詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベルリンの壁崩壊はいつだったか(2)

2022-06-03 10:30:10 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻後、しきりに「台湾有事」が話題になっているが、このテーマは、世界で起きていること(市民が抱えている問題)とアメリカの世界戦略の「違い(ずれ)」を明らかにしている。
 ベルリンの壁崩壊後、世界で起きたことは「民族の自立/文化の多様性」への動きである。「ソ連」という「頭で作り上げた国家」が拘束力をなくした後(理念をなくした後)、「国家」から解放された市民(民族)が本来の「国」を意識し、動き始めたのだ。「東欧」での様々な国の「独立」は「ソ連」という「国家意識」の解体と同時に起きたのだ。「ワルシャワ条約機構」とは「ソ連という国家意識の延長(拡大)」だったのである。
 「民族/文化の自立」を中国に当てはめると。
 「台湾」ではなく、たとえば「新疆ウイグル自治区」こそが「焦点」である。少数民族に対する弾圧が問題になっている。この弾圧からの開放は「少数民族」が「独立」することで解決する。ユーゴスラビアからのいくつもの国の「独立」のように。
 しかし、アメリカ資本主義(軍国主義)は、この問題では中国の「国家戦略/人権弾圧」を批判こそすれ、「新疆ウイグル自治区有事」とは決して言わない。なぜか。それは「地理学」と関係している。「新疆ウイグル自治区」は大陸の内部にあり、アメリカは「新疆ウイグル自治区」との「接点(国境)」を持ち得ないからである。「台湾」は違う。太平洋を通じてつながっている。日本も近い。いつでも「台湾」を拠点(基地)にして中国へ攻撃をしかけることができる。「新疆ウイグル自治区」をアメリカの基地にするのは、とてもむずかしい。軍備の補強が「空路」にかぎられてしまう。いわゆる「制空権」は中国が支配している。アメリカが支配することはむずかしい。
 アメリカの世界戦略は、「土地」と関係しているが、「個人の理想(思想)」とは関係がない。「民族の自立」とは関係がない。「文化」とは関係がないのだ。
 台湾と中国の間には、たとえば中国と「新疆ウイグル自治区」との間にある「文化的対立」はない。「民族的対立」はない。厳密にいえば違うだろうが、漢字文化を生きている。中国語を生きている。つまり、同じ民族なのだ。この同じ民族を対立させるとしたら、それは「イデオロギー」であって、そういうものは「文化の自立/民族の自立」とは関係がない。「イデオロギー」が解体すれば、一瞬にして「和解」してしまう。この好例を、私たちは「東西ドイツの統一」を通して知っている。東ドイツ出身のメルケルが首相になるくらいである。「ことば」が同じなら、「民族」はあっと言う間に融合する。
 この逆が、東ヨーロッパで起きたいくつもの国の「独立」。「ことば/民族」が「国家意識」が解体した瞬間に、あっと言う間にそれぞれのアイデンティティーにしたがって、分離・独立したのだ。
 朝鮮半島の南北対立も、「国家意識」(政治体制)が解体すれば(どちらの、とは言わない)、民族はあっと言う間に融合するだろう。「国語/民族/文化」が同じなのに、それが「国家」にわかれてしまうのは、生きている市民のせいではなく、「政治体制」にしがみつく権力者のせいなのである。権力者が「自己保身」に固執する限り「分断国家」の悲劇は起きるのだ。

 ここからもうひとつの問題が生まれてくる。ヨーロッパ(特に、いわゆる西欧)は、いろいろな国からの「移民」を受け入れている。その結果として、「国家」は「多重文化化(文化の多様性)」へ向かって動く。そのとき、この「文化の多様性」に対する不満が、昔からそこに住んでいた市民の間から生まれる。「文化の多様性」を「自分の文化への侵害/自分の生きる権利への侵害」と受け止める市民が出てくる。いわゆる「極右」の運動というのは、それに通じる。フランス大統領選でマクロンが苦戦し、ルペンが票を伸ばしたのも、これに関係する。ロシアのウクライナ侵攻によって「物価高」が進んだことも要因だが、背後には、「民族/文化」の問題がある。これは、イギリスではEUからの脱退という形で起きた。背後にはじわじわと進む「文化の多様化」に対する不満があると思う。「文化の多様化(多民族の移住)」によって、昔からそこに生きてきた市民が圧迫を感じ始めている。
 この「圧迫」からの開放は、NATOの拡大によって解消されるということは絶対にない。NATOはロシアを(あるいは、このあと中国を)仮想敵国として浮かび上がらせることで、NATOを「国家理念」にしようとしているだけだ。「仮想敵国」がなくなれば、いや「敵国」というものがなくなれば「軍事同盟」など意味が持たない。軍事によって「国家」を維持するということは意味を持たない。敵が侵攻して来ないからだ。
 そのとき、つまり「敵(国家)」が消え、NATOがワルシャワ条約機構のように解体したとき、それまでNATOという「理念」で支配されていた多くの民族が、もう一度、「独立」するだろう。いろいろな国から移住してきた「民族」が「団結」し、ある地域に終結し、「独立」を求めるということが起きるかもしれない。

 文化の多様性、個人の尊厳の重視、という視点からアメリカの世界戦略(NATOを中心とした軍事資本主義)を見直さない限り、世界に平和は来ない。NATOのもたらす見かけの「平和」は軍事産業をもうけさせるだけのものである。アメリカはいま、ウクライナに武器を大量に与え、戦争を長引かせようとしている。つまり、アメリカ軍需産業の利益が増え続けるようにしている。ロシアが撤退した後、アメリカの「資本主義」がウクライナを支配するだろう。農産物の生産システムをアメリカ資本がのっとってしまうだろう。より合理的なシステムをつくり、ウクライナ人を労働者としてこきつかい、搾取をはじめるだろう。そのとき、多くの市民は、アメリカの資本主義とは何かを知るのだ。ヨーロッパをアメリカの「植民地化」する実験がウクライナでおこなわれたことを知るのだ。戦争が終わっても小麦の値段は下がらない、ひまわり油の値段も下がらない。アメリカの言うがままの価格で、すべての商品が世界を支配する。ものが世界を支配するのではなく、アメリカの設定した「価格」が世界を支配する。
 これを最初に批判するのは、だれだろうか。岸田(安倍)では絶対にない。マクロンでも、ショルツでもないなあ。

 

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ベルリンの壁崩壊はいつだったか

2022-06-02 16:38:07 | 考える日記

ベルリンの壁崩壊はいつだったか

 ベルリンの壁崩壊は、いつだったか。1989年11月9日。これを思い出せる人はだんだん少なくなってきている。というか。それを知らない人が増えてきている。もう30年以上前になるからだ。テレビでちらりと見た、という記憶は30代後半の人にはあるかもしれない。しかし、このとき起きたことを「衝撃」として受け止めた記憶を持っている人は40代後半からだろう。つまり、「世界地図」を頭に描き、そこに政治を重ねることができる(世界政治の意識を持つことができる)年代を「高校卒業=18歳」と仮定すると、ベルリンの壁崩壊をしっかり把握しているのは、いまの50歳くらいからなのである。
 そして、その2年後、1991年末にソ連が崩壊した。新しい国が次々に「独立した」。「ソ連」というのは「概念/理念」であり、「概念」の束縛から、それぞれの「民族/文化(ことば)」が独立した。私がそれ以前に覚えていた「チェコスロバキア」は「チェコ」と「スロバキア」にわかれたし、「ユーゴスラビア」はさらに複雑で「スロベニア」「クロアチア」「マケドニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」と分離独立した。もっともこれは、テキトウに書いているので正確ではないかもしれない。こんなことは、よほど地理と歴史に詳しくないとわからない。
 で、こんなよくわからないことを書き始めたかというと。
 いま、ロシア侵攻によって起きていることが、どうしても、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体のときに起きたこととは逆方向の動きに感じられるからである。「ソ連(東欧=社会主義国)」というのは、ひとつの「概念/理念」で結束していた「組織」であって、その「組織(理念)」の内部には「文化(言語)/民族」が「理念」とは別に存在し続けていた。「理念」が拘束をやめると「民族」が「文化/言語」にもとづいて「独立」した。「民族/言語/文化」というのは、たぶん「無意識になってしまった連帯力」であり、それは「理念」を超越している。このことを忘れて、「理念」をふりかざしても、結局、その「理念」は破綻するしかない、と私は思っている。「ソ連」の崩壊と、それにつづく「民族独立」の動きから、私は、そう考えている。
 ところが。
 NATOは、逆のことをしようとしている。いくつもの民族、文化(言語)をNATOという「理念」によって「統一」しようとしている。これは、絶対に、できるはずがない。民族、文化(ことば)に対して「自立意識」をもっている人間がいる限り、それを「超越」した枠組みは常に批判され続ける。「理念」からはみ出して生きる、支配を嫌って自由に生きるのが人間の「宿命」のようなものだからである。
 いま、フィンランド、スウェーデンのNATO加盟をめぐってトルコが反対しているが、こういうことはこれからも起きるし、さらにNATOの拡大を、「理念の押しつけ」と感じ、対抗する動きはさらに高まるだろう。ロシアだけではなく、多くの国が不安を感じるだろう。
 NATOの主要国(そして、その主要国になったつもりでいる岸田=安倍)は、NATOが拡大すればNATOは安定すると思っているだろうが、きっと逆である。
 NATOは、新しい「植民地主義」なのである。「軍国主義」と「資本主義」が組み合わさった強力な支配体制であり、それは次々に「仮想敵国」をつくあげることで「連帯」を強化し、その強化された「アメリカ軍国主義的資本主義」の支配下で固有の文化(民族/ことば)が奪われていく。より合理的にものをつくり、売りさばくには「多様な言語/多様な文化」はじゃまである。「ひとつの言語/ひとつの文化」の押しつけがはじまるだろう。すでに日本では、「論理国語」だかと「低学年での英語教育」がはじまっている。
 それくらいでは、固有の「文化/ことば」が崩壊しない、と考える人は多いかもしれない。しかし、きっと反動のようにして、別の動きがはじまる。
 アイデンティティを否定する動きに対しては、かならず、反発が生まれる。「概念/理念」で人間を支配できるのは100年もつづかないのである。ソ連の誕生、ソ連の崩壊、その後の周辺国の動きを見れば、それがわかる。

 かつて「西欧」の植民地であったインド、アフリカの国々が、いま起きているNATO拡大の動きをどう見ているか。その視点を忘れてはならない。もし寄って立つべき「視点」があるとすれば、「植民地」であることを拒絶して「独立した国」の「視点」だろう。「支配の理念」ではなく「独立の理念」から、いま起きていることを見つめなければならない。
 アメリカの支配下を生きることが「独立」と思い込んでいる岸田=安倍には、絶対に見ることのできない世界がある。
 「支配」ではなく、「多様な生き方(文化)の共存」という視点から見つめなおさない限り、ロシア・ウクライナの問題は解決しないと思う。ロシアは最終的には敗北するだろうが、それは決してNATOの勝利にはつながらない。「理念」は絶対に「勝利」できない。世界は「支配-被支配」でできているわけではないからだ。

 ロシアは必ず敗北する。私はそれを確信している。しかし、ロシアがウクライナから撤退した後、ヨーロッパがNATOに完全支配された後、そこに「自由で安全な世界」が確立されるとは思わない。アメリカの資本主義と、その資本主義が引き起こす幻の自由は、それぞれの民族・文化を駆逐しようとして動くはずだ。それに抵抗する運動がかならずおきる。
 スペインというか、キリスト教というべきか。コロンブスが引き起こした南北アメリカ大陸の「制圧」に対して、いま、少しずつ抵抗(反撃)の動きがはじまっているが、21世紀は、そこから大きく変わっていくと思う。多様な文化(民族/言語)の共存の先にしか、人間が生き残る方法はない。
 単純に、日本のことを考えればわかる。老人がどんどん増え、働き手がいなくなる。社会が成り立たなくなる。どうしたって他の国からの人的支援に頼るしかなくなる。多くの国から、多くの言語を持った人間を受け入れ、共存するしかないのだ。日本が「多文化/他国語化」していくしかない。そうでなかったら、日本人が日本にやってくる外国人労働者のように、中国やインドへ「出稼ぎ」に行くしか方法がない。その「出稼ぎ」に行った中国やインドで、「日本人」は「日本語/日本文化」をどうやって引き継いでいくか。ここでも「国語(日本語)」や「日本文化」というものが問題になってくる。
 これから考えなければならいないのは、そういうことなのだが。

 こういうことは、ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体を現実問題として見た記憶のない世代は思いつかないだろうと思う。
 安倍や岸田のように、自分を「欧米の白人」と思っている人間にも思いつかないだろう。金さえあれば「自由」で「豊か」だと思っている人間には、想像もつかないだろうが、世界は変わっていくのだ。変わっているのだ。
 プーチンの言っていることを支持するつもりはないが、ウクライナ侵攻の「理由」がロシア系住民への圧迫(暴力)であったことを、いま一度、思い返すべきである。「国語/文化」の問題は、21世紀のいちばん大きな課題だ。

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谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(3)

2022-06-02 09:34:08 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(3)(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)

 「ことばの肉体」についての補足(その3/あるいは「調べ」について)。
 音楽が話題になったとき、谷川は「調べ」ということばをつかった。この「調べ」とは、どういうものか。「調べ」ということばに対して、私の「ことばの肉体」は、どう反応できるか。
 私はきのう「調べ」は「和音」であると「誤読」して、私の感想を書いた。この「誤読」を引き起こす「私のことばの肉体」というものを、少していねいに語りなおそう。
 音楽の「調べ」ということばを聞いて、私は「旋律」を思い出した。しかし、谷川は「旋律」あるいは「メロディー」とは言わずに「調べ」と言った。似たことばに「響き」ということばがある。「調べ」と「響き」はどう違うか。「響き」の場合、私は「音色」を思い浮かべる。バイオリンの響き、トランペットの響き。「調べ」はバイオリンの調べとは言っても、トランペットの調べとは言わない。(私の場合。)どこかで、私は、「調べ」と「響き」をつかいわけている。太鼓(ドラム)の「響き」はあっても、太鼓の「調べ」はないなあ。(人によっては、あるかもしれない。)
 「調べ」は「調べる」という動詞につながる。「響き」は「響く」という動詞につながる。「調べる」には「言」があり、「響く」には「音」がある。まあ、「響く」はわきに置いておこう。「調べ/調べる」を、もう少し追いかけてみよう。
 「調べる」からは「調和」ということばを思い出す。「ことばの肉体」は「調べ/調和」をどこかでつなげる。「調和」とは「和」がなりたつように「調べる」、「和」の可能性を「調べる」ということか。「調べる」は、「ととのえる」かもしれないなあ。「周」には「周囲」ということばがある。「周知」ということばもある。どうも「周り」に「知らせ」、「調和/ととのえる」と関係するらしい。「調べ」から、まず旋律(メロディー)を連想したのは、旋律というものが「周囲の音」とつながって生まれるからかもしれない。太鼓の「調べ」と私が思いつかないのは、私にとって太鼓の音は旋律から独立しているからだろう。それは旋律ではなくリズムだと考えているからだろう。
 そして、この「周囲の音」、その「音との調和」というものを連想したとき、そこに「和音」ということばが浮かび上がってきたのだ。「調和」の「和」は「和音」の「和」。こんなことを谷川と話しているとき、いちいち考えたわけではない。「ことばの肉体/ことばの肉体が覚えていること」がどこかで、動いていたのだろう。別のことばで言えば、いわば「無意識」に感じていたのだろう。(私は、意識とか、こころとか、魂とか、精神という、どこにあるかわからないものを指し示すことばは、なるべくつかいたくないので、ちょっと面倒くさい言い方になってしまうのだ。)
 私が谷川の詩から感じるのは、この「和音」なのだ、と言い直すことができる。「調べ」を「和音」と「誤読」すると、いろいろなものが見えてくる。私は谷川は、詩の中でいろいろな人(他人)になることができる詩人だと感じている。このときの「他人」とは、「他人のことば/他人の発する音」であり、谷川はそれをととのえながら谷川自身の「音」と組み合わせ、そこに「新しい和音」を繰り広げている。
 こんなことは、抽象的に言ってもはじまらない。具体的に書いてみたい。座談会の資料として上げられていた「百三歳になったアトム」。

人里離れた湖の岸辺でアトムは夕日を見ている
百三歳になったが顔は生れたときのままだ
鴉の群れがねぐらへ帰っていく

もう何度自分に問いかけたことだろう
ぼくには魂ってものがあるんだろうか
人並み以上に知性があるとしても
寅さんにだって負けないくらいの情があるとしても

いつだったかピーターパンに会ったとき言われた
きみおちんちんがないんだって?
それって魂みたいなもの?
と問い返したらピーターは大笑いしたっけ

どこからかあの懐かしい主題歌が響いてくる
夕日ってきれいだなあとアトムは思う
だが気持ちはそれ以上どこへもいかない

ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分
そう考えてアトムは両足のロケットを噴射して
夕日のかなたへと飛び立って行く

 いちばん印象に残るのは、ピーターパンとアトムの、魂、おちんちんの「対話」だろう。ここでは、二人が出会って、ことばを交わしている。それは「和音」というよりも「不協和音」のように何かをひっくりかえしてしまうような驚き、衝撃がある。おしかさ、谷川の好きなことばで言えば「無意味/ナンセンス」がある。
 谷川の「和音/調べ」は「予定調和」というよりも、あるいは「規制の和音」というよりも、何かいままで存在しなかった「和音」なのである。存在しなかったといっても完全に存在しなかったわけではなく、存在しているけれども見落としていたもの。
 それは二連目の「寅さんにだって負けないくらいの情があるとしても」についても言える。寅さんに情がある。これは多くの人が感じている。でも、その情は、アトムをつくりあげた科学としての「知性」と対比されるものではない。谷川は「科学の子(知性の子)」と「寅さん(情のおとな)」を対比することで、いままで見過ごされてきた「情の広がり」を浮かび上がらせる。その瞬間に、「あ、この和音は聞いたことがない」という喜びが生まれる。私の「ことばの肉体」は、この瞬間にも喜んでいる。はしゃぎ始めている。
 そういうことがあって、先に出てきた「魂」と「おちんちん」が出会う。精神的なことばと、だれもが知っている「肉体」が出会う。おかしいのは……。この出会いがおかしいのは、たぶん「おちんちん(性器)」というものに人間(特に男)は、なにか「肉体」を超えるものを託しているからだろう。男の象徴。それはある男にとっては、「男の魂」と呼べるものである。だから、これは案外まとはずれではない。だからこそ、ピーターパンも「大笑い」するのだろう。
 ここでも、私の「ことばの肉体」は反応しているのである。つまり「おちんちん(男の性器)は男の象徴である」という「ことばの肉体」の認識が動いているからこそ、それがおかしいのだ。「ことばの肉体」は私自身の「肉体」と重なりながら、この「大笑い」を喜ぶけれど、そのとき喜んでいるのは「ことばの肉体」か「肉体そのもの」か、まあ、区別はつかない。
 谷川が言っている「調べ」が何を指しているかはわからないが、私はこの三連目に「調べ/和音」のいちばん楽しいものを感じる。

 この詩には「調べ」ということばはつかわれていないが、「響き」ということばがつかわれている。「響いてくる」。「くる」という動詞が「響く」にぶら下がっている(?)が、「響き」とは「来る」ものなのかもしれない。それに対して「調べ」は「来る」のではなく、自分でつくるもの、なのかもしれない。「和音」をつくる。ある音に、別の音を組み合わせてつくる。組み合わせをととのえて、つくり、それを周囲(全体)へ広げていくのが「和音/調べ」。
 「響いてくる」を「調べ」をつかって言い直すと、「調べが流れてくる」くらいになると思う。これと同じように、「響き」をつかって「和音」に似たことを言おうとすれば「響きを重ねる」になるだろうか。ひとつの音ではなく、複数の音を重ねる。もちろん単独の調べ/響きというものがあるが、谷川が「調べ」というとき、そこには複数が意識されているように感じられて仕方がない。
 私の「ことばの肉体」は、そう反応する。
 そして、これは、つぎの部分でも動き出すのだ。
 四連目には「くる」という動詞とは別に「行く」という動詞もつかわれている。

だが気持ちはそれ以上どこへもいかない

 「くる」と「行く」が隠れたところで向き合っている。それは「知性」と「情」、「魂」と「おちんちん」のように、あるいは「アトム」と「ピーターパン」のように「存在(名詞)」としては見えてこない。だから見過ごしてしまいがちだ。私の「ことばの肉体」も、最初は、この対比に気がつかなかった。今回、こうやってことばを動かしてきて、ふと反応したのだ。
 「肉体」の手足が無意識にバランスをとるように、「ことばの肉体」も無意識にバランスをとって動いている。その細部の動きは、たいてい意識できないと思う。書くこと(ことばを意識化すること)によって、あ、ここも動いていたと気づくのである。ここを動かせば、全体がスムーズに動く、動きに無駄がなく、ことばが楽になる……。
 「行く」という動詞について触れたついでに、私の「ことばの肉体」がそれから反応した部分について書くと、一連目では「鴉の群れがねぐらへ帰って行く」、最終行では、アトムが「夕日のかなたへと飛び立って行く」という対比がある。「不思議な和音」がある。鴉には「ねぐら」という目的地がある。でも、アトムには? 「夕日のかなた」は方向であって目的地ではない。目的地があってもなくても、つかわれる動詞は「行く」である。こういうことも、「ことばの肉体」を刺戟してくる。

 さらに。

ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分

 という一行のおもしろさ。この行の「意味」については深入りしない。私がおもしろく感じるのは、ことばの順序(リズム)である。「多分ちょっとしたプログラムのバグなんだ」ではなく「ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分」と「多分」の位置が違う。「多分」が最後に登場することで、推測(推定)が、いっそうあいまいになる。言ったことがまるで言わなかったことのように自分の「肉体」のなかにしまわれていく。
 もしかすると、この「リズム」、つまり自分の思ったことを「肉体」のなかに隠してしまって自己主張を押し出さない、ということが谷川の「調べ」の「本質」かもしれない。多くの人は、それが「推定/推測」であっても、自分の考えとしてそれを前面に押し出す。そして、「論理」というものを展開する。でも、谷川は、そういうものは「肉体」のなかにしまいこみ、他人のことばと谷川のことばを「調和」させたい、「調和」を優先させることで「音楽」を奏でたいのだと感じた。
 そして、この谷川自身の「ことばの肉体」を消すことが「無時間(無我?)」にもつながっていくのかなあ、といま思っている。「永遠ではなく無時間について考えている」と言った谷川のことばを思い出している。

 こうやって書いてきて思うのだが。
 「座談」というのはむずかしいね。対談なら、相手のことばと自分のことばが向き合う時間が多いが、そこに別の人間のことばが入ってくると、私は「識別」にかなりとまどう。いや「識別」はできるのだが、そのとき第三者のことばがいったいどういう方向へ動いているのか、そのときの「ことばの肉体」の動きが見えない。
 谷川には、しかし、複数の「ことばの肉体」の動きが、簡単に見えるようなのである。それは「座談」のときも感じたし、谷川の家でのときも感じた。見がいいのだ、と、また思った。

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谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2)

2022-06-01 09:34:36 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2)(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)

 「ことばの肉体」についての補足。
 秋亜綺羅は、私の詩の読み方は、作者に寄り添いすぎている、というようなことを言った。
 でも、「ことばを読む」というのは「ことばの肉体を読む」ということ。どうしたって、深入りする。ある意味で、セックスになると書くと、書きすぎだから、ここはちょっと控えておいて、きのうのつづき。
 「肉体」の場合。たとえば、道でだれかがうずくまっている。腹を抱えてうずくまって、うめいていれば「腹が痛いんだ」と思う。座り込んで(あぐらをかいて)左手を抱えてうめいていれば、転んで左手を骨折でもしたんだろうか、と思う。片足で立って(右足を地面につけないようにして)、うめいていれば、右足をどうかしたんだろうと思う。これは「自分の肉体」と「他人の肉体」を重ねることで感じることだ。まったく他人の、離れたところにある「肉体」なのに、その「痛み」を感じる。
 こういうことって、「ことば」を読むときに起きない?
 「ことば」にも手もあれば足もあるし、目もあればきっと内臓や骨だってあるに違いないと思う。その「ことば」の動きが、「私のことばの動き」を刺戟してくる。私のことばも同じことを体験したことがある(私には、それをことばにはすることかできなかったけれど)と思う。そして、これがわたしのことばが求めていたことばだと思う。いま、わたしのことばの肉体は、その動き方を覚え、それを自分のものにしようとしていると感じる。また、この部分は、どうしても動かすことができずに苦しんでいる、と思う。それもまた、「ことばの肉体の動き方」なのだ。あれっ、これって、妙に気持ちがいい、と思うこともある。あ、「ことば」はこんなふうな動きができるのか、という感じ。ここに、私の「ことばの肉体の快感」が隠れていたのか。(たとえば、「鉄腕アトム」の「ららら」だね。)あるいは逆に、これはおかしいな。この「動き方」はおかしいなあ、とか。

 私はあるとき、25メートルしか泳げないという友人にクロールとクイックターンを教えたことがある。友人の動きを見ながら、腕の伸ばし方、水をかくときの力の入れ方、他の部分の筋肉のゆるめ方。そういうことを少しずつ、私の知っている知っている形にととのえていく。そうして2000メートルを一緒に泳げるまでになった。私のできるところまでなら、相手に教えることができる、と思った。
 たぶん詩を読むとき(ことばを読むとき)、同じように感じるのだ。あ、これは私の知らない動きだ。この動きを追いかけていけば、きっと違う世界にたどりつける、という感じ。私のことばももっと自由に動き回れるという感じ。あるいは逆に、こんな動きをしていたらつまずき、倒れ、怪我をするだけと感じることも。(もちろん、つまずく、というのもとても大切な動きだとは思うけれどね。)
 で。
 「肉体」というのは、「意味」ではなく、あくまでも「動き」なのだ。「動き」をつかむときに、私は「肉体」ということばをつかうのだ。
 もちろん、「運動の肉体」を例にとっても、見てて、あ、そうか、とわかっても絶対に自分にできない動きというのもある。フェルプスを見ても、とても参考にならない。自分には絶対にできないからだ。
 そういうふうに、「ことば」でも、うわーぁ、すごい。とてもまねできない。参考にならない。生まれたときから人生をやりなおさないと(生まれ変わらないと)、こんな「ことば」の使い方はできない、と思うことがある。

 「ことば」の場合は、その「動き」は、なんといえばいいのか、「構文」だけではない。「音」や「リズム」がともなう。
 その音楽について。
 座談会の途中で、谷川俊太郎からどんな音楽が好きかと質問があり、私はとまどった。杉本真維子は「以前は音楽を聞きながら詩を書いたが、いまは書くときは音楽を聞かない。昔聞いていたのは……」と、私の知らないグループ(?)の名前を言った。秋も、まあ、今に通じるだれそれの名前を言った。吉田拓郎の「人間なんてララララ」という話も途中で出た。私は、「音楽」は「声」につながるので、美空ひばりが好きと答えた。ついでに、松任谷由実や中島みゆきは曲は美しいが「声」が嫌いなので、ぞっとする、と言った。どうにも我慢ができない「声」なのである。そういうことは美空ひばりにもあって(このことは、会場では言わなかった)、「津軽のふるさと」という曲は少女時代の「声」がすばらしい。晩年(?)になってからの「声」は、どうも曲にあっていない。歌い方が曲にあっていない、と私は音痴のくせして、生意気にもそう思う。
 詩を読んでいるときも、これはいい詩なのかもしれない。でも、どうにも「声」が気に食わないと思うことがある。「意味」はわからないではない。でも、その「意味」を追いかけ続ける気持ちになれない。「音」が嫌いなのだ。
 「ことばの音楽」について話が広がったとき、谷川は「調べ」を大切にしているといった。この「調べ」というのは「旋律」のことかもしれないが、私には「和音」と言っているように聞こえる。リズムも旋律も、それが単独であるときよりも、別のものが重なってくるときに、突然おもしろくなることがある。いままで存在しなかった何かがふいに生まれてくる。その驚き。
 これは谷川が、少女のことば、赤ん坊のことば、中年の男のことばと、いろいろな「ことば」を詩の中で繰り広げることと関係しているかもしれない。それで展開されているのは旋律、リズムというよりも、谷川と他人との「共同作業」、つまり「和音づくり」なのだ。ハーモニーなのだ。
 私は「音楽」のない世界で育ってきたからなのか、この「和音」の感覚が持てない。どうしても単独の「自己主張」になってしまう。「ひとりの声」の、その「声」にのみ耳を傾けてしまう。
 多くの人も、たぶん「ひとりの声」を張り上げる。その強さ、美しさを主張する。谷川ももちろん彼自身の「声」を聞かせるが、同時に、他人の「声」を生かす工夫をしている。
 私が大好きな「父の死」は、言ってみれば「交響曲」である。様々な楽器(人物)がそれぞれの音/声を出し、それが調和して、世界を広げていく。「先生死んじゃった」という男の生々しい声が詩の中でとても調和しているのは、谷川が人間の「声」の「和音」に精通しているからだろう。

 この印象は、座談会のときよりも、谷川の家で話したときの方が、いっそう鮮明に迫ってきた。
 私たちの話を聞き、それを受け止めて、それから静かに反応し始める。それは「和音」を探して語っているような感じでもある。私はわがままな性格だから、そういうときどうしても「和音」ではなく、単独の谷川の「声」を聞きたくなり、話しているテーマから脱線して、別なことを語ってしまうのだが、どんなに脱線しても、すーっと「和音」の世界になってしまう。
 こういうことができるのは、やはり耳がいいからだと思う。他人の声と自分の声を聞き分け、それを「調べ」に変えていくことができる。
 たしかに、どんな「音」にもそれにあった「和音」があるだろうと思う。どんな色にも、それにあった色の組み合わせがあるように。決まりきった「定型/パターン」ではない、新しい組み合わせがあるだろうと思う。
 「和音の誕生」に向き合う、という気持ちで谷川の詩を読むといいのかもしれない。

 私はテレビを見ないので知らないのだが、秋が谷川の絵本「ぼく」を話題にした。谷川の詩に、だれかが絵をつけて、絵本にした。「ことばだけでは伝えられないのも、絵だけでは伝えられないものが絵本では実現できる」。それはいま書いたことばで言い直せば、谷川のことばと誰かの絵の「和音」なのだ。絵があるので「和音」という言い方は的確ではないかもしれないが、違うものが出会うことで、その瞬間に生まれてくる新しい存在。谷川が言う「調べ」には、そういう要素(そういう新しい「肉体」)が含まれていると思う。
 

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