詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2018-05-27 16:34:57 | 詩集
しばらく休みます。
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柏木勇一「ゴドーの月」

2018-05-26 10:11:13 | 詩(雑誌・同人誌)
柏木勇一「ゴドーの月」(「詩の鍵穴」2、2018年06月01日発行)

 柏木勇一「ゴドーの月」は、ベケットの戯曲を上演したときのことを書いている。

田舎道。一本の木。夕暮れ。
 冒頭たったこれだけのト書き
 暗い稽古場で語り合った
 ベケットは曲者だ 分かっている
 ゴドーは神か退屈か不条理か 聞き飽きた
 議論もくたびれ 時間もつかれ
 破れたカーテンの隙間から月の光
 これだ ゴドーは月でいい

 「曲者」は「神」「退屈」「不条理」と言いなおされる。このときの助詞「は」は「分かっている」である。「分かっている/分かる」が「曲者」を次々に別の「名詞」に転換していく。それはさらに「議論」「時間」と言いなおされる。
 私は、こういう「名詞」の置き換えには、関心がない。「動詞」の方に関心がある。「(聞き)飽きる」「くたびれる」「もつれる」という「動詞」の方が「曲者」を具体的にあらわしていると読む。
 「曲者」相手では「くたびれる」「もつれる」。これは、ともに相手がそうなるではなく、私が「飽きる」「くたびれる」「もつれる」である。
 でも、何もできない。いや、ひとつだけできることがある。「待つ」ということ。「呆れ」「くたびれ」ながら、肉体の中に「もつれる」ものを抱えながら、「待つ」のだ。
 そこに「破れる」が唐突にやってくる。「破れる」は「待つ」の対極、突然の変化であり、ゴドーの芝居で言えば「来た」のだ。何が「来た」か。それは人によって違う。柏木の場合は「月の光」だったということ。
 それを「これ」と呼んでいる。
 ここが、この詩の中でいちばん美しい。「これだ」と叫ぶときの「これ」。「これ」としか言いようのないもの。その前に「月の光」という名詞があるが、それでは何かを行ったことにはならない。「断定」してしまっては、「破れる」が固定化されてしまう。
 でも、柏木は、「これ」を「月」とさらに言いなおしている。
 この言い直しは、私には納得できない。「これだ ゴドーはこれでいい」と、「これ」としか呼べないものなのだ。せっかく「これ」と「名前以前」を指し示すところまでたどりつきながら、「月」という既成のことばに戻ってしまっては、見つけたものが見えなくなる。

沈黙。太陽が沈み、月がのぼる。
 杉の角材を組んで塔を作って裸電球を添え
 ガタゴトとアッパーホリゾントに掲げた
 五十年以上も前のこれがおれたちのゴドー
 すぐに消える映像ではない

 角材を「組む」、塔を「作る」、裸電球を「添える」、それを「掲げる」。ひとつひとつの「動詞」と一緒に「肉体」が動く。「肉体」で裸電球を「月」に変える。「想像力」とは「肉体」の動きである。だから「消えない」。「肉体」のなかの、「動いた記憶(動くことで覚えたこと)」は、いつまでも残る。
 自転車に乗れる人間、泳げる人間は、いくつになっても自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」のなかから「肉体の動き」は消えない。「永遠」というものがあるとすれば、「肉体の動き」そのものである。
 「ゴドーを待ちながら」、「肉体」はどう動くか。「永遠」は「肉体」にどう刻み込まれるか。
 「永遠」なんて、曲者のことばだが、そう呼ぶとき、「ベケットは曲者だ」の「曲者」が、ふいに甦るだろう。

 月は永遠だから いつまでも待てる
 待とうよ いつまでも
 月に嫉妬しながら空を見たいくつもの夜

 最終行は「詩」になりすぎている。「いつまでも」と「いくつもの」で十分だ。「嫉妬する」という「動詞」は「名詞派生」の動詞。動詞に見えるが、それは「神」「退屈」「不条理」と同じように、名詞だ。「名詞」は他人に(読んだ人に)まかせて、「動詞」としての「肉体」をことばのなかに置き直すことが詩を生むということだと私は考えている。

 「ジャコメッティの蜘蛛」という作品は、

陽光が訪れてやっと識別できる 蜘蛛の糸

 という美しい行ではじまる。「訪れる」「識別できる(識別する)」ということばが「動詞」として目につくが、私の「肉体」が反応するのは「やっと」という「副詞」だ。「やっと」のなかには「動詞」を揺さぶるものがある。「動詞以前の動詞(未生の動詞)」がある。それは「待つ」に通じる。
 この「未生の動詞」をつぎつぎに言い直しながら、この詩は「待つ」ということばが引き寄せる「文学」へたどりついていく。

鼻筋の彫りの深いしわに蜘蛛が
笑うジャコメッティ
サミュエル・ベケットとチェスに興じた

 この終わり方も「文学的」すぎるかなあ。でも、「文学」を生きるのが柏木のことばの生き方なのだろう。「暮らし(日常)」のなかでことばを動かしたものは、なんとなく、嘘っぽい。表面的だ。「肉体」が動いている感じがしない。「文学(芸術)」のなかで「肉体」を動かす詩人なのだろう。


*

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中村梨々『青挿し』

2018-05-25 11:01:08 | 詩集
中村梨々『青挿し』(オオカミ叢書1)(オオカミ編集室、2018年04月11日発行)

 中村梨々『青挿し』のなかの「聞こえる」は不思議な詩である。

土からあがったばかりの大根を洗う
暗がりに
かがみこんで 見つける
溶けてしまいそうになる人の目を
その人の開けっぱなしの空から
水ものの波だ
波に襲われて
大根は消えそうに白く
私は慌ててごしごしと努め
その間にも
指先や爪に移る弔いの匂いが
異国の喉のように震え
落ちてしまいそうになる声を冷たい両手で抱え
足早に
勝手口に上がる

 「聞こえる」とあるが、「何が」聞こえるのか明確には書かれていない。「聞こえる」と向き合うことばに「声」があるが、「落ちてしまいそうになる声」は落ちなかった声であり、客観的には存在しない。「落ちてしまいそうになる」と感じているひとの「肉体」のなかにだけある。
 この「そのひとの肉体のなかにだけある」ものを、最初から読み直してみる。
 「溶けてしまいそうになる人の目」というのも、客観的には存在しない。「暗がりに/かがみこんで 見つける」は「暗がりにかがみ込むことで見つける」であり、「暗がりにかがみ込む」という「肉体」の動きをとおして見つけるものである。それは「暗がりにかがみ込む」という「肉体」によって、「肉体」の奥からひっぱりだされてくる「目」である。
 簡単に言いなおしてしまうと、大根を洗うために暗がりにかがみ込んだとき、その「肉体」の動きをしていた「人(の肉体)」を中村は思い出したのだ。そのひとの「肉体」になって、「世界」を見つめなおしたのだ。母を見たのだ。中村は、いま、幼いときに見た「母の肉体」になる。そして、その「母の肉体」が見たものを見る。
 「目」は「窓」と言いなおされ、大根と触れ合う「水」を見る。大根を洗うときの水の動き「波」を見る。「波」は「波だ」と声にすると「涙」にかわる。何かに耐えて、涙を流しそうになりながら大根を洗っている。もしかしたら涙を流しているかもしれない。しかし、それは見せない。見せないけれども、見える。見つけてしまう。
 そのひとの「目」、そのひとの「見る世界」を、中村は「肉体」で生きなおす。あのときの「母」になって、生きる。あのときの「母」を生み出している。
 このときの「溶けてしまいそうになる人の目」という「文体」と、「落ちてしまいそうになる声」は同じである。母をまねる「肉体」のなかで「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」が動く。それは「溶ける」「落ちる」ではなく、あくまでも「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」という動きである。「こらえている」のである。
 「声」は直前に「喉」ということばで間接的に書かれている。それは「震える」という動詞と一緒に動いている。震えるのは、こらえるからである。声を抑えるからである。
 それが「聞こえる」。
 声ではなく、声を抑える「肉体」のなかの、声にならない動きが聞こえる。「肉体」に聞こえる。全身で、それを聞く。

 「どうにもならない夜とどうにもできなかった朝の話」に、こんな行がある。

林檎に包丁を入れ
半分に切ったら
芯と小さな種が出てくる
黒い小さな種で
出てくると見えるのに
出てくるまでは見えなくて

 「ある」のに「見えない」ものがある。けれど、それはあるとき「見える」にかわる。林檎の場合は半分に切ったら種が見える(あるのがわかる)。
 ひとの「肉体」は、半分に切るわけにはいかない。
 どうやったら「思想」は「出てくる」か。
 「知りたいひと」の「肉体」をそのまま「肉体」で重ねる。「動詞」を重ねる。そのひとが暗がりで大根を洗うなら、同じように暗がりで大根を洗う。そうすると「肉体」のなかで動くものがある。かがみ込む足、折りたたまれる腰、前かがみになる背中、動かす手、水を冷たいと感じる手、指先(爪)に入ってくる泥を見る。そこから「思想」がはじまる。「思想」が生まれてくる。
 動かした「肉体」、その「肉体」のなかで動いたものをことばにすると、それが「思想」として見えてくる。これを詩と呼ぶ。

 「二月の空は呆れるほど高い」には、こんな行。

これでよかったのか、と時々思ったりする。時々
「これでよかったのか」と思うことを思い出す。
思い返す。前にもこんなふうに思っていた。今も
あと何年か後にも。

 「ことば」だけで思い出す(反芻する)のではなく、「肉体」がいっしょに動くと、そこから生まれる「思想」は「肉体」としてつながっていく。「いのち」としてつながっていく。
 「何年か後」は「何年か先」でもある。ここで「後」がつかわれているのは「思い出す」ということばが働いているからだ。思い出しながら、反芻しながら、思い出とは逆の方向「先」へと、ことばは動いていくだろう。



 この詩集には、広田修の「てびき」がついている。そのなかで、広田は詩は「わかる」ではなく「感じ」をつかむことが大事と書いている。
 私は「感じ」をつかむのではなく、「動詞(肉体の動き)」をつかみ、その動きを自分で確かめる、そうして「感じ」を生み出すのか詩を体験することだと思う。

誰も帰ってこないので
昼の隙間から外を見た
ひどく雨が降っていた
どうしても、戻らなければならなかったんだろう     (「二十三夜」)

 この部分を取り上げ、広田は

「昼の隙間」ってなんだろう? 唐突に出てくる「戻らなければならなかったんだろう」という義務はなんだろう? 死にはこういうように意味を考え出すと途端にわからなくなることがたくさんあります。

 と書いている。
 私は「昼の隙間」とか「義務」とか、「名詞(完成された意味/思想)」を重視する形では詩を読まない。
 「隙間から外を見る」は「覗く」である。「覗く」は自分を隠しながら、「外を見る」ことである。不安だから自分を隠す。夜に不安になることは多いが、昼間も不安になる。昼間の不安の方が、何かしら「ふつう」とは違う。
 私は、そういうことを「感じる」というよりも、「肉体」で思い出す。
 そこから見える世界は狭い。見えているようで何も見えない。
 「帰ってこない」は「戻らなければならない」と対になっている。「私(中村?)」を残して、そこから出て行ったひとは「帰ってこない」。その人には「戻らなければならない(ここを出て行かなければならない/もとの場所に帰らなければならない)」理由がある。それは単なる「想像」ではなく、「私」の体験そのものでもあるだろう。「私」もまたどこかへ行って、そこからもとの場所にもどらなければならないということをしたことがある。「帰る/戻る」は「ふたり」のあいだでは「方向」が違う。引き裂かれる。
 そういうことが書かれている。
 「名詞」はわからなくてもいい。けれど、「動詞」なら、わかるはずだと思う。
 よく知らない外国へ行く。ことばはわからない。水がのみたい。コップの中に透明な液体がある。のんでいいかな? わからない。でも、そこにいる人が、それをのんでみせれば、それがのめるもの(安全なもの)であることがわかる。「肉体」はひとをだまさない。動詞はひとをだまさない。
 だから、私は「動詞」を読む。「動詞」は「事実」である。



*

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藤森重紀「雪の夜がたり」

2018-05-24 09:58:45 | 詩(雑誌・同人誌)
藤森重紀「雪の夜がたり」(「構図」6、2018年04月30日発行)

 藤森重紀「雪の夜がたり」に「方言」が出てくる。

独り言をいうと箪笥の取っ手が
かたかた鳴りますけれども
あれはまんつ媼(かあ)さまの合図でありまして
余震なんかじゃござりやせん
話しかけると
ちゃんと応えるから
独りこでいるとは思えんのです
とぜんこでないと 皆さまにいうたび
けなりごぜを焼かれておりやんす

 「とぜん」は先日読んだ白鳥信也「とぜん」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/9dafd7dd64d6758cb8f5c2b3732e7e3a)にも出てきた。いまもつかわれているのだ。
 「とぜん=徒然」かどうかは断定できないけれど、「つれづれ」に似た感覚だろう。藤森は「退屈」と註釈をつけているが。
 「けなりごせ」には「嫉妬」と註釈をつけている。「けなるい」ということばは西脇もつかっている。私の田舎(富山)でもつかった。「嫉妬」というほど強くはない。「うらやましい」「あれがほしいなあ」というくらいの感じだが。
 こういうことばを読むと、ことばは「意味」ではなく「人間関係」なんだなあ、という気持ちがしてくる。人間がいて、その間でことばが行き交う。「意味」は定義する必要はない。「定義」のように厳密ではなく、ただ「関係」をその場でつないでみせるもの。
 で。
 そこから前半部分を読み直す。

独り言をいうと箪笥の取っ手が
かたかた鳴りますけれども
あれはまんつ媼さまの合図でありまして

 そうか、「ことば」とは「合図」なのか、と思うのだ。ほかの人にはわからなくてもい。ふたりで(?)決めた方法で、何かを相手に知らせる。そこにはかならず「相手」がいる。「相手がいる」ということが、「ことば」の大前提なのだ。そして、相手に知らせることのいちばん重要なものは、「私はここにいる」だろう。相手に対して、ここにいるのは私だ、と告げる。「居場所」を告げる。
 だから二連目。

今晩のように
ぼたぼたと雪が積もった夜は
あの夫(ひと)が玄関で
長靴についた雪をどたどたと足踏みして
落としたもんです
どたどたと

 これは雪国で暮らした人ならだれでも体験したことがあるだろう。長靴についた雪を玄関で落としている音が聞こえる、ということは。このときの「どたどた」は「ことば」になっていないが「ただいま」なのだ。「肉体」を動かして、「音」を出す。それがそのまま「ただいま」になっている。「肉体」がそこに「いる(あの)」を知らせる。ここから、関係がはじまる。
 さらに三連目。

早池峰おろしが止んだ夕(ばんげ)は
氷柱が木琴のような音こして落ちるんでしが
地震ではなりまっせん
あれは死んだ孫のほうが
とぜんこでとぜんこで
いっせいに揺らして遊ぶのであります
ほんとにめごこい おぼこでござりゃんした

 氷柱が落ちる音は、氷柱を落とす音。音があるとき、そこに「ひと」がいる。それを「聞く」。「聞こえる」時、そこに人がいる。
 「聞く」というのは、不思議な距離だ。
 ここには、人と人との「距離」のあり方が書かれていると言ってもいい。
 そして、その「距離」には「暮らし」というか、その「土地」のすべてがつながっている。方言は「土地」を呼び寄せ、その「土地」に人間を立たせてくれる。「土地」に立って、「私はここにいる」と呼びかけあう。
 「独り」であっても「土地」に立てば、「土地」が相手をつれてきてくれる。この、ゆるやかな「強さ」を感じながら「とぜん」とするのは心が安らぐなあ。


*

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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
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「森友文書」

2018-05-24 08:57:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「森友文書」
             自民党憲法改正草案を読む/番外214(情報の読み方)

 「森友文書」が公開された。新聞に報道されているのは、その一部である。どこにポイントがあると判断したか、その判断によって、どの「一部」に焦点を当てるかがきまる。2018年05月24日の読売新聞(西部版・14版)は三面に、こういう見出し。

値引き要求 執拗に/森友土地交渉 生々しく/籠池被告妻 コースター投げつけ「嘘つき」

 記事部分で、安倍昭恵の秘書が2015年11月10日、12日に「国有地取引の優遇措置について財務省に問い合わせをしている」と書いている。そういうことがあったけれど、取引は正当におこなわれた、というのがこれまでの政府の説明。読売新聞は、政府の説明が正当であったということを前提にして、籠池夫婦の「執拗さ」と「乱暴さ」に焦点をあてている。

 ここで、疑問。

 もし、「森友文書」が安倍の主張の正当性を裏付けるもの、安倍夫婦の「意向」をまったく反映しないという証拠になり、かつ籠池夫婦の不当性(?)を裏付けるものであるなら、佐川は(あるいは財務省は)、なぜ「廃棄した」と言って、その存在を隠し続けたのか。
 「無罪証明」という視点から見つめてみよう。
 「森友文書」が安倍夫婦の「無罪」を証明するものだとしたら、それを破棄するというのは安倍夫婦にとって「不利」である。破棄するのではなく、どこかに残っていないか、必死になって探すのがふつうではないだろうか。
 つまり、「土地取引の交渉文書」を克明に読めば、安倍夫婦の働きかけがあったとしても(働きかけは昭恵の秘書がかってにやったことだとしても)、その交渉は実を結んでいない、つまり交渉に影響を与えていないということを証明するのなら、安倍が先頭に立って「交渉文書が残っていないか、探し出せ」と命令するのではないだろうか。
 自分自身にひきつけて考えてみるといい。
 何かの犯罪に関与していると疑われたとする。しかし、自分にはアリバイがある。その事件には関与していない。なぜなら私はその日、映画館で映画を見ていた。そうであるなら、そのときの映画の半券がどこかに残っていないか必死になって探す。あの日履いていたズボンのポケットにないか。手帳の挟んでないか。今朝出したごみのなかにまじっていないか。回収がまだだといいなあ、調べてみないと。ときには、「ごみ箱の中に半券があったのかもしれないのに、勝手に捨てるな」と夫婦喧嘩だってやらかしかねない。エトセトラ。

 安倍も財務省も、佐川も、「安倍夫婦のアリバイ」として「森友文書」を活用しようとはしていなかった。それは、どこかに「問題」があると認識していたからだろう。安倍がよく口にする「一点の曇りもない」ものなら、「一点の曇りもない」ことの証拠になるはずの文書を破棄する、破棄したということを受け入れるはずがない。
 いまになって「文書」が出てきた。そこには安倍の主張を裏付けることが書かれている、というのはおかしい。だいたい、ほんとうに安倍の主張を裏付けるものなら、その部分が見つかったときに、真っ先にそれを「公開」しているだろう。わざわざ 900ページの文書の中に埋もれさせる必要はない。ほかの部分は隠しても、読売新聞が三面で報道している部分は、率先して公開するのではないか。

 どんなときでも、ひとは、自分にとって「有利」になるものを捨てたりはしない。
 森友学園の土地取引が「不当」なものである、と判断されたとき、困るのはだれだろうか。交渉にあたった職員ではないか。職員は、なんとかして自分の「正当性」を証明するために、この交渉は私の独断ではないという「証拠」を残そうとするに違いない。価格が問題になったとき、その交渉の記録は自分の「無罪証明」になる(有利になる)と思い、記録を残すだろう。私は与えられた仕事を適正に処理した、という「証拠」を残すだろう。
 愛媛県職員が柳瀬と会ったときの「名刺」を、日付を記入して保存していたのは、それが彼の「アリバイ」だったからである。仕事をきちんとした、という証拠、報告書は勝手に書いたのではなく、柳瀬と会って、それを踏まえて書いたという「証拠」になるから残す。柳瀬が愛媛県職員の名刺を残していないのは、それが柳瀬にとっての「アリバイ」にはならないからだ。

 ことばは、ことばだけを取り上げるのではなく、「行動」と結びつけてとらえなおす必要がある。ことばに矛盾がないかだけではなく、行動に矛盾がないか、それを見つめないといけない。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

2018-05-23 20:25:27 | 映画
沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

監督 沖田修一 出演 山崎努、樹木希林、林与一

 画家なのに、絵を描くシーンがない。これはおもしろくない。せめて、現実の風景に重ねるようにして「絵」を紹介してほしかったなあ。熊谷守一のファンなら、絵を思い出せるはず、ということかもしれないけれど、不親切だなあ。
 山崎努がじーっと蟻を見つめる。虫を見つめる。草花を見つめる。そのときは、「絵」を描かない。蟻や虫や草花、猫を覚えているのか。形と色を、頭の中に叩き込んでいるのか。そうではないだろうなあ。蟻や草花になっているのだ。
 とてもおもしろいエピソードがある。熊谷守一の庭には「池」がある。川でとってきた魚を話すために池を作った。池の水は土に吸い込まれていく。それでは魚が死んでしまう。どうするか。毎日毎日、池を掘り続ける。井戸掘りのように「水脈」にであうまで掘り下げていく。やっと水の減らないことろにまでたどりつく。15年かかったそうだ。これはたんに池を掘ったということではない。熊谷は池になったのだ。
 これと同じように、熊谷は、そこに生きているいのちを守ることで、そのいのちそのもるになる。蟻やカマキリや猫の絵を書いているのではなく、絵の中で熊谷は蟻やカマキリや猫になっている。そうなるまでに何十年とかかっているということだ。
 これを象徴的に語るのが、蟻を見つめるシーン。地面に顔をつけて蟻を見ている。そしてカメラマンに向かって、「蟻は左側の前から二本目の足から動かして歩く」と説明する。これは「見える」ということではなく、蟻になって動くから、それがわかるのである。カメラマンは、わからない。カメラマンの助手も「速くてわからない」と言う。これは、「見ようとする」から見えないのだ。蟻になってしまえば、蟻として動くしかない。どこかへ行くにはどの足から動かすかは、とても重要だ。
 似たシーンに、草に対して「いつ生えてきたのか」、落ちている石に対して「どこからやってきたのか」と問いかけるシーンがある。「生まれる」「やってくる」。それは「動き」である。何もかもが動いている。動くことが生きるということだ。熊谷は「絵」のなかで「絵に描かれたもの」を生きている。生まれ変わっている。
 映画の冒頭、昭和天皇(?)が、熊谷の絵を子どもの絵と勘違いする。このことも、熊谷は「絵として生まれている」ということを証明する。天皇の素朴な感想は、意外と熊谷の絵の本質をつかんでいる。「絵として生まれてきた」ばかりなのである。その「絵」は「生まれたての赤ん坊」なのである。その絵は、見るひとの視線の中で、育っていく。そういう絵なのだ。
 そういう意味では、絵を描く前の時間は、「絵になる(絵として生まれ変わる)」時間を描いていることになり、それはそのまま「絵の制作過程」と読んでもいいものなのだが、これは、なかなかつらい。
 絵ではなく、「文字」を書くシーンがあるが、このときも筆に墨をつけるところまでは見せるが、実際の筆の動きは見せない。これはこれで「工夫」なのかもしれないが、はぐらかされた感じになる。
         (2018年05月23日、KBCシネマ1)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

南極料理人 [DVD]
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文貞姫『今、バラを摘め』

2018-05-22 11:28:45 | 詩集
文貞姫『今、バラを摘め』(韓成禮編訳)(韓国現代詩人シリーズ④)(思潮社、2016年03月10日出版)

 文貞姫『今、バラを摘め』は、どれもおもしろい。「断定」が強い。
 「老いた花」という作品。

どこに老いた花などあるだろう
花の生涯は束の間である
美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって
花はどんな色に咲いても
咲く時、全力を尽くしてしまう
恍惚の、この規則を破った花は未だに一輪もない

 一行目の「どこに老いた花などあるだろう」は問いかけではない。「そんなものは、ない」という「断定」を隠している。というよりも、そういう「断定」は自明のことであり、ことばにする必要がない。だから書いていない。
 「花の生涯は束の間である」は一行目の言い直し。「花の生涯は束の間である、だから老いた花など、存在しない」。
 そう断定した後で、文体が一転して長くなる。文以外のだれも語っていない「理由/根拠」を語るために長くなる。「文体」そのものが「独自」のものである。こここそが文の書きたいことばなのだ。

美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって
花はどんな色に咲いても
咲く時、全力を尽くしてしまう

 この三行には「動詞」が複雑に絡み合っている。ひとつの動詞が動く時、別の動詞も一緒に動く。人間が歩く時、足が動くのだが、同時に手も動くし、眼も動いているのに通じる。動詞が連動して動くことで、そこに「花」の「肉体」があらわれてくる。
 「美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって」は「花」という「種属」は「美しさ」を「知っている」ということ。「知っている」は「自尊心」に通じる。「知っている」は「肉体」そのものになって、「肉体」を他のものから「独立させる」。「自尊心」とは「自覚」でもある。「自分が何者であるか、知っている」。
 この「自尊心によって」は「知ることによって/自覚することによって」と言いなおすことができるのだが、その「動詞(動き)」は、他の動詞とどんな具合に結びつくか。
 「知ることによって(自覚することによって)」、「咲く」のか、それとも「全力を尽くす」のか。これは区別できない。切り離せない。だからこそ、「咲いても」と言った後、もう一度「咲く」という動詞を「咲く時」と「時」という「名詞」のなかに隠しながら、「咲く」とは「全力を尽くす」ことだと言いなおす。「全力を尽くす」だけではなく、「尽くしてしまう」。消尽。あるいは焼尽、か。「尽くしてしまった」(それを経験した)から、それが「知っている」という自覚、自尊心になる。
 そういう「動詞」の切り離せない動きを「花の肉体(いのち)」のあり方として肯定した上で、

恍惚の、この規則を破った花は未だに一輪もない

 と再び「ない」という否定によって「断定」する。
 「断定」には肯定の断定と否定の断定がある。どちらが強い断定かは、受け取る人によって違うかもしれない。
 文の「否定の断定」には、ひとつの特徴がある。「他人の考え」を否定し、そうすることによって「文自身の考え」を肯定するということである。対比によって、自説を強調する。
 「老いた花はあるか」。そんなものは「ない」。花はただ「咲く」だけである。「咲く時に全力を尽くさない花があるだろうか」。そんなものは「ない」。「咲くということに全力を尽くす」だけである。文は「花は咲く」「花は咲く時全力を尽くす」ということだけを「肯定」するために、そのほかの花の定義を否定する。
 私の考えだけが正しい。それが文の「自尊心」である。それは文だけが「知っている」ことである。

 「咲く」は自分(文)だけが知っている。この「自覚(自尊心)」は、正しいか。正しいとしたら、何によって証明されるか。

 「恍惚」ということばがカギだ。文は「恍惚」を「知っている」。「恍惚」というものは、他人ものではない。自分だけのものである。自分の「肉体」でつかみとった、自分の「真実」である。
 恍惚によって、文の「肉体」の「色」がかわる。どんな色になっても、かまわない。知ったことではない。自分が自分でなくなる。その瞬間、では文は何になるのか。「花」になるのだ。
 「花」になって咲いた記憶が文の「肉体」のなかにある。それが「知っている」ということであり、それが「咲く」とは「全力を尽くしてしまう」ことだという「自尊心」になっている。「おまえは、全力を尽くしてしまったことがあるか」「おまえは、恍惚を生きた瞬間があるか」「私にはあるぞ」と自慢するのである。自分の「肉体(いのち)」の肯定である。
 このことばの動きは強い。

 「鳥葬」も「肉体」のとらえ方が強烈だ。

砂漠で死体を啄ばむ鳥を見てからは
世の鳥すべてが身内に見える
家に帰った後も私の肉と血は
鳥の目のように鋭くて腹黒い
いくら洗っても罪の臭いがする

 「世の鳥」とは「この世の鳥」であり、「生きている鳥」ということだ。「死体」とは対極にある。文は「この世の鳥」になって、自分の「いのち」と「死者」との関係を見つめなおしている。私たちは、だれかの「肉と血」を引き継いでいる。「だれかの」というよりも、あらゆるひとのかもしれない。そうすることで「この世」が成り立っている。「この世の鳥」の姿には「あの世の人間」が重なってしまう。
 それは、「罪」か。
 「罪」だとしても、それは「喜びの罪(恍惚の罪)」だろう。生きるために「死体」を食う。その「喜び」、その「恍惚」。「喜び」も「恍惚」も「この世」のものであり、同時に「あの世」を教えてくれる。言い換えると、自分を忘れさせてくれる。自分が自分でなくなることを、ぐい、と押してくれる。
 こういうことに「罪」という名前をつけるのは、その「罪の喜び/罪の恍惚」を知らない人間である。


*

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今、バラを摘め (韓国現代詩人シリーズ 4)
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「不思議なクニの憲法2018」上映会報告

2018-05-21 09:53:20 | 自民党憲法改正草案を読む
「不思議なクニの憲法2018」上映会報告
             自民党憲法改正草案を読む/番外213(情報の読み方)

 2018年05月20日(日曜日)、福岡市立中央市民センター視聴覚室で「不思議なクニの憲法2018」の上映会を開いた。参加者43人。上映会後、後藤富和弁護士を囲んで意見交換会を開いた。後藤弁護士は、中央区9条の会の主催者。毎週火曜日午後7時から「terra cafe kenpou 」を中央区天神の高円寺会館で開いている。

 当初は20人も集まらないのではないかと思っていたが、予約以外に当日の飛び込み参加者もあり、資料不足になってしまった。「東京、横浜の人から教えてもらった」という人もいて、改めて「口コミ」の大切さ(力)というものを感じた。会を盛り上げてくださった方に深く感謝します。
 一方、「9条の会」は各地に、さまざまな形で活動しているのに、その連携が少ないこともわかり、不思議な感じがした。

 上映会後の、意見交換会では、毎週天神で街頭活動をしている人から、運動を拡げていく困難さ(若者の無関心さ)が指摘された。自民党の改憲案は発議させないことが重要。メディアが権力チェックとして働いていない。国民ひとりひとりが最後の抵抗に向けて意識を高めなければならない、と。
 メディアにかぎらず選挙公報をめぐっても、一種の「選挙を知らせない」という動きがあるという指摘もあった。選挙前日になっても公報がとどかない。選挙管理委員会に電話したら、配布者の責任という具合に「責任転嫁」があった。さらに苦情を言うと、選挙前日の夜中にやっと配られてきた、という。
 映画のなかでも、選挙報道が減っていることが指摘されたが、公報さえきちんと配られていないという問題は初めて知った。
 また別の街頭活動しているひとから、自民党が配っている「チラシ」は市民の目を惹きつける工夫をしている。自分たちの配っているチラシは、そういう工夫がない。もっと工夫が必要かもしれない、という指摘。
 (私が用意したチラシも、モノクロで、他のひとたちが配っているチラシと比較すると、目に訴える力がない。チラシづくりのノウハウは課題として残った。)
 上映会の参加者にも、若い世代は少なくて、どちらかというと「高齢者」が中心になった。
 映画のなかでも語られていたが、 2時間のあつまりがあったら、そのうち10分でもいいから政治の話をする。政治の方向へ話題をふってみる、という工夫が大切。そういうことを心がけたいという共感を語る人がいた。
 若い世代の無関心については、私は単純に無関心とは言えないと思っている。その旨を発言した。「私たちの世代は、親を乗り越えたいという気持ちをもっていたが、いまのひとは親に頼っている部分がある。同じような感じで、自民党(安倍政権)に反対すると正社員になれないんじゃないか、あるいは出世できないんじゃないかと不安をかかえているように思う。それが自民党支持につながっていると感じる。」
 また、法律はひと(個人)を守るものなのに、いまは国家がひとを縛り上げるためにつかおうとしているという指摘があった。
 後藤弁護士から、法治主義と人治主義、法の支配と立憲主義の解説があった。悪法には従うべきではない、高次法としての憲法があり、それに従うのが立憲主義であるということ。
 ソウル大教授の意見を踏まえながら、憲法の背後にある日本の構造を考えることが大切という指摘も。
 そのあと、後藤弁護士が関わっている朝鮮学校支援のことなどを語ってもらった。
 朝鮮学校支援のきっかけは、通学中の生徒がチマチョゴリを切られる事件があったこと。人権侵害があったこと。朝鮮学校は、北朝鮮政権との関係が問題にされるが、そこでおこなわれている教育はふつうの教育。違うのはハングルを教えていることだけ。だれであれ、母国語を勉強するのはふつうのこと、という指摘。
 個人の尊厳を守ることの重要性を語った。
 意見交換会のあとの会になったが、伊藤真の「憲法理想主義(?)」への共感も力説した。「憲法は、理想。現実に憲法を合わせる(9条を改正し自衛隊を合憲化する)という論理をあてはめてしまうと、現実の格差(差別)を肯定するために憲法をかえないといけないことになる。そうではなく、現実を望ましい姿にしていくよりどころに憲法がある」という共感。

 ほかにもいろいろな意見が出たのだが、準備不足もあり、整理しきれない。
 「憲法改正」は絶対必要なのだという意見をもったひとにも参加してもらいたかったが、これはむずかしい問題かもしれない。
 いま、「ネット空間」では同じ意見のひとだけがあつまって、反対意見を罵倒する発言が多い。違う意見にであったとき、自分のことばをどう鍛えなおすかというのが重要な問題だけれど、そういうことは「現実」の世界でもなかなかむずかしくなってきている。
 同じ意見をもつひとが集まるだけではなく、違った意見のひととも交流をしないといけないと思うが、方法がみつからない。



 それとは別に、この映画がつくられたあと、3月下旬、自民党が改憲案(4項目)をまとめた。映画で私が指摘したことは、少し違った状況になっている。
 そのことを補足するために、資料をつくった。
 このとき気づいたのだが、4項目の改憲案は自民党のホームページにも載っていない。(私の調べ方が悪くて見つけられないのかもしれないが。)吟味すべき情報を公開しないというのは、自衛隊日報、森友学園、加計学園でも問題になった。
 「情報を提供しない」「議論させない」という「沈黙作戦」は、憲法問題でもおこなわれているのだろう。
 すでに書いたことだが、自民党の改憲4項目の問題点を、以下に書いておく。

 自民党憲法改正案の全文が発表された。引用は、2018年03月26日の読売新聞から。「自衛隊の根拠規定を明記する案は、多数派が指示する有力案」とのただし書きがついている。「正式」にはまだ未定ということか。
 改正案だけでは問題点が見えにくいので、関連する現行憲法と照らし合わせて読んでみる。

(現行憲法)
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これに自民党は「自衛隊の根拠規定」を明示する。「 9条の2」を追加する。(1)(2)(3)という表記は自民党案にはないが、あとで項目ごとに説明するためにつけた。改行も、分かりやすくするためにつけくわえた。

9条の2
1項 (1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
(2)そのための実力組織として、法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を保持する。
2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

 自民党案のいちばんの問題点は「主語」が「国民」ではないことだ。
 現行憲法は「日本国民は」と「国民」を主語にして書かれている。すべての「動詞(述語)」の主語は「国民」である。
 1項は、わかりやすく書き直すと、
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。
 日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(ここまでがテーマ)、永久にこれを放棄する。
 (この文体は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という文体と同じ。テーマを先にかかげ、「これを」という形で引き継ぐ。定義する。)
 途中にある「国際紛争を解決する手段としては」は「テーマの補足」である。
 日本国民は、国際紛争を解決する手段としては、(戦争と武力をつかうことは)永久にこれを放棄する、と言っている。
 2項目に「日本国民」を補うと、
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は(これがテーマ)、これを「日本国民は」保持しない。
 国の交戦権は(これがテーマ)、これを「日本国民は」認めない。

 自民党の案では「国民」が消えている。補うことが出来ない。
(1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
 この「主語」は「前条の規定」である。それにつづく文章は「説明」である。「妨げず」という動詞(述語)の主語は「前条の規定」であり、これは「説明文」になる。
 前条は、「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げる」とは「規定していない」と言う文章を「言い換えた」ものである。「規定していない」という「解釈」を、「解釈」とわからないように書いている。
 「解釈する」というときは「動詞」が必要である。
 「前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していない」と、「国民は」解釈するでは、「解釈」を「国民」に押しつけることなる。これは「思想、信条の自由」に反する。だから、そうは書けない。「前条」をそのように「解釈する」人間は限られている。
 これは、

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「政府は」解釈する

 なのである。「政府(政権)」という「主語」が明示されないまま、ここに登場してくる。案をつくった「自民党」と言い換えてもいい。
 この「政権/自民党」という「主語」が引き継がれていく。

(2)そのための実力組織として、「政権(自民党)が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「政権(自民党)が」保持する。

 「法律」を「提案できる」のは「国民」ではない。「自衛隊」という組織を「保持できる」のは「国民」ではない。
 「動詞」と「主語」をていねいに補いながら読む必要がある。「動詞」と「主語」を補うと、「憲法」の「主役」が「国民」から「政権(自民党)」に移ってることがわかる。それも「隠したまま」、「主語」を乗っ取っているのである。
 「内閣総理大臣を最高の指揮官とする」ということばに従えば、主語は「内閣総理大臣(安倍)」ということになる。

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「安倍は」解釈する
(2)そのための実力組織として、「安倍が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「安倍が」保持する。
 つまり、これは「独裁」の宣言なのだ。しかもその「独裁」は「自衛隊」という組織をバックボーンに持っている。「軍事独裁」が安倍の夢なのだ。(2)で現行憲法で禁じている「武力」ということばつかわず「実力組織」とあいまいにしているのも、国民をだますためなのだ。
 (2)で補った「安倍が提出した」を中心に改憲の動きを見直すと、このことがよくわかる。
 改憲は安倍が提案したのだ。憲法を守る義務がある安倍が、率先して憲法を否定している。「軍事独裁」のために、である。

2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 にも、「日本国民」を補うことは出来ない。あえて補えば

自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、「国民を代表する」国会の承認その他の統制に服する。

になるかもしれないが、「内閣(総理大臣」と「国会」の出てくる順序が現行憲法とは違う。現行憲法は「天皇→戦争放棄→国民→国会→内閣」という順に規定している。重視するものから先に規定している。
 「9条の2」で「国民」を飛び越して「主語」になった「安倍(内閣総理大臣)」は当然のように、ここでは「国会」を飛び越している。「国会」のうえに君臨する。

 安倍(自民党)の改憲案は、「安倍軍事独裁」のための改憲案である。


 安倍が「改憲案」として表明したのは(1)自衛隊を書き加える(2)教育の無償化だった。(2)はどんな文言になっているか。
 26条1項、2項に追加する形で「3項」を提案している。その部分だけを取り上げると全体が見えない。現行憲法とつづけて引用する。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

(自民党の追加項目)
3 国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。

 なぜ、こんなに長いのか、それが気になるが。
 まず指摘したいのが、「主語」の問題。
 現行憲法は「すべて国民は」と書き出されている。「国民」が主語。
(1)国民は、教育を受ける権利を有する。
(2)国民は、子どもに教育を受けさせる義務を負う。
 権利と義務を明記している。義務は、国民の義務だが、なかには義務を果たせない人もいるかもしれない。経済的に学校へゆかせることができないという人もいるかもしれない。だから「2項」には、「義務教育は、これを無償とする。」という補足がついている。この補足には「主語」がふたつある。
(1)「国民は」、義務教育については、これを無償で受ける権利がある。
(2)「国は」、義務教育については、これ無償にしなければならない。(「国民は」、義務教育については無償で受ける権利を持つ。)
(2)の方は、私が子どものときから、小学校、中学校は無償である。
 「憲法改正」で問題になったのは、いわゆる「高等教育」である。貧困のために進学できない。それが問題になり「無償化」を安倍は提案したはずである。
 それだけなら、「3項」をつけくわえるというよりも「2項」の「義務教育」を「義務教育を含め、あらゆる教育」と書き換えるだけで十分である。ところが、そうしていない。何をつけくわえているか、どう書いているかに注意しないといけない。

 26条を含め、現行憲法の「第3章」には「国民の権利及び義務」というタイトルがついている。「国民」が「主役」である。すでにみたように、現行憲法の26条は「国民は」と書き出されていた。「国」は、隠されていて、補って読む必要がある。
 ところが自民党が追加した部分は「国は」と、「国」が「主語」として躍り出てきている。ここがいちばんの問題。「国民の権利と義務」なのに、「国」が「主張」している。「教育とは何か」について語っている。「国」が「教育」を押しつけている。
 どういう教育か。
(1)国民一人一人の人格の完成を目指し
(2)(国民の)幸福の追求に欠くことのできないものであり、
(3)かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担う、
 である。
 「人格の完成」というのは抽象的でわからない。「人格」は基本的に「個人のもの」であって、国にとやかくいわれるものではない。「人格」に「完成」があるかどうか、わからない。また目指す「人格」は、ひとりひとり違っているはずである。「個性/多様性」が認識されているかどうか、自民党の案では、あやしい。
 それは(2)と(3)が「かつ」ということばで連結されていることからもうかがえる。「国民の幸福(ひとりひとりの幸福)」と「国の未来」は同じか。同じこともあるかもしれないが、違うこともあるかもしれない。違っていたとき、「主語」の「国」は、国民に対してどう振る舞うのか。
 たとえば、「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」「民主主義は安倍政権を倒さないかぎり死んでしまう」という「教育」をどこかの学校がするとき、それは「国の未来」を構想したものとして、教育をつづけることが保障されるのか。「安倍独裁に対して批判を展開できる人間の完成を目指す」という教育は、国によって保障されるのか。
 おそらく、そうではない。
(1)「安倍政権を批判しない人間/権力を批判しない人間を育てる」ことを目指し、
(2)権力を批判しないことが、幸福につながり(皆が権力に奉仕することで、対立がなくなり)
(3)それが「独裁者」の指導の下に統一された国の未来になる
 ということを目指しているのだ。

 つづけて読んでいく。
(4)各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、
(5)教育環境の整備に努めなければならない。
 (4)は、「教育の無償化」について語っているように見える。しかし、その文末は「含め」という形で、次の(5)につながっている。「切り離せない」ものとして書かれている。そうであるなら、これは「教育環境の整備に努める」ということが「主眼」であって、その環境のひとつとして「経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保する(教育の無償化)」があると読むことができる。いや、読まなければならない。
 繰り返そう。学校が「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」ということをテーマに教育をするとすれば(研究をするとすれば)、そういう「教育の自由」は保障されるのか。きっと、保障されない。
 自民党(安倍)には、「理想の人間像」があり、そういう人間を育てるために「教育環境を整備する」ということが目的なのである。「理想の人間像」を「人格の形成」などと呼んでごまかしている。
 安倍の思い描いている「理想の人間像」とはどういうものか。安倍は防衛大学の卒業式に、「片腕になれ」と語っている。それが安倍の「理想の人間像」である。安倍のかわりに侵略戦争に出かけ、そこで「精霊」になる人間を「理想の人間像」と呼んでいる。
 軍人でなければ、たとえば「佐川」である。安倍を守るために、「文書は破棄して、ありません」と言い続け、「改竄」が問題になると、「誰が指示したのか」こたえることは訴追のそれがあるから答えられないといいながら、「安倍の指示はなかった」とだけ明言する。二枚舌をつかい、ただひたすら権力に奉仕する。
 学校教育というのは、おうおうにして「先生が求める答え」のみを「正解」とする。そういう採点システム(評価システム)になっている。そのシステムを駆け上った佐川は、いま「安倍先生」の求める答えのみを「回答」として提出している。「安倍先生」に百点をもらうためである。
 これが安倍の言う「教育環境」なのだ。
 森友学園に安倍がなぜ肩入れしたか。「教育勅語」を園児に暗唱させていたからだ。洗脳教育をしていたからだ。「教育勅語」につながる「超保守」の思想は、2012年の「自民党改憲案」に明確に出ている。
 今回の「改憲案」はその「先取り」である。「教育の無償化」を口実にして、教育全体を支配しようとしている。
 これは、もうひとつの「学園」問題、加計学園問題で話題になった、前川前文科省次官の「授業」について踏み込んで質問している文科省(介入を迫った国会議員)の問題からも明らかである。
 自立した人間、批判力をもった人間を育てない、ひたすら権力の言うことに従う人間を育てるために、学校教育が利用されようとしている。その支配が進められている。

 「教育」については「無償化」のほかにも、「改憲」が提案されている。「第7章 財政」の89条である。「金の支出」に関して、「教育」ということばが出てくる部分を改正しようとしている。
 現行憲法は、

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 この「公の支配に属しない」を「公の監督が及ばない」と書き変え、こうしている。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 「公の支配に属しない」とは、それにつづく「教育(事業)」と結びつけて読むと「私立学校」になるだろうか。これを「監督が及ばない」と言いなおしたのはどうしてなのか。「監督するぞ」という意思表示である。
 どんな教育をするのか。「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」というような教育はさせないぞ、と言っているのである。教育の自由(学問の自由)を否定している。自民党の「無償化」は「学問の自由」を否定することで成り立っている。
 これは前川授業への介入という形で「先取り実施」されている。


 「参院選合区の解消」問題。
 現行憲法は、

第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 と単純である。
 これを自民党は、こう変更する。(1)(2)は、私が便宜上つけた。

第47条 1項 両議院の議員の選挙について、(1)選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。(2)参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。
2項 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法、その他両議院の議員に関する事項は、法律でこれを定める。

 「2項」は現行憲法を踏襲している。というか、現行憲法の条文は「2項」に押し下げられている。
 「1項」が重要なのだが、条文が長すぎて、意味がわかりにくい。
 (1)は、どういうことか。
 現実の衆院選と参院選にあてはめてみると、わかりやすい。
 衆院選。「一票の格差」を是正するために、「市区町」という「行政区域」がそのまま「一つの選挙区」とはなっていないところがある。福岡市の場合、たとえば「福岡2区」はかつては中央区・南区・城南区の全域となっていたが、南区の一部が5区へ、城南区の一部が3区へ移動した。つまり、「行政区域」が一部で「分断」された。これを「やめる」ということ。
 参院選。鳥取県と島根県、徳島県と高知県では「県単位」の選挙区ではなく、ふたつの県が合わさって一つの選挙区になった。これを「やめる」。
 (2)で、さらに補足して、「都道府県単位」で最低一人以上の議員を選出できるようにしている。
 これは、どういう狙いがあるのだろうか。
 「一票の格差」が少しだけ改善されたのだが、それをもとに戻してしまうことになる。国民の「法の下の平等」がないがしろにされる。国民が訴訟を起こし、司法が現行の選挙制度は一票の格差を生み、「違憲」であるという判断を示した。その結果、やっと少し改善されたのに、それをもとに戻してしまう。
 なぜか。
 自民党の議席を確保するためである。参院選の「合区」が端的に示している。それまでは「鳥取県、島根県、徳島県、高知県」でひとりずつ、計四人議員が選ばれたのに、この制度では合計二人になってしまう。二人減になる。
 でも、議員数の確保だけではない。
 それは(1)の市区町の行政区域の「分割」を解消するという部分にあらわれている。なぜ行政区域の「分割」がまずいのか。「行政区域」ごとに国民を支配するという「制度」が揺らぐからだ。言い換えると、「行政区域」ごとに国民を支配する(独裁をおしつけるシステムを強化する)ためなのだ。
 「衆院選福岡2区」を例にとると。たとえば南区にある「法令」が適用されたとする。そのとき、「私は南区の住民だが、選挙区は2区だから南区に適用される法令は関係ない」と主張するということが起きるかもしれない。これでは「統制」がとれない。そういうことを避けるためである。
 
 だから、というか。その「証拠」に、というべきか。
 「合区の解消」を「名目」にしながら、憲法の改正は「47条」だけではなく、さらに別の狙いへ向けて動く。「47条」は「第4章 国会」のなかの条文だが、この改正が「第8章 地方自治」の「92条」にまで波及している。
 なぜなのか。

 現行憲法は、

第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 と短い。これが、こう変わる。

第92条 地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域の地方公共団体とすることを基本とし、その種類並びに組織運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 「基礎的な地方公共団体」というのは「市区町」のこと、「広域の地方公共団体」というのは「都道府県」を指している。「行政区域」と「選挙区域」を合致させるために、「地方公共団体」を定義し直しているのである。
 そして、このとき、その「広域の地方公共団体(都道府県)」を定義するのに「包括する」ということばが挿入されていることを見落としてはならないと私は考える。
 「包括する」は、すぐに「統括する」にかわる。上下関係ができる。
 地方自治では、いま「分権」が進んでいるが、これに逆行することが、これから起きるのだ。「分権」ではなく「権力の統合」が再編成される。安倍の独裁を強めるためである。
 「合区が解消される」「分割がなくなる」というだけでみつめてはいけない。
 司法判断にもとづいて、国会で決めた「合区」「分割」を否定し、権力の都合でもとに戻してしまう。そこに、すでに「独裁」が動いている。憲法で決めたのだから、「一票の格差は違憲だ」と訴訟を起こすことは許さない、という「独裁」が動いている。

 「合区の解消」という「名目」にだまされてはいけない。「名目」の陰で陰謀が動いている。47条改正を前面に出して、92条の改正についてはなるべく触れないようにしている。それこそが「狙い」だからだ。


 自民党の「緊急事態対応」は、非常にわかりにくい。
 ふたつの部分からなっている。「国会に関する4章の末尾に追加」と「内閣の事務を定める73条の次に追加」である。
 現行憲法と「追加条項」をつづけて読んでみる。

(現行憲法)
第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(追加部分)
 64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又(また)は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 これは、何度読んでも「つながり」が悪い。
 64条は「弾劾裁判」に関する条項だ。趣旨は、日本は「三権分立」制度を採用しているが、だからといって「裁判官」の「独断」を許しているわけではない。国会でコントロールできるようにしている。そのことを定めているのが64条である。
 このあとに、「大規模災害」のときには選挙を省略し、衆院、参院両議院の任期を延長できるというのは、どうもおかしい。
 「司法」をコントロールするという条項の後に、国会議員の任期延長を置くのはなぜなのか。その前に書かれている「大地震その他の異常かつ大規模な災害」のなかに「司法」を含んでいるためではないのか。つまり、「司法」が政府(安倍)にとって不都合な判断を下す。これを「異常な大災害」であるとみなし、不都合な判断を下した裁判官を国会で弾劾してしまう、ということが狙われているのでではないのか。
 たとえば、「一票の格差は違憲である」という判断は、安倍が狙ってる「参院選の合区解消」とは真っ向対立する。一票の格差を残したままの選挙は「違憲」であると判断され、その結果、1県に1議席はかならず確保できた自民党の議席がなくなるというのは、自民党にとっては「異常な災害(人災、司法による災害)」である。
 「大地震その他」の「その他」を見落としてはいけない。
 この項目は、「合区解消」(参院選の選挙区は都道府県単位)という項目と連動して読み直さなければいけない。
 もし「任期」に関しての「改正」というのなら、現行憲法の45条、46条の後の方が「論理的」に読むことができる。
 現行憲法は、こうなっている。

第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに、議員の半数を改選する。

 「任期延長」だけが問題なら、「任期」について書いてある条項のあとにつけるべきである。それを避けて、「弾劾裁判」のあとにつづけているのは、「大災害」として想定されているものが、「大地震」などの「自然災害」ではないからだ。
 政府(安倍)の判断に異議を唱えるものは、すべて「災害」と認定し、それを弾圧する。「独裁」がここでも隠されている。
 これを「補強」するのが、

各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 という部分である。「任期」は「特例」として、どこまでも延長できる。
 安倍に異議を唱えるもの、独裁反対を叫ぶ人間がいなくなるまで、安倍の言いなりの自民党議員が国会を支配する。

 73条の方は、どうか。

(現行憲法)
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

(追加部分)
73条の2
 1項 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる。
 2項 内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない。

 ここでも「問題」は「法律」なのだ。
 政府は裁判所が「違憲」と判断しないかぎり、法律にもとづき行政を執行できる。しかし、「違憲」は判断されたときは、その執行ができない。
 参院選の「一票格差」は「違憲」と判断された。だからなんとかして憲法を変えないと「合区」は解消できない。「合区」は国会で法律を制定し実施したものだが、もし「合区解消案」が承認されなくても、「73条の2 その1項」によって強引に「合区」を解消できる。「都道府県ごとに1人の議員が選ばれないのは異常な事態である」と判断すれば、政令を制定できる。「政令」では選挙はできないと言うかもしれないが、それをやってしまうのが安倍である。「合区された都道府県民の生命、身体及び財産を保護するため」と言ってのけるだろう。
 多くの人が指摘しているように「大地震その他の異常かつ大規模な災害」の「その他」が具体的に明示されていないのも非常に問題である。
 安倍退陣を要求し、国会前で大規模なデモが行われたとする。これも「定義」しだいでは「異常かつ大規模な災害」と言うことができる。デモ隊が車道にあふれ、車が通行できない。これは「異常事態(災害)」であると言えるし、「安倍が批判される」ということ事態が「異常な大規模災害」と言うこともできる。安倍にとって「打撃」だからである。あらゆることが「恣意的」に判断され、取り締まられる。
 「2項」は内閣による「政令」の乱発、恣意的な発令に歯止めをかけているように見えるが、そのときの「国会」は自民党によって支配されているから、単なる「追認」にすぎない。
 現行憲法では「政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない」という文言があるが、追加されたその文言がない。同じ「政令」であっても、平常時の「政令」と緊急事態時の「政令」は違うから、「罰則は可能」という「読み方(解釈)」もできる。すでに安倍が、憲法を独断で「解釈」するということが起きている。新しい「政令」にはきっと「罰則」がついていて、国民の自由はなくなる。「独裁」が加速する。

 憲法は権力の暴力を許さないためのものである。
 「改憲案」は権力の暴力についてどんな歯止めをかけているか、という点から読まないといけない。「独裁」を封じるために、どういう文言をつかっているか、そこから読み直さないといけない。
 安倍が主導している「改憲案」には権力に対して制限を加える項目はどこにもない。
 「内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない」は歯止めに見えるが、歯止めとしては働かない。このときの国会は、勝手に任期を延長した国会であり、そこには安倍の独裁に支配された議員しかいないからだ。
 どんなふうに「独裁」を支えるための罠が隠されているか、それを探しながら読まないといけない。




 憲法記念日。
2018年5月3日の朝日新聞朝刊(西部版・14版)の一面に「憲法を考える」が掲載されている。そのなかに、改憲論者の「出発点」が次のように簡単に紹介されている。

自民党の誕生前、安倍首相の祖父、岸信介元首相(故人)は、講演会誌の1954年1月号でこう訴えた。「民族的自信と独立の気魄を取り戻す為には吾々の手に依つて作られた憲法を持たねばならぬ」

安倍はこの「遺志」を引き継いでいる。アメリカによる押し付け憲法ではない「日本らしい」憲法を、というわけである。
この主張には、巧妙に隠されていることがある。
岸は、

民族的自信と独立の気魄を取り戻す

と言っている。その主張から「民族」ということばが省略されている。
ここを見落としてはいけない。
言い換えると、安倍の改憲論は、「民族」を取り除いたものであるかどうか、あらゆる民族に開かれたものであるかどうかを問い直さなければならない。
 日本に住むあらゆる民族(当然、韓国・北朝鮮人、中国人、他のアジア諸国の人々)でありながら「日本国籍」を持っている人を意識しているかどうか、という点から問い直さなければならない。
 民族がなんであろうが、日本に住み、日本国籍を取得し、暮らしている人を含めて、「日本国民」の憲法を目指しているか。
 社会にあふれる「民族ヘイト」を見る限り、(安倍を支持している右翼の言動を見る限り)、そこには「他民族」への配慮は見られない。
 これは大問題である。
 日本の人口(日本民族の人口)はどんどん減っている。労働力の多くはすでに「外国人」に頼っている。
 これからの日本は、外国人(移民)に頼らないことには成り立たない。
 フランスは人口減を移民を受け入れることで乗り切った。
 同じ政策なしでは、日本は立ち行かない。
 外国人を「研修生」と呼んで安価に労働させるという手法では、日本は確実に滅ぶ。

 ここから、自民党の「改憲案」を見直すことも必要である。
 安倍が目指しているのは、単純に「国民のために頑張っている自衛隊を違憲と呼ぶのはかわいそう」というだけの視点からみてはいけない。
 安倍が狙っているのはナチスと同じ「民族差別」と「民族差別による独裁」そのものである。


 自民党の改憲案でいちばん注目をあつめているのが「憲法9条」と「自衛隊」の問題。安倍は「自衛隊を憲法に書き加える」と主張している。そのときの「根拠」は、「災害救助にがんばっている自衛隊が、違憲であるといわれるのはかわいそう。自衛隊の子どもたちがかわいそう」というものである。
 このことは、よくよく考えてみる必要がある。
 もし、自衛隊が憲法に書き加えられたとしたら、その後「自衛隊は違憲である」という意見はなくなるのか。
 きっとなくならない。
 安倍がむりやり憲法に書き加えたものである。この改憲は許せないという意見が出るはずである。
 安倍が、現在の憲法がアメリカ(連合軍)の押し付けである、と主張するのと同じように、安倍によって押しつけられた改憲である、という主張が起きるはずである。
 そのとき、安倍はどうするか。
 「憲法に自衛隊が書かれているのに、違憲であるという主張をすることは許されない」と言うに違いない。
 憲法が、違憲弾圧に使われるのである。

 憲法は、思想、表現の自由を保障している。
 しかし、「自衛隊は違憲である。憲法改正は安倍が強引に仕組んだ犯罪である」というような主張は、きっと弾圧される。
 弾圧に利用するための、憲法改正である。
 安倍が自衛隊の最高指揮者として、あらゆる機会に自衛隊を出動させる。選挙の監視にも動員されるだろう。選挙妨害がおきては秩序が保てない、というように理由はいくらでもつくりあげることができる。
 選挙公約に「自衛隊を憲法から外す、9条をもとのかたちにもどす」というようなことをかかげれば、即座に「憲法違反の主張だ。犯罪者だ」とレッテルがはられるだろう。

 ほんとうに危険なのは、自衛隊を憲法に書き加えることではなく、改憲後の憲法は絶対である。それに反対することは許されない、という主張が大手を揮うことである。
 思想、信条の自由、言論の自由は、改憲と同時に加速する。
 独裁、全体主義が加速する。それを軍隊(自衛隊)が監視する。
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ぱくきょんみ「ひかり」、季村敏夫「外出」

2018-05-20 09:08:18 | 詩(雑誌・同人誌)
ぱくきょんみ「ひかり」、季村敏夫「外出」(「河口から」4、2018年05月15日発行)

 ぱくきょんみ「ひかり」には、「わたし」と「あなた」が登場する。その関係はよくわからない。けれども、次の部分は非常に「肉体」に迫ってくる。

打楽器の皮はひとの皮膚よりも厚く
ひとの たなごころにふれてから 共鳴する
どぅん どぅん どぅんと 鼓動して
うなずいて 皮の内部は 震え伝える

 この「打楽器」は素手で打つ打楽器なのだろう。でも、ぱくは「打つ/叩く」とは書かずに「ふれる」という動詞をつかっている。叩いているのだが、それは「触れる」なのだ。そして、その「触れる」は「ひとの皮膚」に触れたときのことを思い出させる。
 この「思い出す」を「共鳴する」という動詞で言いなおす。
 「共鳴」の「共」のなかに「あなた」と「わたし」がいる。二人がいてはじめて「共」が成り立つ。響きあう。この「共鳴」をさらに「鼓動する」と言いなおしている。それは「太鼓(打楽器)」の「皮」の震え、動きというよりも、私には心臓の「鼓動」のように感じられる。「内部」ということばが「心臓の鼓動」を感じさせる。「たなごころ」の「こころ」も心臓へとつながる。
 「打楽器」の「内部」にある「心臓」が、「打楽器」の「外部(皮)」に触れる「たなごころ」に合わせるように「鼓動を打つ」。手が太鼓の皮を叩くから音が出るのではなく、太鼓の内部の「心臓」が「鼓動して」、それが手のリズムを誘い出すとも読める。
 「共鳴する」ときに、「うなずく」というのもいいなあ。ことばはいらない。「触れる」だけですべてがわかり、わかったという合図として「うなずく」。無言である。無言は「心臓の鼓動」をはっきりつたえる。ことばにすると、ことばのなかに「鼓動」はかき消されてしまうかもしれない。無言でうなずくからこそ、鼓動が聞こえる。
 「相聞」である。
 私は「風の丘を越えて」のラストシーンを思い出してしまう。パンソリの歌い手である盲目の姉、太鼓の叩き手である弟。太鼓の音に合わせて、姉が歌う。弟は身分を明かしていないのだが、姉には弟だとわかる。太鼓の「音」が、姉の「心臓」の「鼓動」と重なり、それが弟の「鼓動」と「共鳴する」。
 「わたし」と「あなた」は何らかの事情があって、別れてしまった。しかし、いま、再び出会うことで、あの別れを思い出し、別れる前の「いっしょ」にいたことを思い出し、「鼓動」が重なり合う。

響きは ひとであったものたちを 巡るのか
そして ひとであるものたちを 鼓舞して
消えるのか

 わからないけれど、いま、「共鳴している」。「きょうめいする」ことが「ひとである」ということなのだ。その確かさが美しい。「共鳴」は、また次のように言いなおされる。

わたしと あなたは
ひかりのありかで かならず 会うでしょう
ことばがなくても 語り得ることでしょう

 「ことば」は必要がない。「鼓動」がすべてを語る。「鼓動」とは「生きている」ことである。生きて、再び出会うならば、それがすべてなのだ。「ひかりのありかで かならず 会うでしょう」とぱくは書いているが、そのとき「わたし」と「あなた」は、むしろ「ひかり」を生み出すのだと思う。「ひかり」になるのだと思う。



 季村敏夫「外出」も、やはりわからない。けれど、

息をひきとる数分前
出ていって
声が絞り出された

 「絞り出された」という動詞の形に、ぐいと胸をつかまれる。直前の「出ていって」は「出て行く」。人間が、出て行く。だが、声は「出て行かない」。「出て行きたくない」。それが強制的に「出される」のである。これは、声を出すまいとこらえてもこらえても、声が出てしまうということを、声を「主語」にして言いなおしているのかもしれない。「肉体」の内部に激しい拮抗があり、その拮抗がことばを短くし、脈絡がわかりにくくなっている。しかし、詩は「脈絡」ではなく、むしろリズムと音の響きだから、わからないけれども感動してしまう。
 この慟哭のあとで、ひとは生まれ変わる。

たちきられ
拒絶され初めて
これまでと違ったさえずり
違うそよぎ
だれなのか
別人になったひとが誘う
あかるい外に連れ出された






*

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いつも鳥が飛んでいる (五柳叢書)
ぱく きょんみ
五柳書院
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夏目美知子「鳥でもシンガーでもなく」

2018-05-19 10:33:36 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「鳥でもシンガーでもなく」(「乾河」81、2018年02月01日発行)

 夏目美知子「鳥でもシンガーでもなく」の次の部分。

灰色の空を低く、鳥が飛ぶ。真下から見ると、羽は美し
い一文字だ。鳥も鳥の訳があって飛ぶのだろう。大きな
ものに動かされているが、そのことに気づかないまま。
あの鳥はどこで死ぬんだろう。

 「一文字だ」という断定にこころが動いた。「一文字に見える」ということだが、私は鳥は羽を「一文字にして」飛ぶと読んだ。そこには鳥の「意思」がある。「思い」がある。この「意思/思い」を夏目は「訳」と呼んでいる。「訳」は「理由」ということだろうけれど、「訳す」という動詞につながる。自分なりに解釈する、そして自分のことば(あるいは別なことば)に言いなおすという意味にもつかわれることがある。ここでは、夏目は「正確に」翻訳しているわけではないが、何かしら、「鳥のことば」を感じ取って、それを夏目のことばとして言いなおそうとしている動きも隠れている。それが、鳥は「大きなものに動かされているが、そのことに気づかないまま」飛んでいるということになる。
 このとき「鳥の羽」も「一文字」だが、「鳥の思い(こころ)」と「夏目のこころ」もまた「一文字」につながっていないだろうか。
 私は、あ、いま見ているのは「鳥の羽」なのか、「鳥の羽を見ている夏目」なのか、どっちなのだろうと思い、どちらでもなくそれが「ひとつ」になったものを見ていると感じる。
 この「ひとつになる」、あるいは「一文字」は、次の部分で別のことばに変わる。

台所。午後の大半をここで過ごす。秋になると、西へ急
ぐ太陽がその途中、柔らかい光を惜しみなく降り注いで
くる。新聞を読み、アイロンをかけ、手紙を書き、夕方、
食事の支度に立つ。決めておいたメインの下拵えをしな
がら、他の副菜やスープの中身を考える。焼いたり揚げ
たり、出来上がり間近に物足りないとなると、一品足す。
こんな実際が、私を繋ぎとめる。薄い影になってどこか
に流れ出さないように。

 「繋ぎとめる」。鳥の羽が「一文字」になるとき、鳥が繋ぎとめるものはなんだろうか。遠いところにある「真実」だろうか。それとも鳥自身の「肉体」のなかにある「真実」だろうか。

あの鳥はどこで死ぬんだろう。

 「死ぬ」という動詞がつかわれているが、これは逆に、いま飛んでいること、「生きている」ことを浮かび上がらせる。だからこそ、それは、

薄い影になってどこかに流れ出さないように。

 と言いなおされるのだ。



*

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閣議決定?

2018-05-18 19:44:29 | 自民党憲法改正草案を読む
閣議決定?
             自民党憲法改正草案を読む/番外211(情報の読み方)

毎日新聞(デジタル版)(2018年5月18日 11時33分)に、次の記事が掲載されている。

 政府「セクハラ罪」存在せず 答弁書を閣議決定
 政府は18日、「現行法令において『セクハラ罪』という罪は存在しない」との答弁書を閣議決定した。財務省の福田淳一前事務次官のセクハラ問題を巡り、麻生太郎副総理兼財務相が「『セクハラ罪』という罪はない」と繰り返し発言したことに批判が相次いでおり、逢坂誠二氏(立憲民主党)が質問主意書で見解をただした。
 答弁書は、セクハラの定義について、職場や職場外での「他の者を不快にさせる性的な言動」と人事院規則が定めているとし、「これらの行為をセクハラとして処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」とした。
 一方、逢坂氏が「セクハラが強制わいせつなどの犯罪行為に該当することがあるのでは」と問うたことに対し、答弁書は「その場合に成立するのは強制わいせつなどの罪であり、『セクハラ罪』ではない」とした。【野口武則】


はずかしい。

セクハラの被害を受けた人をどう救済するか。
それを考えるのが国家の仕事。
「セクハラ罪」がないのなら、「セクハラ罪」をつくる。
それが国会議員の仕事。

「いじめ罪」とか「女性差別罪」「派遣社員差別罪」もないだろう。
ないから、そうしてもいいということにはならない。

小学生の詭弁にも劣る。

毎日新聞(西部版)は夕刊の一面で書いていたが、他紙は見当たらなかった。
「ばかばかしい」話と切り捨てるのではなく、「ばかばかしさ」のなかに、とんでもない罪が隠されていることをマスコミは指摘しないといけない。

安倍内閣は、内閣をあげて、セクハラ被害者を二重に傷つけている。
国会の仕事を放棄している。
法律を制定するのは、国会であって、内閣ではない、と開き直るかもしれないが。
この問題を追及できないマスコミは、完全に死んでいる。



 一連の「セクハラ報道」で問題なのは、麻生発言への対応(批判)の弱さである。麻生は「セクハラ罪はない」という主張のほかに、「はめられたという意見もある」と言っている。
 女性がセクハラ被害(さらに悪質な、強姦などの性的被害)を受けた場合、しばしば「女性の方も悪い(性的欲望を誘うような服装をしていた、とか)」という批判が浴びせられる。
 女性にそうした批判を浴びせるのなら、「はめられた男性の方も悪い」という批判が起きてもいいはずである。たとえ性的な誘いを受けても、それを拒めばすむだけである。男性が性的な誘いにのる場合は「はめられた」、女性が性的な誘いにのる場合は「女性の方が悪い」というのは、「男は悪くない、悪いのはいつでも女である」という男尊女卑の見方である。

 安倍は問題が起きるたびに、「私は指示していない」というが、こういうときこそ「指示力(指導力)」を発揮しないといけない。
 女性がセクハラ被害で苦しんでいる。被害者を救済するために、すぐにセクハラ被害者を救済するための法律、セクハラ行為をした人間を罰する法律をつくりべきである、と主張し、法制定へむけて指導力を発揮しないといけない。
 こういうことを「忖度」に任せていてはいけない。

 それとも、安倍は政権維持のために麻生に頼りきっている。ここで麻生批判につながる動きをすれば安倍が困る。だからこの問題については「無言」を貫こうという「忖度」が働くことを期待しているのか。

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緊急お知らせ

2018-05-18 11:55:39 | 自民党憲法改正草案を読む
緊急お知らせ「不思議なクニの憲法2018」と意見交換会

松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」と、中央区9条の会「terra café kenpou」を主催している後藤富和弁護士を囲んで意見交換会を開きます。

日時 2018年5月20日(日曜日)13時(上映時間1時間51分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室
料金 1000円(当日券なし、定員70人)
主催 「不思議なクニの憲法2018」を見る会
(意見交換会は、上映後30分-1時間を予定しています)

2017年5月の安倍首相の「改憲発言」からやがて1年になります。
自民党の「改憲案」も発表になりました。
皆様と一緒に、憲法について考え、語り合う機会になればと願っています。

中央区9条の会「terra café kenpou」の詳細は下記のリンクをクリックしてください。
毎週火曜日19時-21時、福岡市中央区天神の高円寺門徒会館で開催されています。
http://ohashilo.jp/lawyer/goto/active/terra-cafe-kenpou/
https://www.facebook.com/tyuou9/

映画「不思議なクニの憲法」の公式サイトは
http://fushigina.jp/
です。

問い合わせ、申し込みは谷内(やち)
yachisyuso@gmail.com
090・4776・1279




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崔勝鎬『氷の自叙伝』

2018-05-18 11:53:58 | 詩集
崔勝鎬『氷の自叙伝』(韓成禮編訳)(韓国現代詩人シリーズ②)(思潮社、2013年07月01日出版)

 崔勝鎬『氷の自叙伝』には怒りと愉悦が同居している。
 「午後の土佐衛門」という詩。韓国にも「土佐衛門」という言い方があるのかどうか、私は知らない。「語源」を考えると、韓国では、こうは言わないだろうと思う。日本では、もう、こういう表現は見かけなくなった。溺死し、膨れ上がった死体。

曇った

の中で何日か
ネクタイをしたまま
深い眠りに落ちていった模様だ
ワイシャツに泥水が入った

 「曇った」と「入った」という動詞が印象に残る。「透明ではない」を「曇った」と言う。「濁った」に比べると、濁りながらも内部が見える、「半透明」に近い水の様子を「曇る」と呼んでいる。この動詞のなかには、「中が見える(窺い知れる)」という動きが隠れている。「隠す」のだけれど、完全に隠すわけではなく、なんとなく様子が窺い知れる。
 これが「入る」という動詞と微妙に交錯する。「入る」は「中に入る」である。
 死体は泥水(どんよりと曇った水)の中にいた。その「泥水」の「泥」がワイシャツの「中」に入る。「泥」がワイシャツに吸収された分だけ「泥水」は透明に近づく。ワイシャツが「泥」を吸い込んだために、死体が見えるようになった、という具合にも読める。 「何日か」ということばが、そういう「時間」の変化をリアルにする。このときの「泥水」の非情(人間の情けなど気にしない)な動きが、物理的で、透明だ。それが人間の情をいっそう揺さぶる。
 ここには「怒り」が隠れている。自然(物理)への、「抵抗」のようなものだ。非情に対して動く「情」がある。

老いたタニシの殻のような目、
締まりなく開いた口が
あの世の微笑みを流して
革ベルトは太った腹部を力いっぱい締めている
勃起は終わった
勃起による彷徨、焦燥、息切れ、そして
空しさも終わりになった

 ここでは「流す」という動詞がおもしろい。「流す」といっても死体が自ら「流す」わけではない。それは「流れてくる」のだ。「あの世」から流れてくる。「あの世」で微笑んでいる。その微笑みが「流れてくる」。それが表面に浮かんでいる。
 この「流す/流れる」は「入る」という動きとは逆方向である。泥水の泥はワイシャツ(男の所有物)に侵入した。微笑みは、男の内部(あるいは、内部を超えた「あの世」)から「流れ出た」。周囲の水が「流す/流れる」を誘っているのだが、そこにある水はむしろ「流れず」、停滞している。そのことも微笑みが「流れ/出る」を強くする。「流れ」は水の中に存在するのではなく、死んだ男の中に存在する。男によって「動詞」となっている。
 この男からあふれ出すもの、その力が、「勃起」を呼び起こす。「力いっぱい」は勃起を修飾するわけではないが、「革ベルト」を通り越して勃起をあからさまにする。あからさまにしながら、勃起自体は存在しない。終わった。そして、その終わりが、逆に性の愉悦を思い起こさせる。「彷徨、焦燥、息切れ」「空しさ」が激しく動き回る。動詞ではなく、名詞を連ねることで、運動を加速させる。飛躍させる。凝縮させる。名詞と動詞の「つかいわけ」がとてもいい。
 男の愉悦(人間の愉悦)は、たぶん、だれにでも経験がある。だから、詩は、それを名詞で素早く書いたあと、こう転換する。

鼻面についたタニシの子が見える
両腕は垂れている
思いがけなくタダでたくさんの食べ物に出会ったように
ヒトデ、タガメ、ゲンゴロウ、ミズスマシたちが
午後の土佐衛門に寄り集まった
彼らは足を動かす
彼らは小さな口でかみちぎろうと努力する
何時になったのだろうか
タニシの子が
鼻の穴の中に入っていく

 自然を生きる生き物たちの祝祭が繰り広げられる。「勃起(セックス)」は描かれていないが、いのちの生々しい動きが、非情であり、それが美しい。人間の死を無視して、どこまでも豊かに広がっていく。「寄り集まる」ことによって、祝祭が拡大する(広がる。)。そういう矛盾を含んだ動きが一気につかみとられている。
 その最後。
 ここに「入る」という動詞が再びあらわれる。動詞が循環する。循環といっても、ただおなじところを回るのではない。生々しく、強くなっている。
 (ヒトデ、というのは何だろうか。私は海の生き物と思っているので、違和感がある。訳語の間違いか。)



 「ヒトデ」もそうだが(「土佐衛門」という表現にも疑問が残る)、ときどき「訳」がどうにもわからないときがある。
 「とぼけ」の後半。

昨日は目の前で大便をする猫が
私を正面から眺めながら最後まで大便をするのを見て
昨日は猫まで私を馬鹿者扱いするのかと思った
偉大なる恥ずかしさは消えた、図々しさが
ビニールと痰と唾といっしょに随所で光っている

しかし荘厳な宇宙を成してからも
創造主は創造の恥ずかしさのため隠れているが
その方まで図々しくなれば
全宇宙が痰と唾の固まりになる

 「昨日は猫まで私を馬鹿者扱いするのかと思った」の「するのかと思った」だけがゴシックになっている。理由がわからない。「昨日は」「昨日は」と繰り返されているのは、ここでは効果的ではないように思う。「昨日は」「思った」が、いまは思っていないということなのか。
 最終連の「その方」というのもつかみにくい。「偉大なる恥ずかしさ」を「創造の恥ずかしさ」と言いなおしているとすれば、「その方(かた)」は「創造主」を指していることになる。「方(かた)」に敬意を込めているのか。敬意をこめながら、「全宇宙が痰と唾の固まりになる」という世界を思い描くのか。
 もっと別の「訳語」がありそうな気がする。


*

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アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

2018-05-17 08:57:39 | 映画
アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

監督 アクタン・アリム・クバト 出演 アクタン・アリム・クバト

 私は田舎に育った。空と山と田んぼがあるだけである。馬は、私の暮らしにはなかった。馬を飼っていて、馬車で荷物を運ぶ仕事をする人が近くにひとりいたが、私の日常ではなかった。だから、この映画に描かれいる「神話」が直接的に「肉体」に迫ってくるわけではないが、空と山と草原しかないという自然はぐいと迫ってくる。ふいに、こういうところで「生きたい」という欲望が動く。最初に「世界」だと認識したものを突きつけられた気持ちになる。「肉体」が無防備に、裸になる。
 どの「土地」にも「神話」がある。それは語られることもあれば、語られないこともある。私の田舎では語られなかった。だから、それは自分の「肉体」をさらけだして、「世界」とひとつになって「感じる」しかないものなのだが、私は木に「神話」を感じた。どの木もただ、そこに生えている。大きい木もあれば小さい木もある。これから育つ木である。「木はどこでも育つ(大きくなる)」というのが私の「肉体」が感じ取った「神話」である。木になりたいという「気持ち」が私の「肉体」のなかにある。そういうこともあって、最近はただ空があり、山があり、平地があるという風景に非常に強くひかれる。

 映画とは関係がないこと書いている気がするが、もう少し。
 そういうところで育ったので、私は「ことば」というものを幼いときは意識しなかった。小学校に入る前の日に、父親に「名前くらい書けないといけない」というので、名前だけ「ひらがな」をならった。それは、私にとっては、たいへんな衝撃だった。だから、いまでもこのことを覚えてい。それから学校で、「教科書(本)」をもらい、「ことば」というものがあることに驚いた。それまで私は「ことば」というものを知らなかった。「声」は聞いていたが「ことば」とは感じなかった。「声」が何かを伝えるのであって、「ことば」で世界ができているとは思っていなかった。(こういうことは、もちろん、「いま」振り返って思うことであって、小学校に入学したときは、そんなことは思わなかった。「文字(ことば)」が読めるようになると、知らないものが目の前にあらわれてきた。それまでは知らないものなんかなかった。)

 で、ここから、私の映画の感想ははじまるのだが。
 主人公には子どもがいる。妻がことばを話せないために、子どもの「ことば」がなかなか発達しない。父親の話をとても楽しそうに聞くが、子どもは話さない。もしかしたら、子どもも障碍をもっているのではないか。そういう不安もある。
 この「自分のことば(声)」をもたない子どもというのが、なぜか、私には小学校に入る前の自分の「肉体」に見えてくる。私は自分の名前を書く前に、どんなことばを話したかまったく覚えていない。腹が減ったとか、ごはんが食べたいと言った記憶もない。覚えているのは、藁であんだ「火鉢」のようなところに座ったままおしこめられて泣いていたこと。「火鉢」の部分は「おもり」になっているのか、どっちへ転んでも起き上がりこぼしのように起き上がってしまう。泣いて泣いて泣いていた。そのとき「世界」は、やっぱり空と山と田んぼだった。木が見えていた。けれども、それはひとつひとつを「区別」して見るものではなくて、全部が「ひとつ」になっていた。「自我」もないし、「他我」もない。「文字」を覚え、「ことば」を覚えてからも、それは「ことば」というよりも空、山、木、田んぼというものだったかもしれない。木の一本一本に「名前」があるわけではないが、私は、昔はどの木も全部区別ができたと思う。写真を見せられれば、これはどの家の柿の木とか、これはどこそこの山の杉とか、それがわかったと思う。
 この「ことば」をもっているのかどうかわからない子ども(話せるかどうかわからない子ども)に、父親は一生懸命、キルギスの「神話」を語る。「馬は人間の翼だ」という「神話」。人間を自由にするのが馬だ。父親自身は、馬を「放つ」(自由にする)ために、馬泥棒をする。そして、一晩中、馬を乗り回す。馬に乗りながら、手を広げ、空を飛んでいる気分を味わう。「馬は人間の翼だ」ということばを「肉体」で確かめる。こんなふうに人間を解放してくれる馬を食べるなんて、主人公には納得できない。馬とともに生きた時代、遊牧民として自由に暮らしたい。血が、そう騒いでいる。馬を乗り回すときだけ、その血は静かになる。
 「ことば」を話さない子どもにとって、「ことば」は「馬」である。子どもが「ことば」を話せれば、子どもは「自由」を手にすることができる。「自由」とは「世界」に出て行くことである。「世界」と交わることである。

 でも、これは、あとから考えたこと。映画を見ていたときは、そこまでは考えていなかった。

 最期の方、村を追放された主人公が、つかまえられた馬(野生の馬?)を解放する。トラックから馬が飛び下り、野を駆ける。主人公は、「馬泥棒」(ほんとうは盗んではいない、自分ものにするのではなく、馬を「放つ」だけであるのだが)として、追われる。川を逃げるとき、隠れるところがないので、撃たれてしまう。
 このシーンを子どもは目撃しているのではないが、それに重なるようにして「父ちゃん」とはじめて明確な声を出す。「ことば」を話す。
 この瞬間に、私は涙があふれた。突然、それはやってきた。まさか涙が出るようなシーンがあるとは思っていなかったのだが、主人公が自分のいのちを投げ出して子どもに「ことば(声)」を与えた、という「神話」がそのとき完成し、それに驚いたのだ。
 馬が、そのむかし、キルギスの人に「翼」を与えたように、馬が人間の翼になったように、「ことば(声)」は子どもの「翼」になる。子どもに「翼」を与えるために、父は身を投げ出して「神話」を完成させた。「ことば(神話)」は子どもに引き継がれていく。最後の馬に乗って平原を駆ける男は、父が最後に見る「夢」ではなく、子どもの将来の姿を暗示している。
         (2018年05月16日、KBCシネマ1)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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山口賀代子「喜助さん」、伊藤悠子「鹿」

2018-05-16 15:20:49 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「喜助さん」、伊藤悠子「鹿」(「左庭」39、2018年04月15日発行)

 山口賀代子「喜助さん」は祖父が死んだときの「精進落とし」の様子を描いている。酒が出るので、故人を偲びながらも話がはずむ。そのなかでひとり、祖父の幼なじみの「喜助さん」は、飲まず、食わず、位牌の前に座っている。

喜助さんはなにをおもっているのだろう
なにを感じてられるのだろう
喜助さんのまわりだけがしんとして
ちいさくなった喜助さんだけが
そこに居た

 「しんとして」と「小さくなった」の呼応が緊密だ。まるで「小さくなった」分だけ、そこに「沈黙/静寂」の輪郭ができたように見える。「小さくなった」ではなく「小さくなって」、そうすることで「静寂/沈黙」をつくりだしている。
 幼なじみを失って、さびしさで「小さくなった」だけではなく、喜助さんの「肉体」の中の祖父に向かって、その祖父を逃がさないために「肉体」を小さくして、祖父を閉じこめる。そうやって、しっかり「肉体」に閉じこめて、対話する。自分自身で、「肉体」を「小さくしている」のである。
 「肉体」は「思い/感情」そのものである。祖父を核にして「思い/感情」が結晶する。その結晶化にともなって「肉体」が小さくなる。小さくなった「空隙(喜助さんのまわり)」に「静寂/沈黙」が入り込み、それがバリアのように喜助さんをつつんでいる。
 「そこに居た」と「位牌の前に居た」ということだが、そのとき「位牌の前」はもう「位牌の前」ではない。「そこ」としか呼べない、「名づけられていない場」、喜助さんが座り、祖父を思うことで生まれてきた「場」である。
 ことばが動くことで、はじめて明らかになる「場」である。



 伊藤悠子「鹿」は書き出しが美しい。


杉林に霧がおり
霧は杉の間に立ち
霧は白い杉のように立っている

 長谷川等伯の「松林図」を思い起こさせる。霧は「おりてくる」。上から下へおりてくる。しかし、それを「立つ」と言いなおす。杉のように、大地から天へ向かって立ち上がる。ここに不思議な矛盾がある。その瞬間に「白い」ということばが張り込み、矛盾を矛盾ではなく「現実」にする。「白い杉」が生まれる。杉は「白い」ものではないから、「白い」が生まれる、生みなおされる、といってもいい。
 山口の詩の最終行を真似て言えば(借りて言えば)、「そこに、白い、がある」。
 最終連は、こうである。

霧の杉林は大きな鹿の林立に この朝見えて
その間を
私たちは小さくバスで世へと抜ける

 「立つ」はしかが「立つ」と言いなおされる。「白い杉」(白い)と「鹿」が「立つ」という動詞で「ひとつ」に結びつけられ、入れ代わる。「この世」ではない別の世界である。ことばが動くことで生み出した世界である。そこから「この世」へと伊藤は帰ってくる。「この世」とは書かれていないが、私は「この」を補って読んだ。
 「小さく」とは、「白い世」を壊さないように、静かに、ということだろう。
 「小さい」と「静か」は、伊藤の詩でも「ひとつ」になっている。

*

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谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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詩集 海市
クリエーター情報なし
砂子屋書房
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