北川透「「海馬島遺文」四片」(「耳空」創刊号、2009年07月01日発行)
北川透の詩のおかしさは、そこに書かれている「意味」はでたらめ(?)なのに文体が強靱であるということだ。「「海馬島遺文」四片」の冒頭の「旅行団」。その書き出し。
駅から旅行団が降りてきました。その数、五十名くらいか。彼らの到着を待っていたわたしも、なぜかその一員でした。花粉症の患者がするような大きな黄色いマスクで、顔全体を覆っていることが、同類の証のようでした。彼らが何者か、なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。駅前は水浸しでした。水嵩はどんどん増してきます。
「分かりません」ということばが出てくるが、この詩に書かれていることの、因果関係というか、「意味」というか、「物語」がいったい現実の何と関係しているか、さっぱりわからない。「わたし」と「彼ら」は水の中をどこまでも歩いている。その途中に、次の部分がある。
何処を目指しているのか、目的は何なのか、何も知らず、ただ水流の中を歩いています。
ベストセラーの村上春樹の「1Q84」の主人公たちが、それがほんとうの目的であるかどうかは別にして、それぞれ「目的」を目指して行動していたのと対照的である。
目的も原因もわからない。それなのに「わたし」は歩いていける。そして、そのとき、出会ったものをことばにすることができる。ことばは、そんなふうに目的のない(目的のわからない)人間にとっても、ことばとして存在する。
目的がないから、とりあえず、そこにあるものをことばにするしかないのか。それとも、そこにあるものを書いてしまったために、ことばは目的を見失ってしまったのか。どちらであるか、わからない。どちらであっても同じことなのか、それともまったく違ったことなのか、考えはじめれば、ことばはどちらの方向へも動いていってしまうだろう。動いていけるだろう。ちょうど、北川が書いていることばのように。
ことばは動いていく。目的があろうが、なかろうが、ことばはことばになるということを動いてしまう。目的がなければないほど、ことばはより自分自身になろうとするかのようだ。
そして、その結果として、ゆるぎのない文体、強靱な文体になる。
どこを取り出してもいいけれど、北川の文は、その一文一文が完璧である。主語と述語があり、現実(日常)との具体的な関係を無視すれば、きちんと「意味」が通る。
書き出しの「駅から旅行団が降りてきました。」ということばを読んで、そこに書かれていることをイメージできない人間はいないだろう。「その数、五十名くらいか。」にしても同じである。書かれていることは、完璧に理解できる。完璧に理解できることばが、つぎつぎにつながっていき、そのときに、完璧には理解できない何かが出現する。
この旅行団が旅しているのはどこ? そんな街がある? そんな旅が可能? 目的地がわからない旅ってある?
そういうことは、いっさいわからないのに、何かかがわかる。
わからないものをつなぎとめる力が北川にはある。その力がことばをつなぎ、同時に動かしている。
そして、その何かは、句点「。」のなかにあるのかもしれない。ことばをいったん区切ってしまう力のなかに、あるのかもしれない。
私は、いま、矛盾したことを書いたかもしれない。
北川のことばは、どこまでもつながっていく。そして、そのことばは、同時に、ことばとことばを区切ってしまう。句点「。」で切断する。
ことばのなかには、接続する力と、逆に切断する力がある。接続する力と切断する力というのは「矛盾」である。この「矛盾」を、矛盾とは感じさせない文体の力。--それは切断ではなく、飛躍(超越)と言いなおせば、矛盾ではなくなるかもしれない。
北川はことばとことばの接続する力を句点「。」で切断するのではなく、句点「。」を飛躍のための台(跳躍台)にして新しく動いていくのである。飛躍・跳躍・超越することで、「いま」「ここ」ではないものにつながるのだ。
北川のことばがわからない、そして北川が書いているように、その旅が「わからない」旅になってしまうのは、その動き・運動が「いま」「ここ」とは違った世界へとつながるからである。「いま」「ここ」を切断し、蹴飛ばして、「いま」「ここ」ではない世界とつながる。
「いま」「ここ」ではない世界を、「いま」「ここ」にあることばで描写すれば、どうしたって、それは「いま」「ここ」とは正確に対応しないのだから、わかるはずがない。わからないものになってしまう。
わからないものになってしまう。わからないものになれる。
こういうことを、私は「自由」と呼びたい。「いま」「ここ」ではない何か、わけのわからないものになれる--それは自由だ。「いま」「ここ」という束縛から解放されるからである。そういう自由を北川は描いている。
ことばが、そういう自由を手にいれるとき、人間もまた自由である。ことばは人間と同じものだからである。
北川がいったい何になるのか、それはだれにもわからない。北川にもきっとわからない。わからないからこそ、その「なれる」ということに向けて、ことばを動かしていく。
ふつう、そういう目的のないことばの運動はどこかで失速するものだが、北川のことばは失速しない。どんどん加速する。加速するたびに、そのことばの筋肉が強靱になっていく。
あ、どんどん、書きたかったことから遠ざかっていくようでもある。
この詩には、「彼らが何者か、なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。」ということばがあった。「分かりません。」それに通じることばが、この作品には何度も出てくる。「何も知らず」もそうだ。
北川のことばの筋肉は、「分からない」「知らない」と書いても、どんどん飛躍していけることろまできているのだ。
普通、分からない、知らないということを踏まえて、どこかへ飛躍するということはできない。わかっていること、知っていることを土台にして、わかっていること、知っていることへ向けて、ひとはことばを動かす。それは、あらかじめ決定された世界のなかに、類似の構造をつくりあげることかもしれない。知っていること、わかっていることを整理し、そのなかにことばを誘い込み、他人を誘い込み、自分を誘い込み、安定した世界、強固な世界を再現する--それが普通のことばの運動である。
また村上春樹の「1Q84」に戻ってしまうが、村上春樹の小説は、村上春樹が知っている世界、わかっている世界を、ことばで再構築し、その構造でことばの「意味」をひとつひとつ決定している。そこではことばは自由に動いていない。ある「構造」「意味」にしばられている。「構造」と「意味」が互いをしばりあっている。村上春樹の小説では、「構造」と「意味」の関係がゆるぎがない。
北川の詩では、「構造」と「意味」はでたらめ(?)である。(目的が明確に設定されていないのだから、とりあえず、「でたらめ」と呼んでおく。--ほんとうは、もっとふさわしいことばがあるかもしれない。)そして、「構造」と「意味」が強靱に結びついていないかわりに、「構造」と「意味」を蹴飛ばし、破壊していく筋肉そのものが強靱なのである。
北川は、村上が「構造」を作り上げることばの運動を展開しているのだとすれば、それとは逆に、「構造」を破壊することばの運動を展開している。「構造」を破壊する--というよりは、「破壊」そのものを作り上げる運動といった方かいいかもしれない。
村上春樹は、ことばには「物語」が必要だと言った。けれど、きっと北川なら、ことばに必要なのは「物語」を破壊する力だと言うと思う。
「物語」を破壊するには、「物語」を築き上げる力よりも、もっと強い力が必要だ。筋力が必要だ。