詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(44)

2009-07-31 06:54:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六九
夕顔のうすみどりの
扇にかくされた顔の
眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに
秋の日の波さざめく

 「さ行」の音が響きあっている。この詩でも最終行「波さざめく」には助詞がない。助詞がないことによって、ことばのスピードが速くなっている。

七〇
都の街を歩いてゐた朝
通りすがつた女の後(うしろ)に
ベラームのにほひがした
これは小説に出てゐたことだ
誰の書いた小説か忘れた
さほど昔のことならねど

 詩は体験を書くわけではない。ことばを書く。
 実際に女の匂いをかいだように書いて、それは実は小説のことである、と切り返す。その瞬間、頭のなかに浮かんだ光景が、ことばそのものになる。
 その軽さがとても楽しい。

七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき

 この詩は西脇の嗜好をとてもよくあらわしている。「まがつてゐ」の木。そして、それが「便所」という俗なもののそばにあること。この場合「俗」はほとんど「永遠」とおなじである。「聖」よりも「俗」が永遠なのだ。そこには、人間の暮らしがあるからだ。
 「俗」のおかしみ。そしてそれを「淋しさ」と結びつけている。
 わび・さびというものが対象に属するとしたら、淋しさは対象ではなく、その対象にむけられた人間のいのちのなかにある。わび・さびは共有できるが「淋しさ」とその美しさは、たぶん、共有できない。共有できないからこそ、それを西脇は書く。書くことで、そこに成立させる。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
新潮社

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杉本徹『ステーション・エデン』(2)

2009-07-31 00:02:24 | 詩集
杉本徹『ステーション・エデン』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)

 杉本徹『ステーション・エデン』の作品群は、ことばが、ことばを求めている。最初から書きたいことばがあるのではないのだ。あることばを書く。そうすると、そのことばが、別のことばを求めるのだ。
 詩集のタイトルの「ステーション・エデン」。書き出し。

移りゆく日付は彗星から来た。歩道橋より垂れて滲むラテラノの光を踏み、環状道のさす夜行性鹿(ディア)たちの、背を数えて。

 これは単なる倒置法ではない。倒置法ではないことは、「歩道橋より……」を冒頭にもってきて、「移りゆく日付は彗星から来た。」を末尾にもってくればわかる。ふつうの文章にしても、書いてあることがわからない。(と、書くのは申し訳ないけれど……。)
 最初に句点「。」のある文章が来て、それにつづく文章が「数えて」と連用形でおわると、どうしても倒置法の文章だと思ってしまうが、そうではないのだ。
 「移りゆく日付は彗星から来た。」と書いたとき、杉本には、それが何を書こうとしているのかまだわかっていない。これは、悪い意味で行っているのではない。
 杉本がことばを書いているというより、ことばが、杉本に「移りゆく日付は彗星から来た。」と書かせているのだ。ことばが、杉本なら、そのことばを、きちんと沈黙と闘わせることができると判断して、杉本を書き手として選んでいるのだ。詩人とは、ことばを選ぶ人ではなく、ことばによって選ばれる人なのである。

移りゆく日付は彗星から来た。

 主語も述語も、全部わかる。ことばとして、ひとつひとつの「意味」はわかる。けれど、それが現実のどのようなこと指しているのか、それは、わからない。(私にはわからない、ということで、私以外の読者のなかには、書かれている「意味」がわかる人もいるかもしれないが……。)
 そのひとつひとつはわかるけれど、全体としてはわからないことばは、どうやって存在しうるのか。それは、新たなことばを求めることで存在している。音楽のひとつの音が別の音を求め、和音をつくるように、杉本のことばは「和音」をつくることばを求めている。
 彗星は夜。夜は人工の光「ラテラノ」(ランタン、のことだろうと思って読んだが、違うかもしれない。私は外国語がわからない)を呼び出す。そして、そこには車が走りはじめる。--冒頭の2行は、環状線を走る車の描写を連想させるが、「ステーション」というくらいだから、「環状道」というのは道路ではなく、線路かもしれない。呼び出されることば、イメージが、冒頭のことば同様、ひとつひとつの単語はわかるが(私には「ラテラノ」が正確にはわからなかったけれど)、全体としてぼんやりしたイメージとしてしか把握できないのは、「移りゆく日付は彗星から来た」自体が明確なイメージ、現実に対応した「流通言語」ではないからだ。
 あいまいなもの、正確(?)ではない言語、いや、流通言語を逸脱していくことばは、積み重ねれば積み重ねるほど流通言語を逸脱していく。ますます、わからないものになる。それは必然である。
 だが、意味はあいまいになるけれど「和音」のようなものはしだいに安定してくる。ひとつのことばだけでは不安定だったものが、響きあうことばと出会うことで、不思議な安定感を持ちはじめる。広がるのである。単独であることを超越して、広さをもった何かに変わるのである。
 繰り返しになるが、冒頭の2行で書こうとしていることは、私には正確にはわからないけれど、わからないなりに、そのことばから夜の風景が浮かんでくる。夜の風景になろうとする何かが浮かんでくる。
 杉本にしても、最初からイメージがあって、それにあわせてことばを探してくるというよりも、最初のことばに反応してあらわれる次のことばから、これは響きあう(和音になる)と判断したものだけを選んでいるのだと思う。ピアノでメロディー、和音をつくるように、ひとつのことば(音)を中心にして、いくつかのことば(音)の間を組み合わせてみる。そして、そのなかで自分の耳に(感性に)あったものだけを選びつづけるのだと思う。
 このとき、杉本がことば(音)を選んでいるのではなく、ことば(音)が杉本を選んでいる、と私は思う。ことば(音)に選ばれる喜びのようなものが、その文体に滲んでいる。杉本の書いていることがらは、どちらかといえば悲劇的というか、冷たい感じのするものだが、そこには不思議な祝祭のような響きもある。喜びがある。

 いくつものことばが杉本を通りすぎる。そして、杉本がことばを選ぶのではなく、ことばによって杉本が選ばれる。その選ばれる瞬間、一瞬の「間」として、ここでも読点「、」がいきいきと動いている。読点「、」があることによって、ことばそのものが「空間」というか「間」をつくり、「間」によって「和音」が美しく響く。ことばとことばが競合せず、「間」のなかに不思議な触れ合いの余裕ができる。
 ことばは連続するのではなく、触れ合うのだ。
 冒頭の書き出しに戻る。それが倒置法なら、文章を入れ換えることで完全に接続する。連続する。けれど、もともと連続を求めていないことばなのである。連続するのではなく、触れ合うこと、触れ合うことで、ひとつでは存在しなかった響きを感じさせるための句点「。」なのである。そして、句点「。」の方が、読点「、」より「間」が大きいのだ。読点「、」のような一瞬ではない。深い、遠い、距離がある。そして、それが深く、遠いからこそ、その「間」を超えてくることばは、より現実から遠いものになる。
 「数えて」というような連用形は、広がりすぎた「間」をなんとか縮めようとする言語操作かもしれない。拡大していく「和音」を最初のシンプルな音に戻すための操作かもしれない。
 この詩では、すべての連が、あくまで「倒置法」を装った、連用形や助詞などで終わっているが、それは、ことばを再出発させるためである。ことばに、杉本を選ばせ直すためである。

 タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからないが、句点「。」はまさにステーション(駅)なのだ。そこにはいくつもの方向から列車がやってくる。ひとはそこで触れ合い、また別の方向へ動いていく。
 句点「。」という駅は、は巨大な沈黙の補給基地かもしれない。

 タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからない--と書いたが、それがことばに選ばれるということなのだ。杉本の意図とは無関係に、そういう意図があると誤読できる。そういう誤読を誘うことばが存在するということが、選ばれるということだ。
 誰も誤解しないような「正確な」ことばは、ことばによって選ばれた結果ではない。法律用語のように、何重にもしばりあげた(選択しつづけた)結果、やっと成り立つものである。
 誤解されるようなことばを選ばされてしまう--それが詩人の特権というものかもしれない。



十字公園
杉本 徹
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(43)

2009-07-30 07:37:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六五
よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 2行目は「さがみがわにそふ(う)みちをくだる」と読むのだと思う。思うけれど、それにつづく行を読むとき、ふと「さがみがわにそふ(う)どうをくだる」と読みたくなる。3行目の「おもいにをせおふ(う)(しょう)どうじに」の「さ行」のゆらぎ、「どう」という音の重なりと響きあう。
 そうした響きあいのあとで、「道をきいた昔の土を憶ふ」を読むと「土」は「つち」なのだろうけれど、記憶をくすぐる感じ(憶ふ--というのは、そういう感じじゃないだろうか)で、「ど」の音が聞こえてくる。目は「つち」と読んでいるのだけれど、耳は「ど」とささやいている。
 だからこそ「土」を記憶からひっぱりだすのだと思う。
 「昔の土を憶ふ」ということばで西脇があらわしたかったのは、どこの「土」だろう。どういう土だろう。歩いている道の「土」だろうか。人々が踏み固めることでできた土の道のなかにある時間だろうか。
 もっと素朴に、童子の肉体や服に「土」、「土まみれの童子」を思い出したということではないだろうか。
 子どもは働く人間である。いまは違っているが、昔の子どもは働いた。子どもも働くというのが人間の暮らしである。いのちである。この詩には「淋しい」ということばはないが、そういう働く子どもに「淋しさ」がある。いのちの美しさがある。

 私は貧しい田舎の生まれなので、そんなことを思った。小学生のとき、私だけではなく、友達はみんな、おぼつかない手でくわを持ち畑を耕した。重い野菜や刈り取った稲を背負って家まで運んだ。肉体も服も泥まみれであった。

六八
岩の上に曲つてゐる樹に
もうつくつくぼふしはゐなく
古木の甘味を食ひだす啄木鳥(きつつき)たたく

 最後の行の「啄木鳥たたく」がとてもおもしろい。助詞がない。キツツキがたたく、だろう。西脇はこういうとき、しばしば「の」を使うけれど、ここでは省略されている。その結果、「か行」「た行」のおもしろいリズムが生きている。直前の「食ひだす」ということばも、最後のリズムに大きく影響している。修飾語がキツツキにぴったりくっついて「間」がない。その「間」のないリズムが「きつつきが(あるいは、の)たたく」とあるべきころろから、間延びする「が」(の)を奪いさったのだ。
 2行目の「ゐなく」「たたく」と脚韻になっているところも、リズムを強調している。



西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年)
新倉 俊一
筑摩書房

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杉本徹『ステーション・エデン』

2009-07-30 00:53:04 | 詩集
杉本徹『ステーション・エデン』(思潮社、2009年06月30日発行)

 杉本徹『ステーション・エデン』の詩篇はどれもとても静かである。ことばのひとつひとつが競い合わない。こんな例えがいいのかどうかわからないが、倒れそうになるのを互いがささえあって立っている。そういう印象がある。
 「走り書きの炎のように」の冒頭の1行。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて

 「窓の時代のおわり」というものを、どう感じていいのかわからない。けれども、そのあとすぐに「夜景のようにみつめて」とことばがささえるとき、私は窓から時代のおわりの夜景をみていると錯覚する。「窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて」は私の意識のなかでは姿をかえて、「時代のおわりを、窓から、夜景のようにみつめて」となっている。
 こういう誤読がいいのかわるいのか、私にはわからないが、私のもっていることばが杉本のことばとであって、ねじれながら、なんとかひとつのイメージをとろうとしているのがわかる。
 こんな誤読を許してくれているのが、読点「、」である。「窓の時代のおわりを、」と読点「、」によって一呼吸置く。そのとき、その一呼吸のなかに「窓の時代のおわり」ということが反復される。私の頭のなかで反復される。なんだろう、と一瞬と惑って、ことばが切断され、分離される。日本語には助詞があり、ことばを粘着力でしばっているが、ちょうど助詞のない外国語(たとえば英語)の文章を読んだときのように、単語がひとつひとつ分離して孤独になっていく。どのことばと、どう結びついていいのかわからず、孤独になって、冷たくなっていく。
 そして、一呼吸のあとに「夜景のようにみつめて」とういことばがやってくると、ばらばらになったことばが杉本の指定した粘着力(助詞)を無視して、さーっと動いて、「時代のおわりを、窓から、夜景のようにみつめて」となってしまう。
 あ、間違えて読んでしまったなあ、と思って読み返すとき、今度は読点「、」の位置が私の頭のなかで移動する。

窓の、時代のおわりを夜景のようにみつめて

 つまり「窓から、時代のおわりを夜景のようにみつめて」というふうに変わっていく。「窓の」ということばが冒頭にでてきたのは、その「窓」が特別な窓だからだということがわかる。特別な「窓」があって、その窓からみつめると、いつもと違ったものが見えるのだ。
 どんな窓か。
 詩を読み進むとわかる。次のことばが窓をしっかりと支えてくれる。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて
たとえば一羽の鳥を消す
その影が、冬の車輛の二十時から
墜ちていった町の名だったと、遠い翼の理性は光のない音だったと
あけがたに語る、……めぐり歩く街路も筆跡の闇だった

 ことばを発している人(杉本)は、冬の列車に乗っている。窓は列車の窓である。そのとき、走り去るのは列車(杉本)なのだが、杉本には、風景が走っているように感じられる。一種の逆転現象が起きる。その逆転現象のなかで、ことばは、いつもの粘着力を失って、遠近感がないまま世界をとらえる。
 列車に向かって走ってくる風景(存在)が、次々に視界を切り離し、同時に記憶のなかで世界が再構成される。その再構成の瞬間、ことばが支えあうという印象が私にはするのである。
 「夜景」ということばではじまったからなのかもしれないが、くらい夜に耐えている孤独なもの(存在)が、明かりをともして走る列車に向かって走ってくる。杉本の窓に走ってくる。杉本の意識の(ことばの)なかに組み込まれ、ひととき、「いま」「ここ」ではない何かとして存在したいという夢を実現させている。
 淋しい淋しい、そして冷たい夢だ。

 たぶん、読点「、」と改行のタイミングが不思議な「間」となって、ことばを分離し、孤立させ、また呼び寄せ合うのだろう。ことばが美しいのはもちろんだが、杉本は、読点「、」や改行の呼吸が美しいのだ。その呼吸が、ことばの冷たく淋しい夢を静かに浮かび上がらせる。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて
たとえば一羽の鳥を消す
その影が、冬の車輛の二十時から

 この2行目の「鳥」。1行目から2行目への改行にあわせて唐突にやってきた「鳥」は、次の改行で「影」にかわる。「鳥」が消されているにもかかわらず「影」だけが残る。その不安定な世界で、また読点「、」があらわれ一呼吸する。
 その一呼吸が、「消す」のである。何を消すか。日本語の粘着力を、助詞のようななにものかを消すのである。教科書国語のことばの法則から逃れて、ものが(存在が)、ことばそのもののなかで孤立する。
 それは、まるで外国語である。
 外国語を読むとき、辞書をひく。そうすると単語ひとつひとつの「意味」はわかる。単語ひとつひとつはわかるのに、全体の「意味」はばらばらにほどかれて漂っている。そういう感じ。
 詩は、日本語ではなく、外国語なのだ。しかも、おなじことばを話すひとはだれもいないという外国語。つまり、杉本の書いているのは「杉本語」という外国語なのだ。
 だからこそ、呼吸に共鳴することが必要なのだ。
 どんな国のことばも「意味」はわからなくてもわかることがある。ことばを発するときの「呼吸」である。怒っているとき、笑っているとき、困っているとき--それぞれに呼吸がある。呼吸がわかると(空気がわかる、ということかもしれない)、ことばがわからなくてもコミュニケーションができる。
 杉本の呼吸の特徴は、とても静かだということだ。そして、その呼吸のとき、必ず前のことばが反復されている。反復するために呼吸する。呼吸のなかで、反復し、そのとき古い(?)粘着力を切り捨て、新しいもの(存在)との出会いへ向けてことばを無音のまま押し出す。
 呼吸は、無音のことばなのだ。沈黙のことばなのだ。
 そして、杉本が書いていることばは、その沈黙と深いところで拮抗している。
 私は最初に、ことばが支えあっていると書いたが、それは間違いだ。支えあっているように見えるのは、そのことばのあり方があまりにも孤独だからである。ほんとうは、孤独のまま、深い沈黙と闘っている。

 とても美しい、とても静かな、とても透明な詩集である。



ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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スパイク・リー監督「セントアンナの奇跡」(★★★)

2009-07-29 12:14:08 | 映画
監督 スパイク・リー 出演 デレク・ルーク、マイケル・イーリー、ラズ・アロンソ

 第二次世界大戦のイタリア・トスカーナ。アフリカ系アメリカ人が奮闘している。そこであったドイツ兵による大虐殺と、その大虐殺を生き延びた奇跡の米兵、そしてイタリアの幼い子供。
 映画は、その奇跡をとても手際よく描いている。スパイク・リーは「ファンタジー映画」と呼んでいるらしい。たしかにファンタジーである。そしてファンタジーであるからこそ不満が残った。
 なぜアフリカ系の軍人が養成されたのか。イタリアへ派遣されたのか。そのとき、彼らに対する「差別」はどんな状態だったか。映画ではそういうスパイク・リーのこれまで描き続けてきた問題も描かれはするが、追及の度合いが弱い。
 そのかわりイタリアの村人とアフリカ系米兵との、とりわけ少年との交流があたたかく描かれる。少し「汚れなき悪戯」(パン・イ・ビノ)のような味わいもある。少年が米兵に神(伝説の偉人)を見るだけではなく、米兵も少年に神をみる、という点が「汚れなき悪戯」より、相互関係があっておもしろいのだが。
たぶんスパイク・リーは「相互関係」というか、どこにでも善と悪、正義と不正がある、という相関関係を描きたかったのかもしれない。
 ドイツ兵のすべてが無慈悲なわけではない。パルチザンのすべてが正義の戦いをしているわけではない。米兵が全員一致団結しているわけでもない。裏切りも、恋のさや当てもある。どんなとき、どんなところでも、人間のこころはおなじように動く。
 だからこそ正直なこころが触れ合うと、それがとても美しく輝く。少年に十字架をお守りとして渡すシーン、彫刻の頭部を大事に引き継ぐシーンなど、信仰心のない私でさえ、「どうぞ、2人を守ってください」と祈りたい気持ちになる。
 トスカーナの自然の美しさ、特に山の美しさ、つましく暮らす村の生活、石畳の美しさ、壁や扉の美しさ――そして、無造作(?)にわけあうパンの実質的な美しさが、素朴な信仰(信仰というより、祈り、かな?)としっくりとなじむ。



 本筋とは違うのかもしれないが、ドイツ兵とアメリカ兵が入り乱れる戦場に響きわたる「東京ローズ」風の、女性の倦怠感あふれる呼びかけ、それに苛立つ兵士――という映像が、不思議に清潔感があって、おもしろかった。スパイク・リーは何を撮っても清潔な映像になる。これは、彼の長所だと思う。




ドゥ・ザ・ライト・シング (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初回生産限定】 [DVD]

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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誰も書かなかった西脇順三郎(42)

2009-07-29 09:16:56 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六二
心は乱れ
山の中に
赤土の岸の上
松かさのころぶ

 「の」の連続。その音の響き。最終行は「松かさがころぶ」の方が現代的かもしれない。けれど、西脇は「の」をえらぶ。
 「松かさ」は「松毬」あるいは「松笠」。「松毬」の方が、転がるというイメージが視覚から直接的に脳を刺戟するかもしれない。しかし西脇は「松かさ」と書く。「かさ」の方が、転がるときの乾いた音、「かさかさ」を呼び起こし、耳を刺戟するからだろう。
 西脇の音には発声器官に快感を引き起こすものと、聴覚に快感を呼ぶものがある。
 ところで、「松かさ」には「松ふぐり」という言い方もある。西脇が「松ふぐり」ということばをつかっているかどうか、思い出せないが、「松ふぐり」ということばをつかったら、詩は、どんな展開をするだろう。
 そんなことを、ふと考えた。西脇の詩には、土俗的なというか、土にしっかり根ざしたことば、たとえば野生の草花の名前(音)がたくさん出てくるので、私の連想が土に向かったのかもしれない。

六三
地獄の業をなす男の
黒き毛のふさふさと額に垂れ
夢みる雨にあびしく待つ
古の荒神の春は茗荷の畑に

 「の」の連続。1行目の「業をなす男の」の「の」は「が」だろうけれど、西脇は「の」にこだわる。
 最終行の「茗荷」の「みょうが(みょーが)」という音の泥臭さが刺戟的である。
 ふと、何気なく、「泥臭い」と書いてしまったが、濁音や長音、促音、音便というのは、泥臭いものかもしれない。どの音も、歴史的仮名遣い(ひらがな)のではつかわれない。(あ、「ん」はつかわれるか……。)
 西脇は、ひとの「肉体」から出てくる音としてのことばが好きなのだろうと思う。肉体から出て、肉体へ還っていく音としてのことば。濁音や長音、促音、音--その変化のなかに音楽がある。


西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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山本博道『ボイシャキ・メラ』

2009-07-29 02:49:46 | 詩集
山本博道『ボイシャキ・メラ』(書肆山田、2009年07月15日発行)

 旅の詩集である。その詩は「観光案内」とは違って、きちんと現実を描いている。「タージ・マハルの風」は、タージ・マハルの成立を描いたあと、豪華な墓とは対照的な人間の暮らしを描いている。

豪華絢爛なタージ・マハルを前にすると
ゆがんだ富と力ばかりが浮かんで来た
カタコトの英語をしゃべる男が
写真を撮ってやると付き纏って来て
千円ではなくてもう千円くれと言った
ぼくのサンダルにカバーを被せた老人は
皺くちゃの十ルピー札をすばやくしまった
亡き妻への深い皇帝の愛のおかげで
そうして世界遺産の回りでは
三百五十三年後のひとびとが
いろいろなおこぼれに与っている

 たぶん 350年後のいまだけではなく、 350年前の時代にも、同じように富の周りに貧しいひとびとがいて、「おこぼれ」を与っていたことだろう。時代がかわっても、かわらなくても、かわらないものがある。
 そういうことを感じさせることばは、それ自体として、過不足もなく、きちんとしている。
 「旧王宮広場の朝」はネパールの「ダルバール広場」を描いている。そこに次の行がある。

ふつうにみんなが極端な話
何百年も変わらずに暮らしていた

あるいは、

そんなふうにして
いのちは続いて来たのである

 「そんなふうに」とは「何百年も変わらずに」ということである。
 それはそれでいいのだろう。
 ただ、私は、読み進むにしたがって、だんだん気が遠くなってきた。いくつもの有名な場所が描かれるのだが、だんだん区別がつかなくなってくる。おなじに見えてくる。どこの場所でも「何百年も変わらずに」暮らしが続いているのだから、それはあたりまえのことなのかもしれない。
 しかし、そうなのかなあ。
 少しずつでもいいから、人間は変わっていくものなのではないのかなあ。せっかく旅をしているのだから、旅をすることで変わってほしいなあ、と思う。
 「何百年も変わらずに」ある暮らしであっても、それを見る方の山本自身が変わってほしいと思うのだ。

 「夕暮れの車窓」には、一瞬だけ、その変化のようなものがあった。

ホテルにはセーフティボックスも
ミニバーもリンゴもなく
バスタブの湯はガンジス川のように
茶色く濁っていたけれど
朝は窓辺で小鳥たちが鳴いて
熱々のオムレツはいける味だった

 「朝は窓辺で小鳥たちが鳴いて」がいい。それこそ「何百年も変わらずに」鳴いているのかもしれないが、人間の暮らしにではなく、自然そのものにその「永遠」を感じ、その美しさに触れ、その結果として、オムレツをうまく感じる。この変化が、あ、いいなあ。インドへ行ってみたいなあ、という気持ちにさせる。
 観光案内ではないから、惹かれる。
 鳥の声を聞き、できたてのオムレツを食べる瞬間、山本は生まれ変わっている。「何百年もかわらずに」つづいている「旅人」の感覚のなかに生まれ変わっている。安易な(つまり、つい最近できたばかりの批評で人間を切り取っていない。

 でも、つづかない。--それが、とても残念だ。



 「旅のおまけ」は、それこそ「おまけ」のように、本編から少しはみだしている。乗るはずの飛行機が飛ばなくなって、足止めを喰う。そのときのようす。そこは「観光名所」ではないので、現実が動いている。「歴史」(「何百年も変わらずに」にある歴史)とは違ったものが動いている。
 ネパール語も中国語もわからない。中国語は鳥の声のように聞こえる。その音。

中国人ツアー客に、チュチュッと声を掛けられ、彼らとともに空港からかなり離れたホテルへ行く。

 この「チュチュッ」がいい。とても、いい。あとのほうには「チュンチュンチュチュッ、チュン」という音も出てくる。
 ここには、頭ではなく(近代的批評精神ではなく)、「肉体」で動いている山本がいる。あ、こっちのほうを本編にして、「観光ガイド」は「おまけ」にしてほしかったなあ、と思う。





死をゆく旅―詩集
山本 博道
花神社

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誰も書かなかった西脇順三郎(41)

2009-07-28 10:52:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

五八
土の幻影
去るにしのびず
橋のらんかんによる

 「幻影」とは何か。土はいつでも存在する。人間は土の上に立っている。土の上で暮らしている。土が「幻影」であっては、こまる。この「幻影」はふつう辞書に載っている「幻影」とは違う。--どう違うか。それは、この詩だけではわからない。だが、わからなくてもかまわない。わからないものが、そこにことばとしてある。わからないものを、ことばにする。そこに詩があるからだ。
 この作品では、その意味のあいまいな幻影と「らんかん」という音の響きあいがおもしろい。
 「らんかん」は「欄干」である。けれど、西脇はそれを「音」にしてしまって「らんかん」と書く。そのとき、「幻影」もまた「げんえい」という「音」にかわる。「げんえー」にかわる。「らんかん」のなかには「ん」という声にならない音がふたつ。「げんえい(げんえー)」のなかには「ん」と、音をひきのばす「ー(音引き)」が交錯する。
 漢字で書こうがひらがなで書こうが「音」そのものにかわりはないはずだが、なぜか、ひらがなの方が「音」がよく伝わってくる。感じだと視覚が解放されないのかもしれない。

六一
九月の一日
心はさまよふ
タイフーンの吹いた翌朝
ふらふらと出てみた
一晩で秋が来た
夕方千歳村にたどりつく
枝も葉も実も落ちた
或る古庭をめぐつてみた
茶亭に客あり

 「タイフーン」という音が魅力的である。「台風」ではなく「タイフーン」。なぜ、英語なのか。英語でありながら、日本語の音に重なる。そして、その音のなかに「幻影」と「らんかん」でみた音がゆらいでいる。「ん」と「ー(音引き)」が。
 意味ではなく、西脇は、「タイフーン」という音そのものが書きたかった。それをことばとして、書きたかったのだと思う。
 最後の「茶亭に客あり」はちょっとかわった音である。「ちゃてい(ちゃてー)」、「きゃく」。通い合う音があるのだが、私の耳には、それは「日本語」に聴こえない。「タイフーン」が日本語として響いてくるのに、「ちゃてい(ちゃてー)」「きゃく」は何か異質なものとして響いている。「茶亭に客あり」という「文語文体(?)」が影響しているのかもしれない。それまでのことばの音の距離感と、最終行の音の距離感が違っている、と感じる。
 台風のあと、さまよって、知らずに「異質」な世界にたどりついた、という感じがする。台風のあとのいつもとは違う風景のなかを歩き、異次元に迷い込んだ--そういうことが、音そのものとして描かれている。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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樋口伸子訳・エリオ・パリアラーニ「二つの作文」、渡辺玄英「破れた世界と啼くカナリア」

2009-07-28 00:56:31 | 詩(雑誌・同人誌)
樋口伸子訳・エリオ・パリアラーニ「二つの作文」、渡辺玄英「破れた世界と啼くカナリア」(「耳空」創刊号、2009年07月01日発行)

 樋口伸子訳・エリオ・パリアラーニ「二つの作文」は書き出しがとても魅力的だ。

今ぼくは、商業学校で勉強している
けれど大人になったら道路の掃除人になりたい
外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし
そこの通りをきれいにしたいし

 翻訳ということを私はしたことがない。だから私の書くことは勘違いかもしれないが……。
 翻訳は、単に外国語を日本語に置き換える、「意味」をわかるようにするということではないだろう。ことばには「意味」以外の何かがある。ことばのリズム、ことばが、そのリズムで語られるときに抱え込んでしまうもの、「意味」に置き換えることのできないもの。樋口の翻訳が、それをどれだけ魅力的に再現しているか私には判断しようがないが、

外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし

 このリズムが、私は気に入った。原文はどうなっているのかわからないが、「外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし」という1行は、それだけでは日本語として「意味」が通じない。それが「意味」になるのは、次の「そこの通りをきれいにしたいし」を読み終わったときだからだ。「そこの通りをきれいにしたいし」まで読んで、はじめて、あ、「外に出て、そこの通りをきれいにしたい。なぜならミラノがものすごく好きだから」ということばが、「意味」として成り立つ。ことばの順序を、聞いた方が(読んだ方が)、頭のなかで入れ換えることで「意味」がすっきりと伝わってくる。
 でも、そんなふうに入れ換えると、ことばの魅力は欠ける。
 樋口の訳しているように、ことばの順序がみだれている方が魅力的だ。魅力的というのは、たぶん、そこに「わからない」ものがあるからなのだ。「わからない」。けれど、次の瞬間「わかった」ような気持ちになる。
 そして、その「わかる」というのは……。
 詩のなかの「ぼく」は、ミラノが好きだから大人になったら道路をきれいにする道路掃除人になりたいと思っている--そういうことが「わかる」だけではなく、その「ぼく」の気持ちのなかには、ことばの順序を整えて「意味」を明確にしたときとは別なものがあるということが「わかる」ということである。
 「意味」を超えて、いきいきと動く何か。ことばにならない動き。それが、「外に出てね、なぜって……」というみだれた文体のなかにある。「外に出てね」の「ね」という「意味」をはみだしていく余分な(?)ことばのなかにある。
 そうしたことを、私たちは(私は)、瞬時に感じる。
 樋口は「意味」を超えるものを、この詩では訳出している。
 「外に出てね」の「ね」(それから、そのあとの一呼吸の読点「、」も)、一種の倒置法のようなことばの動きも、「意味」から比べると、「ちいさな」ことがらかもしれない。けれど、その「ちいさな」ことがらが「意味」をささえないと、「意味」の暴走がはじまる。--つまり、なんというか、「道路掃除人」という職業の価値というようなもの、道路掃除人のしめる社会的評価のようなもので人間の価値判断を決定していくというような「意味」の暴走、「意味」の暴力がはじまる。その人が何をしたいか。何のために、それをしたいのか、という個人と直接向き合った関係ではなく、「社会」、その構成員のあり方という「意味」が差別をつくりだしたりもする。
 そんな「意味」の暴力・暴走に、なんとか歯止めをかけようとすることばの抵抗のようなものが、とても重要なのだと思った。

 その「作文」のおわりも魅力的だ。

なぜかって祖父ちゃんを思いだすんだ
祖父ちゃんはぼくが遊ぶのを見たくなかったのさ
遊び呆けるのをね、子どもらは泣くべし
大人は働くべし、って言うわけさ

 「子どもらは泣くべし/大人は働くべし」ということばの「意味」を「ぼく」がどれだけ正確に理解しているか--それはわからない。わからないけれど、「ぼく」が「祖父」のことばをそのまま繰り返していることが「わかる」。
 わからないものを、わからないまま、正確に伝えることも、ことばはできるのだ。そして、それは、とてもとても大切なことだと思う。
 「古典」の「意味」を私たちはすべて「理解」して次代へ伝えるわけではない。わからないけれど、わからないまま、それが残ってきているという事実だけをたよりに残す部分もあるだろう。
 そして、そういう部分の方が、「意味」よりもきっと大切に違いないと、私は思う。

 そして。
 樋口の訳出したことば、その、読点「、」や「ね」や倒置法のなかにも、「意味」を超えるものがある。樋口は、そういうものを訳出していると思う。だから、魅力的なのだ。



 渡辺玄英「破れた世界と啼くカナリア」の2連目。

夜間の長距離バスで旅をして
よるの海辺でぼくらはバスをおりて
波打際で砂の音になった

 私は、ときどき、こういう抒情が、「意味」の置き換えが、我慢できないくらいきらいになることがある。「波打際で砂の音になった」とは、波打ち際を歩いていて、その音しか聞かない、その砂を踏む音を「ぼくら」と思うということだろう。「肉体」を「肉体」以外のものによって「比喩」として表現する。その「比喩」には(比喩である限りは)、「肉体」を超越するもの(「肉体」が内包するものと言い換えても同じだ)が含まれる。つまり、精神だとか、感情だとか……。
 こういうものは、渡辺もきらいかもしれない。だから、詩は、そういうセンチメンタルをあざ笑うように軽い(?)ことばで攪拌される。

まっくらでぼくらは音だってよくわかる
なぜか沖の方角をめざして
波打際からしだいに沈んでいくきみを
さすがにそれってマズイだろう
と星の力をかりてサルベージするよざぶざぶ

 波に足をすくわれるのか、あるいは自分の意思でそうするのか、「きみ」は沖の方へ動いていく。真っ暗なので(たぶん月も出ていないので)、星の明かりをたよりに(力を借りて)、「ぼく」は「きみ」をひっぱりあげる。(サルベージする。)
 でも、いったん「意味」にまみれたことばは、どうしたって「意味」になる。「星の力をかりて」というような、ぞっとするような抒情が露呈する。
 3連目は必死だ。

きえていった希望(だけど(サルベージするけど
夢のセカイなら重力はないはずなんだけど
いったい何を(こんなに
(重たい(世界を
引き上げよーとしているんだろう
手から海に引き込まれそーで
(いやもう遅いって
まっくろでどこがきみなのかぼくなのか海なのか
わからない(わからない
くーきが ひつよーだ
くーきが・・・

 「わからない(わからない」と書かないと「わからない」という「意味」を書けない。「わからない」とはほんとうは「わかる」「わからない」を超越した次元にいるということなのだが、(たとえば、きのうの「日記」に取り上げた北川透の詩の「なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。」のように)、渡辺の「わからない」には、そういう「超越」がない。「意味」に落ちてしまっている。
 一度「意味」にまみれると、そこから脱出するのは難しい。その難しさを書いているといえば、そう言えるのかもしれないけれど。



けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(40)

2009-07-27 07:21:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

五四
女郎花の咲く晩
秋の夜の宿
あんどんの明りに坐わる
虫の声はたかまり
手紙を読む
野辺の淋しき

 この作品は1行目が印象的だ。なぜ「晩」なのだろう。いつも気にかかる。私自身を納得させることばがみつからない。

五五

くもの巣のはる藪をのぞく

 なぜ「藪」か。蜘蛛の巣がはっているから、といえばそれまでだが、「やぶ」という音も重要だろう。ここにも西脇の濁音好みがあらわれているとわたしは思う。

五六

楢の木の青いどんぐりの淋しさ

 「の」の連続。そして、「青いどんぐり」。完成したもの(完熟したもの)よりも、これから完成へ向かうもの。その「淋しさ」は「美しさ」とおなじである。「いのち」の、これから広がっていく力。そこにあるのは、力の充実かもしれない。




定本西脇順三郎全詩集 (1981年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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北川透「「海馬島遺文」四片」

2009-07-27 02:43:56 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「「海馬島遺文」四片」(「耳空」創刊号、2009年07月01日発行)

 北川透の詩のおかしさは、そこに書かれている「意味」はでたらめ(?)なのに文体が強靱であるということだ。「「海馬島遺文」四片」の冒頭の「旅行団」。その書き出し。

 駅から旅行団が降りてきました。その数、五十名くらいか。彼らの到着を待っていたわたしも、なぜかその一員でした。花粉症の患者がするような大きな黄色いマスクで、顔全体を覆っていることが、同類の証のようでした。彼らが何者か、なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。駅前は水浸しでした。水嵩はどんどん増してきます。

 「分かりません」ということばが出てくるが、この詩に書かれていることの、因果関係というか、「意味」というか、「物語」がいったい現実の何と関係しているか、さっぱりわからない。「わたし」と「彼ら」は水の中をどこまでも歩いている。その途中に、次の部分がある。

何処を目指しているのか、目的は何なのか、何も知らず、ただ水流の中を歩いています。

 ベストセラーの村上春樹の「1Q84」の主人公たちが、それがほんとうの目的であるかどうかは別にして、それぞれ「目的」を目指して行動していたのと対照的である。
 目的も原因もわからない。それなのに「わたし」は歩いていける。そして、そのとき、出会ったものをことばにすることができる。ことばは、そんなふうに目的のない(目的のわからない)人間にとっても、ことばとして存在する。
 目的がないから、とりあえず、そこにあるものをことばにするしかないのか。それとも、そこにあるものを書いてしまったために、ことばは目的を見失ってしまったのか。どちらであるか、わからない。どちらであっても同じことなのか、それともまったく違ったことなのか、考えはじめれば、ことばはどちらの方向へも動いていってしまうだろう。動いていけるだろう。ちょうど、北川が書いていることばのように。

 ことばは動いていく。目的があろうが、なかろうが、ことばはことばになるということを動いてしまう。目的がなければないほど、ことばはより自分自身になろうとするかのようだ。
 そして、その結果として、ゆるぎのない文体、強靱な文体になる。
 どこを取り出してもいいけれど、北川の文は、その一文一文が完璧である。主語と述語があり、現実(日常)との具体的な関係を無視すれば、きちんと「意味」が通る。
 書き出しの「駅から旅行団が降りてきました。」ということばを読んで、そこに書かれていることをイメージできない人間はいないだろう。「その数、五十名くらいか。」にしても同じである。書かれていることは、完璧に理解できる。完璧に理解できることばが、つぎつぎにつながっていき、そのときに、完璧には理解できない何かが出現する。
 この旅行団が旅しているのはどこ? そんな街がある? そんな旅が可能? 目的地がわからない旅ってある? 
 そういうことは、いっさいわからないのに、何かかがわかる。
 わからないものをつなぎとめる力が北川にはある。その力がことばをつなぎ、同時に動かしている。
 そして、その何かは、句点「。」のなかにあるのかもしれない。ことばをいったん区切ってしまう力のなかに、あるのかもしれない。
 私は、いま、矛盾したことを書いたかもしれない。
 北川のことばは、どこまでもつながっていく。そして、そのことばは、同時に、ことばとことばを区切ってしまう。句点「。」で切断する。
 ことばのなかには、接続する力と、逆に切断する力がある。接続する力と切断する力というのは「矛盾」である。この「矛盾」を、矛盾とは感じさせない文体の力。--それは切断ではなく、飛躍(超越)と言いなおせば、矛盾ではなくなるかもしれない。
 北川はことばとことばの接続する力を句点「。」で切断するのではなく、句点「。」を飛躍のための台(跳躍台)にして新しく動いていくのである。飛躍・跳躍・超越することで、「いま」「ここ」ではないものにつながるのだ。
 北川のことばがわからない、そして北川が書いているように、その旅が「わからない」旅になってしまうのは、その動き・運動が「いま」「ここ」とは違った世界へとつながるからである。「いま」「ここ」を切断し、蹴飛ばして、「いま」「ここ」ではない世界とつながる。
 「いま」「ここ」ではない世界を、「いま」「ここ」にあることばで描写すれば、どうしたって、それは「いま」「ここ」とは正確に対応しないのだから、わかるはずがない。わからないものになってしまう。

 わからないものになってしまう。わからないものになれる。

 こういうことを、私は「自由」と呼びたい。「いま」「ここ」ではない何か、わけのわからないものになれる--それは自由だ。「いま」「ここ」という束縛から解放されるからである。そういう自由を北川は描いている。
 ことばが、そういう自由を手にいれるとき、人間もまた自由である。ことばは人間と同じものだからである。
 
 北川がいったい何になるのか、それはだれにもわからない。北川にもきっとわからない。わからないからこそ、その「なれる」ということに向けて、ことばを動かしていく。
 ふつう、そういう目的のないことばの運動はどこかで失速するものだが、北川のことばは失速しない。どんどん加速する。加速するたびに、そのことばの筋肉が強靱になっていく。

 あ、どんどん、書きたかったことから遠ざかっていくようでもある。

 この詩には、「彼らが何者か、なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。」ということばがあった。「分かりません。」それに通じることばが、この作品には何度も出てくる。「何も知らず」もそうだ。
 北川のことばの筋肉は、「分からない」「知らない」と書いても、どんどん飛躍していけることろまできているのだ。
 普通、分からない、知らないということを踏まえて、どこかへ飛躍するということはできない。わかっていること、知っていることを土台にして、わかっていること、知っていることへ向けて、ひとはことばを動かす。それは、あらかじめ決定された世界のなかに、類似の構造をつくりあげることかもしれない。知っていること、わかっていることを整理し、そのなかにことばを誘い込み、他人を誘い込み、自分を誘い込み、安定した世界、強固な世界を再現する--それが普通のことばの運動である。
 また村上春樹の「1Q84」に戻ってしまうが、村上春樹の小説は、村上春樹が知っている世界、わかっている世界を、ことばで再構築し、その構造でことばの「意味」をひとつひとつ決定している。そこではことばは自由に動いていない。ある「構造」「意味」にしばられている。「構造」と「意味」が互いをしばりあっている。村上春樹の小説では、「構造」と「意味」の関係がゆるぎがない。
 北川の詩では、「構造」と「意味」はでたらめ(?)である。(目的が明確に設定されていないのだから、とりあえず、「でたらめ」と呼んでおく。--ほんとうは、もっとふさわしいことばがあるかもしれない。)そして、「構造」と「意味」が強靱に結びついていないかわりに、「構造」と「意味」を蹴飛ばし、破壊していく筋肉そのものが強靱なのである。
 北川は、村上が「構造」を作り上げることばの運動を展開しているのだとすれば、それとは逆に、「構造」を破壊することばの運動を展開している。「構造」を破壊する--というよりは、「破壊」そのものを作り上げる運動といった方かいいかもしれない。
 村上春樹は、ことばには「物語」が必要だと言った。けれど、きっと北川なら、ことばに必要なのは「物語」を破壊する力だと言うと思う。

 「物語」を破壊するには、「物語」を築き上げる力よりも、もっと強い力が必要だ。筋力が必要だ。


窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社

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トム・マッカーシー監督「扉をたたくひと」(★★★★)

2009-07-26 22:03:16 | 映画
監督・脚本 トム・マッカーシー 出演 リチャード・ジェンキンス、ヒアム・アッバス、ハーズ・スレイマン、ダナイ・グリラ

 たいへん静かな映画である。9.11以後のアメリカ(国家)に対するアメリカ人(個人)の、静かな静かな抗議である。
 主人公は大学教授。マンハッタンのアパートに帰ってみると、見知らぬ男女が住んでいる。彼はいったん彼らを追い出すが、住む家がないと知ると、再びアパートを提供する。見知らぬ人でも危害を加えないなら、そして困っているなら受け入れる。彼が、なぜそんな寛容な生き方ができたのか。そのバックボーンがきちんと描かれるわけではないが、彼がしめした態度は、アメリカ合衆国の基本的な姿勢ではなかったか。どのような国からのひとも受け入れる。そうやって成長してきたのがアメリカだったはずである。
 それが9.11以後完全に変わった。異質の人間を受け入れない。悪意がないと分かっていても受け入れない。アメリカへ逃れてきた人の事情にはいっさい考慮せず、法にのっとっているかどうかだけを判断の基準にする。もちろん法にしたがって判断するのは重要なことだけれど、そこには釈然としないものが残る。
 法にのっとっていない、だからテロリストの可能性がある。それが中東の人間ならなおさらである。――そういう判断が動くとき、そこに差別意識が侵入してくる恐れがある。不寛容が人間を偏狂にしてしまう恐れがある。
 主人公の大学教授は音楽を、ジャンベを通して「不法侵入」の青年とこころを通わせる。青年は大学教授を、老いているからと見下したりしない。そんな年になって、ジャンベを勉強したって無意味――というような判断をしない。(大学教授がピアノのレッスンを受けていた時、教える女性は、彼を子供扱いする。「手の形は、トンネルのように。列車が手のひらのトンネルを通りぬけられるように」と子供が喜びそうな比喩で説明する。――大学教授は、この説明に傷つく。「年をとってから上達はしない」ということばよりも。)
 大学教授は、次第にジャンベの楽しさにのめりこんでゆく。
 そこへ、突然の青年の逮捕。地下鉄に無賃乗車しようとした――という理由で。ちゃんとパスを持っているのに。そして、そこから身分の追及が始まり、不法入国の事実が分かる。入管センターに拘置され、シリアに送還されてしまう。
 大学教授は青年が音楽を愛する善良な人間であることを知っていながらなにもできない。
国家の不寛容に対して無力であることを知る。それは絶望といってもいい。
 ジャンベをたたいているとき、教授は青年ととけあっている。いっしょに公園でジャンベをたたいているとき、教授は、まわりの人たちのことを何も知らない。青年以外の奏者の名前を知らない。何語を話すかも知らないだろう。けれどうちとけて、同じリズムを共有し、楽しんでいる。時間がたつのも忘れてしまう。(これが地下鉄の逮捕劇につながるのだが・・・。)そういう「音楽」のような融合、信頼の絆――それはアメリカの理想であったはずだ。
 その理想を、いま、アメリカという国家が暴力的に破壊している。そして、その破壊を一般の市民は止める手段を持たない。その絶望と、絶望の中での、国家への抗議。

 教授は、ラストシーンで、地下鉄の駅でひとりジャンベをたたく。青年が教えてくれた音楽の喜び。愛した妻とのピアノを手放しても平気なくらいのこころの安定を得た。そのこころを支えてくれた青年を国家が奪っていく。――それに対するかなしい抗議。
 彼のジャンベに耳を傾ける人はいない。無関心な市民がホームにいるだけだ。国家への抗議であると同時に、無力な市民への抗議も、ここにはこめられている。
 せめて、そのジャンベの音が、シリアへ送還されていく青年の記憶に、夢に届くようにと祈らずにはいられない。青年が、いつか、どこかで、教授がきっとホームでジャンベをたたいているに違いないと夢見るように祈らずにはいられない。



 大学教授を演じたリチャード・ジェンキンスの静かな動きがとても気持ちがいい。ジャンベにのめりこんでゆくときの無邪気な表情、公園でのセッションに、ためらいながら、参加し、見知らぬひとと同じリズムを作り出していく楽しさ。それと対照的な、入管への怒り。青年の恋人や、青年の母親への思いやりの表情。どんなときも、暴走しない落ち着きがある。その静けさが、国家の暴走を、逆に静かにあぶり出す。
 そして。
 あ、音楽はいいな、としみじみ思う。私は音痴だし、楽器もなにもできない。しかしあの教授がやれるなら、何かやれるかもしれない、という「おまけ」の夢も、この映画からもらった。

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誰も書かなかった西脇順三郎(39)

2009-07-26 07:36:32 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

五一
青銅がほしい
海原の滴りに濡れ光る
ネプチュンの五寸の青銅が
水平に腕をひろげ
少しまたをひらいて立つ
何ものか投げんとする

 2行目の「ら行」の揺らぎが楽しい。3行目の「ネプチュン」と「五寸」の出会いもおもしろい。そして、5行目の「少しまたをひらいて立つ」という具体的な描写がおもしろいが、この1行も不思議に音が響きあう。「を」の音を軸にして、音が回転する印象がある。音の中に動きがあるので、次の「何ものか投げんとする」がほんとうにものを投げるような、投げられたものがこれから見える--という印象を呼び覚ます。

五二
炎天に花咲く
さるすべり
裸の幹
まがり傾く心
紅の髪差(かみざし)
行く路の
くらがりに迷ふ
旅の笠の中

 この詩の中にも西脇の濁音嗜好が読みとれる。また「まがり」と「くらがり」の、音の響きあいと、イメージもおもしろい。
 「まがる」。直線ではないこと。「くらがり」。明るくはないこと。どちらも否定的なニュアンスがある。それは、濁音と清音の関係にも似ている。
 西脇は、「まがる」「くらがり」「濁音」に一種の共通のものを感じている。それは、直線、明るい、清音というものがもたない「充実感」である。「豊かさ」である。

 濁音が口蓋に響くときの、不思議な充実感が、私はとても好きである。そういう性向が私にあるから、西脇の濁音に目がとまるのかもしれないが……。



名訳詩集 (1967年) (青春の詩集〈外国篇 11〉)

白凰社

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丸山健二『百と八つの流れ星』

2009-07-26 00:56:53 | その他(音楽、小説etc)
丸山健二『百と八つの流れ星』(上)(岩波書店、2009年06月10日発行)

 村上春樹『1Q84』と比べると、とても読みにくい本である。
 活字がまず読みにくい。漢字はいいのだが、ひらがなが普通の明朝体とは違う。なんとうい字体か知らないが、ふにゃっとしている。漢字のストレートな直線と比べると、気持ちが悪い。まず、そういう視覚的な部分でつまずいてしまう。漢字とひらがなのつながり具合につまずいてしまう。
 これは大事なことではないかもしれない。いや、大事なことかもしれない。つまずきながら読む。どうしても、読むスピードは遅くなる。遅くなると、ついつい余分なことを考えてしまう。ことばにそってストーリーを読むというよりも、ひとつひとつのことばにつまずいて、その瞬間瞬間に、あれこれと考えてしまう。
 いま、私が書いている漢字とひらがなの組み合わせ方が気持ちが悪い--ということも、そういう余分なことのひとつかもしれない。
 わかっていても、私は、まず自分が思っていることを書いてしまわないことには、次のことを書けない性格なので、まあ、それを書いてしまう。

 つまずきながら読んでいくと、ストーリーはどうでもよくなる。ストーリーというのは、どんなストーリーにしろ、結局、自分と関係のある部分しか理解できないからである。あるいは、知っていること以外は、何が語られてもさっぱりわからないと思うからである。
 そして、そう考えてしまうと、ではストーリー以外では何がわかるかといえば、やっぱり知っていること以外には何もわからない。知っていて、知っているけれど、まだことばにできない何かに出会うたびに、あ、これは、こういうことだったのだ、と確認するだけなのだと思う。
 ことばは、知っていることを、知っていながら、まだ自分のなかでは明確にことばになっていないことを思い出すためにある。
 これは、小説でも、詩でも、哲学でも同じだ。
 言い換えると、ことばは、こんなことを書いてもいいのだ、ということを知るのだ。ことばは、こんなことを書くためにあるのだ、ということを知るのだ。

 たとえば。
 「相似」という作品。小学校の夏休み。昼寝から覚めて、街へ出る。人とすれちがうが、いつもと感じが違う。ぶつかる、と思ったが、ぶつからない。人が自分のからだをすりぬけていく。あるいは、逆に、自分のからだが他人のからだをすり抜けていく。(どっちがほんとうかわからない。)人だけではなく、ものもすり抜けることができる。そして、自分の声は相手には届かない、聴こえないことを知る。
 そのあとの描写。

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。ほかの客の姿はじつに鮮明だったにもかかわらず、真正面にいる私ひとりが抜け落ちていた。狭い店を広く見せるための鏡のなかでも同様だった。帰り道に覗きこむショーウインドーでも私だけが欠けていた。

 自分が透明になって、肉体が透明になって、鏡に映らない。ショーウインドーに映らない。こういうことは、だれでもが描写できる。透明人間の描写には、この手の描写はありきたりである。
 ところが、

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。

 この1行に、私はびっくりしてしまう。
 この1行で、確かに、だれかの眼鏡のなかに自分の姿が映っていたのを見たことがある、と思い出す。ほんとうに、自分の姿を見たかどうか、それがいつだったか、ということははっきりしないにもかかわらず、そうなのだ、他人の眼鏡のなかにも、自分が映るということがあるのだ、ということを知る。
 他人の眼のなかに映る--ではなく、他人の眼鏡のなかに映る。
 ことばは、こんなことを書いていいのだ。こんな、つまらない(?)、というか、些細な具体的なことを書いていいのだ。そういう「時間」があることを、書いていいのだ。

 こういう部分が私は大好きだ。こういう部分を読んでいる瞬間、私は、ストーリーを忘れる。村上春樹のことばを借りていえば「物語」を忘れる。
 丸山健二が書いている小学六年生の少女の体験ということを忘れる。忘れて、自分自身の「時間」をそこに見出してしまう。そして、そこから、ああでもない、こうでもないということ、ことばにならないことを瞬間的に思い出す。
 それは、ことばにならない--つまり、まだ、だれも書いていないことが私のなかにあるということを知ることだ。自分が体験してきて知っているにもかかわらず、ことばにならずに、私のなかに存在しているものがあるということを知ることだ。
 そして、それは自分だけの力では見つけられないものなのだ。他人のことばに触れて、はっとする。ことばは、こんなふうに動いていいのだ、と知ることでしか、見つけられない何かである。

 そういう瞬間、私は、「詩を読んだ」という気持ちになる。

 古いページをめくりかえすのが面倒なので、「相似」の次の「初子」という作品をめくる。そうして、私は次の部分に出会う。ころがりこんだ他人の土地、他人の家、そこでなんとなく結婚してしまった男。その男に子供ができる。「ああ、もう、自由ではない」と感じる。そこへ、妻が子供を連れて、病院から家へ帰ってくる。男は子供とはじめて顔をあわせる。子供の涎をガーゼをつかってぬぐってやる。

子どもの体温を感じた途端、まんたくだしぬけに心臓が早鐘を打ち、気持ちが一気にうわずり、凄まじいほどの歓喜に浸り、高揚感に振り回されながら親としての絶対的な特権を自覚する。新生をもたらしたおのれに誇りを感じるや、自己を超えた意図が働き、生命の王座に着いた肉塊をやにわに抱きかかえ、その子が知覚するすべてを無性に共有したくなり、きらめく八月のなかへ出て行く。内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 男の内心の変化。心臓の鼓動が早くなる。その瞬間の「だしぬけに」ということばの力と、それにつづく描写もいいが、私は、その文章の最後の、

内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 この「内心ぎくりとした」に、あ、これは、私が知っていて、知っているにもかかわらず、ことばにすることができなかったことだったと知る。ことばは、こんなことを書いていいのだ、と知る。
 この描写は、村上春樹のいう「物語」を破壊する。
 なぜなら、私はそのとき、丸山健二の書いている作品のなかの「妻」のことを忘れてしまっていて、そこに書かれている妻ではなく、自分が何かの「予感」に内心ぎくりとしたことや、だれかが何かの予感に打たれて「ぎくり」としている瞬間をみたこことを思い出し、そのときの実感のなかにいるからである。

 「物語」など、どうでもいい。
 ある瞬間、ある衝撃。ことばにできなかった何か。それを、ふいに思い出し、自分ものとして取り戻すためにこそ、ことばはある。そういうことばに出会うために、私は小説を、詩を、哲学を読む。
 「物語」というものに何か役割があるとすれば、それは、そういうことばを受け止めておくための「いれもの」にすぎない。「いれもの」が重要なのではなく、その「いれもの」のなかの、「いれもの」をまるでないものかのようにして、どこかへ(つまり、読者の体験のなかへ)動いていってしまうことばだけが重要なのである。



百と八つの流れ星〈上〉
丸山 健二
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(38)

2009-07-25 07:12:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四八
あの頃のこと
むさし境から調布へぬける道
細長い顔
いぬたで
えのころ草

 最後の2行。これは道ばたに生えていた草の名前だが、こうした草の名前(野生の名前)のなかにある「音」を西脇は大事にしている。そこに音楽を、「淋しさ」を感じている。
 実際に、その草そのものについて書きたいときは、きっと、具体的に書く。ここは、ただその草の名前、その「音」が気に入って、それを楽しんでいる。
 私は西脇の声を知らないし、西脇がどんな発音をしたか知らないが、最後の2行は、奇妙に私のこころをくすぐる。
 新潟(西脇の故郷)では、「い」と「え」の音があいまいである。田中角栄は確か「色鉛筆」を「いろいんぴつ」という風に発音していた。(かすかな、かすかな、かすかな記憶なので、「えろえんぴつ」だったかもしれないが、ようするに、東京弁の「し」と「ひ」のように似ている。)
 西脇がやはり新潟訛りを残していた、あるいは新潟の人が「いぬだて」「えのころ草」と呼ぶのを実際に聞いて、はっと気がつくことがあったとしたらなのだけれど、「いぬ」と「えの」の音はとても似ている。
 また、「いぬころ草」がなまって(?、転嫁して?)「えのころ草」になってともきくけれど、もともと、「いぬ」と「えの」は音が近い。新潟県人にとっては、区別がつきにくいかもしれない。
 そうしたことも、この2行が、風景の描写としてではなく、「音楽」として書かれたものであることを証明すると思う。
西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社

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