詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか

2005-04-27 15:15:49 | 詩集
ナボコフ「悪い日」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

 主人公の少年が親類の家で出会った少女に恋こころを抱く描写。

彼がターニャ・コルフにはじめて会ったのもこのときで、それ以来よく彼女のことを考えるようになり、追い剥ぎもどきから彼女を救う自分の姿や、加勢に駆けつけたヴァシーリイ・トゥチコフが彼の勇気を一心に褒めそやす光景を想像したりした。

 恋こころを、空想そのものとして描く――この描写に「詩」がある。
 少年が少女に対してどう思ったかではなく、どう思われたいか――という描写の中に、今の少年と空想の中の少年の間に「断絶」が見えて来る。その「断絶」が「詩」である。

 「詩」は現実であり、同時に現実ではない。現実に急激に割り込んでくる「真実」である。
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詩はどこにあるか

2005-04-25 00:19:34 | 詩集
森鴎外「大塩平八郎」(「鴎外選集第4巻」岩波書店)


けふまで事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄そのものが自然に捗つて来たのだと云つても好い。己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此終局はどうなり行くだらう。

 「自然」――このことばとともに、鴎外の、これまで指摘してきたのとは別の「詩」がある。
 ものごとには本質がある。その本質は本質をあらわしながら自然に動く。

 鴎外はそうした「自然」を簡潔に描写する。
 あるいは、「自然」が露呈するように、現実から本質だけを掬い取る。「自然」の論理が「自然」のまま動くように、現実から余分なものを取り除く。

 森鴎外は、現実を描写するというより、現実から余分なものを取り除くために文章を書く。
 私たちは現実に何物か付け加える。思い込みで現実をゆがめていく。ところが、森鴎外は、そうしたゆがみをひとつひとつ引き剥がしていく。そうすると「自然」が姿をあらわし、「自然」にものごとが動いていく。

 ここに「詩」がある。「叙事詩」としての「詩」がある。
 森鴎外の歴史小説は「叙事詩」である。

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詩はどこにあるか

2005-04-24 23:21:57 | 詩集
森鴎外「佐橋甚五郎」(「鴎外選集第4巻」岩波書店)


澄み切つた月が、暗く濁つた燭の火に打ち勝つて、座敷は一面に青み掛かつた光を浴びてゐる。どこか近くで鳴く蟋蟀(こほろぎ)の声が、笛の音(ね)に交じつて聞える。(216ページ)

 「近くで」に「詩」がある。このことばによって空間が一気に具体化する。
 同時に、ただ美しいばかりの月の光に、急に動きが出て来る。
 月の光の描写によって、今いる場所が宇宙につながったような広々とした感じが、「近くで」ということば一つで突然収縮する。場が濃密になる。
 このとき、ドラマは唐突に始まる。

 つづく描写に思わず息をのんでしまう。

氷のやうに冷たいものが、たつた今平手が障(さは)つたと思ふ処から、胸の底深く染み込んだ。何とも知れぬ暖い物が逆に胸から咽(のど)へ升(のぼ)つた。甘利は気が遠くなつた。

 そして、ドラマは突然終わる。
 この緩急のリズムにもこころを揺さぶる「詩」がある。
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詩はどこにあるか

2005-04-20 14:43:06 | 詩集
森鴎外「阿部一族」(「鴎外選集 第4巻」岩波書店)

 武士の切腹、討ち入りが淡々と書かれている。そうしてクライマックスごとに簡潔な風景描写が差し挟まれる。

板塀の上に二三尺伸びてゐる夾竹桃の木末(うら)には、蜘蛛(くも)のいが掛かつてゐて、それが夜露が真珠のやうに光てつゐる。燕が一羽どこからか飛んで来て、つと塀の内に入つた。

 こうした「詩」の挿入は何度読み返しても美しい。
 人事とは無関係に生きている命の存在が、人間の命の窮屈な感じをさーっと洗っていく。

 一方、数馬の死を決意する心理描写と妻の描写にもこころが震える。(200ページ)

今年二十一歳になる数馬の所へ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房は、当歳の女の子を抱いてうろうろしてゐるばかりである。(うろうろは、本文はおくり)

 「うろうろ」というのはありふれた表現であるけれど、この「うろうろ」が「詩」である。
 具体的な描写は鴎外にはもちろん可能だろう。しかし、それをしない。ただ「うろうろ」と書く。そうすることで、読者の「うろうろ」した記憶、「うろうろ」を見た記憶を引っ張り出す。「うろうろ」のすべてを読者にまかせてしまう。
 読者は自分自身の「うろうろ」と直面する。直面したまま、こころを動かす。
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詩はどこにあるか

2005-04-17 22:36:46 | 詩集
アレハンドロ・アメナーバル監督「海を飛ぶ夢」

 主人公ラモンが外出するシーンがある。リクライニング式の車椅子に身を横たえ、車窓から外を見る。この描写、彼が見た風景がすばらしい。
 路地からこどもが大通りに飛び出しそうになる。それを引き止める母親。交尾する犬。風力発電の風車が少しずつ見えてくる。
 この描写に「詩」がある。

 主人公は首を骨折して四肢が動かない。安楽死を願っている。そして彼は今、法廷で発言するために外出している。法廷へ向かっている。法廷で、彼は自分の精神状態が正常であることを証明したい。安楽死を求める気持ちが正常な判断力にもとづくものであることを証明したいと思っている。
 この気持ちと、路地から飛び出しそうになる子供、その子供の危険を感じてひきとめる母親との間には何の関係もない。交尾する犬も何の関係もない。主人公が初めて見る風力発電の風車も何の関係もない。
 そうした何の関係もないものが、今、ここに存在し、世界を同時に作っていると伝えるものが「詩」である。

 世界は主人公の(つまり一人一人の個人の)思い入れにまみれている。染まっている。誰でもが自分の精神状態に支配されて色の世界を見ている。深刻な色、悲しい色にそまった世界を見ている。そうした「色」に統一があったとき、統一性を感じられたとき、その世界(というか、主人公の気持ち)がわかったような気持ちになる。
 「詩」はしかし、そうしたある統一感のある「色」のなかには存在しない。あるいは、そこにも「詩」があるかもしれないけれど、人を驚かし、覚醒させ、新しい世界への入口を切り開いていく「詩」は、そういう統一感のある「色」のなかには存在しない。

 「詩」は非情のなかにある。
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黒(あるいは誤読の楽しみ)

2005-04-05 15:06:10 | 詩集
4月5日(火曜)

 ナボコフ「チョーブルの帰還」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

木々の小枝を映す黒い舗道中央の小さな水たまりは、現像不足の写真のようだった。

 「黒い」は「舗道」を修飾している。しかし、私は「水たまり」を修飾している、と読んだ。この文章を読んだ瞬間、「黒い水たまり」が雨上がりの、灰色に輝き始めた空と、その空を背景にして黒く姿を映している小枝が見えた。水たまりのなかに、この文章には書かれていない灰色の空が見えた。そして、灰色の空を映すためには、水たまりは「黒」でなくてはならないと思った。

 意識のなかでは、ものを映し出すのは「白」である。「黒」はすべての存在を飲み込んでいるからものを映し出さない。――しかし、現実は違う。
 現実を、意識をひっくりかえす具合にして引き寄せるもの、それが「詩」である。



 「チョーサーの帰還」には、遠く離れた存在を引き寄せる形での「詩」もある。

彼女は、蔦の小さなキツネ色の葉を見ると、アイロンをかけたリンネルの、薄い錆色のしみを思い出すと言った。

 小説の長い文章のなかに隠しておくにはあまりにも美しい。美しすぎる「もの」と「もの」との出会いだ。



 ナボコフは、別の短篇で文学創造について、主人公に語らせている。

ありふれた事物を、未来の思いやりのこもった鏡に映し出されるように描くこと。(「ベルリン案内」)

 ナボコフはすべての存在が失われていくことを知っていた。取り戻すことができないものになることを意識していた。そして、失われていくものをいとおしさを込めて描いた。
 リンネルの錆色のしみ――いわば「汚点」のようなものさえ、人間の感情を揺さぶる。
 「枯葉」「キツネ色」「アイロン」「リンネル」「錆色のしみ」――その出会い。
 そこには「純粋感情」がある。「詩」とは「純粋感情」を発生させるものとものとの出会いである。
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詩はどこにあるか(33)

2005-04-04 00:36:57 | 詩集
4月4日(月曜) 晴れ

森鴎外「カズイスチカ」(「鴎外選集 第三巻」岩波書店)

一本一本の榛の木から起る蝉の声に、空気の全体が微かに顫えてゐるやうである。

 動詞の一語が「詩」になった例。
 「起る」という語に「詩」がある。蝉の声が屹立して来る。存在を屹立させることばが「詩」である。
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石垣

2005-04-02 15:40:01 | 詩集
4月2日(土曜)

 石垣を真正面から絵にしてみたいと思う。組み合わさった形、石の肌の色、隙間の黒い色。それだけで量感を絵にできるだろうか。
 ことばでは「量感」と書けるが、絵の具の色だけで、私が感じたものを再現できるか。

 犬が友達をみつけて走り始める。



 ナボコフ「けんか」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

 加藤光也という翻訳者は日本語の感覚に味わいがある。原文はわからないが、きのう読んだ「クリスマス」と同じようにおもしろい表現に出会った。

包みを解くと、たちまち、灰色の毛布と、ビーチタオルと、新聞の束になった。

 この「なった」は漢文を読んでいるような気持ちになる。
 ロシア語でどう書いてあるのかわからないが、普通の日本語では「……新聞の束があらわれた」と書くだろう。しかし、加藤は「なった」と訳している。

 この「なった」は気持ちがいい。「運動」が含まれているからだろう。漢文がもっているてきぱきした精神の動き。それが気持ちに美しく響いて来る。

 こうしたことばにも私は「詩」を感じる。
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2005-04-01 13:59:49 | 詩集
 4月1日(金曜)

 晴れ。
 福岡の石垣を曲がる。しだれ桜がぐいと近づいて来た。花。ピンクの花が無数に開き、石垣の陰の中にある。私が立ち止まったので、犬も一緒に立ち止まってしまう。



 ナボコフ「クリスマス」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)
 主人公が雪の野原を歩いていく。

どこか遠くで小作人たちが森の木を伐っている――一打ごとにその音が空にひびきわたった――そして、かすんだ木立の銀色の霧のむこう、うずくまった百姓家(イズバー)のずっと上には、教会の十字架が陽を浴びておだやかにかがやいていた。

 最後の「いた」。原文でも「いた」だろうか。原文では「いた」ではなく、「見えた」だろうか。気になるが……。
 この「いた」に「詩」を感じる。
 主人公は、十字架が輝いているのを見た。しかし、それを「見た」と主人公の側に引きつけて書くのではなく、主人公とはかけ離れたものとして書く。
 「いた」は主人公と十字架が無関係、あるいは断絶した存在であることを明確にする。(なぜ、断絶かといえば、それは主人公にとって「好ましいもの」ではないからだ。悲しみを呼び覚ますもの、遠ざけたいものだからだ。)

 この「断絶」に「詩」がある。

 そして、この「断絶」――主人公と十字架との隔たり、その距離の間に、主人公のこころが動いていく場所がある。(ここから先は、「小説」の世界である。)
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