詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「8 破壊」

2006-12-31 12:43:47 | 詩集
 藤井貞和「8 破壊」(「現代詩手帖」12月号)。

「永田洋子も、
しげのぶふさこも、
ともだちの、
ともだちの、
ともだちではなかったかしら。」

と、そう書いて、

「いいえ。 われらは、
愛するひとを、
つぎつぎに、
砂にうずめて、
毎日をわたる 遊牧。
あとにのこる二本のわだち、
はるかなラインを引く白のかなた、
砂けぶりの埋葬を、われら。」

と書きつづけて、

 「と、そう書いて、」「と書きつづけて」に私は「詩」を感じる。書くこと、書きつづけることが藤井にとって「詩」である。単に書く、書きつづけるというより、書いたことを読み返しながら書きつづける。「と、そう書いて、」の「と、」と「そう」のなかに含まれる意識の動き。中断と反芻。中断し、反芻することによって、先に書いたことから飛躍する。違った次元へことばを動かしていく。「書きつづける」は、このとき単なる持続ではない。むしろ切断である。切断しながら、それまでの次元とは違ったものと接続することが書きつづけるということなのである。
 作品はつづく。

「いいえ。 残虐な行為が、
あかさびのそらににじんで、
沼のうえ、犯人はわたしです。
タイヤ跡から、
髪や、
顔面がぐっちゃりと潰れて取りだされ
あさひのうちがわで われらは、
あざやぎを終えました。」

そこで消してしまうと、

 繰り返される「いいえ。」それが切断と持続を押し進める。新しいことばを引き寄せ、さらに飛躍するために書いたことを「消してしまう」。この「消してしまう」は否定ではなく、切断の強調である。ことばは消したとき見えなくなるけれど、意識には深い痕跡が残る。その痕跡はときには消さずにそのままにしておいたときよりも強烈に意識に働きかける。消さずに残したときは切断はぼんやりとしか意識されないが、消すというのは意識的な切断だからである。ことばはいっそうの飛躍を要求される。いっそうの「自由」を要求される。
 藤井はことばを自由にするために、書き、反芻し、さらに消しながらことばをつづける。さらに言えば、藤井は消しゴムで書くのである。このとき「消す」対象は、それまで藤井が(同時に、私たちの日本語が)無意識的に抱え込んでいる日本語の限界、日本語の体制的束縛である。日本語をあらゆる無意識の束縛から解放し、自由にするために藤井は書いて、消すのである。消すことが書きつづけることになるのである。消した「証拠」として書きつづけるのである。
 この書くことをめぐる運動は自己矛盾である。そして矛盾しているからこそ思想なのである。「詩」なのである。




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秋山基夫『西洋皿』(和光出版)

2006-12-30 22:41:28 | 詩集
 秋山基夫『西洋皿』(和光出版)
 「壽歌」。

初孫の挙式の宴や桃の花
隣の席の母が
箸袋を開いてちょこちょこ書き付け
どお?と言って見せた
どうしようもない句だ、と思ったが
黙って隣の席の妻に渡した
箸袋は恭しく次々に隣の席へ渡され
口々にお世辞やら何やらが発せられ
最年長者だから許されるふるまいなのか
ずいぶん気軽なことだが
これはこれで結構なことだった

 「どうしようもない句だ、と思ったが/黙って隣の席の妻に渡した」の2行に秋山の「詩」がある。意識と実際の行動の差。あるいは裂け目。そこから鮮明に現実が見える。そして、批評が始まる。批評としての詩というものがある。それが秋山の「詩」である。
 秋山が見ている現実は、母の作った句が「どうしようもない」ということだけではない。そうしたものをありがたがって、あるいはありがたがるふりをする人がいるというところまで向けられる。批評の対象がひとつの存在(この作品では母の句)だけでなく、それを取り囲むようにして存在するものへと広がり、そうした社会のありようを浮かび上がらせる。批評はそこまで広がる。その広がり方こそが秋山の「詩」であると言えばいいのだろうか。
 また、その批評は、秋山自身へも引き返してくる。作品の続き。

彼女が短歌を習っていたら
初孫の嫁御うつくし大瓶に花桃を生け集ふわれらは
などと手軽には詠まなかっただろう
わたしは慣用表現羅列の謝辞を覚え直し
費用の収支を考え
顔色がややさえない

 自分自身への批評は、しかしこの作品では少し「さえない」。笑いになりきれていない。たぶん挙式の主役が秋山の長男であることが「初孫」「母」「初孫の嫁御」というように間接的にしか書かれていないことと関係がある。一種の「照れ」がある。照れていて、自分自身を笑いの対象にしきれていない。対象にしきれてはいないけれど、ここでは笑いの対象にしなければ作品として成立しない、という「批評」が秋山に最後の3行を書かせている。
 批評へのこだわりが秋山の「詩」なのである。本質、思想なのである。このことは、この作品が最後に「注釈」を抱えていることによってさらに鮮明になる。

*和歌には古くから壽歌を詠むことが制度としてあっただろう。俳諧は発句で主人をほめるからであっただろう。現在の短歌、俳句には制度としてあるのだろうか。現代詩は個人的につくることがあっても制度としてはない。

 この「注釈」は「注釈」であることを拒絶している。作品とは何の関係もない。秋山自身の「美意識」(文学的美意識)の表明である。現代詩は「制度」を持たない。それゆえに秋山は現代詩をつくるのだ、という意思の表明である。この「注釈」を読むと、まるでこれが書きたくて秋山は「壽歌」という作品を書いたのではないかとさえ思えてくる。
 どんな制度にも属さない現代詩。どんな制度からも自由な批評。ことばの運動。それが秋山の書きたいものなのだろう。
 そうした思いを、「注釈」の形を借りて、あるいは先行することば(詩作品)を批評するようにして書いてしまう。秋山は、心底、批評的人間なのだと思う。秋山の批評的人間性がとても色濃くあらわれている。批評のなかに秋山がいるのである。



 秋山はこの詩集のなかにいくつか俳句を書いている。その俳句よりも、「七月の光のもとで」の次の3行が俳句的だった。

赤いバイクが山を登っていく
お宮の石段に人影はなく
蝉が日暮れまで鳴いている

 1行目と2行目の間に「切れ」があり、切れをはさんで二つの世界が向き合い、向き合うことで互いを批評する。響きあう。批評とは、本来、こんな風に向き合ったものと響きあわなければならないのだと思う。響きあう響きのなかに「詩」がある。
 「壽歌」は批評を書かなければいけないという義務感(?)のようなものが作品を苦しくしているが、この3行ではのびのびとしている。



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松下育男「国語 8」

2006-12-29 02:56:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 松下育男「国語 8」(「現代詩手帖」12月号)。

私は、すべての詩を理解できるわけではありません。私は、私が理解できない詩を、人も理解できないだろうと思うほど、愚かではありません。

(略)

繰り返します。

私は本当に思っていることを、ここに書いています。しかし私は、ここに書いたことが、必ずしも正しいとは思っていません。わたしは、正しいことを言っているつもりはないのです。

 「繰り返します。」この1行に松下の「詩」(つまり、思想)が凝縮している。松下は次々に新しいことを書くわけではない。逆に、新しさを否定する。最初に言ったことを何度繰り返せる。繰り返すことで、言い漏らしたことをどれだけ救い出せるか。書くということは、何かを拾い上げると同時に、それを拾い上げるために何かを取りこぼさざるをえないことでもある。
 そのことを強く意識するから、松下は、その取りこぼしたもの、手から知らず知らずに漏れていったものをなんとか拾い直そうとする。掬おうとする。このとき「掬う」は「救う」と同じ意味になる。
 どこへも行かない。ただ「詩」を必要としているという自分自身のためにだけ、松下は繰り返すのである。

 高橋睦郎は旅に出て肉眼を洗い直した。松下は、どこへも行かない。どこへも行かず、肉眼も洗い直さない。むしろ、肉眼の中に、「にごり」のようなものを取り込み続ける。洗い直すかわりに、落としたものを拾い直す。落ちて、汚れていたものを、そっと拾い直し(もちろん、そのときはていねいに汚れを払って拾い直すわけだが)、それを取り込むことで、「にごり」の深さ、「にごり」の豊かさを身にまとおうとする。変なたとえだが、手垢がつくりだす艶のようなものを、その結果として手に入れる。
 新鮮さではなく、むしろ新鮮を否定する艶の光。そのための繰り返し。これは、繰り返したことのある人間にしかわからない光かもしれない。

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笹野裕子『今年の夏』

2006-12-28 11:12:55 | 詩集

 笹野裕子『今年の夏』(空とぶキリン社、1999年09月20日発行)。
 確かなこと、とは何だろうか。たとえば「剥がす」。

人にたくさん会った日は
耳がかゆい
詰まった言葉を全部取り出してしまわないと
すっきり眠れない
とくべつ念入りに耳そうじをする
ティッシュペーパーを一枚広げ
耳から剥がした言葉を並べていく

左右 ひととおり剥がしたのに
まだ残っているような気がして落ち着かない

 「気がして」。確かなことは「気がする」ことである。1連目では慎重にこのことばが省略されているが、省略されているということは存在しないということではなく、ほんとうは笹野の肉体の内部に深く深く潜んでいるということである。潜んでいることさえ忘れるくらい肉体の一部になっている。だから省略してしまうのだ。
 どんなふうに省略されているか。( )に入れて補ってみる。

人にたくさん会った日は
耳がかゆい(気がして)
詰まった言葉を全部取り出してしまわないと
すっきり眠れない(気がして)
とくべつ念入りに耳そうじをする
ティッシュペーパーを一枚広げ
耳から剥がした言葉を並べていく

 「気がして」を補うと散文になる。「気がして」がないと「詩」になる。「気がして」を省略すると「かゆい」「眠れない」が肉体として立ち上がってくる。言い換えれば、書かれていない「気がして」が私の内部にするりと入り込んでくる。「気がして」が省略されている方が、より鮮明に「気がする」感じが伝わってくる。「気がして」が書かれていれば、なんだ、気がするだけかという思いが動き、肉体が反応しない。1連目は「気がして」が省略されているがゆえに、とても強烈な「詩」になっている。
 2連目の「気がして」は笹野がどうしても書かずにはいられなかったことばなのだと思う。肉体の中にある「気がして」としかいいようのないもの、それをことばにしてしまわないと、何かが狂っていくような感じがするのだと思う。
 しかし、実際は、そういうものを書いてしまう方が狂っていく。肉体と、その肉体と区別できない「気」がだんだん分離して「詩」が遠ざかる。狂っていく、と書いたのは「詩が狂っていく、詩が詩ではなくなっていく」という意味である。
 詩は次のようにつづいていく。

左右 ひととおり剥がしたのに
まだ残っているような気がして落ち着かない
外耳の浅いくぼみから
耳掻きを斜めに立てて動かしていく
奥の方でカリリと当たる
息を詰めて少しずつ動かす

 肉体の動きがていねいに描写される。そのとき「かゆい」「眠れない」という生々しい肉体の感じが消えていく。あれっ、詩が違ってしまった、妙なところへ動いていくぞ、と思ってしまう。
 そして6行別のことばがあって、最終連。

きっとどこかで私の言葉を剥がす人がいる
深い闇をはさんで
私はその人と向き合う
その向こうでも耳そうじをする人
そしてその向こうにも
月明かりのなか
いくつもの影が静かに
耳掻きを動かしつづける

 ここには「気がして」と書いたときの生々しい実感、肉体と切り離せない感じがない。ここにあるのは「頭」のなかの想像である。そこには肉体の感じが消えている。「私はその人と向き合う」ということばがそのことを鮮明に浮かび上がらせる。1連目では笹野は笹野自身と向き合っていた。そしてその向き合い方に「詩」があった。ところが、笹野は自分自身と向き合うことをやめて、笹野ではない別の人、それも知っている肉体を持ったひとではなく(たとえば、私はいま、笹野、梅田智江、田島安江と「連詩」をしているが、そういう具体的な人間ではなく)、抽象的な、会ったこともなければ、これからも会うはずのない人間と向き合っている。もちろん、「頭」のなかの「詩」というものもあるのだが、肉体から詩を書き始めて、頭のなかへたどりつくのでは、何だかおもしろくない。耳を掃除して掃除して、その内側の皮を剥いで、血を流して、血と一緒に脳味噌までとけだしてきて……というふうに肉体が肉体でなくなるまで耳掃除がつづいていくなら、「気がして」の「気」は不気味で、楽しい(?)ものになったのになあ、と残念な思いが残る。



 「気がして」は別の作品では別のことばになってあらわれる。「道標」。

鳥が鳴いた
なつかしい声で鳴いた
この道だ
根拠のない確信のままに
私は走り出す

 「根拠のない確信」。それが「気がして」ということだ。根拠がない、というのは、他人と共有できる「頭で整理した論理」がないということだ。他人を説得できるだけの論理がないということだ。しかし実感はある。ことばにできない「気」がある。
 「気」は論理にはなってはいけない。「気」は肉体の奥でむずむずと動き回り、はいずりまわって肉体を苦しめなければならない。肉体から抜け出して、頭のなかで整理されて論理になってしまうと、おいしい味がなくなる。
 「剥がす」の最終連は、うま味が逃げ出してしまったあとの、きれいに飾られただけの料理のようなものである、と私は思う。


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ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督「リトル・ミス・サンシャイン」

2006-12-27 14:24:16 | 映画
監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス 出演 グレッグ・キニア、スティーヴ・カレル、トニ・コレット

 この映画は「押す」映画である。押し切っていく。映画である。
 「リトル・ミス・サンシャイン」コンテストをめざす少女(末っ子)を乗せて黄色いバスがアリゾナからカリフォルニアまで旅する。その途中にバスはギアが故障する。どうするか。家族で押して押して押しまくる。いったん走り出せば惰性で走って行ける。だから、止まるな、止まるな、止まるな、障害物は体当たりではね除け、突っ走れ。
 「押す」という行動が一番明確なのは、そのバスのシーンだが、ほかにもいろいろ出てくる。
 たとえば一家そろってのディナー。メインはフライドチキン。皿は紙皿。飲み物はスプライト。そしてコップは変な模様の入ったコップだったり、青いプラスチックのコップだったりする。しかし、とりあえずはそれで飲み食いはできるはできる。しかし、繊細さを欠いている。そして、その繊細さに欠ける部分を、なんというのだろう、生きていることのバイタリティーが押し切っていく。食事中の会話も繊細さを欠いているといえば欠いているのだが、配慮というものより、そこにある事実を直視し、それに体当たりしていく。押し切ってしまう。
 人間にできることは「押す」こと、押し切ることであるという単純な思想がこの映画を輝かせている。
 クライマックスもおもしろい。「ミス・リトル・サンシャイン」というくらいだから子供が対象のコンテストである。最後に出場者は特技を披露するのだが、末っ子のダンスは「きわもの」である。色狂いのおじいちゃんが教えたストリップダンスである。もちろん主催者側は止めに入る。しかし、一家は、それを止めさせない。一家で舞台に上がり、娘と一緒になって踊る。娘の行動を「押し」、そうやってすべてを押し切ってしまう。
 普通の映画(?)なら、最後はハッピーエンドになるのかもしれない。末っ子を応援する一家、それに感動する観客、そして末っ子は晴れて1位に……。しかし、この映画はそんな「空想」は撥ね除ける。もちろん末っ子は優勝しないし、家族は「おしかり」を受ける。
 でも、それが楽しい。とても明るいものが残る。
 何が残ったか。家族とは「押す」人間のことである。困っている人がいたら「押す」。ひたすら押して、走り出したら、それが走り終わるまで一緒についていく。その「走り」に乗っていく。下りたりはしない。
 押して、走って、乗る--それが家族だ。
 振り返れば、さまざまな「押す」が出てくる。自殺未遂をした伯父を押して押して家族の中に引き入れる。色弱がわかってパイロットになる夢が立たれた長男を末っ子が無言で押して立ち直らせる。さらには途中で死んだおじいちゃんを病室の窓から「押して」出して病院から逃走する……。家族は、いつでも何かを押しているのだ。
 押してどうなるか。どうにもならない。何も成功しない。ただ、押し合ったね、一致団結したね、という心が残る。幸せは確かにこの「押し合った感覚」、その肉体の記憶の中にある。「押す」というのは考えてみれば力任せのようであって、そうではない。「押す」というのは押されるものの反応を確かめながら押すのだ。車が走り出せばもう押さない。押さずに、飛び乗る。飛び乗って走る。この単純な構造が、繰り返されて、肉体そのものになっていく幸福がこの映画にある。

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高橋睦郎「学ぶということ」

2006-12-27 13:15:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 高橋睦郎「学ぶということ」(「現代詩手帖」12月号)。
 オックスフォード。町に迷って突然墓地に出る。そこで高橋は若者たちが墓蓋に足を伸ばしたり腰掛けたりして本を読んでいる。音楽を聴いている。議論している。

大学の町に迷っていて 突然出た明るい墓地
五月の草花が乱れ咲き 蜜蜂が羽音を震わせる中
碑銘板に背を凭(もた)せ 墓蓋に腿を伸ばして
テクストを読むのに余念のない 髭の若者
向いあった墓に胡座(あぐら)して 議論に夢中の二人もある
通りかかる大人の誰一人 咎める者もない
咎めないのは 墓の下の死者たちも同じ
若い体温の密着を むしろ悦んでいる面持ち
生は死と 死は生と いつも隣り合わせ
学ぶとはつまるところ その秘儀を学ぶこと
生きて在る日日も 死んでののちも

 最後の1行が不思議だ。「生きて在る日日も」はわかる。学ぶということは生きているときにすることである。それにつづけて高橋は「死んでののちも」と付け加えている。そんなことができる? できたとして、誰にその事実を確認できる? 死んだあと、生と死が隣り合わせであると死者が学んでいると誰が認識できるだろうか。
 ところができるのである。それが「詩」である。

 この詩の「キーワード」はしかし「死んでののちも」ということばではない、と私は感じている。いや、「キーワード」なのかもしれないが、そのことばだけでは、なんのことかわからない。「死んでののちも」の「死」に対応するものがこの作品には隠されていて、それが真の「キーワード」なのだと思う。
 なかほどの「大人の誰一人」。詩文学とはほど遠いそっけないことば。これが「キーワードだ。「大人」が「死んでののちも」で描かれている「死」よりもさらに死んでしまった人間である。
 大人と若者は隣り合っている。その境界線はあるようで、具体的には存在しない。具体的に存在しないにもかかわらず、隣り合っていることを忘れ、むしろ隔絶した状態で生きている。共存している。それは墓蓋と若者の関係に非常に似ているようで非常に違っている。大人は「墓蓋」よりもさらに死んでいる。完璧に死んだ状態なのだ。「墓蓋」の方が若者の体温と密着しているから、まだ、「隣り合っている」と言えるのだ。「大人」は「若者」と接していない、見えるのに接していない。だから完全な「死」である。それに比較すれば、墓蓋の下の人間は直接的に若者と接している。ゆえに、そこから何かを学びうる。学んでいるように見える……。
 もちろん、これは「比喩」である。「比喩」でしか語ることのできないことがらである。
 そして、この「比喩」を語っているとき、高橋は、どちらに属しているのだろうか。若者を咎めない「大人」の一人か。「若者」か。「墓蓋」の下の住人、つまり死人か。「大人」と「若者」、つまり比喩としての「完璧な死人」と「若者」の両方を見つめ、さらに「若者」と比喩ではない「死人」の両方も見つめている、どこにも属さない人間である。どこにも属さないかわりに、どこにも属すことができる人間である。両方を往復する人間である。往復するとは、見つめながら、あれこれ考えることである。

 たとえ高橋が「大人」、若者から完全に隔たってしまった人間、比喩としての完璧な死人であったとしても、「生と死が隣り合っている」という秘儀を学ぶことはできる。「若者」を見ればいいのである。見て、考えればいいのである。
 「若者」が何をしているか。「若者」が「死」をどんなふうに取り扱っているか。それが気がついたときが生と死の隣り合っていることを学ぶ好機なのである。「若者」と「死」を往復するとき、その「隣り合い方」がわかるのである。高橋は、それをオクスフォードで発見した。

 「死」を旅によって洗い流す--そういうことを高橋はしたのだと思う。その痕跡が、「学ぶということ」に残っている。「操舵室にて」にも残っている。

晴れわたったダブリン湾 外洋のアイリッシュ海
だが それは見える海 その先には見えない海

 旅は見える海に触れながら、その先の「見えない海」を見ることだ。
 生と死が隣り合っている--ということは肉眼では見えない。ところが、高橋は、それを肉眼で見たのである。オクスフォードで見たのである。そして、その肉眼が「大人」を完璧な死人に見せたのである。
 肉眼を取り戻した高橋がここにいる。
 「通りかかる大人の誰一人 咎める者もない」という1行は、あまりにもそっけなく、散文そのものであり、「詩」になっていないようで、その実、このどうしようもないそっけなさ、そう書くしかなかった肉眼が、「死んでののちも」という強いことばを引き出すのである。

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内田紀久子『魂っぽい』

2006-12-26 14:40:57 | 詩集
 内田紀久子『魂っぽい』(ふたば工房、2006年12月10日発行)。
 「彼岸花」。その3連目。

殺め
殺められた
血みどろの手が
いま静かに発光している

 ここに内田の「詩」がある。「殺め/殺められた」。それはまったく反対の立場である。しかし、このふたつの立場を内田は同等に描く。対等に見る。この距離の置き方が、内田独特のものであると思う。そこに思想があらわれていると思う。
 ここでは内田は、自然(たとえば彼岸花)が人間の事情などいっさい無視して存在していることを冷静に見つめている。自然は人間の事情を斟酌しない。つまり「非情」である。そして、その非情さのなかに、人間を超える美しさがある。
 「闇の中から」には、そのことが別の形で語られている。

花を美しいと思うのは勝手だけれど
皮一枚ひんむけば花は化け物に違いない

テーブルの紅いバラ
花びらをべろっとさせて
私を誘っていた

 「非情」は人間から見れば「化け物」である。しかし、その「化け物」のなかに内田を誘うものがある。
 それはつまり、その「非情」を通って、人間はこの世の中に出現してきているということでもある。内田は彼女自身がいつでも「化け物」になりうることを強く認識している。あるいは「化け物」であることを願っている。
 「化け物」は「殺す」「殺される」のどちらにもなりうる可能性に満ちた存在である。人間はその可能性のどちらかを選んで生きているだけである。「殺す」「殺される」しかない人間は「可能性」としては「化け物」にり劣るのである。「非情」は無限であるのに対し「有情」は限定されている。

 「なんだか分かんねえ」はバスのなかから松の木に止まったカラスを見つめるところから始まる。その最終連。

生きるって
めでてんか
めでてくねえんか
オラなんだ分かんねえ

 では、内田に何がわかっているか。
 生きていることがめでたいのかめでたくないのかわからないということがわかっている。それはことばをかえていえば、生も死も対等だという視点こそが「めでたい」ということがわかっているということだ。
 詩集のタイトルになっている「魂っぽい」というのは、宗左近が内田を評していったことばだという。(「魂っぽい」)
 魂というのは生と死とには関係がない、というか、その関係を超越している。生きていても死んでしまっても存在すると仮定できるのが魂である。魂にとっては生も死も対等である。それは、もう一度ことばをかえていえば、生も死も「めでたさ」とは無関係であり、魂だけが「めでたい」のである。

 こうした思想は苦しいだろうか。というか、人間にとっては、残酷すぎるものだろうか。そうでもないのだと思う。そういう思想にしか見えない人間の姿もある。「星の光」の1連目の後半。

「星って読み解けない宇宙の文字かしら」
私が言うと、
「そうね、でも星はやっと届けられた過去の光でしょ。そこには遠い人類の祈りが光っていると思うの」

 「魂」はひとりの人間の所有物ではない。「遠い人類」に通じるものである。遠い人類と、内田が同時に共有するものである。魂は人間が長い間の歴史をくぐることで共有しているものなのである。
 「化け物」を通って一つの命が「バラ」になったように、人間は、その「魂」という「化け物」を通って、瞬間瞬間に、現実に生成し、生きている。バラならば1枚1枚の花びらになって生成する。人間は、花びらのかわりに、感情となって生成する。祈りとなって生成する。「星の光」最終連。

 星を見上げていると、生前から届けられた彼女のやさしさと苦しみが祈りとなって光っているのを感じる。
 悲しみがこみ上げてくる。

 宗左近が内田のどんな詩に「魂っぽい」と感じたのか私はわからないが、遠い人類と今をつなぐ「化け物」の「場」としての人間の混沌とした状態、そこから感情を持った人間として生成してくる過程--そういう運動を批評して、そういったのだろうと私は想像した。

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現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(その2)

2006-12-25 20:23:27 | 詩集
 現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(思潮社、2006年11月02日発行)

 「むすぶ」(『木の間がくれ』)は12月24日に読んだ「橋の上」とは逆のことが書かれているように見えるかもしれない。

若いころ 僕は
放たれて空をゆくボールだった
待ち構えているグローブがあるとは 知らなかった

若いころ 僕は
声あげてひた走る列車だった
待ちうけている駅があるとは 知らなかった

雨が天と地をつなぎ
夕やみが家と家を結びつけるとも
僕の心は叫ぶのだ

つながるな
結びつくな

 最終連「つながるな/結びつくな」。これは「僕」が何かにつなげられてしまうこと、結びつけられてしまうことへの拒絶の声である。「橋の上」と何が違うのか。ふたつのあいだにはどんな違いがあって、一方は肯定、他方は拒絶なのか。
 「橋の上」は杉山が蹴った小石を中心にした世界である。「むすぶ」杉山自身が世界のなかにほうりだされている。その違いがある。杉山は、彼自身が世界のなかに投げ入れられたひとりの存在であることを知っている。社会によって投げ入れられた「小石」であることを自覚している。そして、「小石」のまま世界とつながり、結びつけられることを拒んでいる。「つながるな/結びつくな」は、「小石」のまま動かされてはならないという抵抗の声なのである。「知らなかった」という悔しい思いが叫ばせる抵抗の声なのである。
 そうした状況を拒み、杉山は、彼自身の意志で世界を再構築することを試みている。彼のことばが世界を分解し、再び建築しなおす。そのとき、その構造のなかに、こころが確立されると信じている。願っている。祈っている。それが「橋の上」の「繋がつた!」なのである。
 誰が主体か、ということが重要である。杉山が主体であるとき「つながる」は肯定され、杉山がつながれることの対象であるときはそれを拒絶するのである。

 「球」は組織、規則というものを肯定した作品のようにも思える。

 拾われた球が野球チームに投げこまれるや否や 萎れていた彼らは立直り生気をおびてきた 組織と規則と位置が溌剌と浮かび上ってきた ちいさなただ一個のもの それは貨幣のごとく循環して人を酔わせた

 だが、この作品でも杉山が書きたいのは「溌剌と浮かび上ってきた」という運動そのものだろう。野球のボール一個が動き回る。その動きにあわせて世界がつながっていく。はつらつと輝いていく。ボールは世界を建築し、世界をつなげるのである。そのボールの動きにこころが重なり、こころそのものが「溌剌と浮かび上って」くるのである。



 『木の間がくれ』には「あの」ということばが何回か出てくる。「到着を待ったあの函」(「郵便函」)、「僕はあの部屋が好きだ」(「部屋」)、「あの瞬間なのだ」(「酔い」)。この「あの」という指示代名詞も杉山の詩を読む「キーワード」だと思う。
 「部屋」を引用する。

 会社のアパートになっている建物の傍を毎日通る。一つの部屋の大きな窓に、壁に貼ったお習字がいつも見える。天地とか、春秋という墨の字の上に、赤丸が渦巻きのようにつけられている。

 ある七夕の日、その窓に小さな笹がさされ、青や赤の紙に、ひらがなで一杯ねがいごとが書かれていた。

 僕はあの部屋が好きだ。

 最後の「あの部屋が好きだ」というときの「あの」は単なる指示代名詞ではない。「この部屋」「その部屋」「あの部屋」の「あの」ではないのだ。いくつかある部屋の一つを選んで「あの」と呼んでいるのではなく、一つの部屋しかないけれど、それを「あの」と呼んでいるのだ。
 つまり、「あの」には杉山の思いがつまっている。もしこの作品に「結論」というものがあるとすれば、「好きだ」が結論ではなく、「あの」が結論なのである。「あの」が指し示しているものが結論なのである。
 「あの」部屋はいくつもに分解される。「壁に貼ったお習字」、そのときどきの日によって違う文字。そして七夕。短冊に書かれた一つ一つの願い。そういう時間の連続、集積が結びつけている生活--生活のつながりが「あの」なのである。
 「あの」はさまざまな瞬間の断片をつなぐ接着剤のようなものである。それは自然に存在する接着剤ではない。市販されている接着剤ではない。杉山のこころがつなぎたいと願って選び出した(分解した)世界をつなぎあわせる接着剤である。
 「あの」は指示代名詞というより、英語でいえば「the 」つまり定冠詞である。杉山の意識が濃厚にかかわっていること、つまり「思想」がそのことばのなかにあることを示すことばなのである。
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現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(その1)

2006-12-24 01:24:36 | 詩集
 現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(思潮社、2006年11月02日発行)
 杉山平一は映画が非常に好きである。詩にその影響がとてもよくあらわれている。たとえば「橋の上」。

橋の上にたつて
深い深い谷川を見おろす
何かをおとしてみたくなる
小石を蹴ると
スーツと
小さくなつて行つて
小さな波紋をゑがいて
ゴボンと音がきこえてくる
繋(つな)がつた!
そんな気持でホツとする
人間は孤独だから

 映画のシーンのように映像が次々に動いていく。橋。橋から見下ろした谷川。小石。落ちて行く。小さくなる。川に落ちて波紋をひろげる。音が谷川から立ち上ってくる。カメラの動きが見えるようである。
 杉山のオリジナリティーは、そうした映画的映像を「繋がつた」と強く認識することである。「繋がつた」が杉山のキーワードであり、「詩」である。
 映画の映像は繋がっているようで実は繋がっていない。断片が次々にあらわれるだけである。それを「つなぐ」のは実は見ている人間の意識である。映像がつながるのではなく、人間の意識が映像をつなげるのである。
 詩を読み返すと、そのことがよくわかる。3行目の「何かおとしてみたくなる」。ここには映像にならないものがある。「おとしてみたくなる」という「気持ち」(10行目に「気持ち」ということばが出てくる。)感情。こころ。それがあってはじめて映像の断片が統一される。
 そして、この映像の断片が連続性にかわる一瞬の杉山のこころの動きが独特である。「繋がつた!/そんな気持ちでホツとする」。断片がつながり連続性を持つとき、その連続性ゆえに杉山は安心する。なぜか。
 「人間は孤独だから」。
 杉山は映像の断片に人間の孤独に通じるものを見ているのだ。
 映像の断片がつながり、一つの世界を浮かび上がらせるように、人間の孤独は他の孤独とつながり、一つの世界を浮かび上がらせる。それが「詩」である。「詩」とは人間の孤独と孤独がつながっていく世界なのである。

 この「つながり」(連続性)を「機械」という詩は別のことばであらわしている。

 古代の羊飼ひが夜空に散乱する星々を蒐めて巨大な星座と伝説を組みたてて行つたやうに いま分解された百千のねぢと釘と部品が噛み合ひ組み合はされ 巨大な機械にまで折衝するのを見るとき 僕は僕の苛だち錯乱せる感情の片々が一つの希望にまで建築されてゆくのを感ずる   (谷内注・「組みたてて」の2度目の「て」は原文は送り文字)


 断片が組み立てられ建築されてゆく。そして、そのことばと向き合っている「分解された百千のねぢと釘と部品」。世界は、部品に(孤独に)分解することができ、同時に、その部品(孤独)を組み合わせることで世界を建築することができる。この分解と建築の関係が杉山にとっての「詩」である。
 なぜ世界を分解し、そしてもう一度建築しなければならないのか。
 それは感情を明確にするためである。あるいは「希望」を鮮明にするためである。
 世界はいつでも完成している。しかし、その完成された世界は、人の眼には、あるいは感情にはいつでも鮮明とは限らない。むしろ逆によくわからないものである。その不明確な世界の構造を明確に認識するために、世界は分解され、再び建築されるのである。
 そして、そのとき重要な働きをするのが「感情」である。こころである。世界がどんなふうに分解され、同時に建築され直すのか。その連続性(つながり)の背後に感情があらわれる。
 そうした世界のありようを杉山は描いているのだと思う。



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アニエスカ・ホランド監督「敬愛なるベートーヴェン」

2006-12-23 13:43:07 | 映画
監督 アニエスカ・ホランド 出演 エド・ハリスダイアン・クルーガー

 冒頭、アップの映像が連続する。焔の先端の煙の揺らぎ。焔。手。農夫の顔。馬車。馬車の乗客。馬車の窓から見える風景。木の枝……。その、存在の内部に食い込むような映像に、音楽が重なる。このとき、その音楽は、音楽であることをやめている。音楽というよりも、音が風景を切り取り、その断片を引き寄せている感じがしてくる。そして、ああ、苦しいと思った瞬間に、不思議なことに音楽が聞こえてくる。音楽が風景に陰影をあたえるように、世界が、つまり映像と音楽が溶け合っていると感じる。
 日常の肉眼では見ることのできない映像。アップ。それは肉眼が見るというよりも、感情・こころが見る映像である。冒頭のアップの連続は、そのことを強く感じさせる。ベートーヴェンを愛してやまなかったひとりの女性音楽家。彼女がベートーヴェンの死期を知って駆けつける。そのときに見る風景。それを音楽が叩ききる。断片にする。その断片が心のなかで乱れる。乱れながら、感情をえぐりだす。その痛みの中で、音楽が音楽そのものになる。こころの声になる。
 この激烈な印象はクライマックスでより濃密になる。耳の聞こえないベートーヴェンに指揮のタイミングを奈落から指示するアンナ。それに合わせて指揮をするベートーヴェン。現実の音はアンナの耳に聞こえるが、ベートーヴェンには聞こえない。その聞こえない音楽をベートーヴェンはアンナの手の動きの中に見る。あるいはアンナの瞳のなかに見る。そして、その手や瞳の表情をベートーヴェンが肉体で反芻するとき、ふたりの肉体が重なり合うとき、ベートーヴェンの「魂」のなかに音楽が響きわたる。それは濃密なセックスのように、世界の存在すべてを忘れさせる。映像と音楽との交錯を見ている、聞いていると、「第九」を聞いているということを忘れてしまう。ふたりの距離が現実の距離ではなく、魂の距離、つまり肉眼を超えた接近、魂の特権的な接近そのままに、アップで押し寄せ、そのアップが、溶け合う。肉体であること、瞳、手、首筋、髪の乱れ、汗が、指揮台と奈落の距離をこえて交じり合い、そこから音楽が始まる。そこにあるのは、ベートーヴェンの音楽ではない、アンナの音楽でもない。ふたりの魂がいっしょになった音楽である。その融合が聴衆を引き込んだように、スクリーンを見つめる私をも引き込む。

 映画を見終わって、「第九」が聞きたくなった。今聞いたばかりの音楽なのに、そのなかにもう一度身を沈めたくなった。酔いたくなった。
 エド・ハリスの純粋で超越的な眼、それにこたえるダイアン・クルーガーの清潔な肉体、どきどきするような透明な目がいい。映画のなかに出てききたことばで言えば「神」の目と人間の目、「魂」の目とこころの目が出会い、人間に届く音楽が誕生した--と思わず思ってしまう。



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清岡卓行論のためのメモ(10)

2006-12-23 12:53:30 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「冬の薔薇」(『固い芽』1975年、青土社刊)には清岡の意識が「構造」としてあらわれている。その最初の連(3行)と最後の連(3行)。

あれは冬の天使がひとり 自分の
青い爪を切っている
さびしい音ではない。(第1連)

あれは冬の天使がひとり 自分の
青い爪を切っている
さびしい音。    (最終連)

 「さびしい音ではない」と「さびしい音」。同じものを定義してまったく反対のことばがでてくる。さびしい音ではない「と」さびしい音のあいだ。この間の意識の、感覚の運動が清岡の「詩」である。
 その運動の転換点。

しだいに小さな 棘だらけの
裸になって行くにつれ
逆に 新しい力が
どこからか溢れてくる
冬の薔薇の 不思議な姿。

 ここには「円き広場」の遠心と求心が別のことばで書かれている。そして、この遠心と求心を見るとき、読み落としてはならないのは「行くにつれ」の「つれ」という持続をあらわすことばである。
 「と」によって結びつけられ、同時に拡大する運動は、常に「つれ」ということばが指し示すように持続している。つまり動いている。動き続けている。その動き続ける動きのなかに、遠心・求心のような互いに矛盾する動きがある。

 「ピアノの幻想」は、この遠心・求心を別のことばであらわしている。2連目3行。

そのすべての方向のまじわるところで

 これは「円き広場」の「広場」そのものである。あらゆるものがそこで出会い、その瞬間に、激変する。新しい世界が生成する。2連目の全体。

さて 聴衆は溺れまいと
音の洪水を泳ぎはじめる。
そのすべての方向の交わるところで
黒く白く冷たい あの楽器は
見る見るうちに 宙に浮き
タイプライターほどの大きさに縮まり
素朴な巨人のための
精巧無比な玩具となる。

 ここで「タイプライター」という比喩が出てくることろが、「詩人」ゆえのことかもしれない。ことば。ことばを叩き出す機械。遠心・求心の一瞬をことばにしたい、そういう欲望が引き出した比喩だろうと思う。
 「宙に浮き」という表現もおもしろいと思う。浮遊感、不安定さ。それは「自由」ということでもある。遠心・求心は「重力」(人間をしばりつけいてる見えない力)から人間を解放する。そして解放されるからこそ、そこでそれまでの自分とは違った存在に新しく生まれ変わることができる。

 遠心・求心は人間が新しく生まれ変わるために通らなければならない「円き広場」なのである。「詩」は、そうした生成の場なのである。


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清岡卓行論のためのメモ(9)

2006-12-22 23:24:29 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「秋の歌」(『ひとつの愛』1970年、講談社刊)は「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」という美しい行が印象的な作品である。その行が強烈なために何度も読み返してしまう。

なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと
深く長い眠りの 洞窟からではないのに
一瞬 記憶喪失にでもかかったように
ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない

そこには たちこめる青く白い霧の乱れ。
のどが激しく乾く夜中にいちど そして
どんな恐怖よりも透明な朝早く もういちど
世界のすべてが まるでわからなくなるのだ。

ああ そんなに深い悲しみの空の涯から
いつも真先にたどりつく 一つの漂流物。
その残酷な言葉を ぼくは誰に語ろう?

熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。
夏のあいだを泣きあかした 瞳のように。
それでも冬に挑もうとする 拳のように。

 この作品には「と」が書かれていない。それなのに私は「と」を感じる。「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」ということばに。
 そして、この詩は、その行を中心にして、私の中で世界を反転させる。何度も繰り返し読んでいるうちに、私はこの作品を第 1連、第2連、第3連、第4連と読んでいるのではなく、後ろから読んでいることに気がつく。「鏡」ということばが出てくるせいかどうかわからないが、まるで鏡に映った像、「逆像」として詩を読んでいることに気がつく。

 この作品は「秋のうた」というタイトルだが、秋ということばはタイトルだけにしか出てこない。そのかわり、「ダリア」を含む最終連に「夏」と「冬」が出でくる。「秋」とは「夏」と「冬」のあいだにある。夏「と」冬を結びつけいてる。夏「と」冬を結びつけいてるのが「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる。」というイメージなのである。それは夏「と」冬を結びつけるだけではなく、同時に夏「と」冬を切り離している。瞳「と」拳を切り離すように。
 この1行を、第3連の最後で清岡は「残酷な言葉」と定義している。なぜ残酷なのだろうか。
 第2連の最終行「世界のすべてが まるでわからなくなるのだ。」
 それは世界をわからなくさせるから残酷なのだ。わかっているはずのことがわからなくなる。何か強烈な引力で、わかっているはずのものが凝縮して、今まで知らなかったものにかわってしまう。それがたとえば「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れる」というイメージである。
 イメージが鮮烈であればあるほど、それが何を意味するのか、それがわからない。なぜ、それが存在するのかわからない。
 そして、そこに存在するものがくっきりと目に見えるのに、その意味がわからない--ということが「愛」なのである。「愛」とは「世界のすべてが まるでわからなくなる」ことなのだ。「あなた」ということばは書かれていないが、その省略された「あなた」がいることははっきりわかる。「あなた」がいるから「ぼく」がいるのだということもはっきりわかる。それが「愛」というものだが、わかるのはそれだけである。そのために世界がわからなくなり、世界がわからないために、「愛」そのものもほんとうに存在するのかどうか不安になる。「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」--そういうしかなくなる。「致命的な」とは「絶対的な」というのに似ていると思う。それがなくなれば「ぼく」は生きてはいけない。そういう意味で「致命的」なのである。

 この詩は循環する。最終連から読み直し、第1連にたどりついたとき、もう一度第1連から読み直したくなる。
 目覚めた瞬間、その新しい世界にであって、「ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。」「思いだせない」と意識してしまうのは、それが全体的に存在するはずであるという感じ(感覚、感情)が清岡にあるからだ。それが「ある」という感覚だけが鮮明で、どんな具合にして「ある」のかわからない。(第1連)
 その一瞬の実感と不安。世界のすべてを見失ってしまう。(第2連)
 理解する手がかりをなくした世界。そこに何かがやってくる。「愛」とは無関係に思えるもの、「愛」とは断絶したもの(つまり、「残酷な」存在--これを清岡は「言葉」と呼んでいる)が唐突にやってくる。ふいの言葉が「世界」だと自己宣言する。(第3連)
 「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」この1行が「世界」である。この1行が「愛」である。
 そこには過去(夏)と未来(冬)が同時に存在している。つまり過去「と」未来が結びつき、ひとつになっている。それはあなた「と」ぼくとの結合そのものである。つまり、愛そのものである。

 「熱にうなされたダリアが 鏡の中で揺れている。」という1行が「愛」だと言っても、その「愛」は「あなた」には伝わらないかもしれない。
 ここで語られている「愛」は「あなた」に向けて語った愛ではないからだ。だからこそ「あなた」が省略されている。
 では、誰に向けて語った「愛」なのか。
 清岡自身、というのでもない。それを超越している。清岡に向けてというよりも、清岡の「愛」そのもの、清岡の肉体の、あるいは精神の内部にあると同時に、清岡からあふれだし、清岡を否定してしまう可能性のあるものに向けて語ったことばなのである。
 清岡は自分がどんな存在であったとしてもかまわない。過去がどう定義されようとかまわない。同時にどんな存在になろうともかまわない。未来がどうなろうとかまわない。そういう過去「と」未来のあいだ、過去「と」未来を結ぶ「現在」に生きている。
 愛の絶頂にしか書けない、強烈なラブソングである。

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木坂涼「調べ」、白石かずこ「あの男は半島だ」

2006-12-21 23:15:27 | 詩(雑誌・同人誌)
 木坂涼「調べ」、白石かずこ「あの男は半島だ」(「現代詩手帖」12月号)。
 木坂涼の詩を読んで感じるのは「共感力」だ。木坂は木や鳥など自然への共感力がとても強い。

         小鳥よ
      お前たちだね
     音のふるさとは

       ふるさとを
  わずらわせていないか
クラヴィーアは耳をすます

    羽根一枚の色合い
        ぬくもり
         危うさ

         小鳥よ
      お前たちだね
     音のふるさとは

 「小鳥よ/お前たちだね」と呼びかけることばのなかに潜む共感力。特に「お前たちだね」の「ね」。自分の「感じ」のおしつけではなく、確認。「ね」は確認の「ね」である。「小鳥よ/お前たちだね/音のふるさとは」という倒置法も、静かに静かに近付いていく共感力を伝えていて、素敵だ。



 白石かずこの「共感力」は肉体の共感力である。「あの男は半島だ」には「韓国の詩人金光林先生に捧げる」というサブタイトルがついている。その前半。

もう半世紀も前だ わたしはあの男が
虹のように 立っているのをみた 詩祭の丘の上に
それから わたしたちは兄と妹になった
わたしには ちいさな島があるが あの男にはない
あの男は上半身もぎとられた半島だ

 「上半身」とは朝鮮半島の北部を指す。確かに地図では北が上だから北朝鮮と韓国の分断は上半分をもぎとることかもしれない。この上半分を白石は「上半身」と呼ぶ。その「身」に直接的な共感がある。
 白石にとって思想は肉体なのである。共感はイデオロギーに対して共感するのではない。感情に対しても共感はしない、というと言い過ぎになるかもしれないが、白石は肉体そのものに反応する。

男の半島は生涯 切られた上半身 そこの父母と一言も話せず
消息すら知らず もうすぐ父母と同じ齢(よわい)八十才になろうとする時
ああ 切られた半島の上に もはや父母の空はないぞ

 北にいる父母は死んだ。そのとき、「父母の空」も消える。ここでも白石は男の父母の肉体に共感している。反応している。井坂洋子は「ひとりの人間には 一人ずつの/空と大地と海が用意されている」(「冥からの」)と書いたが、このひとりを白石は自分自身の問題ではなく、他人の問題としても共感する。それも抽象的な概念としてではなく、肉体として共感する。
 死とは肉体が消えることである。肉体が消えると空も消えるのである。
 白石の「兄」である金光林は上半身は「北」にある。そこには父母がいるはずだった。しかし、その父母が死んでしまって、金の上半身は孤独だ。孤児だ。そうしたありようを精神の問題としてではなく肉体の痛みとして感じ取っている。
 白石の詩の最終行。

半島男よ一緒に粥を食べよう 詩(ウラミ)をたっぷりまぜて

 肉体があるから「食べる」という動詞も生々しく生きてくる。「ウラミ」は浄化された精神の形ではない。肉体の痛み、苦悩がつまった感情である。そういうものを白石はさらに肉体で消化し、肉体に戻すのである。




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四元康祐「妻の右舷」、井坂洋子「冥からの」

2006-12-20 14:01:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 四元康祐妻の右舷」、井坂洋子「冥からの」(「現代詩手帖」12月号)。
 夢とそのあと--書いて、ひらがらのまま変換されなかった「あと」の文字を見ながら、あととは「後」のことか、「跡」のことか、と考え始めた。四元の詩を読み、感想を書こうとし始めた瞬間のこと、つまり、いまのことである。
 私には詩を読むときの「基準」がない。感想を書くときはやはり基準がない。何となく印象に残ったことばについて思いめぐらしているうちに、けなすつもりで書き始めたのに感動したり、逆に感動を書こうとしたのに批判したりする。感想を書きながら作品を読み返しているうちに、感想そのものが変わってしまうのだ。それをそのまま書いてしまうのだ。夢のなかで起きるできごとが、自分の意思とは無関係に動いていくように、そしてその無関係はやはりどこかで私自身であるように……。こんなことを書くのは、たぶん四元の作品が「夢」について書いているからである。

 夢とそのあと。
 最後の2行について書こうとして、そのことばが出てきたのだが、その前の連から引用する。妻の夢を見て、目覚めて「おしっこ」(と四元は書いている)をして、台所へゆく。すると、

台所に見知らぬ子供がいた
つまらなそうな声で、その子は言った
「死ぬのは恐くない。潮が引くと
みんな往ったり来たりしているから」

それから濡れた足跡を床に残して
ガラス戸の向こうの明るみのなかへ入っていった

 最後の2行の主語は誰だろう。「その子」だろうか。たぶん詩のことばの流れからいえばそうなるのだろうが、四元自身とも読むことができる。さらには「その子」であると同時に四元であるとも、つまり四元が「その子」になって動いたとも読むことができる。
 「夢の跡」が「夢の後」にまで深く残っている。
 台所の見知らぬ子供--その子自身、「夢の跡」を背負って「夢の後」にあらわれた存在かもしれない。「死ぬのは……」というのは、子供のことばではない。四元が聞いたり読んだりしたことば、あるいはそういうことばから影響を受けて思いついたことば、四元の詩のなかのことばを借りていえば、四元とだれかの(世界の)あいだを「往ったり来たりしている」ことばなのだろう。何かが死んでしまった後のことば、死んでしまった後、なおかつ残っている生きていた「跡」としてのことばなのかもしれない。
 最終連の「濡れた足跡」とは、「その子」が「潮が引」いたあとの場所、つまり「死」んだ後の場所にいた証拠である。そしてまた、「その子」のことばを聞くことで、四元は、台所ではなく、そのことばが動いている場所、つまり潮が引いた後の場所に引きずり出され、やはり足を濡らしているのだから、その足跡は四元の足跡ともなる。
 夢はまだつづいているのか。夢の跡が夢の後に刻印されているのか。
 読めば読むほどというか、そのことについて書こうとすれば書くほど、その区別はあいまいになる。いや、あいまいというのは正確ではなく、実は意識のなかでは、まるで夢のように鮮やかにくっきり見えすぎて、現実の世界に対応したことばにすることができない。どう書いてみても、私が見ている夢のようなくっきりした状態を再現できない。
 四元の見た夢の跡が私のことばに侵入してきているのだ。

 (こういう状態が、私は、実はとても好きである。ふいに「詩を書きたい」という欲望が目覚めるからである。)



 それにしても今回の「年鑑」には「死」ということばが非常に多く登場する。「死」と深いところで肉体的に共鳴している人が編集したのだろうか、という思いが残る。
 井坂洋子「冥(よみ)からの」も「冥」が「死」と通じる。

ひとりの人間には 一人ずつの
空と大地と海が用意されている
満々とした水を抱え 氾濫もせず
一定の場所を動かなかった(わたしの)海は
きょう旅だっていった
よってわたしにはふくらんだ空と大地が
果てしなく 重なっているのみ
巨大な上下の布団のあいだを
常闇(とこやみ)の国の支社がぼこぼこと足踏みしめ
時々転倒しているのみ

 「よってわたしにはふくらんだ空と大地が/果てしなく 重なっているのみ」という行の「よって」ということばが、なぜか気持ちがいい。「のみ」という断定も気持ちがいい。たぶん、これは四元の詩を読んだ直後に井坂の詩を読んだことによって生じる気持ちよさだと思う。
 四元の詩には「よって」という理由をあらわすことばのかわりに「それから」という事実の経過を指し示すことばしかなかった。四元の詩にはさまざまな事柄が書かれているが、あらゆることがらに理由はなかった。なぜ、台所に子供がいるのか、理由はなかった。なぜ、濡れた足跡なのか理由はなかった。
 ところが井坂は「よって」というのである。「よって」のかわりに「そして」という事実を追加する方法でも描写できるけれど、井坂は「よって」を選ぶのである。そのことばの選択、「よって」を選び取るところに井坂の個性がある。
 そして、その「よって」は論理的というよりは、書き出しの「ひとりの人間」ということばが象徴的だが、井坂ひとりの断定、独断である。
 その独断が気持ちがいい。独断のなかに「詩」がある。独断を絶対的な個人的思想と読み替えるとき、それが「詩」であることがよくわかる。

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友部正人「おばあさんのやかん」松浦寿輝「旅」

2006-12-19 13:23:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 友部正人「おばあさんのやかん」松浦寿輝「旅」(「現代詩手帖」12月号)。
 友部正人の「おばあちゃんのやかん」は不思議なあたたかさがある。ふるさと、といっても12月18日に触れた正津勉の「さらばさるべしさようなら」のように具体的な場所(地名)が出てくるわけではない。「おばあさん」が「ふるさと」とし登場する。そして、その「おばあさん」は、常に何かと一体である。「おばあさん」自身がひとつの感情なのである。

おばあさんはやかんの上に
やかんは火鉢の上に
火鉢のまわりには十二人の兄弟

 「まわり」まで含めて「おばあさん」なのである。「おばあさん」がひとつの肉体というよりも「まわり」を含んだものだからこそ、その一体感のなかに友部はすーっと溶け込んでいく。
 書き出しの3行につづく各連も、「まわり」を描いている。2連目。

街が桜の花びらでうまるころ
おばあさんはやかんに乗って旅に出た
まだ年は八十歳だった

 「街が桜の花びらでうまるころ」は単に「おばあさん」が亡くなった時(日時)をあらわしているのではなく、やはり「まわり」をあらわしているのである。何月何日よりも「まわり」に何があったかが重視されているのである。
 そして、その「まわり」は実は時間を超える存在である。
 6、7、8連。

まだおばあさんが家にいて
火鉢の上でお湯をわかしていたころ
ぼくには不思議な思い出がある

外には雪が降っているのに
家の中は暖かく
裏庭には桜が咲いていた

暗い夜道を帰って来ると
やかんの上にはおばあさんがいて
裏庭にはいつも青空があった

 外は雪でも裏庭には桜、時間が夜でも裏庭には青空。それは、友部の頭の中の記憶ではなく、感情なのである。「暖かな」ということばがあるが、あたたかな思い出(あたたかな感情)の、そのあたたかささが「まわり」の具体的な在り方なのである。
 感情は「忘れる」ということがない。感情はいつも時間を超越する。空間を超越する。そのとき「詩」があらわれる。最終連。

町が桜の花びらにうまるころ
真新しい畳の匂いをかぎに
おばあさんがやかんにのって帰ってくるよ

 最後の「よ」もいいなあ、と思う。感情をしっかりと押えている。動かないものにしている。なんといえばいいのだろうか、ちょうど俳句の「切れ字」のような感じだ。「おばあさん」はいつも友部のこころのなかに生きている。その喜びが「よ」のなかに輝いている。

 *

 松浦寿輝「旅」は「感情」というより「感覚」の「旅」である。
 「感覚」と「感情」(友部)、「頭脳」(正津勉)はどう違うのか、それ単独に取り上げると説明がしにくいが、正津、友部の作品と松浦の作品をつづけて読んでみると、松浦は「感覚」で考えている、「感覚」で感じていることがわかる。
 「旅」という詩には「また」ということばが繰り返し出てくる。

わたしはまたふたたび幽暗の河をさかのぼり

 この書き出しには「また」と「ふたたび」と同義のことばが繰り返されてもいる。「また」は20字、22行の作品に 4度も登場する。このすべての「また」は「感覚」である。先に私は、松浦は「感覚」で考え、「感覚」で感じると書いたが、それは便宜上のことであり、ほんとうは思考や感情にまでたどりついていない途中の「感覚」である。思考や感情になる以前の途中というものが松浦の「感覚」なのである。
 松浦が「また」を繰り返すのは、その思考でも感情でもない自分自身の「感覚」を「感覚」として立ち止まらせるためである。「感覚」が先走って何かを見落とす--ということを、松浦は恐れているようでもある。世界のすべてを「感覚」と融合させる、そのために「またふたたび」どころか、「また何度でも」「旅」をするというのが松浦のことばである。松浦の肉体が旅をするというより、ことばが旅をするのである。

葉のへりから滴る雨粒が地面に落ちるまでの 時間の変化に目を凝らす

 そういうものが人間に認識できるか。頭脳では認識できない。感情でも抱き留められない。ただ感覚だけが「感知」するのである。
 松浦のことばは「感知」の一瞬をもとめて、ひたすら肉体と頭脳と感情をゆっくり歩ませ、なおかつ差異をもとめて繰り返し。繰り返し(また)によって、初めて差異が生まれる。初めて(一度)では差異は存在せず、したがって何も「感知」することはできない。「感知」する人間として、松浦は自分自身を提出しようとしているように思える。

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