詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外27(情報の読み方)

2016-09-30 17:14:59 | 自民党憲法改正草案を読む
2016年9月30日の読売新聞(西部版・14版)2面の記事。見出しは「自民憲法草案 固執せず 参院代表質問 首相、各党議論を尊重」。次のように書いてある。

 安倍首相は29日の参院本会議での代表質問で、憲法改正について「合意形成の過程で特定の党の主張がそのまま通ることはないのは当然だ」と述べ、衆参両院の憲法審査会では各党の議論を尊重し、自民党の憲法改正草案にはこだわらない考えを示した。
 首相は「各党がそれぞれの考え方を具体的に示した上で、建設的な議論が進められることを期待する」と語った。日本維新の会の片山共同代表の質問に答えた。

 朝日、毎日新聞も「大筋」で同様に伝えている。

読売新聞は<論戦の詳報>(15面)では次のように書いてある。

 ■憲法改正
 憲法審査会という静かな環境において、各党が真剣に議論し、国民的な議論につなげていくことが必要で、期限ありきではない。合意形成の過程で、特定の党の主張がそのまま通ることがないことは当然と考えている。

 私は、安倍の「憲法審査会という静かな環境において」の「静かな」という表現が気に食わない。
 天皇の「生前退位」をめぐる「有識者会議」の設置の時も使われていた。
 で、「静かな」の何が問題なのかと言うと。
 毎日新聞が「詳報」で、民進党・小川敏夫の質問を「首相のことばで改憲問え」という見出しで、次のように書いている。

 安倍晋三首相は国民に対し、自身の言葉で憲法改正について問い掛けていない。選挙で数を得たから改憲手続きを進めてしまおうということなのか。首相が言う(改憲に向けた)「政治の技術」とはどういう意味か。

 この小川の質問に、問題点が要約されている。
 安倍は「改憲」を口にするが、具体的にはどこをどう変えるか、国会で語っていない。選挙でも語っていない。「自民党憲法改正草案」は発表済みだから、それを読めということなのだろうが、これは、おかしい。
 私はネットで読んだが、すべての国民がネットで読むことが出来るわけではない。
さらに問題なのは、安倍が自分のことばで語れば、きっと野党は安倍のことばを取り上げ質問する。つまり、「対話」が公開される。公開された「対話」を聞くことで、気付かなかった問題が明確になる、ということがある。
 民主主義は、そうやって「対話」が騒がしくなることで、少しずつ進展するものである。「対話」が活性化して、はじめて、そこに「少数意見」も登場できる。
 安倍は、いつでもこの逆をやる。
公開の「騒がしい対話(討論)」を封じ、「専門家(有識者)」の「密室(静かな環境)」で「結論」を出す。
 これは、国民はだまって安倍の言うことを聞け、という「独裁」そのものの姿勢である。
 「専門家(有識者)」の選択は、安倍が握っている。(「憲法審査会」の場合は、国会議員によって構成されるのだろうから、安倍が全員を人選するわけではないが。)そして、そこでも安倍は直接発言しない。直接発言しないことで「中立」を装う。「専門家が審議して出した結論」を装う。あるいは「専門家のことば」で自分を武装する。
これは、私には、とても「卑怯」な態度に見える。
本当に言いたいことがあるなら、したいことがあるなら、安倍自身のことばで語り、国民の批判にこたえるべきである。

「静かさ」は民主主義の「敵」である。
 参院選で、安倍は籾井NHKを使い、「選挙報道をしない」という作戦、つまり「静かな」選挙戦を作り出した。その「静けさ」のなかですべての「少数意見」は抹殺された。「民進党にはもれなく共産党がついてくる」というキャッチフレーズで、参院選を「自民党対共産党」の対決のように「争点化」したのである。

 これを証明するのが、朝日新聞の「耕論 若者の与党びいき」の平岡浩の次の指摘。

 昔から同じ名前の政党は自民、公明、共産ぐらい。若い人には「保革対立」のリアルな記憶もない。この十数年、有権者への露出度は自民が高く、量も圧倒的に自民です。極端に言えば、若い有権者は自民を選んでいるというより、自民以外はよく知らないという状況なのだと思います。

 自民圧勝は「静けさ」が作りだしたものなのだ。


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水の周辺6

2016-09-30 10:57:59 | 
水の周辺6



花の中で
死んでいく水。

死んでいる水。



花びらの縁が
錆びるとき、

水が死んでいる



死んだ水を
求める色
死んだ水に
狂う色



思い出したのに
思い出せないと
思い出している、
水。






*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)発売中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
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までご連絡ください。
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ダーグル・カウリ監督「好きにならずにいられない」(★★★+★)

2016-09-30 10:30:49 | 映画
監督 ダーグル・カウリ 出演 グンナル・ヨンソン

 予告編で、主人公(四十歳を超えた肥満男)が少女に冷酷な(?)質問をされる。「大人なのに結婚していない?」「女の人とつきあったことあるの?」。うーん、鋭い。これが見たくて見に行ったのだが……。
 映画が終わった瞬間(主人公が飛行機の中から窓の外を見ている、その横顔で終わる)、斜め前の女性が「はぁぁぁ」とも「ふぅぅぅ」とも聞こえるような、力のない「ため息」をついた。いやあ、若い女性が、主人公の気持ちに感染して(?)、こんな切ないため息をつくなんて。ため息を聞いて「切ない」という感情を思い出すというか、そうか、自分はいま「切ない」という感情を感じているのかと気づかされるなんて。
 これで、私は★を一個追加しました。
 映画館で、一緒に見て、そのときに「かわる」評価というか、感想がある。

 で、なぜ、日本の若い女性が、アイスランドの太ってぜんぜんモテない男の「気持ち」に感染してしまうかというと。
 「好きにならずにいられない」という気持ち、だれかを好きになったとき、人がすること(人にできること)というのは同じだからだ。
 その人のそばにいたい。そのひとが喜ぶことをしたい。その人が喜ぶとき、自分もうれしくなる。その喜び。その人が言ったことは、全部、覚えている。だから、その覚えていることを、全部、したい。
 女は、ときどき鬱病になる。落ち込んでしまう。けれども男に支えられて生きる力を取り戻す。一時は「いっしょに住もう(暮らそう)」と誘いかけもする。男が完全に嫌いというわけではない。頼りにもしている。しかし、実際に男が引っ越してくると、その引っ越しの当日になって「いっしょに暮らすのはむりだ」と言うのだった。
 男は女のことがわかっているので、女の「生き方」を大切にする。「おれの荷物は持ち出そうか」。そして、元の家にもどっていく。しかし、あきらめはつかない。男にとって初めての恋だからね。
 男は女のことを思い出しながら、できることを全部する。
 「花屋を開きたい、こころら場所がいい」「南の国へ旅行してみたい」。女がもらしたことばはを男は覚えていて、売りに出ている空き店舗を購入し、内装をととのえる。鍵とメモを、女のドアの郵便受け(?)みたいな穴から、差し入れる。たぶん、そのメモにはエジプト旅行のことも書かれている。男は、もしかしたら来てくれるかもしれないと思って、空港にいる。飛行機に乗る。でも、女は来ないのだ。
 ああ、こんなに一生懸命に、生きているのに、こんなに好きなのに、何も悪いことなどしていないのに、通じないのだ、と思って、外を見る。
 これが、なんとも言えない。
 いまさっき、「こんなに好きなのに」のあとに「何も悪いことなどしていないのに」に書いたが、この「何も悪いことをしていないのに」という「感想」が、この映画の最後に思わず出てしまうところも、切なさの理由だなあ。
 主人公の男は少女と知り合う。鍵をなくして家に入れない。それをいっとき世話をする。その後もときどき面倒を見る。しかしドライブにつれていくと誘拐と勘違いされる。変態扱いされる。職場の若い男たちからは、肥満をからかわれる。童貞をからかわれる。家でも、母親から嫌味を言われる。「料理がうまくなったのは、女が料理を作らないから会(おまえがつくっているからかい)」とか。そのくせ、男が家を出て女と暮らそうとすると「母親を捨てていくのか」というような非難を受ける。
 うーん。さえない。
 さえないからこそ、あの一瞬の「恋」が、不思議にどきどきする。あ、しあわせになってほしいなあ、と思ったりする。
 これが、最後に女が飛行機に乗ってきたら、こんな気持ちにはならないなあ。ハッピーエンドだったら、きっと★は一個になるなあ、というような、奇妙な映画。
                     (KBCシネマ1、2016年09月27日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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ダゲレオ出版
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自民党憲法改正草案を読む/番外26(情報の読み方)

2016-09-29 11:04:53 | 自民党憲法改正草案を読む

 「安倍はなぜアベノミクスにこだわるか」ということを、自民党憲法改正草案と結びつけて考えてみた。

 2016年09月29日読売新聞朝刊(西部版・14版)7面に「国会論戦の詳報(28日の衆参代表質問から)」が掲載されている。
 「働き方改革」のなかで、安倍は、こう語っている。

 一刻も早く同一労働同一賃金を徹底し、正規と非正規の労働者の格差を埋めるため、どのような賃金差が正当でないと認められるかを、年内をめどにガイドラインをつくって具体的に明らかにする。

 これは、公明党の井上義久の質問を受けてのもの。井上は「非正規労働者の時間当たり賃金が正社員の6割程度である現状を改め、欧州並みの8割程度に引き上げるために、同一労働同一賃金の実現に向けた検討を急ぐべきだ」と言っている。
 安倍は「どのような賃金差が正当でないと認められるか」と答えている。これは「正当な賃金差」を前提としている。「同一」を最初から無視している。井上の質問は、いわば「欧州ではの賃金差(正規の8割)が認められている。だから日本も賃金差を認めた上で、その差を小さくすればいい」という方向へ「答え」を誘導するための質問。安倍が直接「欧州では非正規は正規の賃金の8割である。それをめざす」と主張すれば、「8割がどうして同一賃金なのだ」という批判が出て来るのは明らかである。だから、安倍は「数字」を出さない。しかし、「どのような賃金差が正当でないと認められるか」と言うことで、「正当な賃金格差」のガイドラインを決めるという。このとき、目安は「8割」が「上限」である。それ以上にならない。井上の「質問」を利用して、安倍は、そう言っているのである。
 そして、この場合、その「8割」を実現するために、どうするか。正規の賃金を固定したまま非正規の賃金をあげるという保障はない。企業の収益は限られている。それをどうやって分配するか。非正規の賃金を上げるためには正規の賃金を引き下げなければならなくなる、ということもありうる。企業は、きっとそういう方法をとる。そうやって実現された「8割」は非正規の人たちが思い描く「金額」ではない。「8割」という「数字」は上がって見えるが、その実質は「8割」には相当しない。
 類似のことがらとして、次の安倍のことばを上げることができる。

 保育士の賃金引き上げに関する野党案は、恒久的な財源確保が明らかでなく、人材確保のための必要な総合的対策となっていない。

 これを流用して、企業は、非正規の賃金を正規の賃金の8割にするための「恒久的な財源確保」のために正規の賃金をある程度カットする、と主張するに違いない。「恒久的な財源確保」の必要性は、安倍が認めている。
 国家財政と企業の経営は違うけれど、きっと、そういう「論法」が展開されることになるだろう。
 安倍は、社会福祉に関する「恒久的な財源確保策」があきらかでないと言うが、では、防衛・軍事費ではどうか。なぜ社会福祉の場合「恒久的な財源確保」が問題になり、軍事費の場合「恒久的な財源確保」が問題とならないのか。同じように「恒久的な財源確保」が問題なら、軍事費を削減すればいいだろう。さらに「福祉のための恒久的な財源確保」を「消費税」でまかなうはずだったのに、それを先のばししたのはだれなのだ。

 さらに。
 「同一労働同一賃金」の「定義」も問題になって来るだろう。「同一企業のなかでの同一労働同一賃金」(連合は、こういう主張らしい)なのか、「企業の枠を超えた同一労働同一賃金」のなか。つまり、「同一職種同一賃金」なのか。「同一職種同一賃金」ならば「子会社」をつくり、そこで新しく「正規雇用」をするという方法で「利益」を確保することはできなくなるが、「同一企業」に限定された「同一労働同一賃金」なら、「子会社化」というか「分社化」が進み、賃金の切り下げが進むだろう。「連合」は経営者候補養成機関なので、この「同一企業内の同一労働同一賃金」をめざしている。つまり、いまの連合幹部は経営者になったら「子会社/分社化」を進めることで労働者の賃金をさげることをもくろんでいる。そうすることで「経営手腕」を発揮しようとしている。
 さらに「働き方改革」の「脱時間給制度」の推進というのも、とても危険だ。「同一労働」を「同一成果」と言いなおすと、それは「ノルマ主義」になる。「同一ノルマ同一賃金」である。ノルマに達しない労働者には、その分、賃金が支払われない。この制度に対しては企業側は大賛成である。これには、連合も反対しているらしいが、「同一労働同一賃金」を進めるためには「同一成果同一賃金」でないと「矛盾」すると主張されたとき、どう反論できるか。連合に、反論する「意思」はあるか、そのことも疑問だなあ。

 安倍の「ことば」を追いかけるのではなく、公明党や民進党(連合)の「主張」がどういうものかも点検し、それを安倍のことばとリンクしてみないといけない。
 安倍の主張を、現行憲法から見るとおかしいというだけではなく、自民党の憲法改正草案と結びつけて見直さないといけないと思う。安倍は、もう改正草案を「安倍憲法」としてとらえている。「安倍憲法」にしたがって行動している。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 この改正草案の「前文」。
 「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」の「社会全体」「国家」を「企業」置き換えるとどうなるか。非正規、正規の労働者が「互いに助け合って」(つまり、安い賃金で我慢しあって)、「会社」のために働くということである。「労使」は対立するではなく「和を尊び」、「会社」を「形成する」。
 個人はどうでもいいのである。
 なぜ「国家」を「会社」と私は読み替えたか。
 前文のつづきは、こうである。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「経済活動を通じて国を成長させる」に注目するからである。「経済活動」ということばは現行憲法の「前文」にはない。(本文のなにかも読んだ記憶はない。)
 安倍は国民のために働いているではない。「企業(経済活動)」のために働いている。自分に金を払ってくれる企業のために働いている。アベノミクス(経済)にこだわるのは、安倍が改正草案(安倍憲法)で動いているからである。安倍にとって企業がもうかることが国家の成長なのである。国民はどうでもいいのである。












*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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田中庸介「夜の楢山」

2016-09-29 09:36:16 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「夜の楢山」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 田中庸介「夜の楢山」は、こんな具合に始まる。

このきりきりと痛む感じはなんだろう。
おばが手術を拒む(眼の)。
手術はいやだから、やりまっせん、
とおばはいう。やんなさい/いやっ/やんなさい/いやっ/やんなっさい、
わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、
もはやこのまま、自分の好きなようにさせて欲しい!
と、おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである。

 で、必然的に、このあとは手術を拒むおばと田中の周辺のやりとりが展開されるのだが。
 私は、三か所(三つのことば)に傍線を引いた。
 最初は「勝ち誇った」、そのあとすぐ読み返して「(眼の)」、そして「身体(からだ)」。最後の「身体」は本文は「ルビ」。
 「勝ち誇った」に傍線を引いたのは、そこに「おばの肉体」を感じたからである。「我を張る」ときの「肉体」というのは、たぶん多くの人に共通している。「我を張る」では「肉体」を感じないが「勝ち誇った」には「肉体」を感じる。「我」も個人的なものなのたが、「誇り」の方がもっと「個人的」と感じるのかなあ。きのう読んだ小松弘愛の詩の余韻が私の「肉体」のなかに残っていて、それが影響しているのかもしれないが、この「勝ち誇った」には「喜び」がある。それが、なんともいえず、うれしい。
 田中には申し訳ないが、この「おば」に「頑張れ」と声をかけたくなるような感じ。「勝ち誇った」人間というのは、なんだかわからないが「勇気」をくれる。それがうれしいのである。
 この強烈な「肉体」の自己主張に、どう田中はぶつかっていくのか。読まなくても、こりゃあ、田中の負けだね、とわかる。
 そして、その最初の「負け」は「眼の」にある。

おばが手術を拒む(眼の)。

 これは、ごく普通のことばの順序では

おばが眼の手術を拒む。

 である。「意味」は、まあ、「便宜上」は「同じ」。そして、倒置法で、しかもかっこに(眼の)ということばを補ったものよりは、普通の順序の方が「読みやすい」。理解しやすいとも言い換えてもいいかもしれない。
 なぜ、倒置法で(眼の)と書いたのか。
 こういうことは考えても仕方がないことなのかもしれないが、どうでもいいことなのかもしれないが、私は考えるのである。
 「おばが手術を拒む」と書いた段階では、「おば」は「肉体」を持っていない。「手術を拒む」という「こと」が前面に出てきていて、「おば」は「肉体」というよりも「我(が)」である。「我」を「精神」と呼ぶ人もいる。「精神」というのは「論理」でもある。そして「論理」というのは「説得」が可能なものでもある。つまり「こっちの方が論理的」ということを証明することで、最初の「論理」を変更することができる。実際、そういうことを考えているからこそ、手術を拒む「おば」を田中たちは説得しようとするわけである。
 ところが「おば」は「精神/論理」ではないのだ。「精神/論理」である前に「肉体」である。「眼」である。「論理/精神」というのは「共有」できる。でも「眼」は完全に個人のものであり、「共有」できない。「共有」するためには「論理/ことば/精神」を経由しなくてはならない。ここに、「説得」の困難さがある。
 で。
 田中はどうしたかというと。(眼の)と括弧で「肉体」を補うことで、「精神/肉体」の関係を、修正しようとしているのだが。

わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、

 ここが問題。
 「おば」は「わたしはもう十分に生きてきた、自分のからだは自分のものなんだから、」と言ったが、そのとき「おば」は「身体」という「文字」をつかみとっていたか。たぶん、違うと思うなあ。「からだ」を「身体」とととのえなおしてつかみとったのは田中である。「おば」のことばを田中は整理しなおしている。「からだ」を「身体」と書くのは田中であって、「おば」ではない。
 「おば」は「からだは自分のものなんだから、自分の好きなようにさせて欲しい!」と言っている。その「おば」に対して
「ことば」すら「おばの好きなように」はさせていない。
 言い換えると、「おばの肉体(ことばも肉体)」に対して、田中は田中の「精神/ことば」で向き合っている。「おばの肉体(おばのことばの肉体)」をもてあましている。そのまま受け止めることができずに、自分の「ことば」に変換して、「ことば」として受け止めようとしている。
 「おばの肉体」が問題なのに、その「肉体」が切り離され、「共有できることば/精神」になっている。

 だからといえばいいのかどうか、かなりむずかしいが。

 このあと、「論理/ことば」であることを拒絶する「おば」の「肉体」と、田中側の「論理/ことば」のぶつかりあいになる。そのなかで、

また全身全霊でおれたちの倫理的論理的おすすめをはねつけるおばがこわい、
もうクライアントが亡くなってしまえば楽なのにと思う自分らの心がこわい、

 という行があらわれる。
 「倫理的論理的」については、もう「補足説明」はいらないと思うが、私がここで傍線を引くのは「こわい」である。「心がこわい」ということばは象徴的だ。「こわい」のは「こころ」である。「肉体」が「こわい」わけではない。「こころ」は、また「精神」と呼び変えることができるだろう。
 それから、すぐに次の二行が出てくる。

おばの死にたい気持ちと共謀して楢山におばを背負っていくのは負けている、
もう緩和ケアでいいじゃないかとおばに説得されてしまったなら負けである、

 「負けている」「負けである」。ここに傍線を引きながら、私は笑いだしてしまう。「論理/精神」なんてところで右往左往するから「負ける」ということばがでてくる。「論理」は「勝つ」ことをめざすものなのだ。「勝つ」は「結論」と言ってもいいかもしれない。
 でも、このときの「勝つ」は、

おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである

 この「勝つ」とは違っているね。
 「おば」の「勝ち誇る」は「負けても」、勝ち誇ることができるのである。それは「論理」ではないからだ。「結論/解決」というものを「放棄」している。そんなものは捨ててしまって、ただ「肉体」そのものを「これが私」とさらけ出している。「肉体」がそこに「ある」ということが「肉体」の「勝つ」なのであり、それは生まれた瞬間から「勝ち続ける」ものである。「負ける」のは「死ぬ」ときだけ。
 そこが「精神/論理」とは違う。
 私は詩を読むとき(ことばを読むとき)、主語と動詞にこだわるが、動詞が同じなら「意味」はおなじとは限らない。「意味」というものは主語/動詞の結びつきで、その瞬間瞬間にあらわれてくるものであって、その結びつきを超えて動くものではないのだ。
 いつも主語と動詞を「ひとつ」にして読まないといけないのだと思う。

 この「負ける」は、あくまで田中の「論理」。「論理」というのもはとてもおかしなもので、それ自体「肉体」を持っていて、自立して動いていく。
 動いていく「論理」には、そして、それを動かしている田中には、それはおかしなものではないだろうけれど、傍から見ると、まるでコメディーである。
 「負ける」は次のようにことばを増やしていく。自己増殖する。

おばさん手術はしなくてもいいんじゃないか、と
つるっと口をすべらかしたらおしまいだ、
それは近代医療の敗北だ、
それは理想的な介護の失敗だ、
それは文明社会の敗北だ、とまでは言わないけれど、
おばに負けたくない、どうにかして負けたくない、
という気持ちに、いつのまにか、
論理的に説得したい、という気持ちがダブルに飲み込まれている。
最適な治療方法を理性的に選択してもらおうとする知性、それが喪われている。

 この「論理の肉体/ことばの肉体」に、私は大笑いしながら、でも、これって、いままでの田中の「ことばの肉体」とはかなり違うなあ、という感じも持つ。
 (これは、この詩を読み始めてすぐ、あれっと思った感じ、だから、なにか書いてみようと思った感じにつながるのだけれど。)
 このままじゃ、困るんだけれど、とも思う。
 私が好きだった田中がいなくなってしまう、という不安かな。
 
 そう思っていると「論理の肉体」が動くだけ動いた後、それが「結論」に達しないで、破れてしまう。

負けず嫌いの、卑小な、小市民の、
意地を張り合いたがる人格の小ささが、むむむ、
ついムキになる、自分の気持ちの奥から引きずり出されて、
意地っぱり。
ホラホラこれがおまえの小ささだ、
と人前で、
あからさまに、
全員に対してみせつけられている、標本のように。
おばの頑強な、そしてか弱い老練な人格は
わたしたちの偽善の卑小さを一人ひとり、
手相、顔相、二十面相のように
すっかり浮き彫りにして下さろうとする。

正しいってなんだ。
論理ってなんだ。
なんで敗北とか勝利とか
そういうことばが出てこなくちゃならないんだここに、

 ここで田中は「我に返る」。
 ここで、私は、ああよかった、と思う。
 何を書いてきたのかを忘れてしまう。もう、書きたいことがなくなった。そう、「肉体」には「正しい」も「勝利」もいらない。

八十七歳。
水がゆらゆら流れる。
お香のけむりがゆらゆら流れる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。

ああ、ああ、
わくわくするよ、
千三百円の天ぷらそば、

 ここが好きだなあ。
 あれこれことばを動かし、笑いながら読んできて、ここで、いままで知っている田中の「ことばの肉体」に出合う。あ、生きていると感じる。
 そうか、田中は「おば」のような「肉体のことば」とはあまり親身につきあってこなかったのか。「おば」だから、あたりまえだけれど。そのために「悪戦苦闘」したのか。でも「正しい」「論理」「勝利」というような「ことばの肉体」から離れて、別の「ことばの肉体」を動かせば、突然、自然にもどる。正直にもどる。
 「ことばの肉体」は何かの衝撃で「ずれる」。そしてそれがもとにもどるまでには、あれこれを経由しないといけないのだが、必要なだけ経由すればもとにもどるということかなあ。

 なんとなく「ふーん」と思った。「ふーん」の「意味」を説明することはむずかしいけれど。きっと誤解されるだろうけれど。


詩誌「妃」18号
瓜生 ゆき,後藤 理絵,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,月読亭 羽音,仲田 有里,長谷部 裕嗣,広田 修,中村 和恵,小谷松 かや,細田 傳造,尾関 忍,宮田 浩介
妃の会 販売:密林社
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小松弘愛『眼のない手を合わせて』

2016-09-28 11:50:55 | 詩集
小松弘愛『眼のない手を合わせて』(花神社、2016年09月10日発行)

 小松弘愛『眼のない手を合わせて』にはいろいろな作品が収録されている。「比喩ではなく」という作品は結城哀草果(ゆうき・あいそうか)という山形の歌人の作品を読みながら、小松の過去を重ね合わせる。結城哀草果は「中学講義録」で独学したひとらしい。小松にも「早稲田講義録」という高校のテキストをとりよせて独学した時代があったらしい。そういうことを書いた後、

 木の実と草根(くさね)を食(くら)ひ飯食わぬ人らは黒き糞(ふん)たれにけり

「草根」は草の根ではなく地上に生える草の意で
哀草果の歌集『すだま』(一九三五)
の中の一首
「木の実」「草根」
この二つの言葉が
一九三四年生まれのわたしを子供の頃へと連れて行く

「わたしは草と木の実を食べて育ちました。草食動物です」--
 戦中戦後、旧山北村で子供の頃を過ごしたわたしは話題が食べ物
 のことに及んだとき、こんなふうに話して自分で喜んでいること
 がある。

 この「自分で喜んでいる」の「喜んでいる」が、私には、とてもうれしい。満足な食べ物がない。飢えている。そこで工夫して、あれこれを食べる。そのつらさを乗り越えて生きてきた、乗り越えることができたという「誇らしさ」のようなものがある。「いのち」の「自慢」と言っていいかもしれない。
 「自慢」というのは、あまりするものではないのかもしれないけれど。でも、「自慢」のなかには、何とも言えない「生きる力」がある。「生きる力」の「確認」があって、それは、やっぱり大切なことなのではないかと思う。「生きる力」を「確認」し、それを「うれしい(喜び)」と受け止められなくなったとき、きっとひとは死んでしまう。
 「苦しみを共感する」ということばがある。それは「他人への愛」へとつながるのだが、そういう「共感」よりも「喜びの共感」の方が、私は好き。信じられる、と言えばいいかな。「苦しい」のは、私は、嫌いだ。「苦しい」ことなんか、したくない。「苦しい」のかもしれないが、それをこんな具合に乗り越えたと「喜ぶ」(自慢する)、その「明るさ」が好きということか。

 あ、書こうとしていたことから、少し、ずれてしまったかなあ。
 私は何を書こうとしていたのだったかなあ。

 「話題が食べ物のことに及んだとき、こんなふうに話して自分で喜んでいることがある。」と小松は書いている。なぜ、そんなことを小松は書いたのか。「喜んでいる」と書いたのか。
 そのことを書きたかった。
 引用されている哀草果の一首。その歌を書いたとき、哀草果は、どんな気持ちだったのだろう。
 やっぱり、喜んでいたのではないだろうか。
 「飯を食う君たちは、どんな糞をしている。我等は、木の実と草根を食っているので、その糞は黒いのだ」と、いのちの強さ(力)を自慢している。社会への怒りもあるかもしれないが、生きていることを自慢している。生きていることを喜んでいる。飯(コメ)を食えない貧しさを突き破って、生きる力が噴出している。

黒き糞たれにけり

 この、言い換え不能の「強さ」、「同じ強さのことばを言ってみろ」とでもいうような「強さ」に、小松は共感したのだと思う。こういう「強いことば」を言える「力」、「いのちの力/喜びの力」に誘われて、「自分で喜んでいる」あの瞬間を思い出したのだ。それは哀草果の書いている「生きる力」そのものとは「一致」しないかもしれないが、どこかでつながりがある。
 生きていることを、生きてきたことを自慢できるのは、とてもいいことだと思う。
 いま、ここに、このいのちを奪うものがない、ということ。
 そういう「喜び」かもしれない。

 うまくつなげることができるかどうかわからないが(論理的に説明できるかどうかわからないが)、私は、この「生きていること、生きてきたことを自慢する力/それに共感するこころ」を、小松の多くの詩に感じる。
 たとえば、「紫蘇」。

八月の末
「安全保障関連法案」は違憲
のデモから帰っててき
一か月ほどたっているが
一茎の紫蘇がまだ視野に揺れている

デモの列が電車通りに入ったとき
街路樹の根元
その乾いた土に生えている紫蘇が目に留まった

歩きながら考えるともなく
あれは だれかが
蒔いたものでもなければ植えたものでもない
どこからか一粒の種が飛んできて
自然に芽を出したもの
そう
ひとり生えの紫蘇である

 ここには「ひとり」で「生きる」強さが書かれている。そして、この「ひとり」は「比喩ではなく」の「独学」の「独」につうじるものである。「他人の力を借りない」という「意思」のようなものがある。そうやって「生きる」ことへの「自慢」のようなものがある。
 で、この「紫蘇」という詩は、紫蘇のことを書いているのだけれど、

あれは だれかが
蒔いたものでもなければ植えたものでもない
どこからか一粒の種が飛んできて
自然に芽を出したもの

 これが、私には「人間」を描いているように感じてしまうのである。言い換えると、そこに「人間」を重ねて読んでしまうのである。
 人間はもちろん「自然」に生まれるわけではない。どこかから「種」が飛んできて生まれるわけではない。ちゃんと両親がいる。
 けれども、生まれてきた「人間」の「意思/意思」は、どうか。
 だれかが種を蒔いたのでも、植えたのでもない。いや、誰もが種をまき、また植えるのだけれど、たとえば、両親は、子供にいろいろなことを語り、しつけるのだけれど、ひとは、それにただ従うわけではない。与えられたものだけで生きるわけではない。
 自分でなにかを探し出し、見よう見まねで、「生きる」。自分の中から、「自然に」芽を出してくるものがある。そして「ひとり」であっても生きている。
 あらゆの「意思/思想」は「ひとり生え」である。「ひとり」で生きていかなければならないものである。たとえデモのなかで「連帯」していても「ひとり」である。「ひとり」であると自覚するから「連帯」する。「ひとり」であるために「連帯」する。「ひとり」で「生きる力」を全うできるために「連帯」すると言えばいいのか。
 「ひとり」であることは、自慢できることでなければならないのだ。おれの糞はおまえらの糞とは違って真っ黒なのだ。そういうことが自慢できなければならない。そして、その自慢する力こそ、「共有」されなければならない。このときの「共有」とは、「ひとり」として「認める」ということ、「生きている」ということを「認める」こと。

 ここから「矮鶏」、あるいは「春の山羊」へと飛躍すること、そういう作品と連結することは乱暴だろうか。「論理」として乱暴だろうか。
 でも、私は、ふっと思い出すのである。私のことばは、そこへつながりたいというのである。「春の山羊」を引用する。

橋の袂で自転車を止め
このまま真っすぐに行くか
横に逸れて土手道に出るか
遠回りになるけれど
あの山羊に会ってゆこう

人影のない未舗装の土手道で
山羊は五月の風に吹かれて
緑を濃くしてきた草を食べていた
若い山羊である

 山羊だから「草」を食べる。これは当然。しかし、ここに書かれている「山羊」はただ「山羊」なのではなく、私には、なぜか「わたしは草と木の実を食べて育ちました。草食動物です」と言う小松そのひとに見えてしまうのである。
 詩は、このあと、小松が山羊の世話をしたことがあること。山羊の乳で大きく成長したことなどが書かれているのだが、こういうときの「山羊」は乳の出すだけのもの、ではない。奇妙な言い方になるが、小松は、山羊になって、小松を育てているのである。山羊と小松は一体。それは人間が木の実、草根を食べて生きるのとき、その人間は単にそれらを食べる存在ではなく、同時に木の実、草根であるというのと同じだ。別個の存在にみえるが、それは、「方便」。ほんとうは「ひとつ」につながっている。つながることで「自立」している。
 その不思議な関係を実感するために、小松は山羊を見に行くのだろう。「山羊は五月の風に吹かれて/緑を濃くしてきた草を食べていた」。ああ、このうれしさ。山羊になって、五月の風に吹かれて、草を食べてみたい。「生きている」、そしてその生きていることを「喜んでいる」。そして、生きていることを「誇っている」。その喜びと誇りが「乳」になって、小松を育てた。乳を飲み、小松は五月の風と緑の草にもなる。「世界」がまるごと「ひとつ」になって小松の「肉体」をつくる。それは小松「ひとり」のもの。
 だれにも、この「肉体/いのち」を奪う権利はない。そう叫んでいる。「声高」にではなく、だれにも聞こえない声で。「国」とか「権力」には絶対に理解できない「声」で、強く。とても、強く。「いま/ここ」、つまり「土佐」を離れない「声」で。

 小松には「土佐方言」を題材にした詩集があるが、方言にこだわるのも、そこに「生きていることへの誇り」と「喜び」があるからだろうなあ、と思う。「共通」なんて、関係ない。自分が、いま/ここにいる。「いま/ここ」のすべてが「自分のいのち」という感じが動いている。そういうものへの「共感」を書こうとしているのだろうと思うのだった。
 論理はまた飛躍するのだが。
 こういう「声」こそ、安倍の「独裁」(全体主義)と戦うときの「よりどころ」であると、私は思う。「全体/共通」から自分を切り離す。組み込まれない。「ひとり」であることを、「ひとりひとり」が「独自」に守るための「よりどころ」である。
 「五月の風に吹かれて、山羊を土手までつれていく。山羊が草を食べるのを待っている。終わったら、家へ帰って乳を搾って飲む。子供に飲ませる。それが、したい。風も、土手も、草も、山羊も、みんな私。その全部が私。それがばらばらにされるのはいやだ。だから、戦争なんかいやだ」と、私は言いたい。小松の詩を読んだ後の私は。
 小松は安倍批判を書いているわけではないのだが、国会がはじまり、「憲法改正」を議題にしようとする動きに触れると、感想も、こんな具合に、「いま」とぶつかりながら動くのである。



小松弘愛詩集 (日本現代詩文庫)
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自民党憲法改正草案を読む/番外25(情報の読み方)

2016-09-27 10:59:08 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月27日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「首相演説中 自民が起立、拍手/衆院議長注意/野党は抗議へ」という記事が載っている。安倍の所信表明演説注のことである。

 首相は海上保安庁職員や警察、自衛隊員の働きぶりに触れた後、「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけて、拍手をはじめた。これを受け、自民党員らが起立して拍手を約20秒間続けたため、大島氏が「ご着席ください」と注意した。 日本維新の会の馬場幹事長は演説後、記者団に「異常な光景。落ち着いて真摯に議論しあう状況ではない」と批判。生活の党の小沢共同代表も「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」と語った。民進党も「品がない」(幹部)と問題視しており、野党側は衆院議院運営委員会などで抗議する方針だ。

 「異常な光景」「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」「品がない」と感じたのかまでは、読売新聞は報じていない。
 私はネットで「拍手」の部分だけを見たのだが、やはり「異常」だと感じた。「恐怖」を感じた。
 なぜか。その理由を書く。
 人がだれかに敬意を表して拍手をするということは、ある。それ自体は、異様ではない。つられて拍手をすることもある。でも、そういうとき、その拍手をされる相手が私の目の前にいる。そういうときだ。
 目の前にいないときも、もちろん、ある。たとえばテレビでオリンピック中継を見ている。水泳の男子800メートルリレー。日本チームが銀メダルを獲得した。わっ、すごい。思わず、拍手をしたくなる。多くの人と一緒に見ていたら、みんなで一緒に拍手をするだろうなあ。
 これが現実ではなく、たとえば映画「ベン・ハー」。戦車レースのシーン。チャールトン・ヘストンが落ちそうになるのに耐えて、戦車にもどる。後ろでは敵(?)の戦車が壊れる。ここで観客から拍手が起きる。
 これは「目の前」に「現実」があるわけではないが、同じ時間を共有しているので、思わず「自分の肉体」が反応し、それが「拍手」にかわるのだ。
 ところが、演説を聞いているとき、目の前には自衛隊員らはいない。安倍は、演説の中で言っているように、確かに「夜を徹して、そして今のこの瞬間にも」「任務にあたっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全う」しているだろう。けれど、その「緊張感」「責任感」を、「映像」かなにかで「共有」しているわけではない。安倍は「緊張感」「責任感」というが、それがどんなものか「ことば」でも「共有」しているわけではない。(それが「ことば」で具体的に描写されるわけではない。)だから、「拍手」が「共感」として、つたわってこない。一緒に「拍手」する気持ちになれない。

 「拍手」というのは、称賛しているということを相手に伝えるものである。だから、その称賛を伝えたい相手が目の前にいることが「大前提」である。
 ここから、安倍の演説と自民党議員の態度を見ていくと、自民党議員は自衛隊員らに「拍手」を送っているのではなく、安倍に「拍手」を送っていることになる。実際、ネットの映像で見たとき、私は、その「拍手」が自衛隊員らに送られているのではなく、安倍に向けておくられていると感じた。
 感動で思わず手を打ち鳴らし、それがそのまま拍手に変わっていくというようなものではない。
 さらに、安倍の「拍手」の映像が、とても奇妙だった。「敬意」を表しているようにはとても思えなかった。縁談で「拍手」をしているが、それは「拍手」を誘う(強要する)ような感じである。「いま/ここ」にいない自衛隊員に向かって真剣に拍手をしている(リオにいる選手に思わず拍手を送る)というような感じ、我を忘れた、他者と自己を同化して真剣になってしまったという感じではなく、「ちゃんと起立して拍手しているか、おれは見ているぞ」と議席を「点検」する目つきなのだ。
 「おれがおまえたちを当選させてなったんだ、拍手しろよ」という感じでもある。安倍の「自画自賛」に自民党議員が追従している感じ。
 それが、気持ちが悪い。
 自民党議員の中で起立しなかった人、拍手しなかった人がいるのか、いないのか。読売新聞には書かれていない。「造反者」がいなかったとしたら、それはそれで、こわい。「民主主義」とは「多様性」が原則であり、「多様性」というのは「批判」を同時に含んでいる。だれも、安倍の「拍手の強要」に対して疑問も持たずに従ったのだとしたら、これは、おそろしい。自民党は「民主主義の党」では、ない。安倍「独裁」の党である。党を独裁支配し、それをそのまま国民に押し広げる。あの、議席を見渡す安倍の目つきは、そのままあすは国民一人一人に向けられるのである。



 所信表明演説で気になった点をいくつか。「憲法改正」について触れた部分の、

 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への端を架けようではありませんか。

 「思考停止」というのは、「第九条」を絶対視する、憲法は変えてはならないという主張を批判してのことばだが、そう「批判」するとき、安倍の方も「思考停止」に陥っていないか。「第九条」を変えなければ日本の安全は守れない、アメリカに押しつけられた憲法ではなく、独自の憲法でなければならない、というところで「思考停止」状態になっていないか。この憲法のおかげで七十年間、日本は戦争をせずにつづいてきた、という「事実」を見落としていないか。「未来」を語るときは、同時に「過去」も丁寧に点検すべきである。今回の演説には「未来」ということばがしきりに出てくるが、「過去」を掘り起こすという真摯さ、過去から学ぶ姿勢がない。

 「一億総活躍/働き方改革」の柱「同一労働同一賃金」についても疑問を書いておく。安倍は、こう語っている。

 同一労働同一賃金を実現します。不合理な待遇差を是正するため、新たなガイドラインを年内を目途に策定します。必要な法改正に向けて、躊躇することなく準備を進めます。「非正規」という言葉を、みなさん、この国から一掃しようではありませんか。

 安倍がこう語るとき「同一労働同一賃金」とは、どういうことを指しているのだろうか。「同一労働同一賃金」の「名目」のもとに「ノルマ」が厳しく設定されることはないのか。「ノルマ」を達成できない労働者の賃金は、そのために切り下げられるということはないのか。「非正規」をなくすために、どうするのか。全員を「正規」にするために、ある部署を「子会社化」し、その「子会社」で「正規社員」として雇用する。「子会社」を設置するとき、そこでの「賃金」を一気に引き下げる。「子会社」で「ノルマ」を厳しく管理しなおし、「同一労働同一賃金」を実現する。
 どんなことも「実現」には「具体的方法」がある。所信表明演説では「具体的方法」までは語らない。

 定年引き上げに積極的な企業を支援します。意欲ある高齢者の皆さんに多様な就労機会を提供していきます。

 というのも「ことば」は美しいが、裏を返せば、年金支給は七十五歳からにする。だから、それまでは「働け」ということかもしれない。「多様な就労機会」というのは働き手の少ない職場ならいつでも就労させるということかもしれない。








*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」

2016-09-27 09:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」(「言葉の海へ」10、2016年07月02日発行)

 村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」の「キリギリス」の二つ目の文字は、「虫」+「斯」なのだが、私のワープロでは表記できないので「斯」で代用した。
 その後半。

午前七時の天気予報で梅雨明けが宣言され、窓を開け放ち西風を
呼び込むのは子供の頃からのならいで、ガスレンジの上でお湯が
滾っている薬缶が気持ちのいい音を部屋中にまき散らしているの
を耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが
嬉しく、瞼はあなたの一重が好みで、またあの夏が来たので詩人
なんか大嫌いと書き散らし、それでも振り向くとまた雨だれの音
が家の中までして季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も
今はなく、白い花の咲く頃の思い出も薄れ、カーテンは風に揺れ

 まだ続くのだが、こんなふうに読点「、」ばかりで句点「。」は最後にひとつあるだけで、延々と言う感じでことばが動いていく。
 どこが、おもしろいのか。この詩について、私は何を書くことができるのか。じつは、私にはわからない。いつも、誰の詩についてもそうだが、私は何わからないままに書く。読んでいて、ふと、つまずく。その「つまずき」について、ことばを動かしてみる。

眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、

 この部分で、私は少し立ち止まった。読み進むスピードが変わった。村嶋は「昨日のまま」と書いている。ほんとうか。ほんとうに「眼、耳、舌、唇、更に手足」という「肉体」は「昨日のまま」か。「肉体」の内部では、細胞の生き死にがある。だから、それは「昨日のまま」ではないということを、私は知っている。そして村嶋だって、そういうことは知っているはずである。知っていて、なお「昨日のまま」と書く。それは何といえばいいのか、「意識の修正」である。「意識」を「修正」して、そのうえで「肉体」をつづけるのだ。
 「肉体をつづける」とは奇妙な言い方である。自分で書きながら、これはおかしいなあ、と思う。思うと同時に、この「肉体をつづける」というのは「世界をつづける」ということだな、と思いなおす。
 「眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、」ということばにつまずいたのは、そうか、村嶋が「世界をつづけている」と感じたからなのだ。
 「世界はつづいている」、村嶋の「肉体」と同じように、村嶋の「意識」では動かせない形で、それは「つづいている」。けれど、その自分の「意識」では動かせないものを「動かせないまま」にしておくのではなく、自分で「引き受け」、そのうえで「つづけている」と感じたのだ。
 書きながら、そういうことを私は発見していく。
 「肉体」を「肉体」まるごとで「肉体」と呼ぶのではなく、「眼、耳、舌、唇、更に手足」と「部分」ごとにことばにしながら、それをもう一度「肉体」として「つないでゆく」。「つなぐ」と「つづける」は、そのとき同じものになる。
 同じことが、「世界」に対しておこなわれている。

窓を開け放ち西風を呼び込む

 「窓」と「西風」は「眼、耳、舌、唇」のように、別の名前で呼ばれる別のもの。しかし、それが「開け放つ」「呼び込む」という、村嶋の「働きかけ」(動詞/動作)によって「つながる」。そして「世界」になる。
 それは「昨日のまま」ではないかもしれない。けれど、それは「子供の頃」のままである。
 で、ここが、不思議。
 この詩には「昨日のまま」、つまり一番近い時間といまが「同じ形」でつづいているということが書かれていると同時に、遠いある瞬間といまがやはり「同じ形」でつづいていることが書かれている。「違う」のに「同じ」。そして、この「同じ」という感覚が「違う」を「つなぐ/つづける」。

瞼はあなたの一重が好みで、

 「好み」はかわらない。「好み」はつづいている。「好み」が「世界」を「つないでいる」。

季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も今はなく、

 「足早に過ぎる」、そして「なくなる」。「公園も今はなく」と、もう、つなげようとしても不可能なものもある。けれども、そういうものを「意識」は「つないぐ」。「ない」ということばをつかいながら「つなぎ」、そして「つづける」「世界」から切断しながら、もういちど「世界」へ呼び戻す。
 切断と接続を繰り返しながら、村嶋は「好み」を整え続けている。
 そして、その切断と接続のなかには、「昨日のまま」という「感じ」がいつも入り込んでいるのだ。あらゆることが「昨日」の「近さ」でととのえられる。「昨日のまま」にされる。
 だから、この詩には、あらゆるところに「昨日のまま」を補って読むことができる。

「昨日のまま/昨日と同じように」窓を開け放ち、「昨日のまま/昨日と同じように」西風を呼び込む。(それは)子供の頃からのならい(同じ行為)である。(「昨日のまま/昨日と同じような」行為である。)ガスレンジの上でお湯が「昨日のまま/昨日と同じように」滾っている。その薬缶が「昨日のまま/昨日と同じように」気持ちのいい音を「昨日のまま/昨日と同じように」部屋中にまき散らしているのを「昨日のまま/昨日と同じように」耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが「昨日のまま/昨日と同じように」嬉しく、「昨日のまま/昨日と同じように」瞼はあなたの一重が好みで、

 という具合だ。「昨日」は、「いま/ここ」にはないが、「昨日のまま」と思った瞬間に、それは「いま/ここ」そのものになる。
 新しいなにかをするという「充実」とは別の「充実」が、しずかな形で、ここに生み出されている。

晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂
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廿楽順治「ぜろですよ」

2016-09-26 10:28:07 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「ぜろですよ」(「八景」3、2016年08月01日発行)

 廿楽順治「ぜろですよ」は「家族詩」とでもいうのだろうか、ある「一家」のことが書いてある。その最後の部分は【天輪院みつお】、どうやら「戒名」らしい。「みつお」が死んだのである。行頭が不揃いなのだが、揃えて引用する。

みつおはひとりで
死ぬぞ死ぬぞと嘆いていました。
そのころからノートに書いていたのです。
死んだら、
これを詩に使え。
とくいげに言っていたがわたくしは、
とうとう相手にしなかった。

字引きがほしいというので
電子辞書を買ってやりました。
わたくしもこどものころは字引きと言った。
字を引き、
その字をみようみまねで書く。
他人事なんです。
その他人を詩にしろというのです。

 「詩」と「他人」のことが書かれている。「自分」ではなく「他人」を書く。そして、そのとき書く「他人」とは「字」のことである。「他人がつかっている字」、「他人のことば」のなかに「他人」がいる、「自分」を超えたものが生きているということか。そう思って読むのだが、そのときの、

みようみまね

 あ、ここが廿楽の(あるいは「みつお」の)、思想だね。言い換えると「肉体」だ。他人が肉体を動かして字を書く。その書いた字を、他人の肉体を思いながら、他人の肉体が動いたのを「見ながら」、それを「まねる」。ことばを知る(わかる)というのは、肉体をまねしながら動かしてみて、自分の肉体の中で、そのとき何が起きているかをつかみとることなのだ。
 その、肉体をつかってつかみとったものを書く。それが「詩」と定義されていることになる。
 こういう「抽象的」なことは、言うのは簡単。でも、実際には、どういうこと? わからないね。(私は、わからないまま、テキトウに書いているのである。)
 この「わからない」ものを、廿楽は、こう書き直している。

きみえの方は、
みんなに見まもられながら
死ぬ前に、
目覚めたように目を開けましたが、
みつおは眠ったまま、
わたくしといもうとだけに眺められていました。
でもわたくしが
目を離したすきに計器の数字は止まり、
みつおと
みつおでないもののさかいめが、
わからなくなった。
字引きがほしい。
これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 「他人」を「みようみまね」で「なぞる/たどる/再現する」とき、そこには「他人/わたくし」の「さかいめ」がある。人が死ぬということは、その「さかいめ」を見えるようにする(あるいは、逆に見えなくする)ことができなくなるということか。
 「みつお」が生きているときは、「みつお」もまた「他人」を「みようみまね」で再現していた。そのときになって、ふいに「どこまでがみつお」であり「どこからが他人(みつおではない)」かが、「消える」。完全に「わからなくなった」。そこには、ただ「肉体」だけがある。
 これが、死か。
 「わからない」ものを「わかる」ように手助けしてくれるのが「字引き」。だから「字引きがほしい」と叫んでしまうのだが。
 うーん、

これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 ここがすごい。「うそで書く」。「うそ」というのは、ほんとうではないもの。ほんとうというのは、この詩では「字引き/他人の肉体の動き」、つまり、それは「見本」である。「見本」にしたがって、「みようみまね」で再現できることが「ほんとう」のこと。「世間」で動いていること。
 「うそ」には「見本」がない。「うそ」は「自分」を語ることなのだ。「自分」がわかっていることを組み立てることである。「みようみまね」ではなく、初めて自分だけの「肉体」を動かすこと。
 それも「善」という「他人」に受け入れられるものを動かすのではなく、「悪」という他人が受け入れることを拒むものを「出せ」という。「他人」ではなくなる。たった「ひとり」の「肉体」になる。
 それが「詩」である。

 あ、こんなことを書いても、やっぱり「抽象的」なままか。
 だから、廿楽はさらに書き直す。廿楽の「肉体」と、廿楽の「悪」を。

ばりばりと、
ことばは
死んだものの肉を喰らい、
あぶらののった思い出を指でひきちぎる。
きみえもみつおも
とうにばらばらで、
なにか、
わたくしが子どものころ、
ちゃぶ台でこぼしたみそしるの具のようなんです。

二日目の
弱ったわかめのようなんですわ。

 「肉体」で「きみえもみつおも」たどり直し尽くした。いろいろな「思い出」が「肉体」で再現され、すべてが「ばらばら」になって、もう一度廿楽の「肉体」のなかで動いている。その「思い出のみつお(思い出の他人)」を、「こぼしたみそしるの具」と呼び、さらに「二日目の/弱ったわかめ」と呼ぶ。父母のことを「こぼしたみそしるの具」、しかも二日目になってちゃぶ台の下から「ここにまだあった」という具合にして拾い上げられる「弱ったわかめ」のようだと呼ぶのは、確かに、「世間」の基準から言うと「悪」だねえ。そんなふうに両親のことを呼ばなくても……。
 でも、そんな具合に、廿楽が廿楽の「肉体」で体験してきたことが、「他人のことば」ではなく「廿楽のことば」で語られるとき、そこに廿楽が「他人」として「生まれてくる」。
 いわゆる「理想化された思い出」のなかにも廿楽はいるだろうけれど、こんな具合に、自分をさらけ出した部分、「手本/見本」にならないことろに「詩」は存在する。なんといえばいいのか「見本/手本」にならない「現実」として、ふいに、出現してくる。それは「見本/手本」にはならないけれど、たしかにあるものなのだ。
 「字引き」とか「みようみまね」とか、「さかいめ」「わからない」「うそ」「悪」ということばが互いのことばの中を行き交いながら、「ことばの肉体」を獲得し、それが「詩」になっていく。それが、そのまま忠実に(正直に)書かれている。

詩集 人名
クリエーター情報なし
株式会社思潮社
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クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」(★★★★★)

2016-09-25 21:30:40 | 映画
クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー

 この映画のテーマはふたつある。ひとつは何度も繰り返される「初めて」。トム・ハンクスを裁く委員会の議長さえ、クライマックスで「機長、副操縦士と一緒にボイスレコーターを聞くのは、私にとってファースト・タイムである」というようなことをいう。これは、映画の中で繰り返される「ファースト・タイム」の念押しのようなものだ。いままで経験したことがない出来事に出合ったとき、どうするか。そこに、そのひとの「人生」すべてが出てくる。
 もうひとつは、「ファースト・タイム」の逆。「二度目」というか、「繰り返し」。これも、映画の中では何度か描かれる。「二度」を通り越して、複数回、飛行機の不時着のシーンがいくつかの角度から描かれる。その「二度目」のクライマックスが、調査委員会での「ボイスレコーダー」の再現なのだが……。
 あ、うまい、うますぎる。
 それは映画の冒頭で見た最初のシーンの繰り返しなのだが。そして、それは「ボイスレコーダー」で聞いているのだから「映像」はないはずなのだが、「映像」として再現される。それはすでに見ているシーンなので、また全員が助かったことも周知のことなので、何か安心してみていることができる。しかし、その「安心」は「安心」のままなのではなく、彼らは全員が助かるという「確信」にかわり、「確信」していることが、そのまま起きることに、なぜか、感動してしまうのだ。
 なぜか。
 ひとは誰でも「感動」を「二度(何度でも)」味わいたいのである。ひいきの野球チームが試合に勝った。それは知っていることなのに、翌朝、新聞を読む。そして、思い返すというのに似ている。
 で、そのときである。
 「二度目」だから、「一度目」は気がつかなかったことにも気づく。新聞で野球の試合を読み直したとき、あ、そうか、やっぱりあれがポイントだったのかと思うのに似ているかもしれない。すばらしいと感じたことを「確信」したいのだ。起きたことを「確信」に変えたいのだ。そうやって自分のものにしたいのだ。
 この映画では、トム・ハンクス、アーロン・エッカートの緊迫したやりとりの途中に、キャビンアテンダントが乗客に対して「体を伏せて、構えて」という指示を、懸命に繰り返している。その「声」がボイスレコーダーに残っていて、それが聞こえる。最初のシーンで、それが聞こえていたかどうか、私は覚えていない。たぶん、聞こえていなかった。聞こえていたとしても、私は気づかなかった。二人の緊迫したやりとりにひきずられていた。
 ところが「二度目」は、映画の中で、キャビンアテンダントがどんな行動をしたか、そして乗客がどう対応したかを知っている。それを知っているために、二人のやりとりの背後に、バックミュージックのように「体を伏せて、構えて」という声が聞こえてくると、いま/そこに「映像化」されていない「客室」の様子まで見えてくる。あ、頑張ったのはトム・ハンクスとアーロン・エッカートだけではない。キャビンアテンダントも頑張ったし、乗客も恐怖に耐え、懸命に頑張ったということがわかる。
 おそらくトム・ハンクスには、そのすべてが見えていた。聞こえていた。見なくても、聞かなくても、見えて、聞こえていた。自分ひとりではない。みんなが頑張っているということがわかっていて、それを力にして自分にできることをしている。
 最後にトム・ハンクスが、「これは私ひとりがやったことではない。全員でやりとげたことだ」と言うが、それは「二度目(繰り返し)」によって、初めてわかることである。「二度」繰り返すことには、そういう「意味」がある。
 「実話」を「映画化」するのも、「二度」事件を体験するためである。事件の本質を「確認」し、「確信」するのためである。
 と、書いて、また最初に書いた「初めて」にもどる。
 この映画の魅力は、「初めて」を、映像の抑制によって強調している。飛行機の不時着シーンなど、もっと「劇的」に再現しようとすれば、もっと「劇的」になったかもしれない。けれど、まるでなんでもないかのように「無事」に着水する。えっ、こんなものなの?と感じるくらいである。
 しかし、それは「初めて」だから「劇的」には再現できないのである。「初めて」のことは「劇的」かどうかわからない。「劇的」と「平凡」の区別がない。ただ、それが「起きた」ということしか、わからない。「劇的」に、つまり見たこともないような映像で再現しても、それは「事実」とは限らないのである。
 この「抑制」はトム・ハンクス、アーロン・エッカート、さらにはローラ・リニーの演技にも言える。「緊張している/動揺している」ということが明確にわかるような演技をしない。「緊張/動揺」がわかるような演技というのは、その「緊張/動揺」が何度も経験したことのある「緊張/動揺」の場合である。彼はいま悲しんでいる、彼はいま苦しんでいる、あるいは憎んでいるということが、表情や体の動きで納得できるのは、その悲しみ、苦しみ、怒りを、「観客」が知っている(自分でも体験したことがある)ときである。そうではない場合、たとえばこの映画でトム・ハンクス、アーロン・エッカートが体験したことは、彼らにしかわからない。だから「わかる演技」にならないのだ。見た瞬間に「わかる」のではなく、あとで、あ、そうか、あれはこういう「感情」だったのか、と思い起こす類のものである。
 「感情」は出演者がつくるのではなく、観客がつくるのである。観客が、思い出して、自分で「感情」をつくる、彼らの体験を自分のものにするのだ。
 イーストウッドの演出は、今回もそうだが、そういう「抑制」にあわせた演出である。「過剰」に見せない。もう少し見せればいいのに、と思う寸前で、ぱっとやめてしまう。そっけないくらいである。その瞬間は、もの足りないくらいである。
 しかし、コックピットの中に聞こえてきたキャビンアテンダントの「体を伏せて、構えて」という「声」のように、ああ、あれが大事だったのだと、思い出すとき、それがとてつもなく輝いて見える、という感じ。

 比較してもしようがないのだが、ふと、私は「怒り」を思い出した。ある映画では、役者がみんな「過剰」な演技をしていた。松山ケンイチの「存在感のない演技」さえ「過剰」だった。あそこでは、みんな、それぞれ「初めて」を体験しているはずなのに、その「初めて」が何度も体験したかのように「煮詰まった」感じだった。
 イーストウッドが監督をしたら、ああいう「文学的すぎる演技合戦」映画にはならなかっただろうなあ。「文学的」ではないからこそ、「文学的」な映画になっただろうなあ。
 「ハドソン川の奇跡」はみんなが知っている「感動的」な実話なのに、見ている瞬間は、そんなに「感動」で揺さぶられるというのではないのに、一言で言うと「うーん、感動的」としか言えない強さがある。
 イーストウッドは映画を知り尽くしている。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年09月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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水の周辺5

2016-09-25 00:28:20 | 
水の周辺5



川の中に動かずにいる魚。二匹、三匹。
だんだん砂の色に似てくる。透き通っ
ていくみたいな。透明魚。頭を水が流
れてくる方向に向けている。目が離れ
ている。



流れに逆らって泳いでいるのか。川の
底に腹をつけているのか。こんなこと
を考えている私を笑うように胸鰭が小
さく震える。



川は長い廊下のように、まっすぐで四
角かった。


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。

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斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」

2016-09-24 11:19:41 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」(「乾河」77、2016年10月01日発行)

 斎藤健一「図柄」は、短い詩。そして、相変わらず不可解である。

睡眠は衛生である。瞼を閉じる。苦痛になる。見えるも
のだけがおそく見えて。掌を前にかぶせるが馬鹿馬鹿し
いのだ。ぽかんとする。頬を急ぎあげる。球の奥は僧侶
の裾が映り。無愛想な招待状が重なる。スリッパ。五裂
の紫桔梗。拾われている如く脈は腫れる。

 不可解なのだけれど、「見えるものだけがおそく見えて。」の「おそく」に私は思わず傍線を引く。何かを感じたのだ。「おそく」とはどういうことだろう。「遅く」という漢字をあてることができるかもしれない。「遅く」は「ゆっくり」なのか、「遅れて」なのか。たぶん、それは同じなのだ。「ゆっくり」だから「遅くなる/遅れる」。そして、それは「遅れて」いま/ここにやってきている。「瞼」の奥に、眠ろうとして瞼を閉じたが眠られぬ、その瞼の奥に。それが「見えて」いる。
 何が「見えて」いるのか。
 「見えるものだけがおそく見えて。」ということばを手がかりにして、私は読む。「瞼」の奥にやってきたものは「見たもの」。「見たもの」しか、やってこないだろう。肉体は思い出さないだろう。しかし斎藤は「見たもの」とは、書かない。「見えるもの」と核。「見る/見た」と「見える/見えた」から、ことば(肉体)を動かしてみる必要があるのだ。
 「見る」。けれども、視界(世界)のすべてを肉体は「見る」わけではない。「世界」のなかから何かを選択して「見る」。つまり「見たいものだけを/見る」。では、その「選択した見た」ものだけが、「肉体」に記憶としてやってくるのか。
 しかし、それならば「おそく(遅れて)」とは言わないかもしれない。
 「世界」に存在している。しかし、それを「意識」として「肉体」に取り込まなかった。「ぼんやり」と「見ていた/見えていた」。それが、無意識のうちに「肉体」に住み着いていて、それが「遅れて/遅くなって/ゆっくりと」、「肉体」の奥からあらわれてくる。あれは「見た」とは意識しなかったが「見えた」もの。「見落としながらも/見えているもの」。これは「矛盾」だが、その「矛盾」が、ゆっくりと、おそくなって、おくれて、「見えてくる」。
 「見えて」のあとには「いる」を補うこともできるし、「くる」を補うこともできる。それは「違う」ことなのだが、あえて「違うもの」という具合に、相対的に限定しなくてもいいかもしれない。「おそく」を「ゆっくり」か「遅れて」か限定せずに、「そういう感じ」でつかみとるのと同じだ。
 あ、あれもあったな、これも「見えて」いたかもしれない。それが、いま/ここで「見えている/見えてくる」。それは、肉体(記憶)からの「招待状」とでもいうべきもの。ふいに、しかし、「おそく」あらわれてくる(見えてくる/見えている)もの。「僧侶の裾」「スリッパ」「五裂の紫桔梗」。「裾」は「乱れる」、「スリッパ」は「乱れたまま」床にある、「桔梗」の花びらは五枚に裂ける、つまり「乱れる」。そこには「乱れる」という「動詞/動き」が隠れているかもしれない。そして、それはそのまま、「見る/見える(けれど意識しない)」「見た/見えた(けれど意識しなかった)」という「肉体(意識)」の「乱れ」と重なるかもしれない。

拾われている如く脈は腫れる。

 これは、どういうことになるだろうか。
 「おそく見えて」くる何か。それは、「肉体(意識)」が、「おそく」拾い上げるものと言い換えることができる。「おそく/遅れて」拾い上げたものによって、「肉体」の内部が膨らんでくる。「記憶」が増えてく、膨らんでくると言ってもいいのだが、これを斎藤は「脈」ということばでとらえ直し、「膨らむ(大きくなる)」を「腫れる」とつかみ直す。
 「腫れる」には、何か病的なものがある。不健全なものを感じる。そういうことば(動詞)へと、斎藤のことばは自然になじんでしまうのだろう。書き出しの「睡眠は衛生である。」の「衛生」も同じである。
 「病」を抱えている「肉体」というものが、「ことばの肉体」と重なり合う。実際に斎藤が病気なのかどうかはわからないが、私は斎藤の詩を読みながら、自分が病弱だった(いまでも頑強と這い得ないけれど)、子どものときの「肉体」と「風景」を思い出すのである。斎藤の書いていることばに、自分の病弱だった「肉体」を重ねて読んでしまうのである。
 ふいにどこからともなくやってくる「映像/図柄」。それは「見落としていた」ものが、実は「見えていた」ものであると、「おそく」なってから、つまり「おくれて」告げに来る、「世界そのものの力」のようにも思える。

 この「おそく」やってくるものを、夏目美千代は「私を訪れる切れ端のような感覚」と呼んでいるように感じる。斎藤と夏目は別の人間であり、まったく別のことを書いているのかもしれないが、同じ一冊の同人誌で、「私(谷内)」の「肉体」がそれを読むと、ふたつはつながってしまう。
 斎藤の「おそく見えて(くる)」の「来る」が、夏目の詩では「私を訪れる」という形で言いなおされていると思う。
 詩人の「肉体」に「おそく(なってから)やって来る何か」とは、どういうものか。夏目は、こんなふうに書いている。

こんなこともあった。よく知っている簡単な漢字を書く時、
突然それが全く知らない形に思えたのだ。本当にこんな字
だったのか。私は疑い、混乱する。ずっと無意識に書いて
平気だったのが、急に奇妙な形に見え、自信を失う。そし
て、現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚が残る。

 「無意識」、つまり意識しないできたものが、意識となってあらわれてくる。「見えている」のに「見ていなかった」と感じていたものが、突然「見えていた」ものとして、肉体の奥からあらわれてくる。
 「見る/見える」、「意識して見る/無意識に見える」。その「境目」を夏目は「現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚」と呼んでいるのだと思う。
 斎藤は、それを「何かがあるような感覚」とは書かずに、そこに「ある/何か」そのものとしてことばにする。「僧侶の裾」「スリッパ」「桔梗」という具合に。
 夏目はつづけて書いている。

境目を歩く。どうなるのか判らない。
どちらに落ちても、それは成り行きだ。

 「どうなるのか判らない。」だから、書くのである。ことばを動かすのである。わかっていれば、たぶん、書く必要はない。ことばにする必要はない。
 詩は、わからないものだが、それは詩人が「わからない」こと/ものを書いているからである。詩人が「わからずに」書いたものを「わかった」と「誤読」する時、詩は詩人のものから読者のものにかわる。そうして、勝手に生きていく。
 読者(私)は、私に見えていながら見落としていたものを、詩人のことばのなかに見つけ、その「おそく」なってやってきたものを、自分の「肉体」で勝手に読みなおして、勝手に動かして、それを「感想」にしている。

私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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自民党憲法改正草案を読む/番外24(情報の読み方)

2016-09-24 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月24日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面に「「生前退位」会議 来月中にも初会合」という見出しで、「天皇の公務負担軽減党に関する有識者会議」が設置されたというニュースが載っている。メンバーは6人。(初報は23日の夕刊)3面には解説が載っている。
 気になる部分を取り上げる。 

生前退位と公務の負担軽減にテーマを絞り、皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い、提言をとりまとめる。政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている。

 「皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い」ということは、6人のメンバーのなかには、「皇室や憲法、歴史の専門家」がいないということ意味する。つまり、「生前退位を可能にした場合、皇室典範との整合性、憲法との整合性はどうなるか」ということを直接的に発言できる人がいないということ。
 それはそれで、メンバー以外から「ヒアリング」をするから問題がないということなのかもしれないが。
 そのとき、メンバーがだれにどんなヒアリングをしたか、つまりどんなことを問いかけ、どんな答えが返ってきたか、その「やりとり」はどうなるのだろうか。「有識者会議」そのものが非公開だろうし、当然ヒアリングも非公開だろう。これでは、いったいどんな議論が行われたか、国民には「想像」もできない。
 「政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている」とあるが、もう政府方針が決まっているなら、「有識者会議」は単なる「アリバイづくり」になる。政府は独断で「特例法」を提案しているのではなく、「有識者会議」を設置し、有識者の意見を踏まえて結論を出したという「アリバイ」づくりにすぎない。
 3面の解説に、次の文がある。

 2005年に女性・女系天皇を容認する報告書を出した小泉内閣の有識者会議では、10人中2人が皇室や憲法に詳しい専門家だった。

 このときの有識者会議の結論「女性・女系天皇の容認」に安倍が反対したことはすでに書いたが、もし「皇室や憲法に詳しい専門家」を有識者会議のメンバーに加えたら、「特例法ではだめだ、皇室典範の改正が必要。そうしないと憲法上も問題が出てくる」という意見が出てくる可能性もある。
 そうなっては「困る」と安倍が考えたということだろう。
 3面の解説のつづき。

 今回の人選について、菅氏は「組織の運営や会議のとりまとめの経験が豊富な方々を選んだ」と述べ、皇室などの専門家はヒアリング対象とし、有識者会議は意見集約の資質を人選基準としたと説明した。


 「会議をとりまとめる」、つまり「意見集約の資質」が大切であって、真剣に天皇制度の将来を考えることなど、最初から考えていないのである。そして、政府が「特例法の制定」を検討しているのだとしたら、もう、最初からそれにあわせて「ヒアリング」がおこなわれ、「特例法」にふさわしい意見だけが「集約」されるということだろう。
 さらに興味深いのは、

首相官邸筋は「専門家は簡単に自説を曲げることができず議論がまとまらない上、だれを選ぶかで方向性が推測できてしまう」と解説する。

 つまり、今回の有識者会議では、「簡単に自説を曲げることができる」メンバーが選ばれたということである。3面の見出しに「人選 にじむ安倍色」とあるが、安倍の考えにあわせて「結論」を出してくれる人間をメンバーにしたということだろう。
 1面の文末に、

会議の議論や世論の動向を見極め、早ければ来年の通常国会への関連法案提出をめざす。

 とある。
 逆算すると、年内にも有識者会議の「結論」が必要となりそうだが、10、11、12月の3か月で、「ヒアリング」を行い、さらに「意見の集約」を行うというのは、非常に期間が短い。6人全員が集まるための調整もそう簡単ではないだろう。
 3面に、

ヒアリングを行う専門家は「相当な数に上る」(首相周辺)とみられ、生前退位の是非をめぐっても賛否が割れる可能性が高い。

 とあるが、ほんとうに「相当な数」のヒアリングをおこない、それを「集約」するのだとしたら、膨大な時間がかかるだろう。
 また「民主主義」というのは、他人の意見を聞き、自分の意見も述べ、そのうえで意見を調整することだと思うが、ヒアリングで「生前退位に反対」「生前退位に賛成」という意見が出たとして、その意見を述べた人たちは、どうなるのだろう。他人の意見を聞き、あ、そうだ、と考えを改めるということもあり得るはずなのに、そういう「対話」はおこなわれず、かわりに「有識者会議」の6人が、かってに「意見調整」をするというのでは、民主主義でもなんでもないだろう。
 最初から、「意見」を聞く気などないのに、そのふりをしているだけだ。

 以前に書いたが、安倍はなぜ「特例法」にこだわるのか、なぜ「特例法」の制定を急ぐのか、それを考えてみる必要がある。「特例法」を持ち出す前に、官邸が「生前退位」ではなく「摂政」を天皇側に持ちかけていた、それを天皇が拒んだということを考えないといけない。
 自民党憲法改正草案の「第六条第十項の4」

天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 現行憲法では「助言」と定められていたものが、改憲草案では「進言」。「これこれしなさい」とすすめ、それに従って天皇が動く。操り人形としての天皇。それには、天皇そのものよりも「摂政」の方が都合がいい、と考えているのだろう。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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堤美代「空の畑」

2016-09-23 08:50:55 | 詩(雑誌・同人誌)
堤美代「空の畑」(「詩的現代」18、2016年09月発行)

 堤美代「空の畑」は、こう始まる。

トミばあちゃんが
草むしりをしている
歳(よわい)九十になるので
茄子の畑を這うように
草むしり
小さい躰が
草に沈んだ小舟のようだ

 「小舟」は「比喩」。しかし、えっ、どうしてここで「小舟」が出てくる? わからない。
 二連目。

ばあちゃんは草の舟を漕ぐ
舟に櫓はないので
草を引っぱって前へ進む

 あ、そういうことか。さらにつづく。

麦ワラ帽子が
日輪のように傾く

ばあちゃんが草を毟ってるのか
草がばあちゃんを毟っているのか

 草をむしるとはいいながら、あるいは草を引っぱるとはいいながら、逆に、草に引っぱられるようにして前へ進む。草を頼りに前へ進む。確かに歩いて進むのではなく、座り込んだまま、草を引っぱり体をずるずると前へ動かすのは、畑の上を小舟で進む姿になるかもしれない。
 なんだか力関係(?)が逆転するのだが、この「逆転」がなんとなく楽しい。小舟か……。草むしりが舟遊びのようにも感じられる。
 おばあさんの動きが目に見えるようだ。
 そして最終連。

よく晴れた 五月のいちにち
空と畑を
ぐるりと
逆さまにしても
ばあちゃんは
空から落ちて来ない

 草むしりが終わり、やれやれと、仰向けに寝ころんだのかな?
 このとき、おばあちゃんは畑を背にしているのだけれど、「小舟」なので、「畑」に浮かんだ感じ。そして、「浮かんだ」感覚のまま「空」に浮かぶ。
 気持ちがいいなあ。
 「空から落ちて来ない」は「空に浮かび続ける」という感覚なんだろうなあ。

 詩は、おばあちゃんを見ているのだが、詩を読むと、おばあちゃんになったような感じ。おばあちゃんのように、草むしりをしながら、「小舟」になってみたい。

 少しもどって読み直すと……。

ばあちゃんが草を毟ってるのか
草がばあちゃんを毟っているのか

 この二行は、よく「頭」で考えると変なのだけれど、つまり「草が草がばあちゃんを毟る」ということはありえないのだけれど、この「毟る」を「引っぱる」と読み直すと、どっちがどっちかわからなくなるね。
 おばあちゃんが草を引っぱるのか、草がおばあちゃんの舟を引っぱるのか。
 それは、どっちでもいい。
 というと、また違ったことになるのかなあ。
 まあ、いい。
 決めつけないことが大事なのだ。両方がいっしょに動く感じが楽しいのだ。そして、この「両方が一緒」という感じが、最後の「空」と「畑」が「一緒(ひとつ)」になった感じにつながるのだと思う。
 で、この「ひとつになる」感覚が伝染して、自分が「おばあちゃん」と「ひとつ」になった感じ、おばあちゃんになって草むしりをして、寝ころんで、ああ、いいことをしたなあ、だから空に浮かんで、こんなにさわやかでいい気持ち--それをやってみたいなあ、という気持ちになるのだと思う。
ゆるがるれ―一行詩集
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榛名まほろば出版
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民党憲法改正草案を読む/番外23(情報の読み方)

2016-09-23 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
民党憲法改正草案を読む/番外23(情報の読み方)

 2016年09月23日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面の見出し。

 北方領2島返還 最低条件/歯舞、色丹 政府、露との交渉で/平和条約 4島帰属 前提とせず

 前文には、次のように書いてある。

 政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の2島引き渡しを最低条件とする方針を固めた。平和条約締結の際、択捉、国後両島を含めた「4島の帰属」問題を前提としない方向で検討している。

 つまり、4島の返還は求めない。4島の「帰属(どちらの領土に属するか)」も問題としない。ただ歯舞と色丹の返還を求める。
 どうして? なぜ、4島返還ではない?
 簡単に言うと、交渉がぜんぜん進まないからだが、変だねえ。2島だけ先に返還させて、そのあとどうするのだろう。ほんとうに返還されるかどうかわからないが、返還されたとしたら、ロシアの方としてはこれで決着、国後、択捉はロシアの領土と主張するだろうなあ。その「根拠」をロシアに与えることになるだろうなあ。
 本文中に、

日本政府高官は「過去の交渉経緯にこだわらずに合意をめざす」と決着に意欲を示す。

 とある。
 で、「過去の交渉経緯」って、何? どんな具合。いろいろあるのだが、2面に「北方領打開へ戦術転換」という解説(?)記事がある。そこに1956年の「日ソ共同宣言」からの「経緯」が書かれている。それによると、

歯舞群島、色丹の2島引き渡し。国後、択捉両島は協議継続

 とある。鳩山一郎首相とブルガーニン首相当時の「宣言」である。そして、今度の安倍とプーチン大統領との交渉の「あり方」は、

4島の帰属問題の解決を前提とせず、2島返還が最低条件

 あれっ、これって、1956年の「日ソ共同宣言」よりも「後退」していない? 歯舞、色丹の返還は共通だが、のこりの2島の部分がぜんぜん違う。1956年は「国後、択捉は協議継続」。今回は「4島の帰属問題の解決を前提としない」。これでは1956年よりも条件が悪い。
 安倍の「後退ぶり」を、最近の「交渉」と比較してみる。

1993年、細川-エリツィンの東京宣言「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結」
1998年、橋本-エリツィンの川奈提案「4島の北川に国境線をひき、施政は当面ロシアに委ねる
2001年の森-プーチンのイルクーツク会談「歯舞・色丹の返還と国後・択捉の帰属を平行して協議」

 安倍の「4島の帰属問題の解決を前提とせず」というのは、日本が「4島が日本の帰属する(4島は日本の領土である)」という主張を放棄した、ということ。こんな「条件」を提示した首相はいない。
 歯舞、色丹の「返還」はいいが、これでは逆に、択捉、国後はロシアの領土として認めるということ。しかも、その歯舞、色丹の「返還」も「いつまで」を明記して交渉するわけではないだろうから、実際に「返還」されるのは、さらに70年後ということも考えられる。
 こんなばかげた「交渉」があるのか。
 なぜ、こんな「交渉」をするのか。なぜ、「交渉」を急ぐのか。
 「北方領土」のことなど、安倍は気にしていないのだ。安倍の関心は別のところにあり、そのために「北方領土」を「犠牲」にしようとしているのだ。
 別のこととは、もちろん北朝鮮だあり、中国である。中国、北朝鮮向けの「包囲網」の形成と、日本に対して中国・ロシアが連携しないように工作しているのである。
 3面に、国連総会での安倍の「演説」に対する「解説」がある。安倍は18分の演説の半分近くを「北朝鮮や核問題に費やした」とある。安倍は北朝鮮への「制裁」を求めているのだが、

 安保理内では、英仏などは厳しい制裁で日米などと歩調をあわせているが、中露を中心に「制裁一辺倒ではなく対話を重視すべきだ」との声は根強い。

 という。
 中国、ロシアは、日本やアメリカと連携して北朝鮮包囲網をつくるよりも、北朝鮮と連携してアメリカと向き合うことを選んでいるということだ。
 一方に、日米(韓国を含む?)という「連携」があり、他方に「中露-北朝鮮」という「連携」がある。安倍は、その「連携」からロシアを引き剥がしたいのだ。少なくとも、何かが起きたとき、ロシアとは対決したくない。そのために「平和条約」を結びたい。「平和条約」を締結できるなら北方領土はどうでもいい。もう70年もロシア(ソ連)が実効支配している。歯舞と色丹だけでも「返還」させることができれば、「領土問題」は「前進した」ということにな。安倍の「手柄」になる。それが1956年の「宣言」よりも「後退」していても関係ない、そんな昔のことを国民は忘れている、と思っているのだろう。
  
 北朝鮮の核問題では日米、さらに韓国は連帯できるだろう。北朝鮮包囲網に韓国は積極的に加わるだろう。(ただし、北朝鮮は日本を標的にはしていないだろう。もし日本に核攻撃をしてくるとしても、それは日本と戦うのではなく、日本に駐留するアメリカ軍との戦争を意識してのことだろう。アメリカに圧力をかけるために核開発をしているのだ。日本や韓国に核攻撃しても、北朝鮮にとっては何のメリットもないだろう。)
 しかし、南シナ海の問題では、どうなのか。日米は「連携」しているが、韓国はどうなのか。よくわからない。韓国から遠く離れた南シナ海での中国の「領土拡大」は、どう考えられているのか。韓国の安全の「危機」と受け止められているか、そういう形で報道されているのか。ベトナムやフィリピンの「反応」は日本でも報道されているが、そのフィリピンにしたって「中国敵対」政策一辺倒ではないようだ。中国は、大事な隣国である。むしろ、米軍基地に批判的である。
 アメリカにしても、南シナ海で起きていることをアメリカの「危機」とはとらえていないだろう。「日本の北方領土」を「ロシアの領土」と「暗黙の了解」を与えるように、あのあたりまでは「中国の領土」と「暗黙の了解」を与えているではないのか。中東問題(イスラエル問題)のように「真剣」ではないと思う。
 だからこそ、少なくともロシアが中国と連携して日本に立ち向かうという事態を避けたい。中国・ロシアの関係を「分断」できないけれども、ロシアが日本と敵対することをさせたい。だから北方領土を犠牲にしてでも、ロシアとの間で「平和条約」を締結したいということだろう。これは、別な言い方をすると、何としてでも中国、北朝鮮と戦争し、征服したいという安倍の「夢」を語っていると思う。

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