詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケネス・ロナーガン監督「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(★★★★★)

2017-05-31 21:00:56 | 映画
監督 ケネス・ロナーガン 出演 ケイシー・アフレック、ミシェル・ウィリアムズ、カイル・チャンドラー

 海越しに海辺の街が映し出される。このファーストシーンを見た瞬間に、あっ、と叫びそうになる。「絵」になっていない。フレームができていない。構図が閉じられていない、と言っても言い。こういう作品は傑作が、駄作か、両極端に分かれる。この作品は、傑作。そう直感させるのは、その「絵」になっていない映像の「色」である。「構図」は何かただカメラを向けただけというような焦点の定まらない感じなのだが、「色」がしっかりしている。セザンヌのように強い。引き込む強さを持っている。
 これは、どのシーンも同じ。排水管(パッキング?)の修理に訪れる老人の部屋、その室内風景、そこでの対話。人間のとらえ方(焦点の当て方)も閉じられていない。カメラが演技をしていない。そのかわり、そこにあるもの、そこにいる人間が演技をする。そのときの「人間の色」が出ている。
 映画は人間を描いているのだから、それはあたりまえなのかもしれないが、このあたりまえが普通の映画ではなかなか実現しない。カメラ(構図)が演技をしすぎて、かってに意味をつくりだす。この映画では、そういうことがない。そこにいる人の「色」がカメラのなかに定着するまで、じっとカメラは待っている。
 「無駄」が多い。
 で、この「無駄が多い」ということを「カメラ」ではなく、ストーリーに置き換えると、こうなる。
 最初に主人公のボストンでの仕事が描かれる。アパートの便利屋をやっている。いくつものシーンがある。これって、ストーリーと関係ないでしょ? 仕事を説明するにしても、こんなにたくさんはいらない。なぜ、多く描くのか。複数の仕事現場を描くことで、ケイシー・アフレックの「色」がしっかりしてくる。もちろん一シーンでも「色」を出すことはできるが、この映画は積み重ね(塗り重ね)で「色」を強固なものにしている。
 「現在」に「過去」がフラッシュバックのように入り込んでくる。このときの「過去」の描き方が、また、とてもおもしろい。「過去」であることを強調しない。「過去」は遠いところにあるのではなく、「いま」のすぐとなりにある。10年前のことも「思い出す」ときは1秒前よりもっと「身近」なのである。ぴったりと「塗り重なった色」として「過去」が出てくる。これが、そのまま「いまの色」になる。
 こういうことは「小説」では非常に多い。「ことば」をつかった表現では、どうしても「過去/いま」が重なるのだが、映画のように「絵」ではなかなか重ならない。映し出される「情報」のなかにすでに「時間」があって、それが「重なり」を拒否してしまう。この映画では、そういうことが起きない。「時差」を「人間の色」が消してしまう。
 「海の色」さえ、普通は「時差(過去といまの違い)」があるのだが、この映画では、それがない。「いま」なのに「過去」がそのまま生きて「色」となってあらわれている。
 で、これが、映画のテーマそのものにも、深くかかわってくる。
 主人公には忘れられない悲しみがある。乗り越えられない絶望がある。それは、いつでも「いま」となって噴出してくる。「過去」なのに、「過去」にならない。時間が流れ去るということがない。時は悲しみや絶望を解決しない。
 それでも生きていかなければならない。ときには「助け合う」ということも必要になる。これは、苦しい。「色」がぶつかりあい、「色」が濁るのだ。それぞれの人間が持っている「色」がまざり、そこから美しいハーモニーがあらわれるというのが普通の映画(ハッピーエンドの映画)なのだが、主人公は「色が混ざる」ことを受け入れることができない。自分のなかに、もうすでに深く深く混ざり込んでしまった「世界で唯一の色」があるからだ。
 これは、すごいなあ。
 映画の終わりの方に、主人公と甥が、ワンバウンドさせながらキャッチボール(?)をするシーンがあるが、その「ワンバウンド」の距離の取り方が、主人公には絶対必要なのだ。直接ふれあわない。断絶をおく。そうすることで「自分の色」を背負い続ける。
 今年のベスト1だな。

 私はKBCシネマ(1スクリーン)で見たのだが、いつもは不鮮明な映像と色に目が疲れ、頭が痛くなるのだが、今回は「色」が自然に目に入ってきた。それだけ「色」が強かったということなのだろう。(もしかすると映写器機がかわったのかもしれないが。)
                     (KBCシネマ1、2017年05月31日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-31)

2017-05-31 14:26:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-31)(2017年05月31日)

61 *(夜通し歩いていたらしい)

そしていつのまにか夢のなかを通りすぎて
しらじらと明けそむる川岸に出ていた

 「夢のなかを通りすぎて」という想像力には類型があるかもしれない。違和感を持たずに読むことができる。このことばの運動は、連を変えて、こうつづく。

まぎれもなくその日からだつた
ぼくの影がいつも蛇踊りのように揺れだしたのは

 「蛇踊りのように揺れる」へたどりつくまえに「まぎれもなく」がある。「まぎれもなく」は「……である」という「断定」を導く。論理のことばだ。論理を経由することで、嵯峨は「想像力」(空想)を支える。
 「想像力」のひろがり(自在さ)よりも、私はこのことに嵯峨野ことばの特徴を感じる。

62 蛇踊

言葉を忘れた未明
蛇踊りを見た

 「言葉を忘れた」ことと「蛇踊りを見た」ことの間には、強い関係がある。「言葉を忘れた」から、「蛇踊りを見ることができた」。偶然ではない。それが「必然」であることを、嵯峨はこんなふうに「論理化」する。

曙光のなかにゆれ動く経文字を
まだぼくには解く力がない

 文字を解く力とは「読み解く力」である。「読む」を補う必要がある。「読み解く」とき「文字」は「言葉」になる。ことばがまだことばにならないとき、ことばでは表現できないもの、「蛇踊り」が見える。
 そしてこの「力」ということばが一連目を逆照射する。私は「蛇踊りを見た」を「蛇踊りを見ることができた」と「誤読」したのだが、その「誤読」のときの「できた(できる)」が「力」である。
 読み解く力がないとき、見る力がある。「見る」が先行し、遅れて「解く」がやってくる。「見る」を「論理的」に「解く」と、そこからことばが生まれる。これが嵯峨の「権語学」(文法)の基本だろう。




嵯峨信之全詩集
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-30)

2017-05-30 10:48:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-30)(2017年05月30日)

59 *(詩は肉体のなかでは死なぬ)

 「言(こと)の葉(は)のまにまに」という「章」がついている。

死は肉体のなかでは死なぬ

 この一行は、瞬間的に納得するが、読み返すとわからなくなる。「死は死なぬ」という表現は矛盾している。
 肉体の死は、本当の死ではない、ということだろう。これを「死は」という主語で始めると、述語が奇妙にねじれる。ねじれるのだけれど、そのねじれのなかで、何か奇妙なものがみえる。だから瞬間的に納得する。つまり、自分がうすうす感じていること、言いたいけれどことばにできないことが、いまことばとして動いているのだと直感する。そして、「わかる」「納得する」ということが起きるのだろう。
 この一行は、こう言いなおされる。

思考のなかをほんとうの死はやつてくる

 思考のなかで、死は認識される、ということか。

そして人間の墓は言葉のなかに在る

 「思考」は「言葉」といいなおされる。
 これはしかし、ことばのなかに人間の死があるという「定義」にはならない。ここでも、奇妙にずれる。人は死んでも、その人は「ことば」のなかに生きている、という具合に。
 そうは書いていないのだが、そう「誤読」してしまう。詩のことばは「誤読」を誘うことばなのだ。「誤読」しながら、人は自分の思いたいことを思う。

* 60(血がうけつがれて流れるのを)

 書き出しの一行は、こうひきつがれる。

誰もみることはできない
野に捨てられた言葉がその血でひそかに育つ
そして時としてその言葉が詩になる

 血が人から人へ引き継がれていくように、ことばもひとからひとへと引き継がれていく。その「ひきつぎ」のなかで、捨てられたことばがときどき蘇る。詩になって。「ことばのひきつぎ」を「血」というの「肉体」でとらえ直している。




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井筒俊彦『老子道徳経』

2017-05-29 09:34:58 | その他(音楽、小説etc)
井筒俊彦『老子道徳経』(英文著作翻訳コレクション・古勝隆一訳)(慶応義塾大学出版会、2017年04月28日発行)

 私は老子を読んだことがない。井筒俊彦『老子道徳経』を通してはじめて触れることになる。そのせいか、老子を読んでいるのか、井筒を読んでいるのか、ちょっとわからなくなるところがある。たぶん、井筒を読んでいるのだろう。そうか、老子の「道」は井筒の「無分節」とつながっていくのか、と思いながら読んだ。言い換えると、あ、老子を読まないことには井筒の考えがわからないぞ、と反省したということでもある。「道」は「分節」をうながす「正しさ/おおもと」のようなものだ、と感じた。

 第一章、

道可道 非常道     道の道とすべきは、常の道に非ず。

 書物全体が、この書き出しの一行の「解説」になっている。

「道」(という言葉)によって示されうるような道は、<道>ではない。

 原文の「道」ということばが、括弧付きの「道」、括弧なしの道、山括弧付きの<道>と三種類に訳出されている。その三つはどう違うか。これを私が言いなおしてもしようがない。この本を読んでもらうのが一番わかりやすい。(古勝のあとがきによれば、井筒が表記をつかいわけている、意識しているので、それを再現しているということである。)
 ただ、そう書いてしまうと「感想」にはならないので、私の読み取ったことを少し付け加えておく。

 第三十五章の、

用之不可既     之を用いれば既(つ)くすべからず。

それを用いてみると、人はそれが無尽蔵であることに気づくのだ。

 「それ」とは「道」のことだが、「用いる」ことによって「無尽蔵」であると気づくと定義されるときのそれは山括弧付きの<道>である。ただし、それは存在するのではなく、「用いる」ということと同時に「分節されてくる」(現前して来る/顕現して来る)ものである。
 「用いる」という動詞といっしょにしか存在し得ないもの。
 「用いる」は「つかう」、あるいは「動かす」。
 ひとは自分で「つかえる」ものを通してしか、世界を「分節」できない。「つかう」ことが「分節」することである。「名詞」ではなく、「動詞」こそが、世界を「分節」する、「動詞」の「ことば」を中心にことばをとらえなおす--ということを、私は井筒の著作から学んだが、そのことをここで再確認した。
 「我田引水」になってしまうが、あるいは「誤読」の押し売りになってしまうが、この部分に、私はとても励まされた。よし、私は私の「誤読」をつづけていこう、という気持ちになった。

 第六章、

谷神不死     谷神(こくしん)は死せず。

<谷の霊>は、不滅である。

 私の名前には「谷」という文字がある。その「谷」を老子は「道」と結びつけて考えている。こういうところにも、「我田引水」的に、何か、感動してしまう。「谷」には「水」がつきもの、「谷内」というのは「谷の、水のあるところ(湿地)」というような意味を含んでいるが、そう考えると急に老子が「近しい」ものに感じてきたりする。私は「水」に非常に惹かれるが、それもゆえあってのことなのだ、とそれこそ「我田引水」的に妄想するのである。

 第二十四章

企者不立     企(つまだ)つ者は立たず。

爪先立ちする人は、しっかりと立つことができない。

 「企画する」ということは<道>の考えからすると、「爪先立ちする」ということなのか、とふいに気づかされたりする。<道>は「企画」とは断絶したところに存在する、と知らされる。
 これを「用いる(つかう)」というのは、では、どういうことだ。
 これは、考えなければならない。
 「用いる」と思ったときは、もう<道>ではなく、「用いる」と意識しないときに<道>が世界を分節する、ということか。

 あれこれ断片的に考えるだけしかできない。



 私は英語が読めない。井筒の書いた英語のテキストを読んだわけではないのだが、訳文で一か所、疑問に思ったことがある。
 第三十二章の、「注」の訳文(104 ページ)

(3)「それ」とは「樸」によって表象される、絶対的な未分節の精神のことである。

 ここに出て来る「未分節」に私は驚いた。ほんとうに「未分節」なのか。
 第三十四章の「注」の訳文( 109ページ)には、

(4)すなわち、その絶対的無分節もしくは、無差別の状態に関して。

 と、ある。
 「未分節」ではなく「無分節」。
 「無分節」には、私はなじんでいる。というか、井筒は「無分節」ということばをつかっていると思う。読み落としているのかもしれないが、私は井筒の著作で「未分節」を読んだことがない。
 私は実は、井筒の「無分節」を「誤読」して「未分節」ととらえ直しているのだが(このことは「詩はどこにあるか」で何度か書いた)、井筒は「未分節」「無分節」をつかいわけているのか。
 井筒の日本語の著作のどこに「未分節」があるのだろう。それはどれくらいの割合で著作に出て来るのだろう。
 英語表記はどうなっているのだろうか。それが気になった。古勝は井筒の英語の使い分けに応じて「絶対的な未分節」「絶対的無分節」と翻訳をわけているのか。それを知りたいと思った。
 小さな違いだが、「存在はことばである」と考えるなら、この違いは「大きい」。
 第二十五章の注(84ページ)には、

(1)別解 「かたちはないが完全な<何か>」、もしくは「まだまったく分節されていない<何か>」。

 と「無分節」という「名詞(形)」ではない表現もある。「まだ」ということばに従うなら、これは「未分節」という名詞に置き換えてもかまわないと思うが(私は井筒の「無分節」を、「分節がない」ではなく「まだ分節されていない」と「誤読」して「未分節」と読んでいるのだが)、この部分の英語表記と、先に取り上げた英語表記の部分はどう違うのだろうか。
 とても気になる。 

老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)
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慶應義塾大学出版会
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-29)

2017-05-29 08:08:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-29)(2017年05月29日)

57 *(つぶやきが)

マッチを擦ればすぐにも火がつきそうな一秒二秒の沈黙

 最後の一行。「一秒二秒」という「間」の認識の仕方が濃密。マッチを擦り、火がつくときの音が聞こえてくる。「沈黙」を際立たせる。

58 針不動

輝く水の皺を
影が奪い

 「輝く」と「影」の対比がおもしろい。
 この前の連に「闇にふかく」ということばがある。「闇」のなかで「輝く」水の皺であるなら「闇」が奪っていきそうである。それを「影」が奪っていくという。
 このとき「影」とは何だろうか。水の皺(波紋)の光っていない部分、光によって生まれてくる「影」のことだろうか。皺の頂点が輝く、皺の腹が影になる。腹は「内部」。それが表面を奪っていく。のみこんでいく。あるいは内部にのみこまれていく。
 「水」の呼吸が聞こえ、が「いのち」に見えてくる。
 一方、「影」には「光」という意味もある。「月影」「星影」。そうであるなら、水の皺の光が薄くどこまでも広がっていくようにもとらえることができる。



嵯峨信之全詩集
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「前川抹殺事件」その2

2017-05-28 16:54:33 | 自民党憲法改正草案を読む
「前川抹殺事件」その2
               自民党憲法改正草案を読む/番外79(情報の読み方)

 前川・前文部次官への菅官房長官の人格攻撃と、それに追随する報道は、「前川抹殺事件」と呼ぶべきものだと思う。
 前川が「出会い系バー」に出入りしていたことは前川が認めている。その写真も「証拠」としてある(という)。
 私が一番気がかりなのは、いったい誰が前川が「出会い系バー」に出入りしているという情報を提供したか、ということ。そして、誰がどのような方法でそれを確認したかということ。
 ひとのやっていることだから、どこからでも噂は立つ。前川が部下といっしょに飲んでいて、「用事があるから」と席を立つ。それを誰かがたまたま追いかけて行ったら「出会い系バー」に入っていくところを見てしまった。そして同僚に話した、ということはあるかもしれない。偶然発覚する「秘密」というのは、往々にしてあるだろう。ここまでは、まあ、人間のやることだから仕方がない。人間は噂話が好きである。
 しかし、その「秘密」を写真にとって「証拠」として示すというのは、どうだろう。「証拠」としてつきつけるというのはどうだろう。異常じゃないだろうか。何のために、他人の「秘密」を「証拠」までつけて、暴く必要があるのだろう。部下が自発的に前川の問題点を内閣に知らせたのか。何のために? 出世のために? 前川を失墜させるために? もし、部下ではないとしたら、誰が? 内閣が「探偵」をやとった? 警察に尾行を指示した? 何のために?
 もし、内閣が偶然噂を耳にしたのだとしたら、それが事実かどうか前川に確認し、事実だと認めれば注意するだけで十分だろう。写真を突きつけることはないだろう。
 さらに、前川が「出会い系バー」に出入りしていたことを認めたからといって、その情報をマスコミに提供し、報道させるというのは、どういうものなのだろう。現職の次官ではない。文部省をやめている。そういう人間の「過去」の「プライバシー」を明らかにすることで、いったい何の役に立つのか。まったくわからない。

 今回の事件は、いくつもの問題点を抱えている。
 前川が認めたのは「出会い系バー」に出入りしているということ。そこで何をしたか、明らかになっていない。前川がバーに出入りしていると指摘した官房長官も読売新聞も「証拠」を提出していない。国民と読者の「想像力」にまかせている。
 前川がたとえばそこで働いている女性に金を払い、肉体関係を持った、というのなら、その「証拠」が必要だ。いつ、どの女性と関係を持ったのか。その関係を女性は認めているのか。前川は認めていないが「証拠写真」があるというのか。前川は、そういう事実があったと言っているのか。前川がそういう関係を否定しているとしたら、それでもなおかつ「出会い系バー」に出入りしたというだけで、前川に対する「人格攻撃」をしていいのか。
 前川は「貧困問題の調査をした」というようなことを言っている。つまり、「いかがわしい関係」はないと言っている。そういうところに出入りして、いかがわしい関係がないというのは信じられない、というのは普通の感想である。でも、それは感想でしかない。空想、あるいは俗人の欲望(妬み、自分もしてみたい)を暗示するものでしかない。空想で「人格攻撃」をすることは許されない。権力がそんなことをするのを許してはならない。
 前川については、夜間中学校でボランティアをしている(していた)という情報がある。さらに、前川の祖父は財団をつくり、機会に恵まれないひとを支えていたという情報がある。前川は、そういう祖父の行為をひきついで行動していることになる。そういう情報を配慮すると、前川が「出会い系バー」で女性たちの状況を聞き取り、何らかの救済策を考えようとしていたと想像することができる。美しすぎる想像かもしれない。けれど、美しいからといって「嘘」とは言えない。
 人間にはいろいろな側面がある。一面だけ見て、その人間を「断定」できない。
 批判するには客観的「証拠」が必要である。

 なぜ、前川の「過去のプライバシー」が問題なのか、そのためになぜ「人格攻撃」されないといけないのか。また「過去のプライバシー」として取り扱われていることがらが、ほんとうに批判されなければならないことなのか、批判に値する証拠はどこにあるか、そのことが問われなければならない。
 誰が、何のために、前川の「過去のプライバシー」を問題としているのか。その「過去のプライバシー」を誰が、どうやって調べたのか。誰が調査を指示したのか。その「過去のプライバシー」に「犯罪性」はあるのか。「犯罪性」を裏付ける「証拠」はあるのか。

 「噂話」による「冤罪」がでっちあげられようとしているではないのか。

 もし、ここで前川の「冤罪」がでっちあげられれば、それはそのまま、あらゆる国民の「冤罪」がでっちあげられるということである。
 人の行為の一部分だけを取り上げ、「犯罪」がでっちあげられる。国会で話題になったが、桜の下を望遠鏡を持って歩けば、犯罪行為の下見である、と言われかねない。目的がバードウォッチングであると言っても聞いてもらえない。
 共謀罪(治安維持法)は、政府によって先取り実施されている。それが前川事件の本質である。政府にとって不都合な人間は、「罪状」をでっちあげて葬り去る、ということが始まったのである。
 (そして、この気に食わない人間を「沈黙させる」という方法は、昨年の「天皇制限退位」のNHKスクープから始まっている、と私は感じている。)

 また、前川が現職時代に加計学園問題を提起しなかったのはおかしいという批判も、とても奇妙である。
 そのときは問題を提起できなかった。だけれど、いまはそれを反省して、問題点を指摘している。それがなぜ批判の対象になるのだろう。ひとにはできないこととできることがある。できるようになったとき、それをしてなぜ悪いのだろう。できるようになったときに、しないということが悪い。
 過去にできなかったのだから、いまもするな、という論理は、とてもおかしい。
 多くのひとは、たいてい「正しいこと」を遅れてやる。
 「おかあさん、ありがとう」というような簡単なことさえ、ひとは母を亡くしてしまってから、やっと言う。「遅れて」やってしまうのが人間なのだ。「遅れて」やったからといって、「遅れた」ひとを攻撃してどうなるのだろう。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-28)

2017-05-28 00:20:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-28)(2017年05月28日)

55 *(星の持つている記憶を奪わないと)

星の持つている記憶を奪わないと
ぼくのアリバイは成立しそうもない

 二行の詩がつづく。
 この作品は、何のことかわからない。

56 *(もはや其処しかない)

もはや其処しかない
狂つた男の頭の中がぼくの唯一の安住の地である

 「狂う」と「安住」が結びつく。「頭」と「地」が結びつく。矛盾というが、反対のもの(対極のもの)が結びつき、バランスをとる。「逆接」ということができる。
 その一方、「男」と「ぼく」という結びつきがある。「男」を他人と読めば、自分と自分ではないものだから「逆接」になるのだが、私はそうは読みたくはない。
 「男」の性は「男」。「ぼく」の「性」は「男」。「男という性」を手がかりにして、「男」と「ぼく」は接続している。これは「逆接」ではなく「順接」ということになる。
 「逆接」と「順接」のまんなかに「唯一」ということばがある。「接続」の「一点」(接点)。
 何を書こうとしたのかわからない。「唯一」ということばが、印象に残る。 

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加計学園文書(あるいは前川事件)

2017-05-27 10:51:22 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園文書(あるいは前川抹殺報道)
               自民党憲法改正草案を読む/番外78(情報の読み方)

 前川・前文部次官の行動と発言に関する「論評」が奇妙な具合に、ずれている。

 前川が「出会い系のバー」に行っていたのは、彼が現職の文部次官だったとき。このときなら、教育に携わる人間がそういうところに出入りするのはいかがなものか。こどもへの影響も大きい。だから批判するのは「公益」に合致するという論理は成り立つかもしれない。
 しかし、いま、前川は次官ではない。文部省の仕事には携わっていない。
 問題にするなら、彼の「出会い系バー」通いが、文部行政にどう影響したか。その結果、こどもの教育がどうなったか、ということを検証しなければならない。前川は、そういうことについては何も問われていない。(だれも問題にしていない)。

 過去に「いかがわしい」ことをしたから、その人がいま発言していることを否定する、受け入れないというのは、論理的におかしい。
 前川の「出会い系バー」通いと加計学園への「便宜」とは何の関係もない。前川が「出会い系バー」に通っていたことが加計学園にどう影響したのか。いかがわしいところに前川が通っていたから、加計学園の獣医学部新設が認可されたのか。そうではないだろう。問題は誰が、どのように加計学園に配慮したのか、ということ。加計学園の問題点を隠すために、前川の過去(プライバシー)が不必要に語られている。

 「問題があるとわかっていたのなら、なぜ、そのときに指摘しなかったか」という批判は、もっともらしく聞こえる。では、それを前川の「出会い系バー」通い問題に適用したら、どうなるのか。
 彼が「出会い系バー」に通うことが、文部行政(学校教育)上問題があると言うのなら、それがわかったときに前川を辞任させるべきではなかったのか。
 口頭で注意しているが、口頭で注意するくらいですむ問題なら、そしてその注意に従って前川が行動を改めたのなら、なぜ、それをいまさら取り上げて問題にしなければならないのか。前川は、反省して、自分の行動を改めた。それなのに、行動を改める前のことを取り上げて避難するのは、あまりにも理不尽である。
 これは悪質な「人格攻撃」である。

 人間にはプライバシーがある。そのひと自身の生活がある。他人が干渉する権利はない。だいたい、どうやって前川が「出会い系バー」に通っていたことを内閣は知ったのか。情報源はどこなのか。どうやって確認したのか。前川に注意した人間が、尾行して、調べたのか。警察をつかって尾行させて調べたのか。警察は重大犯罪でもないのに、内閣の指示に従って、調べたのか。
 前川の「いかがわしい」行動以上に、どうやって前川の行動を調べたのかということの方が重大な問題だ。

 また、こういうプライバシーを暴くことは「名誉棄損」にはならないのか。
 裁判のことはよくわからないが、もし前川がプライバシーを侵害された、知られたくないことを報道されてしまった、と訴えれば、前川が勝訴するのではないのか。先に書いたように現職ならばまだ「文部行政に悪影響を与える、こういう行為をしている人間が文部省の幹部をつとめているのは問題がある」という論理は成り立つ。しかし、既にやめている人間の過去のプライバシーを暴露して、何の効果があるのだろうか。文部省の職員に規律を求める効果があるというのなら、それは文部省内部で徹底すればいいこと。職員に「出会い系バー」に出入りしてはいけないと指導を徹底すればいいだけのことであって、国民にそんなことを知らせる必要はない。
 今回の報道で、前川の家族はどんな影響を受けたのか。報道されなくても、そういうことを知っていたのか。報道をとおして知ったのか。報道が家族を傷つける(家族の人権を侵害する)ということはなかったのか。
 これも検証してみないといけない問題だろう。

 また、過去に「いかがわしい」ことをしているから、その人の「証言」は信用できないというのは、あまりにも非論理的すぎる。
 たとえば万引きで補導されたことのある少年が、偶然、殺人事件の現場を目撃する。そして、何が起きたが、つまり誰がどのような状況でどうしたかを証言したとする。もし、このとき容疑者(被告)の弁護側が、「この少年は過去に万引きをしたことがある。補導歴がある。そういう少年の証言を信用することはできない」と主張したとしたらどうなるのだろうか。裁判官は証言を不採用にするだろうか。「本件とは関係ない」と検察は異議を申し立て、発言を撤回させるだろう。

 今回のできごとは、加計学園への便宜以上に、重要な問題である。
 いったん批判の目が政権(権力)に向けられると、その批判を構成している人間は徹底的に監視される。そして不必要なプライバシーを暴かれる。前川の場合、いまは、「出会い系バー」通いだけが取り上げられているが、安倍政権批判につながる「第二の証拠」が出てくれば、そしてその証拠を、前川が「見たことがある」と発言すれば、さらに過去が暴かれるだろう。どこそこで立ち小便をしたとか、どこそこの交差点で信号を無視して横断したとか、就業規則(?)に書かれている休憩時間を超えて喫茶店でコーヒーを飲んでいたとか。些細なことを重大問題に仕立て上げ、人格攻撃をエスカレートさせるだろう。職場で若い女性職員に「その服装にあっているね」と言ったとする。あれは「セクハラだった」という指摘も出てくるだろう。
 権力、権力者を批判する人間への「監視」が始まっている。そして、その「監視」からつくりだされる「罪状」は何とでもでっちあげられる。女性職員への、ふと口をついて出た「感想」が「セクハラ」になる。
 「共謀罪」(「治安維持法」と言ってしまった方が言い)は、国会の審議を通りこして、すでに実施されている。そして、それが個人攻撃(人格攻撃)として動き始めていることに、しっかり目を向けるべきだ。
 加計学園にどんな便宜が働いたのかを追及すると同時に、前川批判のために権力がどう動いたか、それを追及することを忘れてはならない。「前川が出会い系バーに通っていたことを、内閣はどうして知ったのか」ということを、野党は質問してもらいたい。「ある文部省の人間が出会い系バーに出入りしていたとして、どの段階(出入りを何回確認したら)で注意するのか」というようなことも聞いてもらいたい。そうすれば、警察が何回尾行したかがわかる。どの警察が、どの警察官が尾行したかも聞いてもらいた。「所属や氏名は職務上答えられない」という返事が返ってくるだろうが、そこから、またわかる問題がある。尾行され、調べられる人間には常に「固有名詞」がついてまわるが、調べる人間には「固有名詞」がない。いったん個人追及が始まると、それは「組織対個人」という関係になり、「固有名詞」は徹底的に攻撃されるのだ。
 私の提案した質問は通俗的だが、「人格攻撃」をする「通俗的な政権」に対しては、「通俗的な視点」で反撃することが必要だ。「通俗的」な方が、いま起きていることの重大性がわかりやすい。自分自身が属している「通俗」のなかから、権力への反撃方法を組織化していかないといけない。
 民進党は気取っているのでこういう質問はしないだろうが、気取っている場合ではない。「共謀罪」は政権によって先取り実施されている。
 恐怖政治は始まっている。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-27)

2017-05-27 09:32:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-27)(2017年05月27日)

53 *(盲人も加速度でそこから逃れられるか)

盲人も加速度でそこから逃れられるか
それとも死の上で小止みなく足踏みをしているか

 二行の作品。「逃れる」と「足踏み」が対になっている。二行とも「か」という疑問で終わっている。二つの疑問を「それとも」ということばがつないでいる。「それとも」は反対のことば(概念)を呼び寄せる。「それとも」が対を強くしている。
 対が強くなっている、ということ以外は、私にはわからない。
 嵯峨は「強さ」を書きたかったのだろう。何かを書きたい、書くことで何かに「強い」ものを感じている、その瞬間を残したかったのだろう。「意味」というよりも。それが「それとも」にあらわれている。

54 *(大きいということは)

大きいということは
小さいということの何倍か

 「こと」に、何がこめられているのだろうか。
 「大きいもの」「小さいもの」なら比較できる。
 しかし、「こと」は比較できない。
 ひとにとって、「こと」は「とき」と一体になっている。「あるとき」に「あること」が起きる。そのときひとは「そのこと」に集中している。「そのこと」が「そのひと」である。他人から見れば「小さいこと」でも、本人にとっては「大きいこと」。
 だから、この詩は次のようにつづけられる。

その謎を解くには
負数がゼロの函数になる日まで待たねばならぬ

 数学的用語は抽象的すぎて「意味」にならない。あるいは「意味」でありすぎる。
 私が「誤読」の中心に据えるのは「ある日」と「待つ」ということば。「時間」の経過が「こと」をやっと客観的にしてくれる。「そのとき」は没入していて見えなかったものが、ようやく見えてくる。「比較」するとは、そういうことだろう。


嵯峨信之全詩集
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-26)

2017-05-26 11:11:34 | 自民党憲法改正草案を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-26)(2017年05月26日)

51 *(ぼくの生命は尽きるだろう)

 「ぼくの生命は尽きるだろう」という書き出しではじまり、

ぼくにとつて死のむこうの出来事のように

 という一行で終わる。その間に「火になろうとして土になつた」という連と「一瓶の葡萄酒の描写がある。「現実」が「意識」をまじえて描かれるのだが、それは「現実」ではなく「死のむこうの出来事」である。
 「尽きるだろう」という「意識」が「現実」を「現実」ではなくさせる。嵯峨はいつでも「意識」を描いている。

52 *(雷死)

雷死
現実はなによりもそこを一歩越えている

 二行の死。「雷死」ということばがあるかどうか知らない。私は嵯峨の詩ではじめて見た。「読み方」はわからない。
 雷に撃たれて死ぬ。感電死。一瞬のできごと。「現実」はその「一瞬」を「一歩越えている」。どこへ? どんなふうに?
 直前の詩の、「死のむこう」ということばが気になる。
 ひとは自分自身の「死」を体験することができない。「体験」というのは、たぶん、繰り返しのことなのだ。繰り返すことで納得する。それができないのが「死」。
 死が体験でないとしたら、では何なのか。
 「予測/予感」だろう。
 現実を見ながら、「予測/予感」する。現実は、そうやって死とつながる。つなぐことばが「詩」ということになる。まだ存在しないものを「ことば」にする。そのとき死に触れる。


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加計学園文書

2017-05-26 09:59:51 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園文書
               自民党憲法改正草案を読む/番外77(情報の読み方)

 加計学園の獣医学部新設をめぐり、「総理の意向」などと書かれた文書が話題になっている。前川・前文部次官が「本物」と言ったたために、論理が奇妙な展開を見せている。 読売新聞(2017年05月26日朝刊・西部版・14版)の社会面に次のくだり。

(文部省)幹部は「証言が本当なら、なぜ次官のときに問題にしなかったのか」と批判。ある職員は「天下り問題で辞任に追い込まれたうっぷんを晴らしているだけのように見える」と冷やかだった。

 三面には、こういう文章もある。

政府内には前川氏の行動について、「政権への趣旨返し」(首相周辺)との見方も出ている。菅氏は25日、「自ら辞める意向を全く示さず地位にしがみついたが、世論の批判にさらされて最終的に辞めた人だ」と述べ、前川氏を痛烈に批判した。

 二つの文章の「趣旨」は同じ。辞任に追い込まれたので、前川が政権に仕返しをするために「文章は本物だ」と言ったということ。
 さて、ここからなのだが。
 私は、こう読む。

 まず、文部省の職員や、菅官房長官、首相周辺の誰かが言っていることは「正しい」という前提で考える。つまり、前川は、辞任に追い込まれた腹いせ、「トカゲの尻尾きり」の尻尾にされたことに対する「仕返し」で証言しているということを「正しい」と考える。
 問題は、そのあと。
 「仕返し」をするとき、方法には二つある。
 「嘘」をでっちあげる。菅が言おうとしているのは、「嘘説」。
 もうひとつは、それまで「秘密」にしていたことを暴露するという方法がある。仕事をしている間は、「秘密」を守る。隠し事をする。「秘密」を守ること、隠し事をすることが「仕事」だからである。出世につながるからである。
 文部省幹部は、なぜ次官のときに問題にしなかったかと言うが、次官だったから言わなかった。政権に従順に従っていれば出世すると思っていた。仕事を続けられると思っていたから言わなかった。こういうことは、どういう会社でもあるし、小さな仲間うちでもある。いやだけど、ちょっと我慢していよう。その方が人間関係がスムーズに行く。変に警戒されないですむ。誰もが少なからずやることである。怒りたいけれど、がまんして笑顔で許す。そういうことができない(そういうことをしない)人間の方が、なんというか、変ではないだろうか。
 そうやって我慢してきた人間が、辞めさせられた鬱憤ばらしに、それまで自分が我慢していたこと、自分が受け入れてきた他人の「不正(我慢できないこと)」を言いふらすということも、よくあること。
 それを認めた上で言うのだが。
 「鬱憤ばらし」に嘘をついて、どんな「得」があるだろうか。「小さな仲間うち」では「嘘つき」とか、「心が小さい」というような批判が広がるだけ。大きな社会では「偽証」という問題に発展する。名誉棄損とか、賠償責任というようなことも起きる。「鬱憤ばらし」で「嘘」を語ると、「鬱憤ばらし」をした人の被害(?)が拡大する。辞めさせられた上に、嘘つきだから辞めさせられたのだということが「法的」に確定する。「噂」ではすまなくなる。
 そんな危険を、ひとは、しない。
 前川は国会の証人喚問に応じるといっている。国会での証言が嘘だったら偽証罪に問われる。偽証罪と認定されれば完全に犯罪者である。それでは前川にとって、何の「得」にもならない。
 前川の証言が「鬱憤ばらし」、あるいは「趣旨返し」であると認めているひとは、そういう不正(文書)があったことを認めていることになる。それが「本物」であり、前川の言っていることが「正しい」から「趣旨返し」「鬱憤ばらし」と呼ぶのだ。否定的なニュアンスのある「ことば」に頼るのである。いわゆる「レッテル貼り」である。否定的なレッテルで、問題点を「修飾」し、見えにくくする。視点ずらしである。
 前川が「出会い系のバー」に出入りしていたという「風評」も「レッテル貼り」。いかがわしい人間である。だから前川の言っていることは信用できない、と言いたいらしい。でも、逆に、身分があるのにそういう店に出入りしてしまうのは、自分の欲望に正直な人間であるということもできる。正直な人間が、正直に語っているという「論理」も成り立つ。バー通いと首相の意向は関係ないだろう。
 それにしても、社会面の、

前川氏は一部メディアの取材に、「昨秋、首相官邸幹部に呼ばれ、『こういう所に出入りしているらしいじゃないか』と注意を受けた」と語っており、会見では「ご指摘をいただいたのは杉田(和博)官房副長官だ」と明らかにした。

 という部分には驚く。ふーん。文部省次官は、どういう店に出入りしているかまでチェックされるのだ。誰が調査したのかな? 次官だから調査されたのか、あらゆる公務員が調査されているのか。私は前川がバーに出入りしていたという情報よりも、それを調べた人間と、調査方法の方が気になってしようがない。
 「共謀罪」が成立してしまえば、あらゆる「密告」が正当化され、監視社会になってしまうんだろうなあ。

 脱線したが。
 笑いだしてしまうのは、三面の次の文章。

特区や規制緩和のメニューを認定する「国家戦略特区諮問会議」は、首相が議長を務めている。仮に特区認定に首相の意向が働いていたとしても「制度上は当然で、法的な問題はない」(政府関係者)。

 首相の意向が働いていたとしても「制度上は当然で、法的な問題はない」というのは、安倍の意向が働いていたということを認定するものである。働いていないなら、首相の意向は配慮されない。首相は働きかけていないですむ。「仮定」してみる必要はない。
 首相の意向が働いていたということが「認定」されたときにそなえて、「予防線」を張っている。
 名前は臥されているが「問題はない」という口ぶりは、誰かを連想させる。時に固有名詞を出し、ときに「政府関係者」と書き分けられ、発言者が「複数」いるようにみせかけられているが、言っているひとは「ひとり」ということもある。

 読売新聞は、特区と大学学部の新設について、こんなことも書いている。(三面)

今年 4月に国家戦略特区を利用して千葉県成田市に新設された国際医療福祉大学医学部の場合、成田市が2015年9月、民間の土地を22億7600万円で購入し、大学に無償貸与した。

 だから加計学園問題の土地貸与も問題ではないと言いたいらしい。しかし、親切が認められるまでの「経緯」はどうなのか。やはり安倍の意向が優先した結果、国際医療福祉大学医学部が認められたのか。他の大学の申請と競合したけれど、審査した結果国際医療福祉大学医学部になったのか。国際医療福祉大学医学の認可が、同じ経緯を辿ってなされたものならば、加計学園のことは問題にならない。しかし経緯が違っていれば、その違いが問題である。
 いま、問われているのは「結果」ではなく、「経緯」である。「経緯」が正しいなら、「結果」に対して疑問は生まれない。どんなに予算をつぎ込んでもしなければならないことがある。日本獣医師会は「獣医師は不足していない」と加計学園の獣医学部新設に反対している。
 国際医療福祉大学医学部新設の場合も、日本医師会は「医師不足解消にならない」と反対しているが、もしかすると、読売新聞の「情報」は国際医療福祉大学医学部でも首相の意向が働いたということをほのめかすもの? 「経緯」はどうだった? 私は、そんなことも考えてしまうのだった。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-25)

2017-05-25 09:24:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-25)(2017年05月25日)

49 *(ぼくは荒縄でぐるぐる巻きにされ)

大きな夜の窪みに投げだされた
そこは閉じられた書物のように暗らくて重いところだ

 「窪み」には否定的な意味合いがある。「閉じられた」「暗らく」と重なる。視界が「閉じられた」世界が窪みであり、窪みの底は「暗い」。窪みは、このとき「穴(深い穴)」と同じ意味になる。
 しかし、そのあとの「重い」はどうか。
 「閉じられた」「暗い」は「重い空気」ということばとどこかでつながっている。しかし、それは「窪み」とは少し違う。
 だからこそ、そこに「書物」が割り込む。
 「窪み」と「書物」は似ていない。けれども「閉ざされた書物」「暗い書物」という言い方はある。「修飾語」が窪みと共通する。「修飾語」によって「存在」の区別が消され、「修飾語」が「本質」のように動き始める。そして「重い」ということばを導き出す。
 「窪み」が描かれているわけではない。「書物」が描かれているのでもない。「閉ざされた」「暗い」「重い」が描かれている。それがどんなふうに「閉ざされ」「暗く」「重い」のかを言うために、ほかのことばが動いている。
 「修飾語」に見えるものこそ、この詩のテーマである。

50 *(名ざしはしない)

ひとりの女を時のなかに縫いつけて
盲目の座に追いあげてしまう

 「縫いつける」と「盲目」。「縫いつける」を、動けなくする、視界を限定するということととらえ直せば「盲目」に通じるかもしれない。見えているが、すべてが見えるわけではない。一種の「盲目状態」。
 だが、それは「追いあげてしまう」の「あげる」という動詞とは通じるようには思えない。「あげる」は直前の「座」と結びついている。「座」とは「位置」のことである。「位置」と「上げる」は結びつき「上位」ということばになる。
 この「座」は、「窪み」の別のことばなのかもしれない。

 ぼく(嵯峨)は「窪み」に投げ出される、女は「座」に追い上げられる。嵯峨を「窪み」に「投げ出した(追い落した)」のは女。そうやって嵯峨を孤立させた。女を「座(高み)」に追い上げ孤立させたのは嵯峨。
 二つの詩を、そんな具合に「誤読」してみる。
 愛し合っているのに、別れ、孤立してしまう青春が見える。


嵯峨信之全詩集
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さとう三千魚『浜辺にて』

2017-05-24 20:52:30 | 詩集
さとう三千魚『浜辺にて』(らんか社、2017年05月25日発行)

 さとう三千魚『浜辺にて』は六百ページを超す詩集。英語のタイトル、日本語の副題、そして横書きというスタイル。読み通す自信がない。目が悪いので、読んでいる内に疲れてしまうかもしれない。そうすると、感想もぼんやりしてきそうだ。乱暴を承知で、ぱっとことばが動いた瞬間の感想を書いておく。22ページの作品。

sunny 晴れた日 日当たりのよい
2013年7月2日

うすい
空色のなかに

白い雲がうかんでる
こと

うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ

こと

 この詩に出会った瞬間、さとうは「こと」を書いているのだと思った。「こと」はなくても「意味」は通じる。「こと」があっても「意味」はかわらないように思える。それなのに、さとうは「こと」ということばを書く。「こと」が書きたいのだ。しかし、「こと」というのは誰もが日常的につかうが、どう説明していいかわからないことばだ。
 あるいは逆に、説明しなくてもわかることばだ。
 「こと」ということばにふれて、私は何かを思う。思い出す。しかし、それはあまりにもなじみすぎていて、説明のしようがない。
 だから、違う風に読んでみる。
 「こと」をほかのことばで言いなおすと、どうなるか。
 この詩には、まだ後半があるのだが、「こと」は言いなおされていない。ほかのことばといっしょに繰り返されている。だから、「こと」を言いなおすとどうなるかは、別の詩から探すしかない。

name 名 名前
2013年7月7日

花にも
名があった

ヒトがつけた名があった

思い浮かぶ花が
ある

 この詩に出てくる「ある」という動詞が「こと」に似ていると思う。「こと」は名詞だが、それを動詞にすると「ある」ということになるのだと思った。

うすい
空色のなかに

白い雲がうかんでる
それがある

うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ

それがある

 「雲が浮かんでる」「燕が線を引いて飛ぶ」。主語と述語で、ことばは完結している。それを「ある」と言いなおす必要はない。けれど、「それがある」とさとうは言いなおす。それは「再認識」なのだ。言い直しながら、「それがある」を「こと」と、さらに言いなおす。
 「こと」は「ある」という動詞を、名詞で言いなおしたもの。再認識なのだ。「ある」も再認識だが、「こと」はそれをさらに再認識するもの。
 世界に触れ、世界のあり方を言いなおす。言いなおすという作業を証明するのが「こと」ということばなのだ。

 と、ここまで書いて、私の書きたかったことが、私にもわかる。

 何かを「言いなおす」。それが詩なのだ。どう言いなおすか、とても難しい。たいていの詩は、「意味ありげ」に言いなおす。「比喩」とか「象徴」とか、哲学的用語とかをつかって、私はこんなふうに世界を見ていると「独自性」をアピールする。
 さとうは違う。
 いつもつかっていることばで言いなおす。それは言いなおすというよりも、単なる繰り返しに近いかもしれない。こどもが大人のことばを聞き、それを繰り返しながら世界の姿を肉体に覚え込ませる作業に似ている。

 さとうは繰り返すことで、ことばを鍛えている。
 どの詩にも繰り返しが多いが、繰り返すたびに、最初のことばが少しずつ確かになっていく。そのことばしかない、という感じになる。
 多くの詩人のように、比喩、象徴、哲学的用語で言いなおすのではなく、言いなおさずに繰り返すことで、そのことばが持っているものを確かなものにするという感じ。

 世界は、「ある」。
 その「ある」をただ「ある」というままにしておくのではなく、私たちに関係がある「こと」にしていく。再認識することで、認識を高めていく。確かなものにする。それが「ことば」の仕事なのだろう。さとうは、それを新しいことばをつくりだすのではなく、なじみのあることばを繰り返すことで確かなものにしようとしていると感じた。
浜辺にて
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-24)

2017-05-24 08:24:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-24)(2017年05月24日)

47 時刻表

早鐘を打つような心臓の鼓動である
それもまもなく櫓の音のように間遠うになつて消えてしまう

 この「対句」は私には奇妙に見える。「心臓の鼓動」は自分の内部から聞こえる。一方「櫓の音」は外部から聞こえる。「心臓の鼓動」が外部に出て、「櫓の音」にかわって、やがて遠くなって消えていく。
 こういう経験を私はしたことがない。
 これはひとつづきのことではなく、二つのことかもしれない。「鼓動」を聞く。その一方、「櫓の音」を聞く。それが遠ざかっていくので、鼓動も呼応して静まる。嵯峨は、船が遠ざかるとき「櫓の音」も遠ざかるのを聞いたことがあるのだ。
 理由はわからないが、鼓動を高鳴らせて、つまり「どきどき」しながら、それを見ていたのだろう。遠ざかっていくことが、嵯峨に安心を与えたのかもしれない。

48 *(駱駝に云つた)

 針の穴を通り抜ける駱駝が、通り抜け抜けられずに死んでしまった。

まるで使い古した絨毯のように妙に嵩張つていて
生命だけがぬけ出してしまつたらしい

 この二行の比喩が強烈だ。
 絨毯は、駱駝が砂漠の生き物、砂漠はペルシャ(あるいはアラビア)、 ペルシャは絨毯という連想によるのかもしれない。絨毯がペルシャ、砂漠、駱駝というつながりを呼び起こす。この連想は、実際に駱駝、砂漠、ペルシャを知らないからこそ、「文学」として生まれる。ペルシャ人はこんなことは思わないだろう。だからこそ、というのは奇妙な言い方になるが、強い印象がある。空想が空想に働きかけてくる力、想像力の本質のようなものを感じる。
 そのあとの「生命だけがぬけ出してしまつた」とどうだろう。
 「文学」を超えるリアリティーがある。「絨毯」が想像力が加速した結果生まれたことばであるのに対して、何かもっと違ったものがある。破壊力がある。
 「生命がぬけ出してしまつた」ら、そこにあるのは何だろう。「脱け殻」なのかもしれないが、私は「魂しい」を感じる。嵯峨のつけくわえている「しい」という文字のような、常識を逸脱した何か、嵯峨だけが見てしまった何かを。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-23)

2017-05-23 06:59:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-23)(2017年05月23日)

45 *(ぼくの「時」は)

ぼくの「時」は
一インチの隙間もなく黒い那智石で敷きつめられている

 なぜ「インチ」なのだろう。「那智石」なのだろう。私にわかることばは「黒い」だけである。
 「黒い」は、このあと「地下」「判決(書)」「捺印」「論告」という具合に言い換えられていく。
 言い換えるときの「主観」の動きが「意味」である。

46 *(蛇が魂しいの中に住みついた)

蛇が魂しいの中に住みついた
光りが眩しい
動くたびに見えない黒い部分ができる

 「動くたび」の「動く」の主語は何だろうか。蛇か。
 私は「光り」だと思った。
 眩しい光が目を射る。強い光のために、逆に何も見えなくなる。光が去ると目の中が真っ暗になる。あるいは、黒い点のようなものが残る。
 あの「黒い点」は何だろうか。
 そのことを思うとき、「魂しい」「光り」という嵯峨の表記が気になる。
 「しい」や「り」は、強い光にいぬかれた目が一瞬だけ見る「黒い点」のようなものではないだろうか。何かの「痕跡」。
 痕跡は、どこに残るのか。自分自身の「肉体」の内部である。
 何か強いものに出会うたびに、自分の内部に「黒い痕跡」ができる、と「誤読」してみる。
 「蛇が魂しいの中に住みついた」は、文章の主語は「蛇」だが、意味の主語は「魂しい」であり、「蛇が魂しいの中に住みついた」は「魂しいが、その内部に蛇を招き入れ住まわせた」であり、また「魂しいが蛇の中に住みついた」かもしれない。
 「誤読」していくときだけ見えてくるものもある。「誤読」しながら発見するのは、嵯峨の隠れた意識か、それとも私の欲望か。


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