詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩原健次郎「スミレ論」

2010-07-31 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
萩原健次郎「スミレ論」(「組子」18、2010年05月20日発行)

 萩原健次郎「スミレ論」はとてもわかりにくい詩である。

誘惑されている。菫論の方向に。その紫色か褐色か想像の外へと放擲されている。

 「主語」は何だろうか。「わたし」を補ってみようか。「わたし」は「菫論」を書くように「誘惑されている」。これは、なかなかおもしろい。スミレが人間に対して「論」を書けとそそのかしたりはしないけれど、そそのかされていると感じる。そういう気持ちになるほどスミレは魅力的である。いま、「わたし」はスミレに魅了されているのである。そして、スミレの花びらの色について何か書こうとするのだが、どうも色にたどりつけない。色の外側にまでしか接近できない。そういう状態を、スミレによって「放擲されている」と感じる。
 スミレは「わたし」を一方で誘惑し、他方で「放擲する」。これは「矛盾」である。いつも詩は「矛盾」とともにある。ここから詩ははじまる。
 そうわかっていても、私は、萩原の詩が好きになれない。
 「されている」という形で「主語」を暗示する方法が、私には「特権的」に感じられるのである。ことばを書きながら、実は、ことばを書いていない。「書かされている」と、言い逃れている。しかも、その言い逃れが--言い逃れるということが、「特権的」である。被害者(書かされている)を装いながら、それは「選ばれている」と主張しているのである。詩人として選ばれて、いま、詩のことばを書いている。そういう「意識」が見え隠れする。
 何かを書きたいと思う。その思うの「主語」は「わたし」であるが、それを「わたし」が思うのではなく、そう思い込むよう「誘われている」と「受け身」にする。自分から進んでいくのではなく、常に「受け止める」。

 能動と受動。この違いは、「対象」と「わたし」の間の距離を不思議な形で動かす。
 スミレ論を書く。スミレに向かう。そのとき、「わたし」と「スミレ」の距離は、「わたし」が自在にかえることができる。いや、論ができないかぎり「距離」に変化が生まれるわけではないが、少なくとも、その「距離」をかえようという意思によって「距離」をつかむことができる。 
 ところが「書かされる」(書くよう誘われる)となると、その「距離」は「わたし」からは把握できない。何か不確かな絶対として--不確かな絶対というのは言語矛盾だけれど--そこにある。そして、萩原は、その不確かであるということを利用して、ことばを動かす。動かすよう誘われていると「被害者」を装う。
 詩のつづき。

勝負なのだろう。生かされているか、生きていくか、知らない誘う目の、赤色らしき、緩い光線の外側へ。

 なんのことか、かいもく見当がつかないが、そのなんのことかわからないことばのなかにある不確かさ。その象徴的なことばが「生かされているか、生きていくか、知らない」である。「赤色らしき」の「らしき」である。
 萩原は「この世界に存在するのは、不確かな絶対だけである」と主張している。そして、その「不確かな絶対」によって、選ばれ、誘われ、だから、ことばを動かしている。いや、動かされていると言うのである。
 そこでは、ことばは、しかし自在には動いていかない。
 「放擲されている」のだから。「わたし=萩原」は。

 別ないい方をしよう。
 「わたし」と「対象」との距離、--つまりつながりが、途絶えている。つながりがない。そういう状態のあり方として「放心」というものがある。
 「対象」と「つながり」がなくなり、ぼんやりと、ただ、「わたし」がそこにいる。けれど、「放心」というのは、実は、こころが「わたし」とつながっていなくて、「わたし」とはつながっていないけれど、他の存在、世界全部とつながった状態なのである。「わたし」は「無」になり、「わたし」が「無」になることで「世界」が「有」になる。そういう状態が「放心」。
 池井昌樹の詩を想像してもらうとわかりやすい。
 こういうとき池井は、「生かされているか、生きていくか、知らない」とは言わない。「生かされている」としか言わない。池井の「生かされている」も「受け身」だが、このとき、池井には実は「身」はない。いや、「身」はあるのだが、その「身」を「身」と感じる「心」がない。「心」は「身」を離れて、「世界」へ出て行ってしまっているからである。「身」を捨てて行ってしまっているからである。
 このとき「不確かな絶対」というものは存在しない。
 「心」は「絶対的な確かさ」として、「世界」そのものである。すべての存在そのものである。「放心」しているとき、池井は、たとえば一輪の花であり、そばに眠る妻であって、池井という「不確かな存在」は消滅している。「絶対的に確かな他者」が存在する。池井は「他者」として存在する。「他者」というのは「絶対的な確かさ」である。

 「他者」、たとえばいま、そこにあるスミレ。それは「絶対的な他者」である。つまり「わたし」とは無縁の「いのち」を生きている。
 それが「わたし」を誘う。「わたし」はそれに誘われる。それはそれでいいのだが、そのとき「わたし」という存在を明確に自覚し、それをことばにしていかないかぎり、「わたし」を消してしまうことはできない。「無(心)」にはなれない。「わたし」を隠してしまってことばを動かしても、不確かなことばが増えつづけるだけである。

 そこから生まれるものはなんだろう。「雰囲気」というものかもしれない。萩原は「雰囲気」を書いている--という視点からとらえなおすべきなのかもしれない。
 私は「雰囲気」というようなものは、めんどうくさくて向き合うことができない。



 もう書くのをやめようと思った瞬間、別なことばが思い浮かんだので、書いておく。
 「誘われている」「放擲されている」。こういう書き方、何かが「わたし」に働きかけてくる(働きかけている)という書き方は、実際に働きかけがなくても、それがあるかのように装うことができる。ポーズをとることができる。
 一方、何かを書くというのも、まあ、ポースをとることはできるが、ポーズのままだと、なんだ、いっこうに書かないじゃないか、と批判されてしまう。
 けれど、「書くように誘われている」の場合は、1行も書かなくても「誘われている」のだから、と言い逃れをすることができる。「わたしは書きたい」と言ったことはない。思ったことはない。ただ誰かに(詩の神様?に)、「書くように誘われている」。「選ばれるってつらい」と言ってしまえる。

 あ、実際に、「選ばれた詩人」としての苦悩を、萩原は書きたいのかもしれないけれど。きっと、そうなのだろう。私は、とんちんかんなことを書いているのだろう。きょう読んだことは忘れてください。





冬白
萩原 健次郎
彼方社

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山本しのぶ「ハジマリハジマリ」ほか

2010-07-30 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山本しのぶ「ハジマリハジマリ」ほか(「組子」18、2010年05月20日発行)

 山本しのぶ「ハジマリハジマリ」は、ことばがゆっくり動く。ゆっくりなのだけれど、着実に進んで行く。「いま」がだんだん「いま」でなくなる。「ここ」がだんだん「ここ」でなくなる。けれど、ゆっくりなので、その「いま」ではなくなった時間、「ここ」ではなくなった「場」が、「いま」「ここ」であってもかまわない、という気になる。

アラームが鳴って
一日の始まりを告げる
年が明けると
新芽と同じく
昼間の時間が伸びてくるから
カーテン越しの朝の予感も早まった

 「昼間の時間が伸びてくるから」がとても奇妙だ。ふつう、昼間の時間が伸びたと感じるのは、夕方。なかなか日が落ちないので「日が伸びたねえ」という。朝が早くあけるのは、「夜が短くなったねえ」と言う。
 でも、たしかに1日は24時間で、昼の時間が伸びるというのは夕方の方向(?)にだけ伸びるのではなく、夜明けの方向にも伸びていることになるから、「朝が早くなる」というのは正しいいい方になる。
 でもね。
 一瞬、あ、と思うでしょ。その「あ」の瞬間、「いま」が「いま」でなくなる。「いま」というのは、つまり、「流通言語」でとらえたときの、「流通意識」の「いま」なんだけれど、それが、山本のことばによって、一瞬、ずれる。そして、それは一瞬であって、「あ、そうか、そういうことなのか」と
納得して「いま」にもどってくる。「そういういい方があってもいいか」と思えてくる。
 そんなふうに思わせることばの動きがおもしろい。
 「新芽と同じく」という「比喩」が、とってもおかしい。読んだ瞬間にはおかしさがわからないが、1連とおして読み終わったとき、この比喩、おもしろい、絶妙と思ってしまう。
 ついでに、昼間の時間が伸びて、それで朝が早まるなら、新芽が伸びたらどうなる? などと、ついつい想像する。「朝が早まる」かわりに、新芽では何が起きる? 根っこが伸びる。昼が伸びの方向とは逆方向にも時間が伸びる(早まるように侵入してくる?)なら、目が伸びる方向とは逆方向にも伸びるものがあるはず。それは、根っこ。
 それは、見えない。
 昼の時間が、逆方向に伸びてきているのも、わたしたちは、ふつうは気がつかない。そういう「見えないもの」がどこかにあって、その「見えないもの」にわたしたちは動かされている。(支えられている。)
 ほら、そう思うと「ここ」が「ここ」ではないような気がしてくるでしょ? 何か見えないものがわたしたちを支えている。でも、それって、よくわからないから、「ここ」は「ここ」さ、とうそぶいている。「ここ」が「ここ」でなくたって、別にかまわないさ、と思い込んでいる。
 なぜだろう。

わたしには
朝がふたつある
母親の顔の朝と
恋人の顔の朝
迎える場所はそれぞれ違っていても
わたし自身は変わらない
もう一人クローンがいればいいと願った事もあったけれど
本物をどっちに奥かで悩むかも知れないので
やっぱり必要ない

 「わたし自身はかわらない」。なるほど。わたしたちは、「わたし自身」という「いま」とか「ここ」とは違う「基準」というか、よりどころを持っている。
 「いま」とか「ここ」というのはみんなで「共有」するもの。みんなで(大勢)で共有するから、そこにはときどき、新芽が伸びるときのように昼間の時間が伸びて朝が早くなる、というようなちょっと違うんだけれど、そういういい方もできるというような、奇妙な「遊びの場」(遊びの時間)、余裕(?)のようなものがしのびこんできて、まあ、それが「世界」の潤滑油のようでもなるんだろうなあ。
 そして、そういうものに出合ったときも、うろたえたりせずに「わたし自身」というものへ帰っていく。「わたし自身」は「変わらない」。昼間がのびて朝に侵入してきても、朝起きるという「わたし自身」は変わらない。「朝が早くなった」ということは「わたし自身」になじみのある世界である。「わたし自身」が変わらなければ、「世界」だって変わりようがないのである。
 これは「開き直り」のようなものであるけれど、山本自身で、昼間が伸びるから朝が早まると言っておいて、「わたし自身」が変わらないから「世界」は変わらない、なんていう主張はいいかげん過ぎない?
 論理的(?)に押し進めれば、ことばはそう動いていくのだけれど、そんなことは知ったことではない。人間というのはだいたい、いいかげん、というか、矛盾したものなのだ。
 「ふたつの朝」「母親の顔と恋人の顔」。「ひとつ」でありながら「ふたつ」という矛盾はありきたり。そういうものなんだから、昼が伸びて朝が早くなるとしても、「わたし自身」は「わたし自身」。
 そんなふうに思うこと自体、ほんとうはそれまでの「わたし自身」とは違っているのだけれど、それも、まあ、どうでもいいのだ。
 そんなことをくっきりと区別すると、めんどうくさい。「ことばで書いたことを正確に守るわたし」と「ことばの運動など気にしないでいきているわたし」というふうに、「わたし」を「ふたり」にしてもいいかもしれないけれど、そのとき、やはり「本物をどっちに置くか」で悩むことになる。だから、区別しない。時と場合に応じて、いったりきたりする。
 いいなあ、この開き直り。強さ。

朝のそれぞれで
アラームは鳴り響く
いつだって本物(おそらく)のわたしを悪い夢から目覚めさせ
フルカラーの現実に引き戻してくれる
そうだよ
愛おしいものたちは
夢の外にいるのだから
数回目のアラームを止めたら
えいやっ
わたしにスイッチを入れる

 「夢」とはことばの運動かなあ……と書きはじめると、面倒になるから、この詩については、ここまで。「えいやっ」と切断。「わたし自身」というような面倒なものではなく「わたし」にもどる山本にあわせて、わたしも「本物」(たぶん)のいいかげんな人間にもどり、詩なんて、どこがおもしろいなんて書いたってしようがない。読んで笑っておしまいなんだから、あとは勝手に考えてね。

 「靴磨き」という詩も、「複数のわたし」と「わたし」のことを書いている。

今ここにある靴たちが
本来のわかしの心の形なのかもしれない
ああだけど
そんなことに囚われるのはよそう
リボンのついた心で
誰かに会いたいときもある
爪先がじんじん痛くなるほどの
ヒールで追いかけたいときだって
これからだってきっとある

 「今ここ」は「今ここ」にすぎない。そして、「これから」も、いつでも「今ここ」になるのだ。「わたし自身」が「わたし自身」である以上に、「今ここ」は「今ここ」なのだ。いつでも、どこでも「今・ここ・わたし自身」。「わたし自身」がいるところが「今・ここ」なのだ。

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米林宏昌監督「借りぐらしのアリエッティ」(★★★)

2010-07-29 21:59:32 | 映画


監督 米林宏昌 出演(声)志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、竹下景子、三浦友和、樹木希林

 風景・背景がとても美しい。主人公の少年が登場するときの風景、その光の変化が、実際の風景を上回って美しい。この緑、この光のまっすぐさ、--あ、見たことがある。と記憶が泣き叫ぶ。
 そして、映画を見ている内に、この映画に問題があるとすれば、この美しさだな、と思った。手間隙かけて、丁寧に描かれた絵だけがもつ、純粋な美しさ。それが問題なのは、そういう「美しさ」を追求するとき、「汚れ」が排除されるからである。
 汚れていても、その汚れが、美しさをめざしたための汚れであるなら、それは美しいのに--たとえば、「長江哀歌」の壁の汚れ。食堂(?)壁に水平に汚れがある。それはその壁にくっつける形でおかれたテーブルを毎日雑巾できれいに拭きつづけたから。そのとき、雑巾がテーブルといっしょに壁をこすってしまって、そのくりかえしがくすんだ汚れになっているのだ。それは「美しさ」を実践したことによって生まれた「汚れ」である。
 そういう「汚れ」が、「汚れ」でしかあらわせない「美しさ」がない。
 いや、かろうじて、途中からあらわれる小人の少年の、たくましい「汚れ」はそれにつながるけれど、少女一家には、その「汚れ」がなく、最初に描かれる風景と同じ美しさなのだ。清らかなものだけで、できている。
 だから、何か、物足りない。
 釣り針をつかった上り下りの道具や、糸巻エレベーターなど、おもしいシーンもあるのだが、それらに「手垢」の美しさがない。それは「暮らし」であるはずなのに、暮らしの実感がない。手触りがない。
 人間描写もおなじである。 
 自然(草木や花々)と同じように、それは弱くて、異変に立ち向かって生きることができない。「汚れ」(汚いもの、悪)から、逃れて、「悪」がないところで生きることしかできない。そういう設定である。これでは「生きる」おもしろさが成り立たない。
 「線」が細すぎる。
 樹木希林おばあさんが唯一の「悪人」だが、その「汚れ」がどこから来ているのかわからない。「過去」がわからない。実写なら、役者の「肉体」が「過去」をひきずっているからおもしろくなるかもしれないが、アニメでは「肉体」がない。アニメの登場事物は「肉体の過去」をもたない。そういう「人間」をどう造形していくか。そういう部分が、この映画には欠落しているように思える。
 宮崎駿なら、登場人物ひとりひとりを声にあわせて造形するのだろうけれど、米林宏昌はそこまで配慮できなかったのかもしれない。声優のもっている「いやらしさ(過去)」が「個性」として浮かび上がってくる絵なら、たぶんこの映画はもっとおもしろくなったと思う。

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小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』

2010-07-29 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』(河出書房新社、2010年06月30日発行)

 詩についての思いめぐらし。それを学校を舞台に描いている。すこし小池の思い入れが強すぎるかもしれない。文月悠光のようなひともいるから、この小説に出てくるミナコのような少女も実際にいるかもしれないが、そう考えるよりも、小池が中学生に自分の思いを代弁させていると読んだ方がいいかもしれない。

「自分って、そんな、身のつまった袋なのかな。日本語のほうが、自分よりも大きいよ。わたしはそう思っている。その大きな日本語のなかから、ぴったりの言葉を選び出すんだ。書くって、だから、その袋のなかから言葉を選ぶことなんだよ。あれでもない、これでもないって、考えるの。ずーっと考えるの。やり続けるの。そうすると、ぽこっと出てくることがあるよ。私の場合は」

 そういう思いがあるからこそ、小池は詩というスタイルにこだわらず、ただ日本語をまさぐりながらことばを書く。それはあるときはエッセイになり、あるときは小説になるということだろう。
 こういう自在なことばの運動というのは、私は気に入っている。
 ただ、詩に関する思いめぐらしは、中学生を主人公にすることで、ちょっと議論を避けているような雰囲気もある。

「比喩って、詩の技術でしょ。技術ってさ、本質じゃないよね。おまけみたいなものじゃないの? あるいはサービスかな。詩の要は、比喩なんかじゃないよ。と、わたし思うよ。ニシムラくんの詩は、そういえば、比喩がないね」
「あ、おれ、そうだ。比喩って書かねえなー。書けないんだよ」
「なんでなの」
「そういう余裕がないんだよ」

 ここで語られる「比喩」と「余裕」の問題は、詩の「本質」をついていると思う。ただ、ミナコとニシムラの対話の形で詩の本質に迫るという方法は、「対話」の形ではあっても、閉ざされている。プラトンの対話篇を持ち出してしまってはいけないのかもしれないけれど、対話というのはたとえそれが対話であっても、ふたりで結論を出してしまってはいけないのだと思う。
 もちろん、それがわかっていて、それでもなおかつ、ここに書かれていることをことばにしておきたかった、というとこだろうとは思うのだけれど……。

 そういう詩に関することばよりも、私は、次のような部分に詩そのものを感じる。

ミナコはふいに足の裏に意識が移って、そのあたりがすうっとさびしくなった。さびしいとは、心ばかりが感じるわけじゃない。人間は、足の裏とか襟足で感じることもある。そんな気がして、自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。

 「足の裏」だけではなく「襟足」を登場させたことは失敗だと思う。(ことばが散漫になる。意識が散漫になる。「日本語」を探しすぎている、と思う。)ただし、「自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。」はとてもいい。
 ことばは、自分が感じたことを覚えておくためにある。
 そのために書く。
 この「肉体」が「感じたこと」、たったひとりの「肉体」を通り抜けた何かをことばにする、そして記憶する--そこにこそ、私は詩があると思う。
 もっと、そういう部分をたくさん書いてほしかったと思う。






わたしたちはまだ、その場所を知らない
小池 昌代
河出書房新社

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水出みどり『声、そのさざなみ』

2010-07-28 00:00:00 | 詩集
水出みどり『声、そのさざなみ』(碧濤舎、2010年07月07日発行)

 水出みどり『声、そのさざなみ』には「声」をテーマにした詩が何篇かある。そのうちの「声について」。ここには、「ふたつの存在」が繰り返し書かれている。

声がさざ波をたてる
その毀れやすい響きを
わたしはけんめいに
遡る

あなたの声の源流
あなたの深奥
やわらかな影につつまれて
母音は眠っていた

 「わたし」と「あなた」。そこに「対」になった「ふたつ」が存在する。「わたし」は「あなた」の声の「源流」を探す。「深奥」を探す。いま、聞こえてきた「声」、耳に届いた「声」は、書かれてはいないけれど「河口」あるいは「海」のような、「源流」の対極にある。そこから「源流」へ遡るとは、「わたし」が「あなた」へと遡ることでもある。
 「声」は「わたし」と「あなた」を強く結びつけるものである。

闇のなかで
子音は鋭く反響していた
答えはない
喉ふかく
はげしい渇望に似て
燃える


 2連目の「母音」、3連目に「子音」。「声」は「子音+母音」から成り立っている。切り離すことのできない「対」としての「ふたつ」。そして「母音」の方は「眠っている」。一方、「子音」の方は「反響」している。目覚めて、暴れ回っている。「反響」とはいっても「答え」がないとすれば、それは孤独な叫びである。
 ここからここに書かれている「声」とは「声」にならなかった「声」であることがわかる。
 「わたし」は「あなた」の「声」にならなかった「声」を探して、「あなた」の「深奥」へと遡ろうとしている。

ひたむきな
呼気と吸気
声帯にふるえる風が
とどかないはるかなものを呼ぶ

 ここにも「呼気」「吸気」という「対」が出てくる。この連で重要なのは、しかし、その「対」よりも「とどかない」であり、「呼ぶ」である。「とどかない」と「呼ぶ」と一見「対」には見えないが、実は「対」である。「とどかない」からこそ「こっちへ来い」と呼ぶのである。
 それは「声」になる前の「母音」と「子音」に似ている。ふたつの音は合体して「声」になる。

声はさわる
言葉の襞に
そのぬくもりと
つめたさに
胸の奥に
呑み込んだ声が揺れている

密やかに
砕けた声をひろうものがある

 「声」と「言葉」はどう違うだろう。たぶん「声」が「源流」であり、それが流れをあつめてて大きな川になったとき、その川が「言葉」だろう。
 「言葉」のなかには「声」がいっぱいあつまっている。
 あるいは、こういうべきか。
 「声」とは「胸(こころ)」であり、「言葉」とは「意味」である、と。「意味」の奥には、「意味」になりきれない「こころ」(呼吸、呼気と吸気)がつまっている。それは「意味」の「意味」ではつたえられないものを何とか伝えたいと渇望している。
 「呑み込んだ声」、「言葉」にならなかった「呼吸」。それが「源流」。そして、その「呑み込んだ声」、「言葉」にならずに「砕けた声」を、夜、ひそかにひろう。
 それは誰か。
 「あなた」か。そうではなく「わたし」である。それをひろってんるのが「あなた」であるにしろ、その「あなた」とは、「あなた」の「声」「源流」をそんなふうにとらえなおした「わたし」そのものである。
 「わたし」は「あなた」へとさかのぼりながら、「あなた」そのものに、なる。そのとき「わたし」と「あなた」は「ふたつ(ふたり)」ではなく、「一対」である。「一」である。


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クリストファー・ノーラン監督「インセプション」(★★)

2010-07-27 12:52:14 | 映画
監督 クリストファー・ノーラン 出演 レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙、エレン・ペイジ、マリアン・コティアール

 映画になっていません。
 夢の三層構造というアイデアはおもしろいのだけれど、それをことばで説明してしまってはねえ。現実と夢、さらにそれより深い夢、もっとも深い夢ではスピードが違うというんだけれど、映像ではぜんぜん差がないじゃないか。(唯一、車が橋から落ちるシーンだけがスローモーションで遅いけれど。)
 どこまでが現実で、どこまでが夢か、ごっちゃになる--というのが「ミソ」らしいが、ほんとうに夢の「三層」が描かれているなら、それはごっちゃになりようがない。どの夢も同じレベルで表現されるから映像として区別がつかないだけ。映画が破綻している。さらに、映像として次元を差別化できないために、それをことばで説明している。最悪だねえ。脚本もひどければ、カメラもひどい。
 それに。
 こんなへたくそな脚本、カメラで、ほんとうに、いまスクリーンで描かれている夢が何段階の夢か、あるいは現実か、わからなくなるって、ほんとう?
 宣伝文句に洗脳されているんじゃない? ことばを信じすぎているんじゃない?
 これは、映画ではなく、小説なら、まだいくぶんおもしろくなったかもしれない。夢は映像に見えるけれど、実際は、ことばで見るんだろうなあ。何を、どう認識するか。その意識が短絡したり、間延びしたりして時間が複雑になる。入り組んだことばは、ことばの「深層」をえぐりつづけるからね。それに対して、映像は、別の映像をえぐりつづけるということはない。(ない、とは断言できないかもしれないけれど、それを映像で再現するのはむずかしいだろうなあ。せいぜいが、ある映像を、別の映像と錯覚する、というのが限度である。)
 これに比べると(比べてはいけないんだろうけれど)、「脳内ニューヨーク」の方がはるかに「夢」の混乱を描いている。どっちが現実、どっちが「夢」(芝居という虚構)であるか、誰にでもわかるのに、わかっているはずなのに、その区別があいまいになっていく。だんだん「芝居」の方が「現実」になってゆく。しかも、「ことば」としてではなく、映像として。



 この手の映画では、「マトリックス」がいちばんおもしろい。
 何がおもしろいといって、そこでは「潜在意識」というような、ことばでしか表現できないものではなく、「肉体」が主役だった。「肉体」が「夢」のように動いた。弾丸を、スローモーションで、身を反らして寄せるシーンなんて、夢そのものでしょ? そして、そこでは「夢」のスピードが「現実」のスピードと違うことが、ちゃんと「肉体の映像」として表現されていた。
 自分の肉体でまねしたくなるシーンがあった。観客の肉体をスクリーンに引きこむ映像があった。
 「インセプション」には、そういう映像はない。ただ、ことばだけがある。ことば、ことば、ことば。 
 もし、この映画で、何がなんだかわからなくなる、どれが現実で、どれが表層の夢で、さらにどれが最深層の夢かわからなくなるとしたら、それは映像のせいではなく、映画を見ているとき、役者が話すことば(その意味)を理解できないからである。これは逆に言えば、この映画は映像を見せているのではなく、ことばで映像を説明しつづけているだけの紙芝居である、ということになる。
 ラストシーンの、独楽が、まわりつづけるのか、とまって倒れるのか、わかる寸前で途切れる映像は、この映画のいいかげんさを象徴している。観客の判断にゆだねる、というのは聞こえはいいが、つくっている側が「答え」を出せなかっただけである。
 


 なんだか感想を書いている内に怒りがこみあげてきた。「シャッターアイランド」と同様、ひどい映画である。
 レオナルド・ディカプリオはもともと「透明」な役者である。「不透明」な役を「肉体」が受け入れない。「不透明」を背負いきれない。まあ、この映画は、ことばの映画だから、レオナルド・ディカプリオの「透明」な肉体が必要だった。「肉体」が前面に出てしまうと「ことば」が見えなくなるということかもしれない。でもね、それじゃあ、映画じゃないよ。
 クレジットの最後になって、エディット・ピアフの歌が流れるのはなぜ? ピアフを演じたマリアン・コティアールが出ているから? 観客をばかにしていない?
 
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長田典子「五月の庭」、水嶋きょうこ「玉葱」

2010-07-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長田典子「五月の庭」、水嶋きょうこ「玉葱」(「ひょうたん」41、2010年06月25日発行)

 長田典子「五月の庭」におもしろい行があった。

鳥が囀っています
若葉が揺れています
ハイヒールの明るい音が通り過ぎます
仔犬の吐く息が聞こえました
遠くを波のように車が走り去っていきます

それら みんなが
五月の庭に反響しています
やわらかい風をからだいっぱいに吸い込みながら
わたしは
今、芽を出したばかりの植物のように
しゃがみます

 「背伸びします」「立ち上がります」ではなく、今、芽を出したばかりの植物のように「しゃがみます」。
 うーん。
 草花の芽は、芽を出すとき、しゃがみはしない。
 うーん。
 でも、わかるなあ。
 芽を出したばかり。その姿は、すっくと立ってはいない。たしかに丸まっている。その植物の芽をまねると、人間のからだはまるくなる。しゃがんで膝を抱えた様子ににているかもしれない。
 うーん。
 それだけじゃないんだなあ。単なる「形態」の模写ではない。しゃがんだ形は草花の芽に似ているかもしれない。ひとところふくらんだてっぺんは頭だね。その下にはほそいからだがある。ちょっと丸まっている。そして、それは、そこから立ち上がる。
 「しゃがみます」と長田は書いているし、実際、しゃがんだ姿もきちんと想像できるのだが、私は、そのあと、長田が立ち上がってくるのを見てしまう。書いてないけれど、読んでしまう。そして、その立ち上がる姿に、伸び上がる姿に、草花(植物)の力を感じてしまう。
 「しゃがみます」としか書いていないのに、そして「しゃがみます」を読んだ一瞬は変じゃないと思ったはずなのに、次の瞬間には、納得してしまう。「しゃがむ」「たちあがる」という矛盾したことばが、一瞬の内にひとつづきの運動になって動いている。
 うーん。
 こういうときだね。うーん、とうなって、あ、これが詩のことばなんだなあと思う。書かれていることばとは違うことばを呼び込んでしまう。「誤読」してしまう。「誤読」なんだけれど、納得してしまう。(作者がどう思っているかではなく、私だけの納得なのだが……。)



 水嶋きょうこ「玉葱」のことばは、「誤読」しようがないかもしれない。それは水嶋が「誤読」しているからである。「現実」が「流通言語」ではなくて、水嶋語で語られる。どこが違うか--というのは説明が面倒なので、読んでもらうしかない。

駅の近くに、野菜を売っている家がある。門前に机を出し、新鮮な野菜を置いている。男の人はその母親らしきおばさんが、店番に座っていることもある。時々、男の人がおばさんをどなる声が聞こえ、耳について離れない。職場からの帰り道、その家の前を通りかかると、巨大な野菜が置かれていてぎょっとした。よく見ると、おばさんで。野菜よりも静か。薄闇の中、地面を見据え、台の側に座っている。丸まった背中は、闇に潜む大きな玉葱。玉葱はうすうすと溶け出しそうな、微熱を抱え込む。その下の地面には、どこにもぶつけることのできない、何年も何年も絡まった根っこのようなものが深く広がっている。家に帰り、いつものように家族の食事を作った。今日は寒いので、とろとろのシチューをつくろうと思う。包丁で野菜を丁寧に切り刻んでいく。鍋から湯気が上がる。野菜カゴを見ると、玉葱がはいっていたので、持ち上げた。日だまりのような温もりと共に白い根っこが指先にそっと絡まってくる。

 おばあさんが玉葱に見える。これは「比喩」だね。そこまでは、わかる。というか、「流通言語」であるかもしれない。「学校教科書」でつかわれている日本語かもしれない。そこから玉葱が熱をもち、根っこをひろげるというのは、「比喩」を出発点として、ことばが独自に動いていく部分だ。
 で、それが店頭の「おばさん」であるかぎりは「比喩」、「流通言語の詩」であるといえるかもしれないが。
 最後。
 「日だまりのような温もり」(これは、微熱を抱え込む、から派生したことばだろう)「と共に白い根っこが指先にそっと絡まりついてくる」。これは、何? いや、何というものではなく、実際に、根っこがからまりついてくるというだけのことなのだが、変に、こわい。水嶋が「おばさん」になっていく。「シチューをつくる」という「日常」をとおして、その「日常」とつながるほかの女と何かを共有し、「おばさん」(水嶋ではない人間)になっていく。
 「私が私でなくなる」というのは、あらゆる文学の到達点だが、それを、なんだかよくわからない(あ、文学的ではない、といえばいいのかな?)ことばでつかみとる。「おばさん」になる、玉葱おばさんになるというのは、変な虫になるのと比べるとなんだかおかいしよねえ。しかも、玉葱そのものではなく、根っこ。「玉葱」そのものなら、まだ、「文学的」かもしれないが、「白い根っこ」ねえ。
 どこかで、水嶋は「世界」を「誤読」している。
 よくよく見ると、最初は「根っこのようなもの」と書いていたが、最後は「根っこ」になっている。「ようなもの」は「比喩(直喩)」であるが、それが「暗喩」になっている。イメージになっている。それは「比喩」ではなく、「比喩」を突き破り、「実在」になっている。
 ことばが、その自分で動く力で、「直喩」の「ような」を切り捨てて、飛躍していく。この「ような」を切り捨てた瞬間、「流通言語」は「流通言語」ではなくなる。そして、「誤読」になる。
 それは「悪い」意味ではない。「否定的」な意味ではない。「何年も何年も絡まった」何かを「正直」に書こうとすると、「流通言語」では書けないものがある。「流通言語」を切り捨てなければならないことがある。
 「流通言語」からずれて、違ったことばを語るしかない。
 「誤読」ではなく、「誤語り(誤書)」なのかなあ。それは「誤っている」のだが、その「誤り」のなかに、水嶋でしか語れない「正直」がある。--そういうふうにしかいえない「誤読」。
 「世界」を「誤読」するとき(「誤書」するとき)、そのときだけ、人間は「正直」になるのかもしれない。なれるのかもしれない。

 「正直」は嫌われる。「現代詩っ、わからない」と敬遠される。でも、「世界」は「誤読」するひとがいないと、平板になる。

おりこうさんのキャシィ
長田 典子
書肆山田

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twins
水嶋 きょうこ
思潮社

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志賀直哉(12)

2010-07-26 12:53:41 | 志賀直哉

「蝕まれた友情」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「一」の部分に、友人が海でおぼれかける場面がある。なんとか泳ぎきり、浜へたどりつく。

 青い顔をして、君は砂の上に水を吐いた。その水に油が浮いてゐた。その昼、佐久間の家(うち)で天ぷらを食つた、その油だ。

 思わずうなってしまった。うまい、というと「小説の神様」だからあたりまえなのかもしれないが、うまい。ほんとうにうまい。リズムが正確である。意識、思考のリズムが、これ以上ないくらいに正確である。

 その水に油が浮いてゐた。

 これは読んだ瞬間、なんのことかわからない。おぼれかけた人間が、丘にあがって水を吐く。海で飲んだ水を吐く。それまでは、わかる。でも、油? なぜ? 海に油が浮いていた? そういう汚い海で泳いでいた? いや、違う。
 何?
 これは、水を吐いている友人を見ていた志賀直哉自身の疑問かもしれない。驚きかもしれない。
 その驚きを解明するようにして、「過去」が思い出される。昼食に天ぷらを食べた。その天ぷらの油が、まじっているのだ。
この、水を吐くという「ありふれた事実」。それに油が浮いているという不思議な現象。それを見る驚き。それから、理由がわかる。納得する。その意識のリズムが、ほんとうにリアルである。
 たとえば、これを、

君は水を吐いた。昼、佐久間の家で天ぷらを食べたので、その天ぷらの油が消化されないまま、吐いた水に浮いていた。

 という具合に、途中に「理由」を挿入してしまうと、意識の流れとは違ったものになる。ある事実を説明するのに、「理由」を途中に挿入すると、そこに起きていることのスピードがにぶる。事実を見て、人間の意識は動くのだが、その動きが、実際に動いたままの動きとは違ってきてしまう。
 意味としては同じことを書いているのに、まったく違ったものになってしまう。

 ことばが伝えるのは「意味」だけではない。いや、「意味」などどうでもいいのだ。重要なのは、ことばの運動(動き)が、意識の動きとどれだけ合致しているかということなのだ。意識の動きのスピードをそのまま再現した文章が、ひとをひきつけるのだ、と思う。


小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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中田敬二『島影』

2010-07-26 00:00:00 | 詩集
中田敬二『島影』(思潮社、2010年05月20日発行)

 中田敬二『島影』はウェブに書かれた詩である(と、帯に書いてある)。私は眼を悪くしてから、あまりウェブを巡り歩かないので、こうして本になったのを読む。
 「片言(かたこと)集」は4行ずつの集まりである。タイトルは特になく、代わりに番号がある。一日に何篇かずつ書いているのだろう。似たようなリズムのことばがつづく。「ヤだなア」という詩が3篇ある。

327

クニって ヤだなア
大地を切り裂き
旗を立て
戦車をならべ

328

詩人って ヤだなア
そのブルーな好色
そのリエゾンな陶酔
そのモダンな孤高

329

テレビも ヤだなア
たらふく食って 飲んで
でかいかおしてる
おれ おれ おれ

 簡単にことばにしすぎている感じがする。ことばがつまずかない。唯一「リエゾンな陶酔」ということばに、ちょっとこころが動いたが、その瞬間、あ、こんな部分にこころが動くなんて、「ヤだなア」と思ってしまった。
 文学文学している。
 そのまわりのことばが、「流通言語」でありすぎるので、ふいにあらわれた「リエゾンな陶酔」という異質なことばの結びつきに反応してしまう私がいやになってしまう。
 そして、思った。
 中田のこの「片言集」は一種のリトマス紙である。ときどき「文学文学」したことばがでてきて、どっちが好き?と読者に迫ってくるのである。

338

胡蝶ランのつぼみが倒れ
おれの脚が血を噴いた
羽化する寸前
きりきりと傷口が痛んだ

 「胡蝶ラン」から「蝶」が「羽化」していく。そのイメージが「肉体」(脚、傷)と重なる。これも「文学文学」しているねえ。

340

時空は一体なのだから
時間は空間なのだから
空間さえあればいい
時間に追いこされて

 これは「哲学哲学」している。これに反応してはだめなんだろうなあ。これは罠の一種なんだろうなあ、と思う。
 では、罠ではないことばはどこにあるか。
 「テングザル と 空」。そこにとてもおもしろいことばがある。

おお
かゆいそら

 という2行のあと、「かゆい」の文字が、体をひっかいたように「か」「ゆ」「い」とばらばらになって、また寄り集まっている。ここではその文字の配列を再現できないので、ぜひ、詩集で読んで(見て?)ほしい。
 「かゆい」がかゆがりながら、遊んでいる。かゆい、が、ゆかい、になる。
 そして「かゆいだいち」ということばにつながっていく。
 ここにあるのは、「意味」ではない。「遊び」である。そして、その遊びが「文学文学」したものを一気に吹き飛ばす。
 こういう詩がもっとあればなあ、と思う。そうすると、とても楽しいのに。




島影
中田 敬二
思潮社

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ピーター・ウェアー監督「刑事ジョン・ブック 目撃者」(★★★★★)

2010-07-25 10:19:47 | 午前十時の映画祭

監督 ピーター・ウェアー 出演 ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ジョセフ・ソマー、ルーカス・ハース

 これは、これは、これは。と、思わず言ってしまうくらい、好きなシーンが次々。どこから書いていいかわからない。
 時系列(?)で言うと、少年が警察で犯人の写真を見つける。指さす。その指をハリソン・フォードの掌がそっと包んで隠す。いいなあ。ふたりとも何も言わない。何も言わないけれど、会話が全部聞こえてくる。少年もいいし、私の大嫌いなハリソン・フォードもこのシーンはいいなあ。少年が「表彰陳列棚(?)」の前で動けなくなるに気づき、それから近づいてきて、少年の指を隠すまでの、スリルに満ちた時間。いやあ、どきどきします。えっ、誰か、ハリソン・フォードが少年の指を隠すの見なかった? ね、心配になるでしょ? 思わず、まわりを見わたしてしまう。映画なのに。まるで、少年と、ハリソン・フォードがいる警察署にいる気持ち。今回は「午前十時の映画祭」。この映画を見るのは2回目になるが、やっぱりまわりを見わたしてしまった。気づいた警官、いないよね、と。
 あとで書く好きなシーンも台詞がないのだけれど、その少ない台詞のなかで、唯一2回くりかえされることばがある。「このことを知っているのは私ときみと、ふたりだけ」。ハリソン・フォードの上司のことば。このことばが手がかりになって、ハリソン・フォードは真相を知るのだけれど、このときも映画は「わかった」というようなことは言わない。ハリソン・フォードに台詞はない。頭の中に、上司の声が響く。それだけ。この、あることをきっかけに動いていく意識の自然な流れ--それをことばにしない。意識の自然な流れ、必然を、無言のまま見せるので、この映画は、台詞になっていないことばで満ちあふれる。観客が自分で「ことば(台詞)」をつくっていく。
 こういう映画が好きだなあ。
 好きなシーンの二つ目。ケリー・マクギリスが夜中、体を洗っている。それをハリソン・フォードが見てしまう。目があう。でも、ふたりとも何も言わない。この瞬間、ちょっと不思議なことを感じてしまう。映画は、ふたりが見つめ合う前にケリー・マクギリスの沐浴をアップでていねいに撮っている。それは実際にはハリソン・フォードが見たすべてではないけれど、つまり、ハリソン・フォードが見る前のシーンなのだけれど(観客しか知らないシーンなのだけれど)、なぜか、ふたりが見つめ合った瞬間、すべてをハリソン・フォードが見ていたと錯覚する。そして、ケリー・マクギリスも、まるでハリソン・フォードが見ているのを知っているかのように、ゆったりと体を洗う。ハリソン・フォードの視線を体のすみずみにまで誘うために、スポンジをもった手が動く。そして、そこからこぼれる水さえ、ハリソン・フォードを誘っているのを知っているかのように、きらめく。
 こういうことは時間の流れから言うとまったくの間違い、矛盾なのだけれど、そういうことが起きる。つまり、知らないはずの「過去」が「いま」のなかに噴出してきて、それが「未来」へと人間を動かす--その動き(人間を動かそうとする力)が、知っている以上にわかってしまう。そういうことが瞬間的に起きる。
 これは、少年が犯人の写真を指さし、その指をハリソン・フォードがそっと隠したときにも起きたことである。ハリソン・フォードは「過去」(つまり、少年が目撃したこと)を知らない。知らないけれど、少年の動きから、「過去」を少年が見たままというより、少年が見た実際の光景よりもはっきり見てしまう。「殺し」というものがどういうものか知っている--そのハリソン・フォードの「過去」が、少年の小さな動き、それを隠すハリソン・フォードの肉体のなかに、あざやかに噴出してくるのである。
 沐浴シーンにもどれば、ハリソン・フォードがケリー・マクギリスをみつめるとき、彼女は手を動かしていない。けれど、ハリソン・フォードにはその手の動き、水の動き、体のすべての動きが見えるし、またケリー・マクギリスには、そういう動きを見つめる男の目が見えるし、そういう視線の前で繰り返してきた肉体のすべてが、いま、噴出していることを知っている。「愛」の時間が、そこに噴出している。「愛」がふたりを動かそうとしているを瞬間的にわかってしまう。そして、わかるから、それをおさえる。そうすると、肉体のなかで、そのわかったことが行き場を失って、ふくらんでくる。肉体を突き破って出て行こうとするのがわかる。
 これを、ことばなしで、肉体、その視線の色の強さだけでスクリーンにあふれさせる。いいなあ。
 三つ目。夕暮れ。ケリー・マクギリスがかぶっていた帽子(?)を脱ぐ。帽子を脱ぐ、髪を見せる、というのは、ヨーロッパの習慣で靴を脱ぐのはセックスを意味するのと同じように、やはり肉体を解放するという意味をもっているのだろう。ケリー・マクギリスは、そっと帽子を部屋の中に置く。そして、外へ飛び出す。ハリソン・フォードと抱き合い、キスをする。そこで描かれるのはキスまでだが、それはケリー・マクギリス性交以上に、濃密な愛の瞬間である。このシーン。美しい美しいシーンを、ピーター・ウェアーは憎らしいことに、鮮明な映像ではなく、かすれた、粗い画質でとらえている。スクリーンに映し出す。あ、まいるねえ。それは不鮮明だから美しい。セックスがそうであるように、それは「見せる」ためのものではない。だから、不鮮明でいい。それは「ふたり」だけの体験、ふたりだけのものであるから、観客には見せなくていいのだ。いや、観客に見せているのだけれど、見せながら、これは観客のために撮っているのではなく、ふたりの「実感」のための映像なのだとピーター・ウェアーは言うのだ。実際、この瞬間、映画を見ているのを忘れるねえ。まるでハリソン・フォードとケリー・マクギリスになってしまう。そして、あした、この家を出て行ってしまうハリソン・フォード、離ればなれになるふたりにとって、このキスは、記憶のなかで、こんなふうにいくぶんかすれた色になりながら、だからこそ、その実感を強くゆさぶる大切な瞬間になるのだなあとも思うのだ。
 ふつうの、というか、「流通映画言語」なら、こういうシーンは、美しい夕暮れの空気がふたりを包む感じで、くっきりと撮影するだろう。そうせずに、あえて、粗い映像にしている。そこに、ピーター・ウェアーの映像意識を見たように思った。



 視点をかえて、別なことを。
 この映画の原題は「ウィットネス」である。「目撃者」である。「刑事ジョン・ブック」ということばはない。
 「目撃者」は最初は事件を目撃した少年そのものを指している。ところが、最後の最後でその意味が違ってくる。ハリソン・フォードの上司が、ハリソン・フォードの居場所を突き止め、殺しにやってくる。そして、ケリー・マクギリスを人質(盾)にしてハリソン・フォードを射殺できるところまで追い詰める。
 そのとき。
 まわりには、大勢の村人がいる。「目撃者」が多数いる。その「目撃者」を証人として、ハリソン・フォードは言う。「何人殺すつもりか」。ハリソン・フォードを殺しても、上司は「救われない」。有罪から逃れられない。法廷から逃れられない。全員を殺すほど銃弾はないし、「目撃者」だらけになってしまって、その「証言」を否定できなくなる。
 これはなんでもないことのようだけれど、すごい。
 その「自明の事実」がすごいということもそうだけれど、このときのハリソン・フォードのことばのなかに、ハリソン・フォード(刑事ジョン・ブック)の「人間の変化」が象徴されているからである。
 刑事ジョン・ブックは、少年の情報から「犯人」探しに出かけ、そこで出合った無実の人間を平気で殴ってしまう乱暴者である。ある意味では力(暴力)で「事件」を解決してきた人間である。その人間が、ケリー・マクギリスたちと暮らす内に、違った人間性を身につけるのである。(ピーター・ウェアーの映画は、主人公がいままで知らなかった世界に触れ、そこでかわっていくことが一貫したテーマであり、哲学である。この映画でも、それは貫かれている。)
 銃によって事件が解決するわけではない。銃によって何かを葬り去ることはできない。非暴力、「目撃(者)」が、「事実」を「事実」として告発する。その力の方が、銃よりも強いのである。少年も、ケリー・マクギリスも、村人も銃をつかわない。それでも、その「目撃」と、その「ことば」の証言は、銃より強い。そのことを刑事ジョン・ブックは実感として「発見」する。
 日本語のタイトルを「刑事ジョン・ブック」だけにしなかったのは、そういうことを配慮してのことなのかどうかわからないが、もしそうであるなら、「刑事ジョン・ブック」というタイトルそのものはやめて「目撃者」だけにすればよかったのに、と思った。

                          (午前十時の映画祭、25本目)

L刑事ジョン・ブック 目撃者 (英語/日本語字幕) [DVD]

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』

2010-07-25 00:00:00 | 詩集
高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』(思潮社、2010年07月20日発行)

 高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』は、不思議な詩集である。たとえば「肩に触れた指を仕舞う所がなく」という魅力的なタイトルの詩。

会談が途切れて畳む足もないのです。私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。あなたの接触する点(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)にこれからも再生するでしょう。

 詩は「意味」ではない--ということは知っているけれど、というか、私自身、「詩は意味ではない」と何度も書くけれど、そのとき私は「意味」を突き破っていくことばの暴走を楽しんでいる。ことばの暴走に驚きながら、その恐怖を楽しんでいる。ジェットコーススター、絶叫マシーンのように。「わけのわからんことを書くな」と怒りながら、「おいおい、どこまででたらめを書くことができるのだ」と喜んでいる。
 高谷和幸のことばは、そういう暴走、スピードとは無縁である。
 ひとつの文と、次の文の「接触点」が見えない。飛躍の、「分離点」が見えない。何かがつながっていて、何かが離れている、ということがわかるとき(感じられるとき)、そこに暴走という感じが生まれてくるのだけれど、高谷のことばには、それがない。
 そして、文と文との間に(句点「。」で区切られた文と文との間に)、「接触点」と「「分離点」がないかわりに、ひとつの文のなかに「分離点」と「接触点」がある。

私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。

 括弧をつかい、挿入されたことば--それは、直前の「時代」ということばに接触しながら、同時にそこから離れていく。「離れていく」というのは挿入という概念からすると、とても不思議な気がするが、高谷にとっては、挿入されたことばは文体に対する点滴(カンフル剤)のように、挿入を受け入れた「からだ(文体)」を活性化させるというよりも、何か、鎮静させ、停滞させる。挿入されたもの、挿入したものが一体にならずに、接触しながら離れている。
 (あれは、誰かの息吹きであったと思う)は、「私たちは四角い天地に憧れて時代をしばしば遮るように。」という「文」の「からだ」を刺激しない。ただ、共存している。「からだ」と「衣服」の関係よりも無関係に共存している。
 (暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)と「あなたの接触する点にこれからも再生するでしょう。」も同じである。「ひかりのへりあたり」ということばは魅力的だが、それは「再生」とは単に「共存」しているだけで、「呼応」していない。無関係である。
 「ひかりのへりあたり」はむしろ前の文の「誰かの息吹き」と呼応している。
 「文」に挿入された括弧内のことばは、他の括弧内のことばと呼応している。「文」から「分離」し、分離したものどおしが呼び合い接触しようとしている。
 詩のなかから、括弧内のことばだけを引用してならべてみる。

(あれは、誰かの息吹きであったと思う)
(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)
(プロポージション物質を分泌するそれら四つのわたしを射抜く細部)
(眼の無垢であるかのような)
(あの瘴気に手懐いた動き)

 ここには、「文(体)」を離れたことば、「文」の「意味」から「離れた」ことばの呼応がある。
 「文(体)」を離れたことばだけで、別の「文体」をつくれば、そこにひとつの詩が誕生する。ただし、それはすでに「現代詩」がやっていることである。同じことをやりたくないので、高谷は、「文(体)」を離れたことばを「文(体)」のなかに挿入し、「文(内)」に閉じ込め、「文(内)」と「文(内)」の、(内)同士を呼応させるのである。(内)を「意味」ではなく、「こころ」と置き換えることができるかもしれない。
 「文体」のなかに「からだ」と接触しながらも、離れて存在する(閉じ込められながらも、閉じ込められているということを意識することで、そこから離れたいと思っている)「内心」同士が、呼び掛け合っているのである。

 こうした動きに、もうひとつ、別のことばの運動が加わる。

ひかりが差し込んだような瞳であなたが「丈夫な空洞が羨ましい」(眼の無垢であるかのような)といわれたことを思い出します。あのひかり(あの瘴気に手懐いた動き)。「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。

 カギ括弧によることば。これは、あきらかに「他者」のことばである。丸括弧のことばは「わたし(たち)」の「内心」であるが、カギ括弧のことばは「他者」の「内心」がことばそのものとして、「からだ(肉体)」の外へ出てしまった「こころ」(外心--と区別して書いておこう)である。
 「内心」と「外心」が触れ合う--そういう瞬間を高谷は書こうとしているのかもしれない。そのとき、「肉体」というからだは、「わたし(たち)の肉体」と「他者の肉体」は分離している。
 図式化すると

「わたし(たち)の肉体」-「内心」-「外心」-「他者の肉体」

 という関係になる。それは

「わたし(たち)の文(体)」-「内心」-「外心」-「他者の文(体)」

 という関係にもなる。なるのだが、この詩では、その「他者の文(体)」というものが、ない。

「外心」=「他者の文(体)」

 という形で、「肉体」の外に飛び出してしまっている。「肉体」の不在。
 思うに、この詩は、死者との対話、なのである。
 詩のつづき。

「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。そうでしょうとも。あなたの横たわる地面の底を流れていた水にようやくなれたようで、わたしたちは何万年も不在です。

 「あなたの(他者の)肉体」と「わたし(たち)の肉体」の接触のなさ、死者と生者の違い--それは関係が「不在」である。

 そんなふうに読んできて、高谷はおもしろいことをやっているんだなあと感じながらも、ひとつ疑問が残る。冒頭、

 会談が途切れて畳む足もないのです。

 私は「会談」という、いきなり止まってしまうことばにつまずく。だれかと話していて、ことばが途切れる。そのときの空白を「畳む足もない」と「肉体」に取り込んでいくことばの運動は魅力的だが、「会談」って何? 死者をとりまく生者である「わたし(たち)」のことばのやりとりなのかもしれないが、この「足」という「肉体」の内部にある「内心」がまったく見えない。
 最後に「そうでしょうとも。」という突然の肯定で出てくる「内心」のことばの噴出の、不思議な汚さ--それに、私はまごついてしまう。
 「内心」は「肉体」という外部に隠されているがゆえに、見えても、見えないといえるものである。そこに美しさがある。けれど、それが「肉体」から出てしまうと、とたんに汚れてしまう。
 なぜ、最初から最後まで「内心」は「内心」のまま、呼応し合えないのか--それがわからない。高谷は「肉体」と「内心」、あるいは「文体」と「内心」の関係をどう考えているのだろうか。




ヴェジタブル・パーティ
高谷 和幸
思潮社

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廿楽順治「舌塔」

2010-07-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「舌塔」(「ガーネット」61、2010年07月01日発行)

 詩は、何が書いてあるかわからないね。状況が説明されない。だから、私は適当に考える。そして、この考えるというのは恐ろしいことに、どうしたって自分をさらけだすということになる。ようするに、知らないことは語れない。知っていることしか語れない。
 廿楽順治「舌塔」。
 これは、タイトルがわからない。私は、こんなことばを読んだことがない。こういうとき、どうするか。辞書を引く--ということは、私はしない。調べたって、わかりっこない。知らないことばなんだから。知らん顔をして(無視して?)、「本文」を読んでいく。作品は、行の尻がそろえられているのだが、尻をそろえるのがむずかしいので、頭をそろえる形で引用する。(ごめんね。)

意識をうしなってからがいちにんまえ
なのである
達人は
みんなおんなじかたちで横たわっている
そうだよね
ことの前後もわからずに
男共はテーブルのかどで声をひとつにするが
くらいばかりのご飯であった

 何かなあ--なんて、考えるより先に、こりゃあ、お葬式だね、と思ってしまう。葬儀のあとの会食。そこで男たちが話しあっている。「意識をうしなってからがいちにんまえ」とは「死んでからがいちにんまえ」と聞こえてくる。「なのである」の独立した1行。その念押しが、他人のことばを待って何かを語りはじめる感じをくっきり浮かび上がらせる。
 「達人は/みんなおんなじかたちで横たわっている」というけれど、まあ、たいてい人間は同じ形で死んでいくね。「達人は」というのは、一種の「敬意」。「そうだよね」とここでも念押し。
 この念押しのリズムがいいなあ、と思う。
 顔を近づけるようにして、語り合う。そのとき葬儀の会食だからというだけではなく、その顔のつきあわせる角度によっても、ご飯に影が落ちる。「くらいご飯」になる。

バナナの皮がいちまいと
あたまをうしなった魚のどこか
なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ
背景に
塩をふりすぎていて
(こどもは食べられない)

 「バナナの皮がいちまいと/あたまをうしなった魚のどこか」などという「ご飯」があるものか--と思うけれど、そういうふうに、こんなもの、たべられないよ、と思うのが「葬儀の会食」かもしれない。
 そういう、一種の、わけのわからない行のあとに、

なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ

 あ、いいなあ。わかりすぎるくらいわかる(わかるとかってに思い込むことができる、という意味にすぎないけれど)。そういう会食のときのことばは、「本心」(ほんとのう感情)というのはどこかに隠しているかもしれない。そして、その隠しているという事実だけがつたわってくる。
 こういう雰囲気を「背景に/塩をふりすぎていて」というのか。おもしろいなあ。(こどもは食べられない)とは、そういうニュアンス(?)はこどもにはわからない、ということかな?
 
 で。途中は省略して。

ひとりではことの前後もわからない
立ちあがるやいなや
たちまちわがはいの部隊はぜんめつさ
だからかんじょうもはらわず
おんてじかたちにつらなって舌の塔から出ていった
達人だって
いずれは分解されてしまうのである

 「会食」は解散。みんな「立って出て行く」。そういうときのひとの形は、死んだときのひとの形がおなじように、また「おなじかたち」である。ぞろぞろ「つらなって」出て行くだけである。こういう人たちもまた、「いずれは分解されて」、つまり死んでしまうのである。
 ということかなあ。
 で。
 おもしろいのが、

だからかんじょうもはらわず

 である。漢字をあてれば「勘定も払わず」かもしれない。葬儀の会食の費用は、参列者が払うものじゃないからね。
 でも、このことば、何か思い出さない?

なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ

 「勘定」と「感情」が重なる。
 その瞬間、「くらし」の何かが見えたような気持ちになる。「勘定」と「感情」はどこかでつながっている。声に出すとアクセントが違う(私は区別している)。でも、「書きことば」(文字)だと区別がない。
 そういう「区別のない」領域を、廿楽は揺さぶっている。そういうことばを動かしている。




すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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ローラン・ティラール監督「モリエール 恋こそ喜劇」(★★)

2010-07-23 09:02:45 | 映画

監督 ローラン・ティラール 出演 ロマン・デュリス、リュディヴィーヌ・サニエ、ファブリス・ルキーニ、ラウラ・モランテ

 タイトルバックが奇妙である。布地? 意味もなく延々と違った種類の模様、やわらかなカーブが映し出される。最初は「これ、何?」としか思えない。そして、映画を見ている途中、そのことを忘れてしまっている。ところが、見終わった瞬間、
 あ、そうか。
 この映画はモリエールを描いている。その出発点の恋の喜劇を描いている--というのは、実は、みせかけだね。
 この監督は、モリエールを描くというより、モリエールが誕生してきたフランスの時代の変化を描きたかったのである。
 歴史にうといので、私の書くことはいいかげんな推測なのだが……。
 モリエールの生きていた17世紀なかごろ。貴族が没落し、商人が台頭してきた。「権力」がゆらいでいる時代である。この映画のなかにも、貴族よりもはるかに金持ちの貿易商人が出てくる。それは新しい「権力」である。「金」が「権力」である。貧乏貴族は「名前」を利用して商人の「金」という権力に近づき、商人は「名前」という権力がほしくて貴族に近づく。
 タイトルバックの布は絹織物なのだろう。そしてそれは貿易商人があつかっているものなのだろう。その貿易によって彼は莫大な金を手に入れ、ほとんど貴族のような生活をしている。貴族のまねをしている。音楽も、ダンスも、絵画も、馬術も、猟も、金の力で貴族そっくりに(貴族以上に)、「形」として手に入れている。
 手に入らないのは、貴族の女、その女との「恋」だけである。サロンでわがまま放題を言ってのける傲慢な女の「こころ」だけが手に入らない。あ、肉体はもちろん手に入らないけれど……。
 一方に、貴族の「傲慢な恋」、ひとをひととはみなさない「傲慢な恋」があり、そんな女に胸を焦がす中年男の「愚かな恋」があり、他方に「商人の娘」に代表される素朴な恋がある。「恋」もまた、貴族から商人への時代の変化にあわせて、揺れ動いている。
 そして、そういういくつもの「恋」の時代にあって、娘の素朴な愛(乙女の純情)を見守る母には思いもかけなかった「恋のときめき」がやってくる。「純情」がやってくる。夫への愛などとっくにさめてしまっていて、ひたすら「恋の激情」を夢見ている女の前に、若い男--モリエールがあらわれる。新しい才能があらわれる。
 母親がモリエールに恋するのは、彼が若い男であるからという理由ではない。モリエールが新しい才能を持っているからである。新しいことば。新しい笑い。時代を突き破って動いていく新しい力。
 古いものに新しいものがとってかわる--その激変の時代の象徴がモリエールなのだ。

 あ、でも、これは、とてもわかりにくいねえ。映画になっていないねえ。いや、私が歴史にうといから、細部にはりめぐらした「事実」をつかみそこねていて、映画になっていないと思うだけなのかもしれないけれど。
 何がいけないのか。
 貴族も商人も、紋切り型の「うす汚れたフランス男」、女の方も見栄えがしない。--と書くと、私のフランス嫌いが露骨に出てしまうけれど。簡単に言えば、美男・美女が登場しない。モリエールにしろ、ぜんぜん魅力的じゃない。主役は「人間」じゃなくて、「時代」そのもの、だから人間はどうでもいい、ということなのかもしれないけれど、私はやっぱり人間をみたい。
 モリエールになりたい、と思わせる男でないとねえ。
 歴史の勉強、あるいはモリエールの歴史的意義づけなんて、そんなことは「教科書」でやってくださいね。

 なんだか「恋愛ごっこ」以下の、「お勉強ごっこ」という気持ちにさせられる映画でした。


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池田順子「水域」

2010-07-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「水域」(「ガーネット」61、2010年07月01日発行)

 池田順子「水域」は突然はじまる詩である。状況が書かれていない。書かれていないから、勝手に想像するのだけれど、これはとてもいい詩である。
 その全行。

おおきなからだが
ぐらりとかたむいて
ふいにからだのなかの水域が
高くなった
父の
目がしら

背後のやまが
いっせいに後退していく
のがわかる

つられて
よろめいた
わたしの
からだのなかの水域が
危険水位を越え
高くなっていた

父のからだから
わたしのからだへ
うごくみず

ことばがはまる
くいにひっかかったり
浮いたり
沈んだり
ことばがいっしょに
おしながされて
雲になる

夏の雲が
空をおしあげていく

 池田は父といっしょにいる。そこでどんなことばが交わされたか。あるは交わされなかったか。たぶん、ことばは交わしていない。ことばは交わさなくても、父と子であるから、通じるものがある。
 父のからだが揺れ(ぐらりと傾く)、「わたし」のからだもゆれる。傾く。
 それを「水」の揺れとして池田は書いている。人間のからだのなかにはいろいろな「水」があるが、ここに書かれている「水」は涙である。涙が、からだの奥からこみあげ、のどもとを押し上げ、いま「目がしら」まできている。あふれる寸前である。
 それにあわせて池田の「水」もかさを増し、父の「水」が池田のからだのなかに次々にそそぎこまれ、池田の涙も限界水域を越える。
 ことばがうまく動いてくれない。
 そのかわり、「水」はどんどん積み重なるようにして高くなる。
 ふたりのからだを突き破って、夏の雲、入道雲のように、高く高くのぼっていく。空さえ押し上げる。
 この「共感」がいい。

 2連目、

背後のやまが
いっせいに後退していく
のがわかる

 この「わかる」は、「やまが/いっさいに後退していく」と感じる父の感じ方、気持ちが「わかる」である。
 「気持ち」の「共有」。それが「わかる」。
 「わかる」から、ことばはいらない。「わかる」とは、和解でもある。

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志賀直哉(11)

2010-07-22 12:10:05 | 志賀直哉

「灰色の月」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 山手線でのスケッチ。人間描写が、厳しい。

 地(じ)の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭で継(つぎ)が当ててある。後前(うしろまえ)に被つた戦闘帽の廂の下の汚れた細い首筋が淋しかつた。

 志賀直哉は徹底的に「視力」のひとだと思う。目で見たものを「事実」と考えるのである。そして見たものを書いたあと、そこから「淋しかつた」というような感覚を躊躇せずに引き出す。このスピードが独特だと思う。とても速い。そして、その速さのために、それまで視力がとらえてきたものも、ぱっと洗い流される。「よごれた」ということばさえ、不思議と「よごれ」が広がらない。どんなに汚い(?)ものを書いても、それが汚さとしてあふれてこない。
 不思議な文体の力だと思う。

 次の部分は、このスケッチのなかでいちばん不思議なところである。

 少年工は身体を起こし、窓外(そと)を見ようとしたとき、重心を失ひ、いきなり、私に倚りかかつて来た。それは不意だつたが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思ふのだが、其時は殆ど反射的に倚りかかつて来た少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切つた動作で、自分でも驚いたが、その倚りかかられた時の少年工の身体の抵抗が余りに少なかつた事で一層気の毒な想ひをした。

 少年工の体が寄り掛かるように倒れてきた。それを思わず肩ではね返した。それは自分の意思に反していた。なぜなんだろう。そういう一種の「反省」を正直に書いているのだが、三つの文章のなかに、3回「倚りかか(る)」ということばが出てくる。簡潔な文章、「小説の神様」といわれる志賀直哉にしては、志賀直哉らしからぬといいたくなるような文章である。
 けれど、この繰り返しによって、少年と志賀直哉の肉体が何度も何度も接触する。あ、志賀直哉は、この接触をなんとか正確に書こうとして、その「正確」を探しているのだ、ということがわかる。
 志賀直哉は、目にみえるものを「事実」として正確に書くと同時に、自分のこころから「間違いのない感情」を引き出そうとしているのだ。

気の毒な想ひ

 倒れてきた少年を、肉体がかってにはね返してしまった。それは「気の毒なことをした」--志賀は、「気の毒」というこばをさぐりあてることで、やっと落ち着くのである。そのとき、自分自身のしたことを、やはり清潔に洗い清めるのである。
 「気の毒」を、志賀直哉は、しかし目立たない形(感情だけが目立つ形)にはしない。そっと「事実」のなかに返していく。このことばの運動も、とても美しい。
 先の引用した三つの文につづいて、次のようにことばが動いていく。

私の体重は今、十三貫二三百匁に減つてゐるが、少年工のそれはそれよりも遥かに軽かつた。

 ここには「倚りかか(る)」はない。

私の体重は今、十三貫二三百匁に減つてゐるが、「倚りかかつて来た」少年工のそれはそれよりも遥かに軽かつた。

 と書くこともできるし、実際、そういう意味なのだが、ここでは「倚りかか(る)」を省略する。そうすると、そこから少年工の不作法(?)が消え、志賀直哉の「気の毒」がより鮮明になる。
 そんなふうにして、志賀直哉は、少年が寄り掛かってきた「事実」を消し、志賀直哉が少年をはね返したという「事実」に書き換え、「気の毒」を体重で強調する。「気の毒」が志賀直哉の反省であると同時に、読者が納得できる形にする。

 こういう文章を読むと、たしかに志賀直哉は「神様」かもしれないと思う。

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志賀 直哉
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