詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

24 (もしすべての存在を消すことができたら)(嵯峨信之を読む)

2018-06-30 14:16:28 | 嵯峨信之/動詞
24 (もしすべての存在を消すことができたら)

どこにも歌がなくなつたとき
始めておまえはぼくのものになるだろう

 これは、どういうことか。嵯峨は言いなおしている。

どこからか陽が射してきて
すべてのものに影がまつわり
遠近が生じ
ぼくの歩みに血が通うだろう

遠い夢の地つづきを通つて
おまえはぼくのところにやつてくるのだ

 「ぼくのものになる」と「ぼくのところへやつてくる」。それは「通う/通る」という動詞によって実現する。
 複雑なのは、「おまえが通る」と「ぼくの血が通う」が交錯するところだ。「ぼくの血が通う」から、そこを「おまえが通る」ことができる。
 しかも、「血が通う」の前提には「遠近が生じ」ということが前提になっている。「遠近が生じる」ことで「血が通う」。その「血の通う遠近の場」を「おまえが通って」やってくる。
 このときの「遠近が生じる」の「生じる」は「歌がなくなる」の「なくなる」とは反対のことである。

 「歌」ではなく、「現実」が、そのとき「生まれる」。「現実」のなかで「血が通う」ということか。

 錯綜する動詞のなかで迷うことが詩を読むことだ。嵯峨と同じ動詞を生きることで、詩が肉体の中に入ってくる。



*

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ESTOY LOCO POR ESPANA(7) (番外)

2018-06-30 00:19:48 | estoy loco por espana
Vi esta foto en Facebook de Joaquin, y quería ver esta mesa en real quando estaba en Caudete, espana.

es una mesa, no es una escultura.
cuando vi la escultura de Joaquín, me atrajo la fuerza del obra. de hecho, visitaba su taller, vi la fabrica donde estaba trabajando y supe que el hierro esta en estrecho contacto con su vida. Joaquin conoce la vida del hierro. y lavida del hierro tranceforma la forma de aret.
Aunque es un arte, la vida misma del hierro vive por sí misma. La vida de hierro está viva. Las cosas atemperadas por la vida están vivas. Sentí que el hierro que se entrenó en la vida y vivió con mi vida está vivo.
Es esta tabla la que lo demuestra concretamente.

Hierro que se ha usado. Pero aun vivo. Combinando la vida de hierro, Joaquin renacera de hierro recien. esta mesa no tiene la forma de "pajaro de fuego", pero este es el "pajaro de fuego". Es un hierro inmortal. A partir de ahora, esta mesa continuara en vivo. Quien no mira hacia atras, esta mesa seguira existiendo. La figura del hierro como fuerza para seguir existiendo. Prototipo de hierro esta en forma.




 Joaquin Llorens Santa がフェイスブックに載せている写真を見て、あ、こういう作品を見たかったなあ、と思った。
 彫刻ではなく家具。
 ホアキンの彫刻を見て、その作品の中の強さに惹かれた。実際に、アトリエを尋ね、彼が働いている工場を見て、それが生活と密着していることを知った。暮らしの中で知り尽くした鉄が、そのまま形になっている。
 芸術だけれど、その中には鉄の暮らしそのものが生きている。鉄のいのちが生きている。暮らしに鍛えられたものが生きている。暮らしに鍛えられて、暮らしと一緒に生きてきた鉄が生きている、と感じた。
 それを具体的に証明するのが、このテーブルだ。

 使用済みになった鉄。しかしまだ生きている。その生きているいのちを組み合わせて、新しく生まれ変わる。「火の鳥」の形をしていないが、これこそ「火の鳥」と言える。不死の鉄だ。これからも、このテーブルは生きつづける。誰が振り返らなくても、存在し続ける。存在し続ける力としての鉄の姿。鉄の原型。それが形になっている。

 ほかにどんな「日用品」をつくっているのだろう。それも見てみたい。



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23 二つの歌(嵯峨信之を読む)

2018-06-29 12:07:26 | 嵯峨信之/動詞
23 二つの歌

誰が通つた跡だろう
火で燃えつきて
空だけが白く残つていて

 「愛とどこの川にながしても」と始まるこの作品には「ながす/ながれる」「通る」「すぎる」「行く」という動詞が繰り返される。その結果「つく」(ながれつく/燃えつく)ということにもなる。ふたつの「つく」は意味は違うが。
 この連には、そうした動きの別な姿が書かれている。
 「残る」という動詞が出てくる。「跡」という名詞と一緒に出てくる。「跡」が「残る」。
 それは必ずしも動詞が直接的に動いた場にだけ「残る」のではない。
 誰かが通った跡は地上に、火の燃えた跡として残るだけではない。その名残のようなものが空にも反映している。この「跡が残る」は「跡がつく」ともいえる。「跡がついている」。
 ある動きの反映が、別のものにも「残る」。ときには「残す」という働きかけもあるだろう。それが愛というものだ。





*

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22 アムール(嵯峨信之を読む)

2018-06-28 09:19:49 | 嵯峨信之/動詞
22 アムール

よく見ると
下絵のように
擦れた線が幾重にもみだれもつれて描いてある

 直接的な動詞は「描いてある(描く)」だが、重要なのは「描く」を修飾する「みだれる」「もだえる」だ。
 「みだれる」「もだえる」のが愛の本質である。
 「幾重」ということばは「いくつも/重なる」と動詞がわかるようにして読み直すと、愛の本質がさらにわかる。「みだれる」だけではない。「もだえる」だけてはない。
 「よく見ると」は「擦れた線」(擦れる)に視線を動かしていくが、「重なる」をこそ見逃してはならない。
 「重なる」から、次の連の「読めない」にもつながる。
 「よく見ると」「見える」ではなく、「よく見ると」「読めない」。
 ぱっと「見る」と愛だとわかるが、「よく見ると」愛はわからなくなる。
                        2018年6月28日(木曜日)

22 アムール

よく見ると
下絵のように
擦れた線が幾重にもみだれもつれて描いてある

 直接的な動詞は「描いてある(描く)」だが、重要なのは「描く」を修飾する「みだれる」「もだえる」だ。
 「みだれる」「もだえる」のが愛の本質である。
 「幾重」ということばは「いくつも/重なる」と動詞がわかるようにして読み直すと、愛の本質がさらにわかる。「みだれる」だけではない。「もだえる」だけてはない。
 「よく見ると」は「擦れた線」(擦れる)に視線を動かしていくが、「重なる」をこそ見逃してはならない。
 「重なる」から、次の連の「読めない」にもつながる。
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*

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鄭義信監督「焼肉ドラゴン」(★★★)

2018-06-27 19:57:22 | 映画
鄭義信監督「焼肉ドラゴン」(★★★)

監督 鄭義信 出演 真木よう子、井上真央、キム・サンホ

 私は芝居は見ていないのだが。
 うーん、これは「芝居」そのものであって、映画になりきれていない。

 「芝居」というのは「劇場」(舞台)で役者の肉体がまじりあい、化学反応のようなものを起こす。そこに観客がのみこまれていく。この瞬間が、とても昂奮する。言っていることもやっていることもわからない(でたらめ)なのに、「その場(現場)」に居合わせているために、すべてを納得してしまう。そういうことが起きる。
 でも、映画は違う。映画はカメラが「役者集団」を「役者」ひとりひとりに切り離してしまう。「芝居」では存在しないアップによって、「ひとりの肉体」を拡大し、そこに観客を引き込んでゆくものである。「集団」のアンサンブルがあっても、それは「芝居」のときとは違うリズムで構成される。やっている役者には責任がない。たぶんカメラ、それから編集が問題なのだと思うが、どうも役者と役者の間で動いている「空気」がスクリーンに定着しない。
 唯一、根岸季衣と桜庭ななみが掴み合いのけんかをするシーンが「空気」というか、役者と役者の間に動いているものを再現していたが、これは根岸季衣が「ことば」をつかわずに「肉体」だけで演技していたからだなあ。
 言い換えると。
 他のシーンでは、役者が「ことば」をしゃべるたびに、「空気」がその役者に集中してしまって、他の役者から「分離」してしまう。そばに他の役者がいるはずなのに、「空気」がひとりに集中してしまって、他の役者の存在感が消えてしまう。
 真木よう子は一生懸命、他の役者の存在感を漂わせようとしているが、他の役者はカメラが自分をとらえているということを意識しすぎているというか、ここは自分が演技を見せる番だと気負いすぎているというか。どうも、「広がり」が欠ける。
 舞台だと必然的に見えてくるものが、映画になった瞬間に、見えなくなる。

 「芝居」がどんな具合に上演されたのか知らないが、飛び交う韓国語の「意味」はわからなくても、役者の「肉体」が「意味」ではなく感情を伝える。そこに生身の「肉体」が動いているということが、芝居ではとても強烈である。「肉体」は「共感」を必然的に引き出すものだ。
 映画では、「肉体」が「全身」であるということは少なく、カメラが切り取った「肉体」になってしまう。そこでは「共感」はうまくいけば非常に強くなるが、切り取り方がずれるとまったく重ならない。「ことば」は全身とともに生きているのに「切り取られた肉体」では広がりがない。どうしても「意味」が必要になる。「字幕」が必要なのは、そのためだ。
 これはこれで仕方がないことなのかもしれないが、どうもおもしろくない。「猥雑感」がでない。

 先日見た「女と男の観覧車」も「芝居」がかった映画である。特に、ラスト寸前のケイト・ウィンスレットをとらえた長回しのシーンは「芝居」そのものだが、あれはケイト・ウィンスレットの演技が、映画の中に「芝居」そのものを持ち込んだものだ。ケイト・ウィンスレットは「現実」ではなく「芝居」を生きている。それが「現実(映画)」を「舞台」に変えてしまう。そういう「必然」としての「芝居」が生きている。
 見る順序が逆だったら違った感想になったかもしれないが、感動は少なかった。
 現代のテーマを抱えていて、とても重要な作品だとは思う。安倍に見せてやりたい映画とも言える。でも、そういうことを語ると「意味」になってしまう。
 「芝居」では「意味」を超えて溢れ出ていただろうものが、「映画」では完全に消えて、「意味」が前面に出てしまったということだと思う。

(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン2)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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嵯峨信之を読む(21)

2018-06-26 09:51:30 | 嵯峨信之/動詞
21 巴里祭

それは
ひよどりの巣から手づかみにした卵のような
 一語だつた

 「それ」とは何か。嵯峨にはわかっているが、読者にはわからない。
 三行目は、こうつづく。

それつきり女は海を越えて帰つていつた

 「手づかみ」と「女」を手がかりにすると、「それ」は「乳房」かもしれない。「巣」「卵」も、そう感じさせる。
 これを「一語」と呼んでいる。
 どんな「一語」なのか。まだ、ことばになっていない。でも、ことばが、その瞬間に動いた。ことばになろうとした。三行目の一字下げが、ことばにならない一呼吸をあらわしている。
 二連目に、

日記には何も書いてない

 とある。
 書かなくても、嵯峨には、わかる。
 ことば、だったと。ことばとしか呼べないものだった、と。


*

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ESTOY LOCO POR ESPANA(6) (ピカソを訪ねて)

2018-06-26 01:14:37 | estoy loco por espana
プラド、ティッセン、ソフィア

 プラド美術館。私はゴヤを見る。「黒い絵」シリーズが好きだ。ふつうに生きる人への共感が、怒りとなってあらわれている。ゴヤの黒には血の色がまじっている。エル・グレコも気に入っている。光と闇の関係が強烈だ。衣服の輝き、聖人の肌の白い輝きが不気味である。今回はプラドが目当てではなかったので二時間ほどで切り上げてティッセンへ。
 ティッセンにはピカソがある。「鏡を持つアルルカン」が有名だが、「闘牛」が強烈だ。「灰色(白)」と「黒」の二頭の牛が描かれている。



 黒い牛は顔がひっくりかえっている。このフォルムが、私の視覚を不安定にする。意識を揺さぶり、感情を生み出す。この牛の中で、死が生きている。いのちも生きているが、死が生きてあばれている。
 IVAMでフリオ・ゴンサレスの作品について触れたとき、「視覚の冒険」ということばをつかったが、ここに描かれているのは「リアリティ(写実)」ではない。視覚がリアリティを破壊している。現実を突き破って動いているものをとらえているというよりも、視覚の力で現実の奥にあるものを誘い出している。
 開かれた口は、何を叫んでいいかわからずにいる。丸く見開かれた目は、いま見えているものが何かわからずに驚いている。
 不思議なことだが、私は、この苦しみを愉悦であるとも感じてしまう。苦しむことができる愉悦。まだ生きているという愉悦。矛盾した感情だが、矛盾しているから印象が強くなる。
 一方、灰色の牛(白い牛)は、どうか。顔は牛には見えない。牛であることをやめている。死んでしまった牛だ。ここには苦しみはない。寂しさがある。そして、愉悦がない。
 ソフィア美術館で「ゲルニカ」を見ながら思い出したのは、この「闘牛」である。

 「ゲルニカ」は黒、灰色、白で描かれている。
 「闘牛」のように単純化して言うことはできないが、この黒、灰色、白の組み合わせには、生と死が混じり合っている。
 左の牛は、顔(頭)が白い。頭は死んでしまって、茫然としている。からだはだ黒いままだ。生きている。足は大地を踏みしめている。頭の方が先に死んでしまって、どうしていいかわからないのだ。生きているからだを振り返って、目はうつろになっている。口はだらしなくひらいている。死んだ子どもを抱く母親の嘆きに、どうしていいかわからずにいるのかもしれない。



 中央の馬はどうか。激しくのたうっている。からだの動きには、まだ「量感」がある。力がある。口は大きく開かれ、何を叫んでいるのか、舌は思いっきり遠くまでのばされている。声をとどけようとしている。




 人間は、どうか。切断された頭、切断された手は白い。でも、折れた剣を握る手には強い黒がある。戦おうとする意思か。あるいは、剣といっしょに握っている花への希望(欲望)が生きているということか。



 人間は子ども以外は口を開いている。死んでしまった子どもだけが口を閉ざしている。何も言うことができないまま、死んだ。死ぬということがどういうことか理解できないまま、死んだ。あるいは怒りを訴えることを知らないままに死んだ。まだ、ことばを知らないのだ。頭と腕は、力なく垂れている。



 母親は、のどをのけぞらせ、絶叫している。だが、やはり、ことばは知らない。舌が突き出ているのは、声のかぎりに叫んでいるからだ。歯は怒りをあらわしている。
 一方、歯の描かれていな顔もあるが、それはは不安をあらわしているのだろう。

 「ゲルニカ」で興味深いのは、多くの線が省略されているのに対して、掌、足の裏の皺は克明に描かれていることだ。手と足に、それを使い込んだ印の皺がある。それは、深い。まるでナイフで刻んだように深い。その黒い線は、彼らの「血」そのものだ。線の奥に「血」が流れている。一生懸命、生きるために働いているふつうの人、彼らが殺された。
 それに対してピカソは怒っている。

 もうひとつ、書いておこう。
 天上の光。電球。その光は、黒い影を持っている。光なのに、影を持っている。これは「科学的」に考えると不思議だが、これがピカソなのだと私は思う。
 ピカソの視線は光よりも早く動く。
 光は物体に色と形を与える。ピカソの視線は、その光よりも強くて、「現実」を先取りする。ピカソの視線は光にさえ形を与える。



 「ゲルニカ」と直接関係がないかもしれないが。
 ピカソの絵には、ミノタウロが頻繁に出てくる。頭が牛、からだが人間。これは、とても興味深い。一般に男は、頭は人間、肉体(下半身)は野獣という姿を「理想像」として持っている。頭は理性的だけれど、セックスは野蛮、というのは男根主義かもしれないが、男の理想のひとつだ。ピカソは逆だ。
 いや、七人の女と結婚しているのだから、ピカソがセックスについて考えなかったということはない。
 ミノタウロはピカソにとって何だったのか。
 「絵(美術)」と結びつけて、私は、こう考える。
 絵には「写実」というものがある。「見えるように描く」。でも、それはほんとうに見えたものなのか。頭で修正し、誰にでも共有できる形に整えたものが「写実」と呼ばれるのではないだろうか。
 ピカソは頭で整える前の世界を描きたいのだ。たとえば、牛の目が見た世界。人間の知性が形を整える前のものを描きたいのだ。
 「ゲルニカ」も同じ。
 冷静に戦場の悲惨さを報告したいのではない。
 殺されたひとは何が起きたのかわからない。起きたことを頭で整理する余裕がない。でも、そのときも「世界は見える」。頭ではなく、いのちが見つめる。それをそのまま描いている。
 ピカソは「視覚の冒険」を試みているのではない。いのちが見たものを、いのちが見たまま、整理せずに私にぶつけてくる。私が見るのは「絵」ではなく、「いのち」そのものだ。見ることで、私は「いのち」になる。




(Las siguientes oraciones fueron traducidas automaticamente usando la traduccion de google.)

Prado, Thyssen, Sofía

El Museo del Prado Veo a Goya. Me gusta la serie "pintura negra". Una empatía por la persona que vive generalmente aparece como enojo. El color de la sangre se mezcla con el negro de Goya. También me gusta El Greco. La relación entre la luz y la oscuridad es intensa. El brillo de la ropa, el brillo blanco de la piel del santo es misterioso. Dado que Prado no fue apuntado esta vez en unas dos horas a Thyssen esta vez.
Thyssen tiene a Picasso. "Arrucan con un espejo" es famoso, "las corridas de toros" son intensas. Se dibujan dos reses de "gris (blanco)" y "negro".

Una vaca negra tiene su cara vuelta. Esta forma hace que mi visión sea inestable. Sacude la conciencia y crea emociones. En esta vaca, la muerte está viva. La vida está viva, pero la muerte vive y libra.
Cuando mencioné el trabajo de Julio González en el IVAM, utilicé la palabra "aventura de la visión", pero la que se muestra aquí no es "realidad (real)". La vista está destruyendo la realidad. En lugar de atrapar algo que se mueve a través de la realidad, invito a algo detrás de la realidad con el poder de la visión.
La boca abierta no sabe qué gritar. Los ojos redondos se sorprenden sin saber lo que ahora es visible.
Es extraño decir que también siento que este sufrimiento es placentero. Placer que puede sufrir Placer de que todavía esté vivo. Es una emoción contradictoria, pero como se contradice, la impresión se vuelve fuerte.
Por otro lado, ¿qué tal un ganado gris (ganado blanco)? La cara no se ve como una vaca. Estoy dejando de ser una vaca. Es una vaca que murió. No hay sufrimiento aquí. Hay soledad Y no hay placeres.
Fue esta "corrida de toros" que recordó mientras veía "Guernica" en el Museo de Arte de Sofía.


"Guernica" está dibujado en negro, gris, blanco.
Aunque no se puede simplificar como "corridas de toros", esta combinación de negro, gris y blanco ha mezclado vida y muerte.
La vaca izquierda tiene una cara blanca (cabeza). Mi cabeza está muerta y aturdida. El cuerpo todavía es negro. Está vivo. El pie está caminando en el suelo. Mi cabeza está muerta primero y no sé qué hacer. Mirando hacia atrás en el cuerpo vivo, los ojos se están volviendo vacíos. Mi boca es descuidada. Puede ser que no sé qué hacer por el duelo de mi madre que tiene un niño muerto.



¿Qué tal un caballo en el centro? Él está luchando duro. En el movimiento del cuerpo, todavía hay "sensación de volumen". Hay poder La boca está abierta de par en par, y lo que está gritando, la lengua ha sido completamente extendida muy lejos. Estoy a punto de hablar.



¿Qué hay de los humanos? La cabeza cortada, la mano cortada es blanca. Pero, hay un negro fuerte en la mano sosteniendo la espada rota. ¿Está dispuesto a pelear? ¿O es que la esperanza (deseo) para la flor que sostiene con la espada está viva?





Los humanos son de mente abierta, excepto por los niños. Solo los niños que han muerto están cerrando la boca. No pude decir nada, morí. Morí mientras no podía entender lo que significa morir. O murió sin saber recurrir a la ira. Aún no sé las palabras. La cabeza y el brazo están colgando sin fuerza.



Mi madre está gritando y sorbiendo su garganta. Pero, todavía no sé las palabras. Es porque la lengua sobresale porque está gritando tanto como puede. Los dientes muestran ira.
Mientras tanto, hay rostros sin dientes dibujados, pero parece indicar ansiedad.

Lo interesante de "Guernica" es que se omiten muchas líneas, mientras que las arrugas en la parte posterior de las palmas y los pies se dibujan con claridad. En las manos y los pies, hay arrugas en los signos que lo usaron. Es profundo Es tan profundo como si estuviera tallado con un cuchillo. Esa línea negra es su "sangre" en sí misma. "Sangre" fluye detrás de la línea. Las personas normales que trabajan duro para vivir, fueron asesinados.
Picasso está enojado con eso.


Otra cosa para escribir.
Luz celestial Bombilla de luz Esa luz tiene una sombra negra. Aunque es liviano, tengo una sombra. Es extraño pensar en esto como "científico", pero creo que este es Picasso.
La línea de visión de Picasso se mueve más rápido que la luz.
La luz le da color y forma a los objetos. La línea de visión de Picasso es más fuerte que esa luz, anticipándose a la "realidad". La mirada de Picasso da forma incluso a la luz.


Aunque puede no estar directamente relacionado con "Guernica".
Minotauro aparece con frecuencia en la imagen de Picasso. La cabeza es una vaca, el cuerpo es un ser humano. Esto es muy interesante En general, un hombre tiene la figura de un ser humano como cabeza, un animal salvaje como cuerpo (parte inferior del cuerpo) como una "imagen ideal". Aunque la cabeza es racional, el sexo es salvaje, puede ser una confraternidad, pero es uno de los ideales de los hombres. Picasso es al revés.
No, ya que está casado con una mujer de siete, Picasso nunca pensó en el sexo.
¿Qué fue Minotauro para Picasso?
Lo asocio con "picture (art)", creo.
Hay "pintura" en la imagen. "Dibuja para ser visto". Pero, ¿era realmente visible? Ya sea que se corrija por la cabeza y se organice en una forma que pueda ser compartida por cualquier persona se llama "real".
Picasso quiere pintar el mundo antes de que se ajuste con su cabeza. Por ejemplo, el mundo donde vieron los ojos de una vaca. Quiero dibujar algo antes de que la inteligencia humana se forme.
Lo mismo se aplica a "Guernica".
No quiero reportar la miseria de la batalla con calma.
Las personas que han sido asesinadas no saben lo que sucedió. No puedo permitirme organizar lo que ha sucedido con mi cabeza. Pero incluso entonces, "veo el mundo". No veo la vida sino la vida. Lo dibujo como es.
Picasso no está intentando una "aventura visual". Mientras veía cómo la vida veía lo que la vida veía, me golpeaba sin resolverlo. No veo "imágenes" sino la "vida" misma. Al mirar, me convierto en "vida".





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ESTOY LOCO POR ESPANA(5) (マドリッドの写真家)

2018-06-25 00:12:37 | estoy loco por espana
Luis Egido
https://www.facebook.com/luis.egido.79

Pedro Taracena
https://www.facebook.com/pedrogregorio.yunqueracabanillas




 ルイスとペドロは写真を撮っている。写真を見るときどこに注目していいのか、私は知らない。「肉体」との結びつきが、よくわからない。
 感想もどう書いていいのかわからない。
 ルイスは「飛翔」に興味があると言っていた。



 私がいちばんおもしろいと思ったのは、コウモリの写真だ。ランだろうか。花びらを舌でからめとる瞬間をとらえている。こういう動きは「肉眼」では明確には見えない。肉眼で見ることのできない瞬間を見せる、時間を定着させるのが写真かもしれない。




 二羽が同時に飛んでいる写真は、羽の動きが対照的でおもしろい。こういう瞬間も肉眼は認識しにくい。特に私は目が悪いので、肉眼では見ることができない。
 蜜を吸いにきた鳥も同じだ。
 この写真で気がつくことは、鳥の目をしっかりとらえていることだ。飛翔よりも、鳥の目をしっかりとらえていること私は感心した。
 目を撮ることがルイスは得意なのかもしれない。
 インドで撮ったというトラの写真は、やはり目がしっかりしている。鳥が飛ぶのではなく、ルイスのまなざしが飛ぶ。写真は、ルイスのまなざしが飛んだ距離とスピードをあらわしている。



 私は写真よりも、自分の「肉体」で記憶するのが好きだ。そんなことを話しながらルイスの顔をスケッチしてみた。これをルイスは、ぱっと写真に撮った。
 これが私とルイスの違いだ。



 さすがに写真家だなあと思ったのは、ルイスが撮った何枚かの私の写真を見たとき。
 私が実物よりもよく撮れている。
 自撮りもうまいなあ。背後の「堕天使」もちゃんとおさまっている。私はこういう器用なことはできない。




 ペドロは、ルイスとは対照的に止まった時間をとらえる。止まった時間を写真に閉じこめることで、時間を永遠へと引き延ばす。

 

 壊れて倒れているのはテーブルか、小屋の一部か。何か「暮らし」があったはずだが、いまは存在しない。存在が否定され、その瞬間に、否定された時間が見えてくる。そういうことを狙っているのか。
 


 廃墟になった小屋と、そこに入ってくる光。格子と、射し込む光。光がつくりだす影。
 明るい日差しが永遠なのか、影が永遠なのか。
 疑問が時間を揺さぶる。




 ファサードの写真には、昼の光と影がある。それはやがて動いていく。時間が動くこと(光と影が動くこと)が、私たちを永遠へと連れて行く。



 どこの橋だろうか。私たちを照らしていた光が遠く去っていく。深くなっていく闇に、ペドロは何を見ているのか。

 ペドロは、画家ではゴヤとエル・グレコが好きだと言っていた。ゴヤは「黒い絵」を描いた。内戦にまきこまれ苦悩する庶民の絵の基調は黒である。エル・グレコの描く聖人たちは輝く衣裳と白く輝く肌をしている。それは黒との対比によっていっそう際立つ。
 ペドロは黒と白、光と闇との関係を見極めようとしているのかもしれない。モノクロの写真も多く撮っている。
 プラドで一緒に絵を見る予定だったが、見ることができなかった。語りあう時間があれば、もう少し何か違った感想になったかもしれない。



 ただふたりの写真は、ともにプリントアウトしたものを見たわけではない。ネットで公開されているのを見ただけである。どうも「実物」を見た、という気がしない。スペインまで来なくても「同じ」というのは、どうも落ち着かない。












(Las siguientes oraciones fueron traducidas automaticamente usando la traduccion de google.)

Luis y Pedro están tomando fotos. No sé dónde prestar atención cuando veo imágenes. Realmente no entiendo la conexión con "cuerpo".
No sé cómo escribir impresiones.
Lewis dijo que estaba interesado en "vuelo".



Lo que pensé que era más interesante es una imagen de un murciélago. ¿Es orquídea? Capté el momento en que saqué los pétalos con la lengua. Tales movimientos no se pueden ver claramente a "simple vista". Mostrando el momento que no se puede ver a simple vista, fijar el tiempo puede ser una imagen.




Las imágenes de dos pájaros volando al mismo tiempo contrastan con el movimiento de las plumas y son interesantes. Incluso en ese momento, el ojo humano es difícil de reconocer. Especialmente tengo ojos malos, así que no puedo ver a simple vista.
Los pájaros que vinieron chupando miel son lo mismo.
Lo que notas en esta imagen es que atrapas con firmeza los ojos del pájaro. Admiré que agarro los ojos del pájaro con firmeza más que el vuelo.
Lewis puede ser bueno tomando los ojos.
Las fotos de tigres que tomé en India todavía son sólidas en sus ojos. En lugar de volar pájaros, la mirada de Louis vuela. La imagen muestra la distancia y la velocidad a la que voló la mirada de Louis.
Me gusta memorizar mi "cuerpo" en lugar de fotografías. Esbocé la cara de Lewis mientras hablaba de tal cosa. Louis tomó esta foto de una vez.
Esta es la diferencia entre yo y Lewis.



Fue realmente un fotógrafo cuando vi algunas de mis fotos tomadas por Lewis.
Estoy tomando algo mejor que lo real.
También soy bueno en la auto-toma. El "ángel caído" detrás está bien colocado. No puedo hacer una cosa tan diestra.



Pedro atrapa el tiempo detenido en lugar de Lewis. Al bloquear el tiempo detenido en la fotografía, prolongamos el tiempo hasta la eternidad.



¿Es una mesa o una parte de una cabaña que se rompe y se derrumba? Debe haber habido algo "vivo", pero ahora no existe. La existencia se niega, y en ese momento, el tiempo denegado llega a ser visible. ¿Estás apuntando a ese tipo de cosas?
En el caso

La cabaña que se convirtió en ruinas y la luz que entra allí. Rejilla y luz para disparar. La sombra que crea la luz.
Si la luz del sol brillante es eterna o la sombra para siempre.
La pregunta sacude el tiempo.



La foto de la fachada tiene luz y sombras. Pronto se moverá. Los movimientos del tiempo (movimiento de luz y sombra) nos llevarán a la eternidad.



¿Qué puente es? La luz que brillaba sobre nosotros se ha ido muy lejos. ¿Qué está viendo Pedro en la oscuridad que se oscurece?

Pedro dijo que al pintor le gustan Goya y El Greco. Goya dibujó una "imagen negra". La nota clave de la gente común que sufre en la guerra civil y el sufrimiento es negra. Los santos de El Greco tienen trajes brillantes y una piel blanca y brillante. Se destaca más en comparación con el negro.
Pedro puede estar tratando de descubrir la relación entre el blanco y el negro, la luz y la oscuridad. También tomo muchas fotos monocromáticas.
Iba a ver una foto junto con Prado, pero no pude verla. Si hubo tiempo para hablar, podría haber sido algo un poco diferente.



Solo las dos fotos no vieron lo que imprimimos juntas. Solo vi que estaba abierto al público. No siento que vi 'real'. Incluso si no vengo a España, me siento incómodo de decir "lo mismo".


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ESTOY LOCO POR ESPANA(4) (バレンシアの美術館)

2018-06-24 14:31:56 | estoy loco por espana
 バレンシアにはニューヨークの「MOMA」に似た美術館がある。「IVAM」(Institut Valenci d'Art Modern)。私が訪れたときは、フリオ・ゴンサレスとミロの特集をやっていた。



 ミロのキャンバスを焼いた作品と、その実演ビデオの紹介もあって刺戟的だった。「火祭り」で有名な街には、火が似合うのか。
 ほかにも、ショーウィンドーに壁画(?)を描くシーンもビデオも上映されていた。
 






 火の関連なのかもしれないが、私は「陶器」に惹かれた。
 ざらざらした感じが、ミロの絵の「肌合い」を思い起こさせる。
 ミロの色は、私にはとても落ち着いた感じに見えるが、これは「火」をくぐりぬけた色、一度焼かれた色なのかもしれないと思った。言い換えると、「灰」が混じった色。
 スペインの「黒」は私にはとても特徴的に見える。イギリス、日本の黒はしっとりと沈んでいるが、スペインの黒は激しい。とても強い。
 ミロの灰色の混じった色は、少し系統が違うかもしれない。どこかに「火」をくぐり抜けたあとの落ち着きというか、冷めた感じがある。




 ルシアーノ、ホアキンとふたりの彫刻家を尋ねたあとだったので、フリオ・ゴンサーレスの彫刻に興味を持った。
 フリオ・ゴンサーレスの作品は、ホアキンとはまったく違う。素材に対する向き合い方が違う、と感じた。
 フリオ・ゴンサーレスにとっては素材(鉄)は表現手段である。素材が形にかわる。そして「形」になることで素材は素材でなくなってしまう。
 フリオ・ゴンサーレスの作品を見ると、私はそのとき素材を忘れる。形に集中する。形に「意味」を求めてしまう。「これは何なのだろう」と。





 そして、ふいに「視覚の冒険」ということばが思い浮かんだ。
 目は何を見ることができるか。
 目は見ることで、美をつくりだす。
 美があって、それを目が見るのではなく、見ることによって美をつくりだす。その美の創造を具体化するのが「美術」である。
 これはボルハを挟んでホアキンと私の三人で話し合うにはおもしろいテーマになるだろうと思った。



 ホアキンの作品を見るとき、私は形ももちろん見るが、形よりも、それが鉄であることに惹かれていく。鉄が鉄のままそこに存在している。形になってしまっても、鉄が生きている。ホアキンが実際の仕事を通して知った、彼だけの鉄が姿をあらわしている。
 それは「視覚の冒険」ではなく、「素材の冒険」と呼ぶべきものかもしれない。鉄が先に動き出し、それをホアキンが追いかけている。
 そんな違いがあるのではないだろうか、と思った。


 こんなことも考えた。
 「火の鳥(不死鳥)」は、それがどこに、どのように存在するか(展示されるか)ということで、まったく姿を変える。
 展示会で「火の鳥」だけが存在するとき、それはまぎれもなく「火の鳥」である。
 ところが、そばにホアキンが立つと、「火の鳥」はパートナーになる。共同で生きる存在だ。「火の鳥」とホアキンは互いに誇らしげだ。
 工場の入り口に置かれると、それは「火の鳥」であることをやめる。子どものようなひとなつっこさをたたえる。ホアキンがそばに立って両手をあげて、工場へやってくる人を出迎えている。
 この変化は、写真を見比べてもわかる。




 鉄は、ホアキン(ホアキン一族)の個人的な「歴史」を語る。その「歴史」の一部に「芸術」が加わった。鉄が芸術として生きる力を獲得した。そうなることで普遍を獲得した。
 こういうことを私はいままで考えたことがなかった。しかし、芸術とはもともとそういうものだろう。生活、生きるということのなかから必然として生まれてくる。

 作品はどこに置かれるかによって、見え方が違う。作品自体がまわりの空気を変えてしまう、作品がある美術館を変えてしまうということもあるだろう。誰と一緒に見るか、ということでも違ってしまう。
 いろいろなときにそう感じるが、私がもっともそれを感じたのはアンチーブ(フランス)のピカソ美術館で「生きる喜び」を見たときだ。
 最初は凡庸な作品に見えた。けれど二日目に見たときは子どもたち(幼稚園児?)と一緒だった。先生がタンバリンなどの小道具をつかいながら説明している。子どもたちが、気まぐれな感じで、さわぎながら見ている。そのとき絵が輝きだした。見ながら私はわくわくしてしまった。あ、この子どもたちと一緒に「生きる喜び」は育っていく。アンチーブで生きていく、と思った。
 子どもたちが去ったあと、地中海の光が入ってくる部屋で私は長い間、その絵に見とれていた。






 ルシアーノのアトリエで作品を見たときは、まるでつくりたての料理を食べているような気持ちになった。どんなレストランより家庭料理の方がうまい、というのに似ている。ホアキンのアトリエで製作途中の作品を見たときは、料理しているそばでつまみ食いをしている喜びを感じた。完成品よりも、つまみ食いのときがわくわくする。
 ボルハのアトリエでは少しとりすました感じがした。調理のおわった厨房を覗いた感じとでも言えばいいのだろうか。「食べる(味わう)」という感じとは、少し距離があった。





(Las siguientes oraciones fueron traducidas automaticamente usando la traduccion de google.)

Valencia tiene un museo de arte similar al "MOMA" de Nueva York. "IVAM" (Institut Valenci d'Art Modern). Cuando visité, estaba haciendo funciones especiales de Julio González y Miro.



Fue estimulante con el trabajo que cocinó el lienzo de Miro y la presentación de su video de demostración. ¿El fuego es adecuado para la ciudad famosa por el "festival del fuego"?



Puede estar relacionado con el fuego, pero me atrajo la "cerámica".
La sensación áspera me recuerda a la "textura" de Miro.
El color de Miro parece muy tranquilo para mí, pero pensé que podría ser un color que pasara por "fuego", una vez horneado. En otras palabras, un color mezclado con "ceniza".
El "negro" español me parece muy característico. El negro en Inglaterra y Japón es húmedo y húmedo, pero el negro en España es feroz. Muy fuerte
El color mixto gris de Milo puede ser ligeramente diferente en el linaje. Hay una sensación de frío, ya sea inquietud después de escabullirse a través del "fuego" en alguna parte.



Después de preguntarle a Luciano, Joaquín y los dos escultores, me interesó la escultura de Julio González.
El trabajo de Julio González es bastante diferente de Joaquín. Sentí que la forma en que enfrentan el material es diferente.
Para Julio González el material (hierro) es el medio de expresión. El material cambia de forma. . Y al convertirse en "forma", el material no será material.
Mirando el trabajo de Julio González, me olvido del material entonces. Centrarse en la forma. Obtengo "significado" en forma. "¿Qué es esto?"



Y luego, me di cuenta de la palabra "aventura visual".
¿Qué puede ver el ojo?
Al mirar a los ojos, creamos belleza.
Hay belleza, no los ojos lo ven, pero crea belleza al mirar. "Arte" encarna la creación de esa belleza.
Pensé que este sería un tema interesante para discutir con Joaquín y yo, a través del Borja.

Al ver el trabajo de Joaquín, veo no solo la forma, sino que, más que la forma, me atrae que sea de hierro. El hierro está presente allí como el hierro. El hierro está vivo incluso si tiene forma. Joaquín sabe que a través del trabajo real, su único hierro está apareciendo.
Puede que no sea una "aventura visual" sino una "aventura material". Iron comenzó a moverse primero, y Joaquin lo está siguiendo.
Pensé que podría haber tal diferencia.

ambién pensé en tal cosa.
"Las aves de fuego (aves fénix)" cambian de apariencia en absoluto, en cuanto a dónde y cómo existe (expuesta).
Cuando solo existe el "pájaro de fuego" en la exhibición, es incuestionablemente "pájaro de fuego".
Sin embargo, cuando Joaquin se queda parado, "Fire bird" se convierte en compañero. Es una existencia de existencia conjunta. "Bird of Fire" y Joaquin están orgullosos entre sí.
Cuando se coloca a la entrada de la fábrica, deja de ser un "pájaro de fuego". Elogie la bondad de uno como un niño. Joaquin parado y levantando sus manos da la bienvenida a los que vienen a la fábrica.
Puedes entender este cambio comparando las fotos.


Iron cuenta la "historia" personal de Joaquin (clan Joaquin). "Arte" se agregó a una parte de la "historia". Iron ganó el poder de vivir como un arte. Al hacerlo, adquirimos universal.
Nunca pensé en tales cosas. Pero el arte es originalmente tal cosa. Nace inevitablemente de vivir, vivir.

La forma en que se ve es diferente según el lugar donde se coloque el trabajo. Algunas veces el trabajo mismo cambia el aire circundante, a veces cambia el museo donde hay un trabajo. Incluso si miras con quién eres, será diferente.
Se siente así en varias ocasiones, pero lo más que sentí fue cuando vi 'Joy of living' en el Museo Picasso en Antibes (Francia).
Al principio parecía un trabajo mediocre. Sin embargo, cuando lo vi el segundo día, estaba con niños (¿niño de kínder?). Mi maestra explica al usar accesorios como la pandereta. Los niños están saltando y mirando con una sensación caprichosa. En ese momento, la imagen comenzó a brillar. Mientras lo veía, estaba emocionado. Oh, "la alegría de vivir" crece con estos niños. Pensé que viviría con antifeed.
Cuando los niños se fueron, en la habitación donde entra la luz del Mediterráneo, me quedé marchito con la imagen durante mucho tiempo.
Cuando vi mi trabajo en el taller de Luciano, me pareció que estaba comiendo platos recién hechos. Es similar a lo que el restaurante es mejor en la cocina casera. Cuando vi un trabajo en progreso en el taller de Joaquin, sentí el placer de comer en un plato que se está cocinando. Es más emocionante que el producto terminado al pellizcar.
Me sentí un poco imitado en el atelier de Borja. Debería decir que sentí como si mirara en la cocina que cocinamos. Había una distancia de la sensación de "comer (probar)".
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ESTOY LOCO POR ESPANA(2)(冊子用バージョン)

2018-06-23 11:12:00 | estoy loco por espana
Joaquin Llorens Santa (彫刻家)
https://www.facebook.com/profile.php?id=100008207611353

(前に書いたものの短縮バージョンです。写真を一部追加しています。)



 ホアキンがフェイスブックで問いかけている。
 「何に見える?」
 「火の鳥(不死鳥)だ」
 「どうして火の鳥に見えた?」
 
 彫刻の中にある「強さ」が単なる鳥ではなく、「火の鳥」を感じさせる。炎の中で甦り、羽ばたいていく鳥。「強い」だけなら「鷲」と答えることもできるが、天を目指して飛び上がろうとする「勢い」が「火の鳥」だ。
 とても「強い」。しかも、ただ強いのではない何かがある。「鉄」でつくられているのだが、「鉄の強さ」を超える何かがある。それが何なのかは写真ではわからない。



 本物は、ホアキンのアトリエで待っていた。
 正確に言うと、アトリエのある鉄加工工場(会社)の入り口にあった。
 「火の鳥」は、子どもが喜んでいる姿、「いらっしゃい」と両手をあげて歓迎している姿にも見えた。
 とても温かい。「強さ」というよりも「素直」な力を感じた。



 アトリエには作品がたくさん並んでいる。その中央に、むき出しの金属の光を放っている「もの」がある。製作途中のようだ。
 「これ、いいなあ。大好きだなあ」
 私は思わず叫んだ。なんだか胸がどきどきした。
 近づいて、手で触れて確かめた。鉄なのに温かい。
 他の作品も見るのだが、どうしても意識がそこにもどってしまう。





 理由がわかったのは、ホアキンが工場の創業から現在までを説明してくれたときだ。ホアキン一族は工場を育て上げた。工場で生きてきた。鉄はホアキンにとっては彫刻の「素材」ではなかった。鉄は、生活だ。
 鉄を加工して生きる。金を稼ぐ。ホアキンは鉄そのものを生きている。鉄はホアキンにとって肉体そのものともいえる。
 ホアキンは鉄を「血」のように知っている。仕事を通して、鉄がどんなふうに変化するかを知り尽くしている。その知っていることが、自然に動いている。それが「強さ」になっている。
 鉄をつかって「芸術」をつくることは、ホアキン自身の肉体(いのち)を芸術にすることだ。
 私が見たのは、ホアキンの裸だったのかもしれない。何もまとっていない、生まれたばかりの裸。生まれる前の裸、とも言える。



 未完成(製作途中)の作品が生まれたままのホアキンであるように、「火の鳥」は暮らしを生き抜いてきたいまのホアキンだ。
 炎をくぐり抜け、さらに強くなって飛び立つ鳥。ホアキンは、鉄を炎で燃やし、変形させ、火の鳥そのものになる。彫刻をつくることで、不死鳥として羽ばたいていく。



 「芸術」はときに繊細で、華麗で、壊れやすい。
 ホアキンの作品に「繊細さ」がないというのではない。「繊細」は「ユーモア」に形を変え、「ユーモア」は「強さ」に変わる。それは「生き抜く」という「力」だ。「暮らし」と密着し、生きる、その「強さ」だ。
 こうした「強さ」は見るものを安心させる。
 直接見ることはできなかったが、屋外に展示されている作品には、自然と向き合うたくましさがあふれている。(写真からも感じ取れる。)



 ホアキンの多くの作品にはひとつの特徴がある。つながっている。しかも、そのつながりは「直線」である。まっすぐだ。家系図のように、まっすぐを強調する。
 「vinilo」はドーナツを半分に切って直角につなぎ合わせたような形をしている。目に入ってくる線は円、曲線なのに、強い直線が隠れている。その強さがあるから、曲線の方は安心して自分の線(形)を生きることができる。
 製作途中の作品も、半月をずらしながら真ん中に一本の直線を隠している。



 花が開くように広がりを感じさせるものがある。花びらは別れていく。しかし、その広がっていく先、到達点はひとつである。いまここには存在しない「理想」が、その先に待っている。ホアキンの半月は、それを指し示している。
 この天へ向かう上昇運動は、ホアキンの信仰と関係があるかもしれない。私は宗教には無頓着な人間なので、よくわからないが。



 
 曲線を含まない作品もある。立方体の組み合わせ。それぞれの鉄が鉄になるために集まってきているようだ。あつまることで鉄であることを確かめる。いのちを確かめる。
 ここには同じものが同じであることを知る確かさ、強さがある。
 三角形を組み合わせたものは鳥を連想させる。飛び立っていくのか、空から帰ってきたのか。それは逆の行動だが、どちらであると断定しなければ、循環する(繰り返す)運動である。






 曲線と固まりを組み合わせた作品。
 街を守る街灯か。母親に見守られる子どもたちか。
 また、幼い子どもが曲がった棒で遊んでいるような作品もある。
 彩色(塗装)されていなものの方が「温かい強さ」が強いように感じられる。なつかしさがどこかに隠れている。
 こういう作品が同居するところに、ホアキンの魅力があるのかもしれない。
 いずれにしろ、私が感じるのは、鉄が鉄であろうとする「意思」が、そこにあるといことだ。他のものにはならない。鉄でいる。それは「芸術の否定」かもしれないが、「存在する力」そのものである。
 私は「未完成の作品」、生まれてくる力に触れて、それに夢中になりすぎたかもしれない。見落としたもの、書きもらしていることがたくさんあるに違いない。




 十一月にはマドリッドで個展が開かれる。私は見に行くことはできないが、とてもたのしみである。アトリエの中央にあった作品は、どんな姿に育っているだろうか。ホアキンの作品を見ていると、鉄を加工するというよりも、「鉄を育てる」ということばをつかいたくなる。








(Las siguientes oraciones fueron traducidas automaticamente usando la traduccion de google.)

Joaquin esta pidiendo un facebook.
"?Como se ve esto?"
"Pajaro de fuego (Fenix)"
"?Como se veia como un pajaro de fuego?"
En el caso
La "fuerza" en la escultura no es solo un pajaro, sino que te hace sentir "pajaro de fuego". Un pajaro en llamas y volando. Si solo es "fuerte" puede responder "aguila", pero "impulso" tratando de saltar al cielo es "pajaro fuego".
Muy "fuerte". Ademas, hay algo que no es fuerte. Esta hecho de "hierro", pero hay algo mas alla de "la fuerza del hierro". La fotografia no sabe de que se trata.

Lo real estaba esperando en el taller de Joaquin.
Para ser exactos, estaba a la entrada de una fabrica de procesamiento de hierro (empresa) con un atelier.
Las "aves de fuego" tambien parecian ser acogedoras con sus manos levantadas con "guapo" luciendo la felicidad de un nino.
Muy calido Senti el poder "honesto" en lugar de "fuerza".

Hay muchas piezas alineadas en el atelier. En el centro hay una "cosa" que expone la luz metalica expuesta. Parece estar en proceso de hacer.
"Esto es bueno, te amo"
Llore a pesar de mi mismo. Mi corazon latio rapidamente.
Me acerque y confirme tocando con la mano. Aunque es calido, es de hierro.
Tambien veo otras obras, pero la conciencia inevitablemente volvera alli.

Es cuando Joaquin explico el motivo desde la fundacion de la fabrica hasta el presente. La familia Joaquin levanto la fabrica. Yo vivi en la fabrica. El hierro no era un material para la escultura de Joaquin. El hierro es vida
Yo proceso hierro y vivo. Gana dinero Joaquin esta viviendo el hierro en si mismo. Tambien se puede decir que el hierro es el propio cuerpo de Joaquin.
Joaquin conoce el hierro como "sangre". A traves del trabajo, se como cambia el hierro. Lo que sabes se mueve naturalmente. Es "fuerza".
Usar hierro para hacer "arte" es hacer que Joaquin sea el arte (arte).
Pude haber visto a Joaquin desnudo. Desnudo no nacio, recien nacido. Se puede decir que esta desnudo antes del nacimiento.

Como Joaquin todavia nacio en el trabajo incompleto (en el proceso de hacer), "Ave de Fuego" es ahora Joaquin quien sobrevivio a su vida.
Aves volando a traves de las llamas, cada vez mas fuertes y volando. Joaquin quema hierro con una llama, lo transforma y se convierte en un pajaro fuego. Al hacer esculturas, flap como un fenix.

El "arte" a veces es delicado, brillante y fragil.
No es que el trabajo de Joaquin no tenga "delicadeza". "Delicado" cambia de forma a "humor", "Humor" se convierte en "Fuerza". Es el "poder" que "sobrevive". Se adhiere estrechamente a la "vida" y vive, es su "fortaleza".
Tal "fuerza" alivia lo que ves.
Aunque no se pudo ver directamente, el trabajo que se exhibe al aire libre esta desbordado por la obstinacion de la naturaleza. (Tambien puedes sentirlo desde la foto).

Muchas de las obras de Joaquin tienen una caracteristica. Esta conectado. Ademas, la conexion es "linea recta". Es directo. Enfatice lo recto como en el arbol genealogico.
"Vinilo" tiene una forma que corta un donut por la mitad y lo une en angulo recto. La linea que llega a mis ojos es un circulo, una curva, pero una linea recta fuerte esta oculta. Debido a su fuerza, las curvas pueden vivir su propia linea (forma) a gusto.
Funciona en el proceso tambien oculta una linea recta en el medio mientras se desplaza la media luna.

Hay cosas que hacen que la flor se abra para que se extienda. El petalo se esta rompiendo. Sin embargo, el destino al que se extendera tiene un punto. "Ideal" que no existe ahora esta esperando por delante. La media luna de Joaquin lo senala.
Este ascenso hacia el cielo puede estar relacionado con la fe de Joaquin. No lo se porque soy indiferente a la religion.
En el caso
Algunos trabajos no incluyen curvas. Combinacion de cubos Parece que cada hierro se reune para convertirse en hierro. Asegurate de que sea de hierro reuniendolo. Verifica la vida.
Aqui esta la certeza y la fuerza para saber que las mismas cosas son lo mismo.
Las combinaciones de triangulos recuerdan a las aves. ?Volara lejos, has regresado del cielo? Es un comportamiento invertido, pero si no declaras cual es, es un movimiento de ciclismo (repeticion).

Trabaja combinando curvas y masas.
?Es una farola que protege la ciudad? Ninos viendo por las madres?
Tambien hay obras que los ninos pequenos juegan con barras torcidas.
Se siente que la "fuerza calida" es mas fuerte para los colores (pintados). La nostalgia se esconde en alguna parte.
Donde tales obras viven juntas, puede haber la atraccion de Joaquin.
En cualquier caso, lo que siento es que hay una "voluntad" de que el hierro este alli. No sera nada mas. El hierro es. Puede ser "negacion del arte", pero es "el poder de existir" en si mismo.
"obra inacabada", toque la fuerza por nacer, que podria haber sido demasiado loco. Debe haber muchas cosas que pase por alto, anotar.

Una exposicion individual se llevara a cabo en Madrid en noviembre. No puedo ir a ver, pero estoy deseando que llegue. ?Que tipo de figura era el trabajo en el centro del taller mientras crecia? Al mirar la obra de Joaquin, en lugar de procesar el hierro, quiero usar la palabra "elevar el hierro."

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ESTOY LOCO POR ESPANA(3)

2018-06-23 00:04:57 | estoy loco por espana
Borja Tr nor Su rez de Lezo (画家)
https://www.facebook.com/borja.trenorsuarezdelezo



 ボルハのアトリエは、スターバックスのある通りから少し路地に入ったところにあった。家は別のところにあるらしい。このことは何かしら、私の感想に影響を与えた。
 ルシアーノのアトリエは彼の家にあった。犬も出入りしている。暮らしの中にアトリエがある。ホアキンの場合は仕事場にアトリエがある。仕事と作品が切って離せない。ボルハは暮らしから離れた場所にアトリエを確保している。
 アトリエが孤立している、アトリエが「芸術」によって隔離されている。



 作品もまた作品そのものとして孤立している。ボルハのこころを色と形の中に隔離している。閉じこめている。とても静かだ。
 孤立しているものは、抽象的だ。触れ合いがあると、そこには自分が望まない「具象」がまぎれこむ。孤立していると、自分の「こころ」だけが相手である。ボルハは、自分自身のこころと向き合って、それを形と色にしている。
 対話があるとしても、それは自分の「こころ」との対話であり、他者ではない。



 黒、灰色、白で構成された作品がある。無彩色。ときどきそこに色が侵入してくるが、私はボルハの描く黒に惹きつけられる。
 黒は何を象徴しているのか。影だろうか、亀裂だろうか。私は亀裂だと考える。そして、では、この亀裂はどうやって生まれたのか、と思いめぐらす。
 こころの外から圧力をかける。亀裂が入る。それはこころには奥底(深淵)があるということを教えてくれる。
 こころの内側から力がかかり、亀裂が入るときは、深淵は黒い色をしていないかもしれない。燃える赤、いのちを象徴する色かもしれない。
 もちろんこころの闇が暴れ回るならば、黒い色だろうけれど。



 私は、しかし、ボルハにこころの闇があるとしても、それは暴れ回るとは考えない。少なくとも、ボルハはそれを抑制する方法を知っている。
 ボルハが描いているは、もしかすると抑制されたこころの闇を誘い出そうとする試みなのかもしれない。
 外側から圧力をかけ、こころの壁に亀裂を入れる。しかし、深淵を生きる闇は、誘い出されはしないだろう。逆に、こっちへ来いと誘うだろう。せめぎ合いがある。拮抗がある。



 以前の絵は、もっとカラフルだった。しかし、それは私には「色」には見えない。色のふりをしているが、色として生まれてきていない。あるいは色として生まれようとしてもがいているように見える。
 黒を発見することによって、ボルハは色になった、と思う。
 分節される前の色、混沌の色。それは光との出会い方次第で、どんな色にもなる。でも、色にならずに「無」のなかにとじこもる。自己完結してしまう。



 若いころはシュールレアリスム風の絵も描いていた。若いときの写真がそばにあった。時間が、このアトリエでは不思議な形で制御されている。




 パレットもひとつの作品のように思えた。
 パレットの上にあるのは絵の具であって、色ではない。色は、絵の具を抑制することで生まれる。形、あるいは黒い輪郭(亀裂)と同居することによって、色になる。
 「無分別」ということばがある。私は「未分別」と言いなおしてつかっているが、パレットはそういう世界をそのまま作品にしていると思った。

 私はちょっと意地悪な質問をしてみた。
 「曲線は描かないのか」
 「いや、描いたことがある」
 しかし、見せてもらった曲線というのは、自在にうごめく線ではなかった。「球体」だった。平面に置かれた球体。動かない赤い球。
 球は、私に言わせれば曲線ではない。完結してしまった直線である。
 やはりボルハは、完結している何かを、外から圧力をかけて破ろうとしている。そう思った。それが、いまの作品になっている。


(ホアキンの作品)

 ボルハのアトリエで、私はもうひとつ不思議なものを見た。
 ホアキンの小さなオブジェがあった。
 それはボルハのアトリエにとても似合った。
 「親和性」を感じる。
 ホアキンの作品を見ると、私は、そこに鉄が鉄のままであろうとする「意思」のようなもの、不思議な強さを感じる。
 ボルハの黒は、ホアキンの鉄である。色が色のままであろうとして、「黒」のなかへ帰り、静かに動かずにいる。色を拒む「意思」のなかに、「色」になろうとする究極の力を感じる。



 私の感想は、あまりにも抽象的かもしれない。
 しかし、抽象に触れると、ことばは抽象的に動くことしかできない。





(Las siguientes oraciones fueron traducidas automaticamente usando la traduccion de google.)


El taller de Borja estaba en un pequeño callejón de la calle de Starbucks. La casa parece estar en un lugar diferente. Esto afectó algo, mi opinión.
El taller de Luciano estaba en su casa. Los perros van y vienen. Hay un atelier en mi vida. En el caso de Joaquin, hay un atelier en el lugar de trabajo. El trabajo y el trabajo no pueden separarse. Borja asegura el estudio en un lugar alejado de su vida.
Atelier está aislado, el taller está aislado por "arte".


Las obras también están aisladas como obras propias. Separa la mente de Borja en color y forma. Es confinado. Es muy tranquilo
Lo que está aislado es abstracto. Cuando hay contacto, hay un "concreto" con el que no quiero que se interponga. Cuando está aislado, solo tu "mente" es tu oponente. Borja se enfrenta a su propia mente y le da forma y color.
Incluso si hay un diálogo, es un diálogo con mi "mente", no con otra persona.

Hay obras compuestas de negro, gris, blanco. Acromático. A veces el color entra allí, pero me atrae el negro dibujado por Borja.
¿Qué simboliza el negro? ¿Es una sombra o una grieta? Creo que es un crack Y luego, me pregunto cómo nació esta grieta.
La presión se aplica desde fuera de la mente. Hay un crack Nos dice que hay un profundo interior (abismo) en el corazón.
Cuando se aplica una fuerza desde el interior de la mente y se ingresan grietas, el abismo puede no ser de color oscuro. Rojo encendido, puede ser el color que simboliza la vida.
Por supuesto, si la oscuridad del corazón se desboca, será de un color negro.

Yo, sin embargo, tengo la oscuridad de Borja, pero no creo que se convierta en un alboroto. Al menos, Borja sabe cómo reprimirlo.
La pintura de Borja puede ser un intento de invitar a la oscuridad de una mente posiblemente reprimida.
Aplica presión desde afuera y rompe la pared de la mente. Pero la oscuridad que vive en el abismo no se desencadenará. Por el contrario, los invitaré a venir aquí. Hay una cura Hay antagonismo

La imagen anterior era más colorida. Pero no se ve como "color" para mí. Pretendo ser de color, pero no he nacido como un color. O parece estar luchando por nacer como un color.
Al descubrir el negro, creo que Borja se ha convertido en un color.
Colores antes de ser segmentado, color del caos. Depende de cómo te encuentres con la luz, se convierte en cualquier color. Pero, no se convierte en un color y cabe en "no". Es autónomo.

Cuando era joven también pinté pinturas surrealistas. Había una foto cuando era joven. El tiempo está controlado de una manera extraña en este atelier.

La paleta parece una pieza.
Lo que está en la paleta es una pintura, no un color. El color nace al suprimir la pintura. Se convierte en un color al vivir con una forma o un contorno negro (crack).
Hay una palabra "indiscriminada". Lo utilicé de nuevo como "no separado", pero pensé que la paleta formaba un mundo tal como es.

Le hice una pregunta algo significativa.
"No dibujar curvas?"
"No, lo he dibujado"
Sin embargo, la línea curva que mostré no era una línea extraña. Fue "esfera". Una esfera colocada en un plano. Una bola roja inmóvil.
La pelota no es una curva si me dices. Es una línea recta que se ha completado.
Después de todo, Borja está tratando de romper algo que se completa desde afuera con presión. Eso pensé Ese es el trabajo actual.

En el atelier de Borja, vi otra cosa extraña.
Había un pequeño objeto de Joaquín.
Realmente combinaba con el taller de Borja.
Siento "afinidad".
Al observar el trabajo de Joaquín, siento una fuerza extraña, algo así como 'intención' en la que el hierro seguirá siendo hierro.
Negro de Borja es el hierro de Joaquín. Como es probable que el color sea de color, regresa a "negro" y no se mueve silenciosamente. Siento el máximo poder para intentar convertirme en "color" entre "intención" de rechazar el color.

Mi impresión puede ser muy abstracta.
Pero cuando tocas la abstracción, las palabras solo pueden moverse de manera abstracta.
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ESTOY LOCO POR ESPANA(2)

2018-06-22 00:04:09 | estoy loco por espana
Joaquin Llorens Santa (彫刻家)
https://www.facebook.com/profile.php?id=100008207611353





 ホアキンがフェイスブックで問いかけている。
 「何に見える?」
 「火の鳥だ」
 「どうして火の鳥に見えた?」
 うーむ。
 彫刻の中にある「強さ」が単なる鳥ではなく、「火の鳥」を感じさせる。炎の中で甦り、羽ばたいていく鳥。「強い」だけなら「鷲」と答えることもできるが、天を目指して飛び上がろうとする「勢い」が「火の鳥」だ。
 とても「強い」ものを持っている。
 だが、それだけではない。
 ホアキンの作品は不思議な強さを感じさせる。ただ強いのではない何かがある。「鉄」でつくられているのだが、「鉄の強さ」を超える何かがある。



 本物を見てみたい。
 カウデテという街(村?)がどこにあるかもわからないまま、見に行きたいとメールした。どこで見ることができるか。できればアトリエ(taller=タジェール)も見たい。
 「バレンシアからバスは出ているか。どれくらい時間がかかるか」
 「それじゃあ、迎えに行く」
 一時間くらいだというので好意に甘えることにした。しかし実際に行ってみると、時速130キロくらいで一時間半以上かかった。
 「タジェールだ。ここで仕事をしている」
 大きな工場(仕事場)のような感じ。工場ではなく、アトリエを見たいといったつもりなのだが。ルシアーノには「タジェール」で通じたのだが。
 扉を開けて入ると、入り口に「火の鳥」がある。「火の鳥」が私を出迎えてくれた。
 しかし、この「火の鳥」は不思議だ。
 「火の鳥」には違いないのだが、過激な印象は少ない。
 木のようにも、子どもがバンザイをしているようにも見える。中央の三角は顔。突き出ているのは鼻だ。鼻から上に伸びる曲線、顔から直接伸びていく二本の腕。その三本の曲線の形があたたかい。足元の小石のようなものは、一種のサイン(花押)だ。
 こころをあたたかくさせるものがある。
 そういうことを思うと同時に、作品以外のことも感じた。
 従業員の作品を玄関に飾っておいてくれるか。芸術に寛容な会社だ。
 何も知らない私は、そんなふうに思った。



 右側の扉を開けながら、
 「ここがダジェール」
 と、もう一度ホアキンが言う。
 仕事場にアトリエ? 従業員のために、そういう心配りをしてくれるのか。いい会社だなあ。うらやましいなあ。
 明かりをつけ、窓のシャッターをあける。
 作品がたくさん並んでいる。その中央に、むき出しの金属の光を放っている「もの」がある。



 「これ、いいなあ。大好きだなあ」
 思わず叫んだ。近づいて、手で触れて確かめた。鉄なのにあたたかい。
 フェイスブックでは見たことがない作品に夢中になった。
 まだ製作途中だと言う。十一月にマドリッドで個展を開く。そのための作品だ。
 完成していない作品か。でも、なぜ惹きつけられたのか。惹きつけられたを通り越して、どきどきしてしまったのだ。
 他の作品も見るのだが、どうしても意識がそこにもどってしまう。
 赤、青で彩色(塗装?)された作品もある。
 「この作品も、色を塗るのか」
 「そうだ」
 あ、そうか。どきどきしたのは「色」がないからか。むき出しだからか。裸の状態だからか。
 私の反応が伝わったのか。
 「ほら、これはセックスしているふたり。おっぱいとペニスがあるだろう?」
 にやりと笑う。
 作品は抽象的だが、具象から抽象へ変化していく彫刻家なのだ。具象は「肉体」と言い換えることができる。肉体から精神へ動いていく彫刻家。肉体は交わり、そこで何かを吸収し、それを糧に「火の鳥」になる。

 しばらくすると、壁にかかっている写真の説明をしてくれた。
 「この男の父親が、この男。そして、この男の父親がこれ。つまり、祖父だ」
 工場の創業と家系を語っている。
 何のために?
 それから工場内を案内してくれた。鉄の型枠をつくっている。ガラス瓶の型枠だ。つくられた瓶も見せてくれた。それからドアとか門扉とかも。天上には何トンもある鉄の梁。という具合に工場を見て回って、私は、ホアキンが創業者につながる人間なのだとはじめて気づいた。「私の祖父、私の父(両親)」とホアキンは言ったのだろうが、私は「私の」ということばを聞き逃している。「彼の両親、そのまた両親」、あるいは「彼の息子、さらにその彼の息子」と聞きとっていた。
 気づいた瞬間、私の中でことばが動き出した。
 この「タジェール」にはホアキン一族の血が流れている。ホアキンは、その血を感じながら生きている。いまは、このタジェールの社長なのだ。
 鉄はホアキンにとって「素材」ではなかった。鉄は生活だ。
 鉄を加工して生きる。金を稼ぐ。ホアキンは鉄そのものを生きている。鉄はホアキンにとって肉体そのものともいえる。
 別な言い方ができる。
 ホアキンは鉄を「血」のように知っている。
 それが動いている。
 鉄をつかって「芸術」をつくることは、ホアキン自身の肉体(いのち)を芸術にすることだ。
 私が見たのは、ホアキンの裸だったのかもしれない。何もまとっていない、生まれたばかりの裸。生まれる前の裸、とも言える。

 「火の鳥」は、ある意味ではホアキンそのものだ。
 炎をくぐり抜け、さらに強くなって飛び立つ鳥。ホアキンは、鉄を炎で燃やし、変形させ、火の鳥そのものになる。
 ここにはゆるぎない強さがある。過激さ、あるいは華麗さとは別の、どっしりとした強さだ。何があっても、このいのちをなくさない強さというのか。
 私はその「強さ」のなかに、何か「やさしさ」と呼びたいものを感じる。強靱だけではない静かな強さ。
 「火の鳥」とわかりながら、「火の鳥」以外のものを感じてしまう。

 日常(暮らし)にあるものをつかって芸術を生み出す、ということを考えるとき、思い浮かぶのはピカソである。ピカソは自転車のサドルとハンドルを組み合わせて、牛の頭をつくった。
 しかし、ホアキンのやっていることは、そういうこととはかなり違う。
 「暮らし」を利用する(加工する)ではなく、むしろ「暮らし」そのものになる。「芸術」を暮らしになじませる、暮らしになじんだものを「芸術」にみがきあげると言い換えた方がいいかもしれない。
 あるいは、日本でむかしブームになった「民芸/工芸」に通じる美しさ、と言えばいいのか。たとえて言えば、食器(什器)のようなもの。
 什器はどんなに美しくても、「肉体」になじまないと意味がない。暮らしの中で使えないと意味がない。
 彫刻は暮らしの中でつかうものではないし、ホアキンが「肉体」になじむ彫刻を目指しているかどうかはわからないが、私が感じた強さとは「暮らし(いのち)」と密着する強さだ。
 「壊れやすさ」とは対極にある強さ。生き抜いてきた強さ。(これは「火の鳥」になる。)
 生き抜くことではじめて獲得できる、やさしさという強さ。(この視点から見れば、「火の鳥」はバンザイをする子どもになる。)



 ホアキンの多くの作品にはひとつの特徴がある。つながっている。しかも、そのつながりは「直線」である。まっすぐだ。家系図のように、まっすぐさを強調する。
 「vinilo」はドーナツを半分に切って直角につなぎ合わせたような形をしている。目に入ってくる線は円、曲線なのに、強い直線が隠れている。その強さがあるから、曲線の方は安心して自分の線(形)を生きることができる。
 組み合わせがある。統一と拡散(自由)の組み合わせ。離れながらも統一する。統一を生きながらも離れている。自由を含んでいる。離れて動いていくものも、必ず中心へもどってくる。
 それがホアキンの理想の暮らし、暮らしの理想なのかもしれない。
 その思想が、具体的な形になっている。
 私がどきどきしてしまった作品も、半月をずらしながら真ん中に一本の直線を隠している。


 
 半月を繰り返す作品には、花が開くように広がりを感じさせるものがある。花びらは別れていく。しかし、その広がっていく先、到達点はひとつである。いまここには存在しない「理想」が、その先に待っている。ホアキンの半月は、それを指し示している。




 曲線を含まない作品もある。立方体の組み合わせ。それぞれの鉄が鉄になるために集まってきているようだ。あつまることで鉄であることを確かめる。いのちを確かめる。
 ここには同じものが同じであることを知る確かさ、強さがある。
 それは奇をてらったものではなく、あくまで「なじみ」に通じるものである。同じであることを確認できる安心感がある。
 三角形を組み合わせたものは鳥を連想させる。飛び立っていくのか、空から帰ってきたのか。それは逆の行動だが、どちらであると断定しなければ、循環する(繰り返す)運動である。




 曲線と固まりを組み合わせた作品。
 街を守る街灯か。母親に見守られる子どもたちか。
 また、幼い子どもが曲がった棒で遊んでいるような作品もある。
 彩色(塗装)されていなものの方が「温かい強さ」が強いように感じられる。なつかしさがどこかに隠れている。
 こういう作品が同居するところに、ホアキンの魅力があるのかもしれない。
 私は「未完成の作品」に触れて、生まれてくるちからに触れて、それに夢中になりすぎたかもしれない。見落としたもの、書きもらしていることがたくさんあるに違いない。





 ある作品を理解することと、そのひとを個人的に知ること、生活を知ることは無関係である。作者と切り離して作品を見るべきである、というのは私の基本的な態度だけれど、ホアキンの作品に限って言えば、彼の仕事を知ることで理解は深まったと思った。
 「四十年ほど前からつくり始めた。ほとんど独学だ」とホアキンは言った。いつから工場で働いているかは聞かなかったが、仕事でなじんだ鉄のいのちが、「なじみ」によっていっそう強く逞しくなっていると感じた。
 写真を通して「これはなんだろう」と感じていたものを、実際の暮らしに触れながら確かめることができた。

 カウデテにある水彩画家のコレクションを見た。小さな街だが、文化を守っている。いくつもの教会も見た。ファサードは「絵」だった。
 ホアキンは帰りも車で送ってくれた。途中で小さな城に寄った。スペインの人も来ないような古城の跡。アンダルシアの光が強烈だった。

 「また見に来たいなあ」と言ったら「今度は週末にして」と念を押された。仕事を休んで案内してくれたのだった。ありがとう、ホアキン。私のスペイン語に、ゆっくりと、明瞭なことば、鉄のように強い響きの声で答えてくれた。そのことも忘れることができない。
 マドリッドで十一月に開かれる個展に行けないのは残念だ。ひとりでも多くの人に見てもらいたい。そして、ホアキンの彫刻の中に生きているいのちの強さ、鉄のやさしさを感じてもらいたい。



*

yo pienso que el hierro no es un material de escultura para Joaquin.

para el, el hirro es su vida.
el gana dinero con hierro. esta viviendo procesando hierro.
le enfrenta firmemente al hierro.
por el hierro lo hace fuerte.

sus estatulas tienen muchos fertes, porque el hirro es su vida.
y su vida es su arte.
su arte es fuerte.

al procesar hierro, se convierte en un fénix.
fenix o un pajaro de fuego nunca nunca muere.
fenix revivirá del fuego.
Joaquin es el fenix de hierro.





*


(Las siguientes oraciones fueron traducidas automáticamente usando la traducción de google.)

Joaquin está pidiendo en facebook.
"¿Qué crees que representa esta escultura?"
"Un pájaro de fuego o fenix"
"¿Cómo se veía como un pájaro de fuego?"
Bien.
La "fuerza" en la escultura no es solo un pájaro, sino que te hace sentir "pájaro de fuego". Un pájaro en llamas y volando. Si solo es "fuerte" puede responder "águila", pero "impulso" tratando de saltar al cielo es "pájaro fuego".
Tengo unos muy "fuertes".
Pero eso no es todo.
El trabajo de Joaquín me hace sentir una fuerza extraña. Hay algo que no solo es fuerte. Está hecho de "hierro", pero hay algo más allá de "la fuerza del hierro".

Quiero ver lo real.
No sabía dónde es caudate, Pero envié un mensaje que quería ir a ver tus obras. ¿Dónde puedo verlo? Me gustaría ver un taller , si es posible.
"¿Hay un autobús desde Valencia, y cuánto tiempo tomará?"
"Bueno, entonces, te recogeré".
Como se dice que es alrededor de una hora, estoy dispuesto a darles favores. Sin embargo, en realidad tomó aproximadamente una hora y media a aproximadamente 130 kph.
"este es taller, estoy trabajando aquí".
Se siente como una gran fábrica (taller). Tenía la intención de ver el taller, no la fábrica. Pude comunicarme con Luciano con "taller".
Abra la puerta e ingrese "un pájaro de fuego" en la entrada. "un pájaro de fuego" me dio la bienvenida.
Sin embargo, este "un pájaro de fuego" es extraño.
Debe ser un "pájaro de fuego", pero hay poca impresión radical.
Como un árbol, parece que un niño está levantando tus manos y regocíjate.
El triángulo central es la cara. Es una nariz que sobresale. Una curva que se extiende hacia arriba desde la nariz, dos brazos que se extienden directamente desde la cara. La forma de las tres curvas es cálida. Una cosa como un guijarro a tus pies es una especie de signo (empuje de flores).
Hay algo que hace que el corazón se caliente.
Al mismo tiempo, sentí algo más que el trabajo.
¿Decorarás el trabajo del empleado en la entrada? Es una compañía que está abierta al arte.
No sabía nada, pensé así.

Al abrir la puerta correcta,
"Este es taller"
Joaquin dice otra vez.
Atelier para el lugar de trabajo? ¿Harás tanta ansiedad por los empleados? Es una buena compañía. Estoy celoso
Enciende la luz y abre el obturador de la ventana.
Hay muchas piezas alineadas. En el centro hay una "cosa" que expone la luz metálica expuesta.
"Esto es bueno, te amo"
Grité inesperadamente. Me acerqué y confirmé tocando con la mano. Aunque es hierro, es cálido.
En facebook, me volví loco por el trabajo que nunca había visto.
Él dice que todavía está en el proceso de hacerlo. En exposición individual en Madrid en noviembre. Es un trabajo para eso.
¿Es un trabajo que no se ha completado? Pero, ¿por qué te has sentido atraído? Estaba emocionado cuando pasó la actitud atraída.
También veo otras obras, pero la conciencia inevitablemente volverá allí.
Algunos pintados de rojo y azul (¿pintados?).
"¿Pinta esta pieza también?"
"Eso es correcto".
Oh, ya veo. ¿Notaste que no hay "color"? Porque está expuesto? Porque está en un estado desnudo?
¿Mi reacción ha sido transmitida?
"Oye, ¿estos dos tienen relaciones sexuales, tienen tetas y pene?"
Me río muy bien.
Aunque el trabajo es abstracto, es un escultor que cambia de concreto a abstracto. El concreto se puede parafrasear como "cuerpo". Un escultor moviéndose del cuerpo al espíritu. El cuerpo se cruza, absorbiendo algo allí y convirtiéndose en "un pájaro de fuego" con él como fuente.

Después de un rato, explicó la imagen en la pared.
"El padre de este hombre es este hombre, y el padre de este hombre es este, es decir, él es mi abuelo".
Estoy hablando de la base de mi fábrica y mi línea familiar.
Para que?
Luego me llevaron a la fábrica. Estoy haciendo un encofrado de hierro. Es un encofrado de una botella de vidrio. También mostró la botella hecha. Luego también hay puertas y portones. Hay toneladas de vigas de hierro en el cielo. Fui a mirar la fábrica y noté por primera vez que Joaquín era un ser humano conectado con el fundador. Me dijeron que "mi abuelo, mi padre (padres)" Joaquín, pero me perdí la palabra "mío". "Sus padres, sus padres" o "su hijo, e incluso su hijo".
En el momento en que me di cuenta, las palabras comenzaron a moverse en mí.
La sangre del clan Joaquín fluye en este "Tigre". Joaquin está vivo mientras siente su sangre. Es el presidente de este Tigre.
El hierro no era "material" para Joaquín. El hierro es vida
Yo proceso hierro y vivo. Gana dinero Joaquin está viviendo el hierro en sí mismo. También se puede decir que el hierro es el propio cuerpo de Joaquín.
Puedo decir algo diferente.
Joaquin conoce el hierro como "sangre".
Eso es conmovedor.
Usar hierro para hacer "arte" es hacer que Joaquín sea el arte (arte).
Pude haber visto a Joaquin desnudo. Desnudo no nació, recién nacido. Se puede decir que está desnudo antes del nacimiento.

"Bird of Fire" es, en cierto sentido, Joaquin.
Aves volando a través de las llamas, cada vez más fuertes y volando. Joaquín quema hierro con una llama, lo transforma y se convierte en un pájaro fuego.
Aquí hay una fortaleza fuerte. Es una fuerza masiva que no sea extremismo o esplendor. No importa lo que suceda, ¿es la fuerza para no perder esta vida?
Siento lo que quiero llamar algo de "bondad" en su "fortaleza". Fuerza silenciosa no solo dura.
Mientras entiendo "pájaro de fuego", siento algo que no sea "pájaro de fuego".


Yo proceso hierro y vivo. Gana dinero Joaquin está viviendo el hierro en sí mismo. También se puede decir que el hierro es el propio cuerpo de Joaquín.
Puedo decir algo diferente.
Joaquin conoce el hierro como "sangre".
Eso es conmovedor.
Usar hierro para hacer "arte" es hacer que Joaquín sea el arte (arte).
Pude haber visto a Joaquin desnudo. Desnudo no nació, recién nacido. Se puede decir que está desnudo antes del nacimiento.

Al pensar en usar el arte que está en la vida cotidiana para crear arte, es Picasso lo que viene a la mente. Picasso hizo una cabeza de vaca combinando una silla de montar y una bicicleta.
Pero lo que Joaquin está haciendo es bastante diferente de eso.
En lugar de usar "vivir" (procesar), es más bien "vivir" por sí mismo. Puede ser mejor parafrasear el hecho de que el "arte" se adaptará a la vida, elevando lo que es familiar a la vida al "arte".
¿O puede decir que es una belleza que lleva a "artes / artesanías populares" que alguna vez se convirtieron en un boom en Japón? Por ejemplo, es como una vajilla (accesorio).
No importa cuán hermoso sea el accesorio, no tiene sentido a menos que te adaptes al "cuerpo". No tiene sentido a menos que puedas usarlo en tu vida.
La escultura no es algo que se pueda hacer en la vida cotidiana, y no sé si Joaquín aspira a una escultura que se adapte al "cuerpo", pero la fuerza que sentí fue la fuerza para estar en contacto con la "vida".
"Fragilidad" es la fuerza opuesta. Fuerza que sobrevivió (Este será "Firebird").
La fuerza de gentileza que puedes ganar por primera vez al sobrevivir. (Desde este punto de vista, "aves de fuego" serán niños que tocan banzai).

Muchas de las obras de Joaquín tienen una característica. Está conectado. Además, la conexión es "línea recta". Es directo. Enfatice la rectitud, como un árbol genealógico.
"Vinilo" tiene una forma que corta un donut por la mitad y lo une en ángulo recto. La línea que llega a mis ojos es un círculo, una curva, pero una línea recta fuerte está oculta. Debido a su fuerza, las curvas pueden vivir su propia línea (forma) a gusto.
Hay una combinación Combinación de unificación y difusión (libertad). Mientras desacopla, unifica. Mientras viven en unidad, están muy separados. Incluye libertad. Incluso aquellos que se separan seguramente regresarán al centro.
Puede ser la vida ideal de Joaquín, el ideal de la vida.
Esa idea está en una forma concreta.
Mi trabajo golpeado también oculta una línea recta en el medio mientras se desplaza la media luna.

Algunas obras que repiten media luna tienen algo que hace que la flor se abra y se extienda. El pétalo se está rompiendo. Sin embargo, el destino al que se extenderá tiene un punto. "Ideal" que no existe ahora está esperando por delante. La media luna de Joaquin lo señala.
En el caso
Algunos trabajos no incluyen curvas. Combinación de cubos Parece que cada hierro se reúne para convertirse en hierro. Asegúrate de que sea de hierro reuniéndolo. Verifica la vida.
Aquí está la certeza y la fuerza para saber que las mismas cosas son lo mismo.
No es algo extraño, lleva a la "familiaridad" a la última. Hay una sensación de seguridad de que puede confirmar que es lo mismo.
Las combinaciones de triángulos recuerdan a las aves. ¿Volará lejos, has regresado del cielo? Es un comportamiento invertido, pero si no declaras cuál es, es un movimiento de ciclismo (repetición).

Trabaja combinando curvas y masas.
¿Es una farola que protege la ciudad? Niños viendo por las madres?
También hay obras que los niños pequeños juegan con barras torcidas.
Se siente que la "fuerza cálida" es más fuerte para los colores (pintados). La nostalgia se esconde en alguna parte.
Donde tales obras viven juntas, puede haber la atracción de Joaquín.
Toqué una "obra inacabada" y toqué el nacimiento de mi nacimiento, tal vez fui eclipsado por eso. Debe haber muchas cosas que pasé por alto, anotar.

*

Es irrelevante entender un trabajo, conocer a la persona personalmente, conocer la vida. Es mi actitud básica que debas ver el trabajo por separado del autor, pero solo en el trabajo de Joaquín, pensé que la comprensión se profundizaba al conocer su trabajo.
"Empecé a hacerlo hace unos cuarenta años, soy casi autodidacta", dijo Joaquín. No pregunté cuando trabajaba en la fábrica, pero sentí que la vida de la plancha familiarizada con el trabajo se hacía cada vez más fuerte por la "familiaridad".
A través de la fotografía, pude determinar lo que sentí como "qué es esto" tocando la vida real.

Vi una colección de acuarelas en Qaede. Es una ciudad pequeña, pero protege la cultura. También vi varias iglesias. La fachada era "imagen".
Joaquin también me envió a casa a mi regreso. Dejé caer un pequeño castillo en el camino. Huellas de un viejo castillo que la gente en España tampoco vendrá. La luz de Andalucía fue intensa.

Cuando dije "quiero volver a verlo nuevamente", me conmovió "por favor hazlo este fin de semana". Tomó un descanso del trabajo y me guió. Gracias, Joaquin. Respondió lentamente, claramente, en una voz de fuerte resonancia como el hierro, en mi español. No puedo olvidar eso.
Es una lástima que no pueda ir a una exposición individual en noviembre en Madrid. Me gustaría que muchas personas lo vieran. Y, quiero que sientan la fuerza de la vida viviendo en la escultura de Joaquín, la dulzura del hierro.





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ESTOY LOCO POR ESPANA(1)

2018-06-21 00:03:31 | estoy loco por espana
 Estoy loco por Picasso. (私はピカソに夢中である。)それが高じて、いろいろなスペインの美術を見るようになった。
 ミロ、ダリ、ゴヤ、ベラスケスとスペインの芸術家は大勢いる。そのどれもがすばらしいが、フェイスブックに発表されている現代の作家にも「おもしろいなあ」と感じるものが多い。
 なんとかコンタクトをとって、彼らの作品を見に行くことにした。写真だけではわからない何かがある。というよりも、写真を見ているだけでは感想が書きにくい。実際に、肉眼で、そこにある作品を見てみたい。
 一日ひとり、合計五人の作品を見た。
 その感想と、大好きなピカソ、プラド美術館、ティッセン美術館の印象も書いてみることにする。



Luciano Gonzalez Diaz (彫刻家)
https://www.facebook.com/luciano.gonzalezdiaz





 ルシアーノの作品からは、音が聞こえる。ブランコに乗っている少女。少女がブランコを揺らしているのか、ブランコが少女を揺らしているか。ブランコが揺れるとき、肉体と空気が触れ合う。そこから音が聞こえるのか。
 この作品は、驚いたことに、実際に動く。揺れる。
 彫刻は動かないのが基本だと思う。形の中に「動き」を感じさせる要素を盛り込む。たとえばロダンは筋肉を強調することで「考える人」の肉体さえ動きのあるものにした。ルシアーノが好きだというジャコメッティは、逆に「肉体」を削ぎ落とし、そうすることで精神が動いているということをあらわしたと、私は感じている。
 動きを彫刻に取り入れたのはなぜなのか。






 彫刻が動く。動くといっても、「肉体」の形は動かない。動かないまま、動く、という矛盾が、この作品にはある。この矛盾が、私を刺戟するのか。
 ルシアーノの作品は、ジャコメッティの作品がそうであるように、無駄な肉体を持っていない。細い。その少女がブランコに乗るのは、どういうときだろう。何を考え、何を感じているのか。
 ブランコの座面の高さが不安を引き出す。大地に足がとどかない。こういうところで揺れるのは、気持ちが安定しない。
 しかし、私が最初に感じたのは、そういう「精神性」ではない。
 もっと単純に、「音が聞こえる」という印象があった。「音」はどこから生まれているのか。それを知りたいと思った。





 ルシアーノのアトリエはバレンシアの郊外にあった。小さなプールが青い水をたたえ、16歳になるジャックラッセルが、自由に歩き回っている。木々がある。自然の光があふれている。アトリエは自然に開かれた状態だった。
 窓辺には、三日月のなかで肉体をそらせるダンサー。月の光を浴びている。あるいはしなやかな肉体が月の清らかな光を引き寄せている。このアトリエにぴったりあっている。外と呼吸している。





 最初に、あ、これはおもしろいなあ、音ではなく音楽が聞こえるなあ、と感じたのがブロンズのダンサーがリボンと一体になっている彫像だ。
 細いブロンズと、平たい鉄のリボン。その組み合わせがおもしろい。ブロンズ像はただ細いだけではない。ジャコメッティのように硬質ではない。リボンの自在な曲線に合わせるようにしなやかさを生きている。片足で立っているのだが、上への動きが強くて倒れるという感じはまったくない。伸び上がり、より自由になる。リボンとブロンズの肉体がダンスをしている。ダンサーなのだからダンスをするのはあたりまえなのかもしれないが、あっ、ダンスをしていると感じる。
 同時に、ここに音楽があると感じた。
 ブロンズと鉄、肉体とリボン、細さと薄さは似ているが、薄い鉄板は同時に広さを持っている。
 「音が聞こえる、とずっと感じていたが、音ではなく音楽なのだと気づいた」
 私がそういうと、
 「よく見て。赤いリボンはト音記号だ」
 ルシアーノが答える。
 ルシアーノは彫刻で音楽をやっていたのだ。






 私は、私のことばが突然動き始めるのを感じた。拙いスペイン語、文法的には間違いだらけのスペイン語なのだが、言いたいことがあふれてきた。
 新体操の演技のようにリボンを振りながら踊る彫像を見たときだ。
 足と手が、それまでの作品と違っている。ブロンズではない。鉄である。しかもそれはバネのように、螺旋のように、うねりながら「肉体」になっている。螺旋を描きながら動いている。
 筋肉はもちろんそんなふうには動かない。縦や横には動いても、螺旋を描いて動くことはない。
 しかし、それを見た瞬間に、私自身の肉体が、バネのように動くのを感じた。無意識に、私の肉体が彫刻の肉体を真似ようとしている。いや、真似ている。肉体がバネのように凝縮し、それから伸び上がる。新しい肉体に生まれ変わる。
 ブロンズよりも強靱だ。
 リボンの中にダンサーの肉体があり、ダンサーの中にリボンの動きがある。筋肉とリボンが一体になっている。そして音楽を生きている。新しいハーモニーが生まれてくる。
 筋肉とリボンは異質のものである。しかし、共通するものを見つけ、それを手がかりに新しいいのちを生み出している。
 生きている。
 生きているから、自然に「音楽」が生まれてくる。「動き」が創り出す音楽。肉体の動きをととのえるリズムとハーモニー。変化するいのちの強さがある。








 途中、ほんの少しだけれどブロンズの鋳型のあとを削る工程を実演してみせてくれた。これもかけがえのない体験だった。







(Las siguientes oraciones fueron traducidas automáticamente usando la traducción de google.)

Luciano Gonzalez Diaz (escultor)
https://www.facebook.com/luciano.gonzalezdiaz

De las obras de Luciano escuchas el sonido. Una niña en un columpio. ¿La niña está balanceando el columpio, o el columpio está sacudiendo a la niña? Cuando el columpio tiembla, el cuerpo y el aire tocan. ¿Oyes el sonido de allí?
Para mi sorpresa, este trabajo realmente se mueve. Para sacudirse.
Creo que la escultura es básica para no moverse. Incluye factores que te hagan sentir "movimiento" en la forma. Por ejemplo, Rodin enfatizó los músculos, haciendo que el cuerpo de la "persona pensante" se pueda mover. Siento que Giacometti, que le gusta Luciano, a la inversa rasca el "cuerpo" y muestra que el espíritu se mueve al hacerlo.
¿Por qué incorporaste el movimiento a la escultura?

La escultura se mueve. Incluso si se mueve, la forma del "cuerpo" no se mueve. Hay contradicción en este trabajo que se mueve sin moverse. ¿Esta contradicción me estimula?
El trabajo de Luciano no tiene una carne inútil, como lo son las obras de Giacomett. Es delgado ¿Cuándo la niña monta un columpio? ¿Qué piensas y qué sientes?
La altura de la superficie del asiento del columpio provoca ansiedad. Mis pies no llegarán al suelo. El temblor en un lugar así, los sentimientos no son estables.
Sin embargo, lo que primero sentí no es tal "espiritualidad".
Más simplemente, tuve la impresión de que "escuché el sonido". ¿De dónde nació el "sonido"? Yo quería saber eso.

El taller de Luciano estaba en las afueras de Valencia. Una pequeña piscina paga agua azul y Jack Russell, que tiene 16 años, vaga libremente. Hay árboles La luz natural se está desbordando. El taller estaba abierto a la naturaleza.
En el lado de la ventana hay una bailarina que desvía el cuerpo en la luna creciente. Estoy bañado en la luz de la luna. O la carne flexible atrae la luz pura de la luna. Se adapta perfectamente a este estudio. Estoy respirando afuera.

Primero, ah, esta es una escultura interesante, una bailarina de bronce se une con una cinta, sentí que puedo escuchar música, no sonido.
Un bronce delgado y una cinta plana de hierro. Esa combinación es interesante. La estatua de bronce no es solo delgada. No es rígido como Giacometti. Vivo la flexibilidad para adaptarse a la curva libre de la cinta. Estoy parado con un pie, pero no hay sensación de que el movimiento hacia la parte superior sea fuerte y colapsará. Crecerá y se volverá más libre. La cinta y la carne de bronce están bailando. Como es bailarín, puede ser natural bailar, pero siento que estoy bailando.
Al mismo tiempo, sentí que había música aquí.
El bronce y el hierro, el cuerpo y la cinta, la delgadez y la delgadez son similares, pero las planchas de hierro delgadas tienen el mismo tamaño al mismo tiempo.
"Sentí que podía escuchar el sonido, pero noté que era música, no música".
Si digo eso,
"Mira de cerca, la cinta roja es un signo tónico".
Luciano responde.
Luciano estaba haciendo música con escultura.

Sentí que mis palabras comenzaron a moverse de repente. Es un mal español, gramaticalmente un español lleno de errores, pero lo que quiero decir es desbordante.
Es cuando vi una estatua bailando mientras movía una cinta como la ejecución de la gimnasia rítmica.
Las piernas y las manos son diferentes de los trabajos anteriores. No es bronce Es hierro. Además, como un resorte, como una espiral, se hincha y se convierte en "cuerpo". Me estoy moviendo mientras dibujo una espiral.
Los músculos, por supuesto, no funcionarán de esa manera. Incluso si se mueve vertical u horizontalmente, no se moverá con una espiral.
Pero en el momento en que lo vi, sentí que mi propio cuerpo se movía como un resorte. Inconscientemente, mi cuerpo está tratando de imitar el cuerpo de la escultura. No, ellos están imitando. El cuerpo se condensa como un resorte y luego se estira. Renacer en un nuevo cuerpo.
Es más duro que el bronce.
Hay un cuerpo de bailarina en la cinta, y hay un movimiento de la cinta dentro de la bailarina. El músculo y la cinta están unidos. Y estoy viviendo la música. Nace una nueva armonía.
Los músculos y las cintas son heterogéneos. Sin embargo, encontramos cosas comunes y creamos nuevas vidas como pistas.
Está vivo.
Porque estoy vivo, la "música" es algo natural. Música creada por "movimiento". El ritmo y la armonía del movimiento del cuerpo. Hay fuerza de vida para cambiar.
En el camino, ella me mostró el proceso de cortar el molde de bronce después de unos pocos aunque era solo un poco. Esta fue también una experiencia irremplazable.
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20 詩はどこを……(嵯峨信之を読む)

2018-06-20 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
20 詩はどこを……

詩はどこをさまよい歩くのか
自分に帰るために 自分から遠ざかるために
夜はぼくの心のなかに眠る

 「さまよい歩く」の主語は「詩」である。「帰る」「遠ざかる」という反対の動きをする主語は何か。やはり「詩」である。だから二行目の「自分」というのは「詩」そのもののことである。
 三行目は、ゆっくり読みたい。唐突に出てくる「ぼく」と二行目の「自分」との関係はどうなっているのか。
 「夜は」ということばは「は」という助詞のために主語のようにも読むことができる。「夜は」「眠る」。「夜」が「ぼくの心のなかに」「眠る」。「ぼくの心」は「眠る」場所をあらわす。
 でも、主語は「夜」でいいのか。
 一行目、二行目の主語は「詩」であった。三行目も「詩」が主語なのだ。
 「詩」は「夜には(夜になれば)」さまよい歩くのをやめ、「ぼくの心のなか」で「眠る」。「ぼくの心」は、では、「詩」が「帰る」場所なのか、それとも「遠ざかる」場所なのか。
 区別はつかない。

 「詩」と「ぼく」を入れ替えて、こう読み直してみるのは、どうだろうか。

「ぼく」はどこをさまよい歩くのか
「ぼく」に帰るために 「ぼく」から遠ざかるために
「ぼくは」夜は詩の心のなかに眠る

 さらに、ことばを補って、「ぼくは、詩を求めて(探して)どこをさまよい歩くのか」と読み直すと、「詩」と「ぼく」との関係はいっそう緊密になる。そして、「さまよい歩く」こと、「帰る/遠ざかる」という矛盾した動きそのものが「詩」であることもわかる。
 矛盾は、「開かれる」「閉ざされる」という形で、こう言いなおされる。

朝 木の上の小鳥が小さな咳をする
開かれる日か 閉ざされる日か





*

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19 石棺(嵯峨信之を読む)

2018-06-19 11:03:16 | 嵯峨信之/動詞
19 石棺

稲妻が走るたびに
闇の中に盲人の顔が浮かぶ

 なぜ、「盲人」の顔なのだろうか。
 「盲人」は闇を見ている。私は闇のなかでは何も見えないが、「盲人」は闇のなかで私以上のものを見るだろう。
 「盲人の顔が浮かぶ」というと、「盲人の顔が見える」ということになるが、ここでは嵯峨は「盲人の顔を見る」というよりも、「盲人」になって世界を見るのだ。
 「稲妻が走る」はふつうの人が見る風景。
 「盲人」には「稲妻が走る」様子は見えない。しかし、「暗闇」になってしまえば、「盲人の見えない視線」が「稲妻」のように「走る」。「盲人」には「暗闇」が「真昼の明るさ」である。「盲人」の視力が力を持って、「顔」を浮かび上がらせるのだ。




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