詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「私の一枚」、青柳俊哉「秋に下る」、徳永孝「お母さん Yさん」

2021-10-31 09:18:15 | 現代詩講座

池田清子「私の一枚」、青柳俊哉「秋に下る」、徳永孝「お母さん Yさん」(2021年10月1 8 日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

私の一枚  池田清子

『青いネクタイをした少女』モヂリアニ
中学生の時、雑誌に付録でついていた
「世界の名画」の中の一枚

こころが ひかれた
今も ひかれる

もし 大きな目に瞳が描かれていたなら
もし 首をかしげてなかったら
もし 長い顔でなかったら
もし なで肩でなかったら
もし 暗い色調でなかったら
私はこの絵を好きになっただろうか

否、命が一つであるように
一枚の絵もまた一つ

複製の仕方によって
グレー系は寂しげ、茶が多いと生気を感じる
原画を観てみたい

もし モディリアーニが私を描いてくれるなら
どんなデフォルメになるのだろう
私の奥の奥にあるものが瞳のない目に現れる
観てみたい

 この作品は、講座で感想を語り合った後、その感想を参考にして推敲されたもの。前半は同じだが、後半はずいぶんとちがった形だった。
 当初の作品に対して「前半は詩の形式になっているが、後半は内容的には豊かだけれど散文形式になってい違和感がある。後半は散文的なところを削除した方がいいのではないか」という感想だった。具体的には、「後半の謙遜した表現は、そこまで書かなくてもいいのでは」という意見。「私の奥の奥にあるものが瞳のない目に現れる、という一行はとても好きなので、それがもっと目立つといいなあ」という意見も出た。
 受講生から出た意見に、私はつけくわえることがない。
 余分な行を削ることで、ことばの動きがまとまったと思う。
 「モヂリアニ」「モディリアーニ」の表記の使い分けは、昔(池田が中学生のころ)は「モヂリアニ」と表記されていたことを反映したもの。これは、池田が説明した。こまかな表記の違いで「時代」をあらわしている。

秋に下る  青柳俊哉

雪のふる朝 微塵子の秋に下る
空の 柔らかいオレンジ色の球体をいくつも過ぎて
ヒグラシのなく水域へ行く 光を惜しむ
黒い藻の林に 沈没した船がよりかかる
より小さなものたちの 結晶して明るむ部屋  
その恋心のような 生の痕跡を指で辿ろうか
船首の十字架の 冷たい葡萄の石を口に含もうか 
わたしたちは眼の心臓の 純真な太陽に見まもられている 
それが 天使の領巾を上下に閃かして泳ぐので
命の水車が金貨のようにめぐるのだ
雪の光を秋にあつめて 石英の米粒のように
この海を 梨の実の純白に変えようか

 受講生からの感想。「ロマンチックで美しい。複数のカテゴリーの違ったことばの組み合わせがある。その組み合わせ方に意外性がある。心象風景を感じさせる」「沈没船はイメージできるが、よくわからない。一行目からわからない」「現実とは違う影の美しさ。生き物の気配がする」。
 私も一行目の「微塵子」でつまずいた。青柳は「微塵子は体が透き通っているその透明感を積み重ねるようにしてイメージを重ねた」ということだった。
 「結晶して明るむ部屋」「眼の心臓」「この海を 梨の実の純白に変えようか」ということばから透明感がつたわる、という声が出た。
 私は最終行も好きだが、「船首の十字架の 冷たい葡萄の石を口に含もうか」という一行がとても好きだ。これは「口に含む」という肉体の動きが鮮明だからである。その直前にも「指で辿る」という動詞がある。私は、そういうことばを頼りにしてことばを読むが、青柳は肉体よりも精神の自由な動きを優先させる。それが最終行に結晶していると感じた。

お母さん Yさん  徳永孝


お父さんは夜勤に出かけ
弟たちが寝いったころ
つくろい物をしながら
お母さんが話しかける
あれやこれや
ぼくにはよく分からない話やぐちも

ぼくはお母さんをひとりじめできたようで
うれしかった


お店が閉まりみんなが帰った後
片付を終えたYさんが
ゆっくりタバコをふかしながら話しかける
ね、そうやろ?
(よく分からんけど)うん
こんな事 他の人には言えやしない
Tちゃんも話しちゃダメよ
うんわかってる

二人だけの時間

 「分からないことを自分に話してくれるお母さんと、Yさん。分からないことを話してくれることがうれしい。その人間関係、その時間を大事にしている。おもしろい発想」「お母さんと過ごした時間をなつかしく思い出しているが、お母さんもうれしかっただろうなあと想像した。それがYさんと重なる」「私には兄がいるが、昔、兄はこんなふうに感じていたんだろうかと兄の気持ちを思った」
 昔と今の対比、分からないことばを中心にした動き。
 私が注目したのは「ひとりじめ」が「二人だけの時間」と言いなおされていること。「ひとり」が「二人」にかわっている。たぶん、これが、人間が成長するというとだと思う。子どものときは自分のことしか考えられない。だから「ひとりじめ」。ところが大人になると相手のこともわかる。わからないけれど「うん」と相槌を打つことも覚える。その瞬間「二人」という意識が強くなる。その変化がしっかりと表現されている。
 そのことばが、たとえば「お母さんもうれしかっただろうなあと想像した」という受講生の感想を引き出している。


 

 

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Estoy loco por espana(番外篇113)Jose Manuel Belmonte Cortes

2021-10-30 23:23:40 | estoy loco por espana

Jose Manuel Belmonte Cortes

NABUCCO

La característica de la obra de José es el superrealismo..

Es decir… "copia viva".

Sus muchas obras son de tamaño natural.

Creo que este trabajo también tiene una cara (cabeza), ojos, nariz y boca de tamaño natural.

Sin embargo, en esta obra, el turbante (?) es más abstracto que el superrealismo.

Y el turbante enfatiza la expresión realista del rostro.

Y el pináculo de ese énfasis son los ojos.

En su rostro azul-negro, sus ojos brillan con una sensación de transparencia, azul-profundo, puro-profundo.

Siento el poder de sus ojos.

No me podré olvidar este ojos nunca.

La abstracción del turbante le da a estes ojos una vida especial.

 

Jose Manuel Belmonte Cortesの作品の特徴は、どこまでも具体的であることだ。「生き写し」のリアルさがある。しかもたいていの作品は等身大(に見える)である。この作品も、たぶん顔(頭部)の大きさ、つまり目鼻や口も等身大だと思う。

 ただし、この作品ではターバン(?)がいつもの超リアリズムというよりは、抽象的である。それが逆に顔のリアルな表現を強調している。そして、その強調の頂点として、目がある。青黒い顔のなかにあって、瞳は透明感をもって輝いている。まなざしの力が感じられる。

この目は、忘れることができない。ターバンを抽象的にしたことが、この作品に特別な命を与えている。

 

 

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ケビン・マクドナルド監督「モーリタニアン 黒塗りの記録」(★★)

2021-10-30 15:48:50 | 映画

ケビン・マクドナルド監督「モーリタニアン 黒塗りの記録」(★★)(2021年10月30日、キノシネマ天神スクリーン1)

監督 ケビン・マクドナルド 出演 ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチ、タハール・ラヒム

 9・11に関係する「実録」映画といえばいいのか。事実をもとに、正確にはモハメドゥ・ウルド・スラヒの著書「グアンタナモ収容所 地獄からの手記」を題材につくられた映画。
 アメリカの「事実に基づく映画」で、私が一番奇妙に感じるのが、登場人物が実在の人物に「容姿」を似せることである。この映画ではジョディ・フォスターが実在の弁護士が白髪なので白髪で登場する。これが、なんとも気持ちが悪い。ジョディ・フォスターのほんとうの髪の色は忘れてしまったが(久しく見ていないので、見に行った)が、この映画の弁護士のように白髪ではないし、年をとった結果だとしても、こういう色の白髪にはならないだろうという冷たい色をしている。ジョディ・フォスターは、もともと「陽気」という感じではないが、あの紙の色では「冷静」というよりも「冷たい」だけが前面に出てしまう。
 それではなあ、と思うのだ。
 実在の弁護士の声は知らないが、ジョディ・フォスターは低音でかすれている。声そのものが感情の抑制を表現している。あの声があれば、「冷静」は十分に表現できる。声だけで演技すればいいじゃないか、と思う。
 ベネディクト・カンバーバッチもわりと低い声で、「冷静」を表現していた。ジョディ・フォスターのようにハスキーではない。深みをもった低めの声である。
 それはそれでいいのだが。
 私はこの二人の声を聞きながら、あ、これは私の予想と違って「法廷ドラマ」ではないぞ、と感じた。9・11に関係しているという嫌疑で、何年も拘留されているモーリタニアの青年の無実を証明する。そのときの弁護士と検事側(実際はベネディクト・カンバーバッチと途中でその仕事を辞める)のやりとりが法廷でおこなわれるという映画だと思っていたが、そうではないぞ、と気がついた。こんなに「似た声」の持ち主が法廷で対立しても、ドラマははじまらないからね。
 実際、法廷ドラマは、ないに等しい。タハール・ラヒムの「独り舞台」と言っていい。法廷に直接出ているのではなく、拘留されているグアンタナモ収容所から「中継」で証言する。タハール・ラヒムの声は、ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチとは違い、明るい。声が「無実」を証明している。
 これはねえ。
 映画ではなく、「声」を聞かせる舞台の方が「人間性」があらわれておもしろくなる作品だと思った。
 「犯人」をなんとしても処刑したい、と思っている「検察側(ブッシュ側)」のなかにも、ひとり「冷静/強靱」な声を持っている人物(ベネディクト・カンバーバッチ)がいて、それが弁護側の「冷静」な声(ジョディ・フォスター)と和音をつくるように接近し、物語をつくっていく。「和音」が完成した瞬間、そこから、いままで存在しなかった「新しい響き」(タハール・ラヒム)が生まれ、広がっていく。タハール・ラヒムの声はもちろん最初から存在するのだが、ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチのつくる和音によってさらに自由になって響く。そういう感じかなあ。
 私が映画を見ながら、そして見終わったあとに夢見たのは。
 でもね。
 この「音楽」は、タハール・ラヒムの証言が象徴的にあらわしているが、実際は「その場」に集まって生まれるのではなく、離れたところにいて、むりやり(?)合体させられるのである。そのためタハール・ラヒムの証言が「意味の美しさ」でおわってしまう。「意味」が前面に出すぎて、「声」が隠れてしまう。
 それがなんとも残念。
 この映画じゃ、ブッシュを「後悔」させることはできないね。
 こんなことを書くのは、この映画が、映画のリズムをもっていないからだな、きっと。肝心の部分が「ことば(声)」で説明される。もちろん「黒塗り」の文書は映像化されているし、許されない拷問のシーンも映像化されている。でも、それは「ことば(セリフ)」を補足するものであって、肉体を刺戟してこない。肉体にとどくのは、「声」だけなのである。これだったら、映画にする必要はない。それこそ「手記」でいい。
 こんなことを気づかせてくれるのは、変な言い方だが、ジョディ・フォスターが実在の弁護士そっくりの髪の色で「変装」していたからだね。「変装」は、ばれる。それが隠れている「声のドラマ」のおもしろさを明るみに出したということかな。あえて、いい点をあげるならば。

 


 

 

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自民党憲法改正草案再読(31)

2021-10-29 11:18:07 |  自民党改憲草案再読

 「司法」の問題は、ふつうに暮らしている限り、私には親身に考えることがむずかしい。自分が裁かれるということを考えて行動しないからである。罪を犯さない限り、裁かれない。簡単に言えば、何か盗んだり誰かを殺したりしなければ、逮捕されたり、裁判にかけられることもない。親から言い聞かされたことを守っていれば、縁のない世界である。他人が裁かれるのを見ても、自分のことではないので、親身に考えることができない。重大犯罪が起きたときは、それなりの関心をもって裁判の行方を見守るが、それにしたって自分が同じことをして同じ判決を受けるかもしれないという感じではない。簡単に言いなおすと、ぴんとこない。
 そんな私に、改正草案の狙いの何がわかるだろうか。わからないままに書いてみる。

(現行憲法)
第六章 司法
第76条
1 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
(改正草案)
第六章 司法
第76条(裁判所と司法権)
1 全て司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、設置することができない。行政機関は、最終的な上訴審として裁判を行うことができない。
3 全て裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 仮名遣いをのぞけば、2項の「終審」が「最終的な上訴審」と書き換えられている。なぜ? ともに最高裁での裁判を意味すると思うが、なぜ「上訴審」に書き換えるのか。「上訴審」でなければ行政機関は裁判をおこなうことができるという制度にするための「伏線」なのだろうか。

(現行憲法)
第77条
1 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
(改正草案)
第77条(最高裁判所の規則制定権)
1 最高裁判所は、裁判に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官、弁護士その他の裁判に関わる者は、最高裁判所の定める規則に従わなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。

 第2項。「検察官」が「検察官、弁護士その他の裁判に関わる者」と拡大されている。最高裁が弁護士に注文をつけることができるようになる。弁護士が「新証拠」を見つけ出してきても、検察官が証拠として認めることを拒否しているから、証拠として採用できない、というようなことが起きるかもしれない。
 現行憲法が「検察官」としか言っていないのは、裁判というものが基本的に検察官が持ち出すものであり、弁護士側が提起することではないからだろう。提訴されたひとを守るのが弁護士である。提訴されない限り、(裁判がはじまらない限り)、弁護士が必要になるということは、ふつうの人間にはありえない(と、思う)。提訴されていないのに弁護士を必要とするひとは、提訴される可能性をもったひとである。そこから考えても、検察官と弁護士を「同列」にしてしまうことには、なにか、重大な問題があると思う。改憲草案は、弁護士の活動を規制したいのだろう。弁護士が独自の活動をすることを規制したいのだろう。
 この問題は、実際に、弁護士がどういう活動をしているのかわからない私には、どんな問題があるのか、具体的にはさっぱりわからない。弁護士が、この問題について、どういう批判をしているのか、それを知りたい。

(現行憲法)
第78条
 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
(改正草案)
第78条(裁判官の身分保障)
 裁判官は、次条第三項に規定する場合及び心身の故障のために職務を執ることができないと裁判により決定された場合を除いては、第六十四条第一項の規定による裁判によらなければ罷免されない。行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない。

 「公の弾劾(裁判)」をわざわざ「第六十四条第一項の規定による裁判」と書き直しているのはなぜなのか。「第六十四条第一項」には「公」ということばがない。「非公開」で裁判をすることを狙っているのだろうか。
 後段の、現行憲法の「裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない」を、改正草案では文章の上下を入れ換えて「行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない」としている。
 これは、単なる「表現」の問題ではない。「意味」が同じになるから、それでいい、という問題ではない。改憲草案では、このテーマと主語の混同というか、入れ替えのようなことが起きている。「テーマを見えにくくする文体」が採用されている。「これを保障する」の「これを」を削除するようなものである。
 第78条のテーマは「裁判官の身分保障」である。現行憲法はそのテーマを意識しているから「裁判官の懲戒処分は」と書き出す。ところが改憲草案は「行政機関は」と書き出す。テーマは二の次になり、「主語」が突然あらわれる。その「主語」は「主役」ではない。第78条の「主役」は裁判官である。「主役」がわきに押しやられ、行政機関が「主役」のようにふるまう。これが、改憲草案の狙いである。
 改憲草案の「主役」は「行政機関(政府)」である。これは、一貫している。第9条でも国民をおしのけて、突然「内閣総理大臣」が「主語」として登場している。政府が国民、国会、司法を支配するための改憲草案であることが、ここからも証明できる。もし「裁判官の身分保障」がテーマであるのならば、わざわざ文章の前後を入れ換える必要はない。同じことを言うのなら改正しなくてすむ。改正しているからには、そこに狙いがあるのだ。
 ことばには、いろいろな「意味」がある。「論理」がある。「運動/活動」としての「論理」もあれば、「主語」としての「論理」もある。一冊の本がある。AからBに所有権が移る。AがBにやった。BがAからもらった。「主語」がかわると動詞がかわるときがある。「本」を主語にすると本がAのものではなくBのものになった、という形にもなる。どの文章を書くかということの「奥」には意識の違いがある。「意味」とは客観的な意味のほかに主観的な意味がある。憲法にも「主観的意味」がある。改憲草案は「憲法は国が国民を支配するためのもの」という「主観的意味」で貫かれている。これは現行憲法の「憲法は国民が国の動きを拘束するためのもの」という「国民主体の意味(国民の主観的意味」と正反対のものである。
 改正草案の狙いは、「国民主権」の否定である。それが「文体」としてあらわれている。「意味」と同時に「文体」に注目しないといけないのだ。「文体」そのものに「重要な意味」があるのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(30)

2021-10-28 11:35:39 |  自民党改憲草案再読

 

(現行憲法)
第69条
 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第69条(内閣の不信任と総辞職)
 内閣は、衆議院が不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 「衆議院で」か「衆議院が」か。「衆議院で」の場合は、「衆議院で議員が」ということになる。「衆議院が」の場合、現行憲法で省略されている「議員」ということばが見えにくくなる。「衆議院」が意志を持っているかのように表現されている。しかし、議会は国民の信託を受けたひとりひとりの議員から構成されている。
 このことは、忘れてはならない。
 というのも、この第69条は「議院内閣制」を定義しているからである。「議院」は「議員」によって構成されているからである。
 そして、それは「解散」の問題につながるからである。
 この条文で重要なのは「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」である。解散すると総選挙がある。議員構成そのものから、選び直すことになる。「不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決する」というのは、議員にとっても重要な問題なのである。単に内閣を批判するだけではなく、自分自身の判断に責任を持つということなのである。そして、ここには内閣が勝手に「国会を解散できる」とはひとことも書いていない。「解散しない」なら「総辞職しなければならない」と書いてある。つまり、そこに居すわっていてはいけない、ということである。内閣不信任の場合、国会を解散し、内閣の判断が正しいか議院(議員院)の判断が正しいか国民の判断にゆだねるか、総辞職をしなければならない、「居すわっていはいけない」と「禁止事項」を申し渡しているのである。
 少し離れることになるのか、より詳しく説明することになるのかわからないが。「又は」ということばのつかい方について、もう一度書いておく。
 この条項を見ればわかるように、「又は」(又)いうことばは、ある定義を反対の方向から見て言いなおすことで「定義漏れ」を防ぐときにつかわれている。「不信任の決議案を可決」はあくまで「不信任の可決」、その逆の場合が「信任の決議案を否決」である。どちらの案が出てくるかわからないが、どちらの場合でも、ということである。
 だからもし、内閣が国会を解散したいと思うなら、野党の不信任案提出→可決という経過を待つのではなく、内閣が信任案を提出し議会がそれを否決するという方法をとらないといけない。信任案提出→可決→解散という例を私は記憶していないが、たしか、大平内閣のとき、不信任案決議に自民党内から造反者が出て不信任案が可決→解散ということになった。解散するかどうかは、一義的に議員が決めるのだ。不信任案の可決は、内閣が正しいか、議員が正しいか、その判断を国民に問え、ということでもある。
 国民の代表である議員が何も言っていない(内閣不信任を可決していない)のに、国会を解散するのは、極端にいえば無実の人間をつかまえて有罪というのに等しい。そのひとは何もしていないのに、自分の主張を通すために、他人を排除する、野党の議席を減らすために選挙をする、ということである。異論の排除は民主主義そのものの否定である。

(現行憲法)
第70条
 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第70条(内閣総理大臣が欠けたとき等の内閣の総辞職等)
1 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。

 「内閣総理大臣が欠けたとき」が具体的に何を指しているのか。第69条と関連づけて読む限り(法律は、たいてい前に書かれた条項を補足する形で展開する)、内閣が不信任されたとき、である。「急死/事故死」で欠けたということを想定してのことではないだろう。
 ここで、「又は」ということばのつかい方を再点検したい。「又は」は前項を逆の方向から言い直し、補足したもの。逆の方向から定義し直し、「漏れ」をふせぐためにつかう。
 「内閣総理大臣が欠ける」とはどういうことか。総選挙が行なわれれば、当然、議員構成もかわる。そのとき、前の国会で選ばれた内閣総理大臣は、無効になる。新しい議員が選んだものではないから、それは選び直さなければならない。「衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない」は新しい議会では新しい内閣総理大臣を選び、その総理大臣の元に新しい内閣を組織しなければならないということを、逆の方向から言いなおしたのである。
 ここから第70条を読み直せば、内閣(総理大臣)が、勝手に国会を解散する(いわゆる第7条解散)が「違憲」であることは明らかだ。
 もう一度書くが、もし総理大臣が国会を解散したいと思うなら、信任案をみずから提出すするか自民党(与党)に提出させ、それを否決する必要がある。そのために第69条で「不信任案」「信任案」の二通りのことを書いている。
 改正草案で「新設」されている第2項は、やはり「内閣総理大臣が欠けたとき」の定義がわからない。「急死/事故死」を指しているのか。大平が選挙中に急死したときは、どうしたのだろうか。私には記憶がない。
 病気療養のときや外国での会議に出席するときは「欠ける」とは言わないだろう。いまだって「副総理」という職がある。それを思うと、この新設条項は、もっと他のことを企んでいる、と思って読んだ方がいいだろう。
 というのも。
 不信任→国会解散、という場合、それでは内閣総理大臣(という職)はどうなるのか、という疑問が生じる。そして、それを解消するために、次の第71条がある。

(現行憲法)
第71条
 前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
(改正草案)
第71条(総辞職後の内閣)
 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う。

 「前二条」とは第69条、第70条のことである。内閣不信任→国会解散(議院内閣制だから、当然のこととして内閣総理大臣も議席を失っている。つまり、基本的には総理大臣である資格に欠ける)の場合、内閣総理大臣が「不在」になってしまう。憲法に書かれていることばに従えば「内閣総理大臣が欠けた」状態である。
 その場合は、「内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う」。本来なら資格がないのだけれど、条件付きで「内閣」としての仕事をまかせるというのである。
 これから見ても、改憲草案の「新設条項」は、何かしら他のことを企んで新設されたものということになる。
 もしかすると、自民党の内部抗争で、与党の判断だけで「総理大臣を欠けた」状態にすることができるということかもしれない。いまの岸田内閣でいえば、岸田を「お飾り総理大臣」にしておいて、他の誰かが実権を握るというようなことに「お墨付き」を与えるためのものかもしれない。

 それにしても。
 いま、総選挙の最中であるが、なぜ野党は、岸田による「解散」をそのまま認めたのか。衆議院議員の任期がきれることは予めわかっている。それなのに衆議院選挙の日程よりも自民党の総裁選の日程を優先させる(自民党の大宣伝を許す)というようなことをしたのか。自民党の総裁選は任期満了にともなう衆院選のあとにしろ、と主張すべきだっただろう。
 多くのジャーナリズムも、そして憲法学者も、なぜ、そのことに異議を唱えなかったのか。不思議でならない。
 2016年の参院選のとき、私は、私だけが日本の誰かが書いた「脚本(自民党が圧勝する/憲法改正、戦争へ向けての準備をする)」を知らずに生きている、けれども他のひとはその「脚本」を知っていて、その「脚本」を見据えて、これからどう行動するか考えている。つまり、安倍のご機嫌とりをして、どうやって安倍に気に入られようかを考えているように見えた。「脚本」がそうだとしたら、その「脚本」をどう変更できるか、というようなことはまったく考えない。ひたすら、安倍に気に入られることだけを考えて行動している。そう見えて、ほんとうにぞっとした。私が憲法についてほんとうに考え出したのは、そのときからである。あのときの恐怖感は、まだつづいている。私は日本がどうなるか知らない。けれど、多くのひとは自民党にすがって生きていくしかない、とあきらめている。生きていくには、自民党のご機嫌とりをして、奴隷として生きていくしかないと思っている。しかも、一番下の奴隷はいや、少しでも上の奴隷がいい、と思って「下」になる人間を探そうとしている。立憲民主の枝野にしてもそうである。自民党があるから、対抗勢力として存在が許されている。対抗勢力としての議席を守ろうとしているだけである。民主主義がどうなってもかまわない。自分が当選すれば、金が稼げるとおもっているとしか思えない。

 

2021年10月28日(木曜日)

自民党憲法改正草案再読(30)

(現行憲法)
第72条
 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
(改正草案)
第72条(内閣総理大臣の職務)
1 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 改正草案の変更は大きく分けてふたつ。
 ひとつは現行憲法の「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し,」と「一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。」を分割し、順序を入れ換えている。
 「議案」を提出することよりも、「行政」を「指揮監督」することが優先されている。これを実際に「先取り実施」しているのが「内閣人事局」である。内閣が行政機関の「人事」を「指揮監督」するという名目で、恣意的に操作している。この結果、公務員は国民のために働くのではなく、内閣のために働くということになった。菅が特徴的だが「国(内閣)の方針に従わないものは異動させる(左遷させる)」ということが起きている。
 国会を軽視し、国会の議論とは関係なく、人事権を行使して支配した公務員を操作し、行政をおこなってしまう。先に「実績」をつくり、議案を審議させない。どんな行政でも、それをおこなうための法律を整備し、そのあとに政策が実行されなければならないのに、そういう手順を無視している。手順を排除しようとしている。
 外交問題も国会に報告し、審議しなければならないのに、それをないがしろにしている。官僚の人事よりも、国会を優先すべきなのに、逆にしている。国会の審議を排除しようとしている。
 こういうことを「独裁」という。
 新設された「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」とは、どういうことか。いまの自衛隊は、決められた行動以外のことをするときは新たな法律が必要である。国会で審議しないといけない。現行憲法では、国会の方が自衛隊よりも「権力」が上にある。この国会の自衛隊を監視するという力を、内閣が奪い取り、それだけではなく、内閣の思いのままに指揮監督し、統括するということだろう。内閣人事局が官僚を思いのままに操るように、内閣総理大臣が「国防軍」を思いのままに動かす。「国防軍」とはいうものの、「軍隊」は自国民の自由を阻害することがある。「国防軍」が守るのは「国家権力」だけ、ということがある。天安門事件は、その代表的なものだろう。自衛隊こそ出動していないが、警官、機動隊が、市民行動を過剰に抑圧するということは頻繁に起きている。そういうことが「国防軍」をつかっておこなわれるのである。
 それが証拠には、新設された条項には、「戦争が起きたとき(外国からの侵略を受けたとき)」のような「ただし書き」がない。いつでも、どんなときでも「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」。それは、前項で国会が軽視されたことを考えるならば、ある議案を可決するために内閣総理大臣が国防軍を指揮して、国会を占領するということもあるのだ。
 実際に、そうしたいのである。
 「軍事独裁」を総理大臣が指揮するのである。

 さらに別の問題も。
 この条項は、改正草案の

第9条の2(国防軍)
1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。

 と重複する。そして、この重複は第9条2の再確認というよりは、第9条2が第72条3の先取りなのだ。こういう重複というか、一種の破綻は、その破綻にこそ改正草案の欲望のすべてが噴出していると見ることができる。
 なんとしても軍隊を指揮し、国民を弾圧し、外国にも侵攻する。そのための「根拠」を憲法に書き込んでおく、というのが改正草案の狙いなのだ。


(現行憲法)
第73条
 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
 一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
 二 外交関係を処理すること。
 三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
 四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
 五 予算を作成して国会に提出すること。
 六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
 七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
(改正草案)
第73条(内閣の職務)
 内閣は、他の一般行政事務のほか、次に掲げる事務を行う。
 一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
 二 外交関係を処理すること。
 三 条約を締結すること。ただし、事前に、やむを得ない場合は事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
 四 法律の定める基準に従い、国の公務員に関する事務をつかさどること。
 五 予算案及び法律案を作成して国会に提出すること。
 六 法律の規定に基づき、政令を制定すること。ただし、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない。
 七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

 「予算を作成して国会に提出すること」が「予算案及び法律案を作成して国会に提出すること」になっている。「法律案」を追加しただけに見えるかもしれない。しかし、「予算(案)」を提出できるのが内閣だけであることを考えると、ここからこういう論理が成り立つ。予算案を提出できるのは内閣だけだから、法律案を作成し提出できるのも内閣だけである。つまり、議員が法律案を提出できなくなる。これは、議員活動を抑圧するものである。「不信任案」と同様、内閣が内閣自体の在り方を批判する(行動を制限する)という法案を内閣が提出するはずがない。
 さらに、「この憲法及び法律の規定を実施するために」は「法律の規定に基づき」と「憲法」ということばが削除されている。憲法に反する政令を制定することができる。いつでも「憲法で禁止されていない」を根拠に政令を制定できることになる。憲法で禁止されていなくても法律で規定されているというかもしれないが、こういう論理は、憲法の方が法律よりも上部の条項だから優先するという「言い逃れ」を誘うだけだろう。

(現行憲法)
第74条
 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
第75条
 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。
(改正草案)
第74条(法律及び政令への署名)
 法律及び政令には、全て主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
第75条(国務大臣の不訴追特権)
 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、公訴を提起されない。ただし、国務大臣でなくなった後に、公訴を提起することを妨げない。

 第75条の変更は奇妙だ。「但し、これがため、訴追の権利は、害されない」というのは、「内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない」けれど、国民は大臣を「訴追する権利」を持っている。実際に訴追されるかどうかはわからないが、それは訴追を禁じているわけではない。しかし、改憲草案では、この国民の権利を「国務大臣でなくなった後」に限定している。
 つまり。
 甘利はいまは大臣ではないが、もし大臣ならば、国民は甘利の訴追を求めることができないということになる。そしてそうであるならば、甘利を大臣にしておくかぎり、甘利は訴追されないことになる。
 どこまでも総理大臣と大臣のための改正なのである。つまり国民のことはいっさい考えない、「独裁」のための改正草案なのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(30)

2021-10-27 10:18:51 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(30)

(現行憲法)
第69条
 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第69条(内閣の不信任と総辞職)
 内閣は、衆議院が不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 「衆議院で」か「衆議院が」か。「衆議院で」の場合は、「衆議院で議員が」ということになる。「衆議院が」の場合、現行憲法で省略されている「議員」ということばが見えにくくなる。「衆議院」が意志を持っているかのように表現されている。しかし、議会は国民の信託を受けたひとりひとりの議員から構成されている。
 このことは、忘れてはならない。
 というのも、この第69条は「議院内閣制」を定義しているからである。「議院」は「議員」によって構成されているからである。
 そして、それは「解散」の問題につながるからである。
 この条文で重要なのは「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」である。解散すると総選挙がある。議員構成そのものから、選び直すことになる。「不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決する」というのは、議員にとっても重要な問題なのである。単に内閣を批判するだけではなく、自分自身の判断に責任を持つということなのである。そして、ここには内閣が勝手に「国会を解散できる」とはひとことも書いていない。「解散しない」なら「総辞職しなければならない」と書いてある。つまり、そこに居すわっていてはいけない、ということである。内閣不信任の場合、国会を解散し、内閣の判断が正しいか議院(議員院)の判断が正しいか国民の判断にゆだねるか、総辞職をしなければならない、「居すわっていはいけない」と「禁止事項」を申し渡しているのである。
 少し離れることになるのか、より詳しく説明することになるのかわからないが。「又は」ということばのつかい方について、もう一度書いておく。
 この条項を見ればわかるように、「又は」(又)いうことばは、ある定義を反対の方向から見て言いなおすことで「定義漏れ」を防ぐときにつかわれている。「不信任の決議案を可決」はあくまで「不信任の可決」、その逆の場合が「信任の決議案を否決」である。どちらの案が出てくるかわからないが、どちらの場合でも、ということである。
 だからもし、内閣が国会を解散したいと思うなら、野党の不信任案提出→可決という経過を待つのではなく、内閣が信任案を提出し議会がそれを否決するという方法をとらないといけない。信任案提出→可決→解散という例を私は記憶していないが、たしか、大平内閣のとき、不信任案決議に自民党内から造反者が出て不信任案が可決→解散ということになった。解散するかどうかは、一義的に議員が決めるのだ。不信任案の可決は、内閣が正しいか、議員が正しいか、その判断を国民に問え、ということでもある。
 国民の代表である議員が何も言っていない(内閣不信任を可決していない)のに、国会を解散するのは、極端にいえば無実の人間をつかまえて有罪というのに等しい。そのひとは何もしていないのに、自分の主張を通すために、他人を排除する、野党の議席を減らすために選挙をする、ということである。異論の排除は民主主義そのものの否定である。

(現行憲法)
第70条
 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第70条(内閣総理大臣が欠けたとき等の内閣の総辞職等)
1 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。

 「内閣総理大臣が欠けたとき」が具体的に何を指しているのか。第69条と関連づけて読む限り(法律は、たいてい前に書かれた条項を補足する形で展開する)、内閣が不信任されたとき、である。「急死/事故死」で欠けたということを想定してのことではないだろう。
 ここで、「又は」ということばのつかい方を再点検したい。「又は」は前項を逆の方向から言い直し、補足したもの。逆の方向から定義し直し、「漏れ」をふせぐためにつかう。
 「内閣総理大臣が欠ける」とはどういうことか。総選挙が行なわれれば、当然、議員構成もかわる。そのとき、前の国会で選ばれた内閣総理大臣は、無効になる。新しい議員が選んだものではないから、それは選び直さなければならない。「衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない」は新しい議会では新しい内閣総理大臣を選び、その総理大臣の元に新しい内閣を組織しなければならないということを、逆の方向から言いなおしたのである。
 ここから第70条を読み直せば、内閣(総理大臣)が、勝手に国会を解散する(いわゆる第7条解散)が「違憲」であることは明らかだ。
 もう一度書くが、もし総理大臣が国会を解散したいと思うなら、信任案をみずから提出すするか自民党(与党)に提出させ、それを否決する必要がある。そのために第69条で「不信任案」「信任案」の二通りのことを書いている。
 改正草案で「新設」されている第2項は、やはり「内閣総理大臣が欠けたとき」の定義がわからない。「急死/事故死」を指しているのか。大平が選挙中に急死したときは、どうしたのだろうか。私には記憶がない。
 病気療養のときや外国での会議に出席するときは「欠ける」とは言わないだろう。いまだって「副総理」という職がある。それを思うと、この新設条項は、もっと他のことを企んでいる、と思って読んだ方がいいだろう。
 というのも。
 不信任→国会解散、という場合、それでは内閣総理大臣(という職)はどうなるのか、という疑問が生じる。そして、それを解消するために、次の第71条がある。

(現行憲法)
第71条
 前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
(改正草案)
第71条(総辞職後の内閣)
 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う。

 「前二条」とは第69条、第70条のことである。内閣不信任→国会解散(議院内閣制だから、当然のこととして内閣総理大臣も議席を失っている。つまり、基本的には総理大臣である資格に欠ける)の場合、内閣総理大臣が「不在」になってしまう。憲法に書かれていることばに従えば「内閣総理大臣が欠けた」状態である。
 その場合は、「内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う」。本来なら資格がないのだけれど、条件付きで「内閣」としての仕事をまかせるというのである。
 これから見ても、改憲草案の「新設条項」は、何かしら他のことを企んで新設されたものということになる。
 もしかすると、自民党の内部抗争で、与党の判断だけで「総理大臣を欠けた」状態にすることができるということかもしれない。いまの岸田内閣でいえば、岸田を「お飾り総理大臣」にしておいて、他の誰かが実権を握るというようなことに「お墨付き」を与えるためのものかもしれない。

 それにしても。
 いま、総選挙の最中であるが、なぜ野党は、岸田による「解散」をそのまま認めたのか。衆議院議員の任期がきれることは予めわかっている。それなのに衆議院選挙の日程よりも自民党の総裁選の日程を優先させる(自民党の大宣伝を許す)というようなことをしたのか。自民党の総裁選は任期満了にともなう衆院選のあとにしろ、と主張すべきだっただろう。
 多くのジャーナリズムも、そして憲法学者も、なぜ、そのことに異議を唱えなかったのか。不思議でならない。
 2016年の参院選のとき、私は、私だけが日本の誰かが書いた「脚本(自民党が圧勝する/憲法改正、戦争へ向けての準備をする)」を知らずに生きている、けれども他のひとはその「脚本」を知っていて、その「脚本」を見据えて、これからどう行動するか考えている。つまり、安倍のご機嫌とりをして、どうやって安倍に気に入られようかを考えているように見えた。「脚本」がそうだとしたら、その「脚本」をどう変更できるか、というようなことはまったく考えない。ひたすら、安倍に気に入られることだけを考えて行動している。そう見えて、ほんとうにぞっとした。私が憲法についてほんとうに考え出したのは、そのときからである。あのときの恐怖感は、まだつづいている。私は日本がどうなるか知らない。けれど、多くのひとは自民党にすがって生きていくしかない、とあきらめている。生きていくには、自民党のご機嫌とりをして、奴隷として生きていくしかないと思っている。しかも、一番下の奴隷はいや、少しでも上の奴隷がいい、と思って「下」になる人間を探そうとしている。立憲民主の枝野にしてもそうである。自民党があるから、対抗勢力として存在が許されている。対抗勢力としての議席を守ろうとしているだけである。民主主義がどうなってもかまわない。自分が当選すれば、金が稼げるとおもっているとしか思えない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇113)Joaquín Lloréns

2021-10-26 12:57:55 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns

Técnica. Hierro. Madera 48x29x27 S. M

¿Dónde están las tres ruedas conectadas y apoyándose entre sí?

Cada anillo crea un espacio y el espacio vacío sostiene los tres anillos en el aire.

Nace un nuevo universo en los tres círculos.

Las fuerzas atractivas y repulsivas antagonizan y dan a los tres anillos una nueva forma.

 

三つの輪はどこでつながり、支えあっているだろうか。

それぞれの輪が空間をつくり、その何もない空間が三つの輪を空中で支えている。

三つの輪のなかに、新しい宇宙が誕生する。

引き合う力、反発する力が拮抗し、三つの輪に新しい形を与える。

 

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ウィリアム・I・エリオット『谷川俊太郎の詩を味わう』

2021-10-26 12:11:08 | 詩集

 

ウィリアム・I・エリオット『谷川俊太郎の詩を味わう』(ナナロク社、2021年9月30日発行)

 谷川俊太郎の詩、英訳、ウィリアム・I・エリオットの批評(英文)を翻訳したもので構成されている。英訳には西原克政、川村和夫が参加している。
 「意味」が明快な詩は翻訳できるかもしれない。しかし、意味があいまいなものはむずかしいと思う。そのむずかしさをどう乗り越えているのか。
 「いるか」。

いるかいるか
いないかいるか
いないいないいるか
いつならいるか
よるならいるか
またきてみるか

 谷川の詩のおもしろさは「いるか」が「イルカ(動物)」と「いるか(存在するか)(動詞)」のあいだで揺れるところである。一行目は「イルカ(動物)いるか(存在するか)」と読むことができると同時に「いるか(存在するか)いるか(存在するか)」と畳みかけて問うているとも読むことができる。最終行に「いるか」が存在しない(いない)というのもおもしろく、さらに「いるか」が「みるか」に変化しているところがおもしろい。
 これを外国語にするはむずかしいだろうなあ、と思う。
 英訳は、こうである。

Are there dolphins? 
Are there no dolphins?
No, there're no dolphins. 
By when will there be dolphins? 
By night-time will there be dolphins? 
Will you come back again and look?

  英訳は、「dolphins」を多用している。三行目を疑問文ではなく肯定文にしている。最終行だけ「dolphins」をつかっていない。そして、最終行を疑問文にしている。
 とても不思議な気がした。
 「いるか」はたしかに「イルカ」を連想させるが、私は「イルカ」は「いるか」という音が呼び寄せる幻であり、谷川は「いるか(在宅するか)」という問いを「遊び」に変えていると読んでいた。
 誰かの家を訪問する。そのとき訪問者(谷川)には連れがいる。ふたりの会話。あえて、意味だけにして書いてみると。「の」を補足して読むと。

「おい、いるのか(在宅しているか)」「いるのか」
「いないのか」「いや、いるかもしれない」
「いないさ、いないのさ(るすなのさ)」「でも、もういっかいきいみよう、いるか」
「いつならいるのかなあ」
「よるならいるのなかな」
「また(よるか、別の日に)きてみるか」

 いまは携帯電話が普及しているから、こういう突然の訪問、在宅か留守かわからない、どこにいるか問い合わせようがないということはほとんどないだろうけれど、昔は、こういうことがあったのだ。
 私は学生時代、東京の池井昌樹を訪ねたことがある。手紙で事前に知らせておいたが、東京駅ではすれ違ったようで、会えなかった。仕方がないので池井の下宿先へ出向き、池井の部屋で寝ながら待っていた、ということがある。そういうことを思い出しながら、読んだ。
 最終行は、ひとりで訪問したのなら、きてみるかというのは「I」の自問、二人できているのなら「we」であり、相談(相手への提案)ということになる。英語の「you」のつかい方がよくわからないが、私の発想では「I」か「we」になるなあ。
 「dolphin 」をつかったとしても単数の方が私の感覚に近いなあ。

 こういうことは、どうでもいいことかもしれない。詩は、意味を共有するためだけのものではないからね。しかし、どうでもいいことだから、とても大事なもののようにも思える。きょう私は「いるか」を「在宅しているか」というだけの「意味」として理解したが、あしたは「イルカ」の存在を問題にするかもしれない。その日、その日の気分次第である。こういう「ゆらぎ」が、きっと詩を生き長らえさせていると思う。
 詩をあいだに挟んでの対話は、さっきこう言ったじゃないか、きのう言っていたことと違うじゃないか、と批判してもはじまらない。どこまで違った読み方をできるか、ということの方が大切。「ひとつの解釈」にしばられたくない。だいたい、詩そのものが「ひとつの解釈」(他人がおしつけてくる解釈)に対して、そういうのはいやだなあ、という気持ちから生まれてくる。私は、ちょっと違うなあ、こう思うなあ、というところから生まれてくる。
 ほら。
 「連句」って、前に提出された句を、違う意味でとらえ直していく遊びだよね。遊びながら、そこに集まったひとが「共有できる感覚/認識」を確かめあう。「共有」しながら、自分の世界を広げていく、自分が自分ではなくなる楽しみを発見することだと思う。自分だけじゃなく、他人のなかにもね。
 これから書くことは「我田引水」かもしれないが。
 ウィリアム・I・エリオットは、この詩の紹介を、こう結んでいる。この詩は、どうやって書かれたのか、思いを馳せながら。

 おそらく論理や常識の息苦しい牢獄から逃れるために、作者が途轍もない表現の極致にたどりついたことに、読者は唖然とさせられる。アルファベット表記の'iruka' (「いるか」)をアナグラム遊びで並べかえると'aruki '(「歩き」)とか 'kurai' (「暗い」)ということばが発見できるのもまた楽しい。

 英訳はしてみたけれど、その英訳に限定していない。ほかに可能性がある。それを試してみませんか、と誘いかけている。私は英語が苦手なのでその誘いに乗ることはできないが、こういう誘いそのものは大好きだ。
 詩はいつでも「誘って」いる。その声が聴こえたら、自分を捨てて、その詩のなかに飛び込んでみる。それがいいのだ、と思う。「自分を捨てる」というのは、自分の思っていることを、そのまま脱ぎ捨てるということ。脱ぎ捨てることで、新しい自分になる。「揚げ足」をとられて丸裸になったとき、自分の姿をそのまま受け入れて、笑えるようになると世界は明るくなるね。
 「おーい、遊びにきたぞ、いるか」「なんだ、おまえか、いまいないぞ」「いないってさ、本人がそう言ってるよ」「しょうがない、帰るか」「あ、君もいるか、おれはいるぞ」
 おのずと三人の関係がわかる。そういうことを明るみに出してくれるのが詩というものかなあ。
 谷川は、帯びにとても美しいことばを書いている。

 「私は一人っ子だったのに、詩の世界では最高のbrother に恵まれました」

 これはウィリアム・I・エリオットに向けたことばだが、私は、いいなあ、私も押しかけbrotherになってしまおう、なんて思うのだ。そして、「なんだ、おまえか、おれはいまいないぞ」という返事が聞けたら、それは最高だね。


 

 

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自民党憲法改正草案再読(29)

2021-10-25 10:08:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(29)

(現行憲法)
第67条
1 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
2 衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
(改正草案)
第67条(内閣総理大臣の指名及び衆議院の優越)
1 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会が指名する。
2 国会は、他の全ての案件に先立って、内閣総理大臣の指名を行わなければならない。
3 衆議院と参議院とが異なった指名をした場合において、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が指名をしないときは、衆議院の指名を国会の指名とする。

 改正草案のポイントは条文から「議決」ということばを削除したところにある。国会が指名する、衆議院の指名が優先するという部分は同じだが「議決」が完全に削除されている。「議決」を経ない「指名」があり得ることになる。
 現行憲法でも、一か所「議決」ということばがない。第1項の後段。「この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ」。しかし、同一項目のなかに書かれているので、これはことばの経済学にしたがった「省略」であり、言いなおせば「この指名『議決』は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ」ということになる。現行憲法のこの後段には「議決」が省略されているという意識があるからこそ、その省略されている「議決」を削除するために、改憲草案は、第2項として別仕立てにし「議決」を削除している。
 第66条の改正処理はずさんだったが、第67条は非常に丁寧に気を配っている。
 ということは。
 つまり、これだけ丁寧に「気配り」をして条文を改正しようとしているということは、この条文を根拠に「議決せずに内閣総理大臣を指名する」を強行しようとしているということになるだろう。
 国会は、いつで「議決」するところである。「議決」の前には審議をするところである。いまも審議ない→議決ということが頻繁に先取り実施されているが、これは改憲草案の「先取り」でもある。最初に「議決」しなければならない内閣総理大臣指名さえ「議決なし」で行なわれるのなら、他の法案はもちろん「議決なし」になるのである。

(現行憲法)
第68条
1 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
(改正草案)
第68条(国務大臣の任免)
1 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。この場合においては、その過半数は、国会議員の中から任命しなければならない。
2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。

 改憲草案では「但し、」が削除され、「この場合においては、」に書き換えられている。「但し、」は「条件付き」であることを明確にするためだろう。「条件付き」の印象を薄めるために「この場合においては、」にしたのだろう。「ただし」ということばは、改憲草案にないかといえばそうではなく、先日読んだ第63条第2項では「内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」という具合つかわれていた。この「ただし、」は現行憲法の「又、」を言いなおしたものである。現行憲法の「又、」は逆の立場からの補足であり、拘束力を強める効果を持っている。しかし改憲草案の「ただし」は「この限りでない」ということばが象徴的だが、意味を「弱める」ためにつかわれる。
 「又、」と「ただし、」を比べると、拘束力が違うのだ。
 その「拘束力」が弱い条件であるにもかかわらず、それをさらに弱めようとしているのが改憲草案なのだといえる。「その場合においては、」の「おいて」の追加は改憲草案では先にも出てきたが、さらに「拘束力」を弱めるための表現なのだろう。
 憲法に規定してある。しかし、その規定にはなるべく拘束されないようにする。憲法は国家権力を拘束するためのものだが、その拘束力を弱める、国家権力が「独裁」を進めることができるようにする、という目的で改正案がつくられているという「証拠」だろう。 「選ぶ」と「任命する」は、どう違うか。これはむずかしいが、現行憲法が「任命する」のあとに、「但し、」という条件をつけるときにことばの重複を避けたのだろう。そして、ここから逆に見ていけば、現行憲法の「但し、」は「又、」とは違った条件付与であることがわかる。「又、」は反対の側面から拘束力を強めるための条件、「但し、」には反対側から拘束力を強化するのではなく、同じ側から「漏れ」を防ぐという形の条件であることがわかる。
 この「漏れ防止」の条件づけを、改憲草案は「場合においては、」とさらに間延びした形で展開する。「おいて」というのは意識を散漫にさせる「間延び」の効果を高めるためのものである、といえるだろう。注意力を散漫にさせる(漠然と読ませる)というのは、何度も指摘している「これは」の省略に通じる。テーマを意識させない。憲法を意識させない、という工夫に満ちた改正なのだ。憲法は、国家権力が国民を拘束をするためのもの、異議を唱えられては困る、読まれては困る、思いのままに国民から自由を奪うためには「あいまい」であることを優先し、国家権力が「解釈」で運用できるようにする、という狙いが込められている。

 

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DOS SOLEDADES

2021-10-24 15:01:26 | 

DOS SOLEDADES

 

¿Qué piensas de la soledad?

Preguntas, mirándome a los ojos

No puedo vivir solo sin soledad

Respondo mientras tocaba tu mano

 

Y nos encontramos y nos separamos

No puedo olvidarlo

¿Tenías algo más que preguntarme?

¿No tenía yo otra respuesta?

 

Por ejemplo, escribes que el amor ilumina tu corazón

Escribo que me esperas bajo mimosa

Por ejemplo, escribes que tu alma está angustiada.

Escribo que el periódico vespertino abandonado fluye río abajo

 

Leo la carta tuya que ya no me llega

No puedo vivir solo sin soledad

Al recordar mis palabras

Se escucha a Bach desde una habitación distante

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自民党憲法改正草案再読(29)

2021-10-24 11:31:10 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(29)

(現行憲法)
第五章 内閣
第65条
 行政権は、内閣に属する。
(改正草案)
第五章 内閣
第65条(内閣と行政権)
 行政権は、この憲法に特別の定めのある場合を除き、内閣に属する。

 私は法律の専門家ではないし、憲法についても特に「研究」したことはないが、改正案のこの条文は読んだ瞬間に違和感を覚える。「特別の定めのある場合を除き」ということばの位置に疑問を感じる。
 たとえば、「国会」に関する第63条の第2項。改正草案でさえ、こういう書き方をしている。

2 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 「ただし、」という形で補足している。それにならえば、

 行政権は、内閣に属する。ただし、この憲法に特別の定めのある場合を除く。

 というのが、ふつうの「法」の書き方だろう。最初の規定を、次の文章で補足する。しかし、改正草案は「補足」ではなく、最初から「条件」として組み込んでいる。これは別な言い方をすれば、最初から「特定の場合」を想定している、万が一こういうことが起きたらではなく、いつでも万が一のことが起きている、すべてのことを万が一にしてしまうということである。
 つまり。
 改正草案は「緊急事態条項」が「売り物」だが、「緊急事態」を万が一の出来事にあてはめるのではなく、いつでも何に対してでも、万が一をあてはめ「緊急事態」にしてしまうということである。
 そして、「行政権」をはじめとする「権力」を「内閣」という組織ではなく「内閣総理大臣」個人に属するものにしようとしているのである。
 北朝鮮がミサイル実験をする。これは緊急事態である。行政権を内閣総理大臣に与えてしまう。内閣総理大臣個人の意志でどうするかを決定してしまうということである。
 内閣と内閣総理大臣が違うものであることは、行政権を定義したあと、憲法が内閣の定義にうつっていくことからもわかる。

(現行憲法)
第66条
1 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
(改正草案)
第66条(内閣の構成及び国会に対する責任)
1 内閣は、法律の定めるところにより、その首長である内閣総理大臣及びその他の国務大臣で構成する。
2 内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。

 この第66条は、あくまで「内閣」の定義であり、「内閣総理大臣」の定義は、さらに次の条項まで待たなければならない。こういう「法」の定義構成から見ても、第65条の「この憲法に特別の定めのある場合を除き」という「条件」の「挿入」の異様さがわかる。
 それとは別に。
 ここでは、おそろしい「改正」がおこなわれている。
 現行憲法では「文民でなければならない」と規定されているものが、改正草案では「現役の軍人であってはならない」と変更されている。「現役の」ということわりは、逆に言えば「元軍人」なら内閣総理大臣にもその他の大臣にもなれる、ということである。
 さらに「現役の軍人であってはならない」というのは「現役の軍人」が総理大臣や大臣になることを禁じているが、内閣総理大臣や大臣が「現役の軍人」になることを禁止していると言えるのかどうか。きっと「禁止していない」。
 あとで出てくるが、内閣総理大臣が「最高指揮官として、国防軍を統括する」とき、内閣総理大臣は「軍人」ではないのか。軍人じゃないのに、軍を指揮する、統括する、というのは、私には理解できない。

 この改正案で、私が疑問に思うのは、第3項。
 現行憲法の場合、私はこれを「不信任可決」と結びつけて理解していた。国会で不信任が可決されたとき、信任が否決されたとき、内閣は国会を解散できる。国会に対して「連帯責任」があるから、国会が信任しないなら、内閣と国会とどちらの言うことを正しいと判断するか、それを国民に問う。それが衆議院の解散、総選挙。つまり、この条項があるかぎり、私は内閣(総理大臣)が自分の都合で解散を宣言するというのは憲法違反になると思う。今回の解散でも、「憲法第七条にもとづき」云々といっていたが、第7条は「天皇」の権能について規定したもの。内閣に解散の権限をあたえている、という解釈はどうしたっておかしい。
 なぜ、改正案は削除しなかったのか。きっと、現行憲法の規定を理解できていないのだ。だから、見落としたのだ。
 ほかのことに夢中になっていたからだ。
 というようなことを、いまさらのように書いているのは、「第7条にもとづく解散」というようなことを許せば、たとえば「この憲法に特別の定めのある場合を除き」や「現役の軍人であってはならない」という規定は、もっとテキトウに解釈されてしまうことが予想されるからである。狙いがほかにあって、そのことに夢中なために「改正し忘れた」ということだと思う。
 この改正草案を書いたひとは、非常に狡賢いが、狡賢すぎて(策におぼれすぎて?)、ときどきミスをしているのではないか、と思う。改正草案の「味方」をするわけではないが、こんなポカをやる人間が改正草案を書いたという「証拠」として上げておく。ポカをする人間に憲法改正のような重大な仕事を任せてはいけない、という意味で。
 あるいは、この「連帯責任」は、失敗したら責任を国会になすりつける、「悪いのはぼくちゃんじゃない、国会が悪いんだ」というための、「いいわけ」の先取りかもしれない。「ぼくちゃん悪くない」というためのものだとするならば、何度か書いてきたが、自民党は改憲草案を「先取り実施」しつづけていることになる。
 ポカというより、こう読んだ方が「実態」に近いのかもしれない。

 

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TENGO un SECRETO

2021-10-24 00:04:08 | 
TENGO un SECRETO

Tengo un secreto que no le he contado a nadie
Pero tu lo sabes, no?
Cualquier pasado siempre permanecerá en el cuerpo, y
Un día, de repente aparece
Movimiento inesperado
Ya debes haberlo visto
Tambien vi tu secreto
Las depresiones en tus axilas se colorean cuando mis labios se acercan
Los músculos de tu espalda se doblan cuando mis dedos se alejan
Habíamos tenido los mismos placeres y angustias antes
Yo lo sabía. Pero no digo, nunca diré nada
Nunca le contré a nadie todo lo que pasó entre tú y yo hoy
Seguiré esconderlo como nuevo secreto mio y tuyo
No podemos hacer nada con la voz que se filtra incontrolablemente
Pero aparte de eso, lo esconderemos para siempre en nuestras corazones
Sí, porque, es nuestra ilustre juventud de una sola vez
yachishuso
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『白い闇』雨沢泰の訳文

2021-10-23 17:08:59 | 詩集

『白い闇』雨沢泰の訳文

 

 雨沢泰訳『白い闇』(NHK出版、2001年2月25日第1刷発行)の「まずさ」について何回か書いてきたが、また気づいたことがあるので書くことにする。私はNHKのラジオ講座入門編をまだ卒業できない程度の能力しかないが、そういう人間が見てもおかしい、という部分がある。

 きょう触れるのは、この小説の最初のクライマックスの伏線になる部分。主人公の女が鋏について思いめぐらしている。鋏は凶器(武器)になる。ただし、それは目が見える人間がつかったときである。目が見えない人間が鋏をふりまわしたら危険は危険であるけれど、確実な武器としての効力を発揮できるとは限らない。鋏をつかうには、視力があることが大前提である。狙いを定めなければ、武器にはならないかもしれない。

 状況としては、主人公たちが収容されている精神病院で、泥棒グループが結成された。ボスはピストルを持っている。目が見えなくても、発砲すれば、誰かが死ぬ可能性がある。この泥棒組織からどうやって身を守るか。さらに食料を支配されている状況をどう変えていくか、ということを考えている。

 鋏をつかえば何かできるのではないか。主人公の女は、そう考えている。

 その部分は、こうである。

 

no podrá hacer él, lo podría hacer yo

 

 「poder (できる)」という動詞が、二種類に活用されている。「podrá 」は「未来形」、「podría」は「過去未来形」と奇妙な呼ばれ方をすることもある形。スペイン語には「直接法」「接続法」と呼ばれる「表現形式」があるが、問題の「podría」は「可能法」とでも呼んだ方がいいのかもしれない。「直接法」「接続法」の「あいだ」の「動き」をあらわすものと考えると分かりやすいと思う。

 この部分を、雨沢は、

 

彼にできないことが、私にはできる

 

 と訳している。(167ページ)

 

 「私にはできる」と断定しては、意味が違ってくる。彼は目が見えない。だから、できない。もしかしたら「できる」かもしれないが、できないと考えるのが自然。ところが、私は「できる」ではなく「できるかもしれない」なのである。やろうと思えば、できる。しかし、それを実行するかどうかはわからない。五分五分といっていいかどうかわからないが、彼女は、そのことで悩んでいる。やるとしたら彼女しかできない。しかし、それをやるには大変な決断がいる。するかどうか、わからない。

 この逡巡を明確にするために、スペイン語の文章は、動詞の形をかえてあらわしている。このわざわざ動詞の形を変えて言っている部分を訳出するときは、日本語の方もやはり違った形にしないと意味が通じない。

 私なら、

 

彼にできないことが、私にはできるかもしれない

 

 と「かもしれない」をつけくわえる。まだ実行する意志が固まっていない。そういうときにつかう「かもしれない」。

 彼女は鋏を武器にして、目の見えない泥棒集団のボスを殺害することができるかもしれない。けれど、それには強い決意がいる。どうしていいか、わからない。その思いが「podría」という動詞の形にあらわれている。

 そういう苦悩があるからこそ、それにつづいて描かれる若い盲目の恋人のセックス描写が実に美しく見える。女は、二人の行為を感動してみてしまう。共感してみてしまう、といえばいいのか。知らずに涙が流れる。最近読んだセックス描写のなかで、私は、これほど美しいことばを読んだことがない。いろいろセックス描写を思い出そうとするが、このサラマーゴの文章を超えるものを思い出すことができない。

 単に、物語を彩るためにセックス描写を交えているのではないのだ。そこには必然がある。そして、その必然を支えるためには、どうしても「できる」ではなくて、その「できる」に逡巡、人間の悩みをこめた形にしないといけない。

 書き出しの訳文についてでも触れたが、雨沢は「語学」はできるかもしれないが、「文学」をまったく理解していないのだ。スペイン語の初級学習者が思うのだから、きっと専門家はもっと厳しく見ていると思う。

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自民党憲法改正草案再読(28)

2021-10-22 10:23:39 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第60条
1 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
2予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
(改正草案)
第60条(予算案の議決等に関する衆議院の優越)
1 予算案は、先に衆議院に提出しなければならない。
2 予算案について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合において、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

 国会に提出するのは「予算」か「予算案」か。厳密には「案」であり、改憲草案は、その点を修正したということかもしれない。第59条では「法律案」ということばをつかっているように、国会で審議するのはあくまでも「案」であるということ。しかし、予算(案)を提出できるのが内閣だけであること(野党は提案できない)ということを考えると、他の法律と同一視することはできない。「予算」ではなく「予算案」にすることで、自民党は、予算(案)を誰もが提出できるものであるかのように装っているともいえる。ここから「代案を出せ」という「論理」が生まれてくる。予算に関して言えば、野党は「代案」を提出することができない。提出された予算について、注文をつける、修正を求めることしかできない。この点を考えると、国会に提出された段階では、まだ「予算」ではなく「予算案」である、という論理はそのまま受け入れることはできない。「案」を審議した、そして可決したと、強引に予算を成立させてしまうことを私たちは何度も見てきている。「案」なのに十分に審議されない。これは「予算」には期限があるということも関係しているかもしれない。「法律案」なら、そのときの国会での成立を見送り、次の国会へと審議を継続させることができる。けれど「予算」は、そういうことができない。
 「予算案」と呼ぶか「予算」と呼ぶかは、「法律案」と同じようには見ることができない。こういう、ほんとうに細かなところが、私にはなぜか大事に思える。わざわざことばを変更したのはなぜなのか。そのことを考えないといけない。強行採決に「お墨付き」を与えるために「案」を挿入したとも言える。
 第60条では、「場合に」を「場合において」と「おいて」を追加している。「おいて」は強調なのか、それとも拘束力を弱めるために追加したものなのか、これも他の条文で「おいて」がどうつかわれているかを比較検討してみないとわからない。私は「全体」を見渡し、俯瞰的に改正草案を読んでいるのではなく、最初から、少しずつ、「結論」を念頭におかずに書き始めているので、こういう問題にぶつかると悩んでしまうのだが、保留したまま書き続ける。(法律家ではないので、わからないことは「保留」にしておく。)

(現行憲法)
第61条
 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
第62条
 両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
第63条
 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
(改正草案)
第61条(条約の承認に関する衆議院の優越)
 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
第62条(議院の国政調査権)
 両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
第63条(内閣総理大臣等の議院出席の権利及び義務)
1 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため両議院に出席することができる。
2 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 第61条、第62条は「かなづかい」の変更。
 しかし、第63条は大きく変更されている。二点ある。
 「国務大臣」は国会議員でなくてもなることができる。だから現行憲法は「両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず」と明記している。そうしておかないと、後段の「出席しなければならない」について拒否される可能性があるからだ。「民間登用された大臣」は「私は国会議員ではないので、国会で答弁する必要ない」と拒否できる可能性がある。あるいは「国会議員ではないので国会で答弁させることはできない」と内閣側が言い張り、答弁させないということさえ起こりうる。
 改正案の狙いは、いかに内閣総理大臣や他の他の大臣が国会答弁を拒否できるようにするかというところにある。
 「答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない」と現行憲法が定めているのに対し、改正草案は「職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」と「拒否できる」と変更している。「職務の遂行上特に必要がある場合」というのは、基準があいまいである。該当大臣が「必要」と判断すれば、個人の判断で拒否できることになる。「民間大臣」の場合は、「かけもち」の仕事を理由に拒否できるということさえ起きてしまうだろう。これは実質的には、総理大臣や他の大臣は、自分が答えたいときだけ答弁、説明すればいい、いやなら答弁、説明をしなくてもいい、ということになってしまう。
 この問題を考えるとき、現行憲法の「又、」のつかい方と、改正草案の「ただし」のつかい方にも注目すべきだと思う。
 先日も書いたが、現行憲法の「又、」は、補足条件として、反対側の視点から言いなおすときにつかわれる。「内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる」は総理大臣、他の大臣の「権利」である。いつでも国会に出て、発言できるのである。これでは内閣の一方的な「主張の押しつけ」になりかねない。だからこそ、逆の規定もしておくのである。場合によっては、説明してしまうと「まずい」ことがあるかもしれない。菅の学術会議会員の任命拒否の問題などである。菅はNHKで「説明できることとできないことがある」というような開き直りをしているが、その開き直りを許してはいけない。だから、「権利」と同時に「義務」を明記する。それが「答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない」であり、その二つの条件を結びつけるときに「又、」をつかうのである。繰り返しになるが、これは第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の「又、」と同じつかい方である。
 「又、」がそういうつかい方をしているということを意識しているからこそ、改憲草案は「又、」ではなく「ただし、」と例外規定を追加するのである。

(現行憲法)
第64条
1 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(改正草案)
第64条(弾劾裁判所)
1 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律で定める。
3 前二項に定めるもののほか、政党に関する事項は、法律で定める。

 「これは」の削除によるテーマ隠しが、ここでもおこなわれている。
 改正草案は、この「弾劾裁判」につづけて、新設条項をもうけている。

(改正草案)
第64条の2(政党)
1 国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない。
2 政党の政治活動の自由は、保障する。
3 前二項に定めるもののほか、政党に関する事項は、法律で定める。

 読んでわかるように、これは「弾劾裁判」とは何の関係もないように見える。しかし、改正草案は、「政党」という項目を立てているにもかかわらず、同じ第64条にしている。この意図は何だろうか。
 第64条の2(政党)は「政党」の保護を目指している。政党の活動の自由を明記している。しかし、一方で「政党に関する事項は、法律で定める」としている。「政党ではない」と判断すれば、その活動の自由は保障されないということが起きる。たとえば「共産党は政党ではない」と法律で規定すれば「共産党」は政党としての活動をできなくなる。
 さらに、この政党の保護は、政党に属さない個人の活動の自由を阻害することになるかもしれない。「無所属」であると、政治活動ができない。国会議員として活動できない、活動の自由は保障されないということが起きるかもしれない。
 これをさらに拡大解釈していくと、たとえば自民党議員であっても個人的な立場で法律に賛成できない、反対票を投じたとする。そのとき自民党はその議員を追放し、「無所属」にしてしまうということが起きかねない。これは逆に言えば、いわゆる「党議拘束」による議員支配ができるということである。「弾劾裁判」が裁判官の権利を剥奪することができるように、国会議員の権利を剥奪することが「党議」によってできるようにする、ということが目的だろう。
 結果的に、自民党以外の党は許さない、という独裁の宣言である。
 これは、いつも問題になる「緊急事態条項」に匹敵する大問題である。「政党」の要件を、衆議院選挙で30%以上の得票を得た政治組織と法律で定めてしまえば、いまの日本では自民党以外に正当は存在できなくなる。ほかの政治団体は「政党」ではないから、その活動の自由は保障されない、ということが起こりうる。もちろん、個人の政治活動は、国会議員個人としては不可能になる。政党に属していないのだから、その活動の自由は保障しなくてもいい(憲法で認められていない)とさえ主張できることになる。
 「保護」をうたった「新設条項」ほど、うさんくさいものはない。 「保護しない」を生み出す可能性がある。それに注目しないといけない。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇112)Xose Rivada

2021-10-22 00:04:16 | estoy loco por espana

Xose Rivada “Nuestro propio espejo”

 

El trabajo de Xose me hace irritación. Me hace ansiedad y nervioso.

Porque me muestra lo que sin saberlo he evitado ver.

"Belleza" es, en cierto sentido, educación.

Cómo modificar la forma para hacerla hermosa. Cómo arreglar el color para hacerlo hermoso. Hay un estándar de "belleza" en todas partes. Puede parecerse a la "idea" de Platón. Y estamos modificando nuestros sentidos a los "estándares".

Xose dice NO conta esta educacion. Y dice que lo necesario es que destruir el "estándar". Exige mirar la "existencia" en sí misma antes de que se corrija a "belleza".

En otras palabras, a partir de este "caos", Xose me exige que cree la "belleza" de mi misma por mi propio poder.

Siento la creencia de Xose. Lo es todo lo que existe es hermoso. En particular, Xose dice que la “belleza absolute” destruye la “belleza prefabricada”..

 

Xose の作品は、私をいらだたせる。私を不安にさせる。私が無意識の内に見ることを避けてきたものを見せつけるからである。

「美」は、ある意味では教育である。

形をどう修正すると美しくなるか。色をどう修正すれば美しくなるか。どこかに「美」の基準がある。それはプラトンのいう「イデア」に似ているかもしれない。そして、私たちは「基準」に合わせて自分の感覚や思想を修正している。

ホセは、この「修正」に対して異議を唱えている。「基準」を破壊してしまえ、と言っている。「美」に修正される前の「存在」そのものを見つめろと要求してくる。

つまり、この「混乱(混沌)」のなかから、自分自身の力で「美」を生み出せ、と要求してくる。

存在するものは、必ず「美」である、という信念を感じる。

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