ためすように落ちてきました 近くの木の葉
がその一粒を受けてはじくのにこたえて音は大きくなりました

 この部分は、「時間は充満し少しずつ移動しているようです」と書き出されている。つまり、「時間の移動」を言いなおしたものが「わたしは 鳥でした」以下の部分なのだが。
 だから、私の言い方はかなり不親切というか、意地悪なのかもしれないが。
 私は、こういう「定型」になってしまったことばは美しいと呼んでいいのかどうか、かなり疑問に思っている。




*

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明け方の狙撃手
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池澤夏樹のカヴァフィス(8)

2018-12-27 10:04:58 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
8 老人の魂

古びたぼろぼろの身体の中に
老人の魂が坐りこんでいる。

 と始まる詩に、池澤は、こう書いている。

肉体に幽閉された魂が歌われる。

 こういう注釈は必要なのだろうか。
 私は、次の行に注目した。

その生を失うまいと魂は身をふるわせ
生の混乱と矛盾を愛しつづける、

 「生」が二回出てくる。繰り返すことで、カヴァフィスは、生を「失うまい」とすることは生を「愛する」ことだと言いなおしていることがわかる。しかも「混乱と矛盾」を愛する。混乱も矛盾も、否定的に語られることが多い。そういう否定的なものを排除するのではなく、愛する。これは、なかなか「意味」をとりにくいことばである。
 だからこそ、そこには「ふるわせる」という動詞も一緒に動く。
 「ふるわせる/ふるえる」は、動揺である。「確信」があるのではない。ふるえながら「愛する」。 あるいは、「ふるえ」を乗り越えて、愛そうとする。
 ここから何を読み取るか。
 私は「老人」ではなく「若者」(青春)を感じる。あきらめなければならないとわかっていても、あきらめきれない。愛さずにはいられない。そこに青春の切ない苦しみを感じる。
 「悲壮にも滑稽な姿」ということばが最後の行に出てくるのだが、悲壮と滑稽が似合うのは、むしろ「若者」である。
 それを客観的にみつめ、ことばにした瞬間に、若者は「老人」に変わる。カヴァフィスと「老人」になって、老人の中に残る「青春」を描いている。取りかえしがつかない、という思いを抱きながら。







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ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

2018-12-26 09:45:56 | 映画
ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

監督 ブラッドリー・クーパー 出演 ブラッドリー・クーパー、レディー・ガガ

 午前10時の映画祭「裸の島」を見る予定だったのだが、すでに上映が終了していた。それで、たまたま「アリー スター誕生」を見たのだが、これはたいへんな「拾い物」であった。
 予想以上にすばらしかった。
 ブラッドリー・クーパーは、この作品が初監督。監督術はクリント・イーストウッドから学んだというが、まさにイーストウッドのような手際のよさ。あらゆるシーンがしつこくない。感情をぱっと動かし、そこで断ち切ってしまう。余分に見せない。
 クライマックスはどこか、というと、レディー・ガガがスターになる瞬間。ブラッドリー・クーパーに誘われて、ステージで歌い始める。その歌声に観客が熱狂する。このときのレディー・ガガの不安と驚きと喜び。それに寄り添うブラッドリー・クーパー。これをステージの上から観客を背景に捉えている。まるで自分がブラッドリー・クーパーかレディー・ガガになって歌っている気分だ。観客の熱狂にあおられて、ふたりは歌の世界に没頭していく。観客に聞かせているというよりも、観客が見ている前で、ただ自分の世界に没頭していく。まるでセックスである。他人なんか気にしない。いまが幸せ。そういうエクスタシーの瞬間がある。
 レディー・ガガは歌手だから歌がうまいのは当たり前だが、ブラッドリー・クーパーもうまい。これにも感心した。
 それにしても、と思うのは。
 映画はやっぱり映像と音楽なのだ。セリフなんかは関係ないなあ。
 すでに知り尽くされたストーリーだから、ストーリーなんかに観客は感動しない。ストーリーをつくりだす映像と音楽にしか注目しない。そうわかっていて、オリジナルの音楽と映像をぶつけてくる。凄腕である。
 思えばイーストウッドは「センチメンタル・アドベンジャー」では歌手を演じ、「バード」や「ジャージー・ボーイズ」もつくっている。映像と音楽を親和させることに熟達している。
 「アメリカン・スナイパー」で一緒に仕事をするだけで、イーストウッドの最良の部分をすべて吸収している。ブラッドリー・クーパーは、イーストウッドの後継者になったといえる。どこまで世界を広げていくか、とても楽しみである。「ハングオーバー!」が最初に見た映画だが、そのときは軽い美形役者くらいにしか思わなかったのだが。あ、軽い美形役者のロバート・レッドフォードも初監督「オージナリ・ピープル」でアカデミー賞作品賞と監督賞をとっていたなあ。ブラッドリー・クーパーもとれるかな? 期待したい。応援したい。

(2018年年12月12日、中洲大洋スクリーン1)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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池澤夏樹のカヴァフィス(7)

2018-12-26 09:05:56 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
7 第一弾段

 テオクリトスという詩人とエウメニスという詩人が対話している。テオクリトスは「紀元前三世紀前半の詩人。田園詩や牧歌の祖とされる」だが、エウメニスは「架空の人物」と池澤は注釈している。詩は、その架空の詩人のことばに対して実在の詩人がこたえるという形をとっている。実在の人物のことばもまた架空である。
 なぜ、カヴァフィスはテオクリトスに「架空のことば」を言わせたのか。

詩作の階梯は高く高く伸びていて
わたしが今いるのはその第一段目。
不運なわたしはこれ以上登れますまい」

 この若い詩人のことばに対して、先輩詩人は言う。

おまえが第一段にいるということことこそ
誇るべきであり、また幸運でもあるのだ。
(略)
第一段に立っているというだけで
平凡な人々から遠く距っているのだ。

 池澤はたぶんここに注目して「主題は、詩という困難な芸術に対する詩人の心がまえ」と書いているが、違うだろうと思う。ポイントはここにはない。
 若い詩人は、これに先立ち、こう言っている。

「これで二年間が過ぎましたが
書けたものといえば牧歌がただ一篇。

 架空のエウメニスそのひとがカヴァフィスにとっては「牧歌」詩人テオクリトスであり、その牧歌詩人をカヴァフィスは、「平凡な人々から遠く距っている」と評価している。
 ここにはカヴァフィスの「自負」のようなものがある。
 カヴァフィスは「牧歌」を書かない。「牧歌」は詩の「第一段」である。カヴァフィスは、もっと上の段にある詩を書いている。テオクリトスは「第一段」までしかのぼれなかった。のぼっただけでも評価に値するが、私はそういうところにはとどまらない。もっと違うものを書く、と宣言している。だからこそ「イデアの町」が後半に登場する。
 「田園詩や牧歌」ではなく、「都会の詩」「人事の詩」を書く。そうやって時代の精神を切り開いていくと宣言している。

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池澤夏樹のカヴァフィス(6)  

2018-12-25 10:14:02 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
6 蝋燭

未来の日々は我々の前に立ち並んでいる、
火をともした一列の蝋燭のように--
金色で、熱く、生き生きとした蝋燭の列。

過ぎ去った日々は我々の背後にある。
消えてしまった蝋燭がみじめに並んでいる。
一番近いものはまだくすぶっている。
そして、溶けて曲った冷たい蝋燭の列。

 「未来」と「過去」が対比される。しかしカヴァフィスの眼は未来を見ない。過去しか見ない。過去を明確にするために未来が対照されているにすぎない。
 だからこそ私は「一番近い」に傍線を引く。「一番近い」は別のことばで言えば「一本」である。そして、それは「一列」と対比されている。
 なぜ「一番近い/一本」に目を向けるのか。「過ぎ去った日々」と複数形で書かれているが、どの日もひとつとしておなじではない。複数にはなれない。未来はひとつの輝かしい表情しか見せないが、過去と違う。他人から見ればどの日々も他の日々と変わらないように見えるかもしれない。けれど、カヴァフィスにとって、その日は他の日とは違う。
 さらに「一番近い」は「きのう」ではなく、「三日前」かもしれないし、「一週間前」かもしれない。そうだとしても「一番近い」のである。「くすぶる」ことによって「一番近く」に「なる」。そして「一番近い」は、「二番目に近い」「三番目に近い」をへて「いちばん遠い」までつづく。つまり……。

暗い列がなんと速やかに伸びてゆくことか、
消えた蝋燭がなんと速やかに増えてゆくことか。

 「伸びる/増える」ことによって「列」になるのだが、「列」は「一本」によって明確になる。「一本ずつ」が「列」になる。「一番近い一本」から「過去」は始まる。どれもが棄てられない過去として、自己主張してくる。

 池澤は、

 この蝋燭はやはりギリシャ正教の教会で用いられる、黄色くて鉛筆くらいの太さのひょろひょろのものだろう。

 と書いている。なぜ、そう限定しなければならないのか、私にはわからない。


カヴァフィス全詩
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池澤夏樹のカヴァフィス(5)

2018-12-24 08:14:33 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
5 サルペードーンの葬儀

『イーリアス』の一情景をそのまま一篇にしたてている。

 池澤の注釈は、要約するとそうなる。固有名詞への注釈が多いのだが、私は、注釈がついていない次の部分が好きだ。

今や彼は戦車を乗りこなす若い王のように見えた--
年のころは二十五か二十六というところ--
最も速い馬の引く黄金造りの戦車で
競走に出馬し、名誉ある賞を得て戻って
休息しているといったありさま。

 若い男の姿が、若い男の姿のまま見える。それが誰であるかを忘れる。
 「年のころは二十五か二十六というところ」はいかにもカヴァフィスの表現だ。大雑把なようで、細かい。とても関心があるのに、関心を隠すために「大雑把」を装っている。これは「恋」の表現である。
 その若い男に注目している。目が離せない。でも、関心がないように装っている。
 知っているのに、知らないふり。
 「名誉ある賞を得て戻って/休息している」も、とてもおもしろい。
 この「休息している」は「死んでいる」の暗喩なのだが、私は、死んでいることを無視して読んでしまう。
 「若い王」の方も、見られていることを意識している。みんなにみられているのではなく、「ひとり」にみられていることを意識している。みんなに見られていると意識しているなら「休息」などしない。手を振って、歓声に答えているだろう。

 『イーリアス』を下敷きにしているのではなく、カヴァフィスは「恋」の瞬間を『イーリアス』のなかに隠しているのだと、私は「誤読」する。



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池澤夏樹のカヴァフィス(4)

2018-12-23 08:55:00 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
4 祈り

海がその深みへ一人の水夫を連れ込んだ--
彼の母は何も知らずに聖母のところへ通い

 と始まり、息子の安全な帰港を祈るが、こう結ばれる。

聖母は厳粛に悲しげにそれを聞きながらも、
知っている、彼女の待つ息子がもう決して戻らぬことを。

 この詩について、池澤はこんなことを書いている。

神とキリスト教のほかに聖母や聖者たちまでが祈祷の対象になり、聖画(イコン)が重視される。東方教会は純正であると同時に、西側から見るとどことなく異教的でもある。

 「西側から見ると」に私はつまずく。なぜ「西側」なのか。なぜ「池澤側」からではないのか。どうして「西側」から見ないといけないのか。
 私はどの宗教も信じていないので、どう判断していいのかわからないが、カヴァフィスを、あるいはギリシアの母を、書かれていることを、「西側」から読み直すということが、どうしてもわからない。
 池澤は、こうつづけている。

古代の神神は人間を贔屓にはしても愛しはしなかった。その冷酷のかすかな残照がこの聖母の画像にあるのではないか。

 母親が祈ったのが、キリストだったらどうなるのだろうか。もしキリストだったら「冷酷」さは消えるのか。私は疑問に思う。池澤の注は、このことを説明していない。

 私はキリスト教徒ではないから、もっと自分に引きつけて読む。自然(人間以外のもの)は非情である。人間がどう思うかを気にしない。母親が祈ろうが、嘆こうが、息子のいのちを奪うときは奪う。そして、非情であるとわかっていても、人間は「祈る」。
 そして残酷なことを書いてしまうが、祈りは聞き入れられないからこそ、「祈る」という動詞(姿)が美しくなる。無意味さが、祈りを絶対的なものに変えてしまう。「共感」になるのだ。感情が共有されるのだ。

 「西側から見ると」という限定が、「祈る」という動詞の美しさをゆがめてしまわないか、とも疑問に思う。




カヴァフィス全詩
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中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」

2018-12-23 08:50:17 | 2018年代表詩選を読む
中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 中村和恵「今後のあるまじろ」(初出「妃」20号、9月)。

食物連鎖の外で生きるのは
おそろしく孤独
よってわたし あるまじろは
漢方薬になりたい

 「あるまじろ」は「わたし」の比喩? あるまじろになったつもりで、あるまじろの気持ちを書いている? わからない。まあ、わからなくても、かまわない。
 「よって」というのは論理的なことばだが、あるまじろが「漢方薬」になるのは論理的かどうかわからない。ここからわかることは、ことばというのは「論理」を装えば、なんだって論理にできるということである。
 で、そういういい加減さ(?)というか、ずうずうしさ(きっと、こっちの方だな)を発揮してことばは展開していく。その部分はその部分でおもしろいが、引用すると長くなるので省いて。
 最後。

でね肝心なのはここんところなの
なにになってもならなくても
おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても
あるまじろはまだ ここ にある
あるまじろのままある
聞こえなくても聞いてみて
ほら トキトキいってるでしょう

 「でね」というのも論理のことば。でも、ぜんぜん論理的じゃないね。論理を捏造しているだけ。
 それなのに。

おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても

 この一行が「肉体」を誘う。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まって」みたくなる。つまり、あるまじろになってみたくなる。「肉体」で形をまねると、あるまじろになれる気がしてくる。私なんかは。ここには「ことばの論理」ではなく「肉体の論理」のようなものがある。
 道端で腹を抱えてうずくまっている人を見ると、「あ、腹が痛いんだ」と思うのに似ているなあ。
 いや、あるまじろは人間じゃないから、どう思っているかは想像がつかないけれど、なんとなくあるまじろが感じていること、あるまじろの「肉体」の感じがわかるような気がする。
 そして「トキトキいってるでしょう」。これは、どうしたって心臓の音、血液が流れる音。「生きてる」と感じる。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ」ということはできないが、「肉体」をかぎりなく丸めるとき、自分の心臓の音が聞こえない? そうやって心臓の音、血液が流れる音を聞いたことって、ない?
 そのとき、不安というか、安心というものを思い出すなあ。



 野木京子「ウラガワノセイカツ」(詩集『クワカ ケルル』9月)は、山田小実昌の「ポロポロ」を思い出させるような書きぶり。

きょうぽこぽこがわたしのところにおりてきて
ぽこぽこ
響きもなく周りをまわっている

 うーん、でも、むずかしいなあ。「ぽこぽこ」が「人間」に見えない。中村の「あるまじろ」が人間に見えるのとはずいぶん違う。野木は人間を書いているわけではない、というかもしれないけれど。
 何を書いているにしろ、私は「人間」を読みたいので、言い換えると「肉体」を読みたいので、あまりおもしろくない。
 「ぽこぽこ」が「関係」を意味する(象徴する/抽象化する)ものだと仮定して言えば、「関係」を書くのは、詩にはむずかしい仕事だと思う。詩はあくまで「具体」だから。「関係」であっても、抽象ではなく「具体」的な「比喩/もの」として提示されないと、つかみようがない。
 私は頭が悪いせいかもしれないが。



*

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池澤夏樹のカヴァフィス(3)

2018-12-22 09:56:22 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
3 アキレウスの馬

死にも老いにもわずらわされぬおまえたちが
たまさかの災厄におびえるとは。人間どもの
苦労におまえたちが巻き込まれるとは」--けれども
二頭の高貴な動物たちが沛然と涙を流し続けたのは
死というの永遠の災厄を思ってのことだった。

『イーリアス』を下敷きにした詩の、終わりの三行について、池澤はこう注釈をつけている。

馬たちがパトロクロスその人の死を嘆いて泣いたのではなく、人間すべてに課せられた死というさだめに同情して涙を流したのだという部分は、カヴァフィス独自の考えであって『イーリアス』にはない。

 この注釈がないと、どこまでが『イーリアス』で、どこからがカヴァフィス独自の考えかわからない、ということなのだろう。
 しかし、こういうことは、わかる必要があるのだろうか。
 『イーリアス』を下敷きにした部分にはカヴァフィスの「考え」は含まれていないのだろうか。そんなことはない。どこを省略するかは、どこを強調するかと同じ意味を持つ。省略と強調の運動の結果、ひとつの「考え」が浮かび上がるとき、それはカヴァフィスの「考え」であると同時に『イーリアス』の「考え」でもある。
 カヴァフィスの「考え」を「誤読/拡大解釈」と指摘することはできる。『イーリアス』はほんとうは違うことを語っていると指摘することはできるかもしれない。けれども詩は(あるいは文学は)、「正しい解釈」のとも生きると同時に、「誤読」によっても生き続ける。
 池澤は、「正しい」と「誤り」を示そうとしているわけではないのだが、私は、こういう指摘には何か「つまらない」ものを感じる。教えられて、詩がおもしろくなる訳ではない。
 私はむしろ、池澤はこう読んだという「誤読」の方を読みたい。

 「新約聖書」はキリストの目撃証言である。証言者によって、内容が少しずつ違う。ことばが違う。そして違うからこそ、キリストが本当にいたのだという証明になる。証言者が違えば、証言のことばに違いが生まれるのは当然のことである。違いがなければ、それは証言ではないだろう。
 同じように、詩の感想が「同じ」ものになってしまえば、その詩は最初から「意味」を押しつけていることになる。そういうものはつまらない。

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タケイ・リエ「みとりとみどりと」

2018-12-22 09:20:31 | 2018年代表詩選を読む
タケイ・リエ「みとりとみどりと」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 タケイ・リエ「みとりとみどりと」(初出『ルーネベリと雪』9月)。二連目、三連目がおもしろい。

あらしのまえにみんなを抱え
黙々とかくれ
ぬくぬく育ったみどりのなかを駆ける
完熟ライム
あまいにおいの夜
窓は濡れて意味を灯した

温度にふれる
みみべりをすべる
枝のおもしろさを手折って
肌と話しあった
ゆびがゆるりほどけ
ひとりでもふたりでもおなじあかるさ

 音が交錯する。「抱え」「かくれ」「駆ける」という具合に、行を越えて響くことばがある。その「か」の音は「完熟」という名詞のなかで結晶する。その瞬間「完熟」は「完熟する」という動詞にかわる。これが「あまい/におい」という迷路を通って、「意味を灯した」という、それこそ「意味/象徴」に変わる。
 どんな「意味」か書かれていないが、詩(文学)なのだから、これでいい。ひとはそれぞれの「意味」を抱え込んでいる。作者の「意味」につきあわなければならない理由なんかない。こういう瞬間にも「意味」は生まれるということをつかみとればいいのだと思う。
 タケイは意図していないかもしれない。私が勝手に、ここに「象徴」というか、「抽象」のようなものが動いていると思うだけなのかもしれない。
 「みみべり/すべる」「枝/手折って」「肌/話し」「ゆび/ゆるり」にも音が交錯している。これは一行のなかで動いている。「ひとりでも/ふたりでも」も同じ。
 だから、どうした、と言われると困るのだが、私はこういう音を聞くとなんとなくうれしくなる。
 「肉体」が音に誘われて動く。
 特に「みみべり/すべり」がおもしろい。「みみべり」ということばを私は知らないのだが、「みみ」の「縁」だと思って読む。「へりをすべる」か。確かに耳の縁はつるりとすべりそうだ。ひっかかるものがない。
 「肉体が動く」というのは、説明が必要かもしれない。
 私そのものが、何か大きな「耳」のへりを滑り台をすべるみたいにすべっていく感じがする。そういう「感じ」を「肉体」そのものとして感じる。「思い出す」というと語弊があるが(そんなことをしたことがないのだから)、でも「想像する」というよりも「思い出す」という感じが近い。
 ほかのことばも、想像するというよりも「思い出す」という感じで「肉体」で反復してしまう。
 そしてこの「反復感(?)」が「ひとりでもふたりでもおなじあかるさ」のなかで、「意味」になろうとする。反復することで「ひとり」と「ふたり」が「おなじ」になる。違うひとであっても、反復するということで、「おなじ」動きになる。その「おなじ」の感覚が「あかるさ」につながる。

 私の書いていることはあまりにも抽象的すぎるかもしれない。私自身にもよく分からないことを書いているからだ。「予感」のようなものを書いているからだ。
 こういう形でしか書けない感想もある。おもしろい詩は、たいていそうである。あとになって、ああだったかな、こうだったかな、と思い返す。それが少しずつ「肉体」のなかにたまっていって、私を動かす力になる。
 「正解」はない。


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池澤夏樹のカヴァフィス(2)

2018-12-21 00:10:09 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
2 老人

老いたことを彼は知っている、感じている、見ている
それでも若かった日々はつい昨日のことのように思われるのだ。
それから今までのなんと短かったことか。

そして考える、分別にあざむかれたのだと。
いつも信じたのだ--愚かにも!--
《明日は充分時間がある》という嘘を。

 池澤は、注釈する。

この時、彼は三十一歳だった。(略)若い日々と老いてからの毎日はあまりにもかけはなれているが、その対照を説明するはずの長い歳月は実感されず、欺かれたという印象ばかりが強い。

 三十一歳という説明がなくても、私はこの詩を若い詩人が書いたと読んだ。「老人」を「彼」と読んでいるが、「彼」はカヴァフィス自身だ。自画像だ。
 ここには具体的なことはほとんど書かれていない。「分別」がどういう分別なのか、はっきり指摘することはむずかしい。
 わかるのは「明日は充分時間がある」とカヴァフィスはカヴァフィス自身に嘘をついたということだ。「明日は充分時間がある。だから、きょうそれをするのはやめよう」。したいことがあったのに先のばしにした。先のばしにすることが「分別」だったのだ。
 カヴァフィスは同性愛者だと言われている。だれかに声をかけたい。でも、声をかけなかった。だれかの誘いを受ける。でも、応じなかった。ためらった。まだ、若い。明日は時間があるというよりも、まだ時間がある、と先のばしにした。先のばすことが「分別」だと思ったのだ。でも、もう、取り返せない。欺かれたのだ。
 これは老人になってから思うことというよりも、まだ若いときの方が、強い後悔となって働くかもしれない。きのう声をかけていたら、きのう誘いに乗っていたら、きょう楽しむことができたのに。きょうだけではなく、明日も明後日も。そういう「思い」がカヴァフィスを「老人」にしてしまう。若いからこそ「老人」になることができる。
 具体的なことが書かれていないのは、カヴァフィスが具体的な体験をしていないからだ。若いときに書いたから、そうならざるを得ないのだ。

 三十一歳という「種明かし」は、つまらない。ことばの中に隠れている「若さ」を発見する楽しみを奪ってしまう。「分別にあざむかれた」ということばのなかにある悔しさを味わう愉悦を奪ってしまう。


カヴァフィス全詩
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