詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・ゲイティンズ監督「夢駆ける馬ドリーマー」

2006-05-31 22:53:38 | 映画
監督 ジョン・ゲイティンズ 出演 ダコタ・ファニング、カート・ラッセル、馬

 少女の夢、つまり純粋な夢が家族を再生させる、傷ついた馬を再生させる、挫折した騎手をさせる……。アメリカン・ドリームのひとつがここにある、といえばいえるのだろう。しかし、少女の純粋さに頼りすぎていて、ぜんぜんおもしろくない。美しいシーンがない。思いがけない人間の行動がない。
 純粋な愛は軌跡さえ起こさせるすばらしいもの、というのは危険な思想である。そこには肉体が欠落している。
 その肉体の欠如をもっとも端的に語っているのが少女の作文のシーン。少女が書いた作文を父親が朗読する。少女のことばを自分の声で追体験する。そうすることで少女の夢を知り、自分の夢も知る。いいシーンといえばいいシーンだけれど、映画になっていない。ことばで説明するだけで、これでは小説である。いくらカート・ラッセルが感無量になる顔をしてみせてもだめである。「詩」である部分が、ことばで築き上げられていくとき、映画は死んでいく。
 時間の経過もこの映画では重要なテーマであるはずだが、この処理も映画とはほど遠い。馬が骨折し、怪我が治り、立つ、歩く、走る、競走するというのは大変な時間がかかるはずである。その時間の経過が肉体化されていない。表情がその場限りなのである。単純明解に、喜怒哀楽をあらわしすぎる。(エリザベス・シューがかろうじて、時間を演技していたが。)
 ダコタ・ファニングにしても同じである。成長期で乳歯が生えかわる時期なのか、それともけがでもして歯が欠けたのかわからないが、最初から最後まで上の右の門歯が欠けたままである。こんなばかなことはないだろう。どうでもいいようであって、どうでもよくない。この映画には、ダコタ・ファニングの門歯のように、「細部」が欠けている。
 せっかく広い牧場を舞台に撮影しているのだから、せめて牧場の変化で、季節の移り変わりを感じさせない。芝の緑、木々の緑も1年ではかわるはずである。土の色だって変わるはずである。
 細部が切り捨てられ、「詩」が生き残る場がなかった映画である。
 唯一の例外は馬の目である。馬がダコタ・ファニングを見つめるときの愛情あふれる色がいい。生きて、誰かに会えた、愛し合えるものに会えた喜びが、つまり「詩」がそこにあった。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(23)

2006-05-31 15:23:30 | 詩集
 「渦巻の花」(『啼鳥四季』)に不思議な行が出てくる。

沼まむし 雛鳥 聖人 琥珀
早鐘 万聖説 心配性 長枕
フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ

 これが事実であるかどうか私は知らない。不思議に思うのは、日本語で詩を書きながら、「フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ」と書くことである。だれにむけて、こうしたことばを渋沢は書いているのだろうか。フランス語を理解できる日本人に対してであろうか。もしそうであるなら、それはフランス語で書かれるべきことがらだろう。最初からフランス語で書けばすむことである。
 渋沢は渋沢自信にむけて、この行を書いたのだろう。

 詩そのものを渋沢はいつも自分にむけて書いているのかもしれない。あるいは詩を外国語として書いているのかもしれない。新しい言語として詩を書いているのかもしれない。伝統回帰に見える『啼鳥四季』というタイトルも、実は伝統回帰ではなく、古い日本語を外国語として見ているのかもしれない。伝統的な視線を外国人の視線として把握し、それを融合させようとしているのかもしれない。

 このことに関連するか関連しないかよくわからないが……。「現代詩手帖」5月号で、野村喜和夫が発言していることが、私には少し気にかかる。

 フローラというか、植物の名前、形態にすごく微細な眼差しを向けていく。(略)大地に根差した不思議な、農民的といったら変ですが、そういうものが何かあるんです。

 私は西脇順三郎の描く植物には肉体を感じる。音がそのまま植物と結びつき、どうじに体のなかへ入ってくる感じがする。「すかんぽ」と書いてあれば、その茎をかじったことまでまざまざとよみがえる。まったく知らない名前であっても、道端の風景が浮かび、風が吹き、草が揺れる。葉っぱの上のほこりが白く輝く。熱さのなかでだらしなく垂れる葉っぱも見えてくる。「どくだみ」という濁った音さえ、便所の脇の不可思議な湿気とともに、農家の人のあたたかい声となって響いてくる。
 それに反して、渋沢の植物は、私にはどうしてもなじめない。渋沢が手で植物に触れているという感じがしない。目で見ているという感じすらしない。ただ知識としてそれをしっているという感じしかしない。
 三島由紀夫がほんものの松を見て「これが松ですか」と言ったというのは事実か作り話かしらないが、何か似た感じがする。知識としての植物、図鑑のなかでの植物を、渋沢は「外国語」として詩に持ち込んでいるのではないのだろうか。
 「外国語」を読み「日本語」に翻訳する。そのときの精神のうごき。本語を探すときの精神の動き。その動きに、渋沢は「詩」を感じるのかもしれない。

 自分の知らないもの、知らなかったこと(たとえば「宇宙のひも理論」)に触れたとき、それを自分のわかることばとして肉体のなかに呼び込もうとする。イメージを総動員する。肉体の運動も総動員する。そのときの精神的・肉体的興奮。そこにたしかに「詩」はあると思う。
 渋沢の詩は現実というよりも、そうした抽象的なもの、あるいは「頭脳的」なもの、かもしれない。「頭脳」のなかでなら、

沼まむし 雛鳥 聖人 琥珀
早鐘 万聖説 心配性 長枕
フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ

ということは起きる。しかし、肉体のなか、手や舌のなかではそういうことは起きない。同じ韻を探せない。
 補足すれば、たとえば「すかんぽ」のなかに「酢」がある、と言えば、すかんぽをかじったことのある人なら舌の記憶としてそれを理解できるだろう。「すかんぽと筋(すじ)は頭韻を踏む」と言えば、単に耳の記憶だけではなく、かじるためにすかんぽを折ったときのことまで思い出すだろう。
 西脇の植物には、そういう肉体の記憶を誘う響きがある。日本語の音の深さがある。渋沢の植物には、野村が「フローラ」と呼ぶしかなかったような、「外国語」の響きしかない。「頭脳的」な響きしかない。


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坂田よう子「となりのおくさん」ほか

2006-05-30 22:44:07 | 詩集
 坂田よう子「となりのおくさん」(「ぶらんこのり」創刊号)。
    (「よう」は「火」偏に「華」だが、漢字がないので、ひらがなで代用)

となりのおくさんはあいさつにうるさい
朝ふとんを干していると
ベランダ越しにごあいさつはとさけぶ

お昼時にチャイムがなるので出てみると
スーパーの袋かかえたおくさんが
ごあいさつはとさけぶ

 こういう「おくさん」はどこにでもいそうである。しかし、この詩は最後で「となりのおくさん」がほんとうはいなかったかもしれない、と暗示する。それはほんとうは「わたし」だったかもしれない。「わたし」の内に存在する意識が「となりのおくさん」とっなて姿をあらわしたのである。
 「かなちゃんとばあちゃん」も同じ構造になっている。「かなちゃん」と「ばあちゃん」は同一人物である。ひとりの人間が自分自身のなかで対話している。
 自分自身のなかで対話を十分に繰り返して生きる、というのが坂田の基本的な生き方(思想)かもしれない。しかし、それは、実はややこしいことではない。何度も何度も、ただ肉体にことばをなじませるということである。ことばがなめらかになるまで、口に出さず、こころのなかで繰り返してみるということである。「口語」になるまで、ことばを自分のなかでころがしつづける。ことばと肉体を一体化させてしまう。
 「一体化」が坂田の思想である。

 「一体化」はほかのところにも出てくる。
 たとえば「スーパーの袋かかえたおくさんが」という一行。私なら「スーパーの袋をかかえたおくさんが」と「を」を入れてしまう。しかし、坂田は「を」を省く。この省略が坂田の思想である。「を」が省略されることで「おばさん」と「スーパーの袋」は分離できない、とても緊密な関係になる。この緊密な関係を「一体化」である。
 後半部分に出てくる「お向かいの玄関から女の子がランドセルしょって」という行の女の子とランドセルの関係も同じである。「女の子」と「ランドセル」は組合わさってはじめて目の前にあらわれる。現実となる。

 こうした「一体化」が実は「となりのおくさん」と「わたし」の一体化を暗示する。



 同じ号、坂多瑩子「待つ」。簡潔で美しい詩だ。

汽車がくるのを
待っていた
空を塗って
線路の
むこうがわにある
大きなイチョウの木
を描いて
駅は小さく
屋根は
オレンジ色に塗って
月並みな構図だけれど
汽車がくるのを
待っていた
汽車を描いたら
完ぺきな
はずだった
あれから
さまざまなものが
通過していった
今見上げる空より
もっと空らしい空が
スケッチブックの一ページ目
にある
汽車は
まだこないが

 「月並みな構図だけれど」がとてもいい。この詩自体も「月並み」といってしまえば月並みになってしまうが、それでも美しいのは坂多に「月並みな構図」という自己批評の精神があるからだ。

 「ぶらんこ」は坂田に坂多、そして中井ひさ子の3人の同人誌だが、3人に共通するのは、この自己批評の精神である。自分をしっかりみつめている。そういう安心感が、どの作品にもある。


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樋口信子「やり残した喧嘩は」

2006-05-29 13:15:29 | 詩集
 樋口信子「やり残した喧嘩は」(「六分儀」26)。詩はいきなりはじまる。いきなりやってくる。たとえば

やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう

 書き出しの2行。だれのことばなのか(樋口のことばなのか、喧嘩相手のことばなのか)は明確にされない。だれが言ったかは、あまり関係がないからだ。なぜそのことばを思い出したのか、も関係がない。ただことばのつながり方だけが詩にとって問題だからだ。
 「やり残した喧嘩」とは何か。結末がついていない喧嘩か。あるいは、まだ始まらなかった喧嘩か。「スペインで」の「で」は場所をさすのか。あるいはテーマをさすのか。「いたしましょう」という丁寧な言い方は、誘いなのか。あるいは、「そんなことはできるはずがない」という返事を予測した拒否なのか。
 意味が輻輳する。読者にはその輻輳のありようがわからない。ただ樋口にだけわかっている。その樋口にだけわかっているもの、樋口の肉体になっているものを、樋口は少しずつ明らかにする。

延々と続く赤茶けた乾いた道の
ひまわり オリーブ コルク樫
うなだれては動かず根を張り
炎々とした空の下
絵はがきを出したわたしより
よく知っているひとがいた
なぜかと問えば
「いつも夢のなかで行っている」
あの時やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう
いまといわれるなら少し待って
やかんのお湯がたぎるまで
湯気の向こうへ
抜け出していきますから
いまなら軽くなって
どこまでも

 最初に樋口がスペインから「やり残した喧嘩は/スペインでいたしましょう」と絵はがきで言ったのだろう。実際にスペインにいる強み、現実に乾いた道、ひまわり、オリーブを見ている。スペインを実感している強み。しかし、相手は、スペインに行ったことがないのに何でも知っていた。「いつも夢のなかで行っている」ので。その喧嘩相手が、こんどは樋口に「あの時やりのこした喧嘩は/スペインでいたしましょう」と言ってきた。スペインから。
 現実の、いまという日常へふいに侵入してきた過去。
 樋口は、その過去と現実のまま向き合う。お湯をわかしている。「お湯が沸くまでの間、相手をしてあげるわよ」という感じだ。

 このあとが、しゃれている。日常の生活と、「やり残した喧嘩」という非日常がまじりあい、そこから再び樋口は日常へと、日々の生活へともどる。(作品は「六分儀」で読んでください。)そして、それが再び、ほんとうのところは何?という疑問に舞い戻る。
 それはほんとうの喧嘩なのか。相手はほんとうにいるのか。それはもしかしたら「過去の樋口」ではないのか。「日々の出口」と「夢の出口」が重なり合うように、喧嘩相手は重なり合い、樋口の肉体のなかで一体になっていないだろうか。
 樋口の肉体のなかで一体になっている、一体になっていない。それはしかし問題ではないのだ。肉体のなかで、そんなふうに何かが触れ合う。触れ合って、ことばが動く。その瞬間が「詩」だからである。「詩」に答えはない。ただ誘いがあるだけだ。「……いたしましょう」という誘いが。



 同じ「六分儀」に鶴岡善久が「木下杢太郎の日記、植物画」というエッセイを書いている。木下杢太郎が夏目漱石に本を贈ったときの様子が紹介されている。その時の漱石についての感想が書かれている。

はじめて贈られた本の著者に自著の不出来を嘆く夏目漱石の直情ぶりがうかがえる。

 木下杢太郎とは直接関係ないことだが、この一文に鶴岡善久のこころの動きがあらわれていて楽しい。夏目漱石の直情に反応するのは、鶴岡が「直情」を重視しているからだろう。鶴岡は、木下杢太郎の文章に「直情」を見ている。その「直情」は夏目漱石の直情とは違った形をしているが、通い合うものがある。だからこそ、ふいに誘い出されて「夏目漱石の直情がうかがえる」という文章が生まれる。
 こうしたこころの動きに、私は「詩」を感じる。


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根岸吉太郎監督「雪に願うこと」

2006-05-28 22:28:33 | 映画
監督 根岸吉太郎 出演 佐藤浩一、伊勢谷友介、小泉今日子

 非常に美しいシーンがある。登場人物のそれぞれが夢をかけた朝。その光。まだだれもいない競馬場。ただ静けさだけがある。しかもそれはしだいに静かになっていく静けさである。そして雪のつもった街なみ。屋根の雪のまるみ。雪の下からのぞく瓦。これも静かである。不純物がいっさいない。邪念がない。
 ファーストシーンの雪で視界の悪い風景とはまったく逆である。ファーストシーンで東京から帰ってきた弟は携帯電話を捨てるが、その捨てるという行為さえ邪念に満ちている。未練に満ちている。
 これが最後の朝には完全に別なものになっている。弟は雪の玉をつくって屋根に載せる。願いごとがかなうように「おまじない」をする。しかし、その「おまじない」、願いには邪念がない。手塩にかけた馬が勝ちますように、と祈っているのではない。完全に信じきっている。それでも祈るのは、それが自分自身への「けじめ」だからである。「けじめ」をつけるために祈るのである。そして「けじめ」はついている。だから心配などないのだ。
 ハッピーエンディングの映画はハッピーエンドに終わるとわかっていても、はらはらどきどきするものが多い。そのはらはらどきどきをとおして観客は主人公と一体になる。カタルシスを味わう。ところがこの映画はそうではない。まったくはらはらどきどきしない。それぞれの登場人物がそれぞれの夢をかけた結末だが、それぞれに「けじめ」がついている。だからこの映画はほんとうの結末、馬がほんとうに勝ったかどうかなど映像化しない。そんなことはどうでもいいからである。
 このきれいさっぱりとした気分、「けじめ」の美しさが、冬晴れの朝の光にあふれている。とても気持ちがいい。

 この朝の光が美しいのは、それまでの、うじゃうじゃした人間のあり方が丁寧に描かれているからである。ファーストシーンの雪と、最後の朝の光の間に、いくつものできごとがあり、そのできごとを通じて一人一人が「けじめ」を発見する。
 だれもがいらだちをかかえ、不安をかかえ、生きている。どうしていいかわからずに生きている。どうしようもないから他人にぶつかり、他人に甘え、もがく。他人とぶつかることで、他人から何かしらの影響を受け、自分のなかにとりいれていく。そしてそれは、実は自分自身のなかに残っていたものであった。新しいものではない。忘れていたものであった。
 象徴的なシーンがある。
 弟が風呂の蛇口を閉めながら、流れる湯に触れる。そのとき過去がふいに甦る。小川の流れが、ザリガニを仲間といっしょにとったことが。そして忘れていたはずの小学校の校歌が口をついて出てくる。邪心などない子供のときの素直さが甦ってくる。そうした時代があったのだ。ただ、したいからそれをする。したいことができるという喜びの時間があったのだ。それをとりもどす。「けじめ」は、邪心を捨て、自分がしたいことをする、ただそれだけのことである。
 この映画のすばらしさは、この風呂場のシーンをはじめ、どのシーンにも押しつけがましさがないことである。それからどうなった、とはけっして言わないことである。そういうことは観客のこころのなかで起きればいいだけのことである。

 忘れられないシーンの連続だが、もう一つだけあげるとすれば、兄が車に乗っている弟を外へ呼び出すために、窓に向かって雪の玉をぶつけるシーンである。雪の玉は窓にぶつかり、砕ける。一度、二度。この二度、というのがすばらしい。最初は何が起きたのか弟にはわからない。二度目に兄がしていることがわかる。何か伝えたいのだ、とわかる。もちろん雪の玉だけでは思いは伝わらない。だからそのあと兄と弟の会話があるのだが、それも雪の玉のように、非常に不明瞭なものである。「馬はいい」と言うだけなのだ。とてもいい。思わず涙が出てくる。兄が知っているのは雪と馬。だから雪をぶつける。だから馬を語る。それが兄の人生であり、兄の思想だ。「馬はいいなあ」というのが兄の思想なのだ。そこに兄の人生のすべてがある。
 思想とは肉体にまぎれこんだことば、肉体と一体になったことばである。たとえば弟の小学時代の仲間、厩舎の仲間にとっては「大地に根を張るかしわ(?)の木、スズラン花咲く……」という小学校の校歌が思想であり、認知症の母親にとっては「私には東京の大学を出て社長になっている息子がいる。長い間会っていないけれど、もうすぐ会いに来てくれる」が思想なのである。

 一人一人の思想が、この映画では揺るぎなく描かれている。香川照之演じる厩舎主のように、取り立ててせりふがない人物まで、その肉体で、表情で、まぎれもなく生きているということを伝えてくる。肉体そのものが思想になっている。
 この肉体そのものが思想になっている、という意味では、この映画の絶対的な主人公、馬「ウンリュウ」の体こそ思想である。思想であるからこそ、見る人を引きつける。ばんえい競馬へやってくる人を引きつける。ただ苦しみを耐えて走るだけではない。たてがみを編んで気取る(?)その姿も思想である。

 書き始めると、どこまでもどこまでも書きたくなってしまう。書きながら次々に別のシーンが甦ってくる。大好きになってしまった映画である。大好きな、大好きな、大好きな映画である。

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北川朱実「昭和四十五年」

2006-05-28 10:03:16 | 詩集
 北川朱実「昭和四十五年」(「石の詩」64)。散文のように事実を積み重ねてゆき、突然、「詩」が噴出する。

日焼けした一枚の白黒写真
(昭和四十五年四月、上野公園
と裏書きがあるから
出稼ぎ先で花見をしたときのものだろう
ハチマキに地下足袋すがたの父は
男たちから少し離れた石に腰かけて
笑っている

何がおかしかったのか
何か笑えることでもあったのか

突風に
父の残り少ない頭髪は逆立ち
狂ったように空に舞いあがっている

黒ぶち丸眼鏡が
鼻の上で大きく傾いているのは
片方のつるが折れて
ゴムひもを耳に引っかけているからだ

目をあかくして
ゴムの長さをのばしたりちぢめたりするたびに
耳から夕焼け色の水があふれ

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。とても美しい。写真が撮影された時間について北川は書いていないが、背後に、突然夕焼けが見えてくる。夕暮れ時の人間の寂しさが見えてくる。笑顔の裏側の寂しさが見えてくる。
 それはつるが折れた眼鏡をゴムひもで代用している寂しさである。そういう姿を家族で共有する寂しさである。人間と人間が非常に接近した寂しさである。何も語らなくてもいい。ただ肉体がそばにある。そのそばにある距離感の、ほんの少しの違いのなかに、そのときのすべての感情を読み取ってしまう「家族」の寂しさである。
 家族はほんとうは寂しくはない。しかし、ほんの少しの違いで寂しさを実感させるものである。そのことが、この詩では、父の「男たちから少し離れた」石に腰掛けている姿、おそらく家族以外には気がつかないだろう「つるの折れた眼鏡」をかけていたときの父のほんの小さな表情のズレから丁寧にすくいあげられている。特に、つるの折れた眼鏡が引き起こす表情の微妙さは家族以外にはわからないだろう。それがさびしい。さびしいとは、自分はそれを知っている、それを共有しているという自覚といっしょに存在する。何も共有するものがないとき、寂しさは存在しない。寂しさは、私ではない誰かを呼び出す「声」なのだろう。

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。この単独では特異なイメージが、寂しさの実感としてくっきり見える。そのせいだと思うが、この一行を読みたくて、私は何度も何度もこの詩を読み返した。
 この一行が好き--そういえる作品にであったとき、きょうは詩を読んだ、と実感できる。
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スティプン・スピルバーグ監督『ミュンヘン』再考

2006-05-28 09:57:12 | 映画
監督 スティプン・スピルバーグ 出演 エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラー

 この映画のキイワードは料理である。料理が殺しと家族を結ぶ。殺し-料理-家庭がシンクロして映画に深みがでる。スピルバーグの狙いは、たぶん、これだ。
 料理と殺人は非常に類似点が多い。ともに決めては素材と手際である。吟味した素材をそろえ、手際よく処理する。そうすれば料理も殺人も完璧である。報復テロを実行する主人公を料理がうまい男に設定した意味はそこにある。
 主人公が助言をあおぐ「パパ」もまた料理が得意である。素材(野菜)から自分で育てている。彼もまた料理と殺人が同じ手際でおこなわれることを熟知している。「パパ」は料理を家族(ファミリー、というやくざ用語の方がいいかもしれない)に振る舞うのが好きである。料理は人と人を結びつける。人が愛し、愛されていることを確かめる絆である。その大切な絆を破壊しようとするものへの報復、それが殺人である。報復テロである。ファミリーを守る、ファミリーの団結を確認するものとして料理と殺人がある。
 実際には、殺しの集団には不完全な素材(人材)が紛れ込んだ。そのために彼らの行動は完璧なものにはならない。ところどころで、ほころぶ。ときどきおこなわれる完璧な殺人(女テロリストを殺すシーンの見事さ)もあるが、たいがいは不完全である。そこに人間の味が出る。それがこの映画の一種の救いになっている。
 不完全な素材のために「ファミリー」は徐々に崩壊する。ひとり、ふたりとファミリーが殺され、脱落していく。そのたびに団結を確認する料理が盛大につくられるが、むなしい飾りにすぎない。そのむなしさの実感が、家族をさらに意識させる。報復テロがさらに報復テロを招き、このままでは「家族」の未来はない。主人公は殺しとは無関係の、妻がいて子供がいていっしょに料理を食べて楽しい時間を過ごすほんとうの家庭へと帰りたくなる。最後には殺しを命じる上司を家に誘いもする。「私の家で料理を食べないか」と。ここにスピルバーグの切実な願いが込められている。料理をとおして伝統を知る、文化を知る。そして絆を深める。そうした生き方への切実な願いを感じる。
 暗く沈んだヨーロッパの色、出演者の凝縮した演技によって、主人公の心境の変化、家庭愛への祈りのようなものは、とてもよく伝わってくる。いわば完璧な映画である。スピルバーグの作品としては『プライベート・ライアン』依頼の傑作である。
 しかし。
 おもしろくない。ぜんぜんおもしろくない。
 私が要約したように、きちんと説明できる映画など映画ではない。映画は、もっと、映像自体でストーリーを破壊していくようでないと楽しくない。
 スピルバーグの作品のなかで私がもっとも好きなのは『未知との遭遇』だが、なぜ好きかというとクライマックスで宇宙船のでんぐり返りがあるからだ。宇宙船が山を越えて姿をあらわす。そのとき宇宙船の天地がひっくり返る。度肝を抜かれる。宇宙船のでんぐりがえりにあわせて、座席ごと自分がでんぐり返った感じだ。こんなシーンは映画のストーリーには関係ない。宇宙船が山越えのときでんぐり返る必要など何もない。しかしスピルバーグは宇宙船のでん繰り返りを撮りたかったのだろう。その欲望がうれしい。楽しい。ただただ笑いたい。
 『ミュンヘン』にはそうした我を忘れてしまう映像がなかった。テーマが違うといえばそれまでだが、私は、強烈な映像がない映画、思わず自分でまねしたくなるシーンのない映画は好きではない。また、殺し、料理には共通点がある、殺しをとおしてしだいに料理にふさわしい家庭に目覚めるというような、ことばにしてしまえる「思想」に私は共感を覚えない。「思想」はことばにならない。宇宙船のでんぐり返りのように、それがどうした、としかいえないもののなかにこそスピルバーグの「思想」と「詩」があると思う。そう信じている。

(先日、『ミュンヘン』はどういう映画かと同僚に問われた。上に書いたように答えた。『ダビンチ・コード』がくだらなかったせいか、『ミュンヘン』がとてもいい映画だったとあらためて思いなおした。ただし、非常によくできた映画だけれど、私は好きになれない。「詩」を感じない。)
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(22)

2006-05-27 22:18:37 | 詩集
 『啼鳥四季』には「歳末のひも」の「むずむずと心迫るイメージだ」ほど「生」という感じではないが、何かことばのうごきとしてストレートなものを含む詩が複数ある。そして、そこに「日本」というものが浮かび上がる。しかも独自の「日本」というより、多くの日本人が感じるだろう日本が。

季節のめぐり 身体のリズム
それに応じてわれらの想像力を開く聖なる祭り
歓楽の祭りに
神も心をにぎやかにするだろう
               (「我が寝む夜ろは」)

漢字とかなの異(い)なる連なり
われらの融通無礙と痴呆の因よ
表意象形と柔美な表音とのあいだの
奇妙に遊動する隠れた空隙のおかげで
もどかしくも揺れながら生きる者は幸いなるかな
                (「燈台の光景」)

 季節(四季)や日本特有の文字、そのさまざまな表情への思い。こうした表現は、渋沢の描く世界が日本人の感覚に深く根ざしているということをあらためて伝える。ああ、渋沢も日本人なのだとあたりまえのことに思いがいたり、なぜか安心感を覚える。

 この詩集には、「米寿女性に捧げるオード」という、非常に明確な詩もある。タイトルどおりの詩なのだが、この詩にも私は非常に惹かれる。他の渋沢の作品を読んでいるときの、行から行への転換の緊張感がなく(といっても、読者である私の側の緊張感という意味だが)、渋沢の他者へのあたたかい息づかいが聞こえる。
 こういう詩が私は好きだ。

ついでにこれも件の大詩人のすすめによれば
アモールへの訴えには荘重体よりもふさわしいという
いささかくだけたこの「平俗体」をもどうか許されんことを

 「ついでに」という「くだけた」ことばが美しい。ほんとうに美しい。みとれてしまう。この気安いことば、平俗なことばが、そのまま渋沢と米寿女性との気の置けない関係を静かに浮かび上がらせる。
 「思想」はどこにでも存在するが、こういう気の置けない関係こそ、真の思想の根底にふさわしいものだと思う。他者と美しく暮らす、その暮らしを支えるものほど大切な思想はない。
 これまでの詩にはなかった(あるいは隠れていただけなのか)、この平俗な感じ、平俗・平凡な意識(日本には四季があり、そのリズムが日本人の体に作用している、とか、漢字とひらがなのまじった文体が日本語の感性をつくっている、とか)が、詩の垣根を低くしている。
 磨き抜かれた高踏的な表現も詩として美しいが、磨き上げることをちょっと省いたことばには、それ独自の「情緒」というものがある。ちょっと古い陶器の茶碗のような、不思議な情緒がある。
 このころの渋沢の詩に、そういうものを感じる。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(21)

2006-05-26 14:50:23 | 詩集
 「歳末のひも」(『啼鳥四季』)はビッグバンに関する「ひも理論」に触れたものである。そのなかに驚くべき1行がある。

むずむずと心迫るイメージだ

 こんなに簡単に渋沢自身が自分の関心を詩のなかに語ったことがあるだろうか。詩にかぎらず、あらゆる文学(あるいは芸術)は自分に関心かあることを書く。それはあたりまえの前提である。だから描く対象に対して「心迫るイメージだ」とは普通は書かない。自分にとってこころに迫ってくるのは当然であり、どうやって自分が感じているような心迫るイメージをことばで具体化し、読者に伝えるかが文学である。自分で感心してしまっては、しようがない。
 だが、渋沢は書かずにはいられなかった。それほどそのイメージは(理論は、と渋沢は書いてはいない)鮮烈だったということだろう。渋沢にとって「ひも理論」とはどんなものであったのか。

聞けば宇宙ひも というものがあるのだという
ビッグバン以後の
膨張 冷却 固形化の過程で
冷蔵庫の氷に走るひび割れに似て
宇宙の原質のあちこちにひびが入り
猛烈な高エネルギーを孕む巨大なひもとして
無限の暗黒の空間を
くねり まがり よじれ たわみ
反り めくれ ねじれ 折れ くびれ
もだえるように動きまわって
輪をつくったり 千切れたり からまったり
不規則な運動を繰り返すうちに
そのひものまわりに塵が集まり
飛び飛びに
無数の銀河や星雲のようなものが出来たのだと
むずむずと心迫るイメージだ

 銀河、星雲を「渋沢の詩」と書き換えれば、それはそのまま渋沢の詩の誕生を語ることになるだろう。渋沢自身の詩(言語宇宙)の誕生の構図と宇宙誕生の構図、その理論が一致するからこそ、渋沢は「むずむずと心迫るイメージだ」と書かずにいられなかったのだろう。
 とりわけ渋沢に刺激的だったのは「くねり まがり よじれ たわみ/反り めくれ ねじれ 折れ くびれ/もだえるように動きまわって/輪をつくったり 千切れたり からまったり」という動きではないだろうか。
 こまれで私は渋沢の詩学について「直列の詩学」「放電の詩学」と書いてきた。「直列の詩学」には「直列のためのコード(ひも)」が必要だ。その「ひも」はけっしてまっすぐではない。むしろ、複雑にくねり、まがっている。
 「弾道学」の書き出し。

叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難しい

 これは実は「叫ぶことは易しい(けれどもその)叫びにすべての日と夜とを載せることは難しい」という文が千切れ、再び直結したものであった。省略された「けれどもその」は、直結、「直列」を構成する「ひも(コード)」であった。詩に書かれた2行になるまでの間に、そのコードは「くねり まがり……」という運動をしているのだ。運動のはてに「千切れ」てなくなり、「直列」という構造が出現したのである。
 渋沢の詩には同じ行(類似の行)の繰り返しが多いが、そうしたバリエーションはすべてこの運動の、それぞれの瞬間である。「ひも」はうごめくあいだにもつれるから、何かを直結するためには一度ほどかなければならない。その「ほどき」の過程が、類似の行の繰り返しである。いわばもとのまっすぐな「ひも」にもどって「直列」のための作業をやりなおすのである。

 「ひも」につられてというか、「心迫るイメージ」に誘い出されて、もうひとつ、これまで渋沢が書いて来なかったことばが出てくる。「エネルギー」ということばが。

人出でごったがえす暮の街にはすごいエネルギーが溢れていた
まったくすごいエネルギーが溢れていて
うねうねと めくれ 反り 折れ くびれ
いたるところで淀んでは また流れていた
わたしのほうはその流れに小突きまわされ
弾(はじ)かれて 街路樹のようやく枯れてきた葉など眺める

 「エネルギー」の運動は、そのまま「ひも」の運動と重なる。「うねうねと めくれ 反り 折れ くびれ」る。エネルギーの動き方が「ひも」を立ち上がらせている。エネルギーがただそこに存在するだけでは「ひも」は出現しない。動くことによって「ひも」が生成する。それは「直列の詩学」のことばが動くことで、その動きのなかに「直列のためのコード」(たとえば、「けれどもその」)が浮かび上がってくるのと同じである。
 今引用した行には、そうした構図意外にも、驚くべきことばがのこされている。
 「すごい」「まったくすごい」。ともに「エネルギー」を修飾することばだが、こんなに単純で丸裸の、「詩」からほど遠いことばが、渋沢の詩の核心をあらわす部分でつかわれていることには、ほんとうに驚かざるを得ない。
 「すごい」「まったくすごい」はなくてもいいことばだし、ほんとうに「すごい」のなら、そのすごさをもっと具体的に書かなければ文学にはならないだろう。しかし、そういう配慮(?)をする余裕もないほど、渋沢は「ひも」ととらわれていた。
 「ひも」と渋沢自身が一体となってしまって、その区別がつかない。そういう「夢中」な状態で「すごい」「ものすごい」ということばは書かれているのだ。「心迫るイメージ」も同じである。
 「すごい」「ものすごい」「心迫るイメージ」と書いたとき、他人が(読者が)、「どこが?」と質問してくることなど考えていない。自分が「すごい」と思っているから、だれでも「すごい」と感じると、単純に思い込んでいる。

 渋沢の詩にしては、まったく異例な作品だと思う。そして、この異例さによって、この詩はひときわ印象に残る。この作品が渋沢の最良のものであるかどうかはよくわからないが、必ず思い出してしまう作品のひとつである。


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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(20)

2006-05-25 11:37:39 | 詩集

 『啼鳥四季』(1991)。「五月のキジバト」の書き出し。

壊れた朝
細々と流れる片割れの川 名残り川
流れてきたかたちのないものが
ひょいとかたちをなすあたりで
五月のキジバトが啼き 夜が明ける

 「かたちのないものが/(略)かたちをなす」。「無」から「生成」への動き描かれている。このとき「場」は定まっていない。生成があったとき、それが「場」になる。生成がないかぎり、それは「場」として認識されない。「ひょいとかたちをなすあたり」と渋沢は簡単に(?)書いているが、「なす」と「あたり」は絶対に切り離せない関係にある。
 「場」が成立して、時間がはじまる。「五月のキジバトが啼き 夜が明ける」。この行にも、深いおもしろさがある。キジバトの声は後に「スッポー ポーポーポー/アッ スッポー ポーポーポ」と描写されているが、音の変化はそのまま時間の経過を示す。
 存在の「生成」と「場」と「時間」が、ここでは切り離せない関係として把握されている。

 (キジバトの鳴き声は、私の耳には「デデッポッポー」と聞こえる。渋沢の表記しているようには聞こえない。これは育った土地の違い、その土地でつかわれている表現の違いかもしれないが、この違いから何かを語ることができれば「詩」の味はもっと深くなるに違いない。)



 「形のない球体」。このタイトルは言語矛盾だ。「球体」は球という形があるから球体というのだが、こうした言語矛盾にはなぜか私は引きつけられてしまう。ほんとうにいいたいことは、たぶん言語矛盾でしかあらわすことができない、と私は思う。自分が感じていること、それはいままで誰も語ったことがないものだとすれば、そこにはどうしてもいままでの表現ではありえなかったものが含まれる。矛盾したことを言わなければならない。矛盾のなかにこそ、思想(その人独自の思い)があるはずだ。あるいは、思想になろうとするもの、名付けられていないものがあるはずだ。
 この作品に「非在の場所」ということばが出てくる。書き出しの7行目だ。

さえ昼のものは昼に返し
夜のものは夜に返そう
そのくらいの分別はわたしにもある
けれど返したあとは徒手空拳
非在のものの声でも聞くよりほかはなく
あらためて昼夜混淆の巷に降りてくる
いや ここがすでに非在の場所 

 「非在のものの声」も言語矛盾だ。その「場」に「非在」なら、それが発する声も存在しない。声が存在するならものも存在する。しかし、こういう表現は日常的につかう。そのとき私たちは「場」を複数考えている。いま、ここには非在だ。しかし、ここではなく別の場に、それはいて、そこから声が聞こえる、ということなら実際にありうる。
 ここからがおもしろい。渋沢の「思想」があらわになってくる。
 非在のものの声を聞くために何をするか。「昼夜混淆の巷に降りてくる」。混淆は区別がつかない状態。混沌と同じだ。(区別がつかないということは「無」とも同じだ。)「非在のものの声」は昼と夜との区別が明確な場ではなく、昼と夜との区別がつかない場においてこそ存在する。だから渋沢はその場へ「降りて」ゆく。(「降りる」ということばにも注意をはらわなければならない。それは今と同じ地平にあるのではなく、いわば「地下」にあることを「おりる」ということばは指し示しているからだ。)
 しかし、この行為こそ、矛盾と呼ぶしかないものである。それまで渋沢は何をしていたかというと、昼のものは昼に返し、夜のものは夜に返すという仕事だ。昼夜混淆の場にいて、昼のものは昼に、夜のものは夜に分類するという仕事をしていたはずである。しかし、そうしてしまうと何もすることがない。何もできない。そんな場では何も生まれない。生成しない。だから、昼夜混淆へ、混沌へと帰ろうとする。
 だが、そんな場などない。「ここがすでに非在の場所」。
 混沌など、すでにない。すべては明確に分類されている。それが現代というものだ。

 しかし、それでも何かが残っている。何かしら、混沌と言うものが残っている。何も分類できず、どこに属すのかわからないものが残っている。渋沢は、そう感じる。肉体によって。この詩集で、渋沢は渋沢自身の肉体を発見している。

いや ここがすでに非在の場所
区別を言いたてるほうが無意味に近い と
してもなお脳髄の奥では盛んに騒ぎ立てている
おれを おれのこの肉の場所をどうしてくれる?
この血を この骨と筋(すじ)と細胞を
この生きた花をどうしてくれる?

 このとき「おれ」が「場」なのである。その「おれ」という肉体、肉体の「場」で実は生成がおこなわれる。

あらゆるものがここを通り過ぎていった
昼に日が昇ればその昇る日が
夜に風が吹けばその風が
このおれの場所を通り過ぎ
大なり小なり傷をつけていった
かすり傷でも数を重ねれば
溝になり 淵になり 奈落になり
いまでは形も知れぬその穴の
痛みに耐えてこうしているのだ

 「溝になり 淵になり 奈落になり」と3度繰り返される「なり」(なる)。肉体という場で生成がおこなわれる。それが「詩」である。


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映画「家の鍵」

2006-05-24 23:12:11 | 映画
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 キム・ロッシ・スチュアート、アンドレ・ロッシ、シャルロット・ランプリング

 15年ぶりに再開した父と障害を持った子供、というより15年目にして初めて障害を持った息子といっしょに過ごす父。ふたりはいっしょに列車に乗り、ホテルに泊まり、リハビリ施設(病院?)へ行き、ノルウェーへも旅する。そのとまどいながらの交流を描いている。
 映画だからきっとハッピーエンディングだと思いながら見るのだが、とてもはらはらする。どきどきする。息子には身体的障害だけではなく情緒的に不安定な部分がある。自分の思い込んだことに対して熱中しすぎてまわりが見えなくなる。父は身体的障害よりも、そうした情緒的不安が引き起こす混乱に困惑する。周囲の目を気にする。それはごく普通のことなのだろうが、その父の不安と、息子の行動の行き先がまったくわからない。
 ただただ引きずり込まれていく。
 父に対して、ほんとうに彼が父としてやっていけるのか、と試すような息子の目つき。行動。息子が何かに夢中になったときの天真爛漫な明るさ。前者と後者の落差というか、隔たりの大きさ。まるで自分自身が、その息子の父になったような気持ちで、その世界に引きずり込まれる。
 父親の、周囲を気にしておびえたような暗い恥じらい。息子が心配、かわいそうと思う気持ち。ふいに訪れる温かい交流。そうした瞬間瞬間に引き込まれる。
 それだけではない。そうしたものがしだいに何かに向かって(つまりハッピーエンディングに向かって)統一されていくのではなく、ああ、仲よくなったと思ったら次には前よりももっと深い断絶が生まれる。どうしようもない、絶望がやってくる。この繰り返しに、ほんとうに引き込まれていく。「ダビンチ・コード」のように、辻褄合わせの展開がない。どうなるかわからない世界が、どうなるか予測させない映像で繰り広げられる。
 これこそ、映画でしかありえない世界だ。
 シャルロット・ランプリングの暗く、しかし絶対に絶望はしないと信じさせる絶望(言語矛盾だが、絶望としかいいようのない深い力、生きていくことを支える力)の演技もすばらしい。彼女がもらす哀しい希望、絶対に実行されない絶望としての希望も深く胸に迫る。
 主人公が、シャルロット・ランプリングの絶望に共鳴しながら、同時にシャルロット・ランプリングがその絶望を実行しない理由を納得するラストシーンが実に美しい。主人公の父が流す涙が美しい。そして「泣いちゃ駄目だよ」と励ます息子が美しい。「もう泣かない」と息子に誓いながら流す父の涙がとてもとてもとても美しい。人は誰でも泣いて生きている。泣いていいのだ。泣くことができるから、涙を見せないと誓えるのだ。
 こんなに美しいハッピーエンディングは久々に見た。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(19)

2006-05-24 22:25:58 | 詩集
 『星夜/施術者たち』(1987)は「あとがき」を読むと7人の画家と渋沢の共同作業である。『渋沢孝輔全詩集』には絵が収録されていないので、私には絵と詩の関係がわからない。詩のみを読んでの感想である。
 「砂の薔薇」におもしろい行がある。

結晶と開花への線描がひとりでに
それぞれの真の目的にむかって伸びてゆき
陶酔の もしくは全き放棄の
さなかでみずからの運命を成就するとき

 「ひとりでに」。
 画家の描く線描が、その存在自身の力で、真の目的にむかって伸びてゆく。画家の思いが線描を動かしているのではなく、線描が動いていく。そして絵を完成させる。
 この線描を「詩のことば」に置き換えると、それはそのまま渋沢の世界にならないだろうか。渋沢が試みていることは、渋沢の意志でことばを動かすことではなく、ことばが「ひとりでに」、ことば自身の力で動いてゆく。そして世界を確立するというものではないだろうか。
 この「ひとりでに」はしかし自動筆記とは違う。自動筆記というとき、そこには「私」が存在する。「私」が存在しながら、「私」の意識の支配とは別の運動が「私」の肉体を動かして成立するものである。
 渋沢のことばの運動は、「自己」の不在が前提となっている。「私」は不在(非在)であって、その不在へむけてことばが動いてくる。そして、その動きのなかに、動きの瞬間瞬間のなかにのみ、「私」は存在するのだが、その存在はひとつの形、きまった形ではない。変化、生成する変化としての「私」である。

わたしたちのかけがえのない不在ゆえの
現前するどんな旋律がありえたろう   (「どんな旋律が」)

 「私」が不在しなければ何も現前しない。「私」が不在でなければ、どんな生成もありえない。何も立ち現れてくることはない。

 ふと「現成する」ということばを、ここでつかってみたくなる。渋沢の詩を把握するのに「現成」ということばをつかいたくなる。このころの渋沢の詩にはそういう要素が色濃く存在する。

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山田英子『べんがら格子の向こう側』

2006-05-23 23:39:19 | 詩集
 山田英子『べんがら格子の向こう側』(淡交社)。詩を含むエッセイ集。
 書き留められた京ことばが楽しい。とは言っても私は京都育ちではないので、そのことばの細部を理解して「楽しい」と書いたのではない。細部はわからないが、それでも楽しい。それはたとえば、次のようなことば。

 「地味派手いうのんか、こうとな、おしゃれしといやすこと。よううつったはるわ」

 「よううつったはるわ」の「うつる」は調和している、似合っているという意味だろう。これは特別京ことばというものではなく「広辞苑」にものっていることばの使い方だ。しかし、最近はあまり使わない。そうしたことばが生きているということが「楽しい」。ことばは単独ではなく、どこかで他のことばとつながっている。その「水脈」のようなものが感じられ、楽しい。
 かつて中上健次の作品に親類のことを「一統」と表現してあるのを読んだ。そのとき私は「いっけ」ということばを思い出した。私の田舎の方言では親類を「いっけ」と言う。どういう文字をあてるのかわからなかったが、中上の文を読んだ瞬間「一家」という文字が誘い出されてきた。私の解釈が正しいかどうかはわからないが、「いっけ」は「一家」と書くのだ、と思った。そこから「一統」まではひとつづきである。「一」ということばに昔のひとがこめた思いというものが、その瞬間に私の体のなかに定着した。
 山田の書いている「うつる」は「映る」と書くのだろう。「映る」の一義的な意味は「反映、投影」の類だろう。何かがそのまま別の場所に正確に姿をあらわすことだろう。似合うの意味での「うつる」は、装いの持っている色や形がその正確な姿のまま、人の体にそって立ち上がってくるということだろう。装いの命をそのまま正確に生かすということだろう。--こうしたことを、ことばを聞いた瞬間にあれこれ考えるわけではない。そういうことは一瞬のうちに私の肉体の内部で起きることがらである。そして、それが正しいことがどうかは問題ではなく、そうしたあれこれの思いが私の肉体そのものになっていく。その瞬間が私には楽しい。一種の「詩」を感じる。

 日経新聞5月23日夕刊の「あすへの話題」というコラムで、デンソー会長・岡部弘が「虹の色」という文章を書いている。そのなかで気になることがあった。岡部は信号機の「青」が最近「緑」が強くなったと書いている。どう見ても「青色とはみえない。」

 その理由は、元々色別信号機が日本に入ってきた当初にグリーンライトであったものを、青信号と翻訳してしまったことによるようだ。だとすれば、もっとわかり易い青色でもよいと思うし、そうでなければ、子供たちに青でなく緑と教えるべきだ。

 あ、これは変な意見だなあ、と私は思う。信号を緑ではなく、ことばを優先させて「青色」に変更すべきだという意見はそれなりにおもしろいと思うけれど、信号の色を子供たちに「緑」と教えるべきだという意見には賛成できない。
 「緑」を「あお」と呼ぶのは日本語では普通のことである。いまは5月。街路樹の「青葉」はけっして「青色(ブルー)」ではない。しかし、これが8月になると誰も「青葉」とは呼ばないだろう。若い感じのするもの、未熟な感じを受けるものを日本語では「青」と呼び、それを「緑」とは明確に区別しているのではないのか。(欧米ではこの区別がなく、「グリーン」と呼ぶことが多いと思う。)想像するに、信号の「グリーン」を見たとき、当時の日本人は「青葉」の「青」に通じるものを感じたのではないだろうか。
 どんなことばにも表面的に見ただけではわからないものがある。微妙なものがある。そこには人間の肉体、生活というものが深くかかわっている。そうしたものを大切にしなければ、ことばは豊かにはならない。肉体のなかにのこっている感覚を揺り動かし、その動きにあわせる形でことばそのものを動かしていく、という作業が必要なのだと思う。
 岡部弘の文はは詩についての文ではないのだが、ふと、そんなことを考えた。

 山田英子が書いている「似合う」という意味での「うつる」、それが肉体に働きかけてくる力を持っているのは、そのことばの奥に「時間」が存在するからである。グローバル・スタンダードとは違った個別な時間が存在するからである。均一化にあらがう個別なことばの時間--そこに「詩」がある、とも思う。
 山田のエッセイには、京都という暮らしの個別の時間が流れている。そうした時間、たとえば「鰻の寝床」といわれる京都の商人の家の奥行きのあり方は、京都だけではなく他の暮らしの「奥行き」も浮かび上がらせる。私は京都の商人の家は見たことがないが、山田が書いている家の内部のあり方は経験したことがある。どこの暮らしでも、表からは内部が窺われないようにして、内部で「秘密」を楽しんでいる。それは古くからの日本の生活の、多くの人々のありようでもあるからだ。
 単に室内の描写としてではなく、山田が描くことばによって、私は私の肉体が反応するのを感じた。そういう「楽しみ」が山田のエッセイにはある。
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川口晴美『やわらかい檻』

2006-05-22 22:56:18 | 詩集
 川口晴美『やわらかい檻』(書肆山田)。
 「否定」があふれている。たとえば「妹朝」。

 月がうるさくて眠れやしない、とイモウトが言う。その声に夢を断ち切られてわたしは身を起こす。明かりがほんの少しでもあると眠れないわたしたちの部屋では、寝台の隣に寝ているイモウトの顔はもちろん自分の体さえ見ることができない。いつのまにか引き剥がされたシーツの見えない白さの上を、なに、と呟いた声が掠れて滑り落ちていく。イモウトは応えない。

 「眠れやしない」「眠れない」「見ることができない」「見えない」「応えない」。「ない」という否定のほかに、「断ち切られて」「ほんの少し」「引き剥がされた」「掠れて」「滑り落ち」という「肯定」から遠い印象を与えることばもある。何一つ肯定されていないという印象がある。
 「否定」の連続は、さらにつづく。

 仕方なくまた目を閉じ、真っ暗なせいで一瞬前まで目を開けていたことに確信が持てなくなって崩れるように眠りへ傾いていきながら、それはどんな音、と聞いてみたが応える声はなかった。夢の切れ端は消えてもつかむことはできないのに、眠りはすぐに絡みついてきてわたしの体を包み込み、さっきのは本当にイモウトの声だったのか、もしかしたらわたしの寝言だったのだろうか、わからないところへ連れ去っていく。

 「持てない」「なかった」「できない」「わからない」。「仕方なく」「崩れるように」。
 これらのことばは最終的に「わからない」へと収斂している。すべてが否定され、「わからない」という否定でおわる。たしかなことは「わからない」というだけである、というとまるでプラトンだが、それが川口晴美の世界だ。そして、プラトンと川口晴美の違いは、「わからない」のあとの思考、精神、感情の動きにある。
 「妹朝」のつづきを断片的に引用する。

水滴がガラスにたたきつけられて砕けて斜めに伝い落ちていくのを見るのがわたしは好きだった気がする。

わたしはいつまでもあきずにそれを眺めていたと思うけど、あのときイモウトは背後で眠っていたのだろうか。

それとも意地悪な女友達、心配性の従姉妹、もしかしたらイモウト。

 「気がする」「思うけど」「だろうか」「もしかしたら」。どこにも確信がない。そこにあるのは「不安」である。プラトンは「わからない」からといって不安にはならない。わからないということがわかって安心する。わからないからこそ「わかる」を求める。川口晴美はそうではなくて、むしろ不安を定住地のようにして追い求める。

音がする。ガラス窓の向こうの台風のようにそれは線の外側で崩れていく世界の音なのか、そうじゃなくてこの体の内側で轟いている音なのか、わたしにはわからなかった。

 「わからない」は川口晴美の場合、「外側」「内側」の区別にたどりつく。すべては、「わたし」の「外側」のことなのか「内側」のことなのか。それは究極的には、「イモウト」がわたしの「外側」の人間なのか、「内側」の人間なのか、という問いにたどりつく。言い換えれば「イモウト」は実在の人間なのか、それともわたしの内部、想像にすぎないのか。結論をいえば、川口晴美は、イモウトは存在しなかった、イモウトは想像だったという断定する。(この問題は、「KAMIKAKUSHI」という作品で「わたし」とは双子の弟の失踪という形で繰り返される。)
 想像だとするならば、なぜ「わたし」(川口晴美)はそうした想像を必要とするのか。なぜ、必要としたのか。肉体の希薄さが、その根本的な理由だと思う。「妹朝」の書き出しにもどる。

寝台の隣に寝ているイモウトの顔はもちろん自分の体さえ見ることはできない。

 これは「視覚」のことがらだけを書いているように見えるが、私にはとても奇妙な文章にしか感じられない。特に、「見えない」ということを思考の出発点にして、

さっきのは本当にイモウトの声だったのか、もしかしたらわたしの寝言だったのだろうか、わからない

とことばが動いていくとき、私は驚いてしまう。「見えない」(視覚)と「音」(聴覚)の対比は、ごく自然なようではあるけれど、私には非常に不自然というか、不思議な印象がある。
 何も見えないとき、私は、まず手さぐりをする。つまり何かに触る。触覚を頼りにする。自分の体を触り、自分が自分であることを確かめる。そして自分の存在を確信する。そのとき自分が存在しないということなど、ほんの少しも疑わない。これは、私が手さぐりで何かに触ったならば、それは私以外のものが確実に存在すると確信するということでもある。
 「見えない」(わからない)とき、頼りになるのはまず触覚である。触覚は、私の「外側」と「内側」の通路である。川口晴美には、この触覚としての肉体が希薄である。川口晴美のことばからは触覚をもった肉体というものが欠落している。そして、その欠如がすべてのことばを動かしていく。すべてのことばにひとつの色を与える。「不安」それも存在が希薄という不安である。
 そして、この触覚の欠如は、ときには触覚の過敏にも転換する。
 触覚は不思議なもので、たとえば紙の厚さ、薄さ、頑丈さ、弱さというものを実際に厚みに触らなくても、つまり表面に触れただけで感じ取ってしまう。(もちろんその感じには間違いもあるだろうが、間違いも含めて、私たちは、それを明確に感じ取ってしまう。)
 この過敏さは、たとえそれがどんなに「薄い」もの「弱々しいもの」であろうとも、「わたし」の「内側」と「外側」を明確にするなら、それだけで大きな安心に変わりうる。たとえば「壁」。そこにはホラービデオを見つづける「わたし」が描かれている。「うすい壁」の記憶と並列して、ホラービデオを見ることによって起きたこころの変化を描いている。

 恐怖はそこに、わたしの外にあった。(略)こわい。おそろしい。苦しくて痛い。でもそれはわたしの外にあるのだから、ほんとうの朝がくるまでの短い時間をわたしはビデオのリモコンを握ったままベッドにもぐりこんで安心して眠った。

 いま、引用した文にはわざと省略した部分がある。ほんとうは次のようになっている。

 恐怖はそこに、わたしの外にあった。手で触ることさえできる。なんて素敵。わたしはヒロインといっしょに階段を這い上がり、廊下を駆け抜け、クローゼットに身を潜ませる。彼女たちを追いつめ、待ち伏せし、ふいをついて斧や肉切り包丁を振りあげもする。)こわい。おそろしい。苦しくて痛い。

 「手で触ることもできる」。
 何という不思議さ。
 川口晴美は、「イモウト」に触りはしない。自分の体にも触りはしない。しかしビデオのなかの世界には「手で触る」。
 普通のひとは、そういうものを手で触りはしないが、川口晴美は、手で触る、触ったように感じてしまう。そして、それが「外」であることを確認する。

 最初に私は川口晴美には触覚が欠如していると書いたが、ほんとうは川口の触覚は肉体にあるのではなく、精神にあるのだと言い換えるべきだろう。川口晴美は精神で、想像力でイモウトに触る。あるいは姉に、ママに、双子の弟に。そして、その想像の世界で「わたし」の「内側」と「外側」をつくる。そうやって生きている。あるいは「外側」にあるものを全部否定して、「内側」にあるもので世界を満たしたいのかもしれない。
 そうであるなら「やわらかい檻」とは、川口晴美を本物の外の世界から遮断し、川口晴美のこころを守るための「檻」ということになるかもしれない。川口晴美は「檻」に閉じ込められているのではなく、外部からの侵入を拒むために自ら「檻」に入り込み、誰にも川口晴美の肉体を触らせず、ただ川口晴美だけが想像のなかで(精神の力で)他者の肉体に触るということかもしれない。

 とても丁寧にことばが選び抜かれた詩集だけれど、こうした作品を読むのは、私にはすこし(かなり)、つらい。外部に触れた瞬間、その触覚をとおして、自分のなかにあるものが一転して外側に転化してしまうようなものがほんとうの「詩」ではないかなあ、と思う。川口晴美の「詩」は、いわば「虚数の詩」という感じがする。それはそれで大変なことだとも思うが。
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豊原清明「タヒチのような朝霧に」

2006-05-21 15:04:51 | 詩集
 豊原清明「タヒチのような朝霧に」(「ミて」84号)。
 豊原清明の詩にはいつも魅力を感じる。しかし、その魅力を書き表すのはいつも難しい。

大きな風に一掃されて
森は新しく生まれた
変わることは容易
しかしとりまく環境が
変化しても
沈黙していることに
何の変わりはない。
ただ……。
寂しいのだ
夢の中の欲望は、月
タヒチのような
(ゴーギャンの絵だけしかしらないが)
朝霧駅で目をこすりながら
女たちの足取り、仕草を見ていました
すると脳が溶ける、ジンジンジン…。

 「寂しいのだ」以後の展開に驚く。「夢の中の欲望は、月」という行の唐突さに驚く。豊原のなかではきちんとした理由があるのだろうけれど、その理由のようなものがさっぱりわからない。わからないのに「月」そのものが見えてしまう。夜空に一個だけ浮かんだ孤独な月が見えてしまう。しかも、その月は現実の月ではない。今はもう朝で、朝の光が目の前に存在する。一方で記憶は夜にいるままで月を思い出している。そのアンバランスな孤独というか、絶対的な寂しさが、急に立ち現れてくる。
 その後、「タヒチのような」以後の4行は、何度読んでも不思議である。「(ゴーギャンの絵だけしかしらないが)」という率直な声でいったん分断されて、何にかかるのだろう。何を修飾しているのだろう。タイトルから判断すれば「朝霧」を修飾しているようだが、私には「女たち」を修飾しているように感じられる。
 ゴーギャンの絵に他の人が何を感じるか、豊原が何を感じるか、よくわからないが、私はとても健康なものを感じる。肉体の健康さと、絶対的な時間ときちんと向き合える肉体を感じる。「月」の寂しさが、その健康さをひきたてる。「月」の寂しさと「タヒチの女」の肉体的絶対性が、その類似性によって互いに近づくというのではなく(そうであるなら、単純な抒情である)、逆に、絶対的に違った存在であることによって、何かを一気に引き裂く。よくわからないが、豊原の肉体そのものを切り開く。豊原の肉体が、その瞬間、内部から切り開かれていくような感じ--それを豊原のものではなく、私自身の感覚として感じてしまう。
 ここには書かれていない変化、ことばにできない不思議で絶対的な変化がある。変化といいながら、それは普遍の存在でもあると思う。
 「大きな風に一掃されて/森は新しく生まれた」というときの変化は一時的な変化であり、そこには不変なものは存在しない。「変化しても/沈黙していることに/何の変わりもない。」ということばそのままの変化である。「タヒチのような」以後というべきなのか、「寂しいのだ」以後というべきなのかはわからないが、そこで起きる変化は、それとは逆に「沈黙」が語り始めるという絶対的な変化である。「沈黙」が登場し「沈黙」を宣言するようなものである。沈黙がどういうものか、そこでは肉体がどのように他人とかかわっているのか、ということが、ことばにならないまま、突然立ち上がってくる。ゴーギャンをはじめてみたときの、一瞬の沈黙が甦るといえばいいのだろうか。その瞬間、何を言っていいのかわからない。つまり、ふいの沈黙が私そのものとなる。その沈黙のなかで、私はたぶんゴーギャンと出会う。そのあと何かを語るとしても、それはゴーギャンとの出会いというよりはゴーギャンとの別れになるような、そんな沈黙。

 引用した行は、作品の一部である。私が引用した行の後の展開は、もっと美しい。孤独な肉体が、ゴーギャンの絵の清潔さで立ち上がってくる。私の感想は、その美しさを邪魔するだけだから書かない。
 ぜひ、「ミて」そのもので豊原の作品を読んでください。

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