藤井貞和「8 破壊」(「現代詩手帖」12月号)。
「と、そう書いて、」「と書きつづけて」に私は「詩」を感じる。書くこと、書きつづけることが藤井にとって「詩」である。単に書く、書きつづけるというより、書いたことを読み返しながら書きつづける。「と、そう書いて、」の「と、」と「そう」のなかに含まれる意識の動き。中断と反芻。中断し、反芻することによって、先に書いたことから飛躍する。違った次元へことばを動かしていく。「書きつづける」は、このとき単なる持続ではない。むしろ切断である。切断しながら、それまでの次元とは違ったものと接続することが書きつづけるということなのである。
作品はつづく。
繰り返される「いいえ。」それが切断と持続を押し進める。新しいことばを引き寄せ、さらに飛躍するために書いたことを「消してしまう」。この「消してしまう」は否定ではなく、切断の強調である。ことばは消したとき見えなくなるけれど、意識には深い痕跡が残る。その痕跡はときには消さずにそのままにしておいたときよりも強烈に意識に働きかける。消さずに残したときは切断はぼんやりとしか意識されないが、消すというのは意識的な切断だからである。ことばはいっそうの飛躍を要求される。いっそうの「自由」を要求される。
藤井はことばを自由にするために、書き、反芻し、さらに消しながらことばをつづける。さらに言えば、藤井は消しゴムで書くのである。このとき「消す」対象は、それまで藤井が(同時に、私たちの日本語が)無意識的に抱え込んでいる日本語の限界、日本語の体制的束縛である。日本語をあらゆる無意識の束縛から解放し、自由にするために藤井は書いて、消すのである。消すことが書きつづけることになるのである。消した「証拠」として書きつづけるのである。
この書くことをめぐる運動は自己矛盾である。そして矛盾しているからこそ思想なのである。「詩」なのである。
「永田洋子も、
しげのぶふさこも、
ともだちの、
ともだちの、
ともだちではなかったかしら。」
と、そう書いて、
「いいえ。 われらは、
愛するひとを、
つぎつぎに、
砂にうずめて、
毎日をわたる 遊牧。
あとにのこる二本のわだち、
はるかなラインを引く白のかなた、
砂けぶりの埋葬を、われら。」
と書きつづけて、
「と、そう書いて、」「と書きつづけて」に私は「詩」を感じる。書くこと、書きつづけることが藤井にとって「詩」である。単に書く、書きつづけるというより、書いたことを読み返しながら書きつづける。「と、そう書いて、」の「と、」と「そう」のなかに含まれる意識の動き。中断と反芻。中断し、反芻することによって、先に書いたことから飛躍する。違った次元へことばを動かしていく。「書きつづける」は、このとき単なる持続ではない。むしろ切断である。切断しながら、それまでの次元とは違ったものと接続することが書きつづけるということなのである。
作品はつづく。
「いいえ。 残虐な行為が、
あかさびのそらににじんで、
沼のうえ、犯人はわたしです。
タイヤ跡から、
髪や、
顔面がぐっちゃりと潰れて取りだされ
あさひのうちがわで われらは、
あざやぎを終えました。」
そこで消してしまうと、
繰り返される「いいえ。」それが切断と持続を押し進める。新しいことばを引き寄せ、さらに飛躍するために書いたことを「消してしまう」。この「消してしまう」は否定ではなく、切断の強調である。ことばは消したとき見えなくなるけれど、意識には深い痕跡が残る。その痕跡はときには消さずにそのままにしておいたときよりも強烈に意識に働きかける。消さずに残したときは切断はぼんやりとしか意識されないが、消すというのは意識的な切断だからである。ことばはいっそうの飛躍を要求される。いっそうの「自由」を要求される。
藤井はことばを自由にするために、書き、反芻し、さらに消しながらことばをつづける。さらに言えば、藤井は消しゴムで書くのである。このとき「消す」対象は、それまで藤井が(同時に、私たちの日本語が)無意識的に抱え込んでいる日本語の限界、日本語の体制的束縛である。日本語をあらゆる無意識の束縛から解放し、自由にするために藤井は書いて、消すのである。消すことが書きつづけることになるのである。消した「証拠」として書きつづけるのである。
この書くことをめぐる運動は自己矛盾である。そして矛盾しているからこそ思想なのである。「詩」なのである。