詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『谷川俊太郎論』(2)

2011-01-31 23:59:59 | 詩集
田原『谷川俊太郎論』(2)(岩波書店、2010年12月10日発行)

 第2章「詩歌の翻訳論的考察--谷川詩の検証を通して」には、実際の中国語訳が載っていておもしろい。--といっても、私は中国語を理解しないから、田原の説明を読んで、あ、おもしろいなあと思っているのだが。
 「無題」という詩では、田原は、孫佃の訳と田原の訳を比較している。

私は飽いた 仔犬は転ぶ
私は飽いた 日日の太陽
私は飽いた 赤いポストの立つているのに

という部分で、田原と孫の訳は大きく異なっていると、田原は書いている。

彼は「仔犬は転ぶ」を「仔犬が地べたで転げまわっている」という旨の中国語に訳しているが、拙訳では「つまずいて転んだ仔犬」となっている。自分としては原詩への理解や翻訳に十分な自信を持っていたが、疑問を抱えたまま日本にもどった。その晩谷川に電話をかけて確認してみた結果、拙訳が原作の表現しようとするものを翻訳できていること、つまり拙訳がより原作者の意図に近いことがわかった。

 私は何の疑問も持たず「転ぶ」を(つまずいて)転んだと思っていたので、孫の「地べたで転げまわっている」ということばに驚いてしまったのだが……。うーん。この「転げまわっている」というのはどういう意味だろう。田原の説明ではわかりにくい。倒れたのではなく、わざとごろんごろんとやるのも「転げまわる」である。遊ぶのも「転げまわるである」。「転げまわる」は「転ぶ+まわる」なのかなあ。よくわからないが、「日本語」の場合、たぶん「転ぶ」よりも「まわる」に重点がある。「まわる」は繰り返しである。だから、そこから「遊ぶ」という印象が生まれる。(もちろん、苦しんで「転げまわる」もあるけれど、そういうときは「のたうちまわる」の方がぴったりくるかなあ。どちらにしろ「まわる」には繰り返しがある。)
 なぜ、孫は「まわる」ということばをつけくわえたのだろう。(中国語でも、「まわる」であるかどうか、私には判断できないが。)もしかすると、そこには「まわる=繰り返し」という意味があるのかなあ。もしそうだとすると、「飽く」と「繰り返し」が深いところで微妙に呼び掛け合う--なんだか、見てはいけないものを見てしまったように、変な印象を残して、なのだが……。
 こんな気持ちになるのは、私にとって「転ぶ」というのは、「一瞬」のこと、繰り返さないことだからである。「転ぶ」は、転んだままではなく、立ち上がるを含んでいる。反対の動きを含んでいる。
 もし私が中国人なら(ではなく、中国語ができるなら)、私は「仔犬はつまずいて転んだ」ではなく、「仔犬は転んだあと立ち上がった」と翻訳するかなあ……。転ぶのは「つまずいて」が当たり前なので、わざわざ付け足す気持ちにならないのである。転んだら立ち上がるも、まあ、付け足しだけれど……。
 と書いてみると、不思議だなあ。中国語は、とても「しつこい」。「意味」をつくりだしていくことばなのだ、という気がしてくる。「転ぶ」と、ただ、それだけでいいじゃないか、といいたくなる。
 何かが違うんだね。その違いが、これは真剣に考えるとおもしろいぞ、という感じにさせる。--だからといって、私は、それ以上は追究しないのだけれど。

 「かっぱ」について書いていることもおもしろかった。

かっぱかっはらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた

かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった

 この詩について、田原は次のように書く。

 行頭の多くが「ka」という頭韻で始まり、そして「ta」という脚韻で終わる。そのうえ、詩句自体のリズムの跳躍も作品に抑揚をつけ、日本語で朗読すると明朗で爽快に聞こえ、押韻の醍醐味を味わうことができる。しかし中国語に翻訳する場合は、同じようにできない。無理矢理に原詩の意味を訳出することはできるが、その韻律までもはどうしても訳出できないのである。

 この部分を読んで、あ、私が谷川に読んでいるものと、田原が谷川の詩に読んでいるものはまったく違うものだと気がついた。
 「意味」。「意味」の概念がまったく違う。
 「意味」は私にとって「音」である。「かっぱ」も「らっぱ」も「なっぱ」も、それぞれに「意味」はない。「もの」を指し示しているようだが、何も指し示さない。全部が「意味」(もの)でなくなると、さすがに困るけれど、私はこの詩では「かっぱ」という架空の動物を思い描くだけである。かっぱの動きを思い描くだけである。
 「意味」ということから逆に言いなおすと……。
 たとえばかっぱがリンゴをかっぱらう。あるいは魚を買う。そうだとしても、谷川はかっぱは「らっぱ」をかっぱらったと書くだろう。「なっぱ」をかったと書くだろう。
 「かっぱ」「らっぱ」「なっぱ」「いっぱ」という「音」そのものが「意味」なのだ。それは「もの」を指し示さない。「もの」には「意味」はない。ただ「音」だけが「意味」を持っている。だからこそ「とってちってた」という「らっぱ」の「音」が書かれる。「音」が一番の「意味」なのだ。
 どういう「意味」か。
 この「音」は気持ちがいい。この「音」を「声」に出すと、「肉体」がよろこぶ--そういうよろこびを浮かび上がらせる「意味」、よろこびを誘う「思想」。

 「音」のよろこび、「音」からはじまる感性の動き--それが「思想」なのだ。谷川の「思想」なのだ、と、私は田原の文章に触れることで、はっきりと感じることができた。




今月のおすすめベスト3。
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」
長谷川龍生「倦怠」


水の彼方 ~Double Mono~
田原 (Tian Yuan)
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カン・テギュ監督「ハーモニー 心をつなぐ歌」(★★)

2011-01-31 11:10:17 | 映画
監督カン・テギュ出演キム・ユンジン、ナ・ムニ、カン・イェウォン

ただただ泣かせることを狙った映画。で、製作者側の狙ったとおり、涙涙涙の
大洪水。終わった後のロビーで「隣の人の涙がすごかった」「あれで泣きゃ泣き
ゃ人間じゃないよ」というような会話が交わされていた。
見どころは、キム・ユンジンが別れた息子と再会するシーンなのだが、その直
前のトイレでの指輪紛失(盗難)騒ぎの処理が非常に乱暴。韓国の実情を知らな
いし、日本で同じことが起きたときどんな対応になるかしらないが、あまりにも
乱暴な人権侵害。こういうことが起きた後で、人は歌えるものなのか。疑問が残
る。主人公たちの心理描写がずさんすぎると思う。
もうひとりの主人公(?)、コーラスを指導する元大学教授と死刑復活のエピ
ソードも、結び付け方が唐突。死刑を囚人たちがどう受け止めているのか、ここ
ろの動きの追い方がずさん。
歌うことによって彼女たちがどう変わったのか――誤って人を殺してしまったこ
とについて、どう考えがかわったのかわからないのが何とも理不尽。彼女たちは
全員、最初から善良すぎ、最後まで善良のまま、というのは変じゃない? どう
しようもない人が音楽にふれることでかわっていく、というエピソードがひとつ
でもあればなあ、と思う。



今月のおすすめの3本。
熊切和嘉監督「海炭市叙景」
ロドリゴ・ガルシア監督「愛する人」
デヴィッド・フィンチャー監督「ソーシャル・ネットワーク」


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田原『谷川俊太郎論』

2011-01-30 23:59:59 | 詩集
田原『谷川俊太郎論』(岩波書店、2010年12月10日発行)

 詩は「外国語」であると私は思っている。詩人それぞれが独特の「国語」を確立している。これは日本語で書かれた詩を読むときの、私の基本的な考え方である。
 田原が谷川俊太郎を読むとき、そこには私とは違った視点が当然ながら出てくる。田原にとって谷川の詩は「谷川語」であると同時に「日本語」である。中国語から見た「日本語」があり、その「日本語」のひとつに「谷川語」がある。田原の論を読むと、私が見落としていた「日本語」の部分が見えてくる。中国語にとって日本語はどういうことばなのか、ということが見えてくる。
 「いるか」(「いるかいるか/いないかいるか/いないいないいるか/」ではじまる作品)について触れた部分。

この詩は日本語の表音文字であるひらがなの持つ曖昧さを上手に利用して表現している。筆者はこうした作品を中国語に翻訳する作業を通じて、韻律が間違いなく意味に勝っていること、日本語の現代詩における押韻や韻律の組み合わせが、否定しようもなく積極的な働きをしていることを理解した。

現代詩の純粋性からみれば、この類の作品における意味の軽視は創作の「ルール違反」だと指摘されやすいものだからである。或いは現代詩の範疇の外へ追い出される恐れもある。というのは現代詩作品は一旦意味と思想を喪失すれば、芸術の脱け殻と見なされるからである。

日本語には表音文字である仮名があるため、意味を考えずに、ただ仮名で詩の韻律のみを記録できるという客観的条件が備わっている。

中国語は、表音文字である漢字しかないため、個々の意味を持つ漢字で韻律だけを考えて詩を作るのは不可能なのである。

 「意味」と「韻律」の対立。「意味」イコール「思想」という視点、「意味」を「思想」と同列にとらえる視点。私はびっくりした。「音」も「意味」も、私と田原ではまったくとらえ方が違う。当たり前のことなのだろうけれど、そのことに私は驚く。

 あ、そうなのか。中国語は「音」よりも「意味」なのか。

 「韻律」というのではないけれど、私は「音」がわからないと「意味」がわからない。「音」でしか「意味」を理解できない。でも、中国語は「音」なしでも「意味」がわかるのか。漢字とはそういうものなのか。私はどんな漢字も読めないと、その意味がわからないし、その読むというのも読み方を調べて読めるようになれば意味がわかるというのではなく、「声」を通して耳で聞いたものでないかぎり、その「意味」がわからない。私はもしかするとカタカナ難読症だけではなく、漢字難読症でもあるのかもしれない。
 だから、田原の書いている「意味」と「韻律」の対立、「意味」重視の視点に驚いてしまった。私とっては「音」と意味」は同じものである。
 「音」のなかに「意味」がある。「音」を除外して「意味」はない。「音」そのものが「思想」である。
 ここからは、好みの問題になる。
 私は谷川のことば、その「音」は好きだが、一番好きな詩人とは言えない。谷川の音は洗練されすぎている。「音」になりすぎている。なめらかすぎる。ノイズがない。--そういう不満がどこかにある。ひっかからない。つまずかない。あまりにも自然すぎる。
 たぶん、それだけ谷川の日本語は、日本語そのものの音の本質(基本)をしっかりと肉体にしているということなのだろうけれど。

 「音」に関して、田原が書いている別の部分にも、私はびっくりした。「二十億光年の孤独」について触れた部分。

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いはネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

 これについて、田原は次のように書いている。

「ネリリ キルル ハララ」(寝る 起きる[着る] 働く)というナンセンスな擬態語、宇宙人のような言葉遣いによって、語彙を曖昧化させ、カタカナを使うことで、読者の鑑賞空間を複雑なものにし、それによって読者の想像空間を広げようとしている。

 えっ、「ネリリ キルル ハララ」は「寝る 起きる[着る] 働く」だったの? たしかに1連目と対比して「意味」構造を比較すればそうなるなあ。
 私はよっぽど馬鹿なのか、「ネリリ キルル ハララ」から遊んでいる火星人の子供しか想像してこなかった。火星人の子供はちゃんばらごっこをしている。体をひ「ねり」り、体を「きる」るし、どきどき「はら」はらしながら遊んでいる。そして、地球にも遊び友達がいるといいなあ、と思ったりしている。
 「リリ・ルル・ララ」というのは、どうしたって、口をついて出てくる「遊び」というか、楽しい「声」そのものだ。「意味」などない。「意味」があるとすれば、それは「楽しい」ということ。「肉体」がよろこんでいるということ。
 私は、どうしてもそう感じてしまう。
 「仲間」というのは、たしかに「働く/仲間」というのもあるのだけれど、やっぱり「遊び/仲間」が「仲間」の基本である。私の「日本語」では。私の「音」のつづきぐあいでは。だから、どうしても遊んでいる火星人の子供を思い浮かべたんだろうなあ。
 けれど、私の読み方は完全に「誤読」で、田原の方が詩の構想からいって、正しいと思う。
 そう思うからこそ、やっぱり、びっくりとしか言いようがなくなる。
 「意味」なのか。「意味」が「思想」なのか。
 私は「音」で「意味」を破壊し、遊んでしまう、その楽天的(?)なところに、谷川の美しさがあると思っていたので、「ネリリ キルル ハララ」をしっかり「意味」に固定して詩を理解する田原の「意味」指向、「思想」指向にびっくりしたのである。



 「いるか」に突然もどるのだけれど……。
 読んでいると(私は音読はしないのだけれど)、「肉体」がうれしくなる。このよろこび。それを「思想」と呼んではいけないのだろうか。
 「思想」の定義は難しい。私は人間を幸せにすることができる「思想」が一番正しい「思想」だと考えている。そのことばに含まれる「意味」がたとえば地球全体を救うとか、貧困をなくすとか、差別をなくすとか--そういうものにつながらなくても、何かしらよろこびをもたらしてくれればそれを「思想」と信じている。そういう点から言って、「いるか」は大変な「思想」のことばであると思っている。
 「肉体」がうれしいだけではだめなんだ、という考えもあるだろうけれど。
 でも、私は「肉体」がうれしくないことはしたくないなあ。

 田原の「谷川論」からずいぶん離れてしまったかもしれない。--要点(?)は、田原の指摘で、私は谷川の「音」について、また考え直してみた。音に対する感じ方が、田原と私ではずいぶん違うなあと実感した、ということなのだけれど。まだ第一章「変化の哲学」という部分を読んだだけだけれど。





谷川俊太郎論
田 原
岩波書店

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ロドリゴ・ガルシア監督「愛する人」(★★★★)

2011-01-30 14:40:47 | 映画
監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 ナオミ・ワッツ、アネット・ベニング、ケリー・ワシントン、ジミー・スミッツ

 ロドリゴ・ガルシアは女性をとても繊細に描く。私は女性ではないので、女性自身がどう感じるかははっきりとはわからないが、いくつものシーンで、「あ、女っぽいなあ」と思い、みとれてしまうのだった。
 たとえばナオミ・ワッツが妊娠したかもしれないと思い、産婦人科へ行く。そのときの担当医がたまたま大学の同級生である。ナオミ・ワッツは気がつかないのだけれど、医師が気づく。そして、思わず「あなたは○○と同じ部屋だったでしょ」というようなことを口にする。親密感(親近感)が、ふっと出てしまう。それをナオミ・ワッツが拒絶する。そのときの呼吸、それから、その拒絶に気づいて医師が反省し、謝罪する。そのひとつづきの感じが、どこがどうとは言えないのだけれど「女の現実」というものを感じさせる。「女」を見てしまった、という感じがする。
 アネット・ベニングが関係するエピソードでは、彼女の母がアネット・ベニングにすまないことをした、というのを家政婦に語り、アネット・ベニングはそのことを家政婦から間接的に聞く、そして泣いてしまうシーン。本人には言いづらいことを他人に語ってしまうというのは、まあ、男でも女でも同じようにあるのだと思う。そのあと、それを知って、その場で泣いてしまうという「素直さ」、そして家政婦に対して怒ってしまうところ、その急激な感情の噴出が女っぽい。
 女性をうまく描く監督にウッディ・アレンがいるが(彼の映画では女性がともかくすばらしい演技をする)、ロドリゴ・ガルシアの女性の描き方はウッディ・アレンとはまったく違う。ウッディ・アレンの場合、女性は何かしらのインスピレーションの源という感じ、男にとって魅力的、刺激的という匂いのなかで美しく輝く。ロドリゴ・ガルシアの女性は、女性同士のなかでいきいきと動く。あ、こんな輝き方かあるのか、と、ふと思うのである。そういう女性たちの姿は私にとっては初めてのはずなのだが、それでいて何かしらなつかしいような気持ちにもさせられる。きっと、そういう感情の動かし方というのは男の私にもあるはずなのだけれど、「社会」のなかで知らず知らずに抑制しているんだろうなあ、とも思う。
 ロドリゴ・ガルシアは、きっと、しっかりと女性のなかに溶け込んで人生を生きてきたのだと思うのである。
 その女性同士の自然な感情の動きの美しさ--それは、この映画のなかでは、妊娠したあとのナオミ・ワッツと盲目の少女との触れ合いのなかにふっとただよう。屋上でひなたぼっこをしているだけなのだが、とても気持ちがいいのである。見ていて、とても自然な感じがする。ナオミ・ワッツか盲目の少女になった気持ちになるのである。
 そういう「自然」が描けるからこそ、その後のシーン、ナオミ・ワッツがそのビルを出て行くと決めたとき、エレベーターのなかで少女と会うシーンが切ない。別れのあいさつをすべきなのかどうかナオミ・ワッツは悩む。結局、声をかけない。その小さな決意が、彼女の一番の「不幸」なのだ。他人に頼らないことを決意して生きてきたナオミ・ワッツの淋しさなのだ。--これが、最後の悲劇、出産に際して帝王切開を選ばないという決意につながる。生まれてくる子供は知ることはないのだが、ナオミ・ワッツは、子供の誕生をはっきりと自分が支えた、おまえのいのちを支えるのだから、おまえは安心して生まれていいんだと、肉体で告げる生き方につながる。

 あ、女の決意とはこんなに力強いものなのかと、男の監督の映画を通して知るのは、とても不思議なことなのだが……。
 女性には、この映画は、どんなふうに、ロドリゴ・ガルシアの視線はどんなふうに見えるのだろうか。

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望月遊馬「雨季」

2011-01-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「雨季」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)

 望月遊馬「雨季」には「意味(ストーリー)」が書かれているのかどうか、わからない。

雨季には、

着丈のみじかい腕のながさに、さらに縫い足した路線のながさ
が、あまりに鮮やかで、「手は北へむかうといったでしょう」

スケッチブックには、けむりをだしながら路を行く、白い断片、

 「手は北へむかうといったでしょう」が何のことかわからない。手って、どこかへ向かう? 手だけがどうして動く? 北へ向かうとしたらだれかが(人間が)向かうのであって、手はその人間の肉体の一部でしょ? 馬鹿な私は混乱する。
 一方、「縫い足した」ということばの中の「足」が奇妙に印象に残り、望月のことばを引用して言えば「足」が「あまりに鮮やか」なので、「足」と対になるのは「手」だよなあ。「足」が北へ向かうではなく「手」が向かうというのは、変になまなましくていいなあ、と思うのである。
 「誤読」してしまうのである。
 「誤読」のなかで、腕の短い服(ズボンも丈が短いかもしれないなあ)や、そこからはみ出した手足、雨季のために濡れた線路や、なんだかさびしいようなものか断片的に浮かんでくる。

読みあげられる 肌に打つ雨のこと スリッパにはおもかげの
ある鏡が映り 雨季だからと 手のなかには慕われてしまう眼
のない小箱がひそやかに すすんでいる

 なんだろうなあ。「スリッパにはおもかげのある鏡が映り」は望月には申し訳ないが、鏡にスリッパが映っている記憶の映像となるし、「手のなかには慕われてしまう眼のない小箱」は私には、眼球をしまいこんだ小箱を大事にかかえている手となって見えてくる。望月の書こうとしているものがなんであるか--ということよりも、私自身の抱え込んでいる「記憶」が望月のことばで誘い出されてくるような感じなのである。

「もう、気づけないことがある」

 あ、そうなんだなあ。自分ではもう気づくことができないことがある。だから他人のことばを読む。そして「誤読」する。「誤読」しながら、気づく。それは気づかなくてもいいことなのかもしれないけれど……。
 詩とは、固まってしまった現実を「断片化」し、その断面に何かを映し出す装置のことかもしれない。



キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード

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誰も書かなかった西脇順三郎(175 )

2011-01-29 13:17:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
 西脇が「視覚」ではなく「聴覚」の詩人であることは、次の部分がより明瞭に証明しているかもしれない。

ごろごろいう幻像も
曲つた錯覚も
考える心のはてに
きいてしまつた

 「見てしまつた」ではなく「きいてしまつた」。
 「幻聴」なら「ごろごろいう」かもしれない。しかし「幻影」は目にみえるものだから「ごろごろいう」ことなどない。そういう音をともなわないものさえ、西脇は音をともなったものとして書いている。また「曲つた」は「幻影」同様、やはり視覚で判断するものである。それも「きいてしまつた」ということばが引き受ける。目で見たもの、耳できいたもの、それが交錯し、認識(考え)はできあがるのだけれど、その認識を統合するのは、西脇の場合「視覚」(見る)ではなく、聴覚「聞く」なのである。「考える心のはてに」その「考え」を「聞く」という肉体の動きが残るのである。

幻影よまつてよ
このツワブキの花を
びんにさすまで
オドリコソウのおどろきは
おどろの下でひよどりの
おとす糞を待つている

 この「しりとり(?)」を動かすのも、また音である。

 一方、西脇はたしかに「視覚」も書いている。「見る」についても書いている。

永遠という光線を通してみる
とすべてのものは透明になつて
みえなくなるわ
この赤い薔薇の実も
あの女のボウツ派のボートの帽子も
永遠という水の中で
すべて屈折してみえる
すべての色はうすくなる

 ここには「視覚」が強烈に描かれている。しかし、そういうときでも「ボウツ派のボートの帽子も」という音が飛びこんできて「意味」をひっかきまわす。また突然の「みえなくなるわ」という女ことばの音が「肉体」をくすぐる。
 私はどうしても西脇の「音」の方にひっぱられてしまう。音のなかには「考え(認識)」にならないもの、もっと生な現実の「手触り」のようなものがあるのかもしれない。これはもしかすると、西脇は「音」に対しては「絵(視覚)」に対してほど洗練されていなかったということかもしれない。(西脇の描いた「絵」はどこかで見たことがあるが、西脇が歌った「歌」とか演奏した「曲」、あるいは作曲した「音楽」というものを、私は知らない。--洗練されていないというのは、音を「音の芸術」としてつくりだしていないという意味である。)
 「音」は野蛮で、認識からとおい。(かけすが鳴いてやかましい--認識を破るものが音なのである。)それは、次の部分にも書かれている。

無は永遠の存在だ
永遠に存在するものは無だけだ
永遠にやるせない音を残して
女は便所からもどつてまた
帽子をかぶつたまま
そうつづけている

 「永遠」談義を破る「音」。「便所」の「音」。ああ、いいなあ、このリアリティー。「認識」を笑い飛ばす「肉体」。





続・幻影の人 西脇順三郎を語る
クリエーター情報なし
恒文社
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中山直子「牛の瞳」

2011-01-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中山直子「牛の瞳」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)

 ことばは「いきもの」である。生きているということは、互いに影響を与え合うということでもある。中山直子「死の陰の谷」を読んだあと、「牛の瞳」を読むと、そこに書かれていることが直接的に響いてくる。

かっきりと大きく見開かれた
澄んだ瞳の牝牛が
牛舎の柵のそばまで来て
不思議そうに 私の顔をじっと見る

「よしよし」と言いながら
柵からはみ出した秣を
向こうに押しやる
もそもそと長い舌で巻きとって
少し食べる
また 見ている

「こいつ 興味津津なんですよ」
ニーダ・ゼクセンの牛飼いが言う
朝焼けいろをしたエリカの咲く
荒地の近く
「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 牧歌的な風景である。あまりに牧歌的過ぎて、この詩を単独で読んだなら、通りすぎてしまうかもしれない。単独で読んだなら、牛との出会い、触れ合い--そこに「直接」ということばを思いつくことはなかったと思う。しかし、「死の陰の谷」を読んだあとでは、「直接」ということばが印象のなかに残っていて、それが響いてくる。
 牛は「直接」、中山を見ている。「直接」見られていることを中山は感じている。そこには「ことば」がない。あたりまえのことなのだが、そのことに榎本はたじろいでいる。どうしていいかわからないので、秣をやってみる。「もそもそと長い舌で巻きとって/少し食べる」という牛の描写しか、ことばは動いてくれない。牛を描写しようにも「見る」ということば以外に動いてくれない。「また 見ている」。
 「こいつ 興味津津なんですよ」と牛飼いは言う。そこには「ことば」がある。牛飼いは、牛をそんなふうに描写できる。客観的に(?)見ることができるということだ。ところが、中山は牛と直接的に触れ合ってしまっているので、そこに何からの「抽象的」な概念を持ち込めない。「抽象的」な概念というのは対象と離れていないとだめなのだ。変な言い方だが、自分とは違うもの、それを理解するための架空の橋(他者へ渡って行くときの橋)が「抽象的」な概念である。
 ヘブライ人の「闇」を理解するために、ギリシャ人はそこに「死」という概念を架け橋として導入した。その架け橋を日本人も中国人も利用した。だが、ドイツ人は利用しなかった。
 牛は、どんなことばをつけくわえない。ただ「見る」。その行為に牛飼いは「興味津津」という「架け橋」を渡してくれる。それはそれで納得がいくのではあるけれど、その「橋」を渡ることができるのは中山だけであって、牛は渡ってこない。どうすることもできない「断絶」(隔たり)がある。それなのに、牛は「見る」という行為で直接榎本に触れてくる。

「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 「直接」触れ合ってしまったので、榎本は別れのことばを言う。触れあわなければ、牛に別れのことばなどかけないが、触れ合ってしまったから、ことばにする。出てくることばが、それしかない。
 それが不思議におもしろい。何かしら、日常のなかで見落としてきた大切なものをふと思い出した気持ちになる。
 そういう気持ちを、また牛は「直接」触れてくる。気持ちそのものにふれてくる。

まだ 見ている

 「見る」とこ、中山から言えば「見られること」なのだが、その接触があまりに「直接的」過ぎるで、「見られている」ということばが、最後まで浮かんでこない。
 牛になって(牛の立場で)、中山は牛を描写してしまうのだ。「興味津津」というようなことばを仲介にせず、ただ「見ている」。「まだ」見ている。

 この「見る」とは何だったのか。
 「夜明け」という詩のなかで、榎本はやっと見つけ出している。

やすらかな
風のない夜明け

すっくりと伸びた
杜松(ねず)の木の頂に
鳥が来て
東の空を見ている
いつまでも

それは過ぎゆく時の中の
小さな永遠の 記憶

 「見る」「いつまでも」--そして、そのときその鳥を描写する榎本は鳥そのものになってやはり東の空を見ていたのであり、同時に「小さな永遠」を見ていたのだ。
 何かに「直接」触れると、「永遠」が見えるのだ。

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誰も書かなかった西脇順三郎(174 )

2011-01-28 13:15:07 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

つんぼになつて聞えない音楽がききたい
たべられない木の実がたべたい

 この2行は不可能なことを想像力のなかで動かしてみる運動だが、最初に「音楽」が登場するところに西脇の西脇らしさがあると思う。「目が見えなくなって見えない絵を見たい」でも不可能を想像するという意味では同じだが、「聞えない音楽を聞きたい」と「音」にこだわっている。
 「目」(視覚)は次に出てくるが、ことばの動きがちょっとおもしろい。

眼をつぶして灰色の世界から
となりの人がススキを刈つてしまつた
夏咲いたバラが赤い実になつているのを
考えてみたい

 耳が聞こえなくなったとき、「聞えない音楽がききたい」と、肉体としての運動が書かれていたのに対し、「眼をつぶして」しまったときは「見たい」ではなく、「考えてみたい」ということばが選ばれている。
 「聞えない音楽がききたい」も現実のことではなく想像(考え)の領域のことだが、ことばはあくまで「ききたい」である。けれど、視覚のときは「見たい」ではなく「考えてみたい」と、正確に「考え」(想像)ということばをつかっている。
 耳は西脇にとっては「肉体」であるけれど、目は西脇にとっては「思考(精神)」なのだ。
 西脇を「視覚」の詩人ととらえる人たちは、また、「思考(精神)」の読書人なのかもしれない。ことばから「精神(意味)」を読みとろうとする人たちは、西脇を「視覚」で考える人ととらえるのかもしれない。

 目のことを書いたあと、西脇はまた音にもどってくる。

マラルメの詩のように灰色の枯葉の音の
ように静かに茶をのみ扇をもつ
女の音がききたい
秋のような顔の女も
オリブ畑を歩く乞食も

 最後の2行は、どの動詞とつづくのか、わからない。まあ、どの動詞とつづいてもいいのだろう。ひょっとすると「考えてみたい」(見てみたい)かもしれないし、見てみたいの方が「意味」のとおりがいいのだけれど、だからこそ、そうではない、と私の直感は私にささやく。
 「女の音がききたい/秋のような顔の女(の音)も(ききたい)/オリブ畑を歩く乞食(の音)も(ききたい)」だとすると、意味は混乱してしまう。だが、その混乱のなかに、何かが動く。ことばにならないものが動く。
 それが、詩。
 だいたい「女の音がききたい」がわからないでしょ? だから、わからないまま、混乱して、混乱できる「肉体」を楽しめばいいのだと思う。それが「つんぼになつて聞えない音楽」を「聞く」ということなのだ。混乱し、自分の「肉体」のなかにある「音」を聞くのだ。


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Ambarvalia―西脇順三郎詩集
西脇 順三郎
恒文社
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中山直子「死の陰の谷」

2011-01-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中山直子「死の陰の谷」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)

 中山直子「死の陰の谷」には「北ドイツの古きハンザの町にてうたう」というサブタイトルがついている。ドイツの町で日本語の聖書とドイツ語の聖書をつきあわせて読みながら、日本語を教える(?)様子を描いている。日本語にドイツ語の発音記号をつけて、さらに逐語訳をつける。

途中まではよかったが 合わないところに来た
『たとい我 死の陰の谷を歩むとも
 わざわい恐れじ
 汝 我とともにいませばなり……」
「これが『死』で ここが『陰』 ここが『谷』です
 『の』は属格を表します」
「日本語の聖書はそうなっているのですが
 ルター訳は単に『暗黒の谷』なのですが」
なるほどラテン語系の言葉だが
「死の陰の」ではなく
「暗黒の」(あるいは「闇の」)と訳されている
調べてみよう あとでヘブライ語原文を
見ておくよ と言うことになったが
聞くのを忘れて そのまま帰って来た

 ここにあるのは「散文」としてのことばの動きである。ある事実を踏まえ、その事実をさらに先へ進めていくことばの運動である。
 日本語を動かしていって、途中でドイツ語の運動とは違うということを明確に意識した。「逐語訳」ができない部分に来た。そのことをまっすぐに書いている。
 あ、まっすぐに動くことばは清潔で美しい。その美しさのなかに、散文独自の詩があると思った。きょう読んだ榎本のことばが、ことば自体のなかに「沈黙」を抱え込む、ことばのなかの「沈黙」を爆発させる詩だとすれば、中山が書いているのはことばを完全に「声」にしてしまうときの、声帯の充実のような美しさである。まっすぐというのは、きちんと発声された「音」、ゆるぎのない「声」という印象から生まれてくる。
 それは、ことばがつまずいたとき(逐語訳がうまくいかなくなったとき)でさえ、とても正確に「声」になっている。
 ここまで「声」が完全にまっすぐになると、必然的に、その「声」がもたらすもう一つのもの、音楽で言えば旋律のようなものがくっきりと見えてくる。「意味」がくっきりとみえてくる。
 「声」としての詩ではなく、「意味」としての詩が、自然に見えてくる。(「意味」が「声」の色に引き裂かれない--ということかもしれない。そこにも「色」はあるのだけれど、耳に心地よい「色」なのだ。これは、中山の「散文」の力である。)
 その、「意味」の部分。

今朝 大きな聖書を見ていて ふと注に目が入った
--ヘブライ語ツァルマヴェトは「闇」を意味する
 七十人訳ギリシャ語聖書で「死の陰」と訳された
 恐らく死の危険が迫っている状態を表すのであろう
なるほど そうだったのか
では 日本語聖書の訳者たちの心には
「闇の谷」より「死の陰の谷」の方が
しっくりとしたのだろうか 主な日本語訳は
四つともそう訳されている(さらに言えば
中国語の聖書では「死蔭的幽谷」である)
「死の陰の谷」とはどこなのだろう
そこはまったくの「暗黒」なのだろうか
死の危険の迫って来る場所なのか
ヘブライ語では「死の陰」の語感を ただ
「闇」の一語で表現できているのだろうか
暗黒は即ち「死」の領域なのか……

 「闇」と「死の陰」。それは「同じもの」であるはずだが、違っている。表現が違っている。
 こういうことを私は「誤読」と呼ぶ。(この場合は「誤訳」といった方がいいのかもしれない。)そして、その「誤読・誤訳」には、その人の「本能」のようなものが入ってくる。「誤読・誤訳」には、一種の願い・欲望のようなものがある。
 「闇」を「死の陰の谷」と訳したとき(誤訳、あるいは「超訳」と言った方が「いま」の時代には通りがいいかな?)、そこにどんな「本能」(欲望)が入り込んだのか。
 何だろう。何が「死」ということばを呼び寄せたのだろう。
 中山のことばを追う前に、私は、日本語の聖書の部分を読み返してみた。「死の谷」と「闇」を重ねるようにして読んでみた。

「たとい我 闇(死の陰)の谷を歩むとも/わざわいを恐れじ/汝 我とともにいませばなり」。
 そして、この「闇」はもともと「比喩」なのだと気がついた。私はいつも何も恐れはしない。あなた(神)がいつも私といっしょにいるからだ。暗い「闇」の谷というのは、何かおそってくるかわからない場所である。何が起きるかわからない場所である。それだけで充分に「怖い」のだけれど、「怖さ」が実感できないこともあるかもしれない。それで、人にとっていちばん「怖い」ものである「死」を「闇」の「比喩」に重ね合わせたのだ。たとえ、死の危険があるときでさえ、私は何も恐れない。神がいっしょにいるから。
 神がいっしょにいるから何も恐れない。その「意味」を強調するために「闇」ということば(比喩)がヘブライ語では選ばれ、その比喩ではまだまだ不完全だと感じたギリシャ人が「闇」を「死の陰」と言い換えた。「比喩」をもっと「わかりやすい」ものにしたのだ。
 私はヘブライ語もギリシャ語も(したがってヘブライ人もギリシャ人も)全く知らないが、そこには「ことば」に対する感覚の大きな違いがある。--というのは、私の、勝手気ままな「独断」である。
 ヘブライ語(ヘブライ人)は「もの」を抽象化しない。「もの」に抽象を持ち込まない。「闇」は「闇」で充分である。ことばと闇は直接結びついている。(変な言い方になるが、一種の「一元論」的な世界である。)ところが、ギリシャ語(ギリシャ人)は、ことばと「もの」を直接結びつけない。そこに「抽象」を持ち込む。「もの」を抽象化して理解する。「イデア」化して理解する、といえばいいかもしれない。「闇」の本質とは何か。何も見えない。絶対的な無。死。そういう「抽象」によって、ことばを整理・統合するのだ。
 もしそうだとすると、きっとそれは「神」に対する態度にも反映する。
 ギリシャ人(ギリシャ語)にとっては神は肉体と直接ふれる存在ではなく、「抽象」として存在するものではないのか。「死の陰の」谷という「訳語」を採用した日本人(日本語)、中国人(中国語)も、そうかもしれない。神は、人間にとっては「抽象的」存在、「意味」を介在して、その向こうにあらわれてくるものかもしれない。
 けれど、きっとヘブライ人には違うのだ。神は直接的な存在である。直接神に触れたことがある人のことばなのだ。神に直接触れたことがあるから、闇にも直接触れる。闇を「死の陰」というように抽象化して「比喩」の「意味」を強調する必要などないのだ。
 神と人間との関係そのものが、ヘブライ人とギリシャ人(日本人、中国人)とは全く違うのだ。
 そして、そこまで考えて、では、ドイツ人は?
 ドイツ語(ルター訳)ではヘブライ語の「闇」はどうなっているか。「暗黒の」である。「死の陰の谷」ではなく「暗黒の谷」。あ、ドイツ人もまた神を直接感じているのだ。「比喩」ではなく、「意味」ではなく、実在の「もの」、「いま」「ここ」にあるものとして感じているのだ。(「比喩」というのは、「いま」「ここ」にないものを借りて「いま」「ここ」にあるものを表現する方法だからね。)

 びっくりしてしまった。

 この「びっくり」は中山の散文の力(ことばを積み重ね、意味を深めていくという力)があって、初めて目の前にあらわれてくる「びっくり」である。
 私は中山のことばを通じての間接的な「びっくり」だが、中山は直接ドイツにいて、ドイツ語に触れ、ドイツ人に触れているのだから、私の「びっくり」をはるかに超えて驚いたに違いない。

 最終連は、中山のことばは「散文」であることをやめて、それまでとは違った運動をする。

私がドイツに居て詩篇に仮名を振っていた頃
まだ八月だったのに急に寒くなり
セーターと上着を借りて来ていた そして
あなたが来る前の晩までは 暑くて
外で眠れるほどだったのに などと言われていた

 神を直接的に感じてこなかった(と思う)中山にとって、つまり、この世界があり、そこには次元が違ったところに神がいると考える中山にとって、神と人間がいっしょにいる、直接触れ合っていると考える人間の存在は驚愕でしかないだろう。そのとき、神がこの世に直接いるように、死もまた、このいのちの世界に同時に、手に触れられる形で(目に見える形で--闇という形で)存在すると知るのは、恐怖だ。



 「闇」を「死の陰」と「誤読・誤訳」するのは、「死」ということばによって死を近づけて考えるようであって、逆に遠ざけることなのだ。死を「死」ということばによって、まるで「現実」ではなく、単なる「ことば」として存在させるだけなのだ。いつでも人間といっしょにある「死」を人間から分離し、人間を「生/死」の「二元論」にしてしまうのが「死の陰」という「比喩」なのだ。「二元論」ではなく、人間を「生死」の固く結びついたものと考えるとき、その人には「人/神」ではなく、「人-神」という常に直接体面としての世界があるのかもしれない。



ロシア詩集 銀の木
中山 直子
土曜美術社出版販売

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誰も書かなかった西脇順三郎(173 )

2011-01-27 21:56:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

何月何日東横でソバを食うのも
前世の宿命としてあきらめる
この神秘的な原因を前世の
因果応報と考える人々は
はしばみの実を食う人々であつた
売つた自分の帽子にまた
めぐり会うのも
偶然も宿命だ
すべて宿命だ
ブラーマンを考えるのも宿命だ
宿命をあきらめる男は
神やブラーマンを信ずる男だ
すべて配剤だ

 この部分は詩としてはそんなにおもしろいわけではない。「何月何日東横でソバを食うのも/前世の宿命としてあきらめる」と、「売つた自分の帽子にまた/めぐり会うのも」の素材の組み合わせに、あ、まねしてみたいな、という感じがあるが、そこに絶対的な詩があるかというと、そこまでは言いたくない感じがする。
 この詩でおもしろいのは、最後の行「すべて配剤だ」が、あまりにも端的に西脇の詩の特徴をあらわしている点である。
 「配剤」--たぶん、天の配剤というときの「配剤」なのだが、西脇は、天のかわりに彼の感性でことばを「配剤」する。
 「事実」の書き方はいろいろある。その「事実」のなかから、どの「ことば」を選び、とりあわせるか。
 ためしに、こんなことをしてみる。

何月何日東横でうどんを食うのも
前世の宿命としてあきらめる

 「ソバ」を「うどん」にかえると、突然、詩が消える。私の印象では詩ではなくなる。「ソバ」という音が、詩の要なのだと気がつく。
 「なんがつなんにち、とーよこで、ソバをくーのも」「なんがつなんにち、とーよこで、うどんをくーのも」
 「ソバ」の音は、狭い音が爆発して終わる。その爆発の感じが、粘着力がなくていい。「うどん」だと、ことばが、「ん」のなかで閉じこもってしまう。「何月何日」「東横」が「うどん」のなかでからまってしまう。からまったものも「宿命」だろうけれど、いやからまったものこそ「宿命」なのかもしれないけれど、からまってしまうと「意味」になってしまう。「ソバ」という音でばらばらになってこそ、気楽に(?)宿命ということばがつかえるのだ。
 そうしたことばのバランス感覚が西脇の詩の大本にあるように私には思える。

 しかし、どうして「配剤」と書いてしまったのかなあ。
 これが、実は、まったくわからない。書いてしまうことで、それまで書いたことが全部「説明」になってしまう。--あ、これは逆か。それまで書いたことがすべて「配剤」を説明してしまう。
 詩は「配剤」である。
 それがわかるだけに、ここで「配剤」ということばをわざわざ書いているそのときの西脇がわからない。

 「意味」はわかる。けれど、「意味」に詩はない。だから、私は、ここでつまずく。「誤読」できずに、さびしい気持ちになる。



文学論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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松井久子監督「ユキエ」(★★★)

2011-01-27 01:03:40 | 映画
監督 松井久子 出演 倍賞美津子、ボー・スベンソン

 冒頭、夕暮れが映し出される。その夕暮れは美しい。広い空間にオレンジ色の光がゆったり広がる。このオレンジ色のゆったりとした静かさは日本にはないものである。夕暮れを、車が帰ってくる。夕暮れのなかで、車の色があいまいである。家に近づき、木々の暗い緑の陰のなかで、車の色はもっとあいまいになる。そのあと寿司を手作りしている倍賞美津子と家族のシーンがあって、突然21年後になる。そのとき、外は雨。木々はとても美しい緑をしている。静かで深い。葉からあふれそうになりながら、葉のなかにとどまっている。それを雨が包んでいる。--この緑はアメリカ映画にはない緑である。日本の緑かというとそうでもないのだが、どこかで日本の緑に通じる。なつかしい水の緑。東洋の、モンスーン気候を呼吸する緑。それを倍賞美津子がぼんやりとみつめている。まるで、雨にぬれる木々をみたことがないかのように、緑をぬらす雨をみたことがないかのように。(冒頭のオレンジ色の光の記憶があるせいか、ともかく美しく感じる。)
 映画の印象は、この最初に見た夕暮れと、次に見た雨のなかの緑の印象を行き来する。たそがれのゆったりとした広がりと、一回かぎりの雨、その雨に濡れているあの緑の美しさを行き来する。異質なものなのだが、そのふたつが同時にある、ということの不思議な美しさ--その印象のなかを行き来する。



 ストーリーは、アルツハイマー症状がはじまった日本人の妻と、それを見守るアメリカ人の夫の暮らしである。当然、そこにはさまざまな困難があるのだが、この映画は、その困難さを切実に描くのではなく、不思議な静かさで描く。
 静かさの印象を生み出す一番のものは、夫の態度である。家族の態度である。夫役のボー・スベンソンが大柄であるのも影響しているかもしれない。倍賞美津子が小さく見えるくらい、大きいのである。大きさに、何かが吸収されていく。
 倍賞美津子が何か奇妙なことをしても、周りがパニックにならない。食卓で茹でたエビや寿司を一生懸命もりつけたり、写真を撮る息子に突然怒りだしカメラを壊したりしても、誰もあわてない。さわがない。静かに、じっとしている。落ち着いている。心の中では、いろいろな思いが渦巻いているのだろうけれど、それを内にかかえたまま、外へあふれさせない。そして、倍賞美津子の不思議な行為を吸収してしまう。(もちろん、倍賞美津子のいないところで、家族はあれこれと手だてをたてようとするのだが……。)
 夫も家族も、倍賞美津子の行動を批判したり、正しい(?)行動をとるように強制したりすれば、彼女がパニック状態になるのことを知っていて、そうするのだが、それは最初に見たアメリカの夕暮れの静けさに似ている。広い空間が倍賞美津子の小さな乱れを吸収するのである。
 --と、ここまで書いて、あ、この映画は「呼吸」の映画だと気がついた。
 アルツハイマーを発症した妻。それを見守る夫。最初、そこには奇妙なずれがある。そのずれはもちろんなくなるものではないのかもしれないが、ずれをずれのまま受け入れ、「呼吸」を合わせようとしている--夫がなんとか妻に呼吸を合わせようとしているのがわかる。
 一方、倍賞美津子の方は、何かを自分のなかから取り出したいのだが、それがうまくできずに苦しんでいる。その苦しみのなかに、ときどき「記憶」が鮮烈によみがえってくる。萩(山口県)の思い出。古い寺(?)の石段。揺れるまつりの火(?)。幼い陽に遊んだ海辺や、結婚する前に母が萩焼の茶碗を大事につつむ手つき……。それは非常に美しい。それは実際には彼女にしか見えない光景なのだが、そういう彼女にしか見えない光景(美しい輝き)を映し出される瞬間に、私は、ふと、冒頭の雨のなかの緑を見てしまうのである。倍賞美津子は、あの美しい緑を見ずに、遠い記憶を見ていたのかもしれない。もしかすると、あの緑はアメリカの緑ではなく、倍賞美津子が記憶のなかで知っているの緑の「原型」が、彼女の肉体からあふれて、いま、そこに出現してきたのかもしれないと思ったのである。
 実際、あらゆるものが、ただそこにあるのではなく、倍賞美津子の肉体(いのち)から溢れ出て、具体的なもの、具体的な色、形になっているのである。家のなかのさまざまな調度、写真、その整然とした静かなものたちは、倍賞美津子そのものなのである。
 最後の方に、家にある写真や萩焼の茶碗、花瓶などに、ひとつひとつ「ことば」が張られる。息子の名前、萩焼、などなど。それは一義的には倍賞美津子のうすれていく記憶を混乱させないためなのだが、それは夫にとっては倍賞美津子の「分身」を知ることでもある。
 そして倍賞美津子の「分身」一つ一つに名前をつけていくとき、夫のなかで倍賞美津子がもう一度生きるのである。また、そうすることで夫自身がもう一度「生かされる」のである。
 アルツハイマーの妻を介護しながら生きるとき、夫は妻を一方的に介護しているわけではないのだ。介護すること、妻の記憶をたどることで、自分の大切な一生をもう一度生きている。生かされているのは、自分だと気がつく。
 その象徴が、自分を裏切った共同経営者を告発する文書を破棄するシーンである。裏切られたことにこだわり、それ以後の人生を生きてこなかったのは自分自身であると夫は気がつく。夫が自分の人生を生きてこなかったから、彼の人生を呼吸することで生きてきた倍賞美津子もまた生きることにつまずいたのかもしれないだ。
 この映画は、その夫が「生かされている」と気づき、もう一度倍賞美津子といっしょに生きはじめる部分を、家のあらゆるものに張られた貼り紙でしか表現していないが、その静かな主張が、また、なかなかいい。最後に「ユア・マイ・サンシャイン」の歌が流れるが、じつにしみじみとしている。おだやかな歌声である。しっかりと生きる「呼吸」を感じさせる息づかいである。歌っているのはひとりだが、聴いている人がいる、その聴いている人の「思い」も息にのせているのが伝わってくる。ほーっ、と息が洩れる。あ、こういう歌だったのか、とその歌に気づくように、きっと夫もまた人生に気づいているんだろうなあ、と想像させる。



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榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」

2011-01-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」1、2010年12月01日発行)

 榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」は、私のように目の悪い人間には引用がなかなか難しい。間違えて引用するかもしれないが、まあ、許していただきたい。

つまり逐次養われる一つの雲母のなかで蠢く奇怪な様相は、鏤められた甚だ脆弱な真意に絡めとられる皮脂の過度な哄笑の前に佇むのみであったのだし、いずれにせよ終息へと導かれる円滑な書体は、掠めさられた素描の内側でだけ燻る不明瞭な思慕でさえあって、崩れ落ちた橋の裏からひたすら萎びた礎の楚々とした風貌が見てとられるというのだが、さて詳らかにされることもなく色彩の不明な、殆ど埋没しかかった記述のようにしか思われない伸縮の明晰さに改めて修繕され得るのであるから、たおやかな乳房の過激な意図に於いては、いつまでも枯渇した腫瘍でしかなかったし、

 何が書いてあるか。わかりません。わからなくていいのだと、私は思っている。書きたいことがはっきりしているわけではないのだ。ことばを次々に重ねていく、そのことに榎本は集中している。
 ただし、ことばにことばを重ねることで、新しいことばが動く、というのでもない。
 ことばは、ときとはして榎本の「肉体」の内部から噴出してくることもあると思うが(たとえば、「礎の楚々とした風貌」の「楚々とした」ということばは「礎」と書いたときに、その文字を見る視力が噴出させたものである)、対外の場合は、榎本の強い視力で遠くを見つめ、その見えたことばに対して榎本の「肉体」が動いていくという感じである。
 ことばを視力で見る。見つける。そして、その見えたことば(文字、あるいは「漢字」と言い換えてもいいかもしれない)へと、榎本は自分の「肉体」を近づけていく。
 これはつまり、書いている榎本にさえ何を書いているかわからないということである。何かしらのことば(文字)が見える。そのことば(文字)に恋して、そのことば(文字)のためなら自分はどうなってもいいと覚悟している。何かのために自分がどうなってもいいと思うことを超える「愛」はない。榎本は、ことばへの「愛」をつらぬくために、ことばを「肉体」で追いかけるのである。ことばを「肉体」そのものにしようとするのである。
 そのとき、とてもおもしろいことが起きている。

佇む「のみ」であったのだし
内側「だけ」で燻る
思慕で「さえ」あって
記述のように「しか」思われない

 ことばを「限定」しようとする、絞り込もうとする激しい意思が、遠くにあることばを呼び寄せる。まるで「のみ」「だけ」「さえ」「しか」は、望遠鏡の「穴」のようである。そこでは視界は限定され、限定されることで「遠く」が見える。「遠く」を「近く」に錯覚させるのである。
 そして、この「望遠鏡」というのぞき穴からみたことばの、一種の「遠近感」の狂った運動は、当然のことながら、世界を簡潔には描写できず、ひたすら混乱を深めていく。ひとつのことばと、別のことばをつなぐ回路などない。ただ、新しいことばが古いことば(これから書くことばがいままで書いたことば)を引っ張り、むりやりそこに「回路」(論理?)を偽装するだけである。
 この運動は(この榎本の文体は)、ひたすら読点「、」のみの呼吸でどこまでも動いていく。句点「。」を拒絶しながら、長い長い呼吸をつづけることで、そこに何かがあるかのように錯覚させる。
 これは、おもしろい。
 どこまでもどこまでも、この呼吸がつづき、終わることができなかったらとてもおもしろいと思う。
 しかし、残念なことに、そうはならない。
 途中を省略して引用する。

その下部で展がっていく氷柱もまた、冴えない混濁の異相だからなのか、極めて饒舌さを欠いた不可欠の帰途のように退けられつつ、さりながら、父祖たちの端著は削られ続けているのであろうか……洒脱さの失われた出立の果てから、緊縛の需要に絆されるように強かに見据えられ、且つ間歇的に補完される衝撃の鄙びたほつれは、

 「父祖たちの端著は削られ続けているのであろうか……洒脱さの失われた出立の果てから、」という部分の「……」。
 読点「、」ではなく「……」。
 ここにあるのはなんだろう。読点「、」が呼吸だとしたら、「……」はなんだろうか。それを私は仮に「沈黙」と呼ぶことにするが、この「沈黙」が句点「。」として働き、榎本のせっかくの文体を殺してしまう。
 ことばのほんとうの「沈黙」は「……」という表記にあるのではなく、「つまり逐次養われる一つの雲母のなかで蠢く奇怪な様相は、」というような不自然なことばの運動、いままでになかった動きを強いられるときのことばの「内部」にのみあるのに、「……」と書くことで、ことばがことばの「意味」を拒絶しながら先へ進むときの激しい「沈黙」が聞こえなくなってしまう。
 榎本のやっていることはおもしろいが、「……」という嘘の「沈黙」によって、大きくつまずき、大失敗になってしまった。
 「……」の「沈黙」を叩き壊して、もう一度、詩を爆発させてほしい。そうすれば、この作品はとてもおもしろくなるはずである。(いまのままでも、おもしろいはおもしろいのだが。)


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岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」、城戸朱理「手紙が届かない、夏

2011-01-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」、城戸朱理「手紙が届かない、夏」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 どんなことばが詩になるか。--これは、詩人はどんなことばを詩にするか、と同じことであるか、あるいはまったく違うことなのか、私にはよくわからない。ただ、あることばの運動に対しては詩を感じ、別のことばの運動に対しては詩を感じない、という違いがある。

 岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」は詩そのものを題材(?)にして1行目がはじまる。

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である

 1行目はなんとなくわかる。詩を「警告」である、と考える。この「警告」のなかには、岸田独自の、まだことばにならないことばが動いている。それがどんなものであるか期待しながら私は2行目を読む。そうすると、とたんにわからなくなる。「われわれの詩は」「敵に対する問責である」というこなのか。詩は「警告」であり、「敵に対する問責」である。われわれに対しては何事かを知らせ、敵に対しては何事かを問いただし、責める。うーん。そのとき、「風紀とは無縁な者が風紀と化す」とは何? 何、というより、それは「敵」を修飾することばなのだろうか。なんだかここには「関係代名詞」が省略されているような雰囲気がある。

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す「ところの」敵に対する問責である

 私は「敵」を「風紀とは無縁なものが風紀」となって「われわれ」に感じられるもの、と書いているように思える。くだけた(?)ことばで言えば、セックスに関心をもたなくなった人々がセックス描写を「風紀を乱す」といって取り締まるようなこと、風紀を押しつけてくるようなこと、そういう行為の実行者を「敵」と呼んでいるように感じられる。
 詩というのは一種の「世間(風紀が支配している社会)」に対する暴力である。破壊的行為である。それは「われわれ」に「世間」を破壊することでしか発見できない何かがあるということを知らせる(警告する)。一方、それは同時に風紀を押しつけてくる「世間」に対して「問責」することである。
 --こんなふうに読むと、1行目と2行目は、私のなかではすっきりとした「論理(意味)」になる。そして、そのとき、

そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である

 の、2度書かれている読点「、」がとても気になるのである。特に、私が「関係代名詞」と呼び、「ところの」という変な日本語に置き換えた2度目の読点が気になるのである。私はむりやり「ところの」という日本語(?)に置き換えることで岸田に近づいてみたのだが、ここにはことばにならない何かがある。岸田自身のなかで言語化されていないなにかがある。そして、そのまだ言語になっていないもの、未生の言語を岸田は読点によって乗り越えようとしている。あるいは、その未生の何かの不思議な粘着力(--粘着力というのは、思わず「ところの」というような「関係代名詞」を補いたくなるようなつながりを感じさせるからである)を振り払い、「いま」「ここ」にあることば、書いていることばをもっと自由にしようとしている、という具合にも感じられる。
 そして、その運動は、簡単に見すごしてしまった「そして、」の読点にもあるのだ。詩は「警告である」と書いたあと、(詩は)問責であるということばに辿り着くために、まず、「そして、」の読点によって、ことばにならない何かがあること、それに近づくために、飛翔するのか、切断するのかわからないが、ひと呼吸の読点「、」が必要だったのだ。
 この瞬間、「肉体」が動いている、と私は感じる。
 この不思議な印象--そこに、私は、詩を感じている。読点「、」と、そのリズムに岸田の書こうとして書けないいらだちのようなもの、肉体のざわめきのようなものを感じ、ぞくっとする。

 この最初の2行は、たとえば、

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
われわれの詩は風紀とは無縁な者が風紀と化す敵に対する問責である

 と、読点なしで書くこともできるはずである。そうすると、次の

われわれはこれを通りたくない
わたしはこれを通らなければならない

 とも2行組みの「セット」としてことばがスムーズに(?)動く。あらかじめ予定されていたかのように動いていく。
 けれども、岸田は、そういうスムーズな運動--何かしらの予定調和的なことばの運動を拒絶している。スムーズであることを拒絶し、その拒絶を起点に、まだことばになっていないことばの内部へ入っていこうとする。
 先に書いた読点「、」の内部へことばを動かしていく。

それぞれの限界は図らずも共同に<ポエティック>である
それぞれがまったく他者の入り込む余地のないところで、そ知らぬふうに限界に至るか否かであることろの<ポエティック>とは世界内でのわれわれにおける断裂の瞬間である

 「詩」と、「詩的」ではなく、<ポエティック>。ここにも、岸田自身にしかわからない断絶と粘着力がある。その、言語化できていない何かを、岸田はことばで追う。
 そのとき、2行目では読点「、」ですませた(?)関係代名詞が、「ところの」ということばでしぶとく岸田に反逆してくる。
 あ、おもしろいなあ。
 岸田は、どうするんだろう。

断裂したそれぞれは全く知らない人の日々の基底、日々の土地、日々の証拠であり、まるで割れた硝子の上の硝子板

 ふいに、ことばが異質になる。読点で区切りながら、ことばを並列する。並列のなかには、並列に値する「粘着力(結びつき)」があるはずだけれど、それを説明することを放棄して、ことばが散らばる。まるで、「敵」の銃撃にあって死ぬ瞬間の血しぶき、いくつもの岸田の肉体の断片、あるいはその瞬間に見る世界の断片としての幻のように散らばっている。それを繋ぎ止めるのは、「いのち」ではなく、「死」である。
 どんな「死」であれ、それは「いのち」の側からみると、世界の破壊であるけれど、それによってほんうとに壊れるのは世界の方ではない。このことは、岸田には直感的にわかっている。
 だから、2連目。
 やりなおすのである。精神の肉体、ことばの肉体は、生きる意思さえあれば何度でもよみがえる。

土-人、この土のしたの人たちの
生成りの文字の産声を聞く、土人、美しい人の土
生成りの人の生成りでないところの声を一切、拒否する拒否イコール土
<性的>行為はときに可憐な内面を担保するといえども、われわれの眼差しは冷酷にその声色を潰さなければならない、つまり生命は原理的にそれを只管、生きようとするものであって、われわれが<病的>に生きる術は皆無、只管の無言だ炉の無音だ
無口か金切り声か、そのような選択に苦しみ
傷つきやすさにおいて人柄と詩の善さを測り、この錯誤の理解が遅れたことに人としての詩としての哀れがあった

 やりなおし、とは、繰り返しである。「われわれの詩は自らに対する一つの警告である/そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である」と書いたこと、そして書き切れなかったことを岸田はただ繰り返すのである。
 読点「、」と、書かれない句点、そして「1行空き」が、岸田のことばをねじ曲げる。歪める。つまり、ふつうに書かれることば、ふつうに話されることばではないものにする。言い換えると、詩に、する。

 岸田が書きたいと思っていること、書こうとしていることを、私はただ「誤読」することしかできないが、そこにはいろいろな「誤読」を誘うエネルギーが満ちている。
 このエネルギー、その肉体の印象が、岸田の詩なのだと思う。



 城戸朱理「手紙が届かない、夏」にも読点「、」が出てくる。句点「。」も出てくる。しかし、その呼吸は、私には「肉体」とは感じられない。だから、それにつづくことばの変化(砕け方)も、私には肉体とは感じられない。

夜はまだ始まったばかりで
何かを泣いて忘れるように髪を洗うと
狐火のように点るもの、
それも失われた記憶の一節なのだろうか
何かを考えるなら、幾何学的に。
すると、夜の広がりとその底に潜む情動が
誰のものなのか分かってくる
夢であっても
かなしみだけは鮮やかで
足長蜂はあまりに優雅に滑空し
その生態は哲学的で
眠りのなかでも謎となる

 「何かを泣いて忘れるように髪を洗うと」「足長蜂はあまりに優雅に滑空し」というときの「ことばの肉体」と、「何かを考えるなら、幾何学的に。」というときの「ことばの肉体」の関係が私にはさっぱりわからない。句読点は、いったい何? そのとき、城戸はどんな呼吸をするのだろう。

 私は呼吸を感じないと、音楽を感じない。音楽のないところに詩はない--と、突然、書いておく。(ここからほんとうは城戸朱理のことばを批判すべきなのかもしれないが、目の悪い私には一日に書けることばの量はこれくらいなので……。)


“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(172 )

2011-01-25 12:17:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
  西脇のひとつのことばは次のことばとどういう関係があるのか。修飾語(修飾節)と被修飾語(被修飾節)の関係がわかりにくい。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界

 「考えられない」は「記号」の修飾している。では、「記号で仕組まれた」は2行目の冒頭の「世界」を修飾しているのか。それとも2行目の終わりの「青磁色の世界」を修飾しているのか--というような考えがふいに浮かぶのは、「人間が考えられない」ものが何なのか考えてしまうからかもしれない。
 何を考えられない?
 たとえばある「記号」を考えられない。けれど、その記号を考えられないということは考えられる。--変な言い方だが、人間は「考えられないということ」を考えることができるし、ことばにもすることができる。

世界に落ちたこの青磁色の世界

の冒頭の「世界」と末尾の「世界」は同じことば、同じ文字ではあるけれど、違ったものを指し示している--と考えるのが一般的かもしれない。けれど、それは同じものであり、ある瞬間に冒頭の「世界」ということばがあらわれ、次に末尾の「世界」蛾あらわれるとき、冒頭の「世界」は末尾の「世界」のなかに凝縮しているということもあるのだ。どちらが外(大きい)、どちらがその内部(小さい)ということは、ない、と考えることもできる。
 そんなことでは困るのだけれど、そういう困ったものが詩なのだ。きっと。
 そこにあることば--それに触れて、自分の知っていることばがひっかきまわされる。そのとき、ふいに、何かが触れてくる。それが詩である。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界
残された金でくるまエビのテンプラと
ラム酒をいそいでたべてもどつて

 「記号」「青磁色の世界」から「くるまエビのテンプラ」へ一気に移動する。その途中には「残された金で」という、なんだか俗っぽいことばの「橋」がある。「残された金」が「考え」「記号」というような抽象的なものでないために、「くるまエビのテンプラ」がとても自然に感じられる。
 こういう変な運動も、ことばはしてしまう。西脇は、ことばにこんな運動をさせている。
 この「残された金」とか「いそいでたべて」とか、あまりに日常的過ぎて、詩には書かないようなことばを書きながら、ことばの「論理」のタガをはず。ことばを自由にする。

この絶望のぼつらくのカミツレの
シオンの紫の夕暮のカーテンが
さがるのをみるこのクロイドンの男の
庭に立寄つてみるこの秋の悲しみを
このすすきの穂がちらつく窓から
悲しむ人間のほそながい顔は
神農のたべものにあげるだけだ

 「意味」を追ってはいけないのだ。没落は「ぼつらく」に、カミレルら「カミツレ」になってしまう。ことばは「意味」ではなく、「音」そのものとして、ここにある。
 いつくものことばが書かれ、それを「この」と「の」がつないで行く。「この」という特定の意識、そして「の」による無限(?)の連続。
 ことばは、動くことで、別のことばを探す。その探すと言う動きのなかに、詩がある。何かが分かっていて書くのではない。分からないから、それを探しあてるために書くのだ。

人間の苦しみから
人間の繁殖が芽生え
「ひさしぶりだな」
だが永遠に別れて行つた

 「この絶望の」からの「この」と「の」の繰り返しによる長い連続があったあとだけに、この4行のリズムの転換、すばやさが気持ちがいい。「ひさしぶりだな」のなかに、「人間の苦しみから/人間の繁殖が芽生え」(恋愛とセックスと出産があり)「だが永遠に別れて行つた」が凝縮する。




Ambarvalia―西脇順三郎詩集
西脇 順三郎
恒文社

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季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』

2011-01-24 23:59:57 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(5)(書肆山田、2011年01月17日発行)


 私は季村の詩を「誤読」している。季村が書いている「事実」ではなく、私は私が読みたいものを読んでいる。そういう過失を犯しているのはわかっているが、私はそれをやめられない。間違って読んでも季村のことばは、季村のことば自身の力でそこに存在しつづける。そういうことが「確信」できる。だから、私は好き勝手に読むのである。
 「わが父の教えたまいし歌」。

あとでわかる。遅れが思考の原型だということ、父を亡くした直後は理解できなかったのですが、初めての子を喪い、二人目の子が授かったころ、躯でわかったような気がします。初めに遅れありき、清水の舞台から飛び降りて考えればよいのですね。
  (谷内注、「躯」を季村は「身」+「区」の正字、匚の中に口三つと書いている)

 「遅れが思考の原型だ」という「哲学」。その抽象的なことばの内容は、はっきりとはわからない。いや、ぼんやりとだって、わからないのだが、直感的にわかったような気持ちになる。
 なぜか。
 「遅れが思考の原型だ」という文体に緩みがないからだ。余分な修飾語がない。どのような「遅れ」、どのような「思考」か、その「どのような」がないことによって、それこそ「原型」としての「遅れ」と「思考」が固く結晶している--そう感じる。そこには精神が張り詰めている。精神でしかありえないすばやい運動がある。
 この緊密さの一方、「初めての子を喪い、二人目の子が授かったころ、躯でわかったような気がします。」というのは、とてもゆったりした文体である。そして、そこには前の文章では書かれなかった「精神」のかわりに「躯」ということばが登場している。
 緊密な「精神」--ゆったりした「からだ」(と、季村には申し訳ないが、簡単に書き直して私の文章をつづける)、その組み合わせのなかに、私は、なんとなく「日本語」の文体そのものを感じるのである。
 「漢文」と「和文(?)」の組み合わせの確かさを感じるのである。
 この組み合わせ、そこから生まれてくる緩急の運動--それは、季村が多くのことばを潜り抜けてきているからである。そういうことを印象づける。多くのことばをくぐりぬけてきたからこそ、そこに揺るぎなさがあり、それを信じることができる。私がどんなに「誤読」しようが、季村のことばは「正確」でありつづけることができる--そう確信してしまうのだ。
 そして--といっていいのかどうかよくわからないけれど……。
 ここに書かれている「精神」(これは正確には書かれていないけれど)と「遅れ」と「からだ」の関係は、まさに、季村の「文体」なのだという印象と重なる。
 「文体」のなかには「遅れ」がある。「ことば」のなかには「遅れ」がある。「ことば」はいつでも全体的に遅れる。何かが起きる。何かを感じる。それは「精神」が先に感じることもあれば、「からだ」が先に感じることもある。逆もある。どっちの場合も、「ことば」はうまく動かない。うまく動かないのだけれど、なんとか動こうとする。そして、「遅れ」ながらも、なんとか、ある瞬間に追いつく。そのとき、「ことば」のなかで、「精神」と「からだ」が一致する。合体する。そして、そこに「人間」が立ち上がってくる。
 季村の「ことば」を読むと、その立ち上がってくる「人間」が見える--とは、私には言い切れないのだけれど、つまり、そんなことははっきりとはわからないのだけれど、動き--予感が感じられるのだ。
 それは、言いなおせば、私の「ことば」が季村の「ことば」に対して「遅れ」ているからである。季村の「ことば」に追いつけないために、季村の書いている「人間」を私ははっきりとはつかみつれない。けれど、あ、ここに「人間」がいる、とは強く感じるのだ。その「人間」は私の知らない人間である。(私は季村本人さえも知らない。)知らない人間であるから、その人間に対して「誤解」してしまう(誤読してしまう)のは仕方ないことだなあ、と私は思っている。(開き直っている?)でも、どんなに「誤解・誤読」しようと、「人間」は私の「誤解・誤読」とは関係なく生きつづける。それが「世界」である。その、不思議で、おもしろい「世界」への「入り口」が季村の「ことば」にはあるのだ。

過去と現在は同時に滾り、ここで起こっていることのなかに、未来まで押し寄せています。

 これは「遅れ」が「思考の原型」であるを言い換えたものである。「過去」と「現在」がたぎる。そのなかには、「未来」がある。「未来」があるということは、しかし、「いま」はわからないのだ。「いま」のなかに「過去」があることはわかっても、そこに「未来」があるとわかるのは--「未来」という時間になってからなのだ。
 「未来」さえも、「遅れ」てやってくるのだ。あらゆるものが「遅れ」てやってくる。「遅れ」て、ことばになる。
 いま、ここに書かれている季村の「ことば」さえ、やはり季村にとっては「遅れ」とともにやってきたものに違いないのだ。
 そのことを季村は知っている。
自分のことばは遅れている--そう自覚しながら、やってくることばを正確に受け止め、それを書く。あ、これは、すごい力だと思う。

神戸に舞い戻ってからです。父の酔態を聞かされ、ぞっとしました。羞恥を通り越したおもいに襲われました。過ちといっても、傷ついたひとがいる。父の狼藉を知らされたとき、この過誤をどう受けとめればよいのか、ずいぶん悩みました。ぞっとしたおもいは、わが父の教えたまいし歌、そのことに気づくことを私はいつも避けてきた。

 「気づくことを私はいつも避けてきた。」というのは、意図的な「遅れ」である。そして、その意図的な「遅れ」のなかには、それに先立つ絶対的な「予言」のようなものがある。
 「遅れ」はいつでも「遅れ」抱けてはないのだ。
 「過去」と「現在」がたぎるとき、そこに「未来」があるように、どのような「ことば」にも「予言」のような絶対的な「未来」がある。
 季村のことばは、それをはらみながら動いている。だから、とても強い。強い力で響いてくる。



冬と木霊―詩集 (1974年)
季村 敏夫
国文社

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