詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「青いビー玉」

2008-09-30 10:21:07 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「青いビー玉」(「独合点」95、2008年09月22日発行)

 初恋。ふと、そのことばを思い出した。金井が書いていることばは、初恋そのものというより、初恋ということばを思い出させる。そこには、今ある恋愛、セックスを「初恋」に高める。いつまでもいままでも、「初恋」。

スカートを脱がせてみると
ふくよかな海がある
高低が緩やかな曲線を描き
おもわず触れてみたくなる
指をおく
手のひらをおく
するとそこには
静かに青く光るものが見える
鈍い光ではあるけれど
うすくたなびくように
ひろがっている
ものごごろついたとき
青いビー玉をひとつ
飲んだことがあるの
あまりにキレイだったから
海の色そのものになれるかと思って
きみはそう言って
笑った
いままで流されもせず
ずっとその場所にとどまっていて
きみのカラダの中心に存在し続ける
核のような

ぼくがゆっくりと
きみの中にはいってゆくと
あふれでる泉とともに
青いビー玉はまた
鈍く光りはじめた

 7行目の「するとそこには」の呼吸がとてもいい。「初恋」そのもの。近づきながら、ふと立ち止まる。そのときはじめて見えるものがある。金井のことばは、そういう瞬間をていねいにすくい上げ、「初恋」を震えさせる。
 この呼吸があるからこそ、

青いビー玉をひとつ
飲んだことがあるの
あまりにキレイだったから
海の色そのものになれるかと思って

 ということばが「真実」になる。「事実」であるかどうかを超越して「真実」になる。「初恋」とは、そういうものだ、とまた思った。



今、ぼくが死んだら
金井 雄二
思潮社

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白鳥央堂「グレングールド」

2008-09-29 09:45:21 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥央堂「グレングールド」(「現代詩手帖」2008年10月号)

 新人作品の欄に掲載されている。選者は瀬尾育生。
 白鳥の作品を読みながら、私はつくづく古い人間なのだと思った。こんなことを書くと白鳥に申し訳ない感じもするのだが、白鳥の古い文体(堅牢な文体)がとても気持ちがいい。

鍵盤の上を夜行するものら
私はピアノの屋根に座り 対岸の彼らを眺める
土地にはくたびれた大小の楽器が点在している
だれのものか知らない咽喉も落ちてある

 音楽の地平。グレングールドに誘われて、その遥をみつめる白鳥。その領域にあらわれてくるもろもろのもの。楽器。咽喉。そういうものが、すっきりと見えてくる。
 こうしたすっきりした文体で誘い込んでおいて、少しずつことばの動きが複雑、繊細になってゆく。

夜行は私の視線に引きずられる前に前進し
泥土を除けながら古いピアノの上をいく
列中の御影が震えると 私の唇も麻酔にかかり
汚泥と曇天のはるかに向けて
抑えるてのひらもない仕方で笑わされてしまう
それもバレエの帰途でしかないと思いなおし また視線をやる

 音楽を視線でとらえようとすることば。「御影」というようなことばは、私には、奇妙に響くけれど、そういう違和感があるからこそ、音楽を視線でとらえ直そうとする意識もはっきり伝わってくる。
 音楽が動くのか。視線が動くのか。
 グレングールドの音楽に誘われて視線が動く--ととらえるのが自然な順序だろうけれど、白鳥の気持ちとしては少し違うかもしれない。

夜行は私の視線に引きずられる前に前進し

 白鳥は、むしろ視線を動かし、その視線に沿うような形でグレングールドを誘いたいのだろう。しかし、そういうことは実際には無理である。グレングールドは白鳥とは同じ時間を生きてはいない。グレングールドの演奏が先にある。先に存在してしまっているものが、あとから存在した白鳥の視線に引きずられるということは、現象としてはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。「矛盾」じあるからこそ、そこに白鳥の思想があらわれる。ことばにならないことばが動きはじめる。「詩」が書かれなければならない理由が存在する。

 白鳥のことばはグレングールドの音楽を誘導することはできない。すでにグレングールドの音楽は存在している。それでもなお、それを誘導したいと試みるとき、そこに白鳥の、まだことばとして定着していない思いが、「肉体」のまま動きはじめる。

すでに すべての鍵盤はてのひらの水面に沈められ
白鍵は浸かる間際にあり その緊張は肌色のように見える
つまり逆吊りの海を支え 鍵盤の上を夜行するものら

 詩の書き出し、最初の1行がここに復活するが、その復活を誘い出すことば「つまり」。
 何が、つまり、なのか。
 わからない。白鳥にもわからない。
 これは一種の「呼吸」である。「肉体」そのものの反応である。言い直せば、白鳥に深く深くしみついたもの、「思想」と意識化できない「思想」。無意識の思想である。
 無意識のなかではことばを制御する「理性」は働かない。

逆吊りの海

 こういうものは、ことばのなかでしかない。そして、それはことばになった瞬間に、現前してしまう。--ここに詩がある。存在しないものが、ことばの力によって存在してしまう。幻として、ではなく、「肉体」として。
 この瞬間が、私にはとてもおもしろく感じられる。

 このあとも白鳥のことばは動き回る。存在しないものを現前させることによって、グレングールドの音楽と拮抗する。グレングールドの音楽を誘い導くことはできないが、拮抗することで、グレングールドを耕すことはできる。そして、耕した瞬間、一瞬、たしかにそのことばはグレングールドに先行する。つまり、グレングールドをそういう領域へ誘い込んだという印象を生み出す。そこが、とてもおもしろい。
 そしてその運動を描くことばは最初に書いたようにしっかりした文体を持っている。きちんとした文脈を持っている。

 私が引用した行は、前半の3分の1くらいである。あとの3分の2は「現代詩手帖」で読んでください。



現代詩手帖 2008年 10月号 [雑誌]

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岡井隆「注釈する宣長」

2008-09-28 10:20:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「注釈する宣長」は、「注釈する岡井隆」と言い換えることができる。作品の書き出し。

原典はあくまで主人であるがその注釈は必ずしも従者だとはきまつてゐない

 岡井は「古事記」の注釈「古事記伝」(本居宣長)のことを書いているのだが、それは「古事記伝」と「注釈する宣長」そのものの関係にある。
 そして、そこに、不思議に色っぽいものがはさまってくる。

現代の注釈者は難産の妻の回りに夫が臼を背負つて歩き回り妻を励ます民俗風習の存在をこのくだりにそつと書き加へたりするが当然臼と杵は男女両性の性器の喩としてユニバーサルであつてみれば産室をめぐつて踊りよろめく男の背や肩に重い臼が載つてゐてもをかしくはないなどと一言注釈する者も小声でつけ加へたくなる ことほどさやうに宣長の注釈の筆は微細である

 「色っぽいもの」とは男女の性器のこと、それに対する解説ではない。「一言注釈する者も小声でつけ加へたくなる」である。「一言注釈する者」って、だれ? 宣長? それとも岡井隆? 文脈からいうと「現代の注釈者」、つまり岡井隆になる。岡井は宣長の注釈にそっと(?)しのびより、そのそばに寄り添い、注釈に加担する。その寄り添い方が、とても「色っぽい」。
 いや、猥褻である。
 間違えた。猥雑である。
 いや、やっぱり猥褻である。「小声で」と念押し(?)しているところなど、「実際にセックスしているのは私ではありません、宣長さんですよ」と言っているような感じがするのである。「注釈」が、女の服のすそをたくり上げて、女の核心にわけいって、あるかなきかの声を、はっきり存在するものとして明らかにする、(女自身に、声を上げさせる)、というようなことに思えてくるのだ。
 なんといえばいいのだろう。あえていえば、セックスの実況中継のようである。
 さんざん実況中継しておいて、あげくのはてに(?)、「とほどさやうに宣長の注釈の筆は微細である」。私は笑いだしてしまう。笑い声が止まらなくなる。涙が流れるくらいおかしい。「宣長の注釈の筆は微細である」にしても、それをわざわざ「微細である」と注釈しなければ、たぶん誰も微細であるとは気がつかない。
 ということはないかもしれないけれど。
 この微細さは、岡井隆が「微細である」とわざわざ書いているから「微細」が浮かび上がるのである。単に「微細」を指摘するだけではなく、それに「一言注釈する」という形で、わざわざ付け加えるから「微細」になるのである。「微細」は最初から「微細」なのではなく、岡井隆の筆が微細に「した」のである。岡井隆のことばが加わることで、微細に「なる」、「なった」のである。

人名地名時間等の長い長い注釈をこころみる かと言つて文章は明確で律動に富むから読んでいて飽くことはないが原典はつねに遠ざけられ目的地はどことも知れないほど注釈の小道わきに怖るることなくむしろたのしげに分け入る

 これも宣長の姿というより岡井の自画像になるだろう。
 ここには、また岡井が文章で何を重視しているかが書かれている。「明確で律動に富む」。文章は「明確」で「律動に富む」なら、何を書いてもいいのである。「明確」で「律動に富」んでいれば、それは「文学」である。「注釈」は単なる注釈ではなく、原典を超えて「文学」そのものになる。
 その瞬間、「たのし」くなる。この「楽しい」はとても大切な要素である。
 この関係を、岡井は、最後に別なことばで書き換えている。言い直している。

一体原典の数十倍もある注釈つてなんなのだらうその主人を弑すとまでは言はぬまでも主人を超克し超越した異物怪物のたぐひではないかと思はれて背筋が寒い

 「超克」「超越」。「文学」とはすべて「超克」「超越」するもの、したもの、なのである。
 岡井は原典を超える注釈について書いているのだが、注釈が原典を超越した瞬間、それは実は注釈が注釈であることを超越したということでもある。
 ここでもう一度セックスを例に出せば、自己が自己の外へ出てしまうことを「エクスタシー」という。自己が自己でなくなる。それは快感である。快感のなかで、自己が自己でなくなる。
 それが自分ではなく他人であってみれば、知っているはずの他人(たとえば女)が、セックスの果てに他人ではなくなる。それまでとは違った女になってしまう。いままで、じぶんには見せたことのない姿。官能。そのなかで、まったく新しい女に「なる」。男が(岡井隆が)そんなふうに「させた」のである。
 これは楽しいねえ。こんなよろこびはないねえ。
 でもね、最後。
 「背筋が寒い」。背筋が寒くなる。なぜ? ほら、そんなふうにエクスタシーの連続が永遠につづくとしたら、どうしていいかわからないからね。限りがないというのはたのしい。でも、こわい。矛盾している。矛盾しているから、そこに思想がある。こわいものに誘われ、こわいものといっしょに楽しむ。こわくなければ楽しくないのだ。




現代詩手帖 2008年 10月号 [雑誌]

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限られた時のための四十四の機会詩 他―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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田中宏輔「A DAY IN THE LIFE」ほか

2008-09-27 08:52:39 | 詩(雑誌・同人誌)
田中宏輔「A DAY IN THE LIFE」ほか(「あんど」9、2008年08月20日発行)


 田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。-だれよりも美しい鼻であったプレイグに捧ぐ」は●シリーズ(?)の1篇。その書き出し。

●森川さん●過去の出来事が自分のことのように思えない●って書かれてましたが●たしかに人生ってドラマティックですよね

 手紙のように書きだされている。「森川さん」とは「あんど」を発行している森川雅美を指しているだろうから、手紙そのものと勘違いしそうである。そして作品も、友人への手紙のように日常のこと、思ったことがつづられていく。
 途中、

●才能とは他人を幸福にする能力のことを言う●恋人の置き手紙のあいだに●こんなことばが●自分の書いたメモがはさまっていました

ということばがあり、最後に恋人の置き手紙がある。

 ●あっちゃん●少しですが食べてね●バナナ置いてくからね●これを食べてモリモリげんきになってね●あつすけがしんどいと●おれもしんどいよ●二人は一心同体だからね●愛しています●なしを●冷蔵庫に入れておいたよ●大好きだよ●お疲れさま●よもぎまんじゅうです●少しですが食べてくだされ●早く抱きしめたいおれです●いつも遅くにごめんね●お疲れさま●朝はありがとう●キスの目覚めは最高だよ●愛してるよ●きのうは楽しかったよ●いっぱいそばにいれて幸せだったよ●ゆっくりね●きょうは早めにクスリのんでね●大事なあつすけ●愛しいよ●昨日は会えなくてごめんね●さびしかったんだね●愛は届いているからね●カゼひどくならないように●ハダカにはしていからね●安心してね●笑●言葉●言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃない●言葉以上の言葉だった

 「●言葉●言葉●言葉」。シェークスピア。しかし、シェークスピアを忘れてしまう。そこにあるのは「ことば」ではなく「肉体」である。
 田中の詩を読んで感じるのは、いつも「肉体」である。それは冒頭の「森川さん」という呼びかけにつながる確かさである。いや、それを超える確かさである。
 私は田中も森川も知らない。彼らの肉体を見たことがない。つまり、ほんとうに実在するのか、ふたりはほんとうに別人なのかということを、私は知らない。知らないけれど、ふたりは同時に同じ場所に存在しうること--つまり、完全に別の肉体をもった生きた人間であると感じることができる。
 そして、この最後の恋人の置き手紙。置き手紙というには短すぎるメモ。その数々。そのひとことひとことに「肉体」を感じる。そして、その「肉体」のたしかさが、田中自身の「肉体」をさらにしっかりしたものにしていくのを感じる。恋人の(たぶん、そのメモの数だけの恋人の)ことばに向き合いながら、田中の「肉体」が増幅していく、増殖していくのを感じる。たしかな「いのち」を感じる。
 田中は「頭」ではなく、「肉体」でことばを書いている。そのとき、ことばは「言葉以上の言葉」にかわる。
 つまり、悲しみに、かわる。

 この悲しみは、「いのち」のことである。

 「いのち」には「頭」で考えるような「意味」はない。ただ、そこに存在する、それだけのことである。存在すること。それ自体で完結する。そういう完結と結びつき、その存在を納得できるのは「肉体」だけである。
 ことばを書きながら、ことばがいらなくなる。そして、ことばがいらないくなったとき、ほんとうはことばがほしくなる。「肉体」を超えてみたくなる。
 それが、詩、だ。

 田中の恋人たちはたぶん「文学」とは無縁である。「ごめりんこ」などと書いてしまう。しかし、その「文学」とは無縁のことばが、ふいに、楽々と「肉体」を超えて、田中の「いのち」に直接触れる。詩、そのものとして、「いのち」に触れてくる。
 ことばは、書いた人の力だけでことばになるのではない。
 田中の恋人たちの書いたことばは、田中の「肉体」に触れた瞬間、田中の「肉体」を突き破り、その「肉体」のなかで、詩に生まれ変わる。
 その瞬間を、田中は、詩として提出している。

 言い直そう。
 田中は、恋人たちのことばに触れたとき、田中自身の「肉体」を超えて(肉体を捨て去って)、恋人たちの「いのち」の、形にならない何かに触れるのだ。悲しみに触れるのだ。生きていることの悲しみに触れるのだ。
 そのとき、田中の「肉体」が詩になる。
 そういう瞬間が、そういう「いのち」がほしい、と田中は書いている。ことばのなかで、そんなふうに生まれ変わろうとしている。



 斎藤恵子「悲しめること」。この短いエッセイは田中の書いている悲しみにつながる。

 詩は、今、悲しめることを問うている。

 たしかにそうなのだと思う。「悲しめる」とは「いのち」を確かめる、実感することである。「いのち」に直接触れたとき、ひとは安らぎを覚える。
 恋人たちのメモを次々に書き写すとき、田中は、そのメモが書かれた時間をとりもどす。そのことばが書かれたときの「いのち」をとりもどす。「肉体」をとりもどす。そうしたことを、斎藤は、次のように書いている。

悲しみはじぶんだけのものだが、作者の気持ちに自分の気持ちを重ねて読むことで心を静めることができる。/悲しみの中にも安らぎはある。




The wasteless land
田中 宏輔
書肆山田

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夕区
斎藤 恵子
思潮社

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高橋秀明『歌ノ影』

2008-09-26 11:36:49 | 詩集
歌ノ影
高橋 秀明
響文社、2008年09月09日発

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高橋秀明『歌ノ影』(響文社、2008年09月09日発行)

 文字と文体が非常に美しい。書道で言うと楷書の美しさである。最近、こういう美しい文字と文体に出会った記憶がない。
 
冬来だりなば春遠からじ 風は雲を裂き 雲は氷雨を地に降らし刺すと言えど 暗雲が閉ざす地平線のてまえ 寒風に屹立するふるえは葉をすべて落とした木立ばかりのものではない あるかぎりの葉を奮い落とし わたしの怯懦も 期待というふるえる地平に立っている
                       (「晩秋平野」)


八月の山行。理念はその透明な腰を曲げて歩き続ける。ぬかる赤土の山道はつづら折りに見晴台へ続くはずだが、ときに長い下り坂となり、ときには道が笹藪に隠されてしまうから、見晴台の高みへと登っているのだという確信は今揺すぶられ続けている。不審と不安の鈴音を耳に、それでも理念が歩行を続けることができる支えと言えば、直感と、まちがいならいつでも引き返すことができるという計算だけなのだ。
                        (「山行」)

 たとえば「雲は氷雨を地に降らし刺すと言えど」という文体。とくに「言えど」。いまは、こういう言い方は口語ではしない。少なくとも、私は、しない。これは楷書で言えば、画をしっかりとおさえた部分である。筆がしっかりとまり、それまでの向きを変える。左から右へ動いてきた筆がいったんとまり、しっかりと下へ向きを変える。あるいは上から下へ動いてきた筆がしっかりと筆先を止め、いきおいをためて、かっちりと右へ動く。その動き、ことばが次に、いままでとは違った方向へ動くということをしっかりと意識させる。そして、方向転換したあとも、そのことば(筆)の勢いは正確にそれまでの勢いを維持している。これはとても気持ちがいい。
 正確なことば(筆)運びは、またリズムをつくりだして行く。「山行」の書き出し。「八月の山行。」という短いことば。これは、楷書で言えば、最初の筆が正確におろされた一点である。そこで筆は筆に含まれた墨を確認し、紙の感触を確かめている。それから、しずかに動く。「理念はその透明な腰を曲げて歩き続ける。」筆と紙の相性を確かめたあと、筆は勢いを増し、すばやく動く。「ぬかる赤土の山道はつづら折りに見晴台へ続くはずだが、ときに長い下り坂となり、ときには道が笹藪に隠されてしまうから、見晴台の高みへと登っているのだという確信は今揺すぶられ続けている。」この短・中・長という感じの、自然な移行が、とても美しい。いったん、そうやって動いたあと、息をととのえ、「不審と不安の鈴音を耳に、」という新しい書き出しへ動く。この息のととのえ方も気持ちがいい。
 こうしたリズムがあるからこそ、「それでも理念が歩行を続けることができる支えと言えば、直感と、まちがいならいつでも引き返すことができるという計算だけなのだ。」の「言えば」を画として、ぐいと動く別方向への移動が、そのまま意識をぐいとひっぱる。楷書ならではの美しさである。

 この美しさの基本をつくっているのは、古典である。この詩集にはいくつもの引用がでてる。引用とは出典があるということである。そして、高橋のことばは、古典のことばの強みを引き継いでいる。引用とは、単に先人のことばを利用するということではない。先人のことばの動きを自分で正確にたどりなおすことである。書道で言えば「臨書」。自分のなかにあるきままな腕の動きをいったん殺す。そして、先人の鍛え上げられた腕の動きのなかをとおる。そんなふうにして、自分を肉体として鍛え上げる。
 ことばの運動は精神の運動のように見えるが、実は肉体の運動である。
 「頭」でことばを動かすのではなく、「臨書」(引用)することで、肉体にことばの動きを覚え込ませる。ことばの意味ではなく、ことばの動きそのものが「思想」として肉体になじむまで、正確に「臨書」(引用)する。その長い長い蓄積が高橋にはあるのだ。
 そういうものがくっきりと感じられることば、文字、文体の美しさがある。

 こうした訓練の蓄積があるがゆえに、題材が「ウンコ」になっても、そこには汚らしさがない。「わがスカトロジー」の書き出し。

僕はウンコだ。ウンコだウンコだ。歴史の滓で家族の下痢だ。ああ。つかみきれない小文字の他者で、現前する破局の周辺を艶めかしく彩る感情の汚穢だ。ええい。自分の形を崩しながらウンコの内側から外を覗き込むと、いちめん鈍色に煌めく吹雪の想像界である。

 「ウンコ」はもっと汚らしく、目をそむけさせるようなものでなければならないという見方もあるかもしれないが、それはまた別の問題である。
 高橋は、それをやはり「楷書」で書きとおすのである。「楷書」でも書ける「ウンコ」があることを証明するのである。



 「楷書」(正確な画)、「臨書」(引用)。それについて触れたとき、たまたま「言えど」(晩秋平野)、「言えば」(山行)という「言う」ということばを含む行に出会った。それはしかし、もしかすると偶然ではないかもしれない。私が、この詩集のなかで、最初に、あ、美しいと思ったのは、次の行である。

また幸せは必ずしも水辺に宿るとはかぎらないとは言え、渇きや苦しみや恍惚でさえあるよりさきに過去の潤いの記憶であるはずなのに。
                         (「望来」(モウライ))

 ここにも「とは言え」と「言う」ということばが入り込んでいる。「言う」というのは、高橋のキーワード(思想の起点)かもしれない。
 「言う」ということばで、それまでのことばをいったん対象化する。客観化し、そのあとで別な動きがはじまる。
 正確なたとえになるかどうかわからないが、たとえば「臨書」。左手において、それを見る。手本は「言う」のまえにある存在である。「臨書」は、こんなふうに筆を動かすと言っている。それに対して、自分は(高橋は)、それを引き継ぎながらこんなふうに筆を展開する。
 「引用」をそれになぞって言えば、たとえば誰それはこんなふうに「言う」。それを引き継いで高橋はこんなふうに考える。そして、ことばを実際に、そうやって動かすのだ。
 「言う」。「言う」ときつかわれるのは、ことばである。
 これはありりまえすぎて、意識しにくい問題かもしれない。しかし、意識しなければならないのだ、きっと。
 高橋は、あらゆることばを「言う」を前提として見直している。言い換えると「臨書」「引用」としてとらえている。高橋がことばを動かすときの、「手本」(対象)として見つめなおしている。そして、自分の肉体にあったものだけを正確に選んでいる。先人のことば、文字、文体そのものを、いわば「言われたもの」(先に存在する「臨書」の手本)として明確に意識している。その意識が、高橋のことば、文字、文体そのものを鍛え上げているのだ。






言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社

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岩佐なを『幻帖』(2)

2008-09-25 08:08:58 | 詩集
岩佐なを『幻帖』(2)(書肆山田、2008年09月20日発行)

 岩佐なをの詩は気持ちが悪い--と私はしつこいくらい書いているが、最近は気持ちが悪いだけではなく、とても気持ちがいい行もある。どこが気持ちがいいのか。そのことについて書いておく。
 たとえば25ページ。

拙者に金がないからって、
拙者の手の爪に小鬼火をともすいやみはやめてくれ。
おもしろいとはおもうけどさ(苦笑)
火いたずらは御法度。
火事が三崎町からでたら神田いったいは丸焼けだ。
牛込ならば
牛のきんたま丸焼けだ。

 気持ちが悪いのは「(苦笑)」。
 気持ちがいいのは、「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」
 私は、どうも「内部」をむりやり見せられる(押しつけられる)のが苦手なのだ。「苦笑」などと言われると、ぞっとする。「苦笑」したか、しなかったか、そんなことは読者にまかせておけばいい、と思ってしまう。
 「牛のきんたま」が気持ちがいいのは、そのことばが岩佐のことばではないからだ。岩佐のことばではないが、岩佐の肉体にしみついているからだ。そして、その肉体には、健全な(といっていいのだと思う)多くの人の肉体がつながっている。いや、つながっているというより、岩佐の肉体のなかでひとつになっていると言った方がいいのかもしれない。ここでは、岩佐は思考していない。ことばを「頭」で動かしていない。「頭」を放棄して、そのあたりにころがっていることばをぱっとつかみとって投げ出している。これがとても気持ちがいい。

 詩にしろ、何にしろ、文学というのは、そのへんにころがっていることばをつかみ取って放り出すようなものではない、という考えがあると思う。自分の「頭」で考え抜いて、自分の気持ちを作り上げていくのが文学のことばだ、という考えがあると思う。もちろん、そうには違いない。
 そうではあるけれど、私は、そのへんにあることばをぱっとつかみ取ってきて、放り出すような作品が好きなのだ。私には、それが気持ちよく感じられるのだ。
 そこにはオリジナルはない。そのかわりに、たたいてもこわれない肉体がある。人間を成長させる「高尚な思想」はない。しかしそのかわりに、たたいてもこわれない「暮らしの思想」がある。「暮らし」というものにしか還元できない、ことばにならない、何か強いものがある。
 英語のことはよくわからないが、シェークスピアのこともよくわからないが、シェークスピアの劇は、決まり文句だけでできている、と聞く。だれもが知っていることば、だれもが話していることばだけでできている。あたらしいことばは何一つない。それは裏返せば、それだけ人生に、生きている人間の肉体にしみこんだことばだけでできているということだろう。
 そういうことばには、ひとりの人生の過去ではなく、すべての人間の過去がある。芝居とは、常に過去を現在のなかに登場させながら未来へと進んでいく。小説のように、あとから実は過去はこうでした、という説明はできない。常に過去をもったことばが必要である。過去を持っていることによって、過去と過去がぶつかり、時間が動く。それは、暮らしそのものの時間である。
 そういうことに似たものがある。

 「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」ということばは誰が言い出したのかわからない。わからないけれど、火事のすごさと、同時に火事なんかに負けるもんかというような心意気、なんとかして火事そのものを笑ってしまおうというような暮らしのバイタリティーを感じる。そんなふうに生きてきた人間の、たくましい「過去」がある。
 「牛のきんたま丸焼け」というのはナンセンスだが、そのナンセンスさには、センスを超越する健康さがある。それは肉体に、暮らしの思想につながっている。
 そういうものが、すーっと、呼吸のように出てくる瞬間、それが、とても気持ちがいい。
 この作品(この断章)のおわりもとてもいい感じだ。26ページから27ページにかけて。

ねえ、
おぬし。
よう、
ひかり。
いないのか。
ほんとにしんだのか。
時代もちがい武士ではないから
こころざしも極端に低いけれど、
丈部左門と赤穴宗右衛門の「約」はいいよな。
そんなことはわかるさ。
ほおい。
ほんとにもう成仏したのかい。

 借りた長屋にあらわれる幽霊との交流(?)を描いた詩なのだが、この最後の部分、とくにひらがなの部分がいいなあ。人間の頼りない声、(つまり、「高尚な思想」のように、きちんとした形でだれそれに見せるためのことばにならないもの)、それをそのまま呼吸として表現している。
 体を揺すってあちこち見回す感じ、ちょっと背筋を伸ばして遠くへ呼びかけるときの肉体の動き--そういうものがきっちり見えてくる。
 そのとき、肉体があることの安心と、肉体をなくしたものへの哀惜のようなもの、肉体をなくした魂への祈りのようなものが、ふっとあらわれる。

 これはほんとうに気持ちがいい。



岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005
岩佐 なを
美術出版社

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しましまの
岩佐 なを
思潮社

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ティムール・ベクマンベトフ監督「ウォンテッド」(★★★)

2008-09-24 11:08:43 | 映画
監督 ティムール・ベクマンベトフ 出演 ジェームズ・マカヴォイ、アンジェリーナ・ジョリー、モーガン・フリーマン、テレンス・スタンプ

 映画の手応えは細部にある。一瞬のシーンにある。この映画には少し「マトリックス」のような映像がある。弾丸がゆっくり見える。主人公が興奮し、アドレナリンが大量に分泌されると、神経が過敏になり、それが現実をゆっくり見せるのである。それがさらに進んで、弾丸の軌道を曲げたりする。こういうシーンに、いろいろ手間をかけて映画はつくられている。「マトリックス」の前例があるだけに、新しいシーンをみたという印象はない。この段階で、この映画は「A級」から落ちこぼれる。
 はっとする美しいシーンは、ティムール・ベクマンベトフが何もわからず逃走するシーンにひとつある。逃げきれなくなって立ちつくすティムール・ベクマンベトフ。アンジェリーナ・ジョリーの赤い車が突進してくる。思わず、体を丸くする少年(青年?)。車がスピンする。扉が開く。その開いた扉に丸まった体のティムール・ベクマンベトフが吸い込まれていく。この物理的な動きがとても新鮮である。
 もうひとつ。走る電車。その上にいるジェームズ・マカヴォイとアンジェリーナ・ジョリー。トンネルが近づいてくる。そのままでは2人はぶつかってしまう。アンジェリーナ・ジョリーが膝をおり、上体をそらして、そのまま電車の車体にぴったりくっつける。うつぶせになってトンネルの天井(入り口)とぶつかるのを避けるのではなく、仰向けになって避ける。その顔、その余裕を、この映画はたっぷりと見せる。
 この瞬間、あ、あんなことをやってみたい、と思う。役者の肉体が観客を夢へと誘う。これが映画の魅力のひとつである。そのために役者の肉体は美しくないといけない。顔がよくないといけない。肉体の特権(凡人を超越した魅力)を持っていないといけない。
 この映画は、そういうことをきちんと踏まえている。--と、いいたいけれど、ひとつ失敗をしている。
 ティムール・ベクマンベトフの父親が出てくる。最初のアクションで派手な動きをする。ビルの廊下を走り抜け、窓ガラスを突き破って隣(もっと遠く?)のビルへ飛び移る。(この映像もおもしろい。)しかし、殺されてしまう。その殺された男が父親だと、ティムール・ベクマンベトフは知らされ、そして、暗殺組織に誘われる。殺された父の復讐のために。
 あ、と私は思った。
 この瞬間、この映画の「嘘」が見えたのである。映画はもともと「嘘」なんだから、「嘘」が見えたというのは正しくないかもしれないが、映画の構造、手抜きが見えた。殺された「父親」がぜんぜん魅力的ではないのである。逆に、ジェームズ・マカヴォイを追いかけ、アンジェリーナ・ジョリーらの暗殺組織を破壊しようとする男が、なかなかいい男なのである。「敵」が魅力的であるというのは、どういう映画でも必須の条件であるから、これはこれでいいのだが、「父親」があまりにも魅力がなさすぎる。いい役者、人気のある役者というのは一種の輝きがある。凡人がもたない何かを持っている。そういうものに引きつけられて、普通の人は映画を見に行く。そういう要素が「父親」にはない。その瞬間、私は、「あ、あれは本当は父親ではないのだな」とわかってしまったのである。映画のストーリーの「裏」が突然見えてしまったのである。
 映画の「裏」のストーリーは、本当は「敵」こそが父親であり、彼はジェームズ・マカヴォイを暗殺組織から守るために少年の前にあらわれたのである。最後の最後に、このちょっといい男はジェームズ・マカヴォイを救い、すべての秘密を語って死んで行く。一種のどんでん返しである。はらはら、どきどき、そしてそのあとのどんでん返しで、一気にカタルシスがやってくる--はずである。映画は、それを狙っているはずである。
 ところが、私には、そのカタルシスはやってこなかった。「父親」がきっと偽物、ということに最初の段階で気づいてしまっていたからである。もし「父親」がもっと魅力のある男、名のある俳優をつかっていたら印象は違っていただろう。たとえばピアース・ブロスナンとか。一瞬のうちに死んでしまう重要人物に、きちんと魅力的なリアリティーをあたえると、細部が最後まで生きてくる。そういう大切な部分で、この映画は手抜きをしている。大失敗をしている。
 本当の父親は映画のなかに何度も何度も登場し、実際に主人公たちと対決する。そういう男は、スクリーンに登場するにしたがって印象が強くなるわけだから、ほんとうはある程度の魅力があればいい。(この映画では、そういう法則がちゃんと踏まえられていた。つまり、誰もが知っているという有名な俳優ではないが、ちょっといい男という感じの男で、長い間見ていると、なんとなくその魅力がわかってくる。)しかし、一瞬しかない役、しかもキーとなる役を演じる役者は、一瞬が勝負である。一瞬に印象を残さないと、その一瞬は「過去」となって、映画の観客のなかでフラッシュバックしない。
 豪華な俳優陣をそろえながら、この映画が「B級」にもなりえないのは、役者の質にムラがあるからである。キャスティングは重要である、と思った。



つぐない

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岩佐なを『幻帖』

2008-09-23 11:49:44 | 詩集
岩佐なを『幻帖』(書肆山田、2008年09月20日発行)

 雑誌に発表されたとき、何回か取り上げたことがあるけれど( 1回だけ?)、岩佐なをの語法は最近とてもおもしろい。きのうの日記で取り上げた中島悦子の「ずれ」が「ずれ」というより「飛躍」なのに対し、岩佐なをは「飛躍」なのに「ずれ」なのだ。
 8ページ。

描かれていたもののの主題だけは
およそわかっていて
そのひとつが「まぼろしの塔」
と「塔のまぼろし」
いまひとつが「幻のいきもの」
と「いきものの幻」
なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の
鳶色の羽から繰り出される
札ふだ札ふだ札ふだだだだ

 「なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の」の「なんまい」(何枚)から「なんまいだ」(南無阿弥陀)への変化は「飛躍」である。そこには何の論理のつながりもない。「A点からE点までの直線がずれていく。」(「小川」中島悦子)どころか、それが「直線」としてつながっているかどうかさえわからない「飛躍」である。論理的には(たとえば数学的には)つながりがない。ところが、それは「飛躍」ではなく、「ずれ」にしかすぎない。
 なぜか。
 「なんまい」と「なんまいだ」は「何枚」と「何枚だ」でもあるからだ。そこに同じ音、同じ音を繰り出す「肉体」がからんできて、肉体の力が「何枚だ」を「南無阿弥陀(仏)」に変えてしまうからである。「飛躍」(ずれ)を呼び起こしているのは「頭」(論理)ではなく、肉体にしみついた「思想」だからである。「南無阿弥陀(仏)」の仏教の教えそのものの本質とは無関係に、ただ繰り返す習慣としての「南無阿弥陀(仏)」というものがある。そして、それは無意識になってしまっているからこそ、ほんとうは、ややこしい教義を超えて「思想」になってしまっているとも言えるのだが。(肉体に染みつき、肉体を動かす無意識、たとえば思わず南無阿弥陀仏とつぶやいてしまうことばこそ、ほんとうは思想である。人間を支えている何かである。そんなふうに無意識になってしまうくらい定着してしまったのだ。)
 岩佐は「頭」のなかでことばを動かすのではなく、肉体のなかでことばを動かす。そのために「飛躍」が「ずれ」になってしまう。何かが違うのだけれど、何かが違うかを「明確なことば」(デジタルなことば、「頭のことば」、たとえば中島の使った「A点からE点までの直線」というような表現)では言い切れないものが、ふっと出てくる。何かが違うのだけれど、それをきちんと指摘するのはとてもめんどうなので、まあ、いいかっ、とその瞬間だけ浮かび上がらせて、あとは流してしまう(なかったことにしてしまう)ような「ずれ」、許容できる範囲のこととしてしまうのである。
 私の書いたことは、ちょっとうるさすぎたかもしれない。岩佐は、9ページで「頭」と「肉体」、「ずれ」と「飛躍」を別なことばで簡単に書いている。

記憶のようでもあるのです。
想像のようでもあるのです。
いや、はっきりした知覚のような。
「はっきりなのに、ような、なんですか」
はっきりとようななんです。
「ばかですね」
すみません。

 「何枚だ」と「南無阿弥陀(仏)」は「知覚」(頭)にとってははっきりと違ったものである。「なんまい」と「なんまいだ」、「なんまいだ」と「なむあみだ」もアナウンサーのことば(知覚されることを意識することば)でははっきり違ったものである。ところが、おじいさん、おばあさんが、頼りなくなったときにふともらす「なんまいだ」と「南無阿弥陀」は音として違ったものではない。とても似ている。
 岩佐を真似して言えば。

「なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の」の
「なんまいだ」は「南無阿弥陀」のようでもあるのです。
「なんまいだぶつ」のようでもあるのです。
いや、はっきりそう聞こえたような。

 実際、私はこの詩を最初に読んだときから「なんまいだ」は「何枚だ」ではなく、「南無阿弥陀仏」がお年寄りの口のなかで繰り返す「なんまいだ(南無阿弥陀仏)」とはっきり聞こえた。
 「何枚だ」を「南無阿弥陀(仏)」と聞き取ることに対して「ばかですね」と批判されれば「すみません」と、やはり岩佐の詩にならって言うしかない。「なんまいだ」が「何枚だ」であるのは、その後につづく「繰り出される/札ふだ……」を関連づければ明確である、と指摘されれば、やはり「すみません」というしかない。
 しかし、私は「なんまいだ」を「南無阿弥陀(仏)」と誤読したいのだ。誤読する「肉体」の力の方を、「何枚だ」と冷静に分析する「頭」よりも優先したいのだ。

 ことばは「頭」のなかでも暴走する。どこまでも自由に動き回る。多くの現代詩はそういう冒険を試みている。
 岩佐はそれに対して、ことばを「肉体」のなかで暴走させる。耳や舌、喉、口蓋、そういうもののなかで暴走させる。それは、あまりにも肉体になじみすぎているので、もしかすると「暴走」とは意識されないかもしれない。しかし、その動きは「頭」から見つめなおせば「暴走」である。おいおい、そんなことをおおっぴらに言うなよ、という感じのことがらである。
 たとえば、14ページ。

鳥のおんなは
鳥の表情でかなしんだ。
かなしんでしんだんだ、

 「かなしんだ」ということば(音)のなかに「しんだ」がある。だからといって、「かなしんでしんだんだ」というリズムを楽しむようにして言うなよ、不謹慎だぞ、と日常なら言われるかもしれない。けれど、ここに書かれているのは詩である。日常ではない。だから、そんなふうに「暴走」していのだ。そんなふうにしてことばを「暴走」させる力が肉体にある、その肉体を楽しむことが生きるということでもある。

 ことばは、岩佐にとっては、肉体を取り戻すための方法なのかもしれない。岩佐はエッチング(私の把握の仕方が正しいかどうかしらないが)もつくっている。この詩集のなかには岩佐の作品が取り込まれているが、そうした絵も、岩佐にとっては肉体を取り戻すための方法なのだろう。

 で。

 で、というものなんなのだけれど、肉体というのは、やっぱり好みがありますねえ。私はやっぱり岩佐の浮かび上がらせる肉体というのもが、どこか気持ち悪い。かなり長い間岩佐の作品(詩も、エッチングも)を見ているのだが、あいかわらず気持ちが悪い部分がある。卑近なたとえで言うと、たとえば岩佐が女性だとして、いま、その前にいたとして、そのときキスしたいとか、触りたいとかいう気持ちになるかというと、あ、遠慮します、という感じである。私のいう気持ち悪さというのは。それはもっと具体的に言うと、私の場合、たとえば松坂慶子。「美人」で通っていますね。たしかに「美人」だとは思いますよ。でも、私は「あ、遠慮します」という人間です。
 どうして、と言われると、とても困るけれど。

 最近は、まあ、私も大人になってきたのか、その気持ち悪さ(岩佐の気持ち悪さ)が岩佐のいちばんいい部分なんだなあ、わかってきて、なるべく気持ち悪いとは書かないようにしているのですが。(といいながら、今回は書いてしまったけれど。)

 こんな余分なことは、書かない方がいいのかもしれないけれど、ついつい、岩佐の詩が楽しくて(気持ち悪くても楽しいということはある、泥んこは最初はぬるぬるしていて気持ち悪いけれどいったん遊びはじめるとやみつきになるように)、書いてしまった。
 岩佐さん、ごめんなさい。



岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
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中島悦子『マッチ売りの偽書』

2008-09-22 10:33:24 | 詩集
中島悦子『マッチ売りの偽書』(思潮社、2008年09月18日)

 「小川」という作品が最初の方に出てくる。その最後から2連目。

行く先が、ほんの少しずれる。旅がずれていく。A点からE点までの直線がずれていく。小川にかかる反目板もすでに割れて、心なしか、旅そのものがずれていく。

 「ずれる」。これが中島悦子の「キーワード」、いわば「思想」である。そして、その特徴は「A点からE点までの直線がずれていく。」ということばのなかにある。ごくごく一般的には、直線がずれていくというとき、「A点からB点までの直線」という。抽象的な言語は「1、2、3……」か「A、B、C……」「甲、乙、丙……」というふうに規則的に進む。突然途中をはぶいてどこかへ飛躍することはない。飛躍してしまっては、ものごとを抽象的に考えるという思考から「ずれる」。
 「AからEへ」というのでは、AもEも抽象化された存在ではなく、固有名詞を引きずっている。それは、いわば頭文字になってしまっている。頭文字というのは、わかっているのにわざと固有名詞を隠して書くことであり、また頭文字を書くことで固有名詞をほんとうは隠すのではなく知らせるものである。それは抽象化とは無縁のものである。
 ところが、中島の「小川」という詩では、AもEも固有名詞ではない。誰にもそれが何をあらわしているかわからない。離れた2点をさしているとしかわからない。つまり、抽象的な存在である。
 「A点からE点まで」ということ(と書くこと)、それ自体がすでにごく普通の抽象的思考(たとえば数学や科学的思考)のスタイルから「ずれ」ている。「ずれ」は中島の「頭」ではなく「肉体」になってしまっている。

 ある直線を「A点からB点まで」ではなく「A点からE点まで」と書くことは「ずれ」を通り越して「飛躍」である。
 これは、実は、中島は「飛躍」を「ずれ」と認識しているということの裏返しの表明である。

 たとえば、「石動」という作品。

この間は酔っぱらいにからまれた。東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。東京学芸大学前からは、東京学芸大学の学生が乗ってくる。そうだろ、そうに決まっているだろって。そうですね、そうですね、って私。蛇骨原という駅を通ってきたら、蛇の骨が乗ってくるんですよね。石動(いするぎ)からは、重たい石が。青土駅からは、まっさおな土が流れ込んで、列車の中はずいぶんと混雑した墓ができそうではありませんか。

 「東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。」と「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」というのは「ずれ」ではなく、「飛躍」である。それも小さな「飛躍」ではなく、とんでもない「飛躍」である。しかし、中島は、そういう「飛躍」を「ずれ」と呼ぶのだ。
 なぜ「飛躍」が「ずれ」なのか。
 「飛躍」の土台となっているのが「ことば」にすぎないからだ。現実ではなく、ことば。中島は、ことばと現実をきっちりと結びつけようとはしない。現実は現実で動いていく。ことばはことばで自在に動いて行く。ことばが現実ときっちり対応していると考えるからこそ、「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」は「飛躍」になる。それが現実とは無関係に、単なることば、意識であるなら、「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」と「東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。」はともに「乗ってくる」という動詞でひとつの動きになり、主語が「重い石」か「東海大学の学生」かの違い(ずれ)があるだけである。

 ことばは、それが現実と対応しているもの(現実を伝達するもの)という考えを放棄すれば、あらゆることばは「主語」となって自由に動き回ることができる。そういう世界を中島は、きっとどこかで夢見ているのだ。こういう夢は何も中島に限ったことではない、と中島は主張するだろう。
 たとえば「石動」。これは富山県にある地名だが、石は動くはずがない。しかし「石動」という地名があるのは、かつてはそこに住む人々が石が動くと信じたからかもしれない。実際に動いたかもしれない。ことば、なにかしら「秘密」を持っているのである。
 中島は、ことばが抱え込んでいる「秘密」をあばきだすために、秘密をあばいて、自由に動かすために、つまりことばの「秘密」を解放するために詩を書いているのだといえるだろう。

 この詩集の「序」は「マッチ売りの少女」をテーマにしている。「マッチ売りの少女」は「現実」ではない。もともとことばである。ことばであるなら、それは「石動」と同じように、何らかの「秘密」を持っている。その「秘密」をこの作品では、「詩」(言語の化学反応)と「哲学」を持ち込むことで解体しようとしている。「マッチ売りの少女」という物語の中にからみあっている「ずれ」を解きほぐし、「ずれ」を「飛躍」とわかるまでに拡大しようとしている。

 奇妙なもののなかには「ずれ」がある。「マッチ売りの少女」の薄幸の物語のなかには何かしらの人間の歪んだ(?)夢、「ずれ」がまぎれこんでいる。それを解きほぐし、「飛躍」にまで追いつめていくとき、その果てから、こんどは、「飛躍」を「ずれ」、それもほんとうの些細な「ずれ」として認識しよう、受け入れようとするこころが動きはじめる。これを、たとえば「愛」と呼ぶこともある。ヒューマニズムと名付けることもある。そうなのだ。中島は、奇妙な内容のことを書きながら、ひたすら暮らしのなかの「いのち」のようなものに触れて、そこから現実に異議を申し立てているのだ。
 ほんとうは、ことばが「ずれ」ているのではなく、現実が「ずれ」てしまっているのでは? と問いかけているのだ。



Orange―中島悦子詩集 (叢書新世代の詩人たち)
中島 悦子
土曜美術社

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ケント・オルターマン監督「俺たちダンクシューター」(★★)

2008-09-21 11:42:56 | 映画
監督 ケント・オルターマン 出演 ウィル・フェレル、ウディ・ハレルソン、アンドレ・ベンジャミン

 コメディーは普通、軽いものである。チャプリンのように、しんみりさせるものもある。ウディ・アレンのように皮肉っぽいものもある。しかし、チャプリンもウディ・アレンも体の小ささ(?)を有効につかっている。小さいイコール貧弱というわけではないが、一種の弱さのようなものが滲み出て、それが軽さにもつながる。深刻なことがあっても、その深刻さが小さく感じられる。人間の体の大きさと、そのひとが体験するできごとの大きさは無関係であるにもかかわらず、なぜか、そんなふうに感じる。小さい相手だと小馬鹿にしたところで反撃されてもこわくない、からかいやすい、というような心理も働くのかもしれない。こういうことは、たぶんチャプリンもウディ・アレンも承知していると思う。だからこそ、逆の(?)シーンで笑いも取る。たとえば、ふんぞりかえっていた肥った警官がバナナの皮を踏んで転ぶ、と。ひとを小馬鹿にして、ふんぞりかえっている人間が失敗するとおかしい--ということと、小さいひとをからかって笑うというのは一種のセットのようなものかもしれない。人間は、そんなふうにして、どこかで気分を発散させているのだろう。

 「俺たちダンクシューター」は、そういうコメディーではない。まずウィル・フェレルが小さくない。小さくないだけではなく、むしろ大きい。そして顔がまじめである。ユーモアなんてひとかけらもわからない、という感じがする。ひたすらまじめである。そんな印象がある。だからこそ、「主人公はぼくだった」というような作品の主役にもなるのだろう。真摯に悩むのである。
 そして、奇妙なことに、なぜか真剣であるということは、やはりおかしいのだ。
 小さいひとをからかって笑いの対象にしたり、あるいは大きいひとが失敗するのを見て笑ったりすることは、いまのことばでいえば「いじめ」になるかもしれないし、そういうことは最初からまじめなことではない。悪いとわかっていても、人はそういうことをしてしまう。
 ウィル・フェレが演じるコメディーはそういうこととは無縁である。まじめである。真剣である、ということがおかしいのだ。そこには何かやはり常軌を逸脱したものがある。逸脱しているけれど、人間の性格の真っ正直な部分があって、それがおかしいのである。
 たとえばバスケットボールの得点。ホームのゲームで 125点以上得点をあげると、観客にプレゼントを贈らなければならない。(大入袋のようなものである。)試合には勝たなければならないが、 125点以上上げてはだめ。チームメイトが勝とうと必死なのに、ウィル・フェレはその得点を妨害する。ウィル・フェレルはチームのオーナーでもあり、予想外の出費は困るのだ。--こういうシーンを手抜きをせずに、ていねいにとっている。
 そうしたどうでもいいシーンがおかしいのである。大男が真剣にやっているから、なんともいえず変なのである。
 どういうときでも、感情というか、思っていることが前面に出る。控えめに何かを要求する。何かを実現するために、あえて控えめに行動する。計画を立てる、ということがない。あくまで、全面に出す。そういう真剣さが、とてもおかしい。
 考えてみれば、いまは何をするにしても、深謀遠慮の時代、根回しの時代なのかもしれない。そういう時代に、深謀遠慮、根回しとは無縁の、思いを全面に出して行動するということ事態が笑いの対象になるのかもしれない。そのうえ、それが小さいからだではなく、大きな体からあふれだす。もし、こころというものが体の内部にあり、それが何かを通って体の外へ出てくるものだとしたら、ウィル・フェレルのこころは、大きな体の隅々をおおることで徐々に拡大し、普通の人の真っ正直よりも拡大されて出てくるのである。常軌を逸した大きさになって出てくるのである。
 そこが、おかしい。

 体の大きさとこころの大きさは無関係である。体が小さい人が小心で、体の大きい人が大胆とは限らない。ウィル・フェレルはどちらかといえば小心である。そして、その小心は小心のまま、小心であることすらも強調されて体からあふれてくる。あらゆるものが大きな体を行き渡らなければならないので、それが強調されてしまうのだ。それがおかしさの理由だ。



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福間明子「サカナのしんり」

2008-09-21 01:53:21 | 詩集
福間明子「サカナのしんり」(「水盤」4、2008年08月20日発行)

 おもしろい部分と退屈な部分が交互に出てくる。いいなあ、、と思う部分だけを抜粋してみる。

ある日を機に
サカナが我が家に押し寄せてきた
冷蔵庫の中は満杯になった
ドアを開けるたびにサカナが笑っている
(略)
夜寝ていると潮の匂いがしてくる
(略)
誘ったわけでもなく
誘われたわけでもないのに
サカナと暮らしはじめた
ただ思うにサカナは湿っぽくない
人付き合いも悪くない
時々懐かしそうな目をするから
誰かを思い出すが誰だかわからない
(略)
ちかごろは
サカナののうのうが
わたしにも移ってか
なんだかのうのうと
明け暮れしているわたしがいる

 (略)の部分には説明が入っている。福間にしてみれば(略)の部分こそ書きたいのかもしれない、とも思う。
 「誰かを思い出すが誰だかわからない」の1行のあとは、ずーっと誰だかわからないままでいてほしいが、福間は種明かしをしたいようで、「誰か」を書いてしまう。そのヒミツ(?)にこころを動かす読者もいるかもしれないが、私はにはわからないままの方が楽しい。
 誰かが誰かわからないまま、サカナの実感が「わたし」をつつみこんでしまう。「わたし」がサカナになってしまうということは、たぶんそういうことではないのか。最後は「のうのう」とサカナになってしまうのだから、「誰か」など思い出す必要はないのだ。「誰か」につながる、さらなる「誰か」なんて、さらに必要がない。
 どうせつながるなら、その「誰か」は会ったことのない「誰か」でないと、詩にはならない。

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豊原清明「俳句抄」

2008-09-20 08:51:43 | その他(音楽、小説etc)
豊原清明「俳句抄」(「白黒目」13、2008年09月発行)

 「白黒目」に6句掲載されている。

シナリオに励みて今日は去来の忌

 あ、去来はシナリオなのか。連歌はたしかに映画かもしれない。前の句を次の句が破って動いて行く。きのう「映画詩」に触れたが、豊原のことばは、こういう古典からもいのちを吸収している。「温故知新」。豊原のことばの透明さは、そんなところにあるのかもしれない。

流星や私が撮った闇の濃さ

 「私」が不思議である。「流星」というよりも「私」によって、闇が濃くなっていく。私は俳句は何も知らない。門外漢である。俳句にわざわざ「私」ということばがつかわれるのは、なんだが字数の関係でもったいない(?)感じがするが、この句の場合はぜったいに「私」がいる。不可欠である。「私」が撮る(撮影する)前と、撮ったあとでは、闇の濃さが違う。フィルムのなかで闇が変質する。「私」によって変質する。それは同時に「私」そのものの変質である。変質しながら「私」は「私」を超越する。

我病んで花びら噛んで春を待つ

 「シナリオ去来」の句には「き」の繰り返しが美しく響きあっていたが、この句では「んで」「は」の重なり合う響きが楽しい。「んで」は「子音」+「あんで」というべきかもしれない。「(わ)れ」「(はなび)ら」「(は)る」の「ら行」の変化も楽しい。同時に、この句のなかにある「あ」という母音の明るさがとても美しく感じられる。

淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立

 この句もとても美しい。楽しい。音楽そのものとしてたのしい。俳句はとりあわせの詩ともいうらしいけれど、このユーモラスな出会いは不思議に古典的である。「私」や「我」は世界のなかに完全に溶け込んでいる。書かれていない。見えない。それなのに、その存在を感じる。しかも、何かを主張しているというような感じではない。「私」「我」を書かない、消してしまう、ということをとおして、逆に「私」「我」が透明な姿で立ち上がってくる。「私」「我」が世界になっている。

 「流星」と「夏木立」の句--どちらかひとつを取るとしたらどっちだろう。悩んでしまうなあ。やっぱり「夏木立」だろうなあ。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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川野圭子「淋しい牛」

2008-09-20 08:23:53 | 詩(雑誌・同人誌)
川野圭子「淋しい牛」(「Griffon 」22、2008年06月30日発行)

 川野圭子「淋しい牛」は後半がおもしろい。

ドアを開けると
何と牛が押し入ってきたのだ

淋しい淋しい と長いまつげの目が言うので
すこしならいてもいいよ と言ってやったら
なけなしのわたしの絨毯の上に
いっぱいになって 横たわった

淋しい淋しいが止まらないので
大きなまっ黒い頭を抱いて寝た

わたしのかたわらの牛の目は
見れば見るほど大きくて
奥山の沼さながらで
青黒い水を溜めていた
とめどなくあふれるものを一晩中
バスタオルで拭いつづけた

 「バスタオル」がいい。「牛」が何の比喩なのかわからないが、「バスタオル」によって「牛」が比喩から牛そのものにかわる。牛の頭は大きい。目も大きい。牛が涙を流すなら、それを拭くのはハンカチや普通のタオルでは間に合わないだろう。たしかにバスタオルが必要なのだ。

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豊原清明「ようかいの映画詩」

2008-09-19 12:10:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「ようかいの映画詩」(「白黒目」13、2008年09月発行)

 リズムといえばいいのだろうか。ことばの切り替えがとても気持ちがいい。「映画詩」とあるが、映画のカメラの切り換えに似ている。映画はスクリーンで見ていると連続しているように見えるが、ほんとうはいたるところに断面がある。カメラはいつも切り替わっている。長回しのカメラもあるけれど、たいていは数えきれないくらいの切り替えがある。そして、そうした切り換えがスムーズなとき、映画にひとつのリズムができる。このリズムの善し悪しで映画の善し悪しが決まる。
 豊原清明のことばの切り替えは良質の映画のカメラの切り換えに似ている。「ようかいの映画詩」の冒頭。

昨夜 僕らは母とけんかして
僕らのけんかの種の僕が
母に襲う真似をして
それは僕のジョーダンだったのだが
僕らの母は身に危険を察して
真夜中、旅をした
その晩、僕らは薬を飲んで
じっくりと眠った

 家の中。最初の1行は部屋の全景。最初は人は動いていない。ことばが飛び交う。そして、少しずつ人のことばが肉体を駆り立てる。それが3行目だ。そこからカメラは、また引いて行く。部屋の全体。母の部屋を横切って(左から右、右から左、あるいは手前から奥、奥から手前でもいい)シーン。母のいなくなった部屋。ここまでは1台のカメラが動き回って撮るとおもしろい。(「ぐるりのこと」の二人のけんかのシーン、冒頭に登場する長回しのように。)
 そして「真夜中、旅をした」。夜の街を歩く母の姿。ロング。この街のシーンはその1行が短いように、瞬間的なショットでいい。
 一瞬の街の表情をとらえたあと、カメラはまた家のなかにもどってくる。無言。無言のまま、薬を飲み、寝室へ移動する「僕」。カメラは、今度はだれもいなくなった部屋、その「空気」だけを映している。そうすると、記憶のなかに、街を歩く母のショットがよみがえり、さびしさのようなものが劇場に漂う。
 翌朝のシーンもいい。

朝になって、父は苦虫を潰して
パンとコーヒーをしてくれた

 ことばがはじまる前の不思議な感じ。朝の光のさわやかさ(戸外から自然の光が、「歩いても 歩いても」の台所のように、部屋の中にふりそそぐといい感じだ)と、父の表情の対比。(山崎努のような顔でやってもらいたい)。それからパンとコーヒーの温かな感じ。そこにあるのは、ことばにならない矛盾。そうしたものをカメラはことばをもたないがゆえにきちんと伝える。そして、ことばが動きはじめる。会話がはじまる。

昨夜、大声挙げて
父は鼓膜が破れたと言うので
直って欲しいと 祈った
父は確かに右耳が
聞こえない感触があった
昨日は--
今朝、部屋に戻って
僕らはなかしくなったけれども

 会話と、一瞬のフラッシュバック。無音のまま、父の動きだけを映した、昨夜のけんかのときの一瞬のシーン。それから、僕のアップ。ただし、顔だけではなく、胸から上。控えめに、「いのり」が表情を横切る瞬間を、そしてそれが「かなしみ」にかわっていく瞬間を感じさせるだけの長さで。
 読みながら、スクリーンが見えてくる。

 2連目は1連目の「かなしくなったけれども」の「けれども」という不思議な余韻をひきずって、記憶への旅である。父の無音のシーン(フラッシュバック)と呼応するようにしてつながる。--この呼応は天才的である。「無音」から、切り詰められた最小限の「ことば」、幼い会話への転換……。

小学生の頃 同級生が
「昨日 僕の親 リコンした。」
と薄く笑み
「今日の晩御飯(カップラーメン)や。
いっしょに食べて…。」
と言った
「かわいそう」僕は半分食べて
身の毛が震えた
自分のウチに帰ったのだ
それは僕の罪であった
全部食べて 遊ぶべきであった
「お母さんは夜の1時に帰ってくれるねん。」
と、彼は言った
「君は寝んと待っとるんか?」
と僕は冷たく言った
「うん。」
彼は黙りこくった
もう少し話しはあるがそれはヒミツ
だから
三十一歳で「母恋し」はダメなのだ
一人の個人にならねばならない

 ことばは長いけれど、このシーンは映画の全体のなかでは非常に短い。カメラは頻繁に僕と友だちの表情をアップで行き来し、行き来するたびにそのあいだの「空気」が濃密になる。(カメラの切り替えが速く、しかも瞬間瞬間の人間の表情をアップでとらえると、スクリーンからあふれる「空気」はとても濃密になる。感情の動きに観客が引き込まれて行くからである。)
 そして、その「空気」の濃度が高まったところで、突然、終わる。友だちのアップのあと、二人の全身が(少なくとも腰から上が)映り、しかも動かないシーン。その、一瞬の「間」。その「間」のなかに、「彼は黙りこくった」からの5行の世界。動かないミドルショットの余韻。そこに「ヒミツ」や「「母恋し」はダメなのだ/一人の個人にならなければならない」という「思い」が入り込んで切る。

 このあと、短い短い最終連がある。それは、2連目の余韻をさらにしっとりと深めるシーンである。ここに書いてしまうのがもったいない。
 ぜひ、「白黒目」13で読んでください。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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一瀉千里「待ちくたびれた鬼」、秋山基夫「薔薇」

2008-09-18 09:52:29 | 詩(雑誌・同人誌)
一瀉千里「待ちくたびれた鬼」、秋山基夫「薔薇」(『四土詩集第Ⅲ集』2008年07月31日発行)

 一瀉千里「待ちくたびれた鬼」は節分の日の様子を描いている。それだけだけれど、不思議と笑いが込み上げてくる。後半部分。

時計を見ると 午後九時半で
そろそろ出番 と
鬼がやってくる
この氷点下じゃ 裸の鬼も辛い
早く用事を済ませたい
いつまで経っても あるじは帰宅せず
いいかげん退散したいと
いらつく鬼をひきとめる

午後十一時四十五分
もう限界と 立ち上がる鬼の背中をめがけて
豆を数回ぶつける
大役すんだと スタコラサッサ
鬼はすばやく 帰っていった
今年は仕事がはかどらなかったと苦言を残し

日にちが回って 午前一時
ようやく帰ったあるじに話すと
そうだったのかともう一回
あるじはひとりで豆をまく
鬼の足跡だけが残る からっぽな節分の夜

 この作品をおもしろくしているのは「と」である。「そろそろ出番 と」の「と」。「いいかげん退散したいと」の「と」。「もう限界と」の「と」。「大役すんだと」の「と」。「今年は仕事がはかどらなかったと」の「と」。「ようやく帰ったあるじに話すと」の「と」。「そうだったのかと」の「と」。
 「と」が世界をつないでいる。
 そして、この「と」は世界をつなぎながらも、世界にどっぷりつかってしまわない。ちょっと距離がある。一種の「客観視」のような気分がある。それが自然とユーモアをかもしだしている。
 一瀉千里は、どこか自分を「と」の力で客観視しているところがある。「鬼」と一瀉はどこかで重なり、どこかで分離している。「いらつく鬼」は「鬼」そのものではなく、一瀉でもあるのだが、随所に出てくる「と」の力で「鬼」にならずに踏みとどまっている。帰宅の遅かった夫に対して不平をいいながらも、相手の様子を「客観的」にみつめている。怒りに没入していない。

 「と」には不思議な、暮らしの「思想」がある。



 秋山基夫「薔薇」は、一瀉千里から「と」を取り除いた世界である。その全行。

雨の季節になった。通りすぎる白い人影が雨にまぎれ、雨は夕闇にまぎれる。

しばらく持ちこたえるだろう
息を吐きそのまま夜の方へ移る

夜の内側を伝い遠い音が聞こえつづける。

コップに水をそそぎ
薔薇をなげこむ

それは飛沫にもまれ断崖の底に落下する。

出来事の縁に盛り上がり
こぼれる記憶

雨が降っている。

 たとえば2連目と3連目のあいだ、その1行空き。そこに「と」を挿入してみる。そうすると、そのつながりがおだやかになる。いったん「夜の方へ移る」という行為をみつめ、それから「夜の内側」へと意識が動いていくのがわかる。4連目と5連目も同じである。「と」を挿入すると、「薔薇をなげこむ」という行為から、薔薇の動きを追う意識へとことばが変化していることがわかる。
 秋山は、一瀉の「と」を拒絶する。そして、「と」を拒絶することで、飛躍する。何から飛躍するかというと、肉体、肉体の暮らしから飛躍するのである。「夜」に「内側」「外側」などというものはない。現実にはないが、しかし、ことばはそういうないものを存在させることができる。意識は、存在しないものを実在させることができる。コップに投げこんだ薔薇が「断崖の底に落下する」ということも現実にはありえない。しかし、意識はそういうイメージを見ることができる。秋山のことばは、いわば「純粋意識」の世界でことばがどんなふうに動きうるかを追求したものである。そして、たぶん、秋山の作品の方が「現代詩」なのかもしれない。

 秋山の詩の方が「現代詩」であるかもしれないけれど、私には、一瀉の作品の方がおもしろい。日常のなかで動いていることばそのもののなかにある「思想」を浮かび上がらせるからである。
 「と」のどこが「思想」なのかと問い詰められると、答えようがないのだが、私は暮らしのなかで人の行為を支え、守っているものより勝る「思想」はないと考えている。暮らしをととのえ、人間を温かくするものが「思想」でなかったら、「思想」の意味はないと考えている。




オカルト
秋山 基夫
思潮社

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